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「ノート:ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の版間の差分

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硯箱 (会話 | 投稿記録)
ぽてから (会話 | 投稿記録)
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== 新記事名の募集 ==
== 新記事名の募集 ==
改名提案を先にという要望がございましたので、本日より一週間の間、改名後の記事の名前について募集いたします(分割については、いったん停止)。すでに改名提案がなされており相当な議論がされておりますが、申し訳ございませんが議論の流れが追いづらく、これまでの議論に継続してというのは難しいのではと感じております。参加者の皆様には大変お手数ではございますが、改名後の記事名(簡単な理由可)を、再度、以下にご提案いただけませんでしょうか。議論は、一週間後に開始するとして、今後一週間、記事名の候補のみ(簡単な理由を付けるのは可)を以下に挙げて頂きますようお願いします。重要なポイントといたしましては、議論は一週間後に開始をお願いしたいということでございます。他利用者が提案した名前の案について、次々にご意見を述べられるのは、お控えいただきますようお願いします。私自身は全く案がない場合には検討いたしますが、今のところは提案行為を行う予定はございません。--[[利用者:雅ハルカ|雅ハルカ]]([[利用者‐会話:雅ハルカ|会話]]) 2017年4月3日 (月) 16:34 (UTC)
改名提案を先にという要望がございましたので、本日より一週間の間、改名後の記事の名前について募集いたします(分割については、いったん停止)。すでに改名提案がなされており相当な議論がされておりますが、申し訳ございませんが議論の流れが追いづらく、これまでの議論に継続してというのは難しいのではと感じております。参加者の皆様には大変お手数ではございますが、改名後の記事名(簡単な理由可)を、再度、以下にご提案いただけませんでしょうか。議論は、一週間後に開始するとして、今後一週間、記事名の候補のみ(簡単な理由を付けるのは可)を以下に挙げて頂きますようお願いします。重要なポイントといたしましては、議論は一週間後に開始をお願いしたいということでございます。他利用者が提案した名前の案について、次々にご意見を述べられるのは、お控えいただきますようお願いします。私自身は全く案がない場合には検討いたしますが、今のところは提案行為を行う予定はございません。--[[利用者:雅ハルカ|雅ハルカ]]([[利用者‐会話:雅ハルカ|会話]]) 2017年4月3日 (月) 16:34 (UTC)
:どうも、お久しぶりです。話したら理解できるだろうと思って、議論に参加した次第だったんですけど、最近思うように時間がとれなくなってしまいまして、恐縮です。硯箱さんが方針を理解されれば万事解決する話なんですけど、全体の量も膨大ですが一次資料のテンプレのことだけで延々なのをご覧になりましたよね。まあ、一週間後に本格的に議論を再開するとして、まず、硯箱さんは[[Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか]]を読まれてください。たとえば、[[枕草子]]をご覧下さい。「書名の由来」「評価」「伝本」などの第三者による評価が主体となってますよね? 枕草子の全文やその現代語訳や助動詞の使い方とか書いてませんよね? 硯箱さんがされようとしてることは、いわば、枕草子の全文やその現代語訳や助動詞の使い方や'''自分なりの解説・解釈・豆知識'''とかを網羅して教科書や参考書やレポートの類をウィキペディアに作ろうとされてるってことだと思ってます。最近加筆された箇所については出典が単一でも「あった」ということは良かったですし、「提唱者によれば」とされて最初から書かれていればよかっただけなんですが、どうしても、自分が信じる真実を書くことを追求されてますんで。[[ウィキブックス]]で活動されれば、歓迎されるかもしれません。百科事典が何か、というのは、硯箱さんにご理解いただきたいですよね。--[[利用者:ぽてから|ぽてから]]([[利用者‐会話:ぽてから|会話]]) 2017年4月3日 (月) 23:13 (UTC)
=== 新記事名の提案 ===
=== 新記事名の提案 ===
<!--以下に新記事名の提案内容をご記入いただきますようお願いします。なお、議論は一週間後に開始とできればと思いますので、まずは、提案する新記事名のご記入をお願いします。すでに、なんども議論をされている中、お手数をおかけして申し訳ございませんが、議論の流れが追いづらくなっており、このような形で何度も同じ事をお願いするような状況となっておりますこと、ご了承いただきたく存じます。-->
<!--以下に新記事名の提案内容をご記入いただきますようお願いします。なお、議論は一週間後に開始とできればと思いますので、まずは、提案する新記事名のご記入をお願いします。すでに、なんども議論をされている中、お手数をおかけして申し訳ございませんが、議論の流れが追いづらくなっており、このような形で何度も同じ事をお願いするような状況となっておりますこと、ご了承いただきたく存じます。-->
#「レース・プーブリカ・クリスティアナ」を提案いたします。これは歴史学的な原史料にもしばしば登場し、歴史学的に利用される専門用語「res publica christiana」をそのままカタカナで記したものですが、これには文献によって必ずしも定訳がなく、「キリスト教世界」や「キリスト教国家」と訳すと、ここで展開された「政教分離」の言葉に引きづられた議論のように、「キリスト教世界」「キリスト教国家」といった言葉の表面的なニュアンスに引きづられた誤った認識や議論が持ち込まれてしまう可能性があります。そのため歴史学的な専門議論であることを明確にするためにもやや異例と思われるのですが、「レース・プーブリカ・クリスティアナ」ないし「レース・プーブリカ・クリスティアナの歴史」への改名を候補とします。ほぼ同内容の専門用語として「corpus christianum」も存在しますが、管見の限り、文献的には「レース・プーブリカ・クリスティアナ」の使用が圧倒的に多いと思われます。ちなみに言語間リンクとしても[[:en:Res publica christiana]]が存在します。記事冒頭部は改名に合わせて適切に処理される必要はあります。--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年4月3日 (月) 16:47 (UTC)
#「レース・プーブリカ・クリスティアナ」を提案いたします。これは歴史学的な原史料にもしばしば登場し、歴史学的に利用される専門用語「res publica christiana」をそのままカタカナで記したものですが、これには文献によって必ずしも定訳がなく、「キリスト教世界」や「キリスト教国家」と訳すと、ここで展開された「政教分離」の言葉に引きづられた議論のように、「キリスト教世界」「キリスト教国家」といった言葉の表面的なニュアンスに引きづられた誤った認識や議論が持ち込まれてしまう可能性があります。そのため歴史学的な専門議論であることを明確にするためにもやや異例と思われるのですが、「レース・プーブリカ・クリスティアナ」ないし「レース・プーブリカ・クリスティアナの歴史」への改名を候補とします。ほぼ同内容の専門用語として「corpus christianum」も存在しますが、管見の限り、文献的には「レース・プーブリカ・クリスティアナ」の使用が圧倒的に多いと思われます。ちなみに言語間リンクとしても[[:en:Res publica christiana]]が存在します。記事冒頭部は改名に合わせて適切に処理される必要はあります。--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年4月3日 (月) 16:47 (UTC)
*「教会と国家」を提案します。「キリスト教の教会と国家」等類似の名前も可。ただし、記事名を「〜の歴史」とはせず、記事内の節名を「〜の歴史」とする。今年に入ってから硯箱さんが加筆された内容が、当初から目指していた通り、[[:en:Church and state in medieval Europe]]に対応してるので。なお、教会と国家が一体であった時代については、記述されたいのであれば[[政教一致]]という記事があります。世俗化の概念の誕生から始めるのは「教会と国家」の関係性を記述されたかった、「教会と国家」を意図して一つ目の節をお書きになられた、と理解してました。あれ、違ったんですか? とちょっとビックリですがその話は一週間後ということで。--[[利用者:ぽてから|ぽてから]]([[利用者‐会話:ぽてから|会話]]) 2017年4月3日 (月) 23:13 (UTC)

2017年4月3日 (月) 23:14時点における版

分割を差し戻しました

IP氏による恣意的な分割を差し戻しました。--2001:268:C033:3FA3:95E9:36C2:3E32:571A 2016年12月23日 (金) 05:36 (UTC)[返信]

  1. 分割にあたって議論や合意形成がなされた痕跡がありません。
  2. 記事としては一貫性があり、分割する理由がないように思われます。
  3. 政教分離は「Separation of church and state」の訳語であり、その意味には制度と思想が含まれます。分割前の記述は教会と国家の分離の歴史記述としては思想・制度両面に及んでおり、網羅的ではないものの、いまのところ妥当なように思われます。
  4. 分割後の記事で新規作成のものに単純な事実誤認が確認しただけでも相当数あるように思います。記事内容が適切に分割されていないようです。分割の議論も分割先記事との整合性も含めて丁寧に検討された形跡がありません。
  5. 技術的な問題として、明らかにおかしな出典箇所があったので確認したところ出典情報が正しく継承されていないようです。修正する必要がありそうです。
  6. IP氏はかなりの記述を出典不明やエッセイ的であるとして削除しているようですが、その選択は恣意的なように思われます。「要出典」タグの利用やノートでの議論などが行われていないようです。正教会の記述を削除するのは政教分離の本来の意味からも明らかに問題があるように思われます。
  7. 言語間リンクは英語版「中世の国家と教会」とのリンクになっており、分割前の記述の方が内容的にも妥当に思われます。記述に一貫性があると思われることから、むしろ分割より改名がよさそうな気がします。

以上の理由から分割を不適当とし、差し戻しを行いました。--2001:268:C033:3FA3:95E9:36C2:3E32:571A 2016年12月23日 (金) 10:24 (UTC)[返信]

  • #項目一部転記提案にてWikipedia:ページの分割と統合に準じて転記をしました。反対意見が表明されなかったので実行しました。よって、痕跡がないとは偽りです。
  • Wikipedia:過剰な内容の整理Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:出典を明記するに準じて推敲し、整理しました。2001:268:c03a:1d57:d5eb:838f:d3fa:ab42氏の差し戻しでは出典のない独自研究が復帰され、私が出典を明記した箇所を削除しています(例えば、世界大百科事典「政教分離」を出典にした冒頭箇所)。出典を示す責任は掲載を希望する側にあります。そこには「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません」とあり、ノートへの移動も提案されています。参考文献も実際に使用されたのか、関連文献ではないでしょうか。脚注を用いて出典として利用してください。なんでもかんでも「関連があるから」と掲載するのは不適切です。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかの「学術雑誌ではありません」では、「ウィキペディアの記事を、読者がその主題の分野に精通しているという前提で書いてはなりません。」とあり、これにも準じましたし、「政教分離の歴史」という題の記事で、西欧キリスト教の概説や宗教改革の変遷を書きすぎです。全文にわたって、「政教分離の歴史」との関連を示す根拠となる出典を提示してください。他の記事への執筆も検討してください。
  • 「単純な事実誤認」「おかしな出典箇所」などはどの箇所のことか明示してください。
  • IP:110.132.106.234 氏の2016年12月18日 (日) 04:48および 2016年12月20日 (火) 18:02‎ の差し戻し、2001:268:c03a:1d57:d5eb:838f:d3fa:ab42氏の 2016年12月23日 (金) 05:32‎の差し戻しも、ノートで提案されたうえで実行されていません。ノートでの提案は差し戻し後の2016年12月23日 (金) 10:24 (UTC)に書かれています。
  • 英語版のen:Church and state in medieval Europeは13,441バイト程度の記事で、日本版の48万バイトの分量に対応していません。一つの記事として内容が過剰で、整理すべきです。
  • 正教会の事情は、政教分離の歴史と関係があるとする出典がありません。出典がないので、独自研究とみなすほかありません。復帰するならば、出典を提示してください。また、完全に削除したのでもありません。

以上のように問題点が何一つ改善されていないので、差し戻します。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 05:01 (UTC)[返信]

本記事の内容は膨大ですので、まず121.107.209.16さんが問題点を一つずつ整理して提示してください。節ごとに内容を吟味して添削・加筆修正を行うのが適切と思われます。それぞれの箇所で121.107.209.16さんの分割の問題点、分割後の記述の不適切さ、出典の誤記問題などについて逐一確認するのがよいでしょう。とりあえず記事内容を差し戻しました。本記事は良質な記事に選定されていますし、出典も明記されております。独断で記事を編集するのではなく、記事内容の充実のため、協力が必要です。まずは節ごとに適宜議論して推敲していきましょう。--2001:268:C068:DEE0:C121:6510:9BAF:29CE 2017年2月21日 (火) 06:55 (UTC)[返信]
それと議論をスムーズに進めるために、本記事のテーマにおいて121.107.209.16さんが全体の見通しとして真っ先に参照すべき、中心をなすと思われる文献がありましたら、提示してください。それを踏まえて記事内容を吟味できればスムーズになると思います。--2001:268:C068:C53C:F98A:607:E89D:DD9F 2017年2月21日 (火) 07:15 (UTC)[返信]

私の指摘に回答してください。出典のない文章は独自研究です。ウィキペディアは独自研究を掲載する場所ではありません。冒頭の「政教分離の歴史では、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する、このように限定することの根拠は「基本的な視野」で詳しく記述する。なぜヨーロッパの国家としてビザンツ帝国が除外されうるかについても同様。基本的には森安達也の『近代国家とキリスト教』の理論枠組と観点に基づく。」でさえも、森安達也の『近代国家とキリスト教』を用いて「政教分離の歴史」を書くこと自体が独自研究であり、情報の合成です。自分でも認めているように、「キリスト教と国家」の記事を作るか、キリスト教史関連の別の記事で書くべき内容です。「基本的な視野」以下、出典のないものは削除対象です。信頼できる記述なのか、検証ができません。出典を示す責任は掲載を希望する側にあります。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 08:17 (UTC)[返信]

世界大百科事典「政教分離」項目によれば、「政教分離の画期としては叙任権闘争宗教戦争フランス革命がある」。そして、この説明は一般的にも理解されているものです。森安達也の『近代国家とキリスト教』を用いて古代から中世の関連国について書こうとすること、そしてそれを「政教分離の歴史」記事で書くこと自体が独自研究であり、不適切です。「政教分離の歴史」では、政教分離の歴史について書くべきです。文中で使用される語句について、古代からの歴史的変遷をすべて述べていくような態度は不適切です。「政教分離の歴史」について知りたい読者・閲覧者のことを配慮してください。自分の歴史認識を演説しないでください。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 08:26 (UTC)[返信]

まず基本的なこととして、この記事のメインテーマは森安達也さんの『近代国家とキリスト教』に依拠している(と書かれていますので、その)ように思われます。また政教分離は「(Separation of)Church and state」の訳語ですから、森安さんの著作が「国家とキリスト教」についてのものであるならば、一応その見通しは正しいかもしれないと推測できます。そして記事は出典を明記しているように思われます。出典のある記述を削除したり分割したりすることはどのようにして正当化されるのか私にはわかりません。また121.107.209.16さんの言い分を読みますと、記事を「国家とキリスト教」に改名すれば問題ないと思うのですが。なぜ分割されたのかわかりませんし、元の記事の出典情報が移動先にすべて移されていないのも問題ではないでしょうか。121.107.209.16さんは記事の記述を移動するときに出典を確認していらっしゃったのでしょうか。そして出典は世界大百科事典というような辞典類の簡単な記述ではなく、お手数ですが、議論の進展のため、まずは121.107.209.16さんの編集に際して依拠した文献を示してくださいますよう。--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8
よりよい「政教分離の歴史」記事にするために、まずは全体の見通しについて121.107.209.16さんが依拠すべきと考える文献を提示してくださいませ。いまのままでは121.107.209.16さんの編集行為はそれこそ独自研究で行っているように思われますから、まずは文献を確認するところから始めませんか。--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8 2017年2月21日 (火) 08:37 (UTC)[返信]

まったく正しくないです。森安本はキリスト教と国家との関係について書かれた本であり、政教分離の歴史として書かれたものではありません。記事を「国家とキリスト教」に改名すればいいといいますが、それも不適切です。「政教分離」について、叙任権闘争宗教戦争フランス革命以降の世俗化までを概観していている記事は必要です。世界大百科事典は出典として有効です。出典を示す責任は掲載を希望する側にあります。出典を提示できないなら削除された版を復帰することに明確に反対します。また、過去ログ1を見ると、問題となっている版を書いたとおもわれるKanbun氏による版(2001:268:C068:C53C:F98A:607:E89D:DD氏が差し戻している版もこの版なので、以下、Kanbun版と称します)についての議論でも、分割提案や長過ぎるという意見について差し戻しが繰り返されています。しかし、私は単に長過ぎるだけでなく、そもそも、この記事内容を書く場所としてこの記事は不適切であると指摘しています。したがって、Kanbun版は膨大な独自研究といえます。出典を明記するとは、自分の知っている参考文献のタイトルを並べることではありません。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 08:45 (UTC)[返信]

私には121.107.209.16さんの論理は成り立たないように思われます。分割提案や長すぎるという点にはやはりどうしてそれが長すぎるのか、適切な形にすればどうすればよいかという議論が発生しますし、そこで個人の独自な視点の押し付け合いになってしまうのは問題があります。そのためウィキペディアでは中立的な観点と出典の明記という規則があり、それに則って折り合いをつけるべきではないでしょうか。方針文書はそのように推奨していると思われます。したがって、まずは文献情報を交換し、個々の節単位でその内容の妥当性を吟味すべきではないでしょうか。また政教分離というのは国家とキリスト教を代表とする宗教団体の分離をまずいい、121.107.209.16さんのおっしゃっているのは「世俗化」とか「世俗主義」と言われるもののように思われます。そして周知の通り、ヨーロッパでは政教分離の歴史はまずキリスト教と世俗権力の関係性の問題とその分離という方向で決着したのであり、政教分離の歴史は国家とキリスト教の関係史であることは自明だと思われるのですが(この点について文献をあげろと言われればいくらでもあります、たとえば欧州中世史では山田欣吾『教会から国家へ』)、121.107.209.16さんはどんな文献に依拠して議論をなさっているのでしょうか。--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8 2017年2月21日 (火) 08:55 (UTC)[返信]


そもそも、政教分離の歴史で、米国における展開も非常に重要なのです。古代、中世の制度と諸国家の詳細な説明よりも、政教分離の歴史について、一般の読者に理解できるように書く努力をしてください。たとえば、

などを参照して書くべきで、森安達也『近代国家とキリスト教』も該当箇所について参照することに反対しませんが、古代〜中世〜近代国家とキリスト教の通史をこの記事で書くことには明確に反対します。「政教分離」の歴史であって、キリスト教と国家の関係史は別の記事で書くべきです。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 09:00 (UTC)[返信]

根本的な問題として以上の論考は近代以後のものであり、近代以前を対象としていませんよね。しかしながら、一般にヨーロッパの政教分離の歴史は古代キリスト教思想と絡めつつ、中世以来の国家とキリスト教の合体と分離、その結果として国家が世俗化されて近代国家は生じてくるという国制史的視点に長い伝統があります。その点についてなぜ政教分離の歴史で扱うべきでないかという点について、全く文献的なフォローがされていないのは問題です。これは歴史学的には常識ではないかと思われるのですが、どうでしょうか。そしてそもそも121.107.209.16さんは分割時には必ず必要となると思いますが、この記事の挙げる文献を確認していらっしゃるのですか。--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8 2017年2月21日 (火) 09:06 (UTC)[返信]

詭弁ですね。政教分離原則は近代社会の世俗化のなかで展開したもので、3論文の通りです。古代や中世の話は、直接は関係ありません。ご自身でも認めるように「キリスト教と国家」記事を新たに立項されて、そちらに移動転記されてはいかがでしょうか?この記事では、私は近代以降、宗教改革以降で十分と思っています。現状の説明は程度の低いものでありますが、むやみに読者を混乱させるKanbun版よりはましです。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 09:12 (UTC)[返信]

そうではありません。近代国家は国家の世俗化によって生じたものであり、その過程こそが政教分離であるというのは国制史の常識です。山田欣吾『教会から国家へ』の冒頭だけでも立ち読みしてください。そこに答えが書いてあります。ほかにも文献はいくらでもありますが、大学図書館であれば必ずあるのでそれを確認するのが一番簡単です。詭弁とののしられても121.107.209.16さんの主張は文献的な裏付けがない以上、ウィキペディアでは独自研究です。--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8 2017年2月21日 (火) 09:16 (UTC)[返信]

「近代国家は国家の世俗化によって生じたものであり、その過程こそが政教分離である」と書いてあるなら、何頁に書いてありますか?引用して説明してください。しかし、そうした見解があるとしても、それは政教分離の記事で定義の一説として書くべきでしょうね。文献的な裏付けがないのはKanbun版です。中世国家論争ヨーロッパ中世国家などを立項するのも検討してみてください。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 09:24 (UTC)[返信]

1ページ目に書いてあります。そもそも議論の出発点ですので、ぜひ確認してください。私はこの記事の著者でないので文献はすべて確認しておりませんが、おおむね過去に読んだことのあるものがほとんどです。その観点から言うと、少なくとも国制史的な視点はよく盛り込まれていると思われます。歴史記事の議論なのに、どうも議論が歴史学的な話になっていません。政教分離の歴史を編集したり分割したりしようと思うのでしたら、まず文献の確認はすべきだと思います。そして中世国家論争やヨーロッパ中世国家という記事を書くとなればより社会史的視点も必要になると思われますから、現状の内容にそぐわないと思われます。とにかく文献を確認していないのならば、確認するところから始めませんか。--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8 2017年2月21日 (火) 09:27 (UTC)[返信]
引用もできないのですか。困ったものです。そういう見解があったとしても中世西欧諸国家の変遷について細部にわたって書きすぎて、全体が見えなくなっており、その結果、「政教分離の歴史」について有益な情報が提供されていません。どのような歴史の説明がいいか。たとえば、前掲井上修一論文の冒頭では「オットー一世がローマ教皇ヨハネス 2世により神聖ローマ帝国皇帝に戴冠されて以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家の様相を呈した。神聖ローマ帝 国の最盛期には、キリスト教会は全欧州の三分の一の土地を領有し、ときには教皇が皇帝や 君主叙任権をもつほど世俗的権力が強大であった。中世末になると宗教改革や初期資本主義 の進展によってローマ教会の権威は失墜し、教会権力と国王権力が対立抗争することになっ た。近世に入り国王権力は教会権力を封じ込めて絶対君主制を樹立したが18 〜 19世紀の革命によって決定的に崩壊し、次々と近代自由主義国家が誕生したのである。このような教会 権力と国王権力の激しい対立・抗争の歴史を経て自由主義思想が生まれ、教会の世俗的支配を徹底的に排除する政教分離の原則や市民の信教の自由・思想の自由が人権宣言や憲法で保 障された」と解説されています。この概説に異論はありますか?ここの記事もこれくらい簡潔に説明されるべきです。「神聖ローマ帝国」が文中で登場したからといって、神聖ローマ帝国の歴史全てを説明しようとするKanbun版は間違っているし、不親切であり、読者のことを一切配慮しないし、政教分離の歴史についての理解をむしろ妨げるものでしょう。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 09:42 (UTC)[返信]
まず神聖ローマ帝国の国制史には長い伝統があり、神聖ローマ帝国は当初から近代的な国制を整えていたわけではありません。ハインリヒ2世によって一応の制度的成立を見る選挙王制・帝国教会政策から叙任権闘争、シュタウフェン朝による進展があり、神聖ローマ帝国の長い歴史を一言で説明するのが政教分離の「歴史」記事とはとても思えません。神聖ローマ帝国の歴史そのものが一つの政教分離史といってもよいくらいですよね。なんていうか121.107.209.16さんは政教分離をただ単に近代に限定したいように思われます。それならばいっそ近代以後の「国家による宗教政策」みたいな記事を作った方が早くありませんか?細かい内容についてはこれから精査するとして、この記事の分割にこだわる理由が見えてこないのですが。提示された論文も政教分離の伝統が中世にさかのぼることは自明に論じてますし、政教分離の歴史を近代に限るべきという文献的な裏付けもないですよね?--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8 2017年2月21日 (火) 09:48 (UTC)[返信]
コメント 双方落ち着いてください。今3RR違反で1日ブロックにしていますので明日のこの時間まで編集しないでください。IPアドレスが切り替わったからといってノートを含めて編集してはいけません。
あと、分割についての合意ですが多数のページに影響与える提案になるため告知が不十分とも考えられます。コメント依頼を活用するなりして一度「分割前の状態」を出発点としてコメントを募ってください。--アルトクール会話2017年2月21日 (火) 10:00 (UTC)[返信]

まず政教分離の歴史の枠組みについて合意しましょう

まずお互いの誤解や不一致を克服するために、政教分離原則の成立に関する通説的理解を確認しましょう。おそらく以下の点については双方全く問題なく合意できると思います。政教分離原則の成立についての論点は多岐にわたりますが、大きく整理して3つに集約されるというのはおそらく異論は無いもののと思います。政教分離が以下の通説的理解に基づくべきことは合意できると思います。 一つ目は、アウグスティヌス/ゲラシウス→ルターという二国家論の政治思想とテオクラシーの発展という思想史的背景に、 現実社会ではカロリング朝期の統治構造・財政における政教一致から中世を通じてそれぞれの領域と財政・統治機構の独立と棲み分けがおこなわれ、叙任権闘争を通じて神聖王権としてのあり方を否定され、ローマ法的君主権に自らを位置づけた皇帝権、一方で同時代周辺国家に形成された教皇権とも皇帝権とも異なる固有の王権理念などを見ながら、近世には宗教改革の進展に伴って領邦の宗派国家化の進展、アウクスブルクの宗教平和に至っての信教の属地主義の採用、ヴェストファーレン条約の結果としての信仰の内面化と政治秩序の世俗化(つまり国制上の政教分離)というような国家の世俗化過程を見ていくものがあります。現況の日本のドイツ国制史においては山田欣吾『教会から国家へ』の枠組みが基本的にはつねに参照されており、五十嵐修さんの『王国・教会・帝国―カール大帝期の王権と国家』や千葉敏之さんの一連の神聖王権に関する研究もこの流れに沿っています。一方で関連して神の平和運動に関する膨大な研究とそれを権力構造と結びつける研究があります。同時に教皇庁の側についてはどちらかといえば叙任権闘争や両剣論を中心としたテオクラシーに関する論考が膨大にあり、理念史に傾いていた感がありましたが、実体としての教皇庁については個別に統治機構を詳しく論じた藤崎衛さんの『中世教皇庁の成立と展開』が最近現れました。 二つ目は、中世におけるユダヤ人問題やロマ、周辺異教徒への伝道、イスラム教との関係からロックの近代的寛容論にいたるまでの寛容というキーワードで読み解く宗教社会史の立場があります。後期中世から近世に関しては宗教改革とそれに伴う、宗教戦争とナントの勅令などが画期と見なされており、ドイツ国制史とは別個にフランス国制史やガリカニスムなどと結びつけられ、ロック寛容論の流れを組む英米政教分離、フランス式ライシテまで射程が広がってきます。関連して、まず古代のキリスト教迫害問題とローマ帝国の対応を緻密かつ体系的に論じた保阪高殿さんの論考群が原点として重要で、つぎにキリスト教社会をこえた対象であるために周辺的ながら新井政美さんによる『イスラムと近代化 共和国トルコの苦闘』という示唆に富む優れた著作があります。 三つ目は、政治的正当性をキリスト教的な政治神学の流れに位置づけ、ホッブズによる主権論の世俗化を画期とする政治秩序の正当性論にキリスト教神学の根強い伝統を論じるとともに、一方で統治思想における世俗化を論じて、ナチズムまで射程に引き入れる政治哲学に関する研究です。エルンスト・カントローヴィッチの『王の二つの身体』、カール・シュミットの政治神学的論考群、レオ・シュトラウスなどが論じられます。最近この分野ではジョルジョ・アガンベンが『王国と栄光』で既存の政治神学的枠組み自体を問い直すような、注目すべき留保をつけていることが知られています。 以上の三点の他に、実際には無神論という思想潮流が潜在的にありますが、これは政教分離の歴史としては共産主義的無神論が現れる近現代までは主流とはならないので、基本的には無神論の歴史として別個に扱われるのが普通と思われます。これについては邦語ではG・ミノアの浩瀚な通史が便利です。 以上の細かい論点はほとんどすっ飛ばした、ざっくりとした概略については最近の細かな地域研究の広がりなどをとりあえず無視したうえで、通説に属するものとして、19世紀以来の長い歴史学研究の伝統にも則り、政教分離の歴史というものを書くならば、骨子としてまず第一に採用されるべきであるという点に関してはとくに問題が無いように思われますが、どうでしょうか。--2001:268:C068:D55F:9592:9341:968:C0AC 2017年2月22日 (水) 10:05 (UTC)[返信]

問題ありすぎです。ヨーロッパ国制史(Verfassungsgeschichte)という記事ならいいですかれど、「政教分離の歴史」からフランス革命やアメリカ合衆国の記述を削除する理由にはなりません。--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 14:47 (UTC)[返信]

政教分離について、文献を挙げて批判してください。121.107.209.16さんは歴史学とは直接関係のない法学の論文の、それも国制史が論じてきた政教分離の伝統的な本論とは異なる各論しか挙げていません。いまだに歴史学的文献を挙げていません。繰り返します。まずは歴史学的文献を挙げてください。現状では全く理由が示されておりません。--2001:268:C068:E925:7DF7:B60F:B2F7:8CF8 2017年2月22日 (水) 14:53 (UTC)[返信]
文献をいくつも挙げて批判しています。文献は以下の分割提案で上げています。貴殿は他者の発言を理解しようとしないだけです。偽りはやめてください。2001IP氏自身が、なぜこのような構成になっているのか、その関連の出典を示さず、「これは常識だ」「本を読んだのか」などと聞きますが、出典がきちんと表示されている箇所を私は削除していません。出典を明示して執筆したり、フランス憲法や米憲法などを削除する貴殿と一緒にしないでほしい。--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 15:30 (UTC)[返信]
これ、議論になってないですよね。通説的理解に基づいて本論をまず確認しようという話なのですけれども、各論の、それも分野の違う法学・法解釈の文献を挙げて、そのうえで一般に受け入れられていると思われる通史的な枠組みを提示しても、それに対して真っ正面から反論することもなく、一部の記述を削除したとかしないとか議論の推移と直接関係のないことを持ち出して、本論とは関係のない理由で相手の論理を全否定する。正直この調子では議論が成り立たないですよね。基本的な事柄についても普通に共通認識を形成することは出来ないのですか?--2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8 2017年2月22日 (水) 16:44 (UTC)[返信]

「世俗化」「宗教改革史」への分割提案と出典の明記のお願い

アルトクール氏より以前の分割提案も不十分という指摘もあるので分割を再提案します。

政教分離原則は近代において法制化されたものです。2001:268:C068:D55F:9592:9341:968:C0AC(以下、2001IP氏)が不当に削除した、1789年のフランス人権宣言第10条、1905年「教会と国家の分離に関する法律」(Loi de séparation des Eglises et de l'Etat) が代表的な例です。「近代に限定せよ」といっているのではなく、「近代以降の歴史を説明すべき」です。

