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「京都御所」の版間の差分

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[[即位]]の際に天皇が着座し、その即位が象徴的に示される天皇の正式な御座所である[[高御座]]並びに皇后の正式な御座所である[[御帳台]]は京都御所の紫宸殿に常設されているため、今上天皇の即位の礼「正殿の儀」(「紫宸殿の儀」に相当)に際しては、高御座と御帳台を解体した上で皇居[[宮殿]]のある東京まで運ばれた。
[[即位]]の際に天皇が着座し、その即位が象徴的に示される天皇の正式な御座所である[[高御座]]並びに皇后の正式な御座所である[[御帳台]]は京都御所の紫宸殿に常設されているため、今上天皇の即位の礼「正殿の儀」(「紫宸殿の儀」に相当)に際しては、高御座と御帳台を解体した上で皇居[[宮殿]]のある東京まで運ばれた。


== 建物 ==
== 現存施設 ==
[[File:Imperial Palace in Kyoto - emperor's chair.JPG|thumb|200px|紫宸殿]]
=== 建礼門 ===

御所正面入口の正門。素木、切妻造、桧皮葺(ひわだぶき)、柱間1間の四脚門である。開門されるのは[[天皇]]や[[要人#国賓|国賓]]の来場や一般公開など、特別な行事の時のみである。左右の築地塀(ついじべい)には5本の筋(水平の線)が入っているが、これも塀として最高の格式を示すものである。この門を入り、丹塗り瓦葺の[[承明門]](じょうめいもん)を潜ると正面が紫宸殿である。
=== 概要 ===
京都御苑の北西寄り、築地塀で囲まれた面積約11万平方メートルの区域が京都御所である。御所の敷地は東西約250メートル、南北約450メートルの南北に長い長方形で、そこにはかつての内裏に属していた多くの建物と庭園が残っている。御所の建物は近世を通じ、天正(1591年)、慶長(1613年)、寛永(1642年)、承応(1655年)、寛文(1662年)、延宝(1675年)、宝永(1709年)、寛政(1790年)、安政(1855年)の9度にわたり造営が行われている<ref>(西、1993)、pp.111 - 112</ref>。うち、天正度、慶長度、寛永度の造営は焼失に伴うものではなく、時の為政者([[豊臣秀吉]]および徳川家)の威勢を示す目的のものであったが、それ以降の6度の造営はすべて火災焼失に伴うものであり、現存する御所の建物は安政度造営のものである。建物群は大きく3つのブロックに分けられる。南寄りには内裏の正殿であった紫宸殿、天皇が政務を執った清涼殿をはじめ、儀式や政務のために用いられた表向きの建物が残る。その北側、敷地のほぼ中央のブロックは、天皇の日常生活や内向きの行事、対面などに使用された内向きの建物群で、小御所、御学問所、御常御殿などがここにある。御所敷地のもっとも北寄りのブロックはかつての後宮だった場所で、多くの建物が取り払われているが、皇后御常御殿、飛香舎(ひぎょうしゃ)をはじめ、皇后や皇子皇女などの住まいだった建物が残っている。建築様式は、表向きの建物である紫宸殿や清涼殿が平安時代の住宅建築様式である[[寝殿造]]を基調としているのに対し、これらの北にある内向きの建築群は、外観などに寝殿造の面影を残しつつも、[[書院造]]や[[数寄屋造]]の要素が強くなっている。庭園は、紫宸殿の南庭(「だんてい」と読み慣わしている)や清涼殿の東庭が一面に白砂を敷き詰めた儀式の場としての庭であるのに対し、小御所、御学問所、御常御殿などに接した庭は池と遣水(やりみず、流水の意)を中心にした日本式の庭である。各建物の内部は、それぞれの部屋の格や用途に応じた、さまざまの障壁画で飾られている。これらの障壁画には、[[狩野派]]、[[土佐派]]、[[円山四条派]]をはじめ、江戸時代末期の日本画壇の主要な絵師たちが絵筆を振るっている。京都御所は、平安時代の内裏とは位置が異なり、建物も江戸時代末期の再建であるが、建築、庭園、障壁画が一体となって日本の伝統文化の粋を今に伝えている。<ref>『京の離宮と御所』(JTBキャンブックス)、pp.96 - 97, 112 - 114</ref><ref>(渡辺、2010)、pp.20 - 22</ref>

なお、以下の建築、庭園、障壁画の説明は、現存する京都御所(安政2年・1855年造営)についてのものである。

=== 諸門 ===
京都御所は敷地の四方を築地塀(延長は東西約250メートル、南北約450メートル)で囲まれている。築地塀は5本の筋の入った、もっとも格式の高いもので、計6か所の門がある。すなわち、南面には建礼門、北面には朔平門、東面の南寄りに建春門、西面は南から北へ宜秋門、清所門、皇后門である。これらの門のほかに、穴門という、屋根のない入口が12か所ある。鬼門にあたる敷地の北東角では、築地塀がそこだけ凹んでおり、「猿ヶ辻」と称されている。名称の由来は、ここに魔除けのために日吉山王社の神の使いとされる猿を祀ることによる。<ref>(西、1993)、pp.92 - 94</ref><ref>(渡辺、2010)、pp.12 - 13</ref>
<gallery>
File:Kyotopalace.jpg|建礼門
File:Seisho-Gomon.JPG|清所門
File:Gishu-Mon.JPG|宜秋門
File:Sakuhei-Mon.JPG|朔平門
File:Kogo-Mon.JPG|皇后門
File:Sarugatsuji of Kyoto Imperial Palace.jpg|猿が辻
</gallery>


=== 紫宸殿 ===
=== 紫宸殿 ===
{{see also|紫宸殿}}
{{see also|紫宸殿}}
[[画像:Kyoto palace02.jpg|thumb|220px|[[紫宸殿]] 右に見えるのは左近の桜]]
[[画像:Kyoto palace02.jpg|thumb|220px|[[紫宸殿]] 右に見えるのは左近の桜]]
[[File:Imperial Throne of Shishinden in Kyoto Imperial Palace.jpg|thumb|220px|紫宸殿高御座]]
[[File:Shishin-Den Plaque.JPG|thumb|220px|紫宸殿扁額]]
[[File:Imperial palace 1.JPG|thumb|220px|承明門]]
御所敷地の南寄りに南面して建つ、かつての内裏の正殿で、「ししいでん」とも読む。天皇の即位、元服、立太子、節会など、最重要の公的儀式が執り行われた建物である。屋根は入母屋造、檜皮葺き。桁行(間口)9間、梁間(奥行)3間の身舎(もや、「母屋」とも書く)の東西南北に廂をめぐらし、その外に簀子縁(すのこえん)をめぐらす(ここで言う「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する。以下同じ)。平面規模は簀子縁を除いて、間口が33メートル余、奥行が23メートル弱である。梁間の3間は等間ではなく、奥(北)の1間のみ柱間がごく狭くなっている。簀子縁の周囲には高欄をめぐらし、建物正面には18段の階段を設ける。身舎内は間仕切りを設けず広い1室とし、柱は円柱、床は畳を敷かず拭板敷(ぬぐいいたじき)とし、天井板を張らない化粧屋根裏とする。正面の柱間装置は蔀(しとみ)とする。なお、京都御所の紫宸殿と清涼殿では、通常「蔀」と呼ばれる柱間装置のことを伝統的呼称で「御格子」(みこうし)と呼んでいる。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp.9, 12</ref><ref>(藤岡、1984)、pp.61 - 62</ref><ref>(西、1993)、pp.95 - 96</ref><ref>(渡辺、2010)、p.30</ref>


以上のように、この建物は江戸時代末期の再建でありながら、柱をすべて円柱とする点、柱間装置に蔀を用い、これを建物の内側へ跳ね上げる点、内部に畳を敷かず、板敷の広い室とする点など、復古的な建物で、様式は平安時代の寝殿造を基調としている。寝殿造は、奈良時代に伝来した中国・唐の建築様式を源流としつつ、淡泊な美を愛でる傾向の強い日本人の感性に合った、簡素な様式に変化を遂げたものである。紫宸殿や清涼殿は、内裏の中心的建物でありながら、華美な装飾や威圧的な構えがなく、柱などの部材は素木仕上げ、蔀(御格子)の桟は黒塗りである。ただし、長押、蔀、高欄などの要所に打たれた飾金具を朱漆塗とし、正面階段の木口を白塗として、簡素ななかにも色彩の変化を見せている。身舎内には、中央に天皇の座である[[高御座]](たかみくら)、その向かって右に皇后の座である御帳台(みちょうだい)がある。現在の高御座および御帳台は、大正4年(1915年)、大正天皇の即位大礼に際して造られたものである。紫宸殿の南正面は一面に白砂を敷き詰めた南庭で、建物正面左右には左近の桜と右近の橘がある。南庭は回廊で方形に囲まれ、回廊の南正面に承明門、東面に日華門、西面に月華門がある。これらの門以外に、回廊には4か所に掖門(わきもん)がある。承明門の東と西の掖門をそれぞれ長楽門、永安門、日華門の南と月華門の南にあるのをそれぞれ左掖門(さえきもん)、右掖門(うえきもん)という。紫宸殿が檜皮葺で素木仕上げであるのに対し、回廊やそこに開かれた門は瓦葺で、軸部や扉を朱塗とする。承明門の南は御所の正門である建礼門である。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.10</ref><ref>(西、1993)、p.94</ref><ref>(渡辺、2010)、pp.7, 21 - 22</ref>
御所の正殿で、[[天皇]]の[[即位の礼|即位式]]、[[立太子礼]]などの最重要儀式が執り行われた最も格式の高い建物である。白砂の南庭(なんてい、だんてい)に面して南向きに建つ。[[入母屋造]]、桧皮葺の高床式宮殿建築の建物で、平面は33メートル×23メートルほどの規模がある。建具は蔀戸(しとみど)が使われている。規模は大きいが、華美な装飾のない、簡素な建物である。構造は中央の母屋の東西南北に庇を付した形になる。


京都御所の建物は近世を通じてたびたび焼失と再建を繰り返しているが、紫宸殿と清涼殿が平安時代風の復古的な様式で再建されたのは、寛政度造営の時であり、次の安政度造営でもそれが踏襲された。寛政度の造営の奉行(総責任者)を務めたのは老中[[松平定信]]である。当時の日本は幕府の財政難と作物の凶作に苦しんでおり、平安時代風の復古様式での再建には費用がかさむことなどから、定信は当初は反対の立場であったが、結局、紫宸殿と清涼殿に限って古い様式で再建することとした<ref>(西、1993)、pp.112 - 115</ref>。寝殿造様式の再現には公家で故実家の[[裏松光世]](裏松固禅)の意見を取り入れたというのが通説となっている。その結果、平面構成、建具、円柱、板敷の床などは平安時代のものが再現されているが、屋根構造までは再現できず、屋根の形や構造は江戸時代の大工の技法による近世風のものになっている。紫宸殿の屋根は大きく、勾配が急であり、上部の切妻部分と、下部の寄棟部分との間に段差を設けて葺いた錣葺(しころぶき)になっている。平安時代の寝殿造建物にはこのように大きく急勾配の屋根はなかった。また、紫宸殿の軒を支える複雑な組物は寺院建築に使われる様式で、寝殿造とは異なっている。柱の基部に用いられている礎盤も中世以降の禅宗様建築で用いられた形式である。しかしながら、現代のような建築史学の発達していなかった江戸時代に、文献調査のみから平安時代の様式を再現したことは高く評価されている。<ref>(西、1993)、pp.96 - 97, 112 - 115</ref>
内部は板敷きの広い空間となり、中央に[[高御座]](たかみくら、天皇の座)、その東に御帳台(みちょうだい、[[皇后]]の座)が置かれている。高御座、御帳台ともに高さ約5メートル、平面八角形で、柱と柱の間に帳(とばり、カーテン)をめぐらし、内部には椅子が置かれている。


