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利用者:ワーナー成増/キネマ旬報バックナンバー

1973年[編集]

配給会社別年間配給収入
配給会社 配給本数 年間配給収入 前年対比 概要
新作 再映 洋画
松竹 48 028億7016万円 N/A 製作本数を極端に減らしたことで、製作配給面で十数年ぶりに黒字になった。前年1971年の『ある愛の詩』や『エルビス・オン・ステージ』のような大ヒット作はなかったが、正月の『男はつらいよ 寅次郎恋歌』、8月の『男はつらいよ 柴又慕情』、東映から借りた加藤泰監督の『人生劇場』の3番組が記録的大ヒット、そして、リバイバルの「男はつらいよ」シリーズも好稼動。松竹は「男はつらいよ」を4 - 6週間というロングで上映する修正ブロックブッキング体制だが、懸念材料は「男はつらいよ」シリーズ以外にレパートリーがないこと。意欲作『あゝ声なき友』(今井正監督)、『故郷』(山田洋次監督)/『旅の重さ』(斎藤耕一監督)は不発。東京劇場を改築し総合ビルに衣替えすることも話題となった。
29 15 4
東宝 51 031億1010万円 N/A 自主製作映画がすべて失敗したが、勝プロなどの外部プロとの提携作品がアベレージ以上だったため、まずまずの成績に収まった。製作部門を切り離したが成果は上がらず、東宝の苦しさを露呈している。監督との再契約問題や外部監督起用問題でトラブルも発生。収入源は不動産に依るところが大きく、将来の東宝は単なる不動産会社になるのではと要らぬ心配も。
46 5 -
東映 68 062億6253万円 N/A 東宝・松竹を大きく引き離してのナンバーワン。3月に東映の切り札スターだった藤純子が引退したが、後任探しに苦労している。その中で日活から移籍した梶芽衣子主演『女囚701号/さそり』は成功し、新しいシリーズが誕生。高倉健との間で再契約問題があるため、高倉主演作が少なくなり、鶴田浩二作品は興行力が落ちているので、鶴田主演作も減少。
62 6 -
日活 72 N/A N/A 1年を経過した低予算のロマンポルノは、1月の日活ロマンポルノ事件で世論があおられ、興行成績も尻上がり。映画賞でベストテン入りするような内容の作品も出てきたことで、1972年の学園祭で大モテとなった。しかし、日活の累積赤字が巨額なため、不動産売却益などで、どうにか経営を維持している状態。
71 1 -
出典:「1972年度日本映画/外国映画業界総決算」『キネマ旬報1973年昭和48年)2月決算特別号、キネマ旬報社、1973年、90 - 95頁。 


  • 東宝
    • 自主製作映画がすべて失敗したが、勝プロなどの外部プロとの提携作品がアベレージ以上だったため、まずまずの成績に収まった。製作部門を切り離したが成果は上がらず、未だ苦境の真っ只中。収入は不動産に依るところが大きく、将来の東宝は単なる不動産会社になるのではと要らぬ心配。
  • 東映
    • 3月に東映の切り札スターだった藤純子が引退したが、未だにポスト藤は育っていない。
  • 松竹
  • 日活
    • 不動産売却益などで、どうにか経営を維持。
    • 1年を経過したロマン・ポルノは内容・成績も好調。

1974年[編集]

1975年[編集]

1976年[編集]

  • 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』キネマ旬報社〈キネマ旬報ムック〉、2012年5月。ISBN 978-4873767550 

注釈

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1977年[編集]

注釈

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1978年[編集]

2月下旬号[編集]

注釈

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9月上旬号[編集]

  • 冷泉さとし「「野性の証明」アメリカ・ロケ 体験ルポ」『キネマ旬報1978年昭和53年)9月上旬号、キネマ旬報社、1978年、102 - 105頁。 
    • アメリカ合衆国カリフォルニア州パソ・ロブレス
    • 米軍演習場キャンプ・ロバーツ、連日40度超炎天下
    • 1978年7月18日、19日にラストシーンの撮影
    • 日本側スタッフ16名+アメリカ側スタッフ40名
    • 戦車9台、ジェットヘリ5台、本物の銃火器
    • 特殊工作隊員役の20名

野性軍団[編集]

自衛隊員役のエキストラ(「野性軍団」と呼ばれた)を一般から募集した[1]。100メートルのウサギ跳びやフィールドアスレチック競技などによる選考を行い、全国から200人が選ばれた[1]。合格者には、アメリカへの旅費と小遣い10万円が支給された[1]。頭を五分刈りにした野性軍団は、千葉県にある陸上自衛隊・第1空挺団への体験入隊を経た後渡米し、キャンプ・ロバーツでの撮影に臨んだ[1]

キャンプ・ロバーツ[編集]

注釈

出典

  1. ^ a b c d 冷泉さとし「「野性の証明」アメリカ・ロケ 体験ルポ」『キネマ旬報1978年昭和53年)9月上旬号、キネマ旬報社、1978年、102 - 105頁。 

1979年[編集]

