平山訓子
ひらやま おしえ 平山 訓 | |
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晩年の 1924年(大正13年)新宿有明堂にて | |
生誕 |
蔵原 訓(くらはら おしえ) 1882年12月20日 日本・ 熊本県下益城郡小川町大字東小川1081番地(現・宇城市) |
死没 | 1925年5月1日、享年44(満42歳没) |
別名 |
平山 訓子(ひらやま おしえこ) 平山 をしへ子 |
職業 | ジャーナリスト(熊本の女性初)、文筆家、歌人、実業家 |
平山 訓子(ひらやま おしえこ、1882年12月20日 - 1925年5月1日)[注釈 1]は、女性ジャーナリスト、文筆家、歌人、実業家。
本名は平山 訓(ひらやま おしえ)、旧姓蔵原、元和歌山県知事で衆議院議員の蔵原敏捷は実弟である[5]。
生涯
[編集]熊本県下益城郡小川町(現・宇城市)出身[6]、父・蔵原
1900年3月、熊本女学校[注釈 10]を卒業[7]。翌1901年、徳島県出身(生まれは東京府)[注釈 12]の平山八十五郎[注釈 18]と結婚、一児をもうけるが、1903年5月、夫八十五郎が米国スタンフォード大学留学中に客死[注釈 32]したため、同年9月、幼子を実家に預け[注釈 33]、九州日日新聞社(のち、熊本日日新聞社に社名変更)に入社した[5][注釈 34]。熊本の女性記者第一号として活動する[6][37][5]。「戦争と婦人」「回春病院の半日」など数多の連載署名記事[注釈 39]を残し、1908年3月に退社した[5]。
のち、上京し[注釈 41]大日本婦人教育会の幹事として活動する[93][94][注釈 43]。その一環としてか、1912年2月には『名流大家の観たる理想の婦人及家庭』(実業之日本社)に、理想の婦人像について、大隈重信、津田梅子、蔵原惟郭など13名[注釈 44]の名流大家(教育者)の一人として執筆している[103] [注釈 50]。その間、「かげ草」[110]、「伯父さん」[111]、「おきのさん」[112]などの小説や『小公子』の翻訳[113]などの文筆活動を手がけた。
その傍ら事業活動もおこない、代々木に
1925年に発表した『歌集
「踊りつつ 吾はゆくなり
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「訓子」のふりがなは「おしえこ」[1][2][3]。国立国会図書館のNDLサーチでは、読みを「クニコ→オシエコ」に訂正している[4]。
- ^ 手嶋友喜(ともき)は、熊本女学校を1901年3月に卒業、さらに1年の補習科を経て札幌に戻り小学校教師を務めた後、1906年7月、有島武郎の友人で詩人・教育家の末光
績 [12]に嫁いだ[11][13]。末光績は、有島武郎の心中事件直後、友人とともに軽井沢へ急行し、すばやく遺体の処置をしたことでも知られている[12]。 - ^ 有島武郎の1897年9月26日(日)の日記に、札幌農学校の3期先輩[15]で、有島と同じ札幌基督教会会員[16]の肇を墓詣でしたことが記されていて、肇についてその才能を称賛し、次のように追悼している。「余、君と知なし。知なきにあらざるも相熟せず。元より其の交わりに於て疎し。疎しと雖も
豈 此の人の死を悲まざらん。人生才を齋 らして冥界の人となる悲惨の極と謂 つ可し。」[17]。また、同じ有島武郎の1901年6月18日の日記に「伊藤肇氏の紀念すべき其日も遠からずを思ひ」とあり[18]、「伊藤氏は札幌農學校の學生なり。苦學の人、聰慧 の人、勤勉の人、誠實の人、確信の人として衆の推す所となりしが、肺を病んで復た起たざりき。」[19]と述べている。肇は1897年6月18日、肺結核で死亡。墓は、札幌市郊外の豊平にあった[17]。 - ^ 伊藤肇は熊本女学校の教師を辞めて札幌農学校予科に編入し、1894年7月に予科を卒業、本科に進学するが、この時の同級生に、のちに訓子の夫となる平山八十五郎がいた[10]。肇は学業の傍ら、農学校の師である新渡戸稲造との縁で、稲造が創設した遠友夜学校の教師となるが、この時の教え子に末光(旧姓手嶋)ともき、という女生徒がいて、肇から熊本女学校の校風を聞いてあこがれ、夜学校を卒業後単身で訪熊し熊本女学校に入学する[11][注釈 2]。1898年4月のことで、不思議な偶然であるが、この時女学校には心臓病による2年間の休学から復学した訓子がいた[7]。また、これも不思議な縁であるが、三十数年後、八十五郎の息子・春海と、肇の姪・睦の結婚[14]によって、二人は1枚の家系図に名を連ねることになる。熊本と、遠く離れた北海道を舞台に、互いに縁もゆかりもなかった4人が織りなす奇跡であるが、当時の4人はそれを知る由もない。さらに...。札幌農学校予科の卒業名簿[10]に、◎印が付いた名がある。◎印は名簿作成時すでに死亡、という意味で、卒業者21名の中に二人いた。その二人が八十五郎と肇、悲しい奇跡とでもいうべきか。八十五郎は1903年5月1日米国で客死(後述)、肇は1897年の夏めく頃に亡くなっているようだ[11][注釈 3]。
- ^ 蔵原惟郭は肥後国阿蘇郡黒川村(現在の熊本県阿蘇市)の阿蘇蔵原家の出身で[22][23]、訓子の生家である小川蔵原家は阿蘇蔵原家の分家に当たり、その祖は
