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: 1937年10月、当時のローマ法王ピオ11世(在位1922-39)は全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけ、「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」といった内容の声明を出した。ピオ11世の声明を受け『東京朝日新聞』1937年10月16日付夕刊にて「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、知己(ちき。事情をよく理解している人)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」と取り上げている。
: 1937年10月、当時のローマ法王ピオ11世(在位1922-39)は全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけ、「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」といった内容の声明を出した。ピオ11世の声明を受け『東京朝日新聞』1937年10月16日付夕刊にて「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、知己(ちき。事情をよく理解している人)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」と取り上げている。
: 日本軍は中国軍の戦意を過小評価し、短期間で戦争が終結すると考えていたが、12月の[[首都]][[南京攻略戦|南京陥落]]後も、国民政府は首都を内陸部の[[重慶市|重慶]]に移して徹底抗戦の構えを見せ、戦争は長期化の兆候を示し始めた。これに対して、不拡大派の[[石原莞爾]]作戦部長は[[ソビエト連邦]]への警戒を第一とし中国での戦争を拡大するべきでないと主張。戦争の早期終結を目指す参謀本部も長期化に反対の姿勢を見せた。駐華ドイツ大使[[トラウトマン工作|トラウトマンによる和平工作]]も模索され、蒋介石も一時講和に前向きな姿勢を見せたものの、南京陥落で強硬姿勢に転じた近衛内閣が和平条件の要求を過重なものにしたため、蒋介石は態度を硬化させることとなった。大本営政府連絡会議の中で、参謀本部は近衛内閣政府の和平交渉打切り案に激しく反対したが、[[米内光政|米内海相]]などからの戦時中に内閣退陣を起すことを避けるべしとの意見に折れた<ref>南京戦史資料集、[[偕行社]]、1989年</ref>。近衛内閣は蒋介石との和平交渉を打ち切り、「'''帝國政府は爾後国民政府を対手とせず'''」との声明を出す一方、蒋介石と対立する[[汪兆銘]]と講和することで問題解決を図ろうとした。その後、戦争終結のため[[援蒋ルート]]の遮断を狙い、[[ヴィシー政権]]のフランスと合意の上、[[フランス領インドシナ]]へと進駐したが、このことが[[東南アジア]]を植民地にしていた[[アメリカ]]や[[イギリス]]、[[オランダ]]などを刺激することとなり、アメリカは[[経済制裁]]を発動した。
: 日本軍は中国軍の戦意を過小評価し、短期間で戦争が終結すると考えていたが、12月の[[首都]][[南京攻略戦|南京陥落]]後も、国民政府は首都を内陸部の[[重慶市|重慶]]に移して徹底抗戦の構えを見せ、戦争は長期化の兆候を示し始めた。これに対して、不拡大派の[[石原莞爾]]作戦部長は[[ソビエト連邦]]への警戒を第一とし中国での戦争を拡大するべきでないと主張。戦争の早期終結を目指す参謀本部も長期化に反対の姿勢を見せた。駐華ドイツ大使[[トラウトマン工作|トラウトマンによる和平工作]]も模索され、蒋介石も一時講和に前向きな姿勢を見せたものの、南京陥落で強硬姿勢に転じた近衛内閣が和平条件の要求を過重なものにしたため、蒋介石は態度を硬化させることとなった。大本営政府連絡会議の中で、参謀本部は近衛内閣政府の和平交渉打切り案に激しく反対したが、[[米内光政|米内海相]]などからの戦時中に内閣退陣を起すことを避けるべしとの意見に折れた<ref>南京戦史資料集、[[偕行社]]、1989年</ref>。近衛内閣は蒋介石との和平交渉を打ち切り、「'''帝國政府は爾後国民政府を対手とせず'''」との声明を出す一方、蒋介石と対立する[[汪兆銘]]と講和することで問題解決を図ろうとした。その後、戦争終結のため[[援蒋ルート]]の遮断を狙い、[[ヴィシー政権]]のフランスと合意の上、[[フランス領インドシナ]]へと進駐したが、このことが[[東南アジア]]を植民地にしていた[[アメリカ]]や[[イギリス]]、[[オランダ]]などを刺激することとなり、アメリカは[[経済制裁]]を発動した。
: 盧溝橋事件より8年間に戦争が勃発し、拡大・継続した最大の要因が日本と言う国家の政策と行動にあったことは間違いない。一部でいわれているように、仮に欧米列強の挑発がこの事態を招いた要因の一つであったとしても、当時の日本が列強の一つとして自他共に認めるほどの有力国であったことを考えれば、挑発によって窮地に陥った日本外交の拙劣さが責められるべきである<ref>[[古川隆久]]・[[鈴木淳 (歴史学者)|鈴木淳]]・[[劉傑]]『[[第百一師団長日誌]]』中央公論新社、2007年、P6</ref>。
: 計画経済体制の導入、日本の対ソ戦能力の低下、中国の共産化のために、近衛文麿が小事件を戦争まで拡大し、長期化させた、と[[中川八洋]]は主張している<ref>中川八洋『大東亜戦争と「開戦責任」 近衛文麿と山本五十六』弓立社 2000年</ref>。
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: 日本への同調と自国存立のための戦争。[[ソビエト連邦]]と対峙する[[関東軍]]の後方支援に終始し、[[中華民国の歴史#南京国民政府期(1928年~1949年)|蒋介石中華民国政府]]とはほとんど交戦しなかった。
: 日本への同調と自国存立のための戦争。[[ソビエト連邦]]と対峙する[[関東軍]]の後方支援に終始し、[[中華民国の歴史#南京国民政府期(1928年~1949年)|蒋介石中華民国政府]]とはほとんど交戦しなかった。

2013年7月13日 (土) 04:31時点における版

日中戦争
Map showing the extent of Japanese control in 1940
戦争日中戦争/支那事変(1941年12月12日より太平洋戦争大東亜戦争)の一部[1]となる)
年月日:1937年7月7日から1945年9月9日
場所中国大陸内蒙古華北華中華南)、ビルマの他、抗日華僑勢力のいるアジア各地
結果:中国の勝利。日本降伏文書に調印、第二次世界大戦終結。 中国大陸の日本軍降伏、日中戦争終結。
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国
満洲国の旗 満洲国(1932-)
蒙古聯合自治政府の旗 蒙古聯合自治政府(1939-)
中華民国の旗 中華民国(1940-)
中華民国の旗 中華民国蒋介石政権
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国(1941-)
イギリスの旗 イギリス帝国(1941-)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦(1945-)
指導者・指揮官
大日本帝国 香月清司(1937-38)
大日本帝国 松井石根(1937-38)
大日本帝国 朝香宮鳩彦王(1937-38)
大日本帝国 西尾寿造(1939-41)
大日本帝国 畑俊六(1941-44)
大日本帝国 岡村寧次(1944-45)
張景恵
デムチュクドンロブ(1939-1945)
中華民国の旗 汪兆銘(1940-1944)
中華民国の旗 陳公博(1944-1945)
中華民国 蒋介石
中華民国 何応欽
中華民国 徐永昌
中華民国陳誠
中華民国 李宗仁
中華民国 閻錫山
毛沢東
朱徳
アメリカ合衆国 ジョセフ・スティルウェル(1941-44)
アメリカ合衆国 クレア・リー・シェンノート(1941-44))
アメリカ合衆国 アルバート・ウェデマイヤー(1944-45)
イギリス ルイス・マウントバッテン(1941-45)
ソビエト連邦の旗 アレクサンドル・ヴァシレフスキー

日中戦争(にっちゅうせんそう、中国語: 中国抗日战争)は、1937年昭和12年、民国紀元26年)から1945年まで、大日本帝国中華民国蒋介石政権)との間で行われた戦争である。呼称については本項では最も通用されている「日中戦争」を用い、その他は呼称項目で後述する。

