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{{日本の城郭概要表 |
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|name = 広島城 |
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|pref = 広島県 |
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|struct = 輪郭式平城 |
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|remains = 石垣、堀 |
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[[ファイル:Hiroshima castle before bomb.jpg|thumb|200px|right|被爆数年前の広島城]] |
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'''広島城'''(ひろしまじょう)は、[[広島県]][[広島市]]中区基町にある[[城|城郭]]。鯉城(りじょう)ともいう。国の[[史跡]]。広島城全域が'''広島城址公園'''(ひろしまじょうしこうえん)となっており、復元された大天守は歴史[[博物館]]として利用されている。[[広島市中央公園]]と隣接している。 |
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|1=Hiroshima Castle 1988.jpg |
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|2=1988年<ref name="MLIT">{{国土航空写真}}</ref>。 |
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|3=An Overview of the Hiroshima Castle as Seen From a Hotel Rooftop as Secretary Kerry Visited the City (26277888562).jpg |
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|4=2016年 |
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|6=明治時代の大天守絵葉書。 |
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}} |
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'''広島城'''(ひろしまじょう)は、[[安芸国]][[沼田郡|佐東郡]]広島([[広島県]][[広島市]][[中区 (広島市)|中区]][[基町]])にあった[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]の[[日本の城]]。国の[[史跡]]に指定されている。[[毛利輝元]]が[[太田川]]河口の[[三角州|デルタ地帯]]に築いた[[平城]]で、[[1945年]](昭和20年)まで[[天守]]を始めとする城郭建築が現存していたが<ref name=":0">学習研究社編『【決定版】図説 国宝の城』学習研究社、2010年、ISBN 978-4-05-605966-3</ref>、[[太平洋戦争|太平洋戦争末期]]に[[アメリカ軍]]の[[原子爆弾]]投下によって倒壊し、現在見られる城内の天守以下城郭建築はすべて[[1958年]]以降に再建されたものである<ref>中城正尭・福代徹執筆、(財)日本城郭協会監修、学習研究社編『日本100名城 公式ガイドブック』学習研究社、2007年、ISBN 978-4-05-604638-0</ref>。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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江戸時代初頭に入城した[[福島正則]]の増築以降に、城域となった外堀までの約90万平方メートルの範囲のうち、現在の史跡としての広島城は[[広島市中央公園]]内<ref>{{Cite web|和書|publisher=国土交通省|url=https://www.cgr.mlit.go.jp/furusato/contents/hiroshima/h24.htm|title=中央公園(史跡広島城二の丸周辺)|accessdate=2012-04-14}}</ref> の内堀を含む本丸跡と二の丸跡の範囲で、広さ約12万m<sup>2</sup><ref name="sirouya03">{{Cite web|和書|url=https://www.rijo-castle.jp/rijo/wp-content/themes/rijo-castle/assets/pdf/magazine/shirouya03.pdf |title=しろうや!広島城 第3号 |accessdate=2022-04-01 |format=PDF |publisher=公益財団法人広島市文化財団広島城}}</ref> と三の丸跡の一部が残る。広島市公園条例第6条の3では、中央公園のうち広島城及びその周辺の区域を中央公園「広島城区域」として定めている<ref name="条例">[https://www.city.hiroshima.lg.jp/kikaku/houki/reiki_int/reiki_honbun/r500RG00000619.html 広島市公園条例] - 広島市</ref>(一般には「広島城公園<ref>[https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/505810.pdf ひろしまフードフェスティバルの開催について] - 広島県</ref>」「広島城址公園」と呼ばれている)。なお、城内に[[広島護国神社]]の敷地があるが、同神社の敷地については[[1956年]]に公園区域からは除外されている<ref>[https://www.city.hiroshima.lg.jp/uploaded/life/142718_164174_misc.pdf 中央公園の今後の活用に係る基本方針(令和2年3月)] - 広島市</ref>。 |
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それまでの毛利氏の居城・[[吉田郡山城]]は[[尼子氏]]の大軍を撃退した経験を持つ堅固な山城であり、また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、領土の争奪戦を伴う[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の毛利氏には適した位置であった。しかし、天正末期になり、天下が安定する頃になると、中国地方9か国120万石の太守であった毛利氏に吉田郡山城は政務所としても手狭なものとなり始めた。また吉田郡山城は山間部にあり、商業の中心地としては不適切であったことから、海上交易路である[[瀬戸内海|瀬戸内]]の水運が生かせ、[[城下町]]の形成が可能な平野がある海沿いへの拠点を移動すべきという意思もあった。一説には[[永禄]]年間([[1558年]]-[[1569年]])の輝元の祖父・[[毛利元就]]のころから現在の広島の平野部への築城構想はあったという。 |
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[[大坂城]]や[[岡山城]]などと共に初期[[城#近世|近世城郭]]の代表的なもので<ref>{{Cite web|和書|publisher=岡山観光コンペティション協会|url=http://www.okayama-kanko.net/sightseeing/sightseeing_area.php?id=32|title=岡山城|accessdate=2012-04-04}}</ref> 、また[[名古屋城]]、[[岡山城]]と共に[[日本]]三大平城<ref name="sirouya29">{{Cite web|和書|url=https://www.rijo-castle.jp/rijo/wp-content/themes/rijo-castle/assets/pdf/magazine/shirouya29.pdf |title=しろうや!広島城 第29号 |accessdate=2022-04-01 |format=PDF |publisher=公益財団法人広島市文化財団広島城}}</ref> に数えられる。[[日本100名城]]の一つに選定されている。 |
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[[1589年]](天正17年)、[[二宮就辰]]らの指揮の下、ついに築城が開始された。広島築城は川の中州の埋め立てと、堀の[[浚渫]]が初段の大工事となった。城の構造は[[大坂城]]を参考とし、近世城郭として築城された。縄張りは[[聚楽第]]に範を取っているといわれる。軟弱な[[三角州]]地盤に築城したため、石垣の重量を分散させる工夫がなされている。また、堀は三重に巡らされ、馬出を多数備える実戦的な城構えであった。この築城は同時期に進行しつつあった[[豊臣秀吉]]の[[文禄・慶長の役|朝鮮征伐]]の後方基地としての期待もあり、秀吉は築城技術のサポートとして側近の[[黒田孝高|黒田如水]]を派遣し、自らも建設中に広島城に滞在したという話も残る。 |
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[[江戸時代]]では西日本有数の所領となった[[広島藩]]42万6000石の[[浅野氏|浅野家]]12代の居城となり、江戸時代中期に書かれた『広島藩御覚書帖』によると、5重と3重の大小天守群以下、櫓88基<!-- 上屋だけでなく櫓台も含めると棟より基が妥当かと-->が建てられていた。[[1592年]]に毛利輝元によって創建された大天守は、外壁仕上げの[[下見板張り]]や最上階に高欄を持つ外観仕様が[[国宝]]指定([[1931年]])の理由の一つとなった<ref name=":0" />。[[近代]]は[[日清戦争]]時に、本丸に[[大本営]]が置かれるなど軍都広島の中心であった。[[1945年]]のアメリカ軍による[[広島市への原子爆弾投下]]により、現存していた天守は倒壊し、櫓や城門も失われた。近年の研究で天守は原爆による爆風で吹き飛ばされたのではなく建物の自重により自壊したことが判明している。現在の天守は[[鉄筋コンクリート構造]]による外観復元天守である。 |
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完成当初は当時の大坂城に匹敵する規模の城だったといわれるが、[[関ヶ原の戦い]]で減封されて広島を去った毛利輝元に代わって城主となった[[福島正則]]による改築があり、築城当時の広島城がどのような姿であったかについての詳細は不明である。 |
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外観復元された大天守は歴史[[博物館]]「広島城」として利用されている。 |
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関ヶ原の戦いの後、[[1600年]](慶長5年)に福島正則が毛利輝元に替わって広島城に入城。この時代に、それまで二葉の里付近から城の北側を通っていた[[西国街道]]を、城下の南側を通るように付け替えるとともに[[雲石街道]]を整備した(一説には毛利輝元時代)といわれ、町人町が拡大した。しかし、幕府に無届けで修築したためそれをとがめられ、二段にしてあった本丸の上段石垣を破却している。これは現在でも確認できる。 |
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2023年現在大天守、小天守、中御門、裏御門、本丸御殿、本丸多聞櫓の木造復元計画があるが移動できる土地が無い為、護国神社は移築する予定はない。 |
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本丸跡、二の丸跡以外は都市開発により城跡の面影はなく、史跡外で確認できる[[遺構]]は、堀の石垣の天端石、[[広島高等裁判所]]敷地内にある中堀土塁跡、[[空鞘橋]]東詰南側の外郭櫓跡程度である<ref name="No.39">[https://www.rijo-castle.jp/rijo/wp-content/themes/rijo-castle/assets/pdf/magazine/shirouya39.pdf しろうや!広島城 No.39] - 広島市</ref><ref name="wakoku-resource">{{Cite web|和書|author=広島市歴史科学教育事業団 |publisher=ひろしまWEB博物館|url=http://www.mogurin.or.jp/wakoku-resource/PDF/T_00061-001.pdf|format=PDF|title=広島城外堀跡紙屋町交差点地点|accessdate=2012-04-15}}</ref>。 |
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== 別称 == |
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結局、福島正則は[[1619年]](元和5年)に[[改易]]の憂き目を見ることになり、以降は[[浅野氏]]の居城となった。 |
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別称は「{{読み仮名|鯉城|りじょう}}」。広島城があった一帯は昔「{{読み仮名|己斐浦|こいのうら}}」と呼ばれ、広島市[[西区 (広島市)|西区]][[己斐]]の地名は[[延喜式]]で嘉字地名とされる前は「[[コイ|鯉]]」であったと言われていることから、この名がついた<ref name="sirouya15">{{Cite web|和書|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/149_sirouya15.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第15号|accessdate=2016-10-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=玉置和弘 |publisher=広島城|url=http://ww7.enjoy.ne.jp/~kazu-tamaki/rijo.html|title=広島城と鯉城|accessdate=2012-04-01}}</ref><ref name="sirouya09">{{Cite web|和書|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/143_sirouya09.pdf|title=しろうや!広島城 第9号|accessdate=2016-10-16|format=PDF|publisher=広島城公式}}</ref>。一説には堀にたくさんの鯉がいたからとも、天守が黒いからとも言われる。その他、「{{読み仮名|[[在間城]]|ざいまじょう}}」{{#tag:ref|城が置かれた土地は当初は[[在間庄]]と呼ばれた<ref name="hiroshima-bunka" />。|group="†"}}、「{{読み仮名|当麻城|たいまじょう}}」の別称がある<ref name="hiroshima-bunka">{{Cite web|和書|publisher=広島県|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=736|title=広島城跡|accessdate=2012-04-28}}</ref>。 |
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現存する資料の中で鯉城の名前が使われた最も古い資料は、江戸時代後期に藩儒[[頼聿庵]]が読んだ漢詩『遊東郊』の一節 |
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浅野藩政時代の広島城は内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の広大な城であったが、[[明治維新]]後には[[1911年]]([[明治]]44年)に外堀が埋められ、さらに原爆の瓦礫で中堀が埋められて現在の規模になった。広島市内の「八丁堀」、「薬研堀」などの地名は堀があった名残である。八丁堀は約8丁(約880メートル)あった東側の外堀にちなむ。また市内の庭園「[[縮景園]]」は、元々は城内だった。外堀は南側では現在の相生通りの南半を東西に走っており、現在の紙屋町西交差点あたりに[[大手門]]があった。北端は現在の城北通りであり、外堀の水は[[三篠橋]]付近の[[旧太田川|本川]](旧太田川)から引いていた。 |
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{{Quotation|紅塵背指鯉魚城(紅塵背指すれば鯉魚の城)|頼聿庵『遊東郊』|<ref name="sirouya15" /><ref>{{Cite web|和書|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/434_sirouya49.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第49号|accessdate=2016-09-25}}</ref>}}である。由来については江戸時代に書かれた資料はなく、現在一般的に知られる由来は明治時代以降の資料からである<ref name="sirouya15" />。よって一部では鯉城の由来は明治期に考えられたと唱えるものもいる<ref name="sirouya15" />。 |
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2003年、中区八丁堀の[[国土交通省]]中国[[地方整備局]]太田川河川事務所での発掘作業で、「鯉の[[金箔]]瓦」が1点出土している<ref>{{Cite web|和書|publisher=広島城公式|url=http://ww7.enjoy.ne.jp/~kazu-tamaki/kimpaku.html|title=広島城の金箔瓦について|accessdate=2016-10-16}}</ref><ref name="mogurin2007-06" />。金箔が施されていることから毛利氏時代のもの(下記金鯱瓦の項もあわせて参照)と推定されているが、天守と関係あるものかは不明<ref>{{Cite web|和書|author=玉置和弘 |publisher=広島城|url=http://ww7.enjoy.ne.jp/~kazu-tamaki/kimpaku.html|title=広島城の金箔瓦について|accessdate=2012-04-01}}</ref>。 |
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=== 天守 === |
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[[ファイル:Hiroshima Castle 11.JPG|thumb|200px|東小天守の跡]] |
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[[天守]]は連結式と呼ばれるもので特に複合連結式ともいい、大天守から[[櫓|渡櫓]]で2つの小天守を南と東に連結するものであった。望楼型で黒漆塗りの下見板が張られた壁面は豊臣秀吉の大坂城天守を模したともいわれ、[[屋根]]には金箔[[瓦]]が施されていたともいうが、内部は天井も張られていない簡素なものであったという。 |
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[[鯉城通り]]、鯉城会館、鯉城高校(現[[広島県立広島国泰寺高等学校]])、[[鯉城グループ]]など、市内中心部にある施設に鯉城を冠した名前のものが多い。 |
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明治期に小天守を失い、大天守のみが保存されることとなり、戦前は他の現存する建造物とともに旧制の国宝に指定されていた。太平洋戦争末期の[[広島市への原子爆弾投下|原子爆弾投下]]の際には、爆発時の熱線に耐えたものの、その直後の爆風の衝撃波と圧力により下部2層が上部の重さに耐えきれず倒壊、間もなく上部3層も崩落し、大量の建材が天守台や北東の堀に散乱したという<ref>[http://sankei.jp.msn.com/region/chugoku/hiroshima/100802/hrs1008020405002-n1.htm 原爆投下時の広島城、爆風で下層部崩れる。博物館調査で倒壊過程判明][[産経新聞]]([[2010年]][[8月2日]])</ref>。建材のその後に関しては定かではないが、生活に困窮した市民が使用したという証言があるほか、[[被爆者]]を救済するため、[[瀬戸内海]]の製塩業者に建材と塩を[[広島市]]が交換したともいう。公式文書には、このことは一切記されていない。 |
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また鯉城から「[[広島東洋カープ]]」(英語で鯉がCARP)のチーム名が付けられた<ref name="sirouya15" />。 |
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== 歴史 == |
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現在の大天守は[[1958年]](昭和33年)に「[[広島復興大博覧会]]」が開催された際、鉄骨鉄筋コンクリート造で外観復元された。ただし最上階層は木造で復元されている。 |
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=== 前史 === |
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{{Vertical_images_list |
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|寄せ= |
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|幅= 200px |
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|枠幅= |
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|1=Yoshida-kouriyama Castle overview.JPG |
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|2=吉田郡山城跡の遠景 |
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|3=Mohri Terumoto.jpg |
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|4=毛利輝元 |
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この地は[[太田川]]下流域にあたり、上流から堆積した土砂が[[三角州]]を形成し、[[中世]]には小島や[[砂州]]に小規模な集落が点在していた<ref>[[#原爆戦災誌]]、p.5。</ref><ref name="rijo-castle-1">{{Cite web|和書|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/05_history/01_history/r1_history01.html|title=築城前の広島|accessdate=2016-10-16}}</ref>。 |
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[[承久の乱]]以降、その戦功により[[安芸国]][[守護]]に命じられた[[武田氏]]により当地は治められていたが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]になると[[毛利元就]]が武田氏を滅ぼし[[厳島の戦い]]で[[陶氏]]([[大内氏]])に勝利したことにより、以降当地は[[毛利氏]]によって支配されることになる<ref name="rijo-castle-1" /><ref name="sensai6">[[#原爆戦災誌]]、p.6。</ref>。 |
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=== 別称 === |
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広島市西区己斐の地名は延喜式で嘉字地名とされる前は「鯉」であったと言われ、ここから鯉城の別名がついた。一説には堀にたくさんの[[コイ|鯉]]がいたからとも、天守が黒いからとも言われる。またこの別名から「[[広島東洋カープ]]」のチーム名が付けられた。カープは英語で鯉の意味である。 |
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それまでの毛利氏の居城である[[吉田郡山城]]は、[[尼子氏]]の[[吉田郡山城の戦い|大軍を撃退した経験]]を持つ堅固な山城であり、また[[山陰地方|山陰]]・[[山陽地方|山陽]]を結ぶ場所に位置するため、領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適していた<ref name="rijo-castle-2">{{Cite web|和書|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/sub4b.html|title=広島城築城|accessdate=2012-03-26}}</ref>。 |
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== 歴史 == |
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=== 近世 === |
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==== 安土桃山時代 ==== |
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[[1589年]]([[天正]]17年)に毛利氏の当主・[[毛利輝元]]が、交通の要衝である太田川三角州(当時の名称は五箇村)に築城を開始した。 |
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だが、元就の孫・[[毛利輝元]]の時代、[[天正]]末期になり天下が安定する頃になると、それまでの防護を主目的とした城造りから、城を権力の中心としてシンボル化しその周りを[[城下町]]として整備し領国の政務・商業の中心地として発展させる「[[城#近世|近世城郭]]」建築の時代になる<ref name="rijo-castle-2" />。中国地方9か国112万石(小早川や安国寺ら含めると150万石以上)の太守であった毛利氏にとって、山間部の山城である吉田郡山城は、政務および商業ともに手狭なものとなり始めた<ref name="rijo-castle-2" /><ref name="zakzak2012-01-27">{{Cite web|和書|author=濱口和久|authorlink=濱口和久|publisher=zakzak|date=2012-01-27|url=http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20120127/dms1201270835003-n1.htm|title=毛利輝元が威信かけた広島城|accessdate=2012-03-28}}{{リンク切れ|date=2016年10月16日}}</ref>。そこで、海上交易路である[[瀬戸内海|瀬戸内]]の水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ拠点を移すことを考え始めた<ref name="rijo-castle-2" />。 |
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[[1599年]]([[慶長]]5年)に完成。 |
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[[1588年]](天正16年)、輝元は[[豊臣秀吉]]の招きに応じて[[小早川隆景]]や[[吉川広家]]らと[[上洛]]し、[[大坂城]]や[[聚楽第]]を訪れ近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意したと言われている<ref name="mogurin2007-06">{{Cite web|和書|date=2007-06|author=財団法人広島市文化財団|coauthors=株式会社島田組|publisher=ひろしまWEB博物館|url=http://www.mogurin.or.jp/wakoku-resource/PDF/T_00451-001.pdf|format=PDF|title=広島城跡国保会舘地点|accessdate=2012-04-04}}</ref><ref name="rijo-castle-2" />。一説には[[永禄]]年間([[1558年]]-[[1569年]])の輝元の祖父である元就のころから現在の広島の平野部(一説には[[比治山]])への築城構想はあった<ref name="rijo-castle-1" /> という。 |
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==== 江戸時代 ==== |
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{{See also|中国国分}} |
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[[関ヶ原の戦い]]後、毛利氏は防長二国(長州藩)に減封され、広島城は[[福島正則]]の居城となった。 |
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{{Location map~|Japan |lat=34.40 |long=132.46|mark=Japanese Map symbol (Castle).svg|marksize=15|position=bottom| label='''広島城'''}} |
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{{Location map~|Japan |lat=34.67 |long=132.71|mark=Japanese Map symbol (Castle).svg|marksize=15|position=top| label=吉田郡山城}} |
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{{Location map~|Japan |lat=34.69 |long=135.53|mark=Japanese Map symbol (Castle).svg|marksize=15|position=bottom| label=大坂城}} |
