コンテンツにスキップ

利用者:Quark Logo/sandbox京極高知

 
京極高知
京極高知像(丸亀市立資料館所蔵)
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 元亀3年(1572年
死没 元和8年8月12日1622年9月17日
改名 長壽[1](幼名)、羽柴高知→京極高知
別名 羽柴伊奈侍従、通称:修理亮、修理大夫
戒名 瑞泰院殿前丹州大守拾遺真巌道可大居士
霊名 洗礼名ジョアン[2]
墓所 本行寺京都府舞鶴市
大徳寺塔頭芳春院京都市北区
官位 従四位下侍従丹後守、修理亮、修理大夫
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉徳川家康秀忠
丹後国宮津藩初代藩主
氏族 京極氏(羽柴氏)
父母 父:京極高吉、母:マリア浅井祐政(久政)の娘)
兄弟 高次高知竜子(豊臣秀吉側室)
正室:津田信澄の娘[3]
継室:毛利秀頼の娘[4]
側室:竹原氏、各務氏ほか
常子(八条宮智仁親王妃)、信濃[5]、次女(多賀大膳某室のち可児縫殿助友方室)、高広(高政)、高三、萬作[5]、三女(浅井因幡長好室)、四女(京極高通正室)、五女(羽柴長吉[6]室)、六女(落合淡路守重室)、田中満吉、七女(氏家左京行久室)、八女(有馬左門某室)、九女(石束出雲守某室)、兵丸[7]、十女(京極高三養女、六郷政勝正室)、十一女(澤図書良政室)
養子:高通
テンプレートを表示

京極 高知(きょうごく たかとも)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名信濃飯田城主のちに丹後宮津城主。丹州宮津藩初代藩主。高知流京極家の祖。

生涯[編集]

元亀3年(1572年)、近江守護家の名門京極氏京極高吉の次男として、小谷で生まれた[1]高次の異母弟。

早くから羽柴秀吉に仕え、天正19年(1591年)4月23日、兄・高次の所領の近く蒲生郡で5,000石[1]を与えられる[9]。兄の八幡山城に居住[8]

文禄2年(1593年)10月13日、亡くなった外舅の毛利秀頼の遺領を継ぎ[10]、下伊那郡6万石余[1][11]を領する信濃飯田城(長姫城ともいった[8])主とされた。城下町を整備[8]。領内にキリスト教の布教を許可し、のちに自身もキリシタンとなっている。また、従四位下侍従に任ぜられた。

文禄4年(1595年)4月19日、さらに4万石を加増されて合計10万石となり、羽柴姓を与えられて、羽柴伊奈侍従[12]と称した[13]

秀吉死後は徳川家康に接近した。慶長5年(1600年)、上杉景勝征伐軍に加わり、下野小山で石田三成の蜂起を聞いて、井伊直政の所領・上野国高崎に人質として娘を送って東軍に参加。8月20日、下野小山より西上して三河に入り、福島正則池田輝政長岡忠興加藤嘉明浅野幸長一柳直盛・井伊直政・本多忠勝らと共に、織田秀信の美濃岐阜城を攻めた。高知は後備であったが、搦手の荒神洞から攻め登って、本丸に一番乗りをして、9月3日に家康に賞与の書を与えられて称賛された[1]


関ヶ原の戦いでは大谷吉継隊と戦うなどの戦功を挙げた。戦後は丹後12万3000石を与えられ、国持大名として京極丹後守を称した。田辺城に入城後、宮津城に拠点を移す。

その後、領地は嫡男・高広、三男・高三、甥で婿養子の高通の3人に分封し、宮津藩・田辺藩峰山藩の3つに分割された。嫡流は宮津7万8200石の領主となったが、3代で改易となる。その後、子孫が高家として取り立てられ、幕末まで続く。田辺藩京極家は3代で但馬豊岡へ転封となった。峰山藩京極家は幕末まで転封もなく、幾人もの若年寄を出すなど譜代格の大名として幕政にも参画した。

元和8年8月12日に京都で没した。法名は瑞泰院眞厳道可[14]

墓所は京都府舞鶴市本行寺京都府京都市北区大徳寺芳春院

系譜[編集]

関ヶ原の戦いの藤堂高虎・京極高知陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)
  • 側室:某氏[3]
    • 女子:多賀大膳某室 - のち可児縫殿助友方室
    • 次男:京極高広(1599年 - 1677年)
    • 四男:萬作(早世)
    • 女子:浅井因幡長好室
    • 女子:京極高通正室
  • 側室:竹原氏[3]
  • 側室:各務氏[7]
    • 五男:田中満吉(田中姓を称す、孫の代に京極に戻す)
    • 女子:澤図書良政室
  • 側室:その他
    • 女子:羽柴長吉某室
    • 女子:落合淡路守重室
    • 女子:氏家左京行久室
    • 女子:有馬左門某室
    • 女子:石束出雲守某室
  • 養子
    • 男子:京極高通(1603年 - 1666年) - 朽木宣綱の次男、母は高知の姉妹(洗礼名マグダレナ)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 堀田 1923, p.175
  2. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 京極高知. コトバンクより2021年12月22日閲覧
  3. ^ a b c d e 堀田 1923, p. 176
  4. ^ 『寛政重脩諸家』には毛利河内守秀政(秀秋)の娘とあるが[3]、秀頼の間違い。
  5. ^ a b 早世[3]
  6. ^ 『翁草』によれば、秀吉の小姓の中で一番の美少年という。
  7. ^ a b 堀田 1923, p. 177
  8. ^ a b c d e 高柳 & 松平 1981, p.90
  9. ^ 高次領から1,000石の分知とも言う[8]
  10. ^ 理由は明らかではないが、嗣子なしとされて、秀頼の長男秀秋は1万石の分知とされた。
  11. ^ 『当代記』『駒井日記』では9万石[8]
  12. ^ 毛利秀頼も伊奈侍従を称した。
  13. ^ 後に徳川の世になると、羽柴姓から京極姓に復した。
  14. ^ 阿部 1990, p. 291

参考文献[編集]

関連項目[編集]