尾張徳川家
尾張徳川家 | |
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尾州中納言葵[1] | |
本姓 | 称・清和源氏 |
家祖 | 徳川義直 |
種別 |
武家 華族(侯爵) |
出身地 |
摂津国 山城国 |
主な根拠地 |
尾張国 東京府 |
著名な人物 |
徳川宗春 徳川慶勝 |
支流、分家 |
高須(四谷)松平家(武家・子爵) 徳川義恕家(男爵) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
尾張徳川家(おわりとくがわけ)もしくは尾州徳川家(びしゅうとくがわけ)は、清和源氏と称する徳川氏の支流である武家・華族だった家。江戸期に徳川将軍家の分家御三家の筆頭として名古屋藩主を世襲し、諸大名の中で最高の格式(家格)を有したが、当主から将軍はでなかった。尾張大納言家、単に尾張家、尾州家ともいった。明治維新後、侯爵家に列した[2]。
歴史
[編集]江戸時代
[編集]徳川家康の九男・徳川義直を家祖とする。義直は慶長8年(1603年)に家康から甲斐国に封じられるが、甲斐統治は甲府城代・平岩親吉によって担われており、義直自身は在国せず駿府城に在城した。元服後の慶長11年(1606年)に義直は、兄・松平忠吉の遺跡を継ぐ形で尾張国清須に移封された。その際に家臣団が編制され、尾張徳川家は江戸時代を通じて名古屋藩を治めた。
徳川将軍家に跡継ぎがないときは他の御三家とともに後嗣を出す資格を有したが、7代将軍の徳川家継没後、紀伊徳川家出身の徳川吉宗が尾張家の徳川継友を制して8代将軍に就任した。その後は御三卿が創設されたり、御三卿の系統が名古屋藩主になった影響もあって、尾張家や義直の直系子孫からは結局将軍を出せなかった。藩祖・義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として、代々伝えてきた勤皇家の家であった。
尾張徳川家の支系(御連枝)として、2代・光友の庶子が分家して創始した3家がある。陸奥国梁川藩を治めた梁川松平家(大窪松平家)、美濃国高須藩を治めた高須松平家(四谷松平家)、1万石を内分分知された川田窪松平家である。梁川家4代の松平通春が尾張家を継ぎ(7代・徳川宗春)、川田窪家2代の松平友淳(のちの尾張家8代・徳川宗勝)が高須家を継いだことで、川田窪・梁川両家は断絶し、高須家のみ長く続いている。
しかし寛政11年(1799年)に尾張家で、享和元年(1801年)には高須家で、義直の男系子孫は断絶し[注 1]、19世紀以降の尾張家は養子相続を繰り返して現在に至っている。第10代・斉朝[注 2]から第13代・慶臧まで吉宗(一橋徳川家・宗尹)の血統の養子が藩主に押し付けられたが、これに反発した尾張派は第14代・慶勝(慶恕)[注 3]を高須家から迎えることに成功し、幕府からの干渉を弱めた。
慶勝は安政5年(1858年)に大老井伊直弼と対立して安政の大獄により隠居謹慎を命じられた。井伊暗殺後に復権して第一次長州征伐の征長総督となったが、乗り気ではなく再征には反対した。明治維新後には新政府の議定を務めた[3]。続く戊辰戦争に名古屋藩軍は官軍として従軍し、戦勝後の明治2年(1869年)には軍功により慶勝に賞典禄1万5000石が永世下賜された[4]。
明治以降
[編集]同年の版籍奉還によって、第16代・徳川徳成(義宜)は名古屋藩知事に転じるとともに華族に列した[6]。
版籍奉還の際に定められた家禄は現米で2万6907石[7][注 4]。明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき家禄および賞典禄(実額3750石)の合計3万657石と引き換えに支給された金禄公債の額は73万8326円8銭5厘の巨額に及び、華族受給者5位の金額だった[注 5][10][6]。
その莫大な資産のうち約43万円を第15国立銀行に出資して配当金を再投資し、また士族授産のため北海道・遊楽部原野の土地を開拓して八雲町を拓くなどして、維新後も高い政治的・経済的地位を維持した[11]。
明治前期の頃の当主である第18代・義礼の代の本邸は、東京市本所区横綱町にあった。当時の家令は間島冬道、小瀬新太郎、家扶は井上喬、土岐長久、吉田知行、大津直行だった[12]。この邸宅は明治11年(1878年)に大原家から購入して相吉町から引っ越して本邸としていた邸宅である(後に名古屋に引っ越した後に徳川義恕男爵に譲渡している)[13]。
