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中道

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二辺から転送)
仏教用語
中道
パーリ語 Majjhimā-paṭipadā
サンスクリット語 Madhyamā-pratipad
チベット語 དབུ་མའི་ལམ།
中国語 中道
日本語 中道
英語 Middle Way
タイ語 มัชฌิมาปฏิปทา
ベトナム語 Trung đạo;
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仏教用語としての中道(ちゅうどう、: Madhyamā-pratipad[注釈 1], マディヤマー・プラティパッド[2]: Majjhimā-paṭipadā, マッジマー・パティパダー[3])は、2つのものの対立を離れていること[4]の二見、あるいは有・無の二辺を離れた不偏にして中正なる道のこと[4]中行[5]中路あるいは単にともいう[6]

中道の語は仏教において広く重んじられているため、その意味には浅深があるが、各宗がその教理の核心を中道の語で表す点は一致する[6][4]

原義と漢訳

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中道(Madhyamā-pratipad)のMadhyamāは「中指、子宮、適齢女性[信頼性要検証]」を意味する[7][8]。Madhyamāの語尾の発音を違える Madhyama は、形容詞として「中間の、中心の、中位の、凡庸な、適度の、中間の大きさの、中立の」と訳され、名詞として「二人称、四分音符」とも訳される[7]ほか、「媒体・媒介、仲介・又ぐ」など多様な英訳がある[9]。一方、 pratipad の方は「入り口[10]、始まり[10]、陰暦の最初の日[11]、行[13]」などの名詞のほか、動詞としても多様な英訳がある[10]

漢語としての中道

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中道の〈中〉は、2つのものの中間ではなく、2つのものから離れて矛盾対立を超えることを意味し、〈道〉は実践・方法を指す[14]

二辺の語義

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二辺は、中道を離れた両極端を指す[15]。仏典では『中論』の巻四が〈有・無〉あるいは〈常・無常〉を、『順中論』の巻下が〈常・断〉を、『摂大乗論世親釈の巻一が〈増益・損減〉を二辺の語義として挙げている[15]

二辺の語義に、「二諦」と同様の""や"仮"の意味があるとする一部の仏教解釈がある[16][注釈 2]。総合佛教大辞典は『止観輔行』の巻三が〈空・仮〉を二辺として挙げているとする[15]

原始仏教・パーリ仏典・阿含経典

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原始仏教において中道は、主として不苦不楽の中道を意味した。具体的には八正道を指す[4][20][要ページ番号]

不苦不楽の中道

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中阿含経巻五六などでは、八聖道(八正道[21])の実践は快楽主義苦行主義との偏った生活態度を離れ、それによって智慧を完成して涅槃さとりに趣く道であるから八聖道を中道という[6]

釈迦が鹿野苑において五比丘に対して初めての説法を行った際に(初転法輪)、中道と八正道について次のように述べたことが、パーリ仏典相応部の五六・二に描かれている[22]

そのとき、世尊は五人の比丘の群れに告げられた。「比丘たちよ、出家した者はこの二つの極端に近づいてはならない。二つとは何か。
 第一にさまざまな対象に向かって愛欲快楽を求めるということ、これは低劣で、卑しく、世俗の者のしわざであり、とうとい道を求める者のすることではない。また、第二には自ら肉体的な疲労消耗を追い求めるということ、これは苦しく、とうとい道を求める者のすることではなく、真の目的にかなわない。
 比丘たちよ、如来はそれら両極端を避けた中道(majjhimā paṭipadā)をはっきりと悟った。これは、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役だつものである。
 比丘たちよ、では如来がはっきりとさとったところの、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役立つ中道とは何か。それは八つの項目から成る(八正道、八支聖道)である。

—  相応部 56.諦相応 転法輪経

十二縁起と中道

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カッチャーナよ、世間では多くの人が二つの見を拠り所としている。実在論(atthita)と虚無論(natthita)に。
... (中略) ...
カッチャーナよ、「一切は存在する(atthī)」というのは、第一の極端である。
カッチャーナよ、「一切は存在しない(naatthī)」というのは、第二の極端である。
カッチャーナよ、如来はこれらの両極端には近づかず、中道(majjhena)によって法を指し示す。
無明により行が起こり、...(中略)...生により老死が、愁悲苦憂悩が生じる。このようにして、全ての苦蘊は生起する。 —  パーリ仏典, 相応部因縁相応 15.カッチャーナゴッタ経, Sri Lanka Tripitaka Project

