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ヤエノムテキ

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ヤエノムテキ
欧字表記 Yaeno Muteki[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 栗毛[1]
白斑 四白流星
生誕 1985年4月11日[1]
死没 2014年3月28日(29歳没)[2]
登録日 1987年4月17日
抹消日 1991年1月4日
ヤマニンスキー[1]
ツルミスター[1]
母の父 イエローゴッド[1]
生国 日本の旗 日本北海道浦河町[1]
生産者 宮村牧場[1]
馬主 (有)富士[1]
調教師 荻野光男栗東[1]
厩務員 荻野功
競走成績
タイトル JRA賞最優秀父内国産馬(1990年)[1]
生涯成績 23戦8勝[1]
獲得賞金 5億2422万7500[1]
勝ち鞍
GI 皐月賞 1988年
GI 天皇賞(秋) 1990年
GII 京都新聞杯 1988年
GII 鳴尾記念 1988年
GII 産経大阪杯 1989年
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ヤエノムテキ(欧字名:Yaeno Muteki1985年4月11日 - 2014年3月28日)は日本競走馬種牡馬[1]

1990年JRA賞最優秀父内国産馬である。1988年皐月賞、1990年の天皇賞(秋)東京競馬場芝2000メートルのGIを2勝した。その他の勝ち鞍に、1988年の京都新聞杯GII)、鳴尾記念(GII)、1989年の産経大阪杯(GII)。

生涯

デビューまで

ツルミスターは、抽せん馬であった[3]栗東トレーニングセンター荻野光男調教師の下で3戦に出走し未勝利に終わったが[4]、東京優駿優勝馬の父であるイエローゴッドソロナウェートサミドリを祖先に持つ血統的な背景と、馬体に力があったことに荻野が着目[3]。荻野がツルミスターの馬主を説得して「仔分け」という形で、生まれ故郷の宮村牧場にて繁殖牝馬となった[3]

荻野は、配合相手も自身で選び、繁殖生活1年目はNijinsky産駒のヤマニンスキーを推薦、ツルミスターと種付けを行った[3]。1985年4月11日、宮村牧場にて、栗毛で四白流星を持つ牡馬(後のヤエノムテキ)が誕生した[3]

産まれた仔は、同世代の馬に比べて大柄であった[3]。当歳の頃から、牝馬と同じ場所で放牧すると、牝馬の後ろを付け回していたことから、牧場で放牧するときは、1頭のみにされていた[3]。2歳となり、三重県の育成場に移動。荻野は時間が空くと、厩舎を構える滋賀県の栗東トレーニングセンターから1時間かけてたびたび訪れて、指示を出したり、様子を確認していた[3]

競走馬時代

3-4歳(1987-88年)

3歳夏前に荻野厩舎に入厩し、夏の函館競馬場開催でデビューする予定であったが、後肢の成長が十分でなかったことから延期。栗東に戻り、立て直したためにデビューは4歳の2月となった。阪神競馬場ダート1700メートルの新馬戦に、西浦勝一騎手鞍上で出走[3]。3番手から直線で前2頭をかわすと、後方に7馬身離す独走状態で初勝利を挙げた[3]。再びダート、中京競馬場1700メートルの沈丁花賞(400万円以下)では、2秒差、12馬身差という大差で連勝した[3]連闘で初めての芝コース、重馬場の毎日杯GIII)に挑戦した[3][5]オグリキャップペガサスステークスGIII)に続いて重賞連勝を果たし、その3馬身半ほど遅れた4着に敗れた[5]

出走に必要な賞金の上乗せには失敗したものの、その後皐月賞GI)に登録。400万円以下を勝利したに過ぎないヤエノムテキは、出走馬決定順で16位タイであった[5]。同じ16位には同じ賞金の6頭がおり、フルゲート18頭に対して3頭超過していた[5]。そこで、16位の6頭から出走できる3頭を選ぶ確率2分の1の抽選が実施され、ヤエノムテキは当選、出走が叶った[5]。単勝オッズ25.2倍の9番人気の支持、有利とされる1番枠からの発走だった。第2コーナーでメイブレーブ、マイネルフリッセによる斜行で1番人気のモガミナインが不利を受ける中、その影響を受ける事無くサクラチヨノオーをマークしながら好位の4番手で進み、直線で鋭く脚を伸ばして2着のディクターランドに4分の3馬身差をつけて優勝した[5]。芝でのレース初勝利がGI及びクラシックであり、デビューから3戦で皐月賞を制したのは、トウショウボーイ以来12年ぶりのことだった[5][注釈 1]

