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{{otheruses}}
{{otheruseslist|主に美術・芸術における印象派|音楽における印象派|印象主義音楽|さだまさしのアルバム|印象派 (さだまさしのアルバム)|夏木マリのアルバム|夏木マリ#アルバム}}
{{複数の問題
<!--{{複数の問題
| 出典の明記 = 2013年9月
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| 独自研究 = 2013年9月
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[[ファイル:Monet_-_Impression,_Sunrise.jpg|thumb|350px|[[クロード・モネ|モネ]]『[[印象・日の出]]』]]
'''印象派'''(いんしょうは)または'''印象主義'''(いんしょうしゅぎ)は、[[19世紀]]後半の[[フランス]]に発した[[絵画]]を中心とした{{仮リンク|芸術運動|en|Art movement}}であり、当時の[[パリ]]で連続して開催することで、1870年代から1880年代には突出した存在になった。この運動の名前は[[クロード・モネ]]の作品『[[印象・日の出]]』に由来する。この絵がパリの風刺新聞『{{仮リンク|ル・シャリヴァリ|fr|Le Charivari}}』で批評家[[ルイ・ルロワ]]の槍玉に挙げられ、皮肉交じりに展覧会の名前として記事の中で取り上げられたことがきっかけとなり、「印象派」という新語が生まれた<ref>シルヴィ・パタン; 村上伸子訳 『モネ-印象派の誕生』 (1版) 創元社、2010年、42頁。ISBN 978-4-422-21127-5</ref>。


印象派の絵画の特徴としては、小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク、[[戸外制作]]、空間と時間による光の質の変化の正確な描写、描く対象の日常性、人間の知覚や体験に欠かせない要素としての動きの包摂、斬新な描画アングルなどがあげられる。
[[画像:Claude Monet, Impression, soleil levant, 1872.jpg|thumb|350px|''印象、日の出(Impression, soleil levant)'']]
'''印象派'''(いんしょうは、仏:Impressionnistes)または'''印象主義'''(いんしょうしゅぎ、仏:Impressionnisme)は、[[19世紀]]後半の[[フランス]]に発した、絵画を中心とした芸術運動である。


印象派は登場当初、この時代には王侯貴族に代わって芸術家たちの[[パトロン]]役になっていた国家([[芸術アカデミー]])に評価されず、印象派展も人気がなく絵も売れなかったが、次第に金融家、百貨店主、銀行家、医師、歌手などに市場が広がり、さらには[[アメリカ合衆国]]市場に販路が開けたことで大衆に受け入れられていった<ref>{{cite|和書|author=海野 弘|title=パトロン物語-アートとマネーの不可思議な関係|publisher=角川書店|date=2002-06-10|edition=初|ISBN=4-04-704087-8|pages=62-71}}</ref>。[[ビジュアルアート]]における印象派の発展によって、ほかの芸術分野でもこれを模倣する様式が生まれ、[[印象主義音楽]]や{{仮リンク|印象主義文学|en|Impressionism (literature)}} として知られるようになった。
印象派の登場当初は、貴族や富豪らのパトロンを持たぬ画家の作品ということもあり、画壇での注目は低かったが、絵画市場や投機家によるもっぱら、経済絵画として扱われ始め、その後、世界の画壇を席捲するようになっていった。
[[ファイル:Zvijezda.jpg|thumb|right|200px|[[エドガー・ドガ|ドガ]]『舞台の踊り子』(1878年、[[オルセー美術館]])]]
<!--== 時代背景 ==-->
<!--=== 肖像画と写実主義 ===-->
<!--19世紀頃のヨーロッパでは[[肖像画]]を描くことが一つの[[ステイタス]]であった。また静物画も部屋を彩るアイテムとして必要であった。肖像画では、対象を正確に描写することが重要で、[[遠近法]]などの技法が工夫された。肖像画は大きな需要があったため産業として確立し、学校も多く設立され、技術さえ学べればそこそこの絵が描けるようになっていた。肖像画と言っても顔だけではなく、服装や背景の調度品なども、対象人物の地位を表すものとして重要だった。そのため、それらの物を正確に描く技術も発達した。これらの人物や物を正確に描く絵画のことを[[写実主義]]という。また、当時、写実主義を中心とした保守的な画家は[[アカデミズム]]と呼ばれていた。
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<!--=== バルビゾン派 ===-->
<!--[[ファイル:Jean-François Millet (II) 002.jpg|thumb|left|200px|[[ジャン=フランソワ・ミレー|ミレー]]『[[落穂拾い]]』([[1857年]]、[[オルセー美術館]])[[バルビゾン派]]の作品]]
画材道具の発達に伴って、屋外で絵を描くことが可能になった。しかし屋外は部屋の中と違って、日差しが刻々と傾き、天候が変化したりするので、室内のように同じ条件下でゆっくり絵を描くというわけには行かない。細部を省略し、すばやく絵を描く技法が生まれた。この頃の屋外を多く描いた画家たちは「1830年派」(のち[[バルビゾン派]])などと呼ばれる。
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<!--=== 写真の発明 ===-->
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絵具が発達し、絵画の教育システムが確立し、絵画が産業化していく一方で、1827年に[[写真]]が発明される。写真は瞬く間に改良されて、肖像写真として利用されるようになる。正確に描写するだけなら、絵画より写真の方がはるかに正確で安価で納期が早い。写真が普及し始めると画家たちが職にあぶれるようになった。また、瞬間をとらえた写真の映像は、当時の人々にとって全く新しい視覚であり、新たな[[インスピレーション]]を画家たちに与えることになった。
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<!--=== エドゥアール・マネ ===-->
<!--[[ファイル:Edouard Manet 024.jpg|thumb|right|200px|マネ『[[草上の昼食]]』1862-63、[[オルセー美術館]]]]
1860年代、[[エドゥアール・マネ]]が一般の女性をそのまま裸婦として描いた作品を発表した。当時の裸婦像は神話や聖書のエピソードとして描くのが普通で、マネの裸婦の絵画は激しい反発を受ける。
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<!--=== ジャポニスム ===-->
<!--多くの画家が表現方法を模索する中、[[1867年]][[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]が行われる。これには日本の[[幕府]]、[[薩摩藩]]、[[佐賀藩]]が万博に出展し、日本の工芸品の珍奇な表現方法が大いに人気を集めた。次の[[1878年]][[パリ万国博覧会 (1878年)|パリ万博]]のときには既に[[ジャポニスム]]は一大ムーブメントになっていた。日本画の自由な平面構成による空間表現や、浮世絵の鮮やかな色使いは当時の画家に強烈なインスピレーションを与えた。そして何よりも、絵画は写実的でなければならない、とする制約から画家たちを開放させる大きな後押しとなった。
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== 前史 ==
[[Image:Jean-François Millet (II) 002.jpg|thumb|200px|[[ジャン=フランソワ・ミレー|ミレー]]『[[落穂拾い]]』([[1857年]]、[[オルセー美術館]])[[バルビゾン派]]の作品]]
[[Image:Edouard Manet 024.jpg|thumb|right|200px|マネ [[草上昼食]](1862-63[[オ美術館]])]]
[[File:Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple.jpg|thumb|right|220px|ドラクロワ『民衆を導く自由女神』(1831年、ルーブル・ランス)]]
フランスでは17世紀以来、[[新古典主義|新古典派]]の影響下にある[[芸術アカデミー|アカデミー]]が美術に関する行政・教育を支配し、その公募展(官展)である[[サロン・ド・パリ|サロン]]が画家の登竜門として確立していた。アカデミーでは、[[古代ローマ]]の美術を手本にして歴史や神話、聖書を描いた「[[歴史画]]」が高く評価され、その他のジャンルの絵は低俗とされた。筆跡を残さず光沢のある画面に理想美を描く画法がアカデミーの規範となった{{Sfn|島田紀夫|2004|p=22-25}}。しかし19世紀になると、その規範に従わない若い画家たちが次々に現れ始めた。
[[Image:Zvijezda.jpg|thumb|right|200px|ドガ 舞台の踊り子(1878、[[オルセー美術館]])]]


*'''[[ロマン主義]]'''の画家たちは遠いはるかな過去の歴史ではなく、鋭い感受性をもって同時代の出来事に情熱的に感情移入した。[[テオドール・ジェリコー]]の『[[メデューズ号の筏]]』(1819年)は、この難破事件から受けた大きな衝撃をばねにして描かれた<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.salvastyle.com/menu_romantic/gericault_meduse.html|accessdate=2014-11-02|date=2008-03-17|title=テオドール・ジェリコー-メデュース号の筏-(画像・壁紙)}}</ref>。[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]の『[[民衆を導く自由の女神]]』は、1830年の[[フランス7月革命|7月革命]]をその直後に描き、絵の中では作者自身ともされる[[シルクハット]]の男性が銃を携えている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.louvre.fr/jp/oeuvre-notices/%E3%80%8A7%E6%9C%8828%E6%97%A5%EF%BC%8D%E6%B0%91%E8%A1%86%E3%82%92%E5%B0%8E%E3%81%8F%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%A5%9E%E3%80%8B|title=≪7月28日-民衆を導く自由の女神≫|accessdate=2014-11-02}}</ref>。どちらも、静かで伝統的な理想美を追求する新古典派にはない制作態度である。絵画技法としては、色彩の多様性やスピード感、正面性にとらわれない自由な視角が特徴である{{Sfn|島田紀夫|2004|p=27}}。
== 時代背景 ==
[[File:Eugène Boudin 011.jpg|thumb|right|220px|[[ウジェーヌ・ブーダン]]『トルヴィルの浜辺』(1868年、個人蔵)]]
=== 肖像画と写実主義 ===
19世紀頃のヨーロッパでは[[肖像画]]を描くことが一つの[[ステイタス]]であった。<!--また静物画も部屋を彩るアイテムとして必要であった。-->肖像画では、対象を正確に描写することが重要で、[[遠近法]]などの技法が工夫された。肖像画は大きな需要があったため産業として確立し、学校も多く設立され、技術さえ学べればそこそこの絵が描けるようになっていた。肖像画と言っても顔だけではなく、服装や背景の調度品なども、対象人物の地位を表すものとして重要だった。そのため、それらの物を正確に描く技術も発達した。これらの人物や物を正確に描く絵画のことを[[写実主義]]という。<!--また、当時、写実主義を中心とした保守的な画家は[[アカデミズム]]と呼ばれていた。-->


*'''[[写実主義]]'''<ref group="注釈">広義の写実主義は西洋美術の伝統であり、アカデミーや新古典派も見えるとおりに描きながら理想的な形へ整えていく写実描写を実践している。ここで言及しているのは、そのような理想化は一切しないで、ありのままに捉えようとする運動としての19世紀の写実主義(レアリスム)のこと。</ref>の画家たちも、やはり新古典派のような歴史画ではなく、同時代の社会のありのままの現実を描こうとした。[[ギュスターヴ・クールベ]]の『{{仮リンク|石割人夫|en|The Stone Breakers}}』、[[ジャン・フランソワ・ミレー]]の『[[種まく人 (絵画)|種まく人]]』や『[[晩鐘 (絵画)|晩鐘]]』『[[落穂拾い (絵画)|落穂拾い]]』、[[オノレ・ドーミエ]]の『{{仮リンク|三等客車 (絵画)|label=三等客車|en|The Third-Class Carriage}}』は、現実に生活している労働者や農民、自然の姿を忠実に描こうとした{{Sfn|「美術検定」実行委員会|2008|p=67}}。新古典派同様の暗い画面であるが、クールベはへらを使った力強いタッチ(筆触)で描いた{{Sfn|島田紀夫|2004|p=80}}。
=== バルビゾン派 ===
画材道具の発達に伴って、屋外で絵を描くことが可能になった。しかし屋外は部屋の中と違って、日差しが刻々と傾き、天候が変化したりするので、室内のように同じ条件下でゆっくり絵を描くというわけには行かない。細部を省略し、すばやく絵を描く技法が生まれた。この頃の屋外を多く描いた画家たちは「1830年派」(のち[[バルビゾン派]])などと呼ばれる。