また、世界大百科事典「政教分離」項目によれば、政教分離の画期は叙任権闘争宗教戦争フランス革命。また、井上修 一「フランスにおける政教分離の法の展開」によれば、

  • オットー世がローマ教皇ヨハネス 2世により神聖ローマ帝国皇帝に戴冠されて以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家の様相を呈した。神聖ローマ帝国の最盛期には、教会は全欧州の三分の一の土地を領有し、教皇が皇帝や君主叙任権をもつほど世俗的権力が強大であった。
  • 宗教改革や初期資本主義の進展によって教会の権威は失墜し、教会権力と国王権力が対立抗争した。
  • 近世に国王権力は教会権力を封じ込めて絶対君主制を樹立したが、18 〜 19世紀の革命によって崩壊し、近代自由主義国家が誕生。教会の世俗的支配を徹底的に排除する政教分離の原則や信教の自由・思想の自由が人権宣言や憲法で保障された。

この三点を骨格にするといいでしょう。趣旨はこの程度にしておくべきで、近代以前の歴史も「前史」として説明があってもいいですが、中世諸国家における変遷を逐一ここで説明するのは本末転倒で、過剰な内容となっており、バランスも含めてよくない状態です。2001IP氏が固執するKanbun版での、たとえばカロリング・ルネサンスについての記載は「政教分離の歴史」と全く無関係で、不要な箇所です。これも出典なしです。

2001IP氏のヨーロッパ国家形成史への興味はわかりますが、それは「政教分離の歴史」でなく、他の記事にしたらいかがですか、といっているのですし、自分でもそう言っていたではないですか。山田欣吾「教会から国家へ―古相のヨーロッパ」についてですが、これは「西洋中世国制史の研究」であって、いわゆる「政教分離の歴史」についての通史ではありません。ベッケンフェルデの世俗化理論を展開して、カール大帝のフランク帝国などを、「教会としての国家」として論じたものです。そのベッケンフェルデについて新保弼彬「世俗化理論の歴史的展開とその諸相(1)」言語文化論究 (通号 5) 1994では以下のように紹介されています。「領土とその支配権をめ ぐる政治体制史の視点からではなく、先ず既定の政治的・宗教的統一世界から離脱し,次いで世俗性を帯びた(いわゆる政治的な)目的設定の普遍化へと向かい,やがては政教の分離にまで発展していく歴史的世俗化の過程を視野に入れながら近代国家の成立を論じた」と。そしてまた、世俗化の原理は、政教の分離を可能にするもので、叙任権闘争にも見出される、と。また、山田欣吾の研究は論文「Verfassungsgeschichteについて : W・シュレジンガーと O・ブルンナーの場合」にあるように、Verfassungsgeschichte、つまり国制史の研究であると明記されています。『教会から国家へ』も、西洋中世国制史の研究シリーズと明記され、「初期中世の政治秩序を比較国制史の視点から考察し、国家形成史を宗教的秩序の世俗化過程として構想する」研究とされています。もしこうした紹介文で「政教分離史の視点から考察された研究」と明記されていれば、私は貴殿の主張を認めます。しかし、貴殿は何一つ提示していません。ご自身の解釈のみで、非常に恣意的な解釈にすぎません。kanbun版では「基本的視野」では、山田欣吾やベッケンフェルデらの世俗化理論を説明することなく、また、西洋中世国制史における世俗化理論と、法制史的な意味での政教分離原則との研究史上の関連を説明されていない。また、新保弼彬論文では、ベッケンフェルデの研究は「領土とその支配権をめ ぐる政治体制史の視点」ではない、とされているが、kanbun版は「領土とその支配権をめ ぐる政治体制史」にとどまっています。それは、きちんと世俗化理論が説明がされずに、関連諸国家を悪い意味で「網羅」し、その結果、膨大な量がまとめているものの、果たしてこの記事が何についての記事なのかが不明瞭になっている。

森安達也の『近代国家とキリスト教』を出典に、ともいうが、これも「政教分離の歴史」について書かれたものであると限定されているわけではない。「政教分離の歴史」よりも広い意味での「近代における国家と教会」について書かれたもの。

それだけでなく、歴史的世俗化の過程の結果に、近代の政教分離原則があるとは、すでに挙げた論文でも明らかである。しかし、貴殿は、そうした近代の政教分離については加筆を拒絶し、「近代以後の国家による宗教政策」などの記事に別に書けという。これでは話になりません。現在のkanbun版は、西欧史に詳しくないひとにとっては色々の情報が掲載されており秀逸な記事にも錯覚されますが、近代以降についての説明をしていない点からも、「政教分離の歴史」記事としては劣悪なものです。ただし、「世俗化」「ヨーロッパの中世国家」「中世の国家と教会」(これは貴殿が自ら提案したもの)などの記事としてはいいでしょう。もっと理論的な説明が冒頭であるべきですが。要するに、執筆内容の場所を間違えている。

以上の理由で、kanbun版の世俗化世俗国家などへの分割を提案します。分割箇所は、「2.歴史的展開」の2.2から2.3。2.4まで含めてもいいでしょう。しかし、2.4は宗教改革史宗教改革の歴史として分割する方が適切。

個々の節について、「政教分離の歴史」との関係について出典明記をお願いしても、一向に出す気配もないので、一括で分割提案します。

出典がないことについてすでに何度も指摘しているのに、一向に話を聞きませんが、出典のない構成は、独自研究です。また、不当に削除された記載は復帰します。

「歴史的展開」の「概要」は概要になっていないし、目次です。しかし目次はすでに表示されており、二重に表示することは不要で余計。よって削除を提案します。しかも、出典もない。また[ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ]の必要性がないので、表示に反対します。

--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 14:45 (UTC)[返信]

まず政教分離原則と国制史的な政教分離の議論や政治思想史における政教分離論は異なるということを理解してください。正直議論が全くかみ合ってません。そもそも『教会から国家へ』は読まれたのですか?--2001:268:C068:E925:7DF7:B60F:B2F7:8CF8 2017年2月22日 (水) 14:55 (UTC)[返信]
それと気になってしようがないのですが、やたら権威付けされている、この井上修一さんという方はどういう方なのですか?専門は民事法学などとなっていますが。この論文にはどんな研究史的意義があるんです?--2001:268:C068:E925:7DF7:B60F:B2F7:8CF8 2017年2月22日 (水) 15:01 (UTC)[返信]
議論もなにも、なにひとつ他人の見解を聞こうとしていませんよね。「政教分離原則と国制史的な政教分離の議論や政治思想史における政教分離論は異なる」なんて独自研究または演説はしないでください。カロリングルネサンスは書いてもいいが、近代における政教分離原則について書いてはならないとする理由はない。誰の論文であっても、査読体制のある大学紀要論文であれば、出典として使用できます。あなたが好む学者だけが「信頼できる情報源」なのではない。もうこれ以上は無理ですので、コメント依頼します。--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 15:25 (UTC)[返信]
正直山田欣吾『教会から国家へ』はドイツ中世史プロパーや政教分離論について歴史的な関心がある人なら外せない一冊であり、同書でも指摘されているとおり国制史的には国家の世俗化が近代国家形成であるというのは国制史的には定説で、そのうえさらにこの研究は伝統的な初期中世国制史の議論においての空白を埋めた画期的研究です。そもそも山田欣吾を知らないという時点で政教分離の歴史というかなり壮大な問題を論じられるのか?という疑問があります。そうした歴史学的な背景もなしで突然政教分離においては各論に近いライシテを教科書的に論じているように思える論文を出されて議論されても、そもそもの土台が違いすぎます。はっきり言ってしまえば121.107.209.16さんが繰り返し決定版のように引用している箇所は井上論文の確信でも何でもなく、それこそ辞書的な流れを確認しただけの論文の序詞で、それほど重要な意味のあるものとは思えません。それに対し、『教会から国家へ』は少なくとも後進研究者にとって参照対象である国制史の理論的核を提供している画期的なもので、それは121.107.209.16さんがネット上で見つけてきたと思われる『教会から国家へ』について言及する各種論文にも明らかです。はっきり言ってしまえば、121.107.209.16さん自身が自ら『教会から国家へ』が重要著作であるとはしなくも証明しているにもかかわらず、自分に都合のよい論文や記述を集めて独自に研究をなさっているように思われます。そして今更ながらに気づきましたが、近代以後の記述がないのはおかしいという点については、単に現状の記事に記述されていないだけで近代については加筆すればよいだけではという当たり前の疑問がわいてきます。なんで加筆しないのでしょうか。近代以前に議論を限るという話には今までなっていない気がしますが。正直近代以後を加筆すべきという議論は分割とは関係ないですよね。自らを正当化するために私が発言していないことも私が言ったことにしてませんか?--2001:268:C068:D8C2:51B3:5DC3:D122:8CFE 2017年2月22日 (水) 15:50 (UTC)[返信]
2001IP氏は「近代以降は別の記事に書いた方がよい」といってます。近代以降の加筆は必要です。しかし、加筆したくても、それまでの叙述があまりに長く、長いだけでなく、無意味といっていいほど恣意的で、歴史の説明になっていません。Kanbun版は「山田欣吾にあこがれているファンによるメモ」レベルにすぎませんが、 しかしそれもヨーロッパ国制史、国家と教会史としてのメモであって、「政教分離の歴史」として不適切です。ウィキペディアは山田欣吾ファンでなくても執筆は可能です。これ以上、中世史研究の「常識」などと演説されても、何の関係もないので、無駄です。あくまで、「政教分離の歴史」を書くことに、この記事の改善を考えてみてください。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかをもう一度読んでみましょう。ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません。井上論文はインターネットで確認できるから利用しています。2001IP氏は中世の国家と教会と自ら改名提案していましたが、撤回されたのですか?その改名提案が生きているなら、その方向で合意形成に務める方がいいかもしれません。私はそれならば合意できそうです。--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 16:30 (UTC)[返信]
近代以降は別の記事に書いた方がよい」の部分、前後の文脈切り離してますよね?これこそ詭弁というものです。文意を正確にくみ取れば、「近代以後だけに記事を限定したいのであれば、近代以後限定の記事を作って近代以後は別の記事にして書けば良い」という意味であることは明白ですよね?少なくとも私はそういう意味で言っています。そして改名提案もまた一定の文脈での話であり、撤回したとかいう話ではなく、この節ではまず分割するかどうかと出典が正当であるかどうかを問う議論をしているのであって、それに即した議論とは別の話をもってきて論点をはぐらかすのはやめてください。ここではまず井上論文をもし121.107.209.16さんが権威として持ち出すのであれば、それが山田欣吾『教会から国家へ』と比べて出典として適切なのかという点について第一に話し合われるべきであり、さらにその妥当性を吟味した上で分割の是非について問うというのがありうべき議論の形ではないのですか?--2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8 2017年2月22日 (水) 16:52 (UTC)[返信]
つまり、ここではまず、政教分離の歴史の本論を措定するに当たって、民事法関係の専門家井上論文の冒頭部分に基づいて本論を書くのか、日本のドイツ国制史における画期的業績であり、少なくとも2000年代を通じて国制史の基本文献として参照されてきた山田欣吾『教会から国家へ』のどちらをまず基本文献として採用すべきかという話であり、そこから話を進めないと議論が始まりません。--106.161.160.131 2017年2月22日 (水) 17:00 (UTC)(←追記:なぜか突然回線を変えたわけでもないのにIPが振られたので右の発言は2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8と同一人物の物であることを補足します。IP戻りました--2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8 2017年2月22日 (水) 17:04 (UTC)[返信]
どちらも出典として有効です。どちら一つなんてどこのルールですか。出典があれば、明記する。第一に、まずはそれだけです。出典が一ヶ月ほど待って提示されない箇所は削除します。また、分割に反対か賛成かは表明してください。霊性や、イエス、カロリングルネッサンスなどの箇所を出典なしに、政教分離の歴史として執筆するのは強引すぎるでしょう。--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 17:10 (UTC)[返信]

中世だけが歴史ではありません。現代史も歴史です。1989年のフランスのヒジャブ問題なども、歴史的経緯も説明すべきです。しかしその場合、ヒジャブの説明で何万バイトもあったらどうしますか?--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 17:15 (UTC)[返信]

あと根本的なことなのですが、まず現状の版は別に『教会から国家へ』に基づいてませんよね?私はあくまで現状の版は『教会から国家へ』と同じ国制史的視点から構成されているということを指摘しているだけで、現状の版を『教会から国家へ』に基づく形で調整していくのはこれからの話ですよね?つまり、この記事は別に山田欣吾ファンが書いたという話はどこにもなく、ただ単に『教会から国家へ』を読んでも明らかなように、ここで展開されている論理は少なくとも大枠は別に歴史学的知見から非常識なものではないということを言っています。それから論点のすりかえが著しいのですが、まず井上論文の出典としての妥当性を考慮しなければ、それに基づいて現状を間違いだ、分割すべきとする121.107.209.16さんの議論があるので、現状の枠組みは『教会から国家へ』に代表される国制史的見解やその他のすでに挙げた文献に基づけば、分割する必要はとりあえずないという私の議論と決着がつきません。両立可能という話ではなかったはずです。さらに現状の記述が強引かどうかがまさに論点となっているわけで、『教会から国家へ』が出典として有効であるならば、子細の検討はともかくとして、少なくとも記載内容については妥当であるということになり、分割自体問題とならなくなりますよね?ヒジャブの件についてはバイト数を問題にする詭弁ですので、わかっていると思いますが無視します。--2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8 2017年2月22日 (水) 17:21 (UTC)[返信]
気になったので、「霊性や、イエス、カロリングルネッサンスなどの箇所を出典なしに、政教分離の歴史として執筆するのは強引すぎる」という点については擁護する必要があります。記事の冒頭記述はちょっと説明不足ですが、現在の歴史学研究では霊性と国家の関係というのは国制史的な国家の世俗化や近代国家成立論、信仰の自由成立史などにわたって大きなテーマです。ざっくり今日の歴史学的研究における共通理解のようなものを素描しますと、まず古代世界では国家による殉教とか迫害とかを霊性の問題として教父たちがさかんに論じているんですけど、国家の側から見ると霊性を理由に迫害などしてなくて、治安維持を目的とした政策やまた迫害と考えられている事象の一部は教父が霊性をキーワードに誤解していたキリスト教保護政策などであり、国家は霊性とか信仰なんてもんはそもそも問題にしてないよねっていう保坂先生の画期的研究が出ちゃってて、次にカロリング朝が西ゴートの神政政治(これを神政政治と定義してよいかという問題がありますけど、とりあえず無視します)をモデルにして教会として自らを位置づけて霊性を国家が独占して強力な権威を獲得した(理念の上でも教会と「王国」(regnum この用語は要注意)が一致していたかについては五十嵐氏による議論あり)っていうところからドイツ国制史の議論が始まります。これが中世の始まりで、中世ではキリスト教徒じゃなきゃ基本的に人間として扱われていない社会だったけど実際はどうなの?その場合は近代的寛容論とのつながりはどうなの?って主にイベリアとシチリアなんかの周辺地域を対象にいろいろな研究があり、それが各国の政教関係を中心に読み解かれたりもしています。カロリング朝没落後に一度国家=教会的枠組みが崩れてしまったけど、オットー朝がそれを神聖王権という形で立て直します。でもなんか王権が改革にのめりこみすぎたあと、ハインリヒ3世死後4世が成人するまでの間にある皇帝権力の空白期みたいな時期に、教会改革が進んだこととシチリア王国ができてイタリア情勢が変わったことから叙任権闘争がはじまっちゃって、王権は神聖王権としてのあり方を否定されます。この時点で理論的には霊性と俗性は分離しようって言うのはほとんど常識になったんですけど、実際のヨーロッパの権力構造は教会組織が国家に組み入れられていたので、叙任権だけを解決しても財政や統治機構的な分離はあとまわしになっていたけど、それが教皇庁の機構的整備によって進んでいきます。でもこの時期イギリスとかフランスではキリスト教的な霊性とは別種の、教皇に依存しない血統霊威っていう霊的権威を王権が主張するようになって、これをもとに中世後期から近世になって王権神授説っていうのが主張されるようになります。一方で霊性の国家からの分離が進んでいたドイツでは王権神授説なんてのは王権の権威付けにはとてもならなくて、当時の皇帝権論者はそれを時代遅れで迷信だと罵りつつ、うらやましがっていたりする。この血統霊威の観念はだんだん王個人と引き離されて法学的に修飾されて国体みたいなものになるんですけど、これが王権への反逆と王個人への抵抗を区別する根拠になって民主主義的な抵抗を正当化するものにつながっていく。ドイツでは宗教改革を契機に国制が本格的に世俗化していく。で、議論の中心は中世のキリスト教社会では政治権力の正統性は霊性につねに根拠があったんですけど、世俗国家はそうではない。どうしてそうなるかといえば国制における政教分離と政治思想的な理念における政教分離がこうして同時並行的にからみあいながら進んだからで、そもそも世俗的な国家からの霊性の剥奪という過程がないと、霊性を現世の出来事から区別するという論点は成り立たないというか発想されないのであって、信教の自由とか近代的な寛容論とかも出てこないし、社会的にマジョリティになることはない。だから政教分離原則ができるには先行する政治思想での政教分離と国家機構の政教分離が不可欠であったという議論が基本線。でも実際は各国の歴史的進展には差があって、それが近代社会での各国の政教分離原則の立ち位置の違いにつながっている・・・・・・という歴史学研究の通史のなかでは霊性とカロリング朝と、イエスの思想の政治思想史上の解釈の変遷史というのは中心テーマですし、そこに現状研究が集中しているのは事実ですから分量が多いのは自然だと思います。--2001:268:C068:DACE:4539:3251:E40B:1CF7 2017年2月23日 (木) 07:31 (UTC)[返信]

井上論文の出典としての妥当性を疑うとはどんな意味なのでしょうか。学術論文や百科事典なども出典として有効です。Wikipedia:信頼できる情報源を読んでください。その上で、井上論文が情報源として無効であることを証明してください。「政教分離の歴史」は中世史学者の文献しか使えないわけではない。ウィキペディアは演説台ではありませんので、編集に関係のない現在の研究の動向などの話はしないでください。あなたの個人的かつ主観的な評価をいくら演説しても説得力はゼロです。政教分離原則の前史について、演説は結構ですので、出典を明記してください。分量が多いのは「自然」ではないです。近代以降の記載が同量の分量あれば、バランスはとれるかもしれない。しかし、各国の事情を異常な分量で一つの記事でまとめるのは不適切です。それでしたら、ヨーロッパの政教分離史の概説をここにして、各国の情況は別の記事にしたらどうですか。ウィキペディアはせっかく各記事がリンクされているのですから、それを利用してください。そして、記事を私物化しないでください。自分でサイトを運営なさったらこんな議論(ともいえませんが)しなくて済みます。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:13 (UTC)[返信]

まず井上修一論文は政教分離の歴史についての論文ではないし、そもそも歴史学の文献ですらないでしょう?121.107.209.16さん自身が記事内容に対して出典の有効性の是非などを論じているように見えるのに、ご自身の出典は歴史学分野でもない論文の、それも論文の本論でもない前文部分でよくて、なぜか宗教史の森安達也さんの文献や国制史上の政教分離を論じている山田欣吾さんの文献を信用できないものと断じているのはどういうことなんですか?これを独自研究といわないとすれば何を独自研究というのか私にはわからないほどむちゃくちゃな言い分だし、ここまでの議論ずっとこんな調子で、まともな文献を提示してないじゃないですか。記事を私物化しようとしているのはどちらか明白だと思うんですけど。民事法関係、それも具体的には労働法においてたくさんの業績がある井上修一さんは結局この分野でどういう位置づけにあるのですか。井上さんの論文はライシテについてのもので、政教分離の歴史全体について、何か枠組みを提供しているものではないですよね?これ以上、常識外れの議論を続けるのならば、さすがにコメント依頼など考えざるを得ないですよ?--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 13:30 (UTC)[返信]

山田本などを使用してはならないとはいってません。しかし、それらの本が「政教分離の歴史」として古代中世から中世諸国家の細部に渡って説明する全体の構成の出典としてなっていないということです。たとえば、

政教分離とは、信仰生活と政治活動は分離されるべきであるという考え方である。歴史的にはジョン・ロックによって、信教の自由は人間の自然権であるという考えが提唱され、多くの近代国家の憲法に原理として取り入れられて制度化された。ただし国により制度的な実現方法には相違がある。

これも出典が明記されていません。独自研究といわれても仕方ないです。反論するよりも、出典を脚注でつけたらどうですか?記事を私物化して、他の編集者による執筆を許可しない態度は、2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3氏のほうです。そもそも、私はkanbun版の復帰を一度受け入れて、再提案してるのです。他者の発言に一切耳を貸そうとしないのは、貴殿です。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:38 (UTC)[返信]

井上論文は「フランスにおける政教分離の法の展開」で、れっきとした政教分離関係文献です。歴史学ではないですが、法学の文献も使用していいですし、そもそも「歴史学文献以外は出典として使用できない」なんてウィキペディアの方針にありますか?--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:44 (UTC)[返信]

いや、これはそもそもフランスの、それも現代のライシテについて論じているものでしょう。ライシテの箇所での出典ならまだわかりますけど、歴史学的な研究とは論じている対象も地域も時代もその構想の範囲も異なるのに、一緒くたにして議論に持ち込むことは出来ないでしょうっていう当たり前の話なんですけど、これでわかりますか?歴史学的成果の話をしているのに、歴史学の文献ですらないってどういうこと?って話です。これ、単純な話ですよね?それになぜか私が削除したっていうような話になってますけど、私がしたのは分割の差し戻しであって、その後121.107.209.16さんが分割後の記事に加筆するという話ならわかるんですが、そうではなくてもう一度分割を強行しようとして編集合戦になり、保護依頼されたのに121.107.209.16さんが加筆をしているというふうに私は認識しています。そして編集をしたしないみたいな話を議論に紛れ込ませるのは本筋を外れるのでこれからはやめましょう。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 13:54 (UTC)[返信]
発言が意味不明ですよ。タイトルにあるようにライシテを含む政教分離についての論文です。法学の文献は使えない?山田欣吾に影響を与えたエルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデも法学者ですし、フランス革命が政教分離の画期であったといっています。フランスについて書いてならないと?冗談はやめましょう。とにかく、政教分離と世俗化については、新 保 弼 彬「世俗化理論の歴史的展開とその諸相(1)」を用いて、冒頭の基本的視野に少しだけ加筆しておきます。足りないようでしたら、山田欣吾の著書をもとに書いてください。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 14:19 (UTC)[返信]
今争点になっている箇所について加筆しようとするなど、編集合戦につながる行為はおやめください。そして議論を無視しないでください。フランス革命うんぬんを加筆してはならないとか、ライシテを加えてはならないなどと言う話はそもそも出てきてませんし、ご自分の論理を強引に通そうとしないでください。そもそもここで話し合われていたのはまず井上論文を根拠とする分割提案は妥当かという議論であって、ご自身の提案でもあることですし、それに集中してくださいませんか。現状の記事に加筆をなさりたいというのであれば、つまりもう分割提案は撤回と言うことでよろしいんですよね?そこのところをまずはっきりさせましょう。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 14:31 (UTC)[返信]
加筆するのは、山田欣吾の論へと仲介するものとして、ベッケンフェルデの世俗化過程についてですよ。分割提案は、全体のバランス、分量についてのものです。その根拠は井上論文だけでなく、
  • 新保弼彬「世俗化理論の歴史的展開とその諸相(1)」九州大学言語文化論究 (通号 5) 1994でも、「10世紀から20世紀にかけて」の世俗化、また「中世の叙任権闘争に始まり,16, 17世紀における宗教の分裂と内戦を通じて, ヨーロッパの宗教的・政治的統合体が徐々に 世俗化され,やがては政治的・社会的秩序へ と再編されていく幾世紀にも亙る歴史上の過程を見てきたわけであるが,この発展の流れ を近代的な意味における政治国家の成立に向 けて一挙に転換し,その極に到らしめたもの は言うまでもなくフランス革命であった。」とフランス革命を重視しています。
  • 山野一美「政教分離」日本大百科全書(ニッポニカ)小学館 
  • 世界大百科事典第2版「政教分離」

でも、ベッケンフェルデの論文での中世叙任権闘争以降として論じています。もう一度いいます。中世叙任権闘争、宗教戦争、近代の革命の3つが政教分離の画期であると上記情報源に書いてありますが、それに賛同しないのですか?ベッケンフェルデを採用せず、山田欣吾は採用するというならば、山田欣吾はどこを政教分離の画期と見ているのですか。というか、ベッケンフェルデと山田欣吾が違う歴史認識であるとしても、両方の学説を紹介すればいいだけです。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 14:49 (UTC)[返信]

そもそもベッケンフェルデを読んでいるのですか?私のもとには今『法の理論22』があり、桜井訳のベッケンフェルデ当該論文もあるわけですが、あなたはそれをしっかり見てベッケンフェルデの話をしているのですか?ベッケンフェルデと山田欣吾『教会から国家へ』も手元にあり、確認できる状態なのですか?そうであるならば具体的なページ数を指摘しながら議論しますが、前にページ数を言っても読みもしなかったうえに真っ向から否定したじゃないですか。ネットで手に入るレポジトリ論文ではないのでコピペできないのですから、引用しきれないので要点をかいつまんで議論せざるを得ないのですが、そこのところはまず可能かお答えください。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 14:59 (UTC)[返信]
私が読んだのはすでに挙げたように新保論文に紹介されたものです。山田欣吾の本は高価ですし、図書館にも所蔵されていないので、入手できません。しかし、「要点」といわれてまた演説をされても、どうにもなりませんね。山田欣吾が「イエス、アウグスティヌス」または「霊性史」として、その本で論じているのか、論じているならば、ページ番号を書いてくれということです。そして、いつまでも回答しませんが、「叙任権闘争、宗教戦争、近代の革命」の3つが政教分離の画期であると上記情報源に書いてありますが、それに賛同しないのですか?--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 15:13 (UTC)[返信]
それについてはもとより反対などしておりませんし現状の記事も否定しているようには思えませんが、それは単に画期に過ぎません。日本史が「大化の改新、建武の新政、明治維新」といっているようなものです。画期だけを抽出して書いても意味がありません。文献がないならば、ページ数と要点だけ言っても演説したとか断じなさるのでしょう?それでは議論になりません。とりあえず基本原則として「ヨーロッパでは政治ないし国家の『脱宗教化』、『世俗化』がなされ、宗教と政治の分離という原則が確立されるに至った」という点は共通理解でよろしいですよね?--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 15:22 (UTC)[返信]
原則としては当然賛同しますし、私の文章でもそれと矛盾せずに書いています(世俗化についての加筆は貴殿に反対されているため加筆していませんが)。本文に書く場合は、きちんと出典を脚注にして具体的なページ数を明記してほしいといっているのです。その上で、あまりに古代中世のデティルを説明し、関連性もよく分からない本筋から離れたものまでも詳細に書いてあるのは、バランスが悪い。また、しばしば、本当に出典に書いてあるのか分からない「エッセイ」とも疑われるものが混在していることを問題としているのです。「演説」といったのは、ノートでこんこんと述べられても検証できませんし、そうしたことは本文にきちんとした形式で書いていただければいいのです。カロリングルネッサンスにしても政教分離の歴史として重要な画期であるとどこかに書かれてあれば、記載に反対しません。しかし、その上でも、なお分量の問題があり、いくつかのサブ記事を作ること、あるいは、世俗化などの別の概念の記事にしたらいいのではないかということです。基本的に、この記事は、近代でいう狭義の政教分離原則の歴史の詳細についての記事であるべきで、その前史としての古代中世からの世俗化については別記事で書くといいのではないかということです。世俗化>政教分離>ライシテetc.という記事関係上の構造にすべきでしょう。フランス革命が画期であるとしても革命の細かな過程をここで膨大な分量で書くよりも、それはフランス革命記事に委ね、ここでは政教分離原則の発生について最小限必要なものにとどめるべきでしょうし、現在の版でも実際に最小限にとどめています。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 16:44 (UTC)[返信]
論点がかみ合ってませんので、まずは下で提案した議論の仕切り直しに同意をお願いします。121.107.209.16さんは論点を小出しにしたり、議論の途中で別の問題を提起したりされており、さらに名前空間側の編集を同時に行うなどされています。そういうことをされると私の側で議論の論点整理に困難が生じることから、仕切り直しましょう。ご同意を頂ければと思います。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 17:01 (UTC)[返信]

本論の議論を経ずに貼られた独自研究タグについて

本論の議論や分割などの重要な議論の最中にもかかわらず、本論が確定せねば議論にならない各論の項目について、みだりに独自研究タグをはりつける行為は明白に議論妨害で議論を攪乱させます。まずは本論の出典、分割議論を確定させた上で、骨組みを組み立ててから各論の文献情報などについて確認すべきです。議論の焦点をぼかし、攪乱する原因となります。よって独自研究タグをはがします。本論の議論が終わってから各論について検討しましょう。--2001:268:C068:C252:EC34:AF2A:EBB7:F6F8 2017年2月22日 (水) 18:09 (UTC)[返信]

記述を差し戻そうとしましたら、議論中にもかかわらず、121.107.209.16さんがタグ貼り付けだけでなく、勝手に編集行為を行い加筆しているのを発見しました。これは明確な議論進行の無視と思われますし、編集合戦になりかねない重大な危険行為です。よって記事を議論開始時の状態に戻します。以後121.107.209.16さんはこのようなことを絶対になさらないでください。--2001:268:C068:C252:EC34:AF2A:EBB7:F6F8 2017年2月22日 (水) 18:15 (UTC)[返信]


Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと#独断でメンテナンス用テンプレートを剥がそうとすることを読んでください。出典が明記されていないのですし、議論中だからテンプレートをつける必要があります。問題を解決してから、はがしてください。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 12:49 (UTC)[返信]

出典をつけた加筆について理由なく、しかも削除を提案することなく、削除するのは、白紙化といわれるもので、Wikipedia:荒らしの典型です。荒らし行為はやめてください。 荒らし行為はやめてください。これ以上続ければ、ウィキペディアの編集ができなくなる投稿ブロックの対象となります。ご注意ください。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:17 (UTC)[返信]

2001IP氏が削除した文章ですが、

962年にオットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により「ローマ皇帝」に戴冠され、この神聖ローマ帝国以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家となり、最盛期に教会は莫大な土地を領有し、教皇の世俗的権力が強大となった[1]。中世では国家と教会が密接に結合しており、公認の宗教以外は異端とされた[2]。しかし、その後の叙任権闘争、宗教戦争、フランス革命の3つがヨーロッパにおける政教分離の展開における重要な画期となった[3]。宗教改革や初期資本主義の進展によって、教会権力と国王権力が対立し、近世に国王権力は絶対君主制を樹立した[1]。しかし、それも18世紀のフランス革命以降崩壊し、宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度が広まった[2]。アメリカ合衆国でも宗教的理由で迫害された人々が移住してきた歴史があるため、建国以来政教分離の原則が確立しており[4][5]、アメリカ合衆国憲法修正1条では国教の設置が禁止された[6]。(ただし、公定宗教は認められており、英国国教会、アメリカ合衆国大統領の就任式宣誓などは政教分離の原則違反にはならない)[6]。

現在、多くの国で、信教の自由を保障するための政教分離原則が人権宣言や憲法で保障されるようになっている[1][2]。

これのどこがなにを理由に削除されるべきなのですか。山田本を利用していないからですか?