(前略)値上げムードも「スター・ウォーズ」の一五〇〇円で静かに進んでおり、(後略)

— 「1978年度日本映画・外国映画業界総決算」『キネマ旬報1979年昭和54年)2月下旬号、キネマ旬報社、1979年、118頁。 

これまで、入場者数の減少をカバーしてきた入場料金は六月に公開された「スター・ウォーズ」の一、五〇〇円を唯一の例外として、(後略) — 「1978年度日本映画・外国映画業界総決算」『キネマ旬報1979年昭和54年)2月下旬号、キネマ旬報社、1979年、124頁。 

注釈

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1980年[編集]

他動的要素として、七九年上半期に吹き荒れた"インベーダー・ゲーム"に、映画、出版、音楽といった産業がダメージを受けたといわれているが、(後略)

ここ数年の傾向として、映画にアカデミックな要素を求めることを大衆がしなくなり、ジャーナリスティックな話題性を持つ作品だけが大きくクローズ・アップされている。 — 「1979年度日本映画・外国映画業界総決算」『キネマ旬報1980年昭和55年)2月下旬号、キネマ旬報社、1980年、118頁。 

一九七七年に角川映画「犬神家の一族」のヒットにより本格的にスタートを切った一本立大作路線も三年目を迎えて、(中略)これに伴い興行、配給形態の変化が一気に表面化してきた。

— 「1979年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1980年昭和55年)2月下旬号、キネマ旬報社、1980年、119頁。 

注釈

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1981年[編集]

2月下旬号[編集]

(前略)夏には、これ〔百恵・友和シリーズ〕にかわって「翔んだカップル」「まことちゃん」が公開され、”百恵・友和”シリーズには及ばなかったものの善戦した。

— 「1980年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1981年昭和56年)2月下旬号、キネマ旬報社、1981年、116頁。 

(前略)七七年に角川映画「犬神家の一族」で本格的なスタートを切った一本立大作路線がごく普通の興行システムになり、観客からみれば当時の物珍しさが完全に払拭されたこともあって、1本立イコール大作というイメージがまったく無くなったということである。

— 「1980年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1981年昭和56年)2月下旬号、キネマ旬報社、1981年、113頁。 

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10月下旬号[編集]

田中陽造[編集]

楽しんでやれた仕事です。(中略)一人の少女が社会にむかって一歩をすすめていくひと月あまりの話ということを基本に置いて、喜劇だがシリアス・ドラマの考えでやりました。シリアスにしないと笑いがでませんから。少女も、周りのヤクザも全員必死だけど世界感は違う。そこが笑いになれば上等なものになるんじゃないでしょうか。……

— 田中陽造

八森稔「「セーラー服と機関銃」撮影現場訪問記」『キネマ旬報1981年昭和56年)10月下旬号、キネマ旬報社、1981年、139 - 140頁。 


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1982年[編集]

1982年キネマ旬報
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
上旬号
下旬号

2月下旬号[編集]

  • 入場者数 1億4945万人[1] - 1億5000万人を下回るワースト記録[2]。〔ただし、1987年にはワースト記録を更新する。〕 キネマ旬報は、レジャーの多様化や慢性化する構造不況、また、一般大衆が映画に対する興味を失い、映画の観客が若者中心となったことを原因に挙げている[2]
出典:「1981年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1982年昭和57年)2月下旬号、キネマ旬報社、1982年、118 - 125頁。 

4月下旬号[編集]

5月上旬号[編集]

5月下旬号[編集]

注釈

出典

  1. ^ 過去データ一覧”. 一般社団法人日本映画製作者連盟. 2016年8月2日閲覧。
  2. ^ a b 「1981年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1982年昭和57年)2月下旬号、キネマ旬報社、1982年、119頁。 

1983年[編集]

1984年[編集]

出典:「1983年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1984年昭和59年)2月下旬号、キネマ旬報社、1984年、110 - 116頁。 

注釈

出典

1985年[編集]

出典:「1984年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1985年昭和60年)2月下旬号、キネマ旬報社、1985年、114 - 120頁。 

注釈

出典

1986年[編集]

出典:「1985年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1986年昭和61年)2月下旬号、キネマ旬報社、1986年、122 - 128頁。 

注釈

出典

1987年[編集]

出典:「1986年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1987年昭和62年)2月下旬号、キネマ旬報社、1987年、124 - 131頁。 

注釈

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1988年[編集]

  • 入場者数 1億4394万人[1] - 1981年(昭和56年)の1億4945万人を下回る〔1988年までの〕ワースト記録[2]。レンタルを含むビデオソフトの影響が、特にヤング層の劇場離れを生じさせたとキネマ旬報は分析している[2]
出典:「1987年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1988年昭和63年)2月下旬号、キネマ旬報社、1988年、186 - 192頁。 

注釈

出典

  1. ^ 過去データ一覧”. 一般社団法人日本映画製作者連盟. 2016年8月2日閲覧。
  2. ^ a b 「1987年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1988年昭和63年)2月下旬号、キネマ旬報社、1988年、186 - 192頁。 

1989年[編集]

