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{{基礎情報 武士
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 秋田実季
| 氏名 = 秋田 実季
| 画像 =
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 =
| 画像説明 = 秋田実季像([[羽賀寺]]蔵)
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]前期
| 時代 = [[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]前期
| 生誕 = [[天正]]4年([[1576年]])
| 生誕 = [[天正]]4年([[1576年]])
| 死没 = [[万治]]2年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]([[1660年]][[1月11日]])
| 死没 = [[万治]]2年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]([[1660年]][[1月11日]])
| 改名 = 安東実季→秋田実季→伊駒実季→秋田実季
| 改名 =
| 別名 = [[仮名 (通称)|仮名]]:藤太郎雅号:宗実
| 別名 = 藤太郎([[仮名 (通称)|仮名]]、宗実(雅号)
| 戒名 =
| 戒名 = 高乾院殿隆巌梁空大居士
| 墓所 = [[三重県]][[伊勢市]]朝熊町永松寺
| 墓所 =
| 官位 = [[従五位]] [[秋田城介]]
| 官位 = [[従五位]]下、[[秋田城介]]
| 幕府 =
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]→[[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]]→[[徳川家光|家光]]
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| 藩 = [[常陸国|常陸]][[常陸宍戸藩|宍戸藩]]主
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| 氏族 = [[秋田氏]]
| 氏族 = [[秋田氏]]
| 父母 = 父:[[安東愛季|安東(秋田)愛季]]、母:[[畠山清信]]の女
| 父母 = [[安東愛季]]、[[畠山清信]]
| 兄弟 = 業季、秋田実季、[[安倍英季]](小浜藩家老)<br/> 季勝、秋田局
| 兄弟 = [[安東業季|業季]][[秋田局]]、'''実季'''、[[安倍英季|英季]]、[[安東季勝|季勝]]<br>[[浪岡顕村]]正室
| 妻 = 正室:円光院([[細川信良]]<br/> 側室:瑞峯院
| 妻 = '''[[細川昭元]]娘・[[円光院]]'''<br>[[荒木高兼]]娘・[[瑞峯院]]
| 子 = '''[[秋田俊季|俊季]]'''、[[秋田季次|季次]]、[[秋田季信|季信]]、[[秋田季長|季長]]、[[秋田季則|季則]]、<br/> 女([[荒木高綱]]室女([[津軽信建]]正室
| 子 = '''[[秋田俊季|俊季]]'''、[[秋田季次|季次]]、[[秋田季信|季信]]、[[秋田季長|季長]]、[[秋田季則|季則]]、<br>[[荒木高綱]]室、[[津軽信建]]正室
| 特記事項 =
| 特記事項 =
}}
}}
'''秋田 実季'''(あきた さねすえ)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[大名]]。[[安東愛季]]の子<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰『コンサイス日本人名辞典』(第5版)、三省堂、2009年、16頁。</ref>。

'''秋田 実季'''(あきた さねすえ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]・[[江戸時代]]の[[大名]]。[[安東愛季]]の長男。


== 概要 ==
== 概要 ==
当初、[[出羽国]]北部にあって[[秋田郡]]など下三郡地方を領し、[[豊臣秀吉]]から本領を安堵された。[[江戸幕府]]成立後は、[[常陸国]][[茨城郡]]([[茨城県]]中部)に封じられ、[[常陸宍戸藩]]の初代藩主となったが、晩年は不遇だった。
[[安東氏]]は[[安倍貞任]]の末裔と言われる。実に[[11世紀]]から始まる名門であり、実季は安東氏第9代、秋田氏第2代にあたる。十三湊を本拠として勢力を拡げたが、戦国期の安東氏は[[氏族]]が幾つにも分かれ抗争していたが実季の父愛季の代で統合され同時に全盛期を築き上げた。