そして、フランス革命以降のフランスにおける法制の動向、そして米国の動向について削除するのも、滅茶苦茶すぎて話になりません。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:29 (UTC)[返信]

また、年表を削除した理由も不明ですし、いずれにしても、不当な白紙化に該当します。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:40 (UTC)[返信]

そもそも内容の妥当性とかの前に、まず議論中は編集合戦になるような行動を慎みましょうよ、という当たり前の話だと思うんですけど、そういう最低限の礼節みたいなものも期待しちゃいけないんですか?まず議論中はとりあえず記事内容を現状維持しましょう。議論も現状の記事内容について何ですから、議論当事者同士が議論途中で好き勝手に加筆し始めたら議論も錯綜しますし、無用な対立になりますし、議論も混乱するでしょう?--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 13:43 (UTC)[返信]
礼節をいうなら、出典くらいつけましょう。しばらく待ちますので。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:46 (UTC)[返信]
根本的な問題として、この記事ちゃんと参考文献挙げてますよね?はっきり言えば、121.107.209.16さんが現状の記述の参考文献や出典も確認せずに、ただ単にごねているようにしか私には思えない。私はすでに関係論文も挙げて、現在の記述はとくに問題ないということはちゃんと提示したはずですが。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 13:58 (UTC)[返信]
私が出典の明記といっているのは、本文中に注釈を挿入するという意味です。参考文献があるといっても、どの記述がどの文献を出典としているかは、明示しなくてはなりません。これは学術論文でも基本でしょう。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 14:05 (UTC)[返信]
具体的に争点のある箇所について出典の明記はなされるべきです。しかし、一般的に常識と考えられていたり、一般常識でなくてもその分野で前提とされているものなどについていちいちの注記を要求するというルールではないと思われます。そういった事柄については参考文献、あるいはノートなどの議論において他の文献で相応の記述が確認されれば普通は妥当と見なすのがウィキペディア的には正しいあり方ではないでしょうか。しかるに、121.107.209.16さんはしかるべき争点を提示せずにいたずらに出典の明記を求めているようにも思え、さらに争点に対して回答が得られても文献と一字一句も同じでなければいけないというような極端な論理を展開しているように思われますが、これは大変問題があることのように思われます。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 14:12 (UTC)[返信]


歪曲しますね。コメント依頼すればいいでしょう。「一般的に常識」というのが怪しいのです。挙げた箇所だけでなく、脚注でつけられていない箇所は、私的なエッセイが多いです。

近代的な市民社会とそれに立脚した近代的な国民国家は、近代の西ヨーロッパに成立したものであるが、中世の西ヨーロッパ世界においては国民を単位とした政治社会は希薄であった。そこでは、古代ローマ帝国の帝権の延長線上に自身を位置づけ、世俗世界での至上権を主張するドイツの皇帝と、キリスト教信仰と教会組織を持ち不可謬権と聖書解釈を独占しようとするローマ教皇が、それぞれローマ法とカノン法という独自の法を持ち、権力と権威を二分していた。したがって国民を単位とする政治社会である近代国家が生起するためには、帝権と教皇権を超克していかねばならず、特に「国家の中の国家」と言われた教会組織の取り込みあるいは克服がなされねばならなかった。

「国家の中の国家」と言われた教会って、誰がいっているのか、明記すべきです。

そして、霊性史としては、

今日の欧米では、国教制をとるにせよ(イギリス)、公法上の法人格を与えるにせよ(ドイツ)、私法上の組織として扱うにせよ(アメリカ・フランス)、国家と霊性を分離し、信教の自由を認めるのが一般的であり、むしろこのような自由が認められない諸国に対して批判的である。しかし、今日の保守主義思想はしばしばこのような宗教(的な倫理規範)と政治との乖離状態を批判し、宗教の持つ公共性への見直しも進められている[* 7]。たとえば2005年10月28日に出された「自民党新憲法草案」が事実上の政教分離の緩和を目指しており、教育現場での神道教育の導入につながるのではないかという懸念がカトリック教会などから提示されている。[18][19][独自研究?]。そのため宗教と政治の関係を単純な公私の関係で割り切ることはできなくなりつつあるといえる。[独自研究?]

と、唐突に自民党批判。とくに、「今日の保守主義思想はしばしばこのような宗教(的な倫理規範)と政治との乖離状態を批判し、宗教の持つ公共性への見直しも進められている。これはいわゆる愛国心教育に関わる問題である」はエッセイでしょう。

正教会の箇所は、「政教分離の歴史」との関連がまったく不明です。山田を読め、といいますが、それのどこのページに書いてあるのかさえも書けないという、本当に読んだのか?という疑念もわいてきます。他人は検証できるように、ちゃんと脚注をつけてください。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 14:30 (UTC)[返信]

まずそこは今まで議論に出てきていませんし、そうした個別事例の問題であれば、そこから論じればよいのに、分割提案という形で話をしたのは121.107.209.16さんのほうです。121.107.209.16さんはそもそもそういった個別議論を展開していたのではなくて、まず古代中世に政教分離がさかのぼることの出典を求めていましたよね?分割提案をしながら個別に記事内容を検討するなんてことは正直不可能ですから、まずはいっぺんに論点を出したりしないで、個別に争点を解決していきませんか?まずご自身の出された分割提案の議論に集中しましょう。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 14:38 (UTC)[返信]
厳密にいえば、これらは分割提案とは別件です。分割するにしても、出典のない「個人的なエッセイ」は、削除を検討されるべきものです。分割するにしても、分割前に情報源が確認できなければ削除すべきものです。個別に争点を解決していくためにも、こちらはこちらで回答してください。何度も言いますが、出典のない記述は、独自研究といわれても仕方ないです。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 15:06 (UTC)[返信]
現在の記事内容の分割議論の途中で別件についても議論をするというのはとても無理です。まず分割議論に集中しましょう。お願いします。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 15:11 (UTC)[返信]

質問 本記事をざっと読んだ限りですが、本記事の記載内容は「政教分離の歴史」というよりも「西欧におけるカトリック教会と国家の関係史」といったほうが良いのではないでしょうか。私は、まず記事名を前者から後者に変更したほうが話がスムーズに進むように思います。すると、世界中における宗教と国家の関係に応じて、例えば正教会については「東欧における正教会と国家の関係史」、日本においては「日本における宗教と政治の関係史」などとそれぞれ記事を立項することができます。これらをまとめた上位記事として、「宗教と国家」とか、それこそまさに「政教分離の歴史」などという記事を立てることができると思うのですが。--Susuka会話2017年2月24日 (金) 15:27 (UTC)[返信]

私はそもそも政教分離の歴史という記事名がまずいと思っております。これは政教分離がもともと国家と教会の機構的分離をいうという点では正しいのですが、政教分離というとどうしても近代的な政教分離原則を意識してしまいます。だから古代から話されたり特殊専門的な「霊性」という言葉が出てくると「?」となりますよね。意味は変わらないのですが、「聖俗分離の歴史」とすればだいぶ違和感はなくなる気はします。「西欧におけるカトリック教会と国家」というのに似た意味として「中世の国家と教会」というのも私は考えたのですが、こうした関係の意味を必ずしも明確にしない記事名は、これはこれでなんとなく別の方面から問題点を提起されそうな気もします。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 15:38 (UTC)[返信]
私が「分離」という言葉を外したのは、政教「分離」の前段階として政教「一体化」といってもいい歴史的進展に結構な分量が割かれており、必ずしも「分離」のみを書いているわけではないためです。ならば、「国家と教会の関係」というテーマ史として(その関係の近疎・上下を問わず)語れるようなタイトルにしたらよいのではないか、と思った次第です。ちなみに、テーマ史が時代別に分割された前例としては『世界の一体化』が挙げられます。--Susuka会話2017年2月24日 (金) 15:52 (UTC)[返信]
わかります。その点私も迷ったのですが、一方で結合から分離方向へ向かうという方向性においては逆はないので、その点を明確にしないと何かしら問題が出そうかなと。世界の一体化も一体化していくという方向付けがついていることで歴史記事としてうまく収斂していると思いまして。聖俗分離の歴史のいいところは、率直に言って「聖俗」という言葉が特殊学問的響きに近いので、歴史学的意味における記述内容であるこということにおそらく誤解が生じないということかなぁと。実は神学の側はこういう歴史学的見方に対して否定的です。国家とカトリック教会ってやるといずれ神学側から「いやちょっとそこは。」的なものがかなり出てくると思います。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 16:03 (UTC)[返信]
世界の一体化の先例は非常にいい例ですね。私もそうしたことを言いたかったのです。中世の国家と教会として分割に同意されるならば、私もそれに同意できます。私は「ヨーロッパにおける世俗化」の方がいいと思いますが。また、宗教改革については提案している通り、さらにまた別の記事にしたらいいでしょう。神学側の批判についてですが、それは批判があると紹介すればいいだけではないでしょうか。あるいは、個々の歴史認識で評価が全面にわたって異なるのであれば、それもそれぞれ個別の箇所で併記すればいいでしょう。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 16:58 (UTC)[返信]

しきりなおし

議論が錯綜してますので、一度仕切り直しを提案いたします。利用者‐会話:アルトクール#解決の参考を教えて頂ければと思います。で頂いた助言から私なりに以下の流れでの議論を提案いたします。

  1. 既存の分割提案、出典要求、改名提案などすべての議論を中止、無効とする。
  2. まず記事が歴史記事であるということから、とりあえず「国家と教会の分離の歴史」に対する歴史学的成果を中心に記述されることを確認する。
  3. 次に現状の「政教分離の歴史」というタイトルの妥当性を考慮し、必要であれば歴史学的記事としてふさわしい記事名に変更する。
  4. 記事の内容を精査し、節ごとに参考文献・出典を確認しながら歴史学的記事としてブラッシュアップする。
  5. 必要であれば分割する。

以上、ご同意頂けますでしょうか。議論が拡散し、保護依頼中にもかかわらず、標準名前空間側の編集行為も行われており、編集合戦につながりかねませんのでこの記事の議論について、この流れで了解を取りたく思いますが、議論の提起者である121.107.209.16さんの合意をいただきたく思います。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 16:53 (UTC)[返信]

1の「無効」は反対します。しかし、議論の流れ次第ではもちろん取り下げもありえます。また、4のブラッシュアップのための期間を要求するということであれば、中止は合意します。2は、歴史の記事であるからといって、歴史学以外の、例えば法学や、あるいは現代史を書くための新聞記事などを利用することを不可とするのであれば、反対。記事名の件は、具体的な記事名をいってください。4、5は同意します。(しかし、5と1が矛盾していませんか?)--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 17:05 (UTC)[返信]

議論の流れの話です。1→5の流れで議論を進めることをご了承くださいませんか?歴史学以外の内容についてはこの記事では盛り込まず、とりあえず別にするという形にしないと議論になりませんので、そこをまず了承してください。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 17:09 (UTC)[返信]
この記事では近代以降を扱うべきではないといっているのですか?--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 17:13 (UTC)[返信]
違います。歴史学的見地から大枠を構成すること、古代・中世・近世・近代においてだいたい何が記述されるべきかの基本的な部分は歴史学的文献によることを合意しようという話です。具体的には大枠のフレームとしては『教会から国家へ』で提示されている国制史的理解が現状もっとも歴史学的には受け入れられている(この点については異論はなかったはずです)と思われますので、それを用いることを想定しています。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 17:17 (UTC)[返信]
『教会から国家へ』が「政教分離の歴史」として書かれているというのであれば、脚注を用いて明記してください。アルトクール氏の助言にあるように、分割提案と出典要求とでは、出典の明記の方が先に解決すべきなのは確かです。もし出典を明記するブラッシュアップをこれよりなさるのであれば、一ヶ月(あるいはどれくらい必要か目安をいってください)ほど議論や分割提案を停止するのは賛同します。しかし、待ってもブラッシュアップされない場合、また出典が明記されない「エッセイ」にとどまる場合は、その時にまた対処します。近代以降に関して、歴史学以外の情報源を使用してはならない、というのは同意できません。Wikipedia:信頼できる情報源には複数の出典を使用することが好ましいとありますし、法学者だからエルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデの「世俗化過程としての国家の成立」は使えない、となるのですか?井上論文が使えないというのであれば、それについてもまた議論しなくてはなりませんし、明確に反対します。また、百科事典を利用してはならない、というのは、ウィキペディアが百科事典であることを理解されていないのではないでしょうか。ウィキペディアは学術論文でも名鑑でもありません。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 17:40 (UTC)[返信]
勘違いがあるのですが、『教会から国家へ』はベッケンフェルデの理論を引き継ぎ、発展させたもので、しかも両者ともに「国家と教会の分離が近代国家の成立」であるということでは共通しているだけでなく、じつは他の国制史家もこの点はすべて基本的に一致しているのです。そのうえで日本ではその国制史モデルの典型として『教会から国家へ』はスタンダードとしていつも言及されています。要は学界で最も受け入れられているのです。ベッケンフェルデの議論の足りないところを補って完成させたのが『教会から国家へ』だという了解で、両者を切り離す必要はありません。井上論文うんぬんについては競合しないよう、法学的な憲政史的意味の政教分離原則の歴史と法制史的な各国の政教分離関連法についてはそれこそ政教分離原則の歴史という記事を作って別個にすることで収容可能と考えております。こちらは当面政教分離の歴史としますが、歴史学的見地の「国家と教会の分離」という意味での政教分離の歴史とし、おいおい必要であれば改名していくという流れを想定しています。百科事典的にも二つの領域について混線することなく記述でき、大変整理されると思われます。どうでしょうか?--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 17:50 (UTC)[返信]
要は民事法の専門家の井上修一さんとドイツ国制史家山田欣吾さんの論文を重ねても扱っている時代もテーマも学問領域すら全く違うので、論点は重ならないので議論は平行線になります。どっちも盛り込んで喧嘩させたような記事を作るという無理をするのでなく、どちらも独立した別個の記事で汲み取るという共存をするほうが百科事典的には適切であると私は提案します。どちらも大切であるということは双方変わらないということはここまで合意できていると思うからです。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 17:58 (UTC)[返信]
それでは振り出しに戻るだけではないですか。ベッケンフェルデを『教会から国家へ』が継承発展させたのだろうとは周辺情報からも推定可能ですが、しかし、そもそも、『教会から国家へ』を聖典にして、それ以外を異端とするような言い方はWikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化するに違反します。山田欣吾以外を出典として用いると論旨が崩れるようなものを書こうとしているのでしょうか?そうであれば、それは特殊な解釈であり、特殊な証拠が必要です。歴史学以外の文献を使用不可とする提案には断固反対しますし、「しきりなおし」提案にも反対します。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 18:02 (UTC)[返信]

聖典化してありがたがろうということを言ってるのではなく、国制史的理解の「信頼すべき情報源」として扱おうという話です。法制史的理解や憲政史的理解についてまでいっておりません。しかし文献の話はとりあえずおきたいと思います。肝心なところはそこにないからです。まず歴史学的な政教分離の歴史と法制史・憲政史的な政教分離原則の歴史を分け、こちらには歴史学的な意味での国家と教会の分離史だけを書くことにしようということだけ合意しましょう。そこから整理しましょう。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 18:08 (UTC) ちなみに具体的に歴史学的にこの記事が書かれていることを記事内で明記し、憲政史的意味については別項にあることなどを配慮して記せば、中立的な観点的にも問題ないと思われます。観点記述の帰属化・明確化という点は問題ないからです。名称的に重複すると思われる事柄でも必要であれば分野別に記事を立て共存させることができるということはウィキペディアは基本的に認められています。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 18:14 (UTC)[返信]

ですから、それだと振り出しですので、反対します。「歴史学的な政教分離の歴史と法制史・憲政史的な政教分離原則の歴史を分ける」根拠がありません。「歴史学的な意味での政教分離の歴史」が果たして、2001IP氏のような意味が「学会の定説」なのか、歴史学事典などではどのように記載されているのか、明示すればいいだけです。明示しないで演説ばかりされてもお互い無駄な浪費です。素直にまず出典を明記すればいいだけです。改めてKanbun版を読んでも、実に出典が書かれていないし、なんとなく思想史に興味がある人が関連性を明確に説明しない(できない)ままに、趣味的に恣意的に書いているようにしか見えません。しかし、ベッケンフェルデについての紹介論文(新保)を読むと、10世紀以降の世俗化から政教分離原則の法制化までの流れを納得できるわけです。私はインターネットでも確認できる情報源を提示して相互に確認できるよう努力してきました。しかし、あなたは本を持っていると主張するわりに(確認できないことです)、脚注で明記できないのは、やはり「政教分離の歴史」として書かれていないからではないかと疑わざるをえない。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 18:27 (UTC)[返信]
だいいち、「しきりなおし」と称して、議論が拡散しているだけです。#本論の議論を経ずに貼られた独自研究タグについてでは合意案を提示しているのに、それには答えようとしないのはなぜですか。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 18:31 (UTC)[返信]
では121.107.209.16さんは「歴史学的な政教分離の歴史」と「法制史・憲政史的な政教分離原則の歴史」を分けることに反対ということですね。とりあえずここは一度平行線と言うことにしましょう。まずはこの点について今後一致点を見つけるためにじっくり話していきましょう。それまでは他の議論はとりあえず中断でお願いします。この論点が解消されないと次の議論がそもそも成り立たないと思われますから。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 18:33 (UTC)[返信]

まず記事内容については一致点がないので、議論は長引きそうなことが予想されます。そこでスムーズな議論進行のために以下の2点を最初に合意するのがよいと思われます。

  1. 記事内容にどのような学問の成果が反映されるべきか議論で合意されるまでは一連の編集合戦前の「2017年1月18日 (水) 12:03‎」の版を保存し、タグの貼り付けや加筆などはしない。
  2. ただし、記事の出典がわかった場合は既存の記述の脚注の付記だけは認める。

1点目につきましては議論途中で記述が増加したりタグ貼り付けが行われると議論が攪乱されるため、名前空間をなるべく議論に即した状態に保つとともに、編集合戦を防ぐと言うことを意図しております。 2点目につきましては付近の記述の脚注に明記されているものを含め一応いくつか参考文献を手元に集め、確認したところ記事の記述の出典がほとんどわかったので、長引く議論の間に記事に脚注を追加していくことで、あらかじめ議論の絞り込みが可能と思われるためです。いくつか入手困難なものについては取り寄せなどしておりますが、今時点の判断で言えば、かなりの記述の出典は特定できる手応えがあります。 そういうわけで、以上二点について遵守頂くということをまず合意して議論に戻りたいと思いますが、いかがでしょうか。--2001:268:C068:F634:65A8:E026:8D64:8652 2017年2月25日 (土) 04:53 (UTC)[返信]

1は反対。問題があるからタグ付けを行うのですし、ノートでの議論に参加者を募る意味でもタグ付けや分割告知は必要です。また、私が加筆した部分について、何の問題があって削除しようとするのですか。「編集合戦」になるのは、議論も告知もなしに貴殿が削除するからです。自分だけがこの記事の編集権があると主張するようなことは、ウィキペディアでは不可能です。新保論文についても加筆を控えるようにいわれたままですが、いつまでも自分の「編集権」を主張するのはやめてください。私も今後必要あれば加筆もするし、タグ付けはしていきます。現在、合意不可能で平行してすすめるしかないといわれていますが、私の編集も、貴殿の編集も、他の方の編集も、制限されるべきではありません。ただし、これよりいままで出典がついていなかった箇所を修正していくということであれば、それまで私の方からは編集を控えることは考慮してもよいですが、2001IP氏の言い分に完全に同意したのではないし、編集はオープンであるべきでしょう。工事中テンプレートを貼ることに反対はしませんが、どれくらいの時間が必要なのかを明言してほしいです。半年間待ってくれといわれても困りますので。通常は工事中テンプレートは3日ほどです。しかし、すでにいったように私は一月ほど作業に時間がいるというのであれば、待ちます、といっています。これは相当の譲歩であるということはご理解ください。--121.107.209.16 2017年2月25日 (土) 15:25 (UTC)[返信]
疑問なのですが、独自研究タグなどは、出典が脚注などで明示された時点で削除していけるものです。それだけのことなのに、他人にのみ編集を遠慮してくれと要求するのは真意が分からないです。自分の論文とみなしているのか、勘ぐらざるをえませんが、それは記事の私物化といっていいですよ。--121.107.209.16 2017年2月25日 (土) 15:34 (UTC)[返信]
「政教分離原則の歴史」と「政教分離の歴史」とを分けるという提案についてですが、政教分離原則#歴史を確認しますと、ここの記事の要約のような内容になっていました。出典もほとんどなく、独自研究としか思われない内容の記載もあります。これを2001IP氏が書いたのでしょうか。もしそうであれば、政教分離原則政教分離の歴史という構造になっているのであり、それをさらに政教分離原則の歴史を設置してしまうと記事の関係がまったくわからなくなります。やはり、「中世ヨーロッパの国家と教会」という記事に移動し、ここは叙任権闘争、宗教改革、近代の革命という画期について書くということが一番効率がいいですが、この件について反対なのか、賛成なのかを全く答えようとしないから、会話になっていないのです。それと、アルトクール氏の所でのコメントで私が「ネットで確認できないものは信頼できる情報源ではない」などと主張しているみたいな歪曲をされていますが、これは完全な誤解、というより意図的としか思えない、つまり悪意ある歪曲です。私は山田本も他の大学紀要論文もいずれも有効といっています。他人の発言を歪曲して第三者に伝えるあなたの行動に、私は不信感を抱かざるをえません。歴史学の文献だけを採用し、法学文献は使用できないという提案に反対ということで、歴史学であっても、法学であっても、あるいは新聞でも、きちんと内容との関連性があれば、記載可能です。--121.107.209.16 2017年2月25日 (土) 16:09 (UTC)[返信]
「政教分離原則の歴史」についてまとめるのが方向性として良さそうに思います。現状では宗教史のうちwikipedia編集者が政教分離に関係しそうだと独断で判断した事例を列挙しているだけであり、それが政教分離に係累する事例にあたるのかどうか2次史料、3次史料から裏付けが取れない状況にあります。なにより困るのは政教分離原則に関して記述している信頼できるほぼすべての論文が古代キリスト教だの中世キリスト教普遍世界だのに言及しておらず、wikipediaに加筆された膨大な情報についてはたして一読者として「こんなもの読む意味あるのか」と不安になってしまうことです。政教分離原則にも加筆したのですが[1]【一般的な理解としては政教分離と信仰の自由の保障は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる】ものだと思います。その周辺からの加筆が常識的であり、せいぜいそれ以前について加筆するについても信頼できる2次情報、3次情報に基づくべきでしょう。--大和屋敷会話2017年2月25日 (土) 20:13 (UTC)[返信]
「一般的な理解としては政教分離と信仰の自由の保障は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる」については、この中でいう政教分離が厳密には政教分離原則を指しているということを念頭に置けば、一般的理解として歴史学でも共通しております。多くの政教分離原則に関わる学問は近代以降のことを扱うので、こういう共通理解は伝統的であり、その点についてはおっしゃるとおりです。しかしながら歴史学ではそうした政教分離原則そのものを近世における特殊事象としてだけでなく、先行する古代中世ヨーロッパの政治社会そのものに広く存在した社会構造の進展の産物として把握しています。そのために国家と教会の分離という意味での政教分離という視点で国家の世俗化過程を問題にします。ベッケンフェルデ論文のように叙任権闘争を世俗化第一期、一般的な意味での政教分離原則の成立を世俗化第二期という形で理解するのはいまのところ学界では共通理解であり、それは山田欣吾『教会から国家へ』でより明確な形で言及され、基本的にはその問題関心と枠組みは学界共通のものとして共有されております。山田欣吾はベッテンフェルデが指摘した世俗化の過程の前段階としてカロリング朝の政教一致体制が重要であることを指摘し、カロリング朝国家を「教会」であると位置づけました(教会国家論)。そしてヨーロッパの長い政教分離過程の出発点にカロリング朝的教会国家体制をおき、9-11世紀におけるその展開と12世紀以降の世俗化過程という形で整理した枠組みを提供しました。個別論点について細かい相違はありますが、国家の世俗化過程、政教分離過程の大枠そのものに有力な異論が存在するということはありません。その点については121.107.209.16さんが間接的に証明してくださったものと私は思っております。文献上の言及は多数ありますが、直接的に山田欣吾『教会から国家へ』のこの分野での影響力を伺わせるものとしては、現在のところ包括的なカール大帝期のカロリング朝研究の決定版ともなっている五十嵐修『王国・教会・帝国』での言及と修正(キリスト教帝国論)を見てもわかりますし、ビザンツ帝国での政教関係において重要な示唆を与えている大月康弘『帝国と慈善 ビザンツ』も山田の教会国家論をスタンダードに山田が立論に当たって参照したベックの議論を発展させる形で議論しております。そのうえで近代的な政教分離原則に関わる信教の自由という点では、かねてより古代のコンスタンティヌス帝とリキニウス帝によるミラノ勅令が知られており、これに関してはキリスト教成立から勅令による古代における信教の自由の確立までを精緻かつ浩瀚に描き出した保坂高殿さんの研究があり、信教の自由の問題は歴史学的には近代国家におけるそれの成立にとどまっておりません。この研究は現状独立している感があり、カロリング朝以降へのつながりには空白があり、明確でないのですが、歴史学的な政教分離の問題関心はすでに近代国家成立という一事態を越えて、ヨーロッパ史上の社会全体における国家と宗教の関係を問うという広がりを見せております。こうした歴史研究の蓄積と2000年以降近年における展開を考えますと、狭い意味での政教分離原則の成立史とは別個に、この国家の世俗化過程全体についてはとくに政教分離原則そのものの成立史とは独立して書かれる必要性があると思われます。そもそも「【一般的な理解としては政教分離と信仰の自由の保障は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる】もの」という点に関しては別して憲政史や法制史など直接的に近現代に関わる研究はあるものの、むしろその研究分野を考えれば、政教分離原則の歴史節に収めることは十分な可能なように思われますし、そのような記述に対して、分量的な問題があっての分割の必要性を除き独立させる必要性を感じません。それに対し、この記事で述べられている歴史学的な内容については政教分離原則の歴史の一般的理解とは位相を異にする歴史学的な研究展開と動向が記述されており、別個の記事として十分成り立つ物と思われます。したがって、記事名としての「政教分離の歴史」は適切かという問題点はありますが、記述そのものについて一般的理解を理由に限定することは困難なように思われます。政教分離の文献を調べれば紛れもなく一般的理解についての記述が大半を占めることは以上の点からも十分予想されますが、だから国家と教会の分離の意味での政教分離の歴史として歴史学的な国制史理解などが中心になることはありえないというのは成り立ちがたいように思われます。--2001:268:C068:F634:616F:F309:54A6:F018 2017年2月26日 (日) 01:01 (UTC)[返信]

コメント とはいえ、一般的に「政教分離」といえば第二期の「政教分離原則」がメインですよね?そういう読者が「政教分離の歴史を知りたい」という動機で『政教分離の歴史』の記事を閲覧したら、「何故、古代から延々とこのような議論をしているんだ?」と思ってしまうでしょう。ですので例えば、歴史学的に「政教分離」はいわゆる近代の「政教分離原則」と中世ヨーロッパにおける国家と教会の対立と分離(叙任権闘争など)の二つを扱う考え方が主流になっている、という上述の説明を記事の冒頭で説明するべきでしょう。その点について了解したうえで記事割りですが、

一例として提示します。--Susuka会話2017年2月26日 (日) 02:54 (UTC)[返信]