注釈

出典

  1. ^ 「1988年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1989年平成元年)2月下旬号、キネマ旬報社、1989年、172 - 173頁。 
出典:「1988年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1989年平成元年)2月下旬号、キネマ旬報社、1989年、167 - 172頁。 

1990年[編集]

  • 入場者数 1億4357万人[1] - 1987年(昭和62年)の1億4393万人を下回る〔1990年までの〕ワースト記録[2]レンタルビデオの影響が大きく、また、前年からの昭和天皇のご闘病での自粛ムード、消費税導入など、映画が一般の話題になる余地がなかった[2]。ただし、入場料金の値上げがあったため興行収入は約3パーセントのアップ[2]

注釈

出典

  1. ^ 過去データ一覧”. 一般社団法人日本映画製作者連盟. 2016年8月2日閲覧。
  2. ^ a b c 「1989年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1990年平成2年)2月下旬号、キネマ旬報社、1990年、171頁。 
出典:「1989年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1990年平成2年)2月下旬号、キネマ旬報社、1990年、174 - 176頁。 

1991年[編集]

出典:「1990年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1991年平成3年)2月下旬号、キネマ旬報社、1991年、142 - 144頁。 

1992年[編集]

一九九一年の年間入場者数は一億三八三三万〇千人で、過去史上最低であった八九年の一億四三五七万三千人をわずかに下回った。

— 「1991年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1992年平成4年)2月下旬号、キネマ旬報社、1992年、144頁。 

1989年の年間入場者数(1億4357万人)を下回る戦後最低記録となった[1]。〔ただし、翌1992年にワースト記録を更新する。〕キネマ旬報によれば、洋画が配給収入を大きく減少させたことが原因で、米国映画興行が低調だったことと連動していると分析している[2]。米国内のメディアの多様化と米映画界が大作連打主義から低予算映画へ転換したことを理由として挙げている[2]

注釈

出典

  1. ^ 「1991年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1992年平成4年)2月下旬号、キネマ旬報社、1992年、144頁。 
  2. ^ a b 「1991年度日本映画・外国映画業界総決算」『キネマ旬報1992年平成4年)2月下旬号、キネマ旬報社、1992年、139頁。 
出典:「1991年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1992年平成4年)2月下旬号、キネマ旬報社、1992年、142 - 144頁。 

1993年[編集]

一般料金で一八〇〇円の劇場が初めて登場し、その数は四七館である。

— 「1992年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1993年平成5年)2月下旬号、キネマ旬報社、1993年、147 - 148頁。 

(前略)、年間入場者数が一億二五六○万人と史上最低だった。前年を更に下回る成績で、一億三八三三万人より二七三万人、パーセンテージにして九・二%の下降で戦後最低を記録した。

— 「1992年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1993年平成5年)2月下旬号、キネマ旬報社、1993年、143頁。 

戦後最低を記録した前年(1億3833万人)よりも273万人減(9.2%減)となり、2年連続戦後最低となった[1]。〔ただし、1994年にワースト記録を更新する。〕邦画が281億3400万円と前年比1.1%増の配給収入となったのに対し、洋画は前年比11.5%減の342億2700万円となった[1]。洋画の中で大きなシェアを持つ米国映画が、高騰する製作費を抑えるために大作連打主義から低予算映画中心の製作体制に変更したことが影響している[1]

注釈

出典

  1. ^ a b c 「1992年度日本映画・外国映画業界総決算」『キネマ旬報1993年平成5年)2月下旬号、キネマ旬報社、1993年、143頁。 
出典:「1992年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1993年平成5年)2月下旬号、キネマ旬報社、1993年、147 - 148頁。 

1994年[編集]

映画館の新規オープンは、「映画館の公的規制の緩和」も好影響を与えており、さらに東京都では全国に先駆けて七月一日から建築安全条例と火災予防条例の改正が施行実施されている。

これは昭和三十一年以降、初めての抜本的な改正で、映画館建設において、これまでの様々な規制が緩和されている。 — 「1993年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1994年平成6年)2月下旬号、キネマ旬報社、1994年、156頁。 

  • 7月1日
    • 東京で建築安全条例と火災予防条例の改正が施行実施される[1]1956年(昭和31年)以降、初めての抜本的な改正であり、映画館に対する公的規制の緩和という内容であったため、映画館の新規オープンにプラスの作用をした[1]
出典:「1993年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1994年平成6年)2月下旬号、キネマ旬報社、1994年、154 - 156頁。 

注釈

出典

  1. ^ a b c 「1993年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1994年平成6年)2月下旬号、キネマ旬報社、1994年、156頁。 

1995年[編集]

1992年(平成4年)の1億2560万人を下回るワースト記録。〔ただし、1996年にはワースト記録を更新する。〕

出典:「日本映画業界総決算」『キネマ旬報1995年平成7年)2月下旬号、キネマ旬報社、1995年、154 - 156頁。 

1996年[編集]

出典:「日本映画業界総決算」『キネマ旬報1996年平成8年)2月下旬号、キネマ旬報社、1996年、159 - 160頁。 

1997年[編集]