二辺塚 城主・蔵原志摩守惟長 (1490年 - 1560年)である[24]。小川蔵原家は阿蘇の名門・蔵原家をルーツとする旧家 であるが、いまは大きな屋敷跡の草におおわれた石垣だけが往時の栄華をしのばせている[5]。1909年発行の『富貴要鑑』に、訓子の父・蔵原穆の名がある[25]。『富貴要鑑』は前年の高額所得者をリストアップしたものでこの年のみ発行されているが、中でも穆はかなり上位の所得者で[25]、小川町長を2回務めている[26][27][28]。訓子の実弟・敏捷は、小川町きっての秀才で、東大を卒業後内務省に入り警察官僚を務めた後、和歌山県知事、衆議院議員などを歴任したが、太平洋戦争末期、滞在先の熊本市の旅館で米軍による空襲を受け、終戦まであと8日という時に亡くなっており、悲劇の代議士と呼ばれている[29][30][31]。前述の蔵原惟郭の妻は北里柴三郎の妹・しう、次男の惟人は評論家、甥に詩人の蔵原伸二郎(本名は惟賢 )、大甥に映画監督の蔵原惟繕や蔵原惟二がいる[22]。蔵原惟昶 は惟郭の従弟で伊藤博文の秘書官を務めたのち帰熊し、私財をもって豊肥線建設に尽力した人として知られている[22]。徳富蘇峰は生涯の友であった[22]。 - ^ 1891年、海老名弾正が去った後、当時スコットランドに留学中の蔵原惟郭[注釈 5]が帰朝し熊本女学校の校長となる[32]。しかし、若い惟郭には女学校の経営は難しかったようで、1895年、舎監の竹崎順子との確執から順子が退任させられたことに抗議して女生徒たちの多くが退学し、惟郭は女学校を去ることになる[32]。この退学者の中に、当時満年齢で12歳の訓子がいたが、訓子たちは退学したあとも宿舎を借りて授業を続け、惟郭が去った後に復学することになる[7]。4か月ほどの借家生活であった[7]。竹崎順子は舎監に復帰し、2年後、女学校の校長に就任する[21]。
- ^ 訓子が入学したのは、1894年4月[7]。入学当時、竹崎順子は舎監で、校長は蔵原
惟郭 、教諭に福田令寿、淵澤能恵[8][9]、渡瀬常吉、伊藤肇[注釈 4]などがいた[20]。竹崎順子の校長就任は1897年[21][注釈 6]。 - ^ 近代文献人名辞典には精子の経歴に「大江女学校卒」とあるが、精子が卒業した1898年当時の校名は「熊本女学校」で、「大江高等女学校」に改称したのは1921年[35]。
- ^ このエピソードは「近代肥後異風者伝」で紹介されたもの[37]。「近代肥後異風者伝」は熊本日日新聞朝刊に2001年4月から2010年3月まで連載され、幕末~昭和初期に活躍した熊本の85人を収録、のち10人を加えて書籍化され出版されている[38]。
- ^ 訓子が学んだ当時の校母は竹崎順子[注釈 7]。訓子は、師と仰ぐ順子先生の思い出を感謝の気持ちを込めて綴っている[33]。特に徳富健次郎 著『竹崎順子』[7]には、女学校に入学した1894年4月の出会いから、1905年1月、病床に見舞った時までの11年間の思い出を切々と綴っている。また、女学校時代の友人に野田タキノと野口
精子 [34][注釈 8]がいる。タキノは野田卯太郎の娘で松野鶴平に嫁ぐ[36]が、その仲をとりもったのが訓子である[注釈 9]。野口精子は歌人で『夕ばえ』[39]など多くの作品を残しているが、1921年8月の精子の予期せぬ死を悼み、訓子は月刊誌『新人』に追悼文を寄せている[40]。高群逸枝は訓子の後輩で、幼い頃、熊本の新聞社で活躍していた訓子にあこがれ、新聞記者を目指していたようだとの逸話もある[41]。 - ^ 徳島県人名辞典[42]によると、幕末の徳島藩士一覧に平山姓は一人だけ記載されている。平山留蔵である。留蔵は、江戸詰めをしていたようで、1851年(嘉永4年)、宇橋源栄の次男・藤次郎を養子として三田の江戸屋敷に迎えている。これが八十五郎の実父と思われる。また、後述の訓子の歌集に「天津空 群れ照る星の光とも 賞でまし君が園の小菊は(征石翁に)」という歌がある[43]。1910年の歌で、この年5月に藤次郎が亡くなっている[44]ことから、この歌は、義父で軍人の、藤次郎に対する追悼歌と思われる。「征石翁」に関する歌はこの一首のみで、日頃の交流はなかったのかもしれない。征石翁、軍人に相応しい呼び名である。
- ^ 平山家は徳島藩馬廻二百石の家柄でルーツは徳島県である[37][注釈 11]が、八十五郎の出生地は東京府[45]。
- ^ 松村松年は、当時の札幌農学校陸上部長[47]。後述しているが、八十五郎は留学先の米国で腸チフスに感染し病没している。死因が伝染病のため病理解剖されたが、松村松年はその著書で、「彼の有名なる運動家平山八十五郎農學士が嘗て米國で客死した當時、解剖醫某が彼れの心臓の大なるに驚き、其友人に此人は日本で人力車を引いたことがないかと聞いた相である」と述べている[48][49]。
- ^ 木鐸[5]には、ハーバード大学留学とあるが、後述しているように、これは誤りで、八十五郎の留学先はスタンフォード大学が正しい。
- ^ 海商通報 に当時の船舶の航海情報が記されている。例えば1902年7月31日発行の海商通報[54]と1902年8月14日発行の海商通報[55]の東洋汽船所有の貨客船亜米利加丸(日本丸級貨客船の第2船)の航海情報には、6月23日横浜発、7月2日ホノルル発、7月9日サンフランシスコ着とある。横浜からサンフランシスコまで17日間の旅程であった。逆ルートでは、1902年6月26日発行の海商通報[56]と1902年7月5日発行の海商通報[57]の同じく東洋汽船所有の貨客船香港丸(日本丸級貨客船の第3船)の航海情報に、5月28日サンフランシスコ発、6月5日ホノルル発、6月17日横浜着とある。サンフランシスコから横浜まで21日間の旅程であった。なお、この香港丸は1か月後の7月16日、横浜を出航しホノルルを経て、8月2日サンフランシスコに到着している[58]。また、9月18日発行の海商通報[59]の日本丸(日本丸級貨客船の第1船)の航海情報には、8月10日横浜発、8月20日ホノルル発、8月27日サンフランシスコ着、とある。八十五郎は、9月のスタンフォード大学のオリエンテーション(入学式)に向け、日程的にはややタイトであるが、この日本丸に乗船した可能性が高い。
- ^ 1902年当時、日本から米国スタンフォードまでの旅程は、横浜からサンフランシスコまで船旅で、約3週間[注釈 15]。また、サンフランシスコからスタンフォードまでは南東方向におよそ60キロメートルで、陸路で数時間。
- ^ その後八十五郎は、北海道庁河西支庁(のち、十勝支庁に改称)に勤務[51]したのち、1901年1月、熊本県立八代中学校(現八代高等学校)に着任[52]、のち、蔵原訓を妻に迎える[5]。1902年5月、八代中学校を退任[53]し、スタンフォード大学留学[注釈 14]のため、米国に向けて出航する[5][注釈 16]。このとき愛児の顔を見ての出航か定かでない。
