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「富士山本宮浅間大社」の版間の差分

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|名称 = 富士山本宮浅間大社
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{{座標一覧}}
'''富士山本宮浅間大社'''(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は、[[静岡県]][[富士宮市]]にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]])、[[駿河国]][[一宮]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣大社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。
[[File:Fujisan Hongū Sengen Taisha daitorii.jpg|thumb|250px|right|大鳥居と[[富士山]]]]
'''富士山本宮浅間大社'''(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は、[[静岡県]][[富士宮市]]にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]])、[[駿河国]][[一宮]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣大社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。[[社家]]は[[富士氏]]。


全国に約1,300社ある[[浅間神社]]の総本社である。浅間大社の[[社家]]は[[富士氏]]。「[[富士山|富士山-信仰の対象と芸術の源泉]]」の構成資産の一部として[[世界文化遺産]]に登録されている。
全国に約1,300社ある[[浅間神社]]の総本社である。「[[富士山|富士山-信仰の対象と芸術の源泉]]」の構成資産の一部として[[世界文化遺産]]に登録されている。

== 概要 ==
[[富士山]]を[[神体山]]として祀る神社であり、境内は以下の2宮からなる<ref name="okunomiya">[http://www.mof.go.jp/about_mof/zaimu/30years/main/0303020103.htm 境内地処分上における特殊問題〔富士山頂境内地〕(財務省HP)]</ref>。
* '''[[#本宮|本宮]]''' - 富士山南麓(富士宮市街地)
* '''[[#奥宮|奥宮]]''' - 富士山頂上

当社は全国の[[浅間神社]]の総本社であり、[[富士信仰]]の中心地として知られる。境内は広大で、本宮社地で約17,000㎡になるほか、富士山の8合目以上の約385万㎡も社地として所有している<ref>「富士山頂、静岡の神社に国が譲渡判決後30年、所有権が決着県境問題は未解決」(山梨日日新聞 2004年12月18日)</ref>。本宮の本殿は[[徳川家康]]による造営で、[[浅間造]]という独特の神社建築様式であり、国の[[重要文化財]]に指定されている。また、本宮境内には富士山の湧水が湧き出す[[湧玉池]]があり、国の[[天然記念物#特別天然記念物|特別天然記念物]]に指定されている。

当社は[[コノハナノサクヤビメ|木花之佐久夜毘売命]]を祭神に祀っており、祭神にまつわる[[桜]]を神木として境内には約500本もの桜樹が奉納されている。また、古来より'''[[富士氏]]'''が[[大宮司]]を務め、日本三大宮司の1つに数えられた<ref group="注釈">『臥雲日件録』の寛正6年6月18日の条に「日本所謂三大宮司」とあり、他に[[厳島神主家]]・熱田大宮司家(千秋氏)が数えられた。</ref>。古くより朝廷・武家からの崇敬が深かったほか、社地は[[富士山村山口登山道|大宮・村山口登山道]]の起点に位置することもあり、古くより登山を行う[[修験道|修験者]]からの崇敬も受けていた。


== 社名について ==
== 社名について ==
古くは『延喜式神名帳』に「浅間神社」と記載され、明治時代には「富士山本宮浅間神社」が正式名であった。[[1982年]](昭和57年)から現在の正式名「富士山本宮浅間大社」となり、「'''浅間大社'''」の略称が多くで用いられている。
'''浅間大社'''の略称が多くで用いられる。古来は「富士ノ宮」や「富士本宮」や「富士浅間宮」などが社号として用いられていた<ref group="注釈">他、「本宮浅間」「富士本宮」「富士大宮」など</ref>。駿河守に任ぜられた[[北条泰時]]は同社に参拝し<ref>『[[吾妻鏡]]』承久元年(1219)3月26日条</ref>、その際詠んだ和歌が『[[新勅撰和歌集]]』に収められているが、その詞書には「するがのくにに神拝し侍けるに、'''ふじの宮'''によみてたてまつりける」などとある。またこの語は、同社が位置する静岡県富士宮市の市名の由来となっている。


「浅間」の語源については諸説あるが、長野県の[[浅間山]]のように火山を意味するとされる<ref>『日本歴史地名体系 山梨県の地名』(平凡社)総論 富士山項。</ref>。「あさま」は古い呼称で、現在の「せんげん」は[[中世]]以降から用いられたという<ref>神社本庁監修『神社のいろは』(扶桑社)浅間さま項。</ref>。また、「本宮」は[[静岡浅間神社]](新宮)に対する呼称である<ref name="宮地(1929)P21"/>。
== 概要 ==
[[File:SengenTaisha Honden.jpg|thumb|200px|right| 徳川家康造営 [[浅間造]]本殿(国重文)]]


そのほか、古来は「富士ノ宮」や「富士本宮」や「富士浅間宮」なども社号として用いられていた<ref group="注釈">ほか「本宮浅間」「富士本宮」「富士大宮」など。</ref>。「'''ふじの宮'''」という呼称もあり、『[[新勅撰和歌集]]』に収められた[[北条泰時]]が当社参拝の折に詠んだ和歌の詞書に記載がある<ref group="原">『吾妻鏡』承久元年(1219)3月26日条</ref>。この語は、当社が鎮座する富士宮市の市名の由来となっている。
[[富士山]]を[[神体山]]として祀る神社で、[[富士信仰]]の中心地として知られる。[[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])建立と伝わる。境内は、大きく富士山南麓(富士宮市街地)に位置する'''本宮'''と、富士山頂上に位置する'''[[奥宮]]'''<!--(富士宮市富士山頂上官有無番地)-->の2つがある<ref name="okunomiya">[http://www.mof.go.jp/about_mof/zaimu/30years/main/0303020103.htm 境内地処分上における特殊問題〔富士山頂境内地〕(財務省HP)]</ref>。境内は広大であり、本宮で約17,000㎡のほか富士山の8合目以上の約385万㎡が浅間大社の境内である<ref>「富士山頂、静岡の神社に国が譲渡判決後30年、所有権が決着県境問題は未解決」(山梨日日新聞 2004年12月18日)</ref>。本宮の本殿は[[徳川家康]]による造営。[[浅間造]]という独特の神社建築様式で、国の[[重要文化財]]に指定されている。また、本宮境内には富士山の湧水が湧き出している[[湧玉池]]があり、国の[[天然記念物#特別天然記念物|特別天然記念物]]に指定されている。


== 祭神 ==<!--祭神の表記は公式サイトによる-->
『富嶽之記』([[1733年]])では、浅間大社の様子を「是冨士山根本の浅間也、木花開耶姫を祭る、神主大宮司といふ、社僧二十院あり、境内桜多シ、神の愛木也、社ノ東に垢離場有り」と記している。このように江戸時代には[[コノハナノサクヤビメ|木花開耶姫]]を祭神とし、古来より[[富士氏]]が同社の[[大宮司]]を務めていた。社僧や[[垢離]]場などが存在し、[[神仏習合]]の形態があった。他、現在は見られないが「三重塔」といった仏教的建造物も境内に位置しており、寛文10年(1670年)の社伝配置図に見える<ref group="注釈">富士市立博物館編『富士山信仰と富士塚』P16にカラー版が掲載</ref>。[[桜]]を御神木とし、境内には約500本もの桜樹が奉納されている。
; 主祭神
* '''[[コノハナノサクヤビメ|木花之佐久夜毘売命]]''' (このはなのさくやひめのみこと)<ref>祭神は公式サイトによる。</ref>。
:: 別称を「'''浅間大神''' (あさまのおおかみ)」とする。
:: 神名は史書によっては「木花咲耶姫命」等とも記されるが、当社では『[[古事記]]』に載る表記を正式名に採用している<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P10</ref>。「木花」は桜のこととされ、同書では美しい女性として表現されるほか、火中出産の説話が記される。


; 配神
浅間大社は[[富士山村山口登山道|大宮・村山口登山道]]の起点に位置するため、富士参詣を対象とした道者坊が存在し、浅間大社の社人たちが富士登山の道者に宿舎を提供した。これを大宮道者坊という。『大宮道者坊記聞』には「'''大宮道者坊'''ノ事、古へ享禄・天文年間ハ、凡三十ヶ余坊有之由伝フ」とあり、室町時代後期に道者坊が30余り存在していたことが知られる<ref>大高康正、「富士参詣曼荼羅試論-富士山本宮浅間大社所蔵・国指定本を対象に-」『山岳修験 34』、2004年</ref>。
* [[ニニギ|瓊々杵尊]] (ににぎのみこと) - 木花之佐久夜毘売命の夫神
* [[オオヤマツミ|大山祇神]] (おおやまづみのかみ) - 木花之佐久夜毘売命の父神

=== 祭神について ===
[[File:MtFuji FujiCity.jpg|thumb|200px|right|[[富士山]]の山容]]
その美しい山容から、富士山を女神と見る信仰は古くよりあり、[[平安時代]]には[[都良香]]の「富士山記」(『[[本朝文粋]]』所収)に「浅間大神」として、『竹取物語』には「かぐや姫」の名でその表現がある<ref>『世界大百科事典』(平凡社)富士山項。</ref>。しかしながら、これを『古事記』『日本書紀』に見えるコノハナノサクヤヒメに当てるのは近世に入ってからと見られ、それまでは一般に「浅間神」の名で信仰された。

「浅間」の古称「あさま」は、[[阿蘇山]]・[[浅間山]]・[[朝日岳 (栃木県)|朝日岳]]等に見られるように「火山」を表す呼称と見られている<ref name="野本P210"/>。都良香の記述も[[延暦]]21年([[802年]])の噴火を取り上げており、この頃に「浅間神」の呼称が生まれたと考えられている<ref name="静岡県">『日本歴史地名体系 静岡県の地名』(平凡社)総論 富士山項。</ref>。中世以後の[[神仏習合]]時代には「富士大菩薩」「浅間大菩薩」、さらに降ると「富士権現」とも称された<ref name="静岡県"/>。

富士山の神霊をコノハナノサクヤヒメに当てる起源は明らかでないが、文献の初見は[[江戸時代]]初期の『集雲和尚遺稿』である<ref name="富士の歴史">浅間神社 編『富士の歴史』P22-29。</ref>。「コノハナ(木花)」は桜の古名といわれ、祭神はその美貌の形容に由来するといい<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P11</ref>、神話にある「[[天孫降臨|コノハナノサクヤヒメの火中での出産]]」も関係するとされる。また、三島神([[三嶋大社]])の祭神を[[オオヤマツミ|大山祇神]]と見て、富士と三島が父子とする伝説も江戸時代頃から散見されるようになる<ref name="富士の歴史"/>。

江戸時代の[[屋代弘賢]]による『古今要覧稿』には「二神を祭る」という表現もあるが、現在は上記のように「浅間大神は木花之佐久夜毘売命の別称」としており、習合した1柱の神格を主祭神としている。また配祀神については、『富士本宮浅間社記』には太元尊神と大山祇神としている。太元尊神は[[国之常立神|国常立尊]]とされるが、明治初年以降から現在に至るまでは、太元尊神に代えて瓊々杵尊を配祀神の1柱としている<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P4</ref>。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 創建伝承 ===
<div class="NavFrame tright">
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px; background:#FA8072">浅間大社の変遷    </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{{familytree/start|style=font-size:100%}}
{{familytree|border=0||||01|02|03| 01='''[山宮]'''<br/>(富士宮市山宮)|02='''[大宮]'''<br/>(富士宮市宮町)|03='''[朝日町]'''<br/>(富士宮市朝日町)}}
{{familytree|border=0|00||||01| 00=<small>(伝)孝霊天皇2年</small>|01=富知神を奉斎}}
{{familytree|border=0|00|01||!| 00=<small>(伝)垂仁天皇3年</small>|01=浅間神を奉斎}}
{{familytree|border=0||||||!||!|}}
{{familytree|border=0||||||!||`|~|~|7}}
{{familytree|border=0||||||`|~|7|||:}}
{{familytree|border=0|00||||01|01| 00=<small>(伝)[[大同]]元年([[806年]])</small>|01=''(遷座)''}}
{{familytree|border=0||||||||!|||!| }}
{{familytree|border=0|00||||01|02| 00=<small>[[延長]]5年([[927年]])<br/>(『[[延喜式神名帳]]』)</small>|01=浅間神社|02=富知神社(論社)}}
{{familytree|border=0||||||||!|||!}}
{{familytree|border=0||||||:||!|||!}}
{{familytree|border=0||||01|01|01| 01=↓}}
{{familytree|border=0|00|01|02|03| 00=<small>現在</small>|01=[[山宮浅間神社]]|02='''富士山本宮浅間大社'''|03=[[富知神社]]}}
{{familytree/end}}
</div>
</div>
[[File:Yamamiya sengen1.JPG|thumb|180px|right|[[山宮浅間神社]]<br/><small>当社の元宮。</small>]]
[[File:Fukuchi-jinja haiden-1.JPG|thumb|180px|right|[[富知神社]]<br/><small>当社遷座以前より祀られていた地主神。</small>]]
当社の由緒は、[[寛政]]年間([[1789年]]-[[1801年]])に大宮司・富士民済により記された社伝『富士本宮浅間社記』に記載されている<ref>[[#遠藤(1987)|遠藤(1987)]]P8-11</ref><ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P18</ref><ref group="注釈">富士市立博物館編、『富士山信仰と富士塚』P7に一部掲載。</ref>。同記によると、[[垂仁天皇]]3年に富士山麓の山足の地にて祀られていたという。そして[[景行天皇]]の時代、[[日本武尊]]は駿河国で賊徒の計にかかり野火の難に遭った際に浅間大神に祈念して難を逃れたので、賊徒を平定した後に山宮(現 [[山宮浅間神社]])に[[磐境]]を設け浅間大神を祀った。のち[[大同]]元年([[806年]])、[[平城天皇]]の命により[[坂上田村麻呂]]が現在の大宮の地に社殿を造営したと伝える。なお同記によると、元々は大宮の地は「福地神」の社地であったが、山宮より浅間神が移るにあたってこちらも遷座したという(現 [[富知神社]])。


以上の社伝の一方、正史での富士山噴火の初見は『[[続日本紀]]』[[天応]]元年([[781年]])7月条であり、それ以前は穏やかな山としての表現のみで噴火は起こっていなかったと見られている<ref>[[#野本(1987)|野本(1987)]]P208</ref>。「浅間神」の神格も火の神としてのものであり、[[仁寿]]3年([[853年]])の従三位の[[神階]]奉授(神名の文献上初見)以降、富士山の噴火と連動して鎮火のための神階昇叙も確認される<ref name="野本P210"/>。これらより、富士山鎮火のため国家として浅間神を祀る必然性があり、実際の創祀は噴火が起こってから遷座するまで、すなわち{{underline|天応元年(781年)から大同元年(806年)の間}}と考えられている<ref name="野本P210"/>。
=== 古代 ===
第41代富士氏当主である富士(和邇部)民済が記した同神社の社伝『富士本宮浅間社記』によると<ref>[[#遠藤(1987)|遠藤(1987)]],P8-11</ref><ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P18</ref><ref group="注釈">富士市立博物館編、『富士山信仰と富士塚』P7に一部掲載</ref>、垂仁天皇3年の時に富士山麓の山足の地にて祀られていたものが、[[景行天皇]]の時代には山宮(現・山宮浅間神社)に[[磐境]]が設けられ祀られることとなった。[[日本武尊]]が駿河国で賊徒の計にかかり野火の難に遭った際に浅間大神に祈念して難を逃れたので、賊徒を平定した後に山宮に浅間大神を祀ったという。それを大同元年(806年)、[[平城天皇]]の命により[[坂上田村麻呂]]が現在の大宮の地に社殿を造営したという。また『富士本宮浅間社記』には「大宮社地、古往以福地明神之社地、遷浅間神社。福地明神者、延喜式神名帳所載富知神社、大山祇命也…」とあり、元々[[富知神社]]が建立されていた地に山宮より移されたのだと記されている。


