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日本の女性史

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日本の女性史(にほんのじょせいし)では、日本における社会政治文化宗教などにおいて女性が果たした役割と地位の変遷などについて記述する。女性史とは、歴史上の女性に焦点を当て、女性が社会の中でどのように位置付けられていたかを考える歴史学である[1]。近代に成立した歴史学は男性のみに許される学問であった。また過去に権力者が編纂した歴史書の多くも男性によって記されてきた。その影響下で語られる歴史は女性についての記述が非常に少なく、またわずかに記される女性も男性目線で描かれていた。女性史の研究は過去の歴史学で語られなかった部分を検証し、歴史学をより実りあるものにすることを目的にしている[2]。またさらに踏み込んで社会的性差(=女性差別)が形成された歴史を明らかにするのがジェンダー史である。

女性史の研究

日本の女性史研究の最初期においては戦前の高群逸枝や戦後の井上清が挙げられる[3]。1970年代にマルクス主義歴史学に基づく女性史研究が在野の女性研究者たちによって行われて成果を挙げる。しかしアカデミックな場で発展した欧米の女性史研究とは環境が異なっていた。日本でもアカデミズムの中で女性史が研究されるようになるのは1980年代である。2000年代になるとジェンダー史の研究も活発に行われるようになる。しかしこれらの研究成果も教育現場では部分的・限定的にしか取り入れられておらず、課題となっている[4]

先史時代

親族体系

土偶 縄文のビーナス

縄文時代では、成人男女数名と子供[注釈 1]からなる5人から10人の集団が一つの竪穴式住居で居住していた。この時代は幼児の死亡率が高く、成人(15歳)できた人々でも平均寿命は31歳程度であったと考えられている。また成人女性の死亡ピークは20台前半であることから出産リスクも極めて高かったと考えられる。こうした中で集団を維持するためには、女性一人が平均して8.4回出産をしていたとされ、女性の出産や授乳などの育児のもつ意味が極めて大きかったと考えられる[5]土偶が女性像であることも多産や出産の無事への切実な祈りであったとされる[6]

日本の原始社会において母系制の存否は大きなテーマである。世界的には農耕普及に関連し母系制社会が出現したとされる。世界の250の民族を研究したマードックは「妻方居住婚の民族では母系制が多い」とし、高群逸枝は日本の古代に妻問婚妻方居住婚があったことから母系制が存在していたとした[7]。これに対し都出比呂志は弥生時代では夫方居住婚ないし選択居住婚であったとした[注釈 2]。また春成秀爾は縄文時代前半は妻方居住婚であったが後半期から弥生時代にかけて選択居住婚から夫方居住婚に移行[注釈 3]したうえで、妻方居住婚では母系制、父方居住婚では父系制である蓋然性が高いが、選択居住婚では必ずしも双系制ではないとした。しかし現段階では、原始社会での親族体系は確定的でなく、いずれの可能性も否定できない[9]

性別分業

伝香川県出土銅鐸 6つに分けられた絵のうち、左下が杵を突く女性

狩猟社会においては、女性は食料の貯蔵や土器生産、男性は狩猟および石器生産などの性別分業があったと考えられる[5]。農耕社会においては水田耕作は男女共同でおこなっていたと考えられる[注釈 4]が、土器や織物の生産は引き続き女性が担っていたと考えられる[10][11]弥生時代の絵画銅鐸では女性(△頭)と男性(〇頭)が画き分けられており、性別分業があったことが分かる[12]。また集落が大きくなると社会的分業も発生したが、祭祀を行うのは女性(巫女)に限られ、地位も非常に高かったと考えられている[13]。古墳の人物埴輪には女性の姿が見られ、一般に巫女と説明されることが多いが、単に食膳を奉仕する女性とする説もある[14][11]。5世紀ごろの地方豪族は部民制により土器や織物、酒など貢納品を生産するようになるが、これらの生産もやはり女性の仕事であったと考えられる[15]

政治と戦争

魏志倭人伝』に記される邪馬台国では「会同(政治集会)には男女共に参加し席次も区別されなかった」とあり、大陸に比べると男女差が少なかったと考えられる[16]。また女王卑弥呼とそれを補佐する弟のように、古墳の発掘調査でも首長は男女が対であることが少なくない。その場合の男女の役割分担について、従前は祭祀は女性で行政は男性が行うと考えられてきたが、副葬品などから祭祀は女性のみが担うが、それ以外の権力(軍事・生産)は男女が流動的に分担していたと考えられている(ヒメヒコ制)。また女性の単独首長もみられ、権力に大きな性差はなかったと考えられる[17]。しかし古墳時代後期になると女性首長の埋葬例が減っていく。その理由として首長権の軍事化や父系化が進んだ事などが考えられている[18]

農耕社会になると戦争で命を落としたと思われる人骨が墳墓から発掘されるが、その中には女性も含まれている[11]。また古墳に埋葬された女性首長の副葬品にも武具が含まれている[17]。『日本書紀』には戦闘に赴く将軍に妻が同行する話が少なくない。舒明天皇9年(637年)条には「上毛野君形名蝦夷との戦に敗れると形名の妻が女たちに指示をして弓弦を鳴らした」と記している。つまり妻は夫に付き従うのではなく、夫と共に氏族を背負って主体的に考え行動していたと考えられる。このように描かれる姿は、女性も氏族を率いて戦うという自負を弥生時代から持ち続けていた為と考えられる[19][20]

飛鳥時代・奈良時代

飛鳥時代から奈良時代にかけての影響を受けながら国家としての体裁を整えていく。大陸から取り入れた律令儒教仏教などは家父長制などの男尊女卑を内包していた。それらの受容については大陸に比べ緩やかであったものの、社会的な男女差が広がっていった[20]

女性の地位と刀自

金井沢碑

日本の律令制は唐律令を手本にしているが異なる部分もあり、男女の扱いについては日本の方が性差が小さかったと言える。日本では女性にも男性の三分の二の田が班給され、賦課については女性が有利になっていたため、後に偽籍が増える一因となった。また女性が私有財を持つことも認められていた[21]。女性を意味する表現に注目すると、唐律令では常に家族(男性)との関係(ヨメ、ムスメ、ツマ等)で表されるが、女性の権利として日本で追加された部分には家族関係に左右されない「女」の表現が見られ、女性を独立した人格とみなす日本の風習が取り入れられたと考えられる[21]

地方社会においては刀自(トジ)と呼ばれる女性指導者を中心に女性も村の政治に関わっていた。寺院には寺刀自がいて寺院の女性労働を率い、村々には里刀自と呼ばれる女性が里長(さとおさ)と共に村の運営にかかわっていた[注釈 5]。村では春夏には祭祀が行われるが、神事は男女対になって行われた。神事が終了すると宴(直会)となるが、宴は同時に国家の方針などが告げられる村の政治の場であった。そこでも男女差なく年齢順で座った[23]

また一族を束ねる役割を果たしたのは家刀自と呼ばれる女性であった。金井沢碑は他田君目頬刀自とその夫を中心に女系で繋がる3世代の一族が祖先を供養した石碑である。他田君は地方豪族の氏名(ウジナ)と姓(カバネ)であり、刀自が一帯の指導者であった可能性がある[24]

働く女性

官僚制においても唐と異なる点が見られる。唐に倣い、女性は表向き公的な役職(二官八省)からは排除され、後宮十二司に属する宮人(くにん)となったが、天武天皇「男女が並び仕えるのが道理」(『続日本紀』)としたように男女が同じ職務を行うこともあった[25][26]。宮人は天皇の家政機関の意味合いが強いが、上級宮人は天皇の命令取次を担うなど実務を行う性格を持ち合わせている[注釈 6][27][25]。また下級宮人は采女など地方豪族が貢上した子女であったが、彼女らの中には飯高宿禰諸高の様に特に出世をする人もいた[28]。宮人になるためには読み書きは必須の能力であった。男性は大学国学といった公的教育機関で学ぶのに比べ、女性は家庭教育によってしか学ぶ機会を得られなかった[29]

8世紀の養老令には官戸の若い女性から頭脳明晰な30名を採用し、後宮女性に対して医療業務を行う女医を育成する制度があった。彼女らは医博士により産科、外科、鍼灸の技術を口頭で教わっていた。ただし女医が具体的にどのような業務を行ったのか記録に残っていない[注釈 7]。男性が医書を学んで育成されたのに比べて、口頭教育に甘んぜざるを得なかった女性は技量が低く、女医の実務は白粉製作や医療補助、もしくは身分の低い女性への医療行為にとどまったと考えられている[30]

7世紀以降になると祭祀と離れた娯楽としての宴が行われるようになる。こうした宴では歌舞がつきものであったが、場を盛り上げる遊行女婦(ゆぎょうじょふ、うかれめ)と呼ばれる専門女流歌人が現れる。従来は遊行女婦は売春を行っていたと考えられていた。しかし、後に官人の妻になる者がいることや宮人と同様に娘子(おとめ)と記されていることなどから、職種は芸能人に類するものと考えられ、宴の後での性行為は当時の開放的な男女関係によるもので売春ではなかったと考えられている[31][32]

律令制下において調や庸は男性に課されていたが、納める布の生産は女性の手によっていた。京では一部の高級絹織物や金属加工などは唐からの技術を学んだ男性が製作したが、日常の布や土師器の作成は女性職人の仕事であった。貴族や寺院は染女(そめめ)や縫女(ぬいめ)などの女性職人を雇うが、それらは雇い主の為の生産に留まっていた。こうした専業職人がいたのは、京では市場で必要なものが手に入るからであったが、やがて自ら市場で商売を行い収入を得るものが出てくる[33]。『日本霊異記』では酒の販売[注釈 8]で不正を行う女性が描かれるが、そこから女性が家畜、奴隷、田畑を所有するだけでなく、管理運営し富豪となる女性もいたことが分かる[36]

ツマドヒ婚と戸籍

山ノ上碑 拓本

男女の出会いの場は市場や郊外であったが、特に歌垣は絶好の機会となった。出会いは求愛(ヨバヒ)と求婚(ツマドヒ)に発展した[37]。ヨバヒは男性からのアプローチが多いが、女性から行われることもあった。ヨバヒは女性の母の監視のもとで行われた[38]。ツマドヒのツマは夫と妻を指す言葉で、ツマドヒは男女双方から行われた[38]。婚姻は女性側の親族に同意を得ることで成立し、男性側には規定がなかった(戸令嫁女条)[注釈 9]。ヨバヒもしくはツマドヒが成立すると、その印として男女双方からツマドヒノタカラを贈る[注釈 10]