- ^ 平山八十五郎について、野口源三郎らの論文に次の記述がある。「札幌農学校入学前(東京帝国大学予科生の時、1889年~1892年頃)[46]、八十五郎は東都に名の知れた、日本の陵上競技黎明史に残るような運動家であった。
頗 る発達した心臓の持ち主で、足が一直線に伸びる華麗なフォームで走り、当時は誰もが彼に歯が立たなかった(松村松年談[注釈 13])。1898年7月に札幌農学校農学科を卒業[50][注釈 17]したが、その後、米国留学中に客死した。」という趣旨の記述があり、併せて札幌農学校時代の第16回遊戯会(体育会)における八十五郎の活躍ぶりを伝えている[60][61]。論文にあるように、八十五郎は当時の日本陸上界のスター選手で、観衆がこぞって彼を応援する様子がうかがえる。農学校での6年間は学業に専念していたようだが、彼は、文武両道を地で行く人物だったようだ。前述の松村松年は札幌農学校の3期先輩で[62]、3期後輩には有島武郎がいる[63]。また、ビタミンB1の発見者鈴木梅太郎は東京帝国大学予科の同級生である[64]。 - ^ アメリカ横断鉄道が1869年に開通したのち、アメリカの鉄道網は20世紀初頭までに全土に拡大した[67]。移動時間は大幅に短縮され、例えば1876年には、ニューヨークからサンフランシスコまで(約4800km)を、大陸横断超特急が83時間39分で走行したという記録がある[68]。
- ^ 1900年代初頭、米国東海岸で腸チフスが流行していた[66]。健康保菌者である「腸チフスのメアリー」がニューヨークで家政婦として働いていて[66]、交通網の広がり[注釈 19]とともに米国全土にじわじわ広がったようである。八十五郎の感染源がメアリーであるか確認する術はないが、もしそうだとすると、八十五郎は、メアリーを感染源として死亡した唯一の日本人かもしれない。
- ^ 八十五郎の葬儀のおよそ3週間前、1903年4月8日付のパロアルト紙に掲載された「保健所からのお知らせ」という記事で、市民に対して腸チフスに関する注意喚起が行われていた[69]。腸チフスは、この時すでに流行し始めていたようだ。また、葬儀の10日前、1903年4月21日のニュースには「スタンフォード大学で腸チフスが蔓延している」とある[70]。
- ^ デイビッド・チャールズ・ガードナー博士(Dr. David Charles Gardner)は、1902年から1936年に退職するまでスタンフォード大学の牧師を務め、聖書の歴史と文学を教え、1949年に死去した[71]。
- ^ 昆虫学:ウィキペディア[72]によれば農学の一分野で、農業への応用を目的として益虫や害虫に分類を行うほか、例えば、昆虫が死体へ群生する経緯から死亡時期などを解明するのに利用するというもの。札幌農学校出身の昆虫学者に、松村松年、岡本半次郎、小熊捍がいる。前述しているが、松村松年は八十五郎の3期先輩で、札幌農学校の陸上競技部長であった。
- ^ 竹崎八十雄は、札幌農学校予科を卒業後本科に進んだが、熊本女学校の経営状態が悪化したため本科を中退し、熊本女学校で教鞭を執った後、1900年8月に洋行の途についている[73]。
- ^ 日本人クラブのメンバーは約30名。八十五郎、竹崎、泉の3名(後述)以外に札幌農学校出身者は確認できない。ほかに、大森兵蔵、飯島栄太郎(『羅府新報』創設者)、石沢久五郎(『本邦銀行発達史』[76]著者)の名がある。
- ^ これまで述べてきたように、泉は1899年、竹崎は1900年、八十五郎は1902年にスタンフォード大学に留学し、それぞれ政治学[80]、哲学[74]、農学を専攻している。札幌農学校で学んだ3人は、それぞれ独自の人生観を持っていたようで、選んだ道も三者三様である。当時は、日清戦争の開戦を機に日本も国際紛争の渦に巻き込まれていく、そんな時代であった。泉が大きく方向転換した理由はそこにあるように思う。竹崎は、もともと素地があったからだろう。祖母の竹崎順子と同じように宗教家・教育者としての道を歩むことになる[74]。一方、八十五郎は札幌農学校で学んだ農学の研究をさらに深め、昆虫学者を目指していたが留学中に病死した。無事帰国していたら、当時の新聞記事にあるように後世に名を残した可能性は高い。また、伊藤肇が存命ならば、おそらく留学先も3人と同じスタンフォード大学で、新渡戸稲造に続く国際的な思想家になって、世界と日本との間に大きな橋を架けていたかもしれない。
- ^ 当時のスタンフォード大学日本人クラブのメンバー[注釈 25]に「Postgraduate Yasgoro Hirayama(原文ママ、『Postgraduate Yasgoro Hirayama』と思われる)」と「Yasoo Takesaki」の名がある[77]。他に「A.Iumi」の名もあるが、これは「A.Iumi」と思われる。八十五郎の米国での写真の裏面に、筆記体で「A. Izumi」と「?. Karaki」(「?.」の部分はインクがかすれていて読めない)の名があるが、後年の写真[78]を見ると、向かって右の人物は竹崎八十雄で「?. Kaki」は「Y.Takaki」と思われる(特に筆記体で速記する場合、「a」と「e」、「r」と「s」は誤読しやすい)。また、「A.Izumi」は、札幌農学校を中退してスタンフォード大学に留学した「泉 哲(いずみ あきら)」[79]で、後年、明治大学教授になるが、その時の写真で確認できる[80]。泉は、札幌農学校予科生の時の八十五郎の同級生で、予科の卒業名簿に泉哲の名はある[10]が、本科の卒業名簿にその名は無い[50]。本科生の時に中退したようで、1899年に渡米している[80][注釈 26]。
- ^ 「Y.Takasaki」は竹崎八十雄と思われる。竹崎は、札幌農学校の出身で、予科を1896年に卒業後アメリカに渡り[注釈 24]、スタンフォード大学および同じカリフォルニアのバークレー市太平洋神学校に留学している[74]。札幌農学校時代の八十五郎の2期後輩[75]で、竹崎の留学時期は八十五郎が留学した1902、3年と重なる[注釈 27]。また、竹崎は熊本女学校校母の竹崎順子の孫で、一時期女学校の教師を務めており[81][73]、訓子は八十雄の教え子でもあった。新聞記事の「平山とその家族の友人」は竹崎八十雄で、「Y.Taksaki」は「Y.Taksaki」の誤りではないだろうか。おそらく竹崎は、訓子と八十五郎の愛のキューピッド。そう考えると、八十五郎が留学先としてスタンフォード大学を選んだ理由も見えてくる。
