「響 (吹雪型駆逐艦)」の版間の差分
音響測定艦ひびきについて、補助艦艇の命名基準に沿った説明を補記。 |
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{{Infobox 艦艇 |
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<div class="thumb tright"> |
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| 名称 = 響 |
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{| class="wikitable" style="margin: 0em; width: 300px; background:#ffffff" |
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| 画像 = Hibiki.jpg |
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| 画像説明 = |
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| 建造所 = [[舞鶴海軍工廠|舞鶴工作部]] |
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!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴 |
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| 運用者 = {{navy|大日本帝国}} |
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| 艦種 = [[駆逐艦]] |
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|発注||[[昭和2年度艦艇補充計画]] |
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| 級名 = [[吹雪型駆逐艦]] |
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| 発注 = [[昭和2年度艦艇補充計画]] |
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|起工||[[1930年]][[2月21日]] |
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| 起工 = [[1930年]][[2月21日]] |
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|進水 |
| 進水 = [[1932年]][[6月16日]] |
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| 竣工 = |
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|就役 |
| 就役 = [[1933年]][[3月31日]] |
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| 除籍 = [[1945年]][[10月5日]] |
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| その後 = 1945年[[12月1日]]特別輸送艦指定<br />[[1947年]][[7月5日]]ソ連引渡<br />[[1953年]][[2月20日]]除籍<br />1970年代に標的として撃沈 |
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|除籍||[[1945年]][[10月5日]] |
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| 基準排水量 = 1,680 t |
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| 公試排水量 = 1,980 t |
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|その後||1945年[[12月1日]]特別輸送艦指定<br />[[1947年]][[7月5日]]ソ連引渡<br />[[1953年]][[2月20日]]除籍 |
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| 全長 = 118 m |
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| 水線長 = 115.3 m |
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!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元 |
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| 最大幅 = 10.36 m |
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| 吃水 = 3.2 m |
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|[[排水量]]||基準:1,680t 公試:1,980t |
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| 主缶 = [[艦本式ボイラー|ロ号艦本式缶]]3基 |
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| 主機 = [[艦本式タービン]]2基2軸 |
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|全長||118m (水線長:115.3m) |
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| 出力 = 50,000hp |
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| 速力 = 38.0[[ノット]] |
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|全幅||10.36m |
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| 航続距離 = 14ノットで5,000[[浬]] |
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| 乗員 = 219名 |
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|吃水||3.2m |
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| 兵装 = [[五十口径三年式十二糎七砲|12.7cm50口径連装砲]]3基6門<br />[[ホ式十三粍高射機関砲|13mm単装機銃]]2挺<br />61cm3連装[[魚雷発射管]]3基9門<br />'''最終時(推定)'''<ref name="158t11">[[#田村 (11)]] p.158</ref><br>12.7cm50口径連装砲 2基4門<br />[[九六式二十五粍機銃|25mm3連装機銃]]2基<br />同連装機銃1基<br />同単装機銃17基<br />61cm3連装魚雷発射管(九三式[[魚雷]]発射可能)3基9門<br>三式[[爆雷]]投射機1基 |
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| その他 = |
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|機関||[[艦本式ボイラー|ロ号艦本式缶]]3基<br />[[艦本式タービン]]2基2軸 50,000hp |
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| 備考 = |
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}} |
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|速力||38.0[[ノット]] |
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'''響'''(ひびき、響<ref>{{Cite book |和書 |author=海軍省 |authorlink=海軍省 |year=1940 |title=海軍制度沿革 |publisher=海軍大臣官房 |location=東京 |volume=8 |page=379 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886716/209 |accessdate=2020-12-12 |quote=◎驅逐艦曉響雷電命名ノ件 昭和五年三月十五日(達二四) 艦艇製造費ヲ以テ本年建造ニ着手ノ一等驅逐艦四隻ニ左ノ通命名ス 佐世保海軍工廠ニ於テ建造 <ruby><rb>曉</rb><rt>アカツキ</rt></ruby> 舞鶴要港部工作部ニ於テ建造 <ruby><rb>響</rb><rt>ヒビキ</rt></ruby> 浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 <ruby><rb>雷</rb><rt>イカヅチ</rt></ruby> 株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 <ruby><rb>電</rb><rt>イナヅマ</rt></ruby>}}</ref>)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[駆逐艦]]。特型駆逐艦の22番艦(特III・暁型の2番艦)である。この名を持つ日本海軍の艦船としては[[神風型駆逐艦 (初代)]]「[[響 (初代神風型駆逐艦)|響]]」に続いて2隻目。 |
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|航続距離||14ktで5,000浬 |
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[[太平洋戦争]]で戦火により3度の甚大な損傷を蒙ったにもかかわらず沈没せず、終戦まで生き残った強運ぶりと活躍から「不沈艦」<ref>[[#響の栄光]]</ref>、「[[フェニックス|不死鳥]]」<ref>[[#証言宮川]]</ref>、「戦争を生きのびる運命の艦」<ref>[[#響の栄光]] p.555</ref>などと形容された。 |
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|乗員||219名 |
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|兵装||50口径12.7cm連装砲 3基6門<br />13mm単装機銃 2挺<br />61cm3連装[[魚雷発射管]] 3基 |
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|} |
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</div> |
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'''響'''(ひびき)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[駆逐艦]]。[[吹雪型駆逐艦|吹雪型]](特型)の22番艦(III型の2番艦)である。この名を持つ日本海軍の艦船としては[[神風型駆逐艦 (初代)]]「響」に続いて2隻目。戦時中の活躍から「[[フェニックス|不死鳥]]」と形容された<ref>[[#証言宮川]]</ref>。 |
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== 艦歴 == |
== 艦歴 == |
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[[舞鶴海軍工廠|舞鶴工作部]]で[[1930年]][[2月21日]]起工され、[[1933年]][[3月31日]]竣工し<ref>「第1439号 8.4.1 響」p.1</ref>、第 |
[[舞鶴海軍工廠|舞鶴工作部]]で[[1930年]][[2月21日]]起工され、[[1933年]][[3月31日]]竣工し<ref>「第1439号 8.4.1 響」p.1</ref>、第六駆逐隊に編入された。 |
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[[1934年]]11月から「[[暁_(吹雪型駆逐艦)|暁]]」、「[[雷_(吹雪型駆逐艦)|雷]]」、「[[電_(吹雪型駆逐艦)|電]]」と共に第六駆逐隊を編成<ref group="注釈">「[[暁_(吹雪型駆逐艦)|暁]]」は竣工当時は第十駆逐隊に所属しており([[#響の栄光]] p.121)、第六駆逐隊に編入されたのは第十駆逐隊解隊後の1939年11月から。</ref>。[[1934年]](昭和9年)6月29日、第二水雷戦隊演習中に「電」(第6駆逐隊)と「深雪」(第11駆逐隊)の衝突事故が発生、「深雪」は沈没した(7月5日、第11駆逐隊から除籍)<ref>[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]S9内令278</ref>。 |
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[[1934年]]11月から「[[暁_(吹雪型駆逐艦)|暁]]」「[[雷_(吹雪型駆逐艦)|雷]]」「[[電_(吹雪型駆逐艦)|電]]」と共に第6駆逐隊を編成し、[[1940年]]11月、[[第一艦隊_(日本海軍)|第1艦隊]][[第1水雷戦隊]]に編入され[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])を迎えた。[[1941年]]12月から[[カムラン湾]]方面哨戒、[[リンガエン湾]]上陸作戦支援に従事。[[1942年]]2月からは[[ジャワ島|ジャワ]]作戦船団護衛、[[バタビヤ沖海戦]]、[[フィリピン|比島]]攻略作戦に参加。5月に北方部隊所属となり、[[キスカ島]]占領作戦中の[[6月12日]]、キスカ湾において[[アメリカ海軍|米海軍]]機[[PBY_(航空機)|PBYカタリナ飛行艇]]からの爆撃が至近弾となり艦首がもぎとられる。前部主砲周辺まで浸水し沈没の危険があったが、3時間あまりの応急修理の末に浸水をとめる事に成功<ref>[[#証言宮川]]p.20</ref>、僚艦「暁」の護衛を受けて5ノット後進で退避し、6月27日、大湊に帰投した<ref>[[#証言宮川]]p.21-22</ref>。[[大湊_(むつ市)|大湊]]、[[横須賀港|横須賀]]において10月まで修理を受けた。11月には[[航空母艦|空母]]「[[大鷹_(空母)|大鷹]]」を護衛し、横須賀から[[トラック諸島|トラック泊地]]間を3往復した。 |