Susukaさんへの返信。他の関連記事との関係性はほかでの議論もありそうですから、とりあえずおいておいて、私は基本的には『古代から中世にかけての政教分離』に近い形(ほかにも改名の候補はありますが)で本記事を改名するのが適切であると思っています。「政教分離の歴史」という現在の名称自体にまず混乱の原因があるという点では一致しているように思えます。--2001:268:C068:F634:616F:F309:54A6:F018 2017年2月26日 (日) 03:07 (UTC)[返信]
わかりました。記事の体系的な整理の議論については、しかるべき場所とタイミングにて行うとしましょう。まず本記事の改名を行うのには賛成ですが、そうなると近代の箇所や日本の政教分離の箇所の転記も同時に行う必要がありますね。--Susuka会話2017年2月26日 (日) 03:11 (UTC)[返信]
はい。その点は全く賛成です。私の「しきりなおし」節冒頭の議論の流れもそのようにすることを前提に提案しております。改名してからまず冒頭に「〈政教分離の歴史〉への史学的視座」のような概説説明をつけ、日本の政教分離うんぬんのあまり関係ないところはばっさり転記していくことを念頭に置いています。--2001:268:C068:C81F:1129:92DF:4EC4:A375 2017年2月26日 (日) 03:29 (UTC)[返信]
  • 「日本の政教分離うんぬんのあまり関係ないところ」の意味が分かりません。日本には政教分離の歴史がないという判断に根拠はあるんでしょうか?このあたりの独善的な「仕分け」が信用できない一番の理由なのですが。本記事の場合、「基本的視野」「歴史的展開>概要」の項目がすべて独自研究の公表になっており、「wikipedia編集のさいの基本的視野」がおかしいのだと考えます。ここでは投稿者の独自の哲学を開陳しているだけであり信頼できる二次情報・三次情報の裏付けがない、ここからしておかしいのだと思いますよ。--大和屋敷会話2017年2月26日 (日) 18:33 (UTC)[返信]
歴史学的な文献に基づいて、『古代から中世にかけての政教分離』に改名したら「日本の政教分離うんぬんのあまり関係ないところはばっさり転記していく」という話です。それとも寡聞にして知らないのですが、古代中世日本史でヨーロッパのような国家と宗教組織の分離というような議論がおこなわれていたのでしょうか。また歴史学の言う政教分離は「国家と教会の分離」の意味なのですが、日本にキリスト教が伝来したのは一般に1549年とされておりますから、古代中世という時代区分においては、日本が外されることは一般通俗的にもとくに問題がないように思われます。次に歴史学的な政教分離論についてはすでに文献を示しているので裏付けがないというのはただ単に大和屋敷さんがそういう文献を確認していない、そういう議論を知らないだけというように思えます。大和屋敷さんの挙げた文献がとくに歴史学的な政教分離議論をフォローしているものでないことはすでに説明いたしました。歴史学的理解そのものについても文献が挙げられていますし、そういう議論が歴史学的に十分認知・共有されていることについてもすでに十分な量の文献が示されています。--2001:268:C068:C81F:9C83:7E94:5D68:8492 2017年2月26日 (日) 22:15 (UTC)[返信]
  • 日本の政教分離の歴史について記述場所をなくすのはおかしいです。むしろアメリカの記述がそもそも無いのも違和感があります。中国やインド、イスラム(トルコ等)についての記述が可能な余地も残しておくべきです。キリスト教に焦点をおくにせよ政教分離の歴史について記述するばあい、一般的な視座としては叙任権闘争、宗教戦争、フランス革命(世界大百科事典「政教分離」)まででしょう。ついで各国法制史における政教分離の経緯が記述されるのが通常だと考えます。上にも書きましたがwikipediaの当記事のばあい「基本的視野」がそもそも独自研究でありおかしいのだと考えます。とくに「霊性史」を視座においてしまっているからこの部分で膨大な(そして関係があるのか無関係なのかwikipedianには判定しようのない)記述のコレクションが出来てしまっているのだと考えます。--大和屋敷会話) 2017年2月27日 (月) 04:14 (UTC)「古代から中世にかけての政教分離」というカテゴリについても、すくなくともそのような視座に立つ底本があって、それをもとに執筆するような態度でなければ独自研究を展開するだけになるので不安です。日本の場合でも奈良仏教・平安仏教から国家論がすでに展開されており(たとえば[2])それの要約を記述することは可能でしょう。また江戸期からの国学および神道における国家観は明治以降の政教分離に重大な影響を与えたわけですから、wikipedia読者(とりわけ日本の読者)の期待に沿う記事内容のはずです。かように考量すれば聖霊史をもとにしたキリスト教における国家観の歴史にのみ膨大な執筆スペースを用意できないことはご理解頂けるのではないかと考えます。--大和屋敷会話2017年2月27日 (月) 04:32 (UTC)[返信]
  • コメント 私が先に提案した『古代から中世にかけての政教分離』が念頭に置いているのは、本記事の記述の多くを占めるカトリックと西欧国家との叙任権闘争などについての話なので、一意に定まる記事名にするなら『古代から中世にかけてのカトリックと西欧国家との関係』といったところになろうかと思われます。さきに大和屋敷さんが挙げられた奈良仏教・平安仏教の例は『古代から中世にかけての日本における宗教と政治との関係』といったところでしょうか(これを「同時代だから同一記事」とするのは、さすがに無理があると思います)。米国については『アメリカ合衆国における政教分離原則』などという記事名でしょう。やはり、他の場所に議論を移すなどして体系的な議論を行うべきでしょうか。--Susuka会話2017年2月27日 (月) 05:37 (UTC)[返信]
Susukaさんと同様の意見ですが、少し違う点から指摘いたします。大和屋敷さんのいう政教分離が政教分離原則のことであり、現状ここで述べられている政教分離が歴史学的意味の国家と教会の分離のことであり、そもそも同じ政教分離といいながら概念としては違うということがあります。『古代から中世にかけての政教分離』という記事名に改名するという議論はそういう流れで出てきており、しかもこの点について現状の記述がその観点と異なる独自の研究であるという出典はありません。むしろ現状の記述が大枠において歴史学的理解に基づいた記述であることを裏付ける文献が提示されております。そのうえでそこに日本の記述が含まれないのは誤解を招くという議論であれば、日本の記述がなくても誤解しないような記事名を考えればよいのではないでしょうか。提示された文献についても直接的に歴史学的なものでないと思われますし、歴史学上の通説的理解と無理して並べるならば、むしろその研究がどれだけ一般的な影響力があるかという点について歴史学的見解に即した形で、大和屋敷さんが求められたように、ご自身で2次資料、3次資料での裏付けを考慮し、提示する必要があるように思われます。議論の場所としてもそれを行うのは政教分離原則のノートで、たとえば歴史節の内容の加筆候補として提示しておこなうほうが適切なように思われます。--2001:268:C068:E8C9:F0F4:5FE:2BE3:CD41 2017年2月27日 (月) 05:51 (UTC)[返信]
出典がない独自研究と疑われる記述を行っているのは2001IP氏です。以下の資料がWikipedia:信頼できる情報源に違反するということを証明しないと、あなたの主張は成立しません。
  • 新保弼彬「世俗化理論の歴史的展開とその諸相(1)」九州大学言語文化論究 (通号 5) 1994
  • 山野一美「政教分離」日本大百科全書(ニッポニカ)小学館 
  • 世界大百科事典第2版「政教分離」
  • 新 田 浩 司「政教分離と市民宗教についての法学的考察」『地域政策研究』(高崎経済大学地域政策学会) 第 14 巻 第2・3合併号 2012年1月 21頁〜 35頁
  • 井 上 修 一「フランスにおける政教分離の法の展開」佛教大学教育学部論集 第2 号(20 0年3月)
  • 佐々木弘道「合衆国憲法の政教分離条項」成城法学(64) , pp.79 - 98 , 2001-01 --121.107.209.16 2017年2月27日 (月) 14:24 (UTC)[返信]
  • コメント 今回の論争は、IP氏お二人がそれぞれ出典を提示して、「『政教分離の歴史』とはこういうものだ」と対立されているわけですよね?ならば、「『政教分離の歴史』については大きく見て二つの見方がある」と記載するのが、読者に対して誠実な対応であると思うのですが。--Susuka会話2017年2月27日 (月) 14:29 (UTC)[返信]

私も基本的に2つの観点を一つの記事で共存させるかはともかく、それぞれを個別のものとして読者にしかるべき形で提示するのが誠実な対応であるという点については全く同意見です。私から見ますと、121.107.209.16さんが現状の記述を執拗に否定し、そしてなぜか私が121.107.209.16さん自身の提示した文献を否定したように考えてらっしゃるように121.107.209.16さんが思われて、論争がどちらを取るかという方向で進んでいるようにおっしゃっているように思いますが、私はそういうことを言っているのではありません。私はそもそもこの記事の現状の内容に基づけば『政教分離の歴史』というタイトル自体が誤解を招いており、そのせいでしなくてもよい不毛な論争が発生しているように思いますので、この記事を歴史学的内容に純化し、しかるべき改名をすれば別して全体像としての政教分離の歴史なるものも新規作成可能であると思われますし、別に政教分離原則記事の歴史節という場所もあります。そうしたウィキペディアで用意されたいくつかの方法を用いれば、現在提示されている2つの観点は安定した形で両立共存可能であると思っています。1つの政教分離の歴史にこだわる必要はない、という立場です。--2001:268:C068:E8C9:10C1:D707:1DC2:ED6A 2017年2月27日 (月) 16:07 (UTC)[返信]

提案 例えば、お二人が『古代から中世にかけての政教分離』と『近代の政教分離原則』とを分担して作成することは出来ないのでしょうか。ここで論争を続けるよりは、余程Wikipediaの発展につながると思います。--Susuka会話2017年2月27日 (月) 16:32 (UTC)[返信]

ここで展開されているような無意味な循環論争を防ぐためにも一つの記事での二つの観点の共存は無理に望まず、現状の記事をより主題を明確化した『古代から中世にかけての政教分離』というようなものに改名して、別して『近代の政教分離原則』を設けるというような形での決着はよいと思われます。政教分離原則は近代的な寛容精神に基づくものですから、この議論の決着もウィキペディアの方針的に問題なければ検証可能な二つの観点に等しく寛容なものであるといいと個人的には思います。--2001:268:C068:CCA2:5913:8007:BF97:9301 2017年2月28日 (火) 11:59 (UTC)[返信]

差し戻し

別して編集合戦を理由として保護依頼された記事に関しては基本的にその編集合戦の始まる前の版が保存されることが適切であるように思われます。また直接的には121.107.209.16さんは分割とその後の差し戻しを問題として編集を行っており、編集合戦の主因はそこにあるものと思われます。しかるに、その後の分割提案についての議論最中に独自研究などの新たな観点を追加し、タグ添付を行いました。しかし分割議論と独自研究の議論を同時に進めることは率直に言って不可能です。まずは切り離して議論をする必要があり、そのため今回についてはそもそもの分割議論の始まりである「2017年1月18日 (水) 12:03‎」に差し戻し、その後の論点についてはまず必要とされる他の議論を片付けた上で行われるべきと思われます。さしあたってウィキペディアの慣例に則り「2017年1月18日 (水) 12:03‎」版に差し戻します。--2001:268:C068:F634:616F:F309:54A6:F018 2017年2月26日 (日) 02:51 (UTC)[返信]

何をしているんですか?分割提案も撤回していないし、出典が明記されるべきところを明記されていません。何一つ問題が解決していませんし、議論中だからこそ、議論の告知が必要なのです。それを削除するのは、このノートでの議論を隠蔽しようとすることに他なりません。私だけでなく、Susukaさん、大和屋敷さん、そしてアルトクールさんも助言やコメントをされているではないですか。ウィキペディアは皆で編集するものです。自分の書いたものを他人にいじられたくないならば、他のサイトでやる方が賢明ですよ。それから、学会に所属しているといっていますが、それはもはや何の関係もありません。実名で編集されているならまだしも、お互いに匿名です。学会に所属しているかどうか確認できない以上、いくら学会での「常識」を主張しても、その出典はありますか?という話でしかありません。あなたが本当に日本のヨーロッパ中世史学会の人であるとしたら、その学会での議論レベルはこの程度なのかと思いますよ。ウィキペディアは色んな専門分野を持ったひと、プロアマ含めて色んな人が編集できるシステムです。そのことだけはご理解ください。--121.107.209.16 2017年2月27日 (月) 14:12 (UTC)[返信]
121.107.209.16さんは何か高度なことを論じておられると思うのですが、私には少し論理の飛躍があってよく理解できかねます。隠蔽工作したかのような話はどういう証拠や状況に基づいているのかという点についての説明が私にはよくわかりません。隠蔽するような意図でないことは上で慎重に説明したつもりですし、もし私が後ろめたいことがあり、議論の隠蔽を仮に望むならば、アルトクールさんに相談をして議論自体の妥当性や方針的な問題点について伺い、わざわざ議論に注目を集めることは普通しないと思います。私の行動はアルトクールさんにアドバイス頂いた内容を自分で判断してあくまで議論進行の上のことであり、攻撃意図のないこと、通例のウィキペディアの慣行上も適切であろうことを考慮した上での判断であることを表明しております。またアルトクールさんの応答自体に根拠づけをおこなっているわけではなく、個人的な判断により、個人的な責任において行ったことであり、アルトクールさん自身は親身に話を聞いてくださっただけで中立的な立場です。私が「自分の書いたものを他人にいじられたくない」というような話もしきりに出てくるのですが、事実誤認であるということをまず主張するとともに、その点についてはどうしてそう思われるのかという点についての十分な説明がなく、この突飛な主張は悪意によるものとは直接的には思いたくありませんが、やはりどことなく印象操作のように思えてしまいます。もちろん私の主張そのものが分割提案に対して現状の記述自体を保護する意図を持っていることは否めませんが、それは「自分が書いたもの」だからというのは121.107.209.16さんの個人的感想にすぎません。私が歴史学界の話を出したのは私が歴史学界の権威を持ち出したり、個人的な歴史学界での立場などをひけらかしたりしたわけではなく、あくまで代表的な歴史学的著作に基づいて歴史学界での動向を一定の検証可能なものとして提示するためにおこなったのであります。直接的にどちらかの立場に優劣をつけようという意図があったわけではなく、121.107.209.16さんの行われる無作為的な文献の提示に対して、あくまで説明の必要上複数の歴史学文献を示して歴史学界の共通理解というものを素描いたしました。さらにそうした歴史学的政教分離については私の示したものだけでなく、121.107.209.16さん自身がお示しになった文献にも明確に言及しているものがありましたからその存在について検証可能性は満たされていることは議論参加者の共通理解であったはずです。その点について瑕疵があるという121.107.209.16さんの論点は私の知る限り、ウィキペディアの方針文書から導き出すのは困難であるように思われます。分割による記述の移動も、独自研究による記述の削除も基本的には現状の記述を減らす結果となります。121.107.209.16さんは分割を提案したと思ったら独自研究を突然持ち出したりとしていらっしゃいます。そうした今までの議論の推移で強い削除的方向性で意見を主張なさっていることから、あまりこういうことは言いたくなかったのですが、私はむしろ現状の記述の大部分を認めたくない121.107.209.16さんの強い意図を感じざるをえません。121.107.209.16さんの意味での政教分離の歴史は現状の記述を改名移動したあとに別して新規記事を作成するなり、政教分離原則記事の歴史節を利用すればすむ話のようにも思われます。現状の記述に対する検証可能な2次的な文献と、さらにその文献の認知度などについても具体的に検証できる3次的な文献もあるのに、現状の記述自体を直接的に独自研究だとするおおざっぱな主張はいささか乱暴に思え、理解しかねます。--2001:268:C068:E8C9:10C1:D707:1DC2:ED6A 2017年2月27日 (月) 15:50 (UTC)[返信]
「ノートでの議論があるときは、タグ添付や加筆をしてはならない」というのはウィキペディアの方針文書でありますか?むしろ、独断でメンテナンス用テンプレートを剥がそうとすることはやってはいけないとされており、あなたの行動がそれに該当します。「現状の記述に対する検証可能な2次的な文献」があるといいますが、山田欣吾『教会から国家へ』は「基本的視野」の出典として明記されていません。他にも五十嵐修『王国・教会・帝国―カール大帝期の王権と国家』、藤崎衛『中世教皇庁の成立と展開』などを提示しましたが、「政教分離の歴史」としては十分に関連性が証明されていません。国家の世俗化神権政治(テオクラシー)記事ならそれらも適切でしょうが、それらをすべてこの記事で一括して説明しようとするのが、Wikipedia:独自研究は載せないでの「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」に該当する疑いがあるのです。「参考文献」と「関連書籍」は違います。きちんと脚注を用いて、出典を明記してください。独自研究ではないかと疑われたくなければ、出典を明記すればいいだけです。分割提案と独自研究の指摘に対応するのは「不可能」といいますが、他人の指摘を理解しようとしないで、独自研究のまま放置して改善の努力をしないからでしょう。「無作為」とは意味不明ですが、私の提示した文献は「政教分離の歴史」に関連があります。Kanbun版はWikipedia:検証可能性に違反し、Wikipedia:中立的な観点での「意見を事実として記さない」に違反し、Wikipedia:過剰な内容の整理に該当しているのではないかと指摘しているのです。--121.107.209.16 2017年2月28日 (火) 15:16 (UTC)[返信]
  • 質問 では、話を整理するために2001:268:C068:E8C9:10C1:D707:1DC2:ED6Aさんに伺いたいのですが、2001:268:C068:E8C9:10C1:D707:1DC2:ED6Aさんが提示されている文章には、政教分離と古代から中世にかけてのカトリック教会と西欧国家との関係性(叙任権闘争など)とのつながり(この関係性を「政教分離」と表現しているか、など)についてはどのように言及されているのでしょうか。簡単に要約していただくと議論の役に立つのですが。--Susuka会話2017年2月28日 (火) 15:42 (UTC)[返信]
コメント割り込み失礼します。参考に「政教分離」について各種事典での説明は以下の通りです。
  • ブリタニカ国際大百科事典:政治と宗教は分離されるべきであるという考え方。 アメリカ合衆国では憲法上の原則。
  • 知恵蔵:国家と宗教とを分離させる憲法上の原則。国家と宗教とが未分化で明確に区別されていなかったり、両者が密接に結合している場合、個人の信教の自由は認められない。その意味で、政教分離と信教の自由は表裏一体の関係にある。政教分離の思想は欧米で生まれたもので、近代化と共に非キリスト教国にも浸透していった。
  • 百科事典マイペディア:国家権力と宗教を分離すること。信教の自由の必要条件をなす。未開社会,古代・中世社会では政治と宗教が一体となり宗教的権威によって支配が行われた。
  • 世界大百科事典:「国家の非宗教性,宗教的中立性の要請,ないしその制度的現実化」。[歴史]として「ヨーロッパにおいて政教分離は一回的できごとではなく,歴史過程のなかで徐々に進行したが,巨視的に見れば三つの画期を指摘することができる。聖職叙任権闘争,宗教戦争,およびフランス革命である。 中世世界においては,国家と宗教(キリスト教)の区別は未知の事柄であった。」
  • 日本大百科全書(ニッポニカ):「国家と宗教とを分離させる憲法上の原則をいう。中世および近世ヨーロッパにおいては、国家と教会、国権と教権が密接に結合していたため信教の自由が認められず、国教または公認の宗教以外は異端として刑罰を含む迫害を受けた。17、18世紀ごろから宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度がしだいにヨーロッパ社会に広まり、現代国家においては、政教分離は信教の自由の保障のための憲法原則として広く採用されることになった。」

このように、マイペディアでは未開社会,古代・中世社会の「祭政一致」(神権政治)を、世界大百科事典では聖職叙任権闘争,宗教戦争,フランス革命を、日本大百科全書では17世紀以降宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度と説明しており、既存百科事典ではほとんどが近代以降に焦点をあてています。--121.107.209.16 2017年2月28日 (火) 15:57 (UTC)[返信]

121.107.209.16さんについての返信。Wikipedia:独自研究は載せないでの「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」は2つの事実を合成して新たな事実を提示することで、ここに述べられている内容は直接的に文献から確認できるものでありますから、そういうものに当たるとするのはかなり難しいように思われます。少なくともこの記事は現状歴史学的な政教分離論をメインに論じており、それ以外の新しい事実を記載しているものではないと思われます。そしてそもそもそうした情報の合成は文献を確認せずに論じることは不可能なように思われますが、121.107.209.16さんはこれまでの議論でこの記事の文献や私が提示した文献を考証した形跡がなく、はっきり言ってしまえば単純な誤解により議論をこじらせております。だから「国家の世俗化神権政治(テオクラシー)記事ならそれらも適切でしょう」というような率直にこれらの語義を十分に理解していないゆえと思われる突飛な主張が出てきたり、私が「自分の書いたものを他人にいじられたくない」と思っているというような印象操作に当たる主張を繰り返され、ご自身の論点の弱点を無理に取り繕うことをしてらっしゃるように思われます。現状の内容がWikipedia:検証可能性に違反し、Wikipedia:中立的な観点での「意見を事実として記さない」に違反するという点についても、検証可能な文献を挙げてここに展開されている論理の存在は意見としてではなく、事実的に問題はないということを再三再四確認しておりますが、それについても関連する歴史学的な学説の存在やその学説の影響性まで示しても全く受け入れず、ご自身が提示した直接的には政教分離の歴史とは関わらない文献をその影響性や中立性、妥当性も考慮せずに提示し、土俵が違う議論を展開して煙に巻くという行動をとっていますね。それに山田欣吾『教会から国家へ』は現状の記述が独自研究でないという参考文献として提示されたもので、記事に直接的に利用されていないことで逆に本記事の記述の信頼性を保証しているものですが、そうした点についても言を左右にして、次々と方針を持ち出しては議論を拡散するという方法をとっています。はっきり言ってしまえばこのような議論の仕方は議論参加者にも無用の負担を強い、記事の改善も後回しにするもので、まさにWikipedia:腕ずくで解決しようとしないが問題視している行動そのものであるように思われます。--2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940 2017年2月28日 (火) 15:59 (UTC)[返信]

Susukaさんへの返信。歴史学文献では説明は一般に数ページ単位で長くなるので、中略を入れると合成と思われかねないゆえ、一言で表現するものを探すと「西ヨーロッパにおいては国家教会というプロセスをとおって政教分離に達し」(森安達也『近代国家とキリスト教』pp.271-272)たという記述や「ヨーロッパでは政治ないし国家の『脱宗教化』、『世俗化』がなされ、宗教と政治の分離という原則が確立されるに至った」(山田欣吾『教会から国家へ』p.1)などがそれに当たると思われます。--2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940 2017年2月28日 (火) 16:13 (UTC)[返信]

2001IP氏は「腕ずくで解決しようとしない」の「いつまでも納得しない」に当たるでしょう。さて、ようやく引用してもらいましたが、それだけで古代や中世からの総覧を行うのはやはり無理です。政教分離は近代の意味での使われ方ですし、到達点としての政教分離という意味です。古代から中世までの記載は、それぞれの記事に移動するなり、「教会と国家」のような記事として新規に作成すべきです。--121.107.209.16 2017年2月28日 (火) 16:22 (UTC)[返信]
ということは、古代・中世と近代以降の二つに記事を分割するということで、お二人は合意できるということでしょうか。--Susuka会話2017年2月28日 (火) 16:25 (UTC)[返信]
121.107.209.16さんへの返信。文献を読んでいらっしゃらないのに早合点しないでくださいませ。山田欣吾は以上の記述に続けて、p.2~p.15にかけて、その前段階としてのカロリング朝の意義を論じる教会国家論を展開しております。以上の部分はSusukaさんの質問に答えて、政教分離と関連する文献であることを明確にするために提示した部分に過ぎません。
Susukaさんへの返信。私は合意可能と思っております。訂正。「歴史学における政教分離」への改名を提案します。--2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940 2017年2月28日 (火) 16:31 (UTC)[返信]
「改名」だとリダイレクトになってしまうので、反対します。「政教分離の歴史」は記事として残したうえで、「古代・中世」と「近現代」を分割すると、記載がなくなります。分割するとして、なにをこの記事に残すのかを話した方がいいです。また、宗教戦争は宗教改革の歴史として分割する方がやはり適切でしょう。「近世における政教分離」というより、「宗教改革」の方が一般的です。--121.107.209.16 2017年2月28日 (火) 16:42 (UTC)[返信]
あるいは、「政教分離の歴史」は記事として残さない場合。「政教分離の歴史」に私が「基本的視野」に加筆した部分、および近現代部分を政教分離原則#歴史に移動するのもいいでしょう。その場合は、「政教分離の歴史」のリダイレクト先は政教分離原則です。そして、「政教分離原則#歴史」において「古代から中世にかけての教会と国家」「宗教改革の歴史」へのリンクをつける、というのはいかがでしょうか。--121.107.209.16 2017年2月28日 (火) 16:49 (UTC)[返信]
訂正。歴史学的政教分離論ではドイツ国制における政教分離(1803年)に終点をおくので、むしろ「歴史学における政教分離」という記事にしてしまうほうがわかりやすいかもしれません。宗教改革を独立させるという議論は普通に論外。「政教分離の歴史」がどこのリダイレクトかなどというのは正直私はどうでもいいです。--2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940 2017年2月28日 (火) 16:59 (UTC)[返信]
1.「古代から中世にかけての教会と国家」に同意できないのはなぜですか。
2.また、「宗教改革を独立させるという議論は普通に論外」というのはこれまた論外ですね。わかりやすさ、一般の読者のことを考えてください。宗教改革が中世と近世のいずれの時期にあるとお考えなのですか。
3.リダイレクトがどうでもいいというのならば、「政教分離の歴史」に私が「基本的視野」に加筆した部分、および近現代部分を政教分離原則#歴史に移動し、「政教分離の歴史」を政教分離原則へのリダイレクトとすることで同意されますね。--121.107.209.16 2017年2月28日 (火) 17:09 (UTC)[返信]
  1. 基本的に現状の記述が歴史学的政教分離論であるから分割には反対というのが私の立場ですから、それに反する宗教改革だけの独立は全く論外です。
  2. 同上。読者のアクセシビリティを考えても歴史学的政教分離論が一体として記述されるのが望ましいことはいうまでもありません。
  3. 歴史学的政教分離論の記述が残されるならば、それ以外の歴史学的政教分離論に関わらない部分はどうでもよいですが、そのかわり本記事を基本的にそのままの状態で「歴史学における政教分離」に改名するという点を了承してくだされば同意いたします。そうでなければ歴史学的政教分離論についてのページがなくなりますから、同意は出来ません。--2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940 2017年2月28日 (火) 17:19 (UTC)[返信]
回答を書いていますが、加筆されましたね。加筆は歓迎しますが、私が出典を明記したものを削除するのはいただけません。しかし、議論も長くなりそうですし、政教分離原則への転記は合意されているので、まずは転記しておきます。ただし、議論の結果次第ではまたこの記事に復旧する可能性もあります。--121.107.209.16 2017年3月1日 (水) 16:36 (UTC)[返信]
コメント 「議論も長くなりそうですから」じゃなくて、きっちり「合意でいいですか?」「いいですよ」のキャッチボールをしてからやってください。編集の強行と変わりありません。--アルトクール会話2017年3月1日 (水) 16:58 (UTC)[返信]
  • コメント 近現代の政教分離については政教分離原則に主に加筆されたらどうですかね(アメリカの独立宣言以降、フランス革命以降など、国ごとに政教分離が明確化した時代以降でもかまいません)。政教分離原則#歴史も独自研究の状態なんですけど、重複になってます。これぜんぶ、「政教分離」という視点でまとめるより、17世紀以前の、宗教と政治が深く結びつき合ってた時代のことは宗教改革にまとめたほうがいいと思うんですが。その時代に、政教分離という概念はないですよね? どうも、「政教分離の歴史」と言い切ってるのは全体的に独自研究だなという印象を払拭できませんよね。--ぽてから会話2017年3月1日 (水) 17:06 (UTC)[返信]
  • いや、当記事の基本的な問題点は「執筆方針の視座が独自研究になっていること」なんですよ。霊性史(唯物的史観ではなく心のありようのつながりに焦点を当てた史観とでもいうもの、当記事の場合ですと教会にとっての国家論とでもいった視線)を基礎においており、こういう視点での研究は外部の信頼できる場所でおこなう分にはかまわないのですが、wikipediaは研究機関ではなく、あくまで「すでに現存する・信頼できる情報源をもとに執筆された・百科事典」ですので、霊性史史観からの執筆にはそもそも無理があるんです。というより底本がない。霊性史史観で執筆を始めると関係のありそうな事例をぜんぶ集めてくることになりますので、結果として当記事のような状態になっているのだと考えます。そうではなく「信教の自由のための制度的保障」「あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準」(中山勉)を基本軸に、信頼できる3次情報から執筆してきて、2次情報で肉付けしていく方針をとれば視座が定まると思うのです。最初にどのような方向性で執筆してゆくかは、どういう情報源をコレクションしていくかに関わってくるので重要です。当記事と「政教分離>歴史」での役割分担については、あくまで「政教分離>歴史」は概要、こちらが本体という関係であって共通部分があってしかるべきです。--大和屋敷会話2017年3月1日 (水) 17:59 (UTC)[返信]
  • 政教分離原則とその制度的実現の歴史と国家機構と宗教組織の分離としての政教分離の歴史は関連がありますが、基本的に後者が長い過程を経てヨーロッパで実現され、前者はその成果にすぎないという点について本論でも明確に示されておりますし、この点については繰り返し3次情報まで示して歴史学界内の共通理解であるという点はすでに示しました。両者を混同している議論がここまで延々と繰り返されているのですが、はっきり言って無意味です。霊性史史観という言葉は寡聞にして聞きませんが、良心の自由・信仰の自由という問題も西ヨーロッパで独自に発展し、歴史学的には国家機構と宗教組織の分離とお互い影響を与え合い、一体とした形で進行したという点についても共通理解が成立しております。その際議論の核心となるキリスト教的な良心のことを一般的な良心とは異なるために特に霊性という神学的な言葉で言い表すのは慣行に過ぎません。霊性という言葉が気に入らないということであれば、それを「キリスト教的な良心」で置き換えて差し支えないものです。中山勉さんの論の引用箇所は直接的に現代の制度的政教分離を問題にしていることが明らかですから、果たして政教分離の歴史全体を見渡すものとして基礎に置くのにふさわしいのか、そもそもこれまでの議論で中山勉さんの文献は提示されてもおらず、突然もってこられてもそれをどう評価して良いのかは判断できかねます。それと政教分離という記事は現在なく政教分離原則へのリダイレクトになっており、あるのは政教分離原則の記事です。国家機構と宗教組織の分離という意味の政教分離と近代国家の一装置としての政教分離原則とその制度は概念として異なるものですから、政教分離原則の歴史節と政教分離の歴史記事が直接的にどちらがどちらを包摂する関係にあるということはないはずです。--2001:268:C068:F624:42D:8F80:D852:D29D 2017年3月2日 (木) 02:15 (UTC)[返信]

分割提案その2

2017年3月1日 (水) 07:27 (UTC) に「政教分離における歴史学的視座」節が加筆されました。例えば、この節を本記事の核にして、本記事をあくまで政教分離史の概略にとどめる、というのはどうでしょう。上述のふたつの政教分離のそれぞれについては本記事においては概略にとどめ、二つの記事に分割するというものです。--Susuka会話2017年3月2日 (木) 07:39 (UTC)[返信]