9番人気で皐月賞を制したために評価が急上昇、東京優駿(日本ダービー)に向けて次第に取材のメディアも増え、荻野の後頭部が円形脱毛症になるほどのプレッシャーを感じていた[6]。人気は、皐月賞を回避したJRA賞最優秀3歳牡馬サッカーボーイに譲り、2番人気。最初のコーナーを6番手、中団から徐々に外へ持ち出して最後の直線に入った[6]。しかし、内から抜け出したサクラチヨノオーメジロアルダン、コクサイトリプルなどを捕らえることができず、勝利したサクラチヨノオーに約3馬身離された4着、荻野は敗因を距離に求めていた[6]

放牧に出ずに7月、1800メートルの中日スポーツ賞4歳ステークスGIII)に進み、勝ったサッカーボーイに半馬身差の2着[6]。2か月の休養を経て、9月の函館競馬場、UHB杯(OP、芝1800メートル)で復帰し、金鯱賞GIII)を制したパッシングパワー、NHK杯GII)を制したトウショウサミットなど初対戦となる古馬勢に対して勝利した[6]

菊花賞の前哨戦である京都新聞杯GII)も制して菊花賞GI)に挑んだ。ダービー馬サクラチヨノオーは屈腱炎で戦線離脱、サッカーボーイは短距離路線に、オグリキャップは古馬相手に挑戦[6]。これまで敗れた相手の参戦がなく、皐月賞馬かつ前哨戦で勝利するなど順調であったことから1番人気に推された[6]。6番手につけて、直線コースで追い込みを図ったが失速、10着に敗れた[6]。なお、この年の12月発売の『優駿』誌上において、評論家の大川慶次郎は菊花賞の敗因を距離が長かったことだと指摘し、適距離は1800mから2200mだとの見解を示し、翌年は宝塚記念および秋の天皇賞を目指すべきと主張している[7]。距離適性を改めて確認するために、有馬記念ではなく当時2500メートルで行われていた鳴尾記念GII)を選択し、ハナ差の接戦を制して重賞3勝目を挙げた[6]

5-6歳(1989-90年)

古馬となり、2200メートルの日経新春杯GII)2着と敗れた後、荻野は適性が2000メートルであると突き止め[6]、2000メートルに戻って産経大阪杯GII)に参戦。3番手から最後の直線に進入し、先行するランドヒリュウゴールドシチーを差し切り、3馬身半差を離して勝利した[6]。前哨戦を経ずに宝塚記念GI)に1番人気で出走したが、2番人気のイナリワンが勝利し、その1.6秒遅れた7着に敗れた[6]。秋には調整の失敗もあってぶっつけで天皇賞(秋)GI)に挑むも4着、有馬記念は6着に終わった[6]。年明けて6歳となっても日経新春杯2着、マイラーズカップGII)3着、産経大阪杯3着と勝ちきれない競馬が続いた[8]安田記念GI)からはそれまで主戦だった西浦から岡部幸雄に乗り替わって参戦したが2着、宝塚記念は3着とGIでも上位になるも勝利を挙げることができなかった[8]

前年と同じく、宝塚記念からぶっつけで天皇賞(秋)に参戦。7番枠からスタートすると中団の内側を追走、直線では内を突いて残り400メートルで先頭に立つと、最後はメジロアルダンの急襲をアタマ差抑えて優勝、サクラユタカオーが保持していたコースレコードを上回るタイムで走破し、GI2勝目を飾った[9]。(レースに関する詳細は、第102回天皇賞を参照。)続くジャパンカップGI)では6着(レースに関する詳細は、第10回ジャパンカップを参照)、引退レースとなる有馬記念に出走。ヤエノムテキは本馬場入場直後に放馬。馬体に異常無しとしてレースには出走したものの7着に敗れ、現役生活を終えた[9]

種牡馬時代

引退後、総額5億円のシンジケートが組まれ、1991年(平成3年)新冠町農協畜産センターにて種牡馬デビューした。しかし、1996年には早くもシンジケートが解散、その後安価のシンジケートが組まれたがそれも解散。先行きを案じた同馬のファン150人がヤエノムテキ会を結成し、北海道日高スタリオンステーションで種牡馬として供用されていた。ただし、2003年を最後に種付けは行われなかった。2010年を最後に種牡馬を引退し、日高スタリオンステーションで功労馬として余生を送る。2014年3月28日、腸閉塞により死亡した[10]

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[11]およびJBISサーチ[12]、『中央競馬全重賞競走成績 GI編』(1996年)[13]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名