1994年(平成6年)の1億2299万人を下回るワースト記録。

出典: 「日本映画業界決算」『キネマ旬報1997年平成9年)2月下旬号、キネマ旬報社、1997年、155 - 157頁。 
(前略)、年間入場人員が一億一九五七万五千人で、前年より、七四七万人、パーセンテージにして九四・一%のダウンとなった。

これは過去最低であった九四年を三四二万人下回り、最低記録を更新した。 —  「日本映画業界決算」『キネマ旬報1997年平成9年)2月下旬号、キネマ旬報社、1997年、157頁。 

  • 入場者数 1億1958万人[1] - 1994年の年間入場者数(1億2299万人)を下回る戦後最低記録となった[2]減少した入場者数に反比例するように、映画館数は、外資も含めたシネマコンプレックスの展開に伴い、前年比52館増となった[3]
  • 興行収入 1488億7000万円[1]
九五年は邦画がアニメーションの凋落によりダウンしたものの、洋画に「ダイ・ハード3」「スピード」といった配収五十億円に迫るビッグヒット作品があり(中略) —  「1996年度日本映画・外国映画業界総決算」『キネマ旬報1997年平成9年)2月下旬号、キネマ旬報社、1997年、151頁。 

注釈

出典

  1. ^ a b 過去データ一覧”. 一般社団法人日本映画製作者連盟. 2016年8月2日閲覧。
  2. ^ 「日本映画業界決算」『キネマ旬報1997年平成9年)2月下旬号、キネマ旬報社、1997年、157頁。 
  3. ^ 「1996年度日本映画・外国映画業界総決算」『キネマ旬報1997年平成9年)2月下旬号、キネマ旬報社、1997年、151頁。 

1998年[編集]

出典: 「日本映画業界決算」『キネマ旬報1998年平成10年)2月下旬号、キネマ旬報社、1998年、168 - 169頁。 

1999年[編集]

出典: 「日本映画業界決算」『キネマ旬報1999年平成11年)2月下旬号、キネマ旬報社、1999年、174 - 176頁。 

2000年[編集]

出典:「日本映画業界決算」『キネマ旬報2000年平成12年)2月下旬号、キネマ旬報社、2000年、153 - 155頁。 

2001年[編集]

出典:「2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2001年平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、149 - 150頁。 

大店立地法[編集]

2000年の303という増数は、これまで最も大きく、この背景には、2000年6月に施行された大規模小売店舗立地法(大店立地法)が、2001年1月末までに開業すると、この対象とならないということがある。 —  「2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2001年平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、143頁。 

2001年1月末までの開業なら適用外となるのでショッピング・センターやスーパーマーケットの駆け込み出店が相次ぎ、併設のシネマコンプレックスも急増した[1]。前年比303スクリーン増加は新記録[1]

興行収入[編集]

日本においては、1999年までは映画の興行成績発表には配給収入が使われていたが、2000年から興行収入の発表に切り替えられた[2]。配給収入と興行収入を誤解しているケースが多かったこと、映画産業データが分かりやすくなること、配給収入での発表は日本映画界の閉鎖性と不透明さの象徴だったこと、また、世界の映画界では興行収入でデータ発表をしていることを関係者は変更理由に挙げている[2]。大ヒットの基準である配給収入10億円以上の作品の発表も廃止された[2]

キネマ旬報によれば、1999年までは配給収入10億円以上が大ヒットの基準だった[3]

できごと[編集]

参考文献[編集]

注釈

出典

  1. ^ a b 「2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2001年平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、143頁。 
  2. ^ a b c 「2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2001年平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、144頁。 
  3. ^ 「2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2001年平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、144頁。 
  4. ^ a b c 業界総決算 2001, p. 144.
  5. ^ 映画界の出来事 2001, p. 222.
  6. ^ 映画界の出来事 2001, p. 224.
  7. ^ a b 映画界の出来事 2001, p. 225.
  8. ^ 10大ニュース 2001, p. 222.
  9. ^ 映画界の出来事 2001, p. 226.
  10. ^ 10大ニュース 2001, p. 226.
  11. ^ a b c 映画界の出来事 2001, p. 228.
  12. ^ 映画界の出来事 2001, p. 229.
  13. ^ 映画界の出来事 2001, p. 231.
  14. ^ a b 10大ニュース 2001, p. 228.