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1937年(昭和12年)7月28日、日本海軍は第四水雷戦隊(軽巡木曾、第6駆逐隊、第10駆逐隊、第11駆逐隊)を新編した<ref>[[#叢書91大本營海軍部・聯合艦隊]]p.356-357</ref>。 第四水雷戦隊は7月から8月にかけて支那事変のため中国北部で船団護衛に従事<ref>[[#叢書72中国方面]]p.271</ref>。 同年8月17日から18日にかけて第四水雷戦隊(第十一駆逐隊欠)は潜水母艦長鯨とともに旅順から上海へ陸戦隊の輸送に従事<ref>[[#叢書72中国方面]]p.331</ref>。 同年10月、第四水雷戦隊は第四艦隊に編入され、杭州湾上陸作戦に参加した<ref>[[#叢書72中国方面]]p.433</ref>。 1938年1月10日、第6駆逐隊は青島上陸作戦に参加<ref>[[#叢書72中国方面]]p.494</ref>。 |
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[[1939年]](昭和14年)[[4月17日]]、響は[[狭霧 (駆逐艦)|狭霧]]、暁とともにワシントンで客死した前駐米[[特命全権大使|大使]][[斎藤博 (外交官)|斎藤博]]の遺骨を乗せた重巡洋艦[[アストリア (重巡洋艦)|アストリア]](''USS Astoria, CA-34'') を先導<ref>日本軍艦も出迎え、遺骨、故国に帰る(昭和14年4月18日 東京日日新聞(夕刊))『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p223</ref>。アストリアは出迎えの軽巡洋艦[[木曾 (軽巡洋艦)|木曽]]と21発の礼砲をかわし、[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]と[[日本の国旗|日章旗]]を[[半旗]]に掲げて[[横浜港]]に入港<ref>[[#写真週報62号]]p.6。</ref>。午後、斎藤大使の骨壷の引渡し式が行われた<ref>[[#写真週報62号]]p.7『午後一時十五分、アストリア號の艦裁定は静かに舷梯に横付され、遺骨を納めた白木造りの御堂は武装の米國水兵に捧持されて艇に移された。』</ref>。 |
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[[1943年]]2月、「大鷹」を護衛し横須賀・トラック間を4往復した。4月に第1艦隊第11水雷戦隊に編入、内海西部で訓練に従事し、5月に再び北方部隊に加わり[[千島列島|千島]]方面の対[[潜水艦|潜]]掃蕩に従事した。7月、第1次、第2次[[キスカ島撤退作戦]]に参加。8月には、[[上海市|上海]]・[[ラバウル]]間のT2号輸送作戦に参加。12月には陸軍部隊をトラックから[[クサイ島]]まで輸送し、[[12月20日]]に[[連合艦隊]]付属となり、さらに空母「[[飛鷹_(空母)|飛鷹]]」「[[龍鳳_(空母)|龍鳳]]」を[[呉市|呉]]まで護衛した。 |
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[[1940年]]11月、[[第一艦隊_(日本海軍)|第一艦隊]][[第一水雷戦隊]]に編入。間もなく12月から[[1941年]]8月まで[[三菱重工業横浜製作所|三菱横浜船渠]]で特定修理が行われるが、その間[[タイ・フランス領インドシナ紛争]]停戦に関わる示威運動のため1941年1月23日から4月1日まで日本を離れる<ref>[[#田村 (1)]] p.61</ref>。特定修理では、[[九三式水中探信儀|九三式探信儀]]と九一式方位盤を装備した<ref name="52t1">[[#田村 (1)]] p.52</ref>。13ミリ機銃<ref group="注釈">単装か連装か、また基数は不明。([[#田村 (1)]] pp.55-56)</ref>の[[九六式二十五粍高角機銃|25ミリ機銃]]への換装も計画されていたが、供給問題により換装は実施されず<ref name="52t1"/>、この状態で[[太平洋戦争]]を迎えた。なお、特定修理の実施により[[紀元二千六百年記念行事|紀元二千六百年]]を期して10月11日に[[東京湾]]で行われた奉祝[[観艦式]]<ref group="注釈">日本海軍最後の観艦式</ref>には参加できず、乗員は名誉にあずかることができなかったことに悔しい思いをした<ref name="hibiki15">[[#響の栄光]] p.15</ref>。 |
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[[1944年]]1月から3月まで空母「[[海鷹_(空母)|海鷹]]」「[[千代田_(空母)|千代田]]」などの護衛にあたった。[[4月10日]]、呉に入港し修理を受け、[[5月3日]]に呉を出港し[[マニラ]]まで船団護衛に従事。[[5月10日]]、[[第一機動艦隊|第1機動艦隊]]補給部隊に編入されたが、[[5月14日]]には姉妹艦「[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]]」が米軍潜水艦により撃沈され、「響」は生存者の救助を行った<ref>[[#証言宮川]]p.39「消えた僚艦」</ref>。これにより第六駆逐隊は「響」一隻を残すのみとなった。6月、[[マリアナ沖海戦]]に参加、[[速吸 (給油艦)|速吸]]船団を護衛し、対空戦闘で4名が戦死、6名が重傷を負った<ref>[[#証言宮川]]p.47</ref>。[[7月17日]]、呉に入港した。8月から内地・[[台湾]]間の船団護衛に従事。[[9月6日]]、[[高雄市]]からマニラへの船団護衛任務につく。出港直後、「響」の隣を航行していた輸送船「永治丸」が撃沈され、救助作業にあたる<ref>[[#証言宮川]]p.51</ref>。その作業中、米潜の雷撃を受け艦首に損傷を受けた。戦死者は10名で、[[左営区|左営]]と[[馬公市|馬公]]で応急修理が行わて基隆に回航されたが、天候不順により乗員に[[赤痢]]患者が発生した<ref>[[#響の栄光]]pp.321-322, p.356</ref>。そのような状況だった「響」は[[護国丸]]の護衛を担当。11月7日に相前後して日本本土に向かうことになったが、「響」艦内で赤痢がいっそう蔓延して、一刻も早く[[佐世保市|佐世保]]に急がなければならなくなる事態が訪れる<ref>[[#野間]]p.423</ref>。「響」は「護国丸」と別れて佐世保に到着した。単独航行となった「護国丸」は米潜水艦の雷撃で沈没している。その後「響」は横須賀で修理を実施する<ref>[[#証言宮川]]p.53</ref>。「響」は第二艦隊に所属していたが、この損傷により[[レイテ沖海戦]]に参加できなかった。 |
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===1941年 - 1942年=== |
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[[1945年]][[1月25日]]、[[第二艦隊_(日本海軍)|第二艦隊]][[第二水雷戦隊]]第七駆逐隊に編入。[[3月29日]]、[[大和型戦艦|戦艦]]「[[大和 (戦艦)|大和]]」の沖縄水上特攻作戦に従事すべく呉を出港し、艦長から乗組員にも作戦の説明があった<ref>[[#証言宮川]]p.55-56</ref>。午前9時、[[周防灘]]で[[機雷|触雷]]して航行不能となり、駆逐艦「[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]」に護衛されて呉に帰投することになった<ref>[[#証言宮川]]p.58</ref>。夕刻、速力8-9ノット発揮が可能となり、自力で呉に向かった<ref>[[#証言宮川]]p.59</ref>。「朝霜」は「響」の無事を見届けて去った。この後、第二水雷戦隊は[[菊水作戦]]に出撃、4月7日の[[坊ノ岬沖海戦]]によって「[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]」、「[[冬月 (駆逐艦)|冬月]]」、「[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]」を残して壊滅している。「朝霜」も交戦前に機関故障を起こして艦隊から落伍し、米軍機の攻撃で沈没・全員戦死した。修理中でなければ本艦も参加していたはずである<ref>[[#証言宮川]]p.60</ref>。修理完成後、5月に[[舞鶴市|舞鶴]]へ、6月に[[新潟港|新潟]]へ回航されて第七駆逐隊司令艦となる。[[7月10日]]、[[海上護衛隊#第一護衛艦隊|第1海上護衛艦隊]]第105戦隊に編入され、[[日本海]]での船団護衛に従事し、[[8月15日]]にも米軍機との戦闘を行った。 |
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1941年11月29日に第6駆逐隊第1小隊(暁、響)は[[柱島泊地]]を出撃し、[[馬公市|馬公]]、[[三亜市|三亜]]を経て12月11日に[[カムラン湾]]に入港(第6駆逐隊第2小隊《雷、電》とは別行動)<ref name="hibiki31">[[#響の栄光]] p.31</ref>。この間、開戦前日の12月7日夕方に乗員が中国人で占められたイギリス船を拿捕し、カムラン湾に後送した<ref>[[#響の栄光]] p.59</ref>。カムラン湾方面哨戒および、[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|フィリピン攻略作戦]]の[[リンガエン湾]]上陸作戦支援に従事。[[1942年]]1月12日に[[パラオ]]に入港後は2月2日まで[[ダバオ]]、[[マナド]]、[[ケンダリ]]方面を行動する<ref name="hibiki31"/>。2月5日にダバオを発って9日にカムラン湾に到着後は[[蘭印作戦]]に備えて18日まで待機<ref name="hibiki31"/>。18日にカムラン湾出撃後、2月中は[[ジャワ島|ジャワ]]作戦船団護衛と[[バタビヤ沖海戦]]、3月はフィリピン方面の哨戒任務に参加する<ref name="hibiki31"/>。3月19日に[[スービック湾]]内{{仮リンク|オロンガポ|en|Olongapo}}を出発して[[志布志湾]]経由<ref>[[#響の栄光]] p.58</ref>、4月3日に[[横須賀市|横須賀]]に帰投した<ref name="67t2">[[#田村 (2)]] p.67</ref>。横須賀に帰投後は4月6日から11日まで[[浦賀船渠]]に入渠整備を行い、出渠後は横須賀で修理が続行された<ref name="67t2"/>。修理後は4月19日に「雷」、入れ替わる形で入渠整備を行った「暁」とともに横須賀を出港して[[瀬戸内海]]に向かい、5月20日付で北方部隊所属となる<ref name="67t2"/>。同日、吹雪型2隻(暁、響)は[[大和型戦艦]][[武蔵 (戦艦)|武蔵(2号艦)]]を護衛して長崎を出港、21日午後3時過ぎに呉へ到着して「武蔵」への護衛任務を終えた<ref>[[#武藏上]]71-73頁</ref>。 |
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5月22日に[[徳山港]]を出港して[[第四航空戦隊]]([[龍驤 (空母)|龍驤]]、[[隼鷹 (空母)|隼鷹]])を[[大湊 (むつ市)|大湊]]まで直衛し、[[キスカ島]]攻略部隊に編入の上、5月28日に大湊を出撃<ref name="68t3">[[#田村 (3)]] p.68</ref><ref>[[#木俣水雷]] p.150</ref>。[[アリューシャン方面の戦い]]は順調のうちに進んでキスカ島も易々と攻略に成功したが、その直後の6月12日、「暁」とともにキスカ島近海を航行中に5機の[[B-24 (航空機)|B-24]]あるいは[[PBY_(航空機)|PBYカタリナ飛行艇]]の爆撃を受ける<ref name="68t3"/><ref name="hibiki94">[[#響の栄光]] p.94</ref>。投下された爆弾のうち1発が右舷艦首外板を貫通して喫水線付近の錨鎖庫で爆発し、ほかに3発が至近弾となった<ref name="68t3"/>。爆撃による損傷により前部主砲周辺まで浸水し沈没の危険があったが、3時間あまりの応急修理の末に浸水をとめる事に成功<ref>[[#証言宮川]] p.20</ref>。「暁」の艦尾からの曳航により5ノット後進でキスカを発つが、6月15日未明、損傷で「舌状に突き出ていた」艦首が波浪によりたたかれて90度に折れ曲がり、垂れ下がってしまった<ref name="68t3"/>。垂下部をワイヤーで固縛後後退を再開し、6月27日に大湊に帰投<ref name="68t3"/><ref>[[#証言宮川]] pp.21-22</ref><ref name="hibiki88">[[#響の栄光]] p.88</ref>。大湊では[[ポンポン船]]に似た仮艦首が取り付けられ、7月11日あるいは12日に大湊を出発して12日あるいは13日に横須賀に到着<ref name="68t3"/><ref name="hibiki89">[[#響の栄光]] p.89</ref>。この時点で艦首部は[[横須賀海軍工廠]]で建造されており、新艦首を取り付ける諸工事が7月18日から22日と9月18日から10月21日の二期間にわたって行われた<ref name="68t3"/>。この間、第六駆逐隊の僚艦は8月28日付で[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]([[南雲忠一]]中将)配属となって南方へ回ることとなったが<ref>[[#木俣水雷]] p.154</ref>、長期修理中とあっては行動を共にすることはできず[[ガダルカナル島の戦い]]に関わる海戦に参加することもかなわず、以降は護衛任務を主とすることとなる。 |
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終戦後、武装解除の上で[[復員]]輸送に従事し、[[1947年]][[7月5日]]、[[ナホトカ]](ソ連側の資料によると大湊)で賠償艦として[[ソビエト連邦|ソ連]]に引き渡された。[[7月7日]]には[[ウラジオストク]]へ回航され、[[ソ連海軍]][[太平洋艦隊_(ロシア海軍)|太平洋艦隊]]第5艦隊に編入された。 |
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===1943年=== |
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[[7月22日]]には、「響」は'''ヴェールヌイ'''('''{{lang|ru|Верный}}'''<small>ヴィェールヌィイ</small>)と改称された。これは、「真実の、信頼できる」といった意味の[[ロシア語]]の[[形容詞]]である。ソ連への引渡し後、再武装を施された他艦から類推するに「響」もソ連製の[[大砲|火砲]]類で再武装を施されたと見られているが、詳細は不明である。 |
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[[File:Hibiki II.jpg|thumb|right|300px|太平洋戦争開戦3日目の「響」]] |
