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[[画像:Voelker Europas.jpg|thumb|350px|「'''黄禍'''」({{Lang-de-short|''gelbe Gefahr''}})を世界に知らしめた寓意画"''{{仮リンク|ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な宝を守れ|de|Völker Europas, wahrt eure heiligsten Güter}}''"。[[ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の図案をもとに、歴史画家{{仮リンク|ヘルマン・クナックフース|de|Hermann Knackfuß|en|Hermann Knackfuss}}が描いたこの絵は、当時の[[ヨーロッパ]]の[[日本]]や[[中国]]([[清|清朝]])に対する警戒心を端的に表したイラストである。右手の田園で燃え盛る炎の中に[[仏陀]]がおり、左手の[[十字架]]が頭上に輝く高台には、[[ブリタニア (女神)|ブリタニア]]([[イギリス]])、[[ゲルマニア (擬人化)|ゲルマニア]]([[ドイツ]])、[[マリアンヌ]]([[フランス]])など[[ヨーロッパ]]諸国を擬人化した[[女神]]たちの前で[[キリスト教]]の[[大天使]][[ミカエル]]が戦いを呼び掛けている。]]
[[Image:YellowTerror.jpg|thumb|"The Yellow Terror In All His Glory", 1899 editorial cartoon]]
'''黄禍論'''(こうかろん、おうかろん<ref>[http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/bun45dict/dict-html/01310_YellowPeril.html 黄禍論(こうかろん、おうかろん)] オーストラリア辞典 - [[大阪大学]]大学院西洋史学研究室</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=竹沢泰子 |date=2013-02 |title=<講演5>日本人移民の歴史と多文化共生社会の明日 |journal=京都大学 附置研究所 ・センター シンポジウム : 京都からの提言-21世紀の日本を考える(第7回) 「明るい未来像」 |volume=7 |publisher=京都大学「京都からの提言」事務局 |url=https://hdl.handle.net/2433/172940}}</ref>、{{Lang-de-short|'''Gelbe Gefahr'''}}、{{lang-en|'''Yellow Peril'''}})とは、[[19世紀]]後半から[[20世紀]]前半にかけて[[ヨーロッパ]]・[[北アメリカ]]・[[オーストラリア]]などの[[欧米]][[国家]]において現れた、[[日本人]]脅威論。[[人種差別]]の一種とされる。
[[File:The Yellow Menace.jpg|thumb|''The Yellow Menace'' (1916)]]
'''黄禍論'''(おうかろん / こうかろん、{{lang-en|'''Yellow peril'''}})とは、[[19世紀]]半ばから[[20世紀]]前半にかけて[[ヨーロッパ]]・[[北アメリカ]]・[[オーストラリア]]などの[[コーカソイド|白人]][[国家]]において現れた、[[黄色人種]]脅威論。[[人種差別]]の一種。


== 解説 ==
== 概要 ==
[[日清戦争]]([[1894年]])における[[日本]]による[[中国大陸]]への軍事的な進出をきっかけに、同様に中国大陸に進出していた[[ロシア]]・[[ドイツ]]・[[フランス]]に広がった[[政治哲学|政策思想]]である<ref>桑原隲蔵、『東洋史説苑』、弘文堂書房、1927年、黄禍論の由来、18頁</ref>。[[フランス第三共和政|フランス]]では[[1896年]]の時点でこの言葉の使用が確認されており、[[ドイツ帝国]]の[[ドイツ皇帝|皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が広めた寓意画『{{仮リンク|ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な宝を守れ|de|Völker Europas, wahrt eure heiligsten Güter}}』によって世界に広がった<ref>{{Harvnb|飯倉|2013|pp=58-60}}</ref>。日清戦争に続く[[日露戦争]]や[[日独戦争]]の日本勝利で欧州全体に広まったとされる<ref name="yellow2013"/><ref>[https://1000ya.isis.ne.jp/0686.html 平川祐弘『和魂洋才の系譜』] - [[松岡正剛]]の[[千夜千冊]]、2002年12月24日</ref>。主な論者に{{Lang-de-short|''gelbe Gefahr''}}(「黄禍」)というスローガンを掲げた[[ドイツ帝国]]の[[ドイツ皇帝|皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が挙げられる。[[1900年]]の[[義和団の乱|北清事件]](義和団の乱)後、[[清]]内乱の暴力傾向と宗教的な差異を関連付ける形でドイツ国内で報道された。
主な論者に{{Lang-de-short|''gelbe Gefahr''}}(「黄禍」)というスローガンを掲げた[[ドイツ]]の[[プロイセン国王|皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が挙げられる。


古来白人は、[[モンゴル帝国]]をはじめとした東方系民族による侵攻に苦しめられてきた。そのため黄色人種は、[[ロシア帝国]]においては[[タタールのくびき]]として、また、西ヨーロッパでは[[反キリスト|アンチキリスト]]がアジアから現れると信じられ、共に恐れられてきた。
[[大航海時代]]以前に[[モンゴル帝国]]をはじめとした東方系民族による侵攻に苦しめられた白人は、黄色人種を[[モンゴロイド]]と称した。[[キタイ (地理的呼称)|キタイ]]という言葉の直接の意味は、[[10世紀]]頃に[[華北]]にて[[遼]]朝を建国した[[遊牧民族]]「[[契丹]]」を指すが、[[ロシア語]]においては(現在も含めた)「[[中国]]」を意味し、北方への対外侵略を常としてきた契丹と同一視することで警戒・畏怖する意味も込められている<ref>{{Cite news |title=ロシア語に「奴は中国人百人分くらい狡い」という言葉がある |author=[[佐藤優 (作家)|佐藤優]] 述 |newspaper=NEWSポストセブン |publisher=小学館 |date=2010-10-30 |url=https://www.news-postseven.com/archives/20101030_4461.html?DETAIL |accessdate=2018-05-04}}</ref>。そのため黄色人種は、[[モスクワ大公国]](後の[[ロシア帝国]]においては[[タタールのくびき]]として、また、[[西ヨーロッパ]]では[[反キリスト|アンチキリスト]]がアジアから現れると信じられ、共に恐れられてきた。[[近衛篤麿]]が同人種同盟論を唱えたように、仮に日中さらにはインドが連携した場合、絶大な人口を誇る勢力となるため、欧米は離間工作を繰り返してきた<ref>[https://book.asahi.com/article/13927961 「黄禍論」書評 アジア諸国への恐怖、百年の歴史|好書好日]</ref>


