「オードリー・ヘプバーン」の版間の差分
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| 芸名 = オードリー・ヘプバーン |
| 芸名 = オードリー・ヘプバーン |
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| ふりがな = Audrey Hepburn |
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| 画像コメント = 映画『[[ |
| 画像コメント = 1987年公開の映画『[[昼下がりの情事]]』の宣材写真 |
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| 本名 = Audrey Kathleen Ruston |
| 本名 = オードリー・キャスリーン・ラストン({{lang-en-short|Audrey Kathleen Ruston}}) |
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| 別名 = エッダ・ファン・ヘームストラ |
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| 民族 = |
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| 生月 = 5 |
| 生月 = 5 |
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| 生日 = 4 |
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| 没年 = 1993 |
| 没年 = 1993 |
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| 没日 = 20 |
| 没日 = 20 |
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| 職業 = 女優 |
| 職業 = 女優 |
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| ジャンル = [[映画]] |
| ジャンル = [[映画]] |
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| 活動時期 = 1948年 - 1989年 |
| 活動時期 = 1948年 - 1989年(女優) |
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| 活動内容 = |
| 活動内容 = |
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| 配偶者 = [[メル・ファーラー]] (1954年 - 1968)<br />アンドレア・ドッティ (1969年 - 1982) |
| 配偶者 = [[メル・ファーラー]] (1954年 - 1968)<br />アンドレア・ドッティ (1969年 - 1982) |
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| 家族 = ショーン・ヘプバーン・ファーラー (1960年生)<br />ルカ・ドッティ (1970年生) |
| 家族 = ショーン・ヘプバーン・ファーラー (1960年生)<br />ルカ・ドッティ (1970年生) |
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| 公式サイト = |
| 公式サイト = {{URL|www.audreyhepburn.com}} |
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| 主な作品 = 『[[ローマの休日]]』<br />『[[ティファニーで朝食を]]』<br />『[[マイ・フェア・レディ_(映画)|マイ・フェア・レディ]]』 |
| 主な作品 = 『[[ローマの休日]]』<br />『[[ティファニーで朝食を]]』<br />『[[マイ・フェア・レディ_(映画)|マイ・フェア・レディ]]』 |
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| アカデミー賞 = '''[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]<br />'''1953年『[[ローマの休日]]』<br /> |
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]<br />'''1953年『[[ローマの休日]]』<br /> |
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| アリエル賞 = |
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| AFI賞 = |
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| 英国アカデミー賞 = [[英国アカデミー賞 主演女優賞|主演女優賞]]<br />1953年『[[ローマの休日]]』<br />1959年『[[尼僧物語]]』<br />1964年『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』 |
| 英国アカデミー賞 = [[英国アカデミー賞 主演女優賞|最優秀主演英国女優賞]]<br />1953年『[[ローマの休日]]』<br />1959年『[[尼僧物語]]』<br />1964年『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』 |
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| エミー賞 = |
| エミー賞 = 情報番組個人業績賞<br /> |
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1993年『 |
1993年『オードリー・ヘプバーンの庭園紀行』 |
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| グラミー賞 = |
| グラミー賞 = 最優秀子供向けスポークン・ワード・アルバム賞<br />1994年『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語』 |
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| ゴールデングローブ賞 = [[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|主演女優賞 (ドラマ部門)]]<br />1953年『[[ローマの休日]]』<br />[[セシル・B・デミル賞]] |
| ゴールデングローブ賞 = [[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|主演女優賞 (ドラマ部門)]]<br />1953年『[[ローマの休日]]』<br />1990年 [[ゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞|セシル・B・デミル賞]] |
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| ゴールデンラズベリー賞 = |
| ゴールデンラズベリー賞 = |
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| ゴヤ賞 = |
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| ジニー賞 = |
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| セザール賞 = |
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| トニー賞 = '''[[トニー賞#最優秀演劇女優賞|最優秀演劇女優賞]]'''<br />1954年『 |
| トニー賞 = '''[[トニー賞#最優秀演劇女優賞|最優秀演劇女優賞]]'''<br />1954年『オンディーヌ』<br />1968年 特別賞 |
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| 日本アカデミー賞 = |
| 日本アカデミー賞 = |
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| フィルムフェア賞 = |
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| 備考 = |
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AFI([[米国映画協会]])の「最も偉大な女優50選」では第3位。 |
AFI([[米国映画協会]])の「最も偉大な女優50選」では第3位。 |
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同協会の2002年選出で「最も愛すべきラブストーリー・映画ベスト100本」にも、第4位『[[ローマの休日]]』、第12位『[[マイ・フェア・レディ]]』、第54位『[[麗しのサブリナ]]』、第57位『[[いつも二人で]]』、第61位『[[ティファニーで朝食を]]』。 |
同協会の2002年選出で「最も愛すべきラブストーリー・映画ベスト100本」にも、第4位『[[ローマの休日]]』、第12位『[[マイ・フェア・レディ_(映画)|マイ・フェア・レディ]]』、第54位『[[麗しのサブリナ]]』、第57位『[[いつも二人で]]』、第61位『[[ティファニーで朝食を]]』。 |
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'''オードリー・ヘプバーン'''({{lang-en-short|'''Audrey Hepburn'''}}、[[1929年]][[5月4日]] - [[1993年]][[1月20日]])は、[[イギリス]]の女優。日本では'''ヘップバーン'''と表記されることも多い<ref>ヘプバーンの表記に関する解説:安藤邦男「[http://www.wa.commufa.jp/~anknak/ronbun08katakana1.htm カタカナ英語と英語教育]」</ref><ref>ヘプバーン明記での刊行物:『アルバムオードリー・ヘプバーン』(ゼンバッハ・K・ユルゲン編、川原亜矢子翻訳、ISBN 4062119145)など。</ref>。ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界の[[アイコン]]として知られる。[[米国映画協会]] (AFI) の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている。 |
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'''オードリー・ヘプバーン'''({{lang-en-short|'''Audrey Hepburn'''}}、[[1929年]][[5月4日]] - [[1993年]][[1月20日]])は、[[イギリス]]の女優。 |
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<!-- 全体のリード文なので、「概要」節などで区切らないでください --> |
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本名は、'''オードリー・キャスリーン・ファン・ヘームストラ・ヘプバーン=ラストン'''('''Audrey Kathleen Van Heemstra Hepburn-Ruston''')。日本においては'''ヘップバーン'''と表記する場合もある<ref>ヘップバーンの表記に関する解説:安藤邦男「[http://www.wa.commufa.jp/~anknak/ronbun08katakana1.htm カタカナ英語と英語教育]」</ref><ref>ヘップバーン明記での刊行物:『アルバムオードリー・ヘップバーン』(ゼンバッハ・K・ユルゲン編、川原亜矢子翻訳、ISBN 4062119145)など。</ref>。各種資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものもある。「エッダ」は、戦時中、[[ドイツ]]占領下にあった[[オランダ]]で、「オードリー」という名がイギリス的であることを心配した母エッラが、自らの名前をもじって(EllaをEddaとした)一時的に変えたものである<ref>[[メル・ファーラー]]との間に生まれた息子ショーン・ヘプバーン・ファーラーの著書 『AUDREY HEPBURN―母、オードリーのこと』(ISBN 4-8124-1668-X)による。</ref>。 |
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ヘプバーンは[[ブリュッセル]]のイクセル ([[:en:Ixelles]]) で生まれ、幼少期を[[ベルギー]]、[[イングランド]]で過ごした。[[オランダ]]にも在住した経験があり、第二次世界大戦中にはナチス・ドイツが占領していた[[オランダ]]の[[アーネム]]に住んでいたこともあった。各種資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中に[[ナチス・ドイツ]]占領下にあった[[オランダ]]で、「オードリー」という名があまりにイギリス風であることを心配した母エッラが、自らの名前をもじって({{lang|nl|Ella}}を{{lang|nl|Edda}}とした)一時的に変えたものである<ref>[[メル・ファーラー]]との間に生まれた息子ショーン・ヘプバーン・ファーラーの著書 『AUDREY HEPBURN―母、オードリーのこと』(ISBN 4-8124-1668-X)による。</ref>。5歳ごろから[[バレエ]]を初め、[[アムステルダム]]ではソニア・ガスケル ([[:en:Sonia Gaskell]]) のもとでバレエを習い、1948年には[[マリー・ランバート]]にバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。 |
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イギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』([[:en:Gigi (1951 play)]]) で主役を演じ、1953年には『[[ローマの休日]]』で[[アカデミー主演女優賞]]を獲得した。その後も『[[麗しのサブリナ]]』(1954年)、『[[尼僧物語]]』(1959年)、『[[ティファニーで朝食を]]』(1961年)、『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』(1963年)、『[[マイ・フェア・レディ_(映画)|マイ・フェア・レディ]]』(1964年)、『[[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]]』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、[[ゴールデングローブ賞]]、[[英国アカデミー賞]]を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品である『オンディーヌ』([[:en:Ondine (play)]]) で[[トニー賞]]を受賞している。さらにヘプバーンは死後に[[グラミー賞]]と[[エミー賞]]も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。 |
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== 生涯 == |
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=== 生い立ち === |
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[[イングランド]]人でイギリスの保険会社に勤める父ジョゼフ・アンソニー・ヘプバーン=ラストンと[[オランダ]]人の母エッラ・ファン・ヘームストラ([[バロネス]]Baronessの[[爵位]]を持ち、男性の[[男爵]]に相当する。)のもとに、[[ベルギー]]の首都[[ブリュッセル]]で生まれる。生後3週間で[[百日咳]]にかかり、発作のために心臓停止状態となるも母親の必死の心臓マッサージにより蘇生する。5歳でイギリス・[[ケント州]]にある寄宿学校に入学。 |
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ヘプバーンの芸能活動は年齢と共に減っていき、後半生のほとんどを[[国際連合児童基金]](ユニセフ)での仕事に捧げた。ヘプバーンがユニセフへの貢献を始めたのは1954年からで、1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりには、[[ユニセフ親善大使]]としての活動に対して[[アメリカ合衆国]]における文民への最高勲章である[[大統領自由勲章]]を授与された。この大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂がんのために63歳で死去した<ref> |
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その頃、両親は離婚し、[[ファシズム]]に共鳴した父親は家族から去った。10歳のときに祖父のいるオランダへ移住し、6年間アーネム・コンセルヴァトリーで[[バレエ]]の特訓を受ける。15歳には有能な[[バレリーナ]]になった。 |
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|title=Audrey Hepburn |
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|year=2007 |
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|page=19 |
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}}</ref> |
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|last=Ferrer |
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|first=Sean |
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|title=Audrey Hepburn, an Elegant Spirit |
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|isbn=978-0-671-02479-6 |
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|page=148 |
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<ref name=barryparis> |
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|last=Paris|first=Barry |
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|title=Audrey Hepburn |
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|year=2001 |
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|isbn=978-0-425-18212-3 |
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}}</ref>。 |
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== 前半生 == |
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ヘプバーンは、1929年5月4日にベルギーの首都ブリュッセルのイクセル ([[:en:Ixelles]]) に生まれ、オードリー・キャスリーン・ラストンと名付けられた<ref name=certificate>(Registered 18 July 1929) [http://www.thatface.org/3473.jpg Audrey Hepburn's birth certificate]</ref>。父親は[[ボヘミア]]のウジツェ出身のジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1889年 - 1980年)である<ref>ヘプバーンの出生証明書には、父ジョゼフはロンドン生まれだと記されている。しかしながらこの記録は1952年になって生母によって「ボヘミアのウジツェ出身」と改められた。ウジツェは現在ではチェコに属している[http://www.pitt.edu/~votruba/qsonhist/celebrities/hepburnaudrey.html]。</ref>。ジョゼフの母親はオーストリア系のアンナ・ジュリアナ・フランジスカ・カロリーナ・ラストンで<ref>母アンナは[[スロヴァキア]]出身だった。 [http://www.pitt.edu/~votruba/qsonhist/celebrities/hepburnaudrey.html</ref>、父親はイギリス、オーストリア系のヴィクター・ジョン・ジョージ・ラストンだった<ref name="Walker, page 6">Walker, page 6</ref>。ジョゼフはヘプバーンの母エッラと再婚する以前に、[[東インド会社]]で知り合った女性コーネリア・ビショップと結婚していたことがある<ref name=Enchantment> |
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[[第二次世界大戦]]中はオランダで、密かに[[ドイツ]]のオランダ占領に対する抵抗運動の資金集めのために踊るなど、反ドイツの[[レジスタンス運動]]に従事していた。オードリーの叔父と母親の従兄弟はドイツに対する抵抗者だったため、オードリーの目の前で銃殺された。彼女の異父兄弟もドイツの[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]に入れられた。オードリーは[[栄養失調]]のため急性[[貧血]]症で浮腫み、[[呼吸困難]]、[[水腫]]に罹り、黄疸が出る程の重体となりアムステルダムの病院に入院する。入院しても満足な治療を施せない物資不足の中、母親が必死で手に入れた[[ペニシリン]]で九死に一生を得る。 |
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{{cite book |
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|last=Spoto |
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|first=Donald |
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|title=Enchantment: The Life of Audrey Hepburn |
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|date=19 November 2006 |
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|publisher=Harmony |
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|location=New York |
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|isbn=0-307-23758-3 |
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|chapter=1929–1939 |
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}}</ref>。後にジョゼフはラストンという姓を、より「貴族的な」二重姓であるヘプバーン=ラストンへと改名した。ジョゼフは自身のことを、スコットランド王妃[[メアリ]]の三番目の夫である第4代ボスウェル伯ジェームズ・ヘプバーンの末裔であると信じ込んでいたことによるが<ref name=Enchantment/>、ジョゼフがジェームズ・ヘプバーンの血をひいていたという事実はない<ref name="Walker, page 6"/>。 |
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ヘプバーンの母エッラ・ファン・ヘームストラ(1900年 - 1984年)は[[フリース人]]の血を引く、[[バロネス]]の称号を持つオランダ貴族だった。エッラの父親は男爵アールノート・ファン・ヘームストラ ([[:en:Aarnoud van Heemstra]]) で、1910年から1920年にかけて[[アーネム]]市長を、1921年から1928年にかけて[[スリナム]]総督を務めた政治家である。エッラの母親のエルブリフ・ヘンリエッテもオランダ貴族の出身だった。エッラは19歳のときに、ナイト爵位を持つヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クオールズ・ファン・ユフォルトと結婚したが、1925年に離婚している。エッラとヘンドリクの間には、アールノート・ロベルト・アレクサンデル・クオールズ・ファン・ユフォルト(1920年 - 1979年)と、イアン・エドハル・ブルーセ・クオールズ・ファン・ユフォルト(1924年 - 2010年)の二人の男子が生まれている<ref name=Enchantment/><ref> |
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16歳の時、[[オランダ]]の病院で[[ボランティア]]の看護婦をしていたが、[[マーケット・ガーデン作戦]]で大激戦地となった[[アーネム]]の病院で、一人の[[イギリス陸軍]]兵を介護する(20年後彼は[[映画監督]]になって彼女の作品を演出することになる―『[[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]]』の[[テレンス・ヤング]]である)。また、戦争中、食料がないときは[[チューリップ]]の球根を食べ、飢えをしのいだという。なお、「マーケット・ガーデン作戦」を描いた[[1977年]]公開の映画『[[遠すぎた橋]]』において、ケイト・テル・ホルスト夫人役(アーネム郊外の自宅をイギリス軍負傷兵のため提供する)をオファーされたが、拒否している。 |
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{{cite web |
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|url=http://announcements.thetimes.co.uk/obituaries/timesonline-uk/obituary-preview.aspx?n=ian-van-ufford-quarles&pid=143195604&referrer=2282 |
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|title=Ian van Ufford Quarles Obituary |
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|publisher=''The Times'' |
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|accessdate=29–31 May 2010 |
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}}</ref>。 |
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ジョゼフとエッダは、1926年9月にジャカルタで結婚式を挙げた。その後二人はベルギーのイクセルへ戻り、1929年にヘプバーンが生まれた。さらに一家は1932年1月にリンケビーク ([[:en:Linkebeek]]) へと移住している<ref> |
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[[アンネ・フランク]]と同い年で、戦後、オードリーはアンネの事を知りひどく心を痛めたという。後年、映画『[[アンネの日記]]』のアンネ役のオファーもあったのだが、辛い過去を思い出すのを恐れて断った事もある。[[ロンドン]]でバレエを習う等、[[ヨーロッパ]]を中心とする各国で生活した経験を持つ。そのためか[[英語]]、[[フランス語]]、[[オランダ語]]、[[スペイン語]]、[[イタリア語]]が抜群に堪能であった。 |
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{{cite web |
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|author=vrijdag 6 mei 2011, 07u26 |
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|url=http://www.brusselnieuws.be/cultuur/de-vijf-hoeken-van-de-wereld-amerika-elsene |
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|title=De vijf hoeken van de wereld: Amerika in Elsene |
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|publisher=brusselnieuws.be |
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|accessdate=14 March 2012 |
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}}</ref>。ヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じてイギリスの市民権も持っていた<ref name=certificate/>。母の実家がオランダだったことと、父親の仕事がイギリスの会社と関係が深かったこともあって<ref>ジョゼフが勤めていた会社ははっきりとしていない。オランダの紳士録には「投資顧問」として記録されている。Walker (page 8).</ref>、一家はこの三カ国を頻繁に行き来していた。このような生い立ちもあって、ヘプバーンは英語、オランダ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を身につけるようになった。 |
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=== 幼少時代と第二次世界大戦期の少女時代 === |
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===「ジジ」「ローマの休日」への抜擢=== |
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ヘプバーンの両親は1930年代に[[イギリスファシスト連合]]に参加し<ref>Charlotte Mosley, editor. (2007). "The Mitfords: Letters Between Six Sisters". London: ''Fourth Estate''. pg 63, 65.</ref>、とくに父ジョゼフは[[ナチズム]]の信奉者となっていった<ref name="CBSsundaymorning"> |
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[[File:Audrey Hepburn screentest in Roman Holiday trailer.jpg|thumb|upright|<small>[[ローマの休日]]スクリーンテストでのヘプバーン。映画のプロモーショントレイラーでも使用された</small>]] |
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{{cite news |
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第二次世界大戦終結後、オードリー母娘はスーツケーツ1個とわずかな全財産でロンドンに移り住み、母のエッラは様々な職に就いて生活を支え、オードリー自身も[[タレント・エージェント|エージェント]]の持ち込む映画や[[テレビ]]、舞台の端役をこなし家族を支えていたが、『[[ラベンダー・ヒル・モブ]]』へ出演した際、主演俳優の[[アレック・ギネス]]に注目され、[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]製作のスペクタクル大作『[[クォ・ヴァディス (映画)|クォ・ヴァディス]]』の主演女優を探していた[[マービン・ルロイ]]監督へ主演候補として推薦されたが、結局は[[デボラ・カー]]が主演女優となった。 |
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|first=Martha |
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|last=Tichner |
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|title=Audrey Hepburn |
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|publisher=CBS Sunday Morning |
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|date=26 November 2006 |
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}}</ref>。また、ジョゼフは子供たちの子守と性的関係を持っており、エッラがこのことを知ると、ジョゼフは家庭を捨てて出て行った<ref>Walker, page 14</ref>。その後1960年代になってから、ヘプバーンは[[赤十字社]]の活動を通じて父ジョゼフと[[ダブリン]]で再会している。ジョゼフはヘプバーンに対して肉親の情を既に失っていたが、ヘプバーンはジョゼフが死去するまで連絡を保ち、経済的な援助を続けた<ref>Klein, Edward. (5 March 1989). [http://web.archive.org/web/20080308082422/http://audreyhepburnlibrary.com/80s/images/parade5-5-89pg2.jpg "You Can't Love Without the Fear of Losing"]. ''[[:en:Parade (magazine)|Parade]]''.</ref>。 |
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ジョゼフが家庭を捨てた後、1935年にエッラは子供たちと故郷のアーネムへと戻った。このときエッラの最初の夫ヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クオールズ・ファン・ユフォルトとの間の息子たちは、父親と共に[[デン・ハーグ]]に住んでいた。1937年にエッラと幼いヘプバーンはイギリスの[[ケント (イングランド)|ケント]]へと移住した。ヘプバーンはエラム ([[:en:Elham]]) という村の小さな私立女学校に入学し、14人の少女たちのまとめ役となった |
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ハリウッド大作への主演は逃すも『[[初恋 (1952年の映画)|初恋]]』で、主役の妹でバレリーナの役柄を演じている。『モンテカルロへ行こう』の撮影のために訪れた[[コート・ダジュール|リヴィエラ]]([[フランス]])において、同地に滞在していた女流作家の[[シドニー=ガブリエル・コレット]]に見出され、彼女の[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]上演舞台作品である『ジジ(原題''[[:en:Gigi (1951 play)|Gigi]]'')』の主役・ジジ役に大抜擢。ジジ役を探していたコレットが、オードリーを初めて見た際に、「私のジジを見つけたわ!」と言った有名なエピソードがある。<ref>バリー・パリス著 『オードリー・ヘップバーン物語〈上〉』(ISBN 4-08-760390-3)による。</ref>しかし、それまでの舞台で踊った事はあっても、あまり演技経験がないオードリーは、コレットからのブロードウェイでの主演舞台への出演オファーに後込みする。そんなオードリーにコレットは「踊り子は忍耐強いから大丈夫、あなたならできる」と彼女を説得し、イギリスの無名女優をブロードウェイ上演舞台の主役に起用しようとする事への不安を抱くアメリカの興行主をも説得する。 |
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<ref> |
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{{cite web |
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|url=http://www.elham.co.uk/Famous_People.htm |
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|title=Famous and Notable People 'In and Around' the Elham Valley |
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|publisher=www.elham.co.uk |
|||
|accessdate=4 September 2009 |
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}}</ref> |
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<ref>Walker, pp. 17–19</ref>。[[第二次世界大戦]]が勃発する直前の1939年に、母エッラは再度アーネムへの帰郷を決めた。オランダは[[第一次世界大戦]]では中立国であり、再び起ころうとしていた世界大戦でも中立を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである。1939年から1945年にわたってヘプバーンはアーネム音楽院に通い、通常の学科に加えてウィニャ・マローヴァのもとでバレエを学んだ。1940年にドイツが[[オランダにおける戦い (1940年)|オランダに侵攻]]し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーという「イギリス風の響きを持つ」名前は危険だとして、ヘプバーンはエッダ・ファン・ヘームストラという偽名を名乗るようになった。1942年に、母エッラの姉ミーシェと結婚していた貴族の伯父オットー・ファン・リンブルク=シュティルムが、反ドイツの[[レジスタンス運動]]に関係したとして処刑された。また、ヘプバーンの異父兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監されており、もう一人の異父兄アールノートも弟イアンと同様に強制労働収容所に送られるところだったが、捕まる前に身を隠している<ref> |
|||
{{cite news |
|||
|title=Audrey Hepburn: an iconic problem |
|||
|url=http://www.guardian.co.uk/film/2011/jan/20/audrey-hepburn-breakfast-at-tiffanys |
|||
|first=Alex |
|||
|last=Cox |
|||
|date=20 January 2011 |
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|work=The Guardian |
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|location=UK |
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}}</ref>。オットーが処刑された後に、エッラ、ヘプバーン母娘と夫を亡くしたミーシェは、ヘプバーンの祖父アールノート・ファン・ヘームストラとともに、[[ヘルダーラント州|ヘルダーラント]]のヴェルプ ([[:en:Velp, Gelderland]]) 近郊へと身を寄せた。大戦中にヘプバーンは栄養失調に苦しみ、重度の[[貧血]]と呼吸器障害、[[浮腫]]に悩まされた<ref>Garner, Lesley. [http://www.ahepburn.com/article6.html Lesley Garner meets the legendary actress as she prepares for this week's Unicef gala performance], ''The Sunday Telegraph'', 26 May 1991</ref>。後にヘプバーンは回顧インタビューで「駅で貨車に詰め込まれて輸送されるユダヤ人たちを何度も目にしました。とくにはっきりと覚えているのが一人の少年です。青白い顔色と透き通るような金髪で、両親と共に駅のプラットフォームに立ち尽くしていました。そして、身の丈にあわない大きすぎるコートを身につけたその少年は列車の中へと呑み込まれていきました。そのときの私は少年を見届けることしか出来ない無力な子供だったのです」と語っている<ref> |
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{{cite web |
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|url=http://www.ahepburn.com/article6.html |
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|title=Tribute to the Humanitarian Work of Audrey Hepburn | Articles |
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|publisher=Ahepburn.com |
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|date=26 May 1991 |
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|accessdate=10 March 2010}}</ref>。 |
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Hepburn also noted the similarities between herself and [[Anne Frank]]:{{Citation needed|date=April 2009}} |
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: "I was exactly the same age as Anne Frank. We were both ten when war broke out and fifteen when the war finished. I was given the book in Dutch, in galley form, in 1946 by a friend. I read it – and it destroyed me. It does this to many people when they first read it but I was not reading it as a book, as printed pages. This was my life. I didn't know what I was going to read. I've never been the same again, it affected me so deeply." "We saw reprisals. We saw young men put against the wall and shot and they'd close the street and then open it and you could pass by again. If you read the diary, I've marked one place where she says 'five hostages shot today'. That was the day my uncle was shot. And in this child's words I was reading about what was inside me and is still there. It was a catharsis for me. This child who was locked up in four walls had written a full report of everything I'd experienced and felt." These times were not all bad, and she was able to enjoy some of her childhood. Again drawing parallels to Anne Frank's life, Hepburn said "This spirit of survival is so strong in Anne Frank's words. One minute she says 'I'm so depressed.' The next she is longing to ride a bicycle. She is certainly a symbol of the child in very difficult circumstances, which is what I devote all my time to. She transcends her death." --> |