2002年[編集]

出典:「2001年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2002年平成14年)2月下旬号、キネマ旬報社、2002年、137 - 138頁。 

できごと[編集]

周年[編集]

カリオストロの城[編集]

第54回キネマ旬報ベスト・テン54位、映画評論家の深沢哲也のみが投票している[11]。読者選出ベスト・テンは15位[11]

入場料金[編集]

一般入場料金は10年間据え置かれている[12]

東京ロケーションボックス[編集]

  • 4月20日 - 映画・テレビドラマ等の都内での円滑なロケ撮影をサポートする「東京ロケーションボックス」が都庁内に開設される[13]。外国映画の利用第1号はリュック・ベッソン監督の『WASABI[3]

参考文献[編集]

注釈

出典

  1. ^ a b 映画界の出来事 2002, p. 179.
  2. ^ 映画界の出来事 2002, p. 182.
  3. ^ a b 映画界の出来事 2002, p. 183.
  4. ^ 10大ニュース 2002, pp. 179–180.
  5. ^ 映画界の出来事 2002, p. 184.
  6. ^ a b 10大ニュース 2002, pp. 176–177.
  7. ^ a b c d e 映画界の出来事 2002, p. 185.
  8. ^ 映画界の出来事 2002, pp. 184–185.
  9. ^ 映画界の出来事 2002, p. 186.
  10. ^ 映画界の出来事 2002, p. 187.
  11. ^ a b 「コラムでふりかえる2001年映画界10大ニュース」『キネマ旬報2002年平成14年)2月下旬号、キネマ旬報社、2002年、181頁。 
  12. ^ 業界総決算 2002, p. 131.
  13. ^ 映画界の出来事 2002, p. 180.

2003年[編集]

修正前

2002年の『ロード・オブ・ザ・リング』に抜かれるまで松竹興行成績の記録を保持していた[1]


修正後

2002年の『ロード・オブ・ザ・リング』に抜かれるまで松竹の歴代興行収入配給収入)1位だった[1][2]

出典:「2002年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2003年平成15年)2月下旬号、キネマ旬報社、2003年、139 - 140頁。 

注釈

出典

  1. ^ a b c 「2002年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2003年平成15年)2月下旬号、キネマ旬報社、2003年、139頁。 
  2. ^ キネマ旬報2003年2月下旬号では配給収入を24億円としている[1]
  3. ^ キネマ旬報 2003a, p. 189.
  4. ^ キネマ旬報 2003a, p. 180.
  5. ^ キネマ旬報 2003a, p. 181.

2004年[編集]

出典:「2003年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2004年平成16年)2月下旬号、キネマ旬報社、2004年、161頁。 

2005年[編集]

興行成績[編集]

出典:「2004年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2005年平成17年)2月下旬号、キネマ旬報社、2005年、152 - 153頁。 

ALWAYS[編集]

  • 尾形敏朗「素晴らしき映画女優(7)薬師丸ひろ子 - 映画におかえりなさい!」『キネマ旬報2005年平成17年)11月上旬号、キネマ旬報社、2005年、121-129頁。 
『リターナー2』をやろうかなんて話もあったんですが、いろいろ企画を考えていく中で、ROBOTの阿部(秀司)社長が『昭和物がやりたい』とずっとおっしゃっていたんです。(中略)ある日、『三丁目の夕日』を切り口に昭和ものをやるのはどうかというアイディアを聞かされて、それはいいんじゃないかと思ったんです。 — 山崎貴「自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った」『キネマ旬報2005年平成17年)11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、55頁。 
西岸良平さんの原作コミックは大好きで、それなら普通に人情物ができるんじゃないか、と。人情物をいつかやってみたいという思いは以前からあったんですけど、現代で人情物をやろうとすると、どうしてもどこかで照れちゃうじゃないですか。それが昭和30年代という話の中でなら普通にできそうだから、『それはいいかもしれないですね』と返事をしたんですけど、その時は「俺がやる! 」というほどの力では言ってなかったはずなんですよ(笑)。 — 山崎貴「自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った」『キネマ旬報2005年平成17年)11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、55頁。 
それは不安でしたよ。僕は昭和33年を知らないのに、時代劇と違って、その時代を知っている人たちはたくさんいるわけですからね。 — 山崎貴「自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った」『キネマ旬報2005年平成17年)11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、55頁。 
最初はロケで撮れるなと思って場所を探したんですけど、映画で使えるほどの広い範囲で当時の雰囲気が残っているところは、日本中探してもないんです。セットとCGで再現するしかない。基本的にはちょっとした街角で起きる人情話なのに、ものすごく予算がかかるわけで、それがエンターテイメントとして成立するかというところで、かなり悩みました。 — 山崎貴「自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った」『キネマ旬報2005年平成17年)11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、55 - 56頁。 
でも「よく僕に撮らせようと思ったな」とは思いますけどね(笑)。 — 山崎貴「自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った」『キネマ旬報2005年平成17年)11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、56頁。 
西岸良平の人気コミック「三丁目の夕日」(小学館・週刊ビッグコミックオリジナルにて連載中)が「ALWAYS 三丁目の夕日」として映画化される事が決定。12月2日、撮影が進む東宝スタジオ(東京・成城)にて会見が開かれ(後略) — 昭和30年代を完全再現!あの人気コミックが映画化”. 映画.com (2004年12月7日). 2017年3月27日閲覧。
会見終了後に、主人公たちが暮らす街並のセットが公開されたが、総工費4億円をかけて建築されたという精巧ぶりに、詰め掛けたマスコミから感嘆の声が上がった。 — 昭和30年代を完全再現!あの人気コミックが映画化”. 映画.com (2004年12月7日). 2017年3月27日閲覧。
素晴らしいセットができ上がってきて、監督としての僕はすごく嬉しかったんですけど、その反面、CGチームの一員でもある僕は、恐怖も感じました。というのは、この見事なセットに見合うだけの街並みのロングショットを、僕らはCGで作らなきゃいけない。美術部の努力を僕らが無駄にするわけにはいかないので、『大変なことになったな』と。 — 山崎貴「自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った」『キネマ旬報2005年平成17年)11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、56頁。 
最初はほとんどのお芝居をスタジオの中のセットで撮ることに抵抗もあったんです。嘘っぽくなっちゃうんじゃないか、と。ところが、照明部がものすごく頑張ってくれて、たとえば、夏のシーンなんか、モニターを覗いていると、夏の真っ昼間に外で撮っている画面にしか見えないんですよ。スタジオの天井が写っていると、天井のほうが偽物みたいな感じがする。映画の魔法を体験できました。 — 山崎貴「自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った」『キネマ旬報2005年平成17年)11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、56頁。 
(前略)カメラはどんな撮り方をしてもいい、という前提でやっていたんです。(中略)スタッフ全員が昭和33年にタイムトラベルして、現地でロケしているというつもりだった。だから、カメラが路地の向こうに出て行こうが、クレーンで動いてセットの奥がバレようが、天井が写り込もうが、それも全部OK。『マズいところは、あとでなんとかしますから』と言って、一切制約を作らなかった。(後略) — 山崎貴「自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った」『キネマ旬報2005年平成17年)11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、57頁。 
昭和30年代の映画は、参考にしようと思ってたくさん見ましたね。その頃の映画の匂いを可能な範囲で写し取りたいという気持ちはありました。 — 山崎貴「自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った」『キネマ旬報2005年平成17年)11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、57頁。 
原作の『三丁目の夕日』自体は、短いエピソードの積み重ねじゃないですか。そのままだと『ひとつひとつの話は面白いけど、ブツ切れだね』と言われちゃうと思うんですよね。 — 山崎貴「自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った」『キネマ旬報2005年平成17年)11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、57頁。 
「自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った」と。(中略)「スタッフもこの時代を知らない世代がほとんどだったので、みんなそんなふうに思って頑張っていたとおもいますよ。」 — 山崎貴「自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った」『キネマ旬報2005年平成17年)11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、57頁。 
オールラッシュの時だったんですけど、この当時を知っている製作委員会の人たちが、見終わってから「あの頃は、ああでこうで……」という話を延々としているんですよ。映画の感想じゃなくて(笑)。完全に記憶再生装置になっていて、もし日本中の映画館でそういう光景が繰り広げられるとしたら、すごく幸せだな、と。 — 山崎貴「自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った」『キネマ旬報2005年平成17年)11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、57頁。 