婚姻が成立すると女家が成婚式[注釈 11]を手配するが男性側の出席者は本人のみであり、家同士の結婚ではない。また改姓もしなかった[37]。婚姻生活は妻屋(ツマヤ)[注釈 12]にどちらかが通う形で行われ[38]、夫婦は育児で共同生活することはあっても基本的には別居であった[注釈 13][40]。理由なく3か月以上往来が無い場合は離婚が成立したとみなされた[38]。また妻が訪ねてきた夫を拒否する場合も離婚とみなされた。以上のように夫婦の結びつきは緩やかであったが、その理由として自立して収入や財産を持っていた豪族や貴族の女性は経済的に男性に依存する必要がなかった事や、庶民も子育ては村の親族の助け合いの中で行われていたことが考えられる[41]。子供は母の元で育つことが多く[41]、夫婦の財産は子供が男女平等に相続した[42]。なおこの頃は同父同母兄弟での婚姻以外はタブー視されていない。とくに異母兄弟の婚姻は珍しくなかったが、これは母系制が残存し異母兄弟は別居しているので近親的意識が低かったことが要因と考えられている[43]

日本で最初の戸籍は天智天皇9年(670年)の『庚午年籍』とされる。唐の制度を取り入れたため、儒教的家族秩序が見られる。家長を筆頭に20数人程度の親族が記されている。妻と妾が書き分けられ、子供も嫡子と妾子に区別されているが、地位に差はなかった。子供は父姓を継ぐので父系といえるが、母系も把握されており実質的には双系制であったと考えられる[注釈 14][44]。こうした戸籍を一見すると家父長制であったように見えるが、このころの戸籍は課役管理をするための台帳であり、実際の家族形態を反映するものではなく[45]、一般には山ノ上碑にあるように父母両方の系譜を引く双系制であったと考えられる[46]

8世紀頃から土地財産の私有が拡大されると親族の結びつきが弱くなっていき、流動的な婚姻関係にあった女性が困窮することが出てくる。9世紀に編纂された『日本霊異記』には貧しい母親に対し扶養しない夫や、母を養わない子供夫婦の説話がある。こうした話は社会的な変化により、女性が安定した家族生活を得られる結婚を選択するようになる世相を反映したものと考えられる[47][41]

女帝

6世紀末から8世紀後半にかけて6人8代の女帝が即位した[48]。同時代に男性天皇が7代であったことを考えれば半数が女性であったことになる[49]。6世紀以降に王権の世襲がはじまるが、7世紀ごろの天皇は即位する年齢も高く、血統的条件だけでなく政治の実務経験に裏打ちされた統治能力を必要としていた[49]。こうした中で女帝は血統と皇后としての統治実績を背景として即位したが、その実は嫡子が成熟するまでの「中継ぎ」であったとされる。しかし元明天皇以降は皇后としての実績を持たずに即位していく。この事は同時期に父系近親婚による血統の純化が行われ、現人神思想が高揚されていったことに関係し、8世紀末以降に成立する統治能力より血統を重視する皇位継承方式(不改常典[50])への過渡期と位置付けることができる[48]。また実務経験の浅い天皇の後見人となった女性[注釈 15]もいた[51]

宗教と女性

法華寺本堂 法華寺は総国分尼寺に位置づけられた

仏教が伝来し最初に仏門に入ったのは善信尼ら3人の女性であった。彼女らは豊浦寺で修業し、廃仏派に屈さず百済へ留学し日本に仏教を伝える役割を果たした。しかしその後の遣隋使遣唐使に女性が加わることはなく、外交の舞台から女性は排除される[49][52]。8世紀には正式な得度をした尼が僧と共に法会に参加し、公的な役割をもっていた。彼女らの能力は男性(僧)と変わらなかったことが『正倉院文書』から分かる。聖武天皇国分寺を建立するさいには、光明皇后の意向もあって国分尼寺も併設されたが、定員や経営する領地規模には格差がある。また僧尼令では表向き僧と尼が対等であったが、尼は僧綱になることができず、実質的に僧の管理下に置かれた[53][52]

行基は民衆の支持を集めたが、その中には多くの女性が含まれている。その理由として「儒教的家族道徳を強要する世相から女性が救済を求めた」とする説がある[53]

神道においては神祇官の規定に女性(御巫)を見出すことはできないが、『延喜式』では確認でき、少なくとも平安時代前期まで大嘗祭などの宮廷祭祀にも参加していた。一般的に神道では7世紀頃を境に祭祀者が女性から男性へ移行していったとされるが、古来男女が共同で担っていた祭祀者から女性が排除されていったとする説もある[54]。7世紀後半から8世紀前半にかけて儒教、道教、密教の影響を受け、神道に女性不浄観が生まれる。神祇令の注釈書『古記』には祭祀で避けるべき穢悪(えお)について「生産婦女不見の類」と書かれている[55]

平安時代

女官

8世紀末から9世紀にかけて内裏が成立すると内侍司を除く後宮十二司の諸司は衰退し政治的役割が減っていく[34]。女官の役割は家政に関わるものに限定されてゆき、尚侍は天皇の寵愛を受けるようになり妻妾になるなど、女官の社会的政治的な地位が低下する[56]。また尚侍藤原薬子平城上皇の寵愛を後ろ盾に権勢を振るうが、それに対抗するために嵯峨天皇蔵人所を新設し、女性を統治システムから排除した[57]

父系制の成立

父系制は天皇家から始まる。皇位が父系的に継承されるのは9世紀である。9世紀初頭になると天皇家の母方親族を外戚と認識するようになり双系制が崩れる。渡来人を母系とし天智天皇の孫である桓武天皇は、諸氏に系譜書を提出させて政治的な父系継承を強化した。10世紀には官職や役職は父子で世襲することが一般的になり、政治力を行使できない女性の地位は低くなっていく[57]

平安時代前期では貴族の女性は自身が官職を得て俸禄を得て家を支えるなど経済的に自立しており、婚姻形態や居住形態にも明確な規定はなかったと考えられる[58]。10世紀になると長女が婿取りをするようになり、妻方居住婚を経て独立居住婚が慣例となる。また次女以下は妻方家の支援のもと独立居住婚をした[58]。9世紀から10世紀にかけて女性が夫以外の男性と性関係を持つことがタブーとなり、一夫多妻制が成立する[59]。一夫多妻制では同居妻が嫡妻と見なされたが、他の女性も妾ではなく次妻とされ、子も同等に扱われた。しかし、次第に嫡妻の子が官職後継者になっていき次妻の立場は低下していく。経済的には女性も両親からの支援や相続により財産を所有していて後世ほど夫に従属していなかったが、女官の地位が低下していくと男性と経済的格差が広がっていく。女性にとって結婚の目的は父母亡き後の生活保障の意味があり、離婚権が夫にあったことを合わせると平安時代中期には家父長制が成立していたとも見なされる[58]。平安時代後期になると婚姻形態は当初より独立居住婚となり、儀式や家屋などの支援は全て夫方両親によって行われる。また荘園等の家業が固定すると男子への相続が主となり、夫への従属を強めていく[58]

庶民の家にも変化があったことが史料から分かる。9世紀初頭成立の『日本霊異記』では「家長(いえぎみ)」「家室(いえとじ)」と記されていた夫婦が、12世紀初頭に成立した『今昔物語集』では「家の主」「家の女」に変化しており、家の代表が男性に限られている。この頃でも夫婦別財が原則であり田畑の相続は男女平等に行われ、女性開墾主も存在したが、『平安遺文』によると10世紀以降は女性による土地売買の記録が減り、経済活動は夫の責任で行われるようになり、女性の経済的地位が低下したと考えられる[60]

后妃と国母

天皇の后妃は9世紀になると女御更衣の身分が新たに設置され、藤原氏などの貴族の子女が入内するようになる。その女性が生んだ子は母方で養育され、天皇に即位すると国母として政治的発言権を強めていく[注釈 16]。この国母の権力を背景に天皇外戚による摂関政治が始まる[56]。このような様相はかつての皇后が天皇と共に政治手腕を発揮したのと比べると、女性の栄達が母性のみに係るようになり、相対的に社会的地位が低下した事の現れと見ることができる。他には平安時代後期になると天皇の乳母の地位が向上し後宮女官の頂点に立ちその親族も栄達する事や、逆に入内しても子に恵まれず凋落する女性などにも表れている[56][61]。こうした背景から摂関家の子女は、天皇の寵愛を受けるために教養を身に着けるようになり、入内に際しては豪華な調度品をそろえ、才能に富む女房を集めて従えた。こうした女性らが宮廷を華やかに彩り、女房文学などの文化を生み出していく[56]

11世紀になると外戚に左右されていた皇位継承権を上皇が握るようになる。この頃には正式な結婚をせずに上皇や天皇の寵愛を受けた女性が子を産む例が増える。それらの女性は子供が東宮や天皇になった後で后や女院などの待遇を受けた。中には藤原得子のように皇位継承に関与する女性もいたが、中世後期になると天皇家が経済的に困窮し国母も終わりを告げる[62][61]

国風文化と女性

紫式部日記絵巻』 紫式部から白氏文集を学ぶ中宮彰子

平安時代になると平仮名が現れる。漢字を「真名(まな)」とするのに対し和語表記を「仮名」と称し、その中でも音仮名(万葉仮名)を「男手(おとこで)」、平仮名を「女手(おんなで)」と呼ぶようになる[34]。真名を使う漢詩や儒学などに対し、仮名を使う和歌や物語は一段低いものと見なされていた[29]が、仮名は掛詞縁語などの修辞法を生みだした[63]。平安初期には有智子内親王の様に漢詩を読む女性は賞賛されたが、やがて紫式部のように漢籍、漢詩をたしなむ女性は非難の対象となっていく。しかし女性は仮名を巧みに使いこなし新しい文学を創り出していった[29][34]

前述のように、天皇や后妃の周辺には女房と呼ばれる侍女がいた。彼女らの役割は仕える主を盛り立てる事であり、また主家の栄華を喧伝する事であった[64]。主家の栄達は自身の親族の出世に結びついていたのである。そのため女房は歌合で和歌を詠み、家集を編み、日記を綴り、物語を創作していく[64]。それらにより女房は宮廷文化サロンの一翼を担ったが、一方で男女が対等ではない事への憤りも記している[63]。それらは『蜻蛉日記』が「世に出回る物語の一端などを見れば世にありふれた虚言」と記すように、『伊勢物語』などの男性目線の物語を否定し、女性からみた結婚と人生の真実をつづる「わたしの物語」であった[65]。『枕草子』には男性中心の身分社会への不満[66]、『紫式部日記』には教養を隠さねばならない事への苦悩など、宮仕えする女性の苦しみを見て取ることができる[67]