*'''[[バルビゾン派]]'''の画家たちは都会にはない自然の美しさに魅せられ、1820年ごろから{{仮リンク|フォンテーヌブローの森|fr|Forêt de Fontainebleau}}で風景画に専念した。[[バルビゾン]]派という呼称は、彼らの多くが滞在した村の名前に由来する。代表的な画家に、[[カミーユ・コロー]]、[[テオドール・ルソー]]などがいる。ミレーも晩年には彼らに合流した。彼らは戸外でスケッチをしてアトリエで完成させたが、のちの印象派の画家たちは[[戸外制作]]ですべてを仕上げた{{Sfn|「美術検定」実行委員会|2008|p=68}}。また1860年代には、バルビゾン派の流れを汲むコロー、[[シャルル=フランソワ・ドービニー]]、[[ウジェーヌ・ブーダン]]、[[ヨハン・ヨンキント]]などが風景のよいセーヌ河口[[オンフルール]]の{{仮リンク|サン・シメオン農場|fr|Ferme Saint-Siméon}}に集まるようになり、印象派に直結する海辺や港の風景画を描いた{{Sfn|島田紀夫|2004|p=26-27}}。
=== 写真の発明 ===
絵具が発達し、絵画の教育システムが確立し、絵画が産業化していく一方で、1827年に[[写真]]が発明される。写真は瞬く間に改良されて、肖像写真として利用されるようになる。正確に描写するだけなら、絵画より写真の方がはるかに正確で安価で納期が早い。写真が普及し始めると画家たちが職にあぶれるようになった。また、瞬間をとらえた写真の映像は、当時の人々にとって全く新しい視覚であり、新たなインスピレーションを画家たちに与えることになった。


これらの画家たちが印象派の先駆けとなった。
== 第1回印象派展 ==
=== エドゥアール・マネ ===
1860年代、[[エドゥアール・マネ]]が一般の女性をそのまま裸婦として描いた作品を発表した。当時の裸婦像は神話や聖書のエピソードとして描くのが普通で、マネの裸婦の絵画は激しい反発を受ける。


=== ジャポニスム ===
== 概要 ==
[[File:Pierre-Auguste Renoir, Le Moulin de la Galette.jpg|thumb|right|[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]『[[ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会|ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場]]』(1876年、[[オルセー美術館]])]]
多くの画家が表現方法を模索する中、[[1867年]][[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]が行われる。これには日本の[[幕府]]、[[薩摩藩]]、[[佐賀藩]]が万博に出展し、日本の工芸品の珍奇な表現方法が大いに人気を集めた。次の[[1878年]][[パリ万国博覧会 (1878年)|パリ万博]]のときには既に[[ジャポニスム]]は一大ムーブメントになっていた。日本画の自由な平面構成による空間表現や、浮世絵の鮮やかな色使いは当時の画家に強烈なインスピレーションを与えた。そして何よりも、絵画は写実的でなければならない、とする制約から画家たちを開放させる大きな後押しとなった。
初期の印象派の画家たちはその当時の急進派であり、[[芸術アカデミー#サロン|アカデミー]]絵画のルールを無視した。彼らは[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]と[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー|J.M.W.ターナー]]のような画家たちに影響され、線や輪郭を描くのでなく、絵筆で自由に絵の具をのせて絵を描いた。また当時の実生活の風景を描き、ときには戸外でも描いた。それまでは[[静物画]]や[[肖像画]]はもちろん、[[風景画]]でさえもアトリエで描かれていた(例外は[[カナレット]]であり、彼は屋外で[[カメラ・オブスクラ]]を使って描いたらしい)。


印象派は戸外で制作することで、瞬間的な日の光だけでなく、それが変化していく様子もとらえられることを見つけた。さらに、細部ではなく全体的な視覚的効果を狙って、(従来のように滑らかさや陰影にこだわらず)混色と原色の絵の具による短い断続的なストロークを並べて、あざやかな色彩をそれが振動しているかのように変化させた。
=== 第1回印象派展の開催 ===
[[1874年]]に[[クロード・モネ|モネ]]、[[エドガー・ドガ|ドガ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]、[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]、[[カミーユ・ピサロ|ピサロ]]、[[ベルト・モリゾ|モリゾ]]、[[アルマン・ギヨマン|ギヨマン]]、[[アルフレッド・シスレー|シスレー]]らが私的に開催した展示会は、後に第1回印象派展と呼ばれるようになる。当時この展示会は社会に全く受け入れられず、印象派の名前はこのときモネが発表した『''印象、日の出(Impression, soleil levant)''』から、新聞記者が「なるほど印象的にヘタクソだ」と揶揄してつけたものである。また、後には[[ジョルジュ・スーラ|スーラ]]、[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]、[[ポール・ゴーギャン]]などの[[ポスト印象派]]、[[新印象派]]へと続くものとなった。


印象派がフランスに現れた時代、[[イタリア]]の[[マッキアイオーリ]]グループやアメリカ合衆国の[[ウィンスロー・ホーマー]]など、多くの画家たちが[[戸外制作]]を試み始めていた。しかし印象派は、そのスタイルに独特の技法を持ち込んだ。賛同者によれば観察の仕方が変わったのであり、そのスタイルは瞬間と動きとのアート、自然なポーズと構図のアート、色彩を明るく変化させて表現される光の効果のアートである。
この運動以降の絵画は写実主義(主義と言うほどの思想は無く、あくまで既得権益と技術体系を軸とする守旧派に過ぎないが)を中心とするアカデミズムから開放され、芸術性やメッセージ性のより強いものに変化し、[[キュビズム]]や[[シュールレアリスム]]などのヨーロッパにおけるさまざまな芸術運動が生まれる契機となった。


批評家や権威者が新しいスタイルを認めなくても、最初は敵対的であった人々までもがだんだんに、印象派は新鮮でオリジナルなモノの見方をしていると思い始めた。細部の輪郭を見るのではなく対象自体を見る感覚を取り戻し、さまざまな技法と表現を創意工夫することで、印象派は[[新印象派]]、[[ポスト印象派]]、[[フォービズム]]、[[キュビズム]]の先駆けになった。
== 印象派絵画の技法 ==
印象派絵画の大きな特徴は、光の動き、変化の質感をいかに絵画で表現するかに重きを置いていることである。時にはある瞬間の変化を強調して表現することもあった。それまでの絵画と比べて絵全体が明るく、色彩に富んでいる。また当時主流だった[[写実主義]]などの細かいタッチと異なり、荒々しい筆致が多く、絵画中に明確な線が見られないことも大きな特徴である。また、それまでの画家たちが主に[[アトリエ]]の中で絵を描いていたのとは対照的に、好んで屋外に出かけて絵を描いた。


== 形成 ==
== 印象派画家の一覧 ==
19世紀中頃は、皇帝[[ナポレオン3世]]がパリを改造する一方で、戦争に突き進むなど変化の多い時代であったが、フランスの美術界は[[芸術アカデミー]]が支配していた。アカデミーは伝統的なフランス絵画のスタンダードを継承していた。 歴史的な題材や宗教的なテーマ、肖像画が価値あるものとされ、風景画や静物画は軽んじられた。アカデミーは、慎重に仕上げられていて間近で見てもリアルな絵画を好んだ。 このような絵画は、アーティストの手描き跡が見えないように、細心にブレンドされた正確なストロークで描かれていた<ref>Nathalia Brodskaya, Impressionism, Parkstone International, 2014, pp. 13-14</ref>。 色彩は抑えられ、金の[[ワニス]]を施すことでさらにトーンダウンされた。 これに対して印象派が使った化学絵の具の色彩は、もっと明るく鮮やかであった<ref name="The Met">[http://www.metmuseum.org/toah/hd/imml/hd_imml.htm Samu, Margaret. "Impressionism: Art and Modernity". In Heilbrunn Timeline of Art History. New York: The Metropolitan Museum of Art, 2000 (October 2004)]</ref>。
以下の表は主な印象派の画家の一覧である。印象派展出品回の項目が空白になっているのは、その画家が一度も印象派展に出品しなかった事を示す。文献によって印象派の画家の分類が異なっているため、印象派と時期が前後している[[写実主義]]、[[バルビゾン派]]、[[ポスト印象派]]、[[新印象派]]の項目も参照されたい。

アカデミーには、その審査員が作品を選ぶ[[展覧会]]である[[サロン・ド・パリ]]があった。ここに作品が展示されたアーティストには賞が与えられ、注文が集まり、名声が高まった。審査員の選考基準はアカデミーの価値判断を表わすが、それは[[ジャン=レオン・ジェローム]]や[[アレクサンドル・カバネル]]の作品で代表されていた。
[[File:Frédéric Bazille - Bazille's Studio - Google Art Project.jpg|thumb|333px|[[フレデリック・バジール]]『バジールのアトリエ、ラ・コンダミンヌ通り』(1870年、[[オルセー美術館]])

左から右へ座っているのがルノワール、階段に立つ[[エミール・ゾラ]]、マネとモネ(帽子着用)、中央の背の高い人物がバジール、ピアノに向かっているのは音楽家の{{仮リンク|エドモン・メートル|fr|Edmond_Maître}}<ref>[The Art Book, 1994 Phaidon Press, page 33, ISBN 91-0-056859-7 http://uk.phaidon.com/store/art/the-art-book-mini-format-9780714836256/]</ref>]]

1860年代の初めに4人の画家、[[クロード・モネ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]、[[アルフレッド・シスレー]]、[[フレデリック・バジール]]は、彼らが学んでいたアカデミー美術家の[[シャルル・グレール]]のもとで出会った。彼らは歴史的または神話的な情景よりも、風景やその当時の生活を描きたいという共通の興味があることを知った。この世紀の半ばには次第にポピュラーとなったことだが、彼らは田舎に出掛けて戸外で絵を描いた。しかし、一般に行われていたように、スケッチを描いておいて後でアトリエで注意深く作品を完成させるのが目的ではなかった<ref>Bomford et al. 1990, pp. 21–27</ref>。自然の陽光の中で、19世紀の初めから使えるようになった鮮明な化学合成の顔料を大胆に使うことで彼らは、[[ギュスターヴ・クールベ]]の[[写実主義]]や[[バルビゾン派]]よりも軽く明るいやり方で絵を描き始めた。彼らはパリのクリシー通りの[[カフェ・ゲルボワ]]にたむろした。そこでは若い画家たちの尊敬を集めていた先輩の[[エドゥアール・マネ]]が議論をリードした。すぐに[[カミーユ・ピサロ]]、[[ポール・セザンヌ]]、[[アルマン・ギヨマン]]もこれに加わった<ref>Greenspan, Taube G. "Armand Guillaumin", ''Grove Art Online. Oxford Art Online'', Oxford University Press</ref>。
[[File:Edouard Manet - Luncheon on the Grass - Google Art Project.jpg|thumb|[[エドゥアール・マネ]]『[[草上の昼食]]』(1863年)]]
1860年代を通じて、サロンの審査会はモネとその友人の作品の約半分を落選とした。従来の様式を順守するアーティストには、この判定は好評であった<ref>Seiberling, Grace, "Impressionism", ''Grove Art Online. Oxford Art Online'', Oxford University Press</ref>。1863年にサロンの審査会は、マネの『[[草上の昼食]]』を落選とした。その主たる理由は、ピクニックで2人の着衣の男性とともにいる裸の女性を描いたことである。サロンは歴史的寓話的な絵画ではヌードを受け入れていたが、現代の設定でリアルなヌードを描いたことでマネを非難した<ref>Denvir (1990), p.133</ref>。 審査会は厳しい言葉でマネの絵画を落選としたので、彼の支持者は唖然となった。この年の異常に多い数の落選作品は、フランスのアーティストを動揺させた。