- ^ この記事は1903年5月4日付の「Daily Palo Alto」紙に掲載されたものである。八十五郎の死は、当時スタンフォードにいた数少ない日本人という特殊な背景に加え、彼の人柄に対する学友たちの親近感や生き方への共感と敬意から、多くの人々の注目を集めたようだ。彼の葬儀は、意義深く重要なニュースとして報道された。記事にあるように、八十五郎の死因は腸チフス[注釈 20]で、感染症蔓延の最中[注釈 21]にもかかわらず、学友や大学関係者、知人らによって手厚く葬られている。以下は八十五郎の記事の和訳である。平山八十五郎の葬儀 —Article published in the Daily Palo Alto on May 4, 1903
◆腸チフスで亡くなったスタンフォード大学で2人目の日本人学生、平山八十五郎の葬儀が、5月1日金曜日午後5時、パロアルトの聖公会礼拝堂で執り行われた。同大学の牧師であるD・チャールズ・ガードナー牧師[注釈 22]が式を司り、平山とその家族の友人である高崎が日本語で短い挨拶をした。式典の音楽は特別聖歌隊が演奏し、メアリー・ロバーツ・スミス夫人が独唱した。亡くなった学生の同級生や知人から贈られたたくさんの花が礼拝堂を飾った。遺体は火葬のためサンフランシスコに運ばれ、遺灰は日本の遺族に送られることになっている。
◆平山は1898年に北海道の札幌農学校を卒業し、その後北海道十勝の農事試験場に勤務し、後に八代高等学校の教師となった。九州にいる間に平山は藤原(原文ママ、正しくは蔵原)男爵の娘と結婚し、すぐに(原文ママ、正しくは1年後)教職を辞してスタンフォード大学に進学し、昆虫学[注釈 23]の大学院生として登録され、副専攻は植物学であった。彼はパロアルトのスローン家に下宿し、そこで独立心を発揮して、妻がかなり裕福な女性であったにもかかわらず、大学の費用のほとんどを稼いでいた。
◆最初は英語が堪能でなかったため大きなハンディキャップがあったが、平山はたゆまぬ努力と真剣さ、そして限りない忍耐力で、勉学に着実に取り組み始め、自らの専門分野で傑出した研究者になることが約束されていた。彼は繊細かつ正確な観察力を備えており、粘り強さと強い関心とが相まって、彼の研究は間違いなく母国にとって大きな価値を持つものとなったに違いない。もの静かで控えめで、人生の目的は明解で、研究内容に自信を持っていた。彼は親切、正直、そして真面目で、学友たちに親しまれていた。
御礼挨拶 —Y.Takasaki[注釈 28]
日本の学生を代表して、大学関係者の皆様の親切な対応と平山氏の葬儀への参列に感謝いたします。 - ^ 初の抗生物質であるペニシリンは、1928年にアレクサンダー・フレミングにより発見され(ペニシリン命名は1929年)、1942年にハワード・フローリーとエルンスト・ボリス・チェーンによって実用化されている[82]。
- ^ 死亡順に、Jimpo Kanada、Yasogoro Hirayama、Helen Christine Osher、Foster Ely Brackett、E.I. Friselle、Edgar Garver Riste、Florence May Baldwin、Horace Clarence Hubbard、Ellen R. Lewersの9名。当時は、感染症の特効薬である抗生物質も開発されておらず[注釈 30]、感染者たちの中でも八十五郎はかなり初期の感染者であったため、大学側の治療体制も充分でなく不運だったのかもしれない。1903年4月30日(日本時間5月1日)、八十五郎はスチューデンツギルド病院で亡くなった[69]。ちなみに、妻の訓も22年後の1925年5月1日に亡くなっている。まったくの偶然で365分の1の奇跡であるが、日本に残した幼子と若い妻を想いながらの無念の死であった。八十五郎たちの死を契機に、キャンパス内の公衆衛生に対する意識が向上し、スタンフォードの医療インフラが整備され、医療に対する取り組み方が飛躍的に改善された[83]。
- ^ スタンフォード大学の「Stanford LIBRARIES」に八十五郎の葬儀の様子が紹介されている[65][注釈 29]また、「STANFORD MAGAGINE」に、1903年当時のスタンフォード大学における腸チフスの大流行と学生120名の感染、うち八十五郎など9名の死[注釈 31]、襟にカーネーションを着けた医師や学生ボランティアたちが猛威を振るう疫病にどう立ち向かったか、等について詳述している[84]。八十五郎は、前述したように、日本の陵上競技黎明史に残るようなアスリートであったが、スタンフォードではスポーツに関する彼の記録は見つかっていない。米国での彼の時間は専ら学業に費やされていたようだ。
- ^ 後述の連載コラム「落葉かご」に、「ただ美しきは愛の一輪、いかに美しき眺めに非ざるか」と実家に残した愛児への切ない思いを吐露している[37]。同じく後述の連載コラム「ふるさと日記」は、訓子の故郷における人々の暮らしぶりや情景、日露戦争直前の若者達との交流、などを綴ったものである[37]が、これは、
母児 が触れ合う機会を作るための新聞社の配慮だったのかもしれない。 - ^ 訓子は「入社の辞」[85]で次のように述べている。
男尊女卑の時代に果敢に挑戦した若き女性(このとき訓子は満20歳)の心意気が読み取れる。この「優しくして鋭き婦人の斧を揮う」という思いは、訓子の人生観を象徴している。入社の辞 —平山をしへ子『九州日日新聞』5面、1903年9月22日付
初めて入社したる身の此新しき業務を執る前に、今度わらわが起って新聞記者たるに至りし理由決心及び覚悟など少しく読者諸君の前に吐露し、以て其指導を仰ぎその同情に依りまつらむとて。