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11月1日、[[航空母艦|空母]]「[[大鷹_(空母)|大鷹]]」を護衛して横須賀を出撃し、[[チューク諸島|トラック]]に向かう<ref name="68t3"/><ref>[[#木俣空母]] p.452</ref>。12月31日までの間に3往復し<ref name="10jdd258">[[#日本の軍艦10]] p.258</ref>、12月31日に横須賀に到着後は[[1943年]]1月22日までの間、横須賀で修理が行われる。この修理で艦橋前に13ミリ連装機銃が装備された<ref name="80t4">[[#田村 (4)]] p.80</ref>。修理を終えて2月1日には、「[[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]]」とともに「大鷹」と「[[雲鷹 (空母)|雲鷹]]」を護衛し<ref name="80t4"/>、横須賀とトラックの間を4往復した<ref name="10jdd258"/>。4月1日付で、第六駆逐隊は新編成の第十一水雷戦隊([[木村進 (海軍軍人)|木村進]]少将)に編入される<ref name="96t6">[[#田村 (6)]] p.96</ref>。4月24日に横須賀に到着後は[[瀬戸内海]]に回航され、各種目標艦となった<ref name="96t6"/>。ところが、5月12日に[[アッツ島の戦い]]が始まったことにより、5月17日付で北方部隊に編入され、北方の戦場に向かうこととなった<ref name="96t6"/>。[[千島列島|千島]]方面の対潜掃蕩に従事する一方で、6月29日から7月5日までの間、[[電波探知機]](逆探)や[[大発動艇]](大発)搭載装置の装備工事が行われた<ref name="98t6">[[#田村 (6)]] p.98</ref>。2日後の7月7日、第1次の[[キスカ島撤退作戦]]に際して兵士収容部隊に属し、[[幌筵島]]を出撃する<ref>[[#木俣水雷]] p.167</ref>。第1次作戦は霧が晴れてきたため中止となり、部隊は7月18日に幌筵島に帰投<ref>[[#木俣水雷]] p.168</ref>。捲土重来を期した第2次作戦の発動までの間、燃料入りの[[ドラム缶]]約100本を艦内に搭載し、その他竣工以来開けたことのない空間にも燃料が搭載できるよう、突貫工事が行われた<ref name="99t6">[[#田村 (6)]] p.99</ref>。また、偽装煙突を取り付けた<ref name="99t6"/>。7月22日からの第2次作戦は奇跡的に成功し、418名を収容して幌筵島に帰投した<ref name="99t6"/>。 |
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北方作戦の終了後は瀬戸内海での訓練任務に戻るが、その途中の8月9日から15日まで横須賀で魚雷発射管の改装が行われ、[[酸素魚雷|九三式魚雷]]の搭載が可能となった<ref name="100t6">[[#田村 (6)]] p.100</ref>。その後は瀬戸内海に移ったが、魚雷発射訓練中に駆逐艦「島風」の発射した魚雷1本が誤って命中するという事故に遭い、再び横須賀に回航されて9月11日から16日の間に修理が行われた<ref name="100101t6">[[#田村 (6)]] pp.100-101</ref>。この修理では、艦橋前の13ミリ連装機銃の25ミリへの換装が実施された<ref name="100101t6"/>。修理後は9月15日付で編入された、[[関東軍]]輸送のための丁二号輸送部隊に属し<ref name="100t6"/><ref>[[#護国丸1809]] pp.14-15</ref>、[[水上機母艦]]「[[秋津洲 (水上機母艦)|秋津洲]]」、[[特設潜水母艦]]「[[平安丸]]」([[日本郵船]]、11,616トン)とともに横須賀を発って[[上海市|上海]]に回航ののち<ref>[[#護国丸1809]] p.22,31</ref>、9月20日に上海を出撃して10月8日まで部隊の護衛にあたった<ref>[[#護国丸1809]] pp.37-38</ref><ref>[[#護国丸1810]] pp.3-6</ref>。11月上旬に[[ジャカルタ]]方面を行動したあと<ref>[[#響の栄光]] p.224</ref>、12月には陸軍部隊をトラックから[[ミリ環礁|ミレ島]]および[[コスラエ州|クサイ島]]まで輸送<ref name="10jdd258"/>。12月20日付で[[連合艦隊]]付属となり、12月27日に空母「[[飛鷹_(空母)|飛鷹]]」および「[[龍鳳_(空母)|龍鳳]]」を護衛してトラックを出撃、[[1944年]]1月2日に[[呉市|呉]]に到着した<ref name="100t6"/>。 |
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[[1948年]][[7月5日]]には第一線を退き、[[練習艦]]に種別を変更された。同時に、艦名も'''デカブリスト'''('''{{lang|ru|Декабрист}}'''<small>ヂカブリースト</small>)に改められた。これは、[[ロシア]]における[[革命]]運動の端緒となった[[デカブリストの乱|12月党の乱]]の参加者のことである。 |
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===1944年=== |
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その後、デカブリストには他の旧日本艦同様に近代化改修計画が持ち上がったものの、政府の方針変更によりこの計画は中止された。最終的に、[[1953年]][[2月20日]]には老朽化を理由に除籍、1970年代に海軍航空隊の標的艦として処分、[[ウラジオストック]]沖の[[カラムジナ島]]岸に眠っている。 |
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1月6日、「電」および「[[薄雲 (吹雪型駆逐艦)|薄雲]]」とともに[[マニラ]]への航空機輸送任務を行う空母「[[海鷹 (空母)|海鷹]]」と「[[神鷹 (空母)|神鷹]]」の護衛のため[[佐伯市|佐伯]]を出港するが、「神鷹」の機関不調により輸送作戦は一時中止となった<ref name="140t9">[[#田村 (9)]] p.140</ref>。12日に「神鷹」と「薄雲」を外して再度佐伯を出撃し、1月16日にマニラに到着<ref name="141t9">[[#田村 (9)]] p.141</ref>。以後[[シンガポール]]、[[タラカン島]]、[[パラオ]]を経て2月11日にトラックに到着し、2日後の13日にトラックを出港して19日に呉に帰投した<ref name="141t9"/><ref name="kcv591">[[#木俣空母]] p.591</ref>。2月23日からは再び「電」と組んで空母「[[千代田 (空母)|千代田]]」による輸送作戦の護衛にあたり、特設運送船(給油)「国洋丸」(国洋汽船、10,026トン)を加えて3月1日に横須賀を発ち、[[サイパン島]]、[[グアム]]、パラオ、[[バリクパパン]]と寄港<ref name="141t9"/><ref name="kcv591"/>。その途中の3月18日には、[[タウィタウィ州|タウィタウィ]]近海でアメリカ潜水艦「[[ガンネル (潜水艦)|ガンネル]]」 (''{{lang|en|USS Gunnel, SS-253}}'') に発見されるが、「ガンネル」は9,000ヤードより距離を縮めることができず、逆に「電」と共同で爆雷を投下して「ガンネル」を追い払った<ref>[[#SS-253, USS GUNNEL]] p.97,106</ref><ref>[[#木俣空母]] pp.587-588</ref><ref name="b582">[[#Blair]] p.582</ref>。バリクパパンで燃料補給ののち、東進してパラオに向かう途中の3月22日に再び「ガンネル」に発見されるも、11,000ヤード離れて15ノットで航行されては、「ガンネル」にとっては手の尽くしようもなかった<ref name="b582"/><ref>[[#SS-253, USS GUNNEL]] p.98,106</ref><ref name="kcv588">[[#木俣空母]] p.588</ref>。3月27日にパラオを出港して再度バリクパパンに向かい、給油ののちダバオに向かった<ref name="kcv588"/>。その後は4月4日にダバオを出港して4月10日に呉に帰投<ref name="kcv588"/>。「電」とともに[[呉海軍工廠]]で4月10日から30日まで修理を行い、この時に二番砲塔を撤去し25ミリ単装機銃2基が増備された<ref name="141t9"/><ref>[[#田村 (7)]] pp.105-106</ref><ref name="#1">[[#田村 (8)]] pp.123-124</ref>。また、この修理までに25ミリ連装機銃2基や[[仮称二号電波探信儀二型|二二号電探]]の装備も行われた<ref name="#1"/>。 |
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5月3日、「電」とともにヒ61船団に加入し、[[六連島]]沖を出撃<ref name="km170">[[#駒宮 (1987)]] p.170</ref><ref name="ncm3">[[#日栄丸1905]] p.3</ref>。5月9日にマニラに到着後、3隻の特設運送船(給油)、「日栄丸」(日東汽船、10,021トン)と「[[建川丸]]」([[川崎汽船]]、10,090トン)、「あづさ丸」(石原汽船、10,022トン)は[[第一機動艦隊]]([[小沢治三郎]]中将)への補給任務のためマニラでヒ61船団から分離し、引き続き「電」とともに護衛にあたることとなった<ref name="141t9"/><ref name="km170"/><ref>[[#日栄丸1905]] p.3,8</ref>。5月11日にマニラを出港してバリクパパンに向かう<ref name="ncm3"/>。3日後の5月14日未明、「電」と艦の位置を交代した直後<ref name="142t9">[[#田村 (9)]] p.142</ref>、{{coor dm|05|03|N|119|36|E|}}の[[シブツ海峡]]に差し掛かったところで「電」がアメリカ潜水艦「[[ボーンフィッシュ (潜水艦)|ボーンフィッシュ]]」 (''{{lang|en|USS Bonefish, SS-223}}'') の雷撃により沈没し、「電」乗員や[[1952年]](昭和27年)に「[[アリチアミン]]」を発見した藤原元典を含む第六駆逐隊関係者<ref>[[#響の栄光]] pp.238-247, p.257</ref>合わせて121名を救助<ref>[[#響の栄光]] p.250,257</ref><ref>[[#証言宮川]] p.39「消えた僚艦」</ref>。「電」の喪失により、第六駆逐隊は6月10日に解隊した<ref name="142t9"/>。 |
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なお、ヴェールヌイという艦名は第5艦隊に所属した[[30-bis型駆逐艦]]に受け継がれている。これについては[[ヴェールヌイ_(駆逐艦・2代)|ヴェールヌイ]]を参照のこと。また、響の艦名を持つ艦艇としては[[海上自衛隊]]の[[音響測定艦]]「[[ひびき型音響測定艦|ひびき]]」が挙げられる。但し、これは特型駆逐艦の名称を受け継いだというよりはその任務からの命名、および名所の[[響灘]]に由来する。 |
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6月も引き続いて第一機動艦隊に関わる行動に参加し、6月8日にアメリカ潜水艦「[[ヘイク (潜水艦)|ヘイク]]」 (''{{lang|en|USS Hake, SS-256}}'') の雷撃で沈没した「[[風雲 (駆逐艦)|風雲]]」の乗員救助にも出動した<ref>[[#日栄丸1906]] pp.17-18</ref>。[[マリアナ沖海戦]]に際しては第一補給部隊に属し、6月14日に[[ダバオ]]を出撃<ref>[[#第一補給部隊]] p.7</ref>。駆逐艦「[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]」、「響」、「[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]」、「[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]」、「[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]」の5隻で油槽船3隻(清洋丸、日栄丸、玄洋丸)を護衛する<ref>[[#第一補給部隊]]p.7『六月十四日/0330/第一補給部隊A点ニ向ケ「ダバオ」出港(給油船-日栄丸、国洋丸、清洋丸)(護衛艦-浜風、響、白露、時雨、秋霜)』</ref>。6月15日午前2時40分、「白露」は船団内に迷い込み、「清洋丸」と衝突して爆沈した<ref>[[#第一補給部隊]]p.7『6月15日/0241/北緯九度九分、東経一二六度五分、白露、清洋丸ト觸衝、白露沈没ス』</ref>。 |
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6月18日以降、「浜風」「時雨」「秋霜」が機動部隊本隊に合流し、代艦として駆逐艦「[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]」や特務艦「[[速吸 (給油艦)|速吸]]」などが合流した<ref>[[#第一補給部隊]] pp.7-8</ref><ref>[[#第一補給部隊]]p.27『六月十八日名取/補給部隊ニ関シ左ノ通リ定ム 一.群隊区分(艦船番号) (イ)護衛隊名取(0)、響(11)、雪風(12)、夕風(13)、梅(14)、卯月(15)、初霜(16)(以下略)』</ref>。海戦第2日の6月20日に[[第58任務部隊]]([[マーク・ミッチャー]]中将)の艦載機による空襲を受けて4名が戦死、6名が重傷を負った<ref>[[#証言宮川]] p.47</ref>。海戦後、7月2日に[[マニラ]]に入港<ref name="147t10">[[#田村 (10)]] p.147</ref>。「[[藤波 (駆逐艦)|藤波]]」および「[[夕凪 (2代神風型駆逐艦)|夕凪]]」とともに特設運送艦「[[極東丸|旭東丸]]」([[飯野海運]]、10,051トン)から補給を受けたのち<ref>[[#旭東丸1907]] p.18</ref>。7月10日に「速吸」および「旭東丸」と船団を組んで「藤波」および「夕凪」ともに護衛にあたってマニラを出港、[[サンベルナルジノ海峡]]および[[紀淡海峡]]経由で7月17日に呉に帰投した<ref name="147t10"/><ref>[[#旭東丸1907]] p.12, pp.19-22</ref>。帰投直後から27日まで[[呉海軍工廠]]で25ミリ単装機銃12基と[[三式一号電波探信儀三型|一三号電探]]の増備工事が行われる<ref name="148t10">[[#田村 (10)]] p.148</ref>。7月26日付で[[敷設艦]]「[[白鷹 (急設網艦)|白鷹]]」などとともに[[支那方面艦隊]]付属となり、8月1日にモ05船団を護衛して[[北九州港#門司港地区|門司]]を出港する<ref name="1987k219">[[#駒宮 (1987)]] p.219</ref>。この船団には、悲劇の主役として知られる陸軍徴傭船「[[対馬丸]]」(日本郵船、6,754トン)や、「対馬丸」と同じ船団に属した陸軍輸送船「[[和浦丸]]」(三菱汽船、6,804トン)と「[[暁空丸]]」([[拿捕]]船、6,854トン)も加入しており<ref name="148t10"/><ref name="1987k219"/>、8月11日上海入港の間まで護衛にあたる<ref name="148t10"/>。8月15日付で第一海上護衛隊付属となって門司に帰投後、8月19日にミ15船団護衛のため門司を出撃<ref name="148t10"/><ref name="1987k235">[[#駒宮 (1987)]] p.235</ref>。8月25日に[[高雄市|高雄]]に到着後、船団の編成替えによりミ15船団の護衛任務から外れた<ref name="1987k235"/>。 |