紫宸殿の身舎部分には間仕切りがなく、身舎と東廂および南廂との境にも間仕切りはないが、西廂および北廂との境は壁で仕切られ、後者には著名な[[賢聖障子]](けんじょうのしょうじ)がある。賢聖障子とは、紫宸殿の高御座の背後、身舎と北廂との境の障壁のことで、中国の伝説時代から古代に至る忠臣功臣のなかから選ばれた32名の人物の肖像を描くことからこの名がある。これらの肖像は、天子の御座所を飾るにふさわしい画題と考えられたもので、平安時代初期から描き継がれている由緒ある画題である。身舎と北廂の境の柱間は9間であるが、うち中央の間は扉になっていて、獅子・狛犬・負文亀を描き、残り8つの柱間に各4人ずつ計32人の人物が立ち姿で描かれる。この障子絵は取り外し可能であったため、嘉永7年(1854年)の火災時には持ち出されて難をのがれ、安政度再建に際しては、上述の火災に焼け残った寛政度作成の障子絵が修理のうえ再用された。現存する賢聖障子の絵は、寛政度に住吉弘行が描いたものを住吉弘貫が修繕し、各絵の上部の色紙形の字は岡本保孝の筆になる。建物の正面中央に掲げられた「紫宸殿」の扁額も寛政度造営時のものを再用しており、文字は賢聖障子の色紙形と同じく岡本保孝の筆である。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.8</ref><ref>(西、1993)、pp.96 - 97</ref>
高御座、御帳台の背後の襖は「[[賢聖障子]]」(けんじょうのしょうじ)と呼ばれ、中国古代の賢人32人の肖像が描かれている。これは平安時代からの伝統的な画題である。現在の高御座と御帳台は、[[大正天皇]]の[[即位の礼]]に際し、古制に則って造られたものである。[[明仁|今上天皇]]の[[即位の礼]]の際には、一度解体した後、東京の皇居宮殿に運ばれて使用された。建物正面の階段の左右には「[[左近桜]]」と「[[右近橘]]」の木がある。


=== 清涼殿 ===
=== 清涼殿 ===
{{see also|清涼殿}}
{{see also|清涼殿}}
[[画像:Seiryoden.jpg|thumb|220px|[[清涼殿]]]]
[[画像:Seiryoden.jpg|thumb|220px|[[清涼殿]]]]
[[File:Imperial Palace in Kyoto - chair of emperor's office 3.JPG|thumb|220px|清涼殿御帳台]]
[[File:Imperial Palace in Kyoto - emperor's office 2.JPG|thumb|200px|清涼殿東庇、右手奥に昼御座と御帳台が見える]]
清涼殿は、紫宸殿の北西にあり、東を正面とした南北棟の建物である。平安時代の内裏においては清涼殿が天皇の居住の場であったが、天正期に御常御殿が造られてからは天皇の日常生活の場はそちらへ移り、清涼殿は天皇の執務と儀式の場となった。ここでは正月の四方拝などの行事が行われた。建物は入母屋造、檜皮葺で、紫宸殿と同様に寝殿造を基調とするが、ほとんど間仕切りのない紫宸殿とは異なり、本来居住の場であった清涼殿の内部は多くの部屋に仕切られている。構造的には身舎、廂、孫廂からなる。身舎は桁行(間口)9間、梁間2間と細長く、この東西南北にそれぞれ廂があり、東廂の外側(東)には床高を一段低くした孫廂(弘廂とも)がつき、さらに建物の外周には、南を除く三方に簀子縁をめぐらす。円柱を用い、床は板張り、天井は天井板を張らず化粧屋根裏とし、建具は蔀を用いるなど、復古的様式を用いる点は紫宸殿と共通している。<ref>(西、1993)、pp.98 - 100</ref><ref>(渡辺、2010)、p.31 - 32</ref>


身舎の南寄り、柱間5間分と、その東側の廂部分を広い1室とする。ここは天皇が日常の公務を行った場所である。身舎の中央に天皇の休息の場であった「御帳台」があり、一対の獅子狛犬がその前を護っている。御帳台の手前、東廂の中央にあたる部分には「昼御座」(ひのおまし)がある。「昼御座」とは天皇の座であって、板敷の床の上に繧繝縁(うんげんべり)の厚畳(あつじょう)2枚を敷き並べ、その上に大和錦の茵(しとね)を置く。御帳台に向かって左(南)には「大床子」(だいしょうじ)と称する腰掛と、「台盤」と称する朱塗の食卓がある。これらは、ハレの行事の時の儀式的な食事の際に天皇が用いたものである。東廂の南端部には「石灰壇」(いしばいだん)と呼ばれる場所がある。ここだけは床が板張りではなく漆喰で塗り固められており、天皇はここで伊勢神宮などへの遥拝を行った。石灰壇の中に「塵壺」と称する円形の穴がある。これは文字どおり塵を捨てた場所ともいうが、冬期はここに火を起こして暖をとったという。身舎の北寄りには「夜御殿」(よんのおとど)と称する部屋がある。ここは、室名のとおり、本来の用途は天皇の寝室であったが、御常御殿に天皇の生活の場が移ってからは、形式的なものとなっている。室内には厚畳を2枚敷き並べた上にさらにもう1枚の厚畳を置く。厚畳の周囲には「大宋屏風」と称する六曲一双の屏風を立て回す。この屏風に描かれているのは打毬の杖を持った、騎馬または立ち姿の中国・宋の人物たちである。夜御殿の東には「二間」(ふたま)という小部屋がある。古くは、間口1間、奥行1間の柱間で囲まれた空間の広さを「間」といい、この部屋は間口2間、奥行1間であることから「二間」と称されている。二間の北側には「弘徽殿上御局」(こきでんのうえのみつぼね)、夜御殿の北側には東に「萩戸」(はぎのと)、西に「藤壺上御局」(ふじつぼのうえのみつぼね)という小部屋がある。西廂には南から北へ「鬼の間」、「台盤所」、「朝餉の間」(あさがれいのま)、「御手水の間」、「御湯殿」がある。鬼の間は建物の南西隅、すなわち裏鬼門の位置にあたっている。その対角線上の建物の北西隅の鬼門にあたる位置には部屋がなく、簀子縁の一部となっている。南廂は広い1室をなし、別名「殿上の間」と呼ばれる。ここは殿上人、すなわち清涼殿への昇殿を許された人々の控えの間であり、会議室としても用いられた。この部屋には「日給簡」(にっきゅうのふだ)という、縦長で頂部の尖った板が置かれている。ここに殿上人の氏名を記し、当番の殿上人の名前のところに、出勤の日と時間を記した紙を貼り付けていた。殿上の間と身舎の境の壁の高い位置には「櫛形窓」と称する半円形の小窓が開けられている。櫛形窓は柱を挟んで左右に分かれており、右半分は昼御座のある身舎に、左半分は鬼の間に、それぞれ面している。この窓には横桟が入り、身舎側からは殿上の間の様子が見えるが、殿上の間側からは身舎側を見ることができない。この窓は女官たちが昇殿した殿上人たちの品定めをするのに用いたとの所伝があるが、真偽のほどは不明である。清涼殿内の障壁画は大和絵系の土佐光清、土佐光文、土佐光武が担当している。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp.13, 16, 17</ref><ref>(藤岡、1984)、pp.62 - 63</ref><ref>(西、1993)、pp.100 - 101</ref><ref>(渡辺、2010)、pp.6, 8, 41, 42</ref>
[[紫宸殿]]の背後西側にあり、東を正面とした建物。入母屋造、桧皮葺の寝殿造の建物で、建具に蔀戸(しとみど)を使う点などは紫宸殿と共通する。本来は[[天皇]]の居所兼執務所であったが、[[天皇]]が常御殿に居住するようになってからは、[[清涼殿]]も儀式の場として使われるようになっている。


=== その他の建物 ===
本来、居住の場であった名残で、建物内は紫宸殿よりは細かく仕切られている。中央の母屋には[[天皇]]の休憩所である[[帳台|御帳台]](みちょうだい)がある。その手前(東側)には2枚の畳を敷いた「昼御座」(ひのおまし)がある。ここは天皇の公式の執務場所である。母屋の北側(建物正面から見て右側)には四方を壁で囲われた「[[夜御殿]]」(よんのおとど)がある。
[[画像:kogosho.jpg||thumb|220px|小御所]]
[[File:Otsune-Goten.JPG|thumb|220px|御常御殿(南正面)]]
[[File:Shitoni-do01.JPG|thumb|220px|御常御殿(障壁画は座田重就「高宗夢賚良弼図」]]
[[File:Kogogu Tsune-goten.JPG|thumb|220px|皇后御常御殿]]
[[File:Wakamiya-Himemiya Goten.JPG|thumb|220px|姫宮御殿(向かって左)・若宮御殿(向かって右)]]
[[File:Higyosha.JPG|thumb|220px|飛香舎]]
[[File:Genki-Mon.JPG|thumb|220px|玄輝門]]
清涼殿の西にある書院造の建物は、主たる室の名をとって「'''諸大夫の間'''」と呼ばれている。東から西へ3室があり、それぞれ「公卿の間」、「殿上人の間」、「諸大夫の間」と称する。公卿の間は別名「虎の間」といい、参議以上の公家が使用した。殿上人の間は別名「鶴の間」といい、諸侯、所司代、高家らが使用した。諸大夫の間は別名「桜の間」といい、その名のとおり諸大夫が使用した。このように御所内では人物の身分により、使用する部屋が厳格に分かれていた。室名の鶴の間、虎の間、桜の間はそれぞれの部屋の障壁画の画題にちなむもので、いずれも水墨淡彩であり、虎図は岸岱、鶴図は狩野永岳、桜図は原在照の筆である。諸大夫の間の北には「御車寄」(みくるまよせ)、南には大正天皇の即位式の時に造られた「新御車寄」がある。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.19</ref><ref>(西、1993)、pp.92 - 93</ref><ref>(渡辺、2010)、pp.42 - 43</ref>