オッズ
(人気)
着順 騎手 斤量
[kg]
距離(馬場) タイム
(上り3F)
タイム
1着馬(2着馬)
1988.02.27 阪神 4歳新馬 8 4 4 02.8 (2人) 01着 0西浦勝一 55 ダ1700m(稍) 1:49.6(51.8) -1.1 (メジロマーシャス)
0000.03.19 中京 沈丁花賞 4下 8 3 3 01.3 (1人) 01着 0西浦勝一 55 ダ1700m(稍) 1:48.1(39.4) -2.0 (アグネスターフ)
0000.03.27 阪神 毎日杯 GIII 10 7 7 06.1 (4人) 04着 0西浦勝一 55 芝2000m(重) 2:05.5(51.5) -0.7 オグリキャップ
0000.04.17 東京 皐月賞 GI 18 1 1 25.2 (9人) 01着 0西浦勝一 57 芝2000m(良) 2:01.3(48.1) -0.1 (ディクターランド)
0000.05.29 東京 東京優駿 GI 24 4 11 06.4 (2人) 04着 0西浦勝一 57 芝2400m(良) 2:26.9(48.2) -0.6 サクラチヨノオー
0000.07.03 中京 中日スポーツ賞4歳S GIII 11 8 11 01.8 (1人) 02着 0西浦勝一 58 芝1800m(良) 1:49.0(34.5) -0.1 サッカーボーイ
0000.09.11 函館 UHB杯 OP 12 1 1 01.4 (1人) 01着 0西浦勝一 57 芝1800m(稍) 1:49.4(36.5) -0.3 (パッシングパワー)
0000.10.16 京都 京都新聞杯 GII 16 1 1 01.4 (1人) 01着 0西浦勝一 57 芝2200m(良) 2:14.5(48.3) -0.2 (コウエイスパート)
0000.11.06 京都 菊花賞 GI 18 1 1 02.1 (1人) 10着 0西浦勝一 57 芝3000m(良) 3:08.8(49.1) -1.5 スーパークリーク
0000.12.04 阪神 鳴尾記念 GII 12 5 5 02.1 (1人) 01着 0西浦勝一 58 芝2500m(良) 2:33.1(47.2) -0.0 (ハツシバエース)
1989.01.22 京都 日経新春杯 GII 9 5 5 01.5 (1人) 02着 0西浦勝一 58 芝2200m(良) 2:14.5(47.7) -0.1 ランドヒリュウ
0000.04.02 阪神 産経大阪杯 GII 13 7 10 01.8 (1人) 01着 0西浦勝一 58 芝2000m(良) 2:01.4(48.4) -0.6 (ランドヒリュウ)
0000.06.11 阪神 宝塚記念 GI 16 5 8 02.5 (1人) 07着 0西浦勝一 56 芝2200m(良) 2:15.6(49.9) -1.6 イナリワン
0000.10.29 東京 天皇賞(秋) GI 14 7 11 22.8 (6人) 04着 0西浦勝一 58 芝2000m(良) 1:59.5(46.5) -0.4 スーパークリーク
0000.12.24 中山 有馬記念 GI 16 8 14 34.0 (8人) 06着 0西浦勝一 57 芝2500m(良) 2:33.0(36.4) -1.3 イナリワン
1990.01.21 京都 日経新春杯 GII 9 3 3 02.9 (1人) 02着 0西浦勝一 60 芝2200m(良) 2:15.1(47.7) -0.1 トーワトリプル
0000.02.25 阪神 マイラーズC GII 12 7 10 02.6 (1人) 03着 0西浦勝一 60 芝1600m(重) 1:36.8(48.8) -0.2 メジロワース
0000.04.01 阪神 産経大阪杯 GII 9 7 7 04.2 (4人) 03着 0西浦勝一 59 芝2000m(稍) 2:03.1(49.5) -0.2 スーパークリーク
0000.05.13 東京 安田記念 GI 16 7 12 10.4 (4人) 02着 0岡部幸雄 57 芝1600m(良) 1:32.7(35.0) -0.3 オグリキャップ
0000.06.10 阪神 宝塚記念 GI 10 1 1 11.7 (4人) 03着 0岡部幸雄 57 芝2200m(良) 2:14.7(49.6) -0.7 オサイチジョージ
0000.10.28 東京 天皇賞(秋) GI 18 4 7 08.0 (3人) 01着 0岡部幸雄 58 芝2000m(良) R1:58.2(35.7) -0.0 メジロアルダン
0000.11.25 東京 ジャパンC GI 15 3 4 13.8 (8人) 06着 0岡部幸雄 57 芝2400m(良) 2:23.8(35.4) -0.6 ベタールースンアップ
0000.12.23 中山 有馬記念 GI 16 1 2 12.0 (6人) 07着 0岡部幸雄 56 芝2500m(良) 2:34.7(35.6) -0.5 オグリキャップ
  • タイム欄のRはレコード勝ちを示す。
  • 枠番・馬番の太字強調は単枠指定を示す。