1863年の落選作品を観たナポレオン3世は、人々が自分で作品を判断できるようにすると宣言し、[[落選展]]が組織された。 多くの見物客は冷やかし半分にやって来たが、それでも新しい傾向のアートの存在に対する関心が巻き起こり、落選展には通常のサロンよりも多くの見物客が訪れた<ref>Denvir (1990), p.194</ref>。
[[File:Alfred Sisley 001.jpg|thumb|left|[[アルフレッド・シスレー]]『サン・マルタン運河の眺め』(1870年、[[オルセー美術館]])]]
再度の落選展を求めるアーティストたちの請願は、1867年、そして1872年にも拒否された。 1873年の後半に、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌ、[[ベルト・モリゾ]]、 [[エドガー・ドガ]]などは「[[画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社]]」([[:fr:Société_anonyme_des_artistes_peintres,_sculpteurs_et_graveurs|''Société anonyme des artistes peintres, sculpteurs et graveurs'']])を組織し、自分たちの作品の独自の展覧会を企画した<ref>Bomford et al. 1990, p. 209</ref>。この会社のメンバーには、サロンへの出展を拒否することが期待された。会社はその最初の展覧会に、他の進歩的アーティストもたくさん招き入れた。その中には、年長の[[ウジェーヌ・ブーダン]]もいた。数年前に彼の作品を見て、モネは戸外制作に踏み切ったのである<ref>Denvir (1990), p.32</ref>。マネや、モネたちに影響を与えた画家である[[ヨハン・ヨンキント]]は、出展を見合わせた。合計30人の芸術家が、1874年4月に写真家[[ナダール]]のスタジオで開かれた最初の展覧会に出展した。展覧会は、後に[[第1回印象派展]]と呼ばれるようになる。当時この展覧会は社会に全く受け入れられず、批判的な反応がいろいろあった。なかでもモネとセザンヌは、いちばん激しい攻撃を受けた。評論家で喜劇作家の[[ルイ・ルロワ]]は風刺新聞「{{仮リンク|ル・シャリヴァリ|fr|Le Charivari}}」に酷評を書いた。その中ではモネの絵の『[[印象・日の出]]』というタイトルにかこつけて、この画家たちを「印象派」と呼んだので、このグループはこの名で知られるようになった。嘲笑の意味も含めて「[[s:印象派の展覧会|印象派の展覧会]]」とタイトルをつけた記事で、ルロワはモネの絵画はせいぜいスケッチであり、完成した作品とは言えないと断じた。見物客どうしの会話のかたちを借りて、ルロワはこう書いている。
{{quotation|''印象かぁー。確かにわしもそう思った。わしも印象を受けたんだから。つまり、その印象が描かれているというわけだなぁー。だが、何という放漫、何といういい加減さだ! この海の絵よりも作りかけの壁紙の方が、まだよく出来ている位だ''<ref>Rewald (1973), p. 323</ref>。}}
[[File:Claude Monet - Woman with a Parasol - Madame Monet and Her Son - Google Art Project.jpg|thumb|upright|[[クロード・モネ]], 『'''[[散歩、日傘をさす女性]]'''』(1875年、[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)]])]]

ところが、「印象派」という言葉は人々からは好感をもって迎えられ、アーティストたち自身もこの言葉を受け入れた<ref>クリストフ・ハインリヒ; ABC Enterprises Inc. (Mikiko Inoue)訳 『モネ』 TASCHEN、2006年、32頁。ISBN 978-4-88783-012-7</ref>。スタイルや気性は異なるアーティスト同士も、独立と反抗の精神でまず合流したのである。彼らのメンバーはときどき入れ替わったが、1874年から1886年まで一緒に全8回の展覧会を開いた。自由で気ままな筆使いの印象派のスタイルは、モダンライフの同義語になった<ref name="The Met" />。

モネとシスレー、モリゾ、ピサロは、一貫して自由気まま、日光、色彩のアートを追求し、「最も純粋な」印象派と評価された。ドガは、色彩よりも描画が優先と信じ、戸外での制作活動にはそれほど価値を見出さなかったので、これらにかなり否定的であった<ref>Gordon; Forge (1988), pp. 11–12</ref>。セザンヌは初期の印象派展には出展したが、1877年の第3回を最後に印象派から離れ、画風も印象派とは異なる独自のものへと変化していった。ルノワールは1880年代に一時的に印象派から離れ、その後は印象派の考え方に完全に賛同することはなかった。エドゥアール・マネは印象派内部では指導者と期待されており<ref>Distel et al. (1974), p. 127</ref>、他のメンバーから印象派展への出展を要請されていたが、色として黒を自由に使うということは止めず、印象派展に出展することは一度もなかった。彼はサロンに出品し続け、『スペインの歌手』は1861年には第2位のメダルを獲得した。他の画家たちには「(世間の評価がそこで決まる)サロンこそが真の戦場だ」と説いた<ref>Richardson (1976), p. 3</ref>。
[[File:Camille Pissarro - Boulevard Montmartre - Eremitage.jpg|thumb|left|[[カミーユ・ピサロ]]『モンマルトル通り』(1897年、[[エルミタージュ美術館]])]]
第4回印象派展が開かれた1879年頃から、グループの中心である画家の中で、(1870年に[[普仏戦争]]で亡くなったバジールを除いて)セザンヌ、さらにはルノワール、シスレー、モネのように、サロンに出展するために、グループ展に出展するのをやめる動きが出てきた。グループ内部にも意見の不一致が生じた。例えば[[アルマン・ギヨマン]]の会員資格について、ピサロとセザンヌはこれを擁護したが、モネとドガは彼には資格がないと反対した<ref>Denvir (1990), p. 105</ref>。ドガは1879年の展覧会に[[メアリー・カサット]]を招待したが、 同時に、初期の印象派展に出展していた[[リュドヴィック=ナポレオン・ルピック]]や、主にサロンに出展していた[[ジャン=フランソワ・ラファエリ]]など、印象派とは画風がやや異なる写実主義者も加えたいと主張した。これに対してモネは1880年、印象派を「絵の良し悪しは抜きにして先着順でドアを開けている」と非難した<ref>Rewald (1973), p. 603</ref>。グループは1886年に[[新印象派]]の[[ジョルジュ・スーラ]]と[[ポール・シニャック]]を招待する件で分裂した。この回には[[象徴主義|象徴派]]の[[オディロン・ルドン]]など、印象派の活動とは無縁な画家も出展した。結果的に印象派展はこの回が最後となった。全部で8回の印象派展に欠かさず出展したのはピサロだけである。

個々のアーティストが印象派展で金銭的に報いられることはほとんどなかったが、作品は次第に人々に受容され支持されるようになった。これについては、作品を人々の眼に触れさせ、[[ロンドン]]や[[ニューヨーク]]で展覧会を開くなどした仲買人の[[ポール・デュラン=リュエル]]が大きく貢献した。1899年にシスレーは貧困のうちに亡くなったが、ルノワールは1879年にサロンで大成功を収めた。モネは1880年代、ピサロは1890年代初期には、経済的に安定した生活を送れるようになった。この時までには印象派の絵画技法は、だいぶ薄められた形ではあったが、サロンでも当たり前になったのである<ref>Rewald (1973), pp. 475–476</ref>。

== 技法 ==
[[File:Cassatt Mary At the Theater 1879.jpg|thumb|upright|[[メアリー・カサット]]『桟敷席にて座って肘をつくリディア』(1879年)]]
印象派絵画の大きな特徴は、光の動き、変化の質感をいかに絵画で表現するかに重きを置いていることである。時にはある瞬間の変化を強調して表現することもあった。それまでの絵画と比べて絵全体が明るく、色彩に富んでいる。また当時主流だった写実主義などの細かいタッチと異なり、荒々しい筆致が多く、絵画中に明確な線が見られないことも大きな特徴である。また、それまでの画家たちが主にアトリエの中で絵を描いていたのとは対照的に、好んで屋外に出かけて絵を描いた。

印象派への道を準備したフランスの画家には、[[ロマン主義]]の色彩主義者[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]、写実主義の指導者[[ギュスターヴ・クールベ]]、バルビゾン派の[[テオドール・ルソー]]がいる。 さらに印象派は、印象派と似たスタイルで自然を学び、年若の画家に先輩として助言した[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー]]や[[ウジェーヌ・ブーダン]]の作品からも多くを学んでいる。

数多くの技法や制作スタイルが、印象派の革新的スタイルに貢献した。これらの技法はそれ以前の画家たちも用いており、[[フランス・ハルス]]、[[ディエゴ・ベラスケス]]、[[ピーテル・パウル・ルーベンス]]、[[ジョン・コンスタブル]]、[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー|J.M.W ターナー]]の作品でははっきり見て取れるが、これを全部まとめ一貫して使ったのは印象派が最初である。その技法は以下のとおりである。
* 短くて厚いストロークで主題の細部ではなくエッセンスを素早く捉える。絵には{{仮リンク|インパスト|en|impasto}}が使われた。
* 色彩はできるだけ混色を避けて並べていく。[[同時対比]]の原理により見る人に色をより生き生きと見せる
* 灰色や暗い色は[[補色]]を混ぜて作る。純粋印象派は黒を塗ることを避ける。
* 前に塗った色が乾かないうちに次の色を塗る{{仮リンク|ウェットオンウェット|en|Wet-on-wet}}でエッジをソフトにして色を混ぜる。
* 印象派の絵は、それまでの画家が注意深く使っていた透明な薄いフィルム(グレーズ)を使わない。印象派の絵には基本的に光沢がない。
* 以前の画家はは暗い灰色や濃い色の下地をよく用いたが、印象派は白または明るい色の下地に描く。
* 自然光の役割を強調する。対象から対象への色彩の反映に注意を払う。画家はしばしば{{enlink|Effets de soir|p=off|s=off}}(夕暮の光と影の効果)を追求するため夕方に制作をした。
* [[戸外制作]]した絵では、空の青が表面に反映しているかのように陰影をくっきりと描き、新鮮な感覚を与えている。
[[File:Guillaumin SoleilCouchantAIvry.jpg|thumb|[[アルマン・ギヨマン]]『イブリーの落陽』(1873年、[[オルセー美術館]])]]
このスタイルの開発には新しい技術が役立っている。印象派は、19世紀半ばの細いチューブ入りの絵の具の出現を活用している。これにより画家は、戸外でも室内でものびのびと制作できるようになった<ref>Bomford et al. 1990, pp. 39–41.</ref>。それ以前は画家それぞれが、顔料の粉を作って[[亜麻仁油]]に混ぜて絵の具をつくり、動物の[[膀胱]]に保存していた<ref>[http://www.phillipscollection.org/docs/education/lbp-kit_4.pdf Renoir and the Impressionist Process] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110105173433/http://phillipscollection.org/docs/education/lbp-kit_4.pdf |date=2011年1月5日 }}. ''The Phillips Collection'', retrieved May 21, 2011</ref>。

19世紀になってたくさんの鮮やかな化学合成顔料が販売されるようになった。これには[[コバルトブルー]]、[[ヴィリジアン]]、[[カドミウムイエロー]]、[[ウルトラマリン|ウルトラマリンブルー]]などがあり、印象派以前の1840年代に既に使われていた<ref name="Wallert_159"/>。印象派の絵画では、さらに1860年代に新しく販売されるようになった[[セルリアンブルー]]とともに、これらの顔料をどんどん使用した<ref name="Wallert_159">Wallert, Arie; Hermens, Erma; Peek, Marja (1995). [https://books.google.co.jp/books?id=pdFOAgAAQBAJ&pg=PA159&dq=&redir_esc=y&hl=ja ''Historical painting techniques, materials, and studio practice: preprints of a symposium, University of Leiden, the Netherlands, 26-29 June, 1995'']. [Marina Del Rey, Calif.]: Getty Conservation Institute. p. 159. ISBN 0-89236-322-3.</ref>。

