二五穴
二五穴(にごあな[1]:1[2][3])は、千葉県中部に存在するトンネル状の灌漑システムのことである。
名称は、そのトンネルの大きさが「二尺五尺(幅約60cm、高さ約150cm)」であることに由来する[4]:258[5]:3[6]:3。
令和6年3月、千葉県立現代産業科学館が選定する「伝えたい千葉の産業技術100選」に登録第81号 「房総の二五穴(にごあな)群」として登録された[7]。
構造
[編集]西谷, 島立 & 大久保 (2014)によると、二五穴は以下の要素から成り立っているとする[4]:300[注釈 1]。
- トンネル
- 窓穴
- 開渠
トンネルには、直線的なものと曲線的なものの二種類が存在し、直線的なものは丘陵内を通るものに、曲線的なものは山際において建設された。支保は用いられていない[4]:300が、久留里にて震度5弱が観測された東北地方太平洋沖地震においても崩落した箇所は認められなかった[4]:304。
窓穴はトンネルから外部に向けて掘られた穴である[4]:305。開削を行った際には残土の運び出しのために、開削後においては清掃のために用いられている。窓穴には羽目板が設置されており、羽目板を外したうえで水をごみと共に流し、ある程度時間がたったのちに再び羽目板を戻したうえで、より下流に存在する羽目板を外すことを繰り返すことで、清掃がなされている。二五穴の一つである「蔵玉・折木沢用水」においては10日を費やし、2月半ばから3月にかけてこれを行う。このことは「水をつれていく」と表現される。一部に羽目板がなされていないものがあるが、これは単に「穴」と呼称されている[4]:300-301。
開渠は現在では主にコンクリート製の三面水路が使われており、太平洋戦争以前は素掘り水路であった。小河川を通過する際には掛樋や逆サイフォンが用いられている。1970年(昭和45年)7月1日の水害においては、掛樋と比較して逆サイフォンの被害が少なかったことから、逆サイフォンの利用が増加した[4]:300。
二五穴の例
[編集]蔵玉・折木沢用水
[編集]蔵玉・折木沢用水は上総層群黄和田層に建設された二五穴であり、先述の1970年7月1日の水害にも開口部の修復のみで復旧した。明治時代には「亀山村蔵玉台普通水利組合」が管理しており、土地改良法に基づき1952年に組織変更した「亀山村蔵玉台土地改良区」によって管理が行われている[9]:313。
上田 et al. (2014)によると、トンネルのうち直線的なものが3400m、曲線的なものが1300m存在し、上田 et al. (2014)の調査範囲内では73%を占めることが明らかとなった。また取水口と用水の末端との比高は7mであり、勾配はおよそ1/900であることが導き出された[9]:314。
蔵玉・折木沢用水は平山用水が完成した8年後である1844年(天保15年)から計画が存在し、1852年(嘉永5年)11月には役人の見分が行われていた。同月に川越藩の三本松役所(代官所)へ、坂畑村・折木沢村・釜生村・蔵玉村の各地主惣代及び組頭が提出した文書の「蔵玉用水願書」によると、この用水は山間のため田畑が少なく、また干ばつが続いたため、建設を求めたとされる[10]:324。
龜山村藏玉の人にして寛政十年戊午年生る、同郷の人朝生仁兵衛及釜生の手島長治折木澤の嶋田八郎右衛門、鴇田彌兵衛、坂畑の神作重兵衛と相謀りて藏玉、釜生、折木澤、坂畑間の用水路延長四千百〇四間を開鑿布設し、工費金五百六拾八両餘を投じて嘉永六年五月新田拾四町二段七畝歩の開墾を竣成せり、功を以て川越藩より苗字御免となる、翌七年六月金百兩廳に献し尋て藩の浮組に召抱へられ出仕す、安政六年十月一月歿す、年六十二。 — 君津郡教育会、君津郡教育会 (1927, p. 469)
朝生家は蔵玉村の組頭であり、朝生惣右衛門は発起人の一人であり中心人物でもあった[10]:322。1927年に作成された「千葉県君津郡誌」では上記のように記されている[11]:469。朝生惣右衛門は建設費用として各々の村から支払われた630両のうち350両を負担したとされる[10]:325。しかし、完成後7年間は年貢を免除されており、島立, 西谷 & 大久保 (2014)はこの期間でその費用を回収したと指摘している[10]:327。
平山用水
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平山用水開墾絵馬 大原神社蔵 | |
平山用水開墾絵馬 |