呼称

日本側呼称として、武力紛争が勃発した当初に第1次近衛内閣閣議決定で定めた公式呼称は支那事変[2]である(事変呼称ニ関スル件 昭和12年9月2日 閣議決定[2])。1941年12月9日に蒋介石重慶政府が日本に宣戦布告したことにより、事変が戦争にエスカレートしたことを受け、東條内閣は10日の閣議で大東亜戦争の一部に含めることを決定した[3]。現在の日本では日中戦争(にっちゅうせんそう)と表記されることが多く、支那事変は限定的な使用にとどまっている。また、日華事変日支事変との表記も見られる。

現在の中華民国中華人民共和国での呼称は中国抗日戦争もしくは八年抗戦である[4]

欧米では英語で、1894年1895年日清戦争を「First Sino-Japanese War(日本語訳:第一次支那日本戦争)」と呼び、1937年~1945年の日中戦争を「Second Sino-Japanese War(日本語訳:第二次支那日本戦争)」と呼ぶ。


また、1941年12月に日本は第二次世界大戦および太平洋戦争(大東亜戦争)に枢軸陣営側として参戦、日中戦争は中国戦線とされた。その他の戦争概念としては、1931年満州事変から1945年ポツダム宣言受諾(日本の降伏)までの日本の戦争を、一連の戦争とみなす十五年戦争という概念もある。

経緯

前史

アヘン戦争から日清戦争まで

19世紀に清との貿易で貿易赤字に苦しんだイギリスは、アヘン輸出によって、貿易黒字に転じた。1839年、アヘン中毒の蔓延に対し、清朝政府はアヘン貿易を取締まる。翌年、これに反発したイギリス政府は清に宣戦布告(アヘン戦争)。近代的軍備を持つ大英帝国軍に対して、清朝の正規軍(八旗兵)は敗北する(なお1841年の三元里事件では、八旗兵ではなく、一万余の民衆が決起し、英軍は全滅した)。 1842年、清朝に勝利したイギリスは中国に賠償金と香港割譲、上海などの開港を要求、翌年の虎門寨追加条約では、治外法権関税自主権の喪失、片務的最恵国待遇の承認などを要求した。この不平等条約に他の列強諸国も便乗する(アメリカ合衆国との望厦条約、フランスとの黄埔条約)。以降、中国では太平天国の乱(1850)などの内乱も起きる一方、1860年代からヨーロッパの技術の取り入れ(洋務運動)が行われ、近代化が図られた。

阿片戦争以来の西欧列強の東アジア地域への進出にともない、日本でも明治維新が起き、近代化がすすめられた。1894年には朝鮮半島を巡り清と日本との間で日清戦争が勃発。近代化に成功していた日本に清は敗退した。(これは洋務運動の限界と失敗を意味した)。康有為らは、日本の明治維新をモデルとして立憲君主制に基づく改革を求める上奏を行い、その後清朝政府は改革を進めようとしたものの、沿岸地域を租借地とされるなどのイギリス・フランスロシアドイツアメリカ合衆国・日本による半植民地化がすすむ。

辛亥革命と革命後の動向

1890年代、多くの知識人が革命によって清朝を打倒し、フランスアメリカのような共和制導入を唱えた。初期の革命運動は海外で展開し、1890年には輔仁文社香港で成立。孫文1894年サンフランシスコで興中会を結成する。1895年10月には孫文は初の武装蜂起である第一次広州起義を起こすが失敗、ロンドンやアメリカ、日本に亡命する。日清戦争以降増加していた日本への留学生は1904年には2万人を越え、当時の留学生(章炳麟鄒容陳天華など)の間では革命思想が浸透した。

1900年義和団の乱を鎮圧するために進駐した8ヶ国連合軍に北京が占領され、翌1901年には北京議定書が締結。保守派も改革の必要性をようやく認識し、1906年欽定憲法大綱を発表。

1904年に日露戦争が勃発。清朝は中立を宣言したが、外国軍隊が自国領土内で戦闘を行う事態に救国の声が高まり、各地で各革命団体が設立された(華興会、光復会、励志学会等)。これらの団体は、清朝打倒と漢族による共和制による政権樹立を共通の目的としていた。

1905年(明治38年)夏、孫文は東京で、興中会、華興会、光復会等の各団体を団結させることに成功、宮崎滔天らの協力を得て中国同盟会を結成し、革命運動を大衆運動へと拡大させた。1907年には黄岡起義、安徽起義、鎮南関起義など、立て続けに武装蜂起が勃発。1911年5月に政府による鉄道国有化政策に四川省などの地方省が反対し、武力衝突に発展。同年10月、武昌で兵士らが蜂起(武昌起義)し、中華民国軍政府鄂軍都督府(中華民国湖北軍政府)成立を宣言、国号を中華民国と改める。清朝は北洋軍を派遣し、武漢三鎮江北漢口及び漢陽を攻撃。革命軍は北洋軍に敗北、11月27日には江南武昌に撤退。その間に中国15省が次々と清朝からの独立を宣言、各地で武装蜂起が拡大する。

1912年1月1日、フランスより帰国した孫文が南京中華民国の樹立を宣言(中華民国北京政府)。

しかし、孫文は革命政府を維持するため、宣統帝(皇帝溥儀)の退位と引き換えに清朝の実力者・袁世凱に総統の座を譲る。 2月12日 愛新覚羅溥儀(宣統帝)が袁世凱により退位させられ、清国は滅亡した。

1912年8月25日 には孫文を代表とする国民党が結成され、翌1913年3月、国会議員選挙において孫文ら国民党が870議席の内401議席を獲得[5]。同党の実質的な指導者である宋教仁を総理とした[6]宣統帝の退位と引き換えに清朝の実力者となった袁世凱はアメリカの政治学者フランク・グッドナウ英語版による強権政治(中央集権的な統治)の意見を取り入れ、自身の権力拡大を計り、同3月に宋教仁を暗殺し、国民党の弾圧をはじめた[7]。これに伴い、同1913年7月、孫文らにより袁世凱打倒の「第二革命」がはじまる[8]

8月5日には中国軍が、支那駐屯軍・川崎大尉を連行する。三日後の8月8日に孫文は、日本に亡命する。8月11日には中国軍が、中支派遣隊・西村少尉を拉致。9月1日には中国北軍と南軍が南京で戦闘中、北軍が、在留日本人3人を殺害、日本人商店から略奪をする。同年10月10日、袁世凱が、大総統に就任する。

1914年に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行した[9]

第一次世界大戦

1914年(大正3年) 7月28日、オーストリア・ハンガリーとセルビアの開戦により、第一次世界大戦が勃発。8月4日 には英国とドイツが開戦し、日本は日英同盟によって参戦する。日英軍は、膠州湾岸・青島のドイツ軍に攻撃開始、 11月には青島ドイツ軍は降伏する。なお袁の中華民国政府は中立を宣言。

翌1915年1月18日、日本はドイツ権益の移譲を含む対華21ヶ条要求を北京政府に要求。袁は諸外国に交渉して不成立を目論むが、 4月26日に日本が対華要求を19ヶ条に修正、さらに5月7日13ヶ条に修正した「最後通告文」を渡し、5月9日袁世凱が最後通告文を承認する。

袁世凱は同年12月12日、共和制を廃止、帝政を復活させ、袁世凱自らが中華帝国大皇帝に即位する[10] (洪憲帝制)。直ちに反袁・反帝政の「第三革命」が展開される。蔡鍔等は護国戦争を起こし、袁の皇帝即位に反対。袁は退位し、1916年6月6日 に病死するが、袁没後、黎元洪が総統に、段祺瑞が総理に就任、国会が回復し、南北連立内閣が組織される。しかし黎と段はドイツに宣戦布告するか否かで対立(府院の争い)。戦線保留派の黎は参戦派の段祺瑞を総理の任から解き、督軍団(zh)の張勲を入れたが、張勲は1917年溥儀の皇帝再即位を要求(張勲復辟)。この後、段が権力奪取に成功し、黎は辞職を要求され、総統の地位は馮国璋が後を襲った。段は「再造共和」と称し、国会を解散、梁啓超等と臨時参議院を組織、新政府を樹立した。以降、中国全土が分裂し軍閥が割拠する時代となる。