== 出自 ==
天正15年([[1587年]])、父の愛季が病死したため、わずか12歳で後を継ぐこととなったが、その継承に不満を持った従兄弟の[[安東通季]]が反乱を起こす([[湊合戦]])。通季は[[戸沢氏]]や[[小野寺氏]]とも通じていた。実季は機先を制して出撃するが撃退され、逆に自身が檜山に籠城するなど苦戦し、3年の歳月をかけようやく鎮圧した。この合戦は[[惣無事令]]違反と[[豊臣秀吉]]に見なされ一時問題となるが、実季の中央工作によって[[出羽国|出羽]][[秋田藩|秋田]]5万2,000石(実高15万石)の安堵を認められた。その後、[[小野寺義道]]と戦うがその隙を狙って[[南部信直]]が侵入、これとも激しく戦っている。没収された領地のうち2万5,000石は[[太閤蔵入地]]とされ、実季はその代官となった。
[[安東氏]]は[[安倍貞任]]の末裔と伝承される北方の名門であり、[[鎌倉時代]]にあっては[[津軽]]([[青森県]]西部)の[[十三湊]](青森県[[五所川原市]])を本拠として勢力を拡げ、[[日本海]]交易と蝦夷沙汰を担った一族として[[蝦夷管領]]を名乗り、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には内外に「日の本将軍」を号するほどであった。鎌倉時代後期、そのうちの一派が南下して[[雄物川]]・[[馬場目川]]下流の[[秋田郡]]に拠った。これを上国家と称し、[[出羽国]][[湊城]]を本拠とした{{Efn|『秋田家系図』などでは[[応永]]年間([[15世紀]]初頭)に津軽下国家が秋田湊を討伐するという記述があるものの、江戸時代の[[菅江真澄]]の著作に描かれた男鹿半島地方の[[神社]]の[[棟札]]や[[寺院]][[境内]]の[[多宝塔]]の紀年銘などより、現在では安東一支族の秋田地方定着は鎌倉時代にさかのぼることが確実視されている{{Sfn|塩谷|1987|loc=「安東氏とその時代」|pp=93-94}}。}}。一方津軽に留まった一族は糠部[[三戸郡]]([[青森県]]南東部)地方を本拠とする[[南部氏]]の勢力に押され、室町時代にはいったん[[蝦夷地]](現在の[[北海道]])にのがれ、その後出羽国の[[米代川]]河口部に移った。これが下国家である。こうして[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の安東氏は雄物川河口部に拠った上国家の湊安東氏と米代川河口部の[[檜山城]](秋田県[[能代市]])を本拠とする檜山安東氏{{Efn|檜山安東氏は、[[16世紀]]に入ってからも蝦夷地の代官[[蠣崎氏]](のちの松前氏)の徴収する[[関銭]]の大半を上納させ、[[軍役]]を課すなど蝦夷沙汰権に由来する経済力と軍事力を有していた<ref>{{Harvnb|小林|大石|1978|loc=小林清治「大名権力の形成」|p=170}}。原出典は{{Cite journal|和書|author=海保嶺夫|title=松前家臣団の成立-道南における中世的世界の解体過程-|journal=松前藩と松前|issue=9|year=1976|publisher=松前町史編集室}}</ref>。}}に分立していたが、檜山安東家出身の父下国愛季の代で統合を果たし、[[男鹿半島]]の付け根部分に立地して日本海をのぞむ[[脇本城]](秋田県[[男鹿市]])に居城を移して安東氏の全盛期を築き上げた{{Sfn|小和田|2007|pp=137-140}}{{Sfn|今村|1969|p=60}}。しかし、この頃より[[南部氏]]との緊張はいっそう厳しさを増した{{Sfn|小林|大石|1978|loc=小林清治「大名権力の形成」|pp=169-172}}。


== 生涯 ==
その後、実季は秀吉に従って[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]にも参陣した。[[慶長]]7年([[1602年]])、[[関ヶ原の戦い]]の際の不手際を責められ[[徳川家康]]の命を受けて[[常陸国|常陸]]の宍戸に転封された。このとき、姓を秋田から'''伊駒'''へと改めている(その後復姓)。だが、太閤蔵入地とされた旧領が[[豊臣氏]]の所領として家康によって没収された事に実季は不満を抱いたのではないかとも推測されている。慶長16年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]([[1611年]][[2月27日]])、従来自称してきた[[従五位下]][[秋田城介]]に正式に補任。[[大坂の役#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]では豊臣方先鋒隊らと激突するも大損害を出し敗れた。[[寛永]]7年([[1630年]])、故あって[[伊勢国|伊勢]]の朝熊へ蟄居を命じられた。子の俊季との不和に加え、従来からの檜山系湊系による家臣間の対立が背後にあったのではないかとする見解が出されている。
=== 湊合戦 ===
[[天正]]15年([[1587年]])、父・愛季が病死したため、わずか12歳で跡を継ぐこととなったが、その継承に不満を持った従兄で12歳年長の[[安東通季]](豊島通季)が「上国湊安東氏の復興」を掲げて反乱を起こした([[湊騒動|湊合戦]])。通季は[[日本海]]沿岸の海港の確保を願う内陸部の[[戸沢氏]]や[[小野寺氏]]、北奥の[[南部氏]]らの諸勢力とも通じていた。


実季は天正17年([[1589年]])、機先を制して出陣したが逆に撃退され、自身が檜山城に籠城するなど苦戦を重ねてようやく鎮圧した{{Sfn|小和田|2007|pp=137-140}}。通季らの軍勢は実季ら籠城側の十数倍におよび、籠城側は銃を300挺しか持たなかったが、5ヶ月以上も檜山城を守り抜いたといわれる。このときの実季の主力は檜山郡(後の[[山本郡]])に基盤をもつ檜山衆であり、加えて[[阿仁川]]流域地方の[[嘉成氏]]や米代川中流域の[[浅利氏]]一族などの比内衆、また湊から檜山に移った竹ヶ鼻伊予など二十数名の湊衆が与同したといわれる{{Sfn|今村|1969|p=62}}。
[[秋田氏]]は俊季の幕府への忠節と、実季の妻が[[織田信長]]の姪で将軍[[徳川秀忠|秀忠]]の妻[[崇源院]]の[[従姉妹]]に当たることもあり、[[陸奥国|陸奥]][[三春藩|三春]]5万5,000石に移され存続を許された。


この合戦は、北出羽内陸部の[[平鹿郡]]、[[比内郡]]方面への進出をはかる[[南部信直]]やその南部一族から[[津軽地方]]の独立をはかる[[津軽為信|大浦為信]]との抗争を巻き込んで、北奥羽における政治的激動の震源となった。実季は平鹿郡・[[雄勝郡]]地方を本拠とする[[小野寺義道]]と戦うが、その隙を狙って東方より侵入した南部信直とも激しく戦っている。
{{先代次代|[[秋田氏|秋田氏当主]]|1587年 - 1630年|[[安東愛季|秋田愛季]]|[[秋田俊季]]|}}