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1944年ごろには、ヘプバーンはひとかどの[[バレリーナ]]となっていた。そしてオランダの反ドイツレジスタンス ([[:en:Dutch resistance]]) のために、秘密裏に公演を行って資金稼ぎに協力してた。ヘプバーンはこのときのことを「私の踊りが終わるまで物音ひとつ立てることのない最高の観客でした」と振り返っている<ref>[http://www.audreyhepburnlibrary.com/50s/images/coronet1-55.jpg Audrey Hepburn], ''Coronet'', January 1955</ref>。連合国軍が[[ノルマンディ上陸作戦|ノルマンディに上陸]]しても一家の生活状況は好転せず、アーネムは連合国軍による[[マーケット・ガーデン作戦]]の砲撃にさらされ続けた。当時のオランダの食料、燃料不足は深刻なものとなっていた。1944年にオランダ大飢饉が発生したときも、ドイツ占領下のオランダで起こった鉄道破壊などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちはチューリップの球根の粉を原料に焼き菓子を作って飢えをしのぐ有様だった<ref name="CBSsundaymorning" /> |
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この頃、既に巨匠ウィリアム・ワイラー監督で映画化がきまっていた『[[ローマの休日]]』の主演女優探しも難航していた。候補として名前が挙がっていたのは[[エリザベス・テイラー]]や[[ジーン・シモンズ (女優)|ジーン・シモンズ]]であったが、彼女たちはそれぞれ所属する映画会社との専属契約があった。そんな中、オードリーはワイラー監督が考えていた「アメリカ訛りでない英語を話し、気品溢れる女優」としてアン王女役のスクリーンテストに合格。[[パラマウント映画]]と専属契約を結んだ。『[[ローマの休日]]』ではアカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞している。 |
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<ref name="nytimesobit"> |
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{{cite news |
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|last=James |
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|first=Caryn |
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|year=1993 |
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|url=http://nytimes.com/specials/magazine4/articles/hepburn1.html |
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|title=Audrey Hepburn, Actress, Is Dead at 63 |
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|work=New York Times |
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|accessdate=26 November 2006 |
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|archiveurl=http://web.archive.org/web/20070118162914/http://www.nytimes.com/specials/magazine4/articles/hepburn1.html |
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|archivedate= 18 January 2007 |
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}}</ref>。当時のヘプバーンは何もすることがなかったときには絵を描いていたことがあり、少女時代のヘプバーンの絵が今も残されている<ref> |
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{{cite web |
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|url=http://www.audrey1.org/archives/28/audrey-hepburn-photo-gallery |
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|title=L'Ange des Enfants – Audrey Hepburn Photo Gallery|publisher=Audrey1.org |
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|accessdate=10 March 2010 |
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| archiveurl= http://web.archive.org/web/20100209024521/http://www.audrey1.org/archives/28/audrey-hepburn-photo-gallery |
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|archivedate= 9 February 2010 <!--DASHBot--> |
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| deadurl= no |
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}}</ref>。戦況が好転しオランダからドイツ軍が駆逐されると、[[連合国救済復興機関]]から物資を満載したトラックが到着した<ref> |
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{{cite web |
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|url=http://www.ahepburn.com/work1.html |
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|title=Tribute to the Humanitarian Work of Audrey Hepburn | Her Work – Getting Involved with UNICEF |
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|publisher=Ahepburn.com |
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|date=3 August 1988 |
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|accessdate=10 March 2010 |
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}}</ref>。ヘプバーンは後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を入れすぎたオートミールとコンデンスミルクを一度に平らげたおかげで気持ち悪くなってしまったと振り返っている<ref>Seigel, Jessica. [http://www.jessicaseigel.com/articles/hepburn.shtml Interview with Audrey Hepburn], ''The Chicago Tribune'', 20 January 1992</ref>。そして、ヘプバーンが少女時代に受けたこれらの戦争体験が、後年のユニセフへの献身につながったといえる<ref name="CBSsundaymorning" /><ref name="nytimesobit" />。 |
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== 芸能活動 == |
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===「オンディーヌ」と「麗しのサブリナ」=== |
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=== キャリア初期 === |
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[[Image:Audrey Hepburn and Gregory Peck on Vespa in Roman Holiday trailer.jpg|thumb|220px| 『ローマの休日』(1953)[[グレゴリー・ペック]]と]] |
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1945年の第二次世界大戦終結後に、母エッラとオードリーは[[アムステルダム]]へと移住した。アムステルダムでヘプバーンは3年にわたってソニア・ガスケルにバレエを学び、オランダでも有数のバレリーナとなっていった<ref> |
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[[画像:CaryGrantCharade.jpg|thumb|220px| 『シャレード』(1963)[[ケーリー・グラント]]と]] |
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{{cite web |
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オードリーは舞台女優として、既にニューヨークのフルトン劇場で主演舞台「ジジ」の本公演を行い、新聞の劇評欄で絶賛されていた。彼女は次の主演舞台『[[オンディーヌ]]』への出演を熱望する。パラマウント映画側は反対するも、舞台が成功したら映画化する事を条件にオードリーの舞台出演を認める。オードリーは舞台作品『オンディーヌ』において[[トニー賞]]の主演女優賞を受賞し、舞台女優としても大成功を収めることとなる。 |
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|url=http://audreyhepburn.com/|title=Welcome to Audrey Hepburn.com |
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|publisher=Audreyhepburn.com |
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|accessdate=10 March 2010 |
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|archiveurl= http://web.archive.org/web/20100323170817/http://www.audreyhepburn.com/ |
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|archivedate= 23 March 2010 <!--DASHBot--> |
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|deadurl= no |
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}}</ref>。1948年にヘプバーンは初めて映像作品に出演している。カルル・ファン・デル・リンデンとヘンリー・ジョセフソンが製作した教育用の旅行フィルム『オランダの七つの教訓』で、ヘプバーンの役どころは[[オランダ航空]]のスチュワーデスだった<ref> |
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{{cite book |
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|last=Vermilye |
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|first=Jerry |
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|title=The complete films of Audrey Hepburn|publisher=Citadel Press |
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|location=New York |
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|year=1995 |
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|page=67 |
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|isbn=0-8065-1598-8 |
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}}</ref>。オランダでのバレエの師ガスケルからの紹介で、1948年にヘプバーンは母親と共にロンドンへと渡り、イギリスのバレエ界で活躍していたユダヤ系ポーランド人の舞踊家[[マリー・ランバート]]が主宰するランバート・バレエ団 ([[:en:Rambert Dance Company]]) で学んだ。ヘプバーンが自身の将来の展望を尋ねたときに、ランバートはヘプバーンがこのままバレエの世界で成功するだろうと請け合った。ただしヘプバーンの170cmという身長と<ref name=heightweight>Kilagallen, Dorothy. (27 September 1953). [http://www.audreyhepburnlibrary.com/50s/images/americanweekly9-27-53.jpg "H.R.H. Audrey Hepburn"]. ''The American Weekly''. p. 7.</ref>、第二次世界大戦下の成長期に十分な栄養が摂れなかったことから、ヘプバーンが[[プリマドンナ|プリマ・バレリーナ]]になることは難しいかもしれないという懸念も口にしている。いずれにせよ、ヘプバーンはこのランバートの言葉を信じて演劇の世界で生きていくことを決心した<ref> |
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{{cite episode |
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|series=Larry King Live |
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|title=Audrey Hepburn's Son Remembers Her Life |
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|transcripturl=http://transcripts.cnn.com/TRANSCRIPTS/0312/24/lkl.00.html |
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|airdate=2003-12-24 |
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|network=CNN |
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}}</ref>。ヘプバーンが映画スターになった後に、ランバートは「彼女(ヘプバーン)は大変な努力家でした。もし彼女がバレエを続けていたとしても、素晴らしいバレリーナとなったことでしょう」と語っている<ref name=time> |
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{{cite news |
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|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,818831,00.html |
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|title=Princess Apparent |
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|work=Time |
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|date=1953-09-07 |
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}}</ref>。 |
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当時ヘプバーンの母エッラは下働きの仕事で家計を支えていたが、ヘプバーン自身も金を稼ぐ必要に迫られていた。ヘプバーンは自身がバレエで研鑽を積んでいることから、舞台作品のコーラスガールがいいのではないかと考えた。後にヘプバーンは「私にはお金が必要でした。舞台の仕事はバレエの仕事よりも3ポンド以上高給だったのです」と語っている<ref>Nichols, Mark [http://www.audreyhepburnlibrary.com/50s/images/coronet11-56pg1.jpg Audrey Hepburn Goes Back to the Bar], ''Coronet'', November 1956</ref>。ヘプバーンが出演した舞台劇として、ロンドンのヒッポドローム劇場 ([[:en:Hippodrome, London]]) で上演された『ハイ・ボタン・シューズ』(1948年)、ウエスト・エンドのケンブリッジ・シアター ([[:en:Cambridge Theatre]]) で上演されたセシル・ランドーの『ソース・タルタル』(1949年)と『ソース・ピカンテ』(1950年)がある。舞台に立つようになってから、ヘプバーンは自身の声質が舞台女優としては弱いことに気付き、高名な舞台俳優フェリックス・アイルマーのもとで発声の訓練を受けたことがある<ref> |
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一方、映画女優としては主演映画の2作目となる『麗しのサブリナ』の企画が採用される。これはオードリー自身が立てた企画で、ブロードウェイで上演予定だった舞台『サブリナ・フェア』の台本を事前に読み、映画化権を買うようパラマウント映画に働きかけたものであった。 |
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{{cite book |
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|last=Walker |
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|first=Alexander |
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|title=Audrey, Her Real Story |
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|publisher=Orion |
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|location=London |
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|year=1994 |
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|page=55 |
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|isbn=1-85797-352-6 |
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}}</ref>。『ソース・ピカンテ』の出演時に、イギリスの映画会社アソシエイテッド・ブリティッシュ・ピクチュア・コーポレーション ([[:en:Associated British Picture Corporation]]) の配役担当者に認められたヘプバーンは、フリーランスの女優としてイギリスの映画俳優リストに登録されたが、依然としてウエスト・エンドの舞台にも立っていた<ref name=barryparis/>。ヘプバーンは1951年に『若気のいたり』 ([[:en:One Wild Oat]])、『素晴らしき遺産』 ([[:en:Laughter in Paradise]])、『若妻物語』 ([[:en:Young Wives' Tale]])、『ラベンダー・ヒル・モブ』 ([[:en:The Lavender Hill Mob]]) といった映画に端役で出演し、1952年にはソロルド・ディキンスン ([[:en:Thorold Dickinson]]) の監督作品『[[初恋 (1952年の映画)|初恋]]』に、主人公の妹役で出演した。ヘプバーンはこの映画で優れた才能を持つバレリーナを演じており、バレエのシーンではヘプバーンが踊っている姿を見ることができる<ref name=barryparis/>。 |
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1951年にヘプバーンはアメリカとフランスで公開される『モンテカルロへ行こう』への出演依頼を受け、フランスの[[コート・ダジュール|リヴィエラ]]での撮影ロケに参加した。この現場に、当時自身が書いたブロードウェイ戯曲『ジジ ([[:en:Gigi (1951 play))』の主役・ジジを演じる女優を探していたフランス人女流作家[[シドニー=ガブリエル・コレット]]が訪れた。そしてコレットがヘプバーンを一目見るなり「私のジジを見つけたわ!」とつぶやいたという有名なエピソードがある<ref name=time/> |
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[[ビリー・ワイルダー]]監督の手により映画化され、オードリーはアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた<ref>劇中でパリ帰りのヒロインが身に纏うデコルテサブリナのドレスや、グランソワレを施したイブニング・ガウンは、当時パリモード界で注目を集めていた26歳の[[ユベール・ド・ジバンシィ]]のデザインによるものである。ジバンシィは、衣装の打合せにヘップバーンが来ると伝え聞いていた、そのため大女優[[キャサリン・ヘップバーン]]が来ると思い込んでいたという事を1993年に発売されたドキュメンタリービデオ「想い出のオードリー・ヘップバーン」のインタビュー映像中で、ジバンシィ自身が語っている{{要出典|date=2011年1月}}。以後、ジバンシィはオードリー主演映画の衣装を数多くデザインする事となる。</ref>。 |
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<ref> |
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{{cite news |
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|url=http://www.audrey1.org/archives/9/audrey-hepburn-archives |
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|title=Lighting Up Broadway |
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|publisher=People |
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|date=Winter 1993 |
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|work=Extra Magazine |
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}}</ref> |
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<ref>バリー・パリス著 『オードリー・ヘプバーン物語〈上〉』(ISBN 4-08-760390-3)。</ref>。『ジジ』は1951年11月24日に[[ブロードウェイ]]のフルトン・シアター ([[:en:Fulton Theatre]]) で初演を迎え、劇場入り口に張出された公演タイトルの上にヘプバーンの名前が掲げられた。『ジジ』の総公演回数は219回を数え、1952年5月31日に[[千秋楽]]を迎えた<ref name="gigi">{{ibdb title|id=1977|title=Gigi}}</ref>。ヘプバーンはこのジジ役で、ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイで初舞台を踏んだ優れた舞台俳優に贈られるシアター・ワールド・アワード ([[:en:Theatre World Award]]) を受賞している<ref name=gigi/>。『ジジ』はブロードウェイでの公演終了後、1952年10月13日のピッツバーグ公園を皮切りにアメリカ各地を巡業し、1953年5月16日のロサンゼルス公演を最後に、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントンで上演された<ref name=barryparis/>。 |
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=== 『ローマの休日』と高まる人気 === |
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[[File:Audrey Hepburn screentest in Roman Holiday trailer.jpg|thumb|200px|『[[ローマの休日]]』のスクリーンテスト時のヘプバーン(1953年)。この写真は映画の宣伝素材としても使用された。]] |
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その後も『[[戦争と平和]]』、『[[ティファニーで朝食を]]』、『[[マイ・フェア・レディ]]』等に出演。[[1954年]]に俳優の[[メル・ファーラー]]と結婚、息子ショーンが生まれる。メルはこれが三度目の結婚で、俳優から映画制作へと軸足を移していた。二人は[[1968年]]に離婚した。 |
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1953年に公開されたアメリカ映画『[[ローマの休日]]』で、ヘプバーンは初の主役を射止めた。『ローマの休日』はイタリアのローマを舞台とした作品で、ヘプバーンは王族としての窮屈な暮らしから逃げ出し、[[グレゴリー・ペック]]が演じたアメリカ人新聞記者と恋に落ちるヨーロッパ某国の王女アンを演じた。『ローマの休日』の製作者は、当初アン王女役に[[エリザベス・テイラー]]を望んでいたが、監督[[ウィリアム・ワイラー]]がスクリーン・テストを受けに来たヘプバーンをアン王女役に抜擢した。後にワイラーは「彼女(ヘプバーン)は私がアン王女役に求めていた魅力、無邪気さ、才能をすべて備えていた。さらに彼女にはユーモアがあった。すっかり彼女に魅了された我々は「この娘だ!」と叫んだよ」と振り返っている<ref> |
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{{cite web |
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|url=http://www.audrey1.com/films/roman.html |
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|archiveurl=http://web.archive.org/web/20080121012947/http://www.audrey1.com/films/roman.html |
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|archivedate=2008-1-21 |
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|title=Filmography: Roman Holiday |
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|work=audrey1.com |
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|accessdate=14 January 2008 |
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}}</ref>。 |
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製作当初のフィルムでは、主演男優グレゴリー・ペックの名前が作品タイトルの上に表示され、ヘプバーンの名前はより小さなフォントで、ペックの名前の下に置かれていた。しかしながらペックがワイラーに「変えるべきだ。彼女は僕とは比べ物にならないような大スターになる」として、ヘプバーンの名前を、作品タイトルが表示される前に、ペックの名前と同じ大きな文字で表示することを提案した<ref name="zekas1"> |
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[[1969年]]に、10歳年下のイタリア人[[精神科]]医アンドレア・マリオ・ドッティと再婚し、[[1970年]]に息子ルカをもうけたが、[[1981年]]に離婚。彼女の出演歴が日本向けの「エクスラン・ヴァリーエ」(1971年)「銀座リザ」(1982年)CM出演を除いて[[1960年代]]後半から[[1970年代]]にかけて欠落しているのは、子育てに専念するため、引く手あまたの大作の出演を拒否し続けたためである{{要出典|date=2011年1月}}。ドッティとの別離後から亡くなるまで、オランダ人俳優ロバート・ウォルダーズ(女優[[マール・オベロン]]の最後の夫)と同棲した。 |
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{{cite news |
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|last=Zekas |
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|first=Rita |
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|title=Audrey Hepburn: A reluctant icon |
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|accessdate=4 August 2010 |
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|newspaper=Toronto Star |
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|date=2 January 2004 |
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|pages=D05 |
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|quote="The title credits were supposed to be Gregory Peck starring and 'introducing' Audrey Hepburn. But he said, 'You've got to change that because she'll be a big star and I'll look like a big jerk.'" |
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}}</ref>。 |
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『ローマの休日』のヘプバーンは評論家からも大衆からも絶賛され、思いも寄らなかった[[アカデミー主演女優賞]]のほかに、[[英国アカデミー賞 主演女優賞|英国アカデミー最優秀主演英国女優賞]]、[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|ゴールデングローブ主演女優賞]]をヘプバーンにもたらした。A. H. ワイラーは『ニューヨークタイムズ』に、以下のような劇評を残している。 |
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[[1989年]]の[[スティーヴン・スピルバーグ]]監督作品『[[オールウェイズ (映画)|オールウェイズ]]』を最後に女優業を引退した。 |
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{{Quotation| |
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厳密に言えばオードリー・ヘプバーンは新人映画女優というわけではない。このイギリス人女優が演じたアン王女はほっそりして茶目っ気にあふれ、そしてどこか愁いを帯びた美しさをもっている。豊かな感情表現には大人びた雰囲気と子供っぽさが同居し、新たに見つけた喜びと愛情に満ちている。王女はこの恋が悲しい結末に終わることを知っているが、気丈にも微笑を浮かべている。これからの彼女を待ち受けているのは、息が詰まるような哀れで淋しい未来なのである<ref name=weilerelfin> |
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{{cite news |
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|url=http://movies.nytimes.com/movie/review?res=940DE6DA153EE53BBC4051DFBE668388649EDE|title='Roman Holiday' at Music Hall Is Modern Fairy Tale Starring Peck and Audrey Hepburn |
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|first=A. W. |
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|last=Weiler |
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|work=The New York Times |
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|date=1953-8-28 |
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|accessdate=2008-1-14 |
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|archiveurl= http://web.archive.org/web/20080105014550/http://movies.nytimes.com/movie/review?res=940DE6DA153EE53BBC4051DFBE668388649EDE |
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|archivedate=2008-1-5 |
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|deadurl= no |
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}}</ref>。 |
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}} |
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ヘプバーンは7本の映画に出演するという契約を[[パラマウント映画|パラマウント映画社]]から提示され、映画撮影の合間には合計12カ月間の舞台出演を認めるという条件でこの契約にサインした<ref>Connolly, Mike. [http://www.audreyhepburnlibrary.com/50s/images/photoplay1-54pg3.jpg Who Needs Beauty!], ''Photoplay'', January 1954</ref>。ヘプバーンの人気は高まり、1953年4月に発行された『タイム』誌の表紙にはヘプバーンのイラストが使用されている<ref> |
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=== 晩年 === |
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{{cite news |
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1989年の引退後に、[[国際連合児童基金]](ユニセフ)の[[ユニセフ親善大使]]に就任し、当時[[内戦]]が続いていた[[ソマリア]]や[[スーダン]]を訪問している。就任の際に、オードリーは「わたしは、ユニセフが子どもにとってどんな存在なのか、はっきり証言できます。なぜって、私自身が第二次世界大戦の直後に、食べ物や医療の援助を受けた子どもの一人だったのですから」と語っている<ref>[http://www.unicef.or.jp/special/index.html 日本ユニセフ協会]</ref>。その一方で『世界の庭園(庭園紀行)』という番組のホスト役として、日本を含め7ヶ国、16の[[庭園]]を訪れる。 |
|||
|title=Audrey Hepburn: Behind the sparkle of rhinestones, a diamond's glow |
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|url=http://www.time.com/time/covers/0,16641,19530907,00.html |
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|publisher=TIME |
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|date=1953-9-7 |
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|accessdate=2009-5-28 |
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|archiveurl= http://web.archive.org/web/20090512220104/http://www.time.com/time/covers/0,16641,19530907,00.html |
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|archivedate=2009-5-12 |
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|deadurl= no |
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}}</ref>。 |
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[[File:Holden-Hepburn-Sabrina.jpg|thumb|[[ウィリアム・ホールデン]]と共演した『[[麗しのサブリナ]]』(1954年公開)。]] |
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[[1993年]][[1月20日]]、[[スイス]]・[[ローザンヌ]]近郊のトロシュナ村で[[大腸癌]]のため亡くなる。 |
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『ローマの休日』で大成功を収めたヘプバーンは、続いて[[ビリー・ワイルダー]]監督の『[[麗しのサブリナ]]』に出演した。1954年に公開されたこの作品は、[[ハンフリー・ボガード]]と[[ウィリアム・ホールデン]]が演じる富豪の兄弟が、お抱え運転手の娘で美しく成長したヘプバーンが演じるサブリナを巡って張り合うという物語である。ヘプバーンはこのサブリナ役でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞最優秀主演英国女優賞を受賞した。ボズリー・クロウザーは『ニューヨークタイムズ』誌で次のように評している。 |
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{{Quotation| |
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== 評価 == |
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これはヘプバーンの映画だと思う人は多いだろう。彼女の名前はタイトルロールに記されているし、前年に『ローマの休日』で大成功を収めたばかりなのだから。事実、この作品における彼女は素晴らしい。折れそうなほどに細い身体に、驚くほど多彩で繊細な感覚と揺れ動く感情が詰め込まれている。彼女が演じた運転手の娘は、前年に演じた王女よりもさらに輝いて見える。これ以上はもう何も付け加えることはない<ref> |
|||
[[2012年]]現在、[[アカデミー賞]]、[[トニー賞]]、[[エミー賞]]、[[グラミー賞]]を全て獲得した[[:en:List of persons who have won Academy, Emmy, Grammy, and Tony Awards|11名]]の中の一人である。 |
|||
{{cite news |
|||
|url=http://movies.nytimes.com/movie/review?res=9406E3DF1238E23BBC4B51DFBF66838F649EDE |
|||
|work=The New York Times |
|||
|first=Bosley |
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|last=Crowther |
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|title=Screen: 'Sabrina' Bows at Criterion; Billy Wilder Produces and Directs Comedy |
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|date=23 September 1954 |
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}}</ref>。 |
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}} |
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『麗しのサブリナ』が公開された1954年には、ブロードウェイの舞台作品『オンディーヌ』([[:en:Ondine (play)]]) で[[メル・ファーラー]]と共演している。ヘプバーンはそのしなやかな痩身を活かして水の精オンディーヌを演じ、ファーラー演じる人間の騎士ハンスとの恋愛悲劇を繰り広げた。この作品について『ニューヨークタイムズ』は次のような劇評を書いている。 |