比丘よ、「生命(jīvaṃ)と身体(sarīran)は同一である」という見があるならば、梵行に住することはない。
比丘よ、「生命と身体とは別個である」という見があるならば、梵行に住することはない。
比丘よ、如来はこれらの両極端へ近づかず、中道(majjhena)によって法を指し示す。
生(jati)に縁って(paccayā)老死(jarāmaraṇa)ありと。 ... (中略) ... 有に縁って生ありと。... (中略) ... サンカーラに縁って識ありと。 —  パーリ仏典, 相応部 因縁相応 35.無明縁経, Sri Lanka Tripitaka Project

雑阿含経巻一二などでは、十二縁起の真理を正しく理解することは、常見断見や、有見無見などのように偏ったものの見方を離れることであるから、十二縁起を正しく観察することが中道の正見に住することであると説く[6]

琴の弦(緊緩中道)

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パーリ語経典の律蔵・犍度・大品(マハーヴァッガ)においては、どんなに精進しても悟りに近づけず焦燥感・絶望感を募らせていたソーナという比丘が登場する[20][要ページ番号]。彼は、過度の修行により足から血を流すほどであった[20][要ページ番号]。それを知った釈迦は、ソーナが琴の名手であったことを知り、以下の説法を行った[20][要ページ番号]

「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が張り過ぎたならば、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」
「いいえ、そうではありません、大徳(釈迦)よ」
「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が緩すぎたならば、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」
「いいえ、そうではありません、大徳よ」
「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が張りすぎず、緩すぎもなく、丁度よい度合いを持っていたら、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」
「そのとおりです、大徳よ」
「ちょうど同じように、ソーナよ、行き過ぎた努力は高ぶりを招き、少なすぎる努力は懈怠を招く。それゆえソーナよ、あなたはちょうどよい努力を保ち、感官にちょうど良いところを知り、そこに目標を得なさい」

—  ケン度大品 5,16-17 [20]

弦は、締め過ぎても、緩め過ぎても、いい音は出ない、程よく締められてこそいい音が出る、比丘の精進もそうあるべきだと釈迦に諭され、ソーナはその通りに精進し、後に悟りに至った。

部派仏教・部派仏典

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『総合仏教大辞典』は、部派仏教では大毘婆沙論巻四九や成実論巻十一などに、阿含の教説を承けて、中道は断・常の二見を離れた立場であると説くとしている[6]

大乗仏教・大乗仏典

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中論・中観派

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ナーガールジュナ中論では、中道縁起・空・仮名と同じ意味である[4]。また、同書第18偈では、縁起と空と中道をほぼ同義として扱う[23][注釈 3]。中論が、縁起・空性・仮・中道を同列に置くのは、全てのものは縁起し空であると見る点に中道を見て、空性の解明によって中道を理論づけるものである[14]。中論巻一観因縁品では、〈生・滅・断・常・一・異・去・来〉の八の誤った見解(八邪)を離れて無得正観に住するのを中道とし、これを八不中道という[6]

中観派では、般若波羅蜜を根本的立場とし、すべての執着や分別のはからいを離れた無所得の在り方にあるのを中道とする[6]

瑜伽行派

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瑜伽行派(唯識派)[24]においては、認識対象は外在的なものではなくの顕れにすぎないので非有、しかし識の顕れは現実に存在するので非無であり、全ては認識作用にすぎないという〈一切唯識〉において中道が把握される(唯識中道)[14]

三論宗

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三論宗は、中論が説く八不中道の説に基づき、俗諦中道(世諦中道)・真諦中道・二諦合明の中道(非俗非真の中道)という三種の中道を説く[6]

法相宗

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唯識宗(法相宗[25]では、有空中の三時教の教判を立てて、解深密経などの説のように、〈有・空〉の二辺を離れて非有非空の中道の真理を完全に顕した教えを中道了義教とし、〈有・空〉に偏る教えを不了義教とする[6]。その中道とは、いわゆる唯識中道のことであり、法相宗は唯識中道を説くことから、自らを中道宗とも称する[6]。法相宗の教えは中道教とも呼ばれる[4]。法相宗では中道は、教理の核心としての非有非空をも指す[4]

成論師

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成論師は、世諦中道・真諦中道・真俗合論中道の三種中道を立てた[4]

天台・天台宗

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慧文によると、因縁によって生じたものが必ずある(定有)のでもなく、またそれらが空であるとしても、必ず空(定空)であるというのでもなく、空有不二であることを中道という[4]

天台宗では、空・仮・中の三諦を立て、中は空・仮を超えた絶対であるとする[4]。この空・仮・中は相互に別なく円融し、即空・即仮・即中としての中道であるとする[4]。天台宗では中道は、教理の核心としての諸法実相をも指す[4]