近代の黄禍論で対象とされる民族は、主に[[中国人]][[日本人]]<!--[[朝鮮人]]は中国人や日本人ほどの恐怖の対象だったのだろうか? 欧州にとっては眼中になかったのでは-->である。と国ではいわゆる[[中国人排斥法]]など露骨な立法に顕われ、影響が論じられる。
近代の黄禍論で対象とされる民族は、主に[[中国人]][[日本人]]である。このこは特[[アメリカ合衆]]では[[1882年]]に制定された[[中国人排斥法|排華移民法]]や[[1924年]]に制定された[[排日移民法]]など[[反日]]的[[立法]]に顕われ、影響が論じられる。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[画像:YellowTerror.jpg|260px|thumb|"The Yellow Terror In All His Glory"([[1899年]])と題された、黄禍に関する諷刺画。[[辮髪]]の[[中国人]]が女性を踏みつけにしている。]]
=== ヨーロッパ ===
[[画像:The Yellow Menace.jpg|260px|thumb|''The Yellow Menace'' ([[1916年]]9月)]]
[[File:Voelker Europas.jpg|thumb|250px|"''[[:de:Völker Europas, wahrt eure heiligsten Güter|Völker Europas, wahrt eure heiligsten Güter]]''"(ヨーロッパの各民族よ、諸君らの神聖な富を守れ)。ヴィルヘルム2世の図案をもとに歴史画家ヘルマン・クナックフースが描いたこの絵は、当時のヨーロッパの日本や中国に対する警戒心を端的に表した有名なイラストであり、後に様々なパロディも作られるほどであった。またこの絵はヴィルヘルム2世からロシア皇帝ニコライ2世への贈りものともなった。右手の田園で燃え盛る炎の中に[[ブッダ]]がおり、左手の高台には、[[ブリタニア (女神)|ブリタニア]]、[[ゲルマニア (擬人化)|ゲルマニア]]、[[マリアンヌ]]など欧州諸国を擬人化した女神たちの前で大天使[[ミカエル]]が戦いを呼び掛けている]]
'''黄禍'''というスローガンは、[[日清戦争]]前後の[[1894年]]から[[1895年]]にかけて[[新聞]]、[[パンフレット]]、雑誌などのマスメディアに流布するようになった<ref>{{Harvnb|ゴルヴィツァー|1999|p=41}}</ref>。それ以前に、黄禍という言葉こそ使っていないものの、中国人の脅威を説いた[[ミハイル・バクーニン]]の例が見られる<ref>{{Harvnb|橋川|2000|pp=17-20}}</ref>。その後、[[1900年]]の[[義和団の乱]]勃発まではドイツ帝国国内でさえ「黄禍」という言葉はほとんど無視され、対照的に[[ライン川]]の西の[[フランス第三共和政|第三共和政下]]の[[フランス]]では[[1896年]]から[[1899年]]の間、言論界で「黄禍」がしばしば論じられた<ref>{{Harvnb|ゴルヴィツァー|1999|pp=42f}}</ref>。
黄禍というスローガンは、[[1895年]]の[[フランス]]で発生したと推定されている。その後、ドイツの皇帝ヴィルヘルム2世が黄禍論をスローガンとして使用したときは、プロイセン国内でさえほとんど無視されていた。ところが、[[1900年]]に[[義和団]]の乱が起こり、[[1904年]]に[[日露戦争]]が起ると、まず、イギリスで黄過論が頻繁にジャーナリズムに登場するようになり、それがロシア、フランスに波及していった<ref>上掲『黄過論とは何か』</ref>。


[[ハインツ・ゴルヴィツァー]]は著書、『黄禍論とは何か』にて、「'''黄禍'''」は[[1895年]]にライン川の西で発生し、拡散していったと推定している<ref>{{Harvnb|ゴルヴィツァー|1999|p=43}}</ref>。
[[1934年]]に[[ファシスト党|ファシスタ]]・[[イタリア王国|イタリア]]の[[ドゥーチェ|統領]]、[[ベニート・ムッソリーニ]]は、[[1931年]]の[[満洲事変]]勃発以後の[[イタリア]]の[[中華民国]]支持政策や、[[エチオピア]]への領土的な野心から発した当時の[[日本]]とエチオピアの関係拡大への対抗から、[[日本人]]に対して黄禍論を表明して駐伊日本[[特命全権大使|大使]]の[[杉村陽太郎]]と衝突している<ref>[[岡倉登志]]「第29章 「東アフリカ帝国構想」に抗して――第二次イタリア-エチオピア戦争」『エチオピアを知るための50章』岡倉登志編著、明石書店〈エリア・スタディーズ68〉、東京、2007年12月25日、初版第1刷、211頁。</ref><ref>[[古川哲史]]「第44章 「第二の満洲事変」をめぐって――第二次イタリア-エチオピア戦争」『エチオピアを知るための50章』岡倉登志編著、明石書店〈エリア・スタディーズ68〉、東京、2007年12月25日、初版第1刷、307-308頁。</ref>。

まず、イギリスで黄禍論が頻繁にジャーナリズムに登場するようになり、それがロシア、フランスに波及していった<ref>{{Harvnb|ゴルヴィツァー|1999}}</ref>。

フランスの[[アナトール・フランス]]は、黄禍論の横行する世相の中、[[1904年]]に発表した[[小説]]『{{仮リンク|白い試金石|fr|Sur la pierre blanche}}』の中で、ヨーロッパの「白禍」こそが「黄禍」を生み出したのだと主張し、反植民地主義を唱えた<ref>{{Harvnb|ゴルヴィツァー|1999|pp=168-171}}</ref>。

[[ロナルド・ノックス]]は、[[推理小説]]を書く際のルールとして1928年に発表した[[ノックスの十戒]]において「主要人物として中国人を登場させてはならない」を追加したが、その理由として「われわれ西欧人<ref>ノックスはイギリス人。</ref>のあいだには、“中国人は頭脳が優秀でありながら、モラルの点で劣る者が多い”との偏見が根強い」と説明している<ref>{{Cite book|和書|title=探偵小説十戒――幻の探偵小説コレクション|date=1989年1月31日|publisher=晶文社|pages=5-16|author=ロナルド・ノックス|isbn=4-7949-5797-1|editor=宇野利泰; 深町眞理子訳}}</ref>。

=== ドイツ ===
「'''黄禍'''」という言葉が生まれる以前の黄禍思想は[[日清戦争]]の[[下関条約|講和条約]]に際して[[ロシア]]、[[ドイツ]]、[[フランス]]の三国が[[1895年]][[4月23日]]に行った[[三国干渉]]によって広まった<ref>{{Harvnb|飯倉|2013|pp=45-48}}</ref>。[[ヒューストン・ステュアート・チェンバレン]]の人種理論の影響を受けた<ref>{{Harvnb|橋川|2000|p=22}}</ref>[[ドイツ帝国]]の[[ドイツ皇帝|皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]は「'''黄禍'''」を説くことによって、それまでの[[汎スラヴ主義]]と[[汎ゲルマン主義]]の対立によってドイツと敵対していたロシアを[[極東]]に釘付けし、更にロシアと同盟関係にあったフランス相手にドイツのヨーロッパにおける立場を有利にすることを画策したのであった<ref>{{Harvnb|飯倉|2013|pp=48f}}</ref>。三国干渉と同年の1895年の秋にヴィルヘルム2世は自らが原画を描き、宮廷画家{{仮リンク|ヘルマン・クナックフース|de|Hermann Knackfuß}}が仕上げた寓意画「{{仮リンク|ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ!|de|Völker Europas, wahrt eure heiligsten Güter}}」を[[ロシア帝国]]の[[ロシア皇帝|皇帝]][[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]に贈呈し、さらにその複製がフランスの[[フェリックス・フォール]][[フランスの大統領|大統領]]、[[アメリカ合衆国]]の[[ウィリアム・マッキンリー]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]らに配布され、この寓意画のイメージは[[西洋]]世界に黄禍論を普及させるに至った<ref>{{Harvnb|飯倉|2013|pp=51-53}}</ref>。

ところが、[[1900年]]に[[義和団の乱]]が勃発すると、ヴィルヘルム2世は同1900年[[7月6日]]に[[キール (ドイツ)|キール]]港にて義和団の乱に派遣される[[ドイツ軍]]将兵に対して「{{仮リンク|匈奴演説|de|Hunnenrede}}」(フンネンレーデ)と呼ばれる黄色人種排斥演説を行い、7月に行われた幾度かの演説の中でドイツ皇帝は清国の兵士をドイツ軍が[[捕虜]]にする必要はないことなどを訴え、このヴィルヘルム2世の過激な言動は他の西洋諸国からも批判を受けた<ref>{{Harvnb|飯倉|2013|pp=87f}}</ref>。

さらに[[1904年]]に[[日露戦争]]が勃発すると、ヴィルヘルム2世はアメリカ合衆国の[[セオドア・ルーズベルト]]大統領に対し、日露戦争が黄白人種間の[[人種]]戦争であることを訴えた<ref>{{Harvnb|飯倉|2013|pp=133f}}</ref>。[[1905年]][[9月5日]]に日露戦争の講和条約である[[ポーツマス条約]]が締結された際には、翌[[9月6日]]の『ニューヨーク・タイムズ』紙のインタビューにてヴィルヘルム2世はドイツ外交当局の意図を超えて'''黄禍'''を訴え、日露戦争の勝利によって[[列強]]間の[[門戸開放政策]]を崩しかねない日本をアメリカ合衆国の力で抑制しようと試みている<ref>{{Harvnb|飯倉|2013|pp=142f}}</ref>。