女性芸能者と売春

10世紀に成立した『和名類聚抄』には「白夜遊行するを遊女といい、夜に淫奔(いんぽん)を発するを夜発(やほち)という」と記され、売春をする女性がいたことが分かる[68]。平安時代後期の『遊女記』には遊女は芸を披露した後に性を売っていたとあり、奈良時代の性を売らない芸能人(遊行女婦)から、平安時代になり性を売る芸能人(遊女)に変化したとされる。なお遊女はいわゆる源氏名を名乗っていることも分かる[32]。こうした女性たちには水上交通の要衝にいる遊女の他に、街道を拠点とする傀儡子がいた。いずれも今様を謡い、中には公家や摂関家との接点をもつ女性もいた。後白河院は遊女や傀儡子を召し集めて師弟関係を結んで今様を習得し、特に乙前には手厚い恩恵を与えた。このように高い文化的素養を持つ芸能集団という顔も持ち合わせていた[69]。またこのような芸能集団は母系制であったとされる[70]。また平安時代後期になると白拍子が現れる。後鳥羽上皇は頻繁に白拍子や遊女を集めて宴を行った。院政期から鎌倉初期にかけて女性芸能者は蔑視されておらず、上皇や貴族の子をもうける女性[注釈 17]もいた[71]

女人禁制と宗教倫理

室生寺表門 近世以降に女人高野とされ、高野山に入山できない女性の参詣を集めた

民衆では『日本霊異記』に大安寺に女性が参詣する話があるように一般女性にも開かれた寺であったことが分かる。最澄は僧が守るべき戒律として「盗賊、酒、女等を禁ぜしめ」と記しているが、これは女性との性行為の意味で女性の入山を禁じたものではないと考えられる[72]。しかし高野山や比叡山などの霊山は男性修行者の場となり女人禁制となっていく[73]。12世紀ごろに成立したとされる『本朝神仙伝』には尼が金峰山に登ろうとするが戒地であるため果たせなかったという説話があり、この頃までには女人禁制が成立したと考えられる[72]。女人禁制となった山の麓には高僧の母の伝承を伴う尼公堂や女人堂を建て境界とするようになる。また女人禁制の山麓の里や寺の周辺には里坊を中心に修行をする僧の母などが集まる。彼女たちは僧衣の洗濯をするなど、修行生活を背後から支える役割を担っていた[73]

平安時代になると戒律制度にも性差が生まれる。得度をする官尼の数は減り、公式な法会の機会も減少した。平安京内の東寺西寺は共に僧寺であり尼寺は無い。また古来の尼寺も衰退していき僧寺に変えられるなどした。一方で私的に出家をする女性はむしろ増加し、10世紀頃から夫の死後に後家尼となる例が増えた。彼女らの活動の拠点は尼寺ではなく僧寺の周辺、女人結界の周辺にあった庵などであった。臨終などに際しては完全剃髪とし、「僧になる」と称した。これは女性は一度男性に生まれ変わらなければ往生できないとする「変成男子」などの女性観[注釈 18]によるものである[52]

続日本後紀』には死別した夫の墓の傍らに小屋をつくって長年夫の霊に仕えた女性を節婦[注釈 19]として顕彰した記述がある。この価値観は儒教に見られるもので、こうした模範的家庭道徳を広まることで徐々に男尊女卑へと教化されたと考えられる[75]

軍事貴族と女性

10世紀になると地方豪族や有力農民が蜂起をするようになる。彼らを鎮圧したのが後に武士団となる軍事貴族である。清和源氏桓武平氏など臣籍降下した貴族は地方へ移住して、地方豪族と血縁関係を結んだ。父方の血脈と母方の地盤を継承して勢力を拡大しつつ、一族郎党を主従関係で組織し、12世紀には武士団が成立する[55]

11世紀の前九年の役を描いた『陸奥話記』には戦場で敵軍を挑発する女性が描かれており、戦乱の中に女性も居たことが分かる。また妻が夫と共に殉死することが「貞淑な女性」との認識も見て取れる[55]。10世紀の平将門の乱を描いた『将門記』では戦に敗れた敵将の妻が犯される描写がある[76]

鎌倉時代から安土桃山時代

家の成立

11世紀末から12世紀頃に嫡子継承される家が成立した。財産は男女の庶子にも分与され、分家することもあった。家督は直系だけに限らず兄弟相続もあった。結婚は嫁入り婚になり独立居住婚である[注釈 20][78]。12世紀頃には夫婦は一生連れ添うものという考えが生まれる。互いの配偶者を文章で「縁友(えんとも)」と称するようになるが、仏縁により共に極楽往生することを祈る意味である。一夫一妻を実践した夫婦も多かったが、貴族や武家では一夫一妻多妾になる[79]。また中世には名字が生まれる。名字は居住地に由来するものがあり、嫁入りで居住地が変わると名字が変わる例がでてきた[注釈 21][79]

嫁入りした妻の地位は低くはない。13世紀の記録には、大友能直の死後に地頭職と所領の一切を妻にゆだね、それを妻は17年後に子供に分与したとあり、妻が財産の管理処分権を有していたことが分かる[80]。また親から子への相続は男女問わず分割相続が基本であった[注釈 22][81]。しかし相続均等ではなく嫡子(長男に限らず親の意思により決定)に多く相続され、少ないながら嫡子が女性であることもあった[82]。中世後期になると嫡子以外の庶子には所領相続権が失われる[注釈 23][80]。こうした事は弘安の役の後に幕府が所領を女性に相続することを制限してから広がり、背景には恩地を与えられない窮状があったとされ、結果として家の相続から女性が排除された[83]

武士と女性

前述のように武士の一族を結びつける役割をしたのが嫁入りした妻である[84]。妻を媒介して家、特に舅と婿が強く結ばれていたことは鎌倉幕府追加法に訴訟の時に退席すべき奉行人[注釈 24]として相舅[注釈 25]が見られることや、婿が含まれるが嫁は含まれていないことから分かる[85][86]。また『承久記』や『真名本曽我物語』に描かれた戦闘場面にも舅と婿の絆の強さが表れている[85]。こうした舅婿関係は「親は子を庇護し、子は親へ孝養すべし」とする御家人社会の家族倫理によるものと考えられる[86]。一方で父親と同様、母親の権限も強かった。祖父母や父母に敵対するものは厳しく罰せられその罪は子にまで及ぶなど、父母が同等に扱われている[87]。また乳母(めのと)が繋ぐ絆もあった。この場合、乳母であっても授乳をしない場合もあり、養君の後見人の意味が強い。乳母の夫は烏帽子親になることもあり、その子(乳母子(めのとご))も含めて主従関係を結んだ[87][82]

鎌倉幕府と主従関係を結んだ御家人は将軍といわゆる御恩と奉公と呼ばれる互助関係となるが、幕府への奉公は親族単位で行われ、少数ながら女性が加わる場合もあった[81]。なかには『平家物語』の登場人物巴御前のように、軍役に付いた女性もいた[86][82][88]。また夫亡き後には後家が惣領を継ぎ、一族に号令をかけることもある[82]。戦国時代の寿桂尼は夫今川氏親亡き後、幼い後継者今川氏輝に変わり公文書を発給し国政を担った[89]北条政子は後世に尼将軍と揶揄されたが、そもそも武家社会一般にみられる後家に求められた役割であったとされる[90]日野富子も後世に応仁の乱の原因とされ「悪妻」と呼ばれるようになるが、多くは『大乗院寺社雑事記』を根拠にしていた。2000年頃からは『兼顕卿記』などの史料を用いて日野富子の活動が再評価され、むしろ乱を収拾したと考えられるようになっている[91][90]

室町時代になると大名などで政略結婚が行われるようになる[注釈 26]。ただし「嫁す」の言葉は男性が婿入りするときにも用いられることから、女性の家への従属は明確ではないとされる。嫁ぎ先での妻の役割は子供たちの教育や家内の統括[注釈 27]であり、権限も強かったと考えられる[92]。また『毛利家文書』によると1550年に毛利元就井上元兼を誅殺した際には妻の尾崎局に誅殺した理由を丁寧に説明しているが、これは尾崎局が実家の大内家との外交官的な役割を担っていた為と考えられている[94]。また成田甲斐姫二階堂盛義夫人のように戦場で気丈に生きた女性もいた[95]

村落での女性

三十二番職人歌合』 桂の女

土地台帳や惣村の代表者に記されるのは男性で占められるが、これは荘園などの土地制度の広がりと共に百姓に政治的な影響があったためと考えられる[84]。しかし現実には女性が領地を所有していることもあった[96]。中世集落では村落の神社などの普請にあたり女性の寄進も残されており、また祭祀においては女性座が設けられるなど神事にも携わっていたことが分かる。こうした神事は村落の政治の場でもあり、村落運営に女性も関わっていたと考えられる[96]。また南北朝時代には、百姓が横暴をはたらく下司への対策を練っていた場に下司が夜討ちをかけ、住民が犠牲になる記録があるが、その中に女性2名が含まれており、重要な寄合に女性が参加していたことが分かる[96]。中世後期の惣村では領主と対立すると土一揆逃散で抵抗をした。逃散は住民が家を離れる抗議行動であるが、女性らは夫と行動と共にせず家に籠って生活拠点を護ったとされ、それぞれの場所で共に領主に抵抗したと考えられる[97]

一方で都市の職人、商人では女性も珍しくない。1500年頃作成の『七十一番職人歌合』にある142種類の職業のうち34人が女性である[98]。女性が描かれた職業は食糧製造販売、衣料製作、日用品販売、芸能などである。なかには夫(浦人)が捕った魚を売る桂女のように家内で分業してるものもある[99]。また、の代表を務める女性もいた[84]。京で紺灰を販売していた座の一つ賀々女流の座権利は後に娘に譲られている[100]

女性不浄感と民間信仰

『法然上人絵伝』

9世紀後半の『貞観式』には血穢[注釈 28]が成文化していた[55]が、室町時代になると『血盆経』が普及してお産で亡くなる女性は血の池地獄に落ちると説かれるようになり、さらに中世末期の『三国因縁地蔵菩薩霊験記』では死産は女性の前世からの業によるもので地獄に落ちると観念されるようになる[101]。対して鎌倉仏教は女性を救済する立場をとり女性の信心を集めたが、先の女身垢穢など女性不浄感を強調する点は変わらず、念仏などの功徳により変成男子によって成仏しうると説くものであった[73]。一方で『盂蘭盆経』では母の恩に報い母を救い成仏させることが僧の課題に位置付けられるなど、母性を尊重する思想が広がる。また女性側も女性不浄感を受容し息子の功徳により往生を望むことを理想とするようになっていくが、これは母性に女性の存在価値を閉じ込める方向への変化と位置付けられる[101]。一方で禅宗を中心に尼五山など尼寺も多く建立された。曹洞宗の了然尼や臨済宗の無外如大などが著名であり、真言律宗では古代尼寺を復興し社会救済活動を行うなどした[102]