{{先代次代|[[秋田氏|秋田氏当主]]([[常陸宍戸藩|常陸宍戸藩初代]])|1602年 - 1630年|-|[[秋田俊季]]|}}
天正17年7月、[[由利郡]]の[[赤尾津氏]]や津軽の大浦為信との提携をはかることで、戸沢氏や南部氏と結んだ通季を破ることに成功した{{Sfn|小和田|2007|pp=137-140}}。

天正18年([[1590年]])、比内大館を南部氏から奪回した。これには大浦為信の助力があり、[[浅利頼平]]は為信の斡旋で比内の地に戻った{{Sfn|板橋|2000|pp=62-63}}。

=== 北出羽の大名に ===
天正18年(1590年)、豊臣秀吉より[[小田原征伐]]への参陣を命じられ、これに従った。

続いて同年に[[奥州仕置]]がなされ、天正19年([[1591年]])には[[太閤検地]]がおこなわれた。湊合戦は秀吉によって[[惣無事令]]違反と見なされて一時問題となったものの、実季の中央工作もあって[[出羽国]]内の所領7万8,500石余のうち約5万2,440石の安堵が認められた。ただし、実高は15万石におよんだといわれる。旧領の3分の1にあたる約2万6,000石は[[太閤蔵入地]]として没収され、実季はその代官に任じられた{{Efn|蔵入地は秋田郡の[[八郎潟]]南東岸や豊島郡(のちの[[河辺郡]])の肥沃な土地が多く、実季領と入り組んでいた{{Sfn|今村|1969|p=66}}。}}

ここで重要なのは、永年にわたる係争の地であった比内(後の[[北秋田郡]])の領有が確定されたことで、比内を地盤とする浅利氏・嘉成氏の領主権は否定された。そして秋田([[南秋田郡]])・檜山・比内のいわゆる秋田下三郡に加え、豊島郡([[河辺郡]])を有する[[大名]]としての地歩が固められた。なお太閤蔵入地設定の理由としては、[[蔵米]]輸送ないし地払いによる運上収益よりもむしろ[[秋田杉]][[運上]]のためと考えられている{{Sfn|今村|1969|p=66}}。秋田杉運上は、[[文禄]]2年([[1593年]])の[[前田利家]]建造の[[安宅船]]の船材運上にはじまり、淀舟材木、橋板を経て、[[慶長]]2年([[1597年]])以降は[[伏見]]作事用板(太閤板)の運上として固定した{{Sfn|今村|1969|p=66}}。また領内の土崎湊(現在の[[秋田港]])、能代湊([[能代港]])の2港を整備して、領国経済を確立させ、両港および[[越前国]][[敦賀港|敦賀湊]](現在[[福井県]][[敦賀市]])などでは米のほか木材を販売している{{Sfn|塩谷|1987|loc=「秋田杉と手工業」|pp=101-102}}{{Sfn|今村|1969|pp=66-67}}。

[[ファイル:土崎神明社.jpg|250px|right|thumb|湊城跡地に鎮座する土崎神明社]]
奥州仕置後、実季はあらためて[[平城]]として、雄物川河口の土崎湊に堀をともなう[[湊城]]を築いて本拠をここに移し、[[秋田城介]]を号して[[秋田氏]]を名乗った。また[[大館城]]([[大館市]])・[[脇本城]]([[男鹿市]])・[[馬場目城]]([[五城目町]])などの要地に功臣・一族を配して、比較的安定した領国支配を築いた{{Sfn|小和田|2007|pp=137-140}}。

[[豊臣秀次]]を総大将とする天正19年([[1591年]])の[[九戸政実の乱]]における討伐軍、文禄元年([[1592年]])よりはじまる[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]にも参陣している。[[文禄]]2年([[1593年]])の[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]での渡海割当は、『浅野家文書』によれば134名であった{{Efn|『浅野家文書』によれば、[[東北地方]]の大名の割当は、[[蒲生氏|蒲生]]1,500名、[[伊達氏|伊達]]500名、[[最上氏|最上]]300名、南部100名、由利五人衆88名、[[本堂氏|本堂]]25名、[[大崎氏|大崎]]10名であった。天正19年の『覚上公御書集』では蒲生3000名、最上500名、秋田250名、南部200名、津軽150名となっている。なお『覚上公御書集』記載の員数は渡海割当だけではなく、それを含む[[軍役]]の総数である{{Sfn|小林|大石|1978|loc=[[藤木久志]]「中世奥羽の終末」|pp=230-233}}。}}。