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{{Location map~|Japan |lat=35.02 |long=135.75|mark=Japanese Map symbol (Castle).svg|marksize=15|position=top| label=聚楽第}} |
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{{Location map~|Japan |lat=33.53 |long=129.87|mark=Japanese Map symbol (Castle).svg|marksize=15|position=top| label=名護屋城}} |
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|caption= |
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}} |
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=== 築城 === |
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[[1619年]]([[元和 (日本)|元和]]5年)に洪水による被害の修復を幕府から無届け改築ととがめられ、[[改易]]され、信濃国川中島へ転封された。 |
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[[1589年]](天正17年)2月、輝元は現地調査のため吉田郡山を出発し、[[明星院 (広島市)|明星院]]山(現[[東区 (広島市)|東区]][[二葉山]])・新山(現東区[[牛田 (広島市)|牛田]])・己斐松山(現[[西区 (広島市)|西区]][[己斐]]{{#tag:ref|元就にゆかりがある[[旭山神社]]で輝元は見分した<ref>{{Cite web|和書|date=1997-01-01|publisher=西広島タイムス|url=http://www.l-co.co.jp/times/log/97/970101/34.html|title=己斐から宮島、毛利散歩|accessdate=2012-08-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20030526170358/http://www.l-co.co.jp/times/log/97/970101/34.html |archivedate=2003-05-26}}</ref>。|group="†"}})の3箇所に登り太田川下流域を検地した結果、「最も広い島地」である五箇村(あるいは五ヶ村・佐東五ヶ)に築城することに決めた<ref name="wakoku-resource" /><ref name="sensai6" /><ref name="rijo-castle-2" />。 |
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代わって[[紀伊国|紀伊]][[和歌山市|和歌山]]より[[浅野長晟]]が入城し、その後は、[[明治|明治時代]]に至るまで12代約250年間にわたって浅野氏の居城であった。『[[忠臣蔵]]』で知られる[[赤穂藩]]の[[浅野長矩]]は分家にあたる。 |
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1589年(天正17年)4月15日鍬入れ式<ref name="nihon">{{Cite web|和書|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/nihon.pdf|title=広島城 パンフレット|accessdate=2012-04-04|format=PDF|publisher=広島城公式}}{{リンク切れ|date=2016年10月16日}}</ref>。[[穂井田元清|穂井田(穂田)元清]]と[[二宮就辰]]を[[普請奉行]]として、築城が開始された<ref name="nihon" />。城の構造は大坂城を参考として、縄張は聚楽第に範を取っているといわれる。 |
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[[1864年]]([[元治]]元年)第一次[[長州征討]]の際[[徳川慶勝]]を総督とする幕府軍の本営となる。この際、慶勝によって撮影された幕末の広島城の写真が現在に残る。 |
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[[1590年]](天正18年)末、堀と城塁が竣工したことから、[[1591年]](天正19年)1月8日に輝元は入城した<ref name="sensai6" /><ref name="rijo-castle-2" /><ref name="nihon" />。[[1592年]](文禄元年)4月、文禄の役を指揮するため名護屋城へ向かう途中の秀吉がここへ立ち寄って城内を見物している<ref name="mogurin2007-06" />。[[1593年]]([[文禄]]2年)石垣が完成、[[1599年]]([[慶長]]4年)に全工事が完了し落成した<ref name="rijo-castle-2" />。なお「広島」という名はこの頃に付けられたと言われている(詳細は[[広島市#市名の由来]]参照)<ref name="zakzak2012-01-27" />。 |
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[[ファイル:Masanori Fukushima.JPG|thumb|200px|right|福島正則]] |
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完成当初は、堀は三重に巡らされ馬出を多数備える実戦的な城構えで、当時の大坂城に匹敵する規模の城だった<ref name="zakzak2012-01-27" /> といわれるが、[[関ヶ原の戦い]]で減封されて広島を去った毛利輝元に代わって、[[1600年]](慶長5年)城主となった[[福島正則]]による改築<ref name="rijo-castle-3">{{Cite web|和書|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/05_history/01_history/r1_history02.html|title=福島氏の入国と改易|accessdate=2016-10-16}}</ref> があり、築城当時の広島城がどのような姿であったかについての詳細は不明{{#tag:ref|『芸州広島御分国八州之時御城下屋敷割并神社仏閣割共図』など毛利氏時代の町割りを書いた絵図が存在するが、これらは[[江戸時代]]に書かれたものであるため信頼性が低い。|group="†"}}である。 |
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=== 藩政時代 === |
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{{See also|広島藩}} |
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[[福島氏]]時代、[[穴太衆]]を雇入れ、毛利氏時代に不十分だった城の整備および城下町づくりが本格的に行われた<ref name="wakoku-resource" /><ref name="rijo-castle-3" />。外郭が整備され、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の広大な城となったのはこの頃である<ref name="wakoku-resource" /><ref name="rijo-castle-3" />。二葉の里付近から城の北側を通っていた[[西国街道]]を城下の南側を通るように付け替える<ref name="rijo-castle-3" /> とともに[[雲石街道]]を整備{{#tag:ref|一説には毛利輝元時代。|group="†"}}したといわれ、町人町が拡大<ref name="rijo-castle-3" /> した。この大規模な城整備と城下町作りは[[徳川家康]]を怒らせ、[[1609年]](慶長14年)正則は謹慎を言い渡されている<ref name="mogurin2007-06" />。さらに、[[1619年]]([[元和 (日本)|元和]]5年)、正則は洪水による被害の修復を幕府から[[武家諸法度]]を破った無届け改築ととがめられ、[[改易]]され信濃国川中島へ転封された<ref name="rijo-castle-3" />。 |
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[[ファイル:Nagaakira Asano.jpg|thumb|200px|right|浅野長晟]] |
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同1619年(元和5年)8月8日、[[浅野長晟]]{{#tag:ref|正室は家康の三女[[正清院]]。|group="†"}}入城以降は[[浅野氏]]の居城となり、[[明治|明治時代]]に至るまで12代約250年間続いた<ref name="rijo-castle-4">{{Cite web|和書|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/sub4d.html|title=浅野氏の治世|accessdate=2012-03-26}}</ref>。 |
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武家諸法度の縛りがあるため容易に改修できないことから<ref name="mogurin2007-06" />、広島城の改修は福島氏の段階で完了していたと考えられていたが、近年の調査で一部の[[櫓台]]石垣は浅野氏時代に構築されたと判明している<ref name="rijo-castle-4" />。浅野氏時代には城普請はほぼ行われなかったが、大規模な[[干拓]]事業は引き続き行われ、約250年間で当初の域より5から6倍規模にまで広がった<ref name="sensai6" />。また洪水にたびたび悩まされており、洪水被害やそれを修復した記録が多数残っている<ref name="mogurin2007-06" /><ref name="rijo-castle-4" /><ref name="mlit" />。地震の被害にもあっており、[[1624年]]([[寛永]]元年)安芸国を震源地とした地震では石垣や多門・櫓・塀などが崩壊したことを最初に、以降数度地震災害の記録が残っている<ref name="phi41623">{{Cite web|和書|publisher=広島県文書館|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/41623.pdf|format=PDF|title=災害の記録と記憶|accessdate=2013-02-21}}</ref>。 |
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[[1864年]]([[元治]]元年)第一次[[長州征討]]の際、[[徳川慶勝]]を総督とする幕府軍の本営となる<ref name="rijo-castle-4" />。この際、慶勝によって撮影された幕末の広島城の写真が現在[[徳川林政史研究所]]に残る<ref>{{Cite web|和書|publisher=徳川林政史研究所|url=http://www.tokugawa.or.jp/institute/image_holder02/syasin01-mokuroku.pdf|format=PDF|title=徳川林政史研究所所蔵写真資料目録|accessdate=2012-04-03}}</ref>。[[戊辰戦争]]になると広島藩は[[官軍]]として戦ったため、城に被害はなかった。つまり、築城から[[江戸時代]]の間、この城は戦の舞台にはならなかったことになる<ref name="sirouya09" />。 |
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ファイル:Gaikan Hiroshima-shishi map-02.jpg|[[寛永]]年間広島城下絵図。天守や櫓の位置は不正確であるが、町並は正確に描かれている。 |
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ファイル:Gaikan Hiroshima-shishi map-01.jpg|広島の新開地発展図。築城から昭和初期までの土地開発遍歴が記載されている。 |
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</gallery> |
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=== 近代 === |
=== 近代 === |
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{{Vertical_images_list |
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[[File:Hiroshima map circa 1930.PNG|300px|thumb|[[1930年]]頃([[昭和]]初頭)の[[広島市|廣島市]]の地図。広島城は中央やや上にあり、周辺も含めて[[日本軍]]の施設が集中した。]] |
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|寄せ= |
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[[1894年]]の[[日清戦争]]に際し、[[広島大本営]]が城内に設置される。 |
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|1=Hiroshima Chindai Headquarters.JPG |
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|2=明治期の広島鎮台。後に第五師団司令部、大本営になる。左上に広島城天守が見える。 |
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|3=Imperial General Headquarters in Hiroshima.JPG |
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|4=広島大本営(右の建物)。左隅は[[昭憲皇太后]]御座所。左上に広島城天守が見える。 |
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[[ファイル:16126.d.2(60)-Emperor Meiji arrives safely in Hiroshima Prefecture.jpg|300px|right|thumb|[[楊斎延一]]『広島県御安着之図』。中央が明治天皇、右に広島城。]] |
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[[1871年]]([[明治]]4年)7月14日、[[廃藩置県]]。浅野氏による藩政体制は終りをつげ[[広島県]]が発足し、本丸に[[広島県庁舎]]が設置された<ref name="rijo-castle-5">{{Cite web|和書|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/05_history/01_history/r1_history04.html|title=近代の広島城|accessdate=2016-10-16}}</ref>。同年12月、本丸に鎮西[[鎮台]](のちの熊本鎮台)第一分営が置かれると県庁舎は三の丸に移転した<ref name="rijo-castle-5" />。[[1873年]](明治6年)1月、広島鎮台が正式に発足し、以降広島城には[[大日本帝国陸軍]]の施設が建てられるようになる<ref name="rijo-castle-5" />。1873年(明治6年)3月、三の丸に[[兵営]]が置かれる<ref name="rijo-castle-5" /> と、県庁舎は[[国泰寺 (広島市)|国泰寺]]へ移っていった。[[1875年]](明治8年)4月[[歩兵第11連隊]]設置、同年6月西練兵場設置<ref name="rijo-castle-5" />。一方で解体や火事により江戸時代の建物は失われており<ref name="rijo-castle-5" />、特に1874年(明治7年)本丸および二の丸で起こった火災では、本丸御殿が全焼した<ref name="nihon" />。 |
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[[1887年]](明治20年)、広島の開基地ということから、旧城廓内であるこの地を正式に「[[基町]]」と名付けられたと言われている<ref name="sensai303" />。 |
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[[1931年]]([[昭和]]6年)[[国宝]]に指定される。 |
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[[1888年]](明治21年)5月、広島鎮台は[[第5師団 (日本軍)|第五師団]]に改編されると本格的に軍としての機能を拡大させ、広島市は軍都として近代都市へと発展していった<ref name="rijo-castle-5" /><ref name="sensai7">[[#原爆戦災誌]]、p.7。</ref>。当時は基町全域が軍用地であった<ref name="sensai303" />。 |
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[[1945年]](昭和20年)[[8月6日]]午前8時15分[[広島市への原子爆弾投下|原子爆弾投下]]により天守などすべての建物が倒壊。 |
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[[1894年]](明治27年)7月、[[日清戦争]]が勃発すると城内に[[広島大本営]]が設置される(設置理由など詳細は広島大本営を参照)<ref name="rijo-castle-5" /><ref name="sensai7" />。同年[[9月15日]]から[[1895年]](明治28年)[[4月27日]]まで[[明治天皇]]は広島に[[行幸]]した<ref name="sensai7" />。これに伴い[[第7回帝国議会]]も広島で召集され、短期間ながら臨時[[首都]]として機能した<ref name="rijo-castle-5" /><ref name="sensai7" />。なお、大本営解散の後は「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」として保存されていた。当時、従軍記者として訪れた[[正岡子規]]は1句残している<ref name="sensai303">[[#原爆戦災誌]]、p.303。</ref>。 |
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=== 現代 === |
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{{Quotation|春暁や 城あらはるる 松の上|正岡子規|<ref name="sensai303" />}} |
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*[[1951年]](昭和26年) - [[第6回国民体育大会|広島国体]]にあわせて木造仮設天守閣が作られる。国体終了後に解体された<ref>[https://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1204155719035/html/common/4de337d6032.html 広報ひろしま(平成20年3月1日号)]</ref>。 |
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*[[1953年]](昭和28年) - [[3月31日]]に国の史跡に指定された。 |
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*[[1954年]](昭和29年) - [[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[府中町]]所在の[[多家神社]]宝蔵が広島県の重要文化財に指定。三の丸にあった稲荷社が明治7年([[1874年]])同社に移築されたもので、現存する広島城の建造物としては唯一。 |
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*[[1958年]](昭和33年) - 大天守が鉄骨鉄筋コンクリート造で外観復元される。 |
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*[[1989年]](平成元年)から[[1994年]](平成6年)にかけて、いくつかの建造物が木造で復元されている。 |
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<!--*[[2006年]](平成18年)4月6日 - [[日本100名城]](73番)に選定された。[[2007年]](平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。--><!--左の件は「観光」の欄に記載--> |
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[[1897年]](明治30年)4月、広島陸軍地方幼年学校(のちの[[広島陸軍幼年学校]])が城内に設置される<ref name="sensai7" />。 |
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ファイル:多家神社04.JPG|多家神社の宝蔵 |
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日清戦争および[[日露戦争]]以降、広島市は爆発的に人口増加していき、その中で広島城の堀の悪臭が目立つようになる<ref name="rijo-castle-5" /><ref name="sensai7" />。そこで明治40年代になると市により外堀や城下町時代の運河として使われていた西塔川や平田屋川の埋め立てが始まり、[[1911年]](明治44年)11月外堀埋立完了、[[1912年]]([[大正]]元年)西塔川埋立完了、[[1915年]](大正4年)平田屋川埋立(減幅して溝に)完了した<ref name="rijo-castle-5" /><ref name="sensai7" />。その埋め立てられた土地には、1912年から[[1918年]](大正7年)にかけて道路([[相生通り]]や[[鯉城通り]])や広島電気軌道([[広島電鉄本線]]・[[広島電鉄宇品線]]・[[広島電鉄白島線]])が整備されると、旧外堀の一部は繁華街となっていった<ref name="sensai7" /><ref name="sirouya05" />。 |
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ファイル:多家神社05.JPG|[[正倉|校倉造り]]だが、他に例の少ない四角形に近い断面六角形の校木を使用している |
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その中で広島城の歴史的価値を見出され、[[1926年]](大正15年)10月大本営跡が[[史跡]]指定。それまで軍の敷地であったことから立入禁止だったが[[1928年]]([[昭和]]3年)天守の一般開放が開始されている<ref name="hiroshimakouhou">{{Cite web|和書|publisher=広島市|url=https://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1204155719035/html/common/4de337d6032.html|title=広島城天守閣・三代の歩み|accessdate=2012-05-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120111235927/https://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1204155719035/html/common/4de337d6032.html |archivedate=2012-01-11}}</ref>。[[1931年]](昭和6年)1月天守が[[国宝保存法]]の[[国宝]](旧国宝)に指定される<ref name="rijo-castle-5" />。 |
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ファイル:Hiroshima city map 1880.jpg|1880年(明治13年)の広島市地図。鎮台が置かれた直後であり、江戸時代からの町割・堀がそのまま記載されている。 |
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ファイル:Hiroshima map circa 1930.PNG|[[1930年]]頃([[昭和]]初頭)の[[広島市|廣島市]]の地図。広島城は中央やや上にあり、周辺も含めて日本軍の施設が集中した。 |
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ファイル:Hiroshima City Map 1945.jpg|1945年の広島市地図。米軍作成。この時点では外堀は消え、中堀も一部を除きほぼ消滅しているとわかる。 |
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=== 太平洋戦争末期 === |
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[[2009年]]3月、広島城内であった広島市中区の合同庁舎建設前調査の用地から発見された[[井戸]]跡より、[[金箔]]を施した鯱瓦が一対発見されたことが発表された。この金箔瓦は築城当時のものと推定され、[[豊臣政権]]の権威の象徴として設置されたと考えられている。金箔瓦は[[織田信長]]の[[安土城]]が最初とされ、その後[[豊臣秀吉]]の[[大坂城]]に引き継がれ、豊臣政権下では金箔瓦の設置は豊臣政権に近い有力大名にしか認めていなかったとされる。 |
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| topic = [[アメリカ国立公文書記録管理局]]が所有する米軍撮影写真。 |
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| width = 250px |
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| image1 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshima-aerial-3-Aug-46-A3467.jpg Hiroshima aerial 3 Aug 46 A3467] |
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| image2 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshima-aerial-A3367.jpg Hiroshima aerial A3367] |
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| image3 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshima-aerial-A3370.jpg Hiroshima aerial A3370] |
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| image4 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshima-aerial-A3375.jpg Hiroshima aerial A3375] |
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| image5 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshima-aerial-A3377.jpg Hiroshima aerial A3377] |
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| image6 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshima-aerial-A3386.jpg Hiroshima aerial A3386] |
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| image7 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshima-aerial-A3390.jpg Hiroshima aerial A3390] |
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| image8 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshima-aerial-A3393.jpg Hiroshima aerial A3393] |
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| image9 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshima-aerial-A3394.jpg Hiroshima aerial A3394] |
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| image10 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshima-aerial-A3401.jpg Hiroshima aerial A3401] |
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| image11 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshima-aerial-A3407.jpg Hiroshima aerial A3407] |
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| image12 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshima-aerial-A3408.jpg Hiroshima aerial A3408] |