1917年3月にはロシア二月革命が起きる。同1917年9月10日 孫文、臨時約法を護る為に、広州で中華民国軍(広東軍政府)樹立を宣言。護法運動を展開する(第三革命とも)。同年12月15日にはロシアとドイツが休戦条約を締結。ドイツのロシア支配が予想される。また中国吉林軍がハルビンへ出動。ロシア革命派を追放。

1918年1月にはドイツと戦闘中の英国が、ロシア極東の軍需品保護のため、日本に出兵要請し、日本戦艦とイギリス巡洋艦が、ウラジオストクへ入港[11]6月29日にはロシアに投降し、ウラジオストク市に移送されていたチェコ軍が蜂起し、同市を制圧する。8月15日 に米軍も、ウラジオストクに上陸。 9月には中国軍も、黒河に派兵を言明する。日米英仏連合軍、シベリア出兵。同年11月にドイツ革命が起こり、ドイツ帝国は崩壊する。これにより第一次世界大戦は終結し、連合国は撤退をはじめる。

第一次世界大戦後の1919年(大正8年)1月のパリ講和会議ヴェルサイユ条約によって、日本は連合国側の一国として、山東省、アメリカ領フィリピンとハワイの間に位置するパラオマーシャル諸島の統治権を得、国際連盟の常任理事国に加盟した。 なお、 3月には中国の間島地方の琿春で、朝鮮人指導者が、日本領事館の国旗を下ろして持ち去るという事件が起きている。

五・四運動の影響

ドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」の五・四運動が盛り上がる。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく[12]陳独秀毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した[13]。旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボルシェビキをモデルとした[14]。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある[15]

日米対立

1920年1月には米軍が撤兵。しかし同年3月に尼港事件が起こり、4月4日から4月6日に日本軍は、ロシア沿海州掃蕩作戦を行い、中国軍には中立を要請する[16]

7月14日 には中国で安直戦争が起きて、段祺瑞の政権は崩壊。10月2日には馬賊団が、琿春の日本領事館を全焼させ、日本人13人を殺害、数人を拉致する。 11月 - 張作霖の使者が、支援を求め、日本訪問。

またシベリア出兵を続ける日本に対してアジア太平洋地域における勢力拡大を目指すアメリカでは、日本に対する脅威論(黄禍論)が起こり、その結果日本からアメリカへの移民が禁止されるなど、日本とアメリカの関係は悪化する。

1921年(大正10年) 7月1日には中国共産党が創立大会を開く。同11月12日から翌1922年(大正11年)2月6日まで ワシントン会議が開催。ワシントン海軍軍縮条約が締結される。アメリカは、日本を5大国の一国に押し上げる原動力の1つとなった日英同盟を妨害すべく、太平洋における領土と権益の相互尊重と、諸島における非軍事基地化を取り決めた「四カ国条約」を提唱、日米英仏間で同条約の締結に成功し、同時に日英同盟は解消された。「山東半島還付条約」、対中国「九カ国条約」なども締結。

1920年代の中国内戦と山東出兵

翌1926年7月9日 -蒋介石、国内の勢力統一、主に軍閥・張作霖の北京政府撲滅を目指し北伐を開始。

南京事件と上海クーデター

1927年(昭和2年)3月24日 -蒋介石の北伐軍が南京に入城、当初は平和裏に入城していたが、まもなく、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊・凌辱などが起きる(南京事件)。アメリカ・イギリス両軍は艦砲射撃を開始、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。日本の陸戦隊も25日朝に上陸した。蒋介石は、29日に上海に来て、暴行兵の処罰、治安確保を声明で発表。しかし、日英米仏伊五カ国は厳罰、謝罪、賠償を共同要求。外交部長・陳友仁は責任の一部が不平等条約の存在にあるとし、紛糾した。4月3日漢口事件が起きる。

列強は、南京事件の背後に共産党とソ連の策動があるとして日英米仏など七カ国外交団が厳重かつ然るべき措置をとることを安国軍総司令部に勧告した。4月6日には張作霖によりソ連大使館を目的とした各国公使館区域の捜索が行われ、ソ連人23人を含む74人が逮捕された。押収された極秘文書の中には、外国の干渉を招くための掠奪・惨殺の実行の指令、短時間に軍隊を派遣できる日本を各国から隔離すること、在留日本人への危害を控えること、排外宣伝は反英運動を建前とすべきであるといったことが記載されていた。

4月9日、ソ連は中国に対し国交断絶を伝えた。4月12日、南京の国民革命軍総指令・蒋介石は、上海に戒厳令を布告し、南京国民政府を組織(上海クーデター)、共産党員および共産主義者とみなされた人々が処刑された。北伐は一時停滞、国民政府は蒋介石の南京国民政府(1927年4月18日)と、これに反対する汪兆銘等の「武漢国民政府」に分裂する。また、英国は、南京事件はコミンテルンの指揮の下に発動されたとして関係先を捜索、5月26日、ソ連と断交した。(アルコス事件

山東出兵と済南事件

蒋介石の北伐軍が山東省に接近するにしたがい、日本は1927年 5月28日、山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、山東省へ陸海軍を派遣することを決定。日本と関東州の大連及び天津から南下した日本軍は治安維持活動を開始(第一次山東出兵)。しかし北伐軍は張作霖に敗北し山東省に入ることなく撤退したため、日本軍もすぐに撤退。これらの出兵は保護を目的としてい、英米も歓迎した。

同年8月19日には、武漢政府が容共政策放棄を声明し、南京国民政府に合流、結果、南京国民政府を主導する蒋介石の権力は強固なものとなった。

9月田中義一首相と蒋介石が会談し北伐・対共産主義戦に対する支援と日本の満州国での権益を認める密約を結ぶ[17]。10月には毛沢東が江西省に革命根拠地を創設。11月には広東省で中国共産党南方局広州委員会が広東にソビエト政権を樹立(広東コミューン)。


翌1928年(昭和3年)3月、形勢を立て直した蒋介石の北伐軍は広州を出発し山東省に接近、4月末に10万人の北伐軍が市内に突入したため、日本軍も4月20日に再び出兵、6千人が山東省に展開した(第二次山東出兵)。

省内で日本軍と北伐軍が対峙し、睨み合いながらも当初は両軍ともに規律が保たれていた。しかし、北伐軍兵士が日本人の家を略奪したため、日本軍と銃撃戦が起こった。さらに蒋介石に「日本軍が中国人を虐殺している」との出自不明の情報が入り、5月3日、激怒した蒋介石が日本人12名を殺害させる済南事件が発生した。

日本軍は5月8日(-5月20日 )から第三次山東出兵を行う。市内に2千人いる日本人保護のために済南城を攻撃、北伐軍は城外へ脱出し北伐を再開した為、5月11日には済南全域を占領した。この事件により日本の世論は憤激、対中感情が悪化した。また同1928年内には、日本守備隊10数名が中国軍によって不法拘留される事件 などが数件起こった(日本兵不法拘留事件)。

北伐完了と南京国民政府

1928年6月4日には、蒋介石に破れ北京から満洲に帰国途中の北方軍閥の張作霖が爆殺される張作霖爆殺事件が発生。6月9日 には国民党軍の北京入城によって北伐完了が宣布、10月8日 には中華民国南京国民政府が樹立。

同年12月29日には張作霖の子の張学良が国民政府に帰順し、南京国民政府によって一応の全国統一をみた。中華民国は東北地方で新たな鉄道開発を行っていたが、日本の満鉄の路線と交差する形で延長されていた。満州善後条約で日本が清朝と結んでいた関東州の権益について、中華民国側と解釈の相違が露呈しはじめる。張学良は、条約にも父張作霖が関東軍と結んだ地域に関する契約にも違反しないと主張し、開発は進められた[18]