文禄年間にはまた、自領の一部について[[検地]]を行った形跡がある{{Sfn|加藤|1982|loc=「豊臣政権と秋田地方」|pp=202-204}}。文禄3年([[1594年]])成立とみられる『秋田城之助殿分限帳』では秋田領は9万8,500石、蔵入地2万9,000石余と算定された{{Efn|『秋田城之助殿分限帳』によれば、蔵入地2万9,000石余については実季の家臣13名が代官となって村落の支配にあたっており、代官13名は重臣から軽輩までさまざまな階層の家臣よりなる。実季直領は1万700石余で、一族重臣による代官24名による支配がなされる。一族重臣24名は「三ケ一代官衆」と呼ばれ、その分の石高は2万3,200石余、一般家臣には多種多様な家臣を含む97名で、その分は3万1,000石余であった。それ以外に、特定の職能に基づく軽輩を主体とする直属家臣団があり、鉄砲衆45名1,250石、御鎧衆24名514名、飛脚衆12名151石という内訳であった。他に寺社領として2,303石があてられていた{{Sfn|加藤|1982|loc=「豊臣政権と秋田地方」|pp=199-200}}。}}。

文禄3年から文禄4年([[1594年]])にかけては、比内の浅利氏との間に小競り合いが生じている。史料には比内南西部の村がこの時「秋田よりなてきり」「秋田より放火」との記録が残る{{Sfn|板橋|2000|pp=62-63}}。浅利氏の家老であった片山弥伝(比内中野)、浅利七兵衛(十二所)、浅利内膳(八木橋)らは、これを機に直接、実季に従うこととなった{{Sfn|板橋|2000|pp=62-63}}。

[[慶長]]4年([[1599年]])から翌年にかけては本拠[[湊城]]の大規模な改築を行なっている{{Efn|湊安東氏は長期にわたって秋田市高清水丘の古代[[秋田城]]を利用していた。湊城が土崎の地に移ったのは[[織豊政権]]期に入ってからであり、[[一国一城令]]によって廃城となった後に現在[[土崎神明社祭の曳山行事|曳山行事]]で有名な[[土崎神明社]]が建てられた{{Sfn|塩谷|1987|p=117|loc=「秋田杉と手工業」}}。}}。そこには、多数の[[大工]]・[[鍛冶]]・[[大鋸引]]・葺土・壁塗りが参加したことが記録に残されている{{Sfn|塩谷|1987|p=117-118|loc=「秋田杉と手工業」}}。

=== 宍戸転封と伊勢での蟄居 ===
慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では東軍方に立った。[[会津征伐]]での[[山形城]]主[[最上義光]]と[[上杉景勝]]との講和は秋田氏と最上氏との密約を察した上杉側によって決裂となり、[[慶長出羽合戦]]では[[小野寺義道]]を平鹿郡[[大森城 (出羽国)|大森城]](秋田県[[横手市]][[大森町 (秋田県)|大森町]])に攻めた<ref name=jiten>{{Cite book|和書|author=鈴木登|chapter=安東氏|title=秋田大百科事典|publisher=[[秋田魁新報|秋田魁新報社]]|date=1981-09|page=71|isbn=4-870-20-007-4}}</ref>。しかしこの際に秋田氏の勢力が増大することを恐れた[[戸沢氏]]が厭戦的態度をとったことに加え、最上と上杉側との戦前交渉に失敗し最上を孤立させる一因を秋田氏側が作っていたことなどから、戦後に[[山形城]]主[[最上義光]]が「実季が裏では小野寺方と通じていて実は東軍方と言えない」と[[徳川家康]]に讒言する事態となった{{Sfn|加藤|1982|loc=「慶長五年の明暗」|pp=213-216}}。なお、本来の会津征伐の計画では南部氏と秋田氏などの出羽の諸大名は最上義光を大将としてその指揮命令の下に米沢城を攻撃する計画であったが、石田三成の挙兵によって会津征伐が中止になって以降の軍事指揮権について引き続き自分に指揮権があると考える義光と、あくまでも全体の指揮官は家康であって義光の指揮権は会津征伐が中止になった時点で消滅した(個々の大名が家康の許可を得て軍事作戦を行う)と考える実季ら諸大名との間に認識の相違があったと考えられ、義光は伊達政宗に対して戸沢氏ら実季以外の諸将についても軍令違反があるとの認識を示した書状を送っている<ref>{{Cite journal|和書|author=阿部哲人|title=慶長五年の戦局と最上義光|journal=山形史学研究|issue=45合併号|year=2016}}/所収:{{Citation|和書|editor=竹井英文|series=シリーズ・織豊大名の研究 第六巻|title=最上義光|publisher=戎光祥出版|year=2017|pages=77-87|isbn=978-4-86403-257-5}}</ref>。

対し実季は弁明し、家康の嫌疑を晴らすことに成功したが{{Sfn|加藤|1982|loc=「慶長五年の明暗」|pp=213-216}}、慶長7年([[1602年]])、家康の命を受けて常陸国宍戸に転封された。これは常陸国の大名[[佐竹氏]]の秋田・仙北への入部にともなうものであったが{{Sfn|加藤|1982|loc=「慶長五年の明暗」|pp=213-216}}、一方で太閤蔵入地は没収され事実上の減封となった。このとき、姓を秋田から'''伊駒'''へと改めている(その後復姓)が、太閤蔵入地とされた旧領が[[豊臣氏]]の所領として家康によって没収されたことに対し、実季が不満を抱いたのではないかとも推測される。慶長16年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]([[1611年]][[2月27日]])には、従来自称してきた[[従五位]]下[[秋田城介]]に正式に補任された。