中世には歩き巫女と呼ばれる集団があった。彼女らは声聞師と共に行動し、津々浦々を遍歴して求めに応じて神おろしを行った。歌舞伎の祖といわれる出雲阿国は歩き巫女であったと言われる[103]。同じように白拍子や曲舞々などの女性が軽業師と共に雑芸人集団を形成していたが、これらは平安時代の傀儡子の系譜を引くものである。曲舞の名人とされる百万はにも影響を与え[注釈 29]祇園祭の曲舞車で舞ったとされる[注釈 30][103]。また寺社の勧進をすすめる存在に熊野比丘尼がいる。彼女らは声聞師と共に行動し、絵解を行って民衆へ熊野信仰を広めて造営資金を集めた。また弱体化していた伊勢神宮を再興するため勧進や大名への働きかけを行い、129年途絶えていた外宮遷宮を復活するなどした守悦上人清順上人も勧進比丘尼であった。このように中世には民間信仰を広め芸能を支えた女性たちがいた[103]

性愛の不平等

御成敗式目によれば、強姦和姦を問わず、他人の妻と密通したものは男女とも処罰するとあるがこれは形式的なもので、実際は密通する男の殺害が容認され、女性は制裁されなかったとされる[注釈 31][105]。既婚男性は全ての婚外性行為を処罰されるが、既婚男性は既婚女性を対象としないと処罰されない点に格差がみえる[104]。また「辻で女を捕えてはいけない」とあり御家人に対し停職などの処罰があったが、これは辻において男女の自由な恋愛を禁止するものであった[注釈 32][106]

南北朝期ごろから売春を主とする遊女が現れる[107]。路上で客引きをする遊女を「立君(たちぎみ)」、屋内で客を引く遊女を「辻子君(づしきみ)」と称し、京の遊女屋は公家の久我家に公事銭を納めて座を形成していた[108]。やがて室町時代末期には公的に認められた「傾城町」が成立し、後の遊郭へとなっていく[107]

海外からみた日本の女性

宣教師ルイス・フロイスは『日欧文化比較』において16世紀の日本の女性について「純潔を重んじない。それを欠いても名誉を失わなければ結婚できる」「夫に断らずに好きなところに自由に行く」「しばしば妻が夫を離縁する」「夫婦であっても財産は別で、時に妻は夫に高利貸しを行う」などと記しており、欧米に比べると女性が自立していた様子がうかがえる[109][110]。一方で、堕胎の多さや戦場で拉致される女性や子供たち[注釈 33]についても記している[110][112]。また朝鮮王朝の使節・宋希璟は『老松堂日本行録』に「遊女が多く通行人を強引に店に引き入れる」「寺では僧尼が同宿しており、尼が妊娠しても出産後にまた寺に戻る」など「奇なること多し」と記している[109]

江戸時代

幕藩体制と女性

江戸時代初期には足利氏姫のような女性領主もいたものの[113]、それ以降は旧来の開発領主的土地所有は否定され、封建的土地所有である幕藩体制となる[114]。知行を与える権利は、大名旗本に対しては将軍、藩家臣に対しては大名が掌握する。また相続は知行の再恩給と位置付けられ、享保期以降に幕令で長子単独の相続が徹底される。男子がなく養子をとる場合にも筋目が重視され、男系優先主義が貫かれた[115]。こうした状況で一部の例外[注釈 34]を除き家督相続はもちろん所領の相続から女性が排除された[114]。婚姻については私婚が禁止され、さらに享保期には無許可での婚姻が禁止される。中世に武家が政略結婚などにより、女性が家と家を繋いでいた役割は失われた[115]。正室は人質として江戸に住み、世継ぎを絶やさぬために一夫一妻多妾制がとられる[116]。また江戸時代後期には系図編纂から過去に存在した女性領主の存在が意図的に消される[113]

将軍家や大名家の内部においては「表」と「裏」に性別分業される。主人とその家族のそばで奉仕する女中は活動の場を奥に限定される。しかし奥も政治と無縁ではなく当家にとって重要な、後継ぎを養育する場であった。正室は自ら生母とならない場合も、側室の生んだ子や養子と養親関係を結び、養育の責任を負った。また表の年中行事などに際しては家臣から挨拶を受けて主従関係を構築する[113]。江戸時代初期には奥女中は乳母を中心に名家出身であることも多く、春日局のように政治的に重要な役割を果たす女性もいた。17世紀半ばには奥女中の職制も進むが、鳥取藩の米田という女性が最下位の半下から最高位の年寄になったように出世も可能であった。待遇は俸禄こそ表の男性家臣団より低いものの、養子をとって家の相続を認められる例も少なくなかった[113]。また幕府女中は30年以上勤めると生活に困らない手当が支給されていた[117]。こうした奥が幕政、藩政の危機に直面し政治力を発揮する場面もあった。鳥取藩池田家では桂香院が世継問題で決定権を行使した。また幕末には天璋院江戸城無血開城に際し江戸府中を静謐に保つよう命じている[113]

庶民の女性

江戸時代の農村支配は年貢村請制となる。用水の利用など重要な事柄は村寄合で決定されたが、参加ができるのは家の当主のみであった。農民の家督相続について法的規制はなかったが、実質的には長子単独相続制[注釈 35]であり、寄合に女性が参加することは稀だったと考えられる[118]。しかし少ないながら17世紀前半には庄屋を女性が世襲することもあった。18世紀になると庄屋を輪番制や入り札によって選出するようになるが、女性が投票した記録もある[119]

江戸時代になると家族そろっての逃散がみられる。1643年の会津藩では年貢が重さから妻子共々2000人が隣国に、1690年には延岡藩山陰村から1400人が高鍋藩へ逃散した[119]。また一揆や騒動では男性が中心であったものの、天明の飢饉からは女性の嘆願を発端として米騒動に発展するようになり、19世紀になると打ちこわしにも女性が加わる。幕末には品川の漁師の女性がお台場建設に伴い漁場を荒らされたため、新しい漁具の使用許可を求めて北町奉行役宅の前で座り込みをしてこれを認めさせている。この時は女性の抗議を男性が差し入れなどをして支えた[119]

町人においても相続に法的規制は無かったが、17世紀中頃には生前に被相続人を届け出る制度ができ、享保期には大阪町方に「女性が相続する場合は公儀に願い出て、1期3年に限るよう」に制約が掛けられた。一方で家財相続については京都・近江などでは分割相続が行われることもあった[118]。商人の妻は内助の功で家業を支えた。呉服問屋越後屋の初代三井高利は「妻の心が宜しければ次第に家は繁盛する」とし三井家の繁栄に妻寿讃の貢献を讃えている[120]。中には三井高利の母三井殊法や木綿問屋柏屋の柏原りよのように夫の没後に店を切り盛りする女性もいた[120]

裕福な農家では婚姻は家と親族が関与した。江戸時代後期になると、縁談は仲介人を通して持ち込まれ、見合いは当人同時ではなく夫方の家長である舅と嫁候補の娘で行われる。舅が気に入ると改めて嫁を貰いたいという申し入れをし、結納や婚礼などの準備は親族同士で進められ、本人たちは婚礼まで顔を合せなかった[121]。大きな商家の本家では親類を招いて「入家」という儀式を行う。その後、婚礼と表披露が行われるが、表披露では町内の人びとも招いて宴を設ける[121]。どちらの婚姻も親の同意と仲人が必要であった[121]。 江戸時代では離婚と再婚は少なくない。武家の縁組を分析すると離婚率が11.2%で、離婚した女性の再婚率は58.65%であった[121]。離婚は両家の協議による「熟談離婚」が多く、まとまると夫が離縁状を出した。離縁状には理由は記されず、3行半程度であることから「三行半」といわれた[121]。妻が離婚を望む場合は、願い出るのは妻の父か兄に限られていた。夫が離婚に応じない場合は縁切寺に駆け込む[118]

女性の雇用

『百人女郎品定』 扇屋と組紐屋

戦乱が収まる17世紀には生産力も高まり経済が成長する。農民は稲を中心とした食物生産の間に綿菜種などを生産したが、とりわけ綿と養蚕は女性が担った。多摩郡では真綿永、紬永という税が掛けられていたが、この負担は実質的に女性が担っていた[122]。18世紀末には尾張では綿の産地であったため縞などの特産地となる。生産には農家の女性が従事し、多くは織機を借りて手間請けする「出機(でばた)」と呼ばれる雇用であった。また京の染物でも周辺の百姓に絞り染めを委託していた[117]

大きな農家では小作人抱える。雇用形態は人身売買は禁止され年季の年数も限られたため、短期の年季奉公から19世紀半ばには日雇いへと変化する[117]。賃金では年季奉公では天保期まで男性の60%から85%であったが、幕末期になると92%程度まで差が縮まる[123]

都市部においては手工業を担った。18世紀半ばの『百人女郎品定』には糸繰り、機織り、染物などのほか扇折、そうめん粉引きなどに従事する女性職人が描かれている。女髪結いが流行りだすのも18世紀末ごろと言われる。遊女まがいの髪型は「風紀を乱す」として規制の対象となることもあったが、女性の職業として定着していった[122]

庶民の子供と教育

『文学万代の宝・末の巻』寺子屋と女師匠

江戸時代になると男系小家族が多くなる。「嫁して7年子無きは去る」という儒教の教えもあり、女性は家を継ぐ男子の出産を求められ、また後継ぎを求めるために妾を持つことも正当化された。ただし男子に恵まれない場合に養子、婿養子をもらうことは容易であった[124]。女性は健全な子供を産むことが課題となり17世紀末になると妊娠出産の啓蒙書が普及したが、「愚かな女性に健全な世継ぎを産ませる」という背景があった[124]

17世紀には庶民の初等教育を行う寺子屋が開設される[124]。19世紀になると飛躍的に数が増えるが、寺子屋の経営者にも女性がいた。明治元年の調査によれば全国15512の寺子屋があり、179か所が女性経営者であった。これらの寺子屋では女師匠を多く雇い、生徒も女生徒の比率が高かった。また女子は武家や公家に行儀見習いに出るという手段もあり、そのために三味線などの稽古が流行した[124]。こうした背景のなかで1837年に奥村喜三郎は女学校を建てるべきだと主張した。設立趣意書には読み書きと行儀、長刀小太刀を身に着け、機織り、裁縫などを教えるとされたが、計画のみで実現しなかった[125]