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===高雄沖の触雷=== |
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9月5日夜、フィリピン防衛にあたる[[第8師団 (日本軍)|第八師団]]の兵員および軍需品を輸送するタマ25船団を護衛して高雄を出撃する<ref name="148t10"/><ref name="1987k245">[[#駒宮 (1987)]] p.245</ref>。ところが、翌6日未明に船団が[[琉球郷|琉球嶼]]近海に差し掛かったところで、輸送船「永治丸」(日本郵船、6,968トン)が触雷して船体が二つ折れとなって爆沈<ref name="148t10"/><ref name="1987k245"/><ref>[[#郵船戦時上]] pp.828-831</ref>。「永治丸」から脱出した陸軍兵士を救助しようと「永治丸」に接近したところ<ref>[[#証言宮川]] p.51</ref>{{出典無効|date=2019年5月}}<!--宮川氏は救助活動を行ない、それが一段落してまもなく爆発があった、と書いてる(参照したのは文庫版だが内容は一緒でしょう)-->、8時45分ごろに艦首部で爆発が起こり、10名が戦死して一番砲塔直後の左舷部を大破、艦首は前方に向けて約25度垂れ下がった<ref name="148t10"/><ref>[[#響の栄光]] p.323,325,330</ref>。また、触雷の衝撃で艦体全体にも少なからぬ損傷を受けた<ref name="hibiki123">[[#響の栄光]] p.123</ref>。後進により高雄に下がったあと、9月9日から11日まで[[左営区|左営]]で一番砲塔撤去を含む応急修理が行われた<ref name="148t10"/>。この損傷により、1944年10月の[[レイテ沖海戦]]に参加することはなかった。この損傷については「潜水艦の雷撃によるもの」という説があり、元技術少佐で艦艇研究家の[[福井静夫]]がこの説を支持しているほか<ref name="hibiki123"/>、アメリカ側記録では同じ日の「ヘイク」の攻撃が結び付けられているが<ref>{{Cite web|url = http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron/USN-Chron-1944.html |title= Chapter VI: 1944|work=The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II|publisher=HyperWar|language=英語|accessdate=2014-05-20}}</ref>、攻撃状況や位置が大きく異なっている<ref name="149t10">[[#田村 (10)]] p.149</ref>。 |
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9月28日に馬公に後送されて引き続き応急修理が行わるが、入渠中にもしばしば対空戦闘を余儀なくされて戦死者を出す<ref>[[#響の栄光]] pp.352-355</ref>。11月3日にいたってさらに[[基隆市|基隆]]に下がることとなって翌4日に馬公を出港、排水作業を行いながら北上し、5日に基隆に到着した<ref>[[#響の栄光]] p.355</ref>。この基隆停泊中、天候不順により乗員に[[赤痢]]患者が発生した<ref>[[#響の栄光]] pp.321-322, p.356,372</ref>。そのような状況の中、[[ヒ72船団]]加入中に爆撃を受けて損傷し11ノットの速力しか出せなくなっていた特設運送船「[[護国丸 (特設巡洋艦)|護国丸]]」([[大阪商船]]、10,438トン)<ref>[[#野間 (2004)]] p.422</ref>の護衛を担当。11月7日に相前後して日本本土に向かうことになったが、艦内で赤痢がいっそう蔓延して、一刻も早く[[佐世保市|佐世保]]に急がなければならなくなる事態が訪れる<ref>[[#野間 (2004)]] p.423</ref>。間もなく「護国丸」と別れて11月9日に佐世保に到着<ref>[[#響の栄光]] p.360</ref>。呉を経由して11月16日に横須賀に帰投するも、ただちに[[磯子区]]長浜<ref group="注釈">現・[[金沢区]]</ref>の検疫錨地に回航されて隔離された<ref>[[#響の栄光]] p.374</ref><ref name="150t10">[[#田村 (10)]] p.150</ref>。一切の消毒を終えたあとの12月10日に横須賀に向けて回航された<ref name="150t10"/>。 |
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なお、単独航行となった「護国丸」は11月10日未明、[[古志岐島]]近海を単独航行中にアメリカ潜水艦「[[バーブ (潜水艦)|バーブ]]」 (''{{lang|en|USS Barb, SS-220}}'') の雷撃を受けて沈没した。 |
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===1945年=== |
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検疫終了後に横須賀で修理が行われ<ref>[[#証言宮川]] p.53</ref>、[[1945年]]1月14日に横須賀に帰投した「[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]」の一番砲塔を移設して1月20日ごろに終えた<ref>[[#田村 (11)]] pp.156-157</ref>。1月23日に呉に回航後、1月25日付で連合艦隊付属を解かれて[[第二艦隊_(日本海軍)|第二艦隊]][[第二水雷戦隊]]([[古村啓蔵]]少将)第七駆逐隊に編入、「[[回天]]」との共同訓練を含む諸訓練を行った<ref name="157t11">[[#田村 (11)]] p.157</ref><ref>[[#響の栄光]] pp.416-420</ref>。2月18日からは呉海軍工廠で整備が行われ、3月19日の[[呉軍港空襲]]を挟んで25ミリ単装機銃などの増備工事が行われる<ref name="158t11"/>。一連の工事は3月26日の[[天号作戦|天一号作戦]]の発動で打ち切りとなり、3月28日の呉を出港して[[広島湾]]に移動、翌3月29日にいたり、[[戦艦]]「[[大和 (戦艦)|大和]]」の[[坊の岬沖海戦|沖縄水上特攻作戦]]に加わることとなって、駆逐艦長福島栄吉中佐から乗員にも作戦の説明があった<ref>[[#証言宮川]] p.55-56</ref>。 |
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ところが、「大和」以下諸艦と共に[[三田尻]]沖に移動中の午前9時ごろ、[[周防灘]][[姫島灯台]]の314度14.3海里地点を6ノットから9ノットで航行中に後檣直下付近に[[機雷|触雷]]して航行不能となる<ref>[[#響の栄光]] p.125,438</ref><ref name="159t11">[[#田村 (11)]] p.159</ref>。艦内の電源が切れて電探も破損し、僚艦「[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]」に護衛されて呉に帰投することになったが{{Refnest|group="注釈"|「初霜」砲術長であった藤井治美は次のように記している<ref>藤井治美、「沖縄への海上特攻 「初霜」戦闘日誌」195ページ、『丸エキストラ 戦史と旅34』潮書房、2002年、194-199ページ</ref>。4月1日10時、大和以下出港。途中「響」触雷し、「初霜」が呉まで護衛。}}、夕刻になって速力8ノットから9ノットの発揮が可能となり、自力で呉に向かった<ref name="159t11"/><ref>[[#証言宮川]] pp.58-59</ref><ref>[[#響の栄光]] p.439</ref>。「朝霜」は無事を見届けて去り、4月7日の水上特攻で第二水雷戦隊は「[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]」、「[[冬月 (駆逐艦)|冬月]]」、「[[涼月 (駆逐艦)|涼月]]」および「[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]」を残して壊滅。「朝霜」も交戦前に機関故障を起こして艦隊から落伍し、いずれも第58任務部隊艦載機の攻撃で沈没して全員戦死した。触雷して修理中でなければ「響」も参加していたところであった<ref>[[#証言宮川]] p.60</ref><ref>[[#響の栄光]] p.108,445</ref>。被害は艦体全体にゆがみが生じ、特に重油タンクの破損による漏油は行動に支障ありと判定される<ref>[[#響の栄光]] pp.125-126</ref>。修理の指揮には、当時呉海軍工廠にいた[[福井静夫]]が担当した<ref>[[#響の栄光]] p.125</ref>。 |
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4月20日付で第二水雷戦隊は解隊。5月5日付で第7駆逐隊も解隊される<ref>[[#内令昭和20年5月(4)]]p.6『内令第三八二號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年五月五日海軍大臣|第七駆逐隊ノ項ヲ削ル』</ref>。「響」は警備駆逐艦に指定され<ref>[[#内令昭和20年5月(4)]]p.6『内令第三八四號|横須賀鎮守府練習駆逐艦:駆逐艦 澤風、横須賀鎮守府予備駆逐艦:駆逐艦 響 右警備駆逐艦ト定メラル(中略)昭和二十年五月五日海軍大臣』</ref>、同日附で編成された[[海上護衛隊#第一護衛艦隊|第一海上護衛艦隊]][[特設護衛船団司令部#護衛戦隊一覧|第一〇五戦隊]]に編入された。5月16日に呉を出港し、5月26日に[[舞鶴市|舞鶴]]へ到着した<ref>[[#S20.5.5第105戦隊日誌]]p.9『(四)麾下艦艇部隊ノ行動 所属艦:響』</ref>。その後6月26日に舞鶴を出港して[[七尾湾]]経由、7月1日に[[新潟港]]沼垂岸壁へ回航されて防空砲台となった<ref>[[#田村 (11)]] pp.159-160</ref>。また、新潟近海にも投下された機雷の掃海に関する講習や訓練に従事し、乗員は[[疎開]]作業の手伝いなども行った<ref name="160t11">[[#田村 (11)]] p.160</ref><ref>[[#響の栄光]] p.108</ref>。8月15日の終戦当日の早朝にもアメリカ軍機との戦闘で25ミリ機銃を発射し、[[水交社]]として借り上げていた旅館に宿泊中の福井が、その音を聞いて目を覚ましている<ref>[[#響の栄光]] pp.107-108</ref>。 |
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===終戦後=== |
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終戦後、9月1日に舞鶴に回航されて武装解除の上で[[復員輸送艦]]に指定され、[[復員]]輸送に従事する<ref name="160t11"/>。復員輸送艦としては14回行動し、第1回は10月2日に舞鶴を発って[[ヤップ島]]に向かい、グアム経由で10月19日に[[浦賀]]に到着<ref name="hibiki503">[[#響の栄光]] p.503</ref>。この第1回目の航海では兵装はそのままであったが、航海終了後に[[IHI|石川島造船所]]で兵装の切断作業が行われた<ref>[[#響の栄光]] p.493</ref>。以降、11月から1946年1月の2回目と3回目でトラック<ref>[[#響の栄光]] pp.503-504</ref>、1月の4回目で[[テニアン島]]<ref name="hibiki504">[[#響の栄光]] p.504</ref>、2月の5回目でパラオ<ref name="hibiki505">[[#響の栄光]] p.505</ref>、3月の6回目でラバウルに向かう<ref name="hibiki505"/>。3月31日に[[大阪湾]]で触雷するも軽微な損害ですみ、[[三井造船]]玉造船所で修理が行われる<ref>[[#響の栄光]] pp.496-497, p.506</ref>。修理後は4月から5月の第7回で再度ラバウル<ref name="hibiki506">[[#響の栄光]] p.506</ref>、5月から6月の第8回で[[ブンタウ|サンジャック]]および[[バンコク]]<ref name="hibiki506"/>に向かったあと、7月の第9回から10月の第14回までは[[葫芦島市|胡蘆島]]との間を往復した<ref>[[#響の栄光]] pp.507-508</ref>。 |
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===賠償艦として=== |
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復員輸送艦の任務を解かれたあとは特別保管艦として[[長浦港]]に係留され<ref>[[#響の栄光]] p.525</ref>、抽選の結果、賠償艦として[[ソビエト連邦]]に引き渡されることとなった<ref name="160t11"/>。1947年7月5日、[[ナホトカ]]<ref name="160t11"/><ref>[[#響の栄光]] pp.525-529</ref><!--<ref group="注釈">ソ連側の資料によると大湊</ref>-->でソ連側に引き渡された。この時、残留乗員がソ連側乗員に対して各種操作法を指導したが、機関関係についてはソ連側乗員に[[蒸気タービン]]に関する知識が少なかったらしく、指導に対してただ驚くばかりで自分たちで動かそうともしなかった<ref>[[#響の栄光]] p.531</ref>。 |
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7月7日には[[ウラジオストク]]へ回航され、7月22日には'''ヴェールヌイ'''('''{{lang|ru|Верный}}''' {{ipa|ˈvʲernɨj}} <small>ヴィェールヌィイ</small>)と改称された。これは、「真実の、信頼できる」といった意味の[[ロシア語]]の[[形容詞]]である。10月には引き渡された旧日本艦の調査が行われたが、居住性の悪さや復員輸送後に整備されなかった事による状態の悪さが問題となり、武装解除されていたことも相まって「ソ連軍艦として運用するには大掛かりな改造が必要である」と結論付けられた。しかしどの艦も技術資料は日本側によって処分されており、ソ連の造船技術者達の対応を悩ませた<ref name="ポルトフ119">[[#ポルトフ]] pp.119</ref>。 |