仲介の労をとってくださっているSusukaさんにまず感謝を。さて、基本的には分割という形での解決は望みません。というよりすでにしてその必要はなくなったように思われます。こちらの記事は歴史学的な政教分離の歴史を扱っており、政教分離原則の歴史ではないという立場を明確にし、「政教分離における歴史学的視座」節の信頼できる文献からの加筆によってそれを明確化しました。政教分離原則自体に関わる歴史については政教分離原則記事の歴史節があり、すでにそれぞれの概念はウィキペディア上で併存両立可能となっております。こちらを歴史学的内容でブラッシュアップした以上、内容の一貫性と独自研究の疑惑についても問題が解決されたと思われます。むしろ分割するならば、歴史学的政教分離論の立場での問題提起が求められますが、現状で歴史学的政教分離論の出典や文献を挙げての議論は一切なされていません。現状の政教分離原則視点の分割提案自体はそもそもの根拠がなくなっているように思われます。そして政教分離原則との混淆著しい議論がさらなるブラッシュアップを不可能にしていることがありますが、その原因は「政教分離の歴史」という記事名の「政教分離」の部分にあることは明らかなので、「聖俗分離の歴史」あるいは「歴史学における政教分離」、「政教関係の歴史」に変えるなど現状内容に即した適切な改名処理などは必要とは思われます。政教分離の考え方とその制度には多くの学問分野が関わっているために、政教分離という言葉に引きずられて本来の国家と宗教の機構的分離という歴史動態的意味に集中することが困難だからです。現在において政教分離というワードに言及する文献の大多数は政教分離原則をその直接の対象としているという当然の事実からも今後もそうした議論の混乱が起こることは予想されます。さて、分割という点に関しては以前詳しく述べたように歴史学的な関心の広がりを考えますと、詳しい各論の記述は読者の便にも必要と思われます。それは歴史学が個別研究の総体として全体的な概説を構成するという学問的な性質によっても細部にこだわるものだからです。またこの政教分離の過程は10世紀近くにわたる動態像として提示されているもので、さらに先行する政教一致的事象動態も含めるとキリスト教成立以来現代までの2000年史を包含することになります。法思想史、政治思想史、政治神学的研究と歴史学のこの分野の交流は広くかつ濃密で、用語上の統一性など分かちがたく、そうした各論的広がりをおぼろげながらでも提示するのがこの記事の趣旨のように思われます。もちろん分量的な問題などは観点としてまた別ですが。--2001:268:C068:E414:42D:8F80:D852:D29D 2017年3月2日 (木) 10:05 (UTC)[返信]
  • コメント では分割ではなく、『政教分離原則』および『政教分離の歴史』の両記事の更に上位記事として『政教分離』(仮称)などという記事が必要ですね。「【政教分離】という言葉には、歴史学的なものと、現在のいわゆる【政教分離原則】の二つの意味がある。現在【政教分離】が意味するのは後者であるが、本項では【政教分離】が二つの意味を持つことを概説する」などという記事はいかがでしょう。--Susuka会話2017年3月2日 (木) 10:32 (UTC)[返信]
ここでの議論の混乱ぶりを踏まえますと、新たに『政教分離』という記事を作るのはまた大変そうで、また混乱が生じそうなので、現在ある『政教分離原則』の「歴史」節付近に「国家とキリスト教会の歴史的な機構分離については『政教分離の歴史』を参照とのこと」という形での案内を加えるのがよいかなと思っております。で、『政教分離の歴史』は政教分離原則そのものを意識させない記事名にして混乱を防ぐのが読者の益になるという観点です。--2001:268:C068:E414:42D:8F80:D852:D29D 2017年3月2日 (木) 10:42 (UTC)[返信]
  • コメント では、最初に記事の解明を行うのがよろしいですね。記事名については、2001:268:C068:E414:42D:8F80:D852:D29Dさんに提示していただきたいです。--Susuka会話2017年3月4日 (土) 11:02 (UTC)[返信]
  • コメント 「政教分離における歴史学的視座」節は、ますます独自研究の分量が増えただけのことですよね。初めのほうは、エルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデの主張をもって、定説であるかのように記述されてますが、不適切でしょう。「政教分離」誕生以前は宗教改革の概念の一部に過ぎず、これを政教分離の歴史、と勝手に位置づけて自分の主張に合う学説だけを出典にされるなどは、Wikipediaで行うべきことではないでしょう。妥当な対処としては、大まかな分類でいうと、前半を宗教改革へ統合、後半を政教分離原則へ統合、関連する各学者の主張は主張として記述、となるでしょう。現状、重複記事になってるだけですね。--ぽてから会話2017年3月4日 (土) 16:08 (UTC)[返信]
政教分離の歴史を語る際に、494年まで遡る必要あるんですかね? 「政教分離の歴史」に関する文献で、494年から遡って述べてるものってあるんですか? ないなら、単なる独自研究であることが明らかになったと言えるでしょう。--ぽてから会話2017年3月4日 (土) 16:11 (UTC)[返信]
  • 【ぽてからさんへ】ぽてからさんのおっしゃっていることは近代的な政教分離原則と機構上および思想史上の国家と教会の分離過程としての政教分離を混同した議論で、そもそも前提が成り立っていません。ここの議論で延々と繰り返されてきた単なる誤解か常識論です。この記事が「政教分離の歴史」という記事名でなければそもそも成り立たない、そんな言葉遊びのような議論です。ですから今の議論の改名していくという流れであれば、もはや問題にならないと思われます。そして、ご批判の記事内容についてですが、ベッケンフェルデとそれを継承した山田欣吾の議論はいまや歴史学の概説書(たとえば『ヨーロッパの歴史と文化('09)』)においても言及される基本的な考え方で、すでに本議論の間に歴史学上の主要研究文献での言及とその継承が確認されているので、一学者の整理ではありますが、単なる一学者の説で無視され共有されていないとか評価未定で特筆するに当たらない、というものではありません。そもそもこうした議論はマックス・ヴェーバー以来の近代化論の系譜にもあり、ベッケンフェルデも彼自身が従来の常識を塗り替える新説を形成したわけでなく、ヘルマン・リュッペらの先行学説を整理して提示したというのが一般的な理解です。その点についてはすでに121.107.209.16さんが示した文献においても確認されています。そのうえで思想史上の問題にもなりますから、494年に遡る云々については実際上その種の議論は意味がないと思われます。いくつかの画期を設定することに反対するわけではなく、実際画期はありますが、こうした議論はいつから明確に国家と教会の分離は始まったということは事件としては示せても、その背景思想や社会状況を含めると、いつという部分は明確には定まりません(とはいえ、自然法論など一部分野を除いていまのところキリスト教誕生以前に遡らないことは確かです)。少なくとも歴史学的議論は政教分離に関連してすでにキリスト教迫害史(政教分離なしで信仰の自由に至った)や初期ビザンツ帝国の教会政策との比較国制史にまで踏み込んでいます。それは近代政治史における有名ななぜ国家的枠組みにおいては国民性が先行していたように思われる東欧ではなく、西欧で近代化が典型的に進展したのかという議論(飯田芳弘さん)に関わりますし、最近上梓された阿部俊大さんのスペインにおける国家形成を問う研究(『レコンキスタと国家形成 アラゴン連合王国における王権と教会』)などもあり、歴史学的には関係学問分野も巻き込んだメジャーな議論で一学者が独立して展開しているというものではありません。そもそもが政教分離という言葉が本来は国家(的な政治秩序)と教会(的な宗教道徳的秩序)の分離をいうのですが、近代国家の政治的装置として国家とあらゆる宗教組織を原則的に分けるべきとする政教分離原則のイメージが強く、現代社会においては両者の議論は一体なので区別されません。しかし歴史的には今日のような制度的政教分離が行われている社会は稀なので、その歴史過程は特殊ヨーロッパ史的に政治秩序と教会倫理の分離過程、国家機構と教会組織の分離過程として理解されています。あくまでベッケンフェルデ=山田欣吾的「教会国家論」は学界で現在最も定着しているのでそれを挙げているだけで(とはいってもほかの説を第一に挙げることは不適当と思われますが)、個別各論ではそれに修正を加えた五十嵐修さんの「キリスト教帝国」論や千葉敏之さんの伝道王権論などを取り上げていくというのがよいと思われます。個人的にはぽてからさんの「独自研究」に関する方針理解には些か問題があるように思われます。独自研究とはまだ信頼できる文献に発表されておらず検証可能性を満たしていないか、検証可能でも一般的に受け入れられてはいないと思われる一次研究のことで、文献的に十分な2次的3次的裏付けのある本記事の冒頭部分を指して使う物とはとても思えません。
  • 【Susukaさんへ】ぽてからさんのような誤解が絶えないと思われますので、政教分離ではなく、「聖俗分離の歴史」への改名が適切と思われます。理由として聖俗という言葉は特殊キリスト教会的な用語であり、そのため西ヨーロッパ史に特殊に関わる歴史記事であることが明確になること、政教分離原則との混同が起きにくいこと、聖俗分離とすることで政教分離原則や制度的政教分離に纏わる世俗的イメージが薄らぎ、思想史上の政教分離と親和的になることが挙げられます。同時に聖俗分離という形で地域的限定を直接的に設けなければ、時代を超えて広がりつつ研究の現状を踏まえて当然衝突することが予想される時空的限界を緩和できると思われるからです。--2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26 2017年3月4日 (土) 17:35 (UTC)[返信]
  • コメント 上述の議論を見た限りでは、2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26さんとぽてからさんは、「現在の本記事の記事名と内容が一致していないので、現状を変更することが望ましい」という点では一致していますね。2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26さんは『聖俗分離の歴史』への変更、ぽてからさんは『宗教改革』との統合が望ましいと主張されています。--Susuka会話2017年3月4日 (土) 17:51 (UTC)[返信]
率直に言って、私にはぽてからさんの「『政教分離』誕生以前は宗教改革の概念の一部に過ぎず」というところは全く理解できません。そして本記事の内容は宗教改革については後半部で扱うだけですし、宗教改革がグレゴリウス改革まで遡る、あるいはそれと同質であるという理解はちょっとなじみがありません。むしろ従来その意義を強調されすぎた宗教改革に対して、グレゴリウス改革を含めた12世紀革命がむしろ強調されて提示されているというのが現在の学界の共通理解に近い(たとえば千葉敏之ら『ドイツ史研究入門』)ですし、はっきり言って文献的にしっかりとした根拠があるのか非常に怪しいです。気分で論じているような雰囲気を感じます。たとえば古典的な研究である野口洋二『グレゴリウス改革の研究』はまさに宗教改革に目がいきがちな歴史論を批判し、グレゴリウス改革にこそ独立した大きな意義を認めるべきという研究の流れを振り返っていますし、この視点は同じく邦文におけるグレゴリウス改革の中心的研究である井上雅夫『西洋中世盛期の皇帝権と法王権』ではすでにもはや当然のこととして、宗教改革など話にも出てきません。--2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26 2017年3月4日 (土) 18:09 (UTC)[返信]
  • 質問 12世紀革命が強調されつつあるというのは、「宗教改革」の重要度が相対的に弱くなった、ということですか?たとえば、「"宗教改革"の定義が(扱われる時代的に)変化(あるいは前倒し)されつつある」という側面はないのでしょうか。--Susuka会話2017年3月4日 (土) 18:37 (UTC)[返信]
宗教改革は宗教改革で別個の歴史事象です。はっきり言ってしまえば、宗教改革は活版印刷術の発明が前提とされており、歴史学的理解において、活版印刷術の発明なしで宗教改革に触れることは出来ません(アンドルー・ペティグリー『印刷という革命』)。この一点をもってしても基本的にグレゴリウス改革とは本質的に異なるものですし、その他の相違点はベッケンフェルデが論じているとおりです。--2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26 2017年3月4日 (土) 18:45 (UTC)[返信]
(補足)思想史においても、たとえば自然法と神法の区別などは宗教改革ではかなり常識となっていますが、グレゴリウス改革期のグラティアヌス教令集では自然法=神法と捉えられています。この相違には理由があり、間にスコラ哲学による自然法論の進展が挟まっております。宗教改革とグレゴリウス改革ではその思想的状況も社会状況も全く異なっており、どちらも教会の改革を目指しているというかなりおおざっぱな外面は似ていても、実際に争われた論点や目標、問題関心、歴史的進展は全く異なっていますから、これを同質あるいは一連のものとしてひとくくりにする議論には率直に言って相当の無理があります。宗教改革はすでに政治秩序と宗教倫理の分離が相当程度進んだ思想・社会状況と活版印刷術の発明という決定的な変革を前提にした歴史事象で、国家と教会の未分化という問題と直面していたグレゴリウス改革とは全く異質です。--110.132.106.234 2017年3月4日 (土) 19:34 (UTC)(IPが変わりました。以上の発言は2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26のものです--2001:268:C068:C188:7467:B2EF:201B:67F7 2017年3月4日 (土) 19:57 (UTC)[返信]

記事の内容整理の提案

(新たにセクションを作成--Susuka会話2017年3月4日 (土) 19:52 (UTC)[返信]

  • コメント わかりました。では、現在の記事の記述のうちどこを残し、どこを転記させるか(その転記先はどこか)を、2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26さんに具体的に提案していただけないでしょうか。--Susuka会話2017年3月4日 (土) 19:13 (UTC)[返信]
基本的に日本は関わりないので削除します(すでに政教分離原則記事にほぼ同内容がありますので、転記の必要なし)。それと政教分離原則成立後の近現代については、政教分離原則それ自体に関わる現在の記述はすべて転記か削除。残りはブラッシュアップしてなんとかドイツ国制史上の政教分離が定まったと一般に理解される1803年まで記述をつなげるのが目標と思われます。--110.132.106.234 2017年3月4日 (土) 19:34 (UTC)(IPが変わりました。以上の発言は2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26のものです--2001:268:C068:C188:7467:B2EF:201B:67F7 2017年3月4日 (土) 19:57 (UTC)[返信]
ここまでの議論でご指摘の部分が2次3次の文献から確認でき、独自研究でないということはかなり明らかになっていますが、そうした議論を無視して独自研究であるとするぽてからさんの意見にはいまのところ全く文献的な根拠がありません。方針文書を適切に解釈されているとは思えませんが、ご自身の主張についてしっかりと文献で示すことが出来ますか?はっきり言うとぽてからさんの主張は以前詳しく申しましたように根拠がないことをいつも思いつきでおっしゃってごねていらっしゃるようにしか思えません。--2001:268:C068:C188:BDD6:6713:7688:2CE0 2017年3月5日 (日) 01:57 (UTC)[返信]
  • コメント 2次3次の文献から確認できたのは、やはり、現状、この記事は独自研究の状態でしかないってことですよね。中立的な観点を守って書かれればそれなりになる可能性はあるのに、これは絶対だ、と100%信じ込まれて、学説を学説として書かないなど書き方の問題も大きいんですよ。内容整理についてですが、まず、合意形成できそうな近現代の移動と、古代を中心とした無出典箇所の除去等、できるところから始めるほうが手っ取り早そうですね。現時点では完全に独自研究なんですけど、余計なところをそぎ取らないと議論がしにくいです。冒頭部からして、「政教分離の歴史(せいきょうぶんりのれきし)では、歴史学的知見に基づき、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する」ってどう考えてもおかしいですよね。「ヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に」っていうか、キリスト教の教会と国家の関係性以外のことは不要じゃないんですか。だいたい、政教分離を論じる際に、教会成立以前のイエスやパウロの思想から記述する必要も全くないですし。まず、政教分離原則関連は移動、出典なしは除去、という内容整理を優先させて、残ったところをどうするかって議論にしませんか。そうすれば、政教分離の歴史#近代社会とキリスト教(1500年~1800年)宗教改革との重複でしかないことがわかりやすくなるでしょう。--ぽてから会話2017年3月5日 (日) 08:45 (UTC)[返信]
なんていうか全然わかってないですよね。まず独自研究の方針文書は信頼すべき文献からの記載を独自研究から明確に除外しており、認めております。そのうえで学説として書かない云々については、「政教分離の歴史(せいきょうぶんりのれきし)では、歴史学的知見に基づき、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する」という記述が、要はここに書かれている内容は歴史学的な学説に基づいて歴史を述べるんですよという意味です(この日本語難しいでしょうか)。「政教分離を論じる際に、教会成立以前のイエスやパウロの思想から記述する必要も全くないですし。」についてはすでにぽてからさんの個人的感想でしかありません。要はぽてからさんの意見は一言で言うと「根拠はないけど、なんか独自研究だと思う」という個人的感想でしかなく、記事の発展に何ら資するものではないと思われます。さすがにここまで方針文書を恣意的に解釈されてしまうと、私としては呆れるしかないというところではあります。ほかでも類似の議論を展開していらっしゃるようですが、ご自覚なさっていらっしゃいますでしょうか。宗教改革との重複うんぬんとかについては文献的な裏付けも全く示されておらず、もはや何を言ってるのかわからないというのが私の述懐です(宗教改革が1800年まで続いていたと言いたい?以前はグレゴリウス改革を宗教改革に含めるというような別の奇抜な主張をしていらっしゃったと思いましたが、変わりました?)。--2001:268:C068:D7DE:30BD:B412:7D0D:9527 2017年3月5日 (日) 09:07 (UTC)[返信]

コメント 宗教改革が1800年まで続いていたとかいつ言いましたか? グレゴリウス改革宗教改革に含めるなど言った覚えはありませんね。そのあたりは基本的に、グレゴリウス改革と重複記事になってるだけで出典もあまりないので除去で良いだろうと思って言及してなかっただけです。まあ、出典なしは除去してから、内容の話をしましょう。今の状況ですと、この記事は独自研究で削除したほうがいいくらいなんですよね。「政教分離における歴史学的視座」なんて節名で加筆された時点で、内容もあわせて完全に独自研究なわけなんですよ。

ウィキペディアはマニュアル、ガイドブック、教科書、学術雑誌ではありません

ウィキペディアは百科事典的な参照資料であって、教科書ではありません。ウィキペディアの目的は事実の提示であって、主題について教えることではありません。

「政教分離における歴史学的視座」をいきなり持ってこられたことで、完全に「歴史学的視座」について教えるぞという内容になってしまってますよね。そうではなくて、このような学説がある、と学説を紹介(事実の提示)するのが、Wikipediaなんですよ。独自研究という概念を独自に解釈されているためだと思いますが、百科事典ではなく、教科書か学術レポートの一種になってしまってますよね。歴史学の課題レポートとして、この内容を提出されたら及第点を取られるくらいに良く書けているとは思うんですけど、百科事典的とは到底言えないという、この違い、わかっていただけませんかね? 「政教分離における歴史学的視座」などについては、編集対応によって百科事典的にできればいいんでしょうが、2001:268:C068:D7DE:30BD:B412:7D0D:9527さんが、独自研究ではなく中立的な観点に書き直すことができるかどうかにかかってますね。このままであれば、ケースEで削除依頼提出とするしかないでしょう。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかも読まれてください。内容整理に関するコメントからズレてきてるみたいですが、まず、「政教分離原則関連は移動、出典なしは除去」をするだけで、わりとスリムになるんじゃないですかね。まずはじめに集中的に「政教分離原則関連は移動、出典なしは除去」を行うべき、ということについてコメントされてませんが、反対する理由はありませんでしょう?--ぽてから会話2017年3月5日 (日) 14:12 (UTC)[返信]

「完全に『歴史学的視座』について教えるぞという内容になってしまってますよね。」というのは率直によくわかりません。現在の記事はどちらかというと学説の提示のスタイルをとっているように思われます(なにせ冒頭で歴史学的であると断っています)。この点については非常に表現感覚的な議論で、だから独自研究だというのはやはり方針文書に依拠しているとは思えません。そもそも学説について「教える」ことも提示することですし、そうした営みにおいて学説は十分相対化されているわけですから「教える」スタイル?だから中立的でないというのはいまいち理解できません。中立的な観点は意見を意見があるという事実として記すということを推奨しており、教える形というのが具体的でないのでいまいちわかりませんが(方針文書の教えるというのは独自研究を提示するあるいは教科書的に記述するという意味だと思われます。ウィキブックスに教科書があったり、それに関連するウィキバーシティが独自研究の場だとされていることからもそれは明らかです)、通例「○○という学説に基づけば、××である」とか「○○という学説に基づいて××を記述する」というのは事実の提示として中立的な観点を満たしているように思われます。そしてこの記事はそうした事実を検証可能な、しかも学術的にも信頼性の高い文献で十分裏付けており、独自研究であるという主張はどうして成り立つのか全く説明されておりません。少なくとも記述方式において百科事典的でないという根拠は全く見いだせないように思われます。一方で出典うんぬんについてはそもそも私が議論と平行して記事の出典は確認しており、その点の脚注追加を求めていますが、いまだ議論で合意が出来ず(なぜこんなことも許してくれないのか謎です)、その感触から言えば本記事はかなり出典に忠実です。なので、作業としては出典の追加をおこなってから必要であれば分割を議論すべきと思われます。どちらにせよ記事内容の一部重複が一方の一方への統合につながるというようなぽてからさんの議論も方針文書に基づいておらず、ウィキペディアの現状とも異なるもの(宗教改革についての記述が宗教改革の記事だけにあるわけではない)ですから、いずれにせよどうしてそうなるのか私には全く理解できません(おそらくぽてからさんのいう重複は記事内容の競合をいうと思われる。この記事は宗教改革そのものを記述しているわけではなく、国家と教会の関係史の文脈で一面的に触れているに過ぎないので、宗教改革を別の言葉で置き換えて別記事にしているわけではなく、宗教改革記事と競合しているということにはならない)。--2001:268:C068:D7DE:D982:AD98:2525:2849 2017年3月5日 (日) 14:32 (UTC)[返信]
参考としてややスタイルは異なりますが、たとえば九州王朝説を挙げることが出来ます。九州王朝説記事では九州王朝説に従った歴史叙述がされていますが、これは同時代の大化の改新などの記事と内容的な重複がありますが、競合関係にはないため、九州王朝説での記述を大化の改新に統合しようという話にはなりません。こちらも同様に歴史学的な政教分離論での議論を扱いますから、内容的に重複しても直接それを部分で分割して別の記事に統合すべきとはならないでしょう。--2001:268:C068:D7DE:D982:AD98:2525:2849 2017年3月5日 (日) 14:49 (UTC)[返信]
九州王朝説は、冒頭部にも「現在、本説は、井上光貞、榎一雄、山尾幸久を始めとする複数の東洋史・日本史学者等から批判されており、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書[1]においては記載されていない[2]ことに留意する必要がある(後述)。」と記述があり、百科事典的な記事と言えるでしょうね。「政教分離における歴史学的視座」について言えば、誰による学説なのか、提唱者が書いていないのが一番まずいところなんですよ。Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」も読んでもらいたいんですが、「Aさんがこのように提唱した。BさんはAさんをこう評価した。CさんはAさんの理論を発展させてこう主張した。」などと、提唱者を書かない限り、「事実の提示」であるとは言えないんですよね。2001:268:C068:D7DE:D982:AD98:2525:2849さんは真実を書こうとされてますけど、それはWikipediaではやってはいけないことなんです。そこをご理解されて修正されれば、百科事典的な記事になる可能性はあります。百科事典的な内容であれば、en:Church and state in medieval Europeのように、「キリスト教の教会と国家」(ただし、ヨーロッパ限定)などとするのもありかもとは思ってます。まあ、それはおいおい、ということで、まず、「政教分離原則関連は移動、出典なしは除去」をしちゃっていいですよね? じゃないと、毎回、イエスから現代までを網羅して発言しない限り、宗教改革が1800年まで続いているとか、グレゴリウス改革宗教改革に含めると言ったことになったりして、議論がしにくいんで。「政教分離原則関連は移動、出典なしは除去」に反対される理由はありませんね?--ぽてから会話2017年3月5日 (日) 15:00 (UTC)[返信]
本記事のような記述方式が「事実の提示」に当たらないという解釈は一般的でないように思われます。そして今回の件に関して言えばベッケンフェルデ個人の意見ではなく、歴史学で共有されているもので、その典型としてベッケンフェルデの文献が取り上げられているだけですから、九州王朝説のような異端的な学説ではなく、歴史学界の共通理解であるという点で現状の提示の仕方に問題はないように思われます(そもそも明確に否定している人は管見の限りいない)。もちろんベッケンフェルデが提示した説を山田欣吾が発展させたという点については加筆可能です。次に編集としては政教分離原則関連のみ取り除くという点には賛成ですが、現状の記述の編集は出典の追加&加筆することを私は考えています。ので、ぽてからさんの提案に関わる点については政教分離原則に関わる日本の記述と近現代を除去することは十分想定しています。ほかの点についてはぽてからさんの方針理解と編集態度にいまいち信頼が持てないので、私のほうでやらせていただきたく思います(そもそもぽてからさんは文献も持っていないようですし、この点は私がやる以外不可能ですよね)。--2001:268:C068:D7DE:59A3:B42C:A90E:B96E 2017年3月5日 (日) 15:11 (UTC)[返信]
  • コメント 本項目に関しては、学界の定説が近年で変わってきているようですので、単純に学説を提示するだけでは一般の読者に「定説が近年変化しつつあること」はわかりにくいのではないでしょうか。例えば、宗教改革とグレゴリウス改革とに対する史学的な捉え方の変遷を記述したら、読者の便益になるでしょう。それから、「歴史的展開」の節は、その必要性は認めるにしても、少々分量が多すぎる(細かすぎる)ように思います。本項目の内容説明に関連がある幹の部分が枝葉で覆われてしまったら、これもやはり読者の理解の妨げになりかねません。--Susuka会話2017年3月5日 (日) 15:20 (UTC)[返信]
「政教分離における歴史学的視座」について言えば、まず、「ベッケンフェルデが提唱した。」と名前を出して書かなければなりませんね。「ベッケンフェルデが提示した説を山田欣吾がこのように発展させた」と、また、名前を出して書かなければなりません。今定説とされてるとしても、いつ評価が変わるかわからないものですよ。学説の提唱者の名前は必ず書くべきです。分量が多すぎて議論に差し障りも出てるんで、古代と近現代を中心に、移動と除去(「政教分離原則関連は移動、出典なしは除去」)をすすめるという内容整理については、どうですかね? 「この節は出典をつけるつもりだから、後回しにしてほしい」等要望は柔軟に聞くつもりですが。--ぽてから会話2017年3月5日 (日) 15:33 (UTC)[返信]
では、ベッケンフェルデうんぬんについては加筆対応で。「歴史的展開」節の分量の問題についてはあると思います。その点については個人的にはしきりなおしの提案で出典などをチェックし、ブラッシュアップ中にそぎ落とすか、ブラッシュアップ後に必要となれば分割と考えておりました。あと通説が近年変化しつつあるわけではなく、通説の細かい論点が非常に掘り下げられて、細かい歴史事実の解釈について細かく修正されているという感じです(具体的にはカロリング朝が理念的にも教会であったか。その時代における帝国と王国という類似概念との関係性はどうか)。それはたとえば歴史的展開や冒頭の各論解説部分で掘り下げるということを想定しています。いずれにせよ、ぽてからさんのいうようないきなり分割っていうのはちょっと理解できませんね。古代については議論に密接に関わるので、どうして除去になるのか正直わかりません。文献を読んでいればそうはなりませんから。ぽてからさんのノートの議論の進行のために記事を削除すべきって主張はさすがにおかしいと思いますね。--2001:268:C068:D7DE:59A3:B42C:A90E:B96E 2017年3月5日 (日) 15:41 (UTC)[返信]
この記事の現状はグレゴリウス改革を専論にしているというよりは、広く西洋中世に存在したRespublica Christiana(「キリスト教国家」とか「キリスト教世界」と訳される)を扱っていますから、たとえば西ゴートの神権政治は歴史学的な政教分離論の中心課題に入りますが、これをグレゴリウス改革と結びつけるという話は聞いたことがないという問題があり、困難が予想されます。この記事はこの記事の体裁のまま、とりあえず適切な記事名への改名を優先させた方がよいように思われます。「政教分離」の言葉にひっかかりすぎて議論が全く進んでいません。改名を急がないとこの循環論争はいつまでも終わらない不安があります。--2001:268:C068:D264:DC8A:3373:B82D:AD26 2017年3月6日 (月) 15:14 (UTC)[返信]
  • 「歴史学的政教分離論」は既存の文献で学術語として確認できませんので、独自研究でしょう。それをいうなら「ドイツ国制史の視点から」というのが正確でしょう。
  • 「聖俗分離の歴史」ですが、「聖俗分離」の使用例はCiNiiでは存在しません。「聖俗分離」として事典に記載はありますか?インターネット検索では田中総一郎「聖俗の棲み分けとしての「政教分離プロセス」に関する考察 : イスラーム世界における新たな政教関係の構築に向けて」、また「聖俗分離原則」として政教分離原則の別の表記の例がありました[3]。これでは「政教分離」との棲み分けも曖昧ですし、Wikipedia:記事名の付け方の「曖昧でない - その記事の内容を曖昧さなく見分けるのに必要な程度に的確な名称であること」の観点、および「認知度が高い - 信頼できる情報源において最も一般的なもの」の方針からから、反対します
  • 事典類でも立項されており、ドイツ語版ウィキペディアでも記事として存在する「教会と国家」「キリスト教と国家」では合意できないのですか。
  • また、山田欣吾は「叙任権闘争期を通じて、聖と俗、教会と世俗の概念的・原理的分離がなしとげられることにより、今やキリスト教世界における宗教と政治、教会と国家の関係をどう定めるかというヨーロッパ的問題がはじめて本格的に提起された」(『教会から国家へ』p.15)とあり,この記載と他の事典とを総合判断すると、「キリスト教世界における宗教と政治」「キリスト教世界における教会と国家」なども適切でしょう。--121.107.209.16 2017年3月6日 (月) 16:25 (UTC)[返信]
まず記事名は現状の内容に即しておこなわれるべきであり、辞典類にあるものから選ぶべきという前提が間違っているように思われます。「教会と国家」「キリスト教と国家」「キリスト教世界における宗教と政治」「キリスト教世界における教会と国家」などはすべて歴史学的議論を前提にしている現状の内容に必ずしも適合していません。たとえば歴史学的理解と神学的理解ではキリスト教迫害史に対する見解は現状全く異なり、グレゴリウス改革についての評価も全く異なるのですが、その点について曖昧にすると記事内容を無際限に広げることになります(こうした議論に対し、ウィキペディアの方針に忠実であれば、両論併記することになると思われますが、この記事でそれをすると記事内容はかなり煩雑になることが予想されます)。「聖俗分離」という言葉は耳慣れない言葉であるという点については認めますが、「政教分離」という言葉が無用な誤解のもとになるために提案したものです。ちなみに聖俗分離の出典については「叙任権闘争期を通じて、聖と俗、教会と世俗の概念的・原理的分離がなしとげられることにより、今やキリスト教世界における宗教と政治、教会と国家の関係をどう定めるかというヨーロッパ的問題がはじめて本格的に提起された」という記載がその根拠であり、その点については了解できるものと思います。--2001:268:C068:D264:A49D:FFA6:F92D:DB35 2017年3月6日 (月) 17:03 (UTC)[返信]
「まず記事名は現状の内容に即しておこなわれるべき」とは自己愛もほどほどにしてください。問題だらけですよ。世俗化論が加筆されたからといって、それ以外の箇所が改善されたわけではありません。
Wikipedia:記事名の付け方では「日本語話者の大多数にとって、最も曖昧でなく、最も理解しやすいもの」、信頼できる情報源における慣例や認知度の高さ、最も一般的に使われているものが推奨され、「記事名を選ぶにあたっては、編集者の関心よりも読者の関心を、専門家よりも一般的な利用者の関心を重視してください。」と明記されています。「聖俗分離」と「政教分離」との区分も曖昧だし読者を混乱させますし、「聖俗分離」は一般的な用語ではなく特殊な表記ですから、「政教分離とは異なる聖俗分離」なんてどの書物にも書いてありません。2001IP氏が一人で思っているだけです。歴史学事典でも「聖俗分離」項はなく、「政教分離」として立項されています。
2001IP氏は歴史学事典の「キリスト教と国家」項について、「樺山紘一さんの記述はかなり典型的に歴史学的な政教分離論を記しているので、これを中心に整理するとわかりやすい」と発言しており、自分でも内容との適合を3月5日(日) に認めていたのに、わずか一日でまるで反対のことをいっています。これはさすがに訂正しませんか。
「辞典類にあるものから選ぶべきという前提が間違っている」といいますが、辞典と事典は違います。私は「辞典」といっていません。複数の研究者による編集会議を経て作られたも全16巻にもなる歴史学事典は日本の歴史学界の一般的な状況が伺えるもので、その立項状況を参照することが望ましいのはいうまでもないのですが、「間違っている」というのなら、自分独自の判断以外に、ウィキペディアの方針文書などで該当するものはありますか?
「聖俗分離の歴史」以外の記事名がないなら、改名提案の議論は終了すべきでしょう。問題箇所を改善する作業および分割議論に移行しましょう。--121.107.209.16 2017年3月8日 (水) 14:42 (UTC)[返信]
たとえば上の発言では「キリスト教と国家」項が「樺山紘一さんの記述はかなり典型的に歴史学的な政教分離論を記しているので、これを中心に整理するとわかりやすい」と発言したのは事実ですが、この発言が「キリスト教と国家」が記事名として適切であるという意味で亡いことは明らかです。こういうのを詭弁と言います。また政教分離と異なる聖俗分離があるなどとは言っておらず、あくまで「教会と国家の分離」の意味の政教分離(この用法での政教分離があることはご自身でも確認されていますよね?新カトリック大事典II、研究社 p.596-597)は政教分離原則と紛らわしいので、聖俗分離に置換すべきという議論です。政教分離と聖俗分離が別概念でなく場合によって置き換えられることは、[4]でご自身が確認されたのではなかったのですか?ともあれまず議論としては「教会と国家」という記事名が問題だということであり、聖俗分離が積極的に支持されるという議論ではありません。聖俗分離の歴史がダメなら、別に「教会と国家の分離の歴史」でいいんです。分離の方向性が示された方がよいのではないかという話をしているのですが、以前の議論ちゃんと確認していますか?--2001:268:C068:C235:2882:94D3:3DF6:D777 2017年3月8日 (水) 15:55 (UTC)[返信]
「キリスト教と国家」「教会と国家」という記事名が不適切な理由が分かりませんし、「聖俗分離」は「政教分離と聖俗分離が別概念でなく場合によって置き換えられる」からこそ、別記事にしてしまうと曖昧になるし記事名が重複してしまいます。「教会と国家の分離の歴史」は「聖俗分離の歴史」よりいいですが、2001IP氏が書きたいことは「政教一致から政教分離へ」の経緯であり、「教会と国家の一致と分離の歴史」ということですよね。「一致と分離の歴史」は内容で書けばよく、理解しにくいので、「教会と国家の歴史」はどうです?あるいは、「政教一致と政教分離の歴史 (ヨーロッパ)」でもいいかもしれません。--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 09:44 (UTC)[返信]