|||
AFI([[米国映画協会]])が選出した「最も偉大な女優50選」では第3位である。また、同協会が[[2002年]]に選出した「最も愛すべきラブストーリー・映画ベスト100本」にも第4位に『ローマの休日』が、第12位に『マイ・フェア・レディ』が、第54位に『麗しのサブリナ』が、第57位に『いつも二人で』、第61位に『ティファニーで朝食を』が、それぞれ選ばれている。 |
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{{Quotation| |
|||
[[日経リサーチ]]が[[2004年]][[12月27日]]に発表した「タレント・キャラクターイメージ調査」において、好意度ランキングで第1位に選ばれた<ref>「タレント・キャラクター消費者の好意度 麗しのオードリー不滅 イメージネット調査」『[[日経MJ|日経流通新聞MJ]]』2004年12月27日付、2面</ref>。 |
|||
ヘプバーンは水の精というあいまいな存在を、見事に舞台上に実体化してみせた。何のわざとらしさも不自然さもなかった。生来の才能に裏打ちされた迫真かつ情感あふれるその演技は、ただただ美しく魔法のようだった。 |
|||
}} |
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ヘプバーンは『オンディーヌ』で1954年の[[トニー賞|トニー賞 主演舞台女優賞]]を受賞した。同じ年には前年の『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得しており、ヘプバーンはトニー賞とアカデミー賞を同年に受賞した三名のひとりとなった(2013年現在。その他の二人は[[シャーリー・ブース]]と[[エレン・バースティン]]である)<ref name=soundstage/>。『オンディーヌ』で共演したヘプバーンとファーラーは、1954年9月25日にスイスで結婚式を挙げ、ときに波乱万丈だった二人の結婚生活は15年間続いた。 |
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[[2006年]][[9月23日]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列で放映された「日本人が選ぶ100人の美女」の第2位に選ばれた。 |
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ヘプバーンは1955年にゴールデングローブ賞の「世界でもっとも好かれた女優賞」を受賞し<ref> |
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このような高い人気に着目した日本の[[三井住友銀行]]が、[[インターネット]]を利用した銀行サービスや女性顧客向けの総合口座サービスの[[コマーシャルメッセージ|CM]]キャラクターにヘプバーンを起用している。CMは、ヘプバーンが出演した映画から有名な場面を抜き出し、宣伝する商品に合うような日本語の[[台詞]]を吹き込む形式を取っている。 |
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{{cite web |
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なお、この時に[[吹き替え|吹替]]を担当した[[声優]]が[[池田昌子]]である。 |
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|url=http://www.goldenglobes.org/browse/member/28367 |
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|title=Hepburn's Golden Globe nominations and awards |
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|publisher=Goldenglobes.org |
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|date=2010-1-14 |
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|accessdate=2010-3-10 |
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|archiveurl= http://web.archive.org/web/20100408051329/http://www.goldenglobes.org/browse/member/28367 |
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|archivedate=2010-4-8 |
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|deadurl= no}}</ref>、ファッション界にも大きな影響力を持つようになった。また、この頃ヘプバーンは、[[アンネ・フランク]]の『[[アンネの日記]]』を題材とした舞台作品 ([[:en:The Diary of Anne Frank (play)]]) と[[アンネの日記 (1959年の映画)|映画作品]]の両方への出演依頼を受けた。しかしながら、アンネと同年の生まれであるヘプバーンはアンネ役を引き受けることが「感情的に不可能」であり、自身の年齢が30歳に近く、年をとりすぎていることを理由に断っている<ref>Corr, John. (8 February 1990) Mindful of Her Past, Hepburn Travels the World for UNICEF, ''Philadelphia Inquierer'', p. F12</ref>。最終的に舞台のアンネ役は[[スーザン・ストラスバーグ]]が、映画のアンネ役はミリー・パーキンスが演じた。 |
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[[File:Audrey Hepburn War&Peace.jpg|thumb|left|『[[戦争と平和 (1956年の映画)|戦争と平和]]』のヘプバーン。1956年。]] |
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[[2007年]][[11月3日]]放送の『[[SmaSTATION!!|スマステ]]』での特別企画「大人が選ぶ映画のヒロインベスト30」で彼女が演じた『ローマの休日』のアン王女が1位に選ばれた。 |
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ヘプバーンはハリウッドでもっとも集客力のある女優のひとりとなり、10年間にわたって話題作、人気作に出演するスター女優であり続けた。[[ヘンリー・フォンダ]]、夫メル・ファーラーらと共演した、ロシアの文豪[[レフ・トルストイ]]の作品を原作とした1956年の『[[戦争と平和 (1956年の映画)|戦争と平和]]』のナターシャ・ロストワ役で、英国アカデミー賞とゴールデングローブ賞にノミネートされている。1957年にはバレエで鍛えた踊りの能力を活かした最初のミュージカル映画『[[パリの恋人]]』に出演した。ヘプバーンはパリ旅行に誘い出された本屋の店員ジョー役で、[[フレッド・アステア]]演じるファッション・カメラマンに見出されて美しいモデルになっていくという物語である。この年には『[[昼下りの情事]]』にも出演しており、[[ゲーリー・クーパー]]や[[モーリス・シュヴァリエ]]と共演した。 |
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[[ピーター・フィンチ]]と共演した1959年の『[[尼僧物語]]』では、心の葛藤に悩む修道女ルークを演じた。このルーク役で3度目となるアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞を獲得した。『バラエティ』誌は「これまでにないほどに多くを求められる役を見事にこなした」と評し、『フィルムズ・イン・レビュー』誌はヘプバーンの演技が「これまで上映された映画の中でも、もっとも素晴らしいもののひとつである」と評した<ref> |
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[[2010年]]、[[アメリカ]]の通信販売大手[[QVC]]による「[[20世紀]]最高の美女」を決める[[アンケート]]調査(女性2000人を対象に実施)において、1位に選ばれた<ref>[http://news.sky.com/skynews/Home/Showbiz-News/Audrey-Hepburn-Tops-List-Of-20th-Centurys-Most-Beautiful-Women-QVC-Poll-Finds/Article/201006415657271 Actress Tops Poll Of 20th Century Beauties]</ref>。 |
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{{cite web |
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=== 主な受賞 === |
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|url = http://www.audrey1.com/films/nun.html |
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{| class="wikitable" style="text-align:center" |
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|archiveurl = http://web.archive.org/web/20060214090022/http://www.audrey1.com/films/nun.html |archivedate = 2006-2-14 |
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|- style="text-align:center;" |
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|title = Filmography: The Nun's Story |
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! colspan=4 style="background:#B0C4DE;" |[[アカデミー賞]] |
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|work=audrey1.com |
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|- style="text-align:center;" |
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|accessdate =2008-1-14 |
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! style="background:#ccc;"| |
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}}</ref>。ヘプバーンは自身の演技に真実味を増すために、実際に修道僧たちと何時間も修道院で過ごしたといわれている。ヘプバーンは「これまでのどの映画作品よりも、時間と努力と思考を費やした作品でした」と語っている<ref>http://www.audreyhepburnlibrary.com/nunstory/images/nunsstory03.jpg</ref>。 |
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! style="background:#ccc;"| 年度 |
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! style="background:#ccc;"| 部門 |
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! style="background:#ccc;"| 対象作品 |
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|- |
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|rowspan=2|{{small|受賞}} |
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|1953年 |
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|[[アカデミー主演女優賞]] |
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|[[ローマの休日]] |
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|- |
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|1992年 |
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|[[ジーン・ハーショルト友愛賞]] |
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| |
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|- |
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|rowspan=4|{{small|ノミネート}} |
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|1954年 |
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|アカデミー主演女優賞 |
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|[[麗しのサブリナ]] |
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|- |
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|1959年 |
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|アカデミー主演女優賞 |
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|[[尼僧物語]] |
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|- |
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|1961年 |
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|アカデミー主演女優賞 |
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|[[ティファニーで朝食を]] |
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|- |
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|1967年 |
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|アカデミー主演女優賞 |
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|[[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]] |
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|- |
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|- style="text-align:center;" |
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! colspan=4 style="background:#B0C4DE;" |[[ゴールデングローブ賞]] |
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|- style="text-align:center;" |
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! style="background:#ccc;"| |
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! style="background:#ccc;"| 年度 |
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! style="background:#ccc;"| 部門 |
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! style="background:#ccc;"| 対象作品 |
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|- |
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|rowspan=3|{{small|受賞}} |
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|1954年 |
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|[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|主演女優賞 (ドラマ部門)]] |
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|ローマの休日 |
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|- |
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|1954年 |
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|世界でもっとも好かれた女優 |
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|1989年 |
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|[[セシル・B・デミル賞]] |
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| |
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|- |
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|- style="text-align:center;" |
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! colspan=4 style="background:#B0C4DE;" |[[トニー賞]] |
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|- style="text-align:center;" |
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! style="background:#ccc;"| |
|||
! style="background:#ccc;"| 年度 |
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! style="background:#ccc;"| 部門 |
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! style="background:#ccc;"| 対象作品 |
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|- |
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|rowspan=2|{{small|受賞}} |
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|1954年 |
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|[[トニー賞 演劇主演女優賞|演劇主演女優賞]] |
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|[[オンディーヌ]] |
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|- |
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|1968年 |
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|Special Tony Award |
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| |
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|- |
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|- style="text-align:center;" |
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! colspan=4 style="background:#B0C4DE;" |[[ニューヨーク映画批評家協会賞]] |
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|- style="text-align:center;" |
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! style="background:#ccc;"| |
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! style="background:#ccc;"| 年度 |
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! style="background:#ccc;"| 部門 |
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! style="background:#ccc;"| 対象作品 |
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|- |
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|rowspan=2|{{small|受賞}} |
|||
|[[第19回ニューヨーク映画批評家協会賞|1953年]] |
|||
|[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞|主演女優賞]] |
|||
|ローマの休日 |
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|- |
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|[[第25回ニューヨーク映画批評家協会賞|1959年]] |
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|[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞|主演女優賞]] |
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|尼僧物語 |
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|- |
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|- style="text-align:center;" |
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! colspan=4 style="background:#B0C4DE;" |[[エミー賞]] |
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|- style="text-align:center;" |
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! style="background:#ccc;"| |
|||
! style="background:#ccc;"| 年度 |
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! style="background:#ccc;"| 部門 |
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! style="background:#ccc;"| 対象作品 |
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|- |
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|rowspan=1|{{small|受賞}} |
|||
|1993年 |
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|Outstanding Individual Achievement - Informational Programming |
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|''[[:en:Gardens of the World with Audrey Hepburn|Gardens of the World with Audrey Hepburn]]'' |
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|- |
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|- style="text-align:center;" |
|||
! colspan=4 style="background:#B0C4DE;" |[[グラミー賞]] |
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|- style="text-align:center;" |
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! style="background:#ccc;"| |
|||
! style="background:#ccc;"| 年度 |
|||
! style="background:#ccc;"| 部門 |
|||
! style="background:#ccc;"| 対象作品 |
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|- |
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|rowspan=1|{{small|受賞}} |
|||
|1994年 |
|||
|Best Spoken Word Album for Children |
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|''[[:en:Audrey Hepburn's Enchanted Tales|Audrey Hepburn's Enchanted Tales]]'' |
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|- |
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|- style="text-align:center;" |
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! colspan=4 style="background:#B0C4DE;" |[[英国アカデミー賞]] |
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|- style="text-align:center;" |
|||
! style="background:#ccc;"| |
|||
! style="background:#ccc;"| 年度 |
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! style="background:#ccc;"| 部門 |
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! style="background:#ccc;"| 対象作品 |
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|- |
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|rowspan=3|{{small|受賞}} |
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|1953年 |
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|最優秀英国女優賞 |
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|ローマの休日 |
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|- |
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|1959年 |
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|最優秀英国女優賞 |
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|尼僧物語 |
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|- |
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|1964年 |
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|最優秀英国女優賞 |
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|[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]] |
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|- |
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|} |
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[[File:Hepburn-Perkins-1959.JPG|thumb|『[[緑の館 (映画)|緑の館]]』のヘプバーンと[[アンソニー・パーキンス]]。1959年。]] |
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=== ファッション界に与えた影響 === |
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ヘプバーンは『尼僧物語』に続いて『[[緑の館 (映画)|緑の館]]』(1959年)に出演した。この作品でヘプバーンは、[[アンソニー・パーキンス]]演じるヴェネズエラ人アベルと恋に落ちる、密林で暮らす「美しく誇り高い」「幻想的」な少女リーマを演じた<ref> |
|||
[[ココ・シャネル]]と同様に、オードリーは単に女性達のドレスを変えただけでなく、女性達の自分自身に対する見方をも変えた。露骨なグラマーではない見本を示して、美人の定義を広げた<ref name="オードリー・スタイル24">[[#キオ 2000|キオ 2000]]、24頁</ref>。 |
|||
{{cite news |
|||
|url=http://movies.nytimes.com/movie/review?res=9805E3DB1038EF3BBC4851DFB5668382649EDE |
|||
|work=The New York Times |
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|first=Bosley |
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|last=Crowther |
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|title=Delicate Enchantment of 'Green Mansions'; Audrey Hepburn Stars in Role of Rima |
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|date=1959-4-20}}</ref>。1960年にはヘプバーンが出演した唯一の[[西部劇]]『[[許されざる者 (1960年の映画)|許されざる者]]』でレイチェル役を演じた。レイチェルは[[バート・ランカスター]]や[[リリアン・ギッシュ]]が演じる「粗野で頑固な役とは異なり、やや洗練されすぎた、線が細く教養ある」インディアン差別に反対する女性という役どころだった<ref> |
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{{cite news |
|||
|url=http://movies.nytimes.com/movie/review?res=9800E2DD123AEF3ABC4F53DFB266838B679EDE |
|||
|work=The New York Times |
|||
|first=Bosley |
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|last=Crowther |
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|title=Screen: "The Unforgiven':Huston Film Stars Miss Hepburn, Lancaster |
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|date=7 April 1960 |
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}}</ref>。 |
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=== 『ティファニーで朝食を』=== |
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デザイナーの[[マイケル・コース]]は「今のファッションを女性達は当然のように着ているが、もしオードリー・ヘプバーンがいなかったらそういう服を今着てはいないだろう<ref name="オードリー・スタイル26">[[#キオ 2000|キオ 2000]]、26頁</ref>」と述べ、[[ヴェラ・ウォン]]は「オードリーは現代女性のはしりだった。誰の真似でもない文化を作り出すのは容易ではない<ref name="オードリー・スタイル24" />」と述べた。 |
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[[File:Audrey Hepburn esmorza al Tiffany's.bmp.jpg|thumb|left|『[[ティファニーで朝食を]]』のオープニング・シーン。ヘプバーンが着用している黒のドレスは[[ジバンシィ|ユベール・ド・ジバンシィ]]がデザインしたものである。]] |
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ファーラーとの間の長男ショーンが生まれた三カ月後の1960年に、ヘプバーンは[[ブレイク・エドワーズ]]の監督作品『[[ティファニーで朝食を]]』に出演した。この映画はアメリカ人小説家[[トルーマン・カポーティ]]の同名の小説を原作としているが、原作からは大きく内容が変更されて映画化されている。原作者のカポーティは大幅に小説版から離れた脚本に失望し、主役の気まぐれな娼婦ホリー・ゴライトリーを演じたヘプバーンのことも「ひどいミスキャストだ」と公言した<ref>E.A. Hanks. [http://www.vanityfair.com/online/daily/2010/06/holly-golightly-is-a-call-girl-and-other-revelations-about-breakfast-at-tiffanys.html], ''Vanity Fair'', 2010-6-22</ref>。これは、カポーティが主役のホリー役には[[マリリン・モンロー]]が適役だと考えていたためだった<ref name=DMBAT> |
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{{cite news |
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|url=http://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-1326830/Breakfast-At-Tiffany-s-Clashing-egos-nearly-killed-best-loved-films.html |
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|location=London |
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|work=Daily Mail |
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|first=Corinna |
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|last=Honan |
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|title=Tantrums at Tiffany's: How a viper's nest of clashing egos nearly killed off one of the best-loved films ever made |
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|date=14 November 2010}}</ref>。また、映画脚本のホリー役も原作からはかけ離れた演出がなされており、ヘプバーン自身も「娼婦の演技はできない」ことを製作者のマーティン・ジュロウにもらしていた<ref name=DMBAT/>。 |
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原作のホリーの魅力でもあった性的風刺に満ちた言動は皆無だったが<ref name=DMBAT/>、ヘプバーンは1961年度のアカデミー主演女優賞にノミネートされ、ヘプバーンが演じたホリーはアメリカ映画を代表するキャラクターになった。このホリー・ゴライトリーはヘプバーンを代表する役といわれることも多く<ref name=BBCSA> |
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また、『麗しのサブリナ』等の衣装を担当したデザイナーの[[ユベール・ド・ジバンシィ]]との協力関係は他に例を見ないほど長く続き、また映画史上最も成功した一つとなった<ref name="オードリー・スタイル40">[[#キオ 2000|キオ 2000]]、40頁</ref>。 |
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{{cite news |
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|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/3667517.stm |
|||
|work=BBC News |
|||
|title=Audrey Hepburn: Style icon |
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| date=2004-5-4 |
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}}</ref>、映画版『ティファニーで朝食を』でのホリーのファッションスタイルと洗練された物腰が実際のヘプバーンと同一視されるようになっていった。しかしながらヘプバーンはこの役を「人生最大の派手派手しい役」と呼び<ref>Kane, Chris. [http://audreyhepburnlibrary.com/bat/images/screenstories10-61pg11.jpg Breakfast at Tiffany's], ''Screen Stories'', December 1961</ref>「実際の私は内気な性格なのです。このような外向的な女性を演じることはかつてない苦痛でした」と語っている<ref name="archer">Archer, Eugene. [http://audreyhepburnlibrary.com/mfl/images/mflscrapbkpg25.jpg With A Little Bit Of Luck And Plenty Of Talent], ''The New York Times'', 1 November 1964</ref>。『ティファニーで朝食を』の冒頭シーンで、ヘプバーンが身にまとっているジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレス(シンプルな黒のカクテルドレス ([[:en:Little black Givenchy dress of Audrey Hepburn]])) は、20世紀のファッション史を代表するリトル・ブラックドレスであるだけでなく、おそらく史上最も有名なドレスだといわれている<ref name="Glam"> |
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{{cite web |
|||
|url=http://www.glamour.com/fashion/2007/04/famous-dresses#slide=3 |
|||
|title=The Most Famous Dresses Ever |
|||
|publisher=Glamour.com |
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|date=2007-4 |
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|accessdate=2011-5-16 |
|||
}}</ref> |
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<ref name="HM"> |
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{{cite web |
|||
|url=http://www.hellomagazine.com/celebrities/2006/12/06/audrey-hepburn-dress/ |
|||
|title=Audrey Hepburn dress |
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|work=Hello Magazine |
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|date=2006-12-6 |
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|accessdate=2013-4-6 |
|||
}}</ref> |
|||
<ref name="Independent"> |
|||
{{ |
|||
cite news |
|||
|url=http://www.independent.co.uk/life-style/fashion/news/audrey-hepburns-little-black-dress-tops-fashion-list-1984507.html |