裁きと刑罰の男女差

18世紀半ばに成立した『公事方御定書』では密通で妻の貞操が犯された場合、夫はその男女を殺害しても罪に問われないとされた。経済的に余裕のある夫が妾をもったり娼婦を買ったりする事と比べると、男女差は明確である[126]。また既婚女性に対する強姦犯は死罪であるのに対し、未婚女性に対する強姦は重追放と罪の重さが違う。こうした犯罪は女性の人格侵害よりも、妻を管理する夫の権利の侵害の方が重く見られていた[127]。一方で密通以外の刑罰について男女の性差はなかった[126]が、江戸時代後期に諸藩で制定された刑法典のひとつ、熊本藩の『御刑法草書』では殺人などの「死罪にあたるほどの罪を犯した女性以外には刑罰を科さない」「刺青や強制労働を科さない」「拷問、刑罰は産後100日間まで免除」などの一定の保護があった。こうした区別が生まれた背景は「女性はわきまえ無く道理が分からないから」「女性は男性の勧めのままに罪を犯す」(『古類集』)など「女性に責任能力の欠如がある」という前提があった[126]

刑罰では女性にしか見られない罰がある。「奴」は望む者の家に罪を犯した女性を下げ渡し、家内労働に使役させる刑罰と思われる。「髪を剃る」は剃髪する刑罰で、婚姻規範を破った女性に科された。一方で男性にしか科されない「敲き(たたき)」は公衆で上半身裸にして麻糸などで巻いた竹で叩く刑罰で、女性は入牢で代替した[126]

遊郭

吉原の花 喜多川歌麿

幕府は人身売買を禁止し10年以上の奉公を禁止したが、遊女だけは黙認された。寛永期までに4か所の傾城町[注釈 36]を公認し、一か所に囲い込みを行った。こうした遊所は遊女が逃げる事を防ぐため、周囲を塀や堀で囲い出入口を大門に限定して、その様子が城の曲輪に似ることから廓(遊郭)と呼ばれた[128]。遊女となる女性は14歳ほどで身売りされ、年季は10年前後であったとされるが、いつまでも遊女奉公から抜けられない人もいた。こうした遊女が吉原の最盛期では6000人ほどいて、その他に遊女見習いとして新造禿がいた[128]

一方で遊郭の遊女(公娼)以外の売春(私娼)は取締りの対象となった。しかし実際には藩公認の遊所や宿場の飯盛女もあり公娼の範囲は曖昧である。享保期にでた『許可令』によると江戸府外[注釈 37]の宿場では1軒につき2名の飯盛女を置くことが許された。奉公人請状に記された内容から、前借金は親元に渡され、奉公の場所や内容に異存がない事や確認や亡くなった場合の処置を一任するなどとあり、実質的な身売りであった[128]

こうした過酷な状況から抜け出すために、火付けをする女性もいた。18世紀以降に八丈島三宅島流刑された女性は36名だが10人が遊女で、そのうち9人が火付であった[129]

宗教と思想

お陰参り『宮川の渡し』 歌川広重

宗教から生まれた女性不浄感はその社会に浸透し、近世になると酒造りや祭などから女性を締め出した[100]。 17世紀後半から商品経済が発達し女性も収入を得るようになると宗教あるいは宗教との関わりに変化が生まれる。18世紀前半に富士講が流行するが、身禄は五障を否定し「男女に如何なる隔てもない」と対等であることを説いた。しかし「三従[注釈 38]の務めをよく行うなら罪は無い」と男尊女卑を前提としたもので社会的な平等とは異なるものであった。18世紀後半からは伊勢参り金毘羅参りや霊場巡礼などが流行し女性も足を運ぶ[130]入鉄炮出女と呼ばれるように、江戸を出る女性には関所で厳しい検分が行われたが、女性らは障害を越えて旅をした[131]。こうした参詣旅は一時的なレクリエーションを兼ねるものであった[130]。19世紀に至ると如来教きの天理教中山みきなどの女性教祖が登場する。如来教はあの世とこの世を無限に流転するうえで男女が入れ替わる事があるとし男女の区別を否定した。また天理教は男女一対から世界が生まれたとし男女共存を説いた。こうした男女の性差を越えようとする宗教思想は庶民女性から起こった[130]

近世の女性はどの身分でも家父長制の中で男性に隷属させられたが、これらは儒教によって正当化されていた。陰陽に基づいて女性は生まれながらに陰とされ、陽の男性よりも劣る性とされた[132]。このような女性観は『女大学』などの女性用教訓書などにより女性たちに植え付けられた[118]。こうした世相の中で只野真葛は儒教を批判する国学と蘭学から得た知識を元に『独考』を1817年に著し、儒教の女性観を批判した[132]

江戸文化と女性

『天女飛翔図(飛天)』清原雪信

中世から引き続き江戸時代初期までは芸能の担い手は女性であった。女舞、女能、女歌舞伎が御所でも催され、寺社や芝居小屋では歌舞伎舞に庶民が熱狂した。しかし1629年に幕府が男女打ち交じりの踊りや芝居舞台に女性が出ることを禁止する。現在伝統芸能の担い手の多くは男性であるが、これは近世からである[133]

一方で筆を取って自己表現をした女性は多い。女性俳人では「元禄の四俳女」と言われた智月秋色や西国を行脚した諸九が著名である。また女性歌人も多く、賀茂真淵の門下である油谷倭文子土岐筑波子鵜殿餘野子は県門三才女と呼ばれた。女性画家としては狩野派清原雪信琳派の野々村国春らが居る。また旅にでた女性は旅日記を記す。小田宅子の『東路日記』や西村美須の『多比能実知久佐(たびのみちくさ)』は女性たちの目を通して当時の風景や風俗を記している[134]

一方で女性たちは描かれる対象でもあった。美人画は遊女や水茶屋の女性が多く、喜多川歌麿の作品1900点のうち550点が吉原を題材としてる[135]

戦場の女性

江戸時代は太平の世であったが、戦闘が無かった訳ではない。1637年の島原の乱では女性も原城に籠城し、石礫を投げて戦った。また一揆に対して武家の女性も逞しく、上田騒動では家中の女性が長刀をもって百姓の襲撃に立ち向かおうとした[136]

戊辰戦争の会津藩では、軍事の妨げにならない範囲で武家女性も若松城に立てこもり、炊き出しや看護だけでなく銃弾の鋳直しなどの作業を行った[注釈 39]神保雪子のように長刀を持ち戦闘に加わる女性も居た一方で、西郷千恵子のように自刃する女性も居た[136]。また英国公使館のウィリスは会津兵が退却していく途中で強姦や盗みと殺害を目撃したと報告している[136]

近代

自由民権運動と女性解放運動

文明開化が起きると福沢諭吉をはじめとする明六社は男女同等、夫婦同等論を展開する。しかし婦人参政権には言及しなかった[137]。自由民権運動が展開されると男女同権論が紹介され、また女性も天賦人権を自覚して立ち上がる。1879年に楠瀬喜多は女性であることを理由に区会議選挙に投票できなかった事から納税を拒否し、女性から権利主張する第一歩となった[137]。続く岸田俊子影山英子らが婦人参政権を求めて演説を行った[137]。しかし1889年に公布された『衆議院議員選挙法』、あるいは市制、町村制では女性の参政権を否定される。また1890年には『集会及政社法』により女性すべての政治活動が制限される[138]

大正デモクラシーが展開されると、合わせて女性解放運動も活発になる。与謝野晶子平塚らいてう山川菊栄らは妊娠出産について母性保護論争を展開したが、それは家族制度や女性労働も含めた問題であり、女性教育や女性参政権にも範囲が及んだ。与謝野晶子は普通選挙制を要求し、文化学院を設立して男女の自由で平等な教育にあたった。平塚らいてうは女性の権利実現が子供の権利実現と同義であるとし、男女機会均等や婦人と子供の権利などを訴えて市川房枝らと共に新婦人協会を設立した。山川菊栄は赤瀾会を立ち上げ、社会主義運動のなかで労働者階級の女性解放運動を展開する。また同時期に石本静江らが産児制限運動に取り組む[139]

新婦人協会は女性の集会結社の自由を制限する治安警察法第5条の改正を訴え、1922年にこれを実現させる[140]。しかし1925年の普通選挙法制定では女性に選挙権は与えられなかった。1924年に市川房枝らは婦人参政権獲得期成同盟会(翌年、婦選獲得同盟に改称)を結成し女性参政権運動を続ける[140][141]。1930年には婦人公民権(地方政治への参政権)が衆議院で可決するなど進展を見せるが、満州事変以降に議論が止まってしまう。1937年に日中戦争が起きると市川房枝は、生活を守るためには政治参加の道を閉ざすべきではないとの思いから戦争に協力することを判断し、婦選運動は後退した[142]

近代の家族制度

1870年に定められた『新律綱領』では妻と妾が同等に規定され、翌年制定された『戸籍法』では妾の入籍が明記され、一夫多妻制が法制化される。一方で1873年の太政官布では条件付きではあるが、女性から離婚の申し立てが認められ、法的救済の道が開けた[143]。また外国人との婚姻も認められたが、父が日本人である場合にその子が日本国籍を取ることが許される男系主義であった[144]。1890年に公布された旧民法では財産の個人所有や婚姻の自由が認められていたが、穂積八束らの反対により民法典論争がおこって施行が延期され、1898年に施行されるまでに家族関係における男尊女卑を規定する内容に変更された[138][145]。その結果、男性を戸主とする男尊女卑の秩序が示され[143]、近世からの家父長制度を法規範として固定化し存続させた[138]。これにより戸主の権限が強くなり、戸主は本人の同意なく家族を離籍することができるようになった他、子供の婚姻も父の権利となった。妻は婚姻によって夫の姓を名乗ることを強要され、さらに夫は妻の財産を管理すると定められる。また親権は父のものであり、父が親権を行使できない場合は母が親権者になれたが、子の財産管理は「他家からきた嫁」には認められず親族会の同意が必要であった。こうして家の存続に全てを犠牲にする女性が婦女の鏡と称えられるようになる[138]

女性の役割を家庭の中に求める国家の姿勢を批判したのは1911年に発刊された『青鞜』であった[146]。誌面上で平塚らいてうは家制度を否定し女性の個の確立を訴えた他、西崎花世安田皐月らが自由恋愛、避妊、堕胎、廃娼などの女性問題が取り上げられ、女性解放運動に一石を投じた[147]

第一次世界大戦をきっかけにして重化学工業が発展を遂げると、都市部に人口が集中しサラリーマン層が増えた。その結果として賃金生活者を中心として核家族が増加する。こうした家庭の多くは夫が労働、妻は育児という役割分担が行われた[140]。アメリカ流の合理的育児法が宣伝され「少なく生んで多く教育する」とする考えは広まる[148]。子供の教育が母親の課題となったが、親族やコミュニティから離れて相談する相手のいない女性たちに、『主婦の友』や『婦人公論』などの女性向け雑誌が歓迎された[140]