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| image13 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshima-aerial-A3413.jpg Hiroshima aerial A3413] |
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| image14 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshimaaerial-with-bridge-aiming-point-A3477.jpg Hiroshimaaerial with bridge aiming point A3477] |
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}} |
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{{ external media |
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| topic = [[広島県立文書館]]所有の絵葉書。 |
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| align = |
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| width = 250px |
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| image1 = [http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/picture/images/200407-1580_10.jpg [絵葉書](原爆記念 大本営跡) ※広島城天守閣跡] |
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}} |
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[[ファイル:342-usaf-11075 Physical Damage-Hiroshima.webm|250px|right|thumbtime=14:39 |thumb|被爆後]] |
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<gallery widths="200px" heights="200px"> |
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ファイル:AtomicEffects-p7a.jpg|被爆前の市内中心部。同心円の中心が爆心地。右上の矩形が広島城。 |
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ファイル:AtomicEffects-p7b.jpg|被爆後。 |
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</gallery> |
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{{See also|広島市への原子爆弾投下}} |
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[[太平洋戦争]]末期には[[本土決戦]]に備え、[[1945年]](昭和20年)4月[[第2総軍 (日本軍)|第二総軍]]司令部が二葉山麓の東練兵場そばにあった元騎兵第五連隊兵舎に置かれた<ref>{{Cite web|和書|publisher=広島平和資料館公式|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/est/panel/A2/2209_2.htm|title=第二総軍司令部の設置|accessdate=2012-04-08}}</ref>。さらに同年6月には[[広島師管区]]司令部が[[中国軍管区]]司令部に改編され、本丸に司令部を置き、本丸の南端で内堀の石垣に沿って[[シェルター]]化した防空作戦室(現在の[[中国軍管区司令部跡]])を建設した。 |
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また太平洋戦争末期まで、天守、東走櫓、裏御門の一部、中御門、表御門、二の丸の平櫓、多聞櫓、太鼓櫓など、江戸時代からの建物が残っていた<ref name="rijo-castle-5" />。ただこれらの施設には軍の重要書類が多数積み込まれていた<ref name="sensai305">[[#原爆戦災誌]]、p.305。</ref>。市内には高いビルが建設されていたが、まだこの当時は天守を市内のどこからでも見ることができた<ref name="sensai303" />。また軍施設ということから一般人の立ち入りは許可されていなかった<ref name="sensai308">[[#原爆戦災誌]]、p.308。</ref> が、司令部では[[学徒出陣|学徒動員]]で比治山高等女学校(現[[比治山女子中学校・高等学校|比治山女子高校]])生徒{{#tag:ref|当時、比治山女学校は[[偕行社]]附属学校で生徒の多くが高級軍人の子女であったことから入ることを許可された<ref name="tikago" />。|group="†"}}が働き、臨時ニュースを放送するときのために[[NHK広島放送局]]アナウンサーが待機していた<ref name="tikago">{{Cite web|和書|publisher=(比治山高校教員によるHP)|url=http://contest2002.thinkquest.jp/tqj2002/50168/tikago/|title=中国軍管区司令部地下壕|accessdate=2012-04-28}}</ref>。 |
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この瓦は、広島城[[本丸]]の本丸櫓門の棟上に飾られていた金鯱瓦と推定され、金箔瓦は過去にも広島城内の武家屋敷での出土が確認され、鯱瓦については[[甲府城]]での出土例もあるが、ほぼ完全な状態での出土は日本初となる。 |
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[[1945年]](昭和20年)[[8月6日]]午前8時15分、アメリカ軍による広島市への原子爆弾投下。軍事施設が集中していたことから、破壊目標となった<ref>[[#原爆戦災誌]]、p.27。</ref>。ここは[[爆心地]]からほぼ1キロメートル離れたところに位置した<ref name="sirouya02" />。 |
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用地で発見された井戸跡は、多くの瓦が詰め込まれたような状態で発見され、金鯱瓦の他にも金箔の施されていない鯱瓦一対と[[ホタテ貝]]の模様の入った瓦、[[鬼瓦]]も同時に出土した。井戸跡に埋められていた理由について、[[三浦正幸]]は「毛利輝元が防長2国に移封された後に広島城に入った[[福島正則]]が本丸櫓門から取り外し、城主交代を広く知らしめるために、儀式的な意味で丁重に井戸に沈めて埋納したのではないか」と推測した<ref>[[中国新聞]]、2009年3月5日。</ref>。また地元研究者{{誰|date=2010年11月}}は「毛利輝元の家臣が、関ヶ原の敗北後に急いで瓦を廃棄した」と主張している。 |
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建物が爆風により一瞬にして倒壊、火災により焼失している<ref name="rijo-castle-5" /><ref name="sensai305" />。なお天守は爆風や火災によるものではなく、自壊している(下記天守の項を参照)<ref name="hiroshimapeacemedia2010-07-15">{{Cite web|和書|date=2010-07-15|publisher=中国新聞|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20100714152701761_ja|title=広島城天守閣は自壊 原爆爆風説を覆す 学芸員が推定|accessdate=2012-04-01}}</ref>。樹木は、根こそぎ引きぬかれたものや、真ん中から裂けたり折れたりしたものが多数だった<ref name="sensai308" />。兵士は食事中あるいは朝礼最中の事で<ref>[[#原爆戦災誌]]、p.304-p.305。</ref>、彼らは軽々と吹き飛び<ref name="sensai305" />、あるものは即死<ref>[[#原爆戦災誌]]、p.263。</ref>、またあるものは倒壊した建物により圧死した<ref>[[#原爆戦災誌]]、p.307。</ref>。生き残ったものはほぼ北{{#tag:ref|北方向の[[牛田 (広島市)|牛田]]に[[工兵]]第5連隊作業場があった<ref>{{Cite web|和書|publisher=広島市平和記念資料館|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/est/panel/A2/2105_2.htm|title=広がる軍用地|accessdate=2012-08-18}}</ref>。|group="†"}}へ逃げている<ref name="sensai308" />。中国軍管区司令官[[藤井洋治]]陸軍中将は西練兵場南西端にあった庁舎で被爆しそこで死んでいる<ref name="sensai308" />。当時ここ一帯には約1万人の兵士がいたが、建物と共にすべての部隊は壊滅した<ref>[[#原爆戦災誌]]、p.309。</ref>。 |
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唯一倒壊せず原型をとどめていた建物が防空作戦室だった<ref name="sensai305" />。ここから被爆の第一報を通信している(詳細は[[中国軍管区司令部跡]]および[[広島市への原子爆弾投下#第一報 8月6日]]参照)。 |
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== 広島大本営 == |
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{{main|広島大本営}} |
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広島城の敷地内に、全国六[[鎮台]]の一つが設置され広島は軍都として発展していくこととなった。[[歩兵連隊|歩兵第十一連隊]]や[[広島陸軍幼年学校]]などが城内に設置された。日清戦争の際に大本営が東京から広島へ移され[[1894年]][[9月15日]]から[[1895年]][[4月27日]]まで[[明治天皇]]は広島に行幸した。これに伴い[[帝国議会]]も広島城内で召集され、短期間ながら臨時[[首都]]として機能した。大本営解散の後は「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」として保存されていた。 |
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火災が収まると、逃げ切れなかったものを手当てするため城内に臨時救護所が設けられたが、薬品不足など十分な医療行為が行えない事情から、そのまま死んでいくものも多かった<ref name="sensai313">[[#原爆戦災誌]]、p.313。</ref>。 |
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広島に大本営が置かれたことには、戦場であった大陸に通じる朝鮮半島に近い位置にあり<!--当時は電信技術が未発達だった理由から、情報収集や命令伝達が容易であった(この部分意味がつながらないように思うのですが?)-->、[[山陽鉄道]](現在の[[山陽本線]])が[[1894年]]6月に広島まで延伸され、また宇品港(現在の[[広島港]])が[[1889年]]に大型船舶が停泊できるように整備され、交通の便が比較的良かったことが最大の理由となっている。 |
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翌[[8月7日]]、[[松村秀逸]]中国軍管区参謀長による指揮の下、防空作戦室前にテントを設け、軍の再建を図ることになった<ref name="sensai313" />。[[8月15日]]終戦。[[8月16日]]、停戦および復員命令が下され、9月から11月にかけて各部隊は解散した<ref name="sensai314">[[#原爆戦災誌]]、p.314。</ref>。中国軍管区は11月末に一旦解散後、[[第一復員省]]中国復員監理部として再編された<ref name="sensai314" />。 |
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=== 現代 === |
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[[ファイル:Hiroshima Castle 1974.jpg|thumb|200px|right|1975年1月<ref name="MLIT" />。門や櫓がなく、まだ植樹も少ないとわかる。周辺は再開発しているが、南側の一部にバラックと思われる建物が乱立してるのも見える。]] |
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戦後、西練兵場で中国からの[[引揚者]]が開墾し始めた<ref name="sensai314" />。[[1948年]](昭和23年)になるとそこに市営の住居が建っており、[[1949年]](昭和24年)には川沿いに[[バラック]]が建ち始め<ref name="sensai314" />、後に[[原爆スラム]]が形成される。官公庁の庁舎も建ち始め、[[広島児童文化会館]]建設が決まるなど、周囲は再開発されていった<ref>[[#原爆戦災誌]]、p.315。</ref>。 |
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ただ、本丸および二の丸は用途の決まらないまま放置され、草むらと化していた<ref name="sirouya02">{{Cite web|和書|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/43_sirouya02.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第2号|accessdate=2016-10-16}}</ref>。市民の中では当初、内堀を埋め立て平地にし再開発を唱えるものもいた<ref name="sirouya02" />。平和運動の一環として[[長田新]][[広島文理科大学 (旧制)|旧制広島文理大学]]教授を中心に、本丸に[[自由の女神像 (ニューヨーク)|自由の女神]]のレプリカを建てる運動も起こった<ref name="sirouya02" /><ref>{{Cite web|和書|publisher=ヒロシマ平和メディアセンター|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20100903101404599_ja|title=ヒロシマの記録1947 7月|accessdate=2012-03-31}}</ref>。市や市議会は大本営跡を[[原爆十景|原爆記念保存物]]に選ぶなど被爆により荒廃した広島で新たな観光の目玉を欲していた<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2007-04-30|url=http://www.chugoku-np.co.jp/abom/2007/hiroshima_kiroku/2007043001.html|title=ヒロシマの記録―甦る「原爆十景」|accessdate=2012-03-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071015044856/http://www.chugoku-np.co.jp/abom/2007/hiroshima_kiroku/2007043001.html |archivedate=2007-10-15}}</ref> ことから天守再建を望んだが、文化財関係者は被爆により廃墟になった現状こそ価値があると再建反対に回った<ref name="sirouya10">{{Cite web|和書|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/144_sirouya10.pdf|title=しろうや!広島城 第10号|accessdate=2016-10-16|format=PDF|publisher=広島城公式}}</ref>。なお、被爆数年後の本丸の映像は1952年公開の[[新藤兼人]]監督『[[原爆の子 (映画)|原爆の子]]』で見ることが出来る<ref name="chugoku2010-07-15">{{Cite web|和書|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Tenpu/Te201004090107.html|title=鯉城の痕跡|accessdate=2012-04-03|date=2011-04-09|publisher=中国新聞|archiveurl=https://archive.is/20130430225131/http://www.chugoku-np.co.jp/Tenpu/Te201004090107.html|archivedate=2013-04-30|url-status=dead|url-status-date=2017-10}}</ref>。 |
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[[1951年]](昭和26年)、[[第6回国民体育大会|広島国体]]にあわせて木造仮設天守が作られた([[#2代目(仮設)]])<ref name="rijo-castle-5" />。地元紙[[中国新聞]]は以下の報道をしている。 |
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{{Quotation|あの水都の象徴であった鯉城が原爆以来五年目にふたたび出現、広島市民の郷愁を呼び起こしている。|1951年3月13日付中国新聞|<ref name="sirouya09" />}} |
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国体終了後に解体されたが、後の天守再建の機運へとつながった<ref name="rijo-castle-5" /><ref>[http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/455_sirouya50.pdf しろうや!広島城]</ref>。 |
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[[1953年]](昭和28年)[[3月31日]]、城跡が国の史跡に指定されると天守再建の機運が高まった<ref name="rijo-castle-5" />。戦後の[[高度経済成長]]の中で、[[1958年]](昭和33年)市制70周年を迎えるにあたり[[広島復興大博覧会]]開催が決まり、[[広島平和記念資料館]]開館と共に博覧会の目玉として天守再建が決定した<ref name="rijo-castle-5" /><ref>{{Cite web|和書|publisher=広島平和記念資料館公式|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/est/panel/A4/4303_2.htm|title=広島復興大博覧会の開催|accessdate=2012-03-27}}</ref>。これには[[渡辺忠雄 (政治家)|渡辺忠雄]]市長と市側の復元への強い想いが大きく作用した<ref name="sirouya10" />。[[1957年]](昭和32年)10月20日着工、翌1958年3月26日竣工<ref name="rijo-castle-5" />。同年6月1日、広島城郷土館(現在の博物館)が開館した<ref name="rijo-castle-5" />。また、この時期に[[広島護国神社]]が本丸に移転再建し、中堀も埋め立てられ<ref name="sirouya14" /> 内堀だけとなった。 |
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築城400周年・市制100周年を迎えたことにより改修を行い、[[1989年]](平成元年)から[[1994年]](平成6年)にかけて、二の丸の復元や堀の浄化作業が行われ、博物館も展示内容を見なおされている<ref name="rijo-castle-5" /><ref name="sirouya14" /><ref>{{Cite web|和書|publisher=広島県観光|url=http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/hiroshima/spot/1471.html|title=広島城|accessdate=2012-03-28}}</ref>。 |
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[[2006年]](平成18年)4月6日、[[日本100名城]](73番)に選定された。再建天守の老朽化が進んだため、現状からの耐震改修の他、木造再建も検討されている<ref>[https://news.rcc.jp/archive.php?i=8738 広島城天守閣 “木造復元”を提案 あり方懇談会「価値さらに高まる」]</ref>。 |
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{{wide image|Hiroshima Castle panorama view.jpg|800px|天守閣展望からのパノラマ撮影。左が東北東方向、右が南方向にあたる。左に[[広島市立白島小学校]]や[[中国放送]]、[[広島高等裁判所]]が見える。}} |
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== 構造 == |
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=== 縄張 === |
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|寄せ=left |
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|幅=300px |
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|枠幅= |
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|1=Hiroshima Castle Town 1644.jpg |
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|2=正保城絵図『安芸国広島城所絵図』。広島藩に関する絵地図の内、最も信頼性の高い地図<ref name="mogurin2007-06" />。 |
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|3=Model of Hiroshima.JPG |
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|4=当時を再現した模型。 |
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}} |
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{{See also|総構え}} |
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藩政時代の広島城は、[[福島正則]]が[[曲輪#縄張と主要な曲輪|輪郭式]][[平城]]として整備したものであり、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の、広さ約90万平方メートルの規模があった<ref name="sirouya03" /><ref name="sirouya19">{{Cite web|和書|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/153_sirouya19.pdf|title=しろうや!広島城 第19号|accessdate=2016-10-16|format=PDF|publisher=広島城公式}}</ref>。広島城を中心とした絵地図では東西南北を基準に整備されている様に書かれているが、上記空中写真および左絵地図の東西南北表記でも分かるとおり実際には約18度時計回り方向に傾いている<ref name="jsce16-0327">{{Cite journal|和書 |author = 小谷俊哉 | title = 広島市都市形成発祥の地における空間構造の変遷に関する研究| journal = 土木史研究 | volume = 16| pages = 327-334 | publisher = [[土木学会]]| date = 1996-06| url = http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1996/16-0327.pdf |format=PDF | accessdate =2015-05-05}}</ref>。その理由について書かれた文献はなく、当時の本川([[旧太田川]])と京橋川そして城北川(下記島普請参照)に囲まれていた地形的制約から配置が決まったものと推定されている<ref name="jsce16-0327" />。 |
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『広島藩御覚書帖』によるそれぞれの曲輪の規模は以下のとおり<ref name="hiroshima-bunka" />([[間]]および[[町 (単位)|町]]は[[尺貫法]]単位)。 |
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{| |
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{| class="wikitable" style="text-align:center;" |
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|- |
|- |
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!!!尺貫法!!メートル法換算 |
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|[[ファイル:広島大本営跡.jpg|200px|thumb|広島大本営跡]] |
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|- |
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|[[ファイル:歩兵第十一連隊後.jpg|200px|thumb|歩兵第十一連隊跡]] |
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|本丸||東西95間×南北120間||173m×218m |
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|[[ファイル:広島陸軍幼年学校跡.jpg|200px|thumb|広島陸軍幼年学校跡]] |
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|- |
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|二の丸||東西43間×南北25間||78m×45m |
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|- |
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|三の丸||東面250間 , 西面270間 , 南面285間||455m , 491m , 518m |
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|- |
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|外郭<br />(大手)||東面8町30間 , 西面12町<br /> 南面6町 , 北面6町30間||927m , 1309m<br /> 655m , 709m |
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|} |
|} |
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二の丸は「[[虎口#馬出|馬出]]」と呼ばれる曲輪で、広島城の特徴の一つである。毛利氏による築城当初は存在せず後の改修により造られたもので、1598年(慶長3年)から1600年(慶長5年)の間に造られたと考えられている<ref name="sirouya19" />。外堀は、南端が今の[[相生通り]]<ref name="sirouya04">{{Cite web|和書|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/45_sirouya04.pdf|title=しろうや!広島城 第4号|accessdate=2016-10-16|format=PDF|publisher=広島城公式}}</ref>、北端はほぼ[[城北通り]]、東端が[[白島通り]]の1本西側の道路の更に内側の敷地にあたり、北側の一部が白島通りに一致し、本川を西側の外堀と位置づけていた<ref>{{Cite web|和書|author=玉置和弘 |publisher=広島城|url=http://ww7.enjoy.ne.jp/~kazu-tamaki/sototanken.html|title=広島城の痕跡|accessdate=2012-04-01}}</ref><ref name="sirouya47">{{Cite web|和書|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/410_sirouya47.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第47号|accessdate=2016-04-27}}</ref>。また正則は、ここより西の大名(主に周防長門へ転封した毛利氏)からの攻撃を想定し、特に西側を増強している<ref name="sirouya19" />。それは本川沿いの櫓数や西側の馬出で窺い知る事ができる。更に本川を挟んだ西側には城の防衛目的([[安芸門徒]]に対して)で町割りに[[本願寺広島別院]]などの寺を集中させ[[広瀬・寺町|寺町]]を作っている<ref>{{Cite web|和書|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1170759806979/index.html|title=寺町界隈|accessdate=2013-02-24}}</ref>。 |