明治17年(1884年)7月7日の華族令公布で華族が五爵制になったが、爵位の基準を定める叙爵内規は侯爵位について「旧清華家 徳川旧三家 旧大藩知事即チ現米拾五万石以上 旧琉球藩王 国家二勲功アル者」と定めており、これに基づき義礼は侯爵に叙せられた。また分家の徳川義恕も父慶勝の維新の功績により男爵に叙された[14]。
明治25年(1892年)になると、義礼は東京本所区横綱町から名古屋市東区大曽根(現在の徳川園)に本邸を移して名古屋へ移住[15]、明治33年(1900年)に明倫中学校を開設、家財の保存に努めるなどした[16][17]。
また義礼は明治20年(1887年)以降に北海道に個人農場を所有して大農場主となり、北海道山越郡八雲町に別荘を所有した[18]。さらに明治24年(1891年)には神奈川県大磯町(明治28年(1895年)に義恕に譲渡)、明治22年(1889年)には栃木県日光原町(明治30年(1897年)売却)にも別荘を建設[19]。
明治31年(1898年)当時、尾張徳川家の所得は約11万6千円で、所得番付の12位、華族の中で第7位だった(同)。なお、財務収支の改善は明治23年(1890年)から同家の御相談人となった加藤高明によるところが大きく、それ以前は収支がトントンだったが、加藤によって収支が大幅に改善し、資産が3倍から10倍になった、とされている[20]。
大正10年(1921年)には神奈川県鎌倉、大正13年(1924年)には長野県軽井沢に別荘を建設している[21]。
第19代・義親のとき、尾張家の事務所(1913年)と本籍(1920年)を名古屋から東京[22]へ移し、1910年代以降、明倫中学校を愛知県に譲渡、什器を競売に出し、墓地を集約するなどして名古屋の施設・什器などの整理を進め、建物や所有地を大々的に処分した[23]。その旧蔵品の一部は『徳川将軍家御三家御三卿旧蔵品総覧』(宮帯出版社)に編集・収録されている。義親は1931年(昭和6年)に財団法人尾張徳川黎明会を設立し、処分した什宝の売却益などにより[24]大曽根の義礼邸跡地に徳川美術館、目白に蓬左文庫・徳川生物学研究所を開設した[25]。
戦後、昭和21年(1946年)に義親が戦争協力者として公職追放にあい、昭和22年(1947年)に華族制度廃止により爵位を喪失した[26]。また、財産税の適用により資産の約8割を喪失[26]、保有していた南満州鉄道の株券が無価値になり[27]、八雲町の徳川農場は農地法の適用を受け、一部の山林を残して解放された[28]。
これにより巨万の富を失った尾張徳川家は、財政難のため目白の邸宅を西武に売却[29]、蓬左文庫は昭和25年(1950年)に藩政資料などを徳川林政史研究所に残して名古屋市に売却され、徳川生物学研究所は昭和45年(1970年)に閉鎖、施設はヤクルトに売却された[30][31][32]。
平成28年(2016年)現在、公益財団法人徳川黎明会が徳川美術館と徳川林政史研究所を運営[33]、株式会社八雲産業が目白の邸宅跡地に建設された外国人居留者向けの賃貸住宅と八雲町に残された山林を運営しており[34][35][36]、尾張家の当主は黎明会会長、美術館館長、八雲産業社長に就任している[37][38]。
歴代当主と後嗣たち
[編集]- 初代(藩主) 徳川義直 - 敬公
- 光友(2代)
- 2代(藩主) 徳川光友 - 正公
- 3代(藩主) 徳川綱誠 - 誠公
- 4代(藩主) 徳川吉通 - 立公
- 五郎太(5代)
- 5代(藩主) 徳川五郎太 - 誉公
- (実子なし)
- 6代(藩主) 徳川継友(3代藩主綱誠の子) - 曜公
- (実子なし)
- 7代(藩主) 徳川宗春(3代藩主綱誠の子) - 逞公
- (実子なし)
- 8代(藩主) 徳川宗勝(支藩高須藩3代藩主から襲封、名古屋藩2代藩主光友の孫) - 戴公
- 9代(藩主) 徳川宗睦 - 明公
- 10代(藩主) 徳川斉朝(一橋徳川家から養子) - 順公
- (実子なし)
- 11代(藩主) 徳川斉温(徳川将軍家から養子、11代将軍徳川家斉の実子) - 僖公
- (実子なし)
- 12代(藩主) 徳川斉荘(田安徳川家から養子、11代将軍徳川家斉の実子) - 懿公
- 昌丸(一橋徳川家8代当主、夭折)
- 13代(藩主) 徳川慶臧(田安徳川家から養子)- 欽公
- (実子なし)
- 14代(藩主) 徳川慶勝(初め慶恕/支藩高須藩から養子、水戸藩6代藩主徳川治保の曾孫)- 文公
- 義宜(16代)
- 15代(藩主) 徳川茂徳(支藩高須藩11代藩主から襲封、14代慶勝の実弟、のち一橋徳川家10代茂栄)
- 16代(藩主) 徳川義宜(養子、14代慶勝の実子) - 靖公
- (実子なし)