またこの頃、ドイツの退役将校マックス・バウアー大佐が蒋介石の軍事顧問となり、軍事顧問団を形成した[19]。これ以降、ドイツの最新兵器が中国にもたらされる(中独合作を参照)。

翌1929年(昭和4年)2月李宗仁の乱が起こる。4月には山東全域から日本軍が撤退した。5月16日 には馮玉祥軍が挙兵を宣言する。7月、ソビエト連邦が満州に侵攻し(中東路事件)、中華民国軍は撃破される(中ソ紛争)。蒋介石は全国に徹底抗戦を通電する。10月にはソ連軍侵攻に合わせて中国共産党が行動開始する。12月22日にハバロフスク議定書が結ばれてソビエト連邦の影響力が強まった。中華民国政府がソビエト連邦と交戦に力を注いでいるうちに中国共産党は中国各地で盛んに活動を行った。中国兵による日本兵射殺事件も発生している。

1930年代の国共内戦と満州事変

蒋介石は意欲的に中国の近代化を推進する改革を行った。他方、ソ連支援の下、毛沢東ら中国共産党は農村を中心として支配領域を広げていき1930年には 中原戦争を経て、1931年11月7日には江西省に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立するまでに勢力を拡大していた。蒋は1930年12月から、共産党に対し5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開、1934年10月には共産党を壊滅寸前の状態にまで追い込んだ。しかし、蒋は毛沢東の長征までは防ぐことが出来ず、その後も国共内戦は継続されていった。

満州事変

同時期、関東軍が 1931年9月18日満州事変を契機として満州掌握を展開、翌1932年1月3日 には中国正規軍が、満洲から一掃され、満洲事変の軍事面は終了した。 1月28日 には第1次上海事変が勃発し、3月1日 には中国軍、上海から撤退する。同日、満州国は建国を宣言(十五年戦争の始まり)。満州事変に対して国際社会はリットン調査団を派遣し、1933年には日本は国際連盟を脱退し(同年ドイツも脱退)、 1934年12月 にはワシントン海軍軍縮条約廃棄を通告する。

満州事変に対する国民政府の対応

南京国民政府でも全国的に抗日世論が高まったが、蒋は日本との国力の差を考慮した上で国内統一による国力増強を最優先目標とし、また反共主義の立場から、抗日政策より中国共産党との戦いの方を優先。そのような中、父である張作霖を関東軍に殺された張学良は、共産党の取締りに対する協力を求めて西安を訪問した蒋を軍隊の動員によって西安に抑留し、国民党と共産党の再合作を要求した(西安事件)。蒋は最終的にこれを受諾し、西安を訪問した共産党代表・周恩来との会談を通じてこれを公式に宣伝した後に共産党軍を「国民党所属第八路軍」として国民政府軍に組み入れた(第二次国共合作)。

日本は満州国の安定を図ることを目的として、北支駐衛権確保のため満洲と中国の国境に軍隊を移駐、1933年5月には日華の間で塘沽停戦協定が結ばれ華北に非武装地帯が設けられた。これにより満州事変は停戦し、中国国民党政府は満州国への通車・通郵手続きを承認し、事実上満州国を黙認した。

華北分離工作

その後、1936年1月から1937年4月に北支処理要綱が作成され華北分離工作が行われた。この工作は国民党政府から主権を切り離し第2の満洲国を作ることを目的としたものではなく[20]、(1)華北に親日満の地帯を作ること(2)華北の物資を確保しソ連侵略の際には日満支が協力して戦うための支援基地とすることを主眼とした政治的工作で、河北省の宋哲元[21]商震万福麟、山東省の韓復榘、山西省の閻錫山などの諸軍閥と関東軍(一部の将校)の間での利害関係の一致で進められた。なお当時関東軍参謀だった瀬島龍三は「満洲建国したことで朝鮮半島が安定したが、満洲国が建国したばかりで不安定だったことから満洲の安定[22]を図るために満洲と中国の国境ラインに軍隊を移駐したところで中国勢力と衝突した」と述べる[23]。1936年8月24日に成都事件が発生すると、日本側は同事件の善後処理交渉の中で、中国側に排日取締の不徹底を反省し国交調整への誠意を披瀝するよう要求し、その具体的方法として、日中防共協定の締結や華北への広範な自治制度設定などを求めた。これに対し中国側は、冀東政権の解消、華北密輸の停止などを討議事項として提示し、交渉は膠着状態となった。10月8日の川越大使と蒋介石との会談でも事態は打開されず、交渉はその後も防共協定締結問題を中心に続けられたが、綏遠事件によって中国側の対日態度が硬化すると、川越大使は交渉継続を断念し、12月3日、張部長との会談で交渉打切りを通告した。1937年林内閣の佐藤尚武外相は、対中優越観念の放棄や前内閣の外交政策再考について言及し、中国側から好感をもって迎えられた。また4月16日に四相(外、蔵、陸、海)によって決定された「対支実行策」では、華北分治や中国内政を乱す政治工作は行わないことを明記するなど対中政策の転換が図られた。しかし、この政策転換には関東軍などの強い反対があり、6月に林内閣が倒れると、後継の近衛文麿内閣においては、川越大使が新政策を否定するような趣旨の発言を行ったとの新聞報道があり、中国側に大きな反響があった。

各省の自治運動

一方、当時の北支は国民政府による搾取や重税から北支の諸軍閥や市民の中で不満が高まる[24]と共に満州の急速な発展を目の当りにし、蒋介石の影響力は後退、1935年6月には白堅武豊台事変を起こし親日満政権を樹立を図ろうとクーデターを起こしたが失敗、10月には国民党の増税に反発し農民が蒋政権・国民党を否認、可憐誅求に反発し[25][26]自治要求を求め香河事件が発生するなど河北省山東省山西省などで民衆の政治・経済的不満が高まり、自治運動が高まってきていた[27][28]。1935年11月、中華民国政府では英国の支援のもと幣制改革が行われ、銀本位制・通貨管理制を導入し現金回収が行われたがこの時、北支将領は現金の南送を拒否するなど中央からの離脱傾向にあった。

冀東防共自治政府と冀察政務委員会

1935年11月25日、殷汝耕冀東防共自治委員会を非武装地帯となっていた地域に組織し中央離脱、自治宣言をした。しかし、蒋介石はこれを認めず、他の北支軍閥が同じように独立を宣言をしないように牽制を加えた上で1935年12月に宋哲元を委員長とする華北・チャハル2省と北平と天津を基盤とした冀察政務委員会の設立を認めた。宋は就任の挨拶で民意尊重日華親善反共姿勢を宣言している。当初、冀東防共自治委員会は冀察政務委員会が同じ性格の自治政権組織と考え、合流を考えたが実際には国民党政府行政院直属機関であることがわかりこれを断念、12月25日に冀東防共自治政府を成立させ自治姿勢を示した。このように華北には日本・国民党政府・諸軍閥の駆け引きにより、反共・親日の冀東防共自治政府政権と反共・親日国民政府直属の冀察政務委員会の2つの異なる自治政権が誕生しやがて両者は対立を深めていく。

全面戦争へ

蒋介石(軍事担当)と汪兆銘(外交担当)率いる国民党の政策は当初、第一に共産党勢力の駆逐、第二に外国勢力との問題解決を方針に一面抵抗・一面交渉のもと行われていたが、汪が1935年11月に狙撃され負傷し、療養のため離脱。1936年12月12日には蒋介石が部下の張学良によって拘束される西安事件が発生するとコミンテルンが仲介となり対共姿勢から対日姿勢への転換と中華民国と紅軍の間で国共合作が結ばれる。1937(昭和12)年7月7日、当時華北に駐屯していた日本軍との間で起きた盧溝橋事件が勃発、現地軍との間で7月11日に停戦協定を結んだが、参謀本部の華北派兵案を閣議で承認のうえ、二個師団を派兵し、近畿以西の全陸軍部隊の除隊延期も決定する。政府はこれを「北支事変」と名付け、重大決意を示す声明を発表した。このような日本の強硬態度は中国側を著しく刺激し、中共は7月15日に国共合作による全面抗戦を呼びかけ、蒋介石も7月19日には国民の奮起を促す声明を出した。その後、三度の日本軍へ攻撃及び、冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が日本人居留民を虐殺するという通州事件が発生。大山大尉事件第二次上海事変などを経て、日中間は全面戦争状態となる。