また、元々大宮に鎮座したという富知神社は現在本宮境内の北方に鎮座しており、大宮の地主神として古くより浅間大社の祭祀に深く関わっている。「富知」の神名は「富士」の由来と深い関係がうかがわれるほか、[[湧玉池]]を祭祀場として、富士山を水神の神格で祀っていたと考えられている<ref name="野本P210">[[#野本(1987)|野本(1987)]]P210</ref>。このことから浅間神の遷座は、富士信仰が水の神たる「フクチ・フジ」信仰から火の神たる「アサマ」信仰へ転換したことを表す象徴的な出来事だと解されている<ref name="野本P210"/>。
以降朝廷の崇敬を受け、『[[延喜式神名帳]]』では名神大社に列した。また駿河国一宮としても崇敬された。駿河国国府の近くには、当社より勧請を受けて「浅間神社」(現 [[静岡浅間神社]]の一社)が創建された。「本宮」の当社に対し、そちらは「新宮」と呼ばれる<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P21</ref>。


=== 中世以降 ===
=== 概史 ===
==== 平安時代 ====
[[公家]]や[[武家]]からの崇敬を受け、[[後醍醐天皇]]の土地の寄進<ref>建武元年(1334年)9月「後醍醐天皇論旨」、『南北朝遺文 関東編 第1巻』141号文書</ref>の他、武家からは社領の寄進や修復が重ねて行われた。[[鎌倉時代]]には[[源頼朝]]の社領の寄進や[[北条義時]]の社殿の造営<ref>『吾妻鏡』貞応2年(1223)6月20日条</ref><ref>『北条九代記』巻4</ref>といった当時の実力者からの崇敬を受けた。社伝(『富士本宮浅間社記』)によると、源頼朝が富士の巻狩を行った際、流鏑馬を奉納したことが同社の流鏑馬の起源とされる<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P158</ref><ref group="注釈">文書の初見としては天正元年12月17日「武田家朱印状」、(『[[戦国遺文]][[武田氏]]編第3巻』2238号文書)</ref>。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には[[足利尊氏]]<ref>建武2年9月24日「足利尊氏寄進状」、『南北朝遺文 関東編 第1巻』289号文書</ref>や[[足利直義]]<ref>建武2年11月10日「足利直義寄進状」、『南北朝遺文 関東編 第1巻』329号文書</ref>による社領の寄進、[[今川範氏]]<ref>康安2年1月11日「今川範氏書下」、『南北朝遺文 関東編 第4巻』2989号文書</ref>や[[今川泰範]]らの土地の安堵や諸役の免除などが行われた。[[武田信玄]]は願状を捧げ<ref>元亀元年(1570年)4月23日「武田信玄願文」(『戦国遺文武田氏編 第3巻』1544号文書</ref>、その後[[武田勝頼]]は天正4年から造営を進め天正6年(1578年)に遷宮を行った<ref>『富士大宮御遷宮入物引付覚』には「富士大宮御遷宮入物引付覚、天正六戌寅十二月勝頼公御建立ノ記」とある</ref><ref>[[平山優]]、「「駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記」考」『武田氏研究第45号』、2012</ref>、[[豊臣秀吉]]も社領寄進の朱印状を発布している<ref>「豊臣秀吉朱印状寫」、天正18年12月(『浅間文書纂』P139)</ref>。
[[六国史]]においては、[[仁寿]]3年([[853年]])に[[名神]]<ref group="原">『日本文徳天皇実録』仁寿3年7月5日条。</ref>・従三位<ref group="原">『日本文徳天皇実録』仁寿3年7月13日条。</ref>に叙せられた。なお、これは「浅間神」の初見でもあるが、初めから従三位という高位を授かるとは考えがたく、神名の成立はさらにさかのぼると考えられている<ref> 『国史大辞典』富士信仰項。</ref>。[[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])には正三位に叙せられた<ref group="原">『日本三代実録』貞観元年正月27日条。</ref>。


また、貞観6年([[864年]])から貞観8年([[866年]])に多くの被害を出した富士山の[[貞観大噴火]]に対して、朝廷では占いにより噴火を当社の祭祀怠慢によるものとした<ref group="原">『日本三代実録』貞観6年8月5日条。</ref>。その結果甲斐国でも浅間神を祭祀することとなり<ref group="原">『日本三代実録』貞観7年12月9日条。</ref>、結果的に浅間信仰は甲斐側にも広がることとなった。
特に[[徳川家康]]は867石の[[朱印地]]を安堵したほか、[[関ヶ原の戦い]]の戦勝を記念して現在の社殿を造営した。[[慶長]]14年([[1609年]])には、富士山頂における散銭取得の優先権を得た<ref name="suisenshogennan" />。その後の歴代将軍も祈祷料・修理料の寄進を行った。四代将軍[[徳川家綱]]は金1千両を寄進し<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P58</ref>、五代将軍[[徳川綱吉]]は銀50枚・金2千両、後にも金700両を寄進した<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P59</ref><ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P230</ref>。10代将軍[[徳川家治]]は銀300枚を寄進している。その後も徳川家の歴代将軍による崇敬が絶たれることは無かった。[[安永]]8年([[1779年]])には[[三奉行]]による裁許により富士山の8合目以上が当神社へ寄進されている([[富士山#歴史|「富士山を巡る争い」を参照]])。


[[File:Shizuoka Sengen Shrine Ohaiden.jpg|thumb|180px|right|[[静岡浅間神社]]<br/><small>当社から駿河国府に勧請された「新宮」。</small>]]
=== 近代・現代 ===
以降朝廷の崇敬を受け、『[[延喜式神名帳]]』では「駿河国[[富士郡]] 浅間神社 名神大」と記載されて[[名神大社]]に列した。また駿河国一宮としても崇敬された。駿河国府の近くには、当社より勧請を受けて浅間神社(現 [[静岡浅間神社]]の一社)も創建された。「本宮」の当社に対し、そちらは「新宮」と呼ばれる<ref name="宮地(1929)P21">[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P21</ref>。なお、甲斐国の浅間神社も同国では唯一の名神大社に列し<ref group="注釈">論社は[[浅間神社 (笛吹市)|浅間神社]]([[山梨県]][[笛吹市]])、[[河口浅間神社]](山梨県[[南都留郡]][[富士河口湖町]])、[[一宮浅間神社]](山梨県[[西八代郡]][[市川三郷町]])の三社。比定の議論は「[[浅間神社#甲斐国]]」参照。</ref>、浅間神に対する崇敬の深さがうかがわれる。

==== 鎌倉時代から戦国時代 ====
以降、[[公家]]や[[武家]]からの崇敬を受け、[[後醍醐天皇]]の土地の寄進<ref group="原">建武元年(1334年)9月「後醍醐天皇論旨」(『南北朝遺文 関東編 第1巻』141号文書)</ref>のほか、武家からは社領の寄進や修復が重ねて行われた。[[鎌倉時代]]には[[源頼朝]]の社領の寄進や[[北条義時]]の社殿の造営<ref group="原">『吾妻鏡』貞応2年(1223)6月20日条</ref><ref group="原">『北条九代記』巻4</ref>といった当時の実力者からの崇敬を受けた。社伝(『富士本宮浅間社記』)によると、源頼朝が富士の巻狩を行った際、流鏑馬を奉納したことが当社の流鏑馬の起源とされる<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P158</ref><ref group="注釈">文書の初見としては天正元年12月17日「武田家朱印状」、(『[[戦国遺文]][[武田氏]]編第3巻』2238号文書)。</ref>。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には[[足利尊氏]]<ref group="原">建武2年9月24日「足利尊氏寄進状」(『南北朝遺文 関東編 第1巻』289号文書)</ref>や[[足利直義]]<ref group="原">建武2年11月10日「足利直義寄進状」(『南北朝遺文 関東編 第1巻』329号文書)</ref>による社領の寄進、[[今川範氏]]<ref group="原">康安2年1月11日「今川範氏書下」(『南北朝遺文 関東編 第4巻』2989号文書)</ref>や[[今川泰範]]らの土地の安堵や諸役の免除などが行われた。[[武田信玄]]は願状を捧げ<ref group="原">元亀元年(1570年)4月23日「武田信玄願文」(『戦国遺文武田氏編 第3巻』1544号文書</ref>、その後[[武田勝頼]]は天正4年から造営を進め天正6年(1578年)に遷宮を行った<ref>『富士大宮御遷宮入物引付覚』には「富士大宮御遷宮入物引付覚、天正六戌寅十二月勝頼公御建立ノ記」とある</ref><ref>[[平山優]]、「「駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記」考」『武田氏研究第45号』、2012</ref>。[[豊臣秀吉]]も社領寄進の朱印状を発布している<ref group="原">「豊臣秀吉朱印状寫」、天正18年12月(『浅間文書纂』P139)</ref>。

==== 江戸時代 ====
[[江戸時代]]に入ると、[[徳川家康]]は867石の[[朱印地]]を安堵したほか、[[関ヶ原の戦い]]の戦勝を記念して現在の社殿を造営した。[[慶長]]14年([[1609年]])には、富士山頂における散銭取得の優先権を得た<ref name="suisenshogennan" />。その後の歴代将軍も祈祷料・修理料の寄進を行っており、4代将軍[[徳川家綱]]は金1千両を寄進<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P58</ref>、5代将軍[[徳川綱吉]]は銀50枚・金2千両、後にも金700両を寄進<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P59</ref><ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P230</ref>、10代将軍[[徳川家治]]は銀300枚を寄進した。その後も徳川家の歴代将軍による崇敬が絶たれることは無かった。[[安永]]8年([[1779年]])には[[三奉行]]による裁許により富士山の8合目以上が当社へ寄進された([[富士山#歴史|「富士山を巡る争い」を参照]])。

『富嶽之記』([[1733年]])では、当社の様子を「是冨士山根本の浅間也、木花開耶姫を祭る、神主大宮司といふ、社僧二十院あり、境内桜多シ、神の愛木也、社ノ東に垢離場有り」と記している。

==== 明治時代以降 ====
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{| class="wikitable" style="font-size:85%;"
{| class="wikitable" style="font-size:85%;background-color:#ffffff"
|+ 皇族の参拝<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P63-64</ref>
|+ 皇族の参拝<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P63-64</ref>
!style="width:12em;"|年代
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!style="width:17em;"|内容
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|[[1896年]](明治29年)3月
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|[[大正天皇]]が浅間大社に参拝される
|[[大正天皇]]が参拝
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|[[1896年]](明治29年)4月
|[[1896年]](明治29年)4月
|[[小松宮彰仁親王]]が参拝される
|[[小松宮彰仁親王]]が参拝
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|[[1923年]](大正12年)7月
|[[1923年]](大正12年)7月
|[[昭和天皇]]が奥宮を参拝される
|[[昭和天皇]]が奥宮を参拝
|富士登山の折
|富士登山の折
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|[[1923年]](大正12年)8月
|[[1923年]](大正12年)8月
|[[秩父宮雍仁親王]]が奥宮を参拝される
|[[秩父宮雍仁親王]]が奥宮を参拝
|富士登山の折
|富士登山の折
|}</div>
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*[[1871年]](明治4年)[[5月14日]] - [[近代社格制度]]のもと'''浅間神社'''として国幣中社に列した
*[[1871年]](明治4年)[[5月14日]] - [[近代社格制度]]のもと'''浅間神社'''として[[国幣中社]]列。
*[[1896年]](明治29年)[[7月8日]] - 官幣大社に昇格。
*[[1896年]](明治29年)[[7月8日]] - [[官幣大社]]に昇格。
*[[1907年]](明治40年)[[5月27日]] - 古社寺保存法により特別保護建造物に指定された
*[[1907年]](明治40年)[[5月27日]] - 古社寺保存法により特別保護建造物に指定。
*[[1934年]](昭和9年)[[6月15日]] - 富士宮駅前に大鳥居が建立
*[[1934年]](昭和9年)[[6月15日]] - 富士宮駅前に大鳥居を造営
*[[第二次世界大戦]]後は[[神社本庁]]の[[別表神社]]に加列。
*[[第二次世界大戦]]後は[[神社本庁]]の[[別表神社]]に加列。
*[[1981年]](昭和56年)[[3月27日]] - 岳南地域都市計画の名目で富士宮駅前の浅間大社の大鳥居撤去された。<ref>[http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/koho/shiseigaiyou/images/p6.pdf 市のあゆみ]</ref>
*[[1981年]](昭和56年)[[3月27日]] - 岳南地域都市計画の名目で富士宮駅前の浅間大社の大鳥居撤去。<ref>[http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/koho/shiseigaiyou/images/p6.pdf 市のあゆみ]</ref>
*[[1982年]](昭和57年)[[3月11日]] - 全国の浅間神社の総本宮にふさわしい名称とするため、それまでの「富士山本宮浅間神社」から現行の'''富士山本宮浅間大社'''へと改名。
*[[1982年]](昭和57年)[[3月11日]] - 全国の浅間神社の総本宮にふさわしい名称とするため、それまでの「富士山本宮浅間神社」から現行の'''富士山本宮浅間大社'''」に改名。
*[[2006年]](平成18年)[[10月29日]] - 御鎮座1200年祭された。開催にあわせ大鳥居再建された<ref group="注釈">日頃から大鳥居の復活を望む強い要望があったことから、場所を富士宮駅前から500mほど西の浅間大社から湧き出る「神田川沿いに移動し高さ16メートルの大鳥居を再建</ref>。
*[[2006年]](平成18年)[[10月29日]] - 御鎮座1200年祭。開催にあわせ大鳥居再建<ref group="注釈">日頃から大鳥居の復活を望む強い要望があったことから、場所を富士宮駅前から500mほど西の神田川沿いに移動し高さ16mの大鳥居を再建した。</ref>。
*[[2013年]](平成25年)[[6月22日]] - 「[[富士山|富士山-信仰の対象と芸術の源泉]]」の構成資産の一部として[[世界文化遺産]](日本の文化遺産としては13箇所目)に登録された
*[[2013年]](平成25年)[[6月22日]] - 「[[富士山|富士山-信仰の対象と芸術の源泉]]」の構成資産の一部として[[世界文化遺産]](日本の文化遺産としては13箇所目)に登録。


=== 神階 ===
* [[六国史]]における神階奉授の記録
** [[仁寿]]3年([[853年]])7月5日、[[名神]]に加列 (『[[日本文徳天皇実録]]』) - 「浅間神」の初見
** 仁寿3年(853年)7月13日、従三位 (『日本文徳天皇実録』)
** [[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])正月27日、正三位 (『[[日本三代実録]]』)
* 六国史以後
** 正一位 (『駿河国神名帳』) - 表記は「浅間大明神」