- 17代 徳川慶勝(14代慶勝の再勤)- 文公
尾張徳川侯爵家
[編集]当主
[編集]- 18代(侯爵) 徳川義礼(高松松平家から養子、夫人は17代慶勝の娘)
- 19代(侯爵) 徳川義親(越前松平家から養子、夫人は18代義礼の娘)
- 20代 徳川義知(義親の長男。終戦を期に家督を継承[39]、1947年5月、華族制度廃止により爵位喪失[29])
御相談人会
[編集]尾張徳川家との旧臣関係による家政の顧問会[40]。1908年に19代・義親が家督を相続したときには田中不二麿を御相談人長とし、加藤高明、永井久一郎、成瀬正雄、中村修、横井時儀、片桐助作の6人が御相談人となっていた[41][40]。のちに八代六郎、渡辺錠太郎、大角岑生、松井石根ら陸海軍の将校が御相談人となった[40]。
御相談人長
[編集]御相談人
[編集]- 加藤高明:1890年 - 1926在任[20]。
- 永井久一郎:1890年12月 - 1913年在任[43]
- 成瀬正雄[41]
- 中村修[41]
- 横井時儀[41]
- 片桐助作:1903年 - 1915年在任[44][45]
- 堀鉞之丞:1908年10月30日 - 1914年4月30日在任[46]。
- 海部昂蔵:1914年 - 在任[46]。
- 阪本釤之助:1920年 - 在任[43]
- 松井石根[40]
- 八代六郎[40]
- 渡辺錠太郎[40]
- 大角岑生[40]
- 佐藤鋼次郎[47]
- 間島弟彦[47]
家職
[編集]1908年に19代・義親が家督を相続したとき、東京(別邸)には家扶・水野正則以下3人、名古屋・大曽根の本邸に家令・海部昂蔵以下、家扶4人、家従8名が勤務していた[48]。
家令
[編集]家扶
[編集]戦後の尾張徳川宗家
[編集]系譜
[編集]凡例:太線は実子、破線は養子、太字は当主
義直1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光友2 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綱誠3 | (四谷) 松平義行 | (大窪) 松平義昌 | (川田窪) 松平友著 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉通4 | 松平通顕 (継友) | 松平義孝 | 松平通温 | 松平通春 (宗春) | 松平義孝 | 松平武雅 | 松平義方 | 松平友淳 (宗勝) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
五郎太5 | 松平義淳 (宗勝) | 松平義真 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
継友6 | 松平通春 (宗春) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗春7 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗勝は宗春の養子にはならず、藩領は一旦収公ののち宗勝に下す形がとられた。
宗勝8 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗睦9 | (四谷) 松平義敏 | 松平義当 | 竹腰勝起 | 井上正国 | 内藤頼多 | 内藤政脩 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
治休 | 治興 | 治行 | 斉朝10 [注 6] | 松平義柄 (治行) | 松平義裕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉温11 [注 6] | 松平義当 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉荘12 [注 6] | 松平義居 [注 6] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
慶臧13 [注 6] | 松平義和 [注 3] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
慶恕14/慶勝17 | 松平義質 | 松平義建 | 松平容敬 | 遠藤胤昌 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