宍戸藩主となった実季は、慶長19年([[1614年]])の[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]では豊臣方先鋒隊らと激突したものの大損害を出し、敗北を喫した。
[[ファイル:Akitasanesue.jpg|サムネイル|秋田実季の墓(伊勢市永松寺)]]
[[寛永]]7年([[1630年]])、[[元和偃武]]後も[[戦国大名]]らしい気骨が横溢していることが幕府の忌み嫌うところとなり、突如[[伊勢国]]朝熊([[三重県]][[伊勢市]]朝熊町)へ蟄居を命じられた<ref name=jiten/>。嫡男の[[秋田俊季|俊季]]との不和説や、従来からの檜山系・湊系による家臣間の対立が背後にあったのではないかとする見解もあるが、詳細は不明である。なお、秋田氏は俊季の幕府への忠節と、俊季の母<ref group="注釈">実季の正室円光院。[[細川昭元]]の娘であった。</ref> が大御所[[徳川秀忠|秀忠]]の正室[[崇源院]]の従姉妹にあたることも幸いして俊季の家督継承が認められ、[[正保]]2年([[1645年]])[[陸奥国|陸奥]][[三春藩|三春]]に5万5,000石移封すると以後幕末まで同地で存続した。

寛永7年以降約30年にわたり、実季は伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を余儀なくされた{{Sfn|塩谷|1987|loc=「秋田杉と手工業」|pp=122-123}}。[[万治]]2年([[1660年]])、同地にて死去した。享年85。朝熊永松寺には、実季の用いた食器などの日用品が現在も残されている{{Sfn|塩谷|1987|loc=「秋田杉と手工業」|pp=122-123}}。

== 人物 ==
伊勢朝熊に蟄居した際に[[万金丹]]を制作したという逸話が残る<ref>[http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/user_contents/akitake/akt-kaidai.html 東北大学附属図書館「秋田家史料目録解題」]</ref>。

実季の帰依した[[若狭国]][[小浜市|小浜]]の[[羽賀寺]]に僧形像<ref>[http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/B12/B122.htm 「図説福井県史」中世12](福井県公文書館)</ref> が残り、福井県の有形文化財(歴史資料)に指定されている<ref>[http://info.pref.fukui.jp/bunka/bunkazai/sitei/rekishi/haga-abekisue.html 福井県の文化財](福井県)</ref>。陸奥国三春には俗身で[[束帯]]姿の木像が残る。[[和歌]]や文筆、また、[[茶道]]にも優れた教養人であったといわれる。以下は、実季の残した歌である。

<div style="background: white; border: 1px solid black; padding: 1em;margin: 0 3em;">
我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや
</div>

== 系譜 ==
'''父母'''
* [[安東愛季]](父)
* [[畠山清信]]の娘(母)

'''正室'''
* 円光院 ー [[細川昭元]]の娘

'''側室'''
* 瑞峯院 ー [[荒木高兼]]の娘

'''子女'''
* [[秋田俊季]](長男)生母は円光院(正室)
* [[秋田季次]]
* [[秋田季信]]
* [[秋田季長]]
* [[秋田季則]]
* [[荒木高綱]]室
* [[津軽信建]]正室

== 系図 ==
出典:<ref>{{Cite book |和書 |author= |year=2011 |title=戦国武将データファイル |page=40-06 |publisher=[[デアゴスティーニ]] |location= |isbn= |quote= }}</ref>
{{familytree/start}}
{{familytree|border=0| | | | | | | | | |01| | | |02| | 01=[[細川晴元]]|02=[[織田信秀]]}}
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{{familytree/end}}

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}

== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|last=今村|first=義孝|authorlink=今村義孝|title=秋田県の歴史|publisher=[[山川出版社]]|date=1969-11|isbn=4-634-23050-X}}
* {{Citation|和書|editor1-last=小林|editor1-first=清治|editor1-link=小林清治|editor2-last=大石|editor2-first=直正|editor2-link=大石直正|title=中世奥羽の世界|publisher=[[東京大学出版会]]|date=1978-04}}
* {{Cite book|和書|author=加藤民夫|editor=塩谷順耳|editor-link=塩谷順耳|title=中世の秋田|publisher=秋田魁新報社|series=さきがけ新書|date=1982-10|isbn=4-87020-017-1|ref={{SfnRef|加藤|1982}}}}
* {{Cite book|和書|author=塩谷順耳|editor=田口勝一郎|editor-link=田口勝一郎|title=図説秋田県の歴史|publisher=[[河出書房新社]]|date=1987-07|isbn=4-309-61105-2|ref={{SfnRef|塩谷|1987}}}}
* {{Citation|和書|last=板橋|first=範芳|authorlink=板橋範芳|chapter=Ⅱ北秋田の歴史|title=北秋田と羽州街道|publisher=[[吉川弘文館]]|series=街道の日本史9|date=2000-12|isbn=4-642-06209-2}}
* {{Citation|和書|last=小和田|first=哲男|authorlink=小和田哲男|chapter=湊騒動の顛末|title=名城と合戦の日本史|publisher=[[新潮社]]|series=新潮選書|date=2007-05|isbn=978-4-10-603580-7}}