== 境内 ==
=== 神職 ===
寛政の社領目録を基とした神職一覧<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P527</ref>。
=== 本宮 ===
{| class="wikitable" style="font-size:90%; background-color:#ffffff"
[[File:SengenTaisha ShingenZakura.jpg|thumb|200px|right|信玄桜(武田信玄公手植え枝垂桜2世)]]
==== 建造物 ====
社殿は[[慶長]]9年([[1604年]])に徳川家康の造営によるものである。1707年[[宝永地震]]や1854年[[安政東海地震]]などで崩壊した建物もあり、現在は本殿・拝殿・楼門が現存している。「大地震に而御宮大破損記」は安政東海地震での被害の大きさを記している<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P244</ref>。室町時代にも造営が試みられ、富士上方や富士下方の諸役等が造営の費用として賄われるなどしているが<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P204</ref>、戦乱の世の中で造営は円滑に進むものでは無かったようである<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P205</ref>。乱などにより度々破損することもあり、例えば[[河東の乱]]の際破損した社殿の造営なども行われている<ref>天文21年1月23日「今川義元判物写」(『戦国遺文今川氏編 第2巻』1066号文書)</ref><ref>永禄3年8月9日「今川氏真判物」(『戦国遺文今川氏編 第2巻』1567号文書)</ref>。またこのとき、社人の「清長」(一和尚職)「春長」(四和尚職)が造営関係の処務を先導していた<ref name="miyazaki">[[東島誠]]、「租税公共観の前提─勧進の脱呪術化」『公共圏の歴史的創造-江湖の思想へ-』P79-87、東京大学出版会、2000</ref>。

本殿は国の重要文化財であり、桁行5間・梁間4間・寄棟造の社殿の上に三間社流造の社殿が乗り、二重の楼閣造となる珍しい形式である。各所に葵紋と富士氏の家紋である「棕櫚の紋」が刻まれ、また蟇股には[[菊花紋]]や[[葵紋]]などが附されている<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P214</ref><ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P303</ref><ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P305</ref>。『富嶽之記』という江戸時代の記録に「彩色彫物等美盡し、菊葵の紋あり」とあり、実際に現在も菊花紋と葵紋が並ぶ装飾が現存している<ref>建部恭宣,「浅間大社本殿の建築形式 : 浅間造の研究 2(歴史・意匠)」『東海支部研究報告集 36』,1998</ref>。また富士山を御神体としていることなどから、富士山を装飾したものもある。

屋根は[[檜皮葺]]であり、この本殿の特徴的な形態は[[浅間造]]と称される。拝殿は妻入りで正面が入母屋造、背面が切妻造となっており、本殿と同じく檜皮葺である。内外面ともに丹塗となっている。この造営は関ヶ原の戦いの戦勝祈願が成就したことによる家康の意向からなると考えられており、安永8年の史料には「慶長五年関ヶ原御合戦の節、御願望御成就本社末社残らず御再建成させられ、其後散銭等は修理に致すべき旨…」とある<ref name="tokugawa" />。またこの造営における[[遷宮|正遷宮]]の儀式は盛大なものであったと伝えられ、社人だけでも182人にも上ったという<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P221</ref>。

==== 社叢 ====
本殿の裏手に広がる。『[[続後撰和歌集]]』における[[隆弁]]の歌の詞書に「四月廿日あまりの比、駿河の富士の社にこもりて侍りけるに、櫻花のさかりに見えければよみ侍りける」とあり、桜の木が古来より多く存在していたとされる。

また『富士本宮雑記』には、武田勝頼により社中に多くの木々が植えられたことが記されている<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P213</ref>。古来は「萬年杉」なるものが存在していたと言われ、『[[甲陽軍鑑]]』に見える「卯の年月より駿河の大宮大杉より煙立てて見ゆる」の「大杉」と同一であるとされる<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P308</ref>。また『駿河国新風土記』にはこの萬年杉が枯死したことが記されている。拝殿の前には武田信玄の手植えと伝わる七本の桜が存在していたという<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P308</ref>。現在、それらの二代目とされる「信玄櫻」が境内に存在する。

==== その他====
楼門前には、東西へ伸びる「桜の馬場」があり、神事流鏑馬式などに用いられる。また眼鏡池とも称される鏡池がある。

東側には[[湧玉池]]があり、境内に湧出する富士山からの湧水によってできている。何層にも重なった[[溶岩]]の間から湧出しており、[[天然記念物#特別天然記念物|特別天然記念物]]に指定されている。水源の岩上には朱塗りの水屋神社が鎮座している。

近年は発掘調査などが進み、[[2008年]](平成20年)の発掘調査により、[[1670年]]に作成されたと考えられている社殿配置図にある[[護摩堂]]の建物跡が湧玉池北側で確認された。神仏習合の1つの資料となるとされ、位置関係としては富士山の登山者が護摩堂を見降ろせられる位置にあったとの調査結果が出ている。<ref>護摩堂の建物跡確認 富士山本宮浅間大社境内地 発掘現場を公開(静岡新聞)2008/07/16</ref>他に青磁碗・白磁壺・青白磁関連のものが出土し、護摩堂跡の道にあたる石畳、中世の集石遺構が確認されている<ref>財団法人[[静岡県埋蔵文化財調査研究所]]刊行の発掘調査報告書一覧より</ref>。

=== 奥宮 ===
[[File:Rename me, please!Mt.jpg|thumb|200px|right|奥宮]]
[[ファイル:sengen_kengamine.jpg|thumb|200px|right|富士山頂 奥宮(中央、赤い屋根)と三島岳(左)と[[剣ヶ峰 (富士山)|剣ヶ峰]](右)]]
富士山頂上奥宮は[[富士山村山口登山道]]頂上に鎮座する。元は[[富士山興法寺]]を形成する大日堂であったが[[神仏分離令]]により仏像を取り除かれ、跡地を浅間大社奥宮として管理されることとなった<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P27</ref><ref name="fujisan">{{PDFlink|[http://www.fujisan-3776.jp/documents/100702kengakujutusiryou.pdf 第1回静岡県学術委員会・第2回山梨県学術委員会資料(旧・「富士山」推薦書原案)]}}、富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議、2010.07.14</ref>。大日堂は「表大日」と称され、薬師堂は「裏薬師」と称されるのが慣例であった<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P21</ref><ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P214</ref><ref group="注釈">『富士北口記録』のような甲斐国側の記録にも「表大日・大宮浅間神社奥宮」とある</ref>。

奥宮境内には「冨士山頂上淺間大社奥宮」と書かれた石碑が建てられており、シンボルとなっている。山頂の薬師堂は山役銭の徴収場の役割を担っていたが、廃仏毀釈により浅間大社の末社となり、[[久須志神社 (富士山)|久須志神社]](東北奥宮)として管理されることとなった<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P27</ref><ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P331-338</ref>。

浅間大社奥宮の御扉には大きく金色で「國鎭無上嶽」と書かれ、建物内には「高齢者記帳所」が設けられている。7月11日に[[開山祭]]を行い、8月末まで神職が常駐して祭事やお守り等の授与を行う。奥宮の例大祭は8月15日に行われる。9月の閉山祭以後は、翌年の開山まで無人となる。

==== 奥宮境内地の経緯 ====
徳川家康による庇護の下で、本殿等の造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に、浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになる<ref name="suisenshogennan" /><ref name="tokugawa">安永8年(1779年)「幕府裁許状」、『浅間文書纂』に掲載</ref>。安永8年(1779年)には幕府による裁許により正式に八合目以上の支配権が認められ<ref name="suisenshogennan" /><ref name="tokugawa" />、現在に至る。『駿河国新風土記』(江戸時代の地誌)の「富士山 上」の項には「八合目より上は富士郡にて、大宮浅間大宮司別当の所置する所なり、其詳なることは安永八巳亥年12月5日下さるる所の公裁の文書に見えたり」とある。

この浅間大社に寄進されていた土地は、一時国有化された時期がある。[[国有財産法]]における「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」により、全国各地の寺社の土地は無償で国から返還された。富士山を神体山とする浅間大社は、長きに渡りその寄進されていた土地を管理していたため他寺社のように適用されるはずであったが、特別な山ということもあり例外として適用されなかった<ref name="okunomiya" />。本来法律通りであれば神社側の土地として処理されるはずであったが、49,952坪のみしか譲渡されなかったのである<ref name="okunomiya" />。それに対し浅間大社側は、訴願を申し立てた<ref name="okunomiya" />。

しかし江戸幕府が同大社に寄進したことを示す古文書といった決定的な証拠により、これらの土地が当社の境内地であることが裁判という形で改めて確認されることとなった。この裁判に基づき、2004年には浅間大社側に土地が返還されることとなった<ref name="suisenshogennan" /><ref group="注釈">8合目以上は約400万㎡であり、そのうち登山道や[[富士山測候所|旧富士山測候所]]などを除くことによる。</ref>。 但し、静岡県、山梨県の県境が未確定のため、土地登記はしていない。

==== 山頂信仰遺跡 ====
古では山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと考えられてきた<ref name="suisenshogennan">{{PDFlink|[http://www.fujisan-3776.jp/topics/H23.07.27suisenshogennan.pdf 「富士山」推薦書原案]}}、富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議、2011.07.27</ref>。そのため山頂に対して寄進・奉納が繰り返され、それが現在の山頂信仰遺跡となる<ref name="suisenshogennan" />。山頂における最初の宗教的施設は、[[末代上人]]が建立した施設(後の大日堂)が最初とされ<ref name="suisenshogennan" />、経典や仏像などが奉納などされた。また内院(噴火口)への散銭は、内院に鎮座するとされた神仏を拝する行為であった<ref name="suisenshogennan" />。

このように奉納などが繰り返され、元々山頂には信仰遺跡の一部である仏像などが多く存在した。しかし[[廃仏毀釈]]により多くが撤去され、現在は一部しか残されていない。

; 虎岩
火口に突き出す岩が虎の姿に見えることから、虎岩と呼ばれる岩がある。傍には「虎岩の碑」があり<ref>[http://www.fuji-hongu.or.jp/sengen/okumiya/#top 富士山頂上浅間大社奥宮(富士山本宮浅間大社公式HP)]</ref>、[[岸岱]]筆の『富士山記』([[都良香]])が刻まれている<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P335</ref>。

==== 奥宮の朱印等 ====
本宮と奥宮では[[朱印 (神社仏閣)|朱印]]も異なる。またその御朱印は特別製で、富士山の溶岩の砂が含まれたものが押されている。

高齢者記帳所にある「高齢者登拝者名簿」に記帳(資格は70歳以上に限られる)すると記念品が授けられることになっており、この記帳は[[1960年]]から行われている<ref group="注釈">記帳は午前4時頃から午後5時頃</ref>。奥宮と浅間大社末社の久須志神社で取り扱っており、累計では2010年時点で1243人に上る。<ref>朝日新聞 2010年10月26日付</ref>

== 神職 ==
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{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+ 神職一覧
|+ 神職一覧
!style="width:6em;"|神職
!style="width:6em;"|神職
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|大宮司
|大宮司
|'''富士氏'''
|'''富士氏'''
|詳細は[[富士氏]]を参照
|詳細は[[富士氏]]を参照
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|公文
|公文
|'''富士氏'''
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|同上
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|案主
|案主
|'''富士氏'''
|'''富士氏'''
|同上
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|正鎰取
|正鎰取
|鎖是氏<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P634</ref>
|鎖是氏<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P634</ref>
|鎰取は総社家(大宮司・公文・案主以外の社人を指す)中の首位である<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P540</ref>。鎖是氏は道者坊を主とし、「富士参詣道者勧請銭」を所務していた<ref name="mandara">大高康正,「富士参詣曼荼羅再考ー富士山本宮浅間大社所蔵・静岡県指定本を対象にー」,『絵解き研究 (18)』,2004</ref>。鎖是氏の初見は「武田家朱印状」である<ref>元亀3年5月15日「武田家朱印状」(『戦国遺文武田氏編第3巻』1879号)</ref><ref name="mandara" />。
|鎰取は総社家(大宮司・公文・案主以外の社人を指す)中の首位<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P540</ref>。鎖是氏は道者坊を主とし、「富士参詣道者勧請銭」を所務した<ref name="mandara">大高康正,「富士参詣曼荼羅再考ー富士山本宮浅間大社所蔵・静岡県指定本を対象にー」,『絵解き研究 (18)』,2004</ref>。鎖是氏の初見は「武田家朱印状」<ref group="原">元亀3年5月15日「武田家朱印状」(『戦国遺文武田氏編第3巻』1879号)</ref><ref name="mandara" />。
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|権鎰取
|権鎰取
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|山宮太夫
|山宮太夫
|山田氏
|山田氏
|山宮浅間神社関係の祭事などを執なう<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P545</ref>
|山宮浅間神社関係の祭事を執行<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P545</ref>
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|一宮仕<br/>(一和尚)
|一宮仕<br/>(一和尚)
|宮崎氏<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P637</ref>
|宮崎氏<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P637</ref>
|清長坊を抱える<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P546</ref>。清長の初見は[[今川義元]]判物である<ref>天文20年2月10日「今川義元判物」(『戦国遺文今川氏編第2巻』997号)</ref><ref name="mandara" />。伝承では元は[[井出氏]]であったといい、井出長閑が富士の巻狩の後定着し、宮崎を名乗ったという。宮仕の宮崎氏は神社からみて西隣に屋敷を有していた。戦国期は棟別・諸役免許権([[不入の権 (日本)|不入権]])を保持し<ref name="miyazaki" />、富士氏以外の神職としては大きな権力を保持していた。
|清長坊を抱える<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P546</ref>。清長の初見は[[今川義元]]判物<ref group="原">天文20年2月10日「今川義元判物」(『戦国遺文今川氏編第2巻』997号)</ref><ref name="mandara" />。伝承では元は[[井出氏]]であったといい、井出長閑が富士の巻狩の後定着し、宮崎を名乗ったという。宮仕の宮崎氏は神社からみて西隣に屋敷を有した。戦国期は棟別・諸役免許権([[不入の権 (日本)|不入権]])を保持し<ref name="miyazaki" />、富士氏以外の神職としては大きな権力を保持した。
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|二宮仕<br/>(二和尚)
|二宮仕<br/>(二和尚)
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|四宮仕<br/>(四和尚)
|四宮仕<br/>(四和尚)
|宮崎氏
|宮崎氏
|春長坊を抱える<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P547</ref>。「春長」の初見は今川義元判物である<ref>天文21年1月23日「今川義元判物写」(『戦国遺文今川氏編第2巻』1066号)</ref><ref name="mandara" />。五穀豊穣を祈る重要神事である風祭神事などを勤めていた神職で<ref name="hongu">大久保俊昭、「本宮の風祭神事」『戦国期今川氏の領域と支配』、岩田書院、2008年</ref>、現在は富士山頂の山小屋の経営や[[米之宮浅間神社]]の神職を勤める<ref>堀内眞、「富士山麓の近代-宿泊施設を中心に-」『甲斐路No.113』、2007</ref>。戦国期には勧請権を保持し<ref name="miyazaki" /><ref name="hongu" />、富士氏以外の神職としては大きな権力を保持していた。一和尚とは相補的関係にある<ref name="miyazaki" />。また一和尚と四和尚は、参拝者による社中の参銭を管理する立場にあった<ref name="mandara" />。戦乱のさなかで富士大宮司(富士氏)が不在の際も当社を支え、[[今川氏]]より賞賛されている<ref name="mandara" />。
|春長坊を抱える<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P547</ref>。「春長」の初見は今川義元判物<ref group="原">天文21年1月23日「今川義元判物写」(『戦国遺文今川氏編第2巻』1066号)</ref><ref name="mandara" />。五穀豊穣を祈る重要神事である風祭神事を勤めた神職で<ref name="hongu">大久保俊昭、「本宮の風祭神事」『戦国期今川氏の領域と支配』、岩田書院、2008年</ref>、現在は富士山頂の山小屋の経営や[[米之宮浅間神社]]の神職を勤める<ref>堀内眞、「富士山麓の近代-宿泊施設を中心に-」『甲斐路No.113』、2007</ref>。戦国期には勧請権を保持し<ref name="miyazaki" /><ref name="hongu" />、富士氏以外の神職としては大きな権力を保持した。一和尚とは相補的関係にある<ref name="miyazaki" />。また一和尚と四和尚は、参拝者による社中の参銭を管理する立場にあった<ref name="mandara" />。戦乱のさなかで富士大宮司(富士氏)が不在の際も当社を支え、[[今川氏]]より賞賛されている<ref name="mandara" />。
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|所司太夫
|所司太夫
191行目: 209行目:
|福地太夫
|福地太夫
|山田氏
|山田氏
|富知神社の神主。山宮御神幸といった祭事を還幸する役割も福地太夫である<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P553</ref>。
|富知神社の神主。山宮御神幸といった祭事を還幸する役割も担った<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P553</ref>。
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|大禰宜
|大禰宜
199行目: 217行目:
|幸太夫
|幸太夫
|前島氏
|前島氏
|若宮浅間神社の禰宜を兼任する<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P555</ref>。
|若宮浅間神社の禰宜を兼任<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P555</ref>。
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|木之行事
|木之行事
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|甘葛太夫
|甘葛太夫
|深沢氏
|深沢氏
|流鏑馬における神饌などを務めた。富士宮市大鹿窪の福石神社・須賀神社の禰宜を兼任する<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P558</ref>。
|流鏑馬における神饌を務めた。富士宮市大鹿窪の福石神社・須賀神社の禰宜を兼任<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P558</ref>。
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|上野山王禰宜
|上野山王禰宜
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|末社である山王神社(現・日吉神社)の禰宜<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P554</ref>
|末社である山王神社(現・日吉神社)の禰宜<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P554</ref>
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|行事太夫
|行事太夫
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|加島山王禰宜
|style="white-space:nowrap"|加島山王禰宜
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|}{{-}}