'''小御所'''は、清涼殿の東、紫宸殿の北東に位置する南北棟の建物である。屋根は入母屋造、檜皮葺。会議、対面や皇太子の元服などの儀式に用いられた建物である。慶応3年(1867年)に[[徳川慶喜]]の処置を決めるためのいわゆる「[[小御所会議]]」が開かれた場所としても知られる。ただし、安政度造営の小御所は1954年8月16日に花火の火が燃え移って焼失し、現存する建物は1958年、旧建物に忠実に再建されたものである。内部は身舎部分に3室を設け、東西南北にそれぞれ廂を設ける。身舎は畳敷きで格天井、廂は板敷きで化粧屋根裏とする。この建物は、建具に半蔀を用い、周囲に高欄をめぐらし、階段を設けるなど、外観には寝殿造風の要素があるが、内部は書院造風になっている。ただし、床の間などの座敷飾りはない。身舎の3室は南から北へ「下段の間」、「中段の間」、「上段の間」とする。天井はいずれも格天井だが、下段が格天井、中段が小組格天井、上段が最上級の折上小組格天井と、部屋の格に応じて形式に差をつけている。上段の間には厚畳2畳を敷いた上に茵を置いて天皇の座とし、その背後には大和絵の四季絵の屏風を立てる。これらの室の障壁画は大和絵の手法で日本の四季の風景を描いたもので、伝統的な四季絵の形式を踏襲する。上段の間には吉野の春、中段の間には富士の夏と龍田川の秋、下段の間には田上川の冬を描く。安政度造営時の障壁画は上段を狩野永岳、中段を鶴沢探真、下段を勝山琢文が担当し、東廂を原在照、南廂を梅戸在親、北廂を[[冷泉為恭]]が担当していたが、前述のとおり、これらは1954年に焼失した。現在ある襖絵は登内微笑(とのうちみしょう)らによって復元されたものである。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp.21, 26</ref><ref>(藤岡、1984)、p.</ref><ref>(西、1993)、pp.101 - 103</ref><ref>(渡辺、2010)、pp.33 - 34, 43 - 44</ref>
これは[[天皇]]の[[寝室]]であるが、天皇の居所が常御殿に移ってからは形式的な存在になっていた。この他に西側(裏側)には鬼の間、台盤所(だいばんどころ)、朝餉の間(あさがれいのま)、御手水の間(おちょうずのま)、御湯殿があり、南側には殿上の間がある。これらの部屋の障壁画は宮廷絵師の土佐派が担当している。また、建物正面の庭には「漢竹」(かわたけ)、「呉竹」(くれたけ)が植えられている。


'''御学問所'''は小御所の北に位置する南北棟の建物である。屋根は入母屋造、檜皮葺。小御所と異なり、平安復古調の建物ではなく、建具は舞良戸を用い、内部の主たる室には床、棚を設けるなど、内部外観ともに書院造の意匠とする。家康による慶長度の造営時に初めて設けられた建物で、御講書始などの行事が行われたほか、学問ばかりでなく遊興の場としても用いられた。内部は東西2列、各列3室の6室構成になる。東列は北から南へ「上段の間」、「中段の間」、「下段の間」とし、西列は北から南へ「菊の間」、「山吹の間」、「雁の間」とする。上段の間と菊の間には床と違棚を設ける。各室の障壁画は、狩野永岳、岸岱、原在照らの筆になる。東列の表向きの諸室には中国の故事を画題とした漢画が描かれ、内向きの部屋である西列の諸室には大和絵の草花や鳥が描かれている。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp.21, 24</ref><ref>(西、1993)、pp.103 - 104</ref><ref>(渡辺、2010)、pp.44 - 45</ref>

'''御常御殿'''は御学問所の北東に位置する東西棟の建物で、天皇の日常生活の場として用いられた。屋根は入母屋造、檜皮葺。紫宸殿とともに、御所内で最大の建物である。平安時代には清涼殿が天皇の居所にあてられていたが、近世になって御常御殿が別に建てられるようになってからは、こちらが天皇の居所となり、清涼殿は儀式の場となった。御常御殿は清涼殿のような復古調ではなく、書院造を基調とした建物であり、内部は前後3列に部屋を配し、計15室に分かれている。最前列には西から「下段の間」、「中段の間」、「上段の間」があり、これらは儀式などの行われた表向きの室である。下段の間、中段の間、上段の間の順に床高が一段ずつ高くなっているが、これら3室の境には柱2本ずつが立つのみで、間仕切りの壁や襖はない。上段の間の東、帳台構の奥には「剣璽の間」がある。ここはかつて清涼殿の夜御殿に置かれていた、三種の神器のうちの剣と勾玉が置かれていた部屋である。上段・中段・下段の間の障壁画は、中国の故事を題材としたもので、帝鑑図と呼ばれる、為政者への戒めとしての画題が選ばれており、濃彩の謹直な筆法で描かれている。画の筆者は上段が狩野永岳、中段が鶴沢探真、下段が座田重就(さいだしげなり)である。剣璽の間には土佐光清が花鳥図を描いている。剣璽の間の東裏には「御小座敷下の間」、「御小座敷上の間」があり、建物の東面から北面にかけて、「一の御間」、「二の御間」、「三の御間」、「次の間」が並ぶ。これらは内向きの部屋で、御小座敷は読書始などの内々の行事や対面に用いられ、一の御間、二の御間、三の御間、次の間は天皇の日常生活の場であった。御小座敷下の間の南、建物の南東端には、簀子縁に張り出す形で「落長押の間」がある。建物の西北部に位置する「申口の間」(南北の2室)は女官の伺候した部屋である。これらの諸室に囲まれた、中央部には、外部に面していない「御寝の間」、「御清間」の2室がある。御常御殿は以上の15室で構成される(御寝の間の西にある「中仕切の間」を含めれば16室)。内向きの諸室の障壁画は、前述の狩野永岳、鶴沢探真のほか、土佐派、円山派などの絵師によるもので、日本の四季の風景や花鳥を題材としたものである。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.36</ref><ref>(藤岡、1984)、p.64</ref><ref>(武田、1984)、pp.123 - 127</ref><ref>(西、1993)、pp.104 - 105</ref><ref>(渡辺、2010)、pp.45 - 46</ref>

'''御三間'''(おみま)は御常御殿の南西に接する東西棟の小さな建物で、上段、中段、下段の3室からなり、涅槃会、茅輪、七夕、盂蘭盆などの行事がここで行われた。<ref>(西、1993)、p.105</ref><ref>(渡辺、2010)、p.46</ref>

御常御殿の北側には迎春(こうしゅん)、御涼所(おすずみしょ)、聴雪(ちょうせつ)、御花御殿、参内殿など、いくつかの比較的小規模な建物がある。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.37</ref><ref>(渡辺、2010)、pp.46 - 47</ref>

'''迎春'''は孝明天皇が書見(勉強)の場として建てさせた、入母屋造、檜皮葺、南北棟の建物で、御常御殿の北に位置する。10畳の「南の間」と、変形5畳半の「北の間」からなる小規模で簡素な建物である。塩川文麟が襖絵を描いている。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.42</ref><ref>(渡辺、2010)、pp.35, 40</ref>

'''御涼所'''は迎春の北に接続する入母屋造、檜皮葺、東西棟の建物で、京都の暑い夏を快適に過ごすことを主眼とした建物であり、窓を多く設けている。内部は北が9畳の「上の間」、南が7畳半の「次の間」で、上の間の西に4畳半の「裏上の間」がある。上の間には床(とこ)と違棚、裏上の間には床を設ける。上の間では床と棚に挟まれた壁の腰の位置に窓を設けるなど、通風に意を用いている。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp.42, 43 - 45</ref><ref>(渡辺、2010)、pp.35 - 36</ref>

'''聴雪'''は他の建物よりやや遅れて安政4年(1857年)に[[孝明天皇]]の好みで建てられたもので、寄棟造、杮葺の数寄屋造建築である。御涼所と聴雪の間は、「吹抜廊下」と称する、壁がなく吹きさらしの簡素な廊下でつないでいる。聴雪の内部は東から西へ「上の間」、「中の間」、「下の間」がある。中の間の床脇(とこわき)の地袋の戸に描かれた鸚鵡(おうむ)と果物籠の図は呉春の筆である。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp.42, 48, 50, 52</ref><ref>(渡辺、2010)、p.47</ref>

以上の建物群のさらに北、御所敷地の北端はかつての後宮の所在地であり、すでに多くの建物が失われているが、皇后御常御殿、若宮姫宮御殿、飛香舎などの建物が残っている。

'''皇后御常御殿'''は皇后の居所として用いられた、入母屋造、檜皮葺、東西棟の建物である。御常御殿と同様、建物内は細かく間仕切りされて13室に分かれ、部屋の用途と格に応じて障壁画の画題が選ばれている。建物の東面から南面にかけて鍵の手に並ぶ「御上段」、「御中段」、「御下段」の3室はもっとも格式の高い部屋であり、中国の有徳の女性にかかわる故事を題材にした「列女伝」の障壁画が描かれている。建物の北東には「御小座敷下の間」、「御小座敷上の間」があり、建物の中央部には外部に面していない「御寝の間」がある。御寝の間の北側から西側にかけて「御化粧の間」、「一の御間」、「二の御間」、「三の御間」、「次の御間」が並び、三の御間と次の御間の西側には南北2室の「申口の間」がある。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.83</ref><ref>(武田、1984)、p.123 - 127</ref>

皇后御常御殿から渡廊下を北へ進むと、右手に「御黒戸」(仏間)があり、その先は坪庭の「藤壺」を隔てて西に若宮姫宮御殿、北に飛香舎がある。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.83</ref>

'''若宮御殿・姫宮御殿'''は一つの建物で、東が若宮御殿、西が姫宮御殿である。両御殿とも、東に「御上段」、西に「次の間」があり、これらの手前は若宮御殿・姫宮御殿を通して一続きの「御縁座敷」となっている。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.83</ref>

'''飛香舎'''は平安京の内裏に存在した五舎の一つで、女官の入内の儀式がここで行われた。五舎とは飛香舎(藤壺)、凝花舎(梅壺)、襲芳舎(雷鳴壺)、昭陽舎(梨壺)、淑景舎(桐壺)を指す。これらは長らく姿を消していたが、寛政度造営時に飛香舎のみが平安様式で復活し、安政度造営でもこれを踏襲したもので、現存する京都御所の建物の中では、もっともよく平安時代の様式を伝えている。建物は東西棟の入母屋造、檜皮葺で、内部は身舎の南・東・北に廂を設け、東廂の東にさらに孫廂がある。孫廂の手前には渡廊(わたろう)が接続する。身舎と南廂は仕切りのない1室とする。内部は円柱、板敷の床などに寝殿造の意匠がみられ、中央に御帳台を置く。飛香舎の北東には玄輝門があり、これも平安時代の内裏にあった門の名前を引き継ぐものである。ただし、平安時代には玄輝門の真北に内裏全体の北門である朔平門があったが、現在の京都御所では、スペースの関係で両門の位置関係がずれており、玄輝門は朔平門よりも東寄りに建てられている。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp.83, 92</ref><ref>(西、1993)、p.105</ref><ref>(渡辺、2010)、p.38</ref>

