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「エアバスA300」の版間の差分

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{{Infobox 航空機
{{Infobox 航空機
|名称=エアバスA300
| 名称=エアバスA300
|画像=File:JA8464 A300B2K-3C JAS Japan Air System NGO 08JUL01 (6880865540).jpg
| 画像=File:Airbus A300B2-101, Air France AN1917942.jpg
|キャプション=[[日本アシテム]]A300B2K
| キャプション=エールフラン運航当時A300B2
|用途=[[旅客機]]
| 用途=[[旅客機]]、[[貨物機]]
|分類=[[ワイドボディ]]民間旅客機
| 分類=[[ワイドボディ]]
|設計者=
| 設計者=
|製造者=[[エアバス]]
| 製造者={{flagicon|EUR}} [[エアバス]]
| 運用者 more= <span style="font-size:95%;">(2022年8月現在の運用数上位5社)</span><ref name="AirbusOrd&Del">{{cite web |title=Orders & Deliveries |url=https://www.airbus.com/aircraft/market/orders-deliveries.html |work=[[エアバス]] |date=30 June 2021 |access-date=9 July 2021 |archive-date=10 February 2019 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190210065631/https://www.airbus.com/aircraft/market/orders-deliveries.html |url-status=live }}</ref>
|運用者 more=:[[日本航空]]<br/>[[ルフトハンザドイツ航空]]<br/>[[タイ国際航空]]<br/>[[フェデックス]]<br/>[[エールフランス]]など
** [[フェデックス・エクスプレス]]
|初飛行年月日=[[1972年]][[10月28日]]
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** [[エア・ホンコン]]
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| 初飛行年月日=[[1972年]][[10月28日]]{{sfn|浜田|2010a|p=96}}
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}}
'''エアバスA300'''(Airbus A300)は、国際共同会社の[[エアバス|エアバス・インダストリー]]設立後、最初に開発した[[旅客機]]である300数字は、座席数300席を意味している。[[1972年]][[10月28日]]に初飛行している
'''エアバスA300''' ({{lang|en|'''Airbus A300'''}}) は、エアバス・インダストリー(後の[[エアバス]]が開発・製造した双発[[ジェット機|ジェット]][[旅客機]]。世界初双発[[ワイドボディ機|ワイドボディ]]旅客機であり、エアバス社設立のきっかけとなった


機種名のA300は、エアバスのAと初期構想の座席数300席にちなむ。A300は2つの世代に分けることができ、第1世代はA300Bとも呼ばれる。新技術の採用で[[グラスコックピット]]化された次世代型は[[エアバスA300-600|A300-600]]と呼ばれる。本項ではA300第1世代を中心に説明する([[エアバスA300-600|A300-600]]シリーズについては当該ページを参照)。
== 概要 ==
[[File:Airbus A300 cross section.jpg|thumb|250px|left|A300の機体断面モデル]]
A300は、世界初の双発[[エンジン]]の[[ワイドボディ]][[旅客機]]である。真円形の胴体に[[ボーイング747]]用の[[コンテナ#航空機用コンテナ|LD3コンテナ]]を並列に搭載可能な設計のため、他の機体と比較して、床下の[[キャビン|貨物室]]が広いが、旅客スペースは窓側と天井付近がやや狭い。だが、LD3コンテナの並列搭載が可能なことから、旅客型から貨物型へと改造された機体もある。


本格的なジェット旅客機の時代を迎えた[[1960年代]]、[[バス (交通機関)|バス]]のように気軽に乗れる大型旅客機「エアバス」の登場が待望された。当時、欧州の航空機メーカーは単独で「エアバス」を事業化する体力が無かったため、国際共同開発体制によりA300構想が推進されることとなる。そして、紆余曲折を経て[[フランス]]と[[西ドイツ]](当時)政府が中心となり企業連合エアバス・インダストリーが設立、A300が開発された。
[[エアバス]]社では、A300および派生形の[[エアバスA310|A310]]の新規受注はすでに受け付けておらず、[[2007年]][[7月11日]]、最終号機が[[フェデックス]](N692FE)に引き渡され、生産が終了した<ref>{{Cite news | title = A300/A310 Final Assembly to be completed by July 2007 | publisher=Airbus | date = 7 March 2006 | url = http://www.airbus.com/en/presscentre/pressreleases/pressreleases_items/07_03_06_A300_final_assembly.html}}</ref><ref>{{Cite news | title = The last A300 makes its maiden flight | publisher=Airbus | date = 18 April 2007 | url = http://www.airbus.com/en/myairbus/newsbrief/index.jsp}}</ref>。なお、旅客型はすでに実質[[1998年]]に生産終了しており、その後は[[日本エアシステム]]向けの機体が[[貨物機]]の合間を縫って生産されたのみで、旅客型の最終号機は[[2002年]]11月に引き渡されたJA016Dである。


A300は低翼配置の主翼下に左右1発ずつ[[ターボファンエンジン]]を装備し、[[尾翼]]は低翼配置、[[降着装置]]は前輪配置である。A300第1世代の全長は53.62メートル{{refnest|group="注釈"|name=length|A300B1として開発された1号機と2号機のみ全長が50.97メートル{{sfn|藤田|2001b|p=57}}。}}、全幅は44.84メートル、[[最大離陸重量]]は116.5トンから165トンで、最大巡航速度はマッハ0.82から0.84である。当初、A300は欧州域内の短距離機として開発されたが、後に離着陸性能や航続距離性能を強化した派生型が開発され、一部の海上ルートを含む中距離路線にも進出した。旅客型だけでなく貨客転換型や貨物専用型も開発された。貨物型は新造のほか旅客型からの改造も行われており、[[2024年]]現在、一部の中東の航空会社を除き、主に貨物機としての運航が中心である。
== 技術 ==
[[エアバス]]社の共同事業は、[[1960年代]]に計画が開始された超音速[[旅客機]]である[[コンコルド]]から派生した、いくつかの最新の技術を使用している。技術的な注目点は、
* [[デ・ハビランド・エアクラフト|デ・ハビランド]](後の[[BAEシステムズ]])によって進歩した翼
:* 卓越した経済的な性能の翼部分(リア・ローディング翼型、スーパークリティカル・ウィング)
:* 進歩した航空力学的に実効力のある飛行制御
* 構造は重量軽減のため、「金属鋼片」(メタル・ビレット)でできている
* [[ウィンド・シア]](急激な風速・風向の変動で風と風がぶつかる所に発生)を「ウィンド・シア警報装置」により制御した最初の[[航空機]]


A300第1世代は[[1974年]]に[[エールフランス]]により初就航し、A300-600は[[1984年]]に[[サウジアラビア航空]]により初就航した。役目を終えた第1世代は1985年に生産を終了し、A300-600シリーズは[[2007年]]まで生産された。総生産数はA300第1世代が250機、A300-600シリーズは317機であった。[[2017年]]1月現在、A300の関係した機体損失事故が34件、[[ハイジャック]]が30件起きている。死者を伴う事件・事故は15件発生しており、合わせて1,435人が亡くなっている。
== 歴史 ==
[[File:Air France Airbus A300B2 Volpati.jpg|thumb|250px|[[エールフランス航空]] A300B2]]
[[File:Eastern Air Lines Airbus A300 at St Maarten December 1986.jpg|thumb|250px|イースタン航空が導入したA300。これをきっかけにエアバスはアメリカ市場への進出に成功する]]
[[1970年]]12月のエアバス・インダストリー社設立後、最初に開発すべき[[旅客機]]のコンセプトは、[[ヨーロッパ]]域内を結ぶ座席数300、[[航続距離]]3,000kmというものになった。この座席数にちなみ、機名はA300と決定された。この300は当時の2クラス制における標準座席300という意味であり、コンセプト上の機体サイズは[[ロッキード L-1011 トライスター|L-1011]]や[[DC-10 (航空機)|DC-10]]と同等で、双発機としては現在の[[ボーイング777|ボーイング777-200]]に近い大型機であった。しかし、[[エンジン]]として想定していた[[ロールス・ロイス]]のRB207(これも現在のTrent700に匹敵する大きさのビッグ・ファンであった)が[[ロールス・ロイス RB211|RB211]]の当初予定していた複合材製のファンブレードであるHyfilに起因する不具合<ref>この斬新な複合材製のファンブレードは金属製のファンブレードと比較して耐衝撃性に劣るため、バードストライクの試験に不合格になった。そのため、ファンブレードのみならずエンジン全体の設計をやり直さなければならなかったばかりか、これが原因でロールス・ロイス社は資金難に陥り、倒産し、国営化された</ref>による開発遅延の影響を受け実現の見込みが立たなくなったため[[GE・アビエーション|GE]] [[ゼネラル・エレクトリック CF6|CF6-50]] エンジンの双発に改めそれに伴って機体サイズを縮小した。それが実際に開発されたA300Bである。


以下、本項ではジェット旅客機については社名を省略して英数字のみで表記する。例えば、「エアバスA300」であれば「A300」、「[[ボーイング747]]」であれば「747」、「[[マクドネル・ダグラス DC-10|ダグラスDC-10]]」はDC-10、「[[ロッキード L-1011 トライスター|ロッキードL-1011]]」はL-1011とする。
[[1972年]][[10月28日]]に原型機のA300B1が初飛行を行った。初の量産型のA300B2は、A300B1の胴体を2.65m延長したものであり、[[1973年]][[6月28日]]に初飛行を行った。


== 沿革 ==
当初は10数機しか発注が無く、苦戦が続いた。当時は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のDC-10や、ロッキード L-1011 トライスター、[[ボーイング747]]が熾烈な販売競争を展開していたが、新興のエアバスはそれらより販売開始が遅い上、初期導入のB2は航続距離が短く、[[大西洋]]横断無着陸飛行ができないことなどから、ヨーロッパの航空会社でもエアバスを採用しようというところはほとんど無かった。
=== ヨーロピアン・エアバス構想 ===
「エアバス」という言葉は、もともと特定の機種名や企業名を指すものではなく、「中短距離用の大型ワイドボディ旅客機」という意味合いで使われ、その語源は[[1960年代]]の[[ヨーロッパ|欧州]]の大型機構想にある{{sfn|浜田|2010a|p=93}}{{sfn|松田|1981a|p=52}}{{sfn|久世|2006|p=141}}。[[1950年代]]終盤に[[ボーイング707|707]]と[[ダグラス DC-8|DC-8]]が相次いで就航すると、本格的なジェット旅客機の時代が到来した{{sfn|久世|2006|p=135}}。航空旅客は爆発的に増加し、1960年代の中盤になると旅客機の大型化が望まれるようになった{{sfn|久世|2006|p=135}}。空港に行けばいつでも飛行機に乗れる時代が到来すると予想され、バスのように気軽に乗れる飛行機として「空のバス」すなわち「エアバス」という言葉が生まれた{{sfn|粂|2007|p=28}}{{sfn|帆足|2001|p=38}}。


[[1964年]]に[[イギリス]]では[[ロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント|王立航空研究所]]の主導でメーカーや航空会社も参加した委員会が開かれ、今後の欧州には大量輸送用に経済的な短距離輸送機が必要になるとの考えから様々な機体案が検討された{{sfn|松田|1981a|p=52}}。フランスでも[[1961年]]から[[1962年]]頃に[[エールフランス]]が[[シュド・カラベル|カラベル]]の後継となる大型短距離旅客機の開発を求めており、[[1963年]]から[[1965年]]にかけて[[シュド・アビアシオン|シュド]]、[[ノール・アビアシオン|ノール]]、[[ブレゲー (航空機メーカー)|ブレゲー]]らのメーカーが200席から250席級の旅客機構想を相次いで発表した{{sfn|松田|1981a|pp=52&ndash;53}}。同じ頃、ドイツ([[西ドイツ]])の航空機メーカーは小規模だったため、[[1960年]]に[[メッサーシュミット]]、{{仮リンク|ベルコウ|en|Bölkow}}、{{仮リンク|ジーベル|en|Siebel}}、[[ドルニエ]]、VFWなどの各社が集まりエアバス検討グループが立ち上げられ、後のドイチェ・エアバスの前身となった{{sfn|松田|1981a|p=53}}。
しかし、エアバスは粘り強く売り込みを続けた。当時のアメリカの4大航空会社の一つだった[[イースタン航空]]に無償で貸与すると、三発機のトライスターなどよりも燃費が良く効率的だと判断したイースタン航空はこれを採用したため、アメリカでも売れ行きが伸びはじめ、[[アメリカン航空]]や[[パンアメリカン航空]]などの他の大手航空会社も相次いで導入し、最終的に200機以上を売り上げることに成功した。


こうして「エアバス」への関心が西欧全体で高まり、1965年の[[パリ航空ショー]]の頃からドイツ・フランス間、あるいはフランス・イギリス間などでメーカー間の相談も始まるようになった{{sfn|松田|1981a|p=53}}。1965年10月20日から21日にかけて、[[英国欧州航空]]主催によるエアバスシンポジウムが開かれた{{sfn|松田|1981a|p=53}}。この会議に西欧各国の航空会社やメーカーが集まり、200ないし250席で新しい大型エンジンを備えた双発機というエアバス像が練られた{{sfn|松田|1981a|p=53}}。これに沿って1965年11月にはイギリス・フランス両政府のワーキンググループが以下のような欧州エアバスの概要仕様をまとめた{{sfn|松田|1981a|p=53}}。
また、[[ルフトハンザ航空]]や[[イベリア航空]]、[[スカンジナビア航空]]などのヨーロッパの航空会社や、[[東亜国内航空]]や大韓航空<ref name="Champagne... and Drought">[http://www.airbus.com/company/history/the-narrative/champagneand-drought-1973-1977/ Champagne... and drought], The story of Airbus from its inception to today.</ref>、[[タイ国際航空]]などの[[アジア]]の航空会社にも導入され、国内線や近距離国際線を中心に就航した。
* 座席数:200 - 225席(座席間隔34[[インチ]]の1クラス)
* 航続距離:1,500キロメートル(810海里)
* 離陸滑走距離:2,000メートル
* 着陸滑走距離:1,800メートル
その他、1座席を1マイル飛ばすためのコストは[[ボーイング727|727-100]]より30パーセント低く、在来機よりも低騒音、自動着陸を可能とすることなども要求に盛り込まれた{{sfn|松田|1981a|p=53}}。


[[ファイル:Pan Am Boeing 747-100 Clipper Unity.jpg|thumb|200px|[[パンアメリカン航空]]の747。ボーイングは[[アメリカ空軍|米空軍]]の大型輸送機の受注に失敗した後、超大型旅客機747を開発した。]]
[[1980年代]]に入り、派生形のA310のライバルとしてボーイングからセミワイドボディ双発機の[[ボーイング767]]が発売されたことや、より大型の[[ボーイング777]]の開発が開始されたことなどを受け、[[1990年代]]初頭に、A300の胴体を延長し、最新のテクノロジーを投入した[[エアバスA330|A330]]が開発された。その後販売の主力がA330に移ったことなどにより、[[2007年]][[7月11日]]に最終号機が[[フェデックス]]に引き渡され、生産が終了した。
一方、[[アメリカ合衆国|米国]]でも1960年代中頃に大型旅客機を求める動きが盛り上がっていた{{sfn|松田|1981a|p=53}}{{sfn|久世|2006|pp=135&ndash;141}}{{sfn|青木|2010|p=123}}。1965年秋に[[アメリカ空軍|米空軍]]の大型輸送機[[C-5 (航空機)|CX-HLS]]の受注に失敗したボーイングは、その設計チームと培われた技術をもって超大型機[[ボーイング747|747]]を開発することを決定した{{sfn|松田|1981a|p=53}}{{sfn|久世|2006|pp=135&ndash;141}}。これは[[パンアメリカン航空]]がメーカーに開発を呼びかけていた機材でもあった{{sfn|久世|2006|pp=135&ndash;141}}。また、[[1966年]]3月には[[アメリカン航空]]が米国内幹線に適した「大型双発機」の要求仕様を発表し、メーカーに開発を促していた{{sfn|松田|1981a|p=53}}{{sfn|久世|2006|pp=135&ndash;141}}。これら米国の大型旅客機計画と比べると、欧州エアバスの要求仕様は特に航続距離が短く、欧州域内の輸送に適した旅客機を目指している点が特徴だった{{sfn|松田|1981a|p=53}}。


== 派生型 ==
=== 国際共同開発へ ===
欧州エアバス構想は欧州のメーカーが開発経験のない大型旅客機であり開発費も高額になると見込まれた{{sfn|青木|2010|p=123}}{{sfn|帆足|2001|p=38}}。当時欧州の航空機メーカーは、米国のボーイングやダグラスに販売機数で大きな差をつけられており、1社単独では巨額の開発費を賄うことは困難視され、現実策として複数メーカーでの共同開発が模索された{{sfn|青木|2010|p=123}}{{sfn|松田|1981a|p=53}}{{sfn|帆足|2001|p=38}}。
; A300B1
: 原型機。生産機数2機。最大離陸重量132,000[[キログラム|kg]]および220k[[ニュートン|N]]の推力を得られる[[ゼネラル・エレクトリック]]製[[ゼネラル・エレクトリック CF6|CF6-50A]]型[[エンジン]]を装備し、[[旅客数]]259座席の設備である。2機のうち1機(F-OCAZ)は航空会社に引き渡されず、[[エアバス]]の試験機として一生を過ごした。
[[File:Cruzeiro do Sul Airbus A300 Aragao.jpg|thumb|250px|[[クルゼイロ航空]] A300B2]]
[[File:Singapore Airlines Airbus A300 Fitzgerald.jpg|thumb|250px|[[シンガポール航空]] A300B4]]
; A300B2
: 初期量産型。227kNおよび236kNの両方の推力を得られるゼネラル・エレクトリック製CF6型か[[プラット・アンド・ホイットニー]]製[[プラット・アンド・ホイットニー JT9D|JT9D]] エンジンを使用。[[1974年]]5月に[[エールフランス]]に引き渡された。
: [[航続距離]]は1,850km(1,000[[海里]])。
: [[日本]]では[[日本エアシステム|東亜国内航空]]が[[1981年]]3月に初めて就航させたA300もこの形式だが、[[2006年]]3月を最後に[[定期運航]]を外れ、同年5月に全機登録抹消。なお、東亜国内航空-日本エアシステム時代のA300シリーズの塗装・レインボーカラーはエアバス社の[[デモフライト]]機の塗装を譲り受けた物で、[[日本航空インターナショナル|日本航空]]との合併後もB2型機については同塗装のままだったが、B2型機の日本からの消滅に伴い同塗装も消滅、エアバス社へ自動的に権利が戻る形となった。同社が就航させた機体はすべて離着陸性能を向上させるため、主翼前縁下面のパネルが前方展開するクルーガーフラップを装備したA300B2Kで、最大9機を保有した。
; A300B4
: 最大離陸重量を157トン(のちに165トン)へ増加した航続距離延長型。初期生産では主流はB2型からB4型へと移った。B2/B4型の生産は総数248機である。
: 航続距離4,070km(2,200[[海里]])。
: [[日本航空ジャパン]]の社名が東亜国内航空-日本エアシステム時代にこの型も8機導入し、その中にはA300B4としては珍しい[[サイドカーゴドア]]を装備した機体もあった。なお、このとき生産はすでに後述するA300-600に移行していたが、[[旅客機のコックピット|コックピット]]が大きく異なることから、機種統一の観点から中古機を全世界からかき集めて運航していた。
; A300FFCC
: 最初の2名[[操縦士|パイロット]][[航空機]]。初めにガルーダ・インドネシア航空およびヴァリグ・ブラジル航空へ引き渡される。
; A300F4
: 貨物型(旅客型からの改造のみで新造はなし)。
; A300C4
: 貨客混載/転換型。
; A300 ZERO-G
: 各種改造によりパラポリック・トラジェクトリ(放物線飛行)を行い、マイクロ・グラビティー(微重力)状態を[[キャビン|客室]]で再現できるようにした機体。(エアバス社の社有機であるA300の3号機を使用)
[[File:Saudi Arabian Airlines Airbus A300 Karakas.jpg|thumb|250px|サウジアラビア航空 A300-600B4]]
[[File:A300-600R_200604_obihiro_01.JPG|thumb|250px|日本航空 A300-622R]]
[[File:Doha Airport 2008 (40).JPG|thumb|250px|[[カタール航空]] A300-600F]]
; A300-600
: 今までのA300は、[[1960年代]]の技術を投入した第3世代のジェット旅客機であった。[[エアバスA310]]の開発が[[1978年]]7月に決定し、在来型のA300とは10年の技術差が生じたため、A310の技術を取り入れたA300の開発が決定した。このモデルの正式型式はA300B4-600であるが、現在はA300-600と呼ばれるのが一般的であり、以後もA300-600で表記する。この機体の構造は基本的にA310とほぼ共通である。A300-600とA310の胴体断面の直径は同じ5.64mであるが、A300-600はA310の胴体を7.48m延長し、その全長は54.14mとなっている。胴体後部の絞りもA310と同様の設計がなされ、従来のA300より急激なものとなっている。このことにより270席程度の座席配置が可能となり、従来のA300と比べ45席ほど増加した。
: また、B2/B4型のエンジンよりも[[推力]]を向上させた、[[GE・アビエーション|ゼネラル・エレクトリック]]製CF6-80、および[[プラット・アンド・ホイットニー]]製[[プラット・アンド・ホイットニー PW4000|PW4000]] エンジンを採用し[[1983年]]に初飛行、[[1988年]]に[[サウジアラビア航空]]に引き渡された。その他のB2/B4型からの変更点として、[[複合材]]の使用量増加・[[アビオニクス]]更新などがあげられ、結果、重量軽減・座席増・航続距離延長(7,500km, 4,050海里)が可能になり、さらに、[[巡航]]時の抵抗を軽減させる[[ウイングチップ|ウィング・チップ・フェンス]]を新設した。
; [[エアバスA300-600R|A300-600R]]
: 600型に燃料タンクの増設と機体構造重量の減少を行い、[[離陸重量]]を増加させることで更なる航続距離延長を行ったもの。正式な型式は、ゼネラル・エレクトリック製エンジンを搭載する機体はA300-605R、プラット・アンド・ホイットニー製エンジンを搭載する機体はA300-622Rとなる。航続距離は7,700km(4,157海里)。
: 日本では、日本航空がプラット・アンド・ホイットニー製のPW4158 エンジンを搭載した22機のA300-622Rを運用していた。発注したのは、その後日本航空と合併することとなる日本エアシステムであったため、21機は日本エアシステム塗装で納入されたが、最後の22機目は現在の日本航空塗装で納入された(当時、日本航空、日本エアシステム共に、現在の日本航空塗装への塗り替えが進行していた)。日本航空では同機種を[[2011年]][[3月26日]]のJAL1210便([[鹿児島空港|鹿児島]]-[[東京国際空港|羽田]])で定期運航を終え、全機退役させる予定であったが、[[東日本大震災]]による航空需要の急増により、退役が同年[[5月31日]]のJAL1208便([[青森空港|青森]]-羽田)に延期された。
; A300-600F
: 600R型の貨物型。[[香港]]の貨物専用航空会社のエア・ホンコンが最初のカスタマーである。日本では[[佐川急便]]系列の[[ギャラクシーエアラインズ]]が2機保有していた。
; [[エアバス ベルーガ|A300-600ST]] ベルーガ
: エアバス社がグループ・メーカー間で機体の一部を[[輸送]]するため使用されていた[[スーパーグッピー]]の後継機として開発された機体。ベルーガの愛称で知られている。機体の基本は600型、主翼は600R型のものを使用。搭載口を上方へ開く形にした結果、前方から貨物を搭載するため貨物室の床面とコックピットの天井を同一平面にしたため、コックピットは下方に下げられその後方に[[電子機器]]を収納し、前方貨物室は廃止したため、その外観は特徴的なものとなっている。


1966年7月にエアバス計画の担当企業としてイギリス政府が[[ホーカー・シドレー]]を、フランス政府がシュドを指名し、これにドイツのエアバス検討グループが加わり共同プロジェクトとしてヨーロピアン・エアバスを開発することに合意した{{sfn|松田|1981a|p=53}}。同年10月15日にプロジェクト参加企業はそれぞれの政府に対して計画への助成申請を行ったほか、機体仕様のとりまとめも進行して[[1967年]]2月に初期仕様書が発行された{{sfn|松田|1981a|p=53}}{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=8}}。
<!-- まとめたかったのですが、-600か-600Rか区別がつかないため消します。中途半端になり非常に申し訳ありません。
=== 参考:A300-600/600R ===
* 従来型との相違点
** [[グラスコックピット]]機であること
** [[飛行管理装置|FMS]](Flight Management System)が搭載され、自動航法が可能になった
** 従来型に見られた機体の構造上の問題による貨物等の搭載制限が無くなった
-->
{{-}}


その後、ヨーロピアン・エアバスは、より広い旅客機市場に対応できるよう[[最大離陸重量]]が120トンに引き上げられ機体サイズが300席級に大型化した{{sfn|松田|1981a|p=53}}。この機体案はエアバス (Airbus) の"A"と座席数の"300"を組み合わせて'''A-300'''と呼ばれるようになった(当初、ハイフンを含む表記が用いられたが、のちにハイフンなしのA300となっている。){{sfn|松田|1981a|p=53}}{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=8}}。1966年7月にボーイングが正式開発を決定していた747との共通性を重視するよう仕様が変更され、胴体直径は747とほぼ同じ6.4メートル、搭載できる貨物コンテナや床面地上高も747と同じとされた{{sfn|松田|1981a|p=53}}。また、航空会社はエンジンについても747と同じ[[プラット・アンド・ホイットニー]](以下、P&W)社の[[プラット・アンド・ホイットニー JT9D|JT9D]]を装備するよう要請していた{{sfn|松田|1981a|p=53}}。
== 仕様 ==
[[File:Airbus A300B2-103, Novespace (CNES) AN1993670.jpg|thumb|250px|A300のコックピット]]
[[File:Airbus A300B4-605R, Lufthansa AN1542813.jpg|thumb|250px|ルフトハンザドイツ航空 A300-600Rの機内]]
[[File:American Airlines Airbus A300-600 inbound to John F. Kennedy International Airport.jpg|thumb|250px|アメリカン航空 A300-600]]
; A300B2/B4
* 全幅:44.84m
* 全長:53.62m
* 全高:16.53m
* 乗客:最大345名
* 航続距離(最大ペイロード)1,850km(1,000海里)(A300B2)/4,070km(2,200海里)(A300B4)


しかし、イギリスは自国の[[ロールス・ロイス・ホールディングス|ロールス・ロイス]](以下、{{nowrap|R-R}})が計画していた新エンジン「RB207」の採用を強硬に主張し、英仏独政府間の調整により、機体の取りまとめをフランスが担当するかわりとしてエンジンは{{nowrap|R-R}}製RB207双発のみとなった{{sfn|松田|1981a|pp=53&ndash;54}}。1967年9月4日には西ドイツにおけるエアバス事業の受け皿として、[[メッサーシュミット・ベルコウ・ブローム|MBB]]{{refnest|group="注釈"|1968年から1969年にかけて[[メッサーシュミット]]、{{仮リンク|ベルコウ|en|Bölkow}}、{{仮リンク|HFB|en|Hamburger Flugzeugbau}}が相次いで合併して誕生した企業。}}とVFWの合弁によりドイチェ・エアバス社が設立された{{sfn|松田|1981a|p=54}}{{sfn|日本航空宇宙工業会|2007|p=208}}。こうして着々と準備が進められ、1967年9月26日に英仏独3か国政府で以下のようなA-300プロジェクトの[[了解覚書]]が取り交わされた{{sfn|松田|1981a|p=54}}{{sfn|日本航空宇宙工業会|2007|p=208}}{{sfn|浜田|2010a|p=94}}{{sfn|帆足|2001|p=39}}。
; [[エアバスA300-600R|A300-600/600R]]
# 機体開発費は推定総額1.4億[[スターリング・ポンド|ポンド]]で分担は英仏が各37.5パーセント、独が25パーセント。
* 全幅:44.84m
# エンジン開発費は推定総額6千万ポンドで分担は英75パーセント、独仏が各12.5パーセント。
* 全長:54.08m
# 機体設計はシュドが主導してホーカー・シドレーとドイチェ・エアバスが協力する。
* 全高:16.52m
# エンジン設計は{{nowrap|R-R}}が主導し、仏の[[スネクマ]]と独の[[MTUエアロ・エンジンズ|MTU]]が協力する。
* 乗客:最大361名
# 装備品は欧州内のみから調達。
* 航続距離(最大ペイロード)4,070km(2,200海里)(A300-600)/5,000km(2,700海里)(A300-600R)
# 販売のための共同会社を設立。
# [[1968年]]7月31日までに英国欧州航空、エールフランス、[[ルフトハンザドイツ航空|ルフトハンザ航空]]から計75機の受注が得られたら実機開発に着手。
# 仮日程として初飛行は[[1971年]]3月、型式証明は[[1972年]]11月、初就航を[[1973年]]春とする。


=== イギリスの離脱 ===
{|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:80%;"
華やかにスタートしたエアバス計画だったが1年後には雲行きが怪しくなった{{sfn|松田|1981a|p=54}}。1967年から1968年にかけて[[風洞]]試験や構造の設計が進んだが、米国の[[ダグラス・エアクラフト|ダグラス]]や[[ロッキード]]も「エアバス」機体案を練っており、それに対抗してA-300の設計案はさらに大型化した{{sfn|松田|1981a|p=54}}。航空会社側の意見を入れて胴体直径は5.94メートルに縮小されたものの、最大離陸重量は138.5トンまで増加し、RB207エンジンの推力増強が必要になった{{sfn|松田|1981a|p=54}}。開発費の見積もりも機体が2.1億ポンド、エンジンは7000万ポンドまで膨らんだ{{sfn|松田|1981a|p=54}}。
!style="background:#dddd00;"|項目!!style="background:#dddd00;"|A300B4!!style="background:#dddd00;"|A300-600R!!style="background:#dddd00;"|A300-600F

{{Multiple image|align=right|direction=vertical|footer_align=center
|image1=Lockheed L-1011-500 Tristar, EuroAtlantic Airways JP6154918.jpg
|image2=McDonnell Douglas DC-10-10, American Airlines AN1021178.jpg
|alt1=ロッキードL-1011の右側面。
|alt2=DC-10の左側面。
|width=200
|footer=米国のロッキードとダグラスは、ほぼ同時に3発大型機となるL-1011(上)とDC-10(下)の開発をそれぞれ決定した。}}
航空会社側は大きすぎると難色を示し、1968年7月31日の期限になっても1機の発注もなかった{{sfn|松田|1981a|p=54}}。経済が停滞していたイギリスでは政府が支出を切り詰めようとしており、A-300反対論が台頭した{{sfn|松田|1981a|p=54}}{{sfn|浜田|2010a|p=95}}。さらに決定的だったのは、A-300計画がもたついている間に米国の「エアバス」構想が具体化し、1968年4月にロッキードとダグラスがそれぞれ[[ロッキード L-1011 トライスター|L-1011]]と[[マクドネル・ダグラス DC-10|DC-10]]の生産に着手したことだった{{sfn|松田|1981a|p=54}}{{sfn|浜田|2010a|p=94}}。これで、A-300が見込んでいた市場が奪われてしまうだけでなく、{{nowrap|R-R}}がL-1011向けに新型エンジン[[ロールス・ロイス RB211|RB211]]の開発を受注したことで、{{nowrap|R-R}}およびイギリス政府は販売数が期待されたRB211の開発を優先してA-300向けRB207エンジンには積極的でなくなった{{sfn|松田|1981a|p=54}}{{sfn|青木|2010|p=124}}{{sfn|坂出|2009|pp=49&ndash;51}}。

このような状況でA-300プロジェクトは機体の小型化を検討した{{sfn|松田|1981a|p=54}}{{sfn|青木|2010|p=124}}。エンジンは747、DC-10、L-1011と同じエンジンを流用することになり、A-300は、ゼネラル・エレクトリック(以下、GE)製[[ゼネラル・エレクトリック CF6|CF6]]、P&W製JT9D、あるいはRB211のどれでも装備可能な双発機とされた{{sfn|松田|1981a|p=54}}{{sfn|浜田|2010a|pp=94&ndash;95}}。最大離陸重量は125トンに抑えられ、胴体直径は5.54メートルまで縮小、座席数は約50席減の252席(座席間隔34[[インチ]]の1クラスの場合)となった{{sfn|松田|1981a|p=54}}{{sfn|浜田|2010a|pp=94&ndash;95}}。この小型化した機体案は'''A-300B'''と呼ばれ、航空会社の要望にも沿ったものであったが、依然として受注獲得には至らなかった{{sfn|松田|1981a|p=54}}{{sfn|青木|2010|p=124}}。

この間、イギリスでは機体担当のホーカー・シドレー社を除いて計画への熱意がますます冷めていき、ついに[[1969年]]4月10日、イギリス政府はこれ以上の財政負担はできないとして計画からの脱退を発表した{{sfn|松田|1981a|pp=54&ndash;55}}{{sfn|青木|2010|p=124}}{{sfn|浜田|2010a|p=95}}。イギリス政府は{{nowrap|R-R}}によるエンジン独占がなくなった上、A-300Bは事業的成功に懐疑的になったと判断した{{sfn|坂出|2009|pp=51&ndash;52}}{{sfn|松田|1981a|p=55}}。

=== エアバス・インダストリーの設立 ===
最初の先導役だったイギリスが離脱したが、フランス・ドイツ両政府は2国だけでもエアバス計画を続行することを決定した{{sfn|松田|1981a|p=55}}。1969年5月29日、[[パリ航空ショー]]に出展していたA-300Bの客室モックアップの中で、仏独両政府の民間航空担当大臣により計画の正式決定の調印式が行われた{{sfn|松田|1981a|p=55}}{{sfn|浜田|2010a|p=95}}。この時点での受注数は未だゼロだったが、初飛行を1972年、[[型式証明]]の取得を1973年春の予定で計画が進められることとなった{{sfn|松田|1981a|p=55}}{{sfn|浜田|2010a|p=95}}。