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1947年11月、[[ソ連海軍]]は海軍第1研究所のザイツェフ中佐を団長とした旧日本艦の運用調査団を編成し、翌1948年6月、調査団の報告に基いてソ連海軍は艦艇配分を指示した。この際ヴェールヌイは第5艦隊(後に第7艦隊と統合して[[太平洋艦隊_(ロシア海軍)|太平洋艦隊]])に[[練習艦]]として配属される予定となった<ref name="ポルトフ119"/>。7月5日には第一線を退き、<!--兵装を撤去して-->練習船に種別を変更された<ref name="160t11"/><ref name="ポルトフ121">[[#ポルトフ]] pp.121</ref>。同時に、艦名も'''デカブリスト'''('''{{lang|ru|Декабрист}}''' {{ipa|dʲɪkɐˈbrʲist}} <small>ヂカブリースト</small>)に改められた<ref name="160t11"/><ref name="ポルトフ121"/>。これは、[[ロシア]]における[[革命]]運動の端緒となった[[デカブリストの乱|12月党の乱]]の参加者のことである。デカブリストを含め旧日本艦の多くは補助的な任務に当てられていたが、これは当時ソ連極東部にあった造船所の能力が低く、大規模な工事ができないためであった。ただし、有事には武装を強化して警備艦として運用する計画もあり、1949年1月にはソ連海軍総司令部作戦局により、旧日本艦の再兵装案が作成された。計画されたデカブリストの再兵装案は以下の通りである<ref name="ポルトフ119-120">[[#ポルトフ]] pp.119-120</ref>。 |
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*[[B-57_130mm列車砲#B-13艦砲|B-13-2s型130mm単装砲]]4基 |
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*[[V-11|V-11型37mm連装機銃]]2基 |
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*70K型37mm単装機銃2基 |
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*533mm3連装魚雷発射管1基 |
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*BMB-2型爆雷投射機2基 |
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*MBM-24型対潜ロケット発射機1機 |
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しかし改造費用が多額になること、造船所の整備対応能力が欠けていたことから造船省の首脳部が旧日本艦の工事を拒否し、艦政局も本格的な改造を諦めて最低限の工事を施すことにした<ref name="ポルトフ119-120"/>。この工事は新たに第5艦隊下へ編成された特務設計局の指示のもと、海軍傘下の造船所にて行われたが、整備能力は著しく下がることとなった<ref name="ポルトフ120">[[#ポルトフ]] pp.120</ref>。1949年末には後方組織が再編された際に何故か特務設計局が解体されてしまい、1950年末に再設置される事態も起こった<ref name="ポルトフ121">[[#ポルトフ]] pp.121</ref>。1951年からは造船省傘下の造船所も工事へ協力するようになったが、予算不足により旧日本艦の改造工事は捗らなかった<ref name="ポルトフ120">[[#ポルトフ]] pp.120</ref>。最終的に1952年には、予算不足と造船所の能力不足からデカブリストを練習艦へ改造することが諦められ、海軍航空部隊の[[標的艦|標的曳航船]]として運用された<ref name="ポルトフ120"/>。1953年2月20日には老朽化を理由に除籍<ref name="160t11"/>。その後西側には長らく消息不明で除籍時に解体されたと思われていたが2010年代になってから1970年代に海軍航空隊の標的艦として処分、ウラジオストク沖の[[カラムジナ島]]岸に眠っていることが判明した<ref>Safety-Stop/{{lang|ru|Погружение на эсминец «Хибики» с клубом «Турсио»}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【海底のレクイエム】ウラジオストック沖の駆逐艦「響」 |url=https://www.sankei.com/article/20230413-3NEOSJII4ZKVFJ5GYEVDNLMK34/ |website=産経ニュース |date=2023-04-12 |access-date=2023-05-18}}</ref>。現在ではダイビングツアーも行われている。 |
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なお、ヴェールヌイという艦名は第5艦隊に所属した[[30-bis型駆逐艦]]に受け継がれている。<!--これについては[[ヴェールヌイ_(駆逐艦・2代)|ヴェールヌイ]]を参照のこと。-->また、同じ艦名を持つ艦艇としては[[海上自衛隊]]の[[音響測定艦]]「[[ひびき型音響測定艦|ひびき]]」が挙げられる。但し、これは特型駆逐艦の名称を受け継いだというよりはその任務からの命名、および名所の[[響灘]]に由来する。 |
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== 歴代艦長 == |
== 歴代艦長 == |
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[[Image:Japanese destroyer Hibiki 1933.jpg|thumb|right|300px|竣工時の「響」]] |
[[Image:Japanese destroyer Hibiki 1933.jpg|thumb|right|300px|竣工時の「響」]] |
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<small>※『艦長たちの軍艦史』290-291頁による。</small> |
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=== 艤装員長 === |
=== 艤装員長 === |
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#江口松郎 少佐:1932年11月15日 - |
#江口松郎 少佐:1932年11月15日 - 1933年1月30日<ref>『官報』第1824号、昭和8年1月31日。</ref> |
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=== 艦長 === |
=== 艦長 === |
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#江口松郎 中佐:1933年1月30日 - |
#[[江口松郎]] 中佐:1933年1月30日 - 1934年8月1日<ref>『官報』第2276号、昭和9年8月2日。</ref> |
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#江戸兵太郎 中佐:1934年8月1日 - |
#[[江戸兵太郎]] 中佐:1934年8月1日 - 1935年11月21日 |
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#阪匡身 中佐:1935年11月21日 - |
#[[阪匡身]] 中佐:1935年11月21日 - 1936年12月1日 |
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#井上良雄 少佐:1936年12月1日 - |
#[[井上良雄 (海軍軍人)|井上良雄]] 少佐:1936年12月1日 - 1937年5月1日<ref name=kp3096>『官報』第3096号、昭和12年5月3日。</ref> |
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#(兼)[[竹内虎四郎]] 少佐:1937年5月1日<ref name=kp3096/> - 1937年7月13日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072072100|海軍辞令公報 号外 第2号 昭和12年7月13日付}}</ref> |
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#[[柴勝男]] 少佐:1937年7月13日 - |
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#[[柴勝男]] 少佐:1937年7月13日 - 1937年11月1日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072072500|海軍辞令公報 号外 第85号 昭和12年11月1日付}}</ref> |
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#溝畠定一 少佐:1937年11月1日 - |
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#[[溝畠定一]] 少佐:1937年11月1日 - 1938年12月1日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072074700|海軍辞令公報(部内限)号外 第267号 昭和13年12月1日}}</ref> |
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#岡本次郎 少佐:1938年12月1日 - |
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#[[岡本次郎]] 少佐:1938年12月1日 - 1939年10月15日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072076400|海軍辞令公報(部内限)第391号 昭和14年10月16日}}</ref> |
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#岡三知夫 少佐:1939年10月15日 - |
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#[[岡三知夫]] 少佐:1939年10月15日 - 1940年10月15日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072079000|海軍辞令公報(部内限)第543号 昭和15年10月15日}}</ref> |
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#林利作 少佐:1940年10月15日 - |
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#[[林利作]] 少佐:1940年10月15日 - 1941年9月25日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072082300|海軍辞令公報(部内限)第718号 昭和16年9月25日}}</ref> |
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#石井励 少佐:1941年9月25日 - |
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#[[石井励]] 少佐:1941年9月25日 - |
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#[[工藤俊作 (海軍軍人)|工藤俊作]] 少佐:1942年8月13日 - |
#[[工藤俊作 (海軍軍人)|工藤俊作]] 少佐:1942年8月13日 - |
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#森卓次 少佐:1942年12月10日 - |
#[[森卓次]] 少佐:1942年12月10日 - |
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#福島栄吉 中佐:1943年11月25日 - |
#[[福島栄吉]] 中佐:1943年11月25日 - |
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#薗田肇 少佐:1945年7月18日 - |
#[[薗田肇]] 少佐:1945年7月18日 - |
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==脚注== |
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=== 注釈 === |
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{{Notelist}} |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*[https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]] |
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* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所) |
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**{{Cite book|和書|author=海軍大臣官房|year=1939|month=|title=海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷) info:ndljp/pid/1886711|publisher=海軍大臣官房|ref=海軍制度沿革(巻4、1939)}} |
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* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所) |
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**Ref.{{Cite book|和書|author=Ref.A06031065700|title=写真週報62号 4月26日|ref=写真週報62号}} |
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**Ref.C05110628400「第1439号 8.4.1 響」 |
**Ref.C05110628400「第1439号 8.4.1 響」 |
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**Ref.C05022070700「官房第753号 5.3.8 駆逐艦命名の件」 |
**Ref.C05022070700「官房第753号 5.3.8 駆逐艦命名の件」 |
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92行目: | 140行目: | ||