|||
|title=Audrey Hepburn's little black dress tops fashion list |
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|work=The Independent |
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|location=UK |
|||
|date=2010-5-17 May 2010 |
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|accessdate=2011-5-16 |
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}}</ref> |
|||
<ref name="Steele2010"> |
|||
{{cite book |
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|last=Steele |
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|first=Valerie |
|||
|title=The Berg Companion to Fashion |
|||
|url=http://books.google.com/books?id=Hemsvn9ZbRkC&pg=PA483 |
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|accessdate=2011-5-16 May 2011 |
|||
|date=2010-11-9 |
|||
|publisher=Berg Publishers |
|||
|isbn=978-1-84788-592-0 |
|||
|page=483 |
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}}</ref>。 |
|||
[[File:Childrens Hour trailer.jpg|thumb|『[[噂の二人]]』(1961年)の予告編の[[シャーリー・マクレーン]]とヘプバーン。]] |
|||
== 主な出演作品 == |
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ヘプバーンは1961年のウィリアム・ワイラー監督作品『[[噂の二人]]』で、[[シャーリー・マクレーン]]、[[ジェームズ・ガーナー]]と共演した。『噂の二人』は[[レズビアン]]をテーマとした作品で、ヘプバーンとマクレーンが演じる女教師が、学校の生徒に二人がレズビアンの関係にあるという噂を流されてトラブルとなっていくという物語で、レズビアンを取り上げた作品としてはハリウッドで最初の映画のひとつだといわれている<ref name=BBCSA/>。当時の保守的な社会的背景のためか、作品自体もヘプバーンの演技も、批評家や大衆からあまり注目されなかった。『ニューヨークタイムズ』のボズリー・クロウザーは「よくできた作品とはいえない」としながらも、ヘプバーンの演技については「微妙な題材」のなかで「繊細かつ無垢な印象を与える」と評価している<ref> |
|||
<!--日本での公開順、未公開・ドラマなどは制作国に準じる。賞歴は主なものだけに。--> |
|||
{{cite news |
|||
{| class="wikitable" |
|||
|url=http://movies.nytimes.com/movie/review?res=9D07EEDA1338E63ABC4D52DFB5668389679EDE |
|||
|work=The New York Times |
|||
|first=Bosley |
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|last=Crowther |
|||
|title=The Screen: New 'Children's Hour':Another Film Version of Play Arrives Shirley MacLaine and Audrey Hepburn Star |
|||
|date=1962-3-15 |
|||
}}</ref>。『バラエティ』誌はヘプバーンの「柔らかな感性、深い心理描写と控えめな感情表現が見られる」と高く評価し、さらにヘプバーンとマクレーンを「互いを引き立てあう素晴らしい相手役」だと賞賛した<ref> |
|||
{{cite news |
|||
|url=http://www.variety.com/review/VE1117789870?refcatid=31 |
|||
|work=Variety |
|||
|title=The Children's Hour |
|||
|date=1960-12-31 |
|||
}}</ref>。 |
|||
[[File:Audrey Hepburn and Cary Grant 1.jpg|left|thumb|[[ケーリー・グラント]]と共演した『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』(1963年)。]] |
|||
ヘプバーンは1963年の『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』で[[ケーリー・グラント]]と共演した。ヘプバーンは、亡き夫が盗んだとされる金塊を求める複数の男たちに付け狙われる未亡人レジーナ・ランパートを演じている。そしてヘプバーンはこの役で、三回目にして最後となる英国アカデミー最優秀主演英国女優賞を獲得し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされた。しかしながら、映画評論家ボズリー・クロウザーは「疑心暗鬼に陥っている役どころのはずなのに、一目で高級品と分かるジバンシィの衣装に身につけたヘプバーンは楽しそうだ」と辛口の評価を下している<ref> |
|||
{{cite news |
|||
|url=http://movies.nytimes.com/movie/review?res=9A0DE6DA1E30EF3BBC4E53DFB4678388679EDE |
|||
|work=The New York Times |
|||
|first=Bosley |
|||
|last=Crowther |
|||
|title=Screen: Audrey Hepburn and Grant in 'Charade':Comedy-Melodrama Is at the Music Hall Production Abounds in Ghoulish Humor |
|||
|date=1963-12-6 |
|||
}}</ref>。かつてヘプバーンが主演した『ローマの休日』と『麗しのサブリナ』の相手役にも目されていたグラントは当時59歳で、年齢差がある当時34歳のヘプバーンを相手に恋愛劇を演じることに抵抗を感じていた。このようなグラントの意を汲んだ製作側は、ヘプバーンの方からグラントに心惹かれていくという脚本に変更している<ref> |
|||
{{Cite book |
|||
|last=Eastman |
|||
|first=John |
|||
|title=Retakes: Behind the Scenes of 500 Classic Movies |
|||
|publisher=Ballantine Books |
|||
|year=1989 |
|||
|pages=57–58 |
|||
|isbn=0-345-35399-4 |
|||
}}</ref>。ただしグラントはヘプバーン個人に対しては好印象を持っており、「クリスマスに欲しいものは、ヘプバーンと共演できる新しい作品だ」と語ったこともある<ref>[http://audreyhepburnlibrary.com/60s/images/motionpicture5-64pg3.jpg How Awful About Audrey!], ''Motion Picture'', May 1964</ref>。 |
|||
ヘプバーンは1964年の『[[パリで一緒に]]』で、『麗しのサブリナ』で共演したウィリアム・ホールデンと、ほぼ10年ぶりにコンビを組んだ。パリで撮影されたこの[[スクリューボール・コメディ]]は、「マシュマロみたいに中身のない空想譚 ({{lang|en|marshmallow-weight hokum}})」とも呼ばれ<ref name="vari"> |
|||
{{cite news |
|||
|title=Paris When It Sizzles |
|||
|url=http://www.variety.com/review/VE1117793876.html|work=Variety |
|||
|date=1964-1-1 |
|||
|accessdate=2009-5-28 May |
|||
}}</ref>、「一様に酷評された」<ref name="tcmart"> |
|||
{{cite web |
|||
|author=Eleanor Quin |
|||
|title=Paris When It Sizzles: Overview Article |
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|publisher=Turner Classic Movies]]|url=http://www.tcm.com/tcmdb/title.jsp?stid=86269&category=Articles|accessdate=27 May 2009}}</ref>。ただし、作品自体に低評価を下した批評家たちも、ヘプバーンの役作りには好意的だった。ヘプバーンが演じたガブリエル・シンプソンは、ホールデンが演じるスランプに陥った脚本家リチャード・ベンソンの手助けをする女性という役割だった。ヘプバーンの演技は「大げさに誇張された馬鹿話のなかで、一服の清涼剤だった」といわれている<ref name="vari"/>。 |
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『パリで一緒に』に対する批評家たちからの悪評には、作品そのものだけでなく背景に使用されたセットの出来栄えの悪さも影響していた。さらに、『麗しのサブリナ』の撮影中にヘプバーンと恋愛関係にあったといわれるホールデンが<ref>複数の伝記作家がこの説を肯定している。ヘプバーンはホールデンと結婚を望み子供を欲しがったが、ホールデンが精管切除を受けており、子供ができないことを知ったヘプバーンが別れを切り出したといわれている (Phillips, Gene D. Some Like It Wilder: The Life and Controversial Films of Billy Wilder. Lexington, Kentucky: University Press of Kentucky, p.160. ISBN 0-8131-2570-7.)。</ref>、既に人妻であるヘプバーンを口説こうとしたことや、ホールデンがアルコール依存症になっていたことなども、撮影現場の雰囲気や状況を悪化させた。主なシーンの撮影を終えて編集前のフィルムを目にしたヘプバーンが、あまりの出来の悪さに撮影カメラマンのクロード・ルノワール ([[:en:Claude Renoir]]) の解雇を要求するという事態にまで発展した<ref name="tcmart" />。また、ヘプバーンは縁起を担いで自身のラッキーナンバーである「55」番の楽屋を求めた。ヘプバーンは55番の楽屋を『ローマの休日』と『ティファニーで朝食を』でも使用していたことがあった。さらに、長きに渡ってヘプバーンの服飾を担当するジバンシィの名前を、香水担当としてクレジット表記することも要求している<ref name="tcmart" />。 |
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[[File:Harry Stradling-Audrey Hepburn in My Fair Lady.jpg|thumb|200px|『[[マイ・フェア・レディ (映画)|マイ・フェア・レディ]]』(1964年)の撮影現場。左は撮影監督の[[ハリー・ストラドリング]]。]] |
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1964年のミュージカル映画『[[マイ・フェア・レディ_(映画)|マイ・フェア・レディ]]』は、ジーン・リングゴールドが「『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』以来、これほど世界を熱狂させた映画はない」と1964年の『サウンドステージ』誌 ([[:en:Soundstage]]) で絶賛した<ref name="soundstage">Ringgold, Gene. [http://audreyhepburnlibrary.com/mfl/images/soundstage12-64pg27.jpg My Fair Lady – the finest of them all!], ''Soundstage'', December 1964</ref>。しかしながら、ヘプバーンが演じた[[コックニー|下町訛り]]の花売り娘イライザ・ドゥーリトルの配役決定の経緯は大きな論争を巻き起こした。ジョージ・キューカーが監督したこの作品は、同名の舞台ミュージカル『[[マイ・フェア・レディ]]』の映画化である。舞台でイライザを演じていたのは[[ジュリー・アンドリュース]]だったが、アンドリュースには映画出演の話は来なかった。これは製作のジャック・ワーナー ([[:en:Jack Warner]]) が、ヘプバーンか[[エリザベス・テイラー]]をイライザ役に据えたほうが興行的に「儲かる」と考えたためだった<ref name="myfairladydub"/>。イライザ役を持ちかけられたヘプバーンは、自分よりもアンドリュースのほうがイライザに相応しいとしていったん断ったが、最終的にはヘプバーンがイライザ役に決まった<ref name="myfairladydub"/>。 |
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ヘプバーンは以前出演したミュージカル映画『パリの恋人』で歌った経験があり、さらに『マイ・フェア・レディ』出演に備えて長期間の発声練習をこなしていたが<ref name="myfairladydub">http://www.imdb.com/title/tt0058385/trivia</ref>、映画の中でヘプバーンが歌う場面は[[マーニ・ニクソン]]によって歌が吹き換えられた<ref name="bcmyfairlady"> |
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{{cite news |
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|url=http://movies.nytimes.com/movie/review?res=9401E6DA1E3FEE32A25751C2A9669D946591D6CF |
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|work=The New York Times |
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|first=Bosley |
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|last=Crowther |
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|title=Screen: Lots of Chocolates for Miss Eliza Doolittle:'My Fair Lady' Bows at the Criterion |
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|date=1964-10-22 |
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}}</ref> |
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<ref name=telegraphob> |
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|url=http://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/5894883/Audrey-Hepburn.html |
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|location=London |
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|work=The Daily Telegraph |
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|title=Audrey Hepburn |
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|date=1993-1-22 |
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}}</ref>。ニクソンが吹き替えに使われたのは、劇中のイライザの歌のキーが高く、ヘプバーンの声域である低めのメゾ・ソプラノまでキーを落とすことが困難だったためである<ref name="myfairladydub"/>。理由はどうであれ、歌を吹き替えることを知らされたヘプバーンは、激怒してその場から立ち去った。しかし翌日になってヘプバーンは戻ってきて、「ひどい態度だった」とその場の全員に謝罪している<ref name="myfairladydub"/>。劇中でヘプバーンが歌う場面では、前もって録音しておいた自身の歌にあわせて[[口パク|リップシンク]]しているが、ニクソンがさらにその上から吹き替えたために、ヘプバーンの口の動きとニクソンの歌声とは完全には一致していない<ref name="myfairladydub"/>。吹き替えも使うが、ヘプバーンの歌はできるだけ残すという約束だったにも関わらず、最終的には歌のおよそ90パーセントがニクソンによって吹き替えられた<ref name="myfairladydub"/>。ヘプバーンの歌声が残されているのは「踊り明かそう」の一節、「今に見てろ」の序奏部、「スペインの雨」での台詞と歌の掛け合い部分だけである<ref name="myfairladydub"/>。歌唱部分が全く別の声質を持つ他の女優に吹き替えられたことについて質問されたヘプバーンは、不快感を露にして「よくもそんなことを訊けるものですね。確かに[[レックス・ハリスン|レックス]]は演技をしながら、同時に歌の録音もこなしていましたが・・・・・・次の機会には」と応え、唇をかみ締めてそれ以上は何も口にすることはなかった<ref name="archer" />。後にヘプバーンは、もし歌のほとんど全てを吹き替えられることが分かっていれば、あの役を引き受けることは決してなかったと語っている<ref name="myfairladydub"/>。 |
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ヘプバーンのイライザ役を巡る騒動は、第37回アカデミー賞授賞式で最高潮に達した。『マイ・フェア・レディ』はアカデミー賞に12部門でノミネートされ、そのうち8部門を受賞するという高い成績を残したが、ヘプバーンは主演女優賞にノミネートすらされなかった。そしてその年の主演女優賞を獲得したのは舞台版でイライザを演じたジュリー・アンドリュースで、『マイ・フェア・レディ』と同じミュージカル作品『[[メリー・ポピンズ]]』での受賞だったのである。マスコミはヘプバーンとアンドリュースが対立していると報道し、煽り立てようとしたが、ヘプバーンもアンドリュースも、両者の間には悪い感情はなく、仲のいい友人であるとこれらの報道を否定した。このような騒動はあったものの、多くの評論家は『マイ・フェア・レディ』でのヘプバーンの演技を「最高」だと賞賛した<ref name=telegraphob/>。ボズリー・クロウザーは『ニューヨークタイムズ』誌で「『マイ・フェア・レディ』で最も素晴らしいことは、オードリー・ヘプバーンを主演にするというジャック・ワーナーの決断が正しかったことを、ヘプバーン自身が最高のかたちで証明して見せたことだ」と評した<ref name="bcmyfairlady"/>。舞台版『マイ・フェア・レディ』でイライザの相手役のヒギンズ教授役を演じ、映画版でも引き続きヒギンズ教授役を務めた[[レックス・ハリスン]]はヘプバーンのことをお気に入りの一流の女優だと呼び、『サウンドステージ』誌のジーン・リングゴールドも「オードリー・ヘプバーンはすばらしい。彼女こそ現在のイライザだ」「ジュリー・アンドリュースがこの映画に出演しないのであれば、オードリー・ヘプバーン以外の選択肢はありえないという意見に反対するものは誰もいないだろう」とコメントしている<ref name="soundstage" />。 |
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ヘプバーンは1966年のコメディ映画『[[おしゃれ泥棒]]』で、有名な美術コレクターだが実は所有しているのは全て偽物であるという贋作者の娘で、父親の悪事が露見することを恐れる娘ニコルを演じた。ニコルは[[ピーター・オトゥール]]演じる探偵シモン・デルモットに、相手が父親のことを調べている探偵だとは知らずに父親の悪事の隠蔽を依頼するという役だった。1967年には2本の映画に出演した。『[[いつも2人で]]』は、一組のカップルの波乱に満ちた結婚生活を、一本の道を舞台に描き出すという実験的なイギリス映画である。監督の[[スタンリー・ドーネン]]は、撮影中のヘプバーンがそれまでになく快活で楽しそうに見えたと語り、共演した[[アルバート・フィニー]]のおかげだったとしている。<ref>[http://audreyhepburnlibrary.com/60s/images/screenland12-67pg6.jpg Behind Audrey Hepburn and Mel Ferrer's Breakup], ''Screenland'', December 1967</ref>。 |
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1967年にヘプバーンが出演したもう1本の映画が、サスペンススリラー映画『[[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]]』だった。ヘプバーンは脅迫を受ける盲目の女性を演じ、その演技の幅の広さを見せ付けた。この『暗くなるまで待って』はヘプバーンとメル・ファーラーの離婚直前に撮影された映画だった。この作品にはファーラーが製作者として参加していたために、ヘプバーンの体重はストレスで7kg近く落ちてしまったが、共演者の[[リチャード・クレンナ]]と監督の[[テレンス・ヤング]]に安らぎを見出したヘプバーンは、何とか撮影を乗り切ることができた。ヘプバーンはこの『暗くなるまで待って』のスージー役で5回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされている。ボズリー・クロウザーは「ヘプバーンは哀切な役を演じた。彼女が見せる激しい動揺や恐怖心は我々の同情心や不安を掻きたててやまず、最後の場面では心から無事でいてくれと願ってしまう」と評した<ref> |
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{{cite news |
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|url=http://movies.nytimes.com/movie/review?res=9E05E2DE1038E43BBC4F51DFB667838C679EDE |
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|work=The New York Times |
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|first=Bosley |
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|last=Crowther |
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|title=The Screen:Audrey Hepburn Stars in 'Wait Until Dark' |
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|date=1967-10-27 |
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}}</ref>。 |
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=== 最後の映画作品 === |
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1967年に、ヘプバーンは芸能界における15年間にわたる輝かしい経歴に区切りをつけ、家族との暮らしに時間を費やすことを決めた。その後ヘプバーンが映画への復帰を企図したのは1976年のことで、[[ショーン・コネリー]]と共演した歴史映画『[[ロビンとマリアン]]』への出演だった。1979年にはサスペンス映画『[[華麗なる相続人]]』の主役エリザベス・ロフを演じた。この作品の監督は1967年の『暗くなるまで待って』と同じくテレンス・ヤングで、共演は[[ベン・ギャザラ]]、[[ジェームズ・メイソン]]、[[ロミー・シュナイダー]]らだった。『華麗なる相続人』の原作は[[シドニー・シェルダン]]の小説『血族』([[:en:Bloodline (Sheldon novel)|Bloodline]]) で、シェルダンは映画化に当たり、ヘプバーンの実年齢にあわせてエリザベス・ロフを年長の女性に書き直している。大富豪の一族を巡る国際的な陰謀や人間関係をテーマとした映画だったが、評論家からは酷評され、興行的にも失敗して製作会社は大損害を被った。 |
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ヘプバーンが映画で最後に主役を演じたのは、[[ピーター・ボグダノヴィッチ]]が監督した1981年のコメディ映画『ニューヨークの恋人たち』([[:en:They All Laughed]]) である。しかしながら、ボグダノヴィッチの交際相手でこの作品にも出演していた[[ドロシー・ストラットン]]が、離婚寸前だった夫に1980年に殺害され、この作品の公開が危ぶまれた。最終的には公開までこぎつけたが、それでも短期間の上映に留まってしまっている。テレビ映画では1987年に『おしゃれ泥棒2』([[:en:Love Among Thieves]]) で、[[ロバート・ワグナー]]と共演した。『おしゃれ泥棒2』には、ヘプバーンが主演した『シャレード』や『おしゃれ泥棒』などの映画から多くの要素が取り入れられている。 |
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ヘプバーンの最後の出演映画となったのが1989年の[[スティーヴン・スピルバーグ]]監督作品『[[オールウェイズ (映画)|オールウェイズ]]』で、天使の役での[[カメオ出演]]だった。この映画以降、ヘプバーンが携わった芸能関連の作品は2本しかないが、どちらも非常に高く評価されヘプバーンの死後ではあるが国際的な賞を受賞している。1本が[[Public Broadcasting Service|PBS]]のテレビドキュメントシリーズ『オードリー・ヘプバーンの庭園紀行』([[:en:Gardens of the World with Audrey Hepburn]]) で、1990年の春から夏にかけて撮影された、世界7カ国の美しい庭園を紹介するという紀行番組だった。本放送に先立って1991年3月に1時間のスペシャル番組が放送され、シリーズ本編の放送が開始されたのはヘプバーンが死去した1993年1月21日の翌日からだった |
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{{cite web |
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|url=http://www.imdb.com/title/tt0221199/ |
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|title=Gardens of the World with Audrey Hepburn (1993) |
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|publisher=IMDb |
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|accessdate=2013-07-29 |
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}}</ref>。このテレビ番組で、ヘプバーンは死後に1993年のエミー賞の情報番組個人業績賞 ({{lang|en|Outstanding Individual Achievement – Informational Programming}}) を受賞した |
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{{cite web |
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|url=http://www.janson.com/rights/2010/09/23/gardens-of-the-world-with-audrey-hepburn/ |
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|title=Gardens of the World with Audrey Hepburn |
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|publisher=Janson Media |
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|accessdate=2013-07-29 |
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}}</ref>。もう1本の1992年に発売された子供向け昔話を朗読したアルバム『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語』 ([[:en:Audrey Hepburn's Enchanted Tales]]) では、[[グラミー賞]]の「最優秀子供向けスポークン・ワード・アルバム賞」を受賞した。ヘプバーンはグラミー賞とエミー賞をその死後に獲得した、数少ない人物の一人となっている。 |
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== ユニセフ親善大使 == |
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ヘプバーンは1989年に[[ユニセフ親善大使の一覧|ユニセフ親善大使]]に任命されている<ref> |
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{{cite web |
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|title=Audrey Hepburn |
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|url=http://www.unicef.org/people/people_audrey_hepburn.html |
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|publisher=UNICEF |
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|accessdate=2012-2-20 |
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|date=2004-10-14 |
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}}</ref>。そして、1992年にヘプバーンのユニセフでの活動をたたえてアメリカ合衆国大統領[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]が、文民に与えられるアメリカ最高位の勲章である[[大統領自由勲章]]をヘプバーンに授与した。さらに[[映画芸術科学アカデミー]]が、人道活動への貢献をたたえてヘプバーンの死後に[[ジーン・ハーショルト友愛賞]]を贈り、息子が代理として賞を受け取った。第二次世界大戦中にドイツ占領下のオランダで辛い幼少期を送り、その後女優として大きな成功をおさめることができたという経験から、ヘプバーンは残りの人生を最貧困国の恵まれない子供たちへの支援活動に充てることを決めたのである。ヘプバーンは多くの国々を訪れているが、言葉の面で苦労したことはほとんどなかった。ヘプバーンは母国語として英語とオランダ語を、さらにフランス語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語を流暢に操ることができたためである<ref>Paris 1996, p.91</ref>。 |
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ヘプバーンのユニセフでの本格的な活動は、1988年の[[エチオピア]]への訪問が最初だった。当時のエチオピアは軍事クーデターで大統領となった独裁者[[メンギスツ・ハイレ・マリアム]]と、反政府組織が内戦を繰り広げており、100万人を超える難民で疲弊しきった国だった。このエチオピアでヘプバーンは、ユニセフが食糧支援を行餓死寸前の子供たち500人を収容していたメケレ ([[:en:Mek'ele]]) の孤児院を慰問した。このエチオピア訪問でヘプバーンは「とても悲しく、絶望感すら覚えました。200万以上の人々が餓死寸前の危機にあり、その多くは子供たちなのです。エチオピアに食料がないわけではなく、分配できないだけです。エチオピアでは内戦が続いており、支援活動を行っていた赤十字とユニセフの職員は北部都市から避難するように勧告を受けました。私は反政府の地域へ赴き、そこで食料を求めて10日もあるいは3週間も歩き続ける母子を目にしました。床が砂でむき出しとなっているその場しのぎの難民キャンプで、人々は死を待つしかないのです。恐ろしいことです。耐えられません。「[[第三世界]]」という言葉が私は嫌いです。我々はともに一つの世界に暮らしているのです。人道上、非常な苦難に直面している多くの人々がいるのだということを世界中が認識してほしいと願っています」と語った<ref> |
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{{cite web |
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|url = http://www.audrey1.org/biography/21/audrey-hepburn-unicef-overview |
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|title = Audrey Hepburn – Ambassador of Children |
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|work=audrey1.com |
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|accessdate =2008-1-14 |
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}}</ref>。 |
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ヘプバーンは1988年8月に、予防接種のキャンペーンのために[[トルコ]]を訪れ、10月には南米諸国を訪れた。[[ヴェネズエラ]]と[[エクアドル]]をめぐったヘプバーンは「小さな山村やスラム街、貧民街にも水道が設置されています。これはユニセフによるちょっとした奇跡といってもいいでしょう。また、少年たちがユニセフから送られたレンガとセメントで自分たちの学校を立てているのも目にしました」と振り返っている。1989年2月には中米を訪問し、[[ホンジュラス]]、[[エルサルバドル]]、[[グアテマラ]]でそれぞれの大統領と面会している。同年4月にはロバート・ウォルダースとともに「オペレーション・ライフライン」計画の一環として[[スーダン]]を訪れた。当時のスーダンは内戦下にあり、援助団体からの食糧支援が途絶えており、この計画は[[南スーダン|スーダン南部]]へ食料を運びこもうとするものだった。<!-- Hepburn said, "I saw but one glaring truth: These are not [[natural disaster]]s but man-made tragedies for which there is only one man-made solution – peace."{{Citation needed|date=May 2009}} -->さらに10月にヘプバーンとウォルダースは[[バングラデシュ]]へ赴いた。国連の報道写真家ジョン・アイザック ([[:en:John Isaac (Photographer)]]) は「二人におびえて逃げ出そうとする子供もいるが、そんなときに彼女(ヘプバーン)はそっと近づいて抱きしめる。見たことのない光景だった。ためらいを見せるような子供には手を握ってやる。そのうちに子供たちが集まってきて、彼女の手を握ったりまとわりついたりしてくるんだ。彼女はまるで[[ハーメルンの笛吹き男|ハーメルンの笛吹き]]みたいだったよ」とそのときの様子を振り返っている。1990年10月にヘプバーンは[[ベトナム]]を訪れ、ユニセフが支援する予防接種の普及と水道設備設置に協力した。 |
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死去する4カ月前の1992年9月に、ヘプバーンは[[ソマリア]]を訪問した。当時のソマリアは、以前ヘプバーンが心を痛めたエチオピアやバングラデシュを上回るほどの悲惨な状況にあった。<!-- Calling it "apocalyptic", she said, "I walked into a nightmare. I have seen famine in Ethiopia and Bangladesh, but I have seen nothing like this – so much worse than I could possibly have imagined. I wasn't prepared for this." "The earth is red – an extraordinary sight – that deep [[terracotta]] red. And you see the villages, displacement camps and compounds, and the earth is all rippled around them like an ocean bed. And those were the graves. There are graves everywhere. Along the road, around the paths that you take, along the riverbeds, near every camp – there are graves everywhere."{{Citation needed|date=May 2009}}-->それでもなおヘプバーンは希望を捨ててはいなかった。「政治家たちは子供たちのことにはまったく無関心です。でもいずれの日にか[[人道援助|人道支援]]の政治問題化ではなく、政治が人道化する日がやってくるでしょう」「奇跡を信じない人は現実主義者とはいえません。私はユニセフがもたらした、水という奇跡を目にしてきたのです。何百年にもわたって、水を汲むために少女や女性たちが何マイルも歩く必要がありました。でもいまでは家のすぐそばに綺麗な水があるのです。水は生命です。綺麗な水はこの村の子供たちの健康と同義なのです」「貧しい場所に住む人々はオードリー・ヘプバーンはご存知ないでしょうが、ユニセフという名前を覚えてくださいました。ユニセフという文字を目にしたときにそのような人々の顔が明るくなります。何かが起こるということが分かっているからです。例えばスーダンでは、水を汲み上げるポンプは「ユニセフ」と呼ばれているのです」 |
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== 私生活 == |
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[[File:Audrey Hepburn and Mel Ferrer 1955.jpg|thumb|『戦争と平和』撮影中のヘプバーンとメル・ファーラー。1955年。]] |
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ヘプバーンは1952年に、ロンドンで舞台に立っていたころに知り合った男爵ジェイムズ・ハンソン ([[:en:James Hanson, Baron Hanson]]) と婚約した<ref>Alex Brummer, ''Hanson: a Biography'', (London: Fourth Estate, 1994) pp. 47–50 & p.52</ref>。ヘプバーン自身は「一目ぼれだった」と語っている。しかしながら、ウェディングドレスが出来上がり、日程も決まっていたにもかかわらず、この結婚は破談となった。二人の仕事があまりにも異なっており、ほとんどすれ違いの結婚生活になってしまうとヘプバーンが判断したためだった<ref>Hyams, Joe. [http://www.audreyhepburnlibrary.com/50s/images/filmland1-54pg4.jpg Why Audrey Hepburn Was Afraid Of Marriage], ''Filmland'', January 1954</ref>。当時のヘプバーンの言葉に「私は結婚するのなら「本当の」結婚がしたいのです」というものがある<ref name=autogenerated1>http://www.audreyhepburnlibrary.com/mfl/images/soundstage12-64pg30.jpg</ref>。また、1950年代初めには、その後ミュージカル作品『[[ヘアー (ミュージカル)|ヘアー]]』のプロデューサーをつとめるマイケル・バトラー ([[:en:Michael Butler (producer)]]) と交際していたこともある<ref>Kogan, Rick; [http://www.michaelbutler.com/orlok/michael/buttrib.html The Aging of Aquarius], Chicago Tribune, 6/30/96, michaelbutler.com. Retrieved 15 January 2010.</ref>。 |
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ヘプバーンは、1953年の『ローマの休日』で共演したグレゴリー・ペックと噂になったことがあるが、両者共にこの噂を一蹴している。しかしながらヘプバーンは「多かれ少なかれ女優は主演男優に好意を抱くものですし、その逆の場合もあるでしょう。演じられているキャラクターを好きになった経験がある人には理解できると思います。珍しいことではありません。ただ、撮影が終わるとそのような感情はなくなってしまうものです」とも語っている<ref>Tusher, Bill. [http://audreyhepburnlibrary.com/50s/images/motionpicture2-54pg4.jpg Candy Pants Princess], ''Motion Picture'', February 1954</ref>。恋愛関係にあったかどうかはともかく、ヘプバーンとペックは終生の友人だった。1954年の『麗しのサブリナ』の撮影中に、ヘプバーンと既婚だったウィリアム・ホールデンは恋愛関係にあったといわれている。ヘプバーンはホールデンとの結婚と子供を望んだが、ホールデンが精管切除を受けており、子供ができないことを知ったヘプバーンが別れを切り出したといわれている<ref>Paris, Barry. [http://www.audreyhepburnlibrary.com/90s/images/barryparispg3.jpg The Enduring Mystique of Audrey Hepburn], ''Audrey Hepburn'', 1996</ref><ref>[http://www.tcm.com/thismonth/article.jsp?cid=97161&mainArticleId=136023 Sabrina (1954)] from Turner Classic Movies<!-- Bot generated title --></ref> 。また、『麗しのサブリナ』で共演したハンフリー・ボガートとは不仲だったと広く信じられているが、「「気の強いもの同士」と言われたこともありますが、私と一緒のときのボギー(ボガートの愛称)はとても優しい人でした」とヘプバーンは語っている<ref>Hepburn, Audrey. [http://audreyhepburnlibrary.com/90s/images/filmfestpg1.jpg My Fair Lady], ''Film Festival''</ref>。 |
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[[File:Audrey Hepburn and Andrea Dotti by Erling Mandelmann - 2.jpg|thumb|left|ヘプバーンとアンドレア・ドッティ]] |