=== 紫宸殿南庭と清涼殿東庭 ===
[[File:Sakon no Sakura.JPG|thumb|200px|左近の桜]]
[[File:Ukonnotachibana DSCN5633 20081114.JPG|thumb|200px|右近の橘]]
京都御所では、建物が表向きの儀式用のものと、内向きの居住用のものに分かれているのと同様、庭園も儀式用の部分と内向きの部分ではその様相をまったく異にしている。<ref>(渡辺、2010)、p.50</ref>

紫宸殿の南の庭は'''南庭'''と称し、一面に白砂を敷いただけの空間である。ここは単なる空地ではなく、紫宸殿の建物と一体となった、儀式のための空間であった。紫宸殿の前には「[[左近桜|左近の桜]]」と「[[右近橘|右近の橘]]」がある(「左」「右」は天皇から見てのそれであり、東が桜、西が橘である)。桜と橘はそれぞれ花木と果樹を代表するものである。ただし、左近の桜は、平安遷都時には桜ではなく梅であった。これが桜に変わったのは、内裏が天徳4年(960年)に焼失し、康保2年(965年)に再建された時である。『[[万葉集]]』の時代には、日本の花木の代表は梅であったが、平安時代になって人々の好みが変わって、桜が代表的な花とされるようになった。梅から桜への変更はそれを反映したものである。現在の右近の橘は安政6年(1859年)に植えられたものである。左近の桜も同じ時に植えられたが、現在のものは昭和5年(1930年)に桂宮邸から移植された山桜である。<ref>(村岡、1984)、p.65</ref><ref>(西、1993)、pp.94 - 95</ref><ref>(渡辺、2010)、p.52</ref>

清涼殿の正面(東)の庭は'''東庭'''と称し、やはり一面に白砂を敷いただけの空間である。ただし、2か所に竹の植込みがある。建物の南端近く、広廂にほど近い場所に植えられているのが'''漢竹'''(からたけ)、それより北方、建物から数メートル離れたところに植えられているのが'''呉竹'''(くれたけ)である。漢竹はメダケであり、呉竹はハチクのこととされるが、現在植わっているのはホテイチクである。『[[枕草紙]]』には呉竹が、『[[徒然草]]』には漢竹と呉竹が登場する。漢竹と呉竹は、現状では広い庭の西寄りに偏った位置にあるが、平安時代の内裏では、清涼殿の東側には別の建物(仁寿殿)があり、東庭は今より狭かった。<ref>(村岡、1984)、p.66</ref><ref>(渡辺、2010)、p.53</ref>

清涼殿の東側、弘廂に沿って南北に流れる石敷きの水流を「'''御溝水'''」(みかわみず)という。御溝水の北寄りには高さ20センチほどの落差がつくられており、これを「滝口」という。「[[滝口の武士]]」という呼称はこれに由来する。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.16</ref><ref>(渡辺、2010)、p.53</ref>

=== 壺庭 ===
複数の建物を渡廊で連結するのが寝殿造の特色の一つである。平安京の内裏には多くの建物が建ち並び、建物と渡廊で囲まれた小規模な庭(壺庭)が各所にあった。これらはそこに植えられている植物にちなんで、桐壺、梨壺、藤壺などと称され、これらの庭が面している建物も桐壺などの名称で呼ばれるようになった。現在の京都御所では、清涼殿西の「萩壺」と、飛香舎南の「藤壺」のみが残っている。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.18</ref><ref>(村岡、1984)、p.66</ref><ref>(渡辺、2010)、pp.53 - 54</ref>

=== 御池庭・御内庭 ===
小御所や御常御殿付近の庭は、池と遣水を中心とした、自然の風趣を生かした日本庭園である。こうした池水中心の庭園が造られるようになったのは、御所の慶長度造営時に小堀遠州が参画してからのことであるが、現在のような庭の原型ができたのは延宝度の造営時である。小御所、御学問所の東側の庭は大きな池を中心としたもので、御池庭(おいけにわ)と呼ばれる。池は小御所側の西岸に玉石を敷き並べた洲浜を造る。池の中には3つの中島があり、木橋2基、石橋3基が架かる。御常御殿東側の遣水を中心とした庭は御内庭(ごないてい)と呼ばれる。遣水を渡った東側には4畳半茶室の「錦台」が建つ。御内庭に連なる、御涼所東側の庭は「龍泉の庭」と呼ばれる。この付近では遣水は東西2つの流れに分かれ、西側の流れは、御涼所と聴雪を結ぶ吹抜廊下の下をくぐり、一部は聴雪の縁下を通っている。遣水の対岸の東側には「地震殿」(泉殿とも)という小建物がある。これは地震発生に備えて屋根を軽く造り、他の建物から離れて建てた建物で、緊急時の避難所とされている。聴雪の北側にある枯山水庭園は「蝸牛の庭」と呼ばれるが、これは明治期の作庭である。<ref>『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp.22, 41, 42</ref><ref>(村岡、1984)、pp.66 - 70</ref><ref>(渡辺、2010)、pp.54 - 57</ref>
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画像:Kyoto palace garden01.jpg|御池庭(おいけにわ)
画像:Kyoto palace garden01.jpg|御池庭
画像:Kyoto palace garden02.jpg|御内庭(ごないてい)
画像:Kyoto palace garden02.jpg|御内庭
画像:kogosho.jpg|小御所
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=== 障壁画 ===
京都御所内の各建物の室内は、すでに述べたように、多くの障壁画で飾られている。これらは、各室の用途や格に応じて画題が選ばれている。紫宸殿の「賢聖障子」については前述した。清涼殿では、弘廂の北端に「荒海障子」、そのやや南に「昆明池障子」が立てられている。この2点はいずれも衝立で、南面には唐絵、北面には大和絵が描き分けられていた。「荒海障子」は『山海経』に描写された伝説の国の光景を描いたもので、障子の北面には大和絵で「宇治の網代」が描かれている。「昆明池障子」は南面に中国の昆明池の光景、北面には大和絵で「嵯峨野小鷹狩図」が描かれている。御常御殿などの住居用の建物では、儀式などが行われる表向きの諸室には中国の賢人功臣など、鑑戒的な主題の漢画が描かれ、日常生活や内々の対面に用いられた内向きの諸室には大和絵による風景や花鳥などが描かれている。現存する安政度造営時の障壁画の制作にあたっては、当時の日本画壇の主たる流派の画家たちが多数動員されている。安政度造営に参加している絵師は京都在住の者が多く、狩野派、土佐派以外の在野の絵師の多いことが目立つ。御所の障壁画制作は、延宝度造営までは狩野派が独占していたが、宝永度造営以降、大和絵系の絵師が参入するようになり、狩野派の独占体制は崩れていく。安政度造営では、御常御殿の上段・中段・下段など、表向きの諸室は主に狩野派の絵師が担当しているが、他の諸室は土佐派、円山四条派、岸派、原派などさまざまな流派の絵師が参入し、狩野派の相対的地位低下がうかがえる。これは、この時代には狩野派が障壁画制作全体を差配するのではなく、各派の絵師が修理職奉行と直接交渉できるようになったことも影響している。安政度障壁画制作に参加した絵師は、[[狩野派]]系では狩野永岳、鶴沢探真、座田重就、[[土佐派|土佐]]・[[住吉派]]では[[土佐光信]]、土佐光文、住吉弘貫、円山派では円山応立([[円山応挙]]の曾孫)、円山応文、長沢芦鳳([[長沢芦雪]]の孫弟子)、中島来章、駒井孝礼、四条派では[[松村景文]]系の横山華暉、横山華渓、八木奇峯、岡本豊彦系の塩川文麟などであった。その他の流派では岸派の岸連山、岸竹堂、岸誠、原派の原在照などがいる。御所の障壁画制作に参加することは、絵師にとっては自分の存在をアピールし、後世に名を残す絶好の機会であった。<ref>(武田、1984)、pp. 123 - 129</ref><ref>(渡辺、2010)、pp.39 - 50</ref>

主な殿舎の障壁画の画題と筆者は以下のとおりである。<ref>(武田、1984)、pp.127 - 129</ref>

;御常御殿
* 上段 狩野永岳「堯任賢図治図」「桐竹鳳凰図」
* 中段 鶴沢探真「大禹戒酒防微図」
* 下段 座田重就「高宗夢賚良弼図」
* 剣璽の間 土佐光清「花鳥図」
* 御小座敷上の間 中島来章「芦辺鶴図」
* 御小座敷下の間 塩川文麟「四季耕作図」
* 落長押の間 国井応文「山水図」
* 一の御間 狩野永岳「桃柳図」
* 二の御間 鶴沢探真「花鳥図」
* 三の御間 円山応立「地網引図」
* 次の間 長沢芦鳳「宇治川の景図」
* 御清の間 吉田元鎮「住吉の景図」
* 御寝の間 土佐光文「竹に虎図」元は原在照「群鶏竹菊図」
* 中仕切りの間 岸竹堂「谷川に熊図」
* 申口の間(南) 岸連山「谷川に熊図」
* 申口の間(北) 中島華陽「常盤木に猿図」

;御三間
* 上段 住吉弘貫「大極殿朝賀図」
* 中段 駒井孝礼「賀茂祭群参図」
* 下段 岸誠「駒引図」
* 御献の間上の間 横山清暉「嵐山春景」
* 御献の間下の間 横山華渓「高雄秋景」

;皇后御常御殿
* 上段 土佐光清「有虞二妃図」
* 中段 吉田元鎮「契母簡狄図」
* 下段 鶴沢探真「妃有莘女図」
* 御寝の間 岸岱「四季花鳥図」
* 御化粧の間 塩川文麟「新樹図」
* 御小座敷上の間 狩野永岳「富士三保浦図」
* 御小座敷下の間 円山応立「塩釜浦図」
* 一の御間 原在照「四季耕作図」
* 二の御間 中島華陽「四季耕作図」
* 三の御間 八木奇峯「雨中竹図」
* 次の間 長沢芦鳳「浜松図」
* 申口の間(北) 磯野「紅葉図」
* 申口の間(南) 島田雅房「桜図」

;若宮姫宮御殿
* 若宮御殿上段 勝山琢眼「蹕輦受言図」
* 姫宮御殿上段 狩野蔵之進「周室三母図」

;御学問所
* 上段の間 狩野永岳「十八学士登瀛洲図」
* 中段の間 岸岱「蘭亭図」
* 下段の間 原在照「岳陽楼図」
* 菊の間 岡本亮彦「菊図」
* 山吹の間 円山応挙「山吹図」
* 雁の間 岸連山「芦に雁図」