注釈

出典

映画評論家[編集]

よくまあこれほど念入りに昭和33年らしさを再現したものだと感心した。CGの活用の仕方の、ひとつの里程標となる作品だといっていい。 — 佐藤忠男「CGの使い方のひとつの里程標となる作品」『キネマ旬報2005年平成17年)11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、58頁。 
ともあれ、あの時期、つまり高度経済成長の時期を大きな区切りとして日本の人情風俗は大きく変化したし、それがいちいち正確に描けているかどうか、これほど気になる映画というのも珍しい。それというのも風俗の描写がそれだけ緻密でよく出来ているからである。 — 佐藤忠男「CGの使い方のひとつの里程標となる作品」『キネマ旬報2005年平成17年)11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、58頁。 
むろん、ただ再現しただけでは当時の作品に敵わない。昭和33年を舞台にした「ALWAYS 三丁目の夕日」の特徴は、子供の視点から再現していることだろう。

昭和33年だって問題が山積みしていたに相違ない。しかし、こどもの視点に立ったこの映画では、大人なら見える汚い部分は捨象され、すべてが夢と希望に満ちている。当時の子供とは、言うまでもなく現代の大人である。

— 石飛徳樹「『時間の経過』というスパイスが引き起こす魔術」『キネマ旬報2005年平成17年)11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、59頁。 
当時の私たちは、不治の病や記憶喪失がなくても、感動の涙を流すことが出来た。皮肉たっぷりのパロディーでなくても、腹の底から笑うことが出来た。この映画が本当に再現しているのは、人々のそんな素朴な心の動きなのだ。 — 石飛徳樹「『時間の経過』というスパイスが引き起こす魔術」『キネマ旬報2005年平成17年)11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、59頁。 
観客を笑わせるために、あるいは泣かせるために、この映画がやっているのは極めて単純なことだ。原因と結果の間に時間を置く、それだけだ。しかし、それだけで、ただの「原因」が高度な「伏線」に変わる。 — 石飛徳樹「『時間の経過』というスパイスが引き起こす魔術」『キネマ旬報2005年平成17年)11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、59頁。 
  • 石飛徳樹「『時間の経過』というスパイスが引き起こす魔術」『キネマ旬報2005年平成17年)11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、59頁。 

封切[編集]