宣戦布告について

盧溝橋事件後に本格的な戦闘が行われても、1941年12月に太平洋戦争が勃発するまで両国は宣戦布告をおこなわなかった。これは「大日本帝国と中華民国が互いに宣戦布告しておらず公式には戦争状態にない」という状態を、事変の勃発当初から日米戦争の開始までの4年間、双方が望んだからである(宣戦布告をおこなった場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対して軍事的な支援をすることは、中立義務に反する敵対行動となる)。宣戦布告は、これ以上の国際的な孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしには戦闘を継続できない蒋介石側にとっても不利とされた。

登場勢力の立場と目的

大日本帝国の旗 大日本帝国
1937年(昭和12年)7月7日に発生した盧溝橋事件の報を受けた近衛内閣は万一に備え、在地日本人及び現地駐留軍5千6百名を保護・支援するため[29]、11日に関東軍朝鮮軍・内地師団の華北派兵を閣議決定し、事件を北支事変として華北へ出兵(増員)することを発表した。同日現地において停戦協定が締結され、事態収拾に向う動きが見えたことから内地師団の動員は一時見合わせとなったが、国内では事態拡大の体制を進めた。13日に北京市(北京)の大紅門で日本軍トラックが中国兵に爆破され日本兵4人が死亡する大紅門事件が発生。17日には蒋介石が日本の出方次第では徹底抗戦する意志を表明し、19日、現地停戦協定には中国政府の承認が必要として、日中両軍の同時撤退案と外交交渉案を通告すると共に、武力行使の可能性を宣言する。20-21日にかけて近衛内閣及び参謀本部は内地師団の派兵を巡り二転三転するが、対支一撃論を唱える拡大派の軍幹部の主張に加え、関東軍・朝鮮軍の華北到着により緊張の高まった現地での国民革命軍の暴発行為(20日の中国軍による蘆溝橋城発砲事件、25日の郎坊事件、 26日の広安門事件など)によって日本国内の対中世論が硬化し、日本人居留民保護という名目も加わって、27日に内地師団の派兵を決定。28日には日本軍が華北で総攻撃を開始した(29日に発生した通州事件時が反中世論のピーク)。日本政府は当初華北での限定作戦を意図して戦闘の不拡大方針を取るが、8月9日に上海大山中尉殺害事件が発生し、13日には中国軍の攻撃によって第二次上海事変が勃発。戦火は華中にも飛び火することになった。14日には中国軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらに日本の軍艦に対しての爆撃を行い、日本軍は渡洋爆撃を行った。日本政府(近衛内閣)は同日夜から緊急閣議を開き、それまでの不拡大政策を転換し、15日未明に「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した[30]
1937年10月、当時のローマ法王ピオ11世(在位1922-39)は全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけ、「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」といった内容の声明を出した。ピオ11世の声明を受け『東京朝日新聞』1937年10月16日付夕刊にて「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、知己(ちき。事情をよく理解している人)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」と取り上げている。
日本軍は中国軍の戦意を過小評価し、短期間で戦争が終結すると考えていたが、12月の首都南京陥落後も、国民政府は首都を内陸部の重慶に移して徹底抗戦の構えを見せ、戦争は長期化の兆候を示し始めた。これに対して、不拡大派の石原莞爾作戦部長はソビエト連邦への警戒を第一とし中国での戦争を拡大するべきでないと主張。戦争の早期終結を目指す参謀本部も長期化に反対の姿勢を見せた。駐華ドイツ大使トラウトマンによる和平工作も模索され、蒋介石も一時講和に前向きな姿勢を見せたものの、南京陥落で強硬姿勢に転じた近衛内閣が和平条件の要求を過重なものにしたため、蒋介石は態度を硬化させることとなった。大本営政府連絡会議の中で、参謀本部は近衛内閣政府の和平交渉打切り案に激しく反対したが、米内海相などからの戦時中に内閣退陣を起すことを避けるべしとの意見に折れた[31]。近衛内閣は蒋介石との和平交渉を打ち切り、「帝國政府は爾後国民政府を対手とせず」との声明を出す一方、蒋介石と対立する汪兆銘と講和することで問題解決を図ろうとした。その後、戦争終結のため援蒋ルートの遮断を狙い、ヴィシー政権のフランスと合意の上、フランス領インドシナへと進駐したが、このことが東南アジアを植民地にしていたアメリカイギリスオランダなどを刺激することとなり、アメリカは経済制裁を発動した。
満洲国の旗 満洲国
日本への同調と自国存立のための戦争。ソビエト連邦と対峙する関東軍の後方支援に終始し、蒋介石中華民国政府とはほとんど交戦しなかった。
蒙古聯合自治政府の旗 蒙古聯合自治政府
中国からの独立のための戦争、およびソ連陣営である外モンゴルモンゴル人民共和国の影響下から脱するための戦争。盧溝橋事件勃発後、内蒙古へ本格出兵した日本軍に応じる形で1937年に樹立された蒙古連盟・察南・晋北の3自治政府を、1939年に統合して蒙古連合自治政府が樹立された。名目としては汪兆銘中華民国南京国民政府下の自治政府という位置づけだった。
中華民国の旗 中華民国
日本との徹底抗戦を主張する蒋介石に対して、当時の日本の首相近衛文麿は「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」との近衛声明を出し、自ら和平の道を閉ざした。ドイツの仲介で模索されていたトラウトマン工作もここに潰えることになる。その後、日本が中国大陸での和平交渉の道を探る中で、蒋介石に代わる新たな交渉相手として国民党No.2である汪兆銘による中国国民党政権を樹立させた。汪兆銘は蒋介石の督戦隊戦法ゲリラ戦術清野戦術などの中国民衆を巻き込んだ戦法に強い反発と孫文による「日中戦うべからず」の遺訓から「一面抵抗一面交渉」の基本姿勢のもと、反共・和平解決を掲げ、1938年に蒋介石の中華民国政府から離反した。汪兆銘は日本の力を背景として北平中華民国臨時政府南京中華民国維新政府などを集結して、1940年に蒋介石とは別個の国民政府を設立したが、蒋介石の国民政府から汪兆銘に追随するものがいなかった上、華北・華中などの一部の軍閥を除き、中国各地を支配していた多くの諸軍閥に支持されず、国際的な承認も得られなかった[32]。主に共産党軍を相手に戦った。
中華民国の旗 中華民国蒋介石政権
孫文死後、国内は再び分裂状態となり、国民党右派の中心人物である蒋介石率いる国民革命軍と影響力を強める中国国民党などの間で内戦が繰り広げられた。1927年(昭和2年)蒋は北伐で大敗し最大の危機を迎えると恩人である松井石根を通じ時の田中義一首相と会談し、蒙古満洲問題を引き換えに日本から北伐の援助を引き出し、張作霖を満洲に引き上げさせることに成功した。この際、張作霖関東軍に謀殺され、張学良は国民党に合流。1932年(昭和7年)汪兆銘と蒋介石の見方が一致しすると両者は協力して南京で国民政府を組織する。1933年(昭和8年)には日本との間で塘沽停戦協定が締結されると1935年(昭和10年)、広田弘毅外相が議会姿勢演説で「日中双方の不脅威・不侵略」を強調、日本はアジアの諸国と共に東洋平和および、秩序維持の重責を分担すると発言。汪兆銘と蒋の指導する中華民国はこれを受け入れ、反日感情を戒め、日中和平路線が着々と進められたが、中国共産党などは一部はこれを喜ばず、1935年11月、国民党六中全国大会中に汪はカメラマンに扮した中国共産党の刺客から狙撃され負傷、療養のためヨーロッパへ渡航。1936年には日本に強い不信を持っていた張学良西安事件を起こして蒋に対共姿勢から対日姿勢への改心を求め中国国民党中国共産党の間で第二次国共合作が成立した。蒋は当時華北に駐屯していた日本軍との間で起きた盧溝橋事件を発端に「最後の関頭」演説を宣言、中国国内では国民党勢力下の兵士市民が抗日事件を起こし一層日中関係は逼迫した。郎坊事件広安門事件などの紛争をきっかけに戦火は各地に飛び火し、中国全土で国民革命軍の存亡をかけた徹底抗戦(ゲリラ戦)が展開された。装備などの面で劣勢にあった国民革命軍は国民党中央宣伝部国際宣伝処[33]を組織し謀略を駆使して国際世論を味方につけてアメリカ合衆国から支援(援蒋ルート等)を引き出した。1941年(昭和16年)11月、アメリカ合衆国は日本に仏印兵力の現状維持を含む暫定協定を提示する意向であったが、半ば見捨てられる形となった蒋は、英首相ウィンストン・チャーチルのコネクションを通じて抗議した[34]。これが一因となり暫定協定は撤回され、ハル・ノートが通告され、太平洋戦争に至る[35]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
日中戦争開戦当初はアジアで膨張を続ける日本に対する牽制と日中両勢力の疲弊を狙い、援蒋ルートを通じて中華民国に武器をはじめとする軍事物資と人材(訓練教官の派遣など)を提供。日本も石油をアメリカに大きく依存しており日中共に米国に依存しなければ戦争継続は困難であった。その後、仏印進駐を機に対日石油輸出を停止し、ABCD包囲網ハル・ノートが通告を経て真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発すると本格的に日本と戦争関係となる。
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
公式にソ連軍が参戦するのは太平洋戦争末期の1945年8月8日だが、すでに1920年代より中国で共産勢力を拡大するため紅軍ら共産主義勢力にたいして長期間にわたり支援を行い、また国共合作が成立してからは対日戦線を全面的に支援、張鼓峰事件ノモンハン事件では関東軍と交戦している。なお、日本は日ソ中立条約を締結していたソ連を通じ連合国との講和を目指したが、ソ連対日参戦により破綻した。
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
第一次世界大戦の際に日本が東アジア太平洋地域におけるドイツの権益を奪取したという事実とプロイセンドイツ皇帝ヴィルヘルム2世)時代の黄禍論主義思想が対日政策に影響を及ぼしていた。1935年より中華民国に対して在華ドイツ軍事顧問団を派遣し陣地構築の指導、軍事訓練や武器の輸出を行った(中独合作)。一方、1936年には日独防共協定を締結するなど、日本にも接近しつつあった。1937年に勃発した第2次上海事変の際には、ヒトラー承認済のもと[36]蒋介石軍事顧問を務めたファルケンハウゼンが直接作戦指導にあたっている。日中間の和平交渉を仲介(トラウトマン工作)するが、交渉は決裂。軍事顧問団を引き上げることになる。日本は日独関係の悪化を憂慮し、鹵獲したドイツ製の武器を「ソ連製または某国製」と偽って公表した。