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グレゴリー・ペックが開いたカクテルパーティーで、ヘプバーンはアメリカ人俳優メル・ファーラーと出会った<ref name=soundstage/>。ファーラーは「僕たちは劇場について話しはじめた。彼女は僕とグレゴリー・ペックが舞台を共同製作したこともある、ラ・ジョラ・プレイハウス・サマー劇場のことをとてもよく知っていた。僕が出ていた映画『リリ』は3回観たとも言っていた。別れ際に彼女は、僕と共演したいからいい作品があればぜひ声をかけて欲しいと言ってきた」と、ファーラーはこの出会いを振り返っている<ref name=soundstage/><ref> |
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{{cite book |
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|last=Walter |
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|first=Alexander |
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|year=1997 |
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|title=Audrey |
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|publisher=St. Martin's Press |
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|isbn=0-312-18046-2 |
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}}</ref>。ファーラーはヘプバーンの役を獲得するために奔走し、ブロードウェイ作品『オンディーヌ』の脚本をヘプバーンに送った。ヘプバーンはこの舞台への出演を承諾し、1954年1月から舞台稽古が始まっている。出会い、共演し、そして愛し合うようになった二人は、1954年9月25日にスイスのバーゲンストックで結婚した<ref>http://www.audreyhepburnlibrary.com/50s/images/everybodys3-10-56pg1.jpg</ref>。二人の共演が決まっていた映画『戦争と平和』の撮影準備中のことだった。 |
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ファーラーとの間の唯一の子供が誕生する以前に、1955年と1959年の二度にわたってヘプバーンは流産している<ref>[http://www.audrey1.org/biography/17/audrey-hepburn-timeline-1950-1959 Audrey Hepburn Timeline 1950-1959] (retrieved 23 March 2013)</ref>。二度目の流産は『許されざる者』の撮影中に起こった落馬事故によるもので、岩に投げ出されたヘプバーンは背中を痛め、病院へと搬送されたが流産してしまった。このことはヘプバーンにとって心身ともに大きな傷となった。その後間もなく妊娠したヘプバーンは、子供を無事に出産するために一年間仕事を休んでいる。そして1960年7月17日に二人の長男ショーン・ヘプバーン・ファーラーが生まれた。 |
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ヘプバーンとファーラーの結婚生活は長く続かないといわれていたが、ヘプバーンはファーラーが気難しいことは認めつつも、二人の仲はうまくいっていると主張していた<ref>Stone, David. [http://www.audreyhepburnlibrary.com/50s/images/everybodys3-10-56pg2.jpg 'My Husband Mel'], ''Everybodys'', 10 March 1956</ref>。ファーラーがヘプバーンを支配下に置き、小説『トリルビー』の登場人物である[[スヴェンガーリ]]のようにヘプバーンを意のままにしているのではないかと噂されたことすらあるが、ヘプバーンはこの中傷を一笑に付している<ref>[http://audreyhepburnlibrary.com/60s/images/screenland12-67pg4.jpg Behind Audrey Hepburn and Mel Ferrer's Breakup], ''Screenland'', December 1967</ref>。ウィリアム・ホールデンは「オードリーがメルから影響されたがっているように見える」と語っている。その後もヘプバーンは妊娠したが、1965年と1967年の二度にわたり流産を繰り返した<ref>[http://www.audrey1.org/biography/18/audrey-hepburn-timeline-1960-1969 Audrey Hepburn Timeline 1960-1969] (retrieved 23 March 2013)]</ref>。最終的に二人は1968年12月5日に離婚し、二人の結婚生活は14年間で終わりを告げた。その後ファーラーは長寿を保ったが、2008年6月に心不全のために90歳で死去している。 |
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[[File:Audrey Hepburn and Ronald Reagan.jpg|thumb|左から、当時のアメリカ合衆国大統領[[ロナルド・レーガン]]、ヘプバーン、オランダ人俳優ロバート・ウォルダース。1981年。]] |
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ヘプバーンは船旅でイタリア人精神科医アンドレア・マリオ・ドッティと出会い、ギリシア遺跡を巡る旅行中にドッティに惹かれていった。ヘプバーンはさらに子供を望んでおり、そのためには女優を辞めてもいいと思っていた。当時40歳のヘプバーンと30歳のドッティは1969年1月18日に結婚し、1970年2月8日には[[帝王切開]]で男子ルカ・ドッティが生まれている。ルカを妊娠中のヘプバーンは日々の暮らしに非常に気を使い、数ヶ月間にわたる休養生活を絵を描いて過ごしていた。1974年にヘプバーンは再びドッティの子を身篭ったが流産している<ref> |
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{{cite web |
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|url=http://www.audrey1.org/biography/16/audrey-hepburn-timeline-1929-1949|title=An Audrey Hepburn Biography: 1955–1975 |
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|work=audrey1.com |
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|accessdate=2008-1-14 |
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}}</ref>。ドッティはヘプバーンを愛し、前夫メル・ファーラーとの息子ショーンとの仲も良好だったが、若い女性と関係を持つようになっていった。そしてヘプバーンのほうも1974年の映画『華麗なる相続人』の撮影中に、共演した[[ベン・ギャザラ]]と不倫の関係になっていた<ref> |
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{{cite news |
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|url=http://www.nytimes.com/2012/02/04/movies/ben-gazzara-actor-of-stage-and-screen-dies-at-81.html?hpw |
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|work=The New York Times |
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|first=Neil |
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|last=Genzlinger |
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|title=Ben Gazzara, Actor of Stage and Screen, Dies at 81 |
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|date=2012-2-3 |
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|accessdate=2012-2-3 |
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}}</ref>。ヘプバーンとドッティは1982年に離婚し、二人の結婚生活は13年で終わった。離婚したファーラーとの接触は徹底的に避けていたヘプバーンだったが、ドッティとは息子ルカの養育のことで離婚後も連絡を取り合った。ドッティは2007年10月に消化器官の合併症で死去している。 |
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ドッティとの結婚生活が続いていた1980年から死去するまでヘプバーンは、妻であるイギリス人女優[[マール・オベロン]]と死別したオランダ人俳優ロバート・ウォルダース ([[:en:Robert Wolders]]) と恋愛関係にあった<ref> |
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{{cite news |
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|url=http://www.nytimes.com/specials/magazine4/articles/hepburn1.html |
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|work=The New York Times |
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|title=Audrey Hepburn, Actress, Is Dead at 63 |
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}}</ref>。二人が知り合ったのは友人を介してであり、ヘプバーンとドッティとの結婚生活が終わりを迎えようとしていた時期だった。ドッティとの離婚が成立すると、ヘプバーンとウォルダースは一緒に暮らし始めたが、正式に結婚することはなかった。1989年のアメリカ人ジャーナリストバーバラ・ウォルターズとのインタビューで、ウォルダースと暮らしたそれまでの9年間を人生で最良の日々と振り返っている。 |
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== 死去 == |
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[[File:Grave of Audrey Hepburn, Tolochenaz, Switzerland - 20080711.jpg|thumb|175px|スイスのトロシュナ ([[:en:Tolochenaz]]) にあるヘプバーンの墓。]] |
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1992年9月終わりに、ユニセフの活動で赴いていたソマリアからスイスの自宅へ戻ったヘプバーンは、腹痛に悩まされるようになった。専門医の診察を受けたが原因がはっきりせず、精密検査を受けるために10月にロサンゼルスへと渡った。11月1日にシダーズ=サイナイ医療センター ([[:en:Cedars-Sinai Medical Center]]) で診察を受け、担当医が腹腔鏡検査でヘプバーンの腹部に悪性腫瘍を発見し、[[虫垂癌|虫垂]]にも転移していることが判明した。これは[[腹膜偽粘液腫]]と呼ばれる極めて珍しいがんの一種だった<ref>Paris 1996, p.361</ref>。何年もかけて成長した悪性腫瘍が転移しており、小腸をも薄く覆い尽くしていた。外科手術のあと、医者はヘプバーンに抗がん剤[[フルオロウラシル]]と[[フォリン酸]]の投与による化学療法を開始した<ref name=cr> |
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{{cite web |
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|url=http://www.crmagazine.org/archive/Fall2009/Pages/AudreyHepburnAppendixCancer.aspx|title=Selim Jocelyn, ""The Fairest of All", ''CR Magazine'', Fall 2009 |
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|publisher=Crmagazine.org |
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|accessdate=10 March 2010 |
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|archiveurl= http://web.archive.org/web/20100419051634/http://www.crmagazine.org/archive/Fall2009/Pages/AudreyHepburnAppendixCancer.aspx |
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|archivedate= 19 April 2010 |
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|deadurl= no}}</ref>。手術から数日後ヘプバーンは腸閉塞にかかり、薬物療法だけでは身体の痛みを和らげることができなくなった。12月1日に再手術が行われたが、すでに悪性腫瘍が身体各部に転移しており、外科手術による摘出は不可能であるという決断がなされた。 |
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ヘプバーンの余命がわずかであることを知らされた家族たちは、ヘプバーンの最後になるであろうクリスマスを自宅で過ごさせるために、スイスの自宅へとヘプバーンを送り返すことを決めた。しかしながら術後のヘプバーンは回復しきってはおらず、通常の国際便での旅には耐えることができない状態だった。このことを知ったヘプバーンの衣装デザイナーで長年にわたる友人だった[[ジバンシィ|ユベール・ド・ジバンシィ]]が、[[メロン財閥]]のポール・メロンの妻レイチェル・ランバート・メロンに頼んで、メロンが所有するプライベートジェット機をヘプバーンのために手配した。そして多くの花々で満たされたこのジェット機が、ヘプバーンをロサンゼルスからジェノヴァまで運んだ<ref>Harris, Warren G., (1994). – ''Audrey Hepburn: A Biography''. – New York, New York: Simon & Schuster. – p.289. – ISBN 0-671-75800-4</ref>。1993年1月20日の夕方、ヘプバーンはスイスのトロシュナ ([[:en:Tolochenaz]]) の自宅で、がんのために息を引き取った。ヘプバーンの死を知った旧友グレゴリー・ペックは、ヘプバーンが好きだった[[ラビンドラナート・タゴール]]の詩を涙ながらに朗読している<ref> |
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{{cite web |
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|url = http://www.audrey1.com/poems.html |
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|archiveurl = http://web.archive.org/web/20070108192436/http://www.audrey1.com/poems.html |
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|archivedate = 2007-1-8 |
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|title = Two favorite poems of Audrey Hepburn |
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|work=audrey1.com |
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|accessdate = 2008-1-14 |
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}}</ref>。 |
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ヘプバーンの葬儀は、1993年1月24日にトロシュナの教会で執り行われた。ヘプバーンとメル・ファーラーの結婚式で牧師を務め、1960年に生まれた二人の息子ショーンの洗礼も担当したモーリス・アインディガーがこの葬儀を取り仕切った。ユニセフからはサドルッディーン・アーガー・ハーン ([[:en:Prince Sadruddin Aga Khan]]) が弔辞を寄せ、高官たちがこの葬儀に加わっている。家族や友人、知人としては、ヘプバーンの息子たちや共に暮らしていたロバート・ウォルダース、異父兄イアン・クオールズ・ファン・ユフォルト、元夫のアンドレア・ドッティとメル・ファーラー、ユベール・ド・ジバンシィ、[[アラン・ドロン]]、[[ロジャー・ムーア]]らが参列した<ref> |
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{{cite news |
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|url=http://www.nytimes.com/1993/01/25/arts/hepburn-s-role-as-ambassador-is-paid-tribute.html |
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|work=The New York Times |
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|first=David |
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|last=Binder |
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|title=Hepburn's Role As Ambassador Is Paid Tribute |
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|date=1993-1-25 |
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}}</ref>。また、グレゴリー・ペック、[[エリザベス・テイラー]]、オランダ王室からは献花が届けられた<ref> |
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{{cite news |
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|url=http://www.people.com/people/archive/article/0,,20063483,00.html |
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|work=People |
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|title= A Gentle Goodbye -Surrounded by the Men She Loved, the Star Was Laid to Rest on a Swiss Hilltop |
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|date=1993-1-1 |
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}}</ref>。葬儀の後、ヘプバーンはトロシュナを一望できる小高い丘の小さな墓地に埋葬された<ref>News Service, N.Y. Times. (25 January 1993). "Hepburn buried in Switzerland". ''Record-Journal''. p. 10.</ref>。 |
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== 後世への影響や評価 == |
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{{Quotation |
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|どのように言えばいいのでしょう。とにかく私の人生はとても幸せでした。 |
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|オードリー・ヘプバーン |
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|<ref>[http://www.audreyhepburn.com/menu/index.php?idMenu=56 Audrey Hepburn Children's Fund - Legacy]</ref> |
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}} |
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ヘプバーンの女優としての業績とその人間性は死後も長く伝えられている。[[米国映画協会]]が選定した「最も偉大な女優50選」でヘプバーンは第3位になっている。芸能界から遠ざかった晩年においても、ヘプバーンは映画界で存在感を放っていた。1991年にはリンカーン・フィルム・ソサエティから表彰を受け、アカデミー授賞式では何度もプレゼンターを務めている。ヘプバーンが死後に受けた賞としては、1993年の[[ジーン・ハーショルト友愛賞]]、グラミー賞、エミー賞などがある。ヘプバーンの生涯は数多くの伝記となり、2000年には『オードリー・ヘプバーン物語』としてテレビ映画化されている。このテレビ映画でヘプバーン役を演じたのは[[ジェニファー・ラブ・ヒューイット]]で、少女時代のヘプバーンは[[エミー・ロッサム]]が演じた<ref> |
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{{cite news |
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|last=Tynan |
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|first=William |
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|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,996489,00.html |
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|title=The Audrey Hepburn Story |
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|work=TIME |
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|date=200-3-27 |
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|accessdate=2010-3-10 |
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}}</ref>。 |
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ヘプバーンの映像は、世界中の広告媒体に使用されている。日本では『ローマの休日』の[[映画の着色化|モノクロフィルムを着色]]してデジタル化された映像が[[麒麟麦酒|キリン]]の[[午後の紅茶]]の[[コマーシャルメッセージ|CM]]に採用されているほか、[[三井住友銀行]]が、[[インターネット]]を利用した銀行サービスや女性顧客向けの総合口座サービスのCMキャラクターにヘプバーンを起用している。このCMは、ヘプバーンが出演した映画から有名な場面を抜き出し、宣伝する商品に合うような日本語の[[台詞]]を吹き込む形式を取っている。この[[吹き替え|吹替]]を担当した[[声優]]がヘプバーンの映画作品でヘプバーンの声を多く担当した[[池田昌子]]だった。アメリカでは『パリの恋人』でヘプバーンが踊るシーンが、[[AC/DC]]の曲『バック・イン・ブラック』とともに衣料メーカの[[ギャップ (企業)|GAP]]のCMに採用された。GAPはオードリー・ヘプバーン子供基金に多額の献金をしている<ref> |
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{{cite web |
|||
|url=http://www.wboc.com/Global/story.asp?S=5371942 |
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|title=New Gap marketing campaign featuring original film footage of Audrey Hepburn helps Gap "Keeps it Simple" this Fall – WBOC-TV 16 |
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|publisher=Web.archive.org |
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|date=2007-9-28 |
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|accessdate=2010-9-6 |
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|archiveurl = http://web.archive.org/web/20070928010941/http://www.wboc.com/Global/story.asp?S=5371942 |
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|archivedate = 2007-9-28 |
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}}</ref>。2013年には、コンピュータ処理されたヘプバーンの画像がイギリス製チョコレートのギャラクシー ([[:en:Galaxy (chocolate)]]) の広告に使用された<ref> |
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{{cite news |
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|url=http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/tv/features/audrey-hepburn-advertisegalaxy-chocolate-bars-over-her-dead-body-8508603.html |
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|title=Audrey Hepburn advertise Galaxy chocolate bars? Over her dead body! |
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|work=The Independent |
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|date=2013-2-24 |
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|accessdate=2013-2-28 |
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|author=Usborne, Simon |
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}}</ref>。また一部では、ヘプバーンを同性愛者のアイコンにしようとする動きもある<ref> |
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{{cite news |
|||
|url=http://www.belfasttelegraph.co.uk/entertainment/kyle-in-queen-sweep-as-gay-icon-of-all-time-13399454.html |
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}}</ref> |
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<ref> |
|||
{{cite web |
|||
|last=Grew |
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|first=Tony |
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|url=http://www.pinknews.co.uk/news/articles/2005-3431.html/ |
|||
|title=Gordon Ramsay 50th most popular gay icon |
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|publisher=PinkNews.co.uk |
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|date=2007-1-5 |
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|accessdate=2011-7-14 |
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|archiveurl= http://web.archive.org/web/20110628232032/http://www.pinknews.co.uk/news/articles/2005-3431.html/ |
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|archivedate= 2011-6-28 |
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|deadurl= no}}</ref> |
|||
<ref> |
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{{cite web |
|||
|url=http://www.npg.org.uk:8080/gayicons/youricons.htm |
|||
|title=National Portrait Gallery – Gay Icons |
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|publisher=Npg.org.uk:8080 |
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|date= |
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|accessdate=2011-7-14 |
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}}</ref>。 |
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=== ファッション === |
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ヘプバーンは1961年にインターナショナル・ベスト・ドレッサー ([[:en:International Best Dressed List]]) に選ばれて殿堂入りしており、死後においてもファッション界から敬意を払われている。[[アメリカ]]の通信販売大手[[QVC]]による「20世紀最高の美女」を決める[[アンケート]]調査(女性2000人を対象に実施)と、飲料水[[エビアン]]を発売する[[ダノン]]による「史上最高の美女」の調査アンケートで、ともに1位となった<ref>[http://www.vanityfair.com/culture/bestdressed/bestdressed_women?currentPage=3 ''Vanity Fair'']</ref> |
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<ref> |
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{{cite book |
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|title=Ultimate Style – The Best of the Best Dressed List |
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|pages=74–77 & 89 |
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|isbn= 2 84323 513 8 |
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|year=2004 |
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}}</ref> |
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<ref name = "SMH"> |
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{{cite news |
|||
|url = http://www.smh.com.au/articles/2004/05/31/1085855500521.html |
|||
|title = Audrey Hepburn 'most beautiful woman of all time' |
|||
|date = 2004-1-1 |
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|work=The Sydney Morning Herald |
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}}</ref> |
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<ref name = "BBC"> |
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{{cite news |
|||
|url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/3763887.stm |
|||
|title = Audrey Hepburn tops beauty poll |
|||
|publisher=BBC NEWS |
|||
|date = 2004-5-31 |
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}}</ref> |
|||
<ref>{{cite web |
|||
|title=Actress Tops Poll Of 20th Century Beauties |
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|url=http://news.sky.com/home/showbiz-news/article/15657271 |
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|work=Sky |
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|date=2010-7-1 |
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|accessdate=2011-12-18 |
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|first=Lulu |
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|last=Sinclair |
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}}</ref>。当時のハリウッドでもてはやされていた、マリリン・モンロー、[[マルティーヌ・キャロル]]、[[キム・ノヴァク]]、[[ラナ・ターナー]]といった豊満な女優たちとは異なり、痩身のヘプバーンは優雅で大きな瞳と長い脚の非常に女性的な女優だった。当時の女性に対する典型的なイメージとは正反対の細いブラウンの眉を持つヘプバーンのことを、映画監督ビリー・ワイルダーは「忘れ難いファニーフェイス」と回想している。ワイルダーは「この女性が大きな胸を過去の遺物としてしまうだろう」とジョークを飛ばしたこともあった<ref name="Audrey Hepburn 1993"/>。 |
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ヘプバーンのお茶目な妖精のような美貌と人形めいた痩身というイメージを決定付けたのは、ファッションデザイナーのユベール・ド・ジバンシィがデザインした洋服だった。<ref name=weilerelfin/>。ジバンシィがヘプバーンのドレスを最初にデザインしたのは、1954年の映画『麗しのサブリナ』からである。ジバンシィは、「ヘプバーン」という女優の洋服を担当することになったと告げられたときのことを次のように回想している。ジバンシィは「ヘプバーン」という名前から、自身が担当する女優は[[キャサリン・ヘプバーン]]だと思い込んでいた。そのためオードリー・ヘプバーンと初めて顔を合わせたジバンシィは失望し、この依頼を断ろうとして空いている時間がほとんどないとヘプバーンに答えている。それでも自身を魅力的に見せてくれるであろう衣装を正しく理解していたヘプバーンは、とにかくジバンシィがデザインした最新の洋服を見せてくれるように頼んだという<ref name="zekas1"/>。『麗しのサブリナ』から始まる二人の友情と協力関係はヘプバーンが死去するまで続いた。ヘプバーンはジバンシィがデザインした多くの洋服を見事に着こなし、そのファッションスタイルは世界的に高く評価されることになっていった。 |
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「ジバンシィは私(ヘプバーン)の外見に、さまざまなものを加えてくれました。彼はいつも素晴らしく、そして最高でい続けてくれました。彼と私の好みはずっと同じだったのです。特別な素材と途方もない才能で仕立てられた、シンプルな細身のドレスと一組のイアリング以上に美しい装いはないでしょう」とヘプバーンは語っている<ref name="Audrey Hepburn 1993"/>。ジバンシィは『麗しのサブリナ』以降も『パリの恋人』、『昼下がりの情事』、『ティファニーで朝食を』、『パリで一緒に』、『シャレード』、『おしゃれ泥棒』など、さまざまな映画作品でヘプバーンの衣装を担当した。また、ジバンシィはヘプバーンとの35年にわたる交友で「彼女(ヘプバーン)の身体のサイズは、1インチとして変わらない」ことにいつも驚かされていた<ref name="Audrey Hepburn 1993">Regard sur Audrey Hepburn, Regard Magazine n° 4, Paris, January 1993.</ref>。ジバンシィはヘプバーンの生涯を通じての友人、理解者であり、ヘプバーンはジバンシィにとって芸術の女神[[ムーサー|ミューズ]]だった。ヘプバーンは「私とユベールはよく似ています。好みが同じなのです」と語っている<ref name="Audrey Hepburn 1993"/>。ヘプバーンはジバンシィのファッションモデルになったこともある。1988年にジバンシィがパリでサマー・コレクションを開催したときにヘプバーンは「私は世界のどこにいても、身近にユベールを感じています。彼は俗事に関心を向けるような人ではありません。自分の好きなことにしか興味がないのです」とコメントした<ref name="Audrey Hepburn 1993"/>。また、ジバンシィは「ランテルディ」という香水をヘプバーンのために調合している<ref>「ランテルディ ({{lang|fr|L'Interdit}})」はフランス語で「禁止」という意味である。この香水を気に入ったヘプバーンが、冗談で自分以外は使用禁止と言ったことから「ランテルディ」と名付けられたという。</ref>。 |
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ジバンシィと同様に、著名なファッションカメラマンの[[リチャード・アヴェドン]]にとってもヘプバーンはミューズだった。アヴェドンが撮影したヘプバーンの顔のクローズアップ写真は、国際的に有名になった。この写真にはヘプバーンの特徴である眼差し、眉、口元が見事に映し出されていた。アヴェドンはヘプバーンについて「ヘプバーンを被写体にするという幸運に恵まれると、いまも、そしてこれから先もずっと私は自身の無力さを痛感することだろう。私には彼女の更なる魅力を引き出すことはできない。彼女はただそこに在り、私はそれを記録するのがやっとだ。何も付け加えることができない素晴らしい女性といえる。彼女の存在それ自身が完璧な肖像写真だ」と語っている<ref>Karney, Robyn. ''A Star Danced: The Life of Audrey Hepburn,'' Bloomsbury. London: 1993</ref>。ヘプバーンと共演経験がある女優[[シャーリー・マクレーン]]は、1996年の著書『マイ・ラッキー・スターズ―わがハリウッド人生の共演者たち』で「(ヘプバーンは)稀に見る高い審美眼を持った女性で、私は彼女のスタイルやセンスを羨望の眼差しで眺めていました。彼女の近くにいるときには、自分が不恰好で流行おくれだと感じたものです」と記している。現代でもヘプバーンのファッションスタイルは、女性たちからの支持を集め続けている<ref> |
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{{cite web |
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|url=http://www.factio-magazine.com/specialfeatures/des__Audrey.cfm |
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|archiveurl=http://web.archive.org/web/20080114022425/http://www.factio-magazine.com/specialfeatures/des__Audrey.cfm |
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|archivedate=2008-1-14 |
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|title=Audrey Hepburn’s Best-dressed Film Icon |
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|publisher=Web.archive.org |
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|date=2008-1-14 |
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|accessdate=2011-7-14 |