泣ける、と評判の「ALWAYS 三丁目の夕日」が見事首位デビュー。公開2日間の成績は、動員が16万4023人、興収で2億1418万円というもの。東宝のリサーチによると、40代の観客が37%でもっとも多いという。これはちょっとした驚きだ(以下、50代22%、20代15.6%、30代14.5%)。 — 国内映画ランキング(2005年11月5日〜2005年11月6日)”. 映画.com (2017年11月8日). 2017年3月27日閲覧。
「ALWAYS 三丁目の夕日」が今週も強い。この週末は、2日間で2億1600万円と前週末以上の興収を記録するなど、予想以上のハイ・パフォーマンスを見せている。このまま行けば、1週先に公開された「春の雪」を上回るのは確実で、最終的に興収20億円に達する可能性も十分ある。 — 国内映画ランキング(2005年11月12日〜2005年11月13日)”. 映画.com (2017年11月15日). 2017年3月27日閲覧。
続映作品では、「三丁目の夕日」「消しゴム」「ブラザーズ・グリム」の上位陣がトップ3の座をキープした。 — 国内映画ランキング(2005年11月19日〜2005年11月20日)”. 映画.com (2017年11月22日). 2017年3月27日閲覧。

外部リンク[編集]

できごと[編集]

注釈

出典

  1. ^ 「トピック・ジャーナル」『キネマ旬報2005年平成17年)12月下旬号、キネマ旬報社、2005年、168頁。 
  2. ^ インデックスが日活を買収”. 日経BP社 (2005年9月7日). 2017年4月1日閲覧。
  3. ^ 「トピック・ジャーナル」『キネマ旬報2006年平成18年)1月下旬号、キネマ旬報社、2006年、186頁。 
  4. ^ a b 「WORLD NEWS 日本」『キネマ旬報2006年平成18年)1月上旬号、キネマ旬報社、2005年、18頁。 
  5. ^ 「WORLD NEWS 日本」『キネマ旬報2006年平成18年)1月下旬号、キネマ旬報社、2006年、18頁。 

2006年[編集]

出典:「2005年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2006年平成18年)2月下旬号、キネマ旬報社、2006年、177 - 178頁。 

2006年3月、シネマヴェーラ渋谷で「女優 薬師丸ひろ子の軌跡」と題する特集上映が行われた[4]

イラストレーターの安西水丸は『ホテル・ルワンダ』が満員だったので仕方なく鑑賞した[5]。役者達の演技は皆よかったが、鈴木一平役の小清水一輝と母親役の薬師丸ひろ子が印象的だったと書いている[5]

2007年[編集]

出典:「2006年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2007年平成19年)2月下旬号、キネマ旬報社、2007年、185頁。 

2008年[編集]

出典:「2007年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2008年平成20年)2月下旬号、キネマ旬報社、2008年、164 - 165頁。 

2009年[編集]

出典:「2008年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2009年平成21年)2月下旬号、キネマ旬報社、2009年、173頁。 

2010年[編集]

出典:「2009年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2010年平成22年)2月下旬号、キネマ旬報社、2010年、172 - 174頁。 
  • 一般入場料金は18年間据え置かれている[6]

注釈

出典

  1. ^ 映画界10大ニュース 2005, p. 217.
  2. ^ a b 映画界10大ニュース 2005, p. 221.
  3. ^ 映画界10大ニュース 2005, p. 224.
  4. ^ 「WORLD NEWS 日本」『キネマ旬報2006年平成18年)3月下旬号、キネマ旬報社、2006年、19頁。 
  5. ^ a b 安西水丸「安西水丸の4コマ映画館 (125)懐しき昭和三十三年の頃 「ALWAYS 三丁目の夕日」」『キネマ旬報2006年平成18年)3月下旬号、キネマ旬報社、2006年、124頁。 
  6. ^ 「2009年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2010年平成22年)2月下旬号、キネマ旬報社、2010年、174頁。 

2011年[編集]

出典:「2010年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2011年平成23年)2月下旬号、キネマ旬報社、2011年、189頁。 
  • 一般入場料金は19年間据え置かれている[1]

注釈

出典

  1. ^ 「2010年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2011年平成23年)2月下旬号、キネマ旬報社、2011年、191頁。 

2012年[編集]

出典:「2011年 日本映画・外国映画 業界総決算」『キネマ旬報2012年平成24年)2月下旬号、キネマ旬報社、2012年、201 - 203頁。 

2013年[編集]

出典:「2012年 日本映画・外国映画 業界総決算」『キネマ旬報2013年平成25年)2月下旬号、キネマ旬報社、2013年、204 - 206頁。 

2014年[編集]

出典:「2013年 日本映画・外国映画 業界総決算」『キネマ旬報2014年平成26年)2月下旬号、キネマ旬報社、2014年、197 - 199頁。 

2015年[編集]

出典:「各社2014年の動向を見る」『キネマ旬報2015年平成27年)3月下旬号、キネマ旬報社、2015年、88 - 92頁。 

2016年[編集]