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[[ファイル:Hatchobori, Naka Ward, Hiroshima, Hiroshima Prefecture 730-0013, Japan - panoramio.jpg|230px|right|thumb|八丁堀西交差点にある「広島城八丁堀外濠跡」石碑]] |
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== 現在の広島城址 == |
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広島市には城が由来の地名が残っている。「[[紙屋町・八丁堀|八丁堀]]{{#tag:ref|八丁堀は約8町あった東面外堀にちなむ。|group="†"}}」「[[薬研堀]]」などの地名は堀があった名残である。八丁堀の「京口門」バス停留所は、城から東方向([[京都]])へ向かう門があった場所にある<ref name="sirouya04" />。[[広島本通商店街|本通り]]は毛利氏による城下町整備の際にできた通りである<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chugoku-np.co.jp/tokusyuu/mitikikou/m021124.html|title=みち紀行|accessdate=2012-04-03|publisher=中国新聞 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140222061313/http://www1.chugoku-np.co.jp/tokusyuu/mitikikou/m021124.html |archivedate=2014-02-22}}</ref>。[[大手町通り (広島市)|大手町通り]]北端、現在の紙屋町西交差点あたりに[[大手門]]があった。 |
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現在、広島城の敷地内には以下の施設がある。 |
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[[鬼門]]にあたる[[二葉山]]には藩主の加護により多くの神社仏閣が建てられ、[[明星院 (広島市)|明星院]](輝元の生母[[尾崎局|妙寿院]]の位牌所)、[[広島東照宮]]や[[饒津神社]]、[[尾長天満宮]]・[[國前寺]](以上浅野氏関連)、などが置かれた<ref name="nihon" />。上記の通り地形的制約から縄張が決まったと推定されていることから[[四神相応]]は曖昧で、裏鬼門を己斐松山([[旭山神社]])や[[厳島]]([[厳島神社]])など諸説唱えるものがいる。なお天守正面から見て[[似島]]の安芸小富士がやや左手に見えていた<ref name="jsce16-0327" />。 |
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=== 島普請 === |
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{{Vertical_images_list |
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|寄せ=right |
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|幅=230px |
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|枠幅= |
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|1=20100723 Miyajima 4904.jpg |
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|2=厳島神社大鳥居。それぞれの主柱下に45~60cmの松杭を約100本打ち込まれている<ref name="miyajima" />。 |
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|3=本川橋05.JPG |
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|4=本川橋橋脚。水面下の根固めの石組が毛利氏時代の島普請によるものと言われている。 |
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|5=20100722 Hiroshima Shukkeien 4379.jpg |
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|6=縮景園。 |
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島普請とは、現在で言う[[地盤改良]]と堀の[[浚渫]]、築堤工事のことを指す<ref name="mlit">{{Cite web|和書|publisher=国交省太田川工事事務所|url=https://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/chiebukuro/search/rekisi/No_149.html|title=太田川の洪水とその克服|accessdate=2012-03-28}}</ref><ref name="kazu-tamaki">{{Cite web|和書|author=玉置和弘 |publisher=広島城|url=http://ww7.enjoy.ne.jp/~kazu-tamaki/siro.html|title=広島城に関する基礎データ|accessdate=2012-03-28}}</ref>。 |
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当地は太田川下流域三角州の低地にあり、低湿地帯の砂地上に城を築くために「千本杭」と呼ばれる木杭を砂地盤に打ち込んだ上に基礎を築いた工法<ref name="miyajima">{{Cite web|和書|publisher=宮島観光協会|url=http://www.miyajima.or.jp/sightseeing/ss_ootorii.html|title=大鳥居|accessdate=2012-03-28}}</ref> が採用されたと伝えられてきた<ref name="kazu-tamaki"/>。ただ近年の発掘ではその証拠が見つかっておらず、それ以前の[[毛利元就]]時代の弘治元年([[1555年]])2月には[[山県就相]]宛の書状で現在の広島の地に堤が作られていた事から、実際に島普請が行われたかについて否定的な意見を唱えるほうが主流となりつつあるく<ref name="kazu-tamaki"/>。ちなみにこの千本杭は[[厳島神社大鳥居]]の基礎に用いられている<ref name="miyajima" />。 |
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北側の外堀がその他の外堀と違って蛇行しているのは川をせき止めて整備された<ref name="wakoku-resource" /> ためである。毛利輝元による築城当時その川は「城北川」と呼ばれており、城の北側にあたる現在の[[白島 (広島市)|白島]]地区は築城以前は「箱島」と呼ばれる島([[中州]])であった<ref name="shinshu-u.ac">{{Cite web|和書|author=西田ひかり |publisher=信州大学|url=https://hdl.handle.net/10091/15763|title=広島城下町の形成と治水事業|accessdate=2016-10-16}}</ref>。毛利氏の次に入城した福島正則は、城北川が[[洪水]]で氾濫した場合、城下に深刻な被害を与えると判断し、[[治水]]対策も含めて川を外堀として再整備し、東側は完全にせき止め西側は堀の取水口として[[樋門]]を設けた<ref name="shinshu-u.ac" />、とされている<ref name="wakoku-resource" />。ちなみに福島氏の次の広島藩主である[[浅野長晟]]は入城翌年となる元和6年([[1620]]年)、城北川東側のせき止めた地点つまり旧城北川と[[京橋川]]の合流点付近に |
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「[[縮景園]]」を造園している<ref>{{Cite web|和書|publisher=縮景園|url=http://shukkeien.jp/history.php|title=縮景園の歴史|accessdate=2012-05-21}}</ref>。 |
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浅野氏が支配した250年間で洪水にたびたび悩まされており、洪水被害やそれを修復した記録が多数残っている<ref name="rijo-castle-4" /><ref name="mlit" /><ref name="sirouya06">{{Cite web|和書|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/47_sirouya06.pdf|title=しろうや!広島城 第6号|accessdate=2016-10-16|format=PDF|publisher=広島城公式}}</ref>。その対策として、河川の堤防を高くしたり、川水の流れを抑制する石垣の設置、水害防御目的で植林したり、川の浚渫を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1482134324816/html/common/other/58cb4a3b037.pdf|title=ひろしま市民と市政 四季号2017春|accessdate=2018-12-11|format=PDF|publisher=広島市}}</ref>。その中でも特異な政策として、当時中国山地で[[たたら製鉄]]が盛んであったが、堀が埋まるのを防ぐためとして寛永5年([[1628年]])のお触れで、太田川流域での[[鉄穴流し]]が一切禁止となった。また寛永9年(1632年)には堤防取締令を発布し、堤防に穴を開けたり、石垣の石を抜き取る行為を禁止した<ref>{{Cite web|和書|author=山﨑一郎|publisher=太田川アクティブアーチ |title=基調講演 中国山地でのたたら製鉄|url=http://www.fuuen.com/OCC/tatara/2009yamasaki/01.pdf|format=PDF |date=2009 |accessdate=2018-12-11}}</ref>。 |
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戦前から同地に建っている[[福屋八丁堀本店]]本館は、相生通りに面して平行ではなく少しズレた状況で建っている。これは外堀を埋め立てた際に整備された当時の相生通りに対して平行に建てられたためで、戦後に相生通りを整備した際にズレる形となった<ref name="sirouya05">{{Cite web|和書|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/46_sirouya05.pdf|title=しろうや!広島城 第5号|accessdate=2016-10-16|format=PDF|publisher=広島城公式}}</ref>。つまり福屋本館は広島城の外堀に対して平行に建っていることになる<ref name="sirouya05" />。 |
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{{multiple image |
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| footer =八丁堀周辺。横断する道路が相生通りで、左から2番目の縦断する道路が旧白島通り。旧外堀は南端が相生通りで、東端が旧白島通りの左側の敷地にあたる<ref name="sirouya47" />。ちなみに「八丁堀」の由来となった東の外堀はここである。なお現在の[[白島通り]](八丁堀交差点)はその一本右側の道路で戦前は狭幅員で相生通りで突き当たっており[[中央通り (広島市)|中央通り]]は存在しなかった。これは上の『安芸国広島城所絵図』でも確認できる。 |
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| align = left |
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| width = 230 |
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| image1 = Hattyo-bori Hiroshima 25july1945.jpg |
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| caption1 = 被爆前。米軍撮影。 |
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| image2 = Hattyo-bori Hiroshima 11august1945.jpg |
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| caption2 =被爆後。米軍撮影。 |
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| image3 = 福屋本店01.jpg |
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| caption3 =福屋本館。手前が相生通り。 |
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}}{{-}} |
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=== 天守 === |
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[[ファイル:Hiroshima castle before bomb.jpg|thumb|300px|left|被爆数年前の広島城大天守。]] |
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{{multiple image |
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| align = left |
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| width = 150 |
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| image1 = Hiroshima Castle 11.JPG |
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| caption1 = 東小天守の跡(奥の石垣)。手前は初代大天守の礎石を移設したもの。 |
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| image2 = Hiroshima Castle 10.JPG |
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| caption2 =南小天守の石垣 |
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}} |
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{{See also|天守}} |
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==== 初代 ==== |
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1592年(文禄元年)4月、文禄の役に参加した常陸[[佐竹氏]]家臣の[[平塚滝俊]]は、佐竹軍が[[名護屋城]]に向かう際に通過した広島にて広島城の天守や石垣を見て「見事なること申すに及ばず候」と書簡に残していることから、天守はこの年以前に建てられたものと考えられている<ref name="chugoku20120827">{{Cite web|和書|url=http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201208270021.html|title=広島城天守閣、完成年判明|accessdate=2012-08-27|date=2012-08-27|publisher=中国新聞 |archiveurl=https://megalodon.jp/2012-0902-1419-29/www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201208270021.html |archivedate=2012-09-02}}</ref><ref name="sirouya32">{{Cite web|和書|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/165_sirouya32.pdf|title=しろうや!広島城 第32号|accessdate=2016-10-16|format=PDF|publisher=広島城公式}}</ref>。また、聚楽第にも劣らないと述べているが、ただし平塚はつぶさな城内見物や天守内部見学を行ったわけではないので、構築状況などもあくまで外観観察者としての印象である。同時に平塚は石垣と天守について「見事成事」としているが、城下町については「半途」と記している。この文献が2012年に発見されたことで、同時期に文禄の役を指揮するため名護屋城へ向かう途中で立ち寄った豊臣秀吉が、この天守に登って見物したとする記録が追認されたとされる<ref name="chugoku20120827" /><ref name="sirouya32" />。ただし秀吉は「御殿」に入ったことと、内外を見物したことが記録されているだけであり、この「御殿」を天守とするか、いわゆる居住区画としての御殿とするかについては断定できない。 |
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天守の形式は連結式と呼ばれるものの内、特に複連結式と呼称される「五重の大天守から[[櫓|渡櫓]]で南と東に2つの三重小天守を連結する」構造であった<ref name="hiroshimakouhou" /><ref name="sirouya04" />。大天守の高さは『広島藩御覚書帖』によると、17[[間]]6[[尺]](約32.7メートル)あった<ref name="hiroshima-bunka" />。望楼型で黒漆塗りの下見板が張られた壁面は豊臣秀吉の大坂城天守を模した<ref name="sirouya04" /> ともいわれ、[[屋根]]には金箔押の[[瓦|軒瓦]]や[[鬼瓦]](金箔瓦)が葺かれていた<ref name="sirouya04" />。その一方で、内部は天井も張られずに丸太の梁が剥き出しであった。藩政時代において天守はほぼ物置として使われており<ref name="sirouya29" /><ref name="hiroshimakouhou" />、築城から[[江戸時代]]の間この城自体は戦場にはなっておらず<ref name="sirouya09" />、[[戦中]]は旧陸軍の重要書類が多数積み込まれていた<ref name="sensai305" /> ことから、終始倉庫として利用されていたことになる。 |
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1873年(明治6年)以降、経緯は定かではないが小天守は撤去され、天守群は大天守と付属する一部の渡り櫓が残った。1958年現在の大天守入口前広場が南の小天守と渡櫓の跡にあたり、東の小天守台には基礎が残っている<ref name="sirouya08">{{Cite web|和書|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/142_sirouya08.pdf|title=しろうや!広島城 第8号|accessdate=2016-10-16|format=PDF|publisher=広島城公式}}</ref>。1931年(昭和6年)、他の現存する建造物とともに国宝保存法の[[国宝]](旧国宝)に指定されていたが、1945年(昭和20年)のアメリカ軍による原子爆弾投下の影響によって倒壊した。倒壊の様子について原子爆弾投下の際には、爆発時の熱線に耐えたものの、その直後の爆風による衝撃波と圧力により下部2層が上部の重さに耐えきれず倒壊、間もなく上部3層も崩落し、大量の建材が天守台や北東の堀に散乱した、という事が近年の研究で判明<ref name="hiroshimapeacemedia2010-07-15" />、倒壊後はしばらくそのまま放置されていた<ref name="chugoku2010-07-15" />。建材のその後に関しては定かではないが、生活に困窮した市民が使用したという証言がある<ref name="sirouya08" /> ほか、[[被爆者]]を救済するため、[[瀬戸内海]]の製塩業者に建材と塩を[[広島市]]が交換した<ref>{{Cite web|和書|author=玉置和弘 |publisher=広島城|url=http://ww7.enjoy.ne.jp/~kazu-tamaki/column.html#genbaku|title=コラム4 原爆で広島城天守閣は焼けなかった|accessdate=2012-04-06}}</ref> ともいう。このことは[[#原爆戦災誌|広島原爆戦災誌]]など市の公式資料には一切記されていない。 |
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==== 2代目(仮設) ==== |
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1951年(昭和26年)、広島国体開催に合わせて仮設の木造模擬天守が建てられた<ref name="sirouya09" />。 |
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天守を博物館として利用し始めたのはこの頃からである<ref name="sirouya09" />。夜はライトアップされ、アトラクションとして天守の周りを「スイッチバック・レールウェイ(木製の[[ローラーコースター|ジェットコースター]])」が設置された<ref name="sirouya09" />。竣工時期は不明である。大型台風の[[ルース台風]]にも耐えたが<ref name="sirouya09" />、国体終了と共に取り壊された<ref name="sirouya09" />。 |
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==== 3代目(現在) ==== |
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{| class="wikitable" style="float:right;text-align:center;" |
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|rowspan="5"|天守||第五層||7.2m||rowspan="5"|26.6m||rowspan="6"|39.0m||木造 |
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|第四層||5.7m||rowspan="4"|SRC造 |
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|- |
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|第三層||5.0m |
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|- |
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|第二層||4.9m |
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|- |
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|第一層||3.8m |
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|- |
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|colspan="2"|天守台||colspan="2"|12.4m||石造 |
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|} |
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現在の大天守は[[1958年]](昭和33年)に「[[広島復興大博覧会]]」が開催された際、外観復元された<ref name="sirouya10" />。各階層の高さは右表のとおり(単位はメートル)<ref name="nihon" />。工期は5ヶ月<ref name="chugoku20120723">{{Cite web|和書|date=2012-07-23|publisher=中国新聞|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=22007|title=復興の風 1958年 広島城 天守閣再生 活気を呼ぶ|accessdate=2015-10-06}}</ref>。総事業費約3,600万円<ref name="rijo-castle-5" />。施工は藤田組(現[[フジタ]])<ref>{{Cite web|和書|publisher=フジタ|url=http://www.fujita.co.jp/100th_town/fujita_town/001347.html|title=フジタのある街> 広島城|accessdate=2012-04-03|archiveurl=https://archive.is/20120802024634/http://www.fujita.co.jp/100th_town/fujita_town/001347.html|archivedate=2012-08-02|url-status=dead|url-status-date=2017-10}}</ref>。外観の仕上げは宮大工が務めた<ref name="chugoku20120723" />。再建するにあたり、以下の方針がとられた<ref name="sirouya10" />。 |
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*初代天守を忠実に再現する。 |
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*最上階で市内を展望できるようにする。 |
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*博物館として利用する。 |
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火災対策のため、木造から[[鉄骨鉄筋コンクリート構造|SRC造]]に変更している。自重増加のため天守台を補強することになり[[モルタル]][[グラウト]]により栗石を固めた<ref name="sirouya10" />。瓦を復元する際には、堀に沈んだものを探したり、古い広島城のものを新聞紙面上で募集するなどしている<ref name="sirouya10" />。 |
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最上階のみを木造での復元としたり、[[懸魚]]の形状を古写真に基づくものではなく創建当初のものを想定するなど初代天守の忠実復元を試みていた一方で、窓の意匠について本来、[[突上窓]]であるものを、[[連子窓]](格子窓)として復元したり、南廊下の1階・2階に窓を新たに開けるなど、戦災以前の外観とは異なる部分が指摘されている<ref name="天守のすべて">三浦正幸監修『【決定版】図説・天守のすべて』学習研究社 2007年</ref><ref>歴史群像編集部編『【決定版】図説 厳選日本名城探訪ガイド』学習研究社 2009年</ref>。 |
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2021年12月10日、広島市は市議会の一般質問で、天守で展示している武具等の資料を三の丸に移す方針を示した<ref name="chugoku-np20211210">[https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/126169 広島城天守閣、25年度閉館 耐震不安、三の丸に代替展示施設] [[中国新聞]]、2021年12月11日閲覧。</ref>。三代目となる天守については耐震性を満たしておらず、耐震改修せずに2025年度後半に閉館し、2026年度に三の丸に資料を展示するための代替施設を開館させる<ref name="chugoku-np20211210" />。天守の展示施設閉館後は安全面を考慮して来訪者は天守に入ることができなくなるが、外観は当面維持するとしている<ref name="chugoku-np20211210" />(後述の木造天守の復元計画がある)。 |
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==== 木造天守の復元計画 ==== |
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広島市の木造復元の計画は[[1989年]](平成元年)にあり、「広島城跡保存管理計画書」と「広島城跡整備基本計画書」の2冊の広島城跡の整備計画の計画書の中で示されていた。当時の復元整備計画では主に二の丸と本丸の第1期と第2期に分けられ、本丸で復元する城郭建造物としては、中御門、裏御門、天守閣・東走櫓・東小天守・南走櫓・南小天守等が挙げられ、特に天守閣・東走櫓・南走櫓(一部)については、文化庁所蔵に戦前の実測図と写真があるため、木造造りの精度の高い城郭建造物の復元が可能であると示され、復元事業の期限は1989年(平成元年)から始まり、主に二の丸の復元整備の第1期が計画から5年以内に行われ、二の丸の復元整備が完了した後から、最終目標として1958年(昭和33年)に鉄骨鉄筋コンクリートで再建された現在の天守閣の耐用年数に達するまでに、第2期として、主に本丸及び城跡外周部の復元整備を実施すると示されていた<ref>[https://www.city.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/129435.pdf 広島城天守閣耐震対策について - 広島市]</ref>。第1期の二の丸の復元整備は1989年(平成元年)から1994年(平成6年)に復元が完了して終えたが、それ以後の第2期の復元整備の計画は現在に至るまで進んでおらず、止まったままであった<ref>[http://hiroshima-castle.jp/ 【公式】広島城天守閣の木造復元を実現する会]</ref>。 |