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}}</ref>。 |
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[[File:Audrey Hepburn Tiffany's 3.jpg|thumb|『ティファニーで朝食を』(1961年)のサングラスをかけたヘプバーン。]] |
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イタリアの靴デザイナーである[[サルヴァトーレ・フェラガモ]]は1999年に、「オードリー・ヘプバーンという女性、そのスタイル ({{lang|en|Audrey Hepburn, a woman, the style}})」と銘打った展示会で、ヘプバーンのためにデザインした靴を発表したことがある。また、『ティファニーで朝食を』でヘプバーンがサングラスをかけていたことで、当時の女性たちの間でもサングラスが流行した。この作品でヘプバーンがかけていたサングラスは[[レイバン]]のウェイファーラーモデル ([[:en:Ray-Ban Wayfarer]]) だと間違えられることが多いが、オリヴァー・ゴールドスミスがデザインした「マンハッタン」と呼ばれるサングラスである<ref name="eye-wear-glasses.com">[http://www.eye-wear-glasses.com/2011/01/oliver-goldsmith-to-remake-audrey.html Oliver Goldsmith to remake Audrey Hepburn's sunglasses to mark 50th anniversary of Breakfast at Tiffany's]</ref>。サングラスを着用したヘプバーンの写真は『[[ヴォーグ (雑誌)|ヴォーグ]]』や『[[ハーパース・バザー]]』など、多くのファッション誌の表紙を飾った。ヘプバーンはその生涯を通じてファッション界に刺激を与え、死後も影響を及ぼし続けている。ファッション評論家たちは、ヘプバーンがファッション界のアイコンとして長きに渡って親しまれているのは「すっきりとしたライン、シンプルだが目立つアクセサリー、単色でまとめた色使い」という、自分に似合うスタイルを貫き通したからだとしている<ref> |
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{{cite news |
|||
|title=Audrey Hepburn: Why the fuss? |
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|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/magazine/4884428.stm|first=Megan |
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|last=Lane |
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|publisher=BBC |
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|work=BBC News |
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|date=2006-4-7 |
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}}</ref>。 |
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ヘプバーンはファッションを楽しんではいたが、普段の暮らしの中ではそれほど重要視していなかった。世間から思われているイメージとは違って、ヘプバーンが好んでいたのはカジュアルで気楽な衣服だった<ref name> |
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{{cite news |
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|url=http://www.theage.com.au/news/people/hepburn-revival-feeding-false-image/2006/10/01/1159641215445.html |
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|title=Hepburn revival feeding false image? |
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|work=The Age |
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|location=Australia |
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|date=2006-10-2 |
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|location=Melbourne |
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}}</ref>。さらにヘプバーンは自身が魅力ある女性だとは思っていなかった。1959年のインタビューで「私は定期的に自分のことが大嫌いになります。太りすぎ、背が高すぎ、もしかしたら単純に醜いだけなのではないかと。私が本来、自分に自信がなく劣等感を抱えた優柔不断な女性であることは間違いありません。無理矢理にでも気力を振り絞らないと何もできないのです」と語っている<ref>Harris, Eleanor. [http://www.audreyhepburnlibrary.com/50s/images/goodhousekeeping8-59pg4.jpg Audrey Hepburn], ''Good Housekeeping'', August 1959</ref>。 |
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2006年12月5日に、『ティファニーで朝食を』のためにジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレスが[[クリスティーズ]]のオークションにかけられた。落札予想額は70,000ポンドだったが、最終的にはその7倍近い467,200ポンド(約92万ドル)で落札された。映画由来の衣装についた価格としては当時最高額だったが<ref> |
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{{cite news |
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|last=Dahl |
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|first=Melissa |
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|title=Stylebook: Hepburn gown fetches record price| |
|||
publisher=Pittsburgh Post-Gazette |
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|date=2006-12-11 |
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|url=http://www.post-gazette.com/pg/06345/745167-314.stm |
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|accessdate=1 January 2010 |
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}}</ref>、マリリン・モンローが『七年目の浮気』で着用した、地下鉄の通気口からの風でまくれ上がった「サブウェイ・ドレス」が2011年6月に460万ドルで売却されてヘプバーンの記録を更新している<ref> |
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{{cite news |
|||
|url=http://www.reuters.com/article/2011/06/19/us-monroe-idUSTRE75I2NM20110619 |
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|title=Marilyn Monroe "subway" dress sells for $4.6 million |
|||
|publisher=Reuters |
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|date=19 June 2011 |
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|accessdate=29 June 2011 |
|||
}}</ref>。このヘプバーンのドレスの収益金は、インドの恵まれない子供たちを救済するチャリティー基金に寄付された。基金の責任者は「私は涙を禁じえません。伝説的とも言える女優が着用した衣装がレンガやセメントの購入資金となり、世界中の貧しい子供たちが通える学校を建てられることになるとは、本当に信じられない気持ちです」と述べた<ref name="BBC2"> |
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{{cite news |
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|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/6209658.stm |
|||
|title=Auction Frenzy over Hepburn dress |
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|publisher=BBC NEWS |
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|date=2006-12-5 |
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}}</ref>。しかしながら、このクリスティーズのオークションに出品されたドレスは、ヘプバーンが『ティファニーで朝食を』で着用したドレスではなかった<ref>[http://www.christies.com/Lotfinder/lot_details.aspx?sid=&intObjectID=4832498&AllObjectIDs=&SRObjectID=&AllSaleIDs=&SRSaleID=&RefineQueryURL= Christie's online catalog]. Retrieved 7 December 2006.</ref>。『ティファニーで朝食を』ではジバンシィがデザインした複数のドレスが用意されたが、実際にヘプバーンが映画で着用したドレスは2点だけだった。それら2点のドレスのうち1点はジバンシィが保存しており、もう1点はマドリードの衣装博物館に展示されている<ref name="BBC2" />。2009年12月にもロンドンでヘプバーンが映画で使用した衣装のオークションが開催され、60,000ポンドの価格がついた『おしゃれ泥棒』で着用した黒のカクテルガウンなど、総額270,200ポンド(437,000ドル)で落札された。そしてオークションの収益金のうち半分が、オードリー・ヘプバーン子供基金とユニセフが共同で行っている学童支援活動に寄付された<ref name="Daily Mail"> |
|||
{{cite news |
|||
|url=http://www.dailymail.co.uk/femail/article-1234361/Audrey-Hepburns-Givenchy-couture-collection-sold-auction-270-000.html |
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|title=Audrey Hepburn's Givenchy couture collection sold at auction for £270,000 |
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|work=Daily Mail |
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|location=UK |
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|date=2009-12-9 |
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|first=Claire |
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|last=Ellicott |
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}}</ref>。 |
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== 出演作品 == |
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{| class="wikitable sortable" width="100%" |
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|+ 映画作品 |
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! width="5%"| 公開年 |
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!公開年!!邦題 <br />原題!!役名!!備考 |
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! width="25%"| 邦題<br />原題 |
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! width="25%"| 配役 |
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! class="unsortable" width="45%"| 備考 |
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| 1948年 |
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|style="text-align: center;"| 1948 || [[オランダの7つの教訓]]<br />''[[:en:Nederlands in 7 lessen|Nederlands in 7 lessen]]'' ||スチュワーデス|| |
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| オランダの七つの教訓<br />''{{lang|nl|Nederlands in Zeven Lessen}}'' |
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| オランダ航空のスチュワーデス |
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| {{lang-nl|Nederlands in Zeven Lessen}} |
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| 1951年 |
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|style="text-align: center;" rowspan="3"| 1951 || [[若気のいたり]]<br />''[[:en:One Wild Oat|One Wild Oat]]'' ||ホテルの受付嬢|| |
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| 若気のいたり<br />''{{lang|en|One Wild Oat}}'' |
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| ホテルの受付嬢 |
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| 端役 |
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| 1951年 |
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| [[素晴らしき遺産]]<br />''[[:en:Laughter in Paradise|Laughter in Paradise]]'' ||シガレットガール|| |
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| 若妻物語<br />''{{lang|en|Young Wives' Tale}}'' |
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| イヴ・レスター |
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| 端役 |
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| 1951年 |
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| [[ラベンダー・ヒル・モブ]]<br />''[[:en:The Lavender Hill Mob|The Lavender Hill Mob]]'' ||チキータ|| |
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| 素晴らしき遺産<br />''{{lang|en|Laughter in Paradise}}'' |
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| 煙草売りのフリーダ |
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| 端役 |
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| 1951年 |
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|style="text-align: center;" rowspan="3"| 1952 || [[若妻物語]] <br />''[[:en:Young Wives' Tale|Young Wives' Tale]]'' ||イヴ・レスター|| |
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| ラベンダー・ヒル・モブ<br />''{{lang|en|The Lavender Hill Mob}}'' |
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| チキータ |
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| 端役 |
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| 1952年 |
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| [[初恋 (1952年の映画)|初恋]]<br />''{{lang|en|The Secret People}}'' |
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| ノラ・ブレンターノ |
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| 初の重要な役どころ |
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| 1952年 |
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| [[モンテカルロへ行こう]]<br />''[[:en:Nous irons à Monte Carlo|Nous irons à Monte Carlo]]'' ||メリッサ・ウォルター(フランス語版)/リンダ・ファレル(英語版) || |
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| [[モンテカルロへ行こう]]<br />''{{lang|fr|Nous irons à Monte Carlo}}''<br />''{{lang|en|Monte Carlo Baby}}'' |
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| メリッサ・ウォルター(フランス語版)/リンダ・ファレル(英語版) |
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| 英語版とフランス語版の二種類が製作された |
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| 1953年 |
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| [[ローマの休日]]<br />''{{lang|en|Roman Holiday}}'' |
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| アン王女(アーニャ・スミス) |
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| アカデミー賞 最優秀主演女優賞受賞<br />英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞<br />ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞受賞(ドラマ部門)<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞受賞 |
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| 1954年 |
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| [[初恋 (1952年の映画)|初恋]]<br />''[[:en:The Secret People (film)|The Secret People]]'' ||ノラ・ブレンターノ|| |
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| [[麗しのサブリナ]]<br />''{{lang|en|Sabrina}}'' |
|||
| サブリナ・フェアチャイルド |
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| アカデミー賞 最優秀主演女優賞ノミネート<br />英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞ノミネート<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート |
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| 1956年 |
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| [[戦争と平和 (1956年の映画)|戦争と平和]]<br />''{{lang|en|War and Peace}}'' |
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| ナターシャ・ロストワ |
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| 英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞ノミネート<br />ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ドラマ部門) |
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| 1957年 |
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|style="text-align: center;"| 1953 || [[ローマの休日]]<br />''[[:en:Roman Holiday|Roman Holiday]]'' ||アン王女(アーニャ・スミス)|| アカデミー賞最優秀主演女優賞受賞<br />ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞受賞 (ドラマ部門)<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞受賞 |
|||
| [[昼下がりの情事]]<br />''{{lang|en|Love in the Afternoon}}'' |
|||
| アリアーヌ・シャバッス |
|||
| ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ミュージカル・コメディ部門)<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート |
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| 1957年 |
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| [[パリの恋人]]<br />''{{lang|en|Funny Face}}'' |
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| ジョー・ストックトン |
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| 最初のミュージカル映画作品 |
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| 1959年 |
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|style="text-align: center;"| 1954 || [[麗しのサブリナ]]<br />''[[:en:Sabrina (1954 film)|Sabrina]]'' ||サブリナ・フェアチャイルド|| |
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| [[緑の館 (映画)|緑の館]]<br />''{{lang|en|Green Mansions}}'' |
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| リマ |
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| 1959年 |
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|style="text-align: center;"| 1956 || [[戦争と平和 (1956年の映画)|戦争と平和]]<br />''[[:en:War and Peace (1956 film)|War and Peace]]'' ||ナターシャ|| |
|||
| [[尼僧物語]]<br />''{{lang|en|The Nun's Story}}'' |
|||
| シスター・ルカ(ガブリエル・ヴァン・デル・マル) |
|||
| 英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞受賞<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞受賞<br />アカデミー賞 最優秀主演女優賞ノミネート<br />ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ドラマ部門) |
|||
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| 1960年 |
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| [[許されざる者 (1960年の映画)|許されざる者]]<br />''{{lang|en|The Unforgiven}}'' |
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| レイチェル・ザカリー |
|||
| 唯一の西部劇映画 |
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| 1961年 |
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|style="text-align: center;" rowspan="3"| 1957 || [[パリの恋人]]<br />''[[:en:Funny Face|Funny Face]]'' ||ジョー・ストックトン|| |
|||
| [[ティファニーで朝食を]]<br />''{{lang|en|Breakfast at Tiffany's}}'' |
|||
| ホリー・ゴライトリー |
|||
| アカデミー賞 最優秀主演女優賞ノミネート<br />ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ミュージカル・コメディ部門) |
|||
|- |
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| 1961年 |
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| [[噂の二人]]<br />''{{lang|en|The Children's Hour}}'' |
|||
| カレン・ライト |
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| 1963年 |
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|| [[昼下りの情事]]<br />''[[:en:Love in the Afternoon (1957 film)|Love in the Afternoon]]'' ||アリアーヌ・シャバッス|| |
|||
| [[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]<br />''{{lang|en|Charade}}'' |
|||
| レジーナ・ランパート |
|||
| 英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞受賞<br />ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ドラマ部門) |
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| 1964年 |
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| [[パリで一緒に]]<br />''{{lang|en|Paris When It Sizzles}}'' |
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| ガブリエル・シンプソン |
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| 1964年 |
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|マイヤーリンク<br />''[[:en:Mayerling (1957 TV film)|Mayerling]]'' |
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| |
| [[マイ・フェア・レディ_(映画)|マイ・フェア・レディ]]<br />''{{lang|en|My Fair Lady}} |
||
| イライザ・ドゥーリトル |
|||
||1957年2月24日放送のアメリカNBC製作のテレビドラマ<br />ビデオ・DVD未発売 |
|||
| ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ミュージカル・コメディ部門)<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート |
|||
|- |
|- |
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| 1966年 |
|||
|style="text-align: center;" rowspan="2"| 1959 || [[緑の館 (映画)|緑の館]]<br />''[[:en:Green Mansions (film)|Green Mansions]]'' ||リマ|| |
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| [[おしゃれ泥棒]]<br />''{{lang|en|How to Steal a Million}}'' |
|||
| ニコル・ボネ |
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| 1967年 |
|||
| [[いつも二人で]]<br />''{{lang|en|Two for the Road}}'' |
|||
| ジョアンナ・ウォレス |
|||
| ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ミュージカル・コメディ部門) |
|||
|- |
|- |
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| 1967年 |
|||
| [[尼僧物語]] <br />''[[:en:The Nun's Story (film)|The Nun's Story]]'' || ガブリエル(シスター・ルーク) || 英国アカデミー賞イギリス女優賞受賞<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞受賞 |
|||
| [[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]]<br />''{{lang|en|Wait Until Dark}}'' |
|||
| スージー・エンドリクス |
|||
| アカデミー賞 最優秀主演女優賞ノミネート<br />ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ドラマ部門)<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート |
|||
|- |
|- |
||
| 1976年 |
|||
|style="text-align: center;"| 1960 || [[許されざる者 (1960年の映画)|許されざる者]]<br />''[[:en:The Unforgiven (1960 film)|The Unforgiven]]'' ||レーチェル・ザカリー || |
|||
| [[ロビンとマリアン]]<br />''{{lang|en|Robin and Marian}}'' |
|||
| レディ・マリアン |
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| |
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|- |
|- |
||
| 1979年 |
|||
|style="text-align: center;" rowspan="2"| 1961 || [[ティファニーで朝食を]]<br />''[[:en:Breakfast at Tiffany's (film)|Breakfast at Tiffany's]]'' ||ホリー・ゴライトリー || |
|||
| [[華麗なる相続人]]<br />''{{lang|en|Bloodline}}'' |
|||
| エリザベス・ロフ |
|||
| 唯一のR指定作品 |
|||
|- |
|- |
||
| 1981年 |
|||
| [[噂の二人]]<br />''[[:en:The Children's Hour (film)|The Children's Hour]]'' || カレン・ライト|| |
|||
| ニューヨークの恋人たち<br />''{{lang|en|They All Laughed}}'' |
|||
| アンジェラ・ニオティーズ |
|||
| |
|||
|- |
|- |
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| 1989年 |
|||
|style="text-align: center;"| 1963 || [[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]<br />''[[:en:Charade|Charade]]'' || レジーナ・ランパート || 英国アカデミー賞イギリス女優賞受賞 |
|||
| [[オールウェイズ (映画)|オールウェイズ]]<br />''{{lang|en|Always}}'' |
|||
| 天使ハップ |
|||
| カメオ出演 |
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|} |
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{| class="wikitable sortable" width="100%" |
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|+ テレビ番組 |
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! width="5%"| 放送年 |
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|style="text-align: center;" rowspan="2"| 1964 || [[パリで一緒に]]<br />''[[:en:Paris When It Sizzles|Paris When It Sizzles]]'' ||ガブリエル・シンプソン|| |
|||
! width="25%"| 番組名 |
|||
! width="25%"| 配役 |
|||
! class="unsortable" width="45%"| Notes |
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|- |
|- |
||
| 1951年 |
|||
| [[マイ・フェア・レディ_(映画)|マイ・フェア・レディ]]<br />''[[:en:My Fair Lady (film)|My Fair Lady]]'' || イライザ・ドゥーリトル || |
|||
| サンデー・ナイト・シアター<br />''[[:en:Sunday Night Theatre|Sunday Night Theatre]]'' |
|||
| セリア |
|||
| エピソード "The Silent Village" |
|||
|- |
|- |
||
| 1952年 |
|||
|style="text-align: center;"| 1966 || [[おしゃれ泥棒]]<br />''[[:en:How to Steal a Million|How to Steal a Million]]''||ニコル・ボネ|| |
|||
| CBSテレビジョン・ワークショップ<br />''[[:en:CBS Television Workshop|CBS Television Workshop]]'' |
|||
| 本人 |
|||
| エピソード "Rainy Day at Paradise Junction" |
|||
|- |
|- |
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| 1957年 |
|||
|style="text-align: center;" rowspan="2"| 1967 || [[いつも2人で]]<br />''[[:en:Two for the Road (1967 film)|Two for the Road]]'' ||ジョアンナ・ウォレス|| |
|||
| マイヤーリンク<br />''[[:en:Mayerling (1957 TV film)|Mayerling]]'' |
|||
| マリー・フォン・ヴェッツェラ |
|||
| アメリカのNBCが制作したテレビ映画で、ヨーロッパでは劇場公開された |
|||
|- |
|- |
||
| 1987年 |
|||
| [[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]]<br />''[[:en:Wait Until Dark (film)|Wait Until Dark]]'' ||スージー・ヘンドリクス|| |
|||
| おしゃれ泥棒2<br />''[[:en:Love Among Thieves|Love Among Thieves]]'' |
|||
| 男爵夫人カロリーヌ・デュラク |
|||
| テレビ映画 |
|||
|- |
|- |
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| 1993年 |
|||
|style="text-align: center;"| 1976 || [[ロビンとマリアン]]<br />''[[:en:Robin and Marian|Robin and Marian]]''||Lady Marian|| |
|||
| オードリー・ヘプバーンの庭園紀行<br />''[[:en:Gardens of the World with Audrey Hepburn|Gardens of the World with Audrey Hepburn]]'' |
|||
| 進行 |
|||
| エミー賞 情報番組個人業績賞 |
|||
|- |
|- |
||
| 1993年 |
|||
|style="text-align: center;"| 1979 || [[華麗なる相続人]]<br />''[[:en:Bloodline (film)|Bloodline]]''||エリザベス|| |
|||
| 想い出のオードリー・ヘプバーン<br />''{{lang|en|Audrey Hepburn: In Her Own Words}}'' |
|||
| 本人 |
|||
| ドキュメンタリー |
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|} |
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{| class="wikitable sortable" width="100%" |
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|+ 舞台作品 |
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|- |
|- |
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! width="5%"| 上演年 |
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|style="text-align: center;"| 1981 || [[ニューヨークの恋人たち]]<br />''[[:en:They All Laughed|They All Laughed]]''||アンジェラ|| |
|||
! width="25%"| 作品名 |
|||
! width="25%"| 配役 |
|||
! width="15%"| 劇場名 |
|||
! class="unsortable" width="30%"| Notes |
|||
|- |
|- |
||
| 1948年 - 1949年 |
|||
|style="text-align: center;"| 1987 || [[おしゃれ泥棒2]]<br />''[[:en:Love Among Thieves|Love Among Thieves]]''||カロリーヌ|| |
|||
| ハイ・ボタン・シューズ<br />''[[:en:High Button Shoes|High Button Shoes]]'' |
|||
| コーラスガール |
|||
| ロンドン・ヒッポドローム劇場 ([[:en:Hippodrome, London|London Hippodrome]]) |
|||
| 1948年12月22日初演、全291回公演 |
|||
|- |
|- |
||
| 1949年 |
|||
|style="text-align: center;"| 1989 || [[オールウェイズ (映画)|オールウェイズ]]<br />''[[:en:Always (1989 film)|Always]]''||天使ハップ|| |