**Ref.C05022832500「第48号 7.1.15 駆逐艦響工事概括表変更の件」 |
**Ref.C05022832500「第48号 7.1.15 駆逐艦響工事概括表変更の件」 |
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**Ref.C05022832600「第1145号 7.8.25 駆逐艦響工事概括表変更の件」 |
**Ref.C05022832600「第1145号 7.8.25 駆逐艦響工事概括表変更の件」 |
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030654000|title=自昭和十八年九月一日至昭和十八年九月三十日 特設巡洋艦護国丸戦時日誌(丁二号輸送経過)|ref=護国丸1809}} |
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030654100|title=自昭和十八年十月一日至昭和十八年十月三十一日 特設巡洋艦護国丸戦時日誌(丁二号輸送経過)|ref=護国丸1810}} |
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030685100|title=自昭和十九年五月一日至昭和十九年五月三十一日 特設運送船(給油船)日栄丸戦時日誌|ref=日栄丸1905}} |
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030685200|title=自昭和十九年五月一日至昭和十九年五月三十一日 特設運送船(給油船)日栄丸戦時日誌|ref=日栄丸1906}} |
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030685300|title=自昭和十九年五月十九日至昭和十九年六月二十日 第一補給部隊戦闘報告(日栄丸指揮官指揮期間)|ref=第一補給部隊}} |
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030644700|title=自昭和十九年七月一日至昭和十九年七月三十一日 (旭東丸)戦時日誌|ref=旭東丸1907}} |
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030076800|title=昭和二十年五月五日第一〇五戦隊戦時日誌舞鶴護衛部隊|ref=S20.5.5第105戦隊日誌}} |
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070511300|title=昭和20年1月~6月 秘海軍公報/5月(2)|ref=内令昭和20年5月(2)}} |
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*{{Cite book|title=SS-253, USS GUNNEL|url=https://issuu.com/hnsa/docs/ss-253_gunnel |format=issuu|publisher=Historic Naval Ships Association|ref=SS-253, USS GUNNEL}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[宮川正]]ほか|coauthors=|year=1990|title={{small|証言昭和の戦記*リバイバル戦記コレクション}}憤怒をこめて絶望の海を渡れ|publisher=光人社|isbn=4-7698-0497-0|ref=証言宮川}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=財団法人海上労働協会(編)|year=2007|origyear=1962|title={{small|復刻版}} 日本商船隊戦時遭難史|publisher=財団法人海上労働協会/成山堂書店|isbn=978-4-425-30336-6|ref=戦時遭難史}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=日本郵船戦時船史編纂委員会|year=1971|title=日本郵船戦時船史|publisher=日本郵船|volume=上|ref=郵船戦時上}} |
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* {{Cite book|last=Blair,Jr|first=Clay|year=1975|title=Silent Victory {{small|The U.S.Submarine War Against Japan}}|publisher=J. B. Lippincott Company|location=Philadelphia and New York|isbn=0-397-00753-1|ref=Blair}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=アンドレイ・V・ポルトフ「ソ連艦となった日本艦艇始末記」|coauthors=|year=2010|month=6|title=[[世界の艦船]] 2010年6月 第725号|publisher=海人社|id={{全国書誌番号|00013428}}|ref=ポルトフ}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1974|month=3|title=戦史叢書 中國方面海軍作戦(1) {{small|昭和十三年三月まで}}|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書72中国方面}} |
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*{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1975|month=12|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊(1) {{small|開戦まで}}|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書91大本營海軍部・聯合艦隊}}} |
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* {{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1977|title=日本空母戦史|publisher=図書出版社|ref=木俣空母}} |
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* {{Cite book|和書|author=ひびき会(編)|year=1978|title=不沈艦 響の栄光|publisher=ひびき会|ref=響の栄光}} |
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* {{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1986|title=日本水雷戦史|publisher=図書出版社|ref=木俣水雷}} |
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* {{Cite book|和書|author=駒宮真七郎|year=1987|title=戦時輸送船団史|publisher=出版協同社|isbn=4-87970-047-9|ref=駒宮 (1987)}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=落合康夫「特型駆逐艦(朧、曙、漣、潮、暁、響、雷、電))行動年表」|editor=雑誌「丸」編集部|editor-link=丸 (雑誌)|year=1990|title=写真 日本の軍艦10 {{small|駆逐艦I}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0460-1|ref=日本の軍艦10}} |
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* {{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1989|title=日本軽巡戦史|publisher=図書出版社|ref=木俣軽巡}} |
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* {{Cite book|和書|author=野間恒|year=2004|title=商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史|publisher=野間恒(私家版)|ref=野間 (2004)}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=田村俊夫「特型23隻の開戦時の兵装」|coauthors=|year=2010|title={{small|歴史群像 太平洋戦史シリーズ70}} 完全版 特型駆逐艦|publisher=[[学習研究社]]|isbn=978-4-05-606020-1|pages=52-61|ref=田村 (1)}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=田村俊夫「昭和16年~17年の特型(1)」|coauthors=|year=2010|title={{small|歴史群像 太平洋戦史シリーズ70}} 完全版 特型駆逐艦|publisher=学習研究社|isbn=978-4-05-606020-1|pages=62-67|ref=田村 (2)}} |
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* {{Cite book|和書|author=田村俊夫「昭和16年~17年の特型 (2)」|coauthors=|year=2010|title={{small|歴史群像 太平洋戦史シリーズ70}} 完全版 特型駆逐艦|publisher=学習研究社|isbn=978-4-05-606020-1|pages=68-75|ref=田村 (3)}} |
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* {{Cite book|和書|author=田村俊夫「特型の最初の戦時機銃増備」|coauthors=|year=2010|title={{small|歴史群像 太平洋戦史シリーズ70}} 完全版 特型駆逐艦|publisher=学習研究社|isbn=978-4-05-606020-1|pages=76-85|ref=田村 (4)}} |
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* {{Cite book|和書|author=田村俊夫「昭和18年の特型の戦いと修理」|coauthors=|year=2010|title={{small|歴史群像 太平洋戦史シリーズ70}} 完全版 特型駆逐艦|publisher=学習研究社|isbn=978-4-05-606020-1|pages=86-94|ref=田村 (5)}} |
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* {{Cite book|和書|author=田村俊夫「北方海域での戦いと兵装改正」|coauthors=|year=2010|title={{small|歴史群像 太平洋戦史シリーズ70}} 完全版 特型駆逐艦|publisher=学習研究社|isbn=978-4-05-606020-1|pages=95-101|ref=田村 (6)}} |
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* {{Cite book|和書|author=田村俊夫「『2098号訓令』工事の実施艦 (1)」|coauthors=|year=2010|title={{small|歴史群像 太平洋戦史シリーズ70}} 完全版 特型駆逐艦|publisher=学習研究社|isbn=978-4-05-606020-1|pages=102-119|ref=田村 (7)}} |
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* {{Cite book|和書|author=田村俊夫「『2098号訓令』工事の実施艦 (2)」|coauthors=|year=2010|title={{small|歴史群像 太平洋戦史シリーズ70}} 完全版 特型駆逐艦|publisher=学習研究社|isbn=978-4-05-606020-1|pages=120-127|ref=田村 (8)}} |
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* {{Cite book|和書|author=田村俊夫「昭和19年の特型 (2)」|coauthors=|year=2010|title={{small|歴史群像 太平洋戦史シリーズ70}} 完全版 特型駆逐艦|publisher=学習研究社|isbn=978-4-05-606020-1|pages=140-146|ref=田村 (9)}} |
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* {{Cite book|和書|author=田村俊夫「昭和19年の特型 (3)」|coauthors=|year=2010|title={{small|歴史群像 太平洋戦史シリーズ70}} 完全版 特型駆逐艦|publisher=学習研究社|isbn=978-4-05-606020-1|pages=147-155|ref=田村 (10)}} |
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* {{Cite book|和書|author=田村俊夫「特型の生き残り2艦の最後」|coauthors=|year=2010|title={{small|歴史群像 太平洋戦史シリーズ70}} 完全版 特型駆逐艦|publisher=学習研究社|isbn=978-4-05-606020-1|pages=156-155|ref=田村 (11)}} |
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* {{Cite book|和書|author=手塚正己|authorlink=手塚正己|year=2009|title=軍艦武藏 上巻|publisher=新潮文庫|isbn=978-4-10-127771-4|ref=武藏上}} |
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*{{Cite book|和書|author=宮川正ほか|coauthors=|year=1990|title={{small|証言昭和の戦記*リバイバル戦記コレクション}}憤怒をこめて絶望の海を渡れ|publisher=光人社|isbn=4-7698-0497-0|ref=証言宮川}} |
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**宮川正『憤怒をこめて絶望の海を渡れ {{small|"不死鳥"の異名をとった駆逐艦「響」激闘一代記}}』 |
**宮川正『憤怒をこめて絶望の海を渡れ {{small|"不死鳥"の異名をとった駆逐艦「響」激闘一代記}}』 |
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*外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9 |