参戦勢力の概要

日本軍

軍装・装備
戦法・戦術
参加部隊

中国国民革命軍

軍装・装備
戦法・戦術
蒋介石の中国国民党の軍隊では、赤軍の手法を模倣し、督戦隊制度を導入していた。当時、中国では分裂国家で統一国家ではなく、日本のような教育や軍事教練なども十分に行われなかった中国共産党軍はゲリラ戦による奇襲攻撃を主な戦法とした。また、兵士には戦争目的の認識や士気が低かったことから兵士の戦闘意欲高揚と戦線離脱防止を目的として、トーチカを守備する兵士や民間人(民兵)の足に鎖をつけ、後方から督戦隊を配置して逃亡を防ぎ、最後まで交戦をさせた。この状況は1939年に作成された日本映画『土と兵隊』(田坂具隆監督)にも描写されている。
参加部隊
戦闘序列については以下を参照
国民革命軍戦闘序列 (1937年)
国民革命軍戦闘序列 (1938年)
国民革命軍戦闘序列 (1939年)
国民革命軍戦闘序列 (1944年)

中国共産党軍

軍装・装備
戦法・戦術
参加部隊

中国住民

中国国民軍との関係
日中戦争期間中に国民政府徴発した兵士の総数は約1405万人である。動員を可能にすべく1936年から開始された義務兵役制度は、容易に軌道に乗ることはなく、当初は、名は徴兵であるが、実際は募兵拉致であったとされる。拉致被害者で目立つのは、他地域の住民や旅行中の行商人糧食などの運搬労働者であり、博徒乞食なども含まれていた[37]

年表

北伐後(1928年以後)の中華民国の情勢。藍色の部分は蒋介石率いる南京国民政府の支配が強い領域。ピンクの部分は地方の軍閥の支配域。

※1930年以前の前史については前節参照。

1930年(昭和5年)

1931年(昭和6年)

1932年(昭和7年)

1933年(昭和8年)

1934年(昭和9年)

  • 3月1日 - 溥儀が満洲国皇帝に即位(康徳帝)。
  • 3月 - 西南旅行の途次、南京に立ち寄った松井石根大将蒋介石が対共政策・北伐について会談。
  • 4月28日 - 中国、政府軍が、共産軍から広昌を奪回。
  • 5月16日 - 中国、政府軍が、共産軍から建寧を奪回。
  • 8月31日 - 中国、政府軍が、共産軍から駅前」を奪回。
  • 10月 - 中国、政府軍が、共産軍から石城、興国を奪回。
  • 10月14日 - 中国共産党、長征開始。
  • 12月 - 日本、ワシントン海軍軍縮条約廃棄を通告。

1935年(昭和10年)

1936年(昭和11年)

1937年(昭和12年)

  • 2月2日 - 第二次西安事変
  • 2月2日 - 日本、広田内閣から、林内閣へ。
  • 2月15日 - 中国、三中全会(国民党第五回中央執行委員会第三次全体会議)で、対日戦発動案が提議される。
  • 4月16日 - 日本、第三次北支処理要綱を制定。
  • 4月 - 中国国民政府、税警団を青島方面に派遣。緊張が高まる。
  • 5月 - 汕頭事件
  • 5月 - 蒋介石、ドイツ政府に高射砲、魚雷、機雷の提供を要請。
  • 5月31日 - 日本、林内閣から近衛内閣へ。

1937年(昭和12年)

ファイル:Battleofshanghai-downtown.jpg
中国軍による上海フランス租界避難民への爆撃[39]

1938年(昭和13年)

1939年(昭和14年)

1940年(昭和15年)

1941年(昭和16年)

防空壕に戻ろうとして踏みつけられたり、窒息したりして死亡(1941年6月5日)

1942年(昭和17年)

1943年(昭和18年)

1944年(昭和19年)

1945年(昭和20年)

戦後処理と戦後史

国共内戦の再開

太平洋戦争および日中戦争の終結前後に、蒋介石率いる中国国民革命軍と毛沢東率いる中国共産党軍の間で国共内戦の再開が中国国内で懸念されると同時に1945年9月からは上党戦役など内戦がはじまる。アメリカも中国内戦を阻止するために介入し、重慶会談をはじめ様々な交渉が持たれるが、1946年6月に、蒋介石率いる国民革命軍が全面侵攻命令を発する。 1949年から1950年にかけて、中国共産党軍が国民党軍を破り、蒋介石らは台湾へ逃れ、中華人民共和国が成立する。