フランスとドイツの両政府が開発資金を融資し、シュドとドイチェ・エアバスが継続してそれぞれの国の事業担当となった{{sfn|松田|1981a|p=55}}。イギリス政府は計画から離脱したことで、主翼開発に参画していたホーカー・シドレーが窮地に立った{{sfn|坂出|2009|p=53}}。ホーカー・シドレーは民間企業としてプロジェクト参加継続を希望したが、政府の援助なしには主翼開発が難しかった{{sfn|坂出|2009|p=53}}。主翼を開発できる代替企業もなかったことから、開発費の一部をドイツ政府が援助する条件でホーカー・シドレーは自社資金でプロジェクトに残ることになり、1969年6月にシュドおよびドイチェ・エアバスに対して参加契約を締結した{{sfn|松田|1981a|p=55}}{{sfn|青木|2010|p=124}}{{sfn|坂出|2009|p=53}}。また、同年11月には[[オランダ]]の[[フォッカー]]もプロジェクトに加わった{{sfn|松田|1981a|p=55}}。[[1970年]]1月にはフランスでシュドとノールが合併してアエロスパシアルとなりエアバス担当企業の座を引き継いだ{{sfn|松田|1981a|p=55}}。

フランス・ドイツ両政府の積極的な支援のもと計画は前進し、1970年12月18日、共同事業を取りまとめるため企業連合「エアバス・インダストリー」が設立された{{sfn|松田|1981a|p=55}}{{sfn|青木|2010|p=125}}。エアバス・インダストリーはフランス商法に基づく{{仮リンク|経済利益団体|en|Groupement d'intérêt économique}} (GIE) で、単独法人ではなく参加企業が共同で責任を持つ特殊会社であった{{sfn|松田|1981a|p=55}}{{sfn|日本航空宇宙工業会|2007|p=208}}。設立時はアエロスパシアルとドイチェ・エアバスが50対50で出資し、1971年12月23日には[[スペイン]]の[[コンストルクシオネス・アエロナウティカス S.A.|CASA]]もメンバーに加わり出資比率は表1のようになった{{sfn|松田|1981a|p=55}}。ホーカー・シドレーとフォッカーは協力会社として開発や生産を分担した{{sfn|松田|1981a|p=55}}。開発費は参加企業だけでなく各社を抱える各国政府による分担もあり、その内訳は表1の通りとなった{{sfn|松田|1981a|p=55}}。
{| class="wikitable" style="font-size:91%;"
|+ {{nowrap|表1: A300の生産・開発費分担と1978年までのエアバス・インダストリーへの出資比率}}
|-
|-
! 国名
!一般的な座席数
! 企業名
|colspan="2"|266席(2クラス)||15(21)[[パレット (輸送)|パレット]]
! 生産分担部位
! 生産シェア{{sup|†1}}
! 開発費分担
! 出資比率
|-
|-
|style="text-align:center;"| {{nowrap|フランス}}
!全長
|style="text-align:center;"| {{nowrap|[[アエロスパシアル]] }}
|colspan="3"|{{Convert|54.08|m|ft|l=1}}
| 機首部、胴体中央下部、中央翼、パイロン、最終組み立て
|style="text-align:right;"| 36.1[[パーセント|%]]
|style="text-align:right;"| 43%{{sup|†2}}
|style="text-align:right;"| 47.9%
|-
|-
|style="text-align:center;"| {{nowrap|西ドイツ{{sup|†3}} }}
!翼幅
|style="text-align:center;"| {{nowrap|ドイチェ・エアバス}}
|colspan="3"|{{Convert|44.85|m|ft}}
| 胴体前方、胴体中央上部、胴体後方、尾部、[[垂直尾翼]]、非常口ドア、客室内装
|style="text-align:right;"| 36.1%
|style="text-align:right;"| 43%{{sup|†4}}
|style="text-align:right;"| 47.9%
|-
|-
|style="text-align:center;"| {{nowrap|イギリス}}
!翼面積
|style="text-align:center;"|[[ホーカー・シドレー]]
|colspan="3"|{{Convert|260|m2|sqft}}
| 主翼
|style="text-align:right;"| 17.0%
|style="text-align:right;"| 6%{{sup|†5}}
|style="text-align:right;"| 0%
|-
|-
|style="text-align:center;"| {{nowrap|オランダ}}
!全高
|style="text-align:center;"| [[フォッカー]]
|colspan="3"|{{Convert|16.62|m|ft}}
| 主翼の[[動翼]]
|style="text-align:right;"| 6.6%
|style="text-align:right;"| 6%{{sup|†4}}
|style="text-align:right;"| 0%
|-
|-
|style="text-align:center;"| {{nowrap|スペイン}}
!最大室内幅
|style="text-align:center;"| [[コンストルクシオネス・アエロナウティカス S.A.|CASA]]
|colspan="3"|{{Convert|5.28|m|ft}}
| [[水平尾翼]]、機首の乗降用ドア、[[降着装置]]の格納扉
|style="text-align:right;"| 4.2%
|style="text-align:right;"| 2%{{sup|†6}}
|style="text-align:right;"| 4.2%
|-
|-
| colspan=6 style="text-align:left; font-size:90%;"|
!胴体直径
* 出典:{{harvnb|松田|1981a|p=55}}。
|colspan="3"|{{Convert|5.64|m|ft}}
* †1: 機体生産コスト比。エンジンや機器類を含んだ全ての生産コストの56.5%に相当するとされる。
* †2: 100%政府負担。
* †3: 1990年の[[ドイツ再統一]]以降は[[ドイツ]]。
* †4: 90%政府負担、10%業界負担。
* †5: 100%企業負担。政府助成が無かったホーカー・シドレーには開発費分担と比べて大きな生産シェアが割り当てられた。
* †6: A300の設計がかなり進行してから参加したスペインは、生産シェアに対して開発費分担が少ない。
|}

この間1970年6月にはエールフランスがA300Bの発注の意向を示していたが、同社は[[パリ]]と[[ロンドン]]、[[ジュネーヴ]]、[[コルシカ島]]などを結ぶ高需要路線に適した機材を求めており、A300の座席数をもう少し増やすよう要求した{{sfn|青木|2010|p=125}}{{sfn|松田|1981a|p=56}}。そこで、A300Bの胴体を5フレーム(2.65メートル)延長したモデルを用意することとなり、A300Bの2番目のタイプということでA300B2と名付けられた{{sfn|青木|2010|p=125}}。そして1971年11月3日、エールフランスはA300B2を正式に発注した{{sfn|松田|1981a|p=55}}。これがA300の初受注となり、注文数は確定6機、オプション10機であった{{sfn|松田|1981a|pp=55&ndash;56}}{{sfn|浜田|2010a|p=95}}。これにより原型機はA300B1と呼ばれるようになったほか、後に基本名称がA300BからA300に戻され、旅客型をA300Bとして貨客転換型をA300C、貨物型をA300Fとする型式名の整理が行われている{{sfn|藤田|2001b|p=54}}{{sfn|松田|1981a|pp=57&ndash;58}}。

1972年2月にはスペインの[[イベリア航空]]から確定4機、オプション8機の受注を獲得した{{sfn|松田|1981a|p=56}}。イベリア航空は4,000キロメートル以上の航続距離性能を求めていたが、A300B2の航続距離は3,430キロメートルだったため、航続距離延長型としてA300B4を開発することになった{{sfn|松田|1981a|p=56}}。

=== 設計の過程 ===
[[ファイル:Singapore Airlines Airbus A300 Fitzgerald.jpg|thumb|左前方から見た[[シンガポール航空]]のA300。]]
[[ファイル:Airbus A300B2-1C, Lufthansa AN1172210.jpg|thumb|A300B2の右側面。ルフトハンザ航空の塗装。]]
A300の設計は計画が紆余曲折していた間も進行しており、生産設計と治具類の設計・制作は1969年5月の計画の正式決定とほぼ同時に開始されていた{{sfn|松田|1981a|p=55}}。

西欧では[[1950年代]]後期以降、[[C-160 (航空機)|C-160]]輸送機や[[アトランティック (航空機)|アトランティック]]などで航空機の共同開発経験が蓄積されており、予想以上にスムーズに開発が進んだ{{sfn|松田|1981a|p=55}}。1971年の春には設計の90パーセントが完了し、ピーク時には総計3000人の技術者がA300に携わったと言われる{{sfn|松田|1981a|p=55}}。A300の空力設計は、全体のまとめと機首形状をアエロスパシアル、主翼とエンジン取り付け部をホーカー・シドレー、胴体後部と尾翼をドイチェ・エアバスが担当した{{sfn|松田|1981b|p=103}}。A300の材料やプロセスは無理に統一規格を作らず、コンポーネントを担当した各国の規格で設計・生産され{{sfn|松田|1981b|p=107}}、1つの図面の中に英語、フランス語、ドイツ語が混在して使用されることもあった{{sfn|渡邊|1981b|p=19}}。

イギリス政府が離脱したことで{{nowrap|R-R}}製エンジンにこだわる必要が無くなったことから、当時欧州の主要航空会社が発注していたDC-10-30<ref group="注釈">DC-10シリーズの1型式</ref>と同じGE製のCF6エンジンが採用された{{sfn|松田|1981a|p=55}}。また、エンジン本体だけでなく[[カウル|エンジンポッド]]や補助動力装置、エアコン装置などもDC-10と同じものが用いられた{{sfn|松田|1981a|p=55}}。

[[ファイル:Airbus A300 cross section.jpg|thumb|A300の胴体断面モデル。客室には通路2本と横8席の座席を配置でき、床下貨物室にはLD-3航空貨物コンテナを並列に収納できる。]]
A300の胴体断面は外径5.64メートルの真円形となった{{sfn|藤田|2001a|pp=44&ndash;45}}。この胴体径は、必要な座席数を満たしつつ床下貨物室にLD-3[[航空貨物]]コンテナを左右並列に搭載できる寸法として決定された{{sfn|浜田|2010a|pp=96&ndash;97}}{{sfn|藤田|2001a|pp=44&ndash;45}}。構想初期には747の胴体幅に迫る6.4メートルという外径から始まったが、客席数の変更などに合わせて修正が重ねられて最終的に外径5.64メートルに落ち着いた{{sfn|藤田|2001a|pp=44&ndash;45}}{{sfn|浜田|2010a|pp=94&ndash;97}}。

A300の空力学的特性は、欧州域内を結ぶ短中距離路線で最適となる飛行速度と経済性を目指して設計された{{sfn|Obert|2009|p=251}}。A300の主翼の[[翼型]]にはホーカー・シドレーが[[ホーカー・シドレー トライデント|トライデント]]や[[ホーカー・シドレー HS.125|HS.125]]、[[アームストロング・ホイットワース AW.681|HS.681]]などの研究開発を通して10年以上練り上げてきた「リア・ローディング翼型」が採用された{{sfn|松田|1981b|p=103}}。この翼型は翼後方の下面がえぐられたような形状を持ち、翼の後半で多くの揚力を得ることができ、遷音速{{refnest|group="注釈"|name=transonic|飛行速度が音速より速い場合を超音速、遅い場合を亜音速と呼ぶ。飛行機の周りを流れる空気の流れは一様ではない。飛行速度が亜音速から音速に近づくと、流れが加速された領域が部分的に超音速になる。この亜音速と超音速が混在する速度域が遷音速と呼ばれる<ref name=encyclopedia-165/>。}}での巡航時に翼表面の流速が部分的に音速を超えても抵抗が急増しないという特徴を持つ{{sfn|浜田|2010a|p=97}}{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}{{sfn|Obert|2009|pp=252&ndash;253}}{{sfn|松田|1981b|pp=103&ndash;104}}。当時最先端の技術であり、注目を浴びた{{sfn|松田|1981b|p=103}}。この翼型の特性は、1960年代に[[アメリカ航空宇宙局]] (NASA) が開発したスーパークリティカル翼型と基本的に同じであるが{{sfn|李家|2011|pp=121–122}}、翼を設計したホーカー・シドレーは、NASAとは独立にリア・ローディング翼型の開発に至ったとして、決してスーパークリティカル翼型の一種とは認めなかった{{sfn|浜田|2010a|p=97}}。

リア・ローディング翼型は衝撃波の発生を遅らせ揚力係数を増加できることから、後退角と翼厚比<ref group="注釈" name="wing_thickness"/>を同じくした場合に従来の翼型よりも高速で飛行できる{{sfn|浜田|2010a|p=97}}{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}。しかし、A300は短中距離路線に適した旅客機を目指していたことから高い巡航速度は不要とされ、リア・ローディング翼型の特色を翼厚を増やして後退角を減らすよう振り向けられた{{sfn|浜田|2010a|p=97}}{{sfn|松田|1981b|p=104}}。後退角は25パーセント翼弦で28度と浅くなり低速時の操縦性に有利になったほか、翼厚比の増加は強度面に有利に働き、構造重量は従来の翼厚比の主翼と比べて同一翼面積で1トン以上の軽量化に成功した{{sfn|松田|1981b|p=105}}{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}{{sfn|李家|2011|p=132}}。

A300の主翼は、断面の変化とねじり下げ{{refnest|group="注釈"|翼端部の失速を防ぐように、翼根部よりも翼端側での[[迎角]]を小さくすること{{sfn|李家|2011|p=136}}}}により翼幅方向にほぼ一様の圧力分布を持つように設計された{{sfn|松田|1981b|p=104}}。それに伴いA300の主翼表面は翼根と翼端で異なる曲面を持つことになった{{sfn|Obert|2009|p=255}}。主翼の製造を担当したホーカー・シドレーは、当時このような二重曲率の外板を製造できる設備をもっていなかったため、エンジンパイロンのやや外側を境として翼を外側と内側に2分割して製造し、継ぎ手で繋ぐ構造が採用された{{sfn|松田|1981b|p=107}}{{sfn|Obert|2009|p=255}}。

[[ファイル:Airbus A300B2-203, Iran Air AN1213609.jpg|thumb|left|前方左下から見上げたA300B2。[[降着装置]]を下ろして[[高揚力装置]]を展開している。]]
主翼には[[高揚力装置]]として前縁にスラット、後縁にフラップが設けられた{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}。スラットは主翼のほぼ全幅にわたり配置され、エンジンパイロンの付け根で他機ではスラットが途切れる部分にも、パイロンを避ける切り欠きを入れることでスラットを通し揚力を稼いだ{{sfn|青木|2010|p=68}}{{sfn|松田|1981b|p=104}}。フラップはタブ付きのダブルスロット型ファウラーフラップが採用され、後縁翼幅の84パーセントにわたる当時の大型民間機では例のない大きさとなった(フラップの詳細は[[#形状・構造|形状・構造節]]参照){{sfn|渡邊|1981a|p=6}}{{sfn|松田|1981b|p=104}}。主翼の[[補助翼|エルロン]]は片翼あたり2枚で、外翼部に低速度エルロン、エンジン後方部に全速度エルロンが配置された{{sfn|松田|1981b|p=104}}。エルロンを2枚持つのは当時の大型ジェット旅客機としては一般的ではあったが、28度という浅い後退角の翼では珍しかった{{sfn|藤田|2001a|p=49}}{{sfn|松田|1981b|p=105}}。また、[[ローリング|ロール]]方向の操縦にはエルロンだけでなく、[[スポイラー (航空機)|スポイラー]]も用いるよう設計された{{sfn|松田|1981a|p=56}}。

A300が設計された当時はまだ[[グラスコックピット]]や[[フライ・バイ・ワイヤ]]技術が確立しておらず、[[旅客機のコックピット|コックピット]]や飛行システムは従来の機械式で計器類も機械電気式であるが、[[アビオニクス]]の技術進歩に対しても対応できるよう、機器類の搭載スペースや冷却能力には余裕をもたされた{{sfn|青木|2010|p=66}}{{sfn|浜田|2010a|p=97}}{{sfn|渡邊|1981b|p=19}}。特に[[ブラウン管]] (CRT) を利用したディスプレイの搭載や計器類の増設、そして電気信号を介して動翼を操縦する[[フライ・バイ・ワイヤ]]の導入にも備えた設計がなされた{{sfn|渡邊|1981b|p=19}}。運航に必要な操縦士は[[機長]]、[[副操縦士]]、[[航空機関士]]の3人であり、エアバス・インダストリーが開発した旅客機で唯一の3人乗務機となった{{sfn|EASA|2014|p=26}}{{sfn|青木|2010|pp=66, 73}}{{refnest|group="注釈"|name=crew|A300第1世代を除くエアバス製旅客機は、全て運航乗務員が2名である{{sfn|青木|2014|pp=96&ndash;125}}。}}。

航続距離延長型となるA300B4では、中央翼(主翼が胴体内を貫通する部分)内にも燃料タンクを設けて燃料搭載量を増やした{{sfn|松田|1981a|pp=56&ndash;57}}。また、最大離陸重量をA300B2の137トンから150トンに引き上げ、これによる離着陸性能の低下を補うため主翼前縁の翼根部にクルーガー・フラップ([[高揚力装置]]の一種)が追加された{{sfn|松田|1981a|pp=56&ndash;57}}{{sfn|青木|2010|p=66}}。

=== 生産と試験 ===
[[ファイル:Prototype Airbus A300 and Concorde at Toulouse.jpg|thumb|国際共同開発されたA300と[[コンコルド]]。最終組み立ては共にフランスの[[トゥールーズ]]で行われた。]]
4機の試作機と2機の強度試験機の部品製作は1969年12月から開始された{{sfn|松田|1981a|p=55}}。各国のメーカーで製造されたコンポーネントは1971年にフランス・[[トゥールーズ]]にあるアエロスパシアルの工場に集められた{{sfn|松田|1981a|p=55}}。コンポーネントを輸送するため、[[ボーイング377]]を大型貨物運搬用に改造した「[[スーパーグッピー]]」を{{仮リンク|エアロスペースラインズ|en|Aero Spacelines}}社から購入し、1971年11月から運用を開始した{{sfn|青木|2010|p=131}}。

総組立および総組立図面の管理はアエロスパシアルが担当し、各機体の生産進捗に合わせて総組立図面をアップデートする方式が採られた{{sfn|渡邊|1981b|p=19}}。機体の組み立てでは、現場合わせによる結合が各所で採用された{{sfn|渡邊|1981b|p=19}}。例えば主翼と胴体の結合では、まず胴体と主翼を工場の基準点に位置合わせし、次に油圧ジャッキなどで主翼及び胴体に実機同様の荷重をかけた上で現場合わせでボルト穴をあけて結合された{{sfn|渡邊|1981b|p=19}}。初期にはフランスで製造した胴体とドイツで製造した胴体が合致しないトラブルもあったとされるが、すぐに解決された{{sfn|粂|2007|p=29}}。

[[ファイル:28.10.72 1er Vol d'Airbus (1972) - 53Fi1979 (cropped, restored).jpg|thumb|初飛行を行うエアバス A300]]

A300の1号機は原型機となるA300B1で、初飛行は1972年10月28日に行われた{{sfn|松田|1981a|p=56}}{{sfn|渡邊|1981b|p=5}}。通算3号機からA300B2仕様となり、1973年6月28日に初飛行した{{sfn|松田|1981a|p=56}}{{sfn|浜田|2010a|p=97}}。試験飛行には1号機から4号機の4機が投入された(1、2号機がA300B1仕様で、3、4号機がA300B2仕様){{sfn|松田|1981a|p=56}}。試験中に以下の改修が加えられたが、いずれも困難な問題ではなく飛行試験は順調に進んだ{{sfn|浜田|2010a|p=97}}{{sfn|松田|1981a|p=56}}。
* 失速迎角での縦の安定性を改善するため、主翼前縁のスラットにフェンス(小板)を追加した。
* 高速飛行時に主翼表面の気流がはがれるのを防ぐため、スラットの密閉性を高めたほか、翼上面に[[ヴォルテックスジェネレータ]]{{refnest|group=注釈|境界層(物体表面の空気の層)の剥離を防止するため、翼や胴体など機体の表面に気流に適当な角度をもって、並べて取り付けられた小片<ref name=JAL-dict-p030>{{Cite web|和書|title=航空実用事典 翼型と翼 |publisher=日本航空 |url=http://www.jal.com/ja/jiten/dict/p030.html |accessdate=2014-11-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150508210942/http://www.jal.com/ja/jiten/dict/p030.html |archivedate=2015-08-05}}</ref>。}}を配置した。
* 主翼内側の[[補助翼|エルロン]]を操作すると水平尾翼に想定以上の荷重がかかることが分かったため、内側エルロンの舵角を減らし、[[ローリング|ロール]]方向の操縦に用いる[[スポイラー (航空機)|スポイラー]]の枚数を増やしたほか、外側エルロンが動作する条件を拡大した。

[[ファイル:Airbus A300B2-103, Airbus Industrie JP5644295.jpg|thumb|A300の通算3号機。エアバス・インダストリーはコーポレートカラーにレインボーカラーを採用した。<br />後に、東亜国内航空(後の[[日本エアシステム]])のコーポレートカラーとしても採用された。]]
試験で確認された運用限界や性能は、控えめに設定されていた計画値を上回った{{sfn|松田|1981a|p=56}}。最大運用限界マッハ数は0.84から0.86に引き上げられたほか、所要滑走路長は4 - 6%短くて済み、最大揚力係数は8 - 10%高くなったのでフラップの最大角度が減らされた{{sfn|松田|1981a|p=56}}。

[[1974年]]3月15日、フランスおよびドイツの航空当局からA300B2の[[型式証明]]が交付され、同年5月30日には米国の[[連邦航空局]]からも型式証明が交付された{{sfn|渡邊|1981a|p=5}}。型式証明取得までの飛行時間は、延べ1,585時間で内訳は開発試験が610時間、証明試験が595時間、訓練や路線実証試験などが380時間であった{{sfn|松田|1981a|p=56}}。

通算5号機のA300B2が量産初号機となり、1974年4月15日に初飛行して同年5月10日にエールフランスに初引き渡しが行われた{{sfn|松田|1981a|p=56}}{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=11}}。以降の量産機はA300B2の仕様が基本型となった{{sfn|青木|2010|p=66}}。

=== 就航開始 ===
[[File:Airbus A300B2-1C, Air France AN0598358.jpg|thumb|right|1974年の[[ファーンボロー国際航空ショー]]で展示されるエールフランスのA300B2-1C]]
[[ファイル:Airbus A300B2-101, Air France AN2111996.jpg|thumb|エールフランスはA300の最初の発注者であり最初の運航者となった。]]
1974年5月23日、エールフランスのパリ - ロンドン線でA300は初就航した{{sfn|渡邊|1981a|p=5}}{{sfn|松田|1981a|p=56}}。就航したA300は予想よりトラブルは少なく、乗客や乗員からも好評だった{{sfn|松田|1981a|p=56}}。主なトラブルと改修内容としては、気流の乱れに起因する方向舵の破損例が見つかり、気流を乱す隙間が塞がれて方向舵の構造も改良されたほか、フラップが正常に動作しない可能性が見つかり、フラップの作動機構が変更された{{sfn|松田|1981a|p=56}}。また、客室後部の横揺れが指摘されヨーダンパ{{refnest|group="注釈"|[[方向舵]]を自動操舵して[[ヨーイング|ヨー運動]]を小さくする安定性増大装置{{sfn|久世|2006|p=119}}<ref name=encyclopedia-156>{{Citation|和書 |last=上野 |first=誠也 |contribution=安定性増大装置 |editor= 飛行機の百科事典編集委員会 |title=飛行機の百科事典 |date=2009-12 |pages=156&ndash;159 |isbn=978-4-621-08170-9}}</ref>。}}が改良された{{sfn|松田|1981a|p=56}}。その他、エアコンダクトや貨物積載装置の不具合対策、電波障害対策などが実施された{{sfn|松田|1981a|p=56}}。就航後3か月頃から定時出発率は約97%に安定してワイドボディ大型機としては良好であった{{sfn|松田|1981a|p=56}}。

初就航の時点で36号機までの生産が進められていたが、受注は思わしくなかった{{sfn|松田|1981a|p=56}}。1972年2月のイベリア航空によるA300B4の受注に加えて、同年末にはルフトハンザ航空からA300B2を確定3機、オプション4機受注していた{{sfn|松田|1981a|p=56}}。しかし、1972年8月に英国欧州航空はA300ではなく{{nowrap|R-R}}製RB211エンジンを装備したL-1011を発注した{{sfn|松田|1981a|p=56}}。A300ほどの大型機を必要とする短距離路線は限られていたほか、欧州初の大型機に対する様子見の空気もあった{{sfn|松田|1981a|p=56}}。そして、本格化しつつあった不況と1973年の[[第1次石油危機]]の発生により、航空輸送需要が激減し、世界中の航空会社が新機種導入を控えるようになったことがA300の販売低迷に影響していた{{sfn|松田|1981a|p=56}}{{sfn|浜田|2010a|p=97}}。

そのような中、1974年10月に[[大韓航空]]から6機のA300B4の受注に成功し、欧州以外の航空会社からの初めての注文となった{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=11}}。当時、航空会社はエアバス・インダストリーのサポート体制に不安を感じていたことから、この商談は、エアバス・インダストリーが欧州から遠い地域でも必要なサポートを提供できることを示す上でも重要だった{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=11}}。

航続距離延長型のA300B4の初号機(通算9号機)は、1974年12月26日に初飛行し、[[1975年]]3月26日に型式証明を取得した{{sfn|青木|2010|p=66}}。ところが初飛行目前の1974年10月に、A300B4の最初の発注者だったイベリア航空が注文をキャンセルしてしまったため、1975年5月にフランクフルトを拠点とするチャーター便航空会社の{{仮リンク|ジャーマンエア|de|Germanair}}に初納入され、6月1日に初就航した{{sfn|松田|1981a|p=67}}{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=11}}。

=== 改良と中距離型への発展 ===
販路拡大のため、エアバス・インダストリーはA300の性能向上に努め、A300B2・B4ともに[[ペイロード (航空宇宙)|ペイロード]]や燃料搭載量を増やせるよう最大離陸重量を引き上げたほか、A300B2では離陸性能向上型が開発された{{sfn|松田|1981a|p=57}}。

[[ファイル:Airbus A300B2K-3C, Fly Air AN0423133.jpg|thumb|左前方から見たA300B2K。主翼の付け根にクルーガー・フラップを備える。A300のスラットにはエンジンパイロンを避ける切り欠きがある。]]
A300B2の最大離陸重量を142トンとしたタイプは1975年6月20日に型式証明を取得し、座席数269席での航続距離は1,400海里(約2,590キロメートル)から1,800海里(約3,330キロメートル)に向上した{{sfn|松田|1981a|p=57}}。また、A300B4で採用されたクルーガー・フラップをA300B2にも装備して高地や高温地域での離陸性能を向上させたタイプも開発された{{sfn|松田|1981a|p=57}}。このタイプはA300B2Kと名付けられ、[[南アフリカ航空]]から初受注した{{sfn|松田|1981a|p=57}}。A300B2Kの初号機は通算32号機で[[1976年]]7月30日に初飛行し、同年11月23日に納入された{{sfn|松田|1981a|p=57}}。

1976年6月10日にはA300B4の最大離陸重量を157.5トンに上げたタイプに型式証明が交付され、航続距離は2,600海里(4,820キロメートル)となった{{sfn|松田|1981a|p=57}}。さらに、A300B4では主翼と主脚([[降着装置]])の強度を向上し、ブレーキとタイヤの容量を増すことで最大離陸重量を165トンまで引き上げたタイプも開発された{{sfn|松田|1981a|p=57}}。このタイプでは貨物室に燃料タンクを増設でき、その場合の航続距離は3,000海里(5,560キロメートル)となった{{sfn|松田|1981a|p=57}}{{sfn|松田|1981b|p=109}}。165トン仕様は[[1978年]]1月にエールフランスから初受注し、[[1979年]]4月26日に型式証明を取得、同月末から引き渡しが始まった{{sfn|松田|1981a|p=57}}。

この間、1978年4月にエアバス・インダストリーはA300の型式名の整理を行い、クルーガー・フラップを持たないB2をB2-100、B2KをB2-200、最大離陸重量が165トン以上のB4をB4-200、それ以外の標準型B4をB4-100と呼ぶようになった{{sfn|松田|1981a|p=57}}。

その他にも設計改良が続けられ、着陸滑走距離の短縮や、燃料系統の工夫によるタンク有効容積の改善なども行われた{{sfn|松田|1981a|p=57}}。また、1975年にエールフランスのA300で[[オートパイロット]]が誤作動する事象があったため対策が打たれたほか、金属疲労対策として部品が変更されたり、[[トルコ航空DC-10パリ墜落事故]]を受けた急減圧への対策などが施された{{sfn|松田|1981a|p=57}}。

こうして、エアバス・インダストリーの努力によってA300は改良が重ねられ、欧州域内の短距離専用機から、5,000キロメートルを超える中距離路線にまで使える幅の広い旅客機に成長した{{sfn|松田|1981a|p=57}}。当時双発機の飛行が難しかった大洋横断航路は無理であったが、欧州と中東・アフリカ間路線や東南アジア路線といった海上路線でもA300が運航されるようになった{{sfn|松田|1981a|p=57}}。

=== 米国市場への売り込みと販売好転 ===
1976年11月時点でA300の運航会社にはエールフランス、ルフトハンザ航空、[[大韓航空]]、ジャーマンエアのほか、[[エア・インディア]]やフランスの[[エールアンテール]]、オランダの[[トランサヴィア航空]]なども加わっていたが、運航機数は27機であった<ref name=WAC1976/>。エアバス・インダストリーはA300の改良と販売活動に懸命に取り組んだが、受注は相変わらず伸び悩んだ{{sfn|松田|1981a|p=57}}。[[1977年]]初頭における確定受注は36機、オプションを含めても57機であった{{sfn|松田|1981a|p=57}}。深刻な不況が続いて世界の航空会社は大型機を持て余し、売りに出される747もあるほどだった{{sfn|松田|1981a|p=57}}。DC-10、L-1011そして747は石油危機の前にまとまった受注を獲得していたが、A300にはそれがなかった{{sfn|松田|1981a|p=57}}<ref name=JADC-data2/>。

エアバス・インダストリーの主要メンバーであるアエロスパシアルは、当時手がけていた[[コンコルド]]や{{仮リンク|アエロスパシアル コルベット|label=コルベット|en|Aérospatiale Corvette}}も売れず経営危機に陥った{{sfn|松田|1981a|p=58}}。A300は月産2機で生産されていたが、トゥールーズには行き場のない機体が滞留し、1977年には月産1機に減産することが決定し、さらに0.5機まで抑えることも検討された{{sfn|松田|1981a|p=58}}。必死の売り込みが続けられ、欧州の銀行団も破格の融資条件を提示し、米国のメーカーが手を引くような経営状況が悪い航空会社へも納入したため、叩き売りの噂も立つほどだった{{sfn|松田|1981a|p=58}}。

エアバス・インダストリーは、A300の事業成功の鍵は米国の航空会社からの受注にあると考え、積極的な販売活動を展開した{{sfn|青木|2010|p=125}}。その成果は1977年に現れ、米国内線大手だった[[イースタン航空]]への売り込みに成功した{{sfn|松田|1981a|p=58}}{{sfn|青木|2010|p=125}}。実は当時、不況の影響でイースタン航空も経営不振に陥っていて、主力のL-1011を持て余していた{{sfn|松田|1981a|p=58}}{{sfn|青木|2010|p=125}}。同社はL-1011と同等の近代性を備えた小型の機材を求めており、A300にも興味はあったが、新機材購入に充てられる資金が無かった{{sfn|松田|1981a|p=58}}{{sfn|青木|2010|p=125}}。そこで、エアバス・インダストリーは4機のA300B4を6か月間、無償で[[リース]]するという思い切った提案を行い、1977年8月にこの内容で契約が結ばれた{{sfn|松田|1981a|p=58}}{{sfn|青木|2010|p=125}}。

同年12月13日、イースタン航空はA300の路線就航を開始した{{sfn|松田|1981a|p=58}}。イースタン航空のA300は、評価という目的もあり条件が厳しい路線に投入されたが、1日あたり平均8.4時間、定時出発率98.4%という優れた運航実績を示した{{sfn|松田|1981a|p=58}}{{sfn|青木|2010|p=125}}。イースタン航空が特に気にしていたエアバス・インダストリーの製品サポートに問題は無く、乗客からの評判も上々であった{{sfn|松田|1981a|p=58}}{{sfn|青木|2010|p=125}}。

[[ファイル:Airbus A300B2-202, Eastern Air Lines JP5949899.jpg|thumb|イースタン航空が運航したA300B2。[[ニューヨーク]]の[[ラガーディア空港]]にて。同社からの受注によりエアバス・インダストリーはアメリカ市場への進出に成功した。]]
ただ、[[ニューヨーク]]の[[ラガーディア空港]]への乗り入れが問題となった{{sfn|松田|1981a|p=58}}。空港を管理する[[ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社|ニューヨーク港湾局]]が、空港の水上部分の強度上の理由によりA300の109トン以上での離陸を認めなかったのである{{sfn|松田|1981a|p=58}}{{sfn|青木|2010|pp=125&ndash;126}}。話し合いの結果、エアバス側が水上部分のコンクリート補強費用50万ドルを負担するとともに、A300の主脚の車輪間隔を広げる改造を18か月以内に行うことを条件に、138トンまでの離陸が認められ、これによりラガーディア - [[マイアミ国際空港|マイアミ]]間の直行便の運航が可能となった{{sfn|松田|1981a|p=58}}{{sfn|青木|2010|p=126}}。

エアバス・インダストリーは本格的にA300の購入を検討し始めた[[イースタン航空]]に対し、購入額の大部分に好条件の融資を行った{{sfn|青木|2010|p=126}}。さらに、イースタン航空が元々望んでいたのは170席程度の機材であったことから、より大型のA300で運航コストが嵩んだ分を[[1982年]]までエアバス・インダストリーが保証するという金融的措置まで行った{{sfn|山崎|2009|p=225}}{{sfn|青木|2010|p=126}}。こうして1978年4月にイースタン航空からA300B4を確定23機、オプション9機を発注し、エアバス・インダストリーはA300の米国の航空会社への売り込みに成功した{{sfn|青木|2010|p=126}}。

[[ファイル:Iberia Airbus A300B4-120 EC-DLG.jpg|thumb|[[イベリア航空]]のA300B4。同社はA300B4の最初の発注者となったが一度キャンセルし、後に再発注した。]]
イースタン航空によるA300の運航は好調で、同社は「今までの機材中最高」と評価した{{sfn|松田|1981a|p=58}}。ちょうどこの頃から世界の航空業界も不況を切り抜け経営を立て直しつつあった{{sfn|松田|1981a|p=58}}。航空機需要が上向きになり、1977年後半からA300の販売は急に売れ出した{{sfn|松田|1981a|p=58}}。石油危機による燃料費の高騰が長期に渡ったことで、双発で大人数を乗せられるA300の経済性が認められることとなった{{sfn|谷川|2016|loc=位置No.995/2772}}。[[スカンジナビア航空]]や[[アリタリア-イタリア航空|アリタリア航空]]に加え、[[タイ国際航空]]や[[ガルーダ・インドネシア航空]]、そして日本の[[東亜国内航空]]といった欧州以外の航空会社からも新規受注を獲得した{{sfn|松田|1981a|p=58}}。エールフランスやルフトハンザ航空の追加発注やイベリア航空からの再発注も加わり、確定受注数は1977年が20機、1978年が70機、1979年も前半だけで50機に達し、エアバス関係者も予想していなかった売れ行きとなった{{sfn|松田|1981a|p=58}}。一転してA300の増産が決まり、1979年には月産2.5機、[[1980年]]の通算118号機完成後からは月産3機となった{{sfn|松田|1981a|p=58}}。