近時教育の普及がいちじるしく婦人界の活勢を添え来りしより、各種の慈善会組織せられ学校教師出で看護婦出で電話交換手出るなど、社会事業の一部が確かに婦人の力を待つことの多きに至れるは我らが深く悦びとする処なれども、日々駸々 として進み行く文明の前途は尚広く長く極り無き裡程(里程)を有するにあらずや。見よや家庭組織の上に於て育児の上に於て近くは服装の上に於て緻密なる改善を加へ、優しくして鋭き婦人の斧を揮うべき余地甚だ少なしとせず、此時に当り時に其の指導者となり慰撫者となり或は鼓吹者となりて、健全優美なる理想の地にそを引率し行くは洵 に時代の必要と謂はざる可らず。九州日々新聞社が昨年九月の頃婦人記者募集の挙ありしも、此必要に応ぜんとしたるに外ならざるべく不肖なる身をも顧みずして、遂に茲に読者諸君と相見ゆるに至りしも亦聊 かここに期する処あればなり。
自ら顧れば素養浅く経験薄く、従がって高尚なる見識を有せず、周到なる観察眼に乏しき身を以て期の如き重任を荷はんは実にわらわが堪ふ可き限りに非ず。止みなん乎止みなん乎とは今尚我が胸中一部の声なれども、至誠は岩をも通し熱心と忍耐とは例ひ多大の効果を挙げ得ずとするも、尚自己の心中恥ずる処なく爽快を覚ゆなる可しとは、常にわらわが深く信ずるところよしや。身に何物をも有せずとも、真面目に忠実に熱心に着々として深き読者の同情に依り先輩の助力を仰ぎつつ進み行かんにはと、只一点此の微かなる自信の光りは今日妾をして遂に不肖を顧るに暇 なかりしめしなり。希くば読者諸君よ、今後わらはの不肖を咎め玉ふなく温かき同情と指導とを与へて共に益々婦人問題を研究し解釈し、婦人界の上に美しき花を笑ませ玉はらんことを。 - ^ 「新しき年の使ひ」は、署名記事としては訓子の実質的なデビュー記事で、当時の主筆・小早川秀雄[86]は、この元旦号で訓子の入社のことに触れ「...地方新聞に
在 ては実に他に類例を見ざるのことにして、(略)破天荒とせん。吾社は益々今日の方針を執て婦人及び家庭の為めに紙上の新天地を開拓せんと欲す」と述べ、訓子はそれを受けるような形で執筆している[37]。「...朝ぼらけとともに年の神が訪ねてきて、夫の横暴をいさめ、妻には主婦としての自覚を諭していく...」、明らかな美文で、非凡なものが感じれれる[37]。 - ^ 訓子の連載記事のうち、特に日露戦争に関する記事は好評だったようで、女性向け週刊新聞の『婦女新聞』に、「平山訓子氏の奮闘ぶりに大塊翁が喜び、女史に掛軸を贈った」との記述がある[88]。
- ^ 破袷(やれあわせ):傷んだ状態の
袷 の着物、「使い古された様子」や「衰えた状態」を意味する。 - ^ 月刊誌『新時代』の1907年2月号に「平山訓子」名で短編小説「破袷」[注釈 37]が掲載されている[89]。筆名に「平山訓子」を用いたのはこれが初めてと思われる。
- ^ 主な署名記事は、「入社の辞」(1903年9月22日)、「新しき年の使ひ」(1904年元旦号)[注釈 35]、「朝井夫人と語る上、下」(1904年4月13日、4月14日)、「
雷 艦長三村夫人と語る」(1904年4月15日~17日)、「病兵慰問記」(1904年7月17日)、「戦争と婦人」(1905年1月24日~29日)、「軍隊歓迎と婦人」(1905年10月26日)、「熊本母の会記」(1906年6月26日~7月1日)、「回春病院の半日」(1906年11月25日~12月8日)、「坪井葉煙草専売局を観る-工女労働の模様」(1907年6月28日~30日)など、日露戦争に関する記事が多い[5][37][87][注釈 36]。これらの署名記事は、「谷川憲介『近代熊本女性史年表』亜紀書房、1999年12月刊」に全文掲載されており[5]、ほかに「落葉かご」、「ふるさと日記」などの連載コラムや著名人との対談記事を執筆している[37]。記者時代の署名は「平山をしへ子」、その後は「平山訓子」を多く用いている[注釈 38]。 - ^ いたつき(
労 き):苦労あるいは病。 - ^ 後述の『歌集 有明』[90]に、1908年春に詠まれた歌がある。「幼き日 君と遊べる夢に見て 花心ある春の朝かな」「駒鳥の 鳴く野邉戀しいたつき[注釈 40]に とらわれてより四月經にけり」など[91]。後述しているが、歌は、上京後の1908年から辞世の1925年まで時系列に並んでいる。このことから、上京は1908年春で、新聞社を退社後間もない頃と思われる。また、同じ歌集に故郷に残した我が子を想う歌がある。1909年秋の歌で、「旅にある 吾子のため日並べて 裁てど縫へどもあかず長き夜」「恙なく もの学べかし秋の夜を 汝がために縫う薄き
毛衣 」[92]とあり、この「旅にある吾子」は「遠く離れた我が子」を指している。幼子を母・そでに預けての上京であった[5]。 - ^ 訓子は、大日本婦人教育会の活動として、羽仁もと子(報知新聞出身)、岸本柳子(大阪毎日新聞出身)らとともに、新聞記者の経験を活かし、同会の雑誌の編集および発行を担っている[97]。同誌は隔月発行で、内容も、講演会記事に加え家庭・婦人欄を設けるなど総合雑誌の色合いが強くなっていくが、訓子が退会したと思われる1918年以降は単なる会報に名を変え、年2回の発行となった[97]。同会が機関誌の編集を訓子等専門家に委ねるように方針転換させたことを契機として、明治期における婦人新聞記者が、その後の婦人雑誌の担い手として登場してくるようになる[98]。
- ^ 大日本婦人教育会は、1887年、
載仁 親王妃を総裁に毛利安子(公爵の母)を会長に創立されたもので、500名近い会員を擁し女子教育の向上と普及を活動目的に掲げている団体である[95]。本部は麹町区永田町一丁目十九番地にあり、訓子は名流婦人の間に伍して才色兼備をもって知られていた[93]。総会や各種行事への参加など、1908年11月から1917年5月までの訓子の活動が記録されている[96][注釈 42]。訓子は1917年5月の活動を最後に退会したと思われるが、この頃から2年近くの間病気がちで、帰熊したり、入院したりして療養していたようだ[99][100]。 - ^ 津田梅子、成瀬仁蔵、三輪田真佐子、安部磯雄、棚橋絢子[101](私立東京高等女学校長)、蔵原惟郭、山脇房子、大隈重信、嘉悦孝子、下田歌子、服部綾雄、荒川重秀(1891年創設当時の育英