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 西川孟、西和夫、辻邦生『日本名建築写真選集18 京都御所・仙洞御所』、新潮社、1993
** 西和夫「平安王朝への思慕 京都御所と仙洞御所」
* 『毎日グラフ別冊 京都御所』、毎日新聞社、1984
** 藤岡通夫「御所の建築 伝統と実用のはざま」
** 村岡正「王朝以来の「庭の心」」
** 武田恒夫「御所の襖絵 絵の間・画題・絵師たち」
* 『京の離宮と御所』(JTBキャンブックス)、日本交通公社出版事業局、1995
* 渡辺誠『秘蔵写真 京の御所と離宮』、講談社、2010
*『京都 御所の庭 - 京都御所・仙洞御所』[[小学館]]<週刊日本庭園をゆく7>、2005年。
*『京都 御所の庭 - 京都御所・仙洞御所』[[小学館]]<週刊日本庭園をゆく7>、2005年。


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== 脚注 ==
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2014年3月1日 (土) 15:15時点における版

京都御所の外側からの建礼門

京都御所(きょうとごしょ)は、京都府京都市上京区にある御所鎌倉時代中期から明治時代初頭まで歴代天皇が住んでいた宮殿。

解説

京都御所(模型)

明治維新東京行幸により、天皇が東京の皇居(旧江戸城)に移ったため、1877年(明治10年)から保存されている。明治以降は京都皇宮(きょうとこうぐう)とも称される。

元々平安京での正式な皇居は平安京の中央部付近に位置する内裏であったが、戦乱などによって荒廃したために里内裏に移った。土御門東洞院内裏は、この里内裏の一つで、後に北朝と呼ばれる事になる持明院統天皇が歴代居住した御所であった。

ちなみに南朝と呼ばれる事になる大覚寺統天皇御所は二条富小路内裏であった。現代の京都御所は土御門東洞院内裏そのものではなく、土御門東洞院内裏を基に拡充され、幕末期に今日の敷地面積が確定したものである。広さは約20.2ヘクタール[1]

普段は宮内庁へ参観申請をすることで御所内を参観出来るほか、春と秋には一般公開される。

また、京都御所に隣接した京都大宮御所は、後水尾天皇の中宮の東福門院のために造進されたのに始まり、現在の建物は英照皇太后孝明天皇女御)のために造営され、1867年(慶応3年)に完成したものである。現在は天皇皇后皇太子及び皇太子妃京都府への行幸啓(旅行)の際の宿泊や国賓の宿泊に使用されている。

概要

京都御所(京都御苑全体)の空中写真。(1982年撮影)国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

京都御所は、1869年(明治2年)の東京行幸まで歴代天皇の居所・執務所であった。現在(21世紀)の京都御所は国有財産で、宮内庁が管轄する「皇室用財産」に分類されている。隣接して京都大宮御所仙洞御所があり、また北隣の今出川通を挟んで同志社大学同志社女子大学(両校とも今出川キャンパス)が位置する。春秋の特別期間を除いて入場・公開は月曜から金曜日までで、事前予約が必要である。

現在は京都御所、京都大宮御所と仙洞御所宮内庁が管理し、その周囲の国民公園である京都御苑環境省が管理している。京都市民は京都御苑も含めて、単に「御所」(ごしょ)と呼ぶ事が多い。なお海外の宮殿などと異なり、御所を覆う塀はあまり高くない。

平安京建都当初の内裏は現在の京都御所よりかなり西方にあり、JR西日本二条駅の近くの千本丸太町交差点北東の位置にあった。

現存の京都御所はもとは里内裏の一つで、土御門東洞院殿(つちみかど ひがしのとういん どの)といった。1331年(元弘元年・元徳3年)、後醍醐天皇が京都を脱出した後に鎌倉幕府が擁立した光厳天皇がこれを里内裏とした以降、明治天皇の東京行幸に至るまで約550年間にわたって使用され続けた内裏である。当初は一町四方の敷地だったが、足利義満によって敷地が拡大され、その後織田信長豊臣秀吉による整備を経て現在の様相がほぼ固まった。内裏は江戸時代だけでも慶長度(1613年)、寛永度、承応度、寛文度、延宝度、宝永度(1709年)、寛政度(1790年)、安政度(1855年)と8回も再建されており、このうち慶長度と寛永度は旧殿を取り壊しての建て替え、それ以外は火災焼失による再建となっている。現存の内裏は幕末の1855年(安政2年)に平安様式に倣って再建されたもので、安政内裏と呼ばれている。

1877年(明治10年)、東京の皇居に移っていた明治天皇京都を訪れた際、東幸後10年も経ずして施設及び周辺の環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、『京都御所を保存し旧観を維持すべし』と宮内省(当時)に命じた。

1945年(昭和20年)には戦時中の建物疎開で建築物の半数近くが保存のため解体された。

主な建物としては、紫宸殿(ししんでん)、清涼殿(せいりょうでん)、小御所(こごしょ)、御学問所(おがくもんじょ)、御常御殿(おつねごてん)、迎春(こうしゅん)、御涼所(おすずみしょ)、皇后宮御常御殿(こうごうぐう おつねごてん)、若宮・姫宮御殿(わかみや・ひめみやごてん)、飛香舎(ひぎょうしゃ)などがある。

即位の礼

紫宸殿に据えられている高御座

即位の礼は代々京都御所の紫宸殿で行われ、明治維新の際に天皇東京へ移ってからも、1889年(明治22年)制定の旧皇室典範第11条により、即位の礼大嘗祭京都で執行すると定められ、大正天皇昭和天皇も京都御所で即位に関わる一連の儀式を行った。

また、第二次世界大戦後制定された現在の皇室典範では京都で行うというような場所の規定がなくなり、1990年(平成2年)の今上天皇(皇太子明仁親王)の即位にあたり、即位の礼が史上初めて東京に於いて執り行われた。

即位の際に天皇が着座し、その即位が象徴的に示される天皇の正式な御座所である高御座並びに皇后の正式な御座所である御帳台は京都御所の紫宸殿に常設されているため、今上天皇の即位の礼「正殿の儀」(「紫宸殿の儀」に相当)に際しては、高御座と御帳台を解体した上で皇居宮殿のある東京まで運ばれた。

現存施設

紫宸殿

概要

京都御苑の北西寄り、築地塀で囲まれた面積約11万平方メートルの区域が京都御所である。御所の敷地は東西約250メートル、南北約450メートルの南北に長い長方形で、そこにはかつての内裏に属していた多くの建物と庭園が残っている。御所の建物は近世を通じ、天正(1591年)、慶長(1613年)、寛永(1642年)、承応(1655年)、寛文(1662年)、延宝(1675年)、宝永(1709年)、寛政(1790年)、安政(1855年)の9度にわたり造営が行われている[2]。うち、天正度、慶長度、寛永度の造営は焼失に伴うものではなく、時の為政者(豊臣秀吉および徳川家)の威勢を示す目的のものであったが、それ以降の6度の造営はすべて火災焼失に伴うものであり、現存する御所の建物は安政度造営のものである。建物群は大きく3つのブロックに分けられる。南寄りには内裏の正殿であった紫宸殿、天皇が政務を執った清涼殿をはじめ、儀式や政務のために用いられた表向きの建物が残る。その北側、敷地のほぼ中央のブロックは、天皇の日常生活や内向きの行事、対面などに使用された内向きの建物群で、小御所、御学問所、御常御殿などがここにある。御所敷地のもっとも北寄りのブロックはかつての後宮だった場所で、多くの建物が取り払われているが、皇后御常御殿、飛香舎(ひぎょうしゃ)をはじめ、皇后や皇子皇女などの住まいだった建物が残っている。建築様式は、表向きの建物である紫宸殿や清涼殿が平安時代の住宅建築様式である寝殿造を基調としているのに対し、これらの北にある内向きの建築群は、外観などに寝殿造の面影を残しつつも、書院造数寄屋造の要素が強くなっている。庭園は、紫宸殿の南庭(「だんてい」と読み慣わしている)や清涼殿の東庭が一面に白砂を敷き詰めた儀式の場としての庭であるのに対し、小御所、御学問所、御常御殿などに接した庭は池と遣水(やりみず、流水の意)を中心にした日本式の庭である。各建物の内部は、それぞれの部屋の格や用途に応じた、さまざまの障壁画で飾られている。これらの障壁画には、狩野派土佐派円山四条派をはじめ、江戸時代末期の日本画壇の主要な絵師たちが絵筆を振るっている。京都御所は、平安時代の内裏とは位置が異なり、建物も江戸時代末期の再建であるが、建築、庭園、障壁画が一体となって日本の伝統文化の粋を今に伝えている。[3][4]

なお、以下の建築、庭園、障壁画の説明は、現存する京都御所(安政2年・1855年造営)についてのものである。

諸門

京都御所は敷地の四方を築地塀(延長は東西約250メートル、南北約450メートル)で囲まれている。築地塀は5本の筋の入った、もっとも格式の高いもので、計6か所の門がある。すなわち、南面には建礼門、北面には朔平門、東面の南寄りに建春門、西面は南から北へ宜秋門、清所門、皇后門である。これらの門のほかに、穴門という、屋根のない入口が12か所ある。鬼門にあたる敷地の北東角では、築地塀がそこだけ凹んでおり、「猿ヶ辻」と称されている。名称の由来は、ここに魔除けのために日吉山王社の神の使いとされる猿を祀ることによる。[5][6]

紫宸殿

紫宸殿 右に見えるのは左近の桜
紫宸殿高御座
紫宸殿扁額
承明門

御所敷地の南寄りに南面して建つ、かつての内裏の正殿で、「ししいでん」とも読む。天皇の即位、元服、立太子、節会など、最重要の公的儀式が執り行われた建物である。屋根は入母屋造、檜皮葺き。桁行(間口)9間、梁間(奥行)3間の身舎(もや、「母屋」とも書く)の東西南北に廂をめぐらし、その外に簀子縁(すのこえん)をめぐらす(ここで言う「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する。以下同じ)。平面規模は簀子縁を除いて、間口が33メートル余、奥行が23メートル弱である。梁間の3間は等間ではなく、奥(北)の1間のみ柱間がごく狭くなっている。簀子縁の周囲には高欄をめぐらし、建物正面には18段の階段を設ける。身舎内は間仕切りを設けず広い1室とし、柱は円柱、床は畳を敷かず拭板敷(ぬぐいいたじき)とし、天井板を張らない化粧屋根裏とする。正面の柱間装置は蔀(しとみ)とする。なお、京都御所の紫宸殿と清涼殿では、通常「蔀」と呼ばれる柱間装置のことを伝統的呼称で「御格子」(みこうし)と呼んでいる。[7][8][9][10]