印象派の絵画スタイルは、段々に明るくなっていった。1860年代には、モネとルノアールはまだ昔ながらの赤茶色またはグレイの下地のキャンバスに描くこともあった<ref name="Hill_177">Stoner, Joyce Hill; Rushfield, Rebecca Anne (2012). [https://books.google.co.jp/books?id=1msM3h9mbaoC&pg=PA177&dq=&redir_esc=y&hl=ja ''The conservation of easel paintings''. London: Routledge. p. 177]. ISBN 1-136-00041-0.</ref>。1870年代にはモネとルノアール、ピサロは、通常は明るいグレイまたはベージュ色の下地に描くことを選び、下地は完成した絵ではミドルトーンのはたらきをした<ref name="Hill_177"/>。1880年代までには何人かの印象派画家は、白または灰白色の下地を好むようになり、下地の色が完成作品において大きな役割を占めることはなくなった<ref>Stoner, Joyce Hill; Rushfield, Rebecca Anne (2012). [https://books.google.co.jp/books?id=1msM3h9mbaoC&pg=PA178&dq=&redir_esc=y&hl=ja ''The conservation of easel paintings''. London: Routledge. p. 178]. ISBN 1-136-00041-0.</ref>。

== 題材と構図 ==
[[File:Hay Harvest at Éragny, 1901, Camille Pissarro.jpg|thumb|left|[[カミーユ・ピサロ]]『エラニーでの干し草の刈り入れ』([[:fr:Fenaison_à_Éragny|''Fenaison à Éragny'']]、1901年、[[カナダ国立美術館]])]]
[[ヤン・ステーン]]のような[[オランダ黄金時代の絵画|17世紀のオランダの画家]]に顕著であるが、印象派以前の画家たちも日常生活的な題材に力を入れていた。しかし、彼らの[[構図]]は旧来のもので、メインの題材(主題)に鑑賞者の注意が集まるように構図をアレンジした。印象派は主題と背景の境目を緩やかにしたので、しばしば印象派の絵には、大きな現実の一部を偶然に切りとったかのようなスナップショットに似た効果がある<ref>Rosenblum (1989), p. 228</ref>。写真が広がり始め、カメラが携帯可能になった。写真は気取りのない率直な態度で、ありのままの現実をとらえるようになった。写真に影響されて、印象派の画家たちは風景の光の中だけでなく、人々の日常生活の瞬間の動きを表現するようになった。
[[File:Berthe Morisot Reading.jpg|thumb|left|[[ベルト・モリゾ]]『読書』(1873年、[[クリーブランド美術館]])]]
[[Image:Claude Monet - Jardin à Sainte-Adresse.jpg|thumb|right|[[クロード・モネ]]『サン・タドレスのテラス』(1867年、[[メトロポリタン美術館]]<ref>[http://www.metmuseum.org/Collections/search-the-collections/437133?rpp=20&pg=1&ao=on&ft=Claude+Monet&pos=1 Metropolitan Museum of Art]</ref>)

日本の浮世絵の影響が見られる作品。]]
写真は現実を写し取るための画家のスキルの価値を低下させた。印象派の発展は、写真が突きつけた難題に対する画家たちのリアクションとも考えられる。「本物そっくりのイメージを効率的かつ忠実に生み出す」という点では、[[肖像画]]と[[風景画]]は不十分だし真実性にも欠けると思われた<ref name = "impressionism757"/>。

それにもかかわらず、写真のおかげで画家たちは他の芸術的表現手段を追求し始めた。現実を模写することを写真と張り合うのでなく、画家たちは「画像を構想した主観性そのもの、写真に模写した主観性そのものをアートの様式に取り込むよって、彼らが写真よりうまくできる一つのこと」<ref name = "impressionism757"/>にフォーカスしたのである。印象派は、正確な再現を生み出すのではなく、彼らにそう見える自然を表現することを追求した。これにより画家は「自分の嗜好と良心とに課される暗黙の責務」を担って、彼らの目に移るものを主観的に描くことが可能になった<ref name="impressionism758">Sontag, Susan (1977) On Photography, Penguin, London</ref>。

画家たちは写真にはない絵の具の特性、例えば色彩をフルに活用した。「写真に対して、主観というオルタナティブを自覚的に提出したのは、印象派が最初であった<ref name="impressionism757">Levinson, Paul (1997) ''The Soft Edge; a Natural History and Future of the Information Revolution'', Routledge, London and New York</ref>。」

もう一つ大きな影響を与えたのは、もともとは輸入品の包み紙としてフランスに入ってきた日本の[[浮世絵]]([[ジャポニズム]])である。浮世絵の技法は、印象派の「スナップショット」アングルと斬新な構図に大きく貢献した。モネの『サン・タドレスのテラス』([[:fr:Terrasse_à_Sainte-Adresse|''Terrasse à Sainte-Adresse'']]、1867年)はその例であって、大胆な色の塊りと強い斜線のある構図は浮世絵の影響である<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=kLEpf5a49V0C&pg=PA433&dq=Terrasse+%C3%A0+Sainte-Adresse+japanese+prints&hl=en&sa=X&ei=dwnPUtm_GKnNsQTV-4KIDA&redir_esc=y#v=onepage&q=Terrasse%20%C3%A0%20Sainte-Adresse%20japanese%20prints&f=false Gary Tinterow, Origins of Impressionism, Metropolitan Museum of Art,1994, page 433]</ref>。美術史家[[新関公子]]は、印象派とジャポニズムの関係について「印象派は[[ゲーテ]]の色彩論(1810年)に端を発する19世紀の色彩学理論を基礎に、自然を自己の感覚に写るままに表現しようとする芸術運動であって、浮世絵が印象派を生んだわけではない。彼らにとって、浮世絵をいかに深く読み取って自分たちの芸術の方法に組み入れるかは、反アカデミズム戦略の一つだった。ジャポニズムは印象派にとって「浮世絵的方法礼讃」なのである」と記している<ref>新関公子「幕末から明治初期の西洋体験」(東京美術学校物語 西洋と日本の出会いと葛藤―2)岩波書店『図書』2023年2月、42‐47頁、引用は47頁。</ref>。

[[エドガー・ドガ]]は熱心な写真家かつ浮世絵の収集家であった<ref>Baumann; Karabelnik, et al. (1994), p. 112.</ref>。彼の『ダンス教室』(1874年)は、その非対称な構図に写真と浮世絵の両方からの影響が見られる。ダンサーたちは無防備で不恰好な姿勢であり、右下の4分の1は何もない床の空間である。彼はまた『[[14歳の小さな踊り子]]』のように、ダンサーの彫刻も残している。

== 各展覧会の概要 ==
各回の展覧会の参加者などは次のとおりである<ref>新関 (2000: 74-78)。</ref>。
{| class="wikitable"
!回数
!会期
!会場
!参加者
|-
|[[第1回印象派展|第1回展]](画家、彫刻家、版画家などの美術家による共同出資会社第1回展) || 1874年4月15日 - 5月15日 || キャプシーヌ大通り、[[ナダール]]写真館 || [[ザカリー・アストリュク]]、{{仮リンク|アントワーヌ・フェルディナン・アタンデュ|fr|Antoine Ferdinand Attendu}}、{{仮リンク|エドゥアール・ベリアール|fr|Édouard Béliard}}、[[ウジェーヌ・ブーダン|ブーダン]]、[[フェリックス・ブラックモン]]、[[エドゥアール・ブランドン]]、{{仮リンク|ピエール・イジドール・ビュロー|fr|Pierre Isidore Bureau}}、[[アドルフ=フェリックス・カルス]]、[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]、[[ギュスターヴ=アンリ・コラン]]、ルイ・ドブラ、[[エドガー・ドガ|ドガ]]、[[アルマン・ギヨマン]]、[[ルイ・ラトゥーシュ]]、[[リュドヴィック=ナポレオン・ルピック]]、[[スタニスラス・レピーヌ]]、{{仮リンク|レオポルド・ルヴェール|es|Léopold Levert}}、アルフレッド・メイエル、オーギュスト・ド・モラン、[[クロード・モネ|モネ]]、[[ベルト・モリゾ]]、{{仮リンク|エミリアン・ミュロ・デュリヴァージュ|fr|Émilien Mulot Durivage}}、[[ジュゼッペ・デ・ニッティス]]、[[オーギュスト・オッタン]]、L・A・オッタン、[[カミーユ・ピサロ|ピサロ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]、[[レオン=ポール=ジョゼフ・ロベール]]、[[アンリ・ルアール]]、[[アルフレッド・シスレー|シスレー]](30名)
|-
|第2回展 || 1876年4月11日 - 5月9日 || ル・ペルティエ通り、[[ポール・デュラン=リュエル|デュラン=リュエル]]画廊 || [[フレデリック・バジール|バジール]](故人)、ベリアール、ブノー、カルス、[[ギュスターヴ・カイユボット|カイユボット]]、ドガ、[[マルスラン・デブータン]]、フランソワ、[[アルフォンス・ルグロ|ルグロ]]、ルヴェール、ルピック、J・B・ミレー([[ジャン=フランソワ・ミレー]]の息子)、モネ、ベルト・モリゾ、L・A・オッタン、ピサロ、ルノワール、ルアール、シスレー、[[シャルル・ティヨ]](20名)
|-
|第3回展 || 1877年4月4日 - 30日 || ル・ペルティエ通り || カイユボット、カルス、セザンヌ、{{仮リンク|フレデリック・コルデー|fr|Frédéric Samuel Cordey}}、ドガ、ギヨマン、ジャック・フランソワ(ある女性画家の偽名)、[[フラン=ラミ]]、ルヴェール、[[ギュスターヴ・モロー|モロー]]、モネ、ベルト・モリゾ、[[ルドヴィック・ピエト]]、ピサロ、ルノワール、ルアール、シスレー、ティヨ(18名)
|-
|第4回展(アンデパンダン、レアリスト、印象派の美術家たちグループによる第4回展) || 1879年4月10日 - 5月11日 || オペラ座通り || [[ポール・ゴーギャン|ゴーギャン]]<ref group="注釈">ゴーギャンは、出展したが、カタログ作成には間に合わず記載されていない。新関 (2000: 75)。</ref>、フェリックス・ブラックモン、[[マリー・ブラックモン]]、カイユボット、カルス、[[メアリー・カサット]]、[[ジャン=ルイ・フォラン|フォラン]]、ルプール、モネ<ref group="注釈">モネは、出展を希望しなかったので、カイユボットが借り集めて出展した。新関 (2000: 75-76)。</ref>、ピエト、ピサロ、ルアール、[[アンリ・ソム]]、ティヨ、[[フェデリコ・ザンドメーネギ|ザンドメーネギ]](16名)
|-
|第5回展(アンデパンダンの美術家たちグループによる第5回展) || 1880年4月10日 - 30日 || ピラミッド通り || フェリックス・ブラックモン、カイユボット、ドガ、フォラン、ゴーギャン、ギヨマン、ルブール、ルヴェール、ピサロ、[[ジャン=フランソワ・ラファエリ|ラファエリ]]、ルアール、ティヨ、ウジェーヌ・ヴィダル、[[ヴィクトール・ヴィニョン|ヴィニョン]]、ザンドメーネギ、マリー・ブラックモン、メアリー・カサット、ベルト・モリゾ(18名<ref group="注釈">マリー・ブラックモン、メアリー・カサット、ベルト・モリゾの女性3名はポスターへの名前掲載を拒否したのでポスター上は15名。新関 (2000: 76)。</ref>)
|-
|第6回展 || 1881年4月2日 - 5月1日 || キャプシーヌ大通り、ナダール写真館別館 || メアリー・カサット、ドガ、フォラン、ゴーギャン、ギヨマン、ベルト・モリゾ、ピサロ、ラファエリ、ルアール、ティヨ、ウジェーヌ・ヴィダル、ヴィニョン、ザンドメーネギ(13名)
|-
|第7回展 || 1882年3月1日 - ? || サン・トノレ通り || カイユボット、ゴーギャン、ギヨマン、モネ、ベルト・モリゾ、ピサロ、シスレー、ルノワール、ヴィニョン(9名)
|-
|第8回展 || 1886年5月15日 - 6月15日 || ラフィット通り || マリー・ブラックモン、メアリー・カサット、ドガ、フォラン、ゴーギャン、ギヨマン、ベルト・モリゾ、ピサロ、[[リュシアン・ピサロ]]([[カミーユ・ピサロ]]の息子)、[[オディロン・ルドン|ルドン]]、ルアール、[[エミール・シェフネッケル|シェフネッケル]]、[[ジョルジュ・スーラ|スーラ]]、[[ポール・シニャック|シニャック]]、ティヨ、ヴィニョン、ザンドメーネギ(17名)
|}