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再建後、60年以上経過している鉄骨鉄筋コンクリート構造の現天守は老朽化による、耐震性の問題があり、耐震診断調査の結果、震度6から7で倒壊する恐れがあるとされていた。その為、耐震対策が課題になっていて、広島市は天守を補強や木造で復元するのかの判断を迫られていた。[[2020年]](令和2年)5月に市は31年前の「広島城跡整備基本計画」で示された方向性のうち取組が十分に行われていない事項(主に第2期の本丸の復元整備など)、優先的に推進すべき事項や詳細に示されていない事項に関する方向性を示すなど、今後の取組の基本的な指針として「広島城基本構想」を策定した。[[2021年]](令和3年)3月16日に[[松井一実]]広島市長は市議会予算特別委員会で「木造復元を目指す本格的な調査、検討を進める」などと述べ木造で再建する方針を示した。事業費は86億円と見込んでいる。 |
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{{Commonscat|Hiroshima Castle Keep Tower|広島城天守}} |
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ファイル:Hiroshima castle 002.JPG|広島城天守東側 |
ファイル:Hiroshima castle 002.JPG|広島城天守東側 |
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ファイル:Hiroshima-jo.JPG|広島城天守 北西方向から |
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ファイル:Hiroshima castle 2.jpg|広島城天守 望楼部分 |
ファイル:Hiroshima castle 2.jpg|広島城天守 望楼部分 |
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ファイル:Hiroshima castle.jpg |
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ファイル:Hiroshima-jo-2nomaru.jpg|広島城二の丸、平櫓・多聞櫓・太鼓櫓・表御門<br />[[1994年]](平成6年)に木造で復元された |
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ファイル:Hiroshima Castle by night.JPG |
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ファイル:20100722 Hiroshima Castle 4424.jpg |
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ファイル:Keep tower of Hiroshima Castle 20121122, 003.jpg |
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ファイル:Keep_tower_of_Hiroshima_Castle_20121122,_000.jpg |
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ファイル:Keep tower of Hiroshima Castle 20121122, 001.jpg |
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</gallery> |
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=== 本丸御殿 === |
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[[ファイル:Drawing of Hiroshima Castle.JPG|thumb|200px|right|本丸のCG。]] |
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藩主が生活し政務を行った本丸御殿は、本丸上段つまり本丸の北大部分を占める場所に位置した<ref name="joudan">{{Cite web|和書|author=玉置和弘 |publisher=広島城|url=http://ww7.enjoy.ne.jp/~kazu-tamaki/joudan.html|title=本丸上部部分|accessdate=2013-02-23}}</ref>。上記の通り、1874年(明治7年)本丸および二の丸での火災により全焼したことから、現存はしていない。跡地には大日本帝国陸軍関連(広島鎮台→第5師団司令部)から広島大本営が建てられたがそれらも被爆により全焼している。 |
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1996年(平成8年)から始まった本丸発掘調査により基礎石などが発見されている<ref>{{Cite web|和書|author=広島市歴史科学教育事業団 |publisher=ひろしまWEB博物館|url=http://www.mogurin.or.jp/maibun/data/hiroshimajo-honmaru.htm|title=史跡 広島城跡本丸|accessdate=2013-02-23}}</ref> が、それらは露出させず埋戻している<ref name="joudan" />。絵図が数枚残っていることから、模型資料などで復元されている<ref name="joudan" />。 |
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余談だが、[[江戸藩邸]]の上屋敷の方は当時[[霞が関]]にあり、[[歌川広重]]『[[名所江戸百景]]』「春の部 2. 霞がせき」に描かれている<ref name="sirouya06" />。 |
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=== 二の丸 === |
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==== 櫓 ==== |
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{{Vertical_images_list |
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|寄せ= |
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|幅= 200px |
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|枠幅= |
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|1=Hiroshima Castle01-r.JPG |
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|2=左から、表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓。 |
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|3=Yagiradai of Hiroshima Castle 20120427-2.JPG |
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|4=外郭櫓台跡。 |
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{{See also|櫓 (城郭)}} |
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藩政時代における広島城の特徴として、広さ約90万平方メートルの広大な城域を取り囲むように88基の櫓が置かれたことが挙げられる<ref name="sirouya29" /><ref name="sirouya24">{{Cite web|和書|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/158_sirouya24.pdf|title=しろうや!広島城 第24号|accessdate=2016-10-16|format=PDF|publisher=広島城公式}}</ref>。『広島藩御覚書帖』による各曲輪の櫓基数は、本丸23基、二の丸5基、三の丸17基、外郭43基<ref name="hiroshima-bunka" />。上記の通り特に西側を増強し、本川(旧太田川)に沿って11基もの櫓が二重に建てられその間を塀で結ばれている<ref name="sirouya24" />。 |
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1624年(寛永元年)の地震、1854年([[嘉永]]7年)[[安政南海地震]]の際に、櫓が崩れた記録が残っている<ref name="phi41623" />。 |
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明治以降になりこれらは取り壊されたことと、被爆により、江戸時代以前から現存する櫓は存在していない。ほとんどの櫓の位置は現在不明であるが、近年の発掘調査によりいくつか判明している。 |
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史跡外の櫓の遺構として太田川(現、旧太田川)の左岸にある「外郭櫓跡」がある<ref name="No.39" />。1979年に[[広島県教育委員会]]が発掘調査し、刻印が入った石垣が発見されている<ref>広島県教育委員会『広島城外郭櫓跡発掘調査概報』、1980年</ref>。 |
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==== 二の丸復元建物 ==== |
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二の丸復元建物として表御門と各櫓がある<ref name="hiroshima 資料3" />。この平櫓・多聞櫓・太鼓櫓および表御門は、1989年(平成元年)から行われた改修の際に再建されたものである<ref name="sunahara">{{Cite web|和書|publisher=砂原組|url=http://www.sunahara.co.jp/contents/construction/Culturalproperty/history.html|title=工事経歴(文化財関係)|accessdate=2012-04-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050921111437/http://www.sunahara.co.jp/contents/construction/Culturalproperty/history.html |archivedate=2005-09-21}}</ref>。施工は砂原組<ref name="sunahara" />。これらはつながっており、全部の櫓内部を見学できる<ref>{{Cite web|和書|publisher=広島市公式|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1203316412867/index.html|title=広島城太鼓櫓の見学について|accessdate=2012-04-06}}</ref>。 |
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ファイル:Hiroshima Castle 01.JPG|平櫓・多聞櫓・太鼓櫓 |
ファイル:Hiroshima Castle 01.JPG|平櫓・多聞櫓・太鼓櫓 |
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ファイル:Hiroshima Castle 06.JPG|表御門 |
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ファイル:Hiroshima-gokoku-zinzya.jpg|[[広島護国神社]]<br /><!--初詣の参拝者は広島の神社仏閣で最も多い。-->本丸跡に位置する。 |
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ファイル:Hiroshima Castle 05.JPG|平櫓内部 |
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ファイル:Rcc.jpg|[[中国放送]] (RCC)<br />広島城の敷地内にある中国放送([[Japan News Network|JNN]]系列)の本社社屋。 |
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ファイル:Ikeda-Hayato-statue1.jpg|[[池田勇人]]元首相銅像<br />広島県出身の[[政治家]] |
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ファイル:灘尾弘吉 銅像01.JPG|[[灘尾弘吉|灘尾弘吉元衆議院議長]]銅像<br />広島県出身の政治家 |
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=== 三の丸 === |
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ファイル:広島市中央バレーボール場.jpg|広島市中央バレーボール場<br />バレーボールだけではなく、多くのスポーツ大会が行われている。 |
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江戸時代、三の丸には[[武家屋敷]]等が存在した<ref name="hiroshima 資料3" />。三の丸は広島城跡(史跡)の範囲外にあり噴水広場などが設置されている<ref name="hiroshima 資料3" />。 |
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ファイル:広島城噴水.jpg|広島城内の噴水。 |
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[[2021年]]、広島市は「広島城三の丸整備基本計画」を策定し<ref>{{Cite web |title=広島城三の丸整備等事業に関する事業者の公募(令和4年7月15日~) - 広島市公式ホームページ|国際平和文化都市 |url=https://www.city.hiroshima.lg.jp/soshiki/46/286764.html |website=www.city.hiroshima.lg.jp |access-date=2024-10-09}}</ref>、その後[[中国放送|RCC]]や[[NTT都市開発]]などを中心とした企業体が三の丸において商業施設などを建設することが決定した<ref>{{Cite news |title=「広島城三の丸整備等事業(Park-PFI事業)」における公募設置等計画の認定および指定管理者の指定について広島城三の丸エリアが新たなにぎわい拠点に│NTT都市開発 |url=https://www.nttud.co.jp/news/detail/id/n26527.html |work=NTT都市開発 |access-date=2024-10-09 |language=ja}}</ref>。2024年3月には飲食店などを含む第1期エリアの起工式が行われ<ref>{{Cite web |title=広島城三の丸整備等事業「起工式」について {{!}} 中国四国博報堂 CHUGOKUSHIKOKU HAKUHODO Inc. |url=https://www.chugokushikoku.hakuhodo.co.jp/news/detail?id=572 |website=www.chugokushikoku.hakuhodo.co.jp |access-date=2024-10-09}}</ref><ref>{{Cite web |title=広島城三の丸でにぎわい施設の起工式 2025年3月開業へ {{!}} 中国新聞デジタル |url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/444852 |website=広島城三の丸でにぎわい施設の起工式 2025年3月開業へ {{!}} 中国新聞デジタル |date=2024-03-29 |access-date=2024-10-09 |language=ja}}</ref>、10月にはテナントが発表された。第1期エリアは2025年にオープンする予定<ref>{{Cite web |title=広島城三の丸エリアロゴマーク決定及び出展テナント概要について |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000052.000074399.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |date=2024-10-08 |access-date=2024-10-09 |language=ja-JP}}</ref><ref>{{Cite web |title=「歴史体験で広島城の価値を伝える」 整備が進む広島城・三の丸エリア ロゴマークを発表 {{!}} RCC NEWS {{!}} 広島ニュース {{!}} RCC中国放送 (1ページ) |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/rcc/1477729?display=1 |website=RCC中国放送 |date=2024-10-09 |access-date=2024-10-09 |language=ja}}</ref>。 |
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== 遺構 == |
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{{multiple image |
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| footer = 被爆前後の本丸および二の丸。米軍撮影。本丸中央が旧大本営。本丸左下の3つ並ぶ建物が[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]司令部で被爆当時は[[中国軍管区]]司令部。この時点で中堀は空堀になっていると分かる。 |
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| direction = vertical |
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| align = right |
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| width = 300 |
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| image1 = Hiroshima Castle 25july1945.jpg |
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| caption1 = 被爆前 |
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| image2 = Hiroshima Castle 11august1945.jpg |
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| caption2 = 被爆後 |
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}} |
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=== 大本営跡/昭憲皇太后御座所 === |
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{{See|広島大本営}} |
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ファイル:大本営石碑.JPG |
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ファイル:Hiroshima Castle 08.JPG |
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=== 石垣 === |
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1589年(天正17年)8月、毛利輝元は家来に堀の工事と石材の収集を命令したと伝えられている<ref name="sirouya07">{{Cite web|和書|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/141_sirouya07.pdf|title=しろうや!広島城 第7号|accessdate=2016-10-16|format=PDF|publisher=広島城公式}}</ref>。 |
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石材の殆どは緻密で硬いことから[[花崗岩]]が用いられている<ref name="sirouya07" />。瀬戸内海は良質な花崗岩の産地が多いことから主に沿岸部から運び込まれており、近年の調査で[[黄金山 (広島市)|黄金山]]や[[江波山公園|江波山]](この当時は島だった)、[[倉橋島]]、[[屋代島]](周防大島)などの島々からも運び込まれたと判明している<ref name="sirouya07" />。 |
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本丸北東付近、本丸上段東端の不規則につまれた状態で途切れている石垣は、福島正則の改易騒動を史実的に裏付けるものと考えられている<ref name="sirouya16">{{Cite web|和書|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/150_sirouya16.pdf|title=しろうや!広島城 第16号|accessdate=2016-10-16|format=PDF|publisher=広島城公式}}</ref>。正則が改易される少し前に、幕府は一度条件付きで正則を許している<ref name="sirouya16" />。その条件の一つに修築した石垣の破壊が盛り込まれていた<ref name="sirouya16" />。この部分は正則が破壊した石垣の境界部分と考えられている<ref name="sirouya16" />。 |
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広島市への原子爆弾投下の際に、内堀の一部石垣が崩れていることが米軍の空中写真により分かる。表御門や中御門にある石垣の一部に焦げたような跡があるのは被爆により発生した火災によるものである<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/209_sirouya26.pdf|title=しろうや!広島城 第26号|accessdate=2016-10-16|format=PDF|publisher=広島城公式}}</ref>。 |
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=== 堀 === |
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上記の通り、明治期に外堀が、戦後昭和30年代までに中堀が埋め立てられ、現在は内堀のみが残る形である<ref name="sirouya14">{{Cite web|和書|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/147_sirouya14.pdf|title=しろうや!広島城 第14号|accessdate=2016-10-16|format=PDF|publisher=広島城公式}}</ref>。[[紙屋町・八丁堀]]周辺の歩道に、外堀があったことを示す石碑が建っている。 |
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1970年代以降、[[祇園新道]]、[[1994年アジア競技大会]]会場整備、[[広島高速交通広島新交通1号線]]、紙屋町シャレオなど周辺の土地開発工事の際に発掘作業が同時に行われており、断片的ではあるが堀の詳細が判明{{#tag:ref|例えば、広島城内堀の南に位置する[[広島市中央庭球場]]は中堀があった場所であり、アジア大会開催前の整備工事の際に大規模な発掘調査が行われたり<ref>{{Cite web|和書|publisher=広島市未来都市創造財団|url=http://www.mogurin.or.jp/maibun/data/hiroshimajo-nakabori.htm|title=広島城遺跡中堀跡|accessdate=2012-04-10}}</ref>、紙屋町シャレオは外堀があった場所であることからその建設工事中の合間を縫って夜間に発掘調査が行われた<ref name="wakoku-resource" />。|group="†"}}している。 |
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戦後、外堀中堀と埋め立てられたせいで内堀は循環機能を失った"ため池"となり、更に周辺の都市開発の影響により地下水位が低下したことから内堀は枯れ始め、[[富栄養化]]も目立つようになる<ref name="sirouya14" />。様々な対策が行われたが、アジア大会開催を機に抜本的な対策が取られることになった<ref>{{Cite web|和書|publisher=国土交通省太田川工事事務所|url=https://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/topics/work/kankyo.html|title=堀川浄化事業|accessdate=2012-04-10}}</ref>。それは、[[旧太田川]](本川)から川水を取水し、内堀まで導水、循環させ、再び本川へ流出する導水路および流水路の建設工事で、[[建設省]](現国土交通省)と広島市による共同事業となった<ref name="sirouya14" />。これら導・流水路および内堀は、[[一級河川]]旧太田川を本流とする[[準用河川]]に指定されている<ref name="sirouya14" />。 |
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ファイル:Ishigaki of Hiroshima Castle 20120429-1.JPG|紙屋町シャレオにある復元石垣モニュメント。 |
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ファイル:Suiro of Hiroshima Castle 20120427-1.JPG|[[広島市道中広宇品線|城南通り]]下を通る地下道にある内堀と中堀をつないでいた[[暗渠]]のモニュメント。 |
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ファイル:Ishigaki of Hiroshima Castle 20120429-2.JPG|[[広島市中央庭球場]]にある中堀跡碑。 |
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ファイル:Central Park (Hiroshima) 1988.jpg|1988年の中央公園芝生広場<ref name="MLIT" />。 |
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ファイル:広島市中央公園03.JPG|北側堀川(川→堀) |
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ファイル:広島市中央公園04.JPG|南側堀川(堀→川) |
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=== 金鯱瓦 === |
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{{See also|金鯱}} |
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2009年(平成21年)3月、広島市中区上八丁堀の広島地方合同庁舎5号館建設による前調査の際に、金鯱瓦が一対発見された<ref name="chugoku2009-03-05">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2009-03-05|url=http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200903050135.html|title=広島城の金箔鯱瓦出土 ほぼ完全形、全国初|accessdate=2012-04-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090309070726/http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200903050135.html|archivedate=2009-03-09|url-status=dead|url-status-date=2017-10}}</ref>。発見された場所は、本丸から見て東側の中堀と外堀の間に位置していた武家屋敷にあたり、[[井戸]]跡の底に大量の瓦と共に埋まっていた<ref name="chugoku2009-03-05" /><ref name="asahi2009-11-30">{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/kansai/kouiki/OSK200911300016.html|title=広島城跡から金の鯱瓦がほぼ完全形で発見 全国で初めて|accessdate=2012-04-01|date=2009-11-30|publisher=朝日新聞}}{{リンク切れ|date=2016年10月16日}}</ref>。ほぼ完全な状態での金鯱瓦出土は国内初で、更に日本でも古い部類の鯱瓦にあたることから、完品として現存最古の金鯱瓦である<ref name="chugoku2009-03-05" /><ref name="hiroshima-u2009-12-25">{{Cite web|和書|date=2009-12-25|author=佐藤大規 |publisher=広島大学総合博物館研究報告|url=http://home.hiroshima-u.ac.jp/museum/siryou-data/kennkyuuhoukoku1/01%20Taiki%20SATO(p01-11).pdf|format=PDF|title=広島城出土の金箔鯱瓦についての考察|accessdate=2012-04-04}}</ref>。 |