種牡馬成績

主な産駒

エピソード

  • 日本中央競馬会(JRA)からヤエノムテキの引退式が提案されたが、同馬の気性の悪さを考慮して調教師らが断っている。
  • 勝ったGIレースは2つとも東京競馬場芝2000メートル(うち一度は代替開催)であること、同コース、同距離のレコードホルダーであることから、引退の翌年作られたヤエノムテキのポスター(ヒーロー列伝)には「東京の二千に咲いたムテキの舞い」と書かれた。
  • 厩務員持ち乗り調教助手)の荻野功によると、同期の牝馬シヨノロマンが近くを通ると、じっとそちらのほうを見たまま動かなくなった。
  • 荻野功は1980年代にアメリカ合衆国のマッカナリー厩舎で研修を行ったことがあり、現地で岡部幸雄と知り合った。そのときに「日本でいい馬を育て、岡部に乗ってもらう」ことが目標となっていたが、1990年にヤエノムテキによってそのことが実現した。
  • 生産者の宮村岩雄は、ヤエノムテキの祖母フジコウをカマド馬(経済を支えてくれた馬)と呼び、その馬主である藤木幸太郎を恩人として挙げている。藤木はフジコウを宮村牧場にプレゼントしただけでなく、様々な経済援助を行っていた。藤木が亡くなった後には「親分(藤木)はもう死んだのに、まだそんな古い血統を守ってんのか」と笑われることもあったが、その血筋からGI馬が誕生した[14]
  • 岡部幸雄は第35回有馬記念のヤエノムテキの放馬について「あれが無ければ勝ってましたね」と話していた。

血統表

ヤエノムテキ血統ニジンスキー系 / Menow 5×5×5, Nearco 5×5 (血統表の出典)

ヤマニンスキー
1975 栗毛
父の父
Nijinsky II
1967 鹿毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Flaming Page Bull Page
Flaring Top
父の母
* アンメンショナブル
Unmentionable
1970 鹿毛
Buckpasser Tom Fool
Busanda
Petticoat Palestinian
Sabana

ツルミスター
1980 鹿毛
* イエローゴッド
Yellow God
1967 栗毛
Red God Nasrullah
Spring Run
Sally Deans Fun Fair
Cora Deans
母の母
フジコウ
1964 黒鹿
* ソロナウェー
Solonaway
Solferino
Anyway
ハマミドリ トサミドリ
フジサカエ F-No.1-o


脚注

注釈

  1. ^ トウショウボーイが制した1976年皐月賞も、東京競馬場での開催であった。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p "ヤエノムテキ". JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2019年8月20日閲覧
  2. ^ "ヤエノムテキ死す…GI皐月賞など2勝". デイリースポーツ. 2014年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月21日閲覧
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 『優駿』2002年4月号 49頁
  4. ^ "ツルミスター". JBISサーチ. 2021年7月21日閲覧
  5. ^ a b c d e f g 『優駿』2002年4月号 50頁
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m 『優駿』2002年4月号 51頁
  7. ^ 大川慶次郎「げっかん評論 東」『優駿』1989年1月号、日本中央競馬会、122頁
  8. ^ a b 『優駿』2002年4月号 52頁
  9. ^ a b 『優駿』2002年4月号 53頁
  10. ^ "天皇賞馬ヤエノムテキが29歳で死去". netkeiba.com. 28 March 2014. 2014年3月29日閲覧
  11. ^ "ヤエノムテキの競走成績". netkeiba.com. ネットドリーマーズ. 2019年8月20日閲覧
  12. ^ "ヤエノムテキ 競走成績". JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2019年8月20日閲覧
  13. ^ 『中央競馬全重賞競走成績集 GI編』日本中央競馬会、1996年。  292-293・756-757頁。
  14. ^ 『優駿』1988年8月号 12-13頁

参考文献

  • 日本中央競馬会、『中央競馬全重賞競走成績 GI編』(1996年)
  • 優駿』(日本中央競馬会)
    • 1988年8月号
    • 2002年4月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち 11】ヤエノムテキ」
    • 2013年11月号
      • 谷川善久「【優駿激闘譜】ヤエノムテキ 八重の勝利に華を添える二つの勲章」


外部リンク