残留日本軍および残留日本人

国民党の蒋介石は「徳を以て怨みに報いる」として、終戦直後の日本人居留民らに対して報復的な態度を禁じたうえで送還政策をとった[52]が、中国共産党軍は、シベリア抑留と同様に多くの日本人を強制連行・留用し、特に医療や建設関係に従事した。また1946年2月3日には、 八路軍の圧政に蜂起した日本人が虐殺される通化事件が発生している。

1951年9月8日には日本と連合国とが平和条約を締結する(日本国との平和条約)。翌 1952年4月28日には、日本と中華民国とが平和条約を締結される(日華平和条約)。


1971年10月25日、 国連でアルバニア決議が採択され、中華人民共和国が中国の代表権を得る。

日中戦争の被害

日本軍の犠牲者数

中国勢力の犠牲者数

発表年 死傷人数 調査・出典 補足
1946年 軍人作戰死亡132万8501 中華民國國防部・発表[53] 国民革命軍のみ
1947年 平民死亡439万7504 中華民國行政院賠償委員會[54][55] 國民黨統治區
1947年 軍民死傷1278万4974 中華民國行政院賠償委員會[54][55] 國民黨統治區·軍人死傷365萬0405·平民死傷913萬4569
1985年 軍民死亡2100万 共産党政権発表(抗日勝利40周年)
1995年 軍民死傷約3500万 江沢民発表[56] 江沢民、纪念抗日战争胜利五十周年大会上的讲话

上記の表で中国側の犠牲者が132万とあるが、この数字は中国国民革命軍のみの数であり、必ずしもその人数が正しいとはいえないことに注意が必要。当時の中国大陸では、日本軍南京中華民国政府軍蒋介石国民革命軍共産党軍(現:中国人民解放軍の前身)・その他馬賊抗日武装勢力など複数の勢力が、割拠する地域で、日中戦争中には主に2つの勢力に分かれて戦争を行っていた。また国共内戦は国共合作以降も断続しており、第二次世界大戦後には再開している。中国の民衆は戦争に翻弄され、農業商業工業運輸などの生活基盤を破壊されると共に各勢力の戦闘やゲリラ戦に巻き込まれ命を落としたり、戦闘継続の中で各勢力に食糧徴発されたことや焦土作戦の影響で飢餓に陥る人も大勢いた。また日本人をはじめ在留外国人も戦闘に巻き込まれた。(中国空軍機による上海空爆を参照))。

日本軍による三光政策南京事件などにより、中国の住民に多くの犠牲者が出たという見方が存在する[57]。一方、これらは中国側のプロパガンダであり事実ではないする見方もある[58][59][60][61]

以下、各犠牲者数について注釈する。

  • 終戦時132万人
    • 【国民政府統計】中華民国軍令部統計:中華民国「陸軍」戦争犠牲者131万9958人[55][62]
    • 【国民政府統計】1946年中華民国国防部初歩調査にある(1947年5月中華民国行政院賠償委員会引用),「軍人戦死者数132万8501人」は「中華民国国軍」のみで、民間人または共産党軍隊の死亡者、病死者、徴兵時に失った国軍数等は含まれていない[63]
  • 1948年438万人
    • 【国民政府統計】439万7504人。1947年中華民国行政院賠償委員会の「民間人死亡者数」に関した統計に近い[63]。これは「国民党統治区域」に限っての初歩調査に浮かんだ民間人死亡者数であり、共産党統治区域の一般人死亡者数は含まれていないと思われる[55]
  • 1950年1000万人
    • 【共産党発表】蒋介石が1947年に言った「軍民犠牲者一千万人」が始まりで、概数である[55]
    • 【国民政府統計】1947年5月中華民国行政院賠償委員会によると、軍人死傷者365万0405、一般人死傷者913万4569。ただし共産党軍と共産党根拠地の数字は含まれていないと思われる。
  • 1985年2100万人
    • 【共産党発表】原文は発見されていない。おそらく「全国軍民死亡」者数を指すであろう。軍隊戦死者100万余り、民間人約2000万。詳細は次に述べる。
  • 1995年3500万人
    • 【中華人民共和国国家主席江沢民発言】[64]「犠牲者数」ではなく、「死傷人数」をさす。数字の初めの出所は中国の軍事科学院軍事歴史研究部の研究である。1995年出版の『中国抗日戦争史』の概算統計によると、抗日戦争期間中の中国軍隊死傷者380万人余、中国人民犠牲者2000万人余、中国軍民死傷者総数が3500万人以上に達した[65]。すなわち、3500万人は「国民党軍・共産党軍」、「国民党及び共産党統治区域内の民間人」の死傷者数の合計数であり、また国共内戦による死傷者との区別が厳密に行われているかどうかは不明である[66]

戦後処理

日本と中華人民共和国との国交正常化は、1972年(昭和47年)に周恩来田中角栄の手により実現した。同年9月29日、日本と中華人民共和国とが日中共同声明を発表。中華人民共和国側は共同声明で賠償放棄を宣言、代わりに「隣国として助け合うこと」・「過去の過ちと反省」などの理由から日本は中国の発展のため、政府開発援助(ODA)を実施することを約束し戦後処理が決着した。また日本は日華平和条約の終了を宣言する。

1978年8月12日には、日本と中華人民共和国が日中平和友好条約を締結。日中間の賠償は放棄し、中華人民共和国は日本から経済援助を受ける。日本が1979年から中華人民共和国に対し行ってきたODA総額は、現在までに3兆円を超え[67]、現在も年間10億円の資金が中国に援助されている。