== 関連項目 ==
* [[秋田藤四郎]]
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秋田 実季
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正4年(1576年
死没 万治2年11月29日1660年1月11日
改名 安東実季→秋田実季→伊駒実季→秋田実季
別名 藤太郎(仮名)、宗実(雅号)
戒名 高乾院殿隆巌梁空大居士
墓所 三重県伊勢市朝熊町永松寺
官位 従五位下、秋田城介
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠家光
常陸宍戸藩
氏族 秋田氏
父母 安東愛季畠山清信
兄弟 業季秋田局実季英季季勝
浪岡顕村正室
細川昭元娘・円光院
荒木高兼娘・瑞峯院
俊季季次季信季長季則
荒木高綱室、津軽信建正室
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秋田 実季(あきた さねすえ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名安東愛季の子[1]

概要

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当初、出羽国北部にあって秋田郡など下三郡地方を領し、豊臣秀吉から本領を安堵された。江戸幕府成立後は、常陸国茨城郡茨城県中部)に封じられ、常陸宍戸藩の初代藩主となったが、晩年は不遇だった。

出自

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安東氏安倍貞任の末裔と伝承される北方の名門であり、鎌倉時代にあっては津軽青森県西部)の十三湊(青森県五所川原市)を本拠として勢力を拡げ、日本海交易と蝦夷沙汰を担った一族として蝦夷管領を名乗り、南北朝時代には内外に「日の本将軍」を号するほどであった。鎌倉時代後期、そのうちの一派が南下して雄物川馬場目川下流の秋田郡に拠った。これを上国家と称し、出羽国湊城を本拠とした[注釈 1]。一方津軽に留まった一族は糠部三戸郡青森県南東部)地方を本拠とする南部氏の勢力に押され、室町時代にはいったん蝦夷地(現在の北海道)にのがれ、その後出羽国の米代川河口部に移った。これが下国家である。こうして戦国時代の安東氏は雄物川河口部に拠った上国家の湊安東氏と米代川河口部の檜山城(秋田県能代市)を本拠とする檜山安東氏[注釈 2]に分立していたが、檜山安東家出身の父下国愛季の代で統合を果たし、男鹿半島の付け根部分に立地して日本海をのぞむ脇本城(秋田県男鹿市)に居城を移して安東氏の全盛期を築き上げた[4][5]。しかし、この頃より南部氏との緊張はいっそう厳しさを増した[6]

生涯

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湊合戦

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天正15年(1587年)、父・愛季が病死したため、わずか12歳で跡を継ぐこととなったが、その継承に不満を持った従兄で12歳年長の安東通季(豊島通季)が「上国湊安東氏の復興」を掲げて反乱を起こした(湊合戦)。通季は日本海沿岸の海港の確保を願う内陸部の戸沢氏小野寺氏、北奥の南部氏らの諸勢力とも通じていた。

実季は天正17年(1589年)、機先を制して出陣したが逆に撃退され、自身が檜山城に籠城するなど苦戦を重ねてようやく鎮圧した[4]。通季らの軍勢は実季ら籠城側の十数倍におよび、籠城側は銃を300挺しか持たなかったが、5ヶ月以上も檜山城を守り抜いたといわれる。このときの実季の主力は檜山郡(後の山本郡)に基盤をもつ檜山衆であり、加えて阿仁川流域地方の嘉成氏や米代川中流域の浅利氏一族などの比内衆、また湊から檜山に移った竹ヶ鼻伊予など二十数名の湊衆が与同したといわれる[7]

この合戦は、北出羽内陸部の平鹿郡比内郡方面への進出をはかる南部信直やその南部一族から津軽地方の独立をはかる大浦為信との抗争を巻き込んで、北奥羽における政治的激動の震源となった。実季は平鹿郡・雄勝郡地方を本拠とする小野寺義道と戦うが、その隙を狙って東方より侵入した南部信直とも激しく戦っている。

天正17年7月、由利郡赤尾津氏や津軽の大浦為信との提携をはかることで、戸沢氏や南部氏と結んだ通季を破ることに成功した[4]

天正18年(1590年)、比内大館を南部氏から奪回した。これには大浦為信の助力があり、浅利頼平は為信の斡旋で比内の地に戻った[8]

北出羽の大名に

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天正18年(1590年)、豊臣秀吉より小田原征伐への参陣を命じられ、これに従った。

続いて同年に奥州仕置がなされ、天正19年(1591年)には太閤検地がおこなわれた。湊合戦は秀吉によって惣無事令違反と見なされて一時問題となったものの、実季の中央工作もあって出羽国内の所領7万8,500石余のうち約5万2,440石の安堵が認められた。ただし、実高は15万石におよんだといわれる。旧領の3分の1にあたる約2万6,000石は太閤蔵入地として没収され、実季はその代官に任じられた[注釈 3]

ここで重要なのは、永年にわたる係争の地であった比内(後の北秋田郡)の領有が確定されたことで、比内を地盤とする浅利氏・嘉成氏の領主権は否定された。そして秋田(南秋田郡)・檜山・比内のいわゆる秋田下三郡に加え、豊島郡(河辺郡)を有する大名としての地歩が固められた。なお太閤蔵入地設定の理由としては、蔵米輸送ないし地払いによる運上収益よりもむしろ秋田杉運上のためと考えられている[9]。秋田杉運上は、文禄2年(1593年)の前田利家建造の安宅船の船材運上にはじまり、淀舟材木、橋板を経て、慶長2年(1597年)以降は伏見作事用板(太閤板)の運上として固定した[9]。また領内の土崎湊(現在の秋田港)、能代湊(能代港)の2港を整備して、領国経済を確立させ、両港および越前国敦賀湊(現在福井県敦賀市)などでは米のほか木材を販売している[10][11]