1917年に寺内正毅内閣は民法の改正に乗り出し審議会を発足する。そこでの議論は親族法と相続法をより家父長的にしようとする保守派と、個人主義、近代主義的な家族形態に改めようとする進歩派の攻防であった。1929年には戸主権、父権の縮小と乱用防止、および親権の近代化を図る改正案の答申が成立したが、太平洋戦争に突入して改正は実現しなかった[145]

女性教育

女子留学生 左から、永井繁子 (10)、上田てい (16)、吉益りょう (16)、津田うめ (9)、山川捨松 (12)。

1872年には国民皆学を掲げ官立女学校が設立され、津田梅子山川捨松永井繁子ら5人が海外留学に派遣された[注釈 40]。しかし財政難を理由に女子留学は1回だけで打ち切られ、官立女学校も5年後には廃止されて女性に対する中等以上の教育は民間にゆだねられた[143]。これらの受け皿となったのがミッションスクールであり、今日まで女子教育の重要な役割を果たしてきた[150]

女性の中等教育は「良妻賢母」を強要するものであった。1893年に井上毅は「男女の生理的差異を元にその役割の違いと固有の性能を固定化して強調する」とし、1895年の高等女学校規定や1899年の高等女学校令の理念を決定に影響を及ぼした。こうした中での教育は科学的知識や思考ではなく、家庭生活の中での手わざに重点が置かれた。また女性の上級教育への進学は阻まれた[151]。1907年には義務教育が6年に延長され、この頃には女子の就学率も97%になっていた。しかし教育内容は女性の国民的自覚と家庭での役割を強調するもので、男女の役割分担を繰り返し教えた[146]

資本主義と女性

八重洲町電話交換局

産業革命期には製糸、紡績業が中心産業となるが、その労働力の担い手は女性であった。官製の富岡製糸場は開業にあたって必要とされた300人が集まらず、15歳から30歳の女性を集めるよう各県に割り当てた[152]。こうした労働は過酷で、多くの紡績工場では高価な紡績機を効率よく運用するために昼夜2交代で24時間休みなく動かそうとした。女工は非衛生な寄宿舎にいれられ、賃金は男工の半分でイギリス労働者の26分の1であった。女工は幼くして地方から身売り同然に送られて前借金と契約によって縛られたが、契約が満了して帰郷しても義務教育を終えていないことから結婚に支障をきたすこともあった。やがて製糸の輸出量は世界一位となるが、その陰には女性労働者の犠牲があった[153]

日露戦争以降に資本主義が発達すると、女性の職域は拡大した。女性教員、女医、産婆、速記者、看護婦、電話交換手、記者の他、デパート店員や音楽教師、タイピスト、ウェイトレスが登場する。戦争で夫を亡くした女性が就職するなどで女性就労者が増えて「職業婦人」と呼ばれるようになり、最も女性が多い教員では1918年に女性は全体の30%を越えて5万人に達していた。しかし女性は男性の補助として扱われることが多く、賃金は男性の60%から80%に抑えられていた[154]。このように女性が就職するようになると良妻賢母との関係で議論が起こる。母性保護の規定がなかったため結婚あるいは出産育児との両立で女性が悩むようになり、1908年には女性教員の要望により長野県で有給2か月の産休が認められ、1922年に文部省は産前2週間、産後6週間の休養が認められる。また工場法では産休9週間、1日2回30分の哺乳時間が承認される[154]。1925年には全国婦人協議会が設立され、6時間労働制、夜業・寄宿の禁止、有給8週間の産休などを命題に掲げた[155]

女性の社会運動と廃娼運動

資本主義の進展すると都心で貧困問題が発生する。このような下層社会に目を向け貧民子女教育に力を入れたのが野口幽香や森島みねである。野口らは上流婦人や慈善運動家から援助を集めて1900年から二葉幼稚園を運営する。また同じころに社会問題となったのは足尾鉱毒事件である。現地をみた矯風会は、鉱毒地救済婦人会を結成し窮状を訴える演説会を実施。集まった募金で被害地の救援を行った[156]

1875年にマリア・ルス号事件が起きると、日本政府は外交交渉に配慮して人身売買や年季奉公を制限する芸娼妓解放令を発布する。しかしこれらは売春そのものを禁止するものではなかった[143]。1900年には娼妓と楼主の契約を無効とし、前借金の有無にかかわらず自由廃業できるという判決が下りた。これにより翌年までに12000人余りが廃業したと言われ廃娼運動が一歩進んだ。また婦人救済所をつくり廃業した女性の救済更生活動に尽力したのは山室軍平と妻山室機恵子らである[156]

1925年に『婦人および児童の売買禁止に関する国際条約』を保留条件付で批准すると国際連盟による状態調査が行われて国は対応を迫られる[注釈 41]。1934年に岡田啓介内閣は廃娼の方針を固めるが、1935年には娼妓存続派が『娼妓取締法』(審議未了)を提出してこれに反抗。以降は戦時体制下において娼妓の存在が正当化された[157]

女性作家と西洋芸術

『朝妝』黒田清輝

近世に筆を取った女性らは明治になると小説の世界に足を踏み入れる。樋口一葉の『たけくらべ』や三宅花圃の『藪の鶯』、木村曙の『婦女の鏡』が著名である。1892年の『女学雑誌』には「今の女学生は特別に文学を好み、文学者になることを理想とする」と記されている[158]

文明開化以降、日本は脱亜入欧を掲げて西洋文化を積極的に取り入れる。西洋美術への理解も文明国入りするための手段として推進された。こうした背景から1895年に黒田清輝の『朝妝(ちょうしょう)』がフランスで入賞したことは高く評価されるはずであったが、内国勧業博覧会に出展されると「芸術としての裸婦」に理解のない人びとから非難を浴びる。のちに東京美術学校が設立されると、黒田は裸体モデルの写生などを科目に取り入れて西洋芸術の普及に力を入れる[注釈 42][159]

音楽家の地位は高くなく男性がするべきではないという風潮があったために、西洋音楽は女性優位であった。1879年に音楽取調掛が設立されると第一期生の過半数が女性であり、幸田延や遠山甲子らを輩出。1887年には東京音楽学校が開校し、幸田幸神戸絢子らが留学生として海外に行く。しかし当時の音楽家は職業意識が低く、人前で演奏することを嫌がる者もいた。1903年に日本人初のオペラ『オルフォイス』が上演されるが、出演した三浦環は後にプリマドンナとして国際的に活躍し、プロ音楽家としての道を開いた[158]

対外戦争と女性

1907年に日露戦争が始まると女性の協力が呼びかけられる。これに呼応して全国の婦人団体で金品の献納などが呼びかけられ、軍人家族の救護や傷兵慰問などが行われる。こうした援助活動の中心となったのは内務省陸軍省の公演を受けた半官的な愛国婦人会である。また日本赤十字社も看護婦らを戦地に送った。こうした「女性が政治に参加できない中で協力を求められる風潮」に異議を唱えたのは社会主義の婦人であった[146]。また満州開拓義勇軍傷痍軍人との結婚が奨励され、戦死した長男の嫁を次男の嫁に「なおす」ことが半ば強制的に行われたりした[144]

結婚は兵力、労働力の源泉と位置付けられる。『人口政策確立要領』では1960年までに人口を1億まで増やすことを目的に定め、そのために早婚を奨励するようになり、女性の就労が抑制される[注釈 43][144]。しかし実態としては男性が戦地に赴くために主婦の多くが困窮し、また労働力不足から様々な社会活動に従事させられていく[148]。1943年に『工場法戦時特例』が出され、指定工場では深夜就業などの制限が適用されなくなる。14歳以上の未婚女性を女子挺身隊として組織して航空機製造などで長時間労働が行われた。また同年に事務補助や車掌などに男性が就労が禁止される。戦局の悪化と共に『女子挺身勤労令』により違反者に罰則ができるが、既婚女性にたいしては敗戦まで強制的な新規徴用は行われなかった[160]

一方で従軍看護婦として戦場に送り込まれた女性もいる。特に日本赤十字社は兵士同様に召集令状がくれば速やかに応じるようにとされ、約3万人が戦場に送り込まれ1080人が亡くなった。他に陸海軍所属の看護婦は約1万人とされる[161]

大陸に戦場が広がると、占領地において日本軍による強姦、買春などの不法行為が頻発する。事態を重く見た軍は性病予防と強姦防止を名目として慰安所を設置。そこに中国、朝鮮、台湾、日本から集めた女性を慰安婦として送り込み軍人の性処理にあたらせた。女性の多くは借金や暴力により強制的に連れてこられ、性行為を拒否できなかった。1942年以降は東南アジア、太平洋地域にも設置されるが、慰安所設置の目的は兵士の不満や犯行を抑える為であり、女性たちはそのための道具とされた[162]

沖縄戦では沖縄住民に動員が掛けられるが、その中にはひめゆり学徒隊ら女性学生約500人もいた。また戦局が悪化すると女性や子供たちを含む住民は集団自決をした[163]。沖縄戦で命を落とした県民は10万人を超え、原爆でも広島で20万人余り、長崎で10数万人、ほか全国で空襲により多くの一般市民が命を落とした[161]

現代

戦後改革と女性解放

1945年にマッカーサーが指示した五大改革には「選挙権付与による日本婦人の解放」が掲げられており、敗戦と共に日本は新たに民主国家としての道を歩み始める[注釈 44][164]。敗戦の11日後に市川房枝は戦後対策婦人委員会を設立して婦選実現に向けて働きかけを始め、1946年には初めて女性が選挙権を行使し、39人の女性代議士が誕生した[注釈 45][164]。1947年に施行された日本国憲法には「社会的関係での性差別の禁止」や「結婚が両性の合意のみに基づく対等な関係」である事がが謳われた[注釈 46][164]。続いて『教育基本法』『労働基準法』『刑法』『民法』などが改正され、男女同学、男女同一労働同一賃金、母性保護、姦通罪の廃止、家父長的家族制度の廃止などが次々と実現した[164]

1960年代に全共闘運動が活発になると多くの女子学生も参加した。しかし参加した女性らは人間の解放を謳う運動でありながら女性を隷属的に扱う男性に疑問を投げかける。1970年に田中美津の記した『便所からの解放』により日本でウーマンリブ運動が始まり、世界的な第2波フェミニズムの潮流に乗る[168]