== 画家の一覧 ==
以下の表は主な印象派の画家の一覧である。印象派展出品回の項目が空白になっているのは、その画家が一度も印象派展に出品しなかったことを示す。文献によって印象派の画家の分類が異なっているため、印象派と時期が前後している[[写実主義]]、[[バルビゾン派]]、[[ポスト印象派]]、[[新印象派]]の項目も参照されたい。また、印象派の名称は人口に膾炙しているため、現代でも[[ギィ・デサップ]]など印象派の名を冠される画家が存在する。


{| class="wikitable"
{| class="wikitable"
50行目: 158行目:
!備考
!備考
|-
|-
| [[ジャン=バティスト・カミーユ・]] ||nowrap| [[1796年]] ||nowrap| [[1875年]] || || 活動時期が他の印象派の画家よりも早いため、[[写実主義]]([[バルビゾン]])の画家とされる事が多い
| [[カミーユ・ピサロ]] || [[1830年]] || [[1903年]] || 1 - 8(全回) || 印象主義から離れ点描技法を用いてた時期があるため、新印象派の画家とされることもある
|-
|-
| [[カミピサロ]] || [[1830年]] || [[1903年]] || 1~8(全回) || 印象主義から離れ点描技法を用いていた時期があるため、新印象派の画家とされる事もある
| [[エドガー・ドガ]] || [[1834年]] || [[1917年]] || 1 - 6、8 || 他の印象派の画家とは異なり、古典的手法を重視していた
|-
|-
| [[アルフレッド・シスレー]] || [[1839年]] || [[1899年]] || 1 - 3、7 ||
| [[エドゥアール・マネ]] || [[1832年]] || [[1883年]] || || 印象派とは密接な関係にあるが、芸術運動としての印象派とは一線を画して活動していたため、印象派の画家ではないとする見方もある。
|-
|-
| [[エドガー・ドガ]] || [[1834年]] || [[1917年]] || 1~68 || 他の印象派の画家とは異なり、古典的手法を重視して
| [[セザンヌ]] || [[1839年]] || [[1906年]] || 13 || [[ポスト印象派]]の画家とされることも多い。
|-
|-
| [[アルフレッド・シスレー]] || [[1839年]] || [[1899年]] || 1~3、7 ||
| [[クロード・モネ]] || [[1840年]] || [[1926年]] || 1 - 4、7 ||
|-
|-
| [[ポール・セザンヌ]] || [[1839年]] || [[1906年]] || 13 || [[ポスト印象派]]の画家とされる事も多い。
| [[モリゾ]] || [[1841年]] || [[1895年]] || 1 - 3、5 - 8 ||
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|-
| [[クロモネ]] || [[1840年]] || [[1926年]] || 1~4、7 ||
| [[ピエル=オーギュストルノワール]] || [[1841年]] || [[1919年]] || 1 - 3、7 || 稀にポスト印象派の画家とされることがある。
|-
|-
| [[モリゾ]] || [[1841年]] || [[1895年]] || 1~35~8 ||
| [[マンギヨマン]] || [[1841年]] || [[1927年]] || 13、5 - 8 ||
|-
|-
| [[ピエル=オーギュス・ルノワール]] || [[1841年]] || [[1919年]] || 1~37 || 稀にポスト印象派の画家とされる事がある。
| [[メアリ・カサット]] || [[1844年]] || [[1926年]] || 4 - 68 ||
|-
|-
| [[アルマン・ヨマン]] || [[1841年]] || [[1927年]] || 1、35~8 ||
| [[ギュスターヴ・カイユボット]] || [[1848年]] || [[1894年]] || 2 - 57 ||
|-
|-
| [[メアリーカサット]] || [[1844年]] || [[1926年]] || 4~6、8 ||
| [[エヴァゴンザレス]] || [[1849年]] || [[1883年]] || ||
|-
| [[ギュスターヴ・カイユボット]] || [[1848年]] || [[1894年]] || 2~5、7 ||
|-
| [[ポール・ゴーギャン]] || [[1848年]] || [[1903年]] || 5~8 || ポスト印象派の画家とされる事も多い。
|-
| [[エヴァ・ゴンザレス]] || [[1849年]] || [[1883年]] || ||
|-
| [[フィンセント・ファン・ゴッホ]] || [[1853年]] || [[1890年]] || || ポスト印象派の画家とされる事も多い。
|}
|}


== 音楽 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{main|印象主義音楽}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}


== 参考文献 ==
それまでに[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]や[[フランツ・リスト|リスト]]によって展開されていた機能和声の崩壊を推し進め、また形式を崩し構造を断片化し、一方で[[全音音階]]・[[教会旋法]]・[[五音音階]]の多用による旋法性を基盤に、新たな音楽の確立を目指し、[[20世紀]]以降の音楽に多大な影響を与えた。[[対位法]]の欠如といった属性も特徴である。
{{refbegin|30em}}

* {{Cite book |和書 |author=新関公子 |title=セザンヌとゾラ――その芸術と友情 |publisher=ブリュッケ |year=2000 |isbn= 4-7952-1679-7}}
=== 印象派の作曲家 ===
* {{Cite |和書|author = 島田紀夫 |title = 印象派美術館 |date = 2004 |edition = 初 |publisher = 小学館 |isbn = 4-09-699707-2}}
以下の作曲家の作品全てに「印象派」の分類が当てはまるわけではなく、むしろ一部作品の傾向にとどまっている者の方が多い。
* {{Cite |和書|author=「美術検定」実行委員会 |title=西洋・日本美術史の基本 |series=美術検定 公式テキスト|publisher=美術出版社|date=2008-08-15|isbn=978-4-568-24023-8}}
* [[クロード・ドビュッシー]]([[1862年]] - [[1918年]] フランス)
*Baumann, Felix Andreas, Marianne Karabelnik-Matta, Jean Sutherland Boggs, and Tobia Bezzola (1994). ''Degas Portraits''. London: Merrell Holberton. ISBN 1-85894-014-1
* [[モーリス・ラヴェル]]([[1875年]] - [[1937年]] フランス)
*Bomford, David, Jo Kirby, John Leighton, Ashok Roy, and Raymond White (1990). ''Impressionism''. London: National Gallery. ISBN 0-300-05035-6
* [[ジャック・イベール]]([[1890年]] - [[1962年]] フランス)
*Denvir, Bernard (1990). ''The Thames and Hudson Encyclopaedia of Impressionism''. London: Thames and Hudson. ISBN 0-500-20239-7
* [[オットリーノ・レスピーギ]]([[1879年]] - [[1936年]] イタリア)
*Distel, Anne, Michel Hoog, and Charles S. Moffett (1974). ''[http://libmma.contentdm.oclc.org/cdm/compoundobject/collection/p15324coll10/id/78705/rec/222 Impressionism; a centenary exhibition, the Metropolitan Museum of Art, December 12, 1974-February 10, 1975]''. New York: Metropolitan Museum of Art. ISBN 0-8709-9097-7
* [[フレデリック・ディーリアス]]([[1862年]] - [[1934年]] イギリス)
*Gordon, Robert; Forge, Andrew (1988). ''Degas''. New York: Harry N. Abrams. ISBN 0-8109-1142-6
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== 関連文献(日本語) ==
== 関連文献(日本語) ==
'''画集'''
;画集
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'''概説'''
;概説
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* 吉川節子『印象派の誕生 マネとモネ』中央公論社〈中公新書〉2010年
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* セルジュ・フォーシュロー編『印象派絵画と文豪たち』作田清・加藤雅郁訳、作品社、2004年 
* 三浦篤・中村誠監修 『印象派とその時代 モネからセザンヌへ』美術出版社、2003年
* 三浦篤『大人のための印象派講座』新潮社、2024年
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* ジェームズH・ルービン『印象派』太田泰人訳、岩波書店 2002
* マリナフェレッティ『印象派』武藤剛史訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2008
* シルヴィパタン モネ 印象派の誕生渡辺隆司村上伸子訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、1997
* モーリスセリュラス『印象派』平岡昇丸山尚一訳、白水社〈文庫クセジュ〉、新版1992
* アンリ=アレクシスーシュ『印象派』桑名麻理訳、講談社、1995
* セルジュフォーシュロー編『印象派絵画と文豪たち作田清・加藤雅郁訳、作品社、2004
* ジェームズ・H・ルービン『西洋名画の読み方5 印象派』内藤憲吾ほか訳、創元社、2016年
* ジェームズ・H・ルービン『印象派 岩波世界の美術』太田泰人訳、岩波書店、2002年
* バーナード・デンバー編『印象派全史 1863〜今日まで 巨匠たちの素顔と作品』池上忠治監訳、日本経済新聞出版社、1994年
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* モーリス・セリュラス『印象派』平岡昇・丸山尚一訳、白水社〈文庫クセジュ〉、1992年
* バーナード・デンバー編『素顔の印象派』末永照和訳、美術出版社、1991年
* バーナード・デンバー編『素顔の印象派』末永照和訳、美術出版社、1991年
* リオネッロ・ヴェントゥーリ『印象派の道』長峰朗訳、三省堂書店(創英社)、2023年
* 高階秀爾『近代絵画史 (上) ゴヤからモンドリアンまで』中央公論社〈中公新書〉、1975年


;エッセイ集など
;エッセイ集など 
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* 井出洋一郎『印象派の名画はなぜこんなに面白いのか中経出版中経文庫〉、2012
* 島田紀夫監修『すぐわかる画家別印象派絵画の見かた』東京美術、2007年
* 島田紀夫監修『すぐわかる画家別 印象派絵画の見かた』東京美術、2007年
* 吉岡正人印象派から20世紀名画に隠れた謎を解く! フィラデルフィア美術館の至宝から中央公論2007
* 三浦篤『名画に隠れた「二重の 印象派が「事件」だった時代小学館ビジュアル2012
* 島田紀夫『セーヌで生まれた印象派の名画』小学館ビジュアル新書、2011年
* 西岡文彦『二時間の印象派 全ガイド味わい方と読み方』河出書房新社、1996年
* 中山公男監修『印象派の魅力 花ひらくと色彩ハーニー同朋舎出版、1996
* 中野京子『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へNHK出版新書2011
* 島田紀夫『セ印象派』小学館1996
* 森実与子モネとザン 光と色彩に輝く印象派の画家たち新人物往来社 ビジュアル選書2012
* 杉全美帆子『イラストで読む印象派の画家たち』河出書房新社、2013年
* 西岡文彦『謎解き印象派』河出文庫、2016年
* 赤瀬川原平『印象派の水辺』講談社、新装版2014年
* 『原田マハの印象派物語』新潮社<とんぼの本>、2019年


== 関連項目 ==
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== 関連項目 ==
*[[浮世絵]]
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*[[ジャポニスム]]
*[[印象主義音楽]]
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*[[世紀末芸術]]
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*[[象徴主義]]
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2024年7月14日 (日) 03:08時点における最新版