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*雑誌「[[丸_(雑誌)|丸]]」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集16 駆逐艦 吹雪型[特型]』光人社、1997年 {{ja icon}} |
*雑誌「[[丸_(雑誌)|丸]]」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集16 駆逐艦 吹雪型[特型]』光人社、1997年 {{ja icon}} |
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*[http://safety-stop.ru/hibiki/{{lang|ru|Погружение на эсминец «Хибики» с клубом «Турсио»}}{{lang|en| / Safty-Stop}}]{{ru icon}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*[http://navsource.narod.ru/photos/03/352/index.html {{lang|ru|Эскадренный миноносец "Верный"}}] {{ru icon}} |
*[http://navsource.narod.ru/photos/03/352/index.html {{lang|ru|Эскадренный миноносец "Верный"}}] {{ru icon}} |
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*[http://safety-stop.ru/hibiki/ Погружение на эсминец «Хибики» с клубом «Турсио»(現在の響の画像)] {{ru icon}} |
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*[http://safety-stop.ru/hibiki/{{lang|jp|海底に眠る響}}] |
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*{{YouTube|YwKtuUsmuKs|2016年に日本人がダイビングした時のニュース映像}} |
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* {{Cite web|和書|title=<連載>〝不死鳥〟の駆逐艦「響」激闘一代記 記事一覧 |url=https://www.sankei.com/article/20220906-OTCLBGVAHFBFDFQJTZAZKIASS4/ |website=産経ニュース |date=2022-12-07 |access-date=2023-05-18}} |
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{{吹雪型駆逐艦}} |
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{{DEFAULTSORT:ひひき}} |
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[[Category: |
[[Category:吹雪型駆逐艦]] |
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[[Category:第二次世界大戦の日本の駆逐艦]] |
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[[Category:1932年進水船]] |
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[[Category:1933年竣工船]] |
[[Category:1933年竣工船]] |
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[[Category:ソ連・ロシアの駆逐艦]] |
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[[Category:標的として沈没した船]] |
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[[Category:舞鶴海軍工廠が建造した艦船]] |
2023年12月4日 (月) 20:37時点における最新版
響 | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | 舞鶴工作部 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 駆逐艦 |
級名 | 吹雪型駆逐艦 |
艦歴 | |
発注 | 昭和2年度艦艇補充計画 |
起工 | 1930年2月21日 |
進水 | 1932年6月16日 |
就役 | 1933年3月31日 |
除籍 | 1945年10月5日 |
その後 |
1945年12月1日特別輸送艦指定 1947年7月5日ソ連引渡 1953年2月20日除籍 1970年代に標的として撃沈 |
要目 | |
基準排水量 | 1,680 t |
公試排水量 | 1,980 t |
全長 | 118 m |
水線長 | 115.3 m |
最大幅 | 10.36 m |
吃水 | 3.2 m |
主缶 | ロ号艦本式缶3基 |
主機 | 艦本式タービン2基2軸 |
出力 | 50,000hp |
速力 | 38.0ノット |
航続距離 | 14ノットで5,000浬 |
乗員 | 219名 |
兵装 |
12.7cm50口径連装砲3基6門 13mm単装機銃2挺 61cm3連装魚雷発射管3基9門 最終時(推定)[1] 12.7cm50口径連装砲 2基4門 25mm3連装機銃2基 同連装機銃1基 同単装機銃17基 61cm3連装魚雷発射管(九三式魚雷発射可能)3基9門 三式爆雷投射機1基 |
響(ひびき、響[2])は、日本海軍の駆逐艦。特型駆逐艦の22番艦(特III・暁型の2番艦)である。この名を持つ日本海軍の艦船としては神風型駆逐艦 (初代)「響」に続いて2隻目。
太平洋戦争で戦火により3度の甚大な損傷を蒙ったにもかかわらず沈没せず、終戦まで生き残った強運ぶりと活躍から「不沈艦」[3]、「不死鳥」[4]、「戦争を生きのびる運命の艦」[5]などと形容された。
艦歴
[編集]舞鶴工作部で1930年2月21日起工され、1933年3月31日竣工し[6]、第六駆逐隊に編入された。
1934年11月から「暁」、「雷」、「電」と共に第六駆逐隊を編成[注釈 1]。1934年(昭和9年)6月29日、第二水雷戦隊演習中に「電」(第6駆逐隊)と「深雪」(第11駆逐隊)の衝突事故が発生、「深雪」は沈没した(7月5日、第11駆逐隊から除籍)[7]。 1937年(昭和12年)7月28日、日本海軍は第四水雷戦隊(軽巡木曾、第6駆逐隊、第10駆逐隊、第11駆逐隊)を新編した[8]。 第四水雷戦隊は7月から8月にかけて支那事変のため中国北部で船団護衛に従事[9]。 同年8月17日から18日にかけて第四水雷戦隊(第十一駆逐隊欠)は潜水母艦長鯨とともに旅順から上海へ陸戦隊の輸送に従事[10]。 同年10月、第四水雷戦隊は第四艦隊に編入され、杭州湾上陸作戦に参加した[11]。 1938年1月10日、第6駆逐隊は青島上陸作戦に参加[12]。
1939年(昭和14年)4月17日、響は狭霧、暁とともにワシントンで客死した前駐米大使斎藤博の遺骨を乗せた重巡洋艦アストリア(USS Astoria, CA-34) を先導[13]。アストリアは出迎えの軽巡洋艦木曽と21発の礼砲をかわし、星条旗と日章旗を半旗に掲げて横浜港に入港[14]。午後、斎藤大使の骨壷の引渡し式が行われた[15]。
1940年11月、第一艦隊第一水雷戦隊に編入。間もなく12月から1941年8月まで三菱横浜船渠で特定修理が行われるが、その間タイ・フランス領インドシナ紛争停戦に関わる示威運動のため1941年1月23日から4月1日まで日本を離れる[16]。特定修理では、九三式探信儀と九一式方位盤を装備した[17]。13ミリ機銃[注釈 2]の25ミリ機銃への換装も計画されていたが、供給問題により換装は実施されず[17]、この状態で太平洋戦争を迎えた。なお、特定修理の実施により紀元二千六百年を期して10月11日に東京湾で行われた奉祝観艦式[注釈 3]には参加できず、乗員は名誉にあずかることができなかったことに悔しい思いをした[18]。
1941年 - 1942年
[編集]1941年11月29日に第6駆逐隊第1小隊(暁、響)は柱島泊地を出撃し、馬公、三亜を経て12月11日にカムラン湾に入港(第6駆逐隊第2小隊《雷、電》とは別行動)[19]。この間、開戦前日の12月7日夕方に乗員が中国人で占められたイギリス船を拿捕し、カムラン湾に後送した[20]。カムラン湾方面哨戒および、フィリピン攻略作戦のリンガエン湾上陸作戦支援に従事。1942年1月12日にパラオに入港後は2月2日までダバオ、マナド、ケンダリ方面を行動する[19]。2月5日にダバオを発って9日にカムラン湾に到着後は蘭印作戦に備えて18日まで待機[19]。18日にカムラン湾出撃後、2月中はジャワ作戦船団護衛とバタビヤ沖海戦、3月はフィリピン方面の哨戒任務に参加する[19]。3月19日にスービック湾内オロンガポを出発して志布志湾経由[21]、4月3日に横須賀に帰投した[22]。横須賀に帰投後は4月6日から11日まで浦賀船渠に入渠整備を行い、出渠後は横須賀で修理が続行された[22]。修理後は4月19日に「雷」、入れ替わる形で入渠整備を行った「暁」とともに横須賀を出港して瀬戸内海に向かい、5月20日付で北方部隊所属となる[22]。同日、吹雪型2隻(暁、響)は大和型戦艦武蔵(2号艦)を護衛して長崎を出港、21日午後3時過ぎに呉へ到着して「武蔵」への護衛任務を終えた[23]。
5月22日に徳山港を出港して第四航空戦隊(龍驤、隼鷹)を大湊まで直衛し、キスカ島攻略部隊に編入の上、5月28日に大湊を出撃[24][25]。アリューシャン方面の戦いは順調のうちに進んでキスカ島も易々と攻略に成功したが、その直後の6月12日、「暁」とともにキスカ島近海を航行中に5機のB-24あるいはPBYカタリナ飛行艇の爆撃を受ける[24][26]。投下された爆弾のうち1発が右舷艦首外板を貫通して喫水線付近の錨鎖庫で爆発し、ほかに3発が至近弾となった[24]。爆撃による損傷により前部主砲周辺まで浸水し沈没の危険があったが、3時間あまりの応急修理の末に浸水をとめる事に成功[27]。「暁」の艦尾からの曳航により5ノット後進でキスカを発つが、6月15日未明、損傷で「舌状に突き出ていた」艦首が波浪によりたたかれて90度に折れ曲がり、垂れ下がってしまった[24]。垂下部をワイヤーで固縛後後退を再開し、6月27日に大湊に帰投[24][28][29]。大湊ではポンポン船に似た仮艦首が取り付けられ、7月11日あるいは12日に大湊を出発して12日あるいは13日に横須賀に到着[24][30]。この時点で艦首部は横須賀海軍工廠で建造されており、新艦首を取り付ける諸工事が7月18日から22日と9月18日から10月21日の二期間にわたって行われた[24]。この間、第六駆逐隊の僚艦は8月28日付で第三艦隊(南雲忠一中将)配属となって南方へ回ることとなったが[31]、長期修理中とあっては行動を共にすることはできずガダルカナル島の戦いに関わる海戦に参加することもかなわず、以降は護衛任務を主とすることとなる。
1943年
[編集]11月1日、空母「大鷹」を護衛して横須賀を出撃し、トラックに向かう[24][32]。12月31日までの間に3往復し[33]、12月31日に横須賀に到着後は1943年1月22日までの間、横須賀で修理が行われる。この修理で艦橋前に13ミリ連装機銃が装備された[34]。修理を終えて2月1日には、「漣」とともに「大鷹」と「雲鷹」を護衛し[34]、横須賀とトラックの間を4往復した[33]。4月1日付で、第六駆逐隊は新編成の第十一水雷戦隊(木村進少将)に編入される[35]。4月24日に横須賀に到着後は瀬戸内海に回航され、各種目標艦となった[35]。ところが、5月12日にアッツ島の戦いが始まったことにより、5月17日付で北方部隊に編入され、北方の戦場に向かうこととなった[35]。千島方面の対潜掃蕩に従事する一方で、6月29日から7月5日までの間、電波探知機(逆探)や大発動艇(大発)搭載装置の装備工事が行われた[36]。2日後の7月7日、第1次のキスカ島撤退作戦に際して兵士収容部隊に属し、幌筵島を出撃する[37]。第1次作戦は霧が晴れてきたため中止となり、部隊は7月18日に幌筵島に帰投[38]。捲土重来を期した第2次作戦の発動までの間、燃料入りのドラム缶約100本を艦内に搭載し、その他竣工以来開けたことのない空間にも燃料が搭載できるよう、突貫工事が行われた[39]。また、偽装煙突を取り付けた[39]。7月22日からの第2次作戦は奇跡的に成功し、418名を収容して幌筵島に帰投した[39]。
北方作戦の終了後は瀬戸内海での訓練任務に戻るが、その途中の8月9日から15日まで横須賀で魚雷発射管の改装が行われ、九三式魚雷の搭載が可能となった[40]。その後は瀬戸内海に移ったが、魚雷発射訓練中に駆逐艦「島風」の発射した魚雷1本が誤って命中するという事故に遭い、再び横須賀に回航されて9月11日から16日の間に修理が行われた[41]。この修理では、艦橋前の13ミリ連装機銃の25ミリへの換装が実施された[41]。修理後は9月15日付で編入された、関東軍輸送のための丁二号輸送部隊に属し[40][42]、水上機母艦「秋津洲」、特設潜水母艦「平安丸」(日本郵船、11,616トン)とともに横須賀を発って上海に回航ののち[43]、9月20日に上海を出撃して10月8日まで部隊の護衛にあたった[44][45]。11月上旬にジャカルタ方面を行動したあと[46]、12月には陸軍部隊をトラックからミレ島およびクサイ島まで輸送[33]。12月20日付で連合艦隊付属となり、12月27日に空母「飛鷹」および「龍鳳」を護衛してトラックを出撃、1944年1月2日に呉に到着した[40]。
1944年
[編集]1月6日、「電」および「薄雲」とともにマニラへの航空機輸送任務を行う空母「海鷹」と「神鷹」の護衛のため佐伯を出港するが、「神鷹」の機関不調により輸送作戦は一時中止となった[47]。12日に「神鷹」と「薄雲」を外して再度佐伯を出撃し、1月16日にマニラに到着[48]。以後シンガポール、タラカン島、パラオを経て2月11日にトラックに到着し、2日後の13日にトラックを出港して19日に呉に帰投した[48][49]。2月23日からは再び「電」と組んで空母「千代田」による輸送作戦の護衛にあたり、特設運送船(給油)「国洋丸」(国洋汽船、10,026トン)を加えて3月1日に横須賀を発ち、サイパン島、グアム、パラオ、バリクパパンと寄港[48][49]。その途中の3月18日には、タウィタウィ近海でアメリカ潜水艦「ガンネル」 (USS Gunnel, SS-253) に発見されるが、「ガンネル」は9,000ヤードより距離を縮めることができず、逆に「電」と共同で爆雷を投下して「ガンネル」を追い払った[50][51][52]。バリクパパンで燃料補給ののち、東進してパラオに向かう途中の3月22日に再び「ガンネル」に発見されるも、11,000ヤード離れて15ノットで航行されては、「ガンネル」にとっては手の尽くしようもなかった[52][53][54]。3月27日にパラオを出港して再度バリクパパンに向かい、給油ののちダバオに向かった[54]。その後は4月4日にダバオを出港して4月10日に呉に帰投[54]。「電」とともに呉海軍工廠で4月10日から30日まで修理を行い、この時に二番砲塔を撤去し25ミリ単装機銃2基が増備された[48][55][56]。また、この修理までに25ミリ連装機銃2基や二二号電探の装備も行われた[56]。