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発見された珍しい瓦は以下のとおり。これらは築城当時の毛利氏時代のものと推定され、地下水に浸っていたため腐食しなかったと考えられている<ref name="chugoku2009-03-05" />。 |
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[[ファイル:HiroshimaCastleDetail7226.jpg|thumb|200px|right|現在の鯱瓦(復元)。]] |
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*ほぼ完全な形の金鯱瓦一対 |
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**高さ約70センチ×幅約30センチ<ref name="asahi2009-11-30" />。粘土製で、下地として黒漆と赤漆が塗られており、[[安土城]]の鯱瓦に似ている<ref name="asahi2009-11-30" /><ref name="hiroshima-u2009-12-25" />。本丸櫓門の棟上に飾られていた金鯱瓦と推定されている<ref name="chugoku2009-03-05" />。また当時京都で作られていた一般的な鯱瓦よりも技術的に低いことから、広島で作られたものではないかと推測されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.47news.jp/localnews/hiroshima/2009/11/post_20091130004822.html|title=鯱形金箔瓦、広島で製造か|accessdate=2012-04-05|date=2009-11-29|publisher=中国新聞|archiveurl=https://archive.is/20120716192018/http://www.47news.jp/localnews/hiroshima/2009/11/post_20091130004822.html|archivedate=2012-07-16|url-status=dead|url-status-date=2017-10}}</ref>。 |
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*金箔の施されていない鯱瓦一対<ref name="chugoku2009-03-05" /> |
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**高さ約40センチ。 |
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*[[ホタテ貝]]の模様の入った瓦<ref name="chugoku2009-03-05" /> |
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*[[鬼瓦]]<ref name="chugoku2009-03-05" /> |
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*家紋と見られる印が入った瓦<ref name="chugoku2009-03-05" /> |
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金箔瓦が作られた当時の[[豊臣政権]]下において、この瓦は「権威の象徴」とみなされ設置は秀吉の許可が必要だった<ref name="chugoku2009-03-05" />。また豊臣政権下でのこの瓦は[[朝鮮]]や[[明]]からの使者に日本の栄華を見せつけることを主目的としたため、同時代に築城した[[北部九州]]から[[大阪]]にかけての城でいくつか出土例があり、県内では[[厳島神社]]でも出土している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.47news.jp/CN/200906/CN2009062301000933.html|title=秀吉ゆかり?金箔瓦が出土 朝鮮出兵の後方拠点か|accessdate=2012-04-04|date=2009-06-23|publisher=共同通信 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140711150535/http://www.47news.jp/CN/200906/CN2009062301000933.html |archivedate=2014-07-11}}</ref>。 |
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井戸跡に埋められていた理由について、[[三浦正幸]]広島大学教授は「毛利輝元が防長2国に移封された後に広島城に入った福島正則が本丸櫓門から取り外し、城主交代を広く知らしめるために、儀式的な意味で丁重に井戸に沈めて埋納したのではないか」<ref name="chugoku2009-03-05" /> と推測した。これは、これら瓦が井戸の中で雑に投棄されていたのではなく、丁寧に積み重なる状況だったことも根拠の一つである<ref name="hiroshima-u2009-12-25" />。 |
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=== 被爆遺構 === |
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[[ファイル:広島護国神社03.JPG|thumb|200px|right|中国軍管区司令部跡。]] |
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1993年、広島市は[[爆心地]]から5キロメートル以内に位置する[[被爆建造物]]を洗い直し、それぞれ「被爆建物」「被爆樹木」「被爆橋梁」台帳に登録した。以下、城内にある被爆遺構を列挙する。 |
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;被爆建物 |
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*[[中国軍管区司令部跡]] - 爆心地から790メートル。広島護国神社境内、南側内堀石垣の際にある半地下式鉄筋コンクリート造の平屋建ての建物。旧名「中国軍管区司令部防空作戦室」。被爆の第一報を伝令した歴史的に重要な建物である。 |
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;被爆樹木 |
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江戸時代末期、城外からの目隠しとして内堀の際に松や杉・雑木が多数植えられていた<ref name="sirouya03" />。その後も生き続けていたが被爆によりそのほとんどが倒壊した<ref name="sirouya03" />。2012年現在、被爆後も生き続けている被爆樹木が3本ある。 |
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*[[クロガネモチ]] - 爆心地から910メートル。本丸の広島大本営跡の南側に生息している。元々は大本営前の前庭にあたり車周りの植え込みの一つだった<ref>{{Cite web|和書|publisher=NHK広島放送局|url=http://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibakumap/spot/TR-0011.html|title=クロガネモチ(広島城跡)|accessdate=2012-03-28}}</ref>。 |
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*[[ユーカリ]]・[[マルバヤナギ]] - 爆心地から740メートル。二の丸の中御門前の土橋の両端に生息している<ref>{{Cite web|和書|publisher=NHK広島放送局|url=http://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibakumap/spot/TR-0007.html|title=ユーカリ・マルバヤナギ(広島城二の丸跡)|accessdate=2012-03-28}}</ref>。 |
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;その他 |
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以下、被爆建物台帳に記載されていない被爆遺構である。 |
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*旧[[広島護国神社]]鳥居 - 爆心地から100メートル(移転前)。裏御門付近に移された旧広島護国神社鳥居。元々護国神社は旧外郭の南西付近、西練兵場の西側、現在の[[広島商工会議所]]の北側にあり、この鳥居は相生通りから北側すぐにあった。被爆により鳥居だけは残った。護国神社が本丸に移転した際に、旧鳥居を現在地に移転している。 |
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*[[広島大本営]]跡 - 爆心地から900メートル。上記参照。 |
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<gallery> |
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ファイル:HiroshimaCastleEucalyptus7206.jpg|被爆ユーカリ |
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ファイル:Hiroshima Castle 07.JPG|中御門跡と被爆マルバヤナギ |
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ファイル:広島護国神社02.JPG|旧広島護国神社鳥居 |
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</gallery> |
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=== 旧三の丸の遺構 === |
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{{multiple image |
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| align = right |
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| width = 150 |
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| image1 = 多家神社04.JPG |
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| caption1 = 多家神社の宝蔵 |
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| image2 = 多家神社05.JPG |
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| caption2 =[[正倉|校倉造り]]だが、他に例の少ない四角形に近い断面六角形の校木を使用している。 |
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}} |
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上記の通り、近代は軍用地として拡張し被爆により建物全壊、戦後は都市開発により、藩政時代の面影を残すものは極めて少ない。ただ明治期に移築した旧広島城の建物はいくつか現存している。 |
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;多家神社 |
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{{See|多家神社}} |
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[[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[府中町]]にある神社で、元々は三の丸にあった稲荷社が[[1874年]](明治7年)に移築されたもの。その後火災により焼失し、宝蔵のみが現在旧広島城時代の建物としては唯一のものとなっている。 |
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[[1954年]](昭和29年)、多家神社宝蔵が広島県重要文化財に指定された。 |
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;学問所 |
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{{multiple image |
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| align = right |
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| width = 150 |
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| image1 = Dozo of Hiroshima Castle.JPG |
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| caption1 = 2010年。広島城の土蔵。解体前 |
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| image2 = Dozo of Hiroshima Castle-2.JPG |
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| caption2 =別の角度より |
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}} |
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[[学問所]]は、江戸時代後期に三の丸に存在し、跡地は現在[[広島高等裁判所]]の敷地<ref name="gakumonjo">{{Cite web|和書|author=玉置和弘 |publisher=広島城|url=http://ww7.enjoy.ne.jp/~kazu-tamaki/hokutou.html|title=学問所土蔵跡|accessdate=2012-04-23}}</ref> として利用されている。[[1725年]](享保10年)に広島藩主[[浅野吉長]]が「講学所」として開校した[[藩校]]が前身であり、[[1782年]]([[天明]]2年)2月学問所開校、[[1870年]](明治3年)8月移転し、現在は修道学園([[修道中学校・修道高等学校]])として存続している<ref name="shudohistory">{{Cite web|publisher=修道中学校・修道高等学校|url=http://www.shudo-h.ed.jp/history.html|title=沿革|accessdate=2016-10-16}}</ref>。以下は学問所関連の遺構である。 |
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* 中堀土塁跡 - 裁判所敷地内にある、中堀の内側石垣の[[土塁]]跡であり、中堀外側に学問所があった。内堀北東隅で東から南に向きを変えた部分がL字型にわずかに残る<ref name="No.39" />。なお裁判所敷地内ということから許可なく見学することはできない<ref name="gakumonjo" />。 |
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* 土蔵 - 間口3.8メートル×奥行5.7メートルの2階建の[[土蔵]]<ref name="chugoku2010-09-18">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2010-09-18|url=http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201009180042.html|title=広島城から移築?土蔵復元へ|accessdate=2012-04-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100929070526/http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201009180042.html|archivedate=2010-09-29|url-status=dead|url-status-date=2017-10}}</ref>。明治時代の間に、市内愛宕町(現[[東区 (広島市)|東区]])に住む民間人{{#tag:ref|所有者の祖先は広島[[藩士]]で、藩主である[[浅野氏]]から譲り受けたと伝えられていた<ref>{{Cite web|和書|publisher=修道中学校・修道高等学校|url=http://www.shudo-h.ed.jp/dosokai/magazine/top/05_1.pdf|format=PDF|title=同窓会報修道No.73|accessdate=2012-05-18}}</ref>。|group="†"}}のところへ移築し被爆にも耐えた(爆心地からの距離は不明だが3キロメートル前後)<ref name="chugoku2010-09-18" /><ref name="chugoku2010-04-03">{{Cite web|和書|url=http://www.47news.jp/CI/201004/CI-20100403-00664.html|title=江戸後期の土蔵、近く解体へ|accessdate=2012-04-05|date=2010-04-03|publisher=中国新聞|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140711150502/http://www.47news.jp/CI/201004/CI-20100403-00664.html|archivedate=2014-07-11|url-status=dead|url-status-date=2017-10}}</ref>。平成に入り、瓦が落ちそうになるほど老朽化したため取り壊されるところだった<ref name="chugoku2010-04-03" />。そこへ学問所の土蔵だということが判明し関係者が保存に動いた結果、修道学園が無償で引取り校内へ復元移築した<ref name="chugoku2010-09-18" /><ref>{{Cite web|和書|publisher=修道中学校・修道高等学校|date=2011-12-16|url=http://www.shudo-h.ed.jp/2011/12/post-778.html|title=修道学問所(仮称)移築・復元事業に係る募金について|accessdate=2012-04-05|archiveurl=https://archive.is/20130501183351/http://www.shudo-h.ed.jp/2011/12/post-778.html|archivedate=2013-05-01|url-status=dead|url-status-date=2017-10}}</ref>。2018年、広島市指定重要文化財に指定された<ref>{{Cite web|和書|title=修道中学校・高等学校に設置の旧重谷家土蔵が広島市指定重要文化財に指定されました {{!}} 2019年お知らせ一覧 |url=http://www.shudo-u.ac.jp/gakuen/information/u59ujo00000005jt.html |website=学校法人 修道学園サイト |access-date=2023-07-13 |language=ja-JP}}</ref>。 |
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== 各エリアの管理 == |
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=== 公募設置管理制度 === |
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2023年(令和5年)4月1日から広島城区域の用地(本丸、二の丸、三の丸、旧中央バレーボール場など)と建物(天守閣、二の丸復元建物、広島城三の丸歴史館など)には指定管理者制度が採用されている<ref name="nikkeibp20221218">{{Cite web|和書|url= https://project.nikkeibp.co.jp/atclppp/PPP/news/120902698/ |title= 広島城三の丸にぎわい施設や多目的広場、広島市がPark-PFIで整備 |publisher= 日経BP|date= 2022-12-18 |accessdate= 2023-04-23 }}</ref>。なお、2026年度の開業予定の広島城三の丸歴史館の学芸業務は別途事業者が選定される<ref name="nikkeibp20221218" />。 |
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本丸上段及び天守閣は文部科学省所管の行政財産である<ref name="hiroshima 資料3">{{Cite web|和書|url= https://www.city.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/100583.pdf |title= 広島城の現状と課題等 |publisher= 広島市|accessdate= 2023-04-23 }}</ref>。また、史跡指定範囲内の本丸下段及び二の丸、これに隣接する史跡指定範囲外の広島市中央バレーボール場跡地及び三の丸は財務省所管の普通財産である<ref name="hiroshima 資料3" />。なお、広島市中央バレーボール場は2021年(令和3年)8月31日で閉鎖され<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.sports-or.city.hiroshima.jp/info/8612 |title= 中央バレーボール場の閉鎖について |publisher= 公益財団法人広島市スポーツ協会|accessdate= 2023-04-23 }}</ref>、跡地には観光バス駐車場が整備されている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/297125 |title= 観光バス駐車場、広島城の堀沿いに完成 広島市中央バレーボール場跡地、従来の三の丸から移転【変わる街】 |publisher= 中国新聞|date=2023-04-22 |accessdate= 2023-04-23 }}</ref>。 |
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=== 私有地 === |
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城内の広島護国神社(敷地面積4,958㎡)は宗教法人広島護国神社の所有地(私有地)である<ref name="hiroshima 資料3" />。また、広島城のエリアの一部で史跡指定範囲外であるが北東側に[[中国放送]]の敷地(敷地面積約4,700㎡)がある<ref name="hiroshima 資料3" />。 |
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=== ギャラリー === |
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ファイル:Hiroshima Gokoku Shrine 20130814-1.JPG|[[広島護国神社]]<br /><!--初詣の参拝者は広島の神社仏閣で最も多い。-->本丸跡に位置する。 |
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ファイル:RCC 20200825.JPG|[[中国放送]] (RCC)<br />広島城の敷地内にある中国放送([[Japan News Network|JNN]]系列)の本社社屋 |
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ファイル:灘尾弘吉 銅像01.JPG|[[灘尾弘吉]]元衆議院議長銅像<br />広島県出身の政治家 |
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ファイル:広島市中央バレーボール場.jpg|広島市中央バレーボール場(2021年8月31日廃止) |
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ファイル:広島城噴水.jpg|広島城内の噴水 |
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ファイル:歩兵第十一連隊後.jpg|[[歩兵第11連隊]]跡 |
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ファイル:広島陸軍幼年学校跡.jpg|[[広島陸軍幼年学校]]跡 |
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</gallery> |
</gallery> |
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{{博物館 |
{{博物館 |
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|名称=広島城 |
|名称=広島城 |
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|画像= |
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|画像=[[ファイル:Hiroshima castle 2008 01.JPG|170px|施設外観]] |
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|正式名称=広島城 |
|正式名称=広島城 |
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|愛称= |
|愛称= |
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127行目: | 532行目: | ||
|専門分野=[[歴史]] |
|専門分野=[[歴史]] |
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|事業主体=[[広島市]] |
|事業主体=[[広島市]] |
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|管理運営=[[ |
|管理運営=[[広島市文化財団]] |
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|年運営費= |
|年運営費= |
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|延床面積= |
|延床面積= |
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}} |
}} |
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=== 概要 === |
=== 概要 === |
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広島復興大博覧会開催に合わせ外観復元された天守を利用して1958年(昭和33年)に、前身となった「広島城郷土館」が設置された。郷土館は、広島城の他に広島の歴史、民俗、自然史などに関する資料を展示した博物館(博物館類似施設)であったが、1989年(平成元年)に改装と展示物の入れ替えを行い、現在は、博物館「広島城」として開館している<ref> |
広島復興大博覧会開催に合わせ外観復元された天守を利用して1958年(昭和33年)に、前身となった「広島城郷土館」が設置された。郷土館は、広島城の他に広島の歴史、民俗、自然史などに関する資料を展示した博物館(博物館類似施設)であったが、1989年(平成元年)に改装と展示物の入れ替えを行い、現在は、博物館「広島城」として開館している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/146_sirouya12.pdf|title=しろうや!広島城 第12号|accessdate=2016-10-16|format=PDF|publisher=広島城公式}}</ref>。 |
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なお、先述のとおり、広島市は2025年度後半に天守を閉館し、天守内の展示収蔵資料を三の丸に新設する代替施設に移して2026年度に開館させる方針である<ref name="chugoku-np20211210" />。 |
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=== 内容 === |
=== 内容 === |
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内部は、5層のうち1 |
内部は、5層のうち1階から3階は常設展示、4階は企画展示、5階(最上階)は展望室となっている。 |
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常設展示は、広島城の成立と役割、城下町広島のくらしと文化をテーマとしており、甲冑・刀剣等も展示されている。また、歴史と広島城に関する企画展示も実施されている。 |
常設展示は、広島城の成立と役割、城下町広島のくらしと文化をテーマとしており、甲冑・刀剣等も展示されている。また、歴史と広島城に関する企画展示も実施されている。 |
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<gallery> |
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Secretary Kerry and Ambassador Kennedy Look Out Over the Ota River and City of Hiroshima From Atop the Hiroshima Castle (26277888202).jpg|最上階から市内を展望する[[キャロライン・ケネディ]]駐日アメリカ大使と[[ジョン・フォーブズ・ケリー|ジョン・ケリー]]国務長官。2016年G7広島外相会合。 |