[[第一次世界大戦]]が勃発し、[[中央同盟国]]の一国であるドイツに対し、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]の一国として[[日本]]が参戦して[[日独戦争]]が起きると、ドイツでは黄禍感情がよみがえり、雑誌『{{仮リンク|ルスティゲ・ブレッター|de|Brynolf Wennerberg#Lustige Blätter}}』や『{{仮リンク|ヴァーレ・ヤーコプ|de|Der Wahre Jacob}}』にはヴィルヘルム2世の寓意画、「{{仮リンク|ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ!|de|Völker Europas, wahrt eure heiligsten Güter}}」をパロディにした対日風刺画が掲載された<ref name=yellow2013>{{Harvnb|飯倉|2013|pp=184-189}}</ref>。

=== イタリア ===
[[ファシスト党|ファシスタ]]・[[イタリア王国|イタリア]]の[[ドゥーチェ|統領]]、[[ベニート・ムッソリーニ]]は、[[1931年]]の[[満洲事変]]勃発以後の[[イタリア]]の[[中国]]支持政策や、[[エチオピア]]への領土的な野心から発した当時の[[日本]]とエチオピアの関係拡大への対抗から、[[1934年]]に[[日本人]]に対して黄禍論を表明し、[[杉村陽太郎]]駐伊日本[[特命全権大使|大使]]と衝突している<ref>{{Harvnb|岡倉|2007|p=211}}</ref><ref>{{Harvnb|古川|2007|pp=307f}}</ref>。だが、その後の[[第二次世界大戦]]では、[[ナチス]]ドイツとともに[[日独伊三国同盟]]を締結し、[[枢軸国]]の一員として日本とは友好関係に転じた。


=== アメリカ合衆国 ===
=== アメリカ合衆国 ===
{{See also|排日|:en:Anti-Japanese sentiment in the United States}}
19世紀半ば、[[清|清朝]]が衰退し、[[イギリス]]をはじめ西洋諸国によって半[[植民地]]の状態におかれた[[中国]]では、安定した生活を求め海外に移住する者が出始めた。ちょうどこのころ[[カリフォルニア州]]で金鉱が発見され[[ゴールドラッシュ]]に沸きかえっていた。それもあって西部開拓が推し進められ、[[大陸横断鉄道]]の敷設が進められた。金鉱の鉱夫や鉄道工事の工夫として多くの中国人労働者が受け入れられた。
[[File:Yellow peril rupert.jpg|thumb|260px|[[1911年]]に刊行された[[アメリカ合衆国]]の[[キリスト教]][[ディスペンセーション主義|ディスペンセーション主義者]]、{{仮リンク|G・G・ルパート|en|G. G. Rupert}}の著書"''The Yellow Peril''"(『''黄禍''』)の第三版。]]
[[ファイル:Tokio Kid Say 2.jpg|サムネイル|アメリカの反日[[プロパガンダ]]]]
[[19世紀]]半ば、[[清|清朝]]が衰退し、[[イギリス]]をはじめとする[[西洋]]諸国によって半[[植民地]]の状態におかれた[[中国]]では、安定した生活を求め海外に移住する者([[華僑]])が出始めた。


ちょうどこの頃、[[1848年]][[1月24日]]に当時はまだ[[メキシコ]]の一部であった[[カリフォルニア州]]で[[金]][[鉱山]]が発見され[[ゴールドラッシュ]]に沸き返っていた([[カリフォルニア・ゴールドラッシュ]])。ゴールドラッシュによる好景気の影響もあって[[西部開拓時代|西部開拓]]が推し進められ、[[大陸横断鉄道]]の敷設が進められた。金鉱の鉱夫や鉄道工事の工夫として多くの[[中国人]]労働者が受け入れられた([[苦力]])。[[1860年代]]よりカリフォルニアの[[アイルランド人]]を中心とする白人労働者の間で反中国人[[苦力]]感情が高まっており、[[1869年]]には中国人を雇用する企業に対して「アングロサクソン保護委員会」<!--英語不詳。Heinz Gollwitzer "Die gelbe Gefahr" p.26 では "Comité zum Schutz der angelsächsischen Rasse"。同書中の出典35 "Bulletin de la Société de géographie" 1869/07 (SER5,T18)-1869/12. p.250 によると "le Comité pour Protecteur de la race anglo-saxonne"-->と称する組織が脅迫状を送っている<ref>[http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k37695f/f250.image "Bulletin de la Société de géographie"] (『[[パリ地理学会|地理学会紀要]]』) 1869/07 (SER5,T18)-1869/12. p.250</ref><!--<ref>{{Harvnb|ゴルヴィツァー|1999|pp=25f}}</ref>-->。
少し遅れて日本人が[[ハワイ]]に移住を始める。ハワイが米国に併合され、また、カリフォルニア開発の進展などにより農場労働者が必要になると、日系移民の米本国への移転が増加する。


[[1870年]]、帰化法が改正され({{仮リンク|Naturalization Act of 1870|en|Naturalization Act of 1870}})、帰化できる人種に「アフリカ系」が加えられた。これは[[南北戦争]]後の処理の一環であるが、[[チャールズ・サムナー]]らの人種による要件をなくす提案は拒否され、この条項はのちにアジア系を区別することに広く使われることになる<ref>{{Cite web |title=Naturalization Act Of 1870|website=[[:en:encyclopedia.com]] |url=https://www.encyclopedia.com/humanities/applied-and-social-sciences-magazines/naturalization-act-1870 |accessdate=2020-11-08}}</ref>。低賃金労働を厭わずに白人労働者と競争していた中国人労働者への反発から、[[1882年]]に[[中国人排斥法]]が制定された<ref>{{Harvnb|飯倉|2013|p=148}}</ref>。この1882年の中国人排斥法の成立はドイツと[[オーストリア]]の[[反ユダヤ主義|反ユダヤ主義者]]に思想的影響を与え、『[[新ドイツ民族新聞]](Neue Deutsche Volkszeitung)』やオーストリアの政治家、{{仮リンク|カール・ボイルレ|de|Karl Beurle}}は[[ユダヤ人]]を「[[ヨーロッパ]]の[[中国人]]」と呼んで攻撃する立場からこの法律に賛同する声明を発表している<ref>{{Harvnb|ゴルヴィツァー|1999|pp=184f}}</ref>。同じ差別を受ける者として中国人に擁護的であったユダヤ人作家である[[マーク・トゥエイン]]ですら、1905年には『黄色い恐怖の物語』を執筆している<ref>{{Citation |author=[[マーク・トゥエイン]] |last2=Watson |first2=Richard A. |origyear=1980 |date=2005-03-17 |title=The Devil's Race-Track: Mark Twain's "Great Dark" Writings, The Best from Which Was the Dream? and Fables of Man |publisher=University of California Press |edition=Paperback |isbn=978-0-520-23893-0 |url={{Google books|uLfR7-ETm0MC|The Devil's Race-Track |page=369 |plainurl=yes}}}}</ref>。
祖国では困窮しきっていた彼らは新天地での仕事に低賃金でも文句を言わず良く働いた。そのため[[イタリア]]系や[[アイルランド]]系(いずれも熱心な[[カトリック教会|カトリック]]教徒)などの白人社会では、下層を占めていた人々の雇用を奪うようになる。それが社会問題化し、黄禍論が唱えられるようになった。

少し遅れて19世紀後半に[[日本人]]が[[ハワイ]]に移住を始める。[[1898年]]に[[ハワイ併合|ハワイが米国に併合され]]、また、カリフォルニア開発の進展などにより農場労働者が必要になると、[[日系アメリカ人|日系移民]]のアメリカ合衆国本土への移転が増加する。

祖国では困窮しきっていた彼らは新天地での仕事に低賃金でも文句を言わず良く働いた。そのため[[イタリア系アメリカ人|イタリア系]]や[[アイルランド系アメリカ人|アイルランド系]](いずれも熱心な[[カトリック教会|カトリック教徒]])などの[[アメリカ合衆国の白人|白人社会]]では、下層を占めていた人々の雇用を中国人移民や日本人移民などの黄色人種が奪うようになった。それが社会問題化し、黄禍論が唱えられるようになった。