法華経

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法華経の化城喩品では、三界の中にある分段生死と、三界を超えて外にある変易生死との中間を中道という[4]

摩訶止観

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天台智顗は『摩訶止観』の中で、「若し行、中道に違すれば、卽ち二邉の果報有り。若し行、中道に順ずれば、卽ち勝妙の果報有り」としている[26][注釈 4]

脚注

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注釈

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  1. ^ : madhyamā-pratipat とも綴る[1]
  2. ^ 「二諦」に"空"や"仮"の解釈を与えるのは、天台宗が三観の中観や三諦の中諦の立場を説くときである[17][18][19]
  3. ^ 「中論」という名称は、『中論』の約450偈のうちでこの1回だけ現れる「中道」の語に基づく[23]
  4. ^ 国訳一切経での書き下し文は、この前後を含めると次の通り:「第三に菩薩の淸浄大果報を明さんが爲の故に、是の止觀を説くとは、若し行、中道に違すれば、卽ち二邉の果報有り。若し行、中道に順ずれば、卽ち勝妙の果報有り。設ひ未だ分段を出でざるも、護る所の華報、亦七種の方便に異なる。況や真の果報をや。」[27]

出典

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  1. ^ 岩波書店『岩波 仏教辞典 第二版』 714-715頁、春秋社『仏教・インド思想辞典』
  2. ^ 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 73頁「中道」。
  3. ^ 『パーリ仏教辞典』 村上真完, 及川真介著 (春秋社) 和訳語索引 2375頁「中道」。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 中村元 『広説佛教語大辞典』中巻 東京書籍、2001年6月、1183頁。
  5. ^ 『漢訳対照梵和大辞典 増補改訂版』 鈴木学術財団 (山喜房仏書林)、1979年、995頁。
  6. ^ a b c d e f g h i j 総合仏教大辞典編集委員会 『総合仏教大辞典』 法蔵館、1988年1月、997-999頁。
  7. ^ a b B・B・ヴィディヤランカール、A・ヴィディヤランカール 『基本梵英和辞典 縮刷版』 東方出版、2011年5月、282頁。
  8. ^ मध्यमा (madhyamA) - Spoken Sanskrit Dictionary.
  9. ^ मध्यम (madhyama) - Spoken Sanskrit Dictionary.
  10. ^ a b c प्रतिपद् (pratipad) - Spoken Sanskrit Dictionary.
  11. ^ 山中元 『サンスクリット語 - 日本語単語帳』 国際語学社、2004年7月。
  12. ^ 荻原雲来 『漢訳対照梵和大辞典 増補改訂版』 鈴木学術財団 (山喜房仏書林)、1979年、833頁。
  13. ^ pratipad (行,正行,通行,現行,行迹,行跡;道,道跡,所行道;通;法;順)[12]
  14. ^ a b c 中村元ほか編 『岩波仏教辞典 第二版』 岩波書店、2002年10月、714-715頁の「中道」の項目。
  15. ^ a b c 総合佛教大辞典編集委員会 『総合佛教大辞典』 法蔵館、1988年1月、p.1118の「二辺」の項目。
  16. ^ 中道 - 創価学会 教学用語検索。
  17. ^ 中村元 『広説佛教語大辞典 上巻』  東京書籍、2001年6月、363頁の「假観」の項目。
  18. ^ 中村元 『広説佛教語大辞典 中巻』  東京書籍、2001年6月、1179頁の「中観」の項目。
  19. ^ 三諦』 - コトバンク, 『中諦』 - コトバンク
  20. ^ a b c d e 吹田隆道『ブッダとは誰か』2013年。ISBN 978-4393135686 
  21. ^ 八正道・八聖道』 - コトバンク
  22. ^ 長尾雅人・工藤成樹訳 『世界の名著 1 バラモン教典 原始仏典』 中央公論社、1969年5月、pp435-439の「二 初めての説法(相応部 五六・二)」
  23. ^ a b 中村元ほか(編)『岩波仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年10月、704頁。 
  24. ^ 瑜伽行派』 - コトバンク
  25. ^ 法相宗とは(教義について)-薬師寺公式サイト|Guide-Yakushiji Temple”. 薬師寺. 2017年5月12日閲覧。
  26. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『摩訶止觀 (智顗説)』 (T1911_.46.0020a24: ~): 説是止觀者若行違中道即有二邊果報。若行順中道即有勝妙果報。
  27. ^ 岩野眞雄・編 『国訳一切経 和漢撰述部 諸宗部2』 大東出版社、1988年、74頁

関連項目

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