1975年に国際婦人年が設定され、平等・開発・平和を柱とする世界行動計画が採択される。さらに1979年に『女子差別撤廃条約』が採択され、日本は1985年に批准する。これに先立ち『国籍法』を父系主義から父母両系主義に変更、『男女雇用機会均等法』の制定などが行われる。また1975年には「婦人問題企画推進本部」と「婦人問題担当室」(現「男女共同参画推進本部」と「男女共同参画局」)を設置し、1999年には『男女共同参画社会基本法』が成立した[169]

この間に女性の政治への参画が進む。1984年の中曽根内閣以降、女性が1から4名入閣した。土井たか子が1986年に女性初党首、続いて1993年には女性初衆議院議長を務めた。しかし1998年頃からジェンダーバックラッシュが始まり、地方自治での男女共同参画条例の制定が停滞する。こうした状況に2000年に国連女性差別撤廃委員会の勧告が出された[170]

家族の多様化

1948年に民法が改正され、戸主権を中心とする「家」の規定が削除。婚姻と離婚の自由、財産分与の男女平等が認められ、家父長制は廃止された。しかし戸籍制度はそのまま残され「家」意識を温存する先祖祭祀は削除されなかった[171]。また現在もなお、婚姻年齢や再婚禁止期間、夫婦同一姓規定など、依然として男女格差が是正されていない部分が残されている[167]

高度成長が起きて産業構造が変化すると核家族が増える。一方で年功序列や終身雇用などの日本型経営が広がり、男性は長時間労働に従事する労働者、女性は専業主婦となって家族を守るとする性別役割分担家族が定着する。その後、石油ショックを機に日本型経営が崩壊し、男性一人の賃金では家族を支えることができず女性が労働市場に進出する。専業主婦は1975年をピークに減少し、1985年以降は働く女性の方が多くなった。しかし家事と育児は女性という性別分業意識は健在で、女性の労働力率は30台前半を底とするM字形曲線が定着した。さらに1980年代後半から未婚率の上昇、晩婚化、少子化が進んでおり、単身世帯やDINKSが増えている[171]。1990年代から事実婚夫婦別姓同性愛者カップル、同じ価値観をもつ人で共同生活するグループリビングといった居住形態が増えてきているが、法律を含めた社会システムの整備が十分ではない[171]

高度経済成長と女性雇用

1947年までにいわゆる労働三法が成立した。戦前の工場法と比べると、男女同一賃金、女子および年少者への時間労働と休日の保証、深夜業の禁止、産前産後休暇、育児時間、生理休暇などが認められた。生理休暇は諸外国にもまれで、実現には女性の粘り強い要望があった[172]

高度経済成長を背景に一般家庭の所得は増え、洗濯機、冷蔵庫などの家電製品が普及する。より高い賃金を保証したいという願いから親は子に高等教育を望み、進学率と教育費は増加する。これらを背景としてパートタイマーと呼ばれる再就職女性労働者が激増した。1975年には女性労働者のうち半数が共働きとなる。こうした女性らが労働の最大の障害であった保育所不足の解消を訴える[173]。一方で働く環境が整ってくると正規労働で働き続ける女性も増えてきた。これに対し経営者は結婚退職や出産退職を女性に押し付けるようになる。1966年に結婚退職制を憲法違反とする判決を先鞭に女子差別労働裁判が増加。1970年代には年間53件とピークに達する[173]

1985年には『男女雇用機会均等法』が成立するが、事業者には努力義務のみで制裁や罰則がないことから不十分な内容であった。また同時に改正された『労働基準法』により時間外労働や休日労働の制限などで女性保護規定は後退する。1999年には均等法が改正され、募集・採用・配置・昇進が禁止規定となり、是正しない企業は公表されることとなった。しかし国の努力義務はなく、セクハラ対策が事業主の防止策に留まるなど、より実効性のある指針の策定が望まれている[174]

教育機会均等

1945年に女子教育刷新要綱が閣議了解され、男女間の教育の機会均等、堂塔の教育内容、男女相互尊重を方針に掲げられた。これにより戦前は慣習により認められていなかった女性の大学入学と、女子大学の設置[注釈 47]が行われる。翌1946年には旧制大学に142名の女性が合格している。また戦前は国民学校初等科は男女別教育で教育課程にも差異があったが、1946年に男女共学となり、1947年には旧制高等学校でも女子の入学が許される[175]。こうした法改正についてはCIEの強い意向によるものであったが、CIEは戦前の男女共学運動の成果に影響を受けていたとされている[175]

1947年に家庭科が誕生し、小学校では男女必須科目、中学校では職業科の一つ、高校では選択科目として男女が学ぶことができた。しかし1958年に中学校で「技術・家庭科」と名称が変更され、男子は技術、女子は家庭科と男女別学となる。また高校では1970年には家庭科が女子のみの必須科目になる。このような状況に反対する市民運動がおこり、1989年には再び男女共学にもどった[176]

1960年代後半にアメリカで誕生した女性学は、従来「学問の研究対象と視点が男性主義」であったことを検討課題とする学問である。日本では1970年代に井上輝子が女性学の名称を初めて用い、1979年には日本女性学会が設立された。女性学は従来の学問、専門分野の枠を超えた方法論の必要性を提唱している[177]

公娼廃止

安浦ハウスと米兵

敗戦の3日後に内務省が占領軍の上陸に備えて性的慰安施設の設置を要望。これにより特殊慰安施設協会(略称はRAA)が生まれる。設立声明書には「一般婦女子の貞操を護るため性の防波堤を築くという政府の要望を受けて幾千かの人柱の上に民族の純潔を護持する」と謳われている。こうした施設は全国に広がって戦後の生活難にあって多くの女性たちが集まり、最盛期には7万人が働いた。しかし性病の広がりによりGHQは施設の立ち入りを禁止。多くの女性が私娼(パンパン)となった[178]。一方でGHQは1946年に『公娼廃止に関する連合国軍最高司令官覚書』を発令し売春目的の業者を取り締まる。政府は公娼制度関連法を廃止し公娼制度は消滅するが、一方で個人が自発的に行う売春は違法でないとし、1946年には特殊飲食店街として赤線地域を指定して警察の管理下に置いた[178]

廃娼運動団体や婦人団体が中心となって1956年には『売春防止法』が成立する。これにより赤線は消滅するが、一方で派遣型などの新しい売春形態が生まれた。高度成長期には性産業が隆盛し、海外への買春ツアーや低年齢化などの別の問題が発生する。1999年には『児童買春・児童ポルノ禁止法』が成立した[179]

産児制限

1940年代後半はベビーブームと呼ばれる時代であった。1947年に出生率が4.54となると、厚生省は人口抑制する方針に転換する[180]。1948年公布の『優生保護法』では優生と母体保護を理由に医師が人工中絶を行うことが認められたが、審査制であった。加藤シヅエらの運動により1949年の改正では避妊の実施と普及が図られ、中絶適応に経済的理由が加わり、さらに1952年には審査制が廃止される。これらにより女性は子供の人数や出産間隔などに自分の意思を反映できるようになり、「家族計画」という言葉が普及した[181]

脚注

注釈

  1. ^ 血縁関係は明らかではない
  2. ^ 弥生土器の型式分類により近隣地域で製作技法の交流がみられるが、その理由を作り手である女性の婚姻による移動に求める説[8]
  3. ^ 抜歯や埋葬法による親族関係の考察による説[9]
  4. ^ 8世紀初頭に近江国に田作り行った男女が藤原京に帰るための通行許可証(木簡)が発掘されている[10]
  5. ^ いわき市では郡司の田での田植えに人を動員するよう里刀自に宛てた郡符(木簡)が出土しており、女性が農作業を取り仕切っていたことが分かる[22]
  6. ^ 唐では後宮でで皇帝の取次をするのは宦官の役割であったが日本では宦官制度が導入されなかった[25]
  7. ^ 出産においても賜禄にあずかるのは男性医官であった[30]
  8. ^ 古来から酒造りは女性の仕事であり、それを商売とする女性もいた。酒造りをする杜氏の語源は刀自であると考えられる[34]。なお酒蔵の女性禁忌は近世からとされる[35]
  9. ^ 唐では両家の合意が両家の家長の同意と媒人の取り持ちが必要であったが、日本で承諾を得るのは女性側の両親と兄弟の他に父母双方の祖父母であった。母方にも承諾が必要であったのは日本古来の妻方居住婚の名残と考えられる[39]
  10. ^ ツマドイノタカラを持つことで息子・娘と見なす風習があった。(『常陸国風土記』)[38]
  11. ^ 百取机代之物(ももとりのつくえしろのもの、豪華な食事)を女家が準備する
  12. ^ 妻の意味ではなく端(ツマ)の意味。つまり敷地の端に家を建てた。準備するのは女性側に限らず、妻方居住、夫方居住に加えて新処居住もあった[38]
  13. ^ 万葉集』に詠まれる和歌では「妻のいる家に行く」「母のいる家に帰る」という表現の違いから家族感を伺うことができる[40]
  14. ^ 日本語の親族名称は父系と母系を区別しない。オバは中国では母方を姨、父方を姑とするが、日本では同じオバである。このような実態は双系制の名残と考えられる[44]
  15. ^ 最初に太上天皇となった持統上皇文武天皇を補佐し、孝謙天皇の後見人となった光明皇后淳仁天皇の後見人となった孝謙上皇などがいる
  16. ^ 国母の権力は上皇の没後に行使されたもので、父権より母権が強力という認識は誤りである[56]
  17. ^ 江口遊女の丹波局は後白河院の子・承仁法親王、白拍子の石は後鳥羽院の子・照子内親王、舞女の夜叉女は徳大寺公継の子・徳大寺実基を生んでいる[71]
  18. ^ 法華経』は本来は男女が共に救済されるという思想であったが漢訳される際に「女身垢穢(にょしんこうあい)」が挿入され、女性が成仏できないとする女人五障(にょにんごしょう。女性は梵天王帝釈天魔王転輪聖王の5つの地位につけないとする教え)が定着した[73][74]
  19. ^ せっぷ。操をまもる女性。
  20. ^ 嫁入り婚は武家から始まったと考えられる。九条良経一条能保の娘(源頼朝の姪)の婚儀にあたり、嫁取婚儀と婿取婚儀のどちらで行うか揉めた記録がある[77]。また婿養子を取り、名字名跡を継がせることも認められている[78]
  21. ^ 九条道家近衛兼経に嫁いだ娘を近衛北政所と称している[79]
  22. ^ 御成敗式目には「律令では許されないが」「朝廷の意見と異なるが」などと断ったうえで「女子に領地を譲ったあとに不和となれば親は領地を取り戻しても良い」や「女性が養子をとって領地を譲っても良い」など女性の相続権について武家の慣習が加えられている[81]
  23. ^ 1330年の譲状には「女子への相続は一代限りで、相続した女子が亡きあとは嫡子が差配するように」と記されている[80]
  24. ^ 被告人の縁者を指す。
  25. ^ あいやけ。夫婦の両親同士のこと。婚姻で親同士の結合も生まれたとされる。
  26. ^ ただし家と家を結びつける手段としての結婚は鎌倉時代から江戸時代に至るまでみられ、封建制下の普遍的な現象とも考えられる[92]
  27. ^ 公家の話であるが、三条西実隆は『実隆公記』に「さいふ」をめぐって嫁姑が争う様子を記録しており、女性が家業を取り仕切っていた事が分かる。武家でも同様であったと考えられる[93]
  28. ^ けつえ。血液による穢れ。転じて月経への穢れ感のこと[55]
  29. ^ 能楽「百万」は実在した曲舞の名人を元にするとされる。また曲舞は能楽のクセに名残をとどめている[103]
  30. ^ 祇園祭は近世以降に女人禁制となるが、中世では女性が舞っていた姿を能が留めている[103]
  31. ^ 15世紀には室町幕府が姦夫姦婦を討つよう裁定を下した記録がある[104]
  32. ^ 辻における女捕(めどり)を実質的な強姦であったとする説もある[105]
  33. ^ 北条五代記』や『大坂夏の陣図屏風』にも女性らがさらわれる様子が残されている。これらの多くは金銭目的であったと考えられる[111]
  34. ^ 将軍や大名の周辺では後家や父を失った女性に知行が宛がわれたり、化粧免が与えられたりしていた。また大奥勤めの女性には知行が与えられ家督・所領相続できた[114]
  35. ^ 一部の地域では末子相続制や姉家督制もみられたと考えられる[118]
  36. ^ 江戸の吉原、大坂の新町、京都の島原、そして外国人用の長崎の丸山
  37. ^ 千寿板橋品川内藤新宿は例外で総数を定めた。
  38. ^ 「幼にしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う」という儒教の教え
  39. ^ ただし歴史小説のような女性部隊は無かった[136]
  40. ^ 男性留学生は法律、政治、社会制度であったのに対し、女性留学生は家庭を学ぶことを求められた。また年齢も若い[149]
  41. ^ 地方議会においては1882年の群馬県を先鞭に1937年までに23県で廃娼決議が可決される[157]
  42. ^ なお1970年代以降、フェミニズム的視点から「裸婦」を描くことは男性中心社会のシンボルであると位置づけられている[159]
  43. ^ 一方で『国民優生法』が成立し、遺伝的疾病があると不妊手術や中絶が行われた[144]
  44. ^ 1959年に行われたアンケート調査では、敗戦を「悔しい」と受け止めたのは男性67%、女性20%、「ほっとした」としたのは男性18%、女性50%と、男女で受け止め方が異なっていた[164]
  45. ^ 女性候補者は79人、投票率は男性78.5%、女性67.0%であった[165]
  46. ^ GHQ民生局員の一人、ベアテ・シロタは憲法草案に妻の権利と母子の保護を入れようとしたが、「詳細は民法で」とされ果たせなかった[166][167]
  47. ^ 1918年の大学令により慶應義塾大学早稲田大学が私立大学となったが、日本女子大学東京女子大学は専門学校に留められた[175]