湊城跡地に鎮座する土崎神明社

奥州仕置後、実季はあらためて平城として、雄物川河口の土崎湊に堀をともなう湊城を築いて本拠をここに移し、秋田城介を号して秋田氏を名乗った。また大館城大館市)・脇本城男鹿市)・馬場目城五城目町)などの要地に功臣・一族を配して、比較的安定した領国支配を築いた[4]

豊臣秀次を総大将とする天正19年(1591年)の九戸政実の乱における討伐軍、文禄元年(1592年)よりはじまる朝鮮出兵にも参陣している。文禄2年(1593年)の文禄の役での渡海割当は、『浅野家文書』によれば134名であった[注釈 4]

文禄年間にはまた、自領の一部について検地を行った形跡がある[13]。文禄3年(1594年)成立とみられる『秋田城之助殿分限帳』では秋田領は9万8,500石、蔵入地2万9,000石余と算定された[注釈 5]

文禄3年から文禄4年(1594年)にかけては、比内の浅利氏との間に小競り合いが生じている。史料には比内南西部の村がこの時「秋田よりなてきり」「秋田より放火」との記録が残る[8]。浅利氏の家老であった片山弥伝(比内中野)、浅利七兵衛(十二所)、浅利内膳(八木橋)らは、これを機に直接、実季に従うこととなった[8]

慶長4年(1599年)から翌年にかけては本拠湊城の大規模な改築を行なっている[注釈 6]。そこには、多数の大工鍛冶大鋸引・葺土・壁塗りが参加したことが記録に残されている[16]

宍戸転封と伊勢での蟄居

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慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方に立った。会津征伐での山形城最上義光上杉景勝との講和は秋田氏と最上氏との密約を察した上杉側によって決裂となり、慶長出羽合戦では小野寺義道を平鹿郡大森城(秋田県横手市大森町)に攻めた[17]。しかしこの際に秋田氏の勢力が増大することを恐れた戸沢氏が厭戦的態度をとったことに加え、最上と上杉側との戦前交渉に失敗し最上を孤立させる一因を秋田氏側が作っていたことなどから、戦後に山形城最上義光が「実季が裏では小野寺方と通じていて実は東軍方と言えない」と徳川家康に讒言する事態となった[18]。なお、本来の会津征伐の計画では南部氏と秋田氏などの出羽の諸大名は最上義光を大将としてその指揮命令の下に米沢城を攻撃する計画であったが、石田三成の挙兵によって会津征伐が中止になって以降の軍事指揮権について引き続き自分に指揮権があると考える義光と、あくまでも全体の指揮官は家康であって義光の指揮権は会津征伐が中止になった時点で消滅した(個々の大名が家康の許可を得て軍事作戦を行う)と考える実季ら諸大名との間に認識の相違があったと考えられ、義光は伊達政宗に対して戸沢氏ら実季以外の諸将についても軍令違反があるとの認識を示した書状を送っている[19]

対し実季は弁明し、家康の嫌疑を晴らすことに成功したが[18]、慶長7年(1602年)、家康の命を受けて常陸国宍戸に転封された。これは常陸国の大名佐竹氏の秋田・仙北への入部にともなうものであったが[18]、一方で太閤蔵入地は没収され事実上の減封となった。このとき、姓を秋田から伊駒へと改めている(その後復姓)が、太閤蔵入地とされた旧領が豊臣氏の所領として家康によって没収されたことに対し、実季が不満を抱いたのではないかとも推測される。慶長16年1月15日1611年2月27日)には、従来自称してきた従五位秋田城介に正式に補任された。

宍戸藩主となった実季は、慶長19年(1614年)の大坂夏の陣では豊臣方先鋒隊らと激突したものの大損害を出し、敗北を喫した。

秋田実季の墓(伊勢市永松寺)

寛永7年(1630年)、元和偃武後も戦国大名らしい気骨が横溢していることが幕府の忌み嫌うところとなり、突如伊勢国朝熊(三重県伊勢市朝熊町)へ蟄居を命じられた[17]。嫡男の俊季との不和説や、従来からの檜山系・湊系による家臣間の対立が背後にあったのではないかとする見解もあるが、詳細は不明である。なお、秋田氏は俊季の幕府への忠節と、俊季の母[注釈 7] が大御所秀忠の正室崇源院の従姉妹にあたることも幸いして俊季の家督継承が認められ、正保2年(1645年陸奥三春に5万5,000石移封すると以後幕末まで同地で存続した。

寛永7年以降約30年にわたり、実季は伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を余儀なくされた[20]万治2年(1660年)、同地にて死去した。享年85。朝熊永松寺には、実季の用いた食器などの日用品が現在も残されている[20]

人物

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伊勢朝熊に蟄居した際に万金丹を制作したという逸話が残る[21]

実季の帰依した若狭国小浜羽賀寺に僧形像[22] が残り、福井県の有形文化財(歴史資料)に指定されている[23]。陸奥国三春には俗身で束帯姿の木像が残る。和歌や文筆、また、茶道にも優れた教養人であったといわれる。以下は、実季の残した歌である。