茂徳15 | 義礼18 | 徳成 (義宜) | 義恕 | 慶恕 (慶勝) | 松平武成 | 松平義比 (茂徳) | 松平容保 | 松平定敬 | 松平義勇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平義端 | 達道 | 義宜16 | 義親19 | 義寛 | 津軽義孝 | 義忠 | 義恭 | 松平義端 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義知20 | 大給義龍 | 松平義勇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義宣21 | 松平義生 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義崇22 | 松平義為 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平義明 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
関連寺院
[編集]尾張徳川家の別荘
[編集]- 小牧御殿(愛知県小牧市)
- 坂下御殿(愛知県春日井市)
- 朝宮御殿(愛知県春日井市)
- 横須賀御殿(愛知県東海市高横須賀町御亭) - 徳川光友が寛文6年(1669年)に建てた別荘。臨江亭ともいった。光友没後の正徳5年(1715年)に取り壊されたが、その70年後の天明5年(1785年)に、新しく横須賀代官所が置かれた。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 他家へ養子入りした男系子孫までたどると、8代藩主宗勝の子で尾張藩付家老竹腰家へ養子に入った竹腰勝起を経て高岡藩井上家、櫛羅藩永井家へと血統が連なり、永井家の血統は現在も存続している。
- ^ 斉朝は母方の高祖母が4代吉通の長女信受院であるため、義直の血を引いている。
- ^ a b 高須藩9代藩主松平義和は水戸徳川家の6代徳川治保の次男である。義和の相続で高須家から、その孫の慶勝の相続で尾張家から、一橋系の血統は排されたが、義直の男系血統が復活したわけではない。
- ^ 明治2年(1869年)6月17日の版籍奉還時、藩財政と藩知事の個人財産の分離のため、藩の実収入(現米)の10分の1をもって藩知事個人の家禄と定められた[8]。
- ^ 1位島津公爵家132万2845円、2位前田侯爵家119万4077円、3位毛利公爵家110万7755円、4位細川侯爵家78万280円に次ぐ[9]。
- ^ a b c d e 斉朝から慶臧まで、および松平義居の血統上の系譜。ちなみに、斉荘は尾張家以前に斉匡の跡を継いで田安家当主となっていた。
(一橋)
治済(将軍)
家斉治国 (田安)
斉匡松平義居 斉荘 斉温 斉朝 慶臧
出典
[編集]- ^ 「紋章・マーク・シンボル」野ばら社。
- ^ 小田部雄次 2006, p. 323.
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『尾張藩』 - コトバンク
- ^ 新田完三 1984, p. 619.
- ^ “八ヶ岳高原ヒュッテ”. 八ヶ岳高原ロッジ. 2023年6月7日閲覧。
- ^ a b 小田部 1988, pp. 39–41.
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 19.
- ^ 刑部芳則 2014, p. 107.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 62.
- ^ 石川健次郎 1972, p. 36.
- ^ 小田部 (1988, pp. 39–41)
- ^ 石井孝太郎『国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑』深沢堅二、1881年(明治14年) 。
- ^ 青木信夫 1996, p. 第II部.III.5.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 344.
- ^ 青木信夫 1996, p. 第II部.III.2/5.
- ^ 香山 2015, p. 30.
- ^ 香山 2014, pp. 17–18, 28.
- ^ 青木信夫 1996, p. 第I部IV.3、第II部.III.5.
- ^ 青木信夫 1996, p. 第I部IV.3、第II部.III.6.
- ^ a b c 小田部 1988, pp. 42–43.
- ^ 青木信夫 1996, p. 第II部.III.8.