モネ印象・日の出

印象派(いんしょうは)または印象主義(いんしょうしゅぎ)は、19世紀後半のフランスに発した絵画を中心とした芸術運動であり、当時のパリで連続して開催することで、1870年代から1880年代には突出した存在になった。この運動の名前はクロード・モネの作品『印象・日の出』に由来する。この絵がパリの風刺新聞『ル・シャリヴァリフランス語版』で批評家ルイ・ルロワの槍玉に挙げられ、皮肉交じりに展覧会の名前として記事の中で取り上げられたことがきっかけとなり、「印象派」という新語が生まれた[1]

印象派の絵画の特徴としては、小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク、戸外制作、空間と時間による光の質の変化の正確な描写、描く対象の日常性、人間の知覚や体験に欠かせない要素としての動きの包摂、斬新な描画アングルなどがあげられる。

印象派は登場当初、この時代には王侯貴族に代わって芸術家たちのパトロン役になっていた国家(芸術アカデミー)に評価されず、印象派展も人気がなく絵も売れなかったが、次第に金融家、百貨店主、銀行家、医師、歌手などに市場が広がり、さらにはアメリカ合衆国市場に販路が開けたことで大衆に受け入れられていった[2]ビジュアルアートにおける印象派の発展によって、ほかの芸術分野でもこれを模倣する様式が生まれ、印象主義音楽印象主義文学英語版 として知られるようになった。

ドガ『舞台の踊り子』(1878年、オルセー美術館

前史

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ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』(1831年、ルーブル・ランス)

フランスでは17世紀以来、新古典派の影響下にあるアカデミーが美術に関する行政・教育を支配し、その公募展(官展)であるサロンが画家の登竜門として確立していた。アカデミーでは、古代ローマの美術を手本にして歴史や神話、聖書を描いた「歴史画」が高く評価され、その他のジャンルの絵は低俗とされた。筆跡を残さず光沢のある画面に理想美を描く画法がアカデミーの規範となった[3]。しかし19世紀になると、その規範に従わない若い画家たちが次々に現れ始めた。

ウジェーヌ・ブーダン『トルヴィルの浜辺』(1868年、個人蔵)

これらの画家たちが印象派の先駆けとなった。

概要

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ピエール=オーギュスト・ルノワールムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』(1876年、オルセー美術館

初期の印象派の画家たちはその当時の急進派であり、アカデミー絵画のルールを無視した。彼らはウジェーヌ・ドラクロワJ.M.W.ターナーのような画家たちに影響され、線や輪郭を描くのでなく、絵筆で自由に絵の具をのせて絵を描いた。また当時の実生活の風景を描き、ときには戸外でも描いた。それまでは静物画肖像画はもちろん、風景画でさえもアトリエで描かれていた(例外はカナレットであり、彼は屋外でカメラ・オブスクラを使って描いたらしい)。

印象派は戸外で制作することで、瞬間的な日の光だけでなく、それが変化していく様子もとらえられることを見つけた。さらに、細部ではなく全体的な視覚的効果を狙って、(従来のように滑らかさや陰影にこだわらず)混色と原色の絵の具による短い断続的なストロークを並べて、あざやかな色彩をそれが振動しているかのように変化させた。

印象派がフランスに現れた時代、イタリアマッキアイオーリグループやアメリカ合衆国のウィンスロー・ホーマーなど、多くの画家たちが戸外制作を試み始めていた。しかし印象派は、そのスタイルに独特の技法を持ち込んだ。賛同者によれば観察の仕方が変わったのであり、そのスタイルは瞬間と動きとのアート、自然なポーズと構図のアート、色彩を明るく変化させて表現される光の効果のアートである。

批評家や権威者が新しいスタイルを認めなくても、最初は敵対的であった人々までもがだんだんに、印象派は新鮮でオリジナルなモノの見方をしていると思い始めた。細部の輪郭を見るのではなく対象自体を見る感覚を取り戻し、さまざまな技法と表現を創意工夫することで、印象派は新印象派ポスト印象派フォービズムキュビズムの先駆けになった。

形成

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19世紀中頃は、皇帝ナポレオン3世がパリを改造する一方で、戦争に突き進むなど変化の多い時代であったが、フランスの美術界は芸術アカデミーが支配していた。アカデミーは伝統的なフランス絵画のスタンダードを継承していた。 歴史的な題材や宗教的なテーマ、肖像画が価値あるものとされ、風景画や静物画は軽んじられた。アカデミーは、慎重に仕上げられていて間近で見てもリアルな絵画を好んだ。 このような絵画は、アーティストの手描き跡が見えないように、細心にブレンドされた正確なストロークで描かれていた[11]。 色彩は抑えられ、金のワニスを施すことでさらにトーンダウンされた。 これに対して印象派が使った化学絵の具の色彩は、もっと明るく鮮やかであった[12]

アカデミーには、その審査員が作品を選ぶ展覧会であるサロン・ド・パリがあった。ここに作品が展示されたアーティストには賞が与えられ、注文が集まり、名声が高まった。審査員の選考基準はアカデミーの価値判断を表わすが、それはジャン=レオン・ジェロームアレクサンドル・カバネルの作品で代表されていた。

フレデリック・バジール『バジールのアトリエ、ラ・コンダミンヌ通り』(1870年、オルセー美術館) 左から右へ座っているのがルノワール、階段に立つエミール・ゾラ、マネとモネ(帽子着用)、中央の背の高い人物がバジール、ピアノに向かっているのは音楽家のエドモン・メートルフランス語版[13]

1860年代の初めに4人の画家、クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールアルフレッド・シスレーフレデリック・バジールは、彼らが学んでいたアカデミー美術家のシャルル・グレールのもとで出会った。彼らは歴史的または神話的な情景よりも、風景やその当時の生活を描きたいという共通の興味があることを知った。この世紀の半ばには次第にポピュラーとなったことだが、彼らは田舎に出掛けて戸外で絵を描いた。しかし、一般に行われていたように、スケッチを描いておいて後でアトリエで注意深く作品を完成させるのが目的ではなかった[14]。自然の陽光の中で、19世紀の初めから使えるようになった鮮明な化学合成の顔料を大胆に使うことで彼らは、ギュスターヴ・クールベ写実主義バルビゾン派よりも軽く明るいやり方で絵を描き始めた。彼らはパリのクリシー通りのカフェ・ゲルボワにたむろした。そこでは若い画家たちの尊敬を集めていた先輩のエドゥアール・マネが議論をリードした。すぐにカミーユ・ピサロポール・セザンヌアルマン・ギヨマンもこれに加わった[15]

エドゥアール・マネ草上の昼食』(1863年)

1860年代を通じて、サロンの審査会はモネとその友人の作品の約半分を落選とした。従来の様式を順守するアーティストには、この判定は好評であった[16]。1863年にサロンの審査会は、マネの『草上の昼食』を落選とした。その主たる理由は、ピクニックで2人の着衣の男性とともにいる裸の女性を描いたことである。サロンは歴史的寓話的な絵画ではヌードを受け入れていたが、現代の設定でリアルなヌードを描いたことでマネを非難した[17]。 審査会は厳しい言葉でマネの絵画を落選としたので、彼の支持者は唖然となった。この年の異常に多い数の落選作品は、フランスのアーティストを動揺させた。

1863年の落選作品を観たナポレオン3世は、人々が自分で作品を判断できるようにすると宣言し、落選展が組織された。 多くの見物客は冷やかし半分にやって来たが、それでも新しい傾向のアートの存在に対する関心が巻き起こり、落選展には通常のサロンよりも多くの見物客が訪れた[18]

アルフレッド・シスレー『サン・マルタン運河の眺め』(1870年、オルセー美術館

再度の落選展を求めるアーティストたちの請願は、1867年、そして1872年にも拒否された。 1873年の後半に、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌ、ベルト・モリゾエドガー・ドガなどは「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社」(Société anonyme des artistes peintres, sculpteurs et graveurs)を組織し、自分たちの作品の独自の展覧会を企画した[19]。この会社のメンバーには、サロンへの出展を拒否することが期待された。会社はその最初の展覧会に、他の進歩的アーティストもたくさん招き入れた。その中には、年長のウジェーヌ・ブーダンもいた。数年前に彼の作品を見て、モネは戸外制作に踏み切ったのである[20]。マネや、モネたちに影響を与えた画家であるヨハン・ヨンキントは、出展を見合わせた。合計30人の芸術家が、1874年4月に写真家ナダールのスタジオで開かれた最初の展覧会に出展した。展覧会は、後に第1回印象派展と呼ばれるようになる。当時この展覧会は社会に全く受け入れられず、批判的な反応がいろいろあった。なかでもモネとセザンヌは、いちばん激しい攻撃を受けた。評論家で喜劇作家のルイ・ルロワは風刺新聞「ル・シャリヴァリフランス語版」に酷評を書いた。その中ではモネの絵の『印象・日の出』というタイトルにかこつけて、この画家たちを「印象派」と呼んだので、このグループはこの名で知られるようになった。嘲笑の意味も含めて「印象派の展覧会」とタイトルをつけた記事で、ルロワはモネの絵画はせいぜいスケッチであり、完成した作品とは言えないと断じた。見物客どうしの会話のかたちを借りて、ルロワはこう書いている。

印象かぁー。確かにわしもそう思った。わしも印象を受けたんだから。つまり、その印象が描かれているというわけだなぁー。だが、何という放漫、何といういい加減さだ! この海の絵よりも作りかけの壁紙の方が、まだよく出来ている位だ[21]
クロード・モネ, 『散歩、日傘をさす女性』(1875年、ナショナル・ギャラリー (ワシントン)

ところが、「印象派」という言葉は人々からは好感をもって迎えられ、アーティストたち自身もこの言葉を受け入れた[22]。スタイルや気性は異なるアーティスト同士も、独立と反抗の精神でまず合流したのである。彼らのメンバーはときどき入れ替わったが、1874年から1886年まで一緒に全8回の展覧会を開いた。自由で気ままな筆使いの印象派のスタイルは、モダンライフの同義語になった[12]

モネとシスレー、モリゾ、ピサロは、一貫して自由気まま、日光、色彩のアートを追求し、「最も純粋な」印象派と評価された。ドガは、色彩よりも描画が優先と信じ、戸外での制作活動にはそれほど価値を見出さなかったので、これらにかなり否定的であった[23]。セザンヌは初期の印象派展には出展したが、1877年の第3回を最後に印象派から離れ、画風も印象派とは異なる独自のものへと変化していった。ルノワールは1880年代に一時的に印象派から離れ、その後は印象派の考え方に完全に賛同することはなかった。エドゥアール・マネは印象派内部では指導者と期待されており[24]、他のメンバーから印象派展への出展を要請されていたが、色として黒を自由に使うということは止めず、印象派展に出展することは一度もなかった。彼はサロンに出品し続け、『スペインの歌手』は1861年には第2位のメダルを獲得した。他の画家たちには「(世間の評価がそこで決まる)サロンこそが真の戦場だ」と説いた[25]

カミーユ・ピサロ『モンマルトル通り』(1897年、エルミタージュ美術館

第4回印象派展が開かれた1879年頃から、グループの中心である画家の中で、(1870年に普仏戦争で亡くなったバジールを除いて)セザンヌ、さらにはルノワール、シスレー、モネのように、サロンに出展するために、グループ展に出展するのをやめる動きが出てきた。グループ内部にも意見の不一致が生じた。例えばアルマン・ギヨマンの会員資格について、ピサロとセザンヌはこれを擁護したが、モネとドガは彼には資格がないと反対した[26]。ドガは1879年の展覧会にメアリー・カサットを招待したが、 同時に、初期の印象派展に出展していたリュドヴィック=ナポレオン・ルピックや、主にサロンに出展していたジャン=フランソワ・ラファエリなど、印象派とは画風がやや異なる写実主義者も加えたいと主張した。これに対してモネは1880年、印象派を「絵の良し悪しは抜きにして先着順でドアを開けている」と非難した[27]。グループは1886年に新印象派ジョルジュ・スーラポール・シニャックを招待する件で分裂した。この回には象徴派オディロン・ルドンなど、印象派の活動とは無縁な画家も出展した。結果的に印象派展はこの回が最後となった。全部で8回の印象派展に欠かさず出展したのはピサロだけである。