以上のように、この建物は江戸時代末期の再建でありながら、柱をすべて円柱とする点、柱間装置に蔀を用い、これを建物の内側へ跳ね上げる点、内部に畳を敷かず、板敷の広い室とする点など、復古的な建物で、様式は平安時代の寝殿造を基調としている。寝殿造は、奈良時代に伝来した中国・唐の建築様式を源流としつつ、淡泊な美を愛でる傾向の強い日本人の感性に合った、簡素な様式に変化を遂げたものである。紫宸殿や清涼殿は、内裏の中心的建物でありながら、華美な装飾や威圧的な構えがなく、柱などの部材は素木仕上げ、蔀(御格子)の桟は黒塗りである。ただし、長押、蔀、高欄などの要所に打たれた飾金具を朱漆塗とし、正面階段の木口を白塗として、簡素ななかにも色彩の変化を見せている。身舎内には、中央に天皇の座である高御座(たかみくら)、その向かって右に皇后の座である御帳台(みちょうだい)がある。現在の高御座および御帳台は、大正4年(1915年)、大正天皇の即位大礼に際して造られたものである。紫宸殿の南正面は一面に白砂を敷き詰めた南庭で、建物正面左右には左近の桜と右近の橘がある。南庭は回廊で方形に囲まれ、回廊の南正面に承明門、東面に日華門、西面に月華門がある。これらの門以外に、回廊には4か所に掖門(わきもん)がある。承明門の東と西の掖門をそれぞれ長楽門、永安門、日華門の南と月華門の南にあるのをそれぞれ左掖門(さえきもん)、右掖門(うえきもん)という。紫宸殿が檜皮葺で素木仕上げであるのに対し、回廊やそこに開かれた門は瓦葺で、軸部や扉を朱塗とする。承明門の南は御所の正門である建礼門である。[11][12][13]

京都御所の建物は近世を通じてたびたび焼失と再建を繰り返しているが、紫宸殿と清涼殿が平安時代風の復古的な様式で再建されたのは、寛政度造営の時であり、次の安政度造営でもそれが踏襲された。寛政度の造営の奉行(総責任者)を務めたのは老中松平定信である。当時の日本は幕府の財政難と作物の凶作に苦しんでおり、平安時代風の復古様式での再建には費用がかさむことなどから、定信は当初は反対の立場であったが、結局、紫宸殿と清涼殿に限って古い様式で再建することとした[14]。寝殿造様式の再現には公家で故実家の裏松光世(裏松固禅)の意見を取り入れたというのが通説となっている。その結果、平面構成、建具、円柱、板敷の床などは平安時代のものが再現されているが、屋根構造までは再現できず、屋根の形や構造は江戸時代の大工の技法による近世風のものになっている。紫宸殿の屋根は大きく、勾配が急であり、上部の切妻部分と、下部の寄棟部分との間に段差を設けて葺いた錣葺(しころぶき)になっている。平安時代の寝殿造建物にはこのように大きく急勾配の屋根はなかった。また、紫宸殿の軒を支える複雑な組物は寺院建築に使われる様式で、寝殿造とは異なっている。柱の基部に用いられている礎盤も中世以降の禅宗様建築で用いられた形式である。しかしながら、現代のような建築史学の発達していなかった江戸時代に、文献調査のみから平安時代の様式を再現したことは高く評価されている。[15]

紫宸殿の身舎部分には間仕切りがなく、身舎と東廂および南廂との境にも間仕切りはないが、西廂および北廂との境は壁で仕切られ、後者には著名な賢聖障子(けんじょうのしょうじ)がある。賢聖障子とは、紫宸殿の高御座の背後、身舎と北廂との境の障壁のことで、中国の伝説時代から古代に至る忠臣功臣のなかから選ばれた32名の人物の肖像を描くことからこの名がある。これらの肖像は、天子の御座所を飾るにふさわしい画題と考えられたもので、平安時代初期から描き継がれている由緒ある画題である。身舎と北廂の境の柱間は9間であるが、うち中央の間は扉になっていて、獅子・狛犬・負文亀を描き、残り8つの柱間に各4人ずつ計32人の人物が立ち姿で描かれる。この障子絵は取り外し可能であったため、嘉永7年(1854年)の火災時には持ち出されて難をのがれ、安政度再建に際しては、上述の火災に焼け残った寛政度作成の障子絵が修理のうえ再用された。現存する賢聖障子の絵は、寛政度に住吉弘行が描いたものを住吉弘貫が修繕し、各絵の上部の色紙形の字は岡本保孝の筆になる。建物の正面中央に掲げられた「紫宸殿」の扁額も寛政度造営時のものを再用しており、文字は賢聖障子の色紙形と同じく岡本保孝の筆である。[16][17]

清涼殿

清涼殿
清涼殿御帳台
清涼殿東庇、右手奥に昼御座と御帳台が見える

清涼殿は、紫宸殿の北西にあり、東を正面とした南北棟の建物である。平安時代の内裏においては清涼殿が天皇の居住の場であったが、天正期に御常御殿が造られてからは天皇の日常生活の場はそちらへ移り、清涼殿は天皇の執務と儀式の場となった。ここでは正月の四方拝などの行事が行われた。建物は入母屋造、檜皮葺で、紫宸殿と同様に寝殿造を基調とするが、ほとんど間仕切りのない紫宸殿とは異なり、本来居住の場であった清涼殿の内部は多くの部屋に仕切られている。構造的には身舎、廂、孫廂からなる。身舎は桁行(間口)9間、梁間2間と細長く、この東西南北にそれぞれ廂があり、東廂の外側(東)には床高を一段低くした孫廂(弘廂とも)がつき、さらに建物の外周には、南を除く三方に簀子縁をめぐらす。円柱を用い、床は板張り、天井は天井板を張らず化粧屋根裏とし、建具は蔀を用いるなど、復古的様式を用いる点は紫宸殿と共通している。[18][19]

身舎の南寄り、柱間5間分と、その東側の廂部分を広い1室とする。ここは天皇が日常の公務を行った場所である。身舎の中央に天皇の休息の場であった「御帳台」があり、一対の獅子狛犬がその前を護っている。御帳台の手前、東廂の中央にあたる部分には「昼御座」(ひのおまし)がある。「昼御座」とは天皇の座であって、板敷の床の上に繧繝縁(うんげんべり)の厚畳(あつじょう)2枚を敷き並べ、その上に大和錦の茵(しとね)を置く。御帳台に向かって左(南)には「大床子」(だいしょうじ)と称する腰掛と、「台盤」と称する朱塗の食卓がある。これらは、ハレの行事の時の儀式的な食事の際に天皇が用いたものである。東廂の南端部には「石灰壇」(いしばいだん)と呼ばれる場所がある。ここだけは床が板張りではなく漆喰で塗り固められており、天皇はここで伊勢神宮などへの遥拝を行った。石灰壇の中に「塵壺」と称する円形の穴がある。これは文字どおり塵を捨てた場所ともいうが、冬期はここに火を起こして暖をとったという。身舎の北寄りには「夜御殿」(よんのおとど)と称する部屋がある。ここは、室名のとおり、本来の用途は天皇の寝室であったが、御常御殿に天皇の生活の場が移ってからは、形式的なものとなっている。室内には厚畳を2枚敷き並べた上にさらにもう1枚の厚畳を置く。厚畳の周囲には「大宋屏風」と称する六曲一双の屏風を立て回す。この屏風に描かれているのは打毬の杖を持った、騎馬または立ち姿の中国・宋の人物たちである。夜御殿の東には「二間」(ふたま)という小部屋がある。古くは、間口1間、奥行1間の柱間で囲まれた空間の広さを「間」といい、この部屋は間口2間、奥行1間であることから「二間」と称されている。二間の北側には「弘徽殿上御局」(こきでんのうえのみつぼね)、夜御殿の北側には東に「萩戸」(はぎのと)、西に「藤壺上御局」(ふじつぼのうえのみつぼね)という小部屋がある。西廂には南から北へ「鬼の間」、「台盤所」、「朝餉の間」(あさがれいのま)、「御手水の間」、「御湯殿」がある。鬼の間は建物の南西隅、すなわち裏鬼門の位置にあたっている。その対角線上の建物の北西隅の鬼門にあたる位置には部屋がなく、簀子縁の一部となっている。南廂は広い1室をなし、別名「殿上の間」と呼ばれる。ここは殿上人、すなわち清涼殿への昇殿を許された人々の控えの間であり、会議室としても用いられた。この部屋には「日給簡」(にっきゅうのふだ)という、縦長で頂部の尖った板が置かれている。ここに殿上人の氏名を記し、当番の殿上人の名前のところに、出勤の日と時間を記した紙を貼り付けていた。殿上の間と身舎の境の壁の高い位置には「櫛形窓」と称する半円形の小窓が開けられている。櫛形窓は柱を挟んで左右に分かれており、右半分は昼御座のある身舎に、左半分は鬼の間に、それぞれ面している。この窓には横桟が入り、身舎側からは殿上の間の様子が見えるが、殿上の間側からは身舎側を見ることができない。この窓は女官たちが昇殿した殿上人たちの品定めをするのに用いたとの所伝があるが、真偽のほどは不明である。清涼殿内の障壁画は大和絵系の土佐光清、土佐光文、土佐光武が担当している。[20][21][22][23]

その他の建物

小御所
御常御殿(南正面)
御常御殿(障壁画は座田重就「高宗夢賚良弼図」
皇后御常御殿
姫宮御殿(向かって左)・若宮御殿(向かって右)
飛香舎
玄輝門

清涼殿の西にある書院造の建物は、主たる室の名をとって「諸大夫の間」と呼ばれている。東から西へ3室があり、それぞれ「公卿の間」、「殿上人の間」、「諸大夫の間」と称する。公卿の間は別名「虎の間」といい、参議以上の公家が使用した。殿上人の間は別名「鶴の間」といい、諸侯、所司代、高家らが使用した。諸大夫の間は別名「桜の間」といい、その名のとおり諸大夫が使用した。このように御所内では人物の身分により、使用する部屋が厳格に分かれていた。室名の鶴の間、虎の間、桜の間はそれぞれの部屋の障壁画の画題にちなむもので、いずれも水墨淡彩であり、虎図は岸岱、鶴図は狩野永岳、桜図は原在照の筆である。諸大夫の間の北には「御車寄」(みくるまよせ)、南には大正天皇の即位式の時に造られた「新御車寄」がある。[24][25][26]

小御所は、清涼殿の東、紫宸殿の北東に位置する南北棟の建物である。屋根は入母屋造、檜皮葺。会議、対面や皇太子の元服などの儀式に用いられた建物である。慶応3年(1867年)に徳川慶喜の処置を決めるためのいわゆる「小御所会議」が開かれた場所としても知られる。ただし、安政度造営の小御所は1954年8月16日に花火の火が燃え移って焼失し、現存する建物は1958年、旧建物に忠実に再建されたものである。内部は身舎部分に3室を設け、東西南北にそれぞれ廂を設ける。身舎は畳敷きで格天井、廂は板敷きで化粧屋根裏とする。この建物は、建具に半蔀を用い、周囲に高欄をめぐらし、階段を設けるなど、外観には寝殿造風の要素があるが、内部は書院造風になっている。ただし、床の間などの座敷飾りはない。身舎の3室は南から北へ「下段の間」、「中段の間」、「上段の間」とする。天井はいずれも格天井だが、下段が格天井、中段が小組格天井、上段が最上級の折上小組格天井と、部屋の格に応じて形式に差をつけている。上段の間には厚畳2畳を敷いた上に茵を置いて天皇の座とし、その背後には大和絵の四季絵の屏風を立てる。これらの室の障壁画は大和絵の手法で日本の四季の風景を描いたもので、伝統的な四季絵の形式を踏襲する。上段の間には吉野の春、中段の間には富士の夏と龍田川の秋、下段の間には田上川の冬を描く。安政度造営時の障壁画は上段を狩野永岳、中段を鶴沢探真、下段を勝山琢文が担当し、東廂を原在照、南廂を梅戸在親、北廂を冷泉為恭が担当していたが、前述のとおり、これらは1954年に焼失した。現在ある襖絵は登内微笑(とのうちみしょう)らによって復元されたものである。[27][28][29][30]