平山用水は二五穴の一つであり、1836年に完成した[1]:1小櫃川上流の水路である[12]:3。亀山湖から君津市平山地区へ水を導くものであり、21か月にわたる工事には延べ39000人が参加したといわれる。平山用水開墾絵馬(久留里城址資料館展示)によると、農業用水不足に起因する困窮を原因として事業が開始された[1]:1。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 山本浩輔「トンネル用水路「二五穴」 君津で22日講演会 千葉」『産経新聞』2014年6月11日。オリジナルの2021年3月13日時点におけるアーカイブ。2021年3月13日閲覧。
- ^ ミツカン水の文化センター. “丘陵地を水田にした熱意の結晶「二五穴」”. 里山文化塾. 2020年8月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月13日閲覧。
- ^ 「田を潤す先人の遺産 巧みな地形利用に注目も 住民が守るトンネル用水路 君津の「二五穴」 【地方発ワイド】」『千葉日報』2014年7月22日。オリジナルの2021年3月14日時点におけるアーカイブ。2021年3月14日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 西谷大、島立理子、大久保悟「共同研究「日本の中山間地域における人と自然の文化誌」中間報告:二五穴からみた水利用」『国立歴史民俗博物館研究報告』第186巻、国立歴史民俗博物館、2014年3月26日、295-309頁、doi:10.15024/00002127、ISSN 0286-7400、2021年3月13日閲覧。
- ^ 内田順子、西谷大、島立理子『二五穴-水と米を巡る人びとの過去・現在・未来-』(PDF) 13巻、国立歴史民俗博物館〈歴博映像フォーラム〉、2019年3月2日。ISBN 978-4-909293-09-1。 NCID BB27951988。OCLC 1133197564。国立国会図書館書誌ID:029545740 全国書誌番号:23180064。オリジナルの2019年8月21日時点におけるアーカイブ 。2021年3月13日閲覧。
- ^ 西谷大(インタビュー)「雲南の棚田と蔵玉の二五穴」『国立歴史民俗博物館』。オリジナルの2018年8月19日時点におけるアーカイブ 。2021年3月14日閲覧。
- ^ 千葉県. “「伝えたい千葉の産業技術100選」に新たに6件を選定”. 千葉県. 2024年6月14日閲覧。
- ^ “君津市の安政6年の「道中日記帳」(朝生家文書)が見たい。最新『君津市史』など市の刊行物で翻刻ないし内容紹介されていないだろうか。”. 国立国会図書館 (2009年4月7日). 2021年3月20日閲覧。
- ^ a b 上田大斗、大久保悟、島立理子、西谷大「共同研究「日本の中山間地域における人と自然の文化誌」中間報告 : 蔵玉・折木沢用水の立地と水田耕作の関係」『国立歴史民俗博物館研究報告』第186巻、国立歴史民俗博物館、2014年3月26日、311-319頁、doi:10.15024/00002128、ISSN 0286-7400、2021年3月20日閲覧。
- ^ a b c d 島立理子、西谷大、大久保悟「共同研究「日本の中山間地域における人と自然の文化誌」中間報告 : 記録からみる蔵玉・折木沢用水の開削」『国立歴史民俗博物館研究報告』第186巻、国立歴史民俗博物館、2014年3月26日、321-335頁、doi:10.15024/00002133、ISSN 0286-7400、2021年3月20日閲覧。
- ^ 千葉県君津郡教育会 編『千葉県君津郡誌』 下、君津郡教育会、1927年。doi:10.11501/1190758。国立国会図書館書誌ID:000000760881 全国書誌番号:47007189 。2021年3月20日閲覧。
- ^ 「伝統的技術の再発見」『農業土木学会誌』第59巻第12号、農業農村工学会、1991年、late1-plate4、doi:10.11408/jjsidre1965.59.12_plate1、ISSN 0369-5123、NAID 130004753778。
関連項目
[編集]- 川廻し - 千葉県上総地方においてみられる河川を短絡させ、旧河道を水田として活用する工法。またその土地。
- 上総掘り - 明治時代に上総地方において開発された井戸の建設方法。
- 亀山ダム - 小櫃川に所在するダム。