[[1880年代]]より[[北アメリカ]]本土のカリフォルニアに移住した日本人移民は[[1900年代]]初頭に急増し、急増に伴って中国人が排斥されたのと同様の理由で現地社会から排斥されるようになり、[[1905年]]5月には[[アジア排斥同盟|日本人・韓国人排斥連盟]]が結成された<ref>{{Harvnb|飯倉|2013|pp=148f}}</ref>。[[1906年]]4月の[[サンフランシスコ地震]]の後に悪化したカリフォルニアの対日感情のもつれは、[[1907年]]に日米当局による日本人移民の制限という形で政治決着した<ref>{{Harvnb|飯倉|2013|pp=149-157}}</ref>([[日米紳士協約]]<ref>{{Cite web |title=日米通商航海条約 |website=国立公文書館 アジア歴史資料センター |url=https://www.jacar.go.jp/learning/term.html?uid=Y30C200053 |accessdate=2020-11-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日本外交文書デジタルコレクション 対米移民問題経過概要 |website=外務省 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/tt-5.html |accessdate=2020-11-09}}</ref>)。この事件を契機に、アメリカ合衆国では「黄禍」は「日禍」として捉えられるようになった<ref>{{Harvnb|飯倉|2013|p=169}}</ref>。その後もアメリカ合衆国の対日感情は強硬であり、日系人が農業に多く進出していたカリフォルニア州で、土地の所有と3年以上の貸与を禁止する州法[[カリフォルニア州外国人土地法]]が[[1913年]]に制定され、[[第一次世界大戦]]後の[[1924年]][[7月1日]]に[[排日移民法]]が制定された。

1909年には{{日本語版にない記事リンク|ホーマー・リー|en|Homer Lea}}が『無智の勇気』(''The Valor of Ignorance'') を発表している{{refnest|group=注釈|同書は1911年(明治44年)に『日米必戦論』として全訳が発行された<ref>{{Harvnb|リー|1911a}}</ref>。また同年、池亨吉の抄訳で『日米戦争』として日本で発行された<ref>{{Harvnb|リー|1911b}}</ref><ref>{{Harvnb|橋川|2000|p=82}}</ref>。}}。

[[1980年代]]より[[日米貿易摩擦]]の激化に伴って[[ジャパンバッシング]]が起き、中国人移民である[[ビンセント・チン]]が[[白人]]に同じ黄色人種の[[日本人]]と間違えられて殺害され、加害者は懲役の執行猶予で服役することはなかった刑の軽さと(見当違いの)[[人種差別]]による殺人が大きな社会問題となって[[アジア系アメリカ人]]が権利を主張する契機となった<ref>{{Cite web |url=http://yellowworld.org/antiasian_violence/263.html |title=Remembering Vincent Chin |author=Alethea Yip |website=yellowworld.org |date=2005-03-04 |accessdate=2020-02-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050503085641/http://yellowworld.org/antiasian_violence/263.html |archivedate=2005-05-03}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://asiasociety.org/blog/asia/35-years-after-vincent-chins-murder-how-has-america-changed |title=35 Years After Vincent Chin's Murder, How Has America Changed? |website=Asia Society |language=en |date=2017-06-16 |accessdate=2019-10-15}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.tolerance.org/news/article_hate.jsp?id=552 |first=William|last=Wei |title=An American Hate Crime: The Murder of Vincent Chin|publisher=Southern Poverty Law Center |work=Tolerance.org |date=2002-06-14 |accessdate=2018-04-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070928023138/http://www.tolerance.org/news/article_hate.jsp?id=552 |archivedate=2007-09-28}}</ref>。

[[2019年]]に[[米中貿易戦争]]で米中の[[貿易摩擦]]の激化を受け、中長期的なアメリカの外交戦略を担う[[アメリカ国務省]][[政策企画本部]]が米中の対立を[[東西冷戦]]と異なる[[白人]]([[コーカサス人種]]、Caucasian)文明と[[中国文明]]の対立と位置付けることを表明した際は[[文明の衝突]]や[[人種|白色人種]]の優位性を説いたことに対して[[中国]]政府は反発した<ref>{{Cite news |url=https://wedge.ismedia.jp/articles/-/16170 |title=「米中対立」めぐる米高官の人種偏見発言 |newspaper=[[Wedge]] |date=2019-05-13 |accessdate=2019-05-18}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.newsweek.com/china-racist-us-statements-great-power-1416200 |title=CHINA BLASTS 'RACIST' U.S. STATEMENT CALLING IT FIRST 'GREAT POWER COMPETITOR THAT IS NOT CAUCASIAN' |newspaper=[[ニューズウィーク]]|date=2019-05-06 |accessdate=2019-05-18}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.washingtonpost.com/politics/2019/05/04/because-china-isnt-caucasian-us-is-planning-clash-civilizations-that-could-be-dangerous/ |title=Because China isn’t ‘Caucasian,’ the U.S. is planning for a ‘clash of civilizations.’ That could be dangerous. |newspaper=[[ワシントン・ポスト]] |date=2019-05-04 |accessdate=2019-05-18}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3225133 |title=「文明の衝突などない」 習主席、米中貿易戦争めぐり |newspaper=[[AFPBB]] |date=2019-05-15 |accessdate=2019-05-18}}</ref>。

[[2020年]]には中国[[武漢]]から[[COVID-19]]の感染が拡大すると、各地でアジア人襲撃が相次ぎ日本人も狙われている。加害者には白人だけでなく黒人も多い<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/104454 アメリカによみがえる「黄禍論」 アジア系差別の背景にあるものは:東京新聞 TOKYO Web]</ref>。

=== オーストラリア ===
{{See also|白豪主義}}
[[オーストラリア]]では[[1860年代]]より白人労働者によって[[反中]]キャンペーンが繰り広げられていた<ref>{{Harvnb|ゴルヴィツァー|1999|p=25}}</ref>。オーストラリアでは[[労働組合]]が先頭に立って黄色人種排斥運動が展開され<ref>{{Harvnb|ゴルヴィツァー|1999|p=68}}</ref>、オーストラリア植民地政府は黄禍論を出発点に外交政策を立てたため、[[日英同盟]]を結んでいたイギリス本国の外交政策とは大きな隔たりがあった<ref>{{Harvnb|ゴルヴィツァー|1999|pp=67f}}</ref>。{{日本語版にない記事リンク|ランビング・フラット暴動|en|Lambing Flat riots}}(オーストラリアにおける中国人労働者襲撃事件)も参照。

== 反論 ==
* [[岡倉天心]]はその英字論文で、"White Disaster(白禍)"という言葉を挙げ、[[軍隊]]と[[キリスト教]]の宣教活動を伴った西洋の[[帝国主義]]が他国の生活文化を侵蝕していると喝破した。これは欧州でも読まれ、日本でも『東洋の覚醒(日本の覚醒)』として出版された<ref>{{Cite journal|和書 |author=岡本佳子 |date=2012-01-31 |title=インドにおける天心岡倉覚三 : 「アジア」の創造とナショナリズムに関する覚書き |journal=近代世界の「言説」と「意象」 : 越境的文化交渉学の視点から |pages=181-211 |publisher=関西大学文化交渉学教育研究拠点 |url=https://hdl.handle.net/10112/6335|isbn=9784990516499 |ref={{harvid|岡本|2012}}}}</ref><ref>{{Harvnb|新井|2004}}</ref>。
* [[桑原隲蔵]]は1913年(大正2年)10月、『新日本』に発表した論文で<blockquote>白人は今日でも自分勝手に世界の最優等人種で、世界を支配すべき特権あるが如く信じて居る。この偏見からすべての事を判定する。黄人が彼等の言う儘に、なす儘になつて居る間は、苦情も出ぬが、黄人が覚醒して、幾分彼等の自由にならぬと、直ちに黄禍論を唱へ、甚だしきは黄人に対して謀反呼ばはりをする。それ程黄人が危険なら、無理に出掛けて来て、極東に通商を開き、或はその土地を占領しながら、黄人の危険を説くは、一つの滑稽といはねばならぬ</blockquote>と白人の身勝手さを論駁している{{refnest|group=注釈|同論文は岩波書店版『桑原隲蔵全集』〈第1巻〉に収められている<ref>{{Harvnb|桑原|1968}}</ref><ref>{{Harvnb|橋川|2000|pp=93f}}</ref>。}}。