御学問所は小御所の北に位置する南北棟の建物である。屋根は入母屋造、檜皮葺。小御所と異なり、平安復古調の建物ではなく、建具は舞良戸を用い、内部の主たる室には床、棚を設けるなど、内部外観ともに書院造の意匠とする。家康による慶長度の造営時に初めて設けられた建物で、御講書始などの行事が行われたほか、学問ばかりでなく遊興の場としても用いられた。内部は東西2列、各列3室の6室構成になる。東列は北から南へ「上段の間」、「中段の間」、「下段の間」とし、西列は北から南へ「菊の間」、「山吹の間」、「雁の間」とする。上段の間と菊の間には床と違棚を設ける。各室の障壁画は、狩野永岳、岸岱、原在照らの筆になる。東列の表向きの諸室には中国の故事を画題とした漢画が描かれ、内向きの部屋である西列の諸室には大和絵の草花や鳥が描かれている。[31][32][33]

御常御殿は御学問所の北東に位置する東西棟の建物で、天皇の日常生活の場として用いられた。屋根は入母屋造、檜皮葺。紫宸殿とともに、御所内で最大の建物である。平安時代には清涼殿が天皇の居所にあてられていたが、近世になって御常御殿が別に建てられるようになってからは、こちらが天皇の居所となり、清涼殿は儀式の場となった。御常御殿は清涼殿のような復古調ではなく、書院造を基調とした建物であり、内部は前後3列に部屋を配し、計15室に分かれている。最前列には西から「下段の間」、「中段の間」、「上段の間」があり、これらは儀式などの行われた表向きの室である。下段の間、中段の間、上段の間の順に床高が一段ずつ高くなっているが、これら3室の境には柱2本ずつが立つのみで、間仕切りの壁や襖はない。上段の間の東、帳台構の奥には「剣璽の間」がある。ここはかつて清涼殿の夜御殿に置かれていた、三種の神器のうちの剣と勾玉が置かれていた部屋である。上段・中段・下段の間の障壁画は、中国の故事を題材としたもので、帝鑑図と呼ばれる、為政者への戒めとしての画題が選ばれており、濃彩の謹直な筆法で描かれている。画の筆者は上段が狩野永岳、中段が鶴沢探真、下段が座田重就(さいだしげなり)である。剣璽の間には土佐光清が花鳥図を描いている。剣璽の間の東裏には「御小座敷下の間」、「御小座敷上の間」があり、建物の東面から北面にかけて、「一の御間」、「二の御間」、「三の御間」、「次の間」が並ぶ。これらは内向きの部屋で、御小座敷は読書始などの内々の行事や対面に用いられ、一の御間、二の御間、三の御間、次の間は天皇の日常生活の場であった。御小座敷下の間の南、建物の南東端には、簀子縁に張り出す形で「落長押の間」がある。建物の西北部に位置する「申口の間」(南北の2室)は女官の伺候した部屋である。これらの諸室に囲まれた、中央部には、外部に面していない「御寝の間」、「御清間」の2室がある。御常御殿は以上の15室で構成される(御寝の間の西にある「中仕切の間」を含めれば16室)。内向きの諸室の障壁画は、前述の狩野永岳、鶴沢探真のほか、土佐派、円山派などの絵師によるもので、日本の四季の風景や花鳥を題材としたものである。[34][35][36][37][38]

御三間(おみま)は御常御殿の南西に接する東西棟の小さな建物で、上段、中段、下段の3室からなり、涅槃会、茅輪、七夕、盂蘭盆などの行事がここで行われた。[39][40]

御常御殿の北側には迎春(こうしゅん)、御涼所(おすずみしょ)、聴雪(ちょうせつ)、御花御殿、参内殿など、いくつかの比較的小規模な建物がある。[41][42]

迎春は孝明天皇が書見(勉強)の場として建てさせた、入母屋造、檜皮葺、南北棟の建物で、御常御殿の北に位置する。10畳の「南の間」と、変形5畳半の「北の間」からなる小規模で簡素な建物である。塩川文麟が襖絵を描いている。[43][44]

御涼所は迎春の北に接続する入母屋造、檜皮葺、東西棟の建物で、京都の暑い夏を快適に過ごすことを主眼とした建物であり、窓を多く設けている。内部は北が9畳の「上の間」、南が7畳半の「次の間」で、上の間の西に4畳半の「裏上の間」がある。上の間には床(とこ)と違棚、裏上の間には床を設ける。上の間では床と棚に挟まれた壁の腰の位置に窓を設けるなど、通風に意を用いている。[45][46]

聴雪は他の建物よりやや遅れて安政4年(1857年)に孝明天皇の好みで建てられたもので、寄棟造、杮葺の数寄屋造建築である。御涼所と聴雪の間は、「吹抜廊下」と称する、壁がなく吹きさらしの簡素な廊下でつないでいる。聴雪の内部は東から西へ「上の間」、「中の間」、「下の間」がある。中の間の床脇(とこわき)の地袋の戸に描かれた鸚鵡(おうむ)と果物籠の図は呉春の筆である。[47][48]

以上の建物群のさらに北、御所敷地の北端はかつての後宮の所在地であり、すでに多くの建物が失われているが、皇后御常御殿、若宮姫宮御殿、飛香舎などの建物が残っている。

皇后御常御殿は皇后の居所として用いられた、入母屋造、檜皮葺、東西棟の建物である。御常御殿と同様、建物内は細かく間仕切りされて13室に分かれ、部屋の用途と格に応じて障壁画の画題が選ばれている。建物の東面から南面にかけて鍵の手に並ぶ「御上段」、「御中段」、「御下段」の3室はもっとも格式の高い部屋であり、中国の有徳の女性にかかわる故事を題材にした「列女伝」の障壁画が描かれている。建物の北東には「御小座敷下の間」、「御小座敷上の間」があり、建物の中央部には外部に面していない「御寝の間」がある。御寝の間の北側から西側にかけて「御化粧の間」、「一の御間」、「二の御間」、「三の御間」、「次の御間」が並び、三の御間と次の御間の西側には南北2室の「申口の間」がある。[49][50]

皇后御常御殿から渡廊下を北へ進むと、右手に「御黒戸」(仏間)があり、その先は坪庭の「藤壺」を隔てて西に若宮姫宮御殿、北に飛香舎がある。[51]

若宮御殿・姫宮御殿は一つの建物で、東が若宮御殿、西が姫宮御殿である。両御殿とも、東に「御上段」、西に「次の間」があり、これらの手前は若宮御殿・姫宮御殿を通して一続きの「御縁座敷」となっている。[52]

飛香舎は平安京の内裏に存在した五舎の一つで、女官の入内の儀式がここで行われた。五舎とは飛香舎(藤壺)、凝花舎(梅壺)、襲芳舎(雷鳴壺)、昭陽舎(梨壺)、淑景舎(桐壺)を指す。これらは長らく姿を消していたが、寛政度造営時に飛香舎のみが平安様式で復活し、安政度造営でもこれを踏襲したもので、現存する京都御所の建物の中では、もっともよく平安時代の様式を伝えている。建物は東西棟の入母屋造、檜皮葺で、内部は身舎の南・東・北に廂を設け、東廂の東にさらに孫廂がある。孫廂の手前には渡廊(わたろう)が接続する。身舎と南廂は仕切りのない1室とする。内部は円柱、板敷の床などに寝殿造の意匠がみられ、中央に御帳台を置く。飛香舎の北東には玄輝門があり、これも平安時代の内裏にあった門の名前を引き継ぐものである。ただし、平安時代には玄輝門の真北に内裏全体の北門である朔平門があったが、現在の京都御所では、スペースの関係で両門の位置関係がずれており、玄輝門は朔平門よりも東寄りに建てられている。[53][54][55]

紫宸殿南庭と清涼殿東庭

左近の桜
右近の橘

京都御所では、建物が表向きの儀式用のものと、内向きの居住用のものに分かれているのと同様、庭園も儀式用の部分と内向きの部分ではその様相をまったく異にしている。[56]

紫宸殿の南の庭は南庭と称し、一面に白砂を敷いただけの空間である。ここは単なる空地ではなく、紫宸殿の建物と一体となった、儀式のための空間であった。紫宸殿の前には「左近の桜」と「右近の橘」がある(「左」「右」は天皇から見てのそれであり、東が桜、西が橘である)。桜と橘はそれぞれ花木と果樹を代表するものである。ただし、左近の桜は、平安遷都時には桜ではなく梅であった。これが桜に変わったのは、内裏が天徳4年(960年)に焼失し、康保2年(965年)に再建された時である。『万葉集』の時代には、日本の花木の代表は梅であったが、平安時代になって人々の好みが変わって、桜が代表的な花とされるようになった。梅から桜への変更はそれを反映したものである。現在の右近の橘は安政6年(1859年)に植えられたものである。左近の桜も同じ時に植えられたが、現在のものは昭和5年(1930年)に桂宮邸から移植された山桜である。[57][58][59]

清涼殿の正面(東)の庭は東庭と称し、やはり一面に白砂を敷いただけの空間である。ただし、2か所に竹の植込みがある。建物の南端近く、広廂にほど近い場所に植えられているのが漢竹(からたけ)、それより北方、建物から数メートル離れたところに植えられているのが呉竹(くれたけ)である。漢竹はメダケであり、呉竹はハチクのこととされるが、現在植わっているのはホテイチクである。『枕草紙』には呉竹が、『徒然草』には漢竹と呉竹が登場する。漢竹と呉竹は、現状では広い庭の西寄りに偏った位置にあるが、平安時代の内裏では、清涼殿の東側には別の建物(仁寿殿)があり、東庭は今より狭かった。[60][61]

清涼殿の東側、弘廂に沿って南北に流れる石敷きの水流を「御溝水」(みかわみず)という。御溝水の北寄りには高さ20センチほどの落差がつくられており、これを「滝口」という。「滝口の武士」という呼称はこれに由来する。[62][63]

壺庭

複数の建物を渡廊で連結するのが寝殿造の特色の一つである。平安京の内裏には多くの建物が建ち並び、建物と渡廊で囲まれた小規模な庭(壺庭)が各所にあった。これらはそこに植えられている植物にちなんで、桐壺、梨壺、藤壺などと称され、これらの庭が面している建物も桐壺などの名称で呼ばれるようになった。現在の京都御所では、清涼殿西の「萩壺」と、飛香舎南の「藤壺」のみが残っている。[64][65][66]

