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山本勝巳 (レーサー)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山本 勝巳(やまもと かつみ、1973年3月5日 - )は、福岡県博多区出身(生まれは静岡県菊川町[1])の元レーシングドライバーである。西南学院高等学校卒業、西南学院大学経済学部国際経済専攻中退[1]

略歴

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デビュー

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カートでレースを始め、1992年FJ1600に参戦。またこの年には、テレビ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の企画「めざせ!ポールポジション」に参加。その中には土屋武士もいた。

F3/F3000

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1993年に、全日本F3選手権に参戦。1994年にはチームWTSよりドイツF3選手権Bクラスに参戦[2]

1995年より全日本F3000選手権に参戦。第5戦の菅生で2位表彰台を獲得。なお、このレースは1位が高木虎之介(初優勝・当時21歳)、2位が山本(当時22歳)、3位が中野信治(当時24歳)と当時20代前半の3人がレースを盛り上げ、星野一義鈴木利男などベテラン中心であった国内レース界において新時代の到来を予感させた。

F1

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同年のパシフィックGP英田)と日本GP鈴鹿)に新進チームの「パシフィック」より参戦することとなったが、海外のトップフォーミュラにおける実績がなかったことから、経験不足等を理由にスーパーライセンスが発給されず[3]、参戦を断念した。なお、パシフィックGPの前にイギリスのシルバーストーン・サーキットでテスト走行をした際、パシフィックチームのマネージャーであるマーク・ギャラハーは「思っていたよりずっと優秀なドライバーだった。ラバッジモンテルミーニよりはるかに速かったし、我々の指示を的確に守っていた」と語り、山本のドライビングを高く評価していた[4]

FN/JGTC

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1996年は全日本F3000を引き継いだフォーミュラ・ニッポン童夢より参戦。1997年には、フォーミュラ・ニッポンと全日本GT選手権(現・SUPER GT)のGT500に童夢よりフル参戦。

1998年は全日本GT選手権に参戦するも、5戦に出走して脇阪寿一と交代。最終戦の菅生にGT300でRACING PROJECT BANDOHよりスポット参戦するに止まり、このレースを最後にレース活動を休止。現在は故郷に戻り家業に就いている。

レース戦績

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  • 1991年 - カートSL福岡シリーズA2クラスチャンピオン
  • 1992年 - 関西や九州のFJ1600(8戦3PP)
  • 1993年 - 全日本F3選手権(Katsumi Yamamoto #45 ダラーラF393・無限MF204)
  • 1994年 - ドイツF3選手権Bクラス(ダラーラF393・オペル) (総合26位・クラス8位・最速ラップ1回)
  • 1995年 - 全日本F3000選手権(X-JAPAN Le Mans #25 レイナード95D・無限MF308)(シリーズ9位)
  • 1996年 - フォーミュラ・ニッポン(TEAM ANABUKI 童夢 with 無限 #2 童夢F104i・無限MF308)(シリーズ17位)
  • 1997年
    • フォーミュラ・ニッポン(NAVI CONNECTION RACING #28 レイナード97D・無限MF308)
    • 全日本GT選手権・GT500クラス<Rd.2 - 6>(無限X童夢PROJECT #18 avex童夢無限NSX)(シリーズ16位)
  • 1998年
    • 全日本GT選手権・GT500クラス<Rd.1 - 5>(無限X童夢PROJECT #18 TAKATA童夢無限NSX)(シリーズ15位)
    • 全日本GT選手権・GT300クラス<Rd.7>(RACING PROJECT BANDOH #19 ウエッズスポーツセリカ)(シリーズ19位)

全日本F3選手権

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チーム エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
1993年 Katsumi Yamamoto 無限 SUZ
10
TSU
10
FSW
16
SUZ
Ret
SEN
13
TAI
14
MIN SUG
Ret
SUZ
Ret
SUZ
8
NC 0

全日本F3000選手権/フォーミュラ・ニッポン

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チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
1995年 X-JAPAN RACING TEAM SUZ
Ret
FSW
C
MIN
4
SUZ
Ret
SUG
2
FSW
Ret
TOK
Ret
FSW
8
SUZ
Ret
9位 9
1996年 TEAM ANABUKI 童夢 with 無限 SUZ
9
MIN
Ret
FSW
10
TOK
Ret
SUZ
Ret
SUG
6
FSW
Ret
MIN
14
SUZ
Ret
FSW
Ret
17位 1
1997年 NAVI CONNECTION RACING TEAM SUZ
10
MIN
Ret
FSW
Ret
SUZ
9
SUG
Ret
FSW
12
MIN
Ret
TRM
14
FSW
7
SUZ
Ret
NC 0

全日本GT選手権

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チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 順位 ポイント
1997年 無限×童夢 プロジェクト ホンダ・NSX GT500 SUZ FSW
Ret
SEN
Ret
FSW
Ret
MIN
8
SUG
5
16位 11
1998年 GT500 SUZ
Ret
FSW
C
SEN
Ret
FSW
4
TRM
Ret
15位 10
RACING PROJECT BANDOH トヨタ・セリカ GT300 MIN SUG
3
19位 12

人物

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  • レースとの関わりは、ゴーカートがきっかけである。遊園地のゴーカートを好きになった山本が、小1の時に父からカートレースの存在を教えられ、中3の時に9年越しの貯金でカートを購入した[1]
  • 高校の頃、ヨット部に入り国体強化選手になっている。しかし、カートに専念するためにヨットを断念した。
  • 1992年にFJ1600にデビューした際、父も一緒にFJ1600にデビューを果たしている[2]
  • 1994年にドイツF3選手権Bクラスに参戦した際 チームWTSを選んだ理由として、「チャンピオンチームである事と、チームを率いるウィリー・ウェーバー[5]の優秀なマネージメント能力とF1関係者の強いコネクション」だとしている[2]
  • 1995年8月4日放送のテレビ番組『とんねるずのハンマープライス』で、全日本F3000選手権開幕戦・鈴鹿でレース中にクラッシュして大破したマシンのコックピット及びパーツの一部と、第8戦・富士でチームのオリジナルジャンパーを着用してピット内でレース観戦できる権がオークションにかけられ、111万円で落札された。
  • 1995年10月半ばにF1パシフィックのテストに参加。パシフィックGP英田)と日本GP鈴鹿)へのスポット参戦を目指したが、スーパーライセンスは発給されず参戦は叶わなかった[3]

脚注

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  1. ^ a b c AUTOSPORT 1995年8/15号 レーシングドライバー徹底解剖
  2. ^ a b c AUTOSPORT 1994年9/15号 14頁より
  3. ^ a b 「F1グランプリ特集12月号」 vol.78 、p.19、ソニーマガジンズ、1995年。
  4. ^ 『日本の名レース100選 059 '95F1パシフィックGP』三栄書房、2010年、P.67頁。ISBN 9784779609152 
  5. ^ 彼のチームに所属したミハエル・シューマッハペドロ・ラミーヨス・フェルスタッペンがドイツF3チャンピオンに輝いており、シューマッハとラミーはF1昇格後も彼のマネージメントを受けていた。

関連項目

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