== 脚註 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=新井恵美子 |date=2004-12 |title=岡倉天心物語 |publisher=神奈川新聞社 |isbn=978-4-87645-355-9 |ref={{Harvid|新井|2004}}}}
*[[ハインツ・ゴルヴィツァー]]『黄禍論とは何か』[[草思社]]、ISBN 4794209053
*[[飯倉章]]『イエロー・ペリルの神話 帝国日本と「黄禍」の逆説[[彩流社]]、2004年、ISBN 9784882029052
* {{Cite book|和書 |author=飯倉章|authorlink=飯倉章|title=イエロー・ペリルの神話 帝国日本と「黄禍」の逆説 |date=2004-07-21 |publisher=[[彩流社]] |isbn=978-4-88202-905-2 |ref={{Harvid|飯倉|2004}}}}
* {{Cite book|和書 |author=飯倉章 |title=黄禍論と日本人 欧米は何を嘲笑し、恐れたのか |series=[[中公新書]] 2210 |date=2013-03-25 |publisher=[[中央公論新社]] |isbn=978-4-12-102210-3 |ref={{Harvid|飯倉|2013}}}}
*[[ジョン・ダワー]]『容赦なき戦争ー太平洋戦争における人種差別』[[平凡社]]、ISBN 4582764193
* {{Cite book|和書 |author=岡倉登志 編著|authorlink=岡倉登志 |chapter=第29章 「東アフリカ帝国構想」に抗して――第二次イタリア-エチオピア戦争 |title=エチオピアを知るための50章 |series=エリア・スタディーズ 68 |edition=初版第1刷 |date=2007-12-25 |publisher=[[明石書店]] |isbn=978-4-7503-2682-5 |pages=206-211 |ref={{Harvid|岡倉|2007}}}}
*[[橋本順光]](編集・解説)『英国黄禍論小説集成』<黄禍論ー英語文献復刻シリーズ①>Yellow Peril, Collection of British Novels 1895-1913, in 7 vols., edited by Yorimitsu Hashimoto, Tokyo: Edition Synapse. ISBN 9784861660313 [http://www.aplink.co.jp/synapse/4-86166-031-9.html]
* {{Cite book |和書 |author=桑原隲蔵|authorlink=桑原隲蔵 |date=1968-02 |title=桑原隲蔵全集 |volume=第1巻 |publisher=岩波書店 |isbn=978-4-00-091331-7 |ref={{Harvid|桑原|1968}}}}
*橋本順光(編集・解説)『黄禍論史資料集成』<黄禍論-英語文献復刻シリーズ②>Yellow Peril, Collection of Historical Sources, in 5 vols., edited by Yorimitsu Hashimoto, Tokyo: Edition Synapse. ISBN 9784861660337 [http://www.aplink.co.jp/synapse/4-86166-033-5.html]
* {{Cite book|和書 |author=ハインツ・ゴルヴィツァー|authorlink=ハインツ・ゴルヴィツァー |translator=[[瀬野文教]] |title=黄禍論とは何か |edition=初版第1刷 |date=1999-08-25 |publisher=[[草思社]] |isbn=4-7942-0905-3 |ref={{Harvid|ゴルヴィツァー|1999}}}}
* {{Cite book|和書|author=[[岡倉登志]] |translator= |editor=[[岡倉登志]]編著 |others= |chapter=第29章 「東アフリカ帝国構想」に抗して――第二次イタリア-エチオピア戦争 |title=エチオピアを知るための50章 |series=エリア・スタディーズ68 |origdate= |origyear= |origmonth= |edition=初版第1刷 |date=2007年12月25日 |publisher=[[明石書店]] |location=[[東京]] |id= |isbn=4-7503-2682-5 |volume= |page= |pages=206-211 |url= |ref=岡倉(2007)}}
* {{Cite book |和書 |author=ジョン・ダワー|authorlink=ジョン・ダワー |translator=斎藤元一 |date=2001-12 |title=容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別 |publisher=[[平凡社]] |series=平凡社ライブラリー 419 |isbn=978-4-582-76419-2 |ref={{Harvid|ダワー|2001}}}}
* {{Cite book|和書|author=[[古川哲史]] |translator= |editor=[[岡倉登志]]編著 |others= |chapter=第44章 「第二の満洲事変」をめぐって――第二次イタリア-エチオピア戦争 |title=エチオピアを知るための50章 |series=エリア・スタディーズ68 |origdate= |origyear= |origmonth= |edition=初版第1刷 |date=2007年12月25日 |publisher=[[明石書店]] |location=[[東京]] |id= |isbn=4-7503-2682-5 |volume= |page= |pages=307-312 |url= |ref=古川(2007)}}
* {{Cite book |和書 |author=橋川文三|authorlink=橋川文三 |date=2000-08 |title=黄禍物語 |publisher=岩波書店 |series=岩波現代文庫 学術 24 |isbn=978-4-00-600024-0 |ref={{Harvid|橋川|2000}} }}
* {{Cite book|和書 |author=古川哲史|authorlink=古川哲史 |editor=岡倉登志 |chapter=第44章 「第二の満洲事変」をめぐって――第二次イタリア-エチオピア戦争 |title=エチオピアを知るための50章 |series=エリア・スタディーズ 68 |edition=初版第1刷 |date=2007-12-25 |publisher=明石書店 |isbn=978-4-7503-2682-5 |pages=307-312 |ref={{Harvid|古川|2007}}}}
* {{Citation |author=[[:en:Homer Lea]] |origyear=1909 |date=2012-07 |title=The Valor of Ignorance, with Specially Prepared Maps |publisher=Forgotten Books |isbn=978-1-4400-7240-6 }}
** {{Cite book|和書 |first=ホーマー |last=リー |translator=望月小太郎 |date=1911-02-13 |title=日米必戦論(原名無智の勇気) |publisher=英文通信社 |id={{NDLJP|994278}} |ref={{Harvid|リー|1911a}} }}
** {{Cite book|和書 |first=ホーマー |last=リー |translator=池亨吉 (断水楼主人) |date=1911-10-13 |title=日米戦争 |publisher=博文館 |id={{NDLJP|843177}} |ref={{Harvid|リー|1911b}} }}
** {{Cite book|和書 |first=ホーマー |last=リー |translator=望月小太郎 |date=1982-04 |title=日米必戦論(原名無智の勇気) |publisher=原書房 |isbn=978-4-562-01231-2 |ref={{Harvid|リー|1982}} }}
** {{Citation |first=Homer |last=Lea |editor-last=Mochizuki |editor-first=Kotaro |date=2010-10 |title=Nichi-Bei Hissen Ron |publisher=Nabu Press |language=ja |isbn=978-1171965763 }}