個々のアーティストが印象派展で金銭的に報いられることはほとんどなかったが、作品は次第に人々に受容され支持されるようになった。これについては、作品を人々の眼に触れさせ、ロンドンニューヨークで展覧会を開くなどした仲買人のポール・デュラン=リュエルが大きく貢献した。1899年にシスレーは貧困のうちに亡くなったが、ルノワールは1879年にサロンで大成功を収めた。モネは1880年代、ピサロは1890年代初期には、経済的に安定した生活を送れるようになった。この時までには印象派の絵画技法は、だいぶ薄められた形ではあったが、サロンでも当たり前になったのである[28]

技法

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メアリー・カサット『桟敷席にて座って肘をつくリディア』(1879年)

印象派絵画の大きな特徴は、光の動き、変化の質感をいかに絵画で表現するかに重きを置いていることである。時にはある瞬間の変化を強調して表現することもあった。それまでの絵画と比べて絵全体が明るく、色彩に富んでいる。また当時主流だった写実主義などの細かいタッチと異なり、荒々しい筆致が多く、絵画中に明確な線が見られないことも大きな特徴である。また、それまでの画家たちが主にアトリエの中で絵を描いていたのとは対照的に、好んで屋外に出かけて絵を描いた。

印象派への道を準備したフランスの画家には、ロマン主義の色彩主義者ウジェーヌ・ドラクロワ、写実主義の指導者ギュスターヴ・クールベ、バルビゾン派のテオドール・ルソーがいる。 さらに印象派は、印象派と似たスタイルで自然を学び、年若の画家に先輩として助言したジャン=バティスト・カミーユ・コローウジェーヌ・ブーダンの作品からも多くを学んでいる。

数多くの技法や制作スタイルが、印象派の革新的スタイルに貢献した。これらの技法はそれ以前の画家たちも用いており、フランス・ハルスディエゴ・ベラスケスピーテル・パウル・ルーベンスジョン・コンスタブルJ.M.W ターナーの作品でははっきり見て取れるが、これを全部まとめ一貫して使ったのは印象派が最初である。その技法は以下のとおりである。

  • 短くて厚いストロークで主題の細部ではなくエッセンスを素早く捉える。絵にはインパスト英語版が使われた。
  • 色彩はできるだけ混色を避けて並べていく。同時対比の原理により見る人に色をより生き生きと見せる
  • 灰色や暗い色は補色を混ぜて作る。純粋印象派は黒を塗ることを避ける。
  • 前に塗った色が乾かないうちに次の色を塗るウェットオンウェット英語版でエッジをソフトにして色を混ぜる。
  • 印象派の絵は、それまでの画家が注意深く使っていた透明な薄いフィルム(グレーズ)を使わない。印象派の絵には基本的に光沢がない。
  • 以前の画家はは暗い灰色や濃い色の下地をよく用いたが、印象派は白または明るい色の下地に描く。
  • 自然光の役割を強調する。対象から対象への色彩の反映に注意を払う。画家はしばしばEffets de soir(夕暮の光と影の効果)を追求するため夕方に制作をした。
  • 戸外制作した絵では、空の青が表面に反映しているかのように陰影をくっきりと描き、新鮮な感覚を与えている。
アルマン・ギヨマン『イブリーの落陽』(1873年、オルセー美術館

このスタイルの開発には新しい技術が役立っている。印象派は、19世紀半ばの細いチューブ入りの絵の具の出現を活用している。これにより画家は、戸外でも室内でものびのびと制作できるようになった[29]。それ以前は画家それぞれが、顔料の粉を作って亜麻仁油に混ぜて絵の具をつくり、動物の膀胱に保存していた[30]

19世紀になってたくさんの鮮やかな化学合成顔料が販売されるようになった。これにはコバルトブルーヴィリジアンカドミウムイエローウルトラマリンブルーなどがあり、印象派以前の1840年代に既に使われていた[31]。印象派の絵画では、さらに1860年代に新しく販売されるようになったセルリアンブルーとともに、これらの顔料をどんどん使用した[31]

印象派の絵画スタイルは、段々に明るくなっていった。1860年代には、モネとルノアールはまだ昔ながらの赤茶色またはグレイの下地のキャンバスに描くこともあった[32]。1870年代にはモネとルノアール、ピサロは、通常は明るいグレイまたはベージュ色の下地に描くことを選び、下地は完成した絵ではミドルトーンのはたらきをした[32]。1880年代までには何人かの印象派画家は、白または灰白色の下地を好むようになり、下地の色が完成作品において大きな役割を占めることはなくなった[33]

題材と構図

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カミーユ・ピサロ『エラニーでの干し草の刈り入れ』(Fenaison à Éragny、1901年、カナダ国立美術館

ヤン・ステーンのような17世紀のオランダの画家に顕著であるが、印象派以前の画家たちも日常生活的な題材に力を入れていた。しかし、彼らの構図は旧来のもので、メインの題材(主題)に鑑賞者の注意が集まるように構図をアレンジした。印象派は主題と背景の境目を緩やかにしたので、しばしば印象派の絵には、大きな現実の一部を偶然に切りとったかのようなスナップショットに似た効果がある[34]。写真が広がり始め、カメラが携帯可能になった。写真は気取りのない率直な態度で、ありのままの現実をとらえるようになった。写真に影響されて、印象派の画家たちは風景の光の中だけでなく、人々の日常生活の瞬間の動きを表現するようになった。

ベルト・モリゾ『読書』(1873年、クリーブランド美術館
クロード・モネ『サン・タドレスのテラス』(1867年、メトロポリタン美術館[35]) 日本の浮世絵の影響が見られる作品。

写真は現実を写し取るための画家のスキルの価値を低下させた。印象派の発展は、写真が突きつけた難題に対する画家たちのリアクションとも考えられる。「本物そっくりのイメージを効率的かつ忠実に生み出す」という点では、肖像画風景画は不十分だし真実性にも欠けると思われた[36]

それにもかかわらず、写真のおかげで画家たちは他の芸術的表現手段を追求し始めた。現実を模写することを写真と張り合うのでなく、画家たちは「画像を構想した主観性そのもの、写真に模写した主観性そのものをアートの様式に取り込むよって、彼らが写真よりうまくできる一つのこと」[36]にフォーカスしたのである。印象派は、正確な再現を生み出すのではなく、彼らにそう見える自然を表現することを追求した。これにより画家は「自分の嗜好と良心とに課される暗黙の責務」を担って、彼らの目に移るものを主観的に描くことが可能になった[37]

画家たちは写真にはない絵の具の特性、例えば色彩をフルに活用した。「写真に対して、主観というオルタナティブを自覚的に提出したのは、印象派が最初であった[36]。」

もう一つ大きな影響を与えたのは、もともとは輸入品の包み紙としてフランスに入ってきた日本の浮世絵ジャポニズム)である。浮世絵の技法は、印象派の「スナップショット」アングルと斬新な構図に大きく貢献した。モネの『サン・タドレスのテラス』(Terrasse à Sainte-Adresse、1867年)はその例であって、大胆な色の塊りと強い斜線のある構図は浮世絵の影響である[38]。美術史家新関公子は、印象派とジャポニズムの関係について「印象派はゲーテの色彩論(1810年)に端を発する19世紀の色彩学理論を基礎に、自然を自己の感覚に写るままに表現しようとする芸術運動であって、浮世絵が印象派を生んだわけではない。彼らにとって、浮世絵をいかに深く読み取って自分たちの芸術の方法に組み入れるかは、反アカデミズム戦略の一つだった。ジャポニズムは印象派にとって「浮世絵的方法礼讃」なのである」と記している[39]

エドガー・ドガは熱心な写真家かつ浮世絵の収集家であった[40]。彼の『ダンス教室』(1874年)は、その非対称な構図に写真と浮世絵の両方からの影響が見られる。ダンサーたちは無防備で不恰好な姿勢であり、右下の4分の1は何もない床の空間である。彼はまた『14歳の小さな踊り子』のように、ダンサーの彫刻も残している。

各展覧会の概要

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各回の展覧会の参加者などは次のとおりである[41]

回数 会期 会場 参加者
第1回展(画家、彫刻家、版画家などの美術家による共同出資会社第1回展) 1874年4月15日 - 5月15日 キャプシーヌ大通り、ナダール写真館 ザカリー・アストリュクアントワーヌ・フェルディナン・アタンデュフランス語版エドゥアール・ベリアールフランス語版ブーダンフェリックス・ブラックモンエドゥアール・ブランドンピエール・イジドール・ビュローフランス語版アドルフ=フェリックス・カルスセザンヌギュスターヴ=アンリ・コラン、ルイ・ドブラ、ドガアルマン・ギヨマンルイ・ラトゥーシュリュドヴィック=ナポレオン・ルピックスタニスラス・レピーヌレオポルド・ルヴェールスペイン語版、アルフレッド・メイエル、オーギュスト・ド・モラン、モネベルト・モリゾエミリアン・ミュロ・デュリヴァージュフランス語版ジュゼッペ・デ・ニッティスオーギュスト・オッタン、L・A・オッタン、ピサロルノワールレオン=ポール=ジョゼフ・ロベールアンリ・ルアールシスレー(30名)
第2回展 1876年4月11日 - 5月9日 ル・ペルティエ通り、デュラン=リュエル画廊 バジール(故人)、ベリアール、ブノー、カルス、カイユボット、ドガ、マルスラン・デブータン、フランソワ、ルグロ、ルヴェール、ルピック、J・B・ミレー(ジャン=フランソワ・ミレーの息子)、モネ、ベルト・モリゾ、L・A・オッタン、ピサロ、ルノワール、ルアール、シスレー、シャルル・ティヨ(20名)
第3回展 1877年4月4日 - 30日 ル・ペルティエ通り カイユボット、カルス、セザンヌ、フレデリック・コルデーフランス語版、ドガ、ギヨマン、ジャック・フランソワ(ある女性画家の偽名)、フラン=ラミ、ルヴェール、モロー、モネ、ベルト・モリゾ、ルドヴィック・ピエト、ピサロ、ルノワール、ルアール、シスレー、ティヨ(18名)
第4回展(アンデパンダン、レアリスト、印象派の美術家たちグループによる第4回展) 1879年4月10日 - 5月11日 オペラ座通り ゴーギャン[注釈 2]、フェリックス・ブラックモン、マリー・ブラックモン、カイユボット、カルス、メアリー・カサットフォラン、ルプール、モネ[注釈 3]、ピエト、ピサロ、ルアール、アンリ・ソム、ティヨ、ザンドメーネギ(16名)
第5回展(アンデパンダンの美術家たちグループによる第5回展) 1880年4月10日 - 30日 ピラミッド通り フェリックス・ブラックモン、カイユボット、ドガ、フォラン、ゴーギャン、ギヨマン、ルブール、ルヴェール、ピサロ、ラファエリ、ルアール、ティヨ、ウジェーヌ・ヴィダル、ヴィニョン、ザンドメーネギ、マリー・ブラックモン、メアリー・カサット、ベルト・モリゾ(18名[注釈 4]
第6回展 1881年4月2日 - 5月1日 キャプシーヌ大通り、ナダール写真館別館 メアリー・カサット、ドガ、フォラン、ゴーギャン、ギヨマン、ベルト・モリゾ、ピサロ、ラファエリ、ルアール、ティヨ、ウジェーヌ・ヴィダル、ヴィニョン、ザンドメーネギ(13名)
第7回展 1882年3月1日 - ? サン・トノレ通り カイユボット、ゴーギャン、ギヨマン、モネ、ベルト・モリゾ、ピサロ、シスレー、ルノワール、ヴィニョン(9名)
第8回展 1886年5月15日 - 6月15日 ラフィット通り マリー・ブラックモン、メアリー・カサット、ドガ、フォラン、ゴーギャン、ギヨマン、ベルト・モリゾ、ピサロ、リュシアン・ピサロカミーユ・ピサロの息子)、ルドン、ルアール、シェフネッケルスーラシニャック、ティヨ、ヴィニョン、ザンドメーネギ(17名)