== 境内 ==
寛政の社領目録を基とした神職一覧である<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P527</ref>。
=== 本宮 ===
==== 社殿 ====
[[File:Fujisanhongū-sengen-taisha honden.JPG|thumb|250px|right|本殿(重要文化財)<br/>徳川家康の造営で[[浅間造]]と称される。]]
社殿は[[慶長]]9年([[1604年]])に徳川家康の造営によるものである。[[宝永地震]]([[宝永]]4年([[1707年]]))や[[安政東海地震]]([[嘉永]]7年11月4日([[1854年]]))などで崩壊した建物もあり、現在は本殿・拝殿・楼門が現存している。安政東海地震にあたっては『大地震に而御宮大破損記』が記され、その被害の様子を伝えている<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P244</ref>。室町時代にも造営が試みられており、富士上方や富士下方の諸役等が造営の費用として賄われるなどしているが<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P204</ref>、戦乱の世の中で造営は円滑に進むものでは無かったようである<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P205</ref>。乱などにより度々破損することもあり、例えば[[河東の乱]]の際破損した社殿の造営なども行われている<ref group="原">天文21年1月23日「今川義元判物写」(『戦国遺文今川氏編 第2巻』1066号文書)</ref><ref group="原">永禄3年8月9日「今川氏真判物」(『戦国遺文今川氏編 第2巻』1567号文書)</ref>。またこのとき、社人の「清長」(一和尚職)「春長」(四和尚職)が造営関係の処務を先導していた<ref name="miyazaki">[[東島誠]]、「租税公共観の前提─勧進の脱呪術化」『公共圏の歴史的創造-江湖の思想へ-』P79-87、東京大学出版会、2000</ref>。

本殿は国の重要文化財であり、桁行5間・梁間4間・寄棟造の社殿の上に三間社流造の社殿が乗り、二重の楼閣造となる珍しい形式である。屋根は[[檜皮葺]]であり、この本殿の特徴的な形態は'''[[浅間造]]'''と称される。各所に葵紋と富士氏の家紋である「棕櫚の紋」が刻まれ、また蟇股には[[菊花紋]]や[[葵紋]]などが附されている<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P214</ref><ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P303</ref><ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P305</ref>。『富嶽之記』という江戸時代の記録に「彩色彫物等美盡し、菊葵の紋あり」とあり、実際に現在も菊花紋と葵紋が並ぶ装飾が現存している<ref>建部恭宣、「浅間大社本殿の建築形式 : 浅間造の研究 2(歴史・意匠)」『東海支部研究報告集 36』、1998</ref>。また富士山を御神体としていることなどから、富士山を装飾したものもある。拝殿は妻入りで正面が入母屋造、背面が切妻造となっており、本殿と同じく檜皮葺である。内外面ともに丹塗となっている。

これらの造営は関ヶ原の戦いの戦勝祈願が成就したことによる家康の意向からなると考えられており、安永8年の史料にもその旨の記載がある<ref group="原" name="tokugawa" />。またこの造営における[[遷宮|正遷宮]]の儀式は盛大なものであったと伝えられ、社人だけでも182人にも上ったという<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P221</ref>。

また古くは社僧や[[垢離]]場などが存在し、[[神仏習合]]の形態があった。現在は見られないが「三重塔」といった仏教的建造物も境内に位置しており、寛文10年(1670年)の社殿配置図に見える<ref group="注釈">富士市立博物館編『富士山信仰と富士塚』P16にカラー版に掲載。</ref>。

<gallery widths="150px" heights="100px">
File:Fujisanhongū-sengen-taisha haiden.JPG|拝殿(県指定文化財)
File:Fujisanhongū-sengen-taisha roumon.JPG|楼門(県指定文化財)
</gallery>

==== 社叢 ====
[[File:SengenTaisha ShingenZakura.jpg|thumb|200px|right|信玄桜(武田信玄公手植え枝垂桜2世)]]
社叢は本殿の裏手に広がり、「神立山」と称される。『[[続後撰和歌集]]』における[[隆弁]]の歌の詞書に「四月廿日あまりの比、駿河の富士の社にこもりて侍りけるに、櫻花のさかりに見えければよみ侍りける」とあり、桜の木が古来より多く立っていた様子がわかる。祭神のコノハナノサクヤヒメの神格から桜との関係は深く、境内には多くの桜の木が植えられている。拝殿の前には武田信玄の手植えと伝わる七本の桜が存在していたという<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P308</ref>。現在、それらの二代目とされる「信玄桜」が境内に伝わる。

また『富士本宮雑記』には、武田勝頼により社中に多くの木々が植えられたことが記されている<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P213</ref>。古来は「萬年杉」なるものが存在していたと言われ、『[[甲陽軍鑑]]』に見える「卯の年月より駿河の大宮大杉より煙立てて見ゆる」の「大杉」と同一であるとされる<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P308</ref>。また『駿河国新風土記』にはこの萬年杉が枯死したことが記されている。

==== その他====
楼門前には、東西へ伸びる「桜の馬場」があり、神事流鏑馬式などに用いられる。また眼鏡池とも称される鏡池がある。

東側には[[湧玉池]]があり、境内に湧出する富士山からの湧水によってできている。何層にも重なった[[溶岩]]の間から湧出しており、[[天然記念物#特別天然記念物|特別天然記念物]]に指定されている。水源の岩上には朱塗りの水屋神社が鎮座している。

近年は発掘調査などが進み、[[2008年]](平成20年)の発掘調査により、社殿配置図([[1670年]]の作成とされる)にある[[護摩堂]]の建物跡が、湧玉池北側で確認された。神仏習合の1つの資料となるとされ、位置関係としては富士山の登山者が護摩堂を見降ろせられる位置にあったとの調査結果が出ている<ref>護摩堂の建物跡確認 富士山本宮浅間大社境内地 発掘現場を公開(静岡新聞)2008/07/16</ref>。他に青磁碗・白磁壺・青白磁関連のものが出土し、護摩堂跡の道にあたる石畳、中世の集石遺構が確認された<ref>財団法人[[静岡県埋蔵文化財調査研究所]]刊行の発掘調査報告書一覧より</ref>。

当社は[[富士山村山口登山道|大宮・村山口登山道]]の起点に位置するため、富士参詣を対象とした道者坊が存在し、当社の社人たちが富士登山の道者に宿舎を提供した。これを「大宮道者坊」という。『大宮道者坊記聞』には「大宮道者坊ノ事、古へ享禄・天文年間ハ、凡三十ヶ余坊有之由伝フ」とあり、室町時代後期に道者坊が30余り存在していたことが知られる<ref>大高康正、「富士参詣曼荼羅試論-富士山本宮浅間大社所蔵・国指定本を対象に-」『山岳修験 34』、2004年</ref>。

<gallery>
File:富士山本宮浅間大社 境内図.JPG|境内図
画像:Fujisan Hongū Sengen Taisha Volcanic bomb.jpg|火山弾
画像:Fujisan Hongū Sengen Taisha Stone.jpg|南極の石<ref group="注釈">第七次[[南極観測船]]「[[ふじ (砕氷艦)|ふじ]]」の乗り組み員で、地元富士宮市出身の赤池稔によって奉納された[[南極]]の石。歴代の南極観測船「[[宗谷 (船)|宗谷]]」・「ふじ」・「[[しらせ (砕氷艦)|しらせ]]」に神棚が設けられており、浅間大社の参拝・祈祷を受けている。</ref>
画像:Fujisan Hongū Sengen Taisha Yabusame.jpg|流鏑馬像
File:Fujisanhongū-sengen-taisha ishitorii.JPG|石鳥居
File:Fujisanhongū-sengen-taisha sandou.JPG|参道
File:Fujisanhongū-sengen-taisha dainiootorii.JPG|第二大鳥居
</gallery>

=== 奥宮 ===
[[File:Okumiya (Sengen-taisha).JPG|thumb|200px|right|奥宮]]
[[ファイル:sengen_kengamine.jpg|thumb|200px|right|富士山頂<br/>中央に奥宮(赤い屋根)。左に三島岳、右に[[剣ヶ峰 (富士山)|剣ヶ峰]]。]]
富士山頂上奥宮は[[富士山村山口登山道]]頂上に鎮座する。元は[[富士山興法寺]]を形成する大日堂であったが、[[神仏分離令]]により仏像が取り除かれ、跡地は浅間大社奥宮として管理されることとなった<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P27</ref><ref name="fujisan">{{PDFlink|[http://www.fujisan-3776.jp/documents/100702kengakujutusiryou.pdf 第1回静岡県学術委員会・第2回山梨県学術委員会資料(旧・「富士山」推薦書原案)]}}、富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議、2010.07.14</ref>。大日堂は「表大日」と称され、薬師堂は「裏薬師」と称されるのが慣例であった<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P21</ref><ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P214</ref><ref group="注釈">『富士北口記録』のような甲斐国側の記録にも「表大日・大宮浅間神社奥宮」とある。</ref>。

奥宮境内には「冨士山頂上淺間大社奥宮」と書かれた石碑が建てられており、シンボルとなっている。山頂の薬師堂は山役銭の徴収場の役割を担っていたが、廃仏毀釈により浅間大社の末社となり、[[久須志神社 (富士山)|久須志神社]](東北奥宮)として管理されることとなった<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P27</ref><ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P331-338</ref>。

浅間大社奥宮の御扉には大きく金色で「國鎭無上嶽」と書かれ、建物内には「高齢者記帳所」が設けられている。7月11日に[[開山祭]]を行い、8月末まで神職が常駐して祭事やお守り等の授与を行う。奥宮の例大祭は8月15日に行われる。9月の閉山祭以後は、翌年の開山まで無人となる。

==== 奥宮境内地の経緯 ====
江戸時代には、徳川家康による庇護の下で、本殿等の造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に、浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになっていた<ref name="suisenshogennan" /><ref group="原" name="tokugawa" group="原">安永8年(1779年)「幕府裁許状」(『浅間文書纂』)</ref>。安永8年(1779年)には幕府による裁許により正式に八合目以上の支配権が認められ<ref name="suisenshogennan" /><ref group="原" name="tokugawa" />、現在に至る。『駿河国新風土記』(江戸時代の地誌)の「富士山 上」の項には「八合目より上は富士郡にて、大宮浅間大宮司別当の所置する所なり、其詳なることは安永八巳亥年12月5日下さるる所の公裁の文書に見えたり」とある。

この浅間大社に寄進されていた土地は、一時国有化された時期がある。[[国有財産法]]における「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」により、全国各地の寺社の土地は無償で国から返還された。富士山を神体山とする浅間大社は、長きに渡りその寄進されていた土地を管理していたため、他の寺社のように同法が適用されるはずであったが、特別な山ということもあり例外として適用されなかった<ref name="okunomiya" />。本来法律通りであれば神社側の土地として処理されるはずであったが、49,952坪のみしか譲渡されなかったのである<ref name="okunomiya" />。それに対し浅間大社側は、訴願を申し立てた<ref name="okunomiya" />。

そして江戸幕府が当社に寄進したことを示す古文書といった決定的な証拠により、これらの土地が当社の境内地であることが裁判という形で改めて確認されることとなった。この裁判に基づき、2004年には浅間大社側に土地が返還されることとなった<ref name="suisenshogennan" /><ref group="注釈">8合目以上は約400万㎡であり、そのうち登山道や[[富士山測候所|旧富士山測候所]]などを除くことによる。</ref>。 ただし、静岡県・山梨県の県境が未確定のため、土地登記はしていない。

==== 山頂信仰遺跡 ====
古では山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと考えられてきた<ref name="suisenshogennan">{{PDFlink|[http://www.fujisan-3776.jp/topics/H23.07.27suisenshogennan.pdf 「富士山」推薦書原案]}}、富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議、2011.07.27</ref>。そのため山頂に対して寄進・奉納が繰り返され、その結果現在の山頂信仰遺跡が形成された<ref name="suisenshogennan" />。山頂における最初の宗教的施設は、[[末代上人]]が建立した施設(後の大日堂)が最初とされ<ref name="suisenshogennan" />、経典や仏像などが奉納された。また内院(噴火口)への散銭は、内院に鎮座すると神仏を拝する行為であった<ref name="suisenshogennan" />。