== 関連文献 ==
* {{Cite book|和書 |editor=橋本順光 編集・解説|editor-link=橋本順光 |date=2007-01 |title=英国黄禍論小説集成 |publisher=Edition Synapse |series=黄禍論ー英語文献復刻シリーズ 1 |isbn=978-4-86166-031-3 |ref={{Harvid|橋本|2007}}}}
* {{Cite book|和書 |editor=橋本順光 編集・解説 |date=2013-04 |title=黄禍論史資料集成 |publisher=Edition Synapse |series=黄禍論ー英語文献復刻シリーズ 2 |isbn=978-4-86166-033-7 |ref={{Harvid|橋本|2012}}}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[興亜論]] - 欧米列強によるアジア植民地化に対抗した日清の接近から起きた思想運動
*[[人種差別]]
* [[排日]]
* [[イエロー・ジャーナリズム]]
* [[日米貿易摩擦]]
** [[ハースト・コーポレーション]]
* [[米中貿易戦争]]
** [[サンフランシスコ・エグザミナー]]
* [[歴史修正主義]]
** {{仮リンク|シアトル・ポスト・インテリジェンサー|en|Seattle Post-Intelligencer}}
* [[排日移民法]]
* [[排日移民法]]
* [[カリフォルニア州外国人土地法]](排日土地法)
* [[日系人の強制収容]]
* [[第442連隊戦闘団]]
* [[日系人の強制収容]]/[[第442連隊戦闘団]]
* [[反キリスト]]
* [[八紘一宇]]
* [[ロックフェラー・センター#三菱地所による買収劇]]
* [[タタール]]
* [[白人至上主義]]
* [[満州事変]]
* [[反中]]
* [[オルタナ右翼]]
* [[帝国主義]]
* [[キタイ]] - 直接の意味は、10世紀頃に中国北部にて[[遼]]王朝を建国した[[遊牧民族]]「[[契丹]]」を指すが、ロシア語においては(現在も含めた)「中国」を意味し、北方への対外侵略を常としてきた契丹と同一視する事で警戒心・畏怖の意味も込められている<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20101030_4461.html]</ref>。
* [[植民地主義]]
* [[日露戦争]]
* [[国家総動員法]]
* [[ハースト・コーポレーション]]
* [[サンフランシスコ・エグザミナー]]
* {{仮リンク|シアトル・ポスト・インテリジェンサー|en|Seattle Post-Intelligencer}}
* [[ブライトバート・ニュース・ネットワーク]]
* [[ジャック・ロンドン]] - 黄禍論者。著作もある。
* [[ドナルド・トランプ#アジア]]
* [[ウィンストン・チャーチル#アジアにおける勝利と大英帝国の没落]]
* [[フランクリン・ルーズベルト#レイシスト・「人種改良論者」]]
* [[フー・マンチュー]]
* [[フー・マンチュー]]
* [[フラッシュ・ゴードン|モンゴ皇帝ミン(フラッシュ・ゴードン)]]
* [[ジャック・ロンドン]](黄禍論者 著作もある)
* [[007 ドクター・ノオ|ドクター・ノオ(007 ドクター・ノオ)]]
* [[人種的差別撤廃提案]]
* [[ロボコップ3|カネミツ・コーポレーション(ロボコップ3)]]
* [[華麗なるギャツビー|トム・ブキャナン(華麗なるギャツビー)]] - 主人公の恋敵(もう一人の主人公の従兄弟)。作中で、黄禍論や白人至上主義を訪問客達の前でアジ演説するシーンがある。
* [[猿の惑星]] - 作者が第二次世界大戦時に体験した日本軍の印象がヒントになった作品で、高度の知能を持ち脅威となる猿は黄色人種(日本人)の暗喩であるとも言われる。
* [[ボーイング・ステアマン モデル75]] - 第二次世界大戦時にアメリカで使われた軍用練習機。アメリカ海軍は黄色に塗装していたためイエロー・ペリルと呼ばれた。


== 脚注 ==
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|黄禍論}}
<references />
* [https://1000ya.isis.ne.jp/1423.html 『黄禍論とは何か』ハインツ・ゴルヴィツァー] - [[松岡正剛#「千夜千冊」執筆以降|千夜千冊]] 連環篇
* [http://ocw.mit.edu/ans7870/21f/21f.027/yellow_promise_yellow_peril/yp_visnav07.html ポストカードに描かれた黄禍論]
* [https://archive.org/stream/awakeningofjapan00okakiala#page/n7/mode/2up 岡倉天心『日本の覚醒』第5章「白禍」]


{{レイシズム}}
==外部リンク==
{{反日}}
*[http://1000ya.isis.ne.jp/1423.html 『黄禍論とは何か』ハインツ・ゴルヴィツァー]千夜千冊 連環篇
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黄禍」(: gelbe Gefahr)を世界に知らしめた寓意画"ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な宝を守れドイツ語版"。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の図案をもとに、歴史画家ヘルマン・クナックフースドイツ語版英語版が描いたこの絵は、当時のヨーロッパ日本中国清朝)に対する警戒心を端的に表したイラストである。右手の田園で燃え盛る炎の中に仏陀がおり、左手の十字架が頭上に輝く高台には、ブリタニアイギリス)、ゲルマニアドイツ)、マリアンヌフランス)などヨーロッパ諸国を擬人化した女神たちの前でキリスト教大天使ミカエルが戦いを呼び掛けている。

黄禍論(こうかろん、おうかろん[1][2]: Gelbe Gefahr英語: Yellow Peril)とは、19世紀後半から20世紀前半にかけてヨーロッパ北アメリカオーストラリアなどの欧米国家において現れた、日本人脅威論。人種差別の一種とされる。

概要

[編集]

日清戦争1894年)における日本による中国大陸への軍事的な進出をきっかけに、同様に中国大陸に進出していたロシアドイツフランスに広がった政策思想である[3]フランスでは1896年の時点でこの言葉の使用が確認されており、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世が広めた寓意画『ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な宝を守れドイツ語版』によって世界に広がった[4]。日清戦争に続く日露戦争日独戦争の日本勝利で欧州全体に広まったとされる[5][6]。主な論者に: gelbe Gefahr(「黄禍」)というスローガンを掲げたドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世が挙げられる。1900年北清事件(義和団の乱)後、内乱の暴力傾向と宗教的な差異を関連付ける形でドイツ国内で報道された。

大航海時代以前にモンゴル帝国をはじめとした東方系民族による侵攻に苦しめられた白人は、黄色人種をモンゴロイドと称した。キタイという言葉の直接の意味は、10世紀頃に華北にて朝を建国した遊牧民族契丹」を指すが、ロシア語においては(現在も含めた)「中国」を意味し、北方への対外侵略を常としてきた契丹と同一視することで警戒・畏怖する意味も込められている[7]。そのため、黄色人種は、モスクワ大公国(後のロシア帝国)においては「タタールのくびき」として、また、西ヨーロッパではアンチキリストがアジアから現れると信じられ、共に恐れられてきた。近衛篤麿が同人種同盟論を唱えたように、仮に日中さらにはインドが連携した場合、絶大な人口を誇る勢力となるため、欧米は離間工作を繰り返してきた[8]

近代の黄禍論で対象とされる民族は、主に中国人日本人である。このことは特にアメリカ合衆国では1882年に制定された排華移民法1924年に制定された排日移民法など反日的な立法に顕われ、影響が論じられる。

歴史

[編集]
"The Yellow Terror In All His Glory"(1899年)と題された、黄禍に関する諷刺画。辮髪中国人が女性を踏みつけにしている。
The Yellow Menace (1916年9月)

黄禍というスローガンは、日清戦争前後の1894年から1895年にかけて新聞パンフレット、雑誌などのマスメディアに流布するようになった[9]。それ以前に、黄禍という言葉こそ使っていないものの、中国人の脅威を説いたミハイル・バクーニンの例が見られる[10]。その後、1900年義和団の乱勃発まではドイツ帝国国内でさえ「黄禍」という言葉はほとんど無視され、対照的にライン川の西の第三共和政下フランスでは1896年から1899年の間、言論界で「黄禍」がしばしば論じられた[11]

ハインツ・ゴルヴィツァーは著書、『黄禍論とは何か』にて、「黄禍」は1895年にライン川の西で発生し、拡散していったと推定している[12]

まず、イギリスで黄禍論が頻繁にジャーナリズムに登場するようになり、それがロシア、フランスに波及していった[13]

フランスのアナトール・フランスは、黄禍論の横行する世相の中、1904年に発表した小説白い試金石フランス語版』の中で、ヨーロッパの「白禍」こそが「黄禍」を生み出したのだと主張し、反植民地主義を唱えた[14]