画家の一覧

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以下の表は主な印象派の画家の一覧である。印象派展出品回の項目が空白になっているのは、その画家が一度も印象派展に出品しなかったことを示す。文献によって印象派の画家の分類が異なっているため、印象派と時期が前後している写実主義バルビゾン派ポスト印象派新印象派の項目も参照されたい。また、印象派の名称は人口に膾炙しているため、現代でもギィ・デサップなど印象派の名を冠される画家が存在する。

画家 生年 没年 印象派展
出品回
備考
カミーユ・ピサロ 1830年 1903年 1 - 8(全回) 印象主義から離れ点描技法を用いていた時期があるため、新印象派の画家とされることもある。
エドガー・ドガ 1834年 1917年 1 - 6、8 他の印象派の画家とは異なり、古典的手法を重視していた。
アルフレッド・シスレー 1839年 1899年 1 - 3、7
ポール・セザンヌ 1839年 1906年 1、3 ポスト印象派の画家とされることも多い。
クロード・モネ 1840年 1926年 1 - 4、7
ベルト・モリゾ 1841年 1895年 1 - 3、5 - 8
ピエール=オーギュスト・ルノワール 1841年 1919年 1 - 3、7 稀にポスト印象派の画家とされることがある。
アルマン・ギヨマン 1841年 1927年 1、3、5 - 8
メアリー・カサット 1844年 1926年 4 - 6、8
ギュスターヴ・カイユボット 1848年 1894年 2 - 5、7
エヴァ・ゴンザレス 1849年 1883年

脚注

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注釈

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  1. ^ 広義の写実主義は西洋美術の伝統であり、アカデミーや新古典派も見えるとおりに描きながら理想的な形へ整えていく写実描写を実践している。ここで言及しているのは、そのような理想化は一切しないで、ありのままに捉えようとする運動としての19世紀の写実主義(レアリスム)のこと。
  2. ^ ゴーギャンは、出展したが、カタログ作成には間に合わず記載されていない。新関 (2000: 75)。
  3. ^ モネは、出展を希望しなかったので、カイユボットが借り集めて出展した。新関 (2000: 75-76)。
  4. ^ マリー・ブラックモン、メアリー・カサット、ベルト・モリゾの女性3名はポスターへの名前掲載を拒否したのでポスター上は15名。新関 (2000: 76)。

出典

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  1. ^ シルヴィ・パタン; 村上伸子訳 『モネ-印象派の誕生』 (1版) 創元社、2010年、42頁。ISBN 978-4-422-21127-5
  2. ^ 海野 弘『パトロン物語-アートとマネーの不可思議な関係』(初)角川書店、2002年6月10日、62-71頁。ISBN 4-04-704087-8 
  3. ^ 島田紀夫 2004, p. 22-25.
  4. ^ テオドール・ジェリコー-メデュース号の筏-(画像・壁紙)” (2008年3月17日). 2014年11月2日閲覧。
  5. ^ ≪7月28日-民衆を導く自由の女神≫”. 2014年11月2日閲覧。
  6. ^ 島田紀夫 2004, p. 27.
  7. ^ 「美術検定」実行委員会 2008, p. 67.
  8. ^ 島田紀夫 2004, p. 80.
  9. ^ 「美術検定」実行委員会 2008, p. 68.
  10. ^ 島田紀夫 2004, p. 26-27.
  11. ^ Nathalia Brodskaya, Impressionism, Parkstone International, 2014, pp. 13-14
  12. ^ a b Samu, Margaret. "Impressionism: Art and Modernity". In Heilbrunn Timeline of Art History. New York: The Metropolitan Museum of Art, 2000 (October 2004)
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  16. ^ Seiberling, Grace, "Impressionism", Grove Art Online. Oxford Art Online, Oxford University Press
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  20. ^ Denvir (1990), p.32
  21. ^ Rewald (1973), p. 323
  22. ^ クリストフ・ハインリヒ; ABC Enterprises Inc. (Mikiko Inoue)訳 『モネ』 TASCHEN、2006年、32頁。ISBN 978-4-88783-012-7
  23. ^ Gordon; Forge (1988), pp. 11–12
  24. ^ Distel et al. (1974), p. 127
  25. ^ Richardson (1976), p. 3
  26. ^ Denvir (1990), p. 105
  27. ^ Rewald (1973), p. 603
  28. ^ Rewald (1973), pp. 475–476
  29. ^ Bomford et al. 1990, pp. 39–41.
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  33. ^ Stoner, Joyce Hill; Rushfield, Rebecca Anne (2012). The conservation of easel paintings. London: Routledge. p. 178. ISBN 1-136-00041-0.
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  38. ^ Gary Tinterow, Origins of Impressionism, Metropolitan Museum of Art,1994, page 433
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  40. ^ Baumann; Karabelnik, et al. (1994), p. 112.
  41. ^ 新関 (2000: 74-78)。

参考文献

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  • 新関公子『セザンヌとゾラ――その芸術と友情』ブリュッケ、2000年。ISBN 4-7952-1679-7 
  • 島田紀夫『印象派美術館』(初)小学館、2004年。ISBN 4-09-699707-2 
  • 「美術検定」実行委員会『西洋・日本美術史の基本』美術出版社〈美術検定 公式テキスト〉、2008年8月15日。ISBN 978-4-568-24023-8 
  • Baumann, Felix Andreas, Marianne Karabelnik-Matta, Jean Sutherland Boggs, and Tobia Bezzola (1994). Degas Portraits. London: Merrell Holberton. ISBN 1-85894-014-1
  • Bomford, David, Jo Kirby, John Leighton, Ashok Roy, and Raymond White (1990). Impressionism. London: National Gallery. ISBN 0-300-05035-6
  • Denvir, Bernard (1990). The Thames and Hudson Encyclopaedia of Impressionism. London: Thames and Hudson. ISBN 0-500-20239-7
  • Distel, Anne, Michel Hoog, and Charles S. Moffett (1974). Impressionism; a centenary exhibition, the Metropolitan Museum of Art, December 12, 1974-February 10, 1975. New York: Metropolitan Museum of Art. ISBN 0-8709-9097-7
  • Gordon, Robert; Forge, Andrew (1988). Degas. New York: Harry N. Abrams. ISBN 0-8109-1142-6
  • Gowing, Lawrence, with Adriani, Götz; Krumrine, Mary Louise; Lewis, Mary Tompkins; Patin, Sylvie; Rewald, John (1988). Cézanne: The Early Years 1859-1872. New York: Harry N. Abrams.
  • Jensen, Robert (1994). Marketing modernism in fin-de-siècle Europe. Princeton, N.J.: Princeton University Press. ISBN 0-691-03333-1.
  • Moskowitz, Ira; Sérullaz, Maurice (1962). French Impressionists: A Selection of Drawings of the French 19th Century. Boston and Toronto: Little, Brown and Company. ISBN 0-316-58560-2
  • Rewald, John (1973). The History of Impressionism (4th, Revised Ed.). New York: The Museum of Modern Art. ISBN 0-87070-360-9
    • ジョン・リウォルド 『印象派の歴史』三浦篤・坂上桂子訳、角川書店、2004年/角川ソフィア文庫(上下)、2019年
  • Richardson, John (1976). Manet (3rd Ed.). Oxford: Phaidon Press Ltd. ISBN 0-7148-1743-0
  • Rosenblum, Robert (1989). Paintings in the Musée d'Orsay. New York: Stewart, Tabori & Chang. ISBN 1-55670-099-7
  • Moffett, Charles S. (1986). "The New Painting, Impressionism 1874-1886". Geneva: Richard Burton SA.

関連文献(日本語)

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画集
  • 池上忠治編『印象派時代 世界美術大全集西洋編 22』小学館、1993年。高階秀爾ほか監修
  • 池上忠治編『後期印象派時代 世界美術大全集西洋編 23』小学館、1993年。高階秀爾ほか監修
  • 島田紀夫『西洋絵画の巨匠 1 モネ』小学館、2006年
  • 圀府寺司『西洋絵画の巨匠 2 ゴッホ』小学館、2006年
  • 賀川恭子『西洋絵画の巨匠 4 ルノワール』小学館、2006年
  • 坂上桂子『西洋絵画の巨匠 6 モリゾ』小学館、2006年
  • ジャン・クレイ『印象派』高階秀爾監訳、中央公論社、1987年
  • フランソワーズ・カシャンほか『バーンズ・コレクション 印象派の宝庫』天野知香ほか訳、講談社、1993年
  • マーク・パウエル=ジョーンズほか『印象派の絵画』六人部昭典訳、西村書店〈アート・ライブラリー〉、2001年
概説
  • 吉川節子『印象派の誕生 マネとモネ』中央公論新社〈中公新書〉、2010年
  • 高階秀爾『近代絵画史 (上) ロマン主義、印象派、ゴッホ』中央公論新社〈カラー版中公新書〉、2017年。増訂版
  • 尾関幸・陳岡めぐみ・三浦篤『西洋美術の歴史7 19世紀 近代美術の誕生、ロマン派から印象派へ』中央公論新社、2017年
  • 島田紀夫『印象派の挑戦 モネ、ルノワール、ドガたちの友情と闘い』小学館、2009年
  • 島田紀夫『印象派と日本人 「日の出」は世界を照らしたか』平凡社、2019年
  • 木村泰司『印象派という革命』集英社、2012年/ちくま文庫、2018年
  • 三浦篤『大人のための印象派講座』新潮社、2024年
  • 三浦篤・中村誠監修『印象派とその時代 モネからセザンヌへ』美術出版社、2003年
  • マリナ・フェレッティ『印象派』武藤剛史訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2008年
  • モーリス・セリュラス『印象派』平岡昇・丸山尚一訳、白水社〈文庫クセジュ〉、新版1992年
  • セルジュ・フォーシュロー編『印象派絵画と文豪たち』作田清・加藤雅郁訳、作品社、2004年
  • ジェームズ・H・ルービン『西洋名画の読み方5 印象派』内藤憲吾ほか訳、創元社、2016年
  • ジェームズ・H・ルービン『印象派 岩波世界の美術』太田泰人訳、岩波書店、2002年
  • バーナード・デンバー編『印象派全史 1863〜今日まで 巨匠たちの素顔と作品』池上忠治監訳、日本経済新聞出版社、1994年
  • バーナード・デンバー編『素顔の印象派』末永照和訳、美術出版社、1991年
  • リオネッロ・ヴェントゥーリ『印象派の道』長峰朗訳、三省堂書店(創英社)、2023年
エッセイ集など 
  • 井出洋一郎『印象派の名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版〈中経の文庫〉、2012年
  • 島田紀夫監修『すぐわかる画家別 印象派絵画の見かた』東京美術、2007年
  • 三浦篤『名画に隠された「二重の謎」 印象派が「事件」だった時代』小学館ビジュアル新書、2012年
  • 島田紀夫『セーヌで生まれた印象派の名画』小学館ビジュアル新書、2011年
  • 中野京子『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ』NHK出版新書、2011年
  • 森実与子『モネとセザンヌ 光と色彩に輝く印象派の画家たち』新人物往来社 ビジュアル選書、2012年
  • 杉全美帆子『イラストで読む印象派の画家たち』河出書房新社、2013年
  • 西岡文彦『謎解き印象派』河出文庫、2016年
  • 赤瀬川原平『印象派の水辺』講談社、新装版2014年
  • 『原田マハの印象派物語』新潮社<とんぼの本>、2019年

関連項目

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