黌 (東京農業大学の前身)の教頭、札幌農学校の1期生)[102]、平山訓子の13名。訓子はこのとき満29歳。訓子以外は何れも教育界の重鎮で、13名の中で訓子は飛びぬけて若かった。何かで評価されての抜擢だと思うが、その痕跡が見当たらない。 - ^ 罪のしも:深い罪悪感や後悔。
- ^ 後述する『歌集 有明』の1912年の歌。「戒めて 鞭をかざして
高物 を 打ちつつ今日も凩 は吹く」「僞りか 罪のしも[注釈 45]とか選べとて 二つの道を指さすは誰ぞ」「狂ほしき 血の迸ばしり天つ日を 隠して今日は薄暗きかな」「生き残る 蠅二三匹壁を這ふ 我が此頃を思はする秋」「生命をば その一壺 に投げ入れて 燃ゆる焔の勢ひを見よ」「湯たんぽを 抱きて今日も籠りけり 汽車の響きも懐かしみつつ」など[106]、憂いに満ちた悲痛な歌が続く。 - ^ 父の葬儀に帰熊したときの訓子の歌。「おのれをば 見詰むる者の寂しさと 喜びを知る時の來よかし(春海へ)」[107]、1912年初夏の歌である。このとき、息子の春海は満9歳。4年振りの母と子の再会である。
- ^ 訓子の歌集に、「憂へつつ 驛路を一つ乗り越しぬ 鎌倉に病む妹よ安かれ(妹の死)」「いみじくも 尊き玉は隠されし 寂しきままに逝かんとすらん(妹の死)」「病みて臥す 子に今生の暇すと 母は百里の道を來ませり(妹の死)」[109]とある。1912年秋の歌である。
- ^ 1912年は、訓子にとって最悪の年だったようだ。当時、玄児は東京朝日新聞社の社会部長であったが、玄児の、妻イヨに対する離婚訴訟と新聞社内のゴタゴタが原因で、ある雑誌社の心ない中傷記事が玄児だけでなく訓子にも及び、翻弄された[105]。辛い日々だったようで、このころの訓子は暗い歌ばかり詠んでいる[注釈 46]。さらに不幸は続く。この年、訓子の父・穆が亡くなって[注釈 47]、弟の
敏捷 が家督を継ぎ[108]、さらに追い打ちをかけるように、妹も病死している[注釈 48]。しかし訓子は「境遇何ぞ運命何ぞと云ふ」逆境に負けない強さを持っていたようで、これらを踏み台にして、のちの有明製菓及び有明堂の開業につなげていく。 - ^ 訓子が執筆した第十六章は、次の文章で結んでいる。「...故に若し此等の人々にして、猶不平や不満やに閉されつつありとすれば、
开 は此愛を握らないからであって、此愛を握り得る眞境地に達することが出來れば、必らず境遇何ぞ運命何ぞと云ふ意氣が湧き出て、笑って此世が渡れるかと思ひます。要するに私共は此清くして、貴き眞の愛の境地をふまへることが肝要だと思ひます。」[104]。 訓子の生きざまの一端が見える。しかし、これと前後して起きる渋川玄耳との恋愛事件とそれに続く玄児の離婚騒動が、訓子のその後の人生に暗い影を落としている[14][注釈 49]。 - ^ 1935年(昭和10年)頃の『火災保険特殊地図』(都市整図社発行)のうち、新宿駅周辺を復元したもの(「日本の古本屋」の解説より抜粋)。
- ^ 1935年頃の新宿三丁目の地図[116][注釈 51]によると、新宿駅東口から見て、新宿追分のほてい屋(のちの伊勢丹新宿店)の交差点の少し先に明治製菓があり、その筋向いの交差点角に吾妻バーがある。また、1930年発行の『東京名物食べある記』[117]には、明治製菓の筋向いに、有明堂、上海料理の芳明、吾妻バーが並ぶ、とある。有明堂は伊勢丹新宿店の斜向いに位置していた。
- ^ 当時、有明堂は現在(2024年2月)の伊勢丹新宿店の
斜 向いにあり[注釈 52]、与謝野晶子が出入りするなど文化人のサロンとして親しまれていた[14][37]。また、二人の中国人コックを雇い入れて「チャーハン」を売り出し、名流婦人を招待するなど宣伝宜しきを得、繁盛していたとの記述もある[118]。有明製菓を含め業績も好調だったようで、紳士録に、平山訓[115]、蔵原史樹(後述)[119]、平山春海(後述)[120]の名がある。 - ^ ほかに、1922年戸塚町に出資金9000円(共同出資、訓子の出資金は3000円)で内外製菓を設立している[121]。これは投資目的だったようで翌1923年に資金を回収している[122]。また、後述の坂元雪鳥の追悼文[123]に「...十一二年前、緊要にしてしかも世に閑却されてゐる方面で、手をつけたい事業はかずかずその眼前に竝んで見えた...(中略)...若し爰に數年を假したなら、菓子屋有明堂の女将は忽ちに婦人界の闘將として打ち出でられるのであったと思ふと、親しい懐かしい小母さんを亡ったといふ私情の悲みに數倍する悼惜の念に堪へないものがある...」とある。訓子は有明製菓や有明堂を軸にして、事業を拡大したいという思いがあり、その根底には前述した「入社の辞」にあるように「優しくして鋭き婦人の斧を揮う」という強い思いがあったのではないか。因みに雪鳥の追悼文にある「十一二年前」は、後述する訓子の帰熊時期に重なる。
- ^ かへるさ:帰りがけ。
- ^ 生まれるとから:生まれた時からずっと。
- ^ 『歌集 有明』に一篇の詩が載せてある[124]。
1895年、訓子が満12歳、熊本女学校の初等科2年生の時の夏、心臓病を患い2年間休学している[7]。以後亡くなるまでの30年間、訓子はこの「不遠慮な悪魔」に悩まされ続けることになる。前述したように、亡夫・八十五郎の心臓は「頗る発達した心臓」で、訓子のそれは「病める心臓」。足して2で割ったら、とも思うが皮肉なものである。「病める心臓」—平山訓子『歌集 有明』、1925年5月
十二歳のとき 海水浴のかへるさ[注釈 55]
はじめて お前が私に巣喰ふのを知った
異常の息切れ 怖ろしい胸間の厭迫
医者は生まれるとから[注釈 56] 憑いてるお前だと告げた
その時以来永い月日を 私はいつもお前に苦しんだ
時として希望が白熱し 碧空をのぞんで手をさしのべる
お前は狂った妬婦のやうに
息切れを吹っかけて 私の手を萎えさせしなびさせた
時として感情が漲り
私の身を忘れて 其表現に燃焼するとき
「ぢっとしてゐてくれ私の心臓よ」と
お前は忽ち奥の手を出して ドドッ!ドドッ!と
驚いて私が呼吸を整調する時はもう遅い
お前は必らず私の仕事を阻止しなくては止まない
おお病める心臓!