この販売好調には、エアバス機を導入する航空会社に対する好条件の融資も一役買っていた{{sfn|松田|1981a|p=59}}。エアバス加盟国の政府保証のもと欧州の銀行団が、必要資金の90%近くまで年率8%台固定で貸し出し、10年またはそれ以上の延べ払いも可能とするなど、[[合衆国輸出入銀行|米国輸出入銀行]]が自国製旅客機に設定する条件を上回っていた{{sfn|松田|1981a|p=59}}。

これまで生産されたA300は、GE製のCF6シリーズエンジンを装備していたが、スカンジナビア航空の発注機はP&W製の[[プラット・アンド・ホイットニー JT9D|JT9D]]エンジンを装備する最初の機体となった{{sfn|松田|1981a|p=60}}。このタイプは1979年4月28日に初飛行を行い、1980年1月4日に型式証明を取得、1980年1月17日に初引き渡しが行われた{{sfn|松田|1981a|p=60}}{{sfn|EASA|2014|p=13}}。

この頃、A300B4をベースとした貨客転換型A300C4も開発された{{sfn|松田|1981a|p=60}}。A300C4では、メインデッキ(客席部分)に貨物を搭載できるよう左舷前方に幅3.58メートル、高さ2.57メートルの貨物扉を設置し、床面強化などが行われた{{sfn|松田|1981a|p=60}}。ドイツの[[ハパックロイド]]が最初の発注者となり、A300B4-200として完成していた83号機がA300C4に改造された{{sfn|松田|1981a|p=60}}。A300C4は1979年12月18日に型式証明を取得し{{sfn|EASA|2014|p=20}}、その月に初引き渡しが行われた{{sfn|松田|1981a|p=60}}。

=== A310の開発とイギリスの加盟 ===
{{Main|エアバスA310}}
A300の販売が好転すると、エアバス・インダストリーは次期製品の検討を本格化した{{sfn|浜田|2010b|p=93}}。これまで行っていた市場調査の結果から座席数200席強の旅客機需要が高まると予測され、同社はA300の胴体を短縮した派生型の開発を決断した{{sfn|浜田|2010b|p=93}}。この派生型は[[エアバスA310|A310]]と名付けられ1978年7月7日に正式開発が決定され、同月13日にフランス・ドイツ両政府からの事業認可を得た{{sfn|青木|2010|p=71}}。

A300の販売好転とA310の開発決定という将来性が見えてくると、これまで様子見をしていたイギリス政府が方針を変えた{{sfn|浜田|2010a|p=97}}{{sfn|粂|2007|p=27}}。イギリスは、1977年4月29日にホーカー・シドレーを含む航空機メーカー4社を統合し、国有企業として[[ブリティッシュ・エアロスペース]](以下、BAe)を設立させた{{sfn|日本航空宇宙工業会|2007|p=270}}{{sfn|青木|2010|pp=126&ndash;127}}。そして1978年11月、イギリス政府のエアバス計画への加盟が決定した{{sfn|松田|1981a|p=59}}。エアバスの苦しい時期を支えてきたフランス政府は、このイギリス政府の態度に反発したが、同じくエアバスを支えてきたドイツ政府は米国へ対抗するためにはイギリスの力を無視できないと考え、最終的にイギリス政府の参加が実現した{{sfn|松田|1981a|p=59}}。

[[ファイル:Airbus A310-221, Swissair AN0521293.jpg|thumb|[[スイス航空]]のA310-200。同社はルフトハンザ航空と共にA310の最初の発注者となった。|代替文=]]
A310の胴体は、A300の胴体から平行部分で11フレーム短縮された{{sfn|青木|2014|p=123}}{{sfn|浜田|2010b|p=94}}。また、このままでは機体重心から[[尾翼]]までの距離が長くなってしまうので、圧力隔壁の後方にあたる尾部も2フレーム短縮されて尾部の絞り込みがA300より急角度になった{{sfn|青木|2010|p=71}}。これにより、A310の全長はA300B2より6.96メートル短縮された{{sfn|浜田|2010b|p=94}}。初期のA310構想では主翼やシステム類はA300のものを流用して開発費を抑える考えだったが、ボーイングが全くの新規開発で双発ワイドボディ機「7X7」(のちの[[ボーイング767|767]])を研究していたことから、それに対抗するためエアバス・インダストリーはA310にできるだけ新技術を盛り込むことにした{{sfn|青木|2010|p=71}}。短縮した全長に合わせて主翼は新規に設計された{{sfn|青木|2010|p=71}}。当時、デジタル通信・制御技術が急速に進歩していたことと、航空会社が直接運航費の抑制を求めていたことから、アナログ式だったA300の機体システムは全面的にデジタル式へ設計変更され、自動化技術や[[フライ・バイ・ワイヤ]]技術も導入され、いわゆる[[グラスコックピット]]化された{{sfn|土井|1991|pp=3&ndash;4}}<ref name=FI-1984-0474/>{{sfn|青木|2014|p=123}}{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=14}}。これらにより、A310は標準仕様で操縦士2人で運航可能なワイドボディ機となった{{sfn|青木|2014|p=123}}{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=14}}。A310では水平尾翼と降着装置も新設計となったほか、[[炭素繊維強化プラスチック]] (CFRP) などの[[複合材料]]の使用範囲も拡大された{{sfn|浜田|2010b|pp=94&ndash;96}}{{sfn|青木|2010|p=71}}{{sfn|藤田|2001a|p=49}}。

A310はA300と同じ組み立てラインで生産され{{sfn|粂|2007|p=29}}、製造番号もA300と共通の通し番号が採番された{{sfn|青木|2010|p=72}}。通算162号機がA310の初号機となり、1982年4月3日に初飛行した{{sfn|青木|2010|p=72}}。A310は[[1983年]]3月11日に型式証明を取得し、1983年4月10日にルフトハンザ航空により初就航した{{sfn|青木|2010|p=72}}<ref name=FI-1983-0710>{{Citation |title=Lufthansa succeeds in '82 |journal=Flight International |date=1983-04-23 |page=1098 |format=PDF |language=English |url=http://www.flightglobal.com/pdfarchive/view/1983/1983%20-%200710.html |accessdate=2014-05-18}}</ref>。

=== A300-600の開発 ===
[[ファイル:Lufthansa Airbus A300B4-603 (3202423847).jpg|thumb|駐機中のA300-600を正面から見る。左舷前方の乗降用ドアに[[ボーディング・ブリッジ]]が接続されている。A300-600はA300第1世代と同じ胴体断面を用いた。]]
{{main|エアバスA300-600}}
エアバス・インダストリーはA310だけでなく、A300への新技術投入も早くから考えていた{{sfn|粂|2007|p=29}}。新しいA300では、A310との競合を避けるため座席数を少し増やしつつ、A310と同じ2人乗務のコックピットを導入してA300とA310の運航の共通性を高めることになった{{sfn|青木|2010|p=75}}。この次世代型A300の機体構造はA300B4をベースに開発され、正式な型式名はA300B4-600と名付けられたが、一般的にA300-600と呼ばれるようになった{{sfn|土井|1991|p=4}}{{sfn|藤田|2001b|p=64}}。本項では以下、A300-600より前に開発されたA300シリーズをA300第1世代、A300-600およびその派生型をA300-600シリーズと呼ぶ。

[[ファイル:Finnair A300B4 OH-LAB at LPFR 19920903.jpg|thumb|[[フィンエアー]]のA300B4。操縦士2人での運航も可能になったFFCC仕様機である。|代替文=]]
2人乗務のコックピットは、A300第1世代の頃から研究されていた{{sfn|土井|1991|p=4}}。A300第1世代の通常仕様では、航空機関士が操作する機器類は主にコックピット内の右舷側にあるが、エンジン始動後は航空機関士が前方向きに座って飛行できるよう操作パネルが配置されていた{{sfn|松田|1981b|p=111}}。エアバス・インダストリーは、この考えを一段と進めて航空機関士を必要とせず操縦士2名だけでの運航も可能なFFCC(Forward Facing Crew Cockpit の略)と呼ばれるコックピットを開発した{{sfn|松田|1981b|p=111}}{{sfn|EASA|2014|p=28}}<ref name=FI-1981-1114>{{Citation |title=Airbus races through two-man A300 certification |journal=Flight International |date=1981-11-14 |page=1460 |format=PDF |language=English |url=https://www.flightglobal.com/pdfarchive/view/1981/1981%20-%203564.html}}</ref>。A300のFFCC仕様機は[[1981年]]10月6日に初飛行し、ワイドボディ機として世界初となる操縦士2名だけでの飛行を3時間40分実施した<ref name=norris_wagner>{{Citation |title=Airbus |last1=Norris |first1=Guy |last2=Wagner |first2=Mark |pages=23&ndash;24 |isbn=9780760306772 |year=1999 |publisher=MBI Publishing Company |url=https://books.google.co.jp/books?id=6x7TXv1wnHoC}}</ref>。FFCC仕様機の試験は順調に進み、1982年にガルーダ・インドネシア航空に対して初引き渡しが行われた<ref name=norris_wagner/><ref name=airbus>{{Cite web |title=Technology leaders (1977-1979) | Airbus, a leading aircraft manufacturer |publisher=Airbus S.A.S |url=http://www.airbus.com/company/history/the-narrative/technology-leaders-1977-1979/ |accessdate=2015-10-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150925104335/http://www.airbus.com/company/history/the-narrative/technology-leaders-1977-1979/ |archivedate=2015-09-25}}</ref>。また、[[1980年代]]前半にA300の垂直安定板の前縁や主脚扉などをCFRP製とした試作品の開発や実証試験も行われていた{{sfn|松田|1981b|p=107}}。

これらの取り組みやA310で蓄積された技術がA300-600に反映された{{sfn|浜田|2010b|p=96}}{{sfn|粂|2007|p=29}}。A300-600の開発では、A300第1世代より航続力と搭載力を強化すること、そして、可能な限りA310との共通性を持たせて開発・生産コストや航空会社の運用コストを抑えることを目指して以下の点などが変更された{{sfn|土井|1991|p=4}}{{sfn|青木|2014|p=124}}。
* A300B4の後部胴体を平行部分を3フレーム(1.59メートル)延長する一方で、2フレーム短縮されたA310の尾部を流用し、座席を1列 - 2列分(8 - 16席)増やしつつ胴体延長による重心・尾翼間距離の変化を抑えた{{sfn|青木|2014|p=124}}<ref name=FI-1984-0317/>。
* 主翼も改良が加えられ、動翼が簡素化されたほか、翼型や空力学的特性がA310の新型主翼に近づけられた{{sfn|土井|1991|p=5}}{{sfn|粂|2007|p=29}}。失速特性も改善され主翼のスラットのフェンスが不要になり除去された{{sfn|土井|1991|p=5}}。
* [[水平尾翼]]はA310と同じ小型のものに変更された{{sfn|粂|2007|p=29}}。
* [[フライ・バイ・ワイヤ]]等の採用でコックピットはA310とほぼ共通化され、2人乗務での運航が標準となったほか、操縦士の操縦資格もA310とA300-600とで共通化された{{sfn|浜田|2010b|p=96}}。
* 上記の主翼の改良や小型水平尾翼の採用、[[フライ・バイ・ワイヤ]]の導入に加え、複合材料の使用拡大、小型軽量の補助動力装置の採用、カーボン[[ブレーキ]]の採用、客室装備等の軽量化により全体で2トンの軽量化を実現した{{sfn|土井|1991|p=5}}。
* エンジンはGE製CF6シリーズとP&W製のJT9Dシリーズであるが、燃料消費率や推力が向上した改良型に変更された{{sfn|藤田|2001b|p=64}}{{sfn|青木|2010|p=75}}。
* 生産の途中からは、[[翼端渦]]を抑えて[[揚抗比]]を向上させるため、主翼の翼端に[[ウィングレット|ウイングチップ・フェンス]]と名付けられた矢尻状の板が追加された{{sfn|浜田|2010b|p=96}}{{sfn|青木|2010|p=75}}。

A300-600を最初に発注したのはサウジアラビア航空(現・[[サウディア]])で、その内容はJT9Dエンジン装備仕様を11機であった{{sfn|青木|2010|p=75}}。これにより1980年12月6日にA300-600の開発が正式決定された{{sfn|青木|2010|p=75}}。A300・A310通算252号機がA300-600の初号機となり1983年7月9日に初飛行した{{sfn|青木|2010|p=75}}。型式証明のための飛行試験には3機が用いられ、飛行回数はのべ232回、飛行時間は計506時間の試験が行われた<ref name=FI-1984-0317/>。[[1984年]]3月9日に型式証明が交付され{{sfn|青木|2010|p=75}}、同月25日にサウジアラビア航空に対して初納入されて翌月に初就航した{{sfn|青木|2014|p=124}}<ref name=FI-1985-0008/>。1985年までにサウジアラビア航空に加えて[[クウェート航空]]、[[タイ国際航空]]でもA300-600の就航が始まった<ref name=WAC1985/>。

=== 第1世代の生産終了と次世代型の発展 ===
A300第1世代は1980年から82年にかけて引き渡し数のピークを迎えたが{{sfn|浜田|2010a|p=97}}、A300-600の登場により役割を終え、[[1985年]]1月2日に初飛行した通算304号機を最後に生産を終了した{{sfn|青木|2010|p=69}}{{refnest|group="注釈"|通算製造番号でいうとA300第1世代の最終号機は305号機であるが、こちらは304号機より先に初飛行している{{sfn|青木|2010|p=69}}。}}。304号機はシンガポール航空の発注により製造されていたが、発注が変更されたことでアメリカン航空に納入された{{sfn|青木|2010|p=69}}。A300第1世代の生産数は250機で1号機を除く249機が顧客に納入された{{sfn|佐藤|2001}}。

[[ファイル:Airbus A300B4-203(F), Canarias Cargo AN0361347.jpg|thumb|A300の貨物型改造機の前方部。前方乗降用ドアの後ろにメインデッキの貨物扉がある。]]
エアバス・インダストリーでは早くからA300の貨物専用型となるA300F4も提案していた{{sfn|藤田|2001b|p=57}}。新造機での発注はなかったが、旅客型からの改造の受注があった{{sfn|藤田|2001b|p=57}}{{sfn|青木|2010|p=69}}。通算277号機がA300F4への改造初号機となって[[1986年]]6月6日に型式証明を取得し、大韓航空に引き渡された{{sfn|EASA|2014|p=22}}。

A310とA300-600シリーズでもそれぞれ航続力を強化した派生型としてA310-300とA300-600Rが開発された{{sfn|浜田|2010b|pp=96&ndash;97}}。A310-300、A300-600Rでは水平尾翼にも燃料タンクを設けて燃料搭載量を増やすとともに、尾翼と主翼の燃料タンク間で燃料を移送して機体の重心位置を制御するシステムが搭載された{{sfn|浜田|2010b|pp=96&ndash;97}}。このシステムによって機体の姿勢を一定に保つのに必要なトリム抵抗を最小限に抑えられ、運航経済性の向上が図られた{{sfn|浜田|2010b|pp=96&ndash;97}}。A300-600Rの初号機は通算420号機で[[1987年]]12月9日に初飛行し、[[1988年]]3月10日に型式証明を取得して同年4月20日にアメリカン航空へ初引き渡しが行われた{{sfn|青木|2014|p=125}}{{sfn|EASA|2014|p=43}}。その他、A300-600シリーズでも貨客転換型のA300-600Cと純貨物型のA300-600Fが開発された{{sfn|青木|2010|p=78}}。

=== その後の展開 ===
エアバス・インダストリーは、A310とA300-600に続く製品開発も進め、同社初の単通路機([[ナローボディ機]])である[[エアバスA320|A320]]を開発した{{sfn|青木|2014|p=113}}。A320での飛行制御システムはA300-600から一段と進化し、完全なグラスコックピットとなり操縦装置も従来の[[操縦桿]]に替えてサイドスティックが採用された{{sfn|青木|2010|p=52}}。旅客機へのサイドスティックの導入はこれが初めてであり、A300の3号機を試験機に充てて新しいコックピットとシステムを組み込んで入念な試験飛行が行われた{{sfn|青木|2014|p=116}}。A320は1987年2月に初飛行して1988年2月に型式証明を取得し、1988年3月に航空会社への引き渡しが始まった{{sfn|青木|2014|p=113}}。

[[ファイル:HB-JMA@ZRH;16.01.2010 561ev (4283105698).jpg|thumb|併走する[[スイス インターナショナル エアラインズ]]のA340-300(手前)とA330-300(奥)。両機種でもA300由来の胴体断面設計を用いられた。]]
さらにワイドボディ機の分野でも、エアバス・インダストリーはA300より大型で長航続距離の旅客機市場へ進出を図り、大型双発機の[[エアバスA330|A330]]と4発機の[[エアバスA340|A340]]を同時並行的に開発した{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=29}}{{sfn|浜田|2013a|p=94}}。A340は[[1993年]]2月、A330は[[1994年]]1月にそれぞれ路線就航を開始した{{sfn|浜田|2013b|p=94}}。A330とA340の胴体断面はA300と同じものが用いられたが、主翼は新設計となったほか、A320と共通性の高いコックピットやシステムが導入された{{sfn|青木|2010|pp=36&ndash;40, 44&ndash;46}}。A320以降の操縦システムの共通化により、[[相互乗員資格]](Cross Crew Qualification, 以下CCQ)制度が認められ、対象機種の操縦資格を持つ操縦士は、短期間の転換訓練で別機種の操縦資格を取得できるようになった{{sfn|青木|2010|pp=37&ndash;38, 44&ndash;46}}。

[[ファイル:Airbus A300 Beluga Pryde.jpg|thumb|A300-600ST「ベルーガ」。]]
エアバス・インダストリーは、A320以降の機種でも参加各国でパーツやコンポーネントの生産を分担する体制を続けていた{{sfn|青木|2010|pp=131&ndash;135}}。これまで、参加各国で生産されたコンポーネントの輸送には「スーパーグッピー」輸送機が用いてきたが、同機が旧式化したことに加え、エアバス・インダストリーの事業が急成長したことで、これに対応するために新しい輸送機が必要になった<ref name=CNN1/><ref name=CNN2/>。そこで、[[1991年]]8月、エアバス・インダストリーはA300-600Rをベースとした新型輸送機[[エアバス ベルーガ|A300-600ST「ベルーガ」]]を開発することを正式決定した{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=13}}。A300-600STは、主翼やエンジンなどをA300-600Rと同じくし、大型貨物を収容できるよう胴体上半分が極めて太いものとなった{{sfn|青木|2010|p=78}}。A300-600STは1994年9月13日に初飛行し、[[1995年]]10月25日に引き渡しが始まった{{sfn|青木|2010|p=79}}。A300-600STは2001年までの間に5機生産され、全機がエアバス子会社の「エアバス・トランスポート・インターナショナル」(Airbus Transport International)で運航され、これによりエアバス機の生産に従事していたスーパーグッピーは全機退役した{{sfn|青木|2010|p=79}}{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=13}}。

1980年代前半まで民間航空機市場におけるエアバス・インダストリーのシェアは、納入機数で20パーセントに届くか届かないかだったが<ref name=JADC-data4/>、1999年に初めて受注機数でエアバス・インダストリーがボーイングを上回った{{sfn|日本航空宇宙工業会|2007|pp=6&ndash;7}}。エアバス・インダストリーは参加国政府の様々な後押しを受けて急成長したが、決算報告書も存在しない企業連合 (GIE) という形態が問題視されるようになり、構成各社や政府内からも財務情報の公表も含めた組織の健全化が求められるようになった{{sfn|日本航空宇宙工業会|2007|pp=6&ndash;7, 208&ndash;209}}{{sfn|山崎|2009|pp=224&ndash;225}}。そこで会社形態を{{仮リンク|単純型株式資本会社|fr|Société par actions simplifiée}} (SAS) に転換することになり、2001年に新会社へ移行して社名も「エアバス」(Airbus S.A.S.)に変わった{{sfn|青木|2010|p=127}}{{sfn|日本航空宇宙工業会|2007|pp=208&ndash;209}}。

A300-600登場後の引き渡し数は、[[1980年代]]末から[[1990年代]]前半まではおおむね毎年20機超であったが、A340・A330の納入が始まり1990年代半ばになると売れ行きが鈍り、毎年10機程度の生産となった<ref name=JADC-data1/>{{sfn|浜田|2010b|p=95}}。CCQの対象外であったA300とA310は、A320から始まったエアバス機のファミリー化の流れから取り残される形になった{{sfn|青木|2014|p=109}}。1990年代後半にはエアバス関係者は、A300が担っていた市場は、A330の短胴型であるA330-200(座席数およそ250席)が代替するようになったとの見方を示している{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=14}}。また、この関係者は中距離ワイドボディ機市場には、航続力や運用の柔軟性でA300/A310よりも勝る[[ボーイング767]]の存在することを認めている{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=14}}。2006年3月8日、エアバスはA300とA310の生産を2007年7月で終了すると発表し、以降は受注済み機体の生産を終え次第、製造ラインを閉じることとなった{{sfn|粂|2007|p=30}}{{sfn|青木|2014|p=125}}。A300-600の最終生産機は製造番号878号機のA300-600Rの貨物型であり、2007年4月18日に初飛行し、同年7月17日にフェデックスに引き渡された{{sfn|青木|2014|p=125}}。

A300はA310と合わせて822機生産され{{refnest|group="注釈"|製造番号の最終は878号機だが、これは製造番号の割当てだけされて実際には製造されなかったものが56機あるためである{{sfn|青木|2010|p=78}}。}}、そのうちA300第1世代が250機、A300-600シリーズは317機であった{{sfn|佐藤|2001}}{{sfn|青木|2010|pp=73, 78}}。顧客への引き渡し総数は561機であり、内訳は第1世代が249機、A300-600シリーズが312機であった<ref name=JADC-data1/>{{sfn|青木|2010|p=78}}。また、A300-600STは、全5機がエアバス関連企業のエアバス・トランスポート・インターナショナルで運航されている{{sfn|青木|2010|pp=78&ndash;79}}。

== 機体の特徴 ==
本節では、基本的にA300第1世代の特徴について説明する。A300-600およびその派生型については「[[エアバスA300-600]]」を参照。

=== 形状・構造 ===
[[ファイル:Onur Air Airbus A300 Karakas.jpg|thumb|左後方やや上から見下ろしたA300B4。]]
A300の最大の特徴として、250席から300席級というサイズの旅客機を双発機として実現したことがあげられる{{sfn|松田|1981b|p=102}}。A300は、客室内に2本の通路をもつワイドボディ機である{{sfn|渡邊|1981a|p=5}}{{sfn|久世|2006|p=139}}。片持ち式の主翼を低翼に配置した[[単葉機]]であり、左右の主翼下に1発ずつ[[ターボファンエンジン]]を備える{{sfn|渡邊|1981a|pp=5&ndash;7}}。[[尾翼]]も低翼配置で垂直・水平尾翼ともに胴体尾部に直接取り付けられている{{sfn|渡邊|1981a|pp=5&ndash;6}}。[[降着装置]]は前輪式配置で機首部に前脚、左右の主翼の付け根に主脚がある{{sfn|青木|2010|p=68}}。A300第1世代の機体全長は53.62メートル、全幅は44.84メートル、全高は16.53メートルである{{sfn|藤田|2001b|p=57}}<ref group="注釈" name=length/>。

[[ファイル:Translift Airways Airbus A300 Aragao.jpg|thumb|A300B4の右側面。尾部に向けて絞り込まれている胴体後部では客室床も後ろ上がりに傾斜しており、それに合わせて客室窓も少しずつ上がっている。]]
A300の胴体は真円形断面で外径が5.64メートル、胴体長はA300B2/B4で52.03メートルである{{sfn|渡邊|1981a|p=4}}。A300の胴体外径は巡航時の抵抗を抑えるため、同時期に開発されたワイドボディ機のDC-10(6.03メートル)やL-1011(5.97メートル)よりも細い{{sfn|浜田|2010a|pp=96&ndash;97}}{{sfn|渡邊|1981a|pp=5&ndash;6}}。胴体構造は円形断面のフレーム(円框)と前後方向に延びる縦通材、そして外板の組み合わせで強度を保つ{{sfn|李家|2011|pp=230&ndash;231}}{{sfn|久世|2006|pp=55&ndash;57}}[[モノコック|セミモノコック構造]]である{{sfn|渡邊1981a|pp=8&ndash;9}}。フレームは21インチ(53センチメートル)間隔で配置され、1座席列に最低1か所の窓が確保できるようになっている{{sfn|渡邊1981a|pp=8&ndash;9}}。A300は胴体尾部がかなり細長くなっているのが特徴で、離着陸時に引き起こし角を十分にとれるよう尾部下面を大きく跳ね上げた形状となっている{{sfn|藤田|2001a|p=47}}。これにより客室後部の床は、後方に向かって僅かに上り勾配がつけられている{{sfn|藤田|2001a|p=47}}。尾部を長くしたことで尾翼面積が小さく済み、巡航時のトリム抵抗低減などの利点があるとされたが、発展型のA300-600では胴体の平行な部分を延ばして尾部構造は短縮されている{{sfn|藤田|2001a|p=47}}{{sfn|松田|1981b|p=105}}。

主翼は[[テーパー]]のついた後退翼である{{sfn|渡邊|1981a|p=5}}。主翼は胴体と一体となった中央翼と左右の片持ち翼で構成される{{sfn|渡邊|1981a|p=7}}。片持ち翼は、翼幅方向に延びる桁を複数配置し、前後の桁と上下の外板とで箱型を作り[[応力]]を分担する箱型応力外皮構造である{{sfn|渡邊|1981a|pp=7&ndash;8}}{{sfn|李家|2011|p=230}}。A300の片持ち翼は、エンジンパイロンのやや外側を境に外翼と内翼に分けられ、外翼は2本桁構造、内翼は3本桁構造となっている{{sfn|渡邊|1981a|pp=7&ndash;8}}{{sfn|松田|1981b|p=107}}。A300の主翼外板は外翼部と内翼部で分割して継ぎ手で繋ぐ方式を採用し、複雑な曲面の製造を避けている{{sfn|松田|1981b|p=107}}。[[フェイルセーフ]]性を確保するため747、DC-10、L-1011といった他のワイドボディ機では翼幅方向には継ぎ目を設けていないが、主翼の製造を担当したホーカー・シドレーは当時、翼幅にわたる一枚式の外板を製造できる設備をもっていなかったため、製造方法をシンプルにできる構造が採用された{{sfn|浜田|2010a|p=97}}{{sfn|Obert|2009|p=255}}。

主翼[[翼平面形|平面形]]の主なパラメータを見ると、全幅が44.84メートル、主翼面積が260平方メートルでアスペクト比{{refnest|group="注釈"|name=aspect_ratio|アスペクト比とは翼幅の2乗を面積で割った値で翼の細長比を示す値である<ref name=encyclopedia-314/>。アスペクト比が大きい方が[[誘導抵抗]](揚力発生に伴う抵抗)が小さくなり、効率的な飛行に有利となる<ref name=encyclopedia-314/>{{sfn|李家|2011|pp=314–316}}{{sfn|久世|2006|pp=13-14}}。}}は7.7である{{sfn|渡邊|1981a|p=5}}{{sfn|松田|1981b|p=104}}。25パーセント翼弦における後退角が28度と比較的浅い一方、翼厚比{{refnest|group="注釈"|name=wing_thickness|翼の厚みを翼弦長(翼の前後の長さ)で割った値{{sfn|久世|2006|p=37}}。空力特性、強度と重量、翼内の燃料タンク容量などを踏まえて決定される{{sfn|李家|2011|p=135}}。}}は10.5パーセントとやや厚めである{{sfn|渡邊|1981a|p=5}}{{sfn|浜田|2010a|p=97}}。浅い後退角は低速時の操縦性を向上しやすいほか、翼根部の[[曲げモーメント]]の低減にも繋がり、厚い翼厚比と合わせて構造強度上有利であり構造重量の低減が図られている{{sfn|李家|2011|p=132}}{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}{{sfn|浜田|2010a|p=97}}。

[[ファイル:Subsonic and trans-sonic airfoils.svg|thumb|翼型(翼断面)の模式図。上が従来の翼型で、下がリア・ローディング翼型の特徴を持つ遷音速翼型である。図中の''A''は[[超音速]]領域、''B''は[[衝撃波]]、''C''は[[境界層|境界層剥離]]を表す。]]
主翼の[[翼型]]には開発当時の最新技術である「リア・ローディング翼型」が採用されている{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}{{sfn|浜田|2010a|p=97}}。この翼型の翼断面は前縁が大きな丸みを帯び、上面は比較的平らで下面は後縁がえぐられたような形状である{{sfn|浜田|2010a|p=97}}{{sfn|松田|1981b|p=103}}。高亜音速や遷音速<ref group="注釈" name=transonic/>で飛行すると、機体の飛行速度が[[マッハ数|マッハ]]1以下でも翼面上を流れる空気は局所的に音速を超えることがある{{sfn|李家|2011|p=119}}。音速を超えた気流は大きな負の圧力を示し、翼を引きつけるよう作用する{{sfn|李家|2011|p=120}}。しかし、この気流は翼面上の後方に向かって最終的に飛行速度まで減速するため、音速以下に戻るところで[[衝撃波]]が発生して抵抗の急増や飛行性の急変を起こす{{sfn|久世|2006|p=115}}{{sfn|李家|2011|p=120}}。巡航状態におけるリア・ローディング翼型の圧力分布は、翼上面の前縁付近に負圧が最大になる地点(すなわち流速が最大になる地点)があるがそのピークは従来のピーキー翼型と比べて低く、翼表面の流速が音速を超えても抵抗が急増しない{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}{{sfn|Obert|2009|pp=252&ndash;253}}{{sfn|松田|1981b|pp=103&ndash;104}}。続く上面の圧力分布は翼弦長の中程までほぼ一定で、そこから後縁に向けて穏やかに低下する{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}{{sfn|Obert|2009|pp=252&ndash;253}}{{sfn|松田|1981b|pp=103&ndash;104}}。一方翼下面では、一旦負圧が上昇するが後半部のえぐりにより流れが減速されて上面との圧力差が確保されるため、翼弦上の後方で多くの揚力を得ることができる{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}{{sfn|浜田|2010a|p=97}}。この翼型の特性は、1960年代に[[アメリカ航空宇宙局]] (NASA) が開発したスーパークリティカル翼型{{sfn|李家|2011|pp=121–122}}と基本的に同じであるが、翼の設計を行った[[ホーカー・シドレー]]社は、NASAとは独立にリア・ローディング翼型の開発に至ったとしてスーパークリティカル翼型の一種とは認めていない{{sfn|浜田|2010a|p=97}}。リア・ローディング翼型は衝撃波の発生を遅らせ揚力係数を増加できることから、後退角と翼厚比を同じくした場合に従来の翼型よりも高速で飛行できる{{sfn|浜田|2010a|p=97}}{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}。しかし、欧州域内を結ぶ短中距離機として開発されたA300では高い巡航速度は不要とされ、前述の通り後退角を減らし翼厚比を大きくする設計がなされた{{sfn|浜田|2010a|p=97}}{{sfn|松田|1981b|p=104}}。主翼の空力設計が優れていたことが、A300が成功した要素の一つとも言われる{{sfn|谷川|2016|loc=位置No.1027/1772}}。

{{Multiple image|align=right|direction=vertical
|image1=Airbus A300B2-203, Iran Air AN1173611.jpg
|alt1=A300B2-203を左やや下から見た写真。翼胴フェアリングがほとんど無い。
|image2=Philippine Airlines Airbus A330-300 Bidini-3.jpg
|alt2=A330-300を左やや下から見た写真。主翼の付け根部分に大型の翼胴フェアリングが付いている。
|footer=同じアングルから見たA300(上)とその発展型A330(下)。A300では主翼付け根の胴体下側には翼胴フェアリングがほとんど無い。一方、後にA300をベースに開発されたA330はA300と共通の胴体断面を持つが、胴体延長と重量増加に対応して主翼が新設計となり翼胴フェアリングが追加されている。}}
中央翼が貫通する胴体部分は、胴体のモノコック構造をそのまま通しているが[[与圧]]はされていないため、中央翼の上面に与圧を受けられるよう5本のトラス・ビームを通している{{sfn|松田|1981b|p=107}}。A300の主翼は低翼配置であるが、客室床の位置が比較的高いことから中翼に近い形で取り付けられている{{sfn|藤田|2001a|p=46}}。これにより胴体の円筒内に主脚や[[エア・コンディショナー|エアコン]]装置を収納するスペースが確保できたため、胴体下側に翼と胴体の表面を滑らかに繋ぐフィレット(翼胴フェアリング)が張り出していない{{sfn|李家|2011|pp=27&ndash;29}}{{sfn|松田|1981b|p=107}}。

主翼には[[動翼]]として、[[高揚力装置]]、[[補助翼|エルロン]]、[[スポイラー (航空機)|スポイラー]]を備える{{sfn|青木|2010|p=68}}。

高揚力装置には前縁に基本的にスラット、後縁にファウラーフラップを備える{{sfn|青木|2010|p=68}}。スラットは主翼のほぼ全幅にわたり配置され片翼あたり3分割されている{{sfn|青木|2010|p=68}}。他機ではスラットが途切れるエンジンパイロン部分についても、A300ではパイロンを避ける切り欠きを入れてスラットを通すことで揚力を稼いでいる{{sfn|松田|1981b|p=104}}。A300B1およびA300B2-100以外では離着陸性能を向上させるため前縁の翼根部にクルーガー・フラップが追加されている{{sfn|藤田|2001a|p=49}}。スラットの展開角度は、着陸時には揚力係数が最大となる25度、離陸時には揚抗比が最大となる16度である{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}。後縁のフラップは、展開時に2本の隙間が現れるダブルスロット型ファウラーフラップである{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}{{sfn|土井|1991|p=5}}{{sfn|松田|1981b|p=104}}。フラップは内翼部と外翼部で2分割され、後縁全幅の84パーセントを占める{{sfn|青木|2010|p=68}}。このフラップは、まず後方に移動し、その後回転しつつ滑り降りるように展開される{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}。フラップの後ろ側1枚はタブと呼ばれ、前側の1枚よりもさらに折れ曲がる機構を用いている{{sfn|松田|1981b|p=104}}。エアバスでは、この方式により簡単な機構で性能を高くできるとしていた{{sfn|松田|1981b|p=104}}。全開時には翼弦長が25パーセント増え、フラップが下がり始める前に7割まで展開される{{sfn|松田|1981b|p=104}}。フラップは、着陸時には揚力係数が最大となる25度まで全開になり、離陸時には揚抗比を稼げる16度までの展開となる{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}{{sfn|松田|1981b|p=104}}。