事典等の立項状況、および諸論文での言及状況の調査:分割提案の理由として

調査報告(121.107.209.16 2による)

文献調査のため議論に参加できませんでした。私の最近の発言より以降の議論を吟味していませんことを前提として、調査結果を報告します。従来私が主張していた分割や改名などの編集が必要であるということの裏付けがとれました。コメントは後述します。「政教分離の歴史」を分割するか、改名するかの議論に移る前に、既存の文献における一般的な傾向を確認すべきですし、ウィキペディアはそれらに準じるべきです。

百科事典等、研究諸論文における立項・言及状況 
出典 記載内容 「政教分離の歴史」の出典としての有意性。また適切な記事名
歴史学事典(全16巻)第11巻 宗教と学問,2004年、弘文堂、p.399-400。編集委員は樺山紘一尾形勇加藤友康川北稔岸本美緒黒田日出男佐藤次高南塚信吾山本博文 「政教分離」項(岩井淳)。信教の自由と不可分。16世紀の宗教改革以降に信教の自由が、18世紀後半のアメリカ独立時に政教分離が達成。
[歴史] 古代は政教未分離が多い。政教一致型には教会国家型(宗教が世俗領域に権威や権力を持つ。例としてヨーロッパの教会、シャリーアを奉じるイスラム世界)と、国家教会型(絶対主義期の国家教会、近代日本)がある。参照として「宗教改革」「信教の自由」「ピューリタニズム」 「政教一致」(イスラムについて解説)。
○ または「政教一致」
歴史学事典第12巻 王と国家、弘文堂、p.399-400. 「政教分離」項(渡辺昭子)。アメリカ、フランスの近代憲法について言及し、国家と教会(政治と宗教)が相互に干渉すべきではなく、それぞれ固有の領域であるという思想は、宗教改革以降のヨーロッパで広まった。神聖ローマ帝国ではアウクスブルクの和議によってルター派公認。ほか、領邦教会制(諸侯および都市ごとに宗派を選択する)、トランシルヴァニア議会、ポーランドのワルシャワ連盟協約、ロックの寛容論、ナントの勅令、イギリスのピューリタンに言及し、「寛容思想の普及、そしてアメリカ独立革命やフランス革命を契機として、19世紀になるとヨーロッパの国々が教会との関係の制度的再編にのりだす」と解説。参照として「英国教会」「キリスト教と国家」「国家宗教」「ジョン・ロック」「王(中世ヨーロッパ)」「王(東ヨーロッパ)」「王(近代西ヨーロッパ)」。 ○ または「国家と教会」「キリスト教と国家」
歴史学事典第12巻 王と国家 「キリスト教と国家」項(樺山紘一)。
1.キリスト教初期。391年の国教化、西ローマ帝国崩壊後、キリスト教と王権の関係は、ゲルマン部族諸国家に継承される。東西ゴート王国。
2.東ローマ帝国(ビザンツ)。皇帝教皇主義(カエサロパピスム)は後にロシア帝国が継承。16世紀教会改革以降のイングランド教会でも、その国王との間で実現したとみるのは可能。ただし、神政政治の純粋な形に移行はしていない。
3.ゲルマン諸国家。カール大帝。国王と教皇の関係。両権力は別種として二分されるわけでもなく、独自性を保持し続けた。「頂点としての皇帝と教皇の関係はもとより、地方権力と地方教会とのあいだでも、微妙な距離をたもちつつ、聖俗の権力は分離されたうえで、なおファジーな形で結合されもしている。」 教皇はテオクラシー(神政政治)を希求、国王は自国領教会の従属化を要請。14世紀以降のフランス国家教会制度、ガリカニスムが例。ガリカニスム原則は近世の絶対主義国家をへて、ナポレオンによる政教条約(コンコルダート)で公認の原則となる。
4.宗教改革。
5.近代社会に「国家と教会はそれぞれの領分を截然と分離」した(政教分離)。社会の世俗化現象は教会の介入を拒否。19世紀から20世紀にかけて、聖職者は、公務員に準じる地位となる。
6.このように、教会からの国家政治へと経緯がある。しかし、別の観点として、古代世界では国家権力は教会内紛争に介入。しかし、中世にかけて、異端問題は教義というよりも、政治問題であった。異端の監視や処遇は教会でなく、国家が実施した。
参照として「神政政治」「教会国家論(フランク王国の)」「教皇領国家」「皇帝教皇主義」「社会主義国家」「政教分離」「カール大帝」「イギリス国教会」
△ 「キリスト教と国家」
西洋中世史事典(H.R.ロイン) 東洋書林 「政教分離」の項目なし。事項索引にもなし。
西欧中世史事典II(ハンス・K・シュルツェ)五十嵐修他訳 「政教分離」の項目なし。「帝国」「皇帝権」「王権支配」として立項。事項索引にも「政教分離」なし。
ヨーロッパ中世史事典(A・ジェラール) 藤原書店 見出し項目にも事項索引にも「政教分離」なし。
 世界歴史大事典(全10巻)1956/1990 平凡社 「政教分離」の項目なし。「第三共和政」項目で政教分離法(1905年)に言及があるだけ。
世界歴史大事典(全22巻)1988 教育出版センター(梅棹忠夫、江上波夫監修) 「政教分離」の項目なし。事項索引にもなし。
新編西洋史辞典(平成5年、改訂増補)、京大西洋史辞典編纂会。 「政教分離」の項目あり。フランス革命、1801年の政教条約に言及。
新カトリック大事典II、研究社 p.596-597 「政教分離」の項目あり。伝統的には「教皇権と皇帝権」の関係の問題として議論されてきた。「教会の自由」や教会の権威の問題など。ゲラシウスI世は、世界が「教皇の権威」 (auctoritas) と「君主の権力」 (potestas) によって治められるとした(両剣論)。叙任権闘争を経て教皇権至上主義は頂点に達した。対立教皇時代を収拾するためのコンスタンツ公会議では投票が国別に行われた。14世紀前半のパドヴァのマルシリウスは、聖職者の権威を否定し、君主の政治的主権を主張。中世末期の教皇権の衰退、宗教改革、近代国家体制、フランス革命などによって世俗主義、良心と信教の自由が掲げられ、「反教会・反聖職者主義的」であった。現代、ヨアンネス23世回勅「マーテル・エト・マギストラ」「パーチェム・イン・テリス」、第2バチカン公会議の現代世界憲章に言及。
新カトリック大事典II、研究社 p.905 「国家教会」項。キリスト教社会における教会と国家の関係についての記事。広義では国家がキリスト教を唯一の正当な宗教として指定すること。狭義の通常の意味では、宗教改革期に成立し、絶対主義時代に頂点を極めた国家主導型の国家・教会関係。[歴史的概観]として、ローマ帝国、中世のシャルルマーニュやオットー朝、ザリエル朝、ビザンチンなどは「割愛して」「狭義のみ述べる」とし、フランスのフィリップ4世、シャルル7世、ドイツのルートヴィヒ4世で国家教会の先駆的な形態が形成されたが、宗教改革が決定的である。  「国家教会」
 宗教の事典(朝倉書店) 山折哲雄川村邦光, 市川裕, 大塚和夫, 奥山直司, 山中弘 (編),pp.862-864. 「政教分離・政教一致」項あり(中野毅)。政教一致には教会国家主義と国家教会主義があるとし、前者は神聖政治または神権政治(テオクラシー)、アウグスティヌスの普遍教会が、後者にはトマス・エラストス(1524-1583)やイングランド国教会がある。政教分離を最初に国制として取り入れたのはアメリカ合衆国と解説。 ○  または「政教一致」
Steven K. Green,The Separation of Church and State in the United States,OXford Reseach Encyclopedias. The Historical Antecedents of Church-State Separation節で、Augustine of Hippoの「神の国」と「地の国」に言及するが、1行程度。教会と国家の分離の画期は、宗教改革、啓蒙主義、ホイッグ党の活動(参考:ホイッグ史観)にある。カルヴァン、ルターについて5行程。英米ピューリタン、ロジャー・ウィリアムズ、ロックの寛容論、モンテスキュー、ジェファーソン、ジョン・トレンチャードとトマス・ゴードン、James Burgh、大覚醒などアメリカ建国期以降が主。
Encyclopedia of religion 「政教分離(Separation of church and state)」項はなく、「Church and State」「Politics and Religion」で立項 「教会と国家」「政治と宗教」
ブリタニカ国際大百科事典 「政教分離」項あり。アメリカ憲法に言及。
知恵蔵 「政教分離」項あり。国家と宗教とを分離させる憲法上の原則。信教の自由と表裏一体。欧米で生まれ、近代化と共に非キリスト教国にも浸透。
百科事典マイペディア 「政教分離」項あり。国家権力と宗教の分離。信教の自由の必要条件。未開社会,古代・中世社会では政治と宗教が一体となり宗教的権威によって支配が行われた。
世界大百科事典 「政教分離」項あり。「国家の非宗教性,宗教的中立性の要請,ないしその制度的現実化」。[歴史]として「ヨーロッパにおいて政教分離は歴史過程のなかで徐々に進行。聖職叙任権闘争,宗教戦争,フランス革命が画期。 」
日本大百科全書(ニッポニカ) 「政教分離」項あり。国家と宗教とを分離させる憲法上の原則。「中世および近世ヨーロッパにおいては、国家と教会、国権と教権が密接に結合していたため信教の自由が認められず、国教または公認の宗教以外は異端として刑罰を含む迫害を受けた。17、18世紀に宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度がしだいにヨーロッパ社会に広まり、現代国家においては、政教分離は信教の自由の保障のための憲法原則として広く採用されることになった。」
英語版ウィキペディア「政教分離」 古代について書かれているが、一次資料を並べたもので、独自研究の疑いがある。「後期古代」でアウグスティヌス「神の国」、「中世」では皇帝教皇主義、教皇権について解説。以降、宗教改革、啓蒙時代、ジェファーソンがそれぞれ10行程で解説。「中世」については、Church and state in medieval Europe(中世ヨーロッパにおける教会と国家)記事へのリンクがされており、日本語版「政教分離の歴史」もこの記事へ言語間リンクされている。 「中世ヨーロッパにおける教会と国家」
ドイツ語版ウィキペディア 「政教分離(Trennung zwischen Religion und Staat)」記事 20世紀以降の解説。
ドイツ語版ウィキペディア「教会と国家」 啓蒙時代、フランス革命以降、教会の優位性が低落し、中立的法治国家について冒頭で解説したあと、「聖書における教会と国家」「カトリック神学における国家論」「プロテスタントにおける国家論」について解説。 「教会と国家」
CiNii「政教分離」検索 「政教分離」関連文献は731件。しかし、ほとんどがアメリカ、フランス、日本の近代の政教分離原則についてのもので、ヨーロッパ中世史の論文名で「政教分離」を使用した例は見つからなかった。
CiNii「皇帝権」検索 「皇帝権」関連文献は61件。ドイツ王権(皇帝権)とローマ法王権の関係、ビザンツ皇帝権、ロタール一世の皇帝権、教皇権と皇帝権などについての論文。しかし、論文キーワードで「政教分離」を使用した例は見つからなかった。
CiNii「教皇権」検索 「教皇権」関連文献は34件。論文キーワードで「政教分離」を使用した例は見つからなかった。
ゲオルク・シュトラック「教会「改革」から宗教「改革」へー盛期・後期中世における教皇権」史苑第75巻2号,pp.387-415. 「政教分離」不使用。
山田欣吾『教会から国家へ』 「比較国制史の視点から考察し、国家形成史を宗教的秩序の世俗化過程として構想」したもの。目次、事項索引に「政教分離」なし。「ヨーロッパでは、その長い歴史を通じて、政治ないし国家の「脱宗教化」、「世俗化」がなされ、宗教と政治の分離という原則が確立されるに至った」(p.1)。12−13世紀から18-19世紀にいたるヨーロッパの諸国家は「統一的・包括的な権力構成体」として成立したが、ベッケンフェルデは「世俗化」過程を重視した(p.1-2)。「ヨーロッパの政治秩序の世俗化過程には、巨視的に見て、二つの大きな画期」があるとし、第一の画期は11世紀後半から12世紀にかけての叙任権闘争期、第二の画期は16、17世紀の宗教改革と宗教戦争である、「本稿では、後に、世俗化の第一段階としての叙任権闘争期」を考察するが、その前に、「ヨーロッパの世俗化過程の行き着く先を示唆しておく意味で、第二段階の問題についても、ごく常識的な諸点を述べておきたい」(p.2-3) 本文で「政教分離」という語句は使用されていない。  △ または☓  「世俗化」「宗教と国家」「キリスト教と国家」
山田欣吾「西洋文明史の片隅から」(橋問叢書 第59号) 叙任権闘争やグレゴリウス改革のときに初めて、宗教に支えられた政治秩序が世俗化し、近世初めの宗教改革で加速。この動きの終点が、政教分離、つまり「どの信仰を持っている者でも市民的・政治的な権利は持つことができる、新教の立場にある者でも、旧教の立場にある者でも、政治的な権利を持つことができる、こういう原則が確立するのは三十年戦争を経て、一応の終点はやはりフランス革命に至る」。「ヨーロッパは政治と宗教との分離というものを世界の中で初めて自覚的に達成した地域」と述べている。 ○(ただし著書の代表的著作ではない)
五十嵐修『王国・教会・帝国―カール大帝期の王権と国家』 論文概要書および論文審査報告書では、カールの戴冠、国家と教会の関係、王国と帝国との関係、皇帝権、教皇権、世俗権力、国制史について触れられているが、「政教分離」という用語は使用されていない。なお、目次でも「政教分離」は使用されていない。(巻末事項索引は未確認)
世界歴史体系 ドイツ史I  山田欣吾も執筆。しかし、索引項目になし。
第二章「フランク時代」(渡部治雄)ではメロヴィング朝フランク王国、第3章「ザクセン朝」(山田欣吾)ではオットー1世と皇帝権の獲得、王国支配の集権化と王国教会の体制化について、第4章は「叙任権闘争」(山田欣吾)、5.6章は「シュタウフェン朝」、第7章「ドイツ王国の国制変化」で国王=皇帝選挙と教皇権、カール4世などについて解説。
 世界の歴史10 西ヨーロッパの形成、佐藤彰一, 池上俊一 カロリング朝、叙任権闘争も扱われるが、「政教分離」索引になし。
古谷圭一「イングランド市民革命とプロテスタント各教派の成立」キリスト教と文化 : 関東学院大学キリスト教と文化研究所所報14,2016.pp.33-45. エキュメニズムからの研究。イングランド市民革命による宗教的迫害から「教権から切り離された人々の万人祭司主義の徹底化による会衆主義、教権の政治的かかわりを禁じる政教分離主義に突き進んだ」と解説。 ○、または「会衆制」「教会政治史
柳原 邦光「アメリカとフランスの市民宗教論の比較」地域学論集5巻3号、鳥取大学地域学部地域文化学科,2009,p227-251. 論文キーワード「政教分離」あり。 ○、または「市民宗教」
豊川 慎「リベラル・デモクラシーにおける政治認識とキリスト教民主主義の政治思想序説」キリストと世界17 : 東京基督教大学紀要,2007年 論文キーワード「政教分離」あり。
久保田泰夫「ロージャー ・ウィリアムズと教会と国家」東京工芸大学芸術学部紀要 4, 85-98, 1998 ウィリアムズの政教分離論 ○、またはロジャー・ウィリアムズ
中山勉「ロジャー・ウィリアムズ研究― 政教分離論の虚実と代表的著作に見られる神学思想 」(東京大学) 「政教分離とは信教の自由のための制度的保障であり、単に政治と宗教が別次元で活動しているという状況、ないしはその主張を指すものではない」「「中世でも政教分離はなされていた」式の議論は、この制度的保障としての政教分離の意義をトータルに見誤っている。た だ単に政治と宗教の管轄が違うだけでなく(そんなものなら古代にもあった)、それが(特定宗教だけでなく)あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準である」(p.213)
森本あんり『アメリカ的理念の身体― 寛容と良心・政教分離・信教の自由をめぐる歴史的実験の軌跡』(創文社) 一章「中世的寛容論から見た初期アメリカ社会の政治と宗教」で中世寛容論に言及。ただし、近世近代アメリカにおける政教分離が主たる考察対象。前史としての言及。

コメント 2001IP氏はいわゆる「政教分離」については「政教分離原則」で、「政教分離の歴史」は「歴史学的な」内容にすべきであると繰り返し主張されています。しかし、各種文献を調査しましたところ、2001IP氏の主張は牽強付会、つまり自分の都合のいいように強引に理屈をこじつけることであると結論を出さざるをえませんでした。2001IP氏は「歴史学における政教分離」という改名を提案されていますが、Wikipedia:記事名の付け方における「日本語話者の大多数にとって、最も曖昧でなく、最も理解しやすいもの」ではないし、また「政教分離」は2001IP氏が主張するような意味に限定される使い方をされていません。日本の歴史学の集大成ともいえる事典である『歴史学事典(全16巻)』では「政教分離」は二種類の項目があり、一つは宗教改革とアメリカ独立によって近代の政教分離が実現とし、古代の政教一致と対比しています。二つ目では、アメリカ、フランスの近代憲法、国家と教会(政治と宗教)が相互に干渉すべきではなくそれぞれ固有の領域であるという思想は、宗教改革以降に広まったとして、神聖ローマ帝国のアウクスブルクの和議(1555年)等に言及しています。要するに『歴史学事典(全16巻)』では「政教分離」は宗教改革、フランス革命、アメリカ独立における経緯が解説されています。また、2001IP氏が主張される記事内容は、同事典であれば「キリスト教と国家」で立項されているといってよいでしょう。この他、新編西洋史辞典では「政教分離」項でフランス革命、1801年の政教条約と近代以降を解説。中世史事典各種には、見出し項目としても、また事項総索引にも「政教分離」はありませんでした。

新カトリック大事典での内容は、「教皇権と皇帝権」、ゲラシウスI世両剣論、叙任権闘争、パドヴァのマルシリウスなども解説し、また、宗教の事典(朝倉書店) では「政教分離・政教一致」として立項されていました。2001IP氏の主張の根拠としてはこの二つの事典は有用でしょう。

しかし、これらを解説するにしても、Wikipedia:ページの分割と統合で「ページの分量が肥大化したため、読者にとって全体の見通しが悪く不便な場合、または、ページ中で特定の説明だけの分量が多く、明らかにバランスを失している場合」に該当する点からもやはり分割が検討されるべきです。

英語版ウィキペディア「政教分離」は一次資料を並べたもので、内容の状態はよくありません。しかし、アウグスティヌス、中世の皇帝教皇主義、教皇権について簡潔に解説したあと、宗教改革、啓蒙時代、ジェファーソンがそれぞれ10行程で解説されており、分量としては目安にはなります。そして、「中世」についてはChurch and state in medieval Europe(中世ヨーロッパにおける教会と国家)記事へのリンクがされており、日本語版「政教分離の歴史」もこの記事へ言語間リンクされています。「中世ヨーロッパにおける教会と国家」を日本版でも新規に立項するほうがいいでしょう。

ドイツ語版ウィキペディアでは、 「政教分離」は20世紀以降のもの、「教会と国家」記事が啓蒙時代、フランス革命以降、教会の優位性が低落し、中立的法治国家について冒頭で解説したあと、「聖書における教会と国家」「カトリック神学における国家論」「プロテスタントにおける国家論」について解説しています。「教会と国家」を日本版でも新規に立項するほうがいいでしょう。

CiNii検索では、「政教分離」関連論文は731件でそのほとんどがアメリカ、フランス、日本の近代の政教分離原則についてのもので、ヨーロッパ中世史または2001IP氏のいう意味での「歴史学」の論文名で「政教分離」を使用した例は見つかりませんでした。


山田欣吾『教会から国家へ』は「比較国制史の視点から考察し、国家形成史を宗教的秩序の世俗化過程として構想」した書籍ですが、目次、事項索引に「政教分離」はなく、2001IP氏が引用した箇所は「政教分離」でなく、「宗教と政治の分離」という表記でした。また、すでに以前の議論でも新保論文でのベッケンフェルデ紹介と同じく、ベッケンフェルデの理論をヨーロッパにおける「世俗化」過程についてのものとして解説しており、「ヨーロッパの政治秩序の世俗化過程」の画期は叙任権闘争、宗教改革としてい解説しています。つまり、2001IP氏は、本来、ベッケンフェルデや山田の見解を歴史学的または文献的に厳密に、また誠実に紹介しようとするならば、「世俗化」とすべきところを、原文にはない「政教分離」をあるとし、牽強付会し、強引に解釈しています。もっとも、新保論文にもあるように、ベッケンフェルデが「政教分離」について触れているのは確かですが、それも終着点としての言及であって、ベッケンフェルデの歴史学的対象は、「政教分離」というよりも、「世俗化」という概念で構想されています。「政教分離とは、世俗化の言い換えにすぎない」と2001IP氏は言うかもしれませんが、実際の文献では「世俗化」という用語・概念が多用され、論文の題名にもなっているのに、「世俗化」でなく「政教分離」という語句に執着するのか、根拠が不明です。私は幾度も「世俗化」はどうかといっていましたが、何も理解していないくせにいうなと非難を繰り返すばかりでした。なお、山田欣吾は橋問叢書 第59号という同窓会冊子で「政教分離」といっていますが、これは代表的な論文でもなく、講演における質疑応答での回答におけるものでした。また、専門研究者向けではない一般書であるが、内容がかなり高度な『世界歴史体系 ドイツ史』は山田欣吾も執筆していますが、索引項目にも本文にも「政教分離」はありませんでした。

その他の文献は、私がこれまで述べてきたように、フランス革命、アメリカ独立以降のものですが、中山勉は「ロジャー・ウィリアムズ研究― 政教分離論の虚実と代表的著作に見られる神学思想 」(東京大学) では「政教分離論」が使用されていますが、「歴史学的」という曖昧な表記はされていません。政教分離の歴史において重要なロジャー・ウィリアムズについて書かれたこの論文を出典に、人権信教の自由、自由権、プロビデンス入植、千年王国論、そしてこの論文でも紹介されているティモシー・ホール『教会と国家の分離』(Hall, T. M., Separating Church and State, Urbana, University of Illinois Press, 1998.)をもとに合衆国憲法修正第1条とロック、ジェファーソン、マディソン、ウィリアムズの思想を、「政教分離の歴史」で執筆することに2001IP氏は反対はされないでしょう。しかしこれら関連する項目すべてを2001IP氏の手法で網羅したらどうなるでしょうか。中山は「人が学問的に真剣に彼(ロジャー・ウィリアムズ)の思想の中に(牽強付会の擬似物ではなく)「信教の自由」と「政教分離」を発見しようとするのなら、テクストの表意に囚 われることから注意深く逃げながら、以下の思考プロセスを踏まなければならない。この うちのひとつでも通過できなければ、そのスキームは失敗である。」とし、以下のプロセスをあげています(p.213)。

  • 「1、「信教の自由」とは人権であり、そうである以上、それを侵害する可能性を持つ公的主体(典型的には国家権力)が確立して初めてその保障云々を論じることができるが、ウ ィリアムズの場合はどうか。
  • 2、「政教分離」とは信教の自由のための制度的保障であり、単に政治と宗教が別次元で活動しているという状況、ないしはその主張を指すものではないが、ウィリアムズの場合 はどうか。
  • 3「信教の自由」も「政教分離」も、私的な価値関心を公的領域に持ち込まないという 立憲主義の前提を受け入れて初めて、その実現を論じることができるものだが、ウィリアの場合 はどうか。」これはウィリアムズに限らない重要なプロセスです。この2についての注釈で中山は、「本稿においては何度も強調してきたが、この点は重要である。「中世でも政教分離はなされていた」式の議論は、この制度的保障としての政教分離の意義をトータルに見誤っている。ただ単に政治と宗教の管轄が違うだけでなく(そんなものなら古代にもあった)、それが(特定宗教だけでなく)あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準である」。

この中山の基準は厳格なものですが、正しいでしょう。私が2001IP氏およびKanbun版に感じる疑義を学問的に明言されているものです。しかし、この中山規準を、この記事に直接導入することを私が提案しているわけではありません。新カトリック大事典を用いて両剣論から近代の政教分離への歴史を解説することに反対するわけではありません。しかし、分量の問題がありますし、記事全体のバランス、また、他に立項したほうがいいような場合は、検討されるべきでしょう。著しく分量が肥大化したものは独立させるべきです。

宗教改革」の分割にも反対していましたが、各種百科事典においては、「宗教改革」「政教分離」の両方の項目があり、つまり、それぞれ独立した記事として立項されています。「宗教改革」についても「政教分離の歴史」では解説があるべきですが、それは簡潔にまとめるべきで、詳細は「宗教改革」「宗教改革の歴史」で書くことが適切です。

以上、2001IP氏による「歴史学では定説・常識」との主張は、一般的な百科事典だけでなく、日本の歴史学界による歴史学事典においてさえも、裏付けがとれませんでした。それどころか、山田欣吾の書籍を確認しても、牽強付会と判断せざるをえませんでした。今後、どのように分割(または他のやり方)を進めていくのがいいでしょうか。この調査結果をもってしても、2001IP氏が従来の主張を繰り返す場合は、やはり投票などで決めるべきでしょうか。分割先としては、Wikipedia:記事名の付け方における「日本語話者の大多数にとって、最も曖昧でなく、最も理解しやすいもの」から、教会と国家が一番適切ではないでしょうか。「宗教改革」についての箇所は宗教改革宗教改革の歴史へなどへ分割することが適切でしょう。--121.107.209.16 2017年3月5日 (日) 15:45 (UTC)[返信]

まずは121.107.209.16さんの整理に感謝を。とりあえず一点だけ。「宗教と政治の分離」が「政教分離」でないというのは一般的理解とはいえない(そもそも歴史学的に国家の世俗化という言葉が政教分離を指すので)ので、この点だけ明確に修正をお願いします。また「ロジャー・ウィリアムズ研究― 政教分離論の虚実と代表的著作に見られる神学思想 」はアメリカ政教分離思想史の専論で、直接的に国家・教会関係を扱ったものではないので、これを中心的に扱うべきとは思われません。古谷以降の文献も基本的には外されるべきと思われます。--2001:268:C068:D7DE:59A3:B42C:A90E:B96E 2017年3月5日 (日) 15:56 (UTC)[返信]
個人的にはこのなかでは樺山紘一さんの記述はかなり典型的に歴史学的な政教分離論を記しているので、これを中心に整理するとわかりやすいと思われます。--2001:268:C068:D7DE:59A3:B42C:A90E:B96E 2017年3月5日 (日) 16:05 (UTC)[返信]
121.107.209.16さんの文献調査、多大なる労力に感謝申し上げます。121.107.209.16さんのご意見にほぼ同意いたします。明らかに、特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成になってるところについては、学説のところなどは修正されるということで、もし、最低限提唱者を書かれるなり適切に修正がされれば、「教会と国家」(ヨーロッパのキリスト教)などの記事名で残すのはありかなと思ってます。「そもそも歴史学的に国家の世俗化という言葉が政教分離を指す」などの意見が、そもそも、独自の考えもしくは論評もしくは特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成ですよね? そもそも、「政教分離」とは辞書的な意味で「宗教と政治の分離」ではなく、「教会と国家の分離(Separation of Church and State)」でしょう? アメリカ大統領の聖書への宣誓はご存じでしょうが、2001:268:C068:D7DE:59A3:B42C:A90E:B96Eさんは「宗教」と「教会」を混同させて論じてませんか?--ぽてから会話2017年3月5日 (日) 16:14 (UTC)[返信]

変更案(2001:268:C068:D7DE:59A3:B42C:A90E:B96Eによる)