このように奉納などが繰り返され、山頂には信仰遺跡の一部である仏像などが多く存在していた。しかし[[廃仏毀釈]]により多くが撤去され、現在は一部が残るのみである。

* 虎岩
:: 火口に突き出す岩が虎の姿に見えることから、「虎岩」と呼ばれる。傍には「虎岩の碑」があり<ref>[http://www.fuji-hongu.or.jp/sengen/okumiya/#top 富士山頂上浅間大社奥宮(富士山本宮浅間大社公式HP)]</ref>、[[岸岱]]筆の『富士山記』([[都良香]])が刻まれている<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P335</ref>。

==== 奥宮の朱印等 ====
本宮と奥宮では[[朱印 (神社仏閣)|朱印]]も異なる。またその御朱印は特別製で、富士山の溶岩の砂が含まれたものが押される。

高齢者記帳所にある「高齢者登拝者名簿」に記帳(資格は70歳以上)すると記念品が授けられることになっており、この記帳は[[1960年]]から行われている<ref group="注釈">記帳は午前4時頃から午後5時頃。</ref>。奥宮と浅間大社末社の久須志神社で取り扱っており、累計では2010年時点で1243人に上る。<ref>朝日新聞 2010年10月26日付</ref>


== 摂末社 ==
== 摂末社 ==
=== 元宮 ===
{| class="wikitable"
[[File:Yamamiya-sengen-jinja iseki-2.JPG|thumb|200px|right|[[山宮浅間神社]](元宮)]]
|+ 摂末社
* [[山宮浅間神社]]
!画像
** 所在地:静岡県富士宮市山宮字宮内({{ウィキ座標|35|16|16.48|N|138|38|13.40|E|region:JP-22_type:landmark|位置|name=元宮:山宮浅間神社}})
!名称
** 祭神:木花之佐久夜毘売命(浅間大社に同じ)
!社格
** 社格:旧[[村社]]、浅間大社元摂社
!祭神
** 例祭:[[10月19日]]
:: 『富士本宮浅間社記』にある、[[垂仁天皇]]3年に浅間神が最初に祀られた場所とされる。のち[[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])に浅間神は大宮に移ったとされるが、その後も当地は元宮・山宮として浅間大社の祭祀に深く関わってきた。
:: また当社には本殿がなく、富士山の遥拝所として古代祭祀の形をとどめている。

=== 摂社 ===
[[File:Sanno-miya (Sengen-taisha).JPG|thumb|180px|right|三之宮浅間神社]]
[[File:Shichino-miya (Sengen-taisha).JPG|thumb|180px|right|七之宮浅間神社]]
* 三之宮浅間神社
** 祭神:浅間第三御子神
:: 本殿向かって左隣に鎮座する。
* 七之宮浅間神社
** 祭神:浅間第七御子神
:: 本殿向かって右隣に鎮座する。

=== 末社 ===
* 水屋神社
** 祭神:御井神、鳴雷神
** 例祭:[[1月4日]]
:: 湧玉池に面して鎮座する。
* 稲荷神社
** 祭神:[[ウカノミタマ|宇迦之御魂神]]、大宮能売神、[[サルタヒコ|猿田毘古神]]
** 例祭:2月初午
:: 湧玉池そばに鎮座する。
* 厳島神社
** 祭神:[[イチキシマヒメ|市杵嶋姫神]]
** 例祭:[[6月17日]]
:: 湧玉池に浮かぶ島に鎮座する。
* 天神社
** 祭神:[[菅原道真]]
** 例祭:[[4月4日]]
:: 本宮境内後方の神立山への入り口に鎮座する。
* [[久須志神社 (富士山)|久須志神社]]
** 祭神:[[大国主|大名牟遅命]]、[[スクナビコナ|少彦名命]]
:: 富士山頂上付近に鎮座する。江戸時代には薬師堂が建てられており、廃仏毀釈で薬師堂が廃されるにあたってその跡地に祀られた。

<gallery>
File:Mizuya-jinja (Sengen-taisha).JPG|水屋神社
File:Inari-jinja (Sengen-taisha).JPG|稲荷神社
File:Itsukushima-jinja (Sengen-taisha).JPG|厳島神社
File:Fujisan Hongū Sengen Taisha Ten Shrine.jpg|天神社
File:Kusushi-jinja (Sengen-taisha).JPG|[[久須志神社 (富士山)|久須志神社]]
</gallery>

=== 関係社 ===
現在の摂末社は上記の境内社7社であるが、古くは境内・境外に多くの摂末社を抱えていた(詳細は[[#摂末社の変遷|摂末社の変遷]]参照)。特に、[[式内社]]の摂末社として[[富知神社]]と[[倭文神社 (富士宮市)|倭文神社]]がある。

また当社に関係する神として、『駿河国神名帳』には「浅間御子明神」の名で、第一御子明神から第十八御子明神までの記載がある。このうち第三御子神・第七御子神は本宮境内に摂社として祀られている。境外では若之宮浅間神社に第一御子神が、二之宮浅間神社に第二御子神が本宮北方に祀られているほか、[[米之宮浅間神社]]には第八御子神・第十八御子神を祀るという説があり、それぞれ古くは浅間大社の摂社であった。なお、その他の御子神の所在は明らかではない。

<gallery perrow="3"><!--明治時代の摂社を掲載-->
File:Fukuchi-jinja haiden-2.JPG|[[富知神社]]<small>({{ウィキ座標|35|13|52.50|N|138|36|23.68|E|region:JP-22_type:landmark|位置|name=式内社論社、元摂社:富知神社(大宮の地主神を祀る)}})<br/>式内社論社、元摂社。大宮の地主神を祀る。</small>
File:Wakanomiya-sengen-jinja sgaden.JPG|若之宮浅間神社<small>({{ウィキ座標|35|13|46.91|N|138|36|55.99|E|region:JP-22_type:landmark|位置|name=元摂社:若之宮浅間神社(浅間第一御子神を祀る)}})<br/>元摂社。浅間第一御子神を祀る。</small>
File:Ninomiya-sengen-jinja haiden.JPG|二之宮浅間神社<small>({{ウィキ座標|35|13|50.22|N|138|36|36.60|E|region:JP-22_type:landmark|位置|name=元摂社:二之宮浅間神社(浅間第二御子神を祀る)}})<br/>元摂社。浅間第二御子神を祀る。</small>
File:米之宮浅間神社と富士山.jpg|[[米之宮浅間神社]]<small>({{ウィキ座標|35|09|42.09|N|138|39|25.11|E|region:JP-22_type:landmark|位置|name=元摂社:米之宮浅間神社(一説に浅間第八御子神・浅間第十八御子神を祀る)}})<br/>元摂社。一説に浅間第八御子神・浅間第十八御子神を祀るという。</small>
File:Gthumb.svg|[[倭文神社 (富士宮市)|倭文神社]]<small>({{ウィキ座標|35|12|11.63|N|138|36|39.98|E|region:JP-22_type:landmark|位置|name=式内社、元摂社:倭文神社}})<br/>式内社、元摂社。</small>
File:Gthumb.svg|[[村山浅間神社]]<small>({{ウィキ座標|35|15|41.18|N|138|39|58.12|E|region:JP-22_type:landmark|位置|name=元摂社:村山浅間神社}})<br/>元摂社。</small>
</gallery>

=== 摂末社の変遷 ===
江戸時代以降の摂末社の変遷(出典:『浅間神社の歴史』第11章 摂末社節)。
<div class="NavFrame" style="width:100%;">
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">摂末社 変遷</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
表記は[[常用漢字]]で記載。
; 江戸時代
* 摂社:19社(いずれも境外摂社)
:* 若宮八幡宮、金之宮、福石明神社、牛頭天王、山王権現、三社明神、当所大明神、福之宮、貴布祢明神、米之宮浅間神社、若之宮、二之宮、小浅間社、山宮、富知神社、倭文神社、悪王子大明神、悪王子稲荷、琴平・山神・秋葉合祀社

* 末社:15社(いずれも境内末社)
:* 三之宮社、七之宮社、荒神社、水屋明神、水神社、弁天社、牛頭天王社、日之宮社、伊勢社、八幡社、天神社、弁天社、追加明神、見目社、飯酒王子社
:: なお荒神社、水神社、牛頭天王社、日之宮社、伊勢社、八幡社、弁天社、追加明神、見目社、飯酒王子社の10社は、安政大地震で大破して内陣に合祀された。明治以降もその名は見えるが、全て内陣合祀状態での末社である。

; 明治以降
: 明治以降における摂末社の変遷。文献は以下による。
* 明治4年:明治4年(1871年)の『式内浅間神社巨細取調書上帳』
* 明治8年:明治8年(1875年)に静岡県庁提出提出の『国幣中社浅間神社摂末属社表』
* 明治11年:明治11年(1878年)11月訂正の『摂末社取調書』
* 現在:『浅間神社の歴史』(今古書院)
{| class="wikitable" style="background-color:#ffffff;white-space:nowrap;text-align:center"
!社名!!明治4年!!明治8年!!明治11年!!現在
|-
|-
|colspan="7" style="background-color:#C0C0C0;text-align:left"|'''境内社'''
| [[File:Fujisan Hongū Sengen Taisha Sannomiya.jpg|100px]]
| 三之宮浅間神社
| 摂社
| 浅間第三御子神
|-
|-
|奥宮||(大日堂)||属社||style="background-color:#E6E6FA"|摂社||style="background-color:#9370DB"|奥宮
| [[File:Fujisan Hongū Sengen Taisha shitinomiya.jpg|100px]]
| 七之宮浅間神社
| 摂社
| 浅間第七御子神
|-
|-
|三之宮浅間神社||末社||末社||style="background-color:#E6E6FA"|摂社||style="background-color:#E6E6FA"|摂社
| [[File:Mizuya Shrine.jpg|100px]]
| 水屋神社
| 末社
| 御井神<br/>鳴雷神
|-
|-
|七之宮浅間神社||末社||末社||style="background-color:#E6E6FA"|摂社||style="background-color:#E6E6FA"|摂社
|- style="white-space:nowrap"
| [[File:Fujisan Hongū Sengen Taisha inari.JPG|100px]]
| 稲荷神社
| 末社
| [[ウカノミタマ|宇迦之御魂神]]<br/>大宮能売神<br/>[[サルタヒコ|猿田毘古神]]
|-
|-
|水屋神社||末社||末社||末社||末社
| [[File:Itsukushima Shrine.JPG|100px]]
| 厳島神社
| 末社
| [[イチキシマヒメ|市杵嶋姫神]]
|-
|-
|稲荷神社||||末社||末社||末社
| [[File:Fujisan Hongū Sengen Taisha Ten Shrine.jpg|100px]]
| 天神社
| 末社
| [[菅原道真]]
|-
|-
|厳島神社||末社||末社||末社||末社
| [[File:Kusushi-jinja (Mount Fuji) 01.jpg|100px]]
|-
| [[久須志神社 (富士山)|久須志神社]]
|天神社||末社||末社||末社||末社
| 奥宮末社
|-
| [[大国主|大名牟遅命]]<br/>[[スクナビコナ|少彦名命]]
|[[久須志神社]]||(薬師堂)||属社||末社||末社
|-
|その他||末社10社<ref group="注">明治4年の境内末社は、江戸時代の15社に同じ。</ref>||属社1社<br/>末社10社<ref group="注">明治8年の境内末社は、明治4年の末社に稲荷神社を加えた16社。属社は久須志神社、山頂の浅間神社、雲霧神社の3社。</ref>||末社11社<ref group="注">明治11年のその他の境内末社は、明治8年のその他の属社1社・末社10社に同じ。</ref>||なし<br/>(事実上)
|-
|colspan="7" style="background-color:#C0C0C0;text-align:left"|'''境外社'''
|-
|[[富知神社]]||style="background-color:#E6E6FA"|摂社||style="background-color:#E6E6FA"|摂社||style="background-color:#E6E6FA"|摂社||rowspan=8|独立<br/>(事実上)
|-
|[[倭文神社 (富士宮市)|倭文神社]]||style="background-color:#E6E6FA"|摂社||style="background-color:#E6E6FA"|摂社||style="background-color:#E6E6FA"|摂社
|-
|[[山宮浅間神社]]||style="background-color:#E6E6FA"|摂社||style="background-color:#E6E6FA"|摂社||末社
|-
|[[米之宮浅間神社]]||style="background-color:#E6E6FA"|摂社||style="background-color:#E6E6FA"|摂社||style="background-color:#E6E6FA"|摂社
|-
|若之宮浅間神社||末社||末社||style="background-color:#E6E6FA"|摂社
|-
|二之宮浅間神社||末社||末社||style="background-color:#E6E6FA"|摂社
|-
|[[村山浅間神社]]||||||style="background-color:#E6E6FA"|摂社
|-
|その他||末社12社<ref group="注">明治4年の境外末社は、日吉社、福石社、須賀社、柚野社、御園尾社、金之宮社、若宮八幡宮、小浅間社、悪王神社、悪王子稲荷社、若之宮浅間、二之宮浅間、貴船社、琴平・山神・秋葉合祀社の14社。</ref>||末社11社<ref group="注">明治8年の境外末社は、明治4年の末社から柚野社を除いた13社。</ref>||末社11社<ref group="注">明治10年の境外末社は、明治8年の末社に同じ。</ref>
|-
|style="background-color:#C0C0C0"|'''合計'''||style="background-color:#DCDCDC"|摂社4社<br/>末社29社||style="background-color:#DCDCDC"|摂社4社<br/>末社29社<br/>属社3社||style="background-color:#DCDCDC"|摂社9社<br/>末社28社||style="background-color:#DCDCDC"|摂社2社<br/>末社5社
|}
|}
{{reflist|group="注"}}
</div>
</div>


== 祭事 ==
== 祭事 ==
=== 年間祭事 ===
=== 年間祭事 ===
<div class="NavFrame" style="width:100%;">
<div class="NavFrame" style="width:100%;">
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">富士山本宮浅間大社 年間祭事一覧</div>
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">年間祭事一覧</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
; 本宮
; 本宮
* [[1月1日]] 歳旦祭
* [[1月3日]] 元始祭
* [[2月11日]] 紀元祭
* [[3月17日]] 祈年祭
* [[4月29日]] 昭和祭
* [[5月4日]]-[[5月6日|6日]] 流鏑馬祭
* [[7月7日]] 御田植祭
* [[10月17日]] 神嘗奉祝祭
* [[11月3日]] 明治祭
* [[11月3日]]-[[11月5日]] 例祭
* [[11月23日]] 新嘗祭
* [[12月23日]] 天長祭
* 毎月
* 毎月
** 1日 月次祭
** 月次祭 (1日)
** 15日 月例祭
** 月例祭 (15日)
* 1月
** 歳旦祭 ([[1月1日]]) - 中祭<ref>祭事は神社由緒書、公式サイトによる。</ref>
** 御日供始祭 ([[1月2日]])
** 元始祭 ([[1月3日]])
** 末社水屋神社例祭 ([[1月4日]])
* 2月
** 節分祭 ([[2月3日]])
** 紀元祭 ([[2月11日]]) - 中祭
** 末社稲荷神社例祭 (2月初午)
* 3月
** 祈年祭 ([[3月17日]]) - 中祭
* 4月
** 桜花祭 ([[4月1日]])
** 初申祭 (4月初申)
** 末社天神社例祭 ([[4月4日]])
** 昭和祭 ([[4月29日]]) - 中祭
* 5月
** 流鏑馬祭 ([[5月4日]]-[[5月6日|6日]]) - 大祭
* 6月
** 末社厳島神社例祭 ([[6月17日]])
** 夏越大祓式 ([[6月30日]])
* 7月
** 御田植祭 ([[7月7日]]) - 中祭
* 10月
** 神嘗奉祝祭 ([[10月17日]]) - 中祭
** 神宮神嘗祭遥拝式 (10月17日)
* 11月
** 明治祭 ([[11月3日]]) - 中祭
** 例祭 (11月3日-[[11月5日|5日]]) - 大祭
** 新嘗祭 ([[11月23日]]) - 大祭
* 12月
** 煤払式 (12月)
** 天長祭 ([[12月23日]]) - 中祭
** 師走大祓式・除夜祭 ([[12月31日]])