|||
| ソース・タルタル<br />''{{lang|en|Sauce Tartare}}'' |
|||
| コーラスガール |
|||
| ケンブリッジ・シアター ([[:en:Cambridge Theatre|Cambridge Theatre]])) |
|||
| 1949年5月18日初演 |
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|- |
|- |
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| 1950年 |
|||
| ソース・ピカンテ<br />''{{lang|en|Sauce Piquante}}'' |
|||
| 主役級 |
|||
| ケンブリッジ・シアター |
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| 1950年4月27日初演 |
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|- |
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| 1951年 - 1952年 |
|||
| ジジ<br />''[[:en:Gigi (1951 play)|Gigi]]'' |
|||
| ジジ |
|||
| フルトン・シアター ([[:en:Fulton Theatre|Fulton Theatre]]) |
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| 1951年11月24日初演、1952年5月31日終演<br />シアター・ワールド賞受賞 ([[:en:Theatre World Award]]) |
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|- |
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| 1952年 - 1953年 |
|||
| ジジ<br />''{{lang|en|Gigi}}'' |
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| ジジ |
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| アメリカ各地 |
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| アメリカ巡業公演<br />1952年10月13日にピッツバーグで開幕、1953年5月16日にサンフランシスコで閉幕<br />その他、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントン、ロサンゼルスで上演 |
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|- |
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| 1954年 |
|||
| オンディーヌ<br />''[[:en:Ondine (play)|Ondine]]'' |
|||
| オンディーヌ |
|||
| リチャード・ロジャース・シアター<br />[[:en:Richard Rodgers Theatre|Richard Rodgers Theatre]] |
|||
| 1954年2月18日初演、1954年6月26日終演<br />トニー賞 最優秀演劇女優賞受賞 |
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|} |
|} |
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== |
== 受賞 == |
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{{Main|:en:List of awards and honours received by Audrey Hepburn}} |
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:購入しやすい本のみ。 |
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== 関連項目 == |
|||
* [[池田昌子]] - 日本語版の吹き替え声優、CMでも担当している。 |
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== 出典 == |
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{{Reflist|30em}} |
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== 関連文献 == |
|||
*『オードリー・ヘプバーン オートグラフ・コレクション』 [[近代映画社]]、2008年 (ISBN 9784764822214) |
*『オードリー・ヘプバーン オートグラフ・コレクション』 [[近代映画社]]、2008年 (ISBN 9784764822214) |
||
*ヘ |
*ヘプバーン・フェラー・ショーン 『母、オードリーのこと』 実川元子訳 [[竹書房]]、2004年 |
||
*ボブ・ウィロビー写真 『世にも素敵なオードリー王国 ヘプバーン写真集』 [[山本容子]]・文 [[講談社]]+α文庫 2003年 |
*ボブ・ウィロビー写真 『世にも素敵なオードリー王国 ヘプバーン写真集』 [[山本容子]]・文 [[講談社]]+α文庫 2003年 |
||
* 清藤秀人 『オードリー・ヘプバーン98の真実』 近代映画社、2007年 |
* 清藤秀人 『オードリー・ヘプバーン98の真実』 近代映画社、2007年 |
||
348行目: | 1,038行目: | ||
* {{Cite book|和書|author=パメラ.クラーク・キオ|year=2000|title=オードリー・スタイル ~エレガントにシックにシンプルに|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062105323|ref=キオ 2000}} |
* {{Cite book|和書|author=パメラ.クラーク・キオ|year=2000|title=オードリー・スタイル ~エレガントにシックにシンプルに|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062105323|ref=キオ 2000}} |
||
* {{Cite book|last=Brizel|first=Scott|year=2009|title=Audrey Hepburn: International Cover Girl|publisher=Titan Books Ltd|isbn=978-1-84856-611-8}} |
|||
== 関連項目 == |
|||
* {{Cite book|last=Chesire|first=Ellen|year=2003|title=Audrey Hepburn|publisher=Pocket Essentials|isbn=978-1-903047-67-5}} |
|||
* [[国際連合児童基金]] |
|||
* {{cite book|last=Harris|first=Warren G.|title=Audrey Hepburn: A Biography|year=1994|publisher=Simon & Schuster|isbn=9780671758004}} |
|||
* [[池田昌子]] - 日本語版の吹き替え声優、CMでも担当している。 |
|||
* {{Cite book|last=Hepburn-Ferrer|first=Sean|year=2003|title=Audrey Hepburn, An Elegant Spirit: A Son Remembers|publisher=Atria|isbn=0-671-02478-7}} |
|||
* [[オードリー・ヘプバーン物語]] - 2000年放送の[[テレビ映画]] |
|||
* {{Cite book|last=Keogh|first=Pamela Clarke|year=2009|title=Audrey Style|publisher=Aurum Press Ltd|isbn=978-1-84513-490-7}} |
|||
* [[加藤タキ]] - テレビCMをコーディネート。 |
|||
* {{Cite book|last=Maychick|first=Diana|year=1996|title=Audrey Hepburn: An Intimate Portrait|publisher=Birch Lane Pr|isbn=978-1-55972-195-0}} |
|||
* {{Cite book|author=Paris, Barry|year=1997|title=Audrey Hepburn|publisher=Weidenfeld & Nicolson|isbn=978-0-297-81728-4}} |
|||
== 脚注 == |
|||
* {{Cite book|author=Spoto, Donald|year=2006|title=Enchantment: The Life of Audrey Hepburn|publisher=Arrow|isbn=}} |
|||
{{reflist}} |
|||
* {{Cite book|author=Walker, Alexander|year=1994|title=Audrey: Her Real Story|publisher=Weidenfeld & Nicholson|isbn=978-1-85797-352-5}} |
|||
* {{Cite book|last=Woodward|first=Ian|year=1984|title=Audrey Hepburn|publisher=St. Martin's Press|isbn=978-0-312-06074-9}} |
|||
<!-- *{{Cite book|title=|isbn=}} --> |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
{{commons|Audrey Hepburn}} |
{{commons|Audrey Hepburn}} |
||
{{wikiquote}} |
|||
* [http://www.audreyhepburn.com/ Audrey Hepburn Official site]{{en icon}} |
|||
* {{ |
* {{Official website|http://www.audreyhepburn.com}} of Hepburn ( and the Audrey Hepburn Children's Fund ) |
||
* {{NYTtopic|people/h/audrey_hepburn}} |
|||
* {{allcinema name|42469}} |
|||
* {{Worldcat id|lccn-n84-66746}} |
|||
* {{IMDb name|0000030}} |
|||
* {{IBDB name|44925}} |
|||
* {{tcmdb name|85047}} |
|||
* {{Amg name|31869}} |
|||
{{アカデミー賞主演女優賞 1941-1960}} |
{{アカデミー賞主演女優賞 1941-1960}} |
||
{{ジーン・ハーショルト友愛賞}} |
{{ジーン・ハーショルト友愛賞}} |
||
{{Normdaten|PND=118746731|LCCN=n/84/66746|VIAF=66543141}} |
{{Normdaten|PND=118746731|LCCN=n/84/66746|VIAF=66543141}} |
||
{{DEFAULTSORT:へふはあん おおとりい}} |
{{DEFAULTSORT:へふはあん おおとりい}} |
||
[[Category:イングランドの俳優]] |
[[Category:イングランドの俳優]] |
||
386行目: | 1,085行目: | ||
{{Link FA|it}} |
{{Link FA|it}} |
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{{Link FA|mk}} |
{{Link FA|mk}} |
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{{Link FA|vi}} |
{{Link FA|vi}} |
||
{{Link GA|fr}} |
{{Link GA|fr}} |
2013年7月29日 (月) 12:02時点における版
Audrey Hepburn オードリー・ヘプバーン | |||||||||||||||||||||||||||||
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オードリー・ヘプバーン 1987年公開の映画『昼下がりの情事』の宣材写真 | |||||||||||||||||||||||||||||
本名 | オードリー・キャスリーン・ラストン(英: Audrey Kathleen Ruston) | ||||||||||||||||||||||||||||
別名義 | エッダ・ファン・ヘームストラ | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1929年5月4日 | ||||||||||||||||||||||||||||
没年月日 | 1993年1月20日(63歳没) | ||||||||||||||||||||||||||||
出生地 | ベルギーブリュッセル | ||||||||||||||||||||||||||||
死没地 | エスワティニヴォー州 | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | イギリス | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 170cm | ||||||||||||||||||||||||||||
職業 | 女優 | ||||||||||||||||||||||||||||
ジャンル | 映画 | ||||||||||||||||||||||||||||
活動期間 | 1948年 - 1989年(女優) | ||||||||||||||||||||||||||||
配偶者 |
メル・ファーラー (1954年 - 1968) アンドレア・ドッティ (1969年 - 1982) | ||||||||||||||||||||||||||||
著名な家族 |
ショーン・ヘプバーン・ファーラー (1960年生) ルカ・ドッティ (1970年生) | ||||||||||||||||||||||||||||
公式サイト |
www | ||||||||||||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||||||||||||
『ローマの休日』 『ティファニーで朝食を』 『マイ・フェア・レディ』 | |||||||||||||||||||||||||||||
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備考 | |||||||||||||||||||||||||||||
AFI(米国映画協会)の「最も偉大な女優50選」では第3位。 同協会の2002年選出で「最も愛すべきラブストーリー・映画ベスト100本」にも、第4位『ローマの休日』、第12位『マイ・フェア・レディ』、第54位『麗しのサブリナ』、第57位『いつも二人で』、第61位『ティファニーで朝食を』。 |
オードリー・ヘプバーン(英: Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、イギリスの女優。日本ではヘップバーンと表記されることも多い[1][2]。ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。米国映画協会 (AFI) の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている。
ヘプバーンはブリュッセルのイクセル (en:Ixelles) で生まれ、幼少期をベルギー、イングランドで過ごした。オランダにも在住した経験があり、第二次世界大戦中にはナチス・ドイツが占領していたオランダのアーネムに住んでいたこともあった。各種資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中にナチス・ドイツ占領下にあったオランダで、「オードリー」という名があまりにイギリス風であることを心配した母エッラが、自らの名前をもじって(EllaをEddaとした)一時的に変えたものである[3]。5歳ごろからバレエを初め、アムステルダムではソニア・ガスケル (en:Sonia Gaskell) のもとでバレエを習い、1948年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。
イギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』(en:Gigi (1951 play)) で主役を演じ、1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得した。その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品である『オンディーヌ』(en:Ondine (play)) でトニー賞を受賞している。さらにヘプバーンは死後にグラミー賞とエミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。
ヘプバーンの芸能活動は年齢と共に減っていき、後半生のほとんどを国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。ヘプバーンがユニセフへの貢献を始めたのは1954年からで、1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりには、ユニセフ親善大使としての活動に対してアメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与された。この大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂がんのために63歳で死去した[4] [5] [6]。
前半生
ヘプバーンは、1929年5月4日にベルギーの首都ブリュッセルのイクセル (en:Ixelles) に生まれ、オードリー・キャスリーン・ラストンと名付けられた[7]。父親はボヘミアのウジツェ出身のジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1889年 - 1980年)である[8]。ジョゼフの母親はオーストリア系のアンナ・ジュリアナ・フランジスカ・カロリーナ・ラストンで[9]、父親はイギリス、オーストリア系のヴィクター・ジョン・ジョージ・ラストンだった[10]。ジョゼフはヘプバーンの母エッラと再婚する以前に、東インド会社で知り合った女性コーネリア・ビショップと結婚していたことがある[11]。後にジョゼフはラストンという姓を、より「貴族的な」二重姓であるヘプバーン=ラストンへと改名した。ジョゼフは自身のことを、スコットランド王妃メアリの三番目の夫である第4代ボスウェル伯ジェームズ・ヘプバーンの末裔であると信じ込んでいたことによるが[11]、ジョゼフがジェームズ・ヘプバーンの血をひいていたという事実はない[10]。
ヘプバーンの母エッラ・ファン・ヘームストラ(1900年 - 1984年)はフリース人の血を引く、バロネスの称号を持つオランダ貴族だった。エッラの父親は男爵アールノート・ファン・ヘームストラ (en:Aarnoud van Heemstra) で、1910年から1920年にかけてアーネム市長を、1921年から1928年にかけてスリナム総督を務めた政治家である。エッラの母親のエルブリフ・ヘンリエッテもオランダ貴族の出身だった。エッラは19歳のときに、ナイト爵位を持つヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クオールズ・ファン・ユフォルトと結婚したが、1925年に離婚している。エッラとヘンドリクの間には、アールノート・ロベルト・アレクサンデル・クオールズ・ファン・ユフォルト(1920年 - 1979年)と、イアン・エドハル・ブルーセ・クオールズ・ファン・ユフォルト(1924年 - 2010年)の二人の男子が生まれている[11][12]。
ジョゼフとエッダは、1926年9月にジャカルタで結婚式を挙げた。その後二人はベルギーのイクセルへ戻り、1929年にヘプバーンが生まれた。さらに一家は1932年1月にリンケビーク (en:Linkebeek) へと移住している[13]。ヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じてイギリスの市民権も持っていた[7]。母の実家がオランダだったことと、父親の仕事がイギリスの会社と関係が深かったこともあって[14]、一家はこの三カ国を頻繁に行き来していた。このような生い立ちもあって、ヘプバーンは英語、オランダ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を身につけるようになった。
幼少時代と第二次世界大戦期の少女時代
ヘプバーンの両親は1930年代にイギリスファシスト連合に参加し[15]、とくに父ジョゼフはナチズムの信奉者となっていった[16]。また、ジョゼフは子供たちの子守と性的関係を持っており、エッラがこのことを知ると、ジョゼフは家庭を捨てて出て行った[17]。その後1960年代になってから、ヘプバーンは赤十字社の活動を通じて父ジョゼフとダブリンで再会している。ジョゼフはヘプバーンに対して肉親の情を既に失っていたが、ヘプバーンはジョゼフが死去するまで連絡を保ち、経済的な援助を続けた[18]。
ジョゼフが家庭を捨てた後、1935年にエッラは子供たちと故郷のアーネムへと戻った。このときエッラの最初の夫ヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クオールズ・ファン・ユフォルトとの間の息子たちは、父親と共にデン・ハーグに住んでいた。1937年にエッラと幼いヘプバーンはイギリスのケントへと移住した。ヘプバーンはエラム (en:Elham) という村の小さな私立女学校に入学し、14人の少女たちのまとめ役となった [19] [20]。第二次世界大戦が勃発する直前の1939年に、母エッラは再度アーネムへの帰郷を決めた。オランダは第一次世界大戦では中立国であり、再び起ころうとしていた世界大戦でも中立を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである。1939年から1945年にわたってヘプバーンはアーネム音楽院に通い、通常の学科に加えてウィニャ・マローヴァのもとでバレエを学んだ。1940年にドイツがオランダに侵攻し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーという「イギリス風の響きを持つ」名前は危険だとして、ヘプバーンはエッダ・ファン・ヘームストラという偽名を名乗るようになった。1942年に、母エッラの姉ミーシェと結婚していた貴族の伯父オットー・ファン・リンブルク=シュティルムが、反ドイツのレジスタンス運動に関係したとして処刑された。また、ヘプバーンの異父兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監されており、もう一人の異父兄アールノートも弟イアンと同様に強制労働収容所に送られるところだったが、捕まる前に身を隠している[21]。オットーが処刑された後に、エッラ、ヘプバーン母娘と夫を亡くしたミーシェは、ヘプバーンの祖父アールノート・ファン・ヘームストラとともに、ヘルダーラントのヴェルプ (en:Velp, Gelderland) 近郊へと身を寄せた。大戦中にヘプバーンは栄養失調に苦しみ、重度の貧血と呼吸器障害、浮腫に悩まされた[22]。後にヘプバーンは回顧インタビューで「駅で貨車に詰め込まれて輸送されるユダヤ人たちを何度も目にしました。とくにはっきりと覚えているのが一人の少年です。青白い顔色と透き通るような金髪で、両親と共に駅のプラットフォームに立ち尽くしていました。そして、身の丈にあわない大きすぎるコートを身につけたその少年は列車の中へと呑み込まれていきました。そのときの私は少年を見届けることしか出来ない無力な子供だったのです」と語っている[23]。
1944年ごろには、ヘプバーンはひとかどのバレリーナとなっていた。そしてオランダの反ドイツレジスタンス (en:Dutch resistance) のために、秘密裏に公演を行って資金稼ぎに協力してた。ヘプバーンはこのときのことを「私の踊りが終わるまで物音ひとつ立てることのない最高の観客でした」と振り返っている[24]。連合国軍がノルマンディに上陸しても一家の生活状況は好転せず、アーネムは連合国軍によるマーケット・ガーデン作戦の砲撃にさらされ続けた。当時のオランダの食料、燃料不足は深刻なものとなっていた。1944年にオランダ大飢饉が発生したときも、ドイツ占領下のオランダで起こった鉄道破壊などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちはチューリップの球根の粉を原料に焼き菓子を作って飢えをしのぐ有様だった[16] [25]。当時のヘプバーンは何もすることがなかったときには絵を描いていたことがあり、少女時代のヘプバーンの絵が今も残されている[26]。戦況が好転しオランダからドイツ軍が駆逐されると、連合国救済復興機関から物資を満載したトラックが到着した[27]。ヘプバーンは後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を入れすぎたオートミールとコンデンスミルクを一度に平らげたおかげで気持ち悪くなってしまったと振り返っている[28]。そして、ヘプバーンが少女時代に受けたこれらの戦争体験が、後年のユニセフへの献身につながったといえる[16][25]。
芸能活動
キャリア初期
1945年の第二次世界大戦終結後に、母エッラとオードリーはアムステルダムへと移住した。アムステルダムでヘプバーンは3年にわたってソニア・ガスケルにバレエを学び、オランダでも有数のバレリーナとなっていった[29]。1948年にヘプバーンは初めて映像作品に出演している。カルル・ファン・デル・リンデンとヘンリー・ジョセフソンが製作した教育用の旅行フィルム『オランダの七つの教訓』で、ヘプバーンの役どころはオランダ航空のスチュワーデスだった[30]。オランダでのバレエの師ガスケルからの紹介で、1948年にヘプバーンは母親と共にロンドンへと渡り、イギリスのバレエ界で活躍していたユダヤ系ポーランド人の舞踊家マリー・ランバートが主宰するランバート・バレエ団 (en:Rambert Dance Company) で学んだ。ヘプバーンが自身の将来の展望を尋ねたときに、ランバートはヘプバーンがこのままバレエの世界で成功するだろうと請け合った。ただしヘプバーンの170cmという身長と[31]、第二次世界大戦下の成長期に十分な栄養が摂れなかったことから、ヘプバーンがプリマ・バレリーナになることは難しいかもしれないという懸念も口にしている。いずれにせよ、ヘプバーンはこのランバートの言葉を信じて演劇の世界で生きていくことを決心した[32]。ヘプバーンが映画スターになった後に、ランバートは「彼女(ヘプバーン)は大変な努力家でした。もし彼女がバレエを続けていたとしても、素晴らしいバレリーナとなったことでしょう」と語っている[33]。
当時ヘプバーンの母エッラは下働きの仕事で家計を支えていたが、ヘプバーン自身も金を稼ぐ必要に迫られていた。ヘプバーンは自身がバレエで研鑽を積んでいることから、舞台作品のコーラスガールがいいのではないかと考えた。後にヘプバーンは「私にはお金が必要でした。舞台の仕事はバレエの仕事よりも3ポンド以上高給だったのです」と語っている[34]。ヘプバーンが出演した舞台劇として、ロンドンのヒッポドローム劇場 (en:Hippodrome, London) で上演された『ハイ・ボタン・シューズ』(1948年)、ウエスト・エンドのケンブリッジ・シアター (en:Cambridge Theatre) で上演されたセシル・ランドーの『ソース・タルタル』(1949年)と『ソース・ピカンテ』(1950年)がある。舞台に立つようになってから、ヘプバーンは自身の声質が舞台女優としては弱いことに気付き、高名な舞台俳優フェリックス・アイルマーのもとで発声の訓練を受けたことがある[35]。『ソース・ピカンテ』の出演時に、イギリスの映画会社アソシエイテッド・ブリティッシュ・ピクチュア・コーポレーション (en:Associated British Picture Corporation) の配役担当者に認められたヘプバーンは、フリーランスの女優としてイギリスの映画俳優リストに登録されたが、依然としてウエスト・エンドの舞台にも立っていた[6]。ヘプバーンは1951年に『若気のいたり』 (en:One Wild Oat)、『素晴らしき遺産』 (en:Laughter in Paradise)、『若妻物語』 (en:Young Wives' Tale)、『ラベンダー・ヒル・モブ』 (en:The Lavender Hill Mob) といった映画に端役で出演し、1952年にはソロルド・ディキンスン (en:Thorold Dickinson) の監督作品『初恋』に、主人公の妹役で出演した。ヘプバーンはこの映画で優れた才能を持つバレリーナを演じており、バレエのシーンではヘプバーンが踊っている姿を見ることができる[6]。
1951年にヘプバーンはアメリカとフランスで公開される『モンテカルロへ行こう』への出演依頼を受け、フランスのリヴィエラでの撮影ロケに参加した。この現場に、当時自身が書いたブロードウェイ戯曲『ジジ ([[:en:Gigi (1951 play))』の主役・ジジを演じる女優を探していたフランス人女流作家シドニー=ガブリエル・コレットが訪れた。そしてコレットがヘプバーンを一目見るなり「私のジジを見つけたわ!」とつぶやいたという有名なエピソードがある[33] [36] [37]。『ジジ』は1951年11月24日にブロードウェイのフルトン・シアター (en:Fulton Theatre) で初演を迎え、劇場入り口に張出された公演タイトルの上にヘプバーンの名前が掲げられた。『ジジ』の総公演回数は219回を数え、1952年5月31日に千秋楽を迎えた[38]。ヘプバーンはこのジジ役で、ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイで初舞台を踏んだ優れた舞台俳優に贈られるシアター・ワールド・アワード (en:Theatre World Award) を受賞している[38]。『ジジ』はブロードウェイでの公演終了後、1952年10月13日のピッツバーグ公園を皮切りにアメリカ各地を巡業し、1953年5月16日のロサンゼルス公演を最後に、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントンで上演された[6]。
『ローマの休日』と高まる人気
1953年に公開されたアメリカ映画『ローマの休日』で、ヘプバーンは初の主役を射止めた。『ローマの休日』はイタリアのローマを舞台とした作品で、ヘプバーンは王族としての窮屈な暮らしから逃げ出し、グレゴリー・ペックが演じたアメリカ人新聞記者と恋に落ちるヨーロッパ某国の王女アンを演じた。『ローマの休日』の製作者は、当初アン王女役にエリザベス・テイラーを望んでいたが、監督ウィリアム・ワイラーがスクリーン・テストを受けに来たヘプバーンをアン王女役に抜擢した。後にワイラーは「彼女(ヘプバーン)は私がアン王女役に求めていた魅力、無邪気さ、才能をすべて備えていた。さらに彼女にはユーモアがあった。すっかり彼女に魅了された我々は「この娘だ!」と叫んだよ」と振り返っている[39]。
製作当初のフィルムでは、主演男優グレゴリー・ペックの名前が作品タイトルの上に表示され、ヘプバーンの名前はより小さなフォントで、ペックの名前の下に置かれていた。しかしながらペックがワイラーに「変えるべきだ。彼女は僕とは比べ物にならないような大スターになる」として、ヘプバーンの名前を、作品タイトルが表示される前に、ペックの名前と同じ大きな文字で表示することを提案した[40]。
『ローマの休日』のヘプバーンは評論家からも大衆からも絶賛され、思いも寄らなかったアカデミー主演女優賞のほかに、英国アカデミー最優秀主演英国女優賞、ゴールデングローブ主演女優賞をヘプバーンにもたらした。A. H. ワイラーは『ニューヨークタイムズ』に、以下のような劇評を残している。
厳密に言えばオードリー・ヘプバーンは新人映画女優というわけではない。このイギリス人女優が演じたアン王女はほっそりして茶目っ気にあふれ、そしてどこか愁いを帯びた美しさをもっている。豊かな感情表現には大人びた雰囲気と子供っぽさが同居し、新たに見つけた喜びと愛情に満ちている。王女はこの恋が悲しい結末に終わることを知っているが、気丈にも微笑を浮かべている。これからの彼女を待ち受けているのは、息が詰まるような哀れで淋しい未来なのである[41]。
ヘプバーンは7本の映画に出演するという契約をパラマウント映画社から提示され、映画撮影の合間には合計12カ月間の舞台出演を認めるという条件でこの契約にサインした[42]。ヘプバーンの人気は高まり、1953年4月に発行された『タイム』誌の表紙にはヘプバーンのイラストが使用されている[43]。
『ローマの休日』で大成功を収めたヘプバーンは、続いてビリー・ワイルダー監督の『麗しのサブリナ』に出演した。1954年に公開されたこの作品は、ハンフリー・ボガードとウィリアム・ホールデンが演じる富豪の兄弟が、お抱え運転手の娘で美しく成長したヘプバーンが演じるサブリナを巡って張り合うという物語である。ヘプバーンはこのサブリナ役でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞最優秀主演英国女優賞を受賞した。ボズリー・クロウザーは『ニューヨークタイムズ』誌で次のように評している。
これはヘプバーンの映画だと思う人は多いだろう。彼女の名前はタイトルロールに記されているし、前年に『ローマの休日』で大成功を収めたばかりなのだから。事実、この作品における彼女は素晴らしい。折れそうなほどに細い身体に、驚くほど多彩で繊細な感覚と揺れ動く感情が詰め込まれている。彼女が演じた運転手の娘は、前年に演じた王女よりもさらに輝いて見える。これ以上はもう何も付け加えることはない[44]。
『麗しのサブリナ』が公開された1954年には、ブロードウェイの舞台作品『オンディーヌ』(en:Ondine (play)) でメル・ファーラーと共演している。ヘプバーンはそのしなやかな痩身を活かして水の精オンディーヌを演じ、ファーラー演じる人間の騎士ハンスとの恋愛悲劇を繰り広げた。この作品について『ニューヨークタイムズ』は次のような劇評を書いている。
ヘプバーンは水の精というあいまいな存在を、見事に舞台上に実体化してみせた。何のわざとらしさも不自然さもなかった。生来の才能に裏打ちされた迫真かつ情感あふれるその演技は、ただただ美しく魔法のようだった。
ヘプバーンは『オンディーヌ』で1954年のトニー賞 主演舞台女優賞を受賞した。同じ年には前年の『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得しており、ヘプバーンはトニー賞とアカデミー賞を同年に受賞した三名のひとりとなった(2013年現在。その他の二人はシャーリー・ブースとエレン・バースティンである)[45]。『オンディーヌ』で共演したヘプバーンとファーラーは、1954年9月25日にスイスで結婚式を挙げ、ときに波乱万丈だった二人の結婚生活は15年間続いた。
ヘプバーンは1955年にゴールデングローブ賞の「世界でもっとも好かれた女優賞」を受賞し[46]、ファッション界にも大きな影響力を持つようになった。また、この頃ヘプバーンは、アンネ・フランクの『アンネの日記』を題材とした舞台作品 (en:The Diary of Anne Frank (play)) と映画作品の両方への出演依頼を受けた。しかしながら、アンネと同年の生まれであるヘプバーンはアンネ役を引き受けることが「感情的に不可能」であり、自身の年齢が30歳に近く、年をとりすぎていることを理由に断っている[47]。最終的に舞台のアンネ役はスーザン・ストラスバーグが、映画のアンネ役はミリー・パーキンスが演じた。
ヘプバーンはハリウッドでもっとも集客力のある女優のひとりとなり、10年間にわたって話題作、人気作に出演するスター女優であり続けた。ヘンリー・フォンダ、夫メル・ファーラーらと共演した、ロシアの文豪レフ・トルストイの作品を原作とした1956年の『戦争と平和』のナターシャ・ロストワ役で、英国アカデミー賞とゴールデングローブ賞にノミネートされている。1957年にはバレエで鍛えた踊りの能力を活かした最初のミュージカル映画『パリの恋人』に出演した。ヘプバーンはパリ旅行に誘い出された本屋の店員ジョー役で、フレッド・アステア演じるファッション・カメラマンに見出されて美しいモデルになっていくという物語である。この年には『昼下りの情事』にも出演しており、ゲーリー・クーパーやモーリス・シュヴァリエと共演した。
ピーター・フィンチと共演した1959年の『尼僧物語』では、心の葛藤に悩む修道女ルークを演じた。このルーク役で3度目となるアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞を獲得した。『バラエティ』誌は「これまでにないほどに多くを求められる役を見事にこなした」と評し、『フィルムズ・イン・レビュー』誌はヘプバーンの演技が「これまで上映された映画の中でも、もっとも素晴らしいもののひとつである」と評した[48]。ヘプバーンは自身の演技に真実味を増すために、実際に修道僧たちと何時間も修道院で過ごしたといわれている。ヘプバーンは「これまでのどの映画作品よりも、時間と努力と思考を費やした作品でした」と語っている[49]。
ヘプバーンは『尼僧物語』に続いて『緑の館』(1959年)に出演した。この作品でヘプバーンは、アンソニー・パーキンス演じるヴェネズエラ人アベルと恋に落ちる、密林で暮らす「美しく誇り高い」「幻想的」な少女リーマを演じた[50]。1960年にはヘプバーンが出演した唯一の西部劇『許されざる者』でレイチェル役を演じた。レイチェルはバート・ランカスターやリリアン・ギッシュが演じる「粗野で頑固な役とは異なり、やや洗練されすぎた、線が細く教養ある」インディアン差別に反対する女性という役どころだった[51]。
『ティファニーで朝食を』
ファーラーとの間の長男ショーンが生まれた三カ月後の1960年に、ヘプバーンはブレイク・エドワーズの監督作品『ティファニーで朝食を』に出演した。この映画はアメリカ人小説家トルーマン・カポーティの同名の小説を原作としているが、原作からは大きく内容が変更されて映画化されている。原作者のカポーティは大幅に小説版から離れた脚本に失望し、主役の気まぐれな娼婦ホリー・ゴライトリーを演じたヘプバーンのことも「ひどいミスキャストだ」と公言した[52]。これは、カポーティが主役のホリー役にはマリリン・モンローが適役だと考えていたためだった[53]。また、映画脚本のホリー役も原作からはかけ離れた演出がなされており、ヘプバーン自身も「娼婦の演技はできない」ことを製作者のマーティン・ジュロウにもらしていた[53]。
原作のホリーの魅力でもあった性的風刺に満ちた言動は皆無だったが[53]、ヘプバーンは1961年度のアカデミー主演女優賞にノミネートされ、ヘプバーンが演じたホリーはアメリカ映画を代表するキャラクターになった。このホリー・ゴライトリーはヘプバーンを代表する役といわれることも多く[54]、映画版『ティファニーで朝食を』でのホリーのファッションスタイルと洗練された物腰が実際のヘプバーンと同一視されるようになっていった。しかしながらヘプバーンはこの役を「人生最大の派手派手しい役」と呼び[55]「実際の私は内気な性格なのです。このような外向的な女性を演じることはかつてない苦痛でした」と語っている[56]。『ティファニーで朝食を』の冒頭シーンで、ヘプバーンが身にまとっているジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレス(シンプルな黒のカクテルドレス (en:Little black Givenchy dress of Audrey Hepburn)) は、20世紀のファッション史を代表するリトル・ブラックドレスであるだけでなく、おそらく史上最も有名なドレスだといわれている[57] [58] [59] [60]。
ヘプバーンは1961年のウィリアム・ワイラー監督作品『噂の二人』で、シャーリー・マクレーン、ジェームズ・ガーナーと共演した。『噂の二人』はレズビアンをテーマとした作品で、ヘプバーンとマクレーンが演じる女教師が、学校の生徒に二人がレズビアンの関係にあるという噂を流されてトラブルとなっていくという物語で、レズビアンを取り上げた作品としてはハリウッドで最初の映画のひとつだといわれている[54]。当時の保守的な社会的背景のためか、作品自体もヘプバーンの演技も、批評家や大衆からあまり注目されなかった。『ニューヨークタイムズ』のボズリー・クロウザーは「よくできた作品とはいえない」としながらも、ヘプバーンの演技については「微妙な題材」のなかで「繊細かつ無垢な印象を与える」と評価している[61]。『バラエティ』誌はヘプバーンの「柔らかな感性、深い心理描写と控えめな感情表現が見られる」と高く評価し、さらにヘプバーンとマクレーンを「互いを引き立てあう素晴らしい相手役」だと賞賛した[62]。
ヘプバーンは1963年の『シャレード』でケーリー・グラントと共演した。ヘプバーンは、亡き夫が盗んだとされる金塊を求める複数の男たちに付け狙われる未亡人レジーナ・ランパートを演じている。そしてヘプバーンはこの役で、三回目にして最後となる英国アカデミー最優秀主演英国女優賞を獲得し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされた。しかしながら、映画評論家ボズリー・クロウザーは「疑心暗鬼に陥っている役どころのはずなのに、一目で高級品と分かるジバンシィの衣装に身につけたヘプバーンは楽しそうだ」と辛口の評価を下している[63]。かつてヘプバーンが主演した『ローマの休日』と『麗しのサブリナ』の相手役にも目されていたグラントは当時59歳で、年齢差がある当時34歳のヘプバーンを相手に恋愛劇を演じることに抵抗を感じていた。このようなグラントの意を汲んだ製作側は、ヘプバーンの方からグラントに心惹かれていくという脚本に変更している[64]。ただしグラントはヘプバーン個人に対しては好印象を持っており、「クリスマスに欲しいものは、ヘプバーンと共演できる新しい作品だ」と語ったこともある[65]。
ヘプバーンは1964年の『パリで一緒に』で、『麗しのサブリナ』で共演したウィリアム・ホールデンと、ほぼ10年ぶりにコンビを組んだ。パリで撮影されたこのスクリューボール・コメディは、「マシュマロみたいに中身のない空想譚 (marshmallow-weight hokum)」とも呼ばれ[66]、「一様に酷評された」[67]。ただし、作品自体に低評価を下した批評家たちも、ヘプバーンの役作りには好意的だった。ヘプバーンが演じたガブリエル・シンプソンは、ホールデンが演じるスランプに陥った脚本家リチャード・ベンソンの手助けをする女性という役割だった。ヘプバーンの演技は「大げさに誇張された馬鹿話のなかで、一服の清涼剤だった」といわれている[66]。
『パリで一緒に』に対する批評家たちからの悪評には、作品そのものだけでなく背景に使用されたセットの出来栄えの悪さも影響していた。さらに、『麗しのサブリナ』の撮影中にヘプバーンと恋愛関係にあったといわれるホールデンが[68]、既に人妻であるヘプバーンを口説こうとしたことや、ホールデンがアルコール依存症になっていたことなども、撮影現場の雰囲気や状況を悪化させた。主なシーンの撮影を終えて編集前のフィルムを目にしたヘプバーンが、あまりの出来の悪さに撮影カメラマンのクロード・ルノワール (en:Claude Renoir) の解雇を要求するという事態にまで発展した[67]。また、ヘプバーンは縁起を担いで自身のラッキーナンバーである「55」番の楽屋を求めた。ヘプバーンは55番の楽屋を『ローマの休日』と『ティファニーで朝食を』でも使用していたことがあった。さらに、長きに渡ってヘプバーンの服飾を担当するジバンシィの名前を、香水担当としてクレジット表記することも要求している[67]。
1964年のミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』は、ジーン・リングゴールドが「『風と共に去りぬ』以来、これほど世界を熱狂させた映画はない」と1964年の『サウンドステージ』誌 (en:Soundstage) で絶賛した[45]。しかしながら、ヘプバーンが演じた下町訛りの花売り娘イライザ・ドゥーリトルの配役決定の経緯は大きな論争を巻き起こした。ジョージ・キューカーが監督したこの作品は、同名の舞台ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の映画化である。舞台でイライザを演じていたのはジュリー・アンドリュースだったが、アンドリュースには映画出演の話は来なかった。これは製作のジャック・ワーナー (en:Jack Warner) が、ヘプバーンかエリザベス・テイラーをイライザ役に据えたほうが興行的に「儲かる」と考えたためだった[69]。イライザ役を持ちかけられたヘプバーンは、自分よりもアンドリュースのほうがイライザに相応しいとしていったん断ったが、最終的にはヘプバーンがイライザ役に決まった[69]。
ヘプバーンは以前出演したミュージカル映画『パリの恋人』で歌った経験があり、さらに『マイ・フェア・レディ』出演に備えて長期間の発声練習をこなしていたが[69]、映画の中でヘプバーンが歌う場面はマーニ・ニクソンによって歌が吹き換えられた[70] [71]。ニクソンが吹き替えに使われたのは、劇中のイライザの歌のキーが高く、ヘプバーンの声域である低めのメゾ・ソプラノまでキーを落とすことが困難だったためである[69]。理由はどうであれ、歌を吹き替えることを知らされたヘプバーンは、激怒してその場から立ち去った。しかし翌日になってヘプバーンは戻ってきて、「ひどい態度だった」とその場の全員に謝罪している[69]。劇中でヘプバーンが歌う場面では、前もって録音しておいた自身の歌にあわせてリップシンクしているが、ニクソンがさらにその上から吹き替えたために、ヘプバーンの口の動きとニクソンの歌声とは完全には一致していない[69]。吹き替えも使うが、ヘプバーンの歌はできるだけ残すという約束だったにも関わらず、最終的には歌のおよそ90パーセントがニクソンによって吹き替えられた[69]。ヘプバーンの歌声が残されているのは「踊り明かそう」の一節、「今に見てろ」の序奏部、「スペインの雨」での台詞と歌の掛け合い部分だけである[69]。歌唱部分が全く別の声質を持つ他の女優に吹き替えられたことについて質問されたヘプバーンは、不快感を露にして「よくもそんなことを訊けるものですね。確かにレックスは演技をしながら、同時に歌の録音もこなしていましたが・・・・・・次の機会には」と応え、唇をかみ締めてそれ以上は何も口にすることはなかった[56]。後にヘプバーンは、もし歌のほとんど全てを吹き替えられることが分かっていれば、あの役を引き受けることは決してなかったと語っている[69]。