政教分離の歴史の出典としての優位性については、本記事の趣旨に合わせて、国家と教会の関係に言及しているかに訂正。政教分離原則に関わると思われるものは△に変更。

百科事典等、研究諸論文における立項・言及状況 
出典 記載内容 「政教分離の歴史」の出典としての有意性。また適切な記事名 本記事の内容との関わり
歴史学事典(全16巻)第11巻 宗教と学問,2004年、弘文堂、p.399-400。編集委員は樺山紘一尾形勇加藤友康川北稔岸本美緒黒田日出男佐藤次高南塚信吾山本博文 「政教分離」項(岩井淳)。信教の自由と不可分。16世紀の宗教改革以降に信教の自由が、18世紀後半のアメリカ独立時に政教分離が達成。
[歴史] 古代は政教未分離が多い。政教一致型には教会国家型(宗教が世俗領域に権威や権力を持つ。例としてヨーロッパの教会、シャリーアを奉じるイスラム世界)と、国家教会型(絶対主義期の国家教会、近代日本)がある。参照として「宗教改革」「信教の自由」「ピューリタニズム」 「政教一致」(イスラムについて解説)。
○ または「政教一致」
歴史学事典第12巻 王と国家、弘文堂、p.399-400. 「政教分離」項(渡辺昭子)。アメリカ、フランスの近代憲法について言及し、国家と教会(政治と宗教)が相互に干渉すべきではなく、それぞれ固有の領域であるという思想は、宗教改革以降のヨーロッパで広まった。神聖ローマ帝国ではアウクスブルクの和議によってルター派公認。ほか、領邦教会制(諸侯および都市ごとに宗派を選択する)、トランシルヴァニア議会、ポーランドのワルシャワ連盟協約、ロックの寛容論、ナントの勅令、イギリスのピューリタンに言及し、「寛容思想の普及、そしてアメリカ独立革命やフランス革命を契機として、19世紀になるとヨーロッパの国々が教会との関係の制度的再編にのりだす」と解説。参照として「英国教会」「キリスト教と国家」「国家宗教」「ジョン・ロック」「王(中世ヨーロッパ)」「王(東ヨーロッパ)」「王(近代西ヨーロッパ)」。 ○ または「国家と教会」「キリスト教と国家」
歴史学事典第12巻 王と国家 「キリスト教と国家」項(樺山紘一)。
1.キリスト教初期。391年の国教化、西ローマ帝国崩壊後、キリスト教と王権の関係は、ゲルマン部族諸国家に継承される。東西ゴート王国。
2.東ローマ帝国(ビザンツ)。皇帝教皇主義(カエサロパピスム)は後にロシア帝国が継承。16世紀教会改革以降のイングランド教会でも、その国王との間で実現したとみるのは可能。ただし、神政政治の純粋な形に移行はしていない。
3.ゲルマン諸国家。カール大帝。国王と教皇の関係。両権力は別種として二分されるわけでもなく、独自性を保持し続けた。「頂点としての皇帝と教皇の関係はもとより、地方権力と地方教会とのあいだでも、微妙な距離をたもちつつ、聖俗の権力は分離されたうえで、なおファジーな形で結合されもしている。」 教皇はテオクラシー(神政政治)を希求、国王は自国領教会の従属化を要請。14世紀以降のフランス国家教会制度、ガリカニスムが例。ガリカニスム原則は近世の絶対主義国家をへて、ナポレオンによる政教条約(コンコルダート)で公認の原則となる。
4.宗教改革。
5.近代社会に「国家と教会はそれぞれの領分を截然と分離」した(政教分離)。社会の世俗化現象は教会の介入を拒否。19世紀から20世紀にかけて、聖職者は、公務員に準じる地位となる。
6.このように、教会からの国家政治へと経緯がある。しかし、別の観点として、古代世界では国家権力は教会内紛争に介入。しかし、中世にかけて、異端問題は教義というよりも、政治問題であった。異端の監視や処遇は教会でなく、国家が実施した。
参照として「神政政治」「教会国家論(フランク王国の)」「教皇領国家」「皇帝教皇主義」「社会主義国家」「政教分離」「カール大帝」「イギリス国教会」
○ 「キリスト教と国家」
西洋中世史事典(H.R.ロイン) 東洋書林 「政教分離」の項目なし。事項索引にもなし。
西欧中世史事典II(ハンス・K・シュルツェ)五十嵐修他訳 皇帝権、終末論的・黙示録的な帝国解釈(p.96)カロリング時代の皇帝権(p.133)以下
西欧中世史事典III(ハンス・K・シュルツェ)小倉欣一他訳 カロリング王権、国王塗油、神授王権と教会の官職観念(p.48)
ヨーロッパ中世史事典(A・ジェラール) 藤原書店 見出し項目にも事項索引にも「政教分離」なし。
 世界歴史大事典(全10巻)1956/1990 平凡社 「政教分離」の項目なし。「第三共和政」項目で政教分離法(1905年)に言及があるだけ。
世界歴史大事典(全22巻)1988 教育出版センター(梅棹忠夫、江上波夫監修) 「政教分離」の項目なし。事項索引にもなし。
新編西洋史辞典(平成5年、改訂増補)、京大西洋史辞典編纂会。 「政教分離」の項目あり。フランス革命、1801年の政教条約に言及。
新カトリック大事典II、研究社 p.596-597 「政教分離」の項目あり。伝統的には「教皇権と皇帝権」の関係の問題として議論されてきた。「教会の自由」や教会の権威の問題など。ゲラシウスI世は、世界が「教皇の権威」 (auctoritas) と「君主の権力」 (potestas) によって治められるとした(両剣論)。叙任権闘争を経て教皇権至上主義は頂点に達した。対立教皇時代を収拾するためのコンスタンツ公会議では投票が国別に行われた。14世紀前半のパドヴァのマルシリウスは、聖職者の権威を否定し、君主の政治的主権を主張。中世末期の教皇権の衰退、宗教改革、近代国家体制、フランス革命などによって世俗主義、良心と信教の自由が掲げられ、「反教会・反聖職者主義的」であった。現代、ヨアンネス23世回勅「マーテル・エト・マギストラ」「パーチェム・イン・テリス」、第2バチカン公会議の現代世界憲章に言及。
新カトリック大事典II、研究社 p.905 「国家教会」項。キリスト教社会における教会と国家の関係についての記事。広義では国家がキリスト教を唯一の正当な宗教として指定すること。狭義の通常の意味では、宗教改革期に成立し、絶対主義時代に頂点を極めた国家主導型の国家・教会関係。[歴史的概観]として、ローマ帝国、中世のシャルルマーニュやオットー朝、ザリエル朝、ビザンチンなどは「割愛して」「狭義のみ述べる」とし、フランスのフィリップ4世、シャルル7世、ドイツのルートヴィヒ4世で国家教会の先駆的な形態が形成されたが、宗教改革が決定的である。 ○ 「国家教会」
 宗教の事典(朝倉書店) 山折哲雄川村邦光, 市川裕, 大塚和夫, 奥山直司, 山中弘 (編),pp.862-864. 「政教分離・政教一致」項あり(中野毅)。政教一致には教会国家主義と国家教会主義があるとし、前者は神聖政治または神権政治(テオクラシー)、アウグスティヌスの普遍教会が、後者にはトマス・エラストス(1524-1583)やイングランド国教会がある。政教分離を最初に国制として取り入れたのはアメリカ合衆国と解説。 ○  または「政教一致」
Steven K. Green,The Separation of Church and State in the United States,OXford Reseach Encyclopedias. The Historical Antecedents of Church-State Separation節で、Augustine of Hippoの「神の国」と「地の国」に言及するが、1行程度。教会と国家の分離の画期は、宗教改革、啓蒙主義、ホイッグ党の活動(参考:ホイッグ史観)にある。カルヴァン、ルターについて5行程。英米ピューリタン、ロジャー・ウィリアムズ、ロックの寛容論、モンテスキュー、ジェファーソン、ジョン・トレンチャードとトマス・ゴードン、James Burgh、大覚醒などアメリカ建国期以降が主。
Encyclopedia of religion 「政教分離(Separation of church and state)」項はなく、「Church and State」「Politics and Religion」で立項 ○ 「教会と国家」「政治と宗教」
ブリタニカ国際大百科事典 「政教分離」項あり。アメリカ憲法に言及。
知恵蔵 「政教分離」項あり。国家と宗教とを分離させる憲法上の原則。信教の自由と表裏一体。欧米で生まれ、近代化と共に非キリスト教国にも浸透。
百科事典マイペディア 「政教分離」項あり。国家権力と宗教の分離。信教の自由の必要条件。未開社会,古代・中世社会では政治と宗教が一体となり宗教的権威によって支配が行われた。
世界大百科事典 「政教分離」項あり。「国家の非宗教性,宗教的中立性の要請,ないしその制度的現実化」。[歴史]として「ヨーロッパにおいて政教分離は歴史過程のなかで徐々に進行。聖職叙任権闘争,宗教戦争,フランス革命が画期。 」
日本大百科全書(ニッポニカ) 「政教分離」項あり。国家と宗教とを分離させる憲法上の原則。「中世および近世ヨーロッパにおいては、国家と教会、国権と教権が密接に結合していたため信教の自由が認められず、国教または公認の宗教以外は異端として刑罰を含む迫害を受けた。17、18世紀に宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度がしだいにヨーロッパ社会に広まり、現代国家においては、政教分離は信教の自由の保障のための憲法原則として広く採用されることになった。」
英語版ウィキペディア「政教分離」 古代について書かれているが、一次資料を並べたもので、独自研究の疑いがある。「後期古代」でアウグスティヌス「神の国」、「中世」では皇帝教皇主義、教皇権について解説。以降、宗教改革、啓蒙時代、ジェファーソンがそれぞれ10行程で解説。「中世」については、Church and state in medieval Europe(中世ヨーロッパにおける教会と国家)記事へのリンクがされており、日本語版「政教分離の歴史」もこの記事へ言語間リンクされている。 ○ 「中世ヨーロッパにおける教会と国家」
ドイツ語版ウィキペディア 「政教分離(Trennung zwischen Religion und Staat)」記事 20世紀以降の解説。
ドイツ語版ウィキペディア「教会と国家」 啓蒙時代、フランス革命以降、教会の優位性が低落し、中立的法治国家について冒頭で解説したあと、「聖書における教会と国家」「カトリック神学における国家論」「プロテスタントにおける国家論」について解説。 ○「教会と国家」
CiNii「政教分離」検索 「政教分離」関連文献は731件。しかし、ほとんどがアメリカ、フランス、日本の近代の政教分離原則についてのもので、ヨーロッパ中世史の論文名で「政教分離」を使用した例は見つからなかった。
CiNii「皇帝権」検索 「皇帝権」関連文献は61件。ドイツ王権(皇帝権)とローマ法王権の関係、ビザンツ皇帝権、ロタール一世の皇帝権、教皇権と皇帝権などについての論文。しかし、論文キーワードで「政教分離」を使用した例は見つからなかった。
CiNii「教皇権」検索 「教皇権」関連文献は34件。論文キーワードで「政教分離」を使用した例は見つからなかった。
ゲオルク・シュトラック「教会「改革」から宗教「改革」へー盛期・後期中世における教皇権」史苑第75巻2号,pp.387-415. 「政教分離」不使用。 おそらく○? ?おそらく○
山田欣吾『教会から国家へ』 「比較国制史の視点から考察し、国家形成史を宗教的秩序の世俗化過程として構想」したもの。目次、事項索引に「政教分離」なし。「ヨーロッパでは、その長い歴史を通じて、政治ないし国家の「脱宗教化」、「世俗化」がなされ、宗教と政治の分離という原則が確立されるに至った」(p.1)。12−13世紀から18-19世紀にいたるヨーロッパの諸国家は「統一的・包括的な権力構成体」として成立したが、ベッケンフェルデは「世俗化」過程を重視した(p.1-2)。「ヨーロッパの政治秩序の世俗化過程には、巨視的に見て、二つの大きな画期」があるとし、第一の画期は11世紀後半から12世紀にかけての叙任権闘争期、第二の画期は16、17世紀の宗教改革と宗教戦争である、「本稿では、後に、世俗化の第一段階としての叙任権闘争期」を考察するが、その前に、「ヨーロッパの世俗化過程の行き着く先を示唆しておく意味で、第二段階の問題についても、ごく常識的な諸点を述べておきたい」(p.2-3) 本文で「政教分離」という語句は使用されていない。  ○  「世俗化」「宗教と国家」「キリスト教と国家」
山田欣吾「西洋文明史の片隅から」(橋問叢書 第59号) 叙任権闘争やグレゴリウス改革のときに初めて、宗教に支えられた政治秩序が世俗化し、近世初めの宗教改革で加速。この動きの終点が、政教分離、つまり「どの信仰を持っている者でも市民的・政治的な権利は持つことができる、新教の立場にある者でも、旧教の立場にある者でも、政治的な権利を持つことができる、こういう原則が確立するのは三十年戦争を経て、一応の終点はやはりフランス革命に至る」。「ヨーロッパは政治と宗教との分離というものを世界の中で初めて自覚的に達成した地域」と述べている。 ○(ただし著書の代表的著作ではない)
五十嵐修『王国・教会・帝国―カール大帝期の王権と国家』 論文概要書および論文審査報告書では、カールの戴冠、国家と教会の関係、王国と帝国との関係、皇帝権、教皇権、世俗権力、国制史について触れられているが、「政教分離」という用語は使用されていない。なお、目次でも「政教分離」は使用されていない。(巻末事項索引は未確認)山田欣吾の教会国家論に「我が国の中世史に大きな影響を与えた」と言及(p.7) ○ 「国家と教会の関係」
世界歴史体系 ドイツ史I  山田欣吾も執筆。しかし、索引項目になし。
第二章「フランク時代」(渡部治雄)ではメロヴィング朝フランク王国、第3章「ザクセン朝」(山田欣吾)ではオットー1世と皇帝権の獲得、王国支配の集権化と王国教会の体制化について、第4章は「叙任権闘争」(山田欣吾)、5.6章は「シュタウフェン朝」、第7章「ドイツ王国の国制変化」で国王=皇帝選挙と教皇権、カール4世などについて解説。「キリスト教帝国としてのカロリング帝国」(p.75)
○ 「国家と教会の関係」
 世界の歴史10 西ヨーロッパの形成、佐藤彰一, 池上俊一 カロリング朝、叙任権闘争も扱われるが、「政教分離」索引になし。
古谷圭一「イングランド市民革命とプロテスタント各教派の成立」キリスト教と文化 : 関東学院大学キリスト教と文化研究所所報14,2016.pp.33-45. エキュメニズムからの研究。イングランド市民革命による宗教的迫害から「教権から切り離された人々の万人祭司主義の徹底化による会衆主義、教権の政治的かかわりを禁じる政教分離主義に突き進んだ」と解説。 △、または「会衆制」「教会政治史 ?おそらく ☓
柳原 邦光「アメリカとフランスの市民宗教論の比較」地域学論集5巻3号、鳥取大学地域学部地域文化学科,2009,p227-251. 論文キーワード「政教分離」あり。 △、または「市民宗教」 ?おそらく ☓
豊川 慎「リベラル・デモクラシーにおける政治認識とキリスト教民主主義の政治思想序説」キリストと世界17 : 東京基督教大学紀要,2007年 論文キーワード「政教分離」あり。 ?おそらく ☓
久保田泰夫「ロージャー ・ウィリアムズと教会と国家」東京工芸大学芸術学部紀要 4, 85-98, 1998 ウィリアムズの政教分離論 △、またはロジャー・ウィリアムズ ?おそらく ☓
中山勉「ロジャー・ウィリアムズ研究― 政教分離論の虚実と代表的著作に見られる神学思想 」(東京大学) 「政教分離とは信教の自由のための制度的保障であり、単に政治と宗教が別次元で活動しているという状況、ないしはその主張を指すものではない」「「中世でも政教分離はなされていた」式の議論は、この制度的保障としての政教分離の意義をトータルに見誤っている。た だ単に政治と宗教の管轄が違うだけでなく(そんなものなら古代にもあった)、それが(特定宗教だけでなく)あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準である」(p.213)
森本あんり『アメリカ的理念の身体― 寛容と良心・政教分離・信教の自由をめぐる歴史的実験の軌跡』(創文社) 一章「中世的寛容論から見た初期アメリカ社会の政治と宗教」で中世寛容論に言及。ただし、近世近代アメリカにおける政教分離が主たる考察対象。前史としての言及。

121.107.209.16さんの整理を本記事の意味における政教分離で使われているかで修正。政教分離原則のものも直接的な関連性は薄いと思われるので△に修正しました。--2001:268:C068:D7DE:59A3:B42C:A90E:B96E 2017年3月5日 (日) 16:56 (UTC)[返信]

2001IP氏がいう「本記事の趣旨」それ自体が、問題になっていることをご理解ください。また、既存の事典等での立項状況を、無根拠な自説で無視しないでください。これまでの議論でのコメントを集計してもよいですが、複数の編集者がkanbun版に疑問を持っています。本記事は「政教分離の歴史」であり、いわゆる「政教分離」の歴史についての記事です。(日本語版では「政教分離原則」という記事名になっていますが、各種事典の立項状況からいって「政教分離」へと改名すべきでしょうが、これは現在の議論が終了してからにします。)
2001IP氏がいう「本記事の趣旨」とは、その記載内容からは、歴史学事典第12巻の「キリスト教と国家」項(樺山紘一)に準拠し、「キリスト教と国家」(または「教会と国家」)などの記事名が正当です。2001IP氏は「樺山紘一さんの記述はかなり典型的に歴史学的な政教分離論を記しているので、これを中心に整理するとわかりやすい」と発言されていますように、あなたが書きたい内容は理解できますが、それを「歴史学的な政教分離論」といってしまっては、Wikipedia:独自研究は載せない「既存の用語に新たな定義を与える」に該当してます。私の調査では、「歴史学的な政教分離論」という用例は、歴史学関係の文献でも発見できませんでした。Wikipedia方針では「もしあなたの考え方が多数派に属するのであれば、広く認められている参考文献を示してその観点を実証することは容易なはず」と書かれていますが、「歴史学的政教分離論」という学術用語は存在しますか?あるならば、そのように明記されている文献を提示してください。山田欣吾の本にも登場していません。まずは、このことを確認しないことには、議論が転倒したまま、先へ進みません。
「歴史学的政教分離論」という独自定義の用語は、2001IP氏の発明でしょうか、それがいかに曖昧で偽りであるかを明示する証拠として、2001IP氏による文献調査表の再編集があります。歴史学事典の「政教分離」記事が△として、有意性を疑問視されているのですが、冗談にしては場違いですし、全く意味不明の評価です。一方で、「政教分離」記事が立項されておらず、また全く本文でも使用されていない西欧中世史事典IIを○としています。この二点だけを例にとるだけで、2001IP氏の主張が文献的な根拠もなく、独自研究というほかない自説にこだわり続けていることが明らかです。だからこそ、各種事典の立項状況を無視するだけでなく、自分のお気に入りの、しかし本文で「政教分離」が一切言及していない本でも出典として有効であり、また、タイトルや本文でも「政教分離」という概念に有意に言及しているアメリカ史関連の文献を出典として無効とするような奇妙極まる評価が可能なのでしょう。Wikipediaの方針では「たとえ十分に出典が明記されていたとしても、その情報源を曲解して利用したり、その情報源によって直接的かつ明示的に支持されない観点を推し進めようとした場合には、あなたは独自研究を行っていることになります。」また「多くの場合、複数の確立した観点が一つの議題に関して存在しています。そのような場合、いかに良く調査・研究されていたとしても、単一の観点がその議題に関する権威となることはありません」「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す。そのトピックについて異なる観点を記載する際には、その相対的な勢力差が適切なレベルで反映されるよう記述してください。同等であるとの誤った印象を与えたり、特定の視点を不適切に重点的に記述することを避けてください」とあり、2001IP氏の編集と発言はこれらの方針に明確に違反しています。さらにWikipediaの方針では「複数の観点について、それらの利点を公正に示し、どれか特定の観点を採用するように要求したりしない記事は、読者を解放する効果があります。中立性は独断主義を倒すのです。これはウィキペディアで作業しているほとんど全ての人がよいことだと認めていることです」とされており、2001IP氏の主張は文献的根拠のない独断主義の典型といえるでしょう。
もし、2001IP氏がいう「歴史学的な政教分離論」が既存の文献で明示されていれば、挙げてください。その場合、「政教分離」という語句が正確に使用されていなくてはなりません。山田欣吾の本について、「『宗教と政治の分離』が「政教分離」でない」と私は言っていません。同書には事項索引にも本文にも「政教分離」という用語は使用されていない、「政教分離」でなく「宗教と政治の分離」という表記であったことを報告しました。通常の読書であれば、山田のいう「宗教と政治の分離」がいわゆる「政教分離」を意味することは理解できます。しかし、我々が議論しているのはウィキペディアの記事の編集です。山田欣吾『教会から国家へ』は、2001IP氏の主張する特殊な「政教分離論」の根拠とはならない、なぜなら

山田はその概念を同書で使用していないからです(「世俗化」概念を使用しています)。すなわち、2001IP氏は「政教分離」を独自に解釈し、自分の考えるままに膨大に執筆されていますが、その内容は、「教会と国家」などの記事で書かれるべきものです。2001IP氏が「歴史学的な政教分離論」の既存の文献での使用例を提示してくださいといいましたが、万が一そのような文献が存在したとしても、それ以外の事典類での立項状況や言及状況からいって、少数派の見解にとどまるので、記事全体の出典としては有意とはなりません。それから基本的な回答として、分割への賛否を表明してください。「この記事を今後どう整理していくか」の段階ではありません。2001IP氏の執筆した箇所は「教会と国家」、また「宗教改革」節は「宗教改革の歴史」へと分割提案しています。なお、分割する場合、中世の背景や前史は各種辞典に準じて簡潔にとどめるべきです。もう一点、2001IP氏は「記事がなくなる」とも発言されていましたが、自分の執筆したものが削除されるかもしれないという不安をお持ちなのでしょうか。その不安は無用ですよ。「教会と国家」記事で書けることは歴史学事典等、私の調査で明らかになっていますから。つまり、2001IP氏の執筆内容それ自体は独自研究ではない、しかし、その内容を他のもっと適切な記事でなく、「政教分離の歴史」に収載しようとするため、このような議論になっているのです。当初いっていたように2001IP氏が「教会と国家」に改名します、と承認したらこの議論もかなり早く解決するのです。--121.107.209.16 2017年3月6日 (月) 14:22 (UTC)[返信]

議論の整理(2001:268:C068:D264:DC8A:3373:B82D:AD26による)

まず、議論が錯綜しているので、整理します。ここまでで確認されたことは以下の2点です。

  1. 本記事の内容は独自研究ではない。
  2. 政教分離原則とは別個に歴史学的な議論がある。

少数派の見解だから(ちなみに五十嵐修を読めば、山田『教会から国家へ』の影響については明確に論じているので、少数派かはわかるはずだが)どうだとか方針文書に根拠のない議論を展開されていますが、まずは本記事が独自研究ではなく、ウィキペディアに記載される内容として問題ないことは明確に確認されたことは認めるべきです。内容の議論はその先にすべきであって、こうした合意をないがしろにして先に進めるべきではありません。これまでの議論の混乱も121.107.209.16さんが一つ一つの合意を大事にせずに次々議論を拡散させているために起こっていることをご理解ください。改名提案はすでに「聖俗分離の歴史」への改名という形で進んでおり(「国家と教会」ないし「教会と国家」の記事名がどうして問題があるかについてはすでにだいぶ前に議論済み)、分割提案はそもそもの根拠が上の2点の合意で失われるのでとりあえずは終了されるべきです(宗教改革節うんぬんについてもすでに議論したので繰り返しません)。--2001:268:C068:D264:DC8A:3373:B82D:AD26 2017年3月6日 (月) 15:07 (UTC)[返信]

記事名、節名が不適切であるということです。また、「歴史学的政教分離論」は既存の文献でそのような学術語は確認できませんので、独自研究といえます。改名に対応されるということならば、「政教分離の歴史」で現状の記載が存続しないことには合意されたとみて、#記事の内容整理の提案に参加します。--121.107.209.16 2017年3月6日 (月) 15:49 (UTC)[返信]
これ以上、勝手に合意をねつ造しようとしたり、方針文書の自己都合での解釈を強要したり、無用な議論を強要することをするような強引な行動を続けることは無益ですからおやめください。合意を一つ一つ大事にしていくというウィキペディアの推奨している議論過程を踏まえてください。私が「歴史学的政教分離論」が学術語であるなどとはこれっぽっちも言っていないのに、相手の言葉尻を捉えたような議論をするのはそろそろおやめください。これまでも印象操作や個人的感想の繰り返しなど、正常な議論形成を阻害することをなさっていますね。もはや正常な議論ができないというのであれば、コメント依頼などを出さざるを得ません。--110.132.106.234 2017年3月6日 (月) 16:02 (UTC)以上の発言は2001:268:C068:D264:DC8A:3373:B82D:AD26のものです。IPが変わったので明記します--2001:268:C068:D264:F1F4:E4CE:66D4:2B41 2017年3月6日 (月) 16:05 (UTC)[返信]
合意を捏造しているのはそちらでしょう。「方針文書の自己都合での解釈を強要」などというが、2001IP氏の行動が明確に方針違反することは具体的に指摘した通りです。「歴史学的政教分離論」が学術語でないなら、なぜそのような曖昧な造語を使うのでしょうか。現状の節でも「歴史学的視野」と書いていますが、この「歴史学」とは「ドイツ国制史系統の歴史学」という意味でしょう。そしてアメリカ史研究を出典としては使えないというのですから、議論にならないと思っているのは、私もそうですよ。なお、合意形成のためのコメント依頼はすでにしています。--121.107.209.16 2017年3月6日 (月) 16:23 (UTC)[返信]
合意のねつ造とは「『歴史学的政教分離論』は既存の文献でそのような学術語は確認できませんので、独自研究といえます。改名に対応されるということならば、『政教分離の歴史』で現状の記載が存続しないことには合意されたとみて」というような発言を指します。私が同様に121.107.209.16さんが勝手に合意したと言ったことはあったでしょうか。「現状の節でも『歴史学的視野』と書いていますが、この『歴史学』とは『ドイツ国制史系統の歴史学』という意味でしょう。」という発言についても、国制史的理解は持ち出しましたが、それがすべてであるとは全く言っておらず、政治思想史や法思想史や政治神学の議論なども提示しております(そもそもベッケンフェルデは政治思想史の立場で発言しています)が、それを確認せずにそうだこうだと決めつける議論が多すぎます。この決めつけ姿勢はどうもウィキペディアで一般的なのか、他の方にも見受けられますが、とくに121.107.209.16さんは著しい。「引用できないのは独自研究だからだ」みたいな決めつけもしていましたね。これまで印象操作や他者の発言の曲解、明らかな個人的感想の繰り返し、論点すり替えなど指摘してきたわけですが、反省せず、水掛論に持ち込もうというのならば、ここで展開されている121.107.209.16さんの行動全般にわたってコメント依頼を出さざるをえません。明らかに正常な議論を阻害しています。--2001:268:C068:D264:A49D:FFA6:F92D:DB35 2017年3月6日 (月) 16:35 (UTC)[返信]

あとアメリカ史うんぬんについてはおそらく中山勉「ロジャー・ウィリアムズ研究」を挙げていると思われるのですが、あれは従来アメリカの政教分離原則の基礎といわれてきたロジャー・ウィリアムズの思想は政教分離原則そのものとは直接的に関係ない伝統的な神学思想の議論でしたねっていう論文なんですけど、それが一般化されて政教分離原則やここでの歴史学的な教会国家関係の議論全体を見渡す権威のように持ち出されているので、明らかにおかしいという私の指摘ですけど、これがなぜ非難されることなのかむしろわからないです。中山勉自身はその論文の中でこの記事でいうような議論を「世俗化論」としたうえでこの論文はそういう議論とは交わらない(p.216)と明確に言っているんですけれども。--2001:268:C068:D264:2812:D0E8:66C:683F 2017年3月6日 (月) 17:56 (UTC)[返信]

独自研究問題は解決していないこと、アメリカ等近代史も掲載されるべきこと、記事の私有化について(121.107.209.16 2による)

1.まだ独自研究問題は解決していない

私が合意の捏造といったのは、2001IP氏の「本記事が独自研究ではなく、ウィキペディアに記載される内容として問題ないことは明確に確認されたことは認めるべきです。内容の議論はその先にすべきであって、こうした合意をないがしろにして先に進めるべきではありません。」という発言、および「一つ一つの合意を大事にせずに」についてです。「本記事が独自研究ではない」とは、記事全体についてではありません。まだまだ出典が明記されていない部分、記事の主題である政教分離の歴史と関連性が不明な部分は多数あります。そうした部分が改善されていない以上、「本記事が独自研究ではない」とはいえません。私が言ったのは、調査を通じて各種文献で古代中世への言及があったため古代中世の前史を書くことは確認できたということ、そして山田欣吾らの世俗化論もここに記載されることには反対しないということです。「決めつけ」といっても出典のない箇所は独自研究と疑われても仕方ないし、出典が提示されない箇所は削除の対象となります。「一つ一つの合意を大事にせずに」、何が合意されたのか。まだ改名も分割も合意されてないし、出典が提示されていない箇所は膨大に残されています。

2.アメリカ史

アメリカ史については中山論文だけではなく他の文献も提示しています。私は中山論文を「権威」にしていませんし、情報源の一つと認識していると前も言いました。中山の批判は、「中世でも政教分離あった」みたいな意見に対して学問的に厳格でなくてはならないという批判であり、世俗化論、ウィリアムズの従来の評価に対しても重要な批判をしており記載されるべきでしょう。つまり、 各種文献よりアメリカ史についても記載されるべきである。山田欣吾、ベッケンフェルデの記載は可能であるが、「政教分離」概念を使用していない文献を「私は内容としては政教分離にあたると思う」という主観的な判断で大々的に使用することには反対します。

また、「『ロジャー・ウィリアムズ研究― 政教分離論の虚実と代表的著作に見られる神学思想』はアメリカ政教分離思想史の専論で、直接的に国家・教会関係を扱ったものではないので、これを中心的に扱うべきとは思われません。古谷以降の文献も基本的には外されるべきと思われます。」とも発言されていますが、何をいっているんです?「アメリカ政教分離思想史」だから、「政教分離の歴史」の出典として有効です。「直接的に国家・教会関係を扱ったものではないので」というならば、「教会と国家」記事で書けばいいでしょう。「古谷以降の文献も基本的には外されるべき」とは、もう話にならないので、私の方からも利用者の行為についてのコメント依頼をするしかないかもしれませんね。