出典

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参考文献

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    • 伊集院葉子『家刀自の働き』。 
    • 伊藤めぐみ『女は「良妻賢母」とされていく時代』。 
    • 海老澤美基『継承される家ができた』。 
    • 大島志津子『性の売買と芸能』。 
    • 奥田暁子『近代家族の大衆化から家族の多様化へ』。 
    • 折井美耶子『総力戦下の女性、他』。 
    • 片倉比佐子『家族経営の時代、他』。 
    • 加藤美恵子『女商人の活躍』。 
    • 木村洋子『巴-変わる女武者像』。 
    • 国武雅子『市川房枝-婦選は鍵なり』。 
    • 栗林茂『律令・儀礼からみた女性』。 
    • 栗山圭子『妻・母・後家の政治』。 
    • 黒川みどり『「家」と近代家族のはざまで』。 
    • 黒田弘子『中世法のなかの女性たち』。 
    • 児島恭子『不定形な家族』。 
    • 後藤みち子『家妻の成立の時代』。 
    • 小林茂文『恋のはじまりと現実』。 
    • 坂井博美『資本主義の展開と女性労働』。 
    • 桜井由幾『小家族の子供と老人』。 
    • 佐藤和賀子『女性参政権を獲得して』。 
    • 柴桂子『さまざまなジャンルでの自己表現』。 
    • 菅原征子『村の女性の政治参加』。 
    • 菅原正子『合戦に翻弄された女性たち』。 
    • 鈴木織恵『戦場レイプのはじまり』。 
    • 関民子『家と不義密通』。 
    • 曽根ひろみ『裁かれる江戸期の女性たち、他』。 
    • 堤洋子『村政と闘いに加わる女たち』。 
    • 土谷恵『不平等な性愛の成立』。 
    • 長島淳子『広がる「家」と小家族の時代』。 
    • 長島淳子、菅野則子、横山百合子『拉致・強姦の戦場』。 
    • 中嶋みさき『ジェンダー平等社会をめざして』。 
    • 永原和子『「家」の結婚と性別役割家族の結婚へ』。 
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    • 西野悠紀子『共同労働の時代』。 
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    • 服藤早苗『酒を造り売る女性の時代、他』。 
    • 広瀬玲子『表現の世界へ踏み入る』。 
    • 溝口睦子『男女がともにたたかった古代の戦争』。 
    • 山村淑子『日本国憲法の誕生と女性』。 
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    • 義江明子『女帝が統治した時代』。 
  • 総合女性史研究会(編) 編『史料にみる日本女性のあゆみ』吉川弘文館、2000年。ISBN 4-642-07772-3 
    • 明石一紀『農業労働を運営、他』。 
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    • 伊藤康子『法制上の男女平等・個人尊重への転換』。 
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    • 梅村恵子『女子教育の実態』。 
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    • 奥田和美『教育の平等』。 
    • 勝浦令子『女性の出家-最初の尼・行基集団-』。 
    • 加納実紀代『ウーマン・リブの波』。 
    • 川原彩『期待される女性像と家庭科教育』。 
    • 京樂真帆子『宮廷女房の女性観』。 
    • 久留島典子『外国史料に見る女性』。 
    • 小暮紀久子『関所通行と女性』。 
    • 児島恭子『『日本霊異記』にみる母子家族の窮状』。 
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    • 菅原征子『儒教思想と女性』。 
    • 菅原正子『街の女性-働く女性-、他』。 
    • 鈴木国弘『女性を媒介とした族的結合-「一家」「縁者」の世界-』。 
    • 小林茂文『男女の出会いと別れ-結婚・離婚・カガヒ・ツマドヒ-』。 
    • 関口裕子『富豪女性の活動、他』。 
    • 舘かおる『女性学の誕生』。 
    • 永井路子『戦国大名家の女性の役割』。 
    • 西澤直子『労働組合婦人部と働く権利』。 
    • 西村汎子『女流文学の峰の誕生』。 
    • 西野悠紀子『令制下の女官・采女・国造-政治に関わる女性-、他』。 
    • 平井和子『RAAと公娼廃止から赤線へ』。 
    • 服藤早苗『婚姻形態の変化-公家と武家の結婚-』。 
    • 藤木久志『戦場の女性狩り』。 
    • 堀サチ子『雇用均等法と女性労働』。 
    • ゆのまえ知子『売春防止法の成立とその後』。 
    • 義江明子『系譜に刻まれた父母』。 
    • 吉見義明『日本軍「慰安婦」』。 
    • 吉田一彦『女人禁制のはじまり』。 
  • 女性史総合研究会(編) 編『日本女性史』 第1巻-原始・古代-、東京大学出版会、1982年。 
    • 岡田精司『宮廷巫女の実態』。 
    • 女性史総合研究会『刊行にあたって』。 
    • 都出比呂志『原始土器と女性』。 
    • 西野悠紀子『律令体制下の氏族と近親婚』。 
  • 脇田晴子、林玲子、永原和子(編) 編『日本女性史』吉川弘文館、1987年。ISBN 4-642-07267-5 
    • 伊藤康子『戦後改革と女性解放、他』。 
    • 今中保子『婦人参政権運動の展開、他』。 
    • 植野弘子『農業を発明した女性』。 
    • 梅村恵子『律令法と女性の地位、他』。 
    • 大木基子『女性の職業進出と働く権利、他』。 
    • 加藤美恵子『女商人の活躍』。 
    • 勝浦令子『女人禁制と女人成仏、他』。 
    • 黒田弘子『村落祭祀と女房座、他』。 
    • 管野美恵子『女房文学の光彩』。 
    • 菅野則子『庶民女性の教育』。 
    • 佐藤宗諄『女帝と皇位継承法-女帝の終焉をめぐって』。 
    • 関口裕子『階級社会のはじまり』。 
    • 関民子『学問・思想と女性』。 
    • 田端泰子『鎌倉武士団の要、他』。 
    • 長野ひろ子『幕藩制国家と女性知行、他』。 
    • 永原和子『官営工場の伝習工女、他』。 
    • 西野悠紀子『農業を発明した女性』。 
    • 林玲子『女流人たち、他』。 
    • 早川紀代『女流人たち、他』。 
    • 宮本由紀子『廓と宿場』。 
    • 服藤早苗『女性の地位と相続性』。 
    • 妻鹿淳子『女性と宗教』。 
    • 義江明子『万葉歌にみる婚姻・恋愛・性、他』。 
    • 脇田晴子『傀儡子・白拍子・遊女』。 
  • 久留島典子長野ひろ子長志珠絵(編) 編『歴史を読み替えるジェンダーから見た日本史』大月書店、2014年。ISBN 978-4-272-50182-3 
    • 編者一同『はしがき』。 
    • 勝浦令子『国分寺・国分尼寺の並立とその後、他』。 
    • 久留島典子『中世社会とジェンダー』。 
    • 須田牧子『異国の人びとが見た日本のジェンダー』。 
    • 曽根ひろみ『江戸の遊女と公娼制』。 
    • 高橋裕子『岩倉使節団と初の女子留学生』。 
    • 長野ひろ子『ジェンダー史研究の展開と本書の試み、他』。 
    • 野村育世『嫁入婚と夫婦、他』。 
    • 宮城晴美『沖縄戦とジェンダー-戦場の女たち』。 
    • 服藤早苗『紫式部『源氏物語』と清少納言『枕草子』、他』。 
    • 義江明子『農耕の普及と社会の変化、他』。 

関連項目

外部リンク