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Secretary Kerry, Ambassador Kennedy, and Assistant Secretary Russel Look at a Map of the Hiroshima Castle While Visiting the Site (26304022941).jpg|観覧するキャロライン・ケネディ駐日アメリカ大使とジョン・ケリー国務長官。 |
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</gallery> |
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=== 利用情報 === |
=== 利用情報 === |
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149行目: | 560行目: | ||
::()内は30人以上の団体料金、幼児は無料 |
::()内は30人以上の団体料金、幼児は無料 |
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;駐車場:なし |
;駐車場:なし |
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{{clear}} |
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== |
== 交通アクセス == |
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:''以下は [http://www.rijo-castle.jp/rijo/koutuu.html 広島城博物館] が公式に発表しているものを主に列挙する。 |
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=== 交通アクセス === |
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;路線バス |
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==== 鉄道・新交通システム ==== |
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JR[[広島駅]]([[広島駅のバスのりば]]参照)やJR[[横川駅 (広島県)|横川駅]]などからバスが出ている。 |
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* [[山陽本線]]・[[呉線]]・[[可部線]]・[[芸備線]][[広島駅]]から城南通りを通り、徒歩で20分、タクシーで10分 |
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*「合同庁舎前」バス停下車、徒歩約7分([[広島市道中広宇品線|城南通り]]を西へ) |
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* [[広島電鉄宇品線]]・[[広島電鉄宮島線|宮島線]]・[[広島電鉄江波線|江波線]][[紙屋町東駅]]・[[紙屋町西駅]]から徒歩で15分 |
|||
* 「[[広島バスセンター]]」下車、徒歩約12分([[鯉城通り]]を北へ) |
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* [[広島高速交通広島新交通1号線|アストラムライン]][[県庁前駅 (広島県)|県庁前駅]]から北へ徒歩約15分・[[城北駅]]から南回りもしくは東回りで徒歩約15分 |
|||
*「紙屋町」バス停または「紙屋町県庁前」バス停下車、徒歩約12分(鯉城通りを北へ) |
|||
;鉄道・新交通システム |
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==== 車・バス ==== |
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* [[広島電鉄]] |
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* 紙屋町バス停・紙屋町県庁前バス停・[[広島バスセンター]]から北へ徒歩約15分 |
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** [[紙屋町東停留場]]または[[紙屋町西停留場]]下車、徒歩約15分(鯉城通りを北へ) |
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; 駐車場 |
|||
** [[白島停留場|白島電停]]下車、徒歩約18分(少し南へ行った後、城北通りを西へ) |
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: 最寄りの広島中央駐車場(地下)か基町パーキング(同)を利用可能。各駐車場からは北へ徒歩約10分。他にも広島城周辺(基町・上八丁堀地区)にコインパーキングが多数ある。 |
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* JR |
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** 広島駅下車、徒歩約25分(南口から北へ、[[栄橋 (広島市)|栄橋]]から城南通りを西へ) |
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=== その他 === |
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** [[新白島駅]]下車、裏御門経由で徒歩約17分 |
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[[2006年]](平成18年)4月6日、[[日本100名城]](73番)に選定された。[[2007年]](平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。 |
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** 横川駅下車、徒歩約25分(南口から城北通りを東へ、[[三篠橋]]を渡り祇園新道を南へ) |
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* [[広島高速交通広島新交通1号線|アストラムライン]] |
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** [[県庁前駅 (広島県)|県庁前駅]]下車、徒歩約12分([[鯉城通り]]を北へ) |
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** [[城北駅]]下車、徒歩約12分([[祇園新道]]を南へ) |
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** 新白島駅下車、裏御門経由で徒歩約17分 |
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; 自動車 |
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* [[山陽自動車道]]・[[広島インターチェンジ|広島IC]]から車で約20分 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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;注釈 |
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;出典 |
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== 参考資料 == |
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* {{Cite book|1 =和書|author =広島市|title =広島原爆戦災誌|origdate =1971|url =http://a-bombdb.pcf.city.hiroshima.jp/pdbj/bookdownload/sensai0.pdf|format =PDF|accessdate =2012-03-27|edition =改良版|date =2005|ref =原爆戦災誌|archiveurl =https://web.archive.org/web/20131203005503/http://a-bombdb.pcf.city.hiroshima.jp/pdbj/bookdownload/sensai0.pdf|archivedate =2013年12月3日|deadlinkdate =2017年10月}} |
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* [http://www.mogurin.or.jp/maibun/castle/castle.htm 広島城関連の遺跡] - 財団法人広島市未来都市創造財団 |
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* [https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/2332 広島城跡] - 国指定文化財等データベース |
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* [http://www.tobunken-archives.jp/DigitalArchives/search/?lang=&m=1&t=0&pager.offset=0&len=20&orderBy=recordId&order=ASC&title=&keyword=%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%9F%8E&submit=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&x=41&y=19&area1=0&area2=0&area3=0&area4=0&theme1=0&theme2=0 戦前の絵葉書アーカイブ] - 東北芸術工科大学。 |
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* [http://www.pcf.city.hiroshima.jp/database/ 平和データベース] - 広島市。被爆後の広島城写真がある。 |
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* [http://www.rcc.net/prewar-film/hcity_content.htm ひろしま戦前の風景] - 中国放送(RCC)。戦前の映像がある。 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* |
* [[佐東銀山城]] - [[三入高松城]] - [[桜尾城]] - [[草津城]] - [[己斐城]] - [[仁保城]] - [[府中出張城]] - [[矢野城]] - [[三原城]] - [[宮尾城]] |
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* [[日本号 (槍)]] - 博物館にレプリカが展示されている。 |
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* [[中国地方の史跡一覧]] / [[縮景園]] |
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* [[ひろしまフラワーフェスティバル]] - 会場の一つ。 |
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* [[日本100名城]] |
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* [[天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会]] - 7区(最終区)は広島城を周回する。 |
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* [[広島藩]] |
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* [[毛利 |
* [[毛利元就博]] - 敷地内で開催されたイベント。 |
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* [[安芸ひろしま武将隊]] - 広島城の観光PR隊。 |
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* [[広島大本営]] |
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* [[修道中学校・修道高等学校]] - 城内三の丸に存在した学問所の流れをくむ学校。当時の土蔵も保存されている。 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{commonscat| |
{{commonscat|Hiroshima_Castle}} |
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{{osm box|n|1423635794}} |
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* [http://www.rijo-castle.jp/ 広島城(博物館)] |
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* [http:// |
* [http://www.rijo-castle.jp/ 広島城ホームページ] |
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* [http://www. |
* [http://www.rcc.co.jp/camera/ RCCライブカメラ] |
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* [http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/list.php?req=3&target=Hiroshima 長崎大学附属図書館 幕末 明治期 日本古写真メタデータ データベース]。下から2枚目は、明治初期の広島城。 |
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* [http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/category/categoryArchives/0200000000/0203000000 正保城絵図(国立公文書館デジタルアーカイブ)]安芸国広島城所絵図あり |
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* [http://maps.google.co.jp/maps?hl=&rlz=1B7GGLL_enJP400JP402&ie=UTF8&q=%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%9F%8E&fb=1&gl=jp&hq=%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%9F%8E&hnear=%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%9F%8E&cid=0,0,17688988339655644722&brcurrent=3,0x355a98a0a350bb7d:0xee91cc6dbc9ae5d8,0&layer=c&cbll=34.403526,132.459557&panoid=iWjniLVuKFWxH7UjXimV6Q&cbp=12,230.91,,0,-9.32&ll=34.403528,132.459669&spn=0.008817,0.01929&source=embed&utm_campaign=en&utm_medium=et&utm_source=en-et-na-us-gns-svn 広島城ストリートビュー] |
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2024年11月21日 (木) 10:57時点における最新版
広島城 (広島県) | |
---|---|
外観復元天守 | |
別名 | 鯉城、在間城、当麻城 |
城郭構造 | 輪郭式平城 |
天守構造 |
複連結式望楼型5重5階(1592年・非現存) 外観復元(SRC造・1958年再) |
築城主 | 毛利輝元 |
築城年 | 1589年(天正17年) |
主な改修者 | 福島正則 |
主な城主 | 毛利氏、福島氏、浅野氏 |
廃城年 | 1871年(明治4年) |
遺構 | 石垣、堀 |
指定文化財 | 国の史跡 |
再建造物 | 外観復元大天守・表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓 |
位置 | 北緯34度24分10.13秒 東経132度27分32.28秒 / 北緯34.4028139度 東経132.4589667度座標: 北緯34度24分10.13秒 東経132度27分32.28秒 / 北緯34.4028139度 東経132.4589667度 |
地図 |
広島城(ひろしまじょう)は、安芸国佐東郡広島(広島県広島市中区基町)にあった安土桃山時代から江戸時代の日本の城。国の史跡に指定されている。毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に築いた平城で、1945年(昭和20年)まで天守を始めとする城郭建築が現存していたが[2]、太平洋戦争末期にアメリカ軍の原子爆弾投下によって倒壊し、現在見られる城内の天守以下城郭建築はすべて1958年以降に再建されたものである[3]。
概要
[編集]江戸時代初頭に入城した福島正則の増築以降に、城域となった外堀までの約90万平方メートルの範囲のうち、現在の史跡としての広島城は広島市中央公園内[4] の内堀を含む本丸跡と二の丸跡の範囲で、広さ約12万m2[5] と三の丸跡の一部が残る。広島市公園条例第6条の3では、中央公園のうち広島城及びその周辺の区域を中央公園「広島城区域」として定めている[6](一般には「広島城公園[7]」「広島城址公園」と呼ばれている)。なお、城内に広島護国神社の敷地があるが、同神社の敷地については1956年に公園区域からは除外されている[8]。
大坂城や岡山城などと共に初期近世城郭の代表的なもので[9] 、また名古屋城、岡山城と共に日本三大平城[10] に数えられる。日本100名城の一つに選定されている。
江戸時代では西日本有数の所領となった広島藩42万6000石の浅野家12代の居城となり、江戸時代中期に書かれた『広島藩御覚書帖』によると、5重と3重の大小天守群以下、櫓88基が建てられていた。1592年に毛利輝元によって創建された大天守は、外壁仕上げの下見板張りや最上階に高欄を持つ外観仕様が国宝指定(1931年)の理由の一つとなった[2]。近代は日清戦争時に、本丸に大本営が置かれるなど軍都広島の中心であった。1945年のアメリカ軍による広島市への原子爆弾投下により、現存していた天守は倒壊し、櫓や城門も失われた。近年の研究で天守は原爆による爆風で吹き飛ばされたのではなく建物の自重により自壊したことが判明している。現在の天守は鉄筋コンクリート構造による外観復元天守である。
外観復元された大天守は歴史博物館「広島城」として利用されている。 2023年現在大天守、小天守、中御門、裏御門、本丸御殿、本丸多聞櫓の木造復元計画があるが移動できる土地が無い為、護国神社は移築する予定はない。 本丸跡、二の丸跡以外は都市開発により城跡の面影はなく、史跡外で確認できる遺構は、堀の石垣の天端石、広島高等裁判所敷地内にある中堀土塁跡、空鞘橋東詰南側の外郭櫓跡程度である[11][12]。
別称
[編集]別称は「
現存する資料の中で鯉城の名前が使われた最も古い資料は、江戸時代後期に藩儒頼聿庵が読んだ漢詩『遊東郊』の一節
である。由来については江戸時代に書かれた資料はなく、現在一般的に知られる由来は明治時代以降の資料からである[13]。よって一部では鯉城の由来は明治期に考えられたと唱えるものもいる[13]。
2003年、中区八丁堀の国土交通省中国地方整備局太田川河川事務所での発掘作業で、「鯉の金箔瓦」が1点出土している[18][19]。金箔が施されていることから毛利氏時代のもの(下記金鯱瓦の項もあわせて参照)と推定されているが、天守と関係あるものかは不明[20]。
鯉城通り、鯉城会館、鯉城高校(現広島県立広島国泰寺高等学校)、鯉城グループなど、市内中心部にある施設に鯉城を冠した名前のものが多い。 また鯉城から「広島東洋カープ」(英語で鯉がCARP)のチーム名が付けられた[13]。
歴史
[編集]前史
[編集]この地は太田川下流域にあたり、上流から堆積した土砂が三角州を形成し、中世には小島や砂州に小規模な集落が点在していた[21][22]。
承久の乱以降、その戦功により安芸国守護に命じられた武田氏により当地は治められていたが、戦国時代になると毛利元就が武田氏を滅ぼし厳島の戦いで陶氏(大内氏)に勝利したことにより、以降当地は毛利氏によって支配されることになる[22][23]。
それまでの毛利氏の居城である吉田郡山城は、尼子氏の大軍を撃退した経験を持つ堅固な山城であり、また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適していた[24]。
だが、元就の孫・毛利輝元の時代、天正末期になり天下が安定する頃になると、それまでの防護を主目的とした城造りから、城を権力の中心としてシンボル化しその周りを城下町として整備し領国の政務・商業の中心地として発展させる「近世城郭」建築の時代になる[24]。中国地方9か国112万石(小早川や安国寺ら含めると150万石以上)の太守であった毛利氏にとって、山間部の山城である吉田郡山城は、政務および商業ともに手狭なものとなり始めた[24][25]。そこで、海上交易路である瀬戸内の水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ拠点を移すことを考え始めた[24]。
1588年(天正16年)、輝元は豊臣秀吉の招きに応じて小早川隆景や吉川広家らと上洛し、大坂城や聚楽第を訪れ近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意したと言われている[19][24]。一説には永禄年間(1558年-1569年)の輝元の祖父である元就のころから現在の広島の平野部(一説には比治山)への築城構想はあった[22] という。
築城
[編集]1589年(天正17年)2月、輝元は現地調査のため吉田郡山を出発し、明星院山(現東区二葉山)・新山(現東区牛田)・己斐松山(現西区己斐[† 2])の3箇所に登り太田川下流域を検地した結果、「最も広い島地」である五箇村(あるいは五ヶ村・佐東五ヶ)に築城することに決めた[12][23][24]。
1589年(天正17年)4月15日鍬入れ式[27]。穂井田(穂田)元清と二宮就辰を普請奉行として、築城が開始された[27]。城の構造は大坂城を参考として、縄張は聚楽第に範を取っているといわれる。
1590年(天正18年)末、堀と城塁が竣工したことから、1591年(天正19年)1月8日に輝元は入城した[23][24][27]。1592年(文禄元年)4月、文禄の役を指揮するため名護屋城へ向かう途中の秀吉がここへ立ち寄って城内を見物している[19]。1593年(文禄2年)石垣が完成、1599年(慶長4年)に全工事が完了し落成した[24]。なお「広島」という名はこの頃に付けられたと言われている(詳細は広島市#市名の由来参照)[25]。
完成当初は、堀は三重に巡らされ馬出を多数備える実戦的な城構えで、当時の大坂城に匹敵する規模の城だった[25] といわれるが、関ヶ原の戦いで減封されて広島を去った毛利輝元に代わって、1600年(慶長5年)城主となった福島正則による改築[28] があり、築城当時の広島城がどのような姿であったかについての詳細は不明[† 3]である。
藩政時代
[編集]福島氏時代、穴太衆を雇入れ、毛利氏時代に不十分だった城の整備および城下町づくりが本格的に行われた[12][28]。外郭が整備され、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の広大な城となったのはこの頃である[12][28]。二葉の里付近から城の北側を通っていた西国街道を城下の南側を通るように付け替える[28] とともに雲石街道を整備[† 4]したといわれ、町人町が拡大[28] した。この大規模な城整備と城下町作りは徳川家康を怒らせ、1609年(慶長14年)正則は謹慎を言い渡されている[19]。さらに、1619年(元和5年)、正則は洪水による被害の修復を幕府から武家諸法度を破った無届け改築ととがめられ、改易され信濃国川中島へ転封された[28]。
同1619年(元和5年)8月8日、浅野長晟[† 5]入城以降は浅野氏の居城となり、明治時代に至るまで12代約250年間続いた[29]。
武家諸法度の縛りがあるため容易に改修できないことから[19]、広島城の改修は福島氏の段階で完了していたと考えられていたが、近年の調査で一部の櫓台石垣は浅野氏時代に構築されたと判明している[29]。浅野氏時代には城普請はほぼ行われなかったが、大規模な干拓事業は引き続き行われ、約250年間で当初の域より5から6倍規模にまで広がった[23]。また洪水にたびたび悩まされており、洪水被害やそれを修復した記録が多数残っている[19][29][30]。地震の被害にもあっており、1624年(寛永元年)安芸国を震源地とした地震では石垣や多門・櫓・塀などが崩壊したことを最初に、以降数度地震災害の記録が残っている[31]。
1864年(元治元年)第一次長州征討の際、徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となる[29]。この際、慶勝によって撮影された幕末の広島城の写真が現在徳川林政史研究所に残る[32]。戊辰戦争になると広島藩は官軍として戦ったため、城に被害はなかった。つまり、築城から江戸時代の間、この城は戦の舞台にはならなかったことになる[15]。
-
寛永年間広島城下絵図。天守や櫓の位置は不正確であるが、町並は正確に描かれている。
-
広島の新開地発展図。築城から昭和初期までの土地開発遍歴が記載されている。
近代
[編集]1871年(明治4年)7月14日、廃藩置県。浅野氏による藩政体制は終りをつげ広島県が発足し、本丸に広島県庁舎が設置された[33]。同年12月、本丸に鎮西鎮台(のちの熊本鎮台)第一分営が置かれると県庁舎は三の丸に移転した[33]。1873年(明治6年)1月、広島鎮台が正式に発足し、以降広島城には大日本帝国陸軍の施設が建てられるようになる[33]。1873年(明治6年)3月、三の丸に兵営が置かれる[33] と、県庁舎は国泰寺へ移っていった。1875年(明治8年)4月歩兵第11連隊設置、同年6月西練兵場設置[33]。一方で解体や火事により江戸時代の建物は失われており[33]、特に1874年(明治7年)本丸および二の丸で起こった火災では、本丸御殿が全焼した[27]。
1887年(明治20年)、広島の開基地ということから、旧城廓内であるこの地を正式に「基町」と名付けられたと言われている[34]。
1888年(明治21年)5月、広島鎮台は第五師団に改編されると本格的に軍としての機能を拡大させ、広島市は軍都として近代都市へと発展していった[33][35]。当時は基町全域が軍用地であった[34]。
1894年(明治27年)7月、日清戦争が勃発すると城内に広島大本営が設置される(設置理由など詳細は広島大本営を参照)[33][35]。同年9月15日から1895年(明治28年)4月27日まで明治天皇は広島に行幸した[35]。これに伴い第7回帝国議会も広島で召集され、短期間ながら臨時首都として機能した[33][35]。なお、大本営解散の後は「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」として保存されていた。当時、従軍記者として訪れた正岡子規は1句残している[34]。
春暁や 城あらはるる 松の上 — 正岡子規、[34]
1897年(明治30年)4月、広島陸軍地方幼年学校(のちの広島陸軍幼年学校)が城内に設置される[35]。
日清戦争および日露戦争以降、広島市は爆発的に人口増加していき、その中で広島城の堀の悪臭が目立つようになる[33][35]。そこで明治40年代になると市により外堀や城下町時代の運河として使われていた西塔川や平田屋川の埋め立てが始まり、1911年(明治44年)11月外堀埋立完了、1912年(大正元年)西塔川埋立完了、1915年(大正4年)平田屋川埋立(減幅して溝に)完了した[33][35]。その埋め立てられた土地には、1912年から1918年(大正7年)にかけて道路(相生通りや鯉城通り)や広島電気軌道(広島電鉄本線・広島電鉄宇品線・広島電鉄白島線)が整備されると、旧外堀の一部は繁華街となっていった[35][36]。
その中で広島城の歴史的価値を見出され、1926年(大正15年)10月大本営跡が史跡指定。それまで軍の敷地であったことから立入禁止だったが1928年(昭和3年)天守の一般開放が開始されている[37]。1931年(昭和6年)1月天守が国宝保存法の国宝(旧国宝)に指定される[33]。
-
1880年(明治13年)の広島市地図。鎮台が置かれた直後であり、江戸時代からの町割・堀がそのまま記載されている。
-
1945年の広島市地図。米軍作成。この時点では外堀は消え、中堀も一部を除きほぼ消滅しているとわかる。
太平洋戦争末期
[編集]画像外部リンク | |
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広島県立文書館所有の絵葉書。 | |
[絵葉書](原爆記念 大本営跡) ※広島城天守閣跡 |
-
被爆前の市内中心部。同心円の中心が爆心地。右上の矩形が広島城。
-
被爆後。
太平洋戦争末期には本土決戦に備え、1945年(昭和20年)4月第二総軍司令部が二葉山麓の東練兵場そばにあった元騎兵第五連隊兵舎に置かれた[38]。さらに同年6月には広島師管区司令部が中国軍管区司令部に改編され、本丸に司令部を置き、本丸の南端で内堀の石垣に沿ってシェルター化した防空作戦室(現在の中国軍管区司令部跡)を建設した。
また太平洋戦争末期まで、天守、東走櫓、裏御門の一部、中御門、表御門、二の丸の平櫓、多聞櫓、太鼓櫓など、江戸時代からの建物が残っていた[33]。ただこれらの施設には軍の重要書類が多数積み込まれていた[39]。市内には高いビルが建設されていたが、まだこの当時は天守を市内のどこからでも見ることができた[34]。また軍施設ということから一般人の立ち入りは許可されていなかった[40] が、司令部では学徒動員で比治山高等女学校(現比治山女子高校)生徒[† 6]が働き、臨時ニュースを放送するときのためにNHK広島放送局アナウンサーが待機していた[41]。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍による広島市への原子爆弾投下。軍事施設が集中していたことから、破壊目標となった[42]。ここは爆心地からほぼ1キロメートル離れたところに位置した[43]。 建物が爆風により一瞬にして倒壊、火災により焼失している[33][39]。なお天守は爆風や火災によるものではなく、自壊している(下記天守の項を参照)[44]。樹木は、根こそぎ引きぬかれたものや、真ん中から裂けたり折れたりしたものが多数だった[40]。兵士は食事中あるいは朝礼最中の事で[45]、彼らは軽々と吹き飛び[39]、あるものは即死[46]、またあるものは倒壊した建物により圧死した[47]。生き残ったものはほぼ北[† 7]へ逃げている[40]。中国軍管区司令官藤井洋治陸軍中将は西練兵場南西端にあった庁舎で被爆しそこで死んでいる[40]。当時ここ一帯には約1万人の兵士がいたが、建物と共にすべての部隊は壊滅した[49]。