; 奥宮
; 奥宮
* [[7月11日]] 開山祭
* 開山祭 ([[7月11日]]
* [[8月15日]] 例祭
* 例祭 ([[8月15日]]
* 8月下旬 閉山祭
* 閉山祭 (8月下旬)
</div>
</div>
</div>
</div>



=== 山宮御神幸 ===
=== 山宮御神幸 ===
[[ファイル:Hokotateishi.JPG|thumb|200px|right|鉾立石]]
[[ファイル:Hokotateishi.JPG|thumb|180px|right|楼門前の鉾立石]]
山宮浅間神社と浅間大社の間では「山宮御神幸」という行事が行われていた。これは浅間大社と山宮浅間神社間を往復する行事であり、文献上では1577年には既に行われていたことが分かっているが(『冨士大宮御神事帳』)、詳しい開始年などは不明である。[[1874年]]まで継続して行われていた。
山宮浅間神社と浅間大社の間では「山宮御神幸」という行事が行われていた。これは浅間大社と山宮浅間神社間を往復する行事であり、文献上では1577年には既に行われていたことが分かっているが(『冨士大宮御神事帳』)、詳しい開始年などは不明である。[[1874年]]まで継続して行われていた。


この儀式の解釈として、神が4月に旧跡(山宮)に戻るという解釈、または山の神が4月に田の神として里(大宮)へ降りるという解釈がなされている<ref name="suisenshogennan" />。山宮御神幸にて使用された経路を「御神幸道」といい、起点は湧玉池南にある神幸橋である。御神幸道の首標が1984年(昭和59年)に境内の土中から見つかり現在池湖畔に立てられている<ref name="fujisan" />。
この儀式の解釈として、神が4月に旧跡(山宮)に戻るという解釈、または山の神が4月に田の神として里(大宮)へ降りるという解釈がなされている<ref name="suisenshogennan" />。山宮御神幸にて使用された経路を「御神幸道」といい、起点は湧玉池南にある神幸橋である。御神幸道の首標が1984年(昭和59年)に境内の土中から見つかり現在池湖畔に立てられている<ref name="fujisan" />。


== 宝物・文化財 ==
== 文化財 ==
[[ファイル:Wakutamaike.JPG|thumb|200px|right|湧玉池 (特別天然記念物)]]

=== 重要文化財(国指定) ===
=== 重要文化財(国指定) ===
{{underline|建造物}}
* 本殿 (建造物
: 慶長9年。明治40年5月27日指定<ref>指定年月日は[http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/e-bunka/bunkazailiszt.pdf 富士宮市内指定文化財一覧](富士宮市ホームページ)を参考にして記載(2013年7月10日閲覧)。</ref>。
* 本殿 - 慶長9年
* 絹本著色富士曼荼羅図 (絵画)
{{underline|絵画}}
: 室町時代。昭和52年6月11日指定。
* 絹本著色富士曼荼羅図 - 室町時代
* 太刀 銘南无薬師瑠璃光如来 備前国長船住[[景光]] - 室町時代
* 太刀 銘南无薬師瑠璃光如来 備前国長船住[[景光]] (工芸品)
武田信玄奉納と伝わる。『[[集古十種]]』には「駿河国富士浅間社蔵 武田信玄太刀図」とある。
: 室町時代。武田信玄奉納と伝わる。『[[集古十種]]』には「駿河国富士浅間社蔵 武田信玄太刀図」とある。明治45年2月8日指定。
* 脇指 銘奉富士本宮源式部丞信国 一期一腰応永卅二二年二月日<ref group="注釈">「卅<small>二二</small>年」は「34年」の意。刀剣の銘字では「死」と音通する「四」字を避けて「二二」と表記する。</ref>(工芸品)
* 脇指 銘奉富士本宮源式部丞信国 - 応永期
[[信国派]]の刀である。銘の表に「奉 富士本宮 源式部丞信国」とあり、裏の銘から応永の作であることが分かる。古くより当社の宝物であったが乱の際に流出し、後に[[穴山信友]]によって天文16年(1547年)2月2日に奉納された<ref>天文16年2月2日「穴山信友寄進状」(『戦国遺文今川氏編第2巻』821号)</ref>。また奉納に際し漆塗の箱が添えられ、箱の蓋には「奉納冨士大宮浅間大菩薩之社内刀一腰浅間丸」とある<ref>『戦国遺文今川氏編第2巻』【参考15】(P4)</ref>。
: 室町時代。[[信国派]]の刀である。(さしおもて)の銘に「奉 富士本宮 源式部丞信国」とあり、裏の銘から応永34年(1427年)の作であることが分かる。古くより当社の宝物であったが乱の際に流出し、後に[[穴山信友]]によって天文16年(1547年)2月2日に奉納された<ref group="原">天文16年2月2日「穴山信友寄進状」(『戦国遺文今川氏編第2巻』821号)</ref>。また奉納に際し漆塗の箱が添えられ、箱の蓋には「奉納冨士大宮浅間大菩薩之社内刀一腰浅間丸」とある<ref>『戦国遺文今川氏編第2巻』【参考15】(P4)</ref>。明治45年2月8日指定


=== 特別天然記念物(国指定) ===
=== 特別天然記念物(国指定) ===
[[File:Wakutama-ike-1.JPG|thumb|200px|right|[[湧玉池]](特別天然記念物)]]
* [[湧玉池]]
* [[湧玉池]] - 昭和27年3月29日指定


=== その他 ===
=== 静岡県指定文化財 ===
; 有形文化財
{{underline|建造物}}
* 殿・幣殿・透塀 - 慶長9(県指定
* 殿 (建造物) - 昭和291月30日指定
* 楼門 - 慶長19(県指定)
** 拝殿・幣殿・透塀 - 慶長9
** 楼門 - 慶長19年
* 富士浅間曼荼羅図 (絵画) - 昭和56年10月23日指定
* 青磁蓮弁文大壺 (工芸品) - 昭和52年3月18日指定
* 青磁浮牡丹文香炉 (工芸品) - 昭和52年3月18日指定
* 人形手青磁大茶碗〈附 屈輪彫天目台〉 (工芸品) - 昭和52年3月18日指定
* 鉄板札紅糸威五枚胴具足 (工芸品)
: 鉄の板札(いたざね)を紅糸の毛引威とした最上胴(もがみどう)の具足で、前面・背面・両脇(左脇は2枚に分ける)の5枚を蝶番でつなぐ形式から五枚胴という。武田勝頼が奉納したものと伝わる。金具廻はすべて金梨地で塗られ、胸板の八双鋲に花菱紋がみられる<ref>三浦一郎、「浅間大社所蔵の甲冑と刀剣」『武田信玄・勝頼の甲冑と刀剣』、宮帯出版社、2011</ref>。兜の前立は富士山を模したものであり、特徴的な装飾となっている。昭和52年3月18日指定。


; 無形民俗文化財
{{underline|書物}}
* 富士宮囃子 - 平成7年3月20日指定
* 『富士山記』([[三浦明次]]筆)<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P711</ref>


=== 富士宮市指定文化財 ===
{{underline|絵画}}
; 有形文化財
* 富士浅間曼荼羅図(県指定)
* 伝源義助作 大薙刀 (工芸品) - 昭和40年5月10日指定
* 随身像 2体 (彫刻) - 平成5年5月25日指定
* 後陽成天皇宸翰 (書跡・典籍) - 昭和40年5月10日指定


; 無形民俗文化財
{{underline|武具}}
[[File:Fujisanhongū-sengen-taisha baba.JPG|thumb|200px|流鏑馬の行われる桜馬場]]
* 紅糸威最上胴丸(県指定)
* 富士山本宮浅間大社流鏑馬 - 平成18年9月8日指定
紅糸の毛引威により構成された最上胴丸であり、武田勝頼が奉納したものと伝わる。金具廻はすべて金梨地で塗られ、胸板の八双鋲に花菱紋がみられる<ref>三浦一郎、「浅間大社所蔵の甲冑と刀剣」『武田信玄・勝頼の甲冑と刀剣』、宮帯出版社、2011</ref>。兜の前立は富士山を模したものであり、特徴的な装飾となっている。
* 色々威胴丸
社伝によると、武田信玄奉納と伝わる<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P714</ref>。
* 色々威大袖一双
金物に花菱紋が用いられ、色々威胴丸と共通する装飾である。


=== その他の文化財 ===
{{underline|工芸品}}
; 武具
* 青磁蓮弁文大壺(県指定)
* 色々威胴丸 - 社伝によると武田信玄奉納という<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P714</ref>
* 青磁浮牡丹文香炉(県指定)
* 色々威大袖 一双 - 金物に花菱紋が用いられ、色々威胴丸と共通する装飾
* 人形手青磁大茶碗〈附 屈輪彫天目台〉(県指定)
* 琴二張
武田勝頼が遷宮に際して奉納したものである<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P731</ref>。


; 工芸品
{{underline|無形民俗文化財}}
* 琴 2張 - 武田勝頼が遷宮に際して奉納したもの<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P731</ref>
* 富士宮囃子(県指定)


; 書物
== 写真 ==
* 富士山記 - [[三浦明次]]筆<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P711</ref>
<gallery>
画像:Fujisan Hongū Sengen Taisha daitorii.jpg|一の鳥居
画像:富士山本宮浅間大社鳥居.JPG|二の鳥居
画像:Fujisan Hongu Sengen Taisha Torii.jpeg|三の鳥居
画像:SengenTaisha HigasiTorii.JPG|東鳥居
画像:SengenTaisha NishiTorii.JPG|西鳥居
画像:Fujisan Hongū Sengen Taisha Yabusame.jpg|流鏑馬像
画像:Fujisan Hongū Sengen Taisha Volcanic bomb.jpg|火山弾
画像:Fujisan Hongū Sengen Taisha Stone.jpg|南極の石<ref group="注釈">第七次[[南極観測船]]「[[ふじ (砕氷艦)|ふじ]]」の乗り組み員で、地元富士宮市出身の赤池稔によって奉納された[[南極]]の石。歴代の南極観測船「[[宗谷 (船)|宗谷]]」・「ふじ」・「[[しらせ (砕氷艦)|しらせ]]」に神棚が設けられており、浅間大社の参拝・祈祷を受けている</ref>
</gallery>


== 現地情報 ==
== 現地情報 ==
398行目: 588行目:
* 奥宮:静岡県富士宮市粟倉地先 - 富士山山頂。富士宮口からの登山道の終着点に所在
* 奥宮:静岡県富士宮市粟倉地先 - 富士山山頂。富士宮口からの登山道の終着点に所在


; 交通アクセス
; 交通アクセス(本宮まで)
{{underline|本宮まで}}
* 鉄道
* 鉄道
** 最寄駅:[[東海旅客鉄道|JR]][[身延線]] [[富士宮駅]]から、徒歩約10分(800m)
** 最寄駅:[[東海旅客鉄道|JR]][[身延線]] [[富士宮駅]]から、徒歩約10分(800m)
408行目: 597行目:
** 東京駅-富士宮間の高速バスを利用
** 東京駅-富士宮間の高速バスを利用


奥宮までについては[[富士登山]]を参照。
{{underline|奥宮まで}}
{{main|富士登山}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
; 注釈
<div class="references-small">{{Reflist|group=注釈}}</div>
<div class="references-small">{{Reflist|group=注釈}}</div>


=== ===
;
<div class="references-small">{{Reflist|group=原}}</div>

; 出典
<div class="references-small">{{Reflist|2}}</div>
<div class="references-small">{{Reflist|2}}</div>
{{脚注ヘルプ}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
; 原典
*{{Cite book|和書|author=[[宮地直一]]|translator=|editor=|year=1929|chapter=|title=浅間神社の歴史|series=富士の研究|publisher=今古書院|isbn=|ref=宮地(1929)}}
* 『富士本宮浅間社記』 - [[寛政]]年間([[1789年]]-[[1801年]])に第41代富士氏当主・富士(和邇部)民済が記した社伝
*{{Cite book|和書|author=遠藤秀男|translator=|editor=|year=1987|chapter=|title=富士浅間信仰|series=民衆宗教史叢書第16巻|publisher=雄山閣出版|isbn=4639006578|ref=遠藤(1987)}}

; 文献
* {{Cite book|和書|author=[[宮地直一]]、広野三郎|translator=|editor=浅間神社 編|year=1929|chapter=|title=浅間神社の歴史|series=富士の研究|publisher=今古書院|isbn=|ref=宮地(1929)}}
* {{Cite book|和書|author=遠藤秀男|translator=|editor=平野栄次 編|year=1987|chapter=富士山信仰の発生と浅間信仰の成立|title=富士浅間信仰|series=民衆宗教史叢書第16巻|publisher=雄山閣出版|isbn=4639006578|ref=遠藤(1987)}}
* {{Cite book|和書|author=[[野本寛一]]|editor=[[谷川健一]] 編|year=1987|chapter=富士山本宮浅間大社|title=日本の神々 -神社と聖地- 10 東海|publisher=白水社|isbn=4560022208|ref=野本(1987)}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[富士氏]]
* [[富士氏]]
* [[浅間神社]]
* [[浅間神社]]
* [[山宮浅間神社]] - 浅間大神の最初の鎮座地。旧摂社の一社


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Fujisan Hongū Sengen Taisha|富士山本宮浅間大社}}
{{Commonscat|Fujisan Hongū Sengen Taisha|富士山本宮浅間大社}}
* [http://www.fuji-hongu.or.jp/sengen/index.html 富士山本宮浅間大社](公式サイト)
* [http://www.fuji-hongu.or.jp/sengen/index.html 富士山本宮浅間大社](公式サイト)
* [http://www.shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4404170 富士山本宮浅間大社](静岡県神社庁)
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/120101.html 浅間神社](國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)


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[[Category:静岡県の観光地]]
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[[Category:静岡県の歴史]]
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[[Category:駿河国|社1]]


[[fr‎:Fujisan Hongū Sengen-taisha]]
[[fr‎:Fujisan Hongū Sengen-taisha]]

2013年7月31日 (水) 17:26時点における版

富士山本宮浅間大社


本宮(上)と奥宮(下)
所在地 本宮:静岡県富士宮市宮町1-1
奥宮:富士山頂上
位置 本宮
北緯35度13分38.66秒 東経138度36分36.01秒 / 北緯35.2274056度 東経138.6100028度 / 35.2274056; 138.6100028 (富士山本宮浅間大社 本宮)
奥宮
北緯35度21分35.19秒 東経138度43分52.38秒 / 北緯35.3597750度 東経138.7312167度 / 35.3597750; 138.7312167 (富士山本宮浅間大社 奥宮)
主祭神 木花之佐久夜毘売命
(別称:浅間大神)
神体 富士山神体山
社格 式内社名神大
駿河国一宮
官幣大社
別表神社
創建 (伝)第11代垂仁天皇3年
本殿の様式 浅間造
例祭 本宮:11月3日-5日
奥宮:8月15日
主な神事 流鏑馬祭(5月4日-6日
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大鳥居と富士山

