コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

四間飛車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
将棋 > 将棋の戦法 > 四間飛車
987654321 
         
         
         
         
         
     
  
     
    

四間飛車(しけんびしゃ、: 4th-file Rook[1])は将棋の戦法の振り飛車の一種である。

先手ならば飛車を6筋に、後手ならば飛車を4筋に振る戦法である。「四間」とは、振った位置が左から数えて四マス目であるからである。

概要

[編集]

振り飛車の中では攻守のバランスが優れており[2]、一番一般的な戦法である。

玉の囲いは美濃囲いに組むのが一般的。しかし、場合によっては居玉のままであったり、逆に、穴熊囲いまで固めることもある(四間飛車穴熊)。戦局次第では向かい飛車中飛車石田流に組み直すなど、非常に柔軟性が高いのも、よく指される理由である。

四間飛車に対する戦法としては、居飛車舟囲い急戦といった急戦左美濃居飛車穴熊といった持久戦があり、現在ではそれぞれかなりの部分まで定跡手順が整備されている状況である。

歴史

[編集]

現存最古の棋譜である1607年慶長12年)6月の初代大橋宗桂本因坊算砂の対局でも、後手、算砂が四間飛車を用いている(結果は宗桂の勝ち)。

大山康晴は振り飛車党に転向後、四間飛車を特に愛用し、山田道美など若手の挑戦を次々と退け、全盛期を築く。大山以降、四間飛車を得意とした棋士は森安秀光が挙げられる。森安は粘り強い受けを得意とし、ダルマ流と呼ばれた。

大山、森安全盛時に高橋道雄がまとめた「緊急レポート居飛車vs振飛車プロ間における最近の序盤傾向の研究」第1回 四間飛車編(『将棋世界』1983年新年号所収)によると、1981年12月から1982年11月までの公式戦での統計で、このとき四間飛車は367局あり、さらにそのうち振り飛車穴熊が53局である。そして居飛車側の作戦として、居飛車穴熊が66局、左美濃が70局に上り、既にこれらが主流戦法と化していた。

以下、棒銀が26局、4六銀戦法が36局、5筋位取りが46局、玉頭位取りが17局、6筋位取りが8局、3八飛戦法(鷺ノ宮他)が11局、引き角が6局、腰掛け銀が6局、その他(端角等)が22局という結果である。そのうち棒銀については居飛車が14勝しており、このころにはノーマル四間飛車側の対策、森安流の△4三金や△4二金の待機策が確立していて居飛車側を悩ませていた一方で、△3二金の左金策(+袖飛車)も使用されていたが、この左金策の勝率が芳しくなかった。 4六銀戦法は 36局のうち4六銀左戦法が26局で、そのうち△3二銀型策への山田定跡が3局指されていて、いずれも居飛車の▲8八角打ちに△5四角を採用、四間飛車側が2勝している。

5筋位取りは先手6筋(後手4筋)の歩交換型は△6二飛(▲4八飛)と迎え撃つ手によって数年前に比べてやや減っていて、反対に右辺攻撃型に手を求めている傾向がみられた。四間飛車側も、居飛車が5筋の位を取ると同時に4筋(6筋)の位を取る手も数局みられた。

大山と森安が死去した後、トップ棋士の間で四間飛車を指す棋士は不在となり一時下火となるが、居飛車党から転向した小林健二が独自の研究を加えた「スーパー四間飛車」をひっさげて注目され、四間飛車の流行は復活した。1990年代後半には藤井猛藤井システムを確立させるなど研究は著しく進歩し、谷川浩司らの従来居飛車党の棋士とみなされていた棋士が後手番に四間飛車を採用することも多くなった。また、アマチュア由来の戦法である立石流四間飛車も登場した。

四間飛車の対局数の推移のうち、角道を止める四間飛車の対局数は、平成元年度329局から、この間、平成7年度(546局)は対左美濃に加えて対居飛車穴熊の藤井システムが登場したが、平成8年度(468局)から上昇傾向を示して13年度(2001年)の636局がピークで、その後年々下降傾向となる。四間飛車が激減した理由は、居飛車の対策が進歩して、他の振り飛車や居飛車に転向する四間飛車党が多かったためである。