エルロンは低速度エルロンと全速度エルロンの2枚を備える{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}。全速度エルロンは内翼部フラップと外翼部フラップの間に、低速度エルロンは外翼側フラップより翼端側に配置されている{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}。エルロンリバーサル{{refnest|group="注釈"|エルロンリバーサルとは、高速飛行時に翼に働く応力により操舵の意図とは逆の働きをエルロンが引き起こしてしまう現象{{sfn|李家|2011|p=143}}。}}を防ぐため、翼端側の低速度エルロンはスラットやクルーガー・フラップが展開されている時のみ作動する{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}。全速度エルロンは、フラップの作動と連動してフラップと同様の効果を発揮するフラッペロンとしても働く{{sfn|渡邊|1981a|p=6}}。

主翼上面にはスポイラーが配置されている{{sfn|青木|2010|p=69}}。スポイラーは片翼あたり7枚で、内翼側フラップの前方に2枚、外翼側フラップの前方に5枚である{{sfn|青木|2010|p=69}}。内舷側から数えて4枚は、グラウンドスポイラー([[空力ブレーキ]]参照)としてのみ機能し、外弦側の3枚はフライトスポイラーとしても働く{{sfn|藤田|2001a|p=49}}{{sfn|松田|1981b|p=105}}。エルロンとスポイラーの横操縦能力の分担は、高速飛行時では80パーセントが全速度エルロン、20パーセントがスポイラーによって行われ、低速では全速度エルロンと低速度エルロンがそれぞれ36パーセント、スポイラーが28パーセントを分担しているとされる{{sfn|松田|1981b|p=105}}。

[[水平尾翼]]は水平安定板と1枚式の[[昇降舵]]で構成される{{sfn|青木|2010|p=68}}。逆キャンバー(後縁がそり上がる形状{{sfn|久世|2006|p=29}})の翼断面を持ち、翼幅が16.94メートル、翼面積が69.5平方メートルである{{sfn|渡邊|1981a|pp=5, 7}}。[[ピッチング|ピッチ]]方向のトリム調整(釣り合う姿勢の調整<ref name=encyclopedia-160/>)ができるよう水平安定板自体が可動式となっており、[[油圧モーター|油圧モータ]]で[[ボールねじ|ボールスクリュー]]ジャッキが駆動されて+3度から-12度まで角度をとれる{{sfn|青木|2010|p=68}}{{sfn|松田|1981b|p=105}}。[[垂直尾翼]]は垂直安定板と1枚式の[[方向舵]]で構成される{{sfn|青木|2010|p=68}}。片側エンジン停止時の操縦性と横風時の着陸性能などを考慮して方向舵面積が大きく、同時に横方向の動安定を満足するよう垂直安定板も大きいため、翼面積は45.2平方メートルである{{sfn|渡邊|1981a|pp=5, 7}}{{sfn|松田|1981b|p=105}}。尾翼も箱型応力外皮構造で、垂直尾翼の下半分は3本桁でそれ以外は2本桁構造、舵面は板金構造である{{sfn|松田|1981b|p=107}}。

エンジンはパイロンにより主翼下に1発ずつ吊り下げられている{{sfn|渡邊|1981a|pp=5&ndash;6}}。A300のエンジンポッドは補器やパイロン取り付け面も含めてDC-10-30と同じで、違いは配管等の僅かな配置程度である{{sfn|松田|1981b|p=109}}。胴体尾部には[[補助動力装置]] (APU) として[[ガスタービンエンジン]]が搭載されている{{sfn|Airbus|2007|p=1}}。APUも当初はDC-10と同じものが採用されたが、A300にはやや大きすぎたことから、後により軽量・低騒音・低燃費のAPUに変更された{{sfn|松田|1981b|p=109}}。

燃料タンクは主翼外翼の桁間全体が充てられ、左右それぞれのエンジンに燃料を供給するほか、左右タンク間での燃料移動も可能である{{sfn|松田|1981b|p=109}}。タンクは内舷側と外弦側に2分割されており、翼の強度的な負荷を抑えるため内側タンクの燃料から使用される{{sfn|松田|1981b|p=109}}。APUへの燃料供給も翼内のタンクから行われる{{sfn|松田|1981b|p=109}}。A300B4では中央翼の桁間にも燃料タンクが設けられた{{sfn|松田|1981b|p=109}}。さらに、A300B4-200では、後方貨物室に搭載可能なLD-3貨物コンテナ2個分に相当する追加燃料タンクがオプション設定されている{{sfn|松田|1981b|p=109}}。

降着装置は引き込み式で、前脚は2輪式で前方へ格納、主脚は4輪ボギー式で内側へ格納される{{sfn|青木|2010|p=68}}。主脚の車輪は[[アンチロック・ブレーキ・システム|アンチスキッド機能]]付きの油圧ディスクブレーキを有する{{sfn|青木|2010|p=68}}。主脚のタイヤとブレーキはB2からB4への重量増に対応して次第に強化されている{{sfn|松田|1981b|p=108}}。尾部には[[テールスキッド]]を備え、離着陸時に尾部が地面に接触してしまった際にはショックを吸収できるようになっている{{sfn|松田|1981b|p=108}}。

A300の主要構造部材の大部分は[[アルミニウム合金]]が使用されている{{sfn|渡邊|1981a|p=7}}。主要部分の一部には[[鋼|スチール]]や[[チタン合金]]も用いられているが、[[マグネシウム合金]]は一切使われていない{{sfn|渡邊|1981a|p=7}}。主翼の縦通材と外板は[[リベット]]接合で、胴体については外板とフレームはリベット、外板と縦通材は[[接着]]により接合されている{{sfn|渡邊1981a|pp=8&ndash;9}}{{sfn|松田|1981b|p=107}}。DC-10では接着は腐食の問題があるとして主構造部材<ref group="注釈" name=structure/>には全く使用しなかったのと対照的に、エアバスでは腐食対策を十分に施すことで接着も採用された{{sfn|藤田|2001a|p=47}}。また、費用対効果が見合う部品には[[削り出し|一体削り出し]]も多用された{{sfn|松田|1981b|p=107}}。そのほか、二次構造部材<ref group="注釈" name=structure/>の一部には[[複合材料]]も採用されている{{sfn|渡邊|1981a|p=7}}{{sfn|Airbus|2007|p=2}}。たとえば、垂直安定板の縁部、翼胴フェアリングおよびトラックレールの[[フェアリング]]などにはガラス繊維強化プラスチック (GFRP) が用いられ、水平安定板の翼端の一部には[[炭素繊維強化プラスチック]] (CFRP)が用いられている{{sfn|渡邊|1981a|p=7}}{{sfn|Airbus|2007|p=2}}。

=== 飛行システム ===
[[ファイル:Airbus A300B2-103, Novespace (CNES) AN1993670.jpg|thumb|{{仮リンク|ノヴァスペース|fr|Novespace}}社が運用したA300 ZERO-Gのコックピット。同機はA300B2をベースとした。]]
A300第1世代の操縦システムは機械式で計器類も機械電気式である{{sfn|青木|2010|p=66}}{{sfn|浜田|2010a|p=97}}。運航に必要な操縦士は[[機長]]、[[副操縦士]]、[[航空機関士]]の3人であり、A300第1世代はエアバスの旅客機で唯一の3人乗務機となったが、後に航空機関士を除く2名でも運航可能なFFCC(後述)と呼ばれるコックピット仕様が開発された{{sfn|EASA|2014|p=26}}{{sfn|青木|2010|pp=66, 73}}<ref group="注釈" name=crew/>。

A300第1世代のシステムは、双発機であっても3発機や4発機と同等の保護安全装置や回路を装備させるよう設計されている{{sfn|渡邊|1981b|p=17}}。全てのシステムは、カテゴリーIIIaの自動着陸能力<ref group="注釈">[[計器着陸装置]]を参照。</ref>に対する要求を満たすよう設計されている{{sfn|渡邊|1981b|p=17}}。APUを空中で使用可能にするなどしてシステムは二重あるいは三重に[[冗長化]]されている{{sfn|渡邊|1981b|p=17}}{{sfn|松田|1981b|p=108}}。特に飛行の安全に重大な影響を及ぼす主要システムについては2種類の機器が故障してもシステム全体が使用不能にならないよう安全性が確保されている{{sfn|渡邊|1981b|p=17}}{{sfn|松田|1981b|p=108}}。

油圧は完全に独立した3系統が同時に機能し、どの1系統が故障しても操縦能力は十分で2系統が故障しても飛行と着陸が可能である{{sfn|松田|1981b|pp=109&ndash;110}}。このため翼の舵面には、予備の人力操縦系統は搭載されていない{{sfn|松田|1981b|p=105}}。油圧3系統は、それぞれブルー、グリーン、イエローと名付けられており、エンジン駆動のポンプによって作動する{{sfn|松田|1981b|p=110}}。グリーン系統だけは電源ポンプも備えておりAPUの電源で作動可能であり、さらにグリーン系統から油圧モータを介して残りの2系統を作動させることもできる{{sfn|松田|1981b|p=110}}。また、エンジンとAPUが全て停止した時には、[[ラムエア・タービン]]のポンプによりイエロー系統を作動させることが可能である{{sfn|松田|1981b|p=110}}。

[[旅客機のコックピット|コックピット]]の各システムの制御パネルにはそのシステムの概要が図示されているほか、操作機器類の配置はシステムを構成しているロジックと同じ連続性を持つよう配置されている{{sfn|渡邊|1981b|p=17}}。各表示機器も実際のシステム構成要素の配置と相関を持つように配置され、操縦士が状況を把握しやすいよう工夫されている{{sfn|渡邊|1981b|p=17}}。主警報パネルは3名の乗務員から見やすいよう、中央のパネルに取り付けられている{{sfn|渡邊|1981b|p=17}}。航空機関士のシステムパネルは右舷側にあるが、エンジン始動後は着陸して停止するまで航空機関士が前向きに座って乗務できるよう操作パネルが配置されている{{sfn|松田|1981b|p=111}}。この考え方をさらに一段階すすめて開発されたコックピットがFFCC(Forward Facing Crew Cockpit の略)であり、システムパネルの機器類を中央のオーバーヘッドパネル(コックピット天井のパネル)に移設して航空機関士は常時前向きで乗務できるようにし、必要であれば操縦士2名だけでも運航可能となった{{sfn|松田|1981b|p=111}}{{sfn|EASA|2014|p=28}}。

A300第1世代の飛行システムやコックピットは、[[アビオニクス]]の技術進歩に対しても対応できるよう、機器類の搭載スペースや冷却能力には余裕をもって設計された{{sfn|渡邊|1981b|p=19}}。特に[[ブラウン管]] (CRT) を利用したディスプレイの搭載や計器類の増設、そして電気信号を介して動翼を操縦する[[フライ・バイ・ワイヤ]]の導入にも備えた設計がなされた{{sfn|渡邊|1981b|p=19}}。実際にA300の派生型として開発されたA310や、A310の技術をA300にフィードバックした発展型のA300-600ではCRTディスプレイを用いたいわゆるグラスコックピット化が実現し、操縦系統の一部にはフライ・バイ・ワイヤも採用され、正副操縦士のみの2人乗務での運航が標準となった{{sfn|藤田|2001a|p=49}}。

安全性に対するリスクを抑えつつ整備性を向上させるようシステムの分離も図られており、A300第1世代では特に電源系統と油圧系統の分離が重点的に行われている{{sfn|渡邊|1981b|p=18}}。整備および点検を簡素化できるよう、システムの各構成要素は整備性の良い場所にまとめて配置され、その近くには取り外しを行いやすいアクセスパネルが設けられている{{sfn|渡邊|1981b|pp=17&ndash;18}}。複雑なシステムおよびサブシステムには、BITE (Built In Test Equipment) と呼ばれる検査装置が装備されている{{sfn|渡邊|1981b|p=18}}。BITEはシステムの作動状況や故障状態を自動的に検知して、表示・記録することができ、整備や飛行前点検などにおける業務負荷の軽減が図られている{{sfn|渡邊|1981b|p=18}}。

A300のシステム構成要素は一部を他機種とも共通性・互換性があり、特にDC-10とは広範囲に及ぶ{{sfn|渡邊|1981b|p=18}}。エンジンポッド全体はDC-10-30と同じでAPUや発電機、エアコン装置や防氷装置等の主要部もDC-10と同じであるほか、油圧ポンプは747、DC-10、L-1011と同じであり、主要機器のなかの80点は米国製の機体と共通である{{sfn|松田|1981b|p=108}}。

=== 客室・貨物室 ===
[[ファイル:American Airlines A300 Main Cabin (3486604260).jpg|thumb|アメリカン航空による運航当時のA300の客室内。|代替文=]]
A300の胴体は中央付近の床面を境として上層に客室、下層に貨物室が配置されている<ref name=300B-manual-C2p10p16/>。キャビンは常用圧力差が8.25[[重量ポンド毎平方インチ]](約570[[ヘクトパスカル]])に[[与圧]]され、エンジンまたはAPUから得られる高圧空気を温度調整してキャビンに送られる{{sfn|松田|1981b|pp=107&ndash;109}}。

A300の客室は最大幅が5.35メートル、最大高が2.54メートル、長さは初期のA300B1を除くと39.15メートルである{{sfn|青木|2010|p=68}}{{sfn|渡邊|1981a|p=4}}。客室内には通路が2本配置され、標準的な座席配置は上級クラスでは2-2-2の6[[アブレスト]]または2-3-2の7アブレストであり、[[エコノミークラス]]では2-4-2の8アブレストで座席間隔を詰めれば3-3-3の9アブレストも可能である<ref name=300B-manual-C2p10p16/>{{sfn|青木|2010|pp=68&ndash;69}}。真円形胴体を持つ旅客機では、客室の床面位置を断面円の中心からある程度低くした方が窓際座席のゆとりを確保しやすくなる{{sfn|李家|2011|pp=54&ndash;55}}{{sfn|久世|2006|pp=139&ndash;140}}。しかし、A300では細い胴体径で床下にLD-3貨物コンテナを2列で収容できる貨物室スペースを確保するため、床位置は相対的に高くなっている{{sfn|藤田|2001a|p=46}}{{sfn|李家|2011|pp=54&ndash;55}}。断面の円の中心から床までの距離は、DC-10では46センチメートル、L-1011では48センチメートルあるが、A300の場合は18センチメートルである{{sfn|藤田|2001a|p=46}}。そのためA300では円の曲率の影響で窓側席の上部が狭くなってしまうことから、座席と側壁との間を10センチメートル空けている{{sfn|松田|1981b|p=106}}。エアバスによる標準座席数は2クラス編成で251席(上級クラス26席+エコノミークラス225席)、エコノミーのモノクラス編成では269席から302席であり、非常口により決まる上限座席数は345席(A300B1は323席)である{{sfn|青木|2010|pp=68&ndash;69}}{{sfn|EASA|2014|p=26}}。客室の扉配置は左右対称で、乗降用ドアは客室最前部、最後部、主翼の前方部に1組ずつ6か所あり、加えて主翼後方に非常口が1組配置されている<ref name=300B-manual-C2p10p16/><ref>{{Cite web |title=Aviation Safety Network > Airline safety > Emergency exits locations > Airbus A300 exits |date=2014-02-09 |language=English |url=http://aviation-safety.net/airlinesafety/exits/exit.php?type=020 |publisher=Aviation Safety Network |accessdate=2015-08-02}}</ref>。客室の窓は上下を丸めた小判形で寸法は230×340ミリメートルである{{sfn|松田|1981b|p=106}}。

座席の頭上には手荷物を収納するためのオーバーヘッド・ストウェージが配置されている{{sfn|松田|1981b|p=106}}。左右の座席のストウェージは標準装備でエコノミークラスの中央列のものはオプション扱いだったが、中央列にも採用する航空会社が多かった{{sfn|青木|2010|pp=68&ndash;69}}{{sfn|松田|1981b|p=106}}。機内エンターテインメント設備は基本的には[[イヤホン]]により音楽等のサービスを提供するオーディオ・システムのみだったが、短中距離線用の旅客機ということで機体価格を抑えるため、初期にはエンターテインメント設備を一切装備しない運航会社もあった{{sfn|渡邊|1981a|p=9}}{{sfn|青木|2010|pp=68&ndash;69}}。一方、時代と共に機内設備品が進歩したことから、エンターテインメントシステムを新しいものに置き換えた航空会社もあった{{sfn|青木|2010|pp=68&ndash;69}}。

床下貨物室は3室に分けられており、主翼を挟んで前方貨物室と後方貨物室があり、その後ろにバルク貨物室がある<ref name=300B-manual-C2p17p20/>。床下貨物室のドアは右舷にあり、前方・後方貨物室には外開き式扉が各1か所、バルク貨物室には内開き式扉が1か所ある<ref name=300B-manual-C2p17p20/>。前方・後方貨物室はLD-3航空貨物コンテナを左右に並べて搭載できる幅を持っており、コンテナをそれぞれ12個、8個まで収容可能である<ref name=300B-manual-C2p17p20/>。コンテナやパレットの積み下ろしを行うため、前方・後方貨物室には動力付きローラー式の積載装置が備わっており、ドア近くのコントロールパネルにて操作する{{sfn|松田|1981b|p=106}}{{sfn|渡邊|1981a|p=9}}。747やDC-10、L-1011などのワイドボディ機と同規格のパレットやコンテナを搭載可能であることから、航空会社は地上設備等を共用でき、中継地の空港で他のワイドボディ機からコンテナのまま貨物を載せ替えることも可能である{{sfn|渡邊|1981a|p=9}}{{sfn|藤田|2001a|p=44}}。前方貨物室は煙探知器と消火装置を備え、後方貨物室は煙探知器のみで消火装置は持たない{{sfn|松田|1981b|p=106}}。

== シリーズ構成 ==
{| class="wikitable" style="font-size:91%; text-align:center; float:right; margin-left:1.5em;"
|+ 表2: 型式名と装備エンジンの一覧
|-
|-
! 型式名
!非積載時重量
! エンジン
|{{Convert|90,060|kg|lb}}||{{Convert|90,900|kg|lb}}||{{Convert|81,900|kg|lb}}
! 型式証明取得
|-
|-
| A300B1
!最大離陸重量
| [[ゼネラル・エレクトリック CF6|GE CF6-50A]]
|{{Convert|165,000|kg|lb}}||{{Convert|171,700|kg|lb}}||{{Convert|170,500|kg|lb}}
| 1974年11月12日
|-
|-
| A300B2-1A
!最大離陸重量での滑走距離, SL, ISA
| GE CF6-50A
|N/A||colspan="2"|{{Convert|2,324|m|ft}}
| 1974年3月15日
|-
|-
| A300B2-1C
!巡航速度
| [[ゼネラル・エレクトリック CF6|GE CF6-50C]]
|colspan="3"|[[マッハ数|M]]0.78(高度35,000&nbsp;ftで829&nbsp;km/h, 515&nbsp;mph, 447knots)
| 1975年10月2日
|-
|-
| A300B2K-3C
!最大速度
| GE CF6-50C / CF6-50C2R
|colspan="3"|[[マッハ数|M]]0.82(高度35,000&nbsp;ftで871&nbsp;km/h, 541&nbsp;mph, 470knots)
| 1976年6月23日
|-
|-
| A300B2-202
!最大積載時の航続距離
| GE CF6-50C1
|{{Convert|6,670|km|nmi}}||{{Convert|7,540|km|nmi}}||{{Convert|4,850|km|nmi}}
| 1978年2月22日
|-
|-
| A300B2-203
!最大燃料積載量
| GE CF6-50C2 / CF6-50C2D
|62,900 litres(16,600 US gal)||colspan="2"|68,150 litres(18,000 US gal)
| 1980年2月21日
|-
|-
| A300B2-320
!エンジン
|[[ゼネラル・エレクトリック CF6|CF6-50C2]]または[[プラット・アンド・ホイットニー JT9D|JT9D-59A]]||colspan="2"|CF6-80C2または[[プラット・アンド・ホイットニー PW4000|PW4158]]
| [[プラット・アンド・ホイットニー JT9D|P&W JT9D-59A]]
| 1980年1月4日
|-
|-
| A300B4-2C
!操縦士
| GE CF6-50C / CF6-50C2R
|3名||colspan="2"|2名
| 1975年3月26日
|-
| A300B4-102
| GE CF6-50C1
| 1977年12月7日
|-
| A300B4-103
| GE CF6-50C2
| 1979年3月21日
|-
| A300B4-120
| P&W JT9D-59A
| 1981年2月4日
|-
| A300B4-203
| GE CF6-50C2 / CF6-50C2D
| 1979年4月26日
|-
| A300B4-220
| P&W JT9D-59A
| 1982年1月8日
|-
| A300C4-203
| GE CF6-50C2
| 1979年12月18日
|-
| A300F4-203
| GE CF6-50C2
| 1986年6月6日
|-
| colspan=3 style="text-align:left; font-size:90%;" |
* 出典:{{harvnb|EASA|2014}}
* GE: ゼネラル・エレクトリック、P&W: プラット・アンド・ホイットニー
|}
|}
A300はA300-600より前に開発されたタイプ(第1世代)とA300-600以降で開発されたタイプがある{{sfn|粂|2007|pp=28&ndash;29}}。A300第1世代はエアバス・インダストリーが初めて開発・製造した旅客機で、A300-600は第1世代の機体構造を基本に先進技術が導入された発展型である{{sfn|土井|1991|p=4}}{{sfn|粂|2007|p=29}}。以下本節ではA300第1世代のシリーズ構成について述べる。A300-600およびその派生型(A300-600R、A300-600Fなど)については「[[エアバスA300-600]]」を参照のこと。また、A300-600Rをベースに開発された大型貨物輸送機A300-600STについては「[[エアバス ベルーガ|ベルーガ]]」を参照のこと。

A300第1世代の型式名は装備するエンジンによって細分化されている(表2)。GE製CF6エンジンとP&W製JT9Dエンジンを装備する機体が生産された{{sfn|青木|2010|p=67}}。{{nowrap|R-R}}製のRB211エンジンを装備する仕様も提案されていたが、採用する航空会社が現れず生産されなかった{{sfn|青木|2010|p=67}}。

=== A300B1 ===
[[ファイル:Airbus A300B1, Transeuropean Airlines JP7675833.jpg|thumb|{{仮リンク|トランス・ヨーロピアン・エアウェイズ|en|Trans European Airways}}により運航されたA300B1。]]
A300で最初に製造されたモデルで1972年10月28日に初飛行し、1974年11月12日に型式証明を取得した{{sfn|松田|1981a|p=56}}{{sfn|EASA|2014|p=8}}。A300B2が開発されるとそちらに注文が集中したため、製造されたA300B1は1号機と2号機のみである{{sfn|藤田|2001b|p=54}}{{sfn|粂|2007|p=28}}。1号機はエアバス・インダストリーが所有し、1974年8月まで各種試験に用いられてその後解体され、胴体と主翼の一部が[[ミュンヘン]]の[[ドイツ博物館]]で展示された{{sfn|藤田|2001b|p=54}}{{sfn|青木|2010|p=66}}。2号機はリースされて{{仮リンク|トランス・ヨーロピアン・エアウェイズ|en|Trans European Airways}}によって商業運航に用いられ、[[1990年]]11月に引退した{{sfn|藤田|2001b|p=54}}{{sfn|青木|2010|p=66}}。

=== A300B2 ===
==== A300B2-100 ====
[[ファイル:Airbus A300B2-101, Air France AN1917942.jpg|thumb|[[エールフランス]]運航当時のA300B2。同社の要請によりA300Bは胴体を2.65メートル延長し、その後の標準となった。]]
エールフランスの意向を受けてA300B1の胴体を2.65メートル延長し、単一クラスでの標準座席数を281席としたタイプである{{sfn|松田|1981a|p=56}}{{sfn|藤田|2001b|p=54}}。最初の機体は通算3号機で1973年6月28日に初飛行した{{sfn|藤田|2001b|p=54}}。1974年3月15日、フランスおよびドイツの航空当局から[[型式証明]]が交付された{{sfn|渡邊|1981a|p=5}}。1974年5月11日にエールフランスに引き渡され、その月の23日に初就航した{{sfn|藤田|2001b|p=54}}。

当初は単にA300B2、あるいはA300B2-1C、A300B2-1Aと呼ばれていたが、1978年4月にエアバス・インダストリーは型式名の整理を行い、クルーガー・フラップを持たないA300B2をA300B2-100と呼ぶようになった{{sfn|佐藤|2001}}{{sfn|松田|1981a|pp=57&ndash;58}}。A300B2-100は30機が生産された{{sfn|粂|2007|pp=28&ndash;29}}。

==== A300B2-200 ====
[[ファイル:South African Airways Airbus A300 KvW.jpg|thumb|南アフリカ航空はA300B2Kの最初の発注者となった。]]
当初はA300B2Kと呼ばれていたが、1978年4月の型式名の整理によりA300B2-200に変更された{{sfn|松田|1981a|p=57}}。主翼前縁の翼根部にA300B4と同じクルーガー・フラップを装備することで、高地や高温地域での離着陸性能を向上させたタイプである{{sfn|粂|2007|pp=28&ndash;29}}。A300B2Kでは、空力的な特徴に加えて強力なブレーキを備え、[[ナローボディ機]]の[[マクドネル・ダグラス DC-9|DC-9]]や727よりも短い滑走路から離陸でき、着陸も727と同等の滑走路の使用が可能であり、2,000メートルの滑走路でも余裕のある離着陸性能を持っていた{{sfn|渡邊|1981a|p=7}}。

通算32号機がA300B2Kの初号機となり1976年7月30日に初飛行し、11月23日に南アフリカ航空に初引き渡しが行われた{{sfn|松田|1981a|p=57}}。A300B2KとA300B2-200を合わせて25機が生産された{{sfn|佐藤|2001}}。日本の東亜国内航空が最初に導入したA300もA300B2Kであった{{sfn|粂|2007|pp=28&ndash;29}}。

==== A300B2-300 ====
[[ファイル:SAS Airbus A300 Soderstrom-3.jpg|thumb|[[スカンジナビア航空]]のみが運航したA300-300。]]
A300B2-200の最大離陸重量を増加し、短距離区間を頻繁に離着陸するような路線に適した機材として開発された{{sfn|粂|2007|p=29}}{{sfn|EASA|2014|p=13}}。A300シリーズでP&W製JT9Dエンジンを採用した最初の機体となった{{sfn|粂|2007|p=29}}。通算79号機がA300B2-300の初号機となり、1979年4月28日に初飛行、1980年1月4日に型式証明を取得した{{sfn|青木|2010|p=67}}{{sfn|EASA|2014|p=13}}。当型式を採用したのはスカンジナビア航空のみであり4機が生産された{{sfn|粂|2007|p=29}}{{sfn|佐藤|2001}}。

=== A300B4 ===
==== A300B4-100 ====
イベリア航空の要求によりA300B2の中央翼内に燃料タンクを増設し、最大離陸重量も150トンに増やして航続距離を伸ばしたタイプである{{sfn|松田|1981a|pp=56&ndash;57}}。重量増加に対応して離陸性能を確保するため、主翼前縁の翼根部にクルーガー・フラップが追加された{{sfn|松田|1981a|pp=56&ndash;57}}{{sfn|青木|2010|p=66}}。A300B4の開発により、もともと短距離型として開発されたA300が中距離路線にまで使える幅の広い旅客機に成長し、結果的に販売の中心はA300B4となった{{sfn|松田|1981a|p=57}}{{sfn|藤田|2001b|p=56}}。

通算9号機がA300B4の初号機となり、1974年12月26日に初飛行、1975年3月26日に型式証明を取得した{{sfn|青木|2010|p=66}}。しかし、最初の発注者だったイベリア航空が注文をキャンセルしたため、ドイツのチャーター便航空会社の{{仮リンク|ジャーマンエア|de|Germanair}}が最初の納入先となり、1975年6月1日に初就航した{{sfn|松田|1981a|p=67}}{{sfn|Kingsley-Jones et al.|1997|p=11}}。最大離陸重量を157.5トンに増加したタイプも開発され、1976年6月10日に型式証明が交付された{{sfn|松田|1981a|p=57}}。さらに、構造を強化して最大離陸重量を165トンまで増加したタイプ(次節参照)が登場し、基本構造のA300B4はA300B4-100と呼ばれるようになった{{sfn|松田|1981a|p=58}}。A300B4-100は66機が生産されたほか、スカンジナビア航空のA300B2-300は全4機が当型式に改造された{{sfn|藤田|2001b|p=56}}。

==== A300B4-200 ====
主翼と主脚([[降着装置]])の強度を向上し、ブレーキとタイヤの容量を増すことで最大離陸重量を165トンまで増加したタイプである{{sfn|松田|1981a|p=57}}。A300B4-200では貨物室内に燃料タンクを増設でき、その場合の航続距離は3,000海里(5,560キロメートル)となった{{sfn|松田|1981a|p=57}}{{sfn|藤田|2001b|p=57}}。

A300B4-200は1978年1月にエールフランスから初受注し、当型式の初号機は通算70号機で1979年4月26日に型式証明を取得、同月末から引き渡しが始まった{{sfn|松田|1981a|p=57}}{{sfn|佐藤|2001}}。100機が生産されたほか、A300B4-100からA300B4-200仕様に改造された機体もある{{sfn|藤田|2001b|pp=56&ndash;57}}。操縦士2名での運航が可能なFFCC仕様もある{{sfn|藤田|2001b|p=57}}。

=== A300C4 ===
[[ファイル:Airbus A300C4-203, Hapag-Lloyd JP5981659.jpg|thumb|[[ハパックロイド]]運航時のA300C4-200。]]
A300B4をベースに開発された貨客転換型で{{sfn|松田|1981a|p=60}}、正式な型式名はA300C4-200である{{sfn|EASA|2014|p=20}}。メインデッキ(客席部分)に貨物を搭載できるよう左舷前方に幅3.58メートル、高さ2.57メートルの貨物扉を設置し、床面強化とメインデッキへの煙探知器の追加を行い、内装も貨物向きに変更している{{sfn|松田|1981a|p=60}}。メインデッキに貨物を搭載するときは、座席のかわりに貨物積載装置を取り付け、前方に9Gに耐えられるバリヤーネットを張ってコックピットを保護する{{sfn|松田|1981a|p=60}}。メインデッキの貨物室容積は173 - 179立方メートルであり、客室内装を残したままで88×125インチ(2.23×3.17メートル)の貨物パレットを13枚、96×125インチ(2.44×3.17メートル)の貨物パレットでは12枚を収容可能である{{sfn|松田|1981a|p=60}}。旅客機として運用する場合の座席数は281席で、繁忙期は旅客機として、閑散期は貨物機または貨客混載機といった運用が可能である{{sfn|松田|1981a|p=60}}。貨物用から旅客用へは24時間で転換できる{{sfn|松田|1981a|p=60}}。

A300C4は、ドイツの[[ハパックロイド]]から初受注し、A300B4-200として完成した83号機をドイツ・[[ブレーメン]]のVFW社に空輸して1975年5月から改造作業を行った{{sfn|松田|1981a|p=60}}。1979年12月18日に型式証明を取得し{{sfn|EASA|2014|p=20}}、同月中にハパックロイドへ納入された{{sfn|松田|1981a|p=60}}。初めからA300C4として生産されたのは4機であるが、このうちの2機は納入前にA300F4(次節参照)に改造された{{sfn|佐藤|2001}}。

=== A300F4 ===
[[ファイル:Airbus A300F4-203, MNG Airlines JP6146101.jpg|thumb|[[トルコ]]の貨物航空会社[[MNG航空]]による運航当時のA300F4-203。胴体前方("M"がペイントされている辺り)に貨物扉がある。]]
A300C4と同様にメインデッキに貨物を搭載可能とした貨物専用型であり{{sfn|青木|2010|p=69}}、正式名称はA300F4-203である{{sfn|EASA|2014|p=22}}。エアバス・インダストリーでは早くからA300の貨物型を提案していたが、第1世代では新造機での受注はなく全て旅客型またはA300C4からの改造により製造された{{sfn|藤田|2001b|p=57}}{{sfn|松田|1981a|p=61}}{{sfn|佐藤|2001}}。A300F4の初号機は通算277号機で、A300C4-200として1983年9月29日に初飛行していた機体を改造し、1986年6月6日の型式証明取得後に大韓航空に引き渡されたものである{{sfn|青木|2010|p=69}}{{sfn|EASA|2014|p=22}}。この改造はイギリスのBAeによって行われた{{sfn|藤田|2001b|p=57}}。A300-600シリーズでも純貨物型も提案され、こちらは新造機での受注もあった{{sfn|藤田|2001b|p=57}}(詳細は、[[エアバスA300-600|A300-600]]を参照)。

=== A300 ZERO-G ===
{{Multiple image|align=right|direction=vertical|footer_align=center|
|image1=Airbus A-300 ZERO-G.jpg
|image2=Airbus A300B2-103, Novespace (CNES) AN1971156.jpg
|image3=Airbus A300B2-103, Novespace (CNES) AN1994667.jpg
|alt1=トーイングカーに牽引されているA300 ZERO-Gを右前方から見た写真。機体側面には「ZERO-G」と大きくペイントされている。
|alt2=キャビンの実験スペースの様子。座席はなく中央の通路を挟んで左右には等間隔でネットが張られている。
|alt3=キャビン前方の様子。前方向きに座席と機器が設置されている。
|width=200
|footer=A300 ZERO-Gの外観(上)とキャビン内(下2枚)。
}}
フランスの{{仮リンク|ノヴァスペース|fr|Novespace}}社が提供している航空機実験サービスにA300が使用された<ref name=microgravity/>。この機体はA300 ZERO-Gと名付けられ、[[放物線飛行]]を行うことで微少重力環境をつくり出す<ref name=microgravity/>。A300 ZERO-GはA300B2の通算3号機を改造したもので、放物線飛行に必要な操縦を行えるコックピット、飛行状況を記録する計測装置類、そして実験機器を搭載できるキャビンを備える<ref name=FG-zero-gravity-training-aircraft/><ref name=FG-all-new-zero-g/>。1回の放物線飛行で作り出せる微少重力状態は20秒間ないし25秒間で、[[重力加速度]]は-0.02Gから0.02Gである<ref name=microgravity/>。放物線飛行の前後では各20秒間1.8Gの加重がかかる<ref name=microgravity/>。1回の飛行で最大40回まで放物線飛行を行え、最大ペイロードは12トンである<ref name=microgravity/>。A300 ZERO-Gは[[1997年]]から運用を開始し<ref name=ESA/>、18年間に13,000回以上の放物線飛行を行った<ref name=FG-all-new-zero-g/>。構造に高負荷のかかる飛行を繰り返すことから、年々それに耐えるための整備が難しくなり、A310をベースとした新しい「ZERO-G」に後を引き継ぎ、[[2014年]]10月に引退した<ref name=FG-all-new-zero-g/>。