富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は、静岡県富士宮市にある神社式内社名神大社)、駿河国一宮旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社社家富士氏

全国に約1,300社ある浅間神社の総本社である。「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている。

概要

富士山神体山として祀る神社であり、境内は以下の2宮からなる[1]

  • 本宮 - 富士山南麓(富士宮市街地)
  • 奥宮 - 富士山頂上

当社は全国の浅間神社の総本社であり、富士信仰の中心地として知られる。境内は広大で、本宮社地で約17,000㎡になるほか、富士山の8合目以上の約385万㎡も社地として所有している[2]。本宮の本殿は徳川家康による造営で、浅間造という独特の神社建築様式であり、国の重要文化財に指定されている。また、本宮境内には富士山の湧水が湧き出す湧玉池があり、国の特別天然記念物に指定されている。

当社は木花之佐久夜毘売命を祭神に祀っており、祭神にまつわるを神木として境内には約500本もの桜樹が奉納されている。また、古来より富士氏大宮司を務め、日本三大宮司の1つに数えられた[注釈 1]。古くより朝廷・武家からの崇敬が深かったほか、社地は大宮・村山口登山道の起点に位置することもあり、古くより登山を行う修験者からの崇敬も受けていた。

社名について

古くは『延喜式神名帳』に「浅間神社」と記載され、明治時代には「富士山本宮浅間神社」が正式名であった。1982年(昭和57年)から現在の正式名「富士山本宮浅間大社」となり、「浅間大社」の略称が多くで用いられている。

「浅間」の語源については諸説あるが、長野県の浅間山のように火山を意味するとされる[3]。「あさま」は古い呼称で、現在の「せんげん」は中世以降から用いられたという[4]。また、「本宮」は静岡浅間神社(新宮)に対する呼称である[5]

そのほか、古来は「富士ノ宮」や「富士本宮」や「富士浅間宮」なども社号として用いられていた[注釈 2]。「ふじの宮」という呼称もあり、『新勅撰和歌集』に収められた北条泰時が当社参拝の折に詠んだ和歌の詞書に記載がある[原 1]。この語は、当社が鎮座する富士宮市の市名の由来となっている。

祭神

主祭神
別称を「浅間大神 (あさまのおおかみ)」とする。
神名は史書によっては「木花咲耶姫命」等とも記されるが、当社では『古事記』に載る表記を正式名に採用している[7]。「木花」は桜のこととされ、同書では美しい女性として表現されるほか、火中出産の説話が記される。
配神
  • 瓊々杵尊 (ににぎのみこと) - 木花之佐久夜毘売命の夫神
  • 大山祇神 (おおやまづみのかみ) - 木花之佐久夜毘売命の父神

祭神について

富士山の山容

その美しい山容から、富士山を女神と見る信仰は古くよりあり、平安時代には都良香の「富士山記」(『本朝文粋』所収)に「浅間大神」として、『竹取物語』には「かぐや姫」の名でその表現がある[8]。しかしながら、これを『古事記』『日本書紀』に見えるコノハナノサクヤヒメに当てるのは近世に入ってからと見られ、それまでは一般に「浅間神」の名で信仰された。

「浅間」の古称「あさま」は、阿蘇山浅間山朝日岳等に見られるように「火山」を表す呼称と見られている[9]。都良香の記述も延暦21年(802年)の噴火を取り上げており、この頃に「浅間神」の呼称が生まれたと考えられている[10]。中世以後の神仏習合時代には「富士大菩薩」「浅間大菩薩」、さらに降ると「富士権現」とも称された[10]

富士山の神霊をコノハナノサクヤヒメに当てる起源は明らかでないが、文献の初見は江戸時代初期の『集雲和尚遺稿』である[11]。「コノハナ(木花)」は桜の古名といわれ、祭神はその美貌の形容に由来するといい[12]、神話にある「コノハナノサクヤヒメの火中での出産」も関係するとされる。また、三島神(三嶋大社)の祭神を大山祇神と見て、富士と三島が父子とする伝説も江戸時代頃から散見されるようになる[11]

江戸時代の屋代弘賢による『古今要覧稿』には「二神を祭る」という表現もあるが、現在は上記のように「浅間大神は木花之佐久夜毘売命の別称」としており、習合した1柱の神格を主祭神としている。また配祀神については、『富士本宮浅間社記』には太元尊神と大山祇神としている。太元尊神は国常立尊とされるが、明治初年以降から現在に至るまでは、太元尊神に代えて瓊々杵尊を配祀神の1柱としている[13]

歴史

創建伝承

山宮浅間神社
当社の元宮。
富知神社
当社遷座以前より祀られていた地主神。

当社の由緒は、寛政年間(1789年-1801年)に大宮司・富士民済により記された社伝『富士本宮浅間社記』に記載されている[14][15][注釈 3]。同記によると、垂仁天皇3年に富士山麓の山足の地にて祀られていたという。そして景行天皇の時代、日本武尊は駿河国で賊徒の計にかかり野火の難に遭った際に浅間大神に祈念して難を逃れたので、賊徒を平定した後に山宮(現 山宮浅間神社)に磐境を設け浅間大神を祀った。のち大同元年(806年)、平城天皇の命により坂上田村麻呂が現在の大宮の地に社殿を造営したと伝える。なお同記によると、元々は大宮の地は「福地神」の社地であったが、山宮より浅間神が移るにあたってこちらも遷座したという(現 富知神社)。

以上の社伝の一方、正史での富士山噴火の初見は『続日本紀天応元年(781年)7月条であり、それ以前は穏やかな山としての表現のみで噴火は起こっていなかったと見られている[16]。「浅間神」の神格も火の神としてのものであり、仁寿3年(853年)の従三位の神階奉授(神名の文献上初見)以降、富士山の噴火と連動して鎮火のための神階昇叙も確認される[9]。これらより、富士山鎮火のため国家として浅間神を祀る必然性があり、実際の創祀は噴火が起こってから遷座するまで、すなわち天応元年(781年)から大同元年(806年)の間と考えられている[9]

また、元々大宮に鎮座したという富知神社は現在本宮境内の北方に鎮座しており、大宮の地主神として古くより浅間大社の祭祀に深く関わっている。「富知」の神名は「富士」の由来と深い関係がうかがわれるほか、湧玉池を祭祀場として、富士山を水神の神格で祀っていたと考えられている[9]。このことから浅間神の遷座は、富士信仰が水の神たる「フクチ・フジ」信仰から火の神たる「アサマ」信仰へ転換したことを表す象徴的な出来事だと解されている[9]

概史

平安時代

六国史においては、仁寿3年(853年)に名神[原 2]・従三位[原 3]に叙せられた。なお、これは「浅間神」の初見でもあるが、初めから従三位という高位を授かるとは考えがたく、神名の成立はさらにさかのぼると考えられている[17]貞観元年(859年)には正三位に叙せられた[原 4]

また、貞観6年(864年)から貞観8年(866年)に多くの被害を出した富士山の貞観大噴火に対して、朝廷では占いにより噴火を当社の祭祀怠慢によるものとした[原 5]。その結果甲斐国でも浅間神を祭祀することとなり[原 6]、結果的に浅間信仰は甲斐側にも広がることとなった。

静岡浅間神社
当社から駿河国府に勧請された「新宮」。

以降朝廷の崇敬を受け、『延喜式神名帳』では「駿河国富士郡 浅間神社 名神大」と記載されて名神大社に列した。また駿河国一宮としても崇敬された。駿河国府の近くには、当社より勧請を受けて浅間神社(現 静岡浅間神社の一社)も創建された。「本宮」の当社に対し、そちらは「新宮」と呼ばれる[5]。なお、甲斐国の浅間神社も同国では唯一の名神大社に列し[注釈 4]、浅間神に対する崇敬の深さがうかがわれる。

鎌倉時代から戦国時代

以降、公家武家からの崇敬を受け、後醍醐天皇の土地の寄進[原 7]のほか、武家からは社領の寄進や修復が重ねて行われた。鎌倉時代には源頼朝の社領の寄進や北条義時の社殿の造営[原 8][原 9]といった当時の実力者からの崇敬を受けた。社伝(『富士本宮浅間社記』)によると、源頼朝が富士の巻狩を行った際、流鏑馬を奉納したことが当社の流鏑馬の起源とされる[18][注釈 5]南北朝時代には足利尊氏[原 10]足利直義[原 11]による社領の寄進、今川範氏[原 12]今川泰範らの土地の安堵や諸役の免除などが行われた。武田信玄は願状を捧げ[原 13]、その後武田勝頼は天正4年から造営を進め天正6年(1578年)に遷宮を行った[19][20]豊臣秀吉も社領寄進の朱印状を発布している[原 14]

江戸時代

江戸時代に入ると、徳川家康は867石の朱印地を安堵したほか、関ヶ原の戦いの戦勝を記念して現在の社殿を造営した。慶長14年(1609年)には、富士山頂における散銭取得の優先権を得た[21]。その後の歴代将軍も祈祷料・修理料の寄進を行っており、4代将軍徳川家綱は金1千両を寄進[22]、5代将軍徳川綱吉は銀50枚・金2千両、後にも金700両を寄進[23][24]、10代将軍徳川家治は銀300枚を寄進した。その後も徳川家の歴代将軍による崇敬が絶たれることは無かった。安永8年(1779年)には三奉行による裁許により富士山の8合目以上が当社へ寄進された(「富士山を巡る争い」を参照)。

『富嶽之記』(1733年)では、当社の様子を「是冨士山根本の浅間也、木花開耶姫を祭る、神主大宮司といふ、社僧二十院あり、境内桜多シ、神の愛木也、社ノ東に垢離場有り」と記している。

明治時代以降

皇族の参拝[25]
年代 内容 注記
1896年(明治29年)3月 大正天皇が参拝
1896年(明治29年)4月 小松宮彰仁親王が参拝
1923年(大正12年)7月 昭和天皇が奥宮を参拝 富士登山の折
1923年(大正12年)8月 秩父宮雍仁親王が奥宮を参拝 富士登山の折

神階

  • 六国史における神階奉授の記録
  • 六国史以後
    • 正一位 (『駿河国神名帳』) - 表記は「浅間大明神」

神職

寛政の社領目録を基とした神職一覧[27]

神職一覧
神職 氏族 内容
大宮司 富士氏 詳細は「富士氏」を参照。
公文 富士氏 同上。
案主 富士氏 同上。
正鎰取 鎖是氏[28] 鎰取は総社家(大宮司・公文・案主以外の社人を指す)中の首位[29]。鎖是氏は道者坊を主とし、「富士参詣道者勧請銭」を所務した[30]。鎖是氏の初見は「武田家朱印状」[原 15][30]
権鎰取 鎖是氏
後権鎰取 鎖是氏
山宮太夫 山田氏 山宮浅間神社関係の祭事等を執行[31]
一宮仕
(一和尚)
宮崎氏[32] 清長坊を抱える[33]。清長の初見は今川義元判物[原 16][30]。伝承では元は井出氏であったといい、井出長閑が富士の巻狩の後定着し、宮崎を名乗ったという。宮仕の宮崎氏は神社からみて西隣に屋敷を有した。戦国期は棟別・諸役免許権(不入権)を保持し[34]、富士氏以外の神職としては大きな権力を保持した。
二宮仕
(二和尚)
須藤氏[35]
三宮仕
(三和尚) 
四宮仕
(四和尚)
宮崎氏 春長坊を抱える[36]。「春長」の初見は今川義元判物[原 17][30]。五穀豊穣を祈る重要神事である風祭神事等を勤めた神職で[37]、現在は富士山頂の山小屋の経営や米之宮浅間神社の神職を勤める[38]。戦国期には勧請権を保持し[34][37]、富士氏以外の神職としては大きな権力を保持した。一和尚とは相補的関係にある[34]。また一和尚と四和尚は、参拝者による社中の参銭を管理する立場にあった[30]。戦乱のさなかで富士大宮司(富士氏)が不在の際も当社を支え、今川氏より賞賛されている[30]
所司太夫 宮崎氏[39]
三之宮禰宜
七之宮禰宜 鈴木氏[40]
福地太夫 山田氏 富知神社の神主。山宮御神幸といった祭事を還幸する役割も担った[41]
大禰宜 射手を務め、また入相及び後夜の鐘を鳴らす役を担った[42]
幸太夫 前島氏 若宮浅間神社の禰宜を兼任[43]
木之行事 前島氏[44]
鈴木氏[45]
甘葛太夫 深沢氏 流鏑馬における神饌等を務めた。富士宮市大鹿窪の福石神社・須賀神社の禰宜を兼任[46]
上野山王禰宜 末社である山王神社(現・日吉神社)の禰宜[47]
行事太夫 太鼓打を勤める[48]
二之酌 中村氏
小見職 小見氏
大工
鍛冶
御子頭
山作 鹿園氏
米之宮禰宜 錦織氏
加島山王禰宜

境内

本宮

社殿

本殿(重要文化財)
徳川家康の造営で浅間造と称される。

社殿は慶長9年(1604年)に徳川家康の造営によるものである。宝永地震宝永4年(1707年))や安政東海地震嘉永7年11月4日(1854年))などで崩壊した建物もあり、現在は本殿・拝殿・楼門が現存している。安政東海地震にあたっては『大地震に而御宮大破損記』が記され、その被害の様子を伝えている[49]。室町時代にも造営が試みられており、富士上方や富士下方の諸役等が造営の費用として賄われるなどしているが[50]、戦乱の世の中で造営は円滑に進むものでは無かったようである[51]。乱などにより度々破損することもあり、例えば河東の乱の際破損した社殿の造営なども行われている[原 18][原 19]。またこのとき、社人の「清長」(一和尚職)「春長」(四和尚職)が造営関係の処務を先導していた[34]

本殿は国の重要文化財であり、桁行5間・梁間4間・寄棟造の社殿の上に三間社流造の社殿が乗り、二重の楼閣造となる珍しい形式である。屋根は檜皮葺であり、この本殿の特徴的な形態は浅間造と称される。各所に葵紋と富士氏の家紋である「棕櫚の紋」が刻まれ、また蟇股には菊花紋葵紋などが附されている[52][53][54]。『富嶽之記』という江戸時代の記録に「彩色彫物等美盡し、菊葵の紋あり」とあり、実際に現在も菊花紋と葵紋が並ぶ装飾が現存している[55]。また富士山を御神体としていることなどから、富士山を装飾したものもある。拝殿は妻入りで正面が入母屋造、背面が切妻造となっており、本殿と同じく檜皮葺である。内外面ともに丹塗となっている。

これらの造営は関ヶ原の戦いの戦勝祈願が成就したことによる家康の意向からなると考えられており、安永8年の史料にもその旨の記載がある[原 20]。またこの造営における正遷宮の儀式は盛大なものであったと伝えられ、社人だけでも182人にも上ったという[56]