御池庭・御内庭

小御所や御常御殿付近の庭は、池と遣水を中心とした、自然の風趣を生かした日本庭園である。こうした池水中心の庭園が造られるようになったのは、御所の慶長度造営時に小堀遠州が参画してからのことであるが、現在のような庭の原型ができたのは延宝度の造営時である。小御所、御学問所の東側の庭は大きな池を中心としたもので、御池庭(おいけにわ)と呼ばれる。池は小御所側の西岸に玉石を敷き並べた洲浜を造る。池の中には3つの中島があり、木橋2基、石橋3基が架かる。御常御殿東側の遣水を中心とした庭は御内庭(ごないてい)と呼ばれる。遣水を渡った東側には4畳半茶室の「錦台」が建つ。御内庭に連なる、御涼所東側の庭は「龍泉の庭」と呼ばれる。この付近では遣水は東西2つの流れに分かれ、西側の流れは、御涼所と聴雪を結ぶ吹抜廊下の下をくぐり、一部は聴雪の縁下を通っている。遣水の対岸の東側には「地震殿」(泉殿とも)という小建物がある。これは地震発生に備えて屋根を軽く造り、他の建物から離れて建てた建物で、緊急時の避難所とされている。聴雪の北側にある枯山水庭園は「蝸牛の庭」と呼ばれるが、これは明治期の作庭である。[67][68][69]

障壁画

京都御所内の各建物の室内は、すでに述べたように、多くの障壁画で飾られている。これらは、各室の用途や格に応じて画題が選ばれている。紫宸殿の「賢聖障子」については前述した。清涼殿では、弘廂の北端に「荒海障子」、そのやや南に「昆明池障子」が立てられている。この2点はいずれも衝立で、南面には唐絵、北面には大和絵が描き分けられていた。「荒海障子」は『山海経』に描写された伝説の国の光景を描いたもので、障子の北面には大和絵で「宇治の網代」が描かれている。「昆明池障子」は南面に中国の昆明池の光景、北面には大和絵で「嵯峨野小鷹狩図」が描かれている。御常御殿などの住居用の建物では、儀式などが行われる表向きの諸室には中国の賢人功臣など、鑑戒的な主題の漢画が描かれ、日常生活や内々の対面に用いられた内向きの諸室には大和絵による風景や花鳥などが描かれている。現存する安政度造営時の障壁画の制作にあたっては、当時の日本画壇の主たる流派の画家たちが多数動員されている。安政度造営に参加している絵師は京都在住の者が多く、狩野派、土佐派以外の在野の絵師の多いことが目立つ。御所の障壁画制作は、延宝度造営までは狩野派が独占していたが、宝永度造営以降、大和絵系の絵師が参入するようになり、狩野派の独占体制は崩れていく。安政度造営では、御常御殿の上段・中段・下段など、表向きの諸室は主に狩野派の絵師が担当しているが、他の諸室は土佐派、円山四条派、岸派、原派などさまざまな流派の絵師が参入し、狩野派の相対的地位低下がうかがえる。これは、この時代には狩野派が障壁画制作全体を差配するのではなく、各派の絵師が修理職奉行と直接交渉できるようになったことも影響している。安政度障壁画制作に参加した絵師は、狩野派系では狩野永岳、鶴沢探真、座田重就、土佐住吉派では土佐光信、土佐光文、住吉弘貫、円山派では円山応立(円山応挙の曾孫)、円山応文、長沢芦鳳(長沢芦雪の孫弟子)、中島来章、駒井孝礼、四条派では松村景文系の横山華暉、横山華渓、八木奇峯、岡本豊彦系の塩川文麟などであった。その他の流派では岸派の岸連山、岸竹堂、岸誠、原派の原在照などがいる。御所の障壁画制作に参加することは、絵師にとっては自分の存在をアピールし、後世に名を残す絶好の機会であった。[70][71]

主な殿舎の障壁画の画題と筆者は以下のとおりである。[72]

御常御殿
  • 上段 狩野永岳「堯任賢図治図」「桐竹鳳凰図」
  • 中段 鶴沢探真「大禹戒酒防微図」
  • 下段 座田重就「高宗夢賚良弼図」
  • 剣璽の間 土佐光清「花鳥図」
  • 御小座敷上の間 中島来章「芦辺鶴図」
  • 御小座敷下の間 塩川文麟「四季耕作図」
  • 落長押の間 国井応文「山水図」
  • 一の御間 狩野永岳「桃柳図」
  • 二の御間 鶴沢探真「花鳥図」
  • 三の御間 円山応立「地網引図」
  • 次の間 長沢芦鳳「宇治川の景図」
  • 御清の間 吉田元鎮「住吉の景図」
  • 御寝の間 土佐光文「竹に虎図」元は原在照「群鶏竹菊図」
  • 中仕切りの間 岸竹堂「谷川に熊図」
  • 申口の間(南) 岸連山「谷川に熊図」
  • 申口の間(北) 中島華陽「常盤木に猿図」
御三間
  • 上段 住吉弘貫「大極殿朝賀図」
  • 中段 駒井孝礼「賀茂祭群参図」
  • 下段 岸誠「駒引図」
  • 御献の間上の間 横山清暉「嵐山春景」
  • 御献の間下の間 横山華渓「高雄秋景」
皇后御常御殿
  • 上段 土佐光清「有虞二妃図」
  • 中段 吉田元鎮「契母簡狄図」
  • 下段 鶴沢探真「妃有莘女図」
  • 御寝の間 岸岱「四季花鳥図」
  • 御化粧の間 塩川文麟「新樹図」
  • 御小座敷上の間 狩野永岳「富士三保浦図」
  • 御小座敷下の間 円山応立「塩釜浦図」
  • 一の御間 原在照「四季耕作図」
  • 二の御間 中島華陽「四季耕作図」
  • 三の御間 八木奇峯「雨中竹図」
  • 次の間 長沢芦鳳「浜松図」
  • 申口の間(北) 磯野「紅葉図」
  • 申口の間(南) 島田雅房「桜図」
若宮姫宮御殿
  • 若宮御殿上段 勝山琢眼「蹕輦受言図」
  • 姫宮御殿上段 狩野蔵之進「周室三母図」
御学問所
  • 上段の間 狩野永岳「十八学士登瀛洲図」
  • 中段の間 岸岱「蘭亭図」
  • 下段の間 原在照「岳陽楼図」
  • 菊の間 岡本亮彦「菊図」
  • 山吹の間 円山応挙「山吹図」
  • 雁の間 岸連山「芦に雁図」

参考文献

  • 西川孟、西和夫、辻邦生『日本名建築写真選集18 京都御所・仙洞御所』、新潮社、1993
    • 西和夫「平安王朝への思慕 京都御所と仙洞御所」
  • 『毎日グラフ別冊 京都御所』、毎日新聞社、1984
    • 藤岡通夫「御所の建築 伝統と実用のはざま」
    • 村岡正「王朝以来の「庭の心」」
    • 武田恒夫「御所の襖絵 絵の間・画題・絵師たち」
  • 『京の離宮と御所』(JTBキャンブックス)、日本交通公社出版事業局、1995
  • 渡辺誠『秘蔵写真 京の御所と離宮』、講談社、2010
  • 『京都 御所の庭 - 京都御所・仙洞御所』小学館<週刊日本庭園をゆく7>、2005年。

関連項目

外部サイト

脚注

  1. ^ 東京経済大学紀要
  2. ^ (西、1993)、pp.111 - 112
  3. ^ 『京の離宮と御所』(JTBキャンブックス)、pp.96 - 97, 112 - 114
  4. ^ (渡辺、2010)、pp.20 - 22
  5. ^ (西、1993)、pp.92 - 94
  6. ^ (渡辺、2010)、pp.12 - 13
  7. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp.9, 12
  8. ^ (藤岡、1984)、pp.61 - 62
  9. ^ (西、1993)、pp.95 - 96
  10. ^ (渡辺、2010)、p.30
  11. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.10
  12. ^ (西、1993)、p.94
  13. ^ (渡辺、2010)、pp.7, 21 - 22
  14. ^ (西、1993)、pp.112 - 115
  15. ^ (西、1993)、pp.96 - 97, 112 - 115
  16. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.8
  17. ^ (西、1993)、pp.96 - 97
  18. ^ (西、1993)、pp.98 - 100
  19. ^ (渡辺、2010)、p.31 - 32
  20. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp.13, 16, 17
  21. ^ (藤岡、1984)、pp.62 - 63
  22. ^ (西、1993)、pp.100 - 101
  23. ^ (渡辺、2010)、pp.6, 8, 41, 42
  24. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.19
  25. ^ (西、1993)、pp.92 - 93
  26. ^ (渡辺、2010)、pp.42 - 43
  27. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp.21, 26
  28. ^ (藤岡、1984)、p.
  29. ^ (西、1993)、pp.101 - 103
  30. ^ (渡辺、2010)、pp.33 - 34, 43 - 44
  31. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp.21, 24
  32. ^ (西、1993)、pp.103 - 104
  33. ^ (渡辺、2010)、pp.44 - 45
  34. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.36
  35. ^ (藤岡、1984)、p.64
  36. ^ (武田、1984)、pp.123 - 127
  37. ^ (西、1993)、pp.104 - 105
  38. ^ (渡辺、2010)、pp.45 - 46
  39. ^ (西、1993)、p.105
  40. ^ (渡辺、2010)、p.46
  41. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.37
  42. ^ (渡辺、2010)、pp.46 - 47
  43. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.42
  44. ^ (渡辺、2010)、pp.35, 40
  45. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp.42, 43 - 45
  46. ^ (渡辺、2010)、pp.35 - 36
  47. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp.42, 48, 50, 52
  48. ^ (渡辺、2010)、p.47
  49. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.83
  50. ^ (武田、1984)、p.123 - 127
  51. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.83
  52. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.83
  53. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp.83, 92
  54. ^ (西、1993)、p.105
  55. ^ (渡辺、2010)、p.38
  56. ^ (渡辺、2010)、p.50
  57. ^ (村岡、1984)、p.65
  58. ^ (西、1993)、pp.94 - 95
  59. ^ (渡辺、2010)、p.52
  60. ^ (村岡、1984)、p.66
  61. ^ (渡辺、2010)、p.53
  62. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.16
  63. ^ (渡辺、2010)、p.53
  64. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p.18
  65. ^ (村岡、1984)、p.66
  66. ^ (渡辺、2010)、pp.53 - 54
  67. ^ 『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp.22, 41, 42
  68. ^ (村岡、1984)、pp.66 - 70
  69. ^ (渡辺、2010)、pp.54 - 57
  70. ^ (武田、1984)、pp. 123 - 129
  71. ^ (渡辺、2010)、pp.39 - 50
  72. ^ (武田、1984)、pp.127 - 129

座標: 北緯35度01分31秒 東経135度45分44秒 / 北緯35.02528度 東経135.76222度 / 35.02528; 135.76222