出典:「各社2015年の動向を見る」『キネマ旬報2016年平成28年)3月下旬号、キネマ旬報社、2016年、70 - 75頁。 

2017年[編集]

2月下旬号[編集]

3月下旬号[編集]

出典:「各社2016年の動向を見る」『キネマ旬報2017年平成29年)3月下旬号、キネマ旬報社、2017年、66 - 71頁。 

注釈

出典

2018年[編集]

3月下旬号[編集]

  • 入場者数 1億7448万3000人[1]
  • 興行収入 2285億7200万円[1]
出典:「各社2017年の動向を見る」『キネマ旬報2018年平成30年)3月下旬号、キネマ旬報社、2018年、46 - 51頁。 

注釈

出典

  1. ^ a b 過去データ一覧”. 一般社団法人日本映画製作者連盟. 2018年3月25日閲覧。

7月下旬号[編集]

8月上旬号[編集]

8月 - 前年8月に公開された『宇宙戦艦ヤマト』が 『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の宣伝を兼ねて、フジテレビ系のゴールデン洋画劇場で放送される[1]。これは、劇場公開から最低でも2年の間隔をあけてからテレビ放送〔地上波放送〕するという業界ルールが無視された形[1]。同様に、10月には角川映画人間の証明』が同じゴールデン洋画劇場で放送された[1]

増當 そういえば映画のTV放送のスパンが最低2年だったのが、1年になるのも78年の事件でした。

三留 邦画だと「さらば宇宙戦艦ヤマト」公開の前日に「宇宙戦艦ヤマト」、「野性の証明」(78)公開前日に「人間の証明」が、それぞれフジテレビ系のゴールデン洋画劇場で放送されました。

— 宮崎祐治、三留まゆみ、増當竜也「70年代日本映画を語る」『キネマ旬報2018年平成30年)8月上旬特別号、キネマ旬報社、2018年、22頁。 

注釈

出典

  1. ^ a b c 宮崎祐治、三留まゆみ、増當竜也「70年代日本映画を語る」『キネマ旬報2018年平成30年)8月上旬特別号、キネマ旬報社、2018年、22頁。 

1月上旬号[編集]

2019年[編集]

3月下旬号[編集]

  • 入場者数 1億6921万人
  • 興行収入 2225億1100万円 - 興行収入発表となった2000年以降では第3位の成績[1]。第1位は2016年、第2位は2017年[1]。(2019年3月時点)

注釈

出典

  1. ^ a b 「2018年映画業界総決算」『キネマ旬報2019年平成31年)3月下旬特別号、キネマ旬報社、2019年、43頁。 

2020年[編集]

3月下旬特別号[編集]

注釈

出典

6月下旬号[編集]

周年[編集]

1985年[編集]

1986年[編集]

2003年[編集]

  • 生誕100周年
    • 小津安二郎
      • 東京国立近代美術館フィルムセンターで回顧上映された。

2005年[編集]

2015年[編集]

  • 創業120周年
    • 松竹 - 「松竹120年祭」(2015年10月 - 11月、東京劇場)で特集上映が行われた[5]

2016年[編集]

2017年[編集]

  • 創立75周年
    • 大映 - 6月に「おとなの大映祭」、「大映男優祭・女優祭」が秋から東京・角川シネマ新宿ほかで開催される[8][9]

2019年[編集]

2020年[編集]

  • 創業125周年、松竹映画100周年

注釈

出典

  1. ^ 「1985年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1986年昭和61年)2月下旬号、キネマ旬報社、1986年、123頁“誤算だったのは創業九十周年を迎えた松竹で” 
  2. ^ 「1986年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1987年昭和62年)2月下旬号、キネマ旬報社、1987年、124頁“山田洋次監督「キネマの天地」を50周年記念映画として公開したが、所期の目標に達せず” 
  3. ^ 松竹創業110周年記念”. 東京国立近代美術館フィルムセンター. 2017年4月3日閲覧。
  4. ^ 「トピック・ジャーナル」『キネマ旬報2005年平成17年)12月下旬号、キネマ旬報社、2005年、170頁。 
  5. ^ 伝統と革新の120年を振り返る特集上映 松竹120周年祭”. 松竹 (2015年8月12日). 2017年4月6日閲覧。
  6. ^ 40周年記念映画祭開催!角川映画はいかにして昭和後期の日本映画界を改革していったか?(前編)”. シネマズ. 松竹 (2016年7月23日). 2017年4月5日閲覧。
  7. ^ 角川映画の40年展で“三人娘”薬師丸ひろ子、原田知世、渡辺典子の資料を紹介 - 映画ナタリー”. ナタリー (2016年7月24日). 2017年4月5日閲覧。
  8. ^ 『おとなの大映祭』に21作品 若尾文子、京マチ子、関根恵子らの主演作も - 映画・映像ニュース”. CINRA.NET (2017年4月27日). 2017年4月28日閲覧。
  9. ^ 大映の名優たちの出演作が目白押し!「大映男優祭・女優祭」17年秋開催 : 映画ニュース”. 映画.com (2016年12月23日). 2017年4月28日閲覧。