お前は私の身にまつはる 怖ろしい黒蛇
私はお前のために 長い年月を どれだけむごたらしく苦しんだか
仕事に私が身を入れ歩いても 恋の白金に一時を燃焼しても
お前は必ず其足取をはばみ お前は其火に水をかけ
私を失望と憂苦に陥し入れて そして冷かにほほ笑むのだ
おお悲しい!
病める心臓 不遠慮な悪魔とを怖るるあまり そっとお前をいたはって居る
日向ぼっこの縁へ出て 静かに息を殺しながら
病めるお前を抱えて うららかな三日月を見て居る - ^ 冒頭の訓子の写真は『歌集 有明』の序に掲載されたもので[125][37]、死の1年前、訓子が満41歳の時の写真である[125]が、すでに心臓病という「不遠慮な悪魔」に襲われていたようで、この頃の歌に「囚わるる 何物もなき心地かな
四十路 を一つ踏み出でしより」とある。死を覚悟していたようだ。にもかかわらず、写真の訓子は顔に少しむくみがあるようだが、目力がすごい。同じ時に撮られた玄児とのツーショット写真もあるが[126]、その写真の訓子は病が表情に出ていて弱々しい。「近代肥後異風者伝」に、「『歌集 有明』の写真は、玄児と並んで撮ったもので、玄児の部分は切られている」[37]とあるが、それは誤りで、別々に撮られたものである。訓子の写真の背景の書は合成で、向かって左は訓子、右は母・そでの作品である。書の内容から推測すると、1912年の作品で、訓子が病床の父・穆の見舞いに訪れたときに書かれたものと思われる。 - ^ 横浜にある同名の有明製菓について。創業者の竹田文祐は、新潟県柏崎市の出身で、地元の和菓子屋で丁稚奉公、1931年に上京し、下谷の和菓子店を経て、1936年に鶴見の「三好野」を買い取り創業した[127]。有明堂や有明製菓の「有明」は、訓子の出身地である熊本の「有明海」に由来したものであるが、竹田が社名を「有明製菓」とした経緯は不明である。代々木の有明製菓との接点は無いようだ。
- ^ 史樹はその後、1934年4月1日から1936年8月10日まで和菓子の老舗・塩瀬総本家の代表取締役を務めている[128][129][130]。史樹は、東京帝国大学法科出身[131]で弁護士でもあるが、1936年9月15日に弁護士資格が失効している[132]ことから、退任事由は死亡と思われる。
- ^ 有明堂を引き継いだ時、春海は明治大学の学生であったが、のち松野鶴平との縁で鐘紡に入り静岡工場長を務め、妻・睦との間に三男三女をもうけた[134]。春海は、訓の死後、1930年まで店を守っていたようで、1931年の『大日本商工録』に営業税56円、所得税30円の記載がある[135]。以降有明堂についての記録は見当たらない。
- ^ 帰熊中の歌は26首ある[136]。「何やらむ 春の野を吹く風に似て 此頃われを巡る香りは」「ありとある 花を
聚 めむ此の夕久遠 の戀の新室 のため(弟敏捷の婚姻に)」「匂やかに嫩葉 は煙り向つ峰 向つ谿々 春の日を着る」「向つ山 眼近かに見えて生温き 風吹きそよぐ雨來るらし」「尾の上 より捕 し來りし眼白の子 今朝を初めて高らかになく」「ゆくりなく 十年別れし友に逢ふ 筑紫の旅は夢多きかな(友人タキノを訪ねて)」など、心弾む歌が多い。 - ^ 1920年当時、旧制高等学校(一高~八高)の入学方式は、試験科目と試験問題が全校共通とされ、入学者の選抜は学校別で行われるという「共通試験の単独選抜方式」であった[138]。試験は同一日程で、受験場所は志望校に定められ、答案は各校で集められ採点された[138]。この年の受験生は1校しか受験することができなかった[138]。
- ^ 「生ひ立ちて 世の光たり鹽たらず」:幼少期に辛い思いをさせた、の意。聖書にある「塩と光」から派生した歌と思われる。
- ^ しかし春海には戸惑いがあったようだ。父を知らずに生まれ、母の温もりを知らずに幼少期を過ごした。訓子は、そんな息子の心情を汲み、自覚していて、「生ひ立ちて 世の光たり
鹽 たらず[注釈 64] 呪はれし子の生命悲しき」「反感の あとなくとけてひそやかに 母と呼ぶ子の痛ましきかな」[140]と詠んでいる。1923年の歌で、この年春海は熊本の五高を出て再び上京し、明治大学に進学している[134]。翌1924年にも、「蒼白く 黙せるままに出で行きし 幸薄き子は海か陸地か(去りし子十一首)」[141]などと詠んでいる。訓子の「優しくして鋭き婦人の斧を揮う」という人生は、一人息子の生い立ちに犠牲を強いてのもの、だったのかもしれない。 - ^ 当時、府立四中は府立一中(現在の東京都立日比谷高等学校)と並ぶ名門校で、一高から東京帝国大学に進学するためのスパルタ式の受験勉強で鳴らしていた[137]。しかし、春海は府立四中を卒業(当時の旧制中学校は5年制)後、郷愁の念からか一高ではなく五高を選び[注釈 63]、東京を後にして熊本に帰ってまう[37][5]。その、1920年春の訓子の歌。「おお吾が子 暗をば脱けよ光をば 衣にきよと叫ぶわれ母」「一人子の わが『春海』なり一つ葉の 風にそよがぬそのさまに居よ」「思はじと 思へともなほ