- ^ 麻布区富士見町、1932年から豊島区目白(香山 2016, pp. 124–125)
- ^ 香山 2015, pp. 3, 27–28, 30–32.
- ^ 香山 2015, p. 36.
- ^ 香山 2016, p. 121.
- ^ a b 小田部 1988, pp. 209–210.
- ^ 徳川 1963, p. 146.
- ^ 徳川 1963, pp. 110, 146.
- ^ a b 小田部 1988, p. 209.
- ^ 科学朝日 著、科学朝日 編『殿様生物学の系譜』朝日新聞社、1991年、200頁。ISBN 4022595213。
- ^ 中村, 輝子、増田, 芳雄「山口清三郎博士の戦中日記」『人間環境科学』第5巻、帝塚山大学、1996年、89頁、NAID 110000481506。
- ^ 小田部 1988, p. 29.
- ^ 徳川黎明会 (2016b). “公益財団法人徳川黎明会”. 公益財団法人徳川黎明会(総務部). 2016年9月29日閲覧。
- ^ 八雲産業 (2016年). “Tokugawa dormitory トップページ > 徳川ドーミトリーとは”. YAKUMO SANGYO CO.,LTD.. 2016年10月27日閲覧。
- ^ 八雲産業 (2015年). “Tokugawa Village トップページ > 徳川ビレッジとは”. Yakumo Sangyo Co., Ltd.. 2016年10月27日閲覧。
- ^ 小田部 1988, pp. 40–41.
- ^ 八雲産業 2016.
- ^ 徳川黎明会 (4 July 2016). 平成27年度事業報告書 (PDF) (Report). 公益財団法人徳川黎明会. 2016年9月29日閲覧。
- ^ 徳川 1963, p. 148.
- ^ a b c d e f g h 小田部 1988, p. 42.
- ^ a b c d e 香山 2014, pp. 2–3.
- ^ a b 香山 2016, p. 104.
- ^ a b 香山 2016, p. 122.
- ^ 香山 2015, p. 27.
- ^ 香山 2014, pp. 2–3, 25.
- ^ a b c d 香山 2015, p. 1.
- ^ a b 香山 2015, p. 33.
- ^ a b 香山 2014, p. 3.
- ^ 香山 2016, p. 103.
参考文献
[編集]- 青木信夫『日本近代における皇族・華族邸宅の成立と展開に関する歴史的研究』1996年(平成8年)。ISBN 978-4642014724 。
- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。
- 石川健次郎「明治前期における華族の銀行投資―第15国立銀行の場合―」『大阪大学経済学』第22号、大阪大学経済学部研究科、1972年、27 - 82頁。
- 刑部芳則『京都に残った公家たち: 華族の近代』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー385〉、2014年(平成26年)。ISBN 978-4642057851。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『昭和新修華族家系大成 別巻 華族制度資料集』霞会館、1985年(昭和60年)。ISBN 978-4642035859。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036719。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
尾張徳川侯爵家関連
[編集]- 香山, 里絵「「尾張徳川美術館」設計懸賞」(pdf)『金鯱叢書』第43巻、徳川美術館、2016年3月、103-131頁、ISSN 2188-7594、2016年10月3日閲覧。
- 香山, 里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」(pdf)『金鯱叢書』第42巻、徳川美術館、2015年3月、27-41頁、ISSN 2188-7594、2016年10月3日閲覧。
- 香山, 里絵「徳川義親の美術館設立想起」(pdf)『金鯱叢書』第41巻、徳川美術館、2014年3月、1-29頁、ISSN 2188-7594、2016年10月3日閲覧。
- 小田部, 雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年。ISBN 4250880192。
- 徳川, 義親 著「私の履歴書‐徳川義親」、日本経済新聞社 編『私の履歴書』 文化人 16、日本経済新聞社、1984年(原著1963年12月)、85-151頁。全国書誌番号:73011083。
- 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 尾張徳川家について - 徳川美術館
- 『尾張徳川家』 - コトバンク
- 徳川美術館 公式サイト
- (財)徳川黎明会 公式サイト
- 八雲産業株式会社 公式サイト