== 運用の特徴 ==
A300はシリーズ全体で561機が顧客へ引き渡された<ref name=JADC-data1/>{{sfn|青木|2010|p=156}}。そのうちA300第1世代が249機で、A300-600シリーズが312機であった{{sfn|青木|2010|pp=69, 78}}。また、A300-600ST「ベルーガ」が5機製造・納入された{{sfn|青木|2010|pp=78&ndash;79}}。

第1世代の運用数は、引き渡しが始まった1974年から増加し、1980年代の後半には240機前後となりピークを迎えた{{sfn|日本航空機開発協会|2018|p=II-15–II-17}}。その後は退役が進み2014年には20機を下回った{{sfn|日本航空機開発協会|2018|p=II-15–II-17}}。A300-600シリーズは、納入が始まった1984年から運用数は増え続け、280機を超えた2000年代中盤をピークにその後は減少傾向にある{{sfn|日本航空機開発協会|2018|p=II-15–II-17}}。

A300第1世代の新造機での導入数が最も多かったのは、イースタン航空でその数は32機であった{{sfn|佐藤|2001}}。10機以上の新造機を導入したのは、欧州ではエールフランス (23) とルフトハンザ航空 (11)、米国ではイースタン航空と[[パンアメリカン航空]] (12)、アジアでは[[タイ国際航空]] (12)、東亜国内航空(後の[[日本エアシステム]]) (11)、[[大韓航空]] (10)、[[インディアン航空]] (10)であった(括弧内は導入機数){{sfn|佐藤|2001}}。

A300-600シリーズを新造機で最も多く導入したのは[[UPS航空]]で53機、次いで[[フェデックス・エクスプレス|フェデックス]]が42機導入しており、貨物航空会社が上位を占めた{{sfn|佐藤|2001}}<ref name=airfleets/>。新造機を10機以上導入した旅客航空会社は、導入数の多い順に[[アメリカン航空]] (34)、大韓航空 (24)、日本エアシステム (22)、タイ国際航空 (21)、ルフトハンザ航空 (13)、[[サウディア]] (11)、[[チャイナエアライン]] (10)、[[中国東方航空]] (10)、[[ガルーダ・インドネシア航空]] (10)であった{{sfn|佐藤|2001}}<ref name=airfleets/>。

エールフランス、ルフトハンザ航空、イベリア航空、アリタリア航空といった欧州の主要航空会社は、A300を欧州内幹線で運航した{{sfn|谷川|2002|p=134}}。A300第1世代の運航機数が最も多かったのは1980年代後半で約240機をピークに引退が進み、A300-600については2000年代中盤の約290機をピークに引退が進んでいる<ref name=JADC-data3/>。初期の運航会社が放出した機体は、中古機として中小規模の航空会社で採用されたほか、貨物専用型へ改造され貨物航空会社でも運航されている{{sfn|谷川|2002|pp=134&ndash;135}}。

2018年7月の統計によると、A300第1世代が12機、A300-600シリーズが200機運用されている<ref name=WAC2018/>。この運用数には、エアバス・トランスポート・インターナショナルが運用する5機の[[エアバス ベルーガ|A300-600ST]]も含まれる<ref name=WAC2018/>。運用数の半数以上は貨物航空会社によるもので、運用数の首位はFedEx (68)、以下UPS航空 (52)、[[DHL]]の関連会社である{{仮リンク|ユーロビアン・エア・トランスポート|en|European Air Transport}} (21) と続き、上位3社ともA300-600のみの運用である<ref name=WAC2018/>。同じく2018年7月の統計においてA300を運航している旅客航空会社は、中東やアフリカの航空会社を主とした数社で、[[マーハーン航空]] (11)、[[イラン航空]] (4)、{{仮リンク|ケシュム・エア|en|Qeshm Air}} (4)、[[エジプト航空]] (2) などとなっている<ref name=WAC2018/>。

=== 日本での運航 ===
[[ファイル:JA8464 A300B2K-3C JAS Japan Air System NGO 08JUL01 (6880865540).jpg|thumb|日本エアシステム運航当時のA300B2K]]
日本の航空会社では東亜国内航空(後の[[日本エアシステム]])と[[佐川急便]]グループの[[ギャラクシーエアラインズ]]がA300を採用した{{sfn|『JAL JET STORY』|pp=186&ndash;187}}{{sfn|粂|2007|p=30}}<ref name=diamond>{{Citation |title=News&Analysis 佐川急便、上場準備への焦りか 貨物航空撤退で負った多大な代償 |journal=週刊ダイヤモンド |publisher=ダイヤモンド社 |year=2008 |month=09 |volume=96 |number=36 |pages=14&ndash;16}}</ref>。東亜国内航空は日本エアシステム時代から日本航空との統合後まで含めて、A300B2Kを9機、A300B4を8機、A300-600Rを22機と延べ39機を運航した{{sfn|『JAL JET STORY』|pp=186&ndash;187}}{{sfn|粂|2007|p=30}}。ギャラクシーエアラインズはA300-600Rの貨物型を2機運航した<ref name=diamond/><ref name=WAC2008/>。そのほか、大韓航空やタイ国際航空、フィリピン航空、中国の航空会社などが日本への国際便にA300を用いた{{sfn|青木|2010|pp=140&ndash;153}}。また、パンアメリカン航空はアジア路線にA300を投入し日本へも乗り入れていた{{sfn|青木|2010|pp=140&ndash;153}}。

A300は東亜国内航空の初のワイドボディ機となり、同時に日本の航空会社が導入した最初の欧州製ジェット旅客機となった{{sfn|徳光|2001|p=91}}。日本のローカル国内線を中心に運航していた東亜国内航空はDC-9の次に導入する大型機の選定にあたり、主にA300とDC-10を比較検討した{{sfn|徳光|2001|pp=90&ndash;91}}{{sfn|粂|2007|p=30}}。その結果、DC-10ほどの大きさや航続距離性能は不要とされ、双発で整備性・経済性に有利で地方空港の2,000メートルの滑走路でも離着陸できる機材としてA300B2Kが選定された{{sfn|徳光|2001|pp=90&ndash;91}}{{sfn|粂|2007|p=30}}。実績の無い欧州製で世界初の双発ワイドボディ機の導入ということで心配する声もあったが、事前調査の上で1979年5月に最初の受注契約が交わされた{{sfn|粂|2007|p=30}}{{sfn|『JAL JET STORY』|pp=158&ndash;159}}。初納入に先立つ1979年11月、[[入間基地]]で開催された国際航空宇宙ショーにエアバス・インダストリーはA300のデモ機を出展した{{sfn|粂|2007|p=30}}。この時の機体はエアバスのコーポレートカラーであるレインボーカラーに「東亜国内航空」とペイントされており、これを見た東亜国内航空の役職員が感激し、同社の機体塗装にレインボーカラーを譲り受けることとなった{{refnest|group="注釈"|この決定以降、エアバス・インダストリーは、垂直尾翼以外の機体塗装においてレインボーカラーを用いていない<ref>{{Citation |和書 |last=品田 |first=照義 |title=JAS導入20年目を迎えるエアバスA300 (特集 エアバス絶好調!) |journal=エアワールド |issn=02885603 |publisher=エアワールド |date=1999-08-23 |volume=23 |number=8 |pages=44-47 }}</ref>。}}{{sfn|『JAL JET STORY』|pp=158&ndash;159}}{{sfn|粂|2007|p=31}}。

東亜国内航空への初引き渡しは1980年10月で、翌年3月に[[東京国際空港|羽田]] - [[鹿児島空港|鹿児島]]線で初就航した{{sfn|『JAL JET STORY』|p=160}}。その後、ワイドボディ機でありながら滑走路長が2,000メートルの地方空港へも就航できる離着陸性能を活かし羽田と北海道、東北、九州を結ぶ路線に相次いで投入されローカル路線網の充実に貢献した{{sfn|『JAL JET STORY』|p=160}}。増加する旅客数に対応し、A300B2Kに続いてA300B4を追加発注しようとしたが、当時既にA300-600の生産に移行していたことから新造機では数を揃えられず海外の航空会社から中古機を買い集めた{{sfn|『JAL JET STORY』|pp=159&ndash;160}}。また、1988年4月には東亜国内航空は日本エアシステムへ社名変更し、その年の7月に同社初の国際定期便となる[[成田国際空港|成田]] - ソウル線が開設されA300B4が就航した{{sfn|『JAL JET STORY』|p=160}}<ref>{{Cite web|和書|title=日本エアシステム、国際線定期便の総旅客数が400万人を達成! |date=2001-08-17 |publisher=日本エアシステム |url=https://www.jal.com/ja/jasnews/inter_400.htm |accessdate=2015-10-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061019003415/http://www.jal.com/ja/jasnews/inter_400.htm |archivedate=2006-10-19}}</ref>

その後、日本エアシステムは、輸送力の強化と国際線へも就航できる機材としてA300-600Rの導入を決め、1991年4月に最初の機体を受領した{{sfn|『JAL JET STORY』|pp=71&ndash;72}}。この時のA300-600Rは第1世代の後継というより機材増強の側面が強く、第1世代は主に国内線、A300-600はアジア地域への国際線の強化に振り向けられた{{sfn|『JAL JET STORY』|p=72}}。日本エアシステムは東亜国内航空時代からA300の定時出発率99.5パーセント以上を維持し、エアバスから最優秀運航者として2度表彰された{{sfn|『JAL JET STORY』|p=160}}。

[[ファイル:JA8566-JAL-A300-600R.JPG|thumb|日本エアシステムは日本航空と統合し、引き継がれたA300-600Rは日本航空の新塗装に塗り替えられた。]]
日本エアシステムが[[日本航空]]と経営統合した後もA300は引き継がれたが、第1世代機は2002年から引退が始まり、2006年3月31日に運航を終了した{{sfn|粂|2007|p=31}}。第1世代は予め引退が計画されていたため統合後もレインボーカラー塗装で運用された{{sfn|粂|2007|p=31}}。一方のA300-600Rは新しい日本航空の塗装に塗り替えられ国内線で運航された{{sfn|粂|2007|p=31}}。2008年の[[リーマン・ショック]]をきっかけに日本航空は経営難に陥り、再建策の一環として機種整理を行いA300-600Rも引退することとなった<ref>{{Citation |和書 |last=戸崎 |first=肇 |title=再上場JAL、破綻から再生に至る道のり |date=2012-09-19 |url=http://www.nippon.com/ja/currents/d00051/ |accessdate=2015-10-21}}</ref>。当初の引退予定は2011年3月だったが、その月の11日に発生した[[東日本大震災]]を受けて被災した東北への輸送力増強に充てられたことで引退は一旦延期され、5月31日の青森発羽田行きの便をもって運航を終えた<ref>{{Cite news |title=なじみの翼、20年間ありがとう 退役2カ月延期、震災復興支援に活躍 /青森県 |date=2011-06-02 |newspaper=朝日新聞 朝刊 |page=27}}</ref><ref>{{Cite news |title=羽田と地方空港を結ぶ路線を中心に約20年間活躍した(窓)|date=2011-06-01 |newspaper=日本経済新聞 朝刊 |page=39}}</ref>。

[[ファイル:070429.JA01GX.A300-600RF.JPG|thumb|[[ギャラクシーエアラインズ]]が運航したA300-600R貨物型改造機。]]
ギャラクシーエアラインズは2005年5月に佐川急便が設立した貨物専門航空会社で、A300-600Rの中古機を改造した貨物機を導入し、翌年10月に羽田と[[北九州空港|北九州]]ならびに[[那覇空港]]間で運航を開始した<ref name=nikkei-20080805>{{Cite news |和書 |title=佐川急便グループの貨物航空会社、自社専用機きょう離陸――若佐社長に聞く |date=2006-10-31 |newspaper=日経産業新聞 |page=27}}</ref><ref>{{Cite news |title=佐川、貨物航空から撤退へ、上場にらみ2年で「見切り」、空陸一貫、燃料高で転換 |date=2008-08-05 |newspaper=日本経済新聞 朝刊 |page=13}}</ref>。2007年4月には新造機で2機目を導入し、[[新千歳空港|新千歳]]と羽田ならびに[[関西国際空港]]間でも就航も開始した<ref name=nikkei-20080805/>{{sfn|青木|2010|p=156}}。しかし、燃料費高騰や機材の不具合により運航・整備コストがかさみ、当初計画より大幅な赤字となり2008年8月に事業停止と清算を決定し、同年10月に全路線を廃止した<ref name=nikkei-20080805/><ref>{{Cite news |title=佐川系航空運送事業、国交省、廃止届を受理 |date=2008-10-07 |newspaper=日経産業新聞 |page=18}}</ref>。

=== 受注・納入数 ===
顧客へ納入されたA300シリーズは、総計561機である。内訳は、A300第1世代が249機、A300-600シリーズが312機であった。


{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:91%;"
=== エンジン ===
|+ 表3: 年ごとの受注・納入数(キャンセル分は当初発注年度から減じている)<ref name=JADC-data1/>
{|class=wikitable style="text-align:center;font-size:80%;"
|-
|-
!年 !! 合計 !! 2007 !! 2006 !! 2005 !! 2004 !! 2003 !! 2002 !! 2001 !! 2000 !! 1999 !! 1998 !! 1997 !! 1996 !! 1995 !! 1994 !! 1993 !! 1992 !! 1991 !! 1990
!機種!!年!!エンジン
|-
|-
! 受注数
|A300B2-1A||1974||[[ゼネラル・エレクトリック CF6|ゼネラル・エレクトリック CF6-50A]]
| '''561''' || 0 || 0 || 7 || 2 || 6 || 0 || 24 || 2 || 0 || 32 || 6 || 15 || 2 || 0 || 3 || 16 || 38 || 22
|-
|-
! 納入数
|A300B2-1C||1975||[[ゼネラル・エレクトリック CF6|ゼネラル・エレクトリック CF6-50C]]
| '''561'''|| 6 || 9 || 9 || 12 || 8 || 9 || 11 || 8 || 8 || 13 || 6 || 14 || 17 || 23 || 22 || 22 || 25 || 19
|-
|-
| style="height: 1px;" colspan=20 |
|A300B2K-3C||1976||[[ゼネラル・エレクトリック CF6|ゼネラル・エレクトリック CF6-50CR]]
|-
|-
! !! 1989 !! 1988 !! 1987 !! 1986 !! 1985 !! 1984 !! 1983 !! 1982 !! 1981 !! 1980 !! 1979 !! 1978 !! 1977 !! 1976 !! 1975 !! 1974 !! 1973 !! 1972 !! 1971
|A300B4-2C||1976||[[ゼネラル・エレクトリック CF6|ゼネラル・エレクトリック CF6-50C]]
|-
|-
! 受注数
|A300B4-103||1979||[[ゼネラル・エレクトリック CF6|ゼネラル・エレクトリック CF6-50C2]]
| 54 || 21 || 29 || 7 ||16 || 19 || 0 || 3 || 23 || 31 || 61 || 65 || 23 || 2 || 14 || 9 || 0 || 3 || 6
|-
|-
! 納入数
|A300B4-120||1979||[[プラット・アンド・ホイットニー JT9D|プラット & ホイットニー JT9D-59A]]
| 24 || 17 || 11 || 10 || 16 || 19 || 19 || 46 || 38 || 39 || 24 || 15 || 16 || 13 || 9 || 4 || 0 || 0 || 0
|}

== 主な事故・事件 ==
2017年1月現在、A300が関係した[[航空事故]]および事件は73件報告されており<ref name=ASN-index/>、その中には34件の機体損失事故と30件の[[ハイジャック]]が含まれる<ref name=ASN-statistics/>。死者を伴う事件・事故は15件発生しており、合わせて1,435人が亡くなっている<ref name=ASN-statistics/>。

A300の最初の機体損失事故は1982年3月17日に[[イエメン]]の[[サヌア国際空港]]で発生した<ref name=ASN-database/>。[[カイロ国際空港]]行きの[[エールフランス125便火災事故|エールフランス125便]]が離陸滑走中にエンジンが破損し、飛び出した破片が燃料タンクを突き破り火災が発生した<ref name=ASN-19820317-0>{{ASN accident|id=19820317-0 |title=ASN Aircraft accident Airbus A300B4-203 F-BVGK San'a International Airport (SAH) |accessdate=2015-10-18}}</ref>。この事故で乗客乗員124人の内乗客1人が負傷したが死者は出なかった<ref>{{Citation |title=AIRCRAFT ACCIDENT FINAL REPORT. AIR FRANCE. AIRBUS A 300 B4, F- BVGK. SANA'A AIRPORT (YEMEN ARAB REPUBLIC). MARCH 17, 1982 |publisher=[[フランス航空事故調査局]] |date=1984-07-18 |format=PDF |language=English |url=http://www.bea.aero/docspa/1982/f-gk820317/pdf/f-gk820317.pdf}}</ref>。機体は修理不能と判断され登録抹消となった<ref>{{Citation |title=Aircraft Accident Final Report. Air France. Airbus A 300 B4, F- BVGK. Sana'a Airport (Yemen Arab Repubalic). March 17, 1982 |publisher=フランス航空事故調査局 |date=1984-07-18 |format=PDF |language=English |url=http://www.bea.aero/docspa/1982/f-gk820317/pdf/f-gk820317.pdf}}</ref>{{sfn|佐藤|2001}}。

A300の最初の死亡事故は、1987年9月21日に発生した<ref name=ASN-19870921-0>{{ASN accident|id=19870921-0 |title=ASN Aircraft accident Airbus A300B4-203 SU-BCA Luxor Airport (LXR) |accessdate=2015-10-24}}</ref>。[[ルクソール国際空港]]に着陸しようとしていた[[エジプト航空]]のA300B4-203が滑走路を700メートル超過して墜落した<ref name=ASN-19870921-0/>。同機には乗客は搭乗していなかったが乗員5人全員が死亡した<ref name=ASN-19870921-0/>。

A300の事故・事件のなかで最も多くの犠牲者が発生したのは[[イラン航空655便撃墜事件]]である<ref name=ASN-statistics/>。1988年7月3日、[[アメリカ海軍]]の[[ミサイル巡洋艦]]が発射した[[ミサイル]]によって[[イラン航空]]のA300B2-200が撃墜され、乗客と乗員合わせて290人全員が死亡した<ref name=ASN-statistics/>。そのほか100人以上の犠牲者が発生した事故には、1992年9月28日に発生した[[パキスタン国際航空268便墜落事故]]、1994年4月26日に発生した[[中華航空140便墜落事故]]、1997年9月26日に発生した[[ガルーダ・インドネシア航空152便墜落事故]]、1998年2月16日に発生した[[チャイナエアライン676便墜落事故]]、2001年11月12日に発生した[[アメリカン航空587便墜落事故]]がある<ref name=ASN-database/>。このうち、パキスタン国際航空268便とガルーダ・インドネシア航空152便の事故はA300B4によるもので、それ以外はA300-600Rによる事故である<ref name=ASN-database/>。

A300が巻き込まれた最初のハイジャック事件は、1976年9月27日に発生した[[エンテベ空港奇襲作戦]]である<ref name=ASN-database/>。エールフランスのA300B4-203がハイジャックされ[[エンテベ国際空港]]に着陸した<ref name=ASN-19760627-1>{{ASN accident|id=19760627-1 |title=ASN Aircraft accident Airbus A300B4-203 F-BVGG Entebbe Airport (EBB)}}</ref>。人質が空港の旧ターミナルに移された後、イスラエル軍による救出作戦が実施されたが人質3名が死亡した<ref name=ASN-19760627-1>{{ASN accident|id=19760627-1 |title=ASN Aircraft accident Airbus A300B4-203 F-BVGG Entebbe Airport (EBB)}}</ref>。

== 主要諸元 ==
本節ではA300第1世代の主要諸元を示す。A300-600およびその派生型の諸元は「[[エアバスA300-600]]」を参照のこと。
{| class="wikitable" style="font-size:91%; text-align:center;"
|+ 表4: A300第1世代の各型式の主要諸元
|-
|-
!
|A300B2-203||1980||[[ゼネラル・エレクトリック CF6|ゼネラル・エレクトリック CF6-50C2]]
! A300B1
! A300B2-100
! A300B2-200
! A300B4-100
! A300B4-200
! A300C4-200
! A300F4-200
|-
|-
! 運航乗務員数
|A300B4-203||1981||[[ゼネラル・エレクトリック CF6|ゼネラル・エレクトリック CF6-50C2]]
| colspan="7" | 3名(FFCC仕様機は2名で運航可能){{sfn|EASA|2014|p=26}}
|-
|-
! {{nowrap|標準座席数}} {{nowrap|(2クラス)}}
|A300B4-220||1981||[[プラット・アンド・ホイットニー JT9D|プラット & ホイットニー JT9D-59A]]
| --
| colspan="4" | 251席{{sfn|青木|2010|p=68}}
| --
| N/A
|-
|-
! {{nowrap|最大座席数}} {{nowrap|(1クラス)}}
|A300B4-601||1988||[[ゼネラル・エレクトリック CF6|ゼネラル・エレクトリック CF6-80C2A1]]
| 323席{{sfn|EASA|2014|p=26}}
| colspan="4" | 345席{{sfn|EASA|2014|p=26}}
| 145席{{sup|†}}{{sfn|EASA|2014|p=26}}
| N/A
|-
|-
! 貨物室容積
|A300B4-603||1988||[[ゼネラル・エレクトリック CF6|ゼネラル・エレクトリック CF6-80C2A3]]
| --
| colspan="4" | 144&nbsp;[[立方メートル|m{{sup|3}}]]<ref name=300B-manual-C2.1.1p3/><ref name=300B-manual-C2.1.1p4p4B/>
| メインデッキ: {{nowrap|173 - 179}}&nbsp;m{{sup|3}}<br />床下貨物室: 158&nbsp;m{{sup|3}}<ref name=300B-manual-C2.1.1p4C/>
| メインデッキ: 285&nbsp;m{{sup|3}}<br />床下貨物室: 158&nbsp;m{{sup|3}}<ref name=300B-manual-C2.1.1p4C/>
|-
|-
! 全長
|A300B4-620||1983||[[プラット・アンド・ホイットニー JT9D|プラット & ホイットニー JT9D-7R4H1]]
| 50.97&nbsp;[[メートル|m]]{{sfn|藤田|2001b|p=57}}
| colspan="6" | 53.62&nbsp;m{{sfn|藤田|2001b|p=57}}
|-
|-
! 全幅
|A300B4-622||2003||[[プラット・アンド・ホイットニー PW4000|プラット & ホイットニー PW4158]]
| colspan="7" | 44.84&nbsp;m{{sfn|藤田|2001b|p=57}}
|-
|-
! 全高
|A300B4-605R||1988||[[ゼネラル・エレクトリック CF6|ゼネラル・エレクトリック CF6-80C2A5]]
| colspan="7" | 16.53&nbsp;m{{sfn|藤田|2001b|p=57}}
|-
|-
! 主翼面積
|A300B4-622R||1991||[[プラット・アンド・ホイットニー PW4000|プラット & ホイットニー PW4158]]
| colspan="7" | 260&nbsp;[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]{{sfn|藤田|2001b|p=57}}
|-
|-
! 胴体直径
|A300F4-605R||1994||[[ゼネラル・エレクトリック CF6|ゼネラル・エレクトリック CF6-80C2A5 or 2A5F]]
| colspan="7" | 5.64&nbsp;m{{sfn|藤田|2001a|pp=44&ndash;45}}
|-
|-
! 客室幅
|A300F4-622R||2000||[[プラット・アンド・ホイットニー PW4000|プラット & ホイットニー PW4158]]
| colspan="6" | 5.35&nbsp;m{{sfn|青木|2010|p=68}}
| N/A
|-
|-
! 最大無燃料重量 (MZFW)
|A300C4-605R||2002||[[ゼネラル・エレクトリック CF6|ゼネラル・エレクトリック CF6-80C2A5]]
| 116,500&nbsp;[[キログラム|kg]]{{sfn|EASA|2014|p=8}}
|}
| 116,500 - 120,500&nbsp;kg<ref name=300B-manual-C2.1.1p3/>

| 120,500&nbsp;kg<ref name=300B-manual-C2.1.1p3/>
== 生産状況 ==
| 122,000 - 126,000&nbsp;kg<ref name=300B-manual-C2.1.1p4p4B/>
{{See also|:en:List of Airbus A300 operators}}
| 124,000 - 130,000&nbsp;kg<ref name=300B-manual-C2.1.1p4p4B/>
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:80%"
| 124,000 - 126,000&nbsp;kg<ref name=300B-manual-C2.1.1p4C/>
| 126,000&nbsp;kg<ref name=300B-manual-C2.1.1p4C/>
|-
|-
! [[最大離陸重量]] (MTOW)
! !!合計!!2007!!2006!!2005!!2004!!2003!!2002!!2001!!2000!!1999!!1998!!1997!!1996!!1995!!1994!!1993!!1992!!1991
| 137,000&nbsp;kg{{sfn|EASA|2014|p=8}}
| 134,000 - 142,000&nbsp;kg<ref name=300B-manual-C2.1.1p3/>
| 134,000 - 142,000&nbsp;kg<ref name=300B-manual-C2.1.1p3/>
| 150,000 - 157,500&nbsp;kg<ref name=300B-manual-C2.1.1p4p4B/>
| 147,500 - 165,000&nbsp;kg<ref name=300B-manual-C2.1.1p4p4B/>
| 165,000&nbsp;kg<ref name=300B-manual-C2.1.1p4C/>
| 165,000&nbsp;kg<ref name=300B-manual-C2.1.1p4C/>
|-
|-
! [[最大着陸重量]] (MLW)
!納入
| 122,000&nbsp;kg{{sfn|EASA|2014|p=8}}
|561||6||9||9||12||8||9||11||8||8||13||6||14||17||23||22||22||25
| 127,000 - 130,000&nbsp;kg<ref name=300B-manual-C2.1.1p3/>
|}
| 130,000&nbsp;kg<ref name=300B-manual-C2.1.1p3/>
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:80%"
| 133,000 - 134,000&nbsp;kg<ref name=300B-manual-C2.1.1p4p4B/>
| 134,000 - 140,000&nbsp;kg<ref name=300B-manual-C2.1.1p4p4B/>
| 134,000 - 136,000&nbsp;kg<ref name=300B-manual-C2.1.1p4C/>
| 136,000&nbsp;kg<ref name=300B-manual-C2.1.1p4C/>
|-
! 最大巡航速度
| マッハ0.84{{sfn|藤田|2001b|p=57}}
| colspan="2" | マッハ0.86{{sfn|藤田|2001b|p=57}}
| colspan="4" | マッハ0.82{{sfn|藤田|2001b|p=57}}
|-
! 航続距離
| 2,590&nbsp;km{{sfn|藤田|2001b|p=57}}
| colspan="2" | 3,425&nbsp;km{{sfn|藤田|2001b|p=57}}
| 4,820&nbsp;km{{sfn|藤田|2001b|p=57}}
| 5,560&nbsp;km{{sfn|藤田|2001b|p=57}}
| colspan="2" |4,625&nbsp;km{{sfn|藤田|2001b|p=57}}
|-
|-
! エンジン (×2)
! !!1990!!1989!!1988!!1987!!1986!!1985!!1984!!1983!!1982!!1981!!1980!!1979!!1978!!1977!!1976!!1975!!1974
| [[ゼネラル・エレクトリック CF6|GE CF6-50A]]{{sfn|藤田|2001b|p=57}}
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| colspan="8" style="text-align:left; font-size:90%;" |
* GE: ゼネラル・エレクトリック、P&W: プラット・アンド・ホイットニー
* † 主デッキに貨客混載時の最大。
|}
|}


== 関連項目 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Portal box|航空|ヨーロッパ}}
=== 注釈 ===
* [[:en:Airbus Executive and Private Aviation|エアバスエグゼクティブとプライベート航空(英語版)]]
{{Notelist|2|refs=
* [[:en:Competition between Airbus and Boeing|エアバスとボーイングの競争(英語版)]]
{{refnest|group="注釈"|name=structure|航空機の構造部材は一次構造部材(主構造部材)と二次構造部材に分かれている。一次構造部材は飛行荷重・地上荷重・与圧加重の伝達を主要に受持つ構造部材であり<ref>{{Citation|和書 |last1=中田 |first1=守 |last2=北原 |first2=靖久 |last3=畑口 |first3=宏之 |title=航空機用アルミニウム鋳物の動向 |journal=R&D神戸製鋼技報 |publisher=神戸製鋼所 |date=2005-12 |volume=55 |number=3 |pages=87&ndash;90}}</ref>、主翼の桁間構造の部材などが相当し<ref name=encyclopedia-346/>、構造材の中でも最も安全上の信頼性が要求される<ref>{{Citation|和書 |last=前田 |first=豊 |title=炭素繊維の応用と市場 |publisher=シーエムシー出版 |series=CMCテクニカルライブラリー |date=2008-06 |isbn=978-4-7813-0006-1 |page=103}}</ref>。一方、二次構造部材は、主たる荷重を伝達しない部材<ref>{{Cite web|和書|title=航空実用事典 機体全般 |publisher=日本航空 |url=http://www.jal.com/ja/jiten/dict/p077.html |accessdate=2014-06-13}}</ref>で、空力機能を発揮し、風圧などの局部荷重を一次構造部分に伝える主翼の前縁および後縁などが相当する<ref name=encyclopedia-346/>。}}
* [[エアバスA310]] - 短胴型
}}
* [[エアバスA330]] - 後継機
=== 出典 ===
* [[エアバスA340]] - A330と基本構造を同じくする四発型
{{Reflist|20em|refs=
* [[エアバス ベルーガ]] - A300を原型機とする[[貨物機]]
<ref name=encyclopedia-160>{{Citation|和書 |last=中島 |first=隆博 |contribution=トリムのとり方 |editor= 飛行機の百科事典編集委員会 |title=飛行機の百科事典 |date=2009-12 |page=160 |isbn=978-4-621-08170-9}}</ref>
<ref name=encyclopedia-165>{{Citation|和書 |last=李家 |first=賢一 |contribution=遷音速飛行の空気力学 |editor=飛行機の百科事典編集委員会 |title=飛行機の百科事典 |date=2009-12 |pages=165&ndash;169 |isbn=978-4-621-08170-9}}</ref>
<ref name=encyclopedia-314>{{Citation|和書 |last=李家 |first=賢一 |contribution=主翼平面形状 |editor=飛行機の百科事典編集委員会 |title=飛行機の百科事典 |date=2009-12 |pages=314&ndash;316 |isbn=978-4-621-08170-9}}</ref>
<!--ref name=encyclopedia-322>{{Citation|和書 |last=李家 |first=賢一 |contribution=空気流れの機体各部との干渉 |editor=飛行機の百科事典編集委員会 |title=飛行機の百科事典 |date=2009-12 |pages=322&ndash;325 |isbn=978-4-621-08170-9}}</ref-->
<ref name=encyclopedia-346>{{Citation|和書 |last=青木 |first=隆平 |contribution=翼の構造 |editor= 飛行機の百科事典編集委員会 |title=飛行機の百科事典 |date=2009-12 |page=346 |isbn=978-4-621-08170-9}}</ref>


<ref name=300B-manual-C2p10p16>{{harvnb|Airbus|2009}}, Chapter 2 pp. 10&ndash;16</ref>
== 出典 ==
<ref name=300B-manual-C2p17p20>{{harvnb|Airbus|2009}}, Chapter 2 pp. 17&ndash;20</ref>
;出典
<ref name=300B-manual-C2.1.1p3>{{harvnb|Airbus|2009}}, Chapter 2.1.1 p. 3</ref>
{{reflist}}
<ref name=300B-manual-C2.1.1p4p4B>{{harvnb|Airbus|2009}}, Chapter 2.1.1 p. 4-4B</ref>
<ref name=300B-manual-C2.1.1p4C>{{harvnb|Airbus|2009}}, Chapter 2.1.1 p. 4C</ref>
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<ref name=ASN-statistics>{{Cite web |title=Airbus A300 Statistics |date=2015-01-17 |language=English |url=http://aviation-safety.net/database/types/Airbus-A300/statistics |publisher=Aviation Safety Network |accessdate=2017-01-29}}</ref>
<!--ref name=ASN-losses>{{Cite web |title=ASN Aviation Safety Database results |date=2015-01-17 |language=English |url=http://aviation-safety.net/database/types/Airbus-A300/losses |publisher=Aviation Safety Network |accessdate=2017-01-29}}</ref-->


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<ref name=FG-zero-gravity-training-aircraft>{{Cite web
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<ref name=FG-all-new-zero-g>{{Cite web
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|archivedate=2014-07-23
|ref={{sfnref|CNN|「エアバス・ベルーガ 世界一変わった外観の貨物機の秘密」}}
}}</ref>
<ref name=CNN2>{{Cite web|和書
|title=エアバス・ベルーガ 世界一変わった外観の貨物機の秘密 (2/4)
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<!--ref name=CNN3>{{Cite web
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}}</ref-->
<!--ref name=CNN4>{{Cite web
|title=エアバス・ベルーガ 世界一変わった外観の貨物機の秘密 (4/4)
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|accessdate=2014-09-15
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}}