我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや

系譜

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父母

正室

側室

子女

系図

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出典:[24]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
細川晴元
 
 
 
織田信秀
 
 
 
 
 
 
 
畠山清信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭元
 
お犬の方
 
織田信長
 
 
 
 
愛季
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
英季
 
実季
 
 
円光院
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
季則季長季信
 
俊季

脚注

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注釈

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  1. ^ 『秋田家系図』などでは応永年間(15世紀初頭)に津軽下国家が秋田湊を討伐するという記述があるものの、江戸時代の菅江真澄の著作に描かれた男鹿半島地方の神社棟札寺院境内多宝塔の紀年銘などより、現在では安東一支族の秋田地方定着は鎌倉時代にさかのぼることが確実視されている[2]
  2. ^ 檜山安東氏は、16世紀に入ってからも蝦夷地の代官蠣崎氏(のちの松前氏)の徴収する関銭の大半を上納させ、軍役を課すなど蝦夷沙汰権に由来する経済力と軍事力を有していた[3]
  3. ^ 蔵入地は秋田郡の八郎潟南東岸や豊島郡(のちの河辺郡)の肥沃な土地が多く、実季領と入り組んでいた[9]
  4. ^ 『浅野家文書』によれば、東北地方の大名の割当は、蒲生1,500名、伊達500名、最上300名、南部100名、由利五人衆88名、本堂25名、大崎10名であった。天正19年の『覚上公御書集』では蒲生3000名、最上500名、秋田250名、南部200名、津軽150名となっている。なお『覚上公御書集』記載の員数は渡海割当だけではなく、それを含む軍役の総数である[12]
  5. ^ 『秋田城之助殿分限帳』によれば、蔵入地2万9,000石余については実季の家臣13名が代官となって村落の支配にあたっており、代官13名は重臣から軽輩までさまざまな階層の家臣よりなる。実季直領は1万700石余で、一族重臣による代官24名による支配がなされる。一族重臣24名は「三ケ一代官衆」と呼ばれ、その分の石高は2万3,200石余、一般家臣には多種多様な家臣を含む97名で、その分は3万1,000石余であった。それ以外に、特定の職能に基づく軽輩を主体とする直属家臣団があり、鉄砲衆45名1,250石、御鎧衆24名514名、飛脚衆12名151石という内訳であった。他に寺社領として2,303石があてられていた[14]
  6. ^ 湊安東氏は長期にわたって秋田市高清水丘の古代秋田城を利用していた。湊城が土崎の地に移ったのは織豊政権期に入ってからであり、一国一城令によって廃城となった後に現在曳山行事で有名な土崎神明社が建てられた[15]
  7. ^ 実季の正室円光院。細川昭元の娘であった。

出典

[編集]
  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰『コンサイス日本人名辞典』(第5版)、三省堂、2009年、16頁。
  2. ^ 塩谷 1987, pp. 93–94, 「安東氏とその時代」.
  3. ^ 小林 & 大石 1978, p. 170, 小林清治「大名権力の形成」。原出典は海保嶺夫「松前家臣団の成立-道南における中世的世界の解体過程-」『松前藩と松前』第9号、松前町史編集室、1976年。 
  4. ^ a b c d 小和田 2007, pp. 137–140.
  5. ^ 今村 1969, p. 60.
  6. ^ 小林 & 大石 1978, pp. 169–172, 小林清治「大名権力の形成」.
  7. ^ 今村 1969, p. 62.
  8. ^ a b c 板橋 2000, pp. 62–63.
  9. ^ a b c 今村 1969, p. 66.
  10. ^ 塩谷 1987, pp. 101–102, 「秋田杉と手工業」.
  11. ^ 今村 1969, pp. 66–67.
  12. ^ 小林 & 大石 1978, pp. 230–233, 藤木久志「中世奥羽の終末」.
  13. ^ 加藤 1982, pp. 202–204, 「豊臣政権と秋田地方」.
  14. ^ 加藤 1982, pp. 199–200, 「豊臣政権と秋田地方」.
  15. ^ 塩谷 1987, p. 117, 「秋田杉と手工業」.
  16. ^ 塩谷 1987, p. 117-118, 「秋田杉と手工業」.
  17. ^ a b 鈴木登「安東氏」『秋田大百科事典』秋田魁新報社、1981年9月、71頁。ISBN 4-870-20-007-4 
  18. ^ a b c 加藤 1982, pp. 213–216, 「慶長五年の明暗」.
  19. ^ 阿部哲人「慶長五年の戦局と最上義光」『山形史学研究』45合併号、2016年。 /所収:竹井英文 編『最上義光』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第六巻〉、2017年、77-87頁。ISBN 978-4-86403-257-5 
  20. ^ a b 塩谷 1987, pp. 122–123, 「秋田杉と手工業」.
  21. ^ 東北大学附属図書館「秋田家史料目録解題」
  22. ^ 「図説福井県史」中世12(福井県公文書館)
  23. ^ 福井県の文化財(福井県)
  24. ^ 『戦国武将データファイル』デアゴスティーニ、2011年、40-06頁。 

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]
先代
秋田愛季
秋田氏2代当主
1587年 - 1630年
次代
秋田俊季