また古くは社僧や垢離場などが存在し、神仏習合の形態があった。現在は見られないが「三重塔」といった仏教的建造物も境内に位置しており、寛文10年(1670年)の社殿配置図に見える[注釈 7]

社叢

信玄桜(武田信玄公手植え枝垂桜2世)

社叢は本殿の裏手に広がり、「神立山」と称される。『続後撰和歌集』における隆弁の歌の詞書に「四月廿日あまりの比、駿河の富士の社にこもりて侍りけるに、櫻花のさかりに見えければよみ侍りける」とあり、桜の木が古来より多く立っていた様子がわかる。祭神のコノハナノサクヤヒメの神格から桜との関係は深く、境内には多くの桜の木が植えられている。拝殿の前には武田信玄の手植えと伝わる七本の桜が存在していたという[57]。現在、それらの二代目とされる「信玄桜」が境内に伝わる。

また『富士本宮雑記』には、武田勝頼により社中に多くの木々が植えられたことが記されている[58]。古来は「萬年杉」なるものが存在していたと言われ、『甲陽軍鑑』に見える「卯の年月より駿河の大宮大杉より煙立てて見ゆる」の「大杉」と同一であるとされる[59]。また『駿河国新風土記』にはこの萬年杉が枯死したことが記されている。

その他

楼門前には、東西へ伸びる「桜の馬場」があり、神事流鏑馬式などに用いられる。また眼鏡池とも称される鏡池がある。

東側には湧玉池があり、境内に湧出する富士山からの湧水によってできている。何層にも重なった溶岩の間から湧出しており、特別天然記念物に指定されている。水源の岩上には朱塗りの水屋神社が鎮座している。

近年は発掘調査などが進み、2008年(平成20年)の発掘調査により、社殿配置図(1670年の作成とされる)にある護摩堂の建物跡が、湧玉池北側で確認された。神仏習合の1つの資料となるとされ、位置関係としては富士山の登山者が護摩堂を見降ろせられる位置にあったとの調査結果が出ている[60]。他に青磁碗・白磁壺・青白磁関連のものが出土し、護摩堂跡の道にあたる石畳、中世の集石遺構が確認された[61]

当社は大宮・村山口登山道の起点に位置するため、富士参詣を対象とした道者坊が存在し、当社の社人たちが富士登山の道者に宿舎を提供した。これを「大宮道者坊」という。『大宮道者坊記聞』には「大宮道者坊ノ事、古へ享禄・天文年間ハ、凡三十ヶ余坊有之由伝フ」とあり、室町時代後期に道者坊が30余り存在していたことが知られる[62]

奥宮

奥宮
富士山頂
中央に奥宮(赤い屋根)。左に三島岳、右に剣ヶ峰

富士山頂上奥宮は富士山村山口登山道頂上に鎮座する。元は富士山興法寺を形成する大日堂であったが、神仏分離令により仏像が取り除かれ、跡地は浅間大社奥宮として管理されることとなった[63][64]。大日堂は「表大日」と称され、薬師堂は「裏薬師」と称されるのが慣例であった[65][66][注釈 9]

奥宮境内には「冨士山頂上淺間大社奥宮」と書かれた石碑が建てられており、シンボルとなっている。山頂の薬師堂は山役銭の徴収場の役割を担っていたが、廃仏毀釈により浅間大社の末社となり、久須志神社(東北奥宮)として管理されることとなった[67][68]

浅間大社奥宮の御扉には大きく金色で「國鎭無上嶽」と書かれ、建物内には「高齢者記帳所」が設けられている。7月11日に開山祭を行い、8月末まで神職が常駐して祭事やお守り等の授与を行う。奥宮の例大祭は8月15日に行われる。9月の閉山祭以後は、翌年の開山まで無人となる。

奥宮境内地の経緯

江戸時代には、徳川家康による庇護の下で、本殿等の造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に、浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになっていた[21][原 20]。安永8年(1779年)には幕府による裁許により正式に八合目以上の支配権が認められ[21][原 20]、現在に至る。『駿河国新風土記』(江戸時代の地誌)の「富士山 上」の項には「八合目より上は富士郡にて、大宮浅間大宮司別当の所置する所なり、其詳なることは安永八巳亥年12月5日下さるる所の公裁の文書に見えたり」とある。

この浅間大社に寄進されていた土地は、一時国有化された時期がある。国有財産法における「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」により、全国各地の寺社の土地は無償で国から返還された。富士山を神体山とする浅間大社は、長きに渡りその寄進されていた土地を管理していたため、他の寺社のように同法が適用されるはずであったが、特別な山ということもあり例外として適用されなかった[1]。本来法律通りであれば神社側の土地として処理されるはずであったが、49,952坪のみしか譲渡されなかったのである[1]。それに対し浅間大社側は、訴願を申し立てた[1]

そして江戸幕府が当社に寄進したことを示す古文書といった決定的な証拠により、これらの土地が当社の境内地であることが裁判という形で改めて確認されることとなった。この裁判に基づき、2004年には浅間大社側に土地が返還されることとなった[21][注釈 10]。 ただし、静岡県・山梨県の県境が未確定のため、土地登記はしていない。

山頂信仰遺跡

古では山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと考えられてきた[21]。そのため山頂に対して寄進・奉納が繰り返され、その結果現在の山頂信仰遺跡が形成された[21]。山頂における最初の宗教的施設は、末代上人が建立した施設(後の大日堂)が最初とされ[21]、経典や仏像などが奉納された。また内院(噴火口)への散銭は、内院に鎮座すると神仏を拝する行為であった[21]

このように奉納などが繰り返され、山頂には信仰遺跡の一部である仏像などが多く存在していた。しかし廃仏毀釈により多くが撤去され、現在は一部が残るのみである。

  • 虎岩
火口に突き出す岩が虎の姿に見えることから、「虎岩」と呼ばれる。傍には「虎岩の碑」があり[69]岸岱筆の『富士山記』(都良香)が刻まれている[70]

奥宮の朱印等

本宮と奥宮では朱印も異なる。またその御朱印は特別製で、富士山の溶岩の砂が含まれたものが押される。

高齢者記帳所にある「高齢者登拝者名簿」に記帳(資格は70歳以上)すると記念品が授けられることになっており、この記帳は1960年から行われている[注釈 11]。奥宮と浅間大社末社の久須志神社で取り扱っており、累計では2010年時点で1243人に上る。[71]

摂末社

元宮

山宮浅間神社(元宮)
『富士本宮浅間社記』にある、垂仁天皇3年に浅間神が最初に祀られた場所とされる。のち大同元年(806年)に浅間神は大宮に移ったとされるが、その後も当地は元宮・山宮として浅間大社の祭祀に深く関わってきた。
また当社には本殿がなく、富士山の遥拝所として古代祭祀の形をとどめている。

摂社

三之宮浅間神社
七之宮浅間神社
  • 三之宮浅間神社
    • 祭神:浅間第三御子神
本殿向かって左隣に鎮座する。
  • 七之宮浅間神社
    • 祭神:浅間第七御子神
本殿向かって右隣に鎮座する。

末社

  • 水屋神社
    • 祭神:御井神、鳴雷神
    • 例祭:1月4日
湧玉池に面して鎮座する。
湧玉池そばに鎮座する。
湧玉池に浮かぶ島に鎮座する。
本宮境内後方の神立山への入り口に鎮座する。
富士山頂上付近に鎮座する。江戸時代には薬師堂が建てられており、廃仏毀釈で薬師堂が廃されるにあたってその跡地に祀られた。

関係社

現在の摂末社は上記の境内社7社であるが、古くは境内・境外に多くの摂末社を抱えていた(詳細は摂末社の変遷参照)。特に、式内社の摂末社として富知神社倭文神社がある。

また当社に関係する神として、『駿河国神名帳』には「浅間御子明神」の名で、第一御子明神から第十八御子明神までの記載がある。このうち第三御子神・第七御子神は本宮境内に摂社として祀られている。境外では若之宮浅間神社に第一御子神が、二之宮浅間神社に第二御子神が本宮北方に祀られているほか、米之宮浅間神社には第八御子神・第十八御子神を祀るという説があり、それぞれ古くは浅間大社の摂社であった。なお、その他の御子神の所在は明らかではない。

摂末社の変遷

江戸時代以降の摂末社の変遷(出典:『浅間神社の歴史』第11章 摂末社節)。

祭事

年間祭事


山宮御神幸

楼門前の鉾立石

山宮浅間神社と浅間大社の間では「山宮御神幸」という行事が行われていた。これは浅間大社と山宮浅間神社間を往復する行事であり、文献上では1577年には既に行われていたことが分かっているが(『冨士大宮御神事帳』)、詳しい開始年などは不明である。1874年まで継続して行われていた。

この儀式の解釈として、神が4月に旧跡(山宮)に戻るという解釈、または山の神が4月に田の神として里(大宮)へ降りるという解釈がなされている[21]。山宮御神幸にて使用された経路を「御神幸道」といい、起点は湧玉池南にある神幸橋である。御神幸道の首標が1984年(昭和59年)に境内の土中から見つかり現在池湖畔に立てられている[64]

文化財

重要文化財(国指定)

  • 本殿 (建造物)
慶長9年。明治40年5月27日指定[73]
  • 絹本著色富士曼荼羅図 (絵画)
室町時代。昭和52年6月11日指定。
  • 太刀 銘南无薬師瑠璃光如来 備前国長船住景光 (工芸品)
室町時代。武田信玄奉納と伝わる。『集古十種』には「駿河国富士浅間社蔵 武田信玄太刀図」とある。明治45年2月8日指定。
  • 脇指 銘奉富士本宮源式部丞信国 一期一腰応永卅二二年二月日[注釈 12](工芸品)
室町時代。信国派の作刀である。指表(さしおもて)の銘に「奉 富士本宮 源式部丞信国」とあり、指裏の銘から応永34年(1427年)の作であることが分かる。古くより当社の宝物であったが乱の際に流出し、後に穴山信友によって天文16年(1547年)2月2日に奉納された[原 21]。また奉納に際し漆塗の箱が添えられ、箱の蓋には「奉納冨士大宮浅間大菩薩之社内刀一腰浅間丸」とある[74]。明治45年2月8日指定。

特別天然記念物(国指定)

湧玉池(特別天然記念物)

静岡県指定文化財

有形文化財
  • 社殿 (建造物) - 昭和29年1月30日指定
    • 拝殿・幣殿・透塀 - 慶長9年
    • 楼門 - 慶長19年
  • 富士浅間曼荼羅図 (絵画) - 昭和56年10月23日指定
  • 青磁蓮弁文大壺 (工芸品) - 昭和52年3月18日指定
  • 青磁浮牡丹文香炉 (工芸品) - 昭和52年3月18日指定
  • 人形手青磁大茶碗〈附 屈輪彫天目台〉 (工芸品) - 昭和52年3月18日指定
  • 鉄板札紅糸威五枚胴具足 (工芸品)
鉄の板札(いたざね)を紅糸の毛引威とした最上胴(もがみどう)の具足で、前面・背面・両脇(左脇は2枚に分ける)の5枚を蝶番でつなぐ形式から五枚胴という。武田勝頼が奉納したものと伝わる。金具廻はすべて金梨地で塗られ、胸板の八双鋲に花菱紋がみられる[75]。兜の前立は富士山を模したものであり、特徴的な装飾となっている。昭和52年3月18日指定。
無形民俗文化財
  • 富士宮囃子 - 平成7年3月20日指定

富士宮市指定文化財

有形文化財
  • 伝源義助作 大薙刀 (工芸品) - 昭和40年5月10日指定
  • 随身像 2体 (彫刻) - 平成5年5月25日指定
  • 後陽成天皇宸翰 (書跡・典籍) - 昭和40年5月10日指定
無形民俗文化財
流鏑馬の行われる桜馬場
  • 富士山本宮浅間大社流鏑馬 - 平成18年9月8日指定

その他の文化財

武具
  • 色々威胴丸 - 社伝によると武田信玄奉納という[76]
  • 色々威大袖 一双 - 金物に花菱紋が用いられ、色々威胴丸と共通する装飾
工芸品
  • 琴 2張 - 武田勝頼が遷宮に際して奉納したもの[77]
書物

現地情報

所在地
  • 本宮:静岡県富士宮市宮町1-1
  • 奥宮:静岡県富士宮市粟倉地先 - 富士山山頂。富士宮口からの登山道の終着点に所在
交通アクセス(本宮まで)

奥宮までについては富士登山を参照。

脚注

注釈
  1. ^ 『臥雲日件録』の寛正6年6月18日の条に「日本所謂三大宮司」とあり、他に厳島神主家・熱田大宮司家(千秋氏)が数えられた。
  2. ^ ほか「本宮浅間」「富士本宮」「富士大宮」など。
  3. ^ 富士市立博物館編、『富士山信仰と富士塚』P7に一部掲載。
  4. ^ 論社は浅間神社山梨県笛吹市)、河口浅間神社(山梨県南都留郡富士河口湖町)、一宮浅間神社(山梨県西八代郡市川三郷町)の三社。比定の議論は「浅間神社#甲斐国」参照。
  5. ^ 文書の初見としては天正元年12月17日「武田家朱印状」、(『戦国遺文武田氏編第3巻』2238号文書)。
  6. ^ 日頃から大鳥居の復活を望む強い要望があったことから、場所を富士宮駅前から500mほど西の神田川沿いに移動し高さ16mの大鳥居を再建した。
  7. ^ 富士市立博物館編『富士山信仰と富士塚』P16にカラー版に掲載。
  8. ^ 第七次南極観測船ふじ」の乗り組み員で、地元富士宮市出身の赤池稔によって奉納された南極の石。歴代の南極観測船「宗谷」・「ふじ」・「しらせ」に神棚が設けられており、浅間大社の参拝・祈祷を受けている。
  9. ^ 『富士北口記録』のような甲斐国側の記録にも「表大日・大宮浅間神社奥宮」とある。
  10. ^ 8合目以上は約400万㎡であり、そのうち登山道や旧富士山測候所などを除くことによる。
  11. ^ 記帳は午前4時頃から午後5時頃。
  12. ^ 「卅二二年」は「34年」の意。刀剣の銘字では「死」と音通する「四」字を避けて「二二」と表記する。
原典
  1. ^ 『吾妻鏡』承久元年(1219)3月26日条
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  18. ^ 天文21年1月23日「今川義元判物写」(『戦国遺文今川氏編 第2巻』1066号文書)
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出典
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参考文献

原典
  • 『富士本宮浅間社記』 - 寛政年間(1789年-1801年)に第41代富士氏当主・富士(和邇部)民済が記した社伝
文献
  • 宮地直一、広野三郎 著、浅間神社 編 編『浅間神社の歴史』今古書院〈富士の研究〉、1929年。 
  • 遠藤秀男 著「富士山信仰の発生と浅間信仰の成立」、平野栄次 編 編『富士浅間信仰』雄山閣出版〈民衆宗教史叢書第16巻〉、1987年。ISBN 4639006578 
  • 野本寛一 著「富士山本宮浅間大社」、谷川健一 編 編『日本の神々 -神社と聖地- 10 東海』白水社、1987年。ISBN 4560022208 

関連項目

外部リンク