2.「政治思想史や法思想史や政治神学」の記載

「政治思想史や法思想史や政治神学」の記載については、情報源に「政教分離」が明記されていない場合は、無効です。他の適切な記事で記載してください。このような共同編集による議論が無意味で無用だと思うなら、自分で出版されるか、論文を発表すればいいではありませんか。学会にいるならば、なぜ発表しないんです?2001IP氏の「政教分離の歴史」が学会誌や大学紀要などで掲載されれば、出典として使えるのですよ。もっとも、分量や、他記事との掲載内容との関係の問題は残るでしょうから、議論が終了するわけではありません。

4.記事の私有化の典型例

この記事のほとんどを執筆したKanbun氏は[5]で「後ろがいらないってことであれば、そこを切ってとりあえず私の利用者ページにでも移して、適当に加筆しながら別の形での投稿を考えてもいいと思いますし(自サイトに移しちゃうかもしれませんが)。いまのところ、ときどき気づいたときに増補しているって感じなので、それほど執着があるって記事でもないですから、そこらへんは忌憚無く「こうしたらいいんじゃない?」って言葉をかけてくだされば。」と発言されていました。2001IP氏のこれまでの発言からKanbun氏と同一人物の可能性が強いですが、現在は執着しているということでしょうか。過去にKanbun氏は大項目主義派であると宣言するなどし、読者にとって全体の見通しが悪く不便であること、明らかにバランスを失しているという他人の指摘を聞こうとしません。2001IP氏はKanbun版を守ろうとしているわけですが、これらは記事の私有化に該当する行為です。Wikipedia:記事の所有権での「記事を荒らしから守っているつもりで、あらゆる変更に対して敵意をもって対応する編集者」「中立性という方針の重要性を十分に理解できずに、自分自身の特定の観点を推し進めようとする編集者」、また発言例に「あなたには、この記事を編集するにふさわしい資質があるといえるのでしょうか?」「この記事を見た限り、問題はまったくないと思います、この記事を変更する必要は全くありません」とありますが、2001IP氏はこれに該当する典型例といえるでしょう。--121.107.209.16 2017年3月8日 (水) 15:03 (UTC)[返信]

  • 「政教分離の歴史において重要なロジャー・ウィリアムズについて書かれたこの論文を出典に、人権信教の自由、自由権、プロビデンス入植、千年王国論、そしてこの論文でも紹介されているティモシー・ホール『教会と国家の分離』(Hall, T. M., Separating Church and State, Urbana, University of Illinois Press, 1998.)をもとに合衆国憲法修正第1条とロック、ジェファーソン、マディソン、ウィリアムズの思想を、『政教分離の歴史』で執筆することに2001IP氏は反対はされないでしょう。」という面白い発言を覚えていらっしゃいますでしょうか。それ以前に井上修一論文を持ち出したときにも指摘しましたが、明白な論文の誤読をしておりますね。まず121.107.209.16さんはご自身に都合のよい記述を、論文の本来の趣旨とは異なる意味で勝手に切り取って使うことをおやめください。これまでの議論はずっとこの調子であり、他人の発言を正確にフォローすることさえできておりません。さすがにこれ以上問題のある行動を放置するわけにもいきません。正直ここまで全く正常な議論になっていないからです。
  1. とくに明確に問題だと思われるのが「私がこの記事を書いたから私物化したい」というような意味不明で印象操作を目的としているとしか思えない発言です。私がこの記事の議論に参加したのは不適切な分割を差し戻したことが直接の原因であり、少なくともそれ以前に積極的に編集に関わった事実はないのですが、私が「この記事を私物化している」と印象づけるために繰り返し「私が記事の記述の改変を拒んでいる」ような主張をなさっています。しかしながら、私は近代以降や日本の政教分離などについてはむしろ分割を推奨しております。この点は明確に事実に反することは以前お伝えしましたが、いまだに無視し続けています。相当に思い込みが激しいのか、こちらが言ってもいないこと・明らかに事実と異なると思われることをいちいちおっしゃるので、訂正するのも煩わしいです。全体的に決めつけが多いのもどうも思い込みの激しさゆえと思われます。
  2. 次に記事に参考文献が挙げられているにもかかわらず、それを直接的に参考とせずになぜか関連性のない文献を挙げて議論を進めています。何度もこのような議論の仕方の不適切性を指摘していますが、一向にその態度を改めようとしておりません。しかもご自身の提示されている論文の内容も理解されておらず、そもそもこの記事との関連性を121.107.209.16さんが認識できる能力があるとも思えません。
  3. 私が記事内容はおそらく歴史学的な議論を踏まえていることを指摘し、この記事が使用していない複数の文献を挙げて記事内容がおおむね妥当と思われること(その後121.107.209.16さん自身も新たにほかの文献によって記述の裏付けを見つけていらっしゃいますよね)、参考文献のいくつかに当たれば出典は確認できることをすでに提示しており、しかもご自身で確認されているにもかかわらず(当初は確認することさえ拒否していましたね)、いまだに独自研究だと言い続けていること。それも当初はこの記事の議論が文献で確認されればよいとしていたのが、次々態度を翻し、最近に至っては誰も主張していない「歴史学的政教分離論」の学術用語としての確認が必要であるなどという奇妙な主張に至っていること。
  4. 議論の途中で論点を追加すること。分割議論の最中に別件の独自研究議論を突然提示したり、明らかに方針文書に基づかない独自研究の論点を次々提示して議論を終わらせようとしない点は問題です。たとえば当初は出典が確認できればよいとしていたのが、参考文献が示されたとたん、情報の合成がおこなわれているという議論を追加し、しかし現状は明らかに情報の合成の定義に当たらないという見解を示すと、それを無視して「歴史学的政教分離論」という学術用語が見つけられないと独自研究だなどという意味不明な議論に転換する行為をおこなっています。しかしながら、そもそも本記事の「政教分離」という用語に混乱の原因があることとこの記事の内容が独自研究であることは直接的には関係しません。本記事の内容が文献で確認できるならば、検証可能性は満たされており、基本的には改名すればよいだけです。
  5. 人の発言のねつ造を行っていること。上記「歴史学的政教分離論」なる言葉を学術用語として私が提示したという根拠のない発言や、私が近代以後は別記事にすべきなどと主張したという一連の虚偽発言。これは明らかに問題行動であると思われます。
  6. 合意の強要。編集合戦中の保護依頼中にもかかわらず、一ヶ月以内に出典を書かなければ記述を消すといってタグ貼りをしたり、改名提案に同意することは記事を削除することを認めることであるという意味不明な論理を持ち出して、人が削除に合意したものと見なすというむちゃくちゃな議論を展開しています。これは端的に議論進行を著しく阻害するのみならず、ハラスメント行為です。
  7. 相手の文献は一般的でないと決めつけるのに対し、自分の文献はたとえ関係なくても信頼できる文献と強弁する不適切な態度。信頼できる文献は学術的な内容についてはその信頼性を学問的に認められているかどうかまで検討されるべきと明確に述べています。山田欣吾の教会国家論やベッケンフェルデの議論については研究文献において明確な言及がされており、その影響力は提示した文献を読めば確認できるにもかかわらず、なぜか独自研究だとするのに対し、とても主流とは思えない民事法関係の井上修一氏の文章やロジャー・ウィリアムに特化した中山勉氏の文章が、本記事の内容と直接ほとんど関わらないのに信頼されるべきものと主張されています。しかしながら、121.107.209.16さんはロジャー・ウィリアムが政教分離原則の成立に重要でないという論文をなぜかロジャー・ウィリアムの政教分離原則に決定的役割があったと読み違えているほか、井上修一論文についても本論はライシテの、それも公教育に関わる教科書的議論であるということさえ理解しているとは思えない。そもそも論文の内容についての理解ができていない点が散見されますが、それはそれらの論文を記事内容と関連づけるという一番大事な作業を怠っていることを伺わせ、結局自分に都合のよい記述をネット上から探してきているだけで、独自研究をしているだけと思われます。いわゆる「ググっただけ」の議論をしているようにしか思えません。121.107.209.16さんの主張は自身の提示した文献を読み取った物ではなく、都合のよい部分を切り取って使っているだけで、これはウィキペディアでいう情報の合成に当たり、明白に独自研究であります。
  8. また記事が「政教分離の歴史」としていることについては文献を示して、それが適切ではないにしても一定の理由があることが十分に推察されることはすでに確認されています。記事名が適切ではないからと言って独自研究になるという121.107.209.16さんの主張はウィキペディアの方針文書に根拠がなく、ウィキペディアの方針に基づけばただ単に記事を適切な記事名に改名すればよいだけです。

ちなみに中山勉さんはなぜかウィキペディアでは政教分離論の権威らしく、121.107.209.16さんだけでなく大和屋敷さんもこのあまり著名とは思われない論文を大変有り難がっておりましたことをよく覚えております。政教分離の議論でもロックなどに比べてかなり特殊なロジャー・ウィリアムズについてなぜこんなに大きな関心を持っていられるのかわかりませんが、それなら論文の内容くらいちゃんと読んだらどうですか。--2001:268:C068:C235:2882:94D3:3DF6:D777 2017年3月8日 (水) 15:39 (UTC)[返信]

「正常な議論になっていない」原因を私にのみ押し付けるとは奇怪ですね。自分の対応が完璧だとお考えですか?議論はお互いのやり取りによって形成されるものです。不手際はお互いにあるでしょう。
近代以降や日本の政教分離の分割を提案するなら、ちゃんと分割提案の手続きをとって、別個に節を立ててください。しかし、いまは近代以前の記載についての分割または改名提案をしているのですから、議論が拡散します。しかし、明確に回答した方がいいでしょうからいいますが、近代以降の分割には反対します。各種事典論文の研究の一般的傾向から「政教分離」の歴史は、近代以降がメインになるべきなのは私の調査の通りで、各種事典論文など歴史学、宗教学、地域研究、法制史などの分野における政教分離について「近代以降」はメインで扱われており、宗教改革以前の前史、例えば両剣論については一行程度で扱われる程度です。なお、両剣論という記事は私が立項したものですが、一年前の分割作業の際に新規立項する方が適切であると考えたため、作りました。この記事の記載も一部転載させてもらい、活用しています。両剣論記事ができたことによって、詳細は両剣論記事で書き、この記事では簡単な紹介で済ませることが可能になります。各種事典・百科事典でも、各記事がある場合は、それぞれに適切な解説をすることが一般的です。その場合、ある程度の重複も一般的です。
近代以降や日本の政教分離について加筆でなく、「分割」を提案される理由も分かりません。近代の前史が分量のバランスが過剰なことが問題になっているのに、近代移行について加筆を許さないような言い方をしている(「「ロジャー・ウィリアムズ研究― 政教分離論の虚実と代表的著作に見られる神学思想 」はアメリカ政教分離思想史の専論で、直接的に国家・教会関係を扱ったものではないので、これを中心的に扱うべきとは思われません。古谷以降の文献も基本的には外されるべき」などの無根拠で意味不明の発言)から、「新たに加筆する場合は、分割し、そちらに書くべきである」という意味のことをいっているようにしか思えません。従ってこれを「記事の私有化」といっています。そのことは私以外の方も同様の指摘をなさっています。「思い込みが激しい」のは2001IP氏でしょう、どう考えても。
  • 既存の文献で裏付けのとれない、執筆計画を述べる前に、あなたがやるべきことは、既存の記載について出典を明記することです。
  • そして、近代以降の加筆を受け入れることです。
  • その後、全体のバランスや他の記事の利用などを考慮し、各個別の記載について検討していく
こういう流れになるでしょう。
「記事に参考文献が挙げられているにもかかわらず、それを直接的に参考とせずになぜか関連性のない文献を挙げて議論を進めています。」といっていますが、記事の全てに参考文献が挙げられていません。また、出典があるからといって、原文に「政教分離」の語句が使われていないものは、この記事では原則として不可、です。他の記事をご利用ください。「関連性のない文献」とは、具体的に何の文献でしょうか、明示してください。
「議論の途中で論点を追加すること」ですが、そちらも話をすり替えたり、自分の都合にかなうことしか受け入れないじゃないですか。「独自研究の論点を次々提示し」などといっているが、最初からいっています。「議論を終わらせようとしない」のは、あなたが独自研究を指摘されているのに、山田欣吾ですべて解決みたいな短絡的な捉え方をして、誠実な対応をとらないからです。霊性、カロリング朝、ビザンチン、そして宗教改革前後について、山田欣吾の本にkanbun版の記載内容と構成すべてを山田欣吾とベッケンフェルデで足りると考えているなら、間違いですし、そんなこと書いていませんよね。
「本記事の内容が文献で確認できるならば、検証可能性は満たされており、基本的には改名すればよいだけです。」といいますが、記載内容全てに出典を明記してからいいましょう。
「編集合戦中の保護依頼中にもかかわらず、一ヶ月以内に出典を書かなければ記述を消すといってタグ貼りをしたり、改名提案に同意することは記事を削除することを認めることであるという意味不明な論理を持ち出して、人が削除に合意したものと見なすというむちゃくちゃな議論を展開しています。」、タグ剥しをしているのはどちらですか。他人から問題を指摘されているのだから、「問題じゃない」と自分の主観(思い込み)だけで反論するのでなく、ちゃんと出典を明記してください。タグ剥しは荒らし行為とみなされます。
「相手の文献は一般的でないと決めつけるのに対し、自分の文献はたとえ関係なくても信頼できる文献と強弁する不適切な態度」について。「政教分離」と明確にかかれているかは当然採用の規準となります。それどころか、あなたは既存事典での「政教分離」項目さえ、「自分が書いた内容と違うので、不可」というでしょう。それが、記事の私有化なのです。山田欣吾の権威は関係ありません。どの専門分野であれ、自費出版や同人誌ではない、大学紀要、書籍の論考は、「政教分離」について明示的に論じてあるものはすべて採用されるべきです。あなたの最大の問題は、「政教分離」について明示的に論じていない出典を自分独自の規準で採用するだけでなく、さらには「政教分離」について明示的に論じてある出典を採用すべきではない、という荒唐無稽な、ほとんど冗談のようなことばかり繰り返しています。
「結局自分に都合のよい記述をネット上から探してきているだけで、独自研究をしているだけと思われます。いわゆる「ググっただけ」の議論をしているようにしか思えません」、これは撤回し、謝罪をしてください。私の調査を侮辱しています。事典類は図書館や書店を回って、中には購入したものもあります。
何度もいうが、中山論文を「ウィキペディアでは政教分離論の権威」ではない。自分が特定の本を「権威」とするからといって、他人もそうしていると勘違いしないように。ロージャー・ウィリアムズについては、「1636年,北米ニ ュ ーイ ングランドの一隅に自ら創設したプロヴィデンスのタウ ン統治機関で ある 家長会議の権限を 「宗教を除く世俗の事項に」(“only in ciuillthings”〉限定したことによって, 政教分離と信仰の自由の保障とい う近代民主主義の基本原則の一つを17世紀の早い時期に現実の政治において実現したと評価されている(久保田泰夫「ロージャー・ウィリアムズの政教分離論 : 主著『信仰上の理由による迫害の血塗れの教義』(1644)を巡って」)。中山論文はさらにこうした評価を厳密に研究したものです。
コメントが書きづらいので小節にしました。--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 12:23 (UTC)[返信]
121.107.209.16さんの日本語理解能力に率直な疑問を表明いたしたく思います。論文の要旨さえも確認できないようですね。要旨に拠れば「本論文は、今日、政教分離・信教の自由論の開拓者という評価を享受するロジャー・ウィリアムズの著作を 17 世紀当時のコンテキストに置くことにより、彼の思想はそれらの概念とは異質であり、萌芽的とすら言い難いことを論証したものである。」というものであり、従来の「政教分離と信仰の自由の保障とい う近代民主主義の基本原則の一つを17世紀の早い時期に現実の政治において実現したと評価されている」という評価を明確に否定したものです。正直論文の読み方すらわからないのであれば、この記事の内容もこれっぽっちもわからないんじゃないですか?中山論文は結局何のために持ち出してきたのかいまだに謎です。井上修一論文もあれは結局なんだったんですか?記事内容と関係のない文献だってわかってらっしゃいますか?--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 13:32 (UTC)[返信]
はっきり言ってしまえば、121.107.209.16さんは政教分離原則やロジャー・ウィリアムズ、この記事で書かれている歴史学的な議論、こうしたものすべてに元々興味も持っていないないし、勉強もしていないんです。ただ単に都合のよい記述をググった中から探し出してきているだけで、こういう中高生がやりがちな検索結果の無作為抽出をしているだけです。だからいつまでたっても議論がかみ合わないんです。少なくともこの分野で言及されないことが珍しい山田欣吾の教会国家論を知らない時点でかなり怪しいとは思っていましたが、ここまでの議論でもまともな文献は自力で挙げておらず、しかも関連文献を調べたと言いながら、肝心の記述箇所を見逃していたりします(おそらく索引しか見ていないのでしょう。ググっただけの人がやりがちなパターンです)。ここまでつきあってきましたが、こうした議論姿勢は明確に「信頼できる情報源」の方針と反しておりますので、さすがにこれ以上はお控えください。--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 13:45 (UTC)[返信]
中山論文の趣旨は理解しています。しかし、ロジャー・ウィリアムズの評価について久保田論文のような評価もあるので、それを書き、次いで、その評価に対する中山による新たな評価(批判)も両方書くべきであるということです。「「信頼できる情報源」の方針と反して」いるとは、全く意味不明。反論のための反論のようなことは止めませんか。そして、私の質問に答えてください。近代以降について加筆してよいのですね?(確認せずとも、ちゃんと出典を明記して加筆してよけばいいのですがね。)--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 13:51 (UTC)[返信]
「信頼できる情報源」の方針をご存じですか?そこには「情報源は、専門分野外よりも専門分野内の方がより信頼できます。」と書かれていますね?この記事内容は歴史学的な国家と教会の分離の議論を踏まえていることが明らかになっており、政教分離原則に関わる歴史事象を扱っている記事ではないことは確認されたはずです。関連性を無視して、いまだに分野外の文献にこだわっているのは121.107.209.16さんです。こうした関連性の薄い記述は、そもそも121.107.209.16さんの当初の主張に拠れば、こちらに書かずにそれこそロジャー・ウィリアムズに加筆されてはいかがでしょうか。真っ先にこちらに加筆しようと思った理由が不明確です。近代以降についてはまだ記事名の改名もされておらず、それによって明確にならないと一概には言えませんが、現状は政教分離原則#歴史節にまず加筆なさるべきと思います(こちらは記事の趣旨が異なりますことはさすがに理解しておりますよね?)。--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 14:04 (UTC)[返信]

現在、本文で出典が明記されていない箇所にタグ付けしていますが、驚くべきことに、半分以上が無出典です。世界の一体化記事もそうですが、長い記事で、参考文献だけずらりと挙げているわりには、脚注をさぼってエッセイで済ませるのはよくないです。--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 13:51 (UTC)[返信]

私がすべてではありませんが出典を確認したところ、現状の記述の大部分は脚注にて出典が追加できることは以前表明し、その追加の合意を求めましたが、拒否されたのは121.107.209.16さんです(こうした経緯を振り返れば、驚くべきことに、上の121.107.209.16さんの主張はほとんど印象操作です)。ここでこういう発言をなさっているということは脚注の追加を認めてくださるということでよろしいですね?--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 13:56 (UTC)[返信]
脚注の追加を拒否したことはありません。捏造しないでください。出典の明記は歓迎すると一貫していっています。--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 14:00 (UTC)[返信]
了解しました。では出典を追加します。--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 14:05 (UTC)[返信]

投票の提案

合意の強要などという発言が飛び出しています。議論は尽くしたと言えるでしょう。改名、分割について、案を整理し、多数決による投票により解決する段階に入ったんじゃないでしょうか。--ぽてから会話2017年3月8日 (水) 23:21 (UTC)[返信]

  • 賛成 同感です。このままなら、議論が堂々巡りするように思われます。IP氏お二人から同意が得られるなら、論点整理などを行っていただきたいですね。--Susuka会話2017年3月9日 (木) 17:01 (UTC)[返信]
  • 反対 そもそも何を調査投票するかが明確に提示されていないうえ、記事内容について多数決主義をとることはWikipediaの方針(WP:DEM)に明確に反しているように思われます(多数決による決定は検証可能性や中立な観点を直接的には満たしません)。出典に即した検証可能性の確認を第一に採用すべきで、多数決ではなく、合意と編集によって記事内容をブラッシュアップするのがつねに推奨されている解決方法と思います。--2001:268:C068:DCFF:D45E:80AE:1E05:4963 2017年3月9日 (木) 17:27 (UTC)[返信]
2001:268:C068:DCFF:D45E:80AE:1E05:4963さんは、実質、自分と異なる意見は一切認めない行動を取られてますので、記事の私有化を主張し論争の解決を拒否されていることになりますね? Wikipedia:論争の解決#ステップ3: 第三者を交えて議論するによる合意が出来ない場合、Wikipedia:論争の解決#ステップ4: 投票を行うことになりますが、Wikipediaのガイドラインによる解決方法を拒否されるということですね?--ぽてから会話2017年3月10日 (金) 00:54 (UTC)[返信]
調査投票を行う場合は方針に従えば、事前に何を投票の主題にするかなど基本的な事項について合意が必要です。そもそも投票自体がウィキペディアではあまり推奨される解決方法ではありませんが、それ以上にぽてからさんは調査投票の提案を適切に行っていません。そして「実質、自分と異なる意見は一切認めない行動を取られてますので、記事の私有化を主張し論争の解決を拒否されていることになりますね?」という決めつけがやっぱり出てくるのですが、このノートではこういう決めつけ行為が平然と行われているのは大いに問題です。はっきり言ってしまえば、このぽてからさんの発言は印象操作でしかありません。--2001:268:C068:DCFF:713D:B0F5:BFB8:C31D 2017年3月10日 (金) 02:13 (UTC)[返信]
  • 質問 では伺います。2001:268:C068:DCFF:713D:B0F5:BFB8:C31Dさんは、現状で対立を生んでいるこの案件について、よりよい成果を得るためにはどのような手法が期待されると思っておられますか?--Susuka会話2017年3月10日 (金) 02:16 (UTC)[返信]
私は当初から適切な記事名への改名により「政教分離」という用語に関わる問題は解決される(現状の分割議論はこの「政教分離」という用語を政教分離原則に強引に結びつけて主張されています)という点は明確に指摘しています(これに対する反論は現状全くないはずですが)。次に独自研究かどうかについてはすでに文献での確認と2次情報・3次情報の裏付けがされており、加筆によって歴史学的理解に基づく物であると明確化したことにより中立的な観点や特筆性の問題と合わせて解決されていること。残るは記事のブラッシュアップ(その過程で記事内の細かい独自研究問題は編集の進展によって解決されると思われます)と容量的な問題から世界の一体化のような分割を行う場合は文献情報の継承・細かい議論の拡散などの問題の危惧からブラッシュアップ後におこなわれるべきことを何度も言っております。--2001:268:C068:F936:B87D:2055:48DF:3EA0 2017年3月10日 (金) 02:54 (UTC)[返信]
コメント ぽてからさん、Susukaさん、私も投票には原則賛成ですが、いまの状態で投票しても、2001IP氏が納得されない場合(納得されない確率は100パーセントと思われます)、編集合戦になるだけのような気がします。また、2001IP氏をブロック依頼したとしても、管理者の方々の中には、議論に応じているので議論を続けるべきではないかという意見もあるかと思います。また、2001IP氏がブロックされた場合、この記事に非常な愛着を持たれているようですので、いずれはまた戻られるでしょう。ただ、「利用者の行為についてのコメント依頼」は検討してもいい段階には来ていると思います。ただ、一番いいのは、2001IP氏との合意形成です。私も急がないでじっくり2001IPさんとの合意を目指していこうと考えています。
2001IP氏へ。「世俗化過程」の加筆によって一部改善したのは確かですが、それ以外の記載についてはまだ確認がとれていません。しかし、ブラッシュアップには賛成します。ノートでの議論はまだ解決しそうにないので、平行してご自身のペースで構いませんので、加筆していってください。ただし、明確に「政教分離」との関連が書かれた情報源を出典に限定して欲しいです。たとえば、ビザンチンの歴史が「関連がある」という場合、「政教分離の歴史」に書くべきか、あるいはビザンティン・ハーモニーの方が適切であるか、検討してください。また、世界の一体化ですが、分割の先例としては参考にはなりますが、出典もこの記事よりも不十分で、記事の品質が高いわけではないです。--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 09:05 (UTC)[返信]

また知ったかぶりですか。なぜかビザンティン・ハーモニーとリンク付けされているので上のような見当外れの話をしているんでしょうが、ビザンティン・ハーモニーは正教神学上の概念で必ずしも歴史学では一般的ではなく、その使用は非常に慎重に行われています。そもそもこの記事の内容は比較国制史の対象としてビザンティン帝国を挙げているのであって、神学論の視点は記述されていませんから、ビザンティン・ハーモニーの議論とは関係がありません。--106.161.157.192 2017年3月11日 (土) 12:01 (UTC)2001:268:C068:F936:B87D:2055:48DF:3EA0[返信]

だったら、「「ビザンティン・ハーモニー」も参照」を本文から削除すべきでしょう。「神学論の視点は記述されていません」といっているが、「神学論」を定義してください。その場合、独自の定義でなく、既存の事典や文献に書いていることで回答してください。--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 12:27 (UTC)[返信]
正直全く何を言ってるのかわかりません。まず「ビザンティン・ハーモニーも参照」とある件について私が付け加えたわけでもないし、そこらへんはブラッシュアップで取り除かれるべきですが、私が指摘しているのはビザンティン・ハーモニーが何たるかもわからずに「ビザンチンの歴史が『関連がある』という場合、『政教分離の歴史』に書くべきか、あるいはビザンティン・ハーモニーの方が適切であるか、検討してください。」というような発言を軽々にする121.107.209.16さんのいい加減な議論姿勢です(これまでもずっとこの繰り返しです)。そしてビザンティン・ハーモニーの定義はビザンティン・ハーモニーを見ればいいのであって、そこには神学政治学上の概念であると書いてあります。要はビザンティン・ハーモニーはどちらかといえばイデオロギー論の範疇に属するもので、この記事に書かれているのは国制史上の問題ですから、関連性はあるかもしれませんが、別個の問題です。それと私が記事に執着しているということをやたらと繰り返すのですが、ここまで来るともはや個人攻撃ですよね?事実に反することも指摘しており、なぜか別の利用者と同一視されているのですが、いい加減やめて頂けませんか。匿名性のあるウィキペディアで誹謗中傷が成り立つか微妙です(人格権が成立するか微妙)が、明らかに言いがかりですよ。私はこの記事の121.107.209.16さんのあまりにずさんな分割を差し戻しただけでこの記事に対する編集責任などは発生しているとは思えませんし、記事の中で私が今まで編集に関わった箇所はかなり限定的です。そして記事の私有化なんて議論は当初は全くなかったうえに、私が編集を拒否した事実がないにも関わらず(そもそも121.107.209.16さんの加筆やタグ貼りだって一切差し戻したりしてませんよね)、差し戻したことを記事の私有化とする最近の121.107.209.16さんの主張は記事内容をこえて、単なるレッテル貼りに終始しています。これは明らかに問題ですよ。--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 13:17 (UTC)[返信]
2001IP氏が書いたのでないなら、関連性が不明なもの、出典のないものをどんどん消してください。そして、現状を保存する意向を述べる前に、改善してください。無駄な議論です。--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 13:44 (UTC)[返信]
以前私が出典が確認できた箇所だけは議論の間に脚注をつけると言ったら拒否した事実は棚に上げてこういうことをおっしゃるんだから困ったものです。ちなみに121.107.209.16さんも上で文献を調査したのならば、121.107.209.16さんが独自研究などと評していた記述の出典がそこにあったことは確認されていますよね?索引だけ調べただけで本文なんて読んでないでしょうから、いまだに独自研究だと思い込んでらっしゃるんでしょうけれども。ブラッシュアップはともかく、脚注の追加については認めて頂きたく思います。この期に及んで、まさか反対しはしないと思いますが、合意して頂けますか?--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 13:51 (UTC)[返信]
「脚注をつけると言ったら拒否した」?私がいつ拒否しましたか?--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 13:59 (UTC)[返信]
別に拒否していないということであれば、問題ありません。以前提案したときは反対されましたので、念のため確認したまでと思って頂ければ結構です。--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 14:11 (UTC)[返信]
「念のため」で、「脚注をつけると言ったら拒否した事実」というのですか?「以前提案したときは反対」とはどの発言のことですか。提示できなければ明らかに発言の捏造なので、謝罪してください。--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 15:30 (UTC)[返信]
謝罪を求められるということは、当然のことながらこれまでの121.107.209.16さんの私に対する個人攻撃とも思える印象操作、とくに記事の私有化を私が目的としているという主張についても明白に虚偽であることを認め、謝罪してくださるということでしょうか?私も適切な謝罪を示して頂けましたならば、相応の謝罪をすることにやぶさかではありませんが、いかがですか?ちなみに121.107.209.16さんに対する提案は「しきりなおし」節で二回おこなっており、両方ともに出典の追加を提案しております。しかし両方とも121.107.209.16さんは拒否されたわけですが、たとえば出典の追加をもし本当に121.107.209.16さんが賛成しているならば、出典の追加だけは認めるという意見を述べるのが当然と思われますが、結局のところそうした意見は見受けられず、私は編集合戦を恐れて出典の追加に踏み切れずにおりました。客観的に見て、文脈に即すれば出典の追加の容認はされなかったという事実確認ができるように思われますが、そうでないのならば私の誤解だったということでしょう。ちなみに拒否した事実を指摘しただけで、発言をねつ造しているわけではないので、この点については根本的な誤解があるように思われます。--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 16:13 (UTC)[返信]
出典の追加は私にとっては大前提ですのでそれは誤解です。情報の合成や記事の私有化の話になったのは、「政教分離の歴史」という記事名における話であり、改名するならば話は変わります。--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 16:40 (UTC)[返信]
つまり他人には謝罪を求めるが、自分の行為について謝罪はしないということでしょうか?記事の改名によって過去の個人攻撃発言がなかったことになると?じつに素晴らしいバランス感覚をお持ちのようですね。--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 17:06 (UTC)[返信]

報告 現状の賛否集計。

確認と提案

お二人に確認させてください。

  • まず、現在お二人がされている論争を、中立的な観点を守った上で記事(例えば、『政教分離に関する論争』)にすることはできないのでしょうか。正直なところ、私にはお二人の論争の論点を細かいところまでは正確には把握できていません。論争(認識の差)だけでそれなりの分量になるのであれば、単独記事として立項したらよいと思います。