なお、平成8年度(1996年)の468局から9年度(1997年)に534局へと対局数増加は、四間飛車穴熊の増加が見られた。

そして2000年代以降、プロ棋戦において四間飛車が指されることが少なくなっていく。

平成19年(2007年)の312局から、平成20年度(2008年)に185局となって200局を切るまでになる。2006年度まで20パーセント台を維持していた全対局における四間飛車の採用率が、2007年度には15.8パーセント、2008年度(8月まで)も13.6パーセントとなっている[3]

2008年には、藤井システムの創始者である藤井猛も居飛車を志向するようになり、「矢倉党に転向」とも評された[4]ゴキゲン中飛車の流行の他、居飛車対振り飛車のいわゆる「対抗型」では、居飛車側の研究が進み、四間飛車側の対策が間に合わなくなってきていることも大きな理由とされている。

しかしながら、広瀬章人が、居飛車穴熊に対し分が悪いと見られていた四間飛車穴熊を連続採用して平成22年(2010年)に王位を奪取し、一大フィーバーを巻き起こすなど状況は常に流動的である。この年、184局中64局が四間飛車穴熊だった。ここ数年は、20から35パーセントが四間飛車穴熊で、美濃囲いが減った分、穴熊割合が増加している。序盤早々に角交換をした後、四間飛車穴熊に移行する「レグスペ」戦法もプロアマ問わずよく指されている。

また、平成24年(2012年)頃から藤井猛を中心として、角交換四間飛車と呼ばれる角道を止めずに四間飛車に振る戦法も指されるようになってきている。"振り飛車には角交換"という格言に反し、かつ手損が多いため主役の座にはなかなか至らなかったが、第53期王位戦で挑戦者の藤井が羽生善治相手に何度も採用し、ほとんどの対局で序盤の段階で優勢になったことなどから、後に羽生自身も王座戦で採用したりと、その優秀性が認められつつある。

平成元年度(1989年)から平成23年度(2011年)にかけての戦績としては、四間飛車全体では四間飛車先手で2586勝(3152敗)、四間飛車後手で1694勝(1816敗)。戦法別では、居飛車舟囲い急戦▲5七銀型では四間飛車先手で427勝(429敗)、四間飛車後手で243勝(229敗)、右四間飛車では四間飛車先手で36勝(43敗)、四間飛車後手で60勝(65敗)、5筋位取りでは四間飛車先手で143勝(95敗)、四間飛車後手で49勝(26敗)、玉頭位取りでは四間飛車先手で87勝(126敗)、四間飛車後手で60勝(42敗)、左美濃では四間飛車先手で211勝(255敗)、四間飛車後手で153勝(168敗)、居飛車穴熊では四間飛車先手で227勝(441敗)、四間飛車後手で97勝(157敗)、松尾流穴熊では四間飛車先手で24勝(46敗)、四間飛車後手で9勝(19敗)となっている。

四間飛車の種別

[編集]
△ なし
987654321 
  
      
   
      
       
       
  
      
  
藤井システム
藤井猛考案。第24回升田幸三賞受賞。
立石流四間飛車
アマ強豪立石勝巳考案。第31回升田幸三賞特別賞受賞。
玉頭銀
左銀が相手の玉頭を狙う。
角交換四間飛車
大学将棋界で指されていたものを藤井猛が居飛車穴熊対策に大いに採用[5]。第40回升田幸三賞受賞。
レグスペ
「白色レグホン・スペシャル」の略。角交換振り飛車で穴熊を指す。
耀龍四間飛車
大橋貴洸考案。第48回升田幸三賞受賞。
魔界四間飛車
左金を7六に移動させ、7筋の位を取る指し方。

脚注

[編集]
  1. ^ Kawasaki, Tomohide (2013). HIDETCHI Japanese-English SHOGI Dictionary. Nekomado. p. 44. ISBN 9784905225089 
  2. ^ 『中原の四間飛車で勝つ』 中原誠、池田書店、1982年2月、ISBN 978-4-262-10209-2
  3. ^ asahi.com(朝日新聞社):藤井システム、崩壊の危機 四間飛車採用の対局急減 - 将棋(2008年9月9日)
  4. ^ 週刊将棋』2008年8月6日、7ページ。
  5. ^ 上野 2014, p. 4-6.

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]