参考文献

書籍

新聞

法令

  • 昭和12年7月11日閣議決定「蘆溝橋事件処理に関する閣議決定」

脚注

  1. ^ 支那事変は閣議決定によってはじめられたものではないため、日本側の実質的な責任者・司令官は不在のまま、事変として軍部・現地軍が対応。1941年に大東亜戦争に組み込まれ一戦線に移行する
  2. ^ a b 事変呼称ニ関スル件”. 内閣官房. 国立国会図書館 (1937年9月2日). 2011年1月22日閲覧。
  3. ^ 今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ”. 内閣官房. 国立国会図書館 (1941年12月12日). 2011年10月15日閲覧。
  4. ^ 中華民国政府は八年抗战・中日戰爭など、中華人民共和国政府は中国人民抗日战争などと表記する。
  5. ^ 天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』<中国の歴史11>(講談社、2004年)58頁
  6. ^ 天児慧同書58頁
  7. ^ 天児慧同書58頁
  8. ^ 天児慧同書58頁
  9. ^ 天児慧同書58頁
  10. ^ 天児慧同書58頁
  11. ^ 1月12日 - 日本戦艦「石見」入港。1月14日イギリス巡洋艦、入港。
  12. ^ 天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』<中国の歴史11>(講談社、2004年)61頁
  13. ^ 天児慧同書63頁
  14. ^ 天児慧同書63頁
  15. ^ 天児慧同書63頁
  16. ^ なお日本軍は1925年に日ソが国交を結ぶまで石油産地の北サハリンを保障占領した。
  17. ^ 蒋介石は上海での記者会見で「われわれは、満州における日本の政治的、経済的な利益を無視し得ない。また、日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。孫先生(孫文)もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、考慮を払うことを保証していた」と語っている。前掲「知性」山浦貫一述『森格』
  18. ^ 臼井勝美 (1995). 張学良の昭和史最後の証言. 臼井勝美. ISBN 978-4041954027 
  19. ^ 阿羅健一『日中戦争はドイツが仕組んだ―上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ』小学館、2008年,28頁
  20. ^ 日本は国民党政権への不信を招かないように蒙古連合自治政府冀東防共自治政府などのように自治政権の成立は支援したが完全な独立は容認せず、あくまで国民党政府政権下の自治政府という位置づけだった。
  21. ^ 宋哲元の計画では北支に親日・反ソの自治政権を打ち立てること、宗主権は国民党政府であることは認めるが外交内政経済などについては高度な自治権を保ちたいと構想していたとされ、日本には蒋政権からの独立を約束し、蒋政権には忠誠を誓い、日本から圧迫を受けていると報告し首鼠両端の行動をとっていた。
  22. ^ 満州に匪賊紅軍(共産党工作員)の侵入を防ぐため
  23. ^ a b 『幾山河 : 瀬島龍三回想録』 産経新聞ニュースサービス、1996年、ISBN 4-594-02041-0 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "A"が異なる内容で複数回定義されています
  24. ^ 『東京朝日新聞』1935年10月27日付朝刊 2面
  25. ^ 『東京朝日新聞』1935年10月24日付夕刊 1面
  26. ^ North-China Daily News, October 23 1935, p.9
  27. ^ 『東京朝日新聞』1935年10月22日付朝刊 2面
  28. ^ North-China Daily News, October 22 1935, p.9
  29. ^ 事変が起きた際、中国軍は盧溝橋に10万の平時兵力を有しており、さらに7月10日の蒋介石の動員令を受けて17日までに北支周辺に計約30個師団の兵力が配備された(『朝日新聞』 1937年7月17日付夕刊 1面)
  30. ^ 『東京朝日新聞』1937年8月15日付朝刊、2面
  31. ^ 南京戦史資料集、偕行社、1989年
  32. ^ 伊香俊哉『満州事変から日中全面戦争へ』吉川弘文館、2007年
  33. ^ 東中野修道「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」2006年
  34. ^ 当時、英国は劣勢にあり、戦局打開のため欧州戦線への米国の介入を強く希望していた
  35. ^ ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』1巻 暁のZ作戦「五部 運命のハルノート 3 アメリカの『暫定協定』」
  36. ^ 「日本との協調関係は維持する。しかし武器などの中国への輸出も偽装できる限り続ける」NHKスペシャル 日中戦争~なぜ戦争は拡大したのか~(2006年8月13日放送より
  37. ^ 笹川裕史「糧食・兵士の戦時徴発と農村の社会変容」石島紀之久保亨『重慶国民政府史の研究』東京大学出版会2004年 413026124X
  38. ^ 中国国民党政府は長城以南に非武装地帯を設定、満州国への通車・通郵手続きを承認し、事実上満州国を黙認した。
  39. ^ Frederic E. Wakeman (September 1996). Policing Shanghai, 1927-1937. University of California Press. p. 280. ISBN 0520207610. http://books.google.com/books?id=vT5GrHv4VcMC&printsec=frontcover&dq=Policing+Shanghai,+1927-1937&hl=en&ei=C8U6TdHYL4SwuAOSn7iSCg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCYQ6AEwAA#v=onepage&q&f=false 2011年1月22日閲覧。 
  40. ^ 昭和12年7月11日閣議決定「蘆溝橋事件処理に関する閣議決定」
  41. ^ 同日、重篤となった田代皖一郎支那駐屯軍司令官に代え、香月清司中将を新司令官に親補。
  42. ^ a b c d e f g 日置英剛編『年表太平洋戦争全史』国書刊行会 (2005)
  43. ^ The New York Times, August 27, 1937。『読売新聞』1937年8月29日付第二夕刊。『読売新聞』1937年8月30日付号外。『東京朝日新聞』1937年8月29日付朝刊。『東京日日新聞』1937年8月29日付号外。『読売新聞』1937年9月14日
  44. ^ 『皇国暦日史談』は「「我が海軍航空部隊は支那事変開始直後の9月22日月明の3時大挙広東を襲い、更に7時、13時半並びに14時の4回に亙り矢継早に空襲を繰り返したが敵空軍は己に全滅し高射砲も大半破壊して防空の役立たず、我が空軍は無人の境を行くが如くリレー式に広東市の西北より東にかけ天河、白雲両飛行場、兵器廠、淨塔水源池、其の他工場地帯、政府軍事各機関、遠東軍管学校、中山大学、中山紀念堂外重要建設物を片つ端から徹底的に爆撃した。此のため広東全市は殆んど猛火の巷と化し猛火盛んに上り大混乱に陥った。革命の震源地、排日の総本家たりし広東も我が正義の前に完膚なきまでに叩きのめされた。」と記している。日置英剛編『年表太平洋戦争全史』国書刊行会 (2005)
  45. ^ The Times9月27日 付記事
  46. ^ 『読売新聞』1937年9月15日。罪状は井戸、茶壷や食糧に毒を混入するように買収されたということや毒を所持していたというものである。その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに公開処刑された。The New York Times, August 30, 1937記事
  47. ^ /~nanking/books_paramount_news.html パラマウント・ニュース映画'入城する日本軍に拍手(1)''同(2)'
  48. ^ 「支那事変写真全集 <中>」、朝日新聞、昭和13年発行
  49. ^ 英国紙THE TIMES(タイムズ), Dec. 24 1937, Nanking's New Rulers/Autonomous Commission Set Up
  50. ^ “ブリタニカ国際年鑑 1938年版(Encyclopaedia Britannica Book of The Year 1938)”
  51. ^ [1]平成14年8月27日判決言渡第1事件・平成9年(ワ)第16684号 損害賠償 請求事件第2事件・平成11年(ワ)第27579号 損害賠償等請求事件
  52. ^ 陳祖恩「上海日本人居留民戦後送還政策の実情」『北東アジア研究』第10号、2006年1月
  53. ^ 中華民國行政院賠償委員會 (1947年5月20日) (中国語), 中華民國行政賠償委員會在第四屆國民參政會第三次大會上的報告 . 前揭1946年中華民國國防部調查
  54. ^ a b 中華民國行政院賠償委員會 (1947年5月20日) (中国語), 中華民國行政賠償委員會在第四屆國民參政會第三次大會上的報告 
  55. ^ a b c d e 孟國祥 (1995年3月). “關於抗日戰爭中我國軍民傷亡數字問題” (中国語). 抗日戰爭研究 (03期). 
  56. ^ 江泽民 (1995年9月3日) (中国語), 江泽民同志在首都各界纪念抗日战争暨世界反法西斯战争胜利五十周年大会上的讲话 
  57. ^ 「世界の歴史」編集委員会編『もういちど読む山川世界史』山川出版社(2009)pp.246-247(事件や政策の呼称は出典に依る)
  58. ^ 教科書問題取材班 (2003年4月9日). “高校教科書検定 倭寇まで「侵略」表記 南京「30万虐殺」なお”. 産経新聞 
  59. ^ 藤岡信勝『教科書採択の真相: かくして歴史は歪められる』 PHP研究所、2005年
  60. ^ 小林よしのり新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論幻冬舎
  61. ^ 黄文雄『反日教育を煽る中国の大罪―日本よ、これだけは中国に謝罪させよ!』 日本文芸社、2004年
  62. ^ 何応欽. 八年抗戦と台湾復帰(台北版)、 pp36-37
  63. ^ a b 行政賠償委員会1947年5月20日第四期国民参政会第三回大会ので報告
  64. ^ 首都各界による抗日戦争記念ならびに世界反ファシスト戦争勝利五十周年大会の江沢民同志によるスピーチ, 1995.9.3
  65. ^ 解放軍軍事科学院軍歴史研究部、中国抗日戦争史・下巻.
  66. ^ 単なる死亡者数は、軍隊戦死者100万余りと一般人2000万人の合計である。統計表にある1985年の2100万はおそらくこれに基づいているであろう。つまり1985年の数字は全国軍民の犠牲者数を指しており、犠牲者数2100万人と死傷者数3500万の間は矛盾がない。
  67. ^ [2] 出典:外務省ホームページ・中国へのODA実績概要

日中戦争を題材とした作品

小説

映画

Category:日中戦争の映画を参照。

舞台

関連項目

歴史
日中関係
映像記録
上海 - 南京 - マギーフィルム - 戦ふ兵隊 - ザ・バトル・オブ・チャイナ - 中国之怒吼

外部リンク

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