== 参考文献 ==
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|last=青木 |first=謙知
|year=2014
|title=旅客機年鑑2014-2015
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|year=2014
|publisher=日本航空機開発協会
|id={{全国書誌番号|22406794}}
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*{{Citation|和書
|author=日本航空機開発協会
|title=平成29年度版 民間航空機関連データ集
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|last=Obert |first=Ed
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|last=坂出 |first=健
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*{{Citation |和書
|last=土井 |first=満
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|title=ヨーロピアン・ワイドボディ Airbus A300&A310
|series=イカロスMOOK
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*{{Citation |和書
|title=JET AIRLINER TECHNICAL ANALYSIS - AIRBUS A300
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*{{Citation |和書
|title=JET AIRLINER TECHNICAL ANALYSIS - AIRBUS A310/A300-600
|last=浜田 |first=一穗
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*{{Citation |和書
|last=浜田 |first=一穗
|title=JET AIRLINER TECHNICAL ANALYSIS - AIRBUS A330/A340 (PART1)
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*{{Citation |和書
|last=浜田 |first=一穗
|title=JET AIRLINER TECHNICAL ANALYSIS - AIRBUS A330/A340 (PART2)
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*{{Citation|和書
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== 関連文献 ==
* {{Cite book|last=Gunston|first=Bill|title=Airbus: The Complete Story|year=2009|location=Sparkford, Yeovil, Somerset, UK | publisher=Haynes Publishing|isbn=978-1-84425-585-6|ref={{harvid|Gunston|2009}}}}
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== 関連項目 ==
* [[ボーイングとエアバス]]
* [[旅客機の構造]]
* [[旅客機のコックピット]]
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* [http://www.airbus.com/product/a300_a310_backgrounder.asp Airbus A300/A310 Family(英語版)]
* [http://www.airbus.com/en/aircraftfamilies/a300a310/ Official site]
* [http://www.planepictures.net/netsearch.cgi?A300 Pictures]
* [http://www.aircraft-info.net/aircraft/jet_aircraft/airbus/A300-600/ Aircraft-Info.net – Airbus A300-600]
* [http://www.aviacol.net/aviacion-civil/aerolineas-colombianas-desaparecidas/aerovias-condor-de-colombia-aerocondor/el-primer-airbus-en-colombia.html Aviacol-Aviación 100% Colombiana]
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エアバスA300

エールフランス運航当時のA300B2

エールフランス運航当時のA300B2

エアバスA300 (Airbus A300) は、エアバス・インダストリー(後のエアバス)が開発・製造した双発ジェット旅客機。世界初の双発ワイドボディ旅客機であり、エアバス社設立のきっかけとなった。

機種名のA300は、エアバスのAと初期構想の座席数300席にちなむ。A300は2つの世代に分けることができ、第1世代はA300Bとも呼ばれる。新技術の採用でグラスコックピット化された次世代型はA300-600と呼ばれる。本項ではA300第1世代を中心に説明する(A300-600シリーズについては当該ページを参照)。

本格的なジェット旅客機の時代を迎えた1960年代バスのように気軽に乗れる大型旅客機「エアバス」の登場が待望された。当時、欧州の航空機メーカーは単独で「エアバス」を事業化する体力が無かったため、国際共同開発体制によりA300構想が推進されることとなる。そして、紆余曲折を経てフランス西ドイツ(当時)政府が中心となり企業連合エアバス・インダストリーが設立、A300が開発された。

A300は低翼配置の主翼下に左右1発ずつターボファンエンジンを装備し、尾翼は低翼配置、降着装置は前輪配置である。A300第1世代の全長は53.62メートル[注釈 1]、全幅は44.84メートル、最大離陸重量は116.5トンから165トンで、最大巡航速度はマッハ0.82から0.84である。当初、A300は欧州域内の短距離機として開発されたが、後に離着陸性能や航続距離性能を強化した派生型が開発され、一部の海上ルートを含む中距離路線にも進出した。旅客型だけでなく貨客転換型や貨物専用型も開発された。貨物型は新造のほか旅客型からの改造も行われており、2024年現在、一部の中東の航空会社を除き、主に貨物機としての運航が中心である。

A300第1世代は1974年エールフランスにより初就航し、A300-600は1984年サウジアラビア航空により初就航した。役目を終えた第1世代は1985年に生産を終了し、A300-600シリーズは2007年まで生産された。総生産数はA300第1世代が250機、A300-600シリーズは317機であった。2017年1月現在、A300の関係した機体損失事故が34件、ハイジャックが30件起きている。死者を伴う事件・事故は15件発生しており、合わせて1,435人が亡くなっている。

以下、本項ではジェット旅客機については社名を省略して英数字のみで表記する。例えば、「エアバスA300」であれば「A300」、「ボーイング747」であれば「747」、「ダグラスDC-10」はDC-10、「ロッキードL-1011」はL-1011とする。

沿革

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ヨーロピアン・エアバス構想

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「エアバス」という言葉は、もともと特定の機種名や企業名を指すものではなく、「中短距離用の大型ワイドボディ旅客機」という意味合いで使われ、その語源は1960年代欧州の大型機構想にある[5][6][7]1950年代終盤に707DC-8が相次いで就航すると、本格的なジェット旅客機の時代が到来した[8]。航空旅客は爆発的に増加し、1960年代の中盤になると旅客機の大型化が望まれるようになった[8]。空港に行けばいつでも飛行機に乗れる時代が到来すると予想され、バスのように気軽に乗れる飛行機として「空のバス」すなわち「エアバス」という言葉が生まれた[9][10]

1964年イギリスでは王立航空研究所の主導でメーカーや航空会社も参加した委員会が開かれ、今後の欧州には大量輸送用に経済的な短距離輸送機が必要になるとの考えから様々な機体案が検討された[6]。フランスでも1961年から1962年頃にエールフランスカラベルの後継となる大型短距離旅客機の開発を求めており、1963年から1965年にかけてシュドノールブレゲーらのメーカーが200席から250席級の旅客機構想を相次いで発表した[11]。同じ頃、ドイツ(西ドイツ)の航空機メーカーは小規模だったため、1960年メッサーシュミットベルコウ英語版ジーベル英語版ドルニエ、VFWなどの各社が集まりエアバス検討グループが立ち上げられ、後のドイチェ・エアバスの前身となった[12]

こうして「エアバス」への関心が西欧全体で高まり、1965年のパリ航空ショーの頃からドイツ・フランス間、あるいはフランス・イギリス間などでメーカー間の相談も始まるようになった[12]。1965年10月20日から21日にかけて、英国欧州航空主催によるエアバスシンポジウムが開かれた[12]。この会議に西欧各国の航空会社やメーカーが集まり、200ないし250席で新しい大型エンジンを備えた双発機というエアバス像が練られた[12]。これに沿って1965年11月にはイギリス・フランス両政府のワーキンググループが以下のような欧州エアバスの概要仕様をまとめた[12]

  • 座席数:200 - 225席(座席間隔34インチの1クラス)
  • 航続距離:1,500キロメートル(810海里)
  • 離陸滑走距離:2,000メートル
  • 着陸滑走距離:1,800メートル

その他、1座席を1マイル飛ばすためのコストは727-100より30パーセント低く、在来機よりも低騒音、自動着陸を可能とすることなども要求に盛り込まれた[12]

パンアメリカン航空の747。ボーイングは米空軍の大型輸送機の受注に失敗した後、超大型旅客機747を開発した。

一方、米国でも1960年代中頃に大型旅客機を求める動きが盛り上がっていた[12][13][14]。1965年秋に米空軍の大型輸送機CX-HLSの受注に失敗したボーイングは、その設計チームと培われた技術をもって超大型機747を開発することを決定した[12][13]。これはパンアメリカン航空がメーカーに開発を呼びかけていた機材でもあった[13]。また、1966年3月にはアメリカン航空が米国内幹線に適した「大型双発機」の要求仕様を発表し、メーカーに開発を促していた[12][13]。これら米国の大型旅客機計画と比べると、欧州エアバスの要求仕様は特に航続距離が短く、欧州域内の輸送に適した旅客機を目指している点が特徴だった[12]

国際共同開発へ

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欧州エアバス構想は欧州のメーカーが開発経験のない大型旅客機であり開発費も高額になると見込まれた[14][10]。当時欧州の航空機メーカーは、米国のボーイングやダグラスに販売機数で大きな差をつけられており、1社単独では巨額の開発費を賄うことは困難視され、現実策として複数メーカーでの共同開発が模索された[14][12][10]

1966年7月にエアバス計画の担当企業としてイギリス政府がホーカー・シドレーを、フランス政府がシュドを指名し、これにドイツのエアバス検討グループが加わり共同プロジェクトとしてヨーロピアン・エアバスを開発することに合意した[12]。同年10月15日にプロジェクト参加企業はそれぞれの政府に対して計画への助成申請を行ったほか、機体仕様のとりまとめも進行して1967年2月に初期仕様書が発行された[12][15]

その後、ヨーロピアン・エアバスは、より広い旅客機市場に対応できるよう最大離陸重量が120トンに引き上げられ機体サイズが300席級に大型化した[12]。この機体案はエアバス (Airbus) の"A"と座席数の"300"を組み合わせてA-300と呼ばれるようになった(当初、ハイフンを含む表記が用いられたが、のちにハイフンなしのA300となっている。)[12][15]。1966年7月にボーイングが正式開発を決定していた747との共通性を重視するよう仕様が変更され、胴体直径は747とほぼ同じ6.4メートル、搭載できる貨物コンテナや床面地上高も747と同じとされた[12]。また、航空会社はエンジンについても747と同じプラット・アンド・ホイットニー(以下、P&W)社のJT9Dを装備するよう要請していた[12]

しかし、イギリスは自国のロールス・ロイス(以下、R-R)が計画していた新エンジン「RB207」の採用を強硬に主張し、英仏独政府間の調整により、機体の取りまとめをフランスが担当するかわりとしてエンジンはR-R製RB207双発のみとなった[16]。1967年9月4日には西ドイツにおけるエアバス事業の受け皿として、MBB[注釈 2]とVFWの合弁によりドイチェ・エアバス社が設立された[17][18]。こうして着々と準備が進められ、1967年9月26日に英仏独3か国政府で以下のようなA-300プロジェクトの了解覚書が取り交わされた[17][18][19][20]

  1. 機体開発費は推定総額1.4億ポンドで分担は英仏が各37.5パーセント、独が25パーセント。
  2. エンジン開発費は推定総額6千万ポンドで分担は英75パーセント、独仏が各12.5パーセント。
  3. 機体設計はシュドが主導してホーカー・シドレーとドイチェ・エアバスが協力する。
  4. エンジン設計はR-Rが主導し、仏のスネクマと独のMTUが協力する。
  5. 装備品は欧州内のみから調達。
  6. 販売のための共同会社を設立。
  7. 1968年7月31日までに英国欧州航空、エールフランス、ルフトハンザ航空から計75機の受注が得られたら実機開発に着手。
  8. 仮日程として初飛行は1971年3月、型式証明は1972年11月、初就航を1973年春とする。

イギリスの離脱

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華やかにスタートしたエアバス計画だったが1年後には雲行きが怪しくなった[17]。1967年から1968年にかけて風洞試験や構造の設計が進んだが、米国のダグラスロッキードも「エアバス」機体案を練っており、それに対抗してA-300の設計案はさらに大型化した[17]。航空会社側の意見を入れて胴体直径は5.94メートルに縮小されたものの、最大離陸重量は138.5トンまで増加し、RB207エンジンの推力増強が必要になった[17]。開発費の見積もりも機体が2.1億ポンド、エンジンは7000万ポンドまで膨らんだ[17]

ロッキードL-1011の右側面。
DC-10の左側面。
米国のロッキードとダグラスは、ほぼ同時に3発大型機となるL-1011(上)とDC-10(下)の開発をそれぞれ決定した。

航空会社側は大きすぎると難色を示し、1968年7月31日の期限になっても1機の発注もなかった[17]。経済が停滞していたイギリスでは政府が支出を切り詰めようとしており、A-300反対論が台頭した[17][21]。さらに決定的だったのは、A-300計画がもたついている間に米国の「エアバス」構想が具体化し、1968年4月にロッキードとダグラスがそれぞれL-1011DC-10の生産に着手したことだった[17][19]。これで、A-300が見込んでいた市場が奪われてしまうだけでなく、R-RがL-1011向けに新型エンジンRB211の開発を受注したことで、R-Rおよびイギリス政府は販売数が期待されたRB211の開発を優先してA-300向けRB207エンジンには積極的でなくなった[17][22][23]

このような状況でA-300プロジェクトは機体の小型化を検討した[17][22]。エンジンは747、DC-10、L-1011と同じエンジンを流用することになり、A-300は、ゼネラル・エレクトリック(以下、GE)製CF6、P&W製JT9D、あるいはRB211のどれでも装備可能な双発機とされた[17][24]。最大離陸重量は125トンに抑えられ、胴体直径は5.54メートルまで縮小、座席数は約50席減の252席(座席間隔34インチの1クラスの場合)となった[17][24]。この小型化した機体案はA-300Bと呼ばれ、航空会社の要望にも沿ったものであったが、依然として受注獲得には至らなかった[17][22]

この間、イギリスでは機体担当のホーカー・シドレー社を除いて計画への熱意がますます冷めていき、ついに1969年4月10日、イギリス政府はこれ以上の財政負担はできないとして計画からの脱退を発表した[25][22][21]。イギリス政府はR-Rによるエンジン独占がなくなった上、A-300Bは事業的成功に懐疑的になったと判断した[26][27]

エアバス・インダストリーの設立

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最初の先導役だったイギリスが離脱したが、フランス・ドイツ両政府は2国だけでもエアバス計画を続行することを決定した[27]。1969年5月29日、パリ航空ショーに出展していたA-300Bの客室モックアップの中で、仏独両政府の民間航空担当大臣により計画の正式決定の調印式が行われた[27][21]。この時点での受注数は未だゼロだったが、初飛行を1972年、型式証明の取得を1973年春の予定で計画が進められることとなった[27][21]

フランスとドイツの両政府が開発資金を融資し、シュドとドイチェ・エアバスが継続してそれぞれの国の事業担当となった[27]。イギリス政府は計画から離脱したことで、主翼開発に参画していたホーカー・シドレーが窮地に立った[28]。ホーカー・シドレーは民間企業としてプロジェクト参加継続を希望したが、政府の援助なしには主翼開発が難しかった[28]。主翼を開発できる代替企業もなかったことから、開発費の一部をドイツ政府が援助する条件でホーカー・シドレーは自社資金でプロジェクトに残ることになり、1969年6月にシュドおよびドイチェ・エアバスに対して参加契約を締結した[27][22][28]。また、同年11月にはオランダフォッカーもプロジェクトに加わった[27]1970年1月にはフランスでシュドとノールが合併してアエロスパシアルとなりエアバス担当企業の座を引き継いだ[27]

フランス・ドイツ両政府の積極的な支援のもと計画は前進し、1970年12月18日、共同事業を取りまとめるため企業連合「エアバス・インダストリー」が設立された[27][29]。エアバス・インダストリーはフランス商法に基づく経済利益団体英語版 (GIE) で、単独法人ではなく参加企業が共同で責任を持つ特殊会社であった[27][18]。設立時はアエロスパシアルとドイチェ・エアバスが50対50で出資し、1971年12月23日にはスペインCASAもメンバーに加わり出資比率は表1のようになった[27]。ホーカー・シドレーとフォッカーは協力会社として開発や生産を分担した[27]。開発費は参加企業だけでなく各社を抱える各国政府による分担もあり、その内訳は表1の通りとなった[27]

表1: A300の生産・開発費分担と1978年までのエアバス・インダストリーへの出資比率
国名 企業名 生産分担部位 生産シェア†1 開発費分担 出資比率
フランス アエロスパシアル 機首部、胴体中央下部、中央翼、パイロン、最終組み立て 36.1% 43%†2 47.9%
西ドイツ†3 ドイチェ・エアバス 胴体前方、胴体中央上部、胴体後方、尾部、垂直尾翼、非常口ドア、客室内装 36.1% 43%†4 47.9%
イギリス ホーカー・シドレー 主翼 17.0% 6%†5 0%
オランダ フォッカー 主翼の動翼 6.6% 6%†4 0%
スペイン CASA 水平尾翼、機首の乗降用ドア、降着装置の格納扉 4.2% 2%†6 4.2%
  • 出典:松田 1981a, p. 55。
  • †1: 機体生産コスト比。エンジンや機器類を含んだ全ての生産コストの56.5%に相当するとされる。
  • †2: 100%政府負担。
  • †3: 1990年のドイツ再統一以降はドイツ
  • †4: 90%政府負担、10%業界負担。
  • †5: 100%企業負担。政府助成が無かったホーカー・シドレーには開発費分担と比べて大きな生産シェアが割り当てられた。
  • †6: A300の設計がかなり進行してから参加したスペインは、生産シェアに対して開発費分担が少ない。

この間1970年6月にはエールフランスがA300Bの発注の意向を示していたが、同社はパリロンドンジュネーヴコルシカ島などを結ぶ高需要路線に適した機材を求めており、A300の座席数をもう少し増やすよう要求した[29][30]。そこで、A300Bの胴体を5フレーム(2.65メートル)延長したモデルを用意することとなり、A300Bの2番目のタイプということでA300B2と名付けられた[29]。そして1971年11月3日、エールフランスはA300B2を正式に発注した[27]。これがA300の初受注となり、注文数は確定6機、オプション10機であった[31][21]。これにより原型機はA300B1と呼ばれるようになったほか、後に基本名称がA300BからA300に戻され、旅客型をA300Bとして貨客転換型をA300C、貨物型をA300Fとする型式名の整理が行われている[32][33]

1972年2月にはスペインのイベリア航空から確定4機、オプション8機の受注を獲得した[30]。イベリア航空は4,000キロメートル以上の航続距離性能を求めていたが、A300B2の航続距離は3,430キロメートルだったため、航続距離延長型としてA300B4を開発することになった[30]

設計の過程

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左前方から見たシンガポール航空のA300。
A300B2の右側面。ルフトハンザ航空の塗装。

A300の設計は計画が紆余曲折していた間も進行しており、生産設計と治具類の設計・制作は1969年5月の計画の正式決定とほぼ同時に開始されていた[27]

西欧では1950年代後期以降、C-160輸送機やアトランティックなどで航空機の共同開発経験が蓄積されており、予想以上にスムーズに開発が進んだ[27]。1971年の春には設計の90パーセントが完了し、ピーク時には総計3000人の技術者がA300に携わったと言われる[27]。A300の空力設計は、全体のまとめと機首形状をアエロスパシアル、主翼とエンジン取り付け部をホーカー・シドレー、胴体後部と尾翼をドイチェ・エアバスが担当した[34]。A300の材料やプロセスは無理に統一規格を作らず、コンポーネントを担当した各国の規格で設計・生産され[35]、1つの図面の中に英語、フランス語、ドイツ語が混在して使用されることもあった[36]

イギリス政府が離脱したことでR-R製エンジンにこだわる必要が無くなったことから、当時欧州の主要航空会社が発注していたDC-10-30[注釈 3]と同じGE製のCF6エンジンが採用された[27]。また、エンジン本体だけでなくエンジンポッドや補助動力装置、エアコン装置などもDC-10と同じものが用いられた[27]

A300の胴体断面モデル。客室には通路2本と横8席の座席を配置でき、床下貨物室にはLD-3航空貨物コンテナを並列に収納できる。

A300の胴体断面は外径5.64メートルの真円形となった[37]。この胴体径は、必要な座席数を満たしつつ床下貨物室にLD-3航空貨物コンテナを左右並列に搭載できる寸法として決定された[38][37]。構想初期には747の胴体幅に迫る6.4メートルという外径から始まったが、客席数の変更などに合わせて修正が重ねられて最終的に外径5.64メートルに落ち着いた[37][39]

A300の空力学的特性は、欧州域内を結ぶ短中距離路線で最適となる飛行速度と経済性を目指して設計された[40]。A300の主翼の翼型にはホーカー・シドレーがトライデントHS.125HS.681などの研究開発を通して10年以上練り上げてきた「リア・ローディング翼型」が採用された[34]。この翼型は翼後方の下面がえぐられたような形状を持ち、翼の後半で多くの揚力を得ることができ、遷音速[注釈 4]での巡航時に翼表面の流速が部分的に音速を超えても抵抗が急増しないという特徴を持つ[42][43][44][45]。当時最先端の技術であり、注目を浴びた[34]。この翼型の特性は、1960年代にアメリカ航空宇宙局 (NASA) が開発したスーパークリティカル翼型と基本的に同じであるが[46]、翼を設計したホーカー・シドレーは、NASAとは独立にリア・ローディング翼型の開発に至ったとして、決してスーパークリティカル翼型の一種とは認めなかった[42]

リア・ローディング翼型は衝撃波の発生を遅らせ揚力係数を増加できることから、後退角と翼厚比[注釈 5]を同じくした場合に従来の翼型よりも高速で飛行できる[42][43]。しかし、A300は短中距離路線に適した旅客機を目指していたことから高い巡航速度は不要とされ、リア・ローディング翼型の特色を翼厚を増やして後退角を減らすよう振り向けられた[42][47]。後退角は25パーセント翼弦で28度と浅くなり低速時の操縦性に有利になったほか、翼厚比の増加は強度面に有利に働き、構造重量は従来の翼厚比の主翼と比べて同一翼面積で1トン以上の軽量化に成功した[48][43][49]

A300の主翼は、断面の変化とねじり下げ[注釈 6]により翼幅方向にほぼ一様の圧力分布を持つように設計された[47]。それに伴いA300の主翼表面は翼根と翼端で異なる曲面を持つことになった[51]。主翼の製造を担当したホーカー・シドレーは、当時このような二重曲率の外板を製造できる設備をもっていなかったため、エンジンパイロンのやや外側を境として翼を外側と内側に2分割して製造し、継ぎ手で繋ぐ構造が採用された[35][51]

前方左下から見上げたA300B2。降着装置を下ろして高揚力装置を展開している。

主翼には高揚力装置として前縁にスラット、後縁にフラップが設けられた[43]。スラットは主翼のほぼ全幅にわたり配置され、エンジンパイロンの付け根で他機ではスラットが途切れる部分にも、パイロンを避ける切り欠きを入れることでスラットを通し揚力を稼いだ[52][47]。フラップはタブ付きのダブルスロット型ファウラーフラップが採用され、後縁翼幅の84パーセントにわたる当時の大型民間機では例のない大きさとなった(フラップの詳細は形状・構造節参照)[43][47]。主翼のエルロンは片翼あたり2枚で、外翼部に低速度エルロン、エンジン後方部に全速度エルロンが配置された[47]。エルロンを2枚持つのは当時の大型ジェット旅客機としては一般的ではあったが、28度という浅い後退角の翼では珍しかった[53][48]。また、ロール方向の操縦にはエルロンだけでなく、スポイラーも用いるよう設計された[30]

A300が設計された当時はまだグラスコックピットフライ・バイ・ワイヤ技術が確立しておらず、コックピットや飛行システムは従来の機械式で計器類も機械電気式であるが、アビオニクスの技術進歩に対しても対応できるよう、機器類の搭載スペースや冷却能力には余裕をもたされた[54][42][36]。特にブラウン管 (CRT) を利用したディスプレイの搭載や計器類の増設、そして電気信号を介して動翼を操縦するフライ・バイ・ワイヤの導入にも備えた設計がなされた[36]。運航に必要な操縦士は機長副操縦士航空機関士の3人であり、エアバス・インダストリーが開発した旅客機で唯一の3人乗務機となった[55][56][注釈 7]

航続距離延長型となるA300B4では、中央翼(主翼が胴体内を貫通する部分)内にも燃料タンクを設けて燃料搭載量を増やした[58]。また、最大離陸重量をA300B2の137トンから150トンに引き上げ、これによる離着陸性能の低下を補うため主翼前縁の翼根部にクルーガー・フラップ(高揚力装置の一種)が追加された[58][54]

生産と試験

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国際共同開発されたA300とコンコルド。最終組み立ては共にフランスのトゥールーズで行われた。

4機の試作機と2機の強度試験機の部品製作は1969年12月から開始された[27]。各国のメーカーで製造されたコンポーネントは1971年にフランス・トゥールーズにあるアエロスパシアルの工場に集められた[27]。コンポーネントを輸送するため、ボーイング377を大型貨物運搬用に改造した「スーパーグッピー」をエアロスペースラインズ英語版社から購入し、1971年11月から運用を開始した[59]

総組立および総組立図面の管理はアエロスパシアルが担当し、各機体の生産進捗に合わせて総組立図面をアップデートする方式が採られた[36]。機体の組み立てでは、現場合わせによる結合が各所で採用された[36]。例えば主翼と胴体の結合では、まず胴体と主翼を工場の基準点に位置合わせし、次に油圧ジャッキなどで主翼及び胴体に実機同様の荷重をかけた上で現場合わせでボルト穴をあけて結合された[36]。初期にはフランスで製造した胴体とドイツで製造した胴体が合致しないトラブルもあったとされるが、すぐに解決された[60]

初飛行を行うエアバス A300

A300の1号機は原型機となるA300B1で、初飛行は1972年10月28日に行われた[30][61]。通算3号機からA300B2仕様となり、1973年6月28日に初飛行した[30][42]。試験飛行には1号機から4号機の4機が投入された(1、2号機がA300B1仕様で、3、4号機がA300B2仕様)[30]。試験中に以下の改修が加えられたが、いずれも困難な問題ではなく飛行試験は順調に進んだ[42][30]

  • 失速迎角での縦の安定性を改善するため、主翼前縁のスラットにフェンス(小板)を追加した。
  • 高速飛行時に主翼表面の気流がはがれるのを防ぐため、スラットの密閉性を高めたほか、翼上面にヴォルテックスジェネレータ[注釈 8]を配置した。
  • 主翼内側のエルロンを操作すると水平尾翼に想定以上の荷重がかかることが分かったため、内側エルロンの舵角を減らし、ロール方向の操縦に用いるスポイラーの枚数を増やしたほか、外側エルロンが動作する条件を拡大した。
A300の通算3号機。エアバス・インダストリーはコーポレートカラーにレインボーカラーを採用した。
後に、東亜国内航空(後の日本エアシステム)のコーポレートカラーとしても採用された。

試験で確認された運用限界や性能は、控えめに設定されていた計画値を上回った[30]。最大運用限界マッハ数は0.84から0.86に引き上げられたほか、所要滑走路長は4 - 6%短くて済み、最大揚力係数は8 - 10%高くなったのでフラップの最大角度が減らされた[30]

1974年3月15日、フランスおよびドイツの航空当局からA300B2の型式証明が交付され、同年5月30日には米国の連邦航空局からも型式証明が交付された[3]。型式証明取得までの飛行時間は、延べ1,585時間で内訳は開発試験が610時間、証明試験が595時間、訓練や路線実証試験などが380時間であった[30]

通算5号機のA300B2が量産初号機となり、1974年4月15日に初飛行して同年5月10日にエールフランスに初引き渡しが行われた[30][63]。以降の量産機はA300B2の仕様が基本型となった[54]

就航開始

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1974年のファーンボロー国際航空ショーで展示されるエールフランスのA300B2-1C
エールフランスはA300の最初の発注者であり最初の運航者となった。

1974年5月23日、エールフランスのパリ - ロンドン線でA300は初就航した[3][30]。就航したA300は予想よりトラブルは少なく、乗客や乗員からも好評だった[30]。主なトラブルと改修内容としては、気流の乱れに起因する方向舵の破損例が見つかり、気流を乱す隙間が塞がれて方向舵の構造も改良されたほか、フラップが正常に動作しない可能性が見つかり、フラップの作動機構が変更された[30]。また、客室後部の横揺れが指摘されヨーダンパ[注釈 9]が改良された[30]。その他、エアコンダクトや貨物積載装置の不具合対策、電波障害対策などが実施された[30]。就航後3か月頃から定時出発率は約97%に安定してワイドボディ大型機としては良好であった[30]

初就航の時点で36号機までの生産が進められていたが、受注は思わしくなかった[30]。1972年2月のイベリア航空によるA300B4の受注に加えて、同年末にはルフトハンザ航空からA300B2を確定3機、オプション4機受注していた[30]。しかし、1972年8月に英国欧州航空はA300ではなくR-R製RB211エンジンを装備したL-1011を発注した[30]。A300ほどの大型機を必要とする短距離路線は限られていたほか、欧州初の大型機に対する様子見の空気もあった[30]。そして、本格化しつつあった不況と1973年の第1次石油危機の発生により、航空輸送需要が激減し、世界中の航空会社が新機種導入を控えるようになったことがA300の販売低迷に影響していた[30][42]

そのような中、1974年10月に大韓航空から6機のA300B4の受注に成功し、欧州以外の航空会社からの初めての注文となった[63]。当時、航空会社はエアバス・インダストリーのサポート体制に不安を感じていたことから、この商談は、エアバス・インダストリーが欧州から遠い地域でも必要なサポートを提供できることを示す上でも重要だった[63]

航続距離延長型のA300B4の初号機(通算9号機)は、1974年12月26日に初飛行し、1975年3月26日に型式証明を取得した[54]。ところが初飛行目前の1974年10月に、A300B4の最初の発注者だったイベリア航空が注文をキャンセルしてしまったため、1975年5月にフランクフルトを拠点とするチャーター便航空会社のジャーマンエアドイツ語版に初納入され、6月1日に初就航した[66][63]

改良と中距離型への発展

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販路拡大のため、エアバス・インダストリーはA300の性能向上に努め、A300B2・B4ともにペイロードや燃料搭載量を増やせるよう最大離陸重量を引き上げたほか、A300B2では離陸性能向上型が開発された[67]

左前方から見たA300B2K。主翼の付け根にクルーガー・フラップを備える。A300のスラットにはエンジンパイロンを避ける切り欠きがある。

A300B2の最大離陸重量を142トンとしたタイプは1975年6月20日に型式証明を取得し、座席数269席での航続距離は1,400海里(約2,590キロメートル)から1,800海里(約3,330キロメートル)に向上した[67]。また、A300B4で採用されたクルーガー・フラップをA300B2にも装備して高地や高温地域での離陸性能を向上させたタイプも開発された[67]。このタイプはA300B2Kと名付けられ、南アフリカ航空から初受注した[67]。A300B2Kの初号機は通算32号機で1976年7月30日に初飛行し、同年11月23日に納入された[67]

1976年6月10日にはA300B4の最大離陸重量を157.5トンに上げたタイプに型式証明が交付され、航続距離は2,600海里(4,820キロメートル)となった[67]。さらに、A300B4では主翼と主脚(降着装置)の強度を向上し、ブレーキとタイヤの容量を増すことで最大離陸重量を165トンまで引き上げたタイプも開発された[67]。このタイプでは貨物室に燃料タンクを増設でき、その場合の航続距離は3,000海里(5,560キロメートル)となった[67][68]。165トン仕様は1978年1月にエールフランスから初受注し、1979年4月26日に型式証明を取得、同月末から引き渡しが始まった[67]

この間、1978年4月にエアバス・インダストリーはA300の型式名の整理を行い、クルーガー・フラップを持たないB2をB2-100、B2KをB2-200、最大離陸重量が165トン以上のB4をB4-200、それ以外の標準型B4をB4-100と呼ぶようになった[67]

その他にも設計改良が続けられ、着陸滑走距離の短縮や、燃料系統の工夫によるタンク有効容積の改善なども行われた[67]。また、1975年にエールフランスのA300でオートパイロットが誤作動する事象があったため対策が打たれたほか、金属疲労対策として部品が変更されたり、トルコ航空DC-10パリ墜落事故を受けた急減圧への対策などが施された[67]

こうして、エアバス・インダストリーの努力によってA300は改良が重ねられ、欧州域内の短距離専用機から、5,000キロメートルを超える中距離路線にまで使える幅の広い旅客機に成長した[67]。当時双発機の飛行が難しかった大洋横断航路は無理であったが、欧州と中東・アフリカ間路線や東南アジア路線といった海上路線でもA300が運航されるようになった[67]

米国市場への売り込みと販売好転

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1976年11月時点でA300の運航会社にはエールフランス、ルフトハンザ航空、大韓航空、ジャーマンエアのほか、エア・インディアやフランスのエールアンテール、オランダのトランサヴィア航空なども加わっていたが、運航機数は27機であった[69]。エアバス・インダストリーはA300の改良と販売活動に懸命に取り組んだが、受注は相変わらず伸び悩んだ[67]1977年初頭における確定受注は36機、オプションを含めても57機であった[67]。深刻な不況が続いて世界の航空会社は大型機を持て余し、売りに出される747もあるほどだった[67]。DC-10、L-1011そして747は石油危機の前にまとまった受注を獲得していたが、A300にはそれがなかった[67][70]

エアバス・インダストリーの主要メンバーであるアエロスパシアルは、当時手がけていたコンコルドコルベット英語版も売れず経営危機に陥った[71]。A300は月産2機で生産されていたが、トゥールーズには行き場のない機体が滞留し、1977年には月産1機に減産することが決定し、さらに0.5機まで抑えることも検討された[71]。必死の売り込みが続けられ、欧州の銀行団も破格の融資条件を提示し、米国のメーカーが手を引くような経営状況が悪い航空会社へも納入したため、叩き売りの噂も立つほどだった[71]

エアバス・インダストリーは、A300の事業成功の鍵は米国の航空会社からの受注にあると考え、積極的な販売活動を展開した[29]。その成果は1977年に現れ、米国内線大手だったイースタン航空への売り込みに成功した[71][29]。実は当時、不況の影響でイースタン航空も経営不振に陥っていて、主力のL-1011を持て余していた[71][29]。同社はL-1011と同等の近代性を備えた小型の機材を求めており、A300にも興味はあったが、新機材購入に充てられる資金が無かった[71][29]。そこで、エアバス・インダストリーは4機のA300B4を6か月間、無償でリースするという思い切った提案を行い、1977年8月にこの内容で契約が結ばれた[71][29]

同年12月13日、イースタン航空はA300の路線就航を開始した[71]。イースタン航空のA300は、評価という目的もあり条件が厳しい路線に投入されたが、1日あたり平均8.4時間、定時出発率98.4%という優れた運航実績を示した[71][29]。イースタン航空が特に気にしていたエアバス・インダストリーの製品サポートに問題は無く、乗客からの評判も上々であった[71][29]

イースタン航空が運航したA300B2。ニューヨークラガーディア空港にて。同社からの受注によりエアバス・インダストリーはアメリカ市場への進出に成功した。

ただ、ニューヨークラガーディア空港への乗り入れが問題となった[71]。空港を管理するニューヨーク港湾局が、空港の水上部分の強度上の理由によりA300の109トン以上での離陸を認めなかったのである[71][72]。話し合いの結果、エアバス側が水上部分のコンクリート補強費用50万ドルを負担するとともに、A300の主脚の車輪間隔を広げる改造を18か月以内に行うことを条件に、138トンまでの離陸が認められ、これによりラガーディア - マイアミ間の直行便の運航が可能となった[71][73]