唯一倒壊せず原型をとどめていた建物が防空作戦室だった[39]。ここから被爆の第一報を通信している(詳細は中国軍管区司令部跡および広島市への原子爆弾投下#第一報 8月6日参照)。
火災が収まると、逃げ切れなかったものを手当てするため城内に臨時救護所が設けられたが、薬品不足など十分な医療行為が行えない事情から、そのまま死んでいくものも多かった[50]。 翌8月7日、松村秀逸中国軍管区参謀長による指揮の下、防空作戦室前にテントを設け、軍の再建を図ることになった[50]。8月15日終戦。8月16日、停戦および復員命令が下され、9月から11月にかけて各部隊は解散した[51]。中国軍管区は11月末に一旦解散後、第一復員省中国復員監理部として再編された[51]。
現代
[編集]戦後、西練兵場で中国からの引揚者が開墾し始めた[51]。1948年(昭和23年)になるとそこに市営の住居が建っており、1949年(昭和24年)には川沿いにバラックが建ち始め[51]、後に原爆スラムが形成される。官公庁の庁舎も建ち始め、広島児童文化会館建設が決まるなど、周囲は再開発されていった[52]。
ただ、本丸および二の丸は用途の決まらないまま放置され、草むらと化していた[43]。市民の中では当初、内堀を埋め立て平地にし再開発を唱えるものもいた[43]。平和運動の一環として長田新旧制広島文理大学教授を中心に、本丸に自由の女神のレプリカを建てる運動も起こった[43][53]。市や市議会は大本営跡を原爆記念保存物に選ぶなど被爆により荒廃した広島で新たな観光の目玉を欲していた[54] ことから天守再建を望んだが、文化財関係者は被爆により廃墟になった現状こそ価値があると再建反対に回った[55]。なお、被爆数年後の本丸の映像は1952年公開の新藤兼人監督『原爆の子』で見ることが出来る[56]。
1951年(昭和26年)、広島国体にあわせて木造仮設天守が作られた(#2代目(仮設))[33]。地元紙中国新聞は以下の報道をしている。
あの水都の象徴であった鯉城が原爆以来五年目にふたたび出現、広島市民の郷愁を呼び起こしている。 — 1951年3月13日付中国新聞、[15]
国体終了後に解体されたが、後の天守再建の機運へとつながった[33][57]。
1953年(昭和28年)3月31日、城跡が国の史跡に指定されると天守再建の機運が高まった[33]。戦後の高度経済成長の中で、1958年(昭和33年)市制70周年を迎えるにあたり広島復興大博覧会開催が決まり、広島平和記念資料館開館と共に博覧会の目玉として天守再建が決定した[33][58]。これには渡辺忠雄市長と市側の復元への強い想いが大きく作用した[55]。1957年(昭和32年)10月20日着工、翌1958年3月26日竣工[33]。同年6月1日、広島城郷土館(現在の博物館)が開館した[33]。また、この時期に広島護国神社が本丸に移転再建し、中堀も埋め立てられ[59] 内堀だけとなった。
築城400周年・市制100周年を迎えたことにより改修を行い、1989年(平成元年)から1994年(平成6年)にかけて、二の丸の復元や堀の浄化作業が行われ、博物館も展示内容を見なおされている[33][59][60]。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(73番)に選定された。再建天守の老朽化が進んだため、現状からの耐震改修の他、木造再建も検討されている[61]。
構造
[編集]縄張
[編集]藩政時代の広島城は、福島正則が輪郭式平城として整備したものであり、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の、広さ約90万平方メートルの規模があった[5][62]。広島城を中心とした絵地図では東西南北を基準に整備されている様に書かれているが、上記空中写真および左絵地図の東西南北表記でも分かるとおり実際には約18度時計回り方向に傾いている[63]。その理由について書かれた文献はなく、当時の本川(旧太田川)と京橋川そして城北川(下記島普請参照)に囲まれていた地形的制約から配置が決まったものと推定されている[63]。
『広島藩御覚書帖』によるそれぞれの曲輪の規模は以下のとおり[16](間および町は尺貫法単位)。
尺貫法 | メートル法換算 | |
---|---|---|
本丸 | 東西95間×南北120間 | 173m×218m |
二の丸 | 東西43間×南北25間 | 78m×45m |
三の丸 | 東面250間 , 西面270間 , 南面285間 | 455m , 491m , 518m |
外郭 (大手) |
東面8町30間 , 西面12町 南面6町 , 北面6町30間 |
927m , 1309m 655m , 709m |
二の丸は「馬出」と呼ばれる曲輪で、広島城の特徴の一つである。毛利氏による築城当初は存在せず後の改修により造られたもので、1598年(慶長3年)から1600年(慶長5年)の間に造られたと考えられている[62]。外堀は、南端が今の相生通り[64]、北端はほぼ城北通り、東端が白島通りの1本西側の道路の更に内側の敷地にあたり、北側の一部が白島通りに一致し、本川を西側の外堀と位置づけていた[65][66]。また正則は、ここより西の大名(主に周防長門へ転封した毛利氏)からの攻撃を想定し、特に西側を増強している[62]。それは本川沿いの櫓数や西側の馬出で窺い知る事ができる。更に本川を挟んだ西側には城の防衛目的(安芸門徒に対して)で町割りに本願寺広島別院などの寺を集中させ寺町を作っている[67]。
広島市には城が由来の地名が残っている。「八丁堀[† 8]」「薬研堀」などの地名は堀があった名残である。八丁堀の「京口門」バス停留所は、城から東方向(京都)へ向かう門があった場所にある[64]。本通りは毛利氏による城下町整備の際にできた通りである[68]。大手町通り北端、現在の紙屋町西交差点あたりに大手門があった。
鬼門にあたる二葉山には藩主の加護により多くの神社仏閣が建てられ、明星院(輝元の生母妙寿院の位牌所)、広島東照宮や饒津神社、尾長天満宮・國前寺(以上浅野氏関連)、などが置かれた[27]。上記の通り地形的制約から縄張が決まったと推定されていることから四神相応は曖昧で、裏鬼門を己斐松山(旭山神社)や厳島(厳島神社)など諸説唱えるものがいる。なお天守正面から見て似島の安芸小富士がやや左手に見えていた[63]。
島普請
[編集]島普請とは、現在で言う地盤改良と堀の浚渫、築堤工事のことを指す[30][70]。
当地は太田川下流域三角州の低地にあり、低湿地帯の砂地上に城を築くために「千本杭」と呼ばれる木杭を砂地盤に打ち込んだ上に基礎を築いた工法[69] が採用されたと伝えられてきた[70]。ただ近年の発掘ではその証拠が見つかっておらず、それ以前の毛利元就時代の弘治元年(1555年)2月には山県就相宛の書状で現在の広島の地に堤が作られていた事から、実際に島普請が行われたかについて否定的な意見を唱えるほうが主流となりつつあるく[70]。ちなみにこの千本杭は厳島神社大鳥居の基礎に用いられている[69]。
北側の外堀がその他の外堀と違って蛇行しているのは川をせき止めて整備された[12] ためである。毛利輝元による築城当時その川は「城北川」と呼ばれており、城の北側にあたる現在の白島地区は築城以前は「箱島」と呼ばれる島(中州)であった[71]。毛利氏の次に入城した福島正則は、城北川が洪水で氾濫した場合、城下に深刻な被害を与えると判断し、治水対策も含めて川を外堀として再整備し、東側は完全にせき止め西側は堀の取水口として樋門を設けた[71]、とされている[12]。ちなみに福島氏の次の広島藩主である浅野長晟は入城翌年となる元和6年(1620年)、城北川東側のせき止めた地点つまり旧城北川と京橋川の合流点付近に 「縮景園」を造園している[72]。
浅野氏が支配した250年間で洪水にたびたび悩まされており、洪水被害やそれを修復した記録が多数残っている[29][30][73]。その対策として、河川の堤防を高くしたり、川水の流れを抑制する石垣の設置、水害防御目的で植林したり、川の浚渫を行っている[74]。その中でも特異な政策として、当時中国山地でたたら製鉄が盛んであったが、堀が埋まるのを防ぐためとして寛永5年(1628年)のお触れで、太田川流域での鉄穴流しが一切禁止となった。また寛永9年(1632年)には堤防取締令を発布し、堤防に穴を開けたり、石垣の石を抜き取る行為を禁止した[75]。
戦前から同地に建っている福屋八丁堀本店本館は、相生通りに面して平行ではなく少しズレた状況で建っている。これは外堀を埋め立てた際に整備された当時の相生通りに対して平行に建てられたためで、戦後に相生通りを整備した際にズレる形となった[36]。つまり福屋本館は広島城の外堀に対して平行に建っていることになる[36]。
天守
[編集]初代
[編集]1592年(文禄元年)4月、文禄の役に参加した常陸佐竹氏家臣の平塚滝俊は、佐竹軍が名護屋城に向かう際に通過した広島にて広島城の天守や石垣を見て「見事なること申すに及ばず候」と書簡に残していることから、天守はこの年以前に建てられたものと考えられている[76][77]。また、聚楽第にも劣らないと述べているが、ただし平塚はつぶさな城内見物や天守内部見学を行ったわけではないので、構築状況などもあくまで外観観察者としての印象である。同時に平塚は石垣と天守について「見事成事」としているが、城下町については「半途」と記している。この文献が2012年に発見されたことで、同時期に文禄の役を指揮するため名護屋城へ向かう途中で立ち寄った豊臣秀吉が、この天守に登って見物したとする記録が追認されたとされる[76][77]。ただし秀吉は「御殿」に入ったことと、内外を見物したことが記録されているだけであり、この「御殿」を天守とするか、いわゆる居住区画としての御殿とするかについては断定できない。
天守の形式は連結式と呼ばれるものの内、特に複連結式と呼称される「五重の大天守から渡櫓で南と東に2つの三重小天守を連結する」構造であった[37][64]。大天守の高さは『広島藩御覚書帖』によると、17間6尺(約32.7メートル)あった[16]。望楼型で黒漆塗りの下見板が張られた壁面は豊臣秀吉の大坂城天守を模した[64] ともいわれ、屋根には金箔押の軒瓦や鬼瓦(金箔瓦)が葺かれていた[64]。その一方で、内部は天井も張られずに丸太の梁が剥き出しであった。藩政時代において天守はほぼ物置として使われており[10][37]、築城から江戸時代の間この城自体は戦場にはなっておらず[15]、戦中は旧陸軍の重要書類が多数積み込まれていた[39] ことから、終始倉庫として利用されていたことになる。
1873年(明治6年)以降、経緯は定かではないが小天守は撤去され、天守群は大天守と付属する一部の渡り櫓が残った。1958年現在の大天守入口前広場が南の小天守と渡櫓の跡にあたり、東の小天守台には基礎が残っている[78]。1931年(昭和6年)、他の現存する建造物とともに国宝保存法の国宝(旧国宝)に指定されていたが、1945年(昭和20年)のアメリカ軍による原子爆弾投下の影響によって倒壊した。倒壊の様子について原子爆弾投下の際には、爆発時の熱線に耐えたものの、その直後の爆風による衝撃波と圧力により下部2層が上部の重さに耐えきれず倒壊、間もなく上部3層も崩落し、大量の建材が天守台や北東の堀に散乱した、という事が近年の研究で判明[44]、倒壊後はしばらくそのまま放置されていた[56]。建材のその後に関しては定かではないが、生活に困窮した市民が使用したという証言がある[78] ほか、被爆者を救済するため、瀬戸内海の製塩業者に建材と塩を広島市が交換した[79] ともいう。このことは広島原爆戦災誌など市の公式資料には一切記されていない。
2代目(仮設)
[編集]1951年(昭和26年)、広島国体開催に合わせて仮設の木造模擬天守が建てられた[15]。
天守を博物館として利用し始めたのはこの頃からである[15]。夜はライトアップされ、アトラクションとして天守の周りを「スイッチバック・レールウェイ(木製のジェットコースター)」が設置された[15]。竣工時期は不明である。大型台風のルース台風にも耐えたが[15]、国体終了と共に取り壊された[15]。
3代目(現在)
[編集]天守 | 第五層 | 7.2m | 26.6m | 39.0m | 木造 |
第四層 | 5.7m | SRC造 | |||
第三層 | 5.0m | ||||
第二層 | 4.9m | ||||
第一層 | 3.8m | ||||
天守台 | 12.4m | 石造 |
現在の大天守は1958年(昭和33年)に「広島復興大博覧会」が開催された際、外観復元された[55]。各階層の高さは右表のとおり(単位はメートル)[27]。工期は5ヶ月[80]。総事業費約3,600万円[33]。施工は藤田組(現フジタ)[81]。外観の仕上げは宮大工が務めた[80]。再建するにあたり、以下の方針がとられた[55]。
- 初代天守を忠実に再現する。
- 最上階で市内を展望できるようにする。
- 博物館として利用する。
火災対策のため、木造からSRC造に変更している。自重増加のため天守台を補強することになりモルタルグラウトにより栗石を固めた[55]。瓦を復元する際には、堀に沈んだものを探したり、古い広島城のものを新聞紙面上で募集するなどしている[55]。
最上階のみを木造での復元としたり、懸魚の形状を古写真に基づくものではなく創建当初のものを想定するなど初代天守の忠実復元を試みていた一方で、窓の意匠について本来、突上窓であるものを、連子窓(格子窓)として復元したり、南廊下の1階・2階に窓を新たに開けるなど、戦災以前の外観とは異なる部分が指摘されている[82][83]。
2021年12月10日、広島市は市議会の一般質問で、天守で展示している武具等の資料を三の丸に移す方針を示した[84]。三代目となる天守については耐震性を満たしておらず、耐震改修せずに2025年度後半に閉館し、2026年度に三の丸に資料を展示するための代替施設を開館させる[84]。天守の展示施設閉館後は安全面を考慮して来訪者は天守に入ることができなくなるが、外観は当面維持するとしている[84](後述の木造天守の復元計画がある)。
木造天守の復元計画
[編集]広島市の木造復元の計画は1989年(平成元年)にあり、「広島城跡保存管理計画書」と「広島城跡整備基本計画書」の2冊の広島城跡の整備計画の計画書の中で示されていた。当時の復元整備計画では主に二の丸と本丸の第1期と第2期に分けられ、本丸で復元する城郭建造物としては、中御門、裏御門、天守閣・東走櫓・東小天守・南走櫓・南小天守等が挙げられ、特に天守閣・東走櫓・南走櫓(一部)については、文化庁所蔵に戦前の実測図と写真があるため、木造造りの精度の高い城郭建造物の復元が可能であると示され、復元事業の期限は1989年(平成元年)から始まり、主に二の丸の復元整備の第1期が計画から5年以内に行われ、二の丸の復元整備が完了した後から、最終目標として1958年(昭和33年)に鉄骨鉄筋コンクリートで再建された現在の天守閣の耐用年数に達するまでに、第2期として、主に本丸及び城跡外周部の復元整備を実施すると示されていた[85]。第1期の二の丸の復元整備は1989年(平成元年)から1994年(平成6年)に復元が完了して終えたが、それ以後の第2期の復元整備の計画は現在に至るまで進んでおらず、止まったままであった[86]。
再建後、60年以上経過している鉄骨鉄筋コンクリート構造の現天守は老朽化による、耐震性の問題があり、耐震診断調査の結果、震度6から7で倒壊する恐れがあるとされていた。その為、耐震対策が課題になっていて、広島市は天守を補強や木造で復元するのかの判断を迫られていた。2020年(令和2年)5月に市は31年前の「広島城跡整備基本計画」で示された方向性のうち取組が十分に行われていない事項(主に第2期の本丸の復元整備など)、優先的に推進すべき事項や詳細に示されていない事項に関する方向性を示すなど、今後の取組の基本的な指針として「広島城基本構想」を策定した。2021年(令和3年)3月16日に松井一実広島市長は市議会予算特別委員会で「木造復元を目指す本格的な調査、検討を進める」などと述べ木造で再建する方針を示した。事業費は86億円と見込んでいる。
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広島城天守東側
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広島城天守 望楼部分
本丸御殿
[編集]藩主が生活し政務を行った本丸御殿は、本丸上段つまり本丸の北大部分を占める場所に位置した[87]。上記の通り、1874年(明治7年)本丸および二の丸での火災により全焼したことから、現存はしていない。跡地には大日本帝国陸軍関連(広島鎮台→第5師団司令部)から広島大本営が建てられたがそれらも被爆により全焼している。
1996年(平成8年)から始まった本丸発掘調査により基礎石などが発見されている[88] が、それらは露出させず埋戻している[87]。絵図が数枚残っていることから、模型資料などで復元されている[87]。
余談だが、江戸藩邸の上屋敷の方は当時霞が関にあり、歌川広重『名所江戸百景』「春の部 2. 霞がせき」に描かれている[73]。
二の丸
[編集]櫓
[編集]藩政時代における広島城の特徴として、広さ約90万平方メートルの広大な城域を取り囲むように88基の櫓が置かれたことが挙げられる[10][89]。『広島藩御覚書帖』による各曲輪の櫓基数は、本丸23基、二の丸5基、三の丸17基、外郭43基[16]。上記の通り特に西側を増強し、本川(旧太田川)に沿って11基もの櫓が二重に建てられその間を塀で結ばれている[89]。
1624年(寛永元年)の地震、1854年(嘉永7年)安政南海地震の際に、櫓が崩れた記録が残っている[31]。
明治以降になりこれらは取り壊されたことと、被爆により、江戸時代以前から現存する櫓は存在していない。ほとんどの櫓の位置は現在不明であるが、近年の発掘調査によりいくつか判明している。
史跡外の櫓の遺構として太田川(現、旧太田川)の左岸にある「外郭櫓跡」がある[11]。1979年に広島県教育委員会が発掘調査し、刻印が入った石垣が発見されている[90]。
二の丸復元建物
[編集]二の丸復元建物として表御門と各櫓がある[91]。この平櫓・多聞櫓・太鼓櫓および表御門は、1989年(平成元年)から行われた改修の際に再建されたものである[92]。施工は砂原組[92]。これらはつながっており、全部の櫓内部を見学できる[93]。
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平櫓・多聞櫓・太鼓櫓
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表御門
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平櫓内部
三の丸
[編集]江戸時代、三の丸には武家屋敷等が存在した[91]。三の丸は広島城跡(史跡)の範囲外にあり噴水広場などが設置されている[91]。
2021年、広島市は「広島城三の丸整備基本計画」を策定し[94]、その後RCCやNTT都市開発などを中心とした企業体が三の丸において商業施設などを建設することが決定した[95]。2024年3月には飲食店などを含む第1期エリアの起工式が行われ[96][97]、10月にはテナントが発表された。第1期エリアは2025年にオープンする予定[98][99]。
遺構
[編集]大本営跡/昭憲皇太后御座所
[編集]石垣
[編集]1589年(天正17年)8月、毛利輝元は家来に堀の工事と石材の収集を命令したと伝えられている[100]。
石材の殆どは緻密で硬いことから花崗岩が用いられている[100]。瀬戸内海は良質な花崗岩の産地が多いことから主に沿岸部から運び込まれており、近年の調査で黄金山や江波山(この当時は島だった)、倉橋島、屋代島(周防大島)などの島々からも運び込まれたと判明している[100]。
本丸北東付近、本丸上段東端の不規則につまれた状態で途切れている石垣は、福島正則の改易騒動を史実的に裏付けるものと考えられている[101]。正則が改易される少し前に、幕府は一度条件付きで正則を許している[101]。その条件の一つに修築した石垣の破壊が盛り込まれていた[101]。この部分は正則が破壊した石垣の境界部分と考えられている[101]。
広島市への原子爆弾投下の際に、内堀の一部石垣が崩れていることが米軍の空中写真により分かる。表御門や中御門にある石垣の一部に焦げたような跡があるのは被爆により発生した火災によるものである[102]。
堀
[編集]上記の通り、明治期に外堀が、戦後昭和30年代までに中堀が埋め立てられ、現在は内堀のみが残る形である[59]。紙屋町・八丁堀周辺の歩道に、外堀があったことを示す石碑が建っている。
1970年代以降、祇園新道、1994年アジア競技大会会場整備、広島高速交通広島新交通1号線、紙屋町シャレオなど周辺の土地開発工事の際に発掘作業が同時に行われており、断片的ではあるが堀の詳細が判明[† 9]している。
戦後、外堀中堀と埋め立てられたせいで内堀は循環機能を失った"ため池"となり、更に周辺の都市開発の影響により地下水位が低下したことから内堀は枯れ始め、富栄養化も目立つようになる[59]。様々な対策が行われたが、アジア大会開催を機に抜本的な対策が取られることになった[104]。それは、旧太田川(本川)から川水を取水し、内堀まで導水、循環させ、再び本川へ流出する導水路および流水路の建設工事で、建設省(現国土交通省)と広島市による共同事業となった[59]。これら導・流水路および内堀は、一級河川旧太田川を本流とする準用河川に指定されている[59]。
金鯱瓦
[編集]2009年(平成21年)3月、広島市中区上八丁堀の広島地方合同庁舎5号館建設による前調査の際に、金鯱瓦が一対発見された[105]。発見された場所は、本丸から見て東側の中堀と外堀の間に位置していた武家屋敷にあたり、井戸跡の底に大量の瓦と共に埋まっていた[105][106]。ほぼ完全な状態での金鯱瓦出土は国内初で、更に日本でも古い部類の鯱瓦にあたることから、完品として現存最古の金鯱瓦である[105][107]。
発見された珍しい瓦は以下のとおり。これらは築城当時の毛利氏時代のものと推定され、地下水に浸っていたため腐食しなかったと考えられている[105]。
金箔瓦が作られた当時の豊臣政権下において、この瓦は「権威の象徴」とみなされ設置は秀吉の許可が必要だった[105]。また豊臣政権下でのこの瓦は朝鮮や明からの使者に日本の栄華を見せつけることを主目的としたため、同時代に築城した北部九州から大阪にかけての城でいくつか出土例があり、県内では厳島神社でも出土している[109]。
井戸跡に埋められていた理由について、三浦正幸広島大学教授は「毛利輝元が防長2国に移封された後に広島城に入った福島正則が本丸櫓門から取り外し、城主交代を広く知らしめるために、儀式的な意味で丁重に井戸に沈めて埋納したのではないか」[105] と推測した。これは、これら瓦が井戸の中で雑に投棄されていたのではなく、丁寧に積み重なる状況だったことも根拠の一つである[107]。
被爆遺構
[編集]1993年、広島市は爆心地から5キロメートル以内に位置する被爆建造物を洗い直し、それぞれ「被爆建物」「被爆樹木」「被爆橋梁」台帳に登録した。以下、城内にある被爆遺構を列挙する。
- 被爆建物
- 中国軍管区司令部跡 - 爆心地から790メートル。広島護国神社境内、南側内堀石垣の際にある半地下式鉄筋コンクリート造の平屋建ての建物。旧名「中国軍管区司令部防空作戦室」。被爆の第一報を伝令した歴史的に重要な建物である。
- 被爆樹木
江戸時代末期、城外からの目隠しとして内堀の際に松や杉・雑木が多数植えられていた[5]。その後も生き続けていたが被爆によりそのほとんどが倒壊した[5]。2012年現在、被爆後も生き続けている被爆樹木が3本ある。
- クロガネモチ - 爆心地から910メートル。本丸の広島大本営跡の南側に生息している。元々は大本営前の前庭にあたり車周りの植え込みの一つだった[110]。
- ユーカリ・マルバヤナギ - 爆心地から740メートル。二の丸の中御門前の土橋の両端に生息している[111]。
- その他
以下、被爆建物台帳に記載されていない被爆遺構である。
- 旧広島護国神社鳥居 - 爆心地から100メートル(移転前)。裏御門付近に移された旧広島護国神社鳥居。元々護国神社は旧外郭の南西付近、西練兵場の西側、現在の広島商工会議所の北側にあり、この鳥居は相生通りから北側すぐにあった。被爆により鳥居だけは残った。護国神社が本丸に移転した際に、旧鳥居を現在地に移転している。
- 広島大本営跡 - 爆心地から900メートル。上記参照。
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被爆ユーカリ
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中御門跡と被爆マルバヤナギ
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旧広島護国神社鳥居
旧三の丸の遺構
[編集]上記の通り、近代は軍用地として拡張し被爆により建物全壊、戦後は都市開発により、藩政時代の面影を残すものは極めて少ない。ただ明治期に移築した旧広島城の建物はいくつか現存している。
- 多家神社
安芸郡府中町にある神社で、元々は三の丸にあった稲荷社が1874年(明治7年)に移築されたもの。その後火災により焼失し、宝蔵のみが現在旧広島城時代の建物としては唯一のものとなっている。
1954年(昭和29年)、多家神社宝蔵が広島県重要文化財に指定された。
- 学問所
学問所は、江戸時代後期に三の丸に存在し、跡地は現在広島高等裁判所の敷地[112] として利用されている。1725年(享保10年)に広島藩主浅野吉長が「講学所」として開校した藩校が前身であり、1782年(天明2年)2月学問所開校、1870年(明治3年)8月移転し、現在は修道学園(修道中学校・修道高等学校)として存続している[113]。以下は学問所関連の遺構である。
- 中堀土塁跡 - 裁判所敷地内にある、中堀の内側石垣の土塁跡であり、中堀外側に学問所があった。内堀北東隅で東から南に向きを変えた部分がL字型にわずかに残る[11]。なお裁判所敷地内ということから許可なく見学することはできない[112]。
- 土蔵 - 間口3.8メートル×奥行5.7メートルの2階建の土蔵[114]。明治時代の間に、市内愛宕町(現東区)に住む民間人[† 10]のところへ移築し被爆にも耐えた(爆心地からの距離は不明だが3キロメートル前後)[114][116]。平成に入り、瓦が落ちそうになるほど老朽化したため取り壊されるところだった[116]。そこへ学問所の土蔵だということが判明し関係者が保存に動いた結果、修道学園が無償で引取り校内へ復元移築した[114][117]。2018年、広島市指定重要文化財に指定された[118]。
各エリアの管理
[編集]公募設置管理制度
[編集]2023年(令和5年)4月1日から広島城区域の用地(本丸、二の丸、三の丸、旧中央バレーボール場など)と建物(天守閣、二の丸復元建物、広島城三の丸歴史館など)には指定管理者制度が採用されている[119]。なお、2026年度の開業予定の広島城三の丸歴史館の学芸業務は別途事業者が選定される[119]。
本丸上段及び天守閣は文部科学省所管の行政財産である[91]。また、史跡指定範囲内の本丸下段及び二の丸、これに隣接する史跡指定範囲外の広島市中央バレーボール場跡地及び三の丸は財務省所管の普通財産である[91]。なお、広島市中央バレーボール場は2021年(令和3年)8月31日で閉鎖され[120]、跡地には観光バス駐車場が整備されている[121]。
私有地
[編集]城内の広島護国神社(敷地面積4,958㎡)は宗教法人広島護国神社の所有地(私有地)である[91]。また、広島城のエリアの一部で史跡指定範囲外であるが北東側に中国放送の敷地(敷地面積約4,700㎡)がある[91]。
ギャラリー
[編集]博物館
[編集]広島城 | |
---|---|
施設情報 | |
正式名称 | 広島城 |
前身 | 広島城郷土館 |
専門分野 | 歴史 |
事業主体 | 広島市 |
管理運営 | 広島市文化財団 |
開館 | 1958年6月 |
所在地 |
〒730-0011 広島市中区基町21-1 |
プロジェクト:GLAM |
概要
[編集]広島復興大博覧会開催に合わせ外観復元された天守を利用して1958年(昭和33年)に、前身となった「広島城郷土館」が設置された。郷土館は、広島城の他に広島の歴史、民俗、自然史などに関する資料を展示した博物館(博物館類似施設)であったが、1989年(平成元年)に改装と展示物の入れ替えを行い、現在は、博物館「広島城」として開館している[122]。
なお、先述のとおり、広島市は2025年度後半に天守を閉館し、天守内の展示収蔵資料を三の丸に新設する代替施設に移して2026年度に開館させる方針である[84]。
内容
[編集]内部は、5層のうち1階から3階は常設展示、4階は企画展示、5階(最上階)は展望室となっている。
常設展示は、広島城の成立と役割、城下町広島のくらしと文化をテーマとしており、甲冑・刀剣等も展示されている。また、歴史と広島城に関する企画展示も実施されている。
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最上階から市内を展望するキャロライン・ケネディ駐日アメリカ大使とジョン・ケリー国務長官。2016年G7広島外相会合。
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観覧するキャロライン・ケネディ駐日アメリカ大使とジョン・ケリー国務長官。
利用情報
[編集]- 休館日
- 年末年始(12月29日から1月2日)のみ
- 入場料
- 一般:360円(280円)、小・中・高校生:180円(100円)
- ()内は30人以上の団体料金、幼児は無料
- 駐車場
- なし
交通アクセス
[編集]- 以下は 広島城博物館 が公式に発表しているものを主に列挙する。
- 路線バス
JR広島駅(広島駅のバスのりば参照)やJR横川駅などからバスが出ている。
- 鉄道・新交通システム
- 自動車
脚注
[編集]- 注釈
- ^ 城が置かれた土地は当初は在間庄と呼ばれた[16]。
- ^ 元就にゆかりがある旭山神社で輝元は見分した[26]。
- ^ 『芸州広島御分国八州之時御城下屋敷割并神社仏閣割共図』など毛利氏時代の町割りを書いた絵図が存在するが、これらは江戸時代に書かれたものであるため信頼性が低い。
- ^ 一説には毛利輝元時代。
- ^ 正室は家康の三女正清院。
- ^ 当時、比治山女学校は偕行社附属学校で生徒の多くが高級軍人の子女であったことから入ることを許可された[41]。
- ^ 北方向の牛田に工兵第5連隊作業場があった[48]。
- ^ 八丁堀は約8町あった東面外堀にちなむ。
- ^ 例えば、広島城内堀の南に位置する広島市中央庭球場は中堀があった場所であり、アジア大会開催前の整備工事の際に大規模な発掘調査が行われたり[103]、紙屋町シャレオは外堀があった場所であることからその建設工事中の合間を縫って夜間に発掘調査が行われた[12]。
- ^ 所有者の祖先は広島藩士で、藩主である浅野氏から譲り受けたと伝えられていた[115]。
- 出典
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参考資料
[編集]- 広島市『広島原爆戦災誌』(PDF)(改良版)、2005年(原著1971年)。オリジナルの2013年12月3日時点におけるアーカイブ 。2012年3月27日閲覧。
- 広島城関連の遺跡 - 財団法人広島市未来都市創造財団
- 広島城跡 - 国指定文化財等データベース
- 戦前の絵葉書アーカイブ - 東北芸術工科大学。
- 平和データベース - 広島市。被爆後の広島城写真がある。
- ひろしま戦前の風景 - 中国放送(RCC)。戦前の映像がある。
関連項目
[編集]- 佐東銀山城 - 三入高松城 - 桜尾城 - 草津城 - 己斐城 - 仁保城 - 府中出張城 - 矢野城 - 三原城 - 宮尾城
- 日本号 (槍) - 博物館にレプリカが展示されている。
- ひろしまフラワーフェスティバル - 会場の一つ。
- 天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会 - 7区(最終区)は広島城を周回する。
- 毛利元就博 - 敷地内で開催されたイベント。
- 安芸ひろしま武将隊 - 広島城の観光PR隊。
- 修道中学校・修道高等学校 - 城内三の丸に存在した学問所の流れをくむ学校。当時の土蔵も保存されている。
外部リンク
[編集]- 広島城ホームページ
- RCCライブカメラ
- 長崎大学附属図書館 幕末 明治期 日本古写真メタデータ データベース。下から2枚目は、明治初期の広島城。