5月3日、「電」とともにヒ61船団に加入し、六連島沖を出撃[57][58]。5月9日にマニラに到着後、3隻の特設運送船(給油)、「日栄丸」(日東汽船、10,021トン)と「建川丸」(川崎汽船、10,090トン)、「あづさ丸」(石原汽船、10,022トン)は第一機動艦隊(小沢治三郎中将)への補給任務のためマニラでヒ61船団から分離し、引き続き「電」とともに護衛にあたることとなった[48][57][59]。5月11日にマニラを出港してバリクパパンに向かう[58]。3日後の5月14日未明、「電」と艦の位置を交代した直後[60]、北緯05度03分 東経119度36分 / 北緯5.050度 東経119.600度のシブツ海峡に差し掛かったところで「電」がアメリカ潜水艦「ボーンフィッシュ」 (USS Bonefish, SS-223) の雷撃により沈没し、「電」乗員や1952年(昭和27年)に「アリチアミン」を発見した藤原元典を含む第六駆逐隊関係者[61]合わせて121名を救助[62][63]。「電」の喪失により、第六駆逐隊は6月10日に解隊した[60]。
6月も引き続いて第一機動艦隊に関わる行動に参加し、6月8日にアメリカ潜水艦「ヘイク」 (USS Hake, SS-256) の雷撃で沈没した「風雲」の乗員救助にも出動した[64]。マリアナ沖海戦に際しては第一補給部隊に属し、6月14日にダバオを出撃[65]。駆逐艦「浜風」、「響」、「時雨」、「白露」、「秋霜」の5隻で油槽船3隻(清洋丸、日栄丸、玄洋丸)を護衛する[66]。6月15日午前2時40分、「白露」は船団内に迷い込み、「清洋丸」と衝突して爆沈した[67]。
6月18日以降、「浜風」「時雨」「秋霜」が機動部隊本隊に合流し、代艦として駆逐艦「雪風」や特務艦「速吸」などが合流した[68][69]。海戦第2日の6月20日に第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機による空襲を受けて4名が戦死、6名が重傷を負った[70]。海戦後、7月2日にマニラに入港[71]。「藤波」および「夕凪」とともに特設運送艦「旭東丸」(飯野海運、10,051トン)から補給を受けたのち[72]。7月10日に「速吸」および「旭東丸」と船団を組んで「藤波」および「夕凪」ともに護衛にあたってマニラを出港、サンベルナルジノ海峡および紀淡海峡経由で7月17日に呉に帰投した[71][73]。帰投直後から27日まで呉海軍工廠で25ミリ単装機銃12基と一三号電探の増備工事が行われる[74]。7月26日付で敷設艦「白鷹」などとともに支那方面艦隊付属となり、8月1日にモ05船団を護衛して門司を出港する[75]。この船団には、悲劇の主役として知られる陸軍徴傭船「対馬丸」(日本郵船、6,754トン)や、「対馬丸」と同じ船団に属した陸軍輸送船「和浦丸」(三菱汽船、6,804トン)と「暁空丸」(拿捕船、6,854トン)も加入しており[74][75]、8月11日上海入港の間まで護衛にあたる[74]。8月15日付で第一海上護衛隊付属となって門司に帰投後、8月19日にミ15船団護衛のため門司を出撃[74][76]。8月25日に高雄に到着後、船団の編成替えによりミ15船団の護衛任務から外れた[76]。
高雄沖の触雷
[編集]9月5日夜、フィリピン防衛にあたる第八師団の兵員および軍需品を輸送するタマ25船団を護衛して高雄を出撃する[74][77]。ところが、翌6日未明に船団が琉球嶼近海に差し掛かったところで、輸送船「永治丸」(日本郵船、6,968トン)が触雷して船体が二つ折れとなって爆沈[74][77][78]。「永治丸」から脱出した陸軍兵士を救助しようと「永治丸」に接近したところ[79][出典無効]、8時45分ごろに艦首部で爆発が起こり、10名が戦死して一番砲塔直後の左舷部を大破、艦首は前方に向けて約25度垂れ下がった[74][80]。また、触雷の衝撃で艦体全体にも少なからぬ損傷を受けた[81]。後進により高雄に下がったあと、9月9日から11日まで左営で一番砲塔撤去を含む応急修理が行われた[74]。この損傷により、1944年10月のレイテ沖海戦に参加することはなかった。この損傷については「潜水艦の雷撃によるもの」という説があり、元技術少佐で艦艇研究家の福井静夫がこの説を支持しているほか[81]、アメリカ側記録では同じ日の「ヘイク」の攻撃が結び付けられているが[82]、攻撃状況や位置が大きく異なっている[83]。
9月28日に馬公に後送されて引き続き応急修理が行わるが、入渠中にもしばしば対空戦闘を余儀なくされて戦死者を出す[84]。11月3日にいたってさらに基隆に下がることとなって翌4日に馬公を出港、排水作業を行いながら北上し、5日に基隆に到着した[85]。この基隆停泊中、天候不順により乗員に赤痢患者が発生した[86]。そのような状況の中、ヒ72船団加入中に爆撃を受けて損傷し11ノットの速力しか出せなくなっていた特設運送船「護国丸」(大阪商船、10,438トン)[87]の護衛を担当。11月7日に相前後して日本本土に向かうことになったが、艦内で赤痢がいっそう蔓延して、一刻も早く佐世保に急がなければならなくなる事態が訪れる[88]。間もなく「護国丸」と別れて11月9日に佐世保に到着[89]。呉を経由して11月16日に横須賀に帰投するも、ただちに磯子区長浜[注釈 4]の検疫錨地に回航されて隔離された[90][91]。一切の消毒を終えたあとの12月10日に横須賀に向けて回航された[91]。
なお、単独航行となった「護国丸」は11月10日未明、古志岐島近海を単独航行中にアメリカ潜水艦「バーブ」 (USS Barb, SS-220) の雷撃を受けて沈没した。
1945年
[編集]検疫終了後に横須賀で修理が行われ[92]、1945年1月14日に横須賀に帰投した「潮」の一番砲塔を移設して1月20日ごろに終えた[93]。1月23日に呉に回航後、1月25日付で連合艦隊付属を解かれて第二艦隊第二水雷戦隊(古村啓蔵少将)第七駆逐隊に編入、「回天」との共同訓練を含む諸訓練を行った[94][95]。2月18日からは呉海軍工廠で整備が行われ、3月19日の呉軍港空襲を挟んで25ミリ単装機銃などの増備工事が行われる[1]。一連の工事は3月26日の天一号作戦の発動で打ち切りとなり、3月28日の呉を出港して広島湾に移動、翌3月29日にいたり、戦艦「大和」の沖縄水上特攻作戦に加わることとなって、駆逐艦長福島栄吉中佐から乗員にも作戦の説明があった[96]。
ところが、「大和」以下諸艦と共に三田尻沖に移動中の午前9時ごろ、周防灘姫島灯台の314度14.3海里地点を6ノットから9ノットで航行中に後檣直下付近に触雷して航行不能となる[97][98]。艦内の電源が切れて電探も破損し、僚艦「朝霜」に護衛されて呉に帰投することになったが[注釈 5]、夕刻になって速力8ノットから9ノットの発揮が可能となり、自力で呉に向かった[98][100][101]。「朝霜」は無事を見届けて去り、4月7日の水上特攻で第二水雷戦隊は「初霜」、「冬月」、「涼月」および「雪風」を残して壊滅。「朝霜」も交戦前に機関故障を起こして艦隊から落伍し、いずれも第58任務部隊艦載機の攻撃で沈没して全員戦死した。触雷して修理中でなければ「響」も参加していたところであった[102][103]。被害は艦体全体にゆがみが生じ、特に重油タンクの破損による漏油は行動に支障ありと判定される[104]。修理の指揮には、当時呉海軍工廠にいた福井静夫が担当した[105]。
4月20日付で第二水雷戦隊は解隊。5月5日付で第7駆逐隊も解隊される[106]。「響」は警備駆逐艦に指定され[107]、同日附で編成された第一海上護衛艦隊第一〇五戦隊に編入された。5月16日に呉を出港し、5月26日に舞鶴へ到着した[108]。その後6月26日に舞鶴を出港して七尾湾経由、7月1日に新潟港沼垂岸壁へ回航されて防空砲台となった[109]。また、新潟近海にも投下された機雷の掃海に関する講習や訓練に従事し、乗員は疎開作業の手伝いなども行った[110][111]。8月15日の終戦当日の早朝にもアメリカ軍機との戦闘で25ミリ機銃を発射し、水交社として借り上げていた旅館に宿泊中の福井が、その音を聞いて目を覚ましている[112]。
終戦後
[編集]終戦後、9月1日に舞鶴に回航されて武装解除の上で復員輸送艦に指定され、復員輸送に従事する[110]。復員輸送艦としては14回行動し、第1回は10月2日に舞鶴を発ってヤップ島に向かい、グアム経由で10月19日に浦賀に到着[113]。この第1回目の航海では兵装はそのままであったが、航海終了後に石川島造船所で兵装の切断作業が行われた[114]。以降、11月から1946年1月の2回目と3回目でトラック[115]、1月の4回目でテニアン島[116]、2月の5回目でパラオ[117]、3月の6回目でラバウルに向かう[117]。3月31日に大阪湾で触雷するも軽微な損害ですみ、三井造船玉造船所で修理が行われる[118]。修理後は4月から5月の第7回で再度ラバウル[119]、5月から6月の第8回でサンジャックおよびバンコク[119]に向かったあと、7月の第9回から10月の第14回までは胡蘆島との間を往復した[120]。
賠償艦として
[編集]復員輸送艦の任務を解かれたあとは特別保管艦として長浦港に係留され[121]、抽選の結果、賠償艦としてソビエト連邦に引き渡されることとなった[110]。1947年7月5日、ナホトカ[110][122]でソ連側に引き渡された。この時、残留乗員がソ連側乗員に対して各種操作法を指導したが、機関関係についてはソ連側乗員に蒸気タービンに関する知識が少なかったらしく、指導に対してただ驚くばかりで自分たちで動かそうともしなかった[123]。
7月7日にはウラジオストクへ回航され、7月22日にはヴェールヌイ(Верный /ˈvʲernɨj/ ヴィェールヌィイ)と改称された。これは、「真実の、信頼できる」といった意味のロシア語の形容詞である。10月には引き渡された旧日本艦の調査が行われたが、居住性の悪さや復員輸送後に整備されなかった事による状態の悪さが問題となり、武装解除されていたことも相まって「ソ連軍艦として運用するには大掛かりな改造が必要である」と結論付けられた。しかしどの艦も技術資料は日本側によって処分されており、ソ連の造船技術者達の対応を悩ませた[124]。
1947年11月、ソ連海軍は海軍第1研究所のザイツェフ中佐を団長とした旧日本艦の運用調査団を編成し、翌1948年6月、調査団の報告に基いてソ連海軍は艦艇配分を指示した。この際ヴェールヌイは第5艦隊(後に第7艦隊と統合して太平洋艦隊)に練習艦として配属される予定となった[124]。7月5日には第一線を退き、練習船に種別を変更された[110][125]。同時に、艦名もデカブリスト(Декабрист /dʲɪkɐˈbrʲist/ ヂカブリースト)に改められた[110][125]。これは、ロシアにおける革命運動の端緒となった12月党の乱の参加者のことである。デカブリストを含め旧日本艦の多くは補助的な任務に当てられていたが、これは当時ソ連極東部にあった造船所の能力が低く、大規模な工事ができないためであった。ただし、有事には武装を強化して警備艦として運用する計画もあり、1949年1月にはソ連海軍総司令部作戦局により、旧日本艦の再兵装案が作成された。計画されたデカブリストの再兵装案は以下の通りである[126]。
- B-13-2s型130mm単装砲4基
- V-11型37mm連装機銃2基
- 70K型37mm単装機銃2基
- 533mm3連装魚雷発射管1基
- BMB-2型爆雷投射機2基
- MBM-24型対潜ロケット発射機1機
しかし改造費用が多額になること、造船所の整備対応能力が欠けていたことから造船省の首脳部が旧日本艦の工事を拒否し、艦政局も本格的な改造を諦めて最低限の工事を施すことにした[126]。この工事は新たに第5艦隊下へ編成された特務設計局の指示のもと、海軍傘下の造船所にて行われたが、整備能力は著しく下がることとなった[127]。1949年末には後方組織が再編された際に何故か特務設計局が解体されてしまい、1950年末に再設置される事態も起こった[125]。1951年からは造船省傘下の造船所も工事へ協力するようになったが、予算不足により旧日本艦の改造工事は捗らなかった[127]。最終的に1952年には、予算不足と造船所の能力不足からデカブリストを練習艦へ改造することが諦められ、海軍航空部隊の標的曳航船として運用された[127]。1953年2月20日には老朽化を理由に除籍[110]。その後西側には長らく消息不明で除籍時に解体されたと思われていたが2010年代になってから1970年代に海軍航空隊の標的艦として処分、ウラジオストク沖のカラムジナ島岸に眠っていることが判明した[128][129]。現在ではダイビングツアーも行われている。
なお、ヴェールヌイという艦名は第5艦隊に所属した30-bis型駆逐艦に受け継がれている。また、同じ艦名を持つ艦艇としては海上自衛隊の音響測定艦「ひびき」が挙げられる。但し、これは特型駆逐艦の名称を受け継いだというよりはその任務からの命名、および名所の響灘に由来する。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』290-291頁による。
艤装員長
[編集]- 江口松郎 少佐:1932年11月15日 - 1933年1月30日[130]
艦長
[編集]- 江口松郎 中佐:1933年1月30日 - 1934年8月1日[131]
- 江戸兵太郎 中佐:1934年8月1日 - 1935年11月21日
- 阪匡身 中佐:1935年11月21日 - 1936年12月1日
- 井上良雄 少佐:1936年12月1日 - 1937年5月1日[132]
- (兼)竹内虎四郎 少佐:1937年5月1日[132] - 1937年7月13日[133]
- 柴勝男 少佐:1937年7月13日 - 1937年11月1日[134]
- 溝畠定一 少佐:1937年11月1日 - 1938年12月1日[135]
- 岡本次郎 少佐:1938年12月1日 - 1939年10月15日[136]
- 岡三知夫 少佐:1939年10月15日 - 1940年10月15日[137]
- 林利作 少佐:1940年10月15日 - 1941年9月25日[138]
- 石井励 少佐:1941年9月25日 -
- 工藤俊作 少佐:1942年8月13日 -
- 森卓次 少佐:1942年12月10日 -
- 福島栄吉 中佐:1943年11月25日 -
- 薗田肇 少佐:1945年7月18日 -
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b #田村 (11) p.158
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- 手塚正己『軍艦武藏 上巻』新潮文庫、2009年。ISBN 978-4-10-127771-4。
- 宮川正ほか『証言昭和の戦記*リバイバル戦記コレクション憤怒をこめて絶望の海を渡れ』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0497-0。
- 宮川正『憤怒をこめて絶望の海を渡れ "不死鳥"の異名をとった駆逐艦「響」激闘一代記』
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集16 駆逐艦 吹雪型[特型]』光人社、1997年
- Погружение на эсминец «Хибики» с клубом «Турсио» / Safty-Stop
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Эскадренный миноносец "Верный"
- Погружение на эсминец «Хибики» с клубом «Турсио»(現在の響の画像)
- 2016年に日本人がダイビングした時のニュース映像 - YouTube
- “<連載>〝不死鳥〟の駆逐艦「響」激闘一代記 記事一覧”. 産経ニュース (2022年12月7日). 2023年5月18日閲覧。