ロナルド・ノックスは、推理小説を書く際のルールとして1928年に発表したノックスの十戒において「主要人物として中国人を登場させてはならない」を追加したが、その理由として「われわれ西欧人[15]のあいだには、“中国人は頭脳が優秀でありながら、モラルの点で劣る者が多い”との偏見が根強い」と説明している[16]

ドイツ

[編集]

黄禍」という言葉が生まれる以前の黄禍思想は日清戦争講和条約に際してロシアドイツフランスの三国が1895年4月23日に行った三国干渉によって広まった[17]ヒューストン・ステュアート・チェンバレンの人種理論の影響を受けた[18]ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世は「黄禍」を説くことによって、それまでの汎スラヴ主義汎ゲルマン主義の対立によってドイツと敵対していたロシアを極東に釘付けし、更にロシアと同盟関係にあったフランス相手にドイツのヨーロッパにおける立場を有利にすることを画策したのであった[19]。三国干渉と同年の1895年の秋にヴィルヘルム2世は自らが原画を描き、宮廷画家ヘルマン・クナックフースドイツ語版が仕上げた寓意画「ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ!ドイツ語版」をロシア帝国皇帝ニコライ2世に贈呈し、さらにその複製がフランスのフェリックス・フォール大統領アメリカ合衆国ウィリアム・マッキンリー大統領らに配布され、この寓意画のイメージは西洋世界に黄禍論を普及させるに至った[20]

ところが、1900年義和団の乱が勃発すると、ヴィルヘルム2世は同1900年7月6日キール港にて義和団の乱に派遣されるドイツ軍将兵に対して「匈奴演説ドイツ語版」(フンネンレーデ)と呼ばれる黄色人種排斥演説を行い、7月に行われた幾度かの演説の中でドイツ皇帝は清国の兵士をドイツ軍が捕虜にする必要はないことなどを訴え、このヴィルヘルム2世の過激な言動は他の西洋諸国からも批判を受けた[21]

さらに1904年日露戦争が勃発すると、ヴィルヘルム2世はアメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領に対し、日露戦争が黄白人種間の人種戦争であることを訴えた[22]1905年9月5日に日露戦争の講和条約であるポーツマス条約が締結された際には、翌9月6日の『ニューヨーク・タイムズ』紙のインタビューにてヴィルヘルム2世はドイツ外交当局の意図を超えて黄禍を訴え、日露戦争の勝利によって列強間の門戸開放政策を崩しかねない日本をアメリカ合衆国の力で抑制しようと試みている[23]

第一次世界大戦が勃発し、中央同盟国の一国であるドイツに対し、連合国の一国として日本が参戦して日独戦争が起きると、ドイツでは黄禍感情がよみがえり、雑誌『ルスティゲ・ブレッタードイツ語版』や『ヴァーレ・ヤーコプドイツ語版』にはヴィルヘルム2世の寓意画、「ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ!ドイツ語版」をパロディにした対日風刺画が掲載された[5]

イタリア

[編集]

ファシスタイタリア統領ベニート・ムッソリーニは、1931年満洲事変勃発以後のイタリア中国支持政策や、エチオピアへの領土的な野心から発した当時の日本とエチオピアの関係拡大への対抗から、1934年日本人に対して黄禍論を表明し、杉村陽太郎駐伊日本大使と衝突している[24][25]。だが、その後の第二次世界大戦では、ナチスドイツとともに日独伊三国同盟を締結し、枢軸国の一員として日本とは友好関係に転じた。

アメリカ合衆国

[編集]
1911年に刊行されたアメリカ合衆国キリスト教ディスペンセーション主義者G・G・ルパート英語版の著書"The Yellow Peril"(『黄禍』)の第三版。
アメリカの反日プロパガンダ

19世紀半ば、清朝が衰退し、イギリスをはじめとする西洋諸国によって半植民地の状態におかれた中国では、安定した生活を求め海外に移住する者(華僑)が出始めた。

ちょうどこの頃、1848年1月24日に当時はまだメキシコの一部であったカリフォルニア州鉱山が発見されゴールドラッシュに沸き返っていた(カリフォルニア・ゴールドラッシュ)。ゴールドラッシュによる好景気の影響もあって西部開拓が推し進められ、大陸横断鉄道の敷設が進められた。金鉱の鉱夫や鉄道工事の工夫として多くの中国人労働者が受け入れられた(苦力)。1860年代よりカリフォルニアのアイルランド人を中心とする白人労働者の間で反中国人苦力感情が高まっており、1869年には中国人を雇用する企業に対して「アングロサクソン保護委員会」と称する組織が脅迫状を送っている[26]

1870年、帰化法が改正され(Naturalization Act of 1870英語版)、帰化できる人種に「アフリカ系」が加えられた。これは南北戦争後の処理の一環であるが、チャールズ・サムナーらの人種による要件をなくす提案は拒否され、この条項はのちにアジア系を区別することに広く使われることになる[27]。低賃金労働を厭わずに白人労働者と競争していた中国人労働者への反発から、1882年中国人排斥法が制定された[28]。この1882年の中国人排斥法の成立はドイツとオーストリア反ユダヤ主義者に思想的影響を与え、『新ドイツ民族新聞(Neue Deutsche Volkszeitung)』やオーストリアの政治家、カール・ボイルレドイツ語版ユダヤ人を「ヨーロッパ中国人」と呼んで攻撃する立場からこの法律に賛同する声明を発表している[29]。同じ差別を受ける者として中国人に擁護的であったユダヤ人作家であるマーク・トゥエインですら、1905年には『黄色い恐怖の物語』を執筆している[30]

少し遅れて19世紀後半に日本人ハワイに移住を始める。1898年ハワイが米国に併合され、また、カリフォルニア開発の進展などにより農場労働者が必要になると、日系移民のアメリカ合衆国本土への移転が増加する。

祖国では困窮しきっていた彼らは新天地での仕事に低賃金でも文句を言わず良く働いた。そのためイタリア系アイルランド系(いずれも熱心なカトリック教徒)などの白人社会では、下層を占めていた人々の雇用を中国人移民や日本人移民などの黄色人種が奪うようになった。それが社会問題化し、黄禍論が唱えられるようになった。

1880年代より北アメリカ本土のカリフォルニアに移住した日本人移民は1900年代初頭に急増し、急増に伴って中国人が排斥されたのと同様の理由で現地社会から排斥されるようになり、1905年5月には日本人・韓国人排斥連盟が結成された[31]1906年4月のサンフランシスコ地震の後に悪化したカリフォルニアの対日感情のもつれは、1907年に日米当局による日本人移民の制限という形で政治決着した[32](日米紳士協約[33][34])。この事件を契機に、アメリカ合衆国では「黄禍」は「日禍」として捉えられるようになった[35]。その後もアメリカ合衆国の対日感情は強硬であり、日系人が農業に多く進出していたカリフォルニア州で、土地の所有と3年以上の貸与を禁止する州法カリフォルニア州外国人土地法1913年に制定され、第一次世界大戦後の1924年7月1日排日移民法が制定された。

1909年にはホーマー・リー英語: Homer Leaが『無智の勇気』(The Valor of Ignorance) を発表している[注釈 1]

1980年代より日米貿易摩擦の激化に伴ってジャパンバッシングが起き、中国人移民であるビンセント・チン白人に同じ黄色人種の日本人と間違えられて殺害され、加害者は懲役の執行猶予で服役することはなかった刑の軽さと(見当違いの)人種差別による殺人が大きな社会問題となってアジア系アメリカ人が権利を主張する契機となった[39][40][41]

2019年米中貿易戦争で米中の貿易摩擦の激化を受け、中長期的なアメリカの外交戦略を担うアメリカ国務省政策企画本部が米中の対立を東西冷戦と異なる白人コーカサス人種、Caucasian)文明と中国文明の対立と位置付けることを表明した際は文明の衝突白色人種の優位性を説いたことに対して中国政府は反発した[42][43][44][45]

2020年には中国武漢からCOVID-19の感染が拡大すると、各地でアジア人襲撃が相次ぎ日本人も狙われている。加害者には白人だけでなく黒人も多い[46]