エアバス・インダストリーは本格的にA300の購入を検討し始めたイースタン航空に対し、購入額の大部分に好条件の融資を行った[73]。さらに、イースタン航空が元々望んでいたのは170席程度の機材であったことから、より大型のA300で運航コストが嵩んだ分を1982年までエアバス・インダストリーが保証するという金融的措置まで行った[74][73]。こうして1978年4月にイースタン航空からA300B4を確定23機、オプション9機を発注し、エアバス・インダストリーはA300の米国の航空会社への売り込みに成功した[73]

イベリア航空のA300B4。同社はA300B4の最初の発注者となったが一度キャンセルし、後に再発注した。

イースタン航空によるA300の運航は好調で、同社は「今までの機材中最高」と評価した[71]。ちょうどこの頃から世界の航空業界も不況を切り抜け経営を立て直しつつあった[71]。航空機需要が上向きになり、1977年後半からA300の販売は急に売れ出した[71]。石油危機による燃料費の高騰が長期に渡ったことで、双発で大人数を乗せられるA300の経済性が認められることとなった[75]スカンジナビア航空アリタリア航空に加え、タイ国際航空ガルーダ・インドネシア航空、そして日本の東亜国内航空といった欧州以外の航空会社からも新規受注を獲得した[71]。エールフランスやルフトハンザ航空の追加発注やイベリア航空からの再発注も加わり、確定受注数は1977年が20機、1978年が70機、1979年も前半だけで50機に達し、エアバス関係者も予想していなかった売れ行きとなった[71]。一転してA300の増産が決まり、1979年には月産2.5機、1980年の通算118号機完成後からは月産3機となった[71]

この販売好調には、エアバス機を導入する航空会社に対する好条件の融資も一役買っていた[76]。エアバス加盟国の政府保証のもと欧州の銀行団が、必要資金の90%近くまで年率8%台固定で貸し出し、10年またはそれ以上の延べ払いも可能とするなど、米国輸出入銀行が自国製旅客機に設定する条件を上回っていた[76]

これまで生産されたA300は、GE製のCF6シリーズエンジンを装備していたが、スカンジナビア航空の発注機はP&W製のJT9Dエンジンを装備する最初の機体となった[77]。このタイプは1979年4月28日に初飛行を行い、1980年1月4日に型式証明を取得、1980年1月17日に初引き渡しが行われた[77][78]

この頃、A300B4をベースとした貨客転換型A300C4も開発された[77]。A300C4では、メインデッキ(客席部分)に貨物を搭載できるよう左舷前方に幅3.58メートル、高さ2.57メートルの貨物扉を設置し、床面強化などが行われた[77]。ドイツのハパックロイドが最初の発注者となり、A300B4-200として完成していた83号機がA300C4に改造された[77]。A300C4は1979年12月18日に型式証明を取得し[79]、その月に初引き渡しが行われた[77]

A310の開発とイギリスの加盟

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A300の販売が好転すると、エアバス・インダストリーは次期製品の検討を本格化した[80]。これまで行っていた市場調査の結果から座席数200席強の旅客機需要が高まると予測され、同社はA300の胴体を短縮した派生型の開発を決断した[80]。この派生型はA310と名付けられ1978年7月7日に正式開発が決定され、同月13日にフランス・ドイツ両政府からの事業認可を得た[81]

A300の販売好転とA310の開発決定という将来性が見えてくると、これまで様子見をしていたイギリス政府が方針を変えた[42][82]。イギリスは、1977年4月29日にホーカー・シドレーを含む航空機メーカー4社を統合し、国有企業としてブリティッシュ・エアロスペース(以下、BAe)を設立させた[83][84]。そして1978年11月、イギリス政府のエアバス計画への加盟が決定した[76]。エアバスの苦しい時期を支えてきたフランス政府は、このイギリス政府の態度に反発したが、同じくエアバスを支えてきたドイツ政府は米国へ対抗するためにはイギリスの力を無視できないと考え、最終的にイギリス政府の参加が実現した[76]

スイス航空のA310-200。同社はルフトハンザ航空と共にA310の最初の発注者となった。

A310の胴体は、A300の胴体から平行部分で11フレーム短縮された[85][86]。また、このままでは機体重心から尾翼までの距離が長くなってしまうので、圧力隔壁の後方にあたる尾部も2フレーム短縮されて尾部の絞り込みがA300より急角度になった[81]。これにより、A310の全長はA300B2より6.96メートル短縮された[86]。初期のA310構想では主翼やシステム類はA300のものを流用して開発費を抑える考えだったが、ボーイングが全くの新規開発で双発ワイドボディ機「7X7」(のちの767)を研究していたことから、それに対抗するためエアバス・インダストリーはA310にできるだけ新技術を盛り込むことにした[81]。短縮した全長に合わせて主翼は新規に設計された[81]。当時、デジタル通信・制御技術が急速に進歩していたことと、航空会社が直接運航費の抑制を求めていたことから、アナログ式だったA300の機体システムは全面的にデジタル式へ設計変更され、自動化技術やフライ・バイ・ワイヤ技術も導入され、いわゆるグラスコックピット化された[87][88][85][89]。これらにより、A310は標準仕様で操縦士2人で運航可能なワイドボディ機となった[85][89]。A310では水平尾翼と降着装置も新設計となったほか、炭素繊維強化プラスチック (CFRP) などの複合材料の使用範囲も拡大された[90][81][53]

A310はA300と同じ組み立てラインで生産され[60]、製造番号もA300と共通の通し番号が採番された[91]。通算162号機がA310の初号機となり、1982年4月3日に初飛行した[91]。A310は1983年3月11日に型式証明を取得し、1983年4月10日にルフトハンザ航空により初就航した[91][92]

A300-600の開発

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駐機中のA300-600を正面から見る。左舷前方の乗降用ドアにボーディング・ブリッジが接続されている。A300-600はA300第1世代と同じ胴体断面を用いた。

エアバス・インダストリーはA310だけでなく、A300への新技術投入も早くから考えていた[60]。新しいA300では、A310との競合を避けるため座席数を少し増やしつつ、A310と同じ2人乗務のコックピットを導入してA300とA310の運航の共通性を高めることになった[93]。この次世代型A300の機体構造はA300B4をベースに開発され、正式な型式名はA300B4-600と名付けられたが、一般的にA300-600と呼ばれるようになった[94][95]。本項では以下、A300-600より前に開発されたA300シリーズをA300第1世代、A300-600およびその派生型をA300-600シリーズと呼ぶ。

フィンエアーのA300B4。操縦士2人での運航も可能になったFFCC仕様機である。

2人乗務のコックピットは、A300第1世代の頃から研究されていた[94]。A300第1世代の通常仕様では、航空機関士が操作する機器類は主にコックピット内の右舷側にあるが、エンジン始動後は航空機関士が前方向きに座って飛行できるよう操作パネルが配置されていた[96]。エアバス・インダストリーは、この考えを一段と進めて航空機関士を必要とせず操縦士2名だけでの運航も可能なFFCC(Forward Facing Crew Cockpit の略)と呼ばれるコックピットを開発した[96][97][98]。A300のFFCC仕様機は1981年10月6日に初飛行し、ワイドボディ機として世界初となる操縦士2名だけでの飛行を3時間40分実施した[99]。FFCC仕様機の試験は順調に進み、1982年にガルーダ・インドネシア航空に対して初引き渡しが行われた[99][100]。また、1980年代前半にA300の垂直安定板の前縁や主脚扉などをCFRP製とした試作品の開発や実証試験も行われていた[35]

これらの取り組みやA310で蓄積された技術がA300-600に反映された[101][60]。A300-600の開発では、A300第1世代より航続力と搭載力を強化すること、そして、可能な限りA310との共通性を持たせて開発・生産コストや航空会社の運用コストを抑えることを目指して以下の点などが変更された[94][102]

  • A300B4の後部胴体を平行部分を3フレーム(1.59メートル)延長する一方で、2フレーム短縮されたA310の尾部を流用し、座席を1列 - 2列分(8 - 16席)増やしつつ胴体延長による重心・尾翼間距離の変化を抑えた[102][103]
  • 主翼も改良が加えられ、動翼が簡素化されたほか、翼型や空力学的特性がA310の新型主翼に近づけられた[104][60]。失速特性も改善され主翼のスラットのフェンスが不要になり除去された[104]
  • 水平尾翼はA310と同じ小型のものに変更された[60]
  • フライ・バイ・ワイヤ等の採用でコックピットはA310とほぼ共通化され、2人乗務での運航が標準となったほか、操縦士の操縦資格もA310とA300-600とで共通化された[101]
  • 上記の主翼の改良や小型水平尾翼の採用、フライ・バイ・ワイヤの導入に加え、複合材料の使用拡大、小型軽量の補助動力装置の採用、カーボンブレーキの採用、客室装備等の軽量化により全体で2トンの軽量化を実現した[104]
  • エンジンはGE製CF6シリーズとP&W製のJT9Dシリーズであるが、燃料消費率や推力が向上した改良型に変更された[95][93]
  • 生産の途中からは、翼端渦を抑えて揚抗比を向上させるため、主翼の翼端にウイングチップ・フェンスと名付けられた矢尻状の板が追加された[101][93]

A300-600を最初に発注したのはサウジアラビア航空(現・サウディア)で、その内容はJT9Dエンジン装備仕様を11機であった[93]。これにより1980年12月6日にA300-600の開発が正式決定された[93]。A300・A310通算252号機がA300-600の初号機となり1983年7月9日に初飛行した[93]。型式証明のための飛行試験には3機が用いられ、飛行回数はのべ232回、飛行時間は計506時間の試験が行われた[103]1984年3月9日に型式証明が交付され[93]、同月25日にサウジアラビア航空に対して初納入されて翌月に初就航した[102][105]。1985年までにサウジアラビア航空に加えてクウェート航空タイ国際航空でもA300-600の就航が始まった[106]

第1世代の生産終了と次世代型の発展

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A300第1世代は1980年から82年にかけて引き渡し数のピークを迎えたが[42]、A300-600の登場により役割を終え、1985年1月2日に初飛行した通算304号機を最後に生産を終了した[107][注釈 10]。304号機はシンガポール航空の発注により製造されていたが、発注が変更されたことでアメリカン航空に納入された[107]。A300第1世代の生産数は250機で1号機を除く249機が顧客に納入された[108]

A300の貨物型改造機の前方部。前方乗降用ドアの後ろにメインデッキの貨物扉がある。

エアバス・インダストリーでは早くからA300の貨物専用型となるA300F4も提案していた[4]。新造機での発注はなかったが、旅客型からの改造の受注があった[4][107]。通算277号機がA300F4への改造初号機となって1986年6月6日に型式証明を取得し、大韓航空に引き渡された[109]

A310とA300-600シリーズでもそれぞれ航続力を強化した派生型としてA310-300とA300-600Rが開発された[110]。A310-300、A300-600Rでは水平尾翼にも燃料タンクを設けて燃料搭載量を増やすとともに、尾翼と主翼の燃料タンク間で燃料を移送して機体の重心位置を制御するシステムが搭載された[110]。このシステムによって機体の姿勢を一定に保つのに必要なトリム抵抗を最小限に抑えられ、運航経済性の向上が図られた[110]。A300-600Rの初号機は通算420号機で1987年12月9日に初飛行し、1988年3月10日に型式証明を取得して同年4月20日にアメリカン航空へ初引き渡しが行われた[111][112]。その他、A300-600シリーズでも貨客転換型のA300-600Cと純貨物型のA300-600Fが開発された[113]

その後の展開

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エアバス・インダストリーは、A310とA300-600に続く製品開発も進め、同社初の単通路機(ナローボディ機)であるA320を開発した[114]。A320での飛行制御システムはA300-600から一段と進化し、完全なグラスコックピットとなり操縦装置も従来の操縦桿に替えてサイドスティックが採用された[115]。旅客機へのサイドスティックの導入はこれが初めてであり、A300の3号機を試験機に充てて新しいコックピットとシステムを組み込んで入念な試験飛行が行われた[116]。A320は1987年2月に初飛行して1988年2月に型式証明を取得し、1988年3月に航空会社への引き渡しが始まった[114]

併走するスイス インターナショナル エアラインズのA340-300(手前)とA330-300(奥)。両機種でもA300由来の胴体断面設計を用いられた。

さらにワイドボディ機の分野でも、エアバス・インダストリーはA300より大型で長航続距離の旅客機市場へ進出を図り、大型双発機のA330と4発機のA340を同時並行的に開発した[117][118]。A340は1993年2月、A330は1994年1月にそれぞれ路線就航を開始した[119]。A330とA340の胴体断面はA300と同じものが用いられたが、主翼は新設計となったほか、A320と共通性の高いコックピットやシステムが導入された[120]。A320以降の操縦システムの共通化により、相互乗員資格(Cross Crew Qualification, 以下CCQ)制度が認められ、対象機種の操縦資格を持つ操縦士は、短期間の転換訓練で別機種の操縦資格を取得できるようになった[121]

A300-600ST「ベルーガ」。

エアバス・インダストリーは、A320以降の機種でも参加各国でパーツやコンポーネントの生産を分担する体制を続けていた[122]。これまで、参加各国で生産されたコンポーネントの輸送には「スーパーグッピー」輸送機が用いてきたが、同機が旧式化したことに加え、エアバス・インダストリーの事業が急成長したことで、これに対応するために新しい輸送機が必要になった[123][124]。そこで、1991年8月、エアバス・インダストリーはA300-600Rをベースとした新型輸送機A300-600ST「ベルーガ」を開発することを正式決定した[125]。A300-600STは、主翼やエンジンなどをA300-600Rと同じくし、大型貨物を収容できるよう胴体上半分が極めて太いものとなった[113]。A300-600STは1994年9月13日に初飛行し、1995年10月25日に引き渡しが始まった[126]。A300-600STは2001年までの間に5機生産され、全機がエアバス子会社の「エアバス・トランスポート・インターナショナル」(Airbus Transport International)で運航され、これによりエアバス機の生産に従事していたスーパーグッピーは全機退役した[126][125]

1980年代前半まで民間航空機市場におけるエアバス・インダストリーのシェアは、納入機数で20パーセントに届くか届かないかだったが[127]、1999年に初めて受注機数でエアバス・インダストリーがボーイングを上回った[128]。エアバス・インダストリーは参加国政府の様々な後押しを受けて急成長したが、決算報告書も存在しない企業連合 (GIE) という形態が問題視されるようになり、構成各社や政府内からも財務情報の公表も含めた組織の健全化が求められるようになった[129][130]。そこで会社形態を単純型株式資本会社フランス語版 (SAS) に転換することになり、2001年に新会社へ移行して社名も「エアバス」(Airbus S.A.S.)に変わった[131][132]

A300-600登場後の引き渡し数は、1980年代末から1990年代前半まではおおむね毎年20機超であったが、A340・A330の納入が始まり1990年代半ばになると売れ行きが鈍り、毎年10機程度の生産となった[133][134]。CCQの対象外であったA300とA310は、A320から始まったエアバス機のファミリー化の流れから取り残される形になった[135]。1990年代後半にはエアバス関係者は、A300が担っていた市場は、A330の短胴型であるA330-200(座席数およそ250席)が代替するようになったとの見方を示している[89]。また、この関係者は中距離ワイドボディ機市場には、航続力や運用の柔軟性でA300/A310よりも勝るボーイング767の存在することを認めている[89]。2006年3月8日、エアバスはA300とA310の生産を2007年7月で終了すると発表し、以降は受注済み機体の生産を終え次第、製造ラインを閉じることとなった[136][111]。A300-600の最終生産機は製造番号878号機のA300-600Rの貨物型であり、2007年4月18日に初飛行し、同年7月17日にフェデックスに引き渡された[111]

A300はA310と合わせて822機生産され[注釈 11]、そのうちA300第1世代が250機、A300-600シリーズは317機であった[108][137]。顧客への引き渡し総数は561機であり、内訳は第1世代が249機、A300-600シリーズが312機であった[133][113]。また、A300-600STは、全5機がエアバス関連企業のエアバス・トランスポート・インターナショナルで運航されている[138]

機体の特徴

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本節では、基本的にA300第1世代の特徴について説明する。A300-600およびその派生型については「エアバスA300-600」を参照。

形状・構造

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左後方やや上から見下ろしたA300B4。

A300の最大の特徴として、250席から300席級というサイズの旅客機を双発機として実現したことがあげられる[139]。A300は、客室内に2本の通路をもつワイドボディ機である[3][140]。片持ち式の主翼を低翼に配置した単葉機であり、左右の主翼下に1発ずつターボファンエンジンを備える[141]尾翼も低翼配置で垂直・水平尾翼ともに胴体尾部に直接取り付けられている[142]降着装置は前輪式配置で機首部に前脚、左右の主翼の付け根に主脚がある[52]。A300第1世代の機体全長は53.62メートル、全幅は44.84メートル、全高は16.53メートルである[4][注釈 1]

A300B4の右側面。尾部に向けて絞り込まれている胴体後部では客室床も後ろ上がりに傾斜しており、それに合わせて客室窓も少しずつ上がっている。

A300の胴体は真円形断面で外径が5.64メートル、胴体長はA300B2/B4で52.03メートルである[143]。A300の胴体外径は巡航時の抵抗を抑えるため、同時期に開発されたワイドボディ機のDC-10(6.03メートル)やL-1011(5.97メートル)よりも細い[38][142]。胴体構造は円形断面のフレーム(円框)と前後方向に延びる縦通材、そして外板の組み合わせで強度を保つ[144][145]セミモノコック構造である[146]。フレームは21インチ(53センチメートル)間隔で配置され、1座席列に最低1か所の窓が確保できるようになっている[146]。A300は胴体尾部がかなり細長くなっているのが特徴で、離着陸時に引き起こし角を十分にとれるよう尾部下面を大きく跳ね上げた形状となっている[147]。これにより客室後部の床は、後方に向かって僅かに上り勾配がつけられている[147]。尾部を長くしたことで尾翼面積が小さく済み、巡航時のトリム抵抗低減などの利点があるとされたが、発展型のA300-600では胴体の平行な部分を延ばして尾部構造は短縮されている[147][48]

主翼はテーパーのついた後退翼である[3]。主翼は胴体と一体となった中央翼と左右の片持ち翼で構成される[148]。片持ち翼は、翼幅方向に延びる桁を複数配置し、前後の桁と上下の外板とで箱型を作り応力を分担する箱型応力外皮構造である[149][150]。A300の片持ち翼は、エンジンパイロンのやや外側を境に外翼と内翼に分けられ、外翼は2本桁構造、内翼は3本桁構造となっている[149][35]。A300の主翼外板は外翼部と内翼部で分割して継ぎ手で繋ぐ方式を採用し、複雑な曲面の製造を避けている[35]フェイルセーフ性を確保するため747、DC-10、L-1011といった他のワイドボディ機では翼幅方向には継ぎ目を設けていないが、主翼の製造を担当したホーカー・シドレーは当時、翼幅にわたる一枚式の外板を製造できる設備をもっていなかったため、製造方法をシンプルにできる構造が採用された[42][51]

主翼平面形の主なパラメータを見ると、全幅が44.84メートル、主翼面積が260平方メートルでアスペクト比[注釈 12]は7.7である[3][47]。25パーセント翼弦における後退角が28度と比較的浅い一方、翼厚比[注釈 5]は10.5パーセントとやや厚めである[3][42]。浅い後退角は低速時の操縦性を向上しやすいほか、翼根部の曲げモーメントの低減にも繋がり、厚い翼厚比と合わせて構造強度上有利であり構造重量の低減が図られている[49][43][42]

翼型(翼断面)の模式図。上が従来の翼型で、下がリア・ローディング翼型の特徴を持つ遷音速翼型である。図中のA超音速領域、B衝撃波C境界層剥離を表す。

主翼の翼型には開発当時の最新技術である「リア・ローディング翼型」が採用されている[43][42]。この翼型の翼断面は前縁が大きな丸みを帯び、上面は比較的平らで下面は後縁がえぐられたような形状である[42][34]。高亜音速や遷音速[注釈 4]で飛行すると、機体の飛行速度がマッハ1以下でも翼面上を流れる空気は局所的に音速を超えることがある[156]。音速を超えた気流は大きな負の圧力を示し、翼を引きつけるよう作用する[157]。しかし、この気流は翼面上の後方に向かって最終的に飛行速度まで減速するため、音速以下に戻るところで衝撃波が発生して抵抗の急増や飛行性の急変を起こす[158][157]。巡航状態におけるリア・ローディング翼型の圧力分布は、翼上面の前縁付近に負圧が最大になる地点(すなわち流速が最大になる地点)があるがそのピークは従来のピーキー翼型と比べて低く、翼表面の流速が音速を超えても抵抗が急増しない[43][44][45]。続く上面の圧力分布は翼弦長の中程までほぼ一定で、そこから後縁に向けて穏やかに低下する[43][44][45]。一方翼下面では、一旦負圧が上昇するが後半部のえぐりにより流れが減速されて上面との圧力差が確保されるため、翼弦上の後方で多くの揚力を得ることができる[43][42]。この翼型の特性は、1960年代にアメリカ航空宇宙局 (NASA) が開発したスーパークリティカル翼型[46]と基本的に同じであるが、翼の設計を行ったホーカー・シドレー社は、NASAとは独立にリア・ローディング翼型の開発に至ったとしてスーパークリティカル翼型の一種とは認めていない[42]。リア・ローディング翼型は衝撃波の発生を遅らせ揚力係数を増加できることから、後退角と翼厚比を同じくした場合に従来の翼型よりも高速で飛行できる[42][43]。しかし、欧州域内を結ぶ短中距離機として開発されたA300では高い巡航速度は不要とされ、前述の通り後退角を減らし翼厚比を大きくする設計がなされた[42][47]。主翼の空力設計が優れていたことが、A300が成功した要素の一つとも言われる[159]

A300B2-203を左やや下から見た写真。翼胴フェアリングがほとんど無い。
A330-300を左やや下から見た写真。主翼の付け根部分に大型の翼胴フェアリングが付いている。
同じアングルから見たA300(上)とその発展型A330(下)。A300では主翼付け根の胴体下側には翼胴フェアリングがほとんど無い。一方、後にA300をベースに開発されたA330はA300と共通の胴体断面を持つが、胴体延長と重量増加に対応して主翼が新設計となり翼胴フェアリングが追加されている。

中央翼が貫通する胴体部分は、胴体のモノコック構造をそのまま通しているが与圧はされていないため、中央翼の上面に与圧を受けられるよう5本のトラス・ビームを通している[35]。A300の主翼は低翼配置であるが、客室床の位置が比較的高いことから中翼に近い形で取り付けられている[160]。これにより胴体の円筒内に主脚やエアコン装置を収納するスペースが確保できたため、胴体下側に翼と胴体の表面を滑らかに繋ぐフィレット(翼胴フェアリング)が張り出していない[161][35]

主翼には動翼として、高揚力装置エルロンスポイラーを備える[52]

高揚力装置には前縁に基本的にスラット、後縁にファウラーフラップを備える[52]。スラットは主翼のほぼ全幅にわたり配置され片翼あたり3分割されている[52]。他機ではスラットが途切れるエンジンパイロン部分についても、A300ではパイロンを避ける切り欠きを入れてスラットを通すことで揚力を稼いでいる[47]。A300B1およびA300B2-100以外では離着陸性能を向上させるため前縁の翼根部にクルーガー・フラップが追加されている[53]。スラットの展開角度は、着陸時には揚力係数が最大となる25度、離陸時には揚抗比が最大となる16度である[43]。後縁のフラップは、展開時に2本の隙間が現れるダブルスロット型ファウラーフラップである[43][104][47]。フラップは内翼部と外翼部で2分割され、後縁全幅の84パーセントを占める[52]。このフラップは、まず後方に移動し、その後回転しつつ滑り降りるように展開される[43]。フラップの後ろ側1枚はタブと呼ばれ、前側の1枚よりもさらに折れ曲がる機構を用いている[47]。エアバスでは、この方式により簡単な機構で性能を高くできるとしていた[47]。全開時には翼弦長が25パーセント増え、フラップが下がり始める前に7割まで展開される[47]。フラップは、着陸時には揚力係数が最大となる25度まで全開になり、離陸時には揚抗比を稼げる16度までの展開となる[43][47]

エルロンは低速度エルロンと全速度エルロンの2枚を備える[43]。全速度エルロンは内翼部フラップと外翼部フラップの間に、低速度エルロンは外翼側フラップより翼端側に配置されている[43]。エルロンリバーサル[注釈 13]を防ぐため、翼端側の低速度エルロンはスラットやクルーガー・フラップが展開されている時のみ作動する[43]。全速度エルロンは、フラップの作動と連動してフラップと同様の効果を発揮するフラッペロンとしても働く[43]

主翼上面にはスポイラーが配置されている[107]。スポイラーは片翼あたり7枚で、内翼側フラップの前方に2枚、外翼側フラップの前方に5枚である[107]。内舷側から数えて4枚は、グラウンドスポイラー(空力ブレーキ参照)としてのみ機能し、外弦側の3枚はフライトスポイラーとしても働く[53][48]。エルロンとスポイラーの横操縦能力の分担は、高速飛行時では80パーセントが全速度エルロン、20パーセントがスポイラーによって行われ、低速では全速度エルロンと低速度エルロンがそれぞれ36パーセント、スポイラーが28パーセントを分担しているとされる[48]

水平尾翼は水平安定板と1枚式の昇降舵で構成される[52]。逆キャンバー(後縁がそり上がる形状[163])の翼断面を持ち、翼幅が16.94メートル、翼面積が69.5平方メートルである[164]ピッチ方向のトリム調整(釣り合う姿勢の調整[165])ができるよう水平安定板自体が可動式となっており、油圧モータボールスクリュージャッキが駆動されて+3度から-12度まで角度をとれる[52][48]垂直尾翼は垂直安定板と1枚式の方向舵で構成される[52]。片側エンジン停止時の操縦性と横風時の着陸性能などを考慮して方向舵面積が大きく、同時に横方向の動安定を満足するよう垂直安定板も大きいため、翼面積は45.2平方メートルである[164][48]。尾翼も箱型応力外皮構造で、垂直尾翼の下半分は3本桁でそれ以外は2本桁構造、舵面は板金構造である[35]

エンジンはパイロンにより主翼下に1発ずつ吊り下げられている[142]。A300のエンジンポッドは補器やパイロン取り付け面も含めてDC-10-30と同じで、違いは配管等の僅かな配置程度である[68]。胴体尾部には補助動力装置 (APU) としてガスタービンエンジンが搭載されている[166]。APUも当初はDC-10と同じものが採用されたが、A300にはやや大きすぎたことから、後により軽量・低騒音・低燃費のAPUに変更された[68]

燃料タンクは主翼外翼の桁間全体が充てられ、左右それぞれのエンジンに燃料を供給するほか、左右タンク間での燃料移動も可能である[68]。タンクは内舷側と外弦側に2分割されており、翼の強度的な負荷を抑えるため内側タンクの燃料から使用される[68]。APUへの燃料供給も翼内のタンクから行われる[68]。A300B4では中央翼の桁間にも燃料タンクが設けられた[68]。さらに、A300B4-200では、後方貨物室に搭載可能なLD-3貨物コンテナ2個分に相当する追加燃料タンクがオプション設定されている[68]

降着装置は引き込み式で、前脚は2輪式で前方へ格納、主脚は4輪ボギー式で内側へ格納される[52]。主脚の車輪はアンチスキッド機能付きの油圧ディスクブレーキを有する[52]。主脚のタイヤとブレーキはB2からB4への重量増に対応して次第に強化されている[167]。尾部にはテールスキッドを備え、離着陸時に尾部が地面に接触してしまった際にはショックを吸収できるようになっている[167]

A300の主要構造部材の大部分はアルミニウム合金が使用されている[148]。主要部分の一部にはスチールチタン合金も用いられているが、マグネシウム合金は一切使われていない[148]。主翼の縦通材と外板はリベット接合で、胴体については外板とフレームはリベット、外板と縦通材は接着により接合されている[146][35]。DC-10では接着は腐食の問題があるとして主構造部材[注釈 14]には全く使用しなかったのと対照的に、エアバスでは腐食対策を十分に施すことで接着も採用された[147]。また、費用対効果が見合う部品には一体削り出しも多用された[35]。そのほか、二次構造部材[注釈 14]の一部には複合材料も採用されている[148][168]。たとえば、垂直安定板の縁部、翼胴フェアリングおよびトラックレールのフェアリングなどにはガラス繊維強化プラスチック (GFRP) が用いられ、水平安定板の翼端の一部には炭素繊維強化プラスチック (CFRP)が用いられている[148][168]

飛行システム

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ノヴァスペースフランス語版社が運用したA300 ZERO-Gのコックピット。同機はA300B2をベースとした。

A300第1世代の操縦システムは機械式で計器類も機械電気式である[54][42]。運航に必要な操縦士は機長副操縦士航空機関士の3人であり、A300第1世代はエアバスの旅客機で唯一の3人乗務機となったが、後に航空機関士を除く2名でも運航可能なFFCC(後述)と呼ばれるコックピット仕様が開発された[55][56][注釈 7]

A300第1世代のシステムは、双発機であっても3発機や4発機と同等の保護安全装置や回路を装備させるよう設計されている[169]。全てのシステムは、カテゴリーIIIaの自動着陸能力[注釈 15]に対する要求を満たすよう設計されている[169]。APUを空中で使用可能にするなどしてシステムは二重あるいは三重に冗長化されている[169][167]。特に飛行の安全に重大な影響を及ぼす主要システムについては2種類の機器が故障してもシステム全体が使用不能にならないよう安全性が確保されている[169][167]

油圧は完全に独立した3系統が同時に機能し、どの1系統が故障しても操縦能力は十分で2系統が故障しても飛行と着陸が可能である[170]。このため翼の舵面には、予備の人力操縦系統は搭載されていない[48]。油圧3系統は、それぞれブルー、グリーン、イエローと名付けられており、エンジン駆動のポンプによって作動する[171]。グリーン系統だけは電源ポンプも備えておりAPUの電源で作動可能であり、さらにグリーン系統から油圧モータを介して残りの2系統を作動させることもできる[171]。また、エンジンとAPUが全て停止した時には、ラムエア・タービンのポンプによりイエロー系統を作動させることが可能である[171]

コックピットの各システムの制御パネルにはそのシステムの概要が図示されているほか、操作機器類の配置はシステムを構成しているロジックと同じ連続性を持つよう配置されている[169]。各表示機器も実際のシステム構成要素の配置と相関を持つように配置され、操縦士が状況を把握しやすいよう工夫されている[169]。主警報パネルは3名の乗務員から見やすいよう、中央のパネルに取り付けられている[169]。航空機関士のシステムパネルは右舷側にあるが、エンジン始動後は着陸して停止するまで航空機関士が前向きに座って乗務できるよう操作パネルが配置されている[96]。この考え方をさらに一段階すすめて開発されたコックピットがFFCC(Forward Facing Crew Cockpit の略)であり、システムパネルの機器類を中央のオーバーヘッドパネル(コックピット天井のパネル)に移設して航空機関士は常時前向きで乗務できるようにし、必要であれば操縦士2名だけでも運航可能となった[96][97]

A300第1世代の飛行システムやコックピットは、アビオニクスの技術進歩に対しても対応できるよう、機器類の搭載スペースや冷却能力には余裕をもって設計された[36]。特にブラウン管 (CRT) を利用したディスプレイの搭載や計器類の増設、そして電気信号を介して動翼を操縦するフライ・バイ・ワイヤの導入にも備えた設計がなされた[36]。実際にA300の派生型として開発されたA310や、A310の技術をA300にフィードバックした発展型のA300-600ではCRTディスプレイを用いたいわゆるグラスコックピット化が実現し、操縦系統の一部にはフライ・バイ・ワイヤも採用され、正副操縦士のみの2人乗務での運航が標準となった[53]

安全性に対するリスクを抑えつつ整備性を向上させるようシステムの分離も図られており、A300第1世代では特に電源系統と油圧系統の分離が重点的に行われている[172]。整備および点検を簡素化できるよう、システムの各構成要素は整備性の良い場所にまとめて配置され、その近くには取り外しを行いやすいアクセスパネルが設けられている[173]。複雑なシステムおよびサブシステムには、BITE (Built In Test Equipment) と呼ばれる検査装置が装備されている[172]。BITEはシステムの作動状況や故障状態を自動的に検知して、表示・記録することができ、整備や飛行前点検などにおける業務負荷の軽減が図られている[172]

A300のシステム構成要素は一部を他機種とも共通性・互換性があり、特にDC-10とは広範囲に及ぶ[172]。エンジンポッド全体はDC-10-30と同じでAPUや発電機、エアコン装置や防氷装置等の主要部もDC-10と同じであるほか、油圧ポンプは747、DC-10、L-1011と同じであり、主要機器のなかの80点は米国製の機体と共通である[167]

客室・貨物室

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アメリカン航空による運航当時のA300の客室内。

A300の胴体は中央付近の床面を境として上層に客室、下層に貨物室が配置されている[174]。キャビンは常用圧力差が8.25重量ポンド毎平方インチ(約570ヘクトパスカル)に与圧され、エンジンまたはAPUから得られる高圧空気を温度調整してキャビンに送られる[175]

A300の客室は最大幅が5.35メートル、最大高が2.54メートル、長さは初期のA300B1を除くと39.15メートルである[52][143]。客室内には通路が2本配置され、標準的な座席配置は上級クラスでは2-2-2の6アブレストまたは2-3-2の7アブレストであり、エコノミークラスでは2-4-2の8アブレストで座席間隔を詰めれば3-3-3の9アブレストも可能である[174][176]。真円形胴体を持つ旅客機では、客室の床面位置を断面円の中心からある程度低くした方が窓際座席のゆとりを確保しやすくなる[177][178]。しかし、A300では細い胴体径で床下にLD-3貨物コンテナを2列で収容できる貨物室スペースを確保するため、床位置は相対的に高くなっている[160][177]。断面の円の中心から床までの距離は、DC-10では46センチメートル、L-1011では48センチメートルあるが、A300の場合は18センチメートルである[160]。そのためA300では円の曲率の影響で窓側席の上部が狭くなってしまうことから、座席と側壁との間を10センチメートル空けている[179]。エアバスによる標準座席数は2クラス編成で251席(上級クラス26席+エコノミークラス225席)、エコノミーのモノクラス編成では269席から302席であり、非常口により決まる上限座席数は345席(A300B1は323席)である[176][55]。客室の扉配置は左右対称で、乗降用ドアは客室最前部、最後部、主翼の前方部に1組ずつ6か所あり、加えて主翼後方に非常口が1組配置されている[174][180]。客室の窓は上下を丸めた小判形で寸法は230×340ミリメートルである[179]