ヘプバーンのイライザ役を巡る騒動は、第37回アカデミー賞授賞式で最高潮に達した。『マイ・フェア・レディ』はアカデミー賞に12部門でノミネートされ、そのうち8部門を受賞するという高い成績を残したが、ヘプバーンは主演女優賞にノミネートすらされなかった。そしてその年の主演女優賞を獲得したのは舞台版でイライザを演じたジュリー・アンドリュースで、『マイ・フェア・レディ』と同じミュージカル作品『メリー・ポピンズ』での受賞だったのである。マスコミはヘプバーンとアンドリュースが対立していると報道し、煽り立てようとしたが、ヘプバーンもアンドリュースも、両者の間には悪い感情はなく、仲のいい友人であるとこれらの報道を否定した。このような騒動はあったものの、多くの評論家は『マイ・フェア・レディ』でのヘプバーンの演技を「最高」だと賞賛した[71]。ボズリー・クロウザーは『ニューヨークタイムズ』誌で「『マイ・フェア・レディ』で最も素晴らしいことは、オードリー・ヘプバーンを主演にするというジャック・ワーナーの決断が正しかったことを、ヘプバーン自身が最高のかたちで証明して見せたことだ」と評した[70]。舞台版『マイ・フェア・レディ』でイライザの相手役のヒギンズ教授役を演じ、映画版でも引き続きヒギンズ教授役を務めたレックス・ハリスンはヘプバーンのことをお気に入りの一流の女優だと呼び、『サウンドステージ』誌のジーン・リングゴールドも「オードリー・ヘプバーンはすばらしい。彼女こそ現在のイライザだ」「ジュリー・アンドリュースがこの映画に出演しないのであれば、オードリー・ヘプバーン以外の選択肢はありえないという意見に反対するものは誰もいないだろう」とコメントしている[45]。
ヘプバーンは1966年のコメディ映画『おしゃれ泥棒』で、有名な美術コレクターだが実は所有しているのは全て偽物であるという贋作者の娘で、父親の悪事が露見することを恐れる娘ニコルを演じた。ニコルはピーター・オトゥール演じる探偵シモン・デルモットに、相手が父親のことを調べている探偵だとは知らずに父親の悪事の隠蔽を依頼するという役だった。1967年には2本の映画に出演した。『いつも2人で』は、一組のカップルの波乱に満ちた結婚生活を、一本の道を舞台に描き出すという実験的なイギリス映画である。監督のスタンリー・ドーネンは、撮影中のヘプバーンがそれまでになく快活で楽しそうに見えたと語り、共演したアルバート・フィニーのおかげだったとしている。[72]。
1967年にヘプバーンが出演したもう1本の映画が、サスペンススリラー映画『暗くなるまで待って』だった。ヘプバーンは脅迫を受ける盲目の女性を演じ、その演技の幅の広さを見せ付けた。この『暗くなるまで待って』はヘプバーンとメル・ファーラーの離婚直前に撮影された映画だった。この作品にはファーラーが製作者として参加していたために、ヘプバーンの体重はストレスで7kg近く落ちてしまったが、共演者のリチャード・クレンナと監督のテレンス・ヤングに安らぎを見出したヘプバーンは、何とか撮影を乗り切ることができた。ヘプバーンはこの『暗くなるまで待って』のスージー役で5回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされている。ボズリー・クロウザーは「ヘプバーンは哀切な役を演じた。彼女が見せる激しい動揺や恐怖心は我々の同情心や不安を掻きたててやまず、最後の場面では心から無事でいてくれと願ってしまう」と評した[73]。
最後の映画作品
1967年に、ヘプバーンは芸能界における15年間にわたる輝かしい経歴に区切りをつけ、家族との暮らしに時間を費やすことを決めた。その後ヘプバーンが映画への復帰を企図したのは1976年のことで、ショーン・コネリーと共演した歴史映画『ロビンとマリアン』への出演だった。1979年にはサスペンス映画『華麗なる相続人』の主役エリザベス・ロフを演じた。この作品の監督は1967年の『暗くなるまで待って』と同じくテレンス・ヤングで、共演はベン・ギャザラ、ジェームズ・メイソン、ロミー・シュナイダーらだった。『華麗なる相続人』の原作はシドニー・シェルダンの小説『血族』(Bloodline) で、シェルダンは映画化に当たり、ヘプバーンの実年齢にあわせてエリザベス・ロフを年長の女性に書き直している。大富豪の一族を巡る国際的な陰謀や人間関係をテーマとした映画だったが、評論家からは酷評され、興行的にも失敗して製作会社は大損害を被った。
ヘプバーンが映画で最後に主役を演じたのは、ピーター・ボグダノヴィッチが監督した1981年のコメディ映画『ニューヨークの恋人たち』(en:They All Laughed) である。しかしながら、ボグダノヴィッチの交際相手でこの作品にも出演していたドロシー・ストラットンが、離婚寸前だった夫に1980年に殺害され、この作品の公開が危ぶまれた。最終的には公開までこぎつけたが、それでも短期間の上映に留まってしまっている。テレビ映画では1987年に『おしゃれ泥棒2』(en:Love Among Thieves) で、ロバート・ワグナーと共演した。『おしゃれ泥棒2』には、ヘプバーンが主演した『シャレード』や『おしゃれ泥棒』などの映画から多くの要素が取り入れられている。
ヘプバーンの最後の出演映画となったのが1989年のスティーヴン・スピルバーグ監督作品『オールウェイズ』で、天使の役でのカメオ出演だった。この映画以降、ヘプバーンが携わった芸能関連の作品は2本しかないが、どちらも非常に高く評価されヘプバーンの死後ではあるが国際的な賞を受賞している。1本がPBSのテレビドキュメントシリーズ『オードリー・ヘプバーンの庭園紀行』(en:Gardens of the World with Audrey Hepburn) で、1990年の春から夏にかけて撮影された、世界7カ国の美しい庭園を紹介するという紀行番組だった。本放送に先立って1991年3月に1時間のスペシャル番組が放送され、シリーズ本編の放送が開始されたのはヘプバーンが死去した1993年1月21日の翌日からだった “Gardens of the World with Audrey Hepburn (1993)”. IMDb. 2013年7月29日閲覧。</ref>。このテレビ番組で、ヘプバーンは死後に1993年のエミー賞の情報番組個人業績賞 (Outstanding Individual Achievement – Informational Programming) を受賞した “Gardens of the World with Audrey Hepburn”. Janson Media. 2013年7月29日閲覧。</ref>。もう1本の1992年に発売された子供向け昔話を朗読したアルバム『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語』 (en:Audrey Hepburn's Enchanted Tales) では、グラミー賞の「最優秀子供向けスポークン・ワード・アルバム賞」を受賞した。ヘプバーンはグラミー賞とエミー賞をその死後に獲得した、数少ない人物の一人となっている。
ユニセフ親善大使
ヘプバーンは1989年にユニセフ親善大使に任命されている[74]。そして、1992年にヘプバーンのユニセフでの活動をたたえてアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュが、文民に与えられるアメリカ最高位の勲章である大統領自由勲章をヘプバーンに授与した。さらに映画芸術科学アカデミーが、人道活動への貢献をたたえてヘプバーンの死後にジーン・ハーショルト友愛賞を贈り、息子が代理として賞を受け取った。第二次世界大戦中にドイツ占領下のオランダで辛い幼少期を送り、その後女優として大きな成功をおさめることができたという経験から、ヘプバーンは残りの人生を最貧困国の恵まれない子供たちへの支援活動に充てることを決めたのである。ヘプバーンは多くの国々を訪れているが、言葉の面で苦労したことはほとんどなかった。ヘプバーンは母国語として英語とオランダ語を、さらにフランス語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語を流暢に操ることができたためである[75]。
ヘプバーンのユニセフでの本格的な活動は、1988年のエチオピアへの訪問が最初だった。当時のエチオピアは軍事クーデターで大統領となった独裁者メンギスツ・ハイレ・マリアムと、反政府組織が内戦を繰り広げており、100万人を超える難民で疲弊しきった国だった。このエチオピアでヘプバーンは、ユニセフが食糧支援を行餓死寸前の子供たち500人を収容していたメケレ (en:Mek'ele) の孤児院を慰問した。このエチオピア訪問でヘプバーンは「とても悲しく、絶望感すら覚えました。200万以上の人々が餓死寸前の危機にあり、その多くは子供たちなのです。エチオピアに食料がないわけではなく、分配できないだけです。エチオピアでは内戦が続いており、支援活動を行っていた赤十字とユニセフの職員は北部都市から避難するように勧告を受けました。私は反政府の地域へ赴き、そこで食料を求めて10日もあるいは3週間も歩き続ける母子を目にしました。床が砂でむき出しとなっているその場しのぎの難民キャンプで、人々は死を待つしかないのです。恐ろしいことです。耐えられません。「第三世界」という言葉が私は嫌いです。我々はともに一つの世界に暮らしているのです。人道上、非常な苦難に直面している多くの人々がいるのだということを世界中が認識してほしいと願っています」と語った[76]。
ヘプバーンは1988年8月に、予防接種のキャンペーンのためにトルコを訪れ、10月には南米諸国を訪れた。ヴェネズエラとエクアドルをめぐったヘプバーンは「小さな山村やスラム街、貧民街にも水道が設置されています。これはユニセフによるちょっとした奇跡といってもいいでしょう。また、少年たちがユニセフから送られたレンガとセメントで自分たちの学校を立てているのも目にしました」と振り返っている。1989年2月には中米を訪問し、ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラでそれぞれの大統領と面会している。同年4月にはロバート・ウォルダースとともに「オペレーション・ライフライン」計画の一環としてスーダンを訪れた。当時のスーダンは内戦下にあり、援助団体からの食糧支援が途絶えており、この計画はスーダン南部へ食料を運びこもうとするものだった。さらに10月にヘプバーンとウォルダースはバングラデシュへ赴いた。国連の報道写真家ジョン・アイザック (en:John Isaac (Photographer)) は「二人におびえて逃げ出そうとする子供もいるが、そんなときに彼女(ヘプバーン)はそっと近づいて抱きしめる。見たことのない光景だった。ためらいを見せるような子供には手を握ってやる。そのうちに子供たちが集まってきて、彼女の手を握ったりまとわりついたりしてくるんだ。彼女はまるでハーメルンの笛吹きみたいだったよ」とそのときの様子を振り返っている。1990年10月にヘプバーンはベトナムを訪れ、ユニセフが支援する予防接種の普及と水道設備設置に協力した。
死去する4カ月前の1992年9月に、ヘプバーンはソマリアを訪問した。当時のソマリアは、以前ヘプバーンが心を痛めたエチオピアやバングラデシュを上回るほどの悲惨な状況にあった。それでもなおヘプバーンは希望を捨ててはいなかった。「政治家たちは子供たちのことにはまったく無関心です。でもいずれの日にか人道支援の政治問題化ではなく、政治が人道化する日がやってくるでしょう」「奇跡を信じない人は現実主義者とはいえません。私はユニセフがもたらした、水という奇跡を目にしてきたのです。何百年にもわたって、水を汲むために少女や女性たちが何マイルも歩く必要がありました。でもいまでは家のすぐそばに綺麗な水があるのです。水は生命です。綺麗な水はこの村の子供たちの健康と同義なのです」「貧しい場所に住む人々はオードリー・ヘプバーンはご存知ないでしょうが、ユニセフという名前を覚えてくださいました。ユニセフという文字を目にしたときにそのような人々の顔が明るくなります。何かが起こるということが分かっているからです。例えばスーダンでは、水を汲み上げるポンプは「ユニセフ」と呼ばれているのです」
私生活
ヘプバーンは1952年に、ロンドンで舞台に立っていたころに知り合った男爵ジェイムズ・ハンソン (en:James Hanson, Baron Hanson) と婚約した[77]。ヘプバーン自身は「一目ぼれだった」と語っている。しかしながら、ウェディングドレスが出来上がり、日程も決まっていたにもかかわらず、この結婚は破談となった。二人の仕事があまりにも異なっており、ほとんどすれ違いの結婚生活になってしまうとヘプバーンが判断したためだった[78]。当時のヘプバーンの言葉に「私は結婚するのなら「本当の」結婚がしたいのです」というものがある[79]。また、1950年代初めには、その後ミュージカル作品『ヘアー』のプロデューサーをつとめるマイケル・バトラー (en:Michael Butler (producer)) と交際していたこともある[80]。
ヘプバーンは、1953年の『ローマの休日』で共演したグレゴリー・ペックと噂になったことがあるが、両者共にこの噂を一蹴している。しかしながらヘプバーンは「多かれ少なかれ女優は主演男優に好意を抱くものですし、その逆の場合もあるでしょう。演じられているキャラクターを好きになった経験がある人には理解できると思います。珍しいことではありません。ただ、撮影が終わるとそのような感情はなくなってしまうものです」とも語っている[81]。恋愛関係にあったかどうかはともかく、ヘプバーンとペックは終生の友人だった。1954年の『麗しのサブリナ』の撮影中に、ヘプバーンと既婚だったウィリアム・ホールデンは恋愛関係にあったといわれている。ヘプバーンはホールデンとの結婚と子供を望んだが、ホールデンが精管切除を受けており、子供ができないことを知ったヘプバーンが別れを切り出したといわれている[82][83] 。また、『麗しのサブリナ』で共演したハンフリー・ボガートとは不仲だったと広く信じられているが、「「気の強いもの同士」と言われたこともありますが、私と一緒のときのボギー(ボガートの愛称)はとても優しい人でした」とヘプバーンは語っている[84]。
グレゴリー・ペックが開いたカクテルパーティーで、ヘプバーンはアメリカ人俳優メル・ファーラーと出会った[45]。ファーラーは「僕たちは劇場について話しはじめた。彼女は僕とグレゴリー・ペックが舞台を共同製作したこともある、ラ・ジョラ・プレイハウス・サマー劇場のことをとてもよく知っていた。僕が出ていた映画『リリ』は3回観たとも言っていた。別れ際に彼女は、僕と共演したいからいい作品があればぜひ声をかけて欲しいと言ってきた」と、ファーラーはこの出会いを振り返っている[45][85]。ファーラーはヘプバーンの役を獲得するために奔走し、ブロードウェイ作品『オンディーヌ』の脚本をヘプバーンに送った。ヘプバーンはこの舞台への出演を承諾し、1954年1月から舞台稽古が始まっている。出会い、共演し、そして愛し合うようになった二人は、1954年9月25日にスイスのバーゲンストックで結婚した[86]。二人の共演が決まっていた映画『戦争と平和』の撮影準備中のことだった。
ファーラーとの間の唯一の子供が誕生する以前に、1955年と1959年の二度にわたってヘプバーンは流産している[87]。二度目の流産は『許されざる者』の撮影中に起こった落馬事故によるもので、岩に投げ出されたヘプバーンは背中を痛め、病院へと搬送されたが流産してしまった。このことはヘプバーンにとって心身ともに大きな傷となった。その後間もなく妊娠したヘプバーンは、子供を無事に出産するために一年間仕事を休んでいる。そして1960年7月17日に二人の長男ショーン・ヘプバーン・ファーラーが生まれた。
ヘプバーンとファーラーの結婚生活は長く続かないといわれていたが、ヘプバーンはファーラーが気難しいことは認めつつも、二人の仲はうまくいっていると主張していた[88]。ファーラーがヘプバーンを支配下に置き、小説『トリルビー』の登場人物であるスヴェンガーリのようにヘプバーンを意のままにしているのではないかと噂されたことすらあるが、ヘプバーンはこの中傷を一笑に付している[89]。ウィリアム・ホールデンは「オードリーがメルから影響されたがっているように見える」と語っている。その後もヘプバーンは妊娠したが、1965年と1967年の二度にわたり流産を繰り返した[90]。最終的に二人は1968年12月5日に離婚し、二人の結婚生活は14年間で終わりを告げた。その後ファーラーは長寿を保ったが、2008年6月に心不全のために90歳で死去している。
ヘプバーンは船旅でイタリア人精神科医アンドレア・マリオ・ドッティと出会い、ギリシア遺跡を巡る旅行中にドッティに惹かれていった。ヘプバーンはさらに子供を望んでおり、そのためには女優を辞めてもいいと思っていた。当時40歳のヘプバーンと30歳のドッティは1969年1月18日に結婚し、1970年2月8日には帝王切開で男子ルカ・ドッティが生まれている。ルカを妊娠中のヘプバーンは日々の暮らしに非常に気を使い、数ヶ月間にわたる休養生活を絵を描いて過ごしていた。1974年にヘプバーンは再びドッティの子を身篭ったが流産している[91]。ドッティはヘプバーンを愛し、前夫メル・ファーラーとの息子ショーンとの仲も良好だったが、若い女性と関係を持つようになっていった。そしてヘプバーンのほうも1974年の映画『華麗なる相続人』の撮影中に、共演したベン・ギャザラと不倫の関係になっていた[92]。ヘプバーンとドッティは1982年に離婚し、二人の結婚生活は13年で終わった。離婚したファーラーとの接触は徹底的に避けていたヘプバーンだったが、ドッティとは息子ルカの養育のことで離婚後も連絡を取り合った。ドッティは2007年10月に消化器官の合併症で死去している。
ドッティとの結婚生活が続いていた1980年から死去するまでヘプバーンは、妻であるイギリス人女優マール・オベロンと死別したオランダ人俳優ロバート・ウォルダース (en:Robert Wolders) と恋愛関係にあった[93]。二人が知り合ったのは友人を介してであり、ヘプバーンとドッティとの結婚生活が終わりを迎えようとしていた時期だった。ドッティとの離婚が成立すると、ヘプバーンとウォルダースは一緒に暮らし始めたが、正式に結婚することはなかった。1989年のアメリカ人ジャーナリストバーバラ・ウォルターズとのインタビューで、ウォルダースと暮らしたそれまでの9年間を人生で最良の日々と振り返っている。
死去
1992年9月終わりに、ユニセフの活動で赴いていたソマリアからスイスの自宅へ戻ったヘプバーンは、腹痛に悩まされるようになった。専門医の診察を受けたが原因がはっきりせず、精密検査を受けるために10月にロサンゼルスへと渡った。11月1日にシダーズ=サイナイ医療センター (en:Cedars-Sinai Medical Center) で診察を受け、担当医が腹腔鏡検査でヘプバーンの腹部に悪性腫瘍を発見し、虫垂にも転移していることが判明した。これは腹膜偽粘液腫と呼ばれる極めて珍しいがんの一種だった[94]。何年もかけて成長した悪性腫瘍が転移しており、小腸をも薄く覆い尽くしていた。外科手術のあと、医者はヘプバーンに抗がん剤フルオロウラシルとフォリン酸の投与による化学療法を開始した[95]。手術から数日後ヘプバーンは腸閉塞にかかり、薬物療法だけでは身体の痛みを和らげることができなくなった。12月1日に再手術が行われたが、すでに悪性腫瘍が身体各部に転移しており、外科手術による摘出は不可能であるという決断がなされた。
ヘプバーンの余命がわずかであることを知らされた家族たちは、ヘプバーンの最後になるであろうクリスマスを自宅で過ごさせるために、スイスの自宅へとヘプバーンを送り返すことを決めた。しかしながら術後のヘプバーンは回復しきってはおらず、通常の国際便での旅には耐えることができない状態だった。このことを知ったヘプバーンの衣装デザイナーで長年にわたる友人だったユベール・ド・ジバンシィが、メロン財閥のポール・メロンの妻レイチェル・ランバート・メロンに頼んで、メロンが所有するプライベートジェット機をヘプバーンのために手配した。そして多くの花々で満たされたこのジェット機が、ヘプバーンをロサンゼルスからジェノヴァまで運んだ[96]。1993年1月20日の夕方、ヘプバーンはスイスのトロシュナ (en:Tolochenaz) の自宅で、がんのために息を引き取った。ヘプバーンの死を知った旧友グレゴリー・ペックは、ヘプバーンが好きだったラビンドラナート・タゴールの詩を涙ながらに朗読している[97]。
ヘプバーンの葬儀は、1993年1月24日にトロシュナの教会で執り行われた。ヘプバーンとメル・ファーラーの結婚式で牧師を務め、1960年に生まれた二人の息子ショーンの洗礼も担当したモーリス・アインディガーがこの葬儀を取り仕切った。ユニセフからはサドルッディーン・アーガー・ハーン (en:Prince Sadruddin Aga Khan) が弔辞を寄せ、高官たちがこの葬儀に加わっている。家族や友人、知人としては、ヘプバーンの息子たちや共に暮らしていたロバート・ウォルダース、異父兄イアン・クオールズ・ファン・ユフォルト、元夫のアンドレア・ドッティとメル・ファーラー、ユベール・ド・ジバンシィ、アラン・ドロン、ロジャー・ムーアらが参列した[98]。また、グレゴリー・ペック、エリザベス・テイラー、オランダ王室からは献花が届けられた[99]。葬儀の後、ヘプバーンはトロシュナを一望できる小高い丘の小さな墓地に埋葬された[100]。
後世への影響や評価
どのように言えばいいのでしょう。とにかく私の人生はとても幸せでした。— オードリー・ヘプバーン
、[101]
ヘプバーンの女優としての業績とその人間性は死後も長く伝えられている。米国映画協会が選定した「最も偉大な女優50選」でヘプバーンは第3位になっている。芸能界から遠ざかった晩年においても、ヘプバーンは映画界で存在感を放っていた。1991年にはリンカーン・フィルム・ソサエティから表彰を受け、アカデミー授賞式では何度もプレゼンターを務めている。ヘプバーンが死後に受けた賞としては、1993年のジーン・ハーショルト友愛賞、グラミー賞、エミー賞などがある。ヘプバーンの生涯は数多くの伝記となり、2000年には『オードリー・ヘプバーン物語』としてテレビ映画化されている。このテレビ映画でヘプバーン役を演じたのはジェニファー・ラブ・ヒューイットで、少女時代のヘプバーンはエミー・ロッサムが演じた[102]。
ヘプバーンの映像は、世界中の広告媒体に使用されている。日本では『ローマの休日』のモノクロフィルムを着色してデジタル化された映像がキリンの午後の紅茶のCMに採用されているほか、三井住友銀行が、インターネットを利用した銀行サービスや女性顧客向けの総合口座サービスのCMキャラクターにヘプバーンを起用している。このCMは、ヘプバーンが出演した映画から有名な場面を抜き出し、宣伝する商品に合うような日本語の台詞を吹き込む形式を取っている。この吹替を担当した声優がヘプバーンの映画作品でヘプバーンの声を多く担当した池田昌子だった。アメリカでは『パリの恋人』でヘプバーンが踊るシーンが、AC/DCの曲『バック・イン・ブラック』とともに衣料メーカのGAPのCMに採用された。GAPはオードリー・ヘプバーン子供基金に多額の献金をしている[103]。2013年には、コンピュータ処理されたヘプバーンの画像がイギリス製チョコレートのギャラクシー (en:Galaxy (chocolate)) の広告に使用された[104]。また一部では、ヘプバーンを同性愛者のアイコンにしようとする動きもある[105] [106] [107]。
ファッション
ヘプバーンは1961年にインターナショナル・ベスト・ドレッサー (en:International Best Dressed List) に選ばれて殿堂入りしており、死後においてもファッション界から敬意を払われている。アメリカの通信販売大手QVCによる「20世紀最高の美女」を決めるアンケート調査(女性2000人を対象に実施)と、飲料水エビアンを発売するダノンによる「史上最高の美女」の調査アンケートで、ともに1位となった[108] [109] [110] [111] [112]。当時のハリウッドでもてはやされていた、マリリン・モンロー、マルティーヌ・キャロル、キム・ノヴァク、ラナ・ターナーといった豊満な女優たちとは異なり、痩身のヘプバーンは優雅で大きな瞳と長い脚の非常に女性的な女優だった。当時の女性に対する典型的なイメージとは正反対の細いブラウンの眉を持つヘプバーンのことを、映画監督ビリー・ワイルダーは「忘れ難いファニーフェイス」と回想している。ワイルダーは「この女性が大きな胸を過去の遺物としてしまうだろう」とジョークを飛ばしたこともあった[113]。
ヘプバーンのお茶目な妖精のような美貌と人形めいた痩身というイメージを決定付けたのは、ファッションデザイナーのユベール・ド・ジバンシィがデザインした洋服だった。[41]。ジバンシィがヘプバーンのドレスを最初にデザインしたのは、1954年の映画『麗しのサブリナ』からである。ジバンシィは、「ヘプバーン」という女優の洋服を担当することになったと告げられたときのことを次のように回想している。ジバンシィは「ヘプバーン」という名前から、自身が担当する女優はキャサリン・ヘプバーンだと思い込んでいた。そのためオードリー・ヘプバーンと初めて顔を合わせたジバンシィは失望し、この依頼を断ろうとして空いている時間がほとんどないとヘプバーンに答えている。それでも自身を魅力的に見せてくれるであろう衣装を正しく理解していたヘプバーンは、とにかくジバンシィがデザインした最新の洋服を見せてくれるように頼んだという[40]。『麗しのサブリナ』から始まる二人の友情と協力関係はヘプバーンが死去するまで続いた。ヘプバーンはジバンシィがデザインした多くの洋服を見事に着こなし、そのファッションスタイルは世界的に高く評価されることになっていった。
「ジバンシィは私(ヘプバーン)の外見に、さまざまなものを加えてくれました。彼はいつも素晴らしく、そして最高でい続けてくれました。彼と私の好みはずっと同じだったのです。特別な素材と途方もない才能で仕立てられた、シンプルな細身のドレスと一組のイアリング以上に美しい装いはないでしょう」とヘプバーンは語っている[113]。ジバンシィは『麗しのサブリナ』以降も『パリの恋人』、『昼下がりの情事』、『ティファニーで朝食を』、『パリで一緒に』、『シャレード』、『おしゃれ泥棒』など、さまざまな映画作品でヘプバーンの衣装を担当した。また、ジバンシィはヘプバーンとの35年にわたる交友で「彼女(ヘプバーン)の身体のサイズは、1インチとして変わらない」ことにいつも驚かされていた[113]。ジバンシィはヘプバーンの生涯を通じての友人、理解者であり、ヘプバーンはジバンシィにとって芸術の女神ミューズだった。ヘプバーンは「私とユベールはよく似ています。好みが同じなのです」と語っている[113]。ヘプバーンはジバンシィのファッションモデルになったこともある。1988年にジバンシィがパリでサマー・コレクションを開催したときにヘプバーンは「私は世界のどこにいても、身近にユベールを感じています。彼は俗事に関心を向けるような人ではありません。自分の好きなことにしか興味がないのです」とコメントした[113]。また、ジバンシィは「ランテルディ」という香水をヘプバーンのために調合している[114]。
ジバンシィと同様に、著名なファッションカメラマンのリチャード・アヴェドンにとってもヘプバーンはミューズだった。アヴェドンが撮影したヘプバーンの顔のクローズアップ写真は、国際的に有名になった。この写真にはヘプバーンの特徴である眼差し、眉、口元が見事に映し出されていた。アヴェドンはヘプバーンについて「ヘプバーンを被写体にするという幸運に恵まれると、いまも、そしてこれから先もずっと私は自身の無力さを痛感することだろう。私には彼女の更なる魅力を引き出すことはできない。彼女はただそこに在り、私はそれを記録するのがやっとだ。何も付け加えることができない素晴らしい女性といえる。彼女の存在それ自身が完璧な肖像写真だ」と語っている[115]。ヘプバーンと共演経験がある女優シャーリー・マクレーンは、1996年の著書『マイ・ラッキー・スターズ―わがハリウッド人生の共演者たち』で「(ヘプバーンは)稀に見る高い審美眼を持った女性で、私は彼女のスタイルやセンスを羨望の眼差しで眺めていました。彼女の近くにいるときには、自分が不恰好で流行おくれだと感じたものです」と記している。現代でもヘプバーンのファッションスタイルは、女性たちからの支持を集め続けている[116]。
イタリアの靴デザイナーであるサルヴァトーレ・フェラガモは1999年に、「オードリー・ヘプバーンという女性、そのスタイル (Audrey Hepburn, a woman, the style)」と銘打った展示会で、ヘプバーンのためにデザインした靴を発表したことがある。また、『ティファニーで朝食を』でヘプバーンがサングラスをかけていたことで、当時の女性たちの間でもサングラスが流行した。この作品でヘプバーンがかけていたサングラスはレイバンのウェイファーラーモデル (en:Ray-Ban Wayfarer) だと間違えられることが多いが、オリヴァー・ゴールドスミスがデザインした「マンハッタン」と呼ばれるサングラスである[117]。サングラスを着用したヘプバーンの写真は『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』など、多くのファッション誌の表紙を飾った。ヘプバーンはその生涯を通じてファッション界に刺激を与え、死後も影響を及ぼし続けている。ファッション評論家たちは、ヘプバーンがファッション界のアイコンとして長きに渡って親しまれているのは「すっきりとしたライン、シンプルだが目立つアクセサリー、単色でまとめた色使い」という、自分に似合うスタイルを貫き通したからだとしている[118]。
ヘプバーンはファッションを楽しんではいたが、普段の暮らしの中ではそれほど重要視していなかった。世間から思われているイメージとは違って、ヘプバーンが好んでいたのはカジュアルで気楽な衣服だった[119]。さらにヘプバーンは自身が魅力ある女性だとは思っていなかった。1959年のインタビューで「私は定期的に自分のことが大嫌いになります。太りすぎ、背が高すぎ、もしかしたら単純に醜いだけなのではないかと。私が本来、自分に自信がなく劣等感を抱えた優柔不断な女性であることは間違いありません。無理矢理にでも気力を振り絞らないと何もできないのです」と語っている[120]。
2006年12月5日に、『ティファニーで朝食を』のためにジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレスがクリスティーズのオークションにかけられた。落札予想額は70,000ポンドだったが、最終的にはその7倍近い467,200ポンド(約92万ドル)で落札された。映画由来の衣装についた価格としては当時最高額だったが[121]、マリリン・モンローが『七年目の浮気』で着用した、地下鉄の通気口からの風でまくれ上がった「サブウェイ・ドレス」が2011年6月に460万ドルで売却されてヘプバーンの記録を更新している[122]。このヘプバーンのドレスの収益金は、インドの恵まれない子供たちを救済するチャリティー基金に寄付された。基金の責任者は「私は涙を禁じえません。伝説的とも言える女優が着用した衣装がレンガやセメントの購入資金となり、世界中の貧しい子供たちが通える学校を建てられることになるとは、本当に信じられない気持ちです」と述べた[123]。しかしながら、このクリスティーズのオークションに出品されたドレスは、ヘプバーンが『ティファニーで朝食を』で着用したドレスではなかった[124]。『ティファニーで朝食を』ではジバンシィがデザインした複数のドレスが用意されたが、実際にヘプバーンが映画で着用したドレスは2点だけだった。それら2点のドレスのうち1点はジバンシィが保存しており、もう1点はマドリードの衣装博物館に展示されている[123]。2009年12月にもロンドンでヘプバーンが映画で使用した衣装のオークションが開催され、60,000ポンドの価格がついた『おしゃれ泥棒』で着用した黒のカクテルガウンなど、総額270,200ポンド(437,000ドル)で落札された。そしてオークションの収益金のうち半分が、オードリー・ヘプバーン子供基金とユニセフが共同で行っている学童支援活動に寄付された[125]。
出演作品
公開年 | 邦題 原題 |
配役 | 備考 |
---|---|---|---|
1948年 | オランダの七つの教訓 Nederlands in Zeven Lessen |
オランダ航空のスチュワーデス | オランダ語: Nederlands in Zeven Lessen |
1951年 | 若気のいたり One Wild Oat |
ホテルの受付嬢 | 端役 |
1951年 | 若妻物語 Young Wives' Tale |
イヴ・レスター | 端役 |
1951年 | 素晴らしき遺産 Laughter in Paradise |
煙草売りのフリーダ | 端役 |
1951年 | ラベンダー・ヒル・モブ The Lavender Hill Mob |
チキータ | 端役 |
1952年 | 初恋 The Secret People |
ノラ・ブレンターノ | 初の重要な役どころ |
1952年 | モンテカルロへ行こう Nous irons à Monte Carlo Monte Carlo Baby |
メリッサ・ウォルター(フランス語版)/リンダ・ファレル(英語版) | 英語版とフランス語版の二種類が製作された |
1953年 | ローマの休日 Roman Holiday |
アン王女(アーニャ・スミス) | アカデミー賞 最優秀主演女優賞受賞 英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞 ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞受賞(ドラマ部門) ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞受賞 |
1954年 | 麗しのサブリナ Sabrina |
サブリナ・フェアチャイルド | アカデミー賞 最優秀主演女優賞ノミネート 英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞ノミネート ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート |
1956年 | 戦争と平和 War and Peace |
ナターシャ・ロストワ | 英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞ノミネート ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ドラマ部門) |
1957年 | 昼下がりの情事 Love in the Afternoon |
アリアーヌ・シャバッス | ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ミュージカル・コメディ部門) ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート |
1957年 | パリの恋人 Funny Face |
ジョー・ストックトン | 最初のミュージカル映画作品 |
1959年 | 緑の館 Green Mansions |
リマ | |
1959年 | 尼僧物語 The Nun's Story |
シスター・ルカ(ガブリエル・ヴァン・デル・マル) | 英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞受賞 ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞受賞 アカデミー賞 最優秀主演女優賞ノミネート ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ドラマ部門) |
1960年 | 許されざる者 The Unforgiven |
レイチェル・ザカリー | 唯一の西部劇映画 |
1961年 | ティファニーで朝食を Breakfast at Tiffany's |
ホリー・ゴライトリー | アカデミー賞 最優秀主演女優賞ノミネート ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ミュージカル・コメディ部門) |
1961年 | 噂の二人 The Children's Hour |
カレン・ライト | |
1963年 | シャレード Charade |
レジーナ・ランパート | 英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞受賞 ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ドラマ部門) |
1964年 | パリで一緒に Paris When It Sizzles |
ガブリエル・シンプソン | |
1964年 | マイ・フェア・レディ My Fair Lady |
イライザ・ドゥーリトル | ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ミュージカル・コメディ部門) ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート |
1966年 | おしゃれ泥棒 How to Steal a Million |
ニコル・ボネ | |
1967年 | いつも二人で Two for the Road |
ジョアンナ・ウォレス | ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ミュージカル・コメディ部門) |
1967年 | 暗くなるまで待って Wait Until Dark |
スージー・エンドリクス | アカデミー賞 最優秀主演女優賞ノミネート ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ドラマ部門) ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート |
1976年 | ロビンとマリアン Robin and Marian |
レディ・マリアン | |
1979年 | 華麗なる相続人 Bloodline |
エリザベス・ロフ | 唯一のR指定作品 |
1981年 | ニューヨークの恋人たち They All Laughed |
アンジェラ・ニオティーズ | |
1989年 | オールウェイズ Always |
天使ハップ | カメオ出演 |
放送年 | 番組名 | 配役 | Notes |
---|---|---|---|
1951年 | サンデー・ナイト・シアター Sunday Night Theatre |
セリア | エピソード "The Silent Village" |
1952年 | CBSテレビジョン・ワークショップ CBS Television Workshop |
本人 | エピソード "Rainy Day at Paradise Junction" |
1957年 | マイヤーリンク Mayerling |
マリー・フォン・ヴェッツェラ | アメリカのNBCが制作したテレビ映画で、ヨーロッパでは劇場公開された |
1987年 | おしゃれ泥棒2 Love Among Thieves |
男爵夫人カロリーヌ・デュラク | テレビ映画 |
1993年 | オードリー・ヘプバーンの庭園紀行 Gardens of the World with Audrey Hepburn |
進行 | エミー賞 情報番組個人業績賞 |
1993年 | 想い出のオードリー・ヘプバーン Audrey Hepburn: In Her Own Words |
本人 | ドキュメンタリー |
上演年 | 作品名 | 配役 | 劇場名 | Notes |
---|---|---|---|---|
1948年 - 1949年 | ハイ・ボタン・シューズ High Button Shoes |
コーラスガール | ロンドン・ヒッポドローム劇場 (London Hippodrome) | 1948年12月22日初演、全291回公演 |
1949年 | ソース・タルタル Sauce Tartare |
コーラスガール | ケンブリッジ・シアター (Cambridge Theatre)) | 1949年5月18日初演 |
1950年 | ソース・ピカンテ Sauce Piquante |
主役級 | ケンブリッジ・シアター | 1950年4月27日初演 |
1951年 - 1952年 | ジジ Gigi |
ジジ | フルトン・シアター (Fulton Theatre) | 1951年11月24日初演、1952年5月31日終演 シアター・ワールド賞受賞 (en:Theatre World Award) |
1952年 - 1953年 | ジジ Gigi |
ジジ | アメリカ各地 | アメリカ巡業公演 1952年10月13日にピッツバーグで開幕、1953年5月16日にサンフランシスコで閉幕 その他、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントン、ロサンゼルスで上演 |
1954年 | オンディーヌ Ondine |
オンディーヌ | リチャード・ロジャース・シアター Richard Rodgers Theatre |
1954年2月18日初演、1954年6月26日終演 トニー賞 最優秀演劇女優賞受賞 |
受賞
関連項目
- 池田昌子 - 日本語版の吹き替え声優、CMでも担当している。
出典
- ^ ヘプバーンの表記に関する解説:安藤邦男「カタカナ英語と英語教育」
- ^ ヘプバーン明記での刊行物:『アルバムオードリー・ヘプバーン』(ゼンバッハ・K・ユルゲン編、川原亜矢子翻訳、ISBN 4062119145)など。
- ^ メル・ファーラーとの間に生まれた息子ショーン・ヘプバーン・ファーラーの著書 『AUDREY HEPBURN―母、オードリーのこと』(ISBN 4-8124-1668-X)による。
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- ^ Sinclair, Lulu (2010年7月1日). “Actress Tops Poll Of 20th Century Beauties”. Sky. 2011年12月18日閲覧。
- ^ a b c d e Regard sur Audrey Hepburn, Regard Magazine n° 4, Paris, January 1993.
- ^ 「ランテルディ (L'Interdit)」はフランス語で「禁止」という意味である。この香水を気に入ったヘプバーンが、冗談で自分以外は使用禁止と言ったことから「ランテルディ」と名付けられたという。
- ^ Karney, Robyn. A Star Danced: The Life of Audrey Hepburn, Bloomsbury. London: 1993
- ^ “Audrey Hepburn’s Best-dressed Film Icon”. Web.archive.org (2008年1月14日). 2008年1月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月14日閲覧。
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- ^ a b “Auction Frenzy over Hepburn dress”. BBC NEWS. (2006年12月5日)
- ^ Christie's online catalog. Retrieved 7 December 2006.
- ^ Ellicott, Claire (2009年12月9日). “Audrey Hepburn's Givenchy couture collection sold at auction for £270,000”. Daily Mail (UK)
関連文献
- 『オードリー・ヘプバーン オートグラフ・コレクション』 近代映画社、2008年 (ISBN 9784764822214)
- ヘプバーン・フェラー・ショーン 『母、オードリーのこと』 実川元子訳 竹書房、2004年
- ボブ・ウィロビー写真 『世にも素敵なオードリー王国 ヘプバーン写真集』 山本容子・文 講談社+α文庫 2003年
- 清藤秀人 『オードリー・ヘプバーン98の真実』 近代映画社、2007年
- 『オードリー・ヘプバーン 世界を魅了した20作ヒロイン集』 近代映画社、2004年
- 『オードリー・ヘプバーンスタイル』 近代映画社 2003年
- チャールズ・ハイアム 『オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生』 柴田京子訳、近代映画社 1986年
- バリー・パリス 『オードリー・ヘップバーン』 永井淳訳、集英社 1998年(2001年の文庫版タイトルは『オードリー・ヘップバーン物語』)
- パメラ.クラーク・キオ『オードリー・スタイル ~エレガントにシックにシンプルに』講談社、2000年。ISBN 978-4062105323。
- Brizel, Scott (2009). Audrey Hepburn: International Cover Girl. Titan Books Ltd. ISBN 978-1-84856-611-8
- Chesire, Ellen (2003). Audrey Hepburn. Pocket Essentials. ISBN 978-1-903047-67-5
- Harris, Warren G. (1994). Audrey Hepburn: A Biography. Simon & Schuster. ISBN 9780671758004
- Hepburn-Ferrer, Sean (2003). Audrey Hepburn, An Elegant Spirit: A Son Remembers. Atria. ISBN 0-671-02478-7
- Keogh, Pamela Clarke (2009). Audrey Style. Aurum Press Ltd. ISBN 978-1-84513-490-7
- Maychick, Diana (1996). Audrey Hepburn: An Intimate Portrait. Birch Lane Pr. ISBN 978-1-55972-195-0
- Paris, Barry (1997). Audrey Hepburn. Weidenfeld & Nicolson. ISBN 978-0-297-81728-4
- Spoto, Donald (2006). Enchantment: The Life of Audrey Hepburn. Arrow
- Walker, Alexander (1994). Audrey: Her Real Story. Weidenfeld & Nicholson. ISBN 978-1-85797-352-5
- Woodward, Ian (1984). Audrey Hepburn. St. Martin's Press. ISBN 978-0-312-06074-9
外部リンク
- 公式ウェブサイト of Hepburn ( and the Audrey Hepburn Children's Fund )
- "オードリー・ヘプバーンの関連記事". ニューヨーク・タイムズ (英語).
- 図書館にあるオードリー・ヘプバーンに関係する蔵書一覧 - WorldCatカタログ
- オードリー・ヘプバーン - IMDb
- オードリー・ヘプバーン - インターネット・ブロードウェイ・データベース
- オードリー・ヘプバーン - TCM Movie Database
- オードリー・ヘプバーン - オールムービー
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