オーストラリア

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オーストラリアでは1860年代より白人労働者によって反中キャンペーンが繰り広げられていた[47]。オーストラリアでは労働組合が先頭に立って黄色人種排斥運動が展開され[48]、オーストラリア植民地政府は黄禍論を出発点に外交政策を立てたため、日英同盟を結んでいたイギリス本国の外交政策とは大きな隔たりがあった[49]ランビング・フラット暴動英語: Lambing Flat riots(オーストラリアにおける中国人労働者襲撃事件)も参照。

反論

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  • 岡倉天心はその英字論文で、"White Disaster(白禍)"という言葉を挙げ、軍隊キリスト教の宣教活動を伴った西洋の帝国主義が他国の生活文化を侵蝕していると喝破した。これは欧州でも読まれ、日本でも『東洋の覚醒(日本の覚醒)』として出版された[50][51]
  • 桑原隲蔵は1913年(大正2年)10月、『新日本』に発表した論文で

    白人は今日でも自分勝手に世界の最優等人種で、世界を支配すべき特権あるが如く信じて居る。この偏見からすべての事を判定する。黄人が彼等の言う儘に、なす儘になつて居る間は、苦情も出ぬが、黄人が覚醒して、幾分彼等の自由にならぬと、直ちに黄禍論を唱へ、甚だしきは黄人に対して謀反呼ばはりをする。それ程黄人が危険なら、無理に出掛けて来て、極東に通商を開き、或はその土地を占領しながら、黄人の危険を説くは、一つの滑稽といはねばならぬ

    と白人の身勝手さを論駁している[注釈 2]

脚註

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注釈

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  1. ^ 同書は1911年(明治44年)に『日米必戦論』として全訳が発行された[36]。また同年、池亨吉の抄訳で『日米戦争』として日本で発行された[37][38]
  2. ^ 同論文は岩波書店版『桑原隲蔵全集』〈第1巻〉に収められている[52][53]

出典

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  1. ^ 黄禍論(こうかろん、おうかろん) オーストラリア辞典 - 大阪大学大学院西洋史学研究室
  2. ^ 竹沢泰子「<講演5>日本人移民の歴史と多文化共生社会の明日」『京都大学 附置研究所 ・センター シンポジウム : 京都からの提言-21世紀の日本を考える(第7回) 「明るい未来像」』第7巻、京都大学「京都からの提言」事務局、2013年2月。 
  3. ^ 桑原隲蔵、『東洋史説苑』、弘文堂書房、1927年、黄禍論の由来、18頁
  4. ^ 飯倉 2013, pp. 58–60
  5. ^ a b 飯倉 2013, pp. 184–189
  6. ^ 平川祐弘『和魂洋才の系譜』 - 松岡正剛千夜千冊、2002年12月24日
  7. ^ 佐藤優 述 (2010年10月30日). “ロシア語に「奴は中国人百人分くらい狡い」という言葉がある”. NEWSポストセブン (小学館). https://www.news-postseven.com/archives/20101030_4461.html?DETAIL 2018年5月4日閲覧。 
  8. ^ 「黄禍論」書評 アジア諸国への恐怖、百年の歴史|好書好日
  9. ^ ゴルヴィツァー 1999, p. 41
  10. ^ 橋川 2000, pp. 17–20
  11. ^ ゴルヴィツァー 1999, pp. 42f
  12. ^ ゴルヴィツァー 1999, p. 43
  13. ^ ゴルヴィツァー 1999
  14. ^ ゴルヴィツァー 1999, pp. 168–171
  15. ^ ノックスはイギリス人。
  16. ^ ロナルド・ノックス 著、宇野利泰; 深町眞理子訳 編『探偵小説十戒――幻の探偵小説コレクション』晶文社、1989年1月31日、5-16頁。ISBN 4-7949-5797-1 
  17. ^ 飯倉 2013, pp. 45–48
  18. ^ 橋川 2000, p. 22
  19. ^ 飯倉 2013, pp. 48f
  20. ^ 飯倉 2013, pp. 51–53
  21. ^ 飯倉 2013, pp. 87f
  22. ^ 飯倉 2013, pp. 133f
  23. ^ 飯倉 2013, pp. 142f
  24. ^ 岡倉 2007, p. 211
  25. ^ 古川 2007, pp. 307f
  26. ^ "Bulletin de la Société de géographie" (『地理学会紀要』) 1869/07 (SER5,T18)-1869/12. p.250
  27. ^ Naturalization Act Of 1870”. en:encyclopedia.com. 2020年11月8日閲覧。
  28. ^ 飯倉 2013, p. 148
  29. ^ ゴルヴィツァー 1999, pp. 184f
  30. ^ マーク・トゥエイン; Watson, Richard A. (2005-03-17) [1980], The Devil's Race-Track: Mark Twain's "Great Dark" Writings, The Best from Which Was the Dream? and Fables of Man (Paperback ed.), University of California Press, ISBN 978-0-520-23893-0, https://books.google.co.jp/books?id=uLfR7-ETm0MC&pg=PA369 
  31. ^ 飯倉 2013, pp. 148f
  32. ^ 飯倉 2013, pp. 149–157
  33. ^ 日米通商航海条約”. 国立公文書館 アジア歴史資料センター. 2020年11月9日閲覧。
  34. ^ 日本外交文書デジタルコレクション 対米移民問題経過概要”. 外務省. 2020年11月9日閲覧。
  35. ^ 飯倉 2013, p. 169
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  37. ^ リー 1911b
  38. ^ 橋川 2000, p. 82
  39. ^ Alethea Yip (2005年3月4日). “Remembering Vincent Chin”. yellowworld.org. 2005年5月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年2月2日閲覧。
  40. ^ 35 Years After Vincent Chin's Murder, How Has America Changed?” (英語). Asia Society (2017年6月16日). 2019年10月15日閲覧。
  41. ^ Wei, William (2002年6月14日). “An American Hate Crime: The Murder of Vincent Chin”. Tolerance.org. Southern Poverty Law Center. 2007年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年4月16日閲覧。
  42. ^ “「米中対立」めぐる米高官の人種偏見発言”. Wedge. (2019年5月13日). https://wedge.ismedia.jp/articles/-/16170 2019年5月18日閲覧。 
  43. ^ “CHINA BLASTS 'RACIST' U.S. STATEMENT CALLING IT FIRST 'GREAT POWER COMPETITOR THAT IS NOT CAUCASIAN'”. ニューズウィーク. (2019年5月6日). https://www.newsweek.com/china-racist-us-statements-great-power-1416200 2019年5月18日閲覧。 
  44. ^ “Because China isn’t ‘Caucasian,’ the U.S. is planning for a ‘clash of civilizations.’ That could be dangerous.”. ワシントン・ポスト. (2019年5月4日). https://www.washingtonpost.com/politics/2019/05/04/because-china-isnt-caucasian-us-is-planning-clash-civilizations-that-could-be-dangerous/ 2019年5月18日閲覧。 
  45. ^ “「文明の衝突などない」 習主席、米中貿易戦争めぐり”. AFPBB. (2019年5月15日). https://www.afpbb.com/articles/-/3225133 2019年5月18日閲覧。 
  46. ^ アメリカによみがえる「黄禍論」 アジア系差別の背景にあるものは:東京新聞 TOKYO Web
  47. ^ ゴルヴィツァー 1999, p. 25
  48. ^ ゴルヴィツァー 1999, p. 68
  49. ^ ゴルヴィツァー 1999, pp. 67f
  50. ^ 岡本佳子「インドにおける天心岡倉覚三 : 「アジア」の創造とナショナリズムに関する覚書き」『近代世界の「言説」と「意象」 : 越境的文化交渉学の視点から』、関西大学文化交渉学教育研究拠点、2012年1月31日、181-211頁、ISBN 9784990516499 
  51. ^ 新井 2004
  52. ^ 桑原 1968
  53. ^ 橋川 2000, pp. 93f

参考文献

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関連文献

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関連項目

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外部リンク

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