座席の頭上には手荷物を収納するためのオーバーヘッド・ストウェージが配置されている[179]。左右の座席のストウェージは標準装備でエコノミークラスの中央列のものはオプション扱いだったが、中央列にも採用する航空会社が多かった[176][179]。機内エンターテインメント設備は基本的にはイヤホンにより音楽等のサービスを提供するオーディオ・システムのみだったが、短中距離線用の旅客機ということで機体価格を抑えるため、初期にはエンターテインメント設備を一切装備しない運航会社もあった[181][176]。一方、時代と共に機内設備品が進歩したことから、エンターテインメントシステムを新しいものに置き換えた航空会社もあった[176]

床下貨物室は3室に分けられており、主翼を挟んで前方貨物室と後方貨物室があり、その後ろにバルク貨物室がある[182]。床下貨物室のドアは右舷にあり、前方・後方貨物室には外開き式扉が各1か所、バルク貨物室には内開き式扉が1か所ある[182]。前方・後方貨物室はLD-3航空貨物コンテナを左右に並べて搭載できる幅を持っており、コンテナをそれぞれ12個、8個まで収容可能である[182]。コンテナやパレットの積み下ろしを行うため、前方・後方貨物室には動力付きローラー式の積載装置が備わっており、ドア近くのコントロールパネルにて操作する[179][181]。747やDC-10、L-1011などのワイドボディ機と同規格のパレットやコンテナを搭載可能であることから、航空会社は地上設備等を共用でき、中継地の空港で他のワイドボディ機からコンテナのまま貨物を載せ替えることも可能である[181][183]。前方貨物室は煙探知器と消火装置を備え、後方貨物室は煙探知器のみで消火装置は持たない[179]

シリーズ構成

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表2: 型式名と装備エンジンの一覧
型式名 エンジン 型式証明取得
A300B1 GE CF6-50A 1974年11月12日
A300B2-1A GE CF6-50A 1974年3月15日
A300B2-1C GE CF6-50C 1975年10月2日
A300B2K-3C GE CF6-50C / CF6-50C2R 1976年6月23日
A300B2-202 GE CF6-50C1 1978年2月22日
A300B2-203 GE CF6-50C2 / CF6-50C2D 1980年2月21日
A300B2-320 P&W JT9D-59A 1980年1月4日
A300B4-2C GE CF6-50C / CF6-50C2R 1975年3月26日
A300B4-102 GE CF6-50C1 1977年12月7日
A300B4-103 GE CF6-50C2 1979年3月21日
A300B4-120 P&W JT9D-59A 1981年2月4日
A300B4-203 GE CF6-50C2 / CF6-50C2D 1979年4月26日
A300B4-220 P&W JT9D-59A 1982年1月8日
A300C4-203 GE CF6-50C2 1979年12月18日
A300F4-203 GE CF6-50C2 1986年6月6日
  • 出典:EASA 2014
  • GE: ゼネラル・エレクトリック、P&W: プラット・アンド・ホイットニー

A300はA300-600より前に開発されたタイプ(第1世代)とA300-600以降で開発されたタイプがある[184]。A300第1世代はエアバス・インダストリーが初めて開発・製造した旅客機で、A300-600は第1世代の機体構造を基本に先進技術が導入された発展型である[94][60]。以下本節ではA300第1世代のシリーズ構成について述べる。A300-600およびその派生型(A300-600R、A300-600Fなど)については「エアバスA300-600」を参照のこと。また、A300-600Rをベースに開発された大型貨物輸送機A300-600STについては「ベルーガ」を参照のこと。

A300第1世代の型式名は装備するエンジンによって細分化されている(表2)。GE製CF6エンジンとP&W製JT9Dエンジンを装備する機体が生産された[185]R-R製のRB211エンジンを装備する仕様も提案されていたが、採用する航空会社が現れず生産されなかった[185]

A300B1

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トランス・ヨーロピアン・エアウェイズ英語版により運航されたA300B1。

A300で最初に製造されたモデルで1972年10月28日に初飛行し、1974年11月12日に型式証明を取得した[30][186]。A300B2が開発されるとそちらに注文が集中したため、製造されたA300B1は1号機と2号機のみである[32][9]。1号機はエアバス・インダストリーが所有し、1974年8月まで各種試験に用いられてその後解体され、胴体と主翼の一部がミュンヘンドイツ博物館で展示された[32][54]。2号機はリースされてトランス・ヨーロピアン・エアウェイズ英語版によって商業運航に用いられ、1990年11月に引退した[32][54]

A300B2

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A300B2-100

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エールフランス運航当時のA300B2。同社の要請によりA300Bは胴体を2.65メートル延長し、その後の標準となった。

エールフランスの意向を受けてA300B1の胴体を2.65メートル延長し、単一クラスでの標準座席数を281席としたタイプである[30][32]。最初の機体は通算3号機で1973年6月28日に初飛行した[32]。1974年3月15日、フランスおよびドイツの航空当局から型式証明が交付された[3]。1974年5月11日にエールフランスに引き渡され、その月の23日に初就航した[32]

当初は単にA300B2、あるいはA300B2-1C、A300B2-1Aと呼ばれていたが、1978年4月にエアバス・インダストリーは型式名の整理を行い、クルーガー・フラップを持たないA300B2をA300B2-100と呼ぶようになった[108][33]。A300B2-100は30機が生産された[184]

A300B2-200

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南アフリカ航空はA300B2Kの最初の発注者となった。

当初はA300B2Kと呼ばれていたが、1978年4月の型式名の整理によりA300B2-200に変更された[67]。主翼前縁の翼根部にA300B4と同じクルーガー・フラップを装備することで、高地や高温地域での離着陸性能を向上させたタイプである[184]。A300B2Kでは、空力的な特徴に加えて強力なブレーキを備え、ナローボディ機DC-9や727よりも短い滑走路から離陸でき、着陸も727と同等の滑走路の使用が可能であり、2,000メートルの滑走路でも余裕のある離着陸性能を持っていた[148]

通算32号機がA300B2Kの初号機となり1976年7月30日に初飛行し、11月23日に南アフリカ航空に初引き渡しが行われた[67]。A300B2KとA300B2-200を合わせて25機が生産された[108]。日本の東亜国内航空が最初に導入したA300もA300B2Kであった[184]

A300B2-300

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スカンジナビア航空のみが運航したA300-300。

A300B2-200の最大離陸重量を増加し、短距離区間を頻繁に離着陸するような路線に適した機材として開発された[60][78]。A300シリーズでP&W製JT9Dエンジンを採用した最初の機体となった[60]。通算79号機がA300B2-300の初号機となり、1979年4月28日に初飛行、1980年1月4日に型式証明を取得した[185][78]。当型式を採用したのはスカンジナビア航空のみであり4機が生産された[60][108]

A300B4

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A300B4-100

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イベリア航空の要求によりA300B2の中央翼内に燃料タンクを増設し、最大離陸重量も150トンに増やして航続距離を伸ばしたタイプである[58]。重量増加に対応して離陸性能を確保するため、主翼前縁の翼根部にクルーガー・フラップが追加された[58][54]。A300B4の開発により、もともと短距離型として開発されたA300が中距離路線にまで使える幅の広い旅客機に成長し、結果的に販売の中心はA300B4となった[67][187]

通算9号機がA300B4の初号機となり、1974年12月26日に初飛行、1975年3月26日に型式証明を取得した[54]。しかし、最初の発注者だったイベリア航空が注文をキャンセルしたため、ドイツのチャーター便航空会社のジャーマンエアドイツ語版が最初の納入先となり、1975年6月1日に初就航した[66][63]。最大離陸重量を157.5トンに増加したタイプも開発され、1976年6月10日に型式証明が交付された[67]。さらに、構造を強化して最大離陸重量を165トンまで増加したタイプ(次節参照)が登場し、基本構造のA300B4はA300B4-100と呼ばれるようになった[71]。A300B4-100は66機が生産されたほか、スカンジナビア航空のA300B2-300は全4機が当型式に改造された[187]

A300B4-200

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主翼と主脚(降着装置)の強度を向上し、ブレーキとタイヤの容量を増すことで最大離陸重量を165トンまで増加したタイプである[67]。A300B4-200では貨物室内に燃料タンクを増設でき、その場合の航続距離は3,000海里(5,560キロメートル)となった[67][4]

A300B4-200は1978年1月にエールフランスから初受注し、当型式の初号機は通算70号機で1979年4月26日に型式証明を取得、同月末から引き渡しが始まった[67][108]。100機が生産されたほか、A300B4-100からA300B4-200仕様に改造された機体もある[188]。操縦士2名での運航が可能なFFCC仕様もある[4]

A300C4

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ハパックロイド運航時のA300C4-200。

A300B4をベースに開発された貨客転換型で[77]、正式な型式名はA300C4-200である[79]。メインデッキ(客席部分)に貨物を搭載できるよう左舷前方に幅3.58メートル、高さ2.57メートルの貨物扉を設置し、床面強化とメインデッキへの煙探知器の追加を行い、内装も貨物向きに変更している[77]。メインデッキに貨物を搭載するときは、座席のかわりに貨物積載装置を取り付け、前方に9Gに耐えられるバリヤーネットを張ってコックピットを保護する[77]。メインデッキの貨物室容積は173 - 179立方メートルであり、客室内装を残したままで88×125インチ(2.23×3.17メートル)の貨物パレットを13枚、96×125インチ(2.44×3.17メートル)の貨物パレットでは12枚を収容可能である[77]。旅客機として運用する場合の座席数は281席で、繁忙期は旅客機として、閑散期は貨物機または貨客混載機といった運用が可能である[77]。貨物用から旅客用へは24時間で転換できる[77]

A300C4は、ドイツのハパックロイドから初受注し、A300B4-200として完成した83号機をドイツ・ブレーメンのVFW社に空輸して1975年5月から改造作業を行った[77]。1979年12月18日に型式証明を取得し[79]、同月中にハパックロイドへ納入された[77]。初めからA300C4として生産されたのは4機であるが、このうちの2機は納入前にA300F4(次節参照)に改造された[108]

A300F4

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トルコの貨物航空会社MNG航空による運航当時のA300F4-203。胴体前方("M"がペイントされている辺り)に貨物扉がある。

A300C4と同様にメインデッキに貨物を搭載可能とした貨物専用型であり[107]、正式名称はA300F4-203である[109]。エアバス・インダストリーでは早くからA300の貨物型を提案していたが、第1世代では新造機での受注はなく全て旅客型またはA300C4からの改造により製造された[4][189][108]。A300F4の初号機は通算277号機で、A300C4-200として1983年9月29日に初飛行していた機体を改造し、1986年6月6日の型式証明取得後に大韓航空に引き渡されたものである[107][109]。この改造はイギリスのBAeによって行われた[4]。A300-600シリーズでも純貨物型も提案され、こちらは新造機での受注もあった[4](詳細は、A300-600を参照)。

A300 ZERO-G

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トーイングカーに牽引されているA300 ZERO-Gを右前方から見た写真。機体側面には「ZERO-G」と大きくペイントされている。
キャビンの実験スペースの様子。座席はなく中央の通路を挟んで左右には等間隔でネットが張られている。
キャビン前方の様子。前方向きに座席と機器が設置されている。
A300 ZERO-Gの外観(上)とキャビン内(下2枚)。

フランスのノヴァスペースフランス語版社が提供している航空機実験サービスにA300が使用された[190]。この機体はA300 ZERO-Gと名付けられ、放物線飛行を行うことで微少重力環境をつくり出す[190]。A300 ZERO-GはA300B2の通算3号機を改造したもので、放物線飛行に必要な操縦を行えるコックピット、飛行状況を記録する計測装置類、そして実験機器を搭載できるキャビンを備える[191][192]。1回の放物線飛行で作り出せる微少重力状態は20秒間ないし25秒間で、重力加速度は-0.02Gから0.02Gである[190]。放物線飛行の前後では各20秒間1.8Gの加重がかかる[190]。1回の飛行で最大40回まで放物線飛行を行え、最大ペイロードは12トンである[190]。A300 ZERO-Gは1997年から運用を開始し[193]、18年間に13,000回以上の放物線飛行を行った[192]。構造に高負荷のかかる飛行を繰り返すことから、年々それに耐えるための整備が難しくなり、A310をベースとした新しい「ZERO-G」に後を引き継ぎ、2014年10月に引退した[192]

運用の特徴

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A300はシリーズ全体で561機が顧客へ引き渡された[133][194]。そのうちA300第1世代が249機で、A300-600シリーズが312機であった[195]。また、A300-600ST「ベルーガ」が5機製造・納入された[138]

第1世代の運用数は、引き渡しが始まった1974年から増加し、1980年代の後半には240機前後となりピークを迎えた[196]。その後は退役が進み2014年には20機を下回った[196]。A300-600シリーズは、納入が始まった1984年から運用数は増え続け、280機を超えた2000年代中盤をピークにその後は減少傾向にある[196]

A300第1世代の新造機での導入数が最も多かったのは、イースタン航空でその数は32機であった[108]。10機以上の新造機を導入したのは、欧州ではエールフランス (23) とルフトハンザ航空 (11)、米国ではイースタン航空とパンアメリカン航空 (12)、アジアではタイ国際航空 (12)、東亜国内航空(後の日本エアシステム) (11)、大韓航空 (10)、インディアン航空 (10)であった(括弧内は導入機数)[108]

A300-600シリーズを新造機で最も多く導入したのはUPS航空で53機、次いでフェデックスが42機導入しており、貨物航空会社が上位を占めた[108][197]。新造機を10機以上導入した旅客航空会社は、導入数の多い順にアメリカン航空 (34)、大韓航空 (24)、日本エアシステム (22)、タイ国際航空 (21)、ルフトハンザ航空 (13)、サウディア (11)、チャイナエアライン (10)、中国東方航空 (10)、ガルーダ・インドネシア航空 (10)であった[108][197]

エールフランス、ルフトハンザ航空、イベリア航空、アリタリア航空といった欧州の主要航空会社は、A300を欧州内幹線で運航した[198]。A300第1世代の運航機数が最も多かったのは1980年代後半で約240機をピークに引退が進み、A300-600については2000年代中盤の約290機をピークに引退が進んでいる[199]。初期の運航会社が放出した機体は、中古機として中小規模の航空会社で採用されたほか、貨物専用型へ改造され貨物航空会社でも運航されている[200]

2018年7月の統計によると、A300第1世代が12機、A300-600シリーズが200機運用されている[201]。この運用数には、エアバス・トランスポート・インターナショナルが運用する5機のA300-600STも含まれる[201]。運用数の半数以上は貨物航空会社によるもので、運用数の首位はFedEx (68)、以下UPS航空 (52)、DHLの関連会社であるユーロビアン・エア・トランスポート英語版 (21) と続き、上位3社ともA300-600のみの運用である[201]。同じく2018年7月の統計においてA300を運航している旅客航空会社は、中東やアフリカの航空会社を主とした数社で、マーハーン航空 (11)、イラン航空 (4)、ケシュム・エア英語版 (4)、エジプト航空 (2) などとなっている[201]

日本での運航

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日本エアシステム運航当時のA300B2K

日本の航空会社では東亜国内航空(後の日本エアシステム)と佐川急便グループのギャラクシーエアラインズがA300を採用した[202][136][203]。東亜国内航空は日本エアシステム時代から日本航空との統合後まで含めて、A300B2Kを9機、A300B4を8機、A300-600Rを22機と延べ39機を運航した[202][136]。ギャラクシーエアラインズはA300-600Rの貨物型を2機運航した[203][204]。そのほか、大韓航空やタイ国際航空、フィリピン航空、中国の航空会社などが日本への国際便にA300を用いた[205]。また、パンアメリカン航空はアジア路線にA300を投入し日本へも乗り入れていた[205]

A300は東亜国内航空の初のワイドボディ機となり、同時に日本の航空会社が導入した最初の欧州製ジェット旅客機となった[206]。日本のローカル国内線を中心に運航していた東亜国内航空はDC-9の次に導入する大型機の選定にあたり、主にA300とDC-10を比較検討した[207][136]。その結果、DC-10ほどの大きさや航続距離性能は不要とされ、双発で整備性・経済性に有利で地方空港の2,000メートルの滑走路でも離着陸できる機材としてA300B2Kが選定された[207][136]。実績の無い欧州製で世界初の双発ワイドボディ機の導入ということで心配する声もあったが、事前調査の上で1979年5月に最初の受注契約が交わされた[136][208]。初納入に先立つ1979年11月、入間基地で開催された国際航空宇宙ショーにエアバス・インダストリーはA300のデモ機を出展した[136]。この時の機体はエアバスのコーポレートカラーであるレインボーカラーに「東亜国内航空」とペイントされており、これを見た東亜国内航空の役職員が感激し、同社の機体塗装にレインボーカラーを譲り受けることとなった[注釈 16][208][210]

東亜国内航空への初引き渡しは1980年10月で、翌年3月に羽田 - 鹿児島線で初就航した[211]。その後、ワイドボディ機でありながら滑走路長が2,000メートルの地方空港へも就航できる離着陸性能を活かし羽田と北海道、東北、九州を結ぶ路線に相次いで投入されローカル路線網の充実に貢献した[211]。増加する旅客数に対応し、A300B2Kに続いてA300B4を追加発注しようとしたが、当時既にA300-600の生産に移行していたことから新造機では数を揃えられず海外の航空会社から中古機を買い集めた[212]。また、1988年4月には東亜国内航空は日本エアシステムへ社名変更し、その年の7月に同社初の国際定期便となる成田 - ソウル線が開設されA300B4が就航した[211][213]

その後、日本エアシステムは、輸送力の強化と国際線へも就航できる機材としてA300-600Rの導入を決め、1991年4月に最初の機体を受領した[214]。この時のA300-600Rは第1世代の後継というより機材増強の側面が強く、第1世代は主に国内線、A300-600はアジア地域への国際線の強化に振り向けられた[215]。日本エアシステムは東亜国内航空時代からA300の定時出発率99.5パーセント以上を維持し、エアバスから最優秀運航者として2度表彰された[211]

日本エアシステムは日本航空と統合し、引き継がれたA300-600Rは日本航空の新塗装に塗り替えられた。

日本エアシステムが日本航空と経営統合した後もA300は引き継がれたが、第1世代機は2002年から引退が始まり、2006年3月31日に運航を終了した[210]。第1世代は予め引退が計画されていたため統合後もレインボーカラー塗装で運用された[210]。一方のA300-600Rは新しい日本航空の塗装に塗り替えられ国内線で運航された[210]。2008年のリーマン・ショックをきっかけに日本航空は経営難に陥り、再建策の一環として機種整理を行いA300-600Rも引退することとなった[216]。当初の引退予定は2011年3月だったが、その月の11日に発生した東日本大震災を受けて被災した東北への輸送力増強に充てられたことで引退は一旦延期され、5月31日の青森発羽田行きの便をもって運航を終えた[217][218]

ギャラクシーエアラインズが運航したA300-600R貨物型改造機。

ギャラクシーエアラインズは2005年5月に佐川急便が設立した貨物専門航空会社で、A300-600Rの中古機を改造した貨物機を導入し、翌年10月に羽田と北九州ならびに那覇空港間で運航を開始した[219][220]。2007年4月には新造機で2機目を導入し、新千歳と羽田ならびに関西国際空港間でも就航も開始した[219][194]。しかし、燃料費高騰や機材の不具合により運航・整備コストがかさみ、当初計画より大幅な赤字となり2008年8月に事業停止と清算を決定し、同年10月に全路線を廃止した[219][221]

受注・納入数

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顧客へ納入されたA300シリーズは、総計561機である。内訳は、A300第1世代が249機、A300-600シリーズが312機であった。

表3: 年ごとの受注・納入数(キャンセル分は当初発注年度から減じている)[133]
合計 2007 2006 2005 2004 2003 2002 2001 2000 1999 1998 1997 1996 1995 1994 1993 1992 1991 1990
受注数 561 0 0 7 2 6 0 24 2 0 32 6 15 2 0 3 16 38 22
納入数 561 6 9 9 12 8 9 11 8 8 13 6 14 17 23 22 22 25 19
1989 1988 1987 1986 1985 1984 1983 1982 1981 1980 1979 1978 1977 1976 1975 1974 1973 1972 1971
受注数 54 21 29 7 16 19 0 3 23 31 61 65 23 2 14 9 0 3 6
納入数 24 17 11 10 16 19 19 46 38 39 24 15 16 13 9 4 0 0 0

主な事故・事件

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2017年1月現在、A300が関係した航空事故および事件は73件報告されており[222]、その中には34件の機体損失事故と30件のハイジャックが含まれる[223]。死者を伴う事件・事故は15件発生しており、合わせて1,435人が亡くなっている[223]

A300の最初の機体損失事故は1982年3月17日にイエメンサヌア国際空港で発生した[224]カイロ国際空港行きのエールフランス125便が離陸滑走中にエンジンが破損し、飛び出した破片が燃料タンクを突き破り火災が発生した[225]。この事故で乗客乗員124人の内乗客1人が負傷したが死者は出なかった[226]。機体は修理不能と判断され登録抹消となった[227][108]

A300の最初の死亡事故は、1987年9月21日に発生した[228]ルクソール国際空港に着陸しようとしていたエジプト航空のA300B4-203が滑走路を700メートル超過して墜落した[228]。同機には乗客は搭乗していなかったが乗員5人全員が死亡した[228]

A300の事故・事件のなかで最も多くの犠牲者が発生したのはイラン航空655便撃墜事件である[223]。1988年7月3日、アメリカ海軍ミサイル巡洋艦が発射したミサイルによってイラン航空のA300B2-200が撃墜され、乗客と乗員合わせて290人全員が死亡した[223]。そのほか100人以上の犠牲者が発生した事故には、1992年9月28日に発生したパキスタン国際航空268便墜落事故、1994年4月26日に発生した中華航空140便墜落事故、1997年9月26日に発生したガルーダ・インドネシア航空152便墜落事故、1998年2月16日に発生したチャイナエアライン676便墜落事故、2001年11月12日に発生したアメリカン航空587便墜落事故がある[224]。このうち、パキスタン国際航空268便とガルーダ・インドネシア航空152便の事故はA300B4によるもので、それ以外はA300-600Rによる事故である[224]

A300が巻き込まれた最初のハイジャック事件は、1976年9月27日に発生したエンテベ空港奇襲作戦である[224]。エールフランスのA300B4-203がハイジャックされエンテベ国際空港に着陸した[229]。人質が空港の旧ターミナルに移された後、イスラエル軍による救出作戦が実施されたが人質3名が死亡した[229]

主要諸元

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本節ではA300第1世代の主要諸元を示す。A300-600およびその派生型の諸元は「エアバスA300-600」を参照のこと。

表4: A300第1世代の各型式の主要諸元
A300B1 A300B2-100 A300B2-200 A300B4-100 A300B4-200 A300C4-200 A300F4-200
運航乗務員数 3名(FFCC仕様機は2名で運航可能)[55]
標準座席数 (2クラス) -- 251席[52] -- N/A
最大座席数 (1クラス) 323席[55] 345席[55] 145席[55] N/A
貨物室容積 -- 144 m3[230][231] メインデッキ: 173 - 179 m3
床下貨物室: 158 m3[232]
メインデッキ: 285 m3
床下貨物室: 158 m3[232]
全長 50.97 m[4] 53.62 m[4]
全幅 44.84 m[4]
全高 16.53 m[4]
主翼面積 260 m2[4]
胴体直径 5.64 m[37]
客室幅 5.35 m[52] N/A
最大無燃料重量 (MZFW) 116,500 kg[186] 116,500 - 120,500 kg[230] 120,500 kg[230] 122,000 - 126,000 kg[231] 124,000 - 130,000 kg[231] 124,000 - 126,000 kg[232] 126,000 kg[232]
最大離陸重量 (MTOW) 137,000 kg[186] 134,000 - 142,000 kg[230] 134,000 - 142,000 kg[230] 150,000 - 157,500 kg[231] 147,500 - 165,000 kg[231] 165,000 kg[232] 165,000 kg[232]
最大着陸重量 (MLW) 122,000 kg[186] 127,000 - 130,000 kg[230] 130,000 kg[230] 133,000 - 134,000 kg[231] 134,000 - 140,000 kg[231] 134,000 - 136,000 kg[232] 136,000 kg[232]
最大巡航速度 マッハ0.84[4] マッハ0.86[4] マッハ0.82[4]
航続距離 2,590 km[4] 3,425 km[4] 4,820 km[4] 5,560 km[4] 4,625 km[4]
エンジン (×2) GE CF6-50A[4] GE CF6-50C[4]
P&W JT9D-59A[4]
GE CF6-50C2[4]
P&W JT9D-59A[4]
  • GE: ゼネラル・エレクトリック、P&W: プラット・アンド・ホイットニー
  • † 主デッキに貨客混載時の最大。

脚注

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注釈

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  1. ^ a b A300B1として開発された1号機と2号機のみ全長が50.97メートル[4]
  2. ^ 1968年から1969年にかけてメッサーシュミットベルコウ英語版HFB英語版が相次いで合併して誕生した企業。
  3. ^ DC-10シリーズの1型式
  4. ^ a b 飛行速度が音速より速い場合を超音速、遅い場合を亜音速と呼ぶ。飛行機の周りを流れる空気の流れは一様ではない。飛行速度が亜音速から音速に近づくと、流れが加速された領域が部分的に超音速になる。この亜音速と超音速が混在する速度域が遷音速と呼ばれる[41]
  5. ^ a b 翼の厚みを翼弦長(翼の前後の長さ)で割った値[154]。空力特性、強度と重量、翼内の燃料タンク容量などを踏まえて決定される[155]
  6. ^ 翼端部の失速を防ぐように、翼根部よりも翼端側での迎角を小さくすること[50]
  7. ^ a b A300第1世代を除くエアバス製旅客機は、全て運航乗務員が2名である[57]
  8. ^ 境界層(物体表面の空気の層)の剥離を防止するため、翼や胴体など機体の表面に気流に適当な角度をもって、並べて取り付けられた小片[62]
  9. ^ 方向舵を自動操舵してヨー運動を小さくする安定性増大装置[64][65]
  10. ^ 通算製造番号でいうとA300第1世代の最終号機は305号機であるが、こちらは304号機より先に初飛行している[107]
  11. ^ 製造番号の最終は878号機だが、これは製造番号の割当てだけされて実際には製造されなかったものが56機あるためである[113]
  12. ^ アスペクト比とは翼幅の2乗を面積で割った値で翼の細長比を示す値である[151]。アスペクト比が大きい方が誘導抵抗(揚力発生に伴う抵抗)が小さくなり、効率的な飛行に有利となる[151][152][153]
  13. ^ エルロンリバーサルとは、高速飛行時に翼に働く応力により操舵の意図とは逆の働きをエルロンが引き起こしてしまう現象[162]
  14. ^ a b 航空機の構造部材は一次構造部材(主構造部材)と二次構造部材に分かれている。一次構造部材は飛行荷重・地上荷重・与圧加重の伝達を主要に受持つ構造部材であり[233]、主翼の桁間構造の部材などが相当し[234]、構造材の中でも最も安全上の信頼性が要求される[235]。一方、二次構造部材は、主たる荷重を伝達しない部材[236]で、空力機能を発揮し、風圧などの局部荷重を一次構造部分に伝える主翼の前縁および後縁などが相当する[234]
  15. ^ 計器着陸装置を参照。
  16. ^ この決定以降、エアバス・インダストリーは、垂直尾翼以外の機体塗装においてレインボーカラーを用いていない[209]

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  221. ^ “佐川系航空運送事業、国交省、廃止届を受理”. 日経産業新聞: p. 18. (2008年10月7日) 
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  226. ^ (English) (PDF) AIRCRAFT ACCIDENT FINAL REPORT. AIR FRANCE. AIRBUS A 300 B4, F- BVGK. SANA'A AIRPORT (YEMEN ARAB REPUBLIC). MARCH 17, 1982, フランス航空事故調査局, (1984-07-18), http://www.bea.aero/docspa/1982/f-gk820317/pdf/f-gk820317.pdf 
  227. ^ (English) (PDF) Aircraft Accident Final Report. Air France. Airbus A 300 B4, F- BVGK. Sana'a Airport (Yemen Arab Repubalic). March 17, 1982, フランス航空事故調査局, (1984-07-18), http://www.bea.aero/docspa/1982/f-gk820317/pdf/f-gk820317.pdf 
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  233. ^ 中田守; 北原靖久; 畑口宏之「航空機用アルミニウム鋳物の動向」『R&D神戸製鋼技報』第55巻、第3号、神戸製鋼所、87–90頁、2005年12月。 
  234. ^ a b 青木隆平 著「翼の構造」、飛行機の百科事典編集委員会 編『飛行機の百科事典』2009年12月、346頁。ISBN 978-4-621-08170-9 
  235. ^ 前田豊『炭素繊維の応用と市場』シーエムシー出版〈CMCテクニカルライブラリー〉、2008年6月、103頁。ISBN 978-4-7813-0006-1 
  236. ^ 航空実用事典 機体全般”. 日本航空. 2014年6月13日閲覧。

参考文献

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書籍

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  • 青木謙知『AIRBUS JET STORY』イカロス出版、2010年。ISBN 978-4-86320-277-1 
  • 青木謙知『旅客機年鑑2014-2015』イカロス出版、2014年。ISBN 978-4-86320-820-9 
  • 久世紳二『形とスピードで見る旅客機の開発史 : ライト以前から超大型機・超音速機まで』日本航空技術協会、2006年。ISBN 4902151146 
  • 谷川一巳『旅客機雑学のススメ : 航空事情の今がもっとよくわかる』山海堂〈Air books〉、2002年。ISBN 4-381-10432-3 
  • 谷川一巳『ボーイングvsエアバス熾烈な開発競争 : 100年で旅客機はなぜこんなに進化したのか』103号(Kindle)、交通新聞社〈交通新聞社新書〉、2016年。 
  • 李家賢一『飛行機設計法』コロナ社、2011年。ISBN 978-4-339-04619-9 
  • 日本航空宇宙工業会 編『平成19年度版 世界の航空宇宙工業』日本航空宇宙工業会、2007年。ISSN 09101535 
  • 日本航空機開発協会『平成25年度版 民間航空機関連データ集』日本航空機開発協会、2014年。全国書誌番号:22406794 
  • 日本航空機開発協会『平成29年度版 民間航空機関連データ集』日本航空機開発協会、2018年。 
  • 『JAL JET STORY』イカロス出版、2009年。ISBN 978-4-86320-149-1 
  • Obert, Ed (2009) (English), Aerodynamic Design of Transport Aircraft, ISBN 978-1-58603-970-7 

論文・雑誌記事等

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  • 粂喜代治「日本の空を賑わしたジェット旅客機(第10回)ヨーロッパの香りを乗せ、国内線に就航したA300」『エアワールド』第31巻、第3号、エアワールド、27–31頁、2007年。ISSN 02885603 
  • 坂出健「ワイドボディ旅客機開発をめぐる米英航空機生産提携の展開(1967-1969年)」『アメリカ経済史研究』第8号、アメリカ経済史学会、39–57頁、2009年。ISSN 13471554 
  • 佐藤潔「ヨーロピアンワイドボディジェットA300&310 全764機の履歴」『ヨーロピアン・ワイドボディ Airbus A300&A310』 旅客機型式シリーズ ; 4、イカロス出版〈イカロスMOOK〉、2001年、126–141頁。ISBN 4-87149-340-7 
  • 土井満「エアバスA300-600R」『航空技術』第437号、日本航空技術協会、3–12頁、1991年。ISSN 0023284X 
  • 徳光康「日本エアシステムA300シリーズのあゆみ」『ヨーロピアン・ワイドボディ Airbus A300&A310』 旅客機型式シリーズ ; 4、イカロス出版〈イカロスMOOK〉、2001年、89–94頁。ISBN 4-87149-340-7 
  • 浜田一穗「JET AIRLINER TECHNICAL ANALYSIS - AIRBUS A300」『エアライン』第30巻、第3号、イカロス出版、92–97頁、2010a。ISSN 0285-3035 
  • 浜田一穗「JET AIRLINER TECHNICAL ANALYSIS - AIRBUS A310/A300-600」『エアライン』第30巻、第4号、イカロス出版、92–97頁、2010b。ISSN 0285-3035 
  • 浜田一穗「JET AIRLINER TECHNICAL ANALYSIS - AIRBUS A330/A340 (PART1)」『エアライン』第33巻、第9号、イカロス出版、92–97頁、2013a。ISSN 0285-3035 
  • 浜田一穗「JET AIRLINER TECHNICAL ANALYSIS - AIRBUS A330/A340 (PART2)」『エアライン』第33巻、第10号、イカロス出版、92–97頁、2013b。ISSN 0285-3035 
  • 藤田勝啓「A300の構造とメカニズム」『ヨーロピアン・ワイドボディ Airbus A300&A310』 旅客機型式シリーズ ; 4、イカロス出版〈イカロスMOOK〉、2001a、43–50頁。ISBN 4-87149-340-7 
  • 藤田勝啓「Airbus A300 & Airbus A310シリーズのすべて」『ヨーロピアン・ワイドボディ Airbus A300&A310』 旅客機型式シリーズ ; 4、イカロス出版〈イカロスMOOK〉、2001b、51–66頁。ISBN 4-87149-340-7 
  • 帆足孝治「ヨーロッパの威信をかけたエアバスA300 誕生秘話」『ヨーロピアン・ワイドボディ Airbus A300&A310』 旅客機型式シリーズ ; 4、イカロス出版〈イカロスMOOK〉、2001年、35–42頁。ISBN 4-87149-340-7 
  • 松田均「エアバスA300の開発と各型解説」『月刊航空ジャーナル』第107号、航空ジャーナル社、52–62頁、1981a。 
  • 松田均「エアバスA300の構造とシステム」『月刊航空ジャーナル』第107号、航空ジャーナル社、101–111頁、1981b。 
  • 山崎文徳「アメリカ民間航空機産業における航空機技術の新たな展開」『立命館経営学』第48巻、第4号、217–244頁、2009年。ISSN 04852206NAID 110007530635 
  • 渡邊又十郎「A300B2K (1)」『航空技術』第312号、日本航空技術協会、3–9頁、1981a。ISSN 0023284X 
  • 渡邊又十郎「A300B2K (2)」『航空技術』第313号、日本航空技術協会、17–20頁、1981b。ISSN 0023284X 

オンライン資料

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関連文献

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  • Gunston, Bill (2009). Airbus: The Complete Story. Sparkford, Yeovil, Somerset, UK: Haynes Publishing. ISBN 978-1-84425-585-6 
  • Norris, Guy and Mark Wagner (1999). Airbus. Osceola, Wisconsin: MBI Publishing. ISBN 0-7603-0677-X 

関連項目

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外部リンク

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