現 にも 夢にも消えぬ吾子 なるかな」「吾子 よ來よ 寂しき母と言ひやらん其 を忍びつつ春の日暮るる」「花咲くと 喜び合ひし子等あらず 味氣なき日をまた春に見る」など[139]、一人子を思う母親の顔がのぞくが、あるいは失恋に似た心情だったのかもしれない[注釈 65]。 - ^ 『歌集 有明』に、「母と呼ぶ 聲を怪しみ振り返り 夕暮れ近き路に佇む(春海の看護より歸る途上)」という歌がある[142]。1915年春~初夏の歌で、宿舎にいる息子を見舞った帰路での歌と思われる。春海が府立四中に在籍していた5年間、歌集には、母と同居の形跡がない。春海は、寄宿舎あるいは下宿先から通学していたようだ。
- ^ 歌は全部で250首あり時系列に並んでいる[90]。したがって、歌集は訓子の日記でもある。歌は、上京後の1908年に始まり1925年の辞世で終わっており、人生の後半の足跡を、短歌という形で残している。歌集から足跡を辿ると、訓子は上京後もたびたび帰熊していたようで、特に、1913年春からの帰熊は2年近くに及び、その間、故郷の情景を数多く詠んでいる[注釈 62]。故郷で『小公子』の翻訳などの文筆活動をしながら、のちに展開する製菓事業についての構想(実家からの資金援助[37]など)を練っていたようだ。1915年、訓子は息子・春海を連れて上京する。この年『小公子(翻訳)』を出版[113]、春海は府立四中(現在の東京都立戸山高等学校)[注釈 66]に入学し[37]、東京での生活を始めた[注釈 67]。ほどなく訓子は、前述の有明製菓および有明堂を開業することになる。
- ^ 『明治大正歌書解題』には、「平山訓子」「遺稿集」とあり、巻頭の歌とともに『詩歌集 有明』として紹介されている[143]。
- ^ 訓子は、後年、1922年秋に青島を再訪しているようで、その時の思い出を「紫の 水晶召せと唐子等は 左右よりかしましく寄る(
曾遊 の嶗山 を憶ひて)」「鵲 の 巣食へる柏樹古き国 古き夢をば語らひて立つ(曾遊の嶗山を憶ひて)」「唐国は 古き国なり道の辺の 水にも石にも書の香のして(曾遊の嶗山を憶ひて)」などと詠っている[145]。 - ^ 坂元雪鳥は「天邪鬼」と号して、『能評』を1908年から雪鳥自身が急逝する1938年まで三十余年にわたって朝日新聞紙上に連載しており、1909年、朝日を退社した後は能楽評論家として独立し、月刊誌『能楽』を主要な舞台として活動、「天邪鬼日記」を『能楽』の
跋文 として掲載している[144]。日記には訓子がたびたび登場していて、たとえば、1916年12月6日から1917年1月10日の日記には、青島に滞在[注釈 70]したときの様子が記されており、持病の心臓病で床についているときの様子や、嶗山にある景勝地・九水[146]にドライブした時の様子などが綴られている[147]。 - ^ 1916年11月14日の日記に、「將軍様等に重用せられて深刻な機密に参した男、國家を想う至誠と祕密を守る頑強と及び死を見る歸する如き
大膽 とは當代其非を見ざる奇傑が一名、東察加(カムチャッカ)から北米南洋志那へかけあらゆる冒險を試みて、夫で禪 をやりつつ相場もやらうといふ男が一名、女だから志士とはいへないとすると志婦とでも言ふのか、英邁 純正な婦人が一名、其から童話の創作に沒頭している男、及び僕」[148]、とある。銀座の裏で開いた晩さん会に参加した6名のうちの一人が訓子で、雪鳥とはこの時が初めての出会いだったようだ。この6人の取り合わせが面白い。 - ^ 雪鳥の人柄を偲ばせる逸話は、ほかにもいくつかある。雪鳥は、師や友が困難を迎えた時に身を尽くす、そういう、
他人 に篤い人物だったようだ。師である夏目漱石の、1910年8月24日の「修善寺の大患」における雪鳥の奮闘ぶりはよく知られたところで、雪鳥は、漱石が療養に出かけた8月18日から3週間、漱石の傍にいて、心身の両面にわたって気遣っている[150]。また、友である渋川玄児が亡くなった1926年4月には、葬儀の費用がないと聞き、玄児秘蔵の漱石作の短冊を漱石の夫人・鏡子に買い取ってもらい葬儀の費用に充てた、との逸話もある[151]。 - ^ 坂元雪鳥は訓子より3、4歳年上であるが、追悼文の中で、「小母さんと呼ぶのは、何處となく人を撫で
順 へる天性が自然に小母さんといふ風格を具へてゐたから、その風格に引きつけられて小母さんにしてしまった。それでも訓さんは小母さん貌をしたり、姉御づらをしたりする人ではなかった。察しがよくて氣が置けないながら、何處かに厳格さがあった。私は、雑誌に載せた日記[注釈 71]の中に、Hさん或はOさんとして、幾度小母さんの事を書いたか知れない。十一二年前に『女だから志士とはいへまい志女といふべき人』と日記に書いてゐる通り、小母さんの胸中は全く志士肌であった[注釈 72]。」と述懐している[123]。訓子は雪鳥について歌集の中で、「去年 見しは 日に背かれし君なりき いま見る君は日を抱く君(SS氏と語る)」「その心 かへ給ふなと母のごと 四つ年上の君に説く夕(SS氏と語る)」などと詠んでいるが[149]、これらの歌は1924年の歌で、「日を抱く君」と詠んだのは、この年の雪鳥の結婚[144]を指してのことなのかもしれない。年上で名の知れた国文学者の雪鳥を「撫で順へる」訓子もそうだが、それを受容する雪鳥の人柄をも偲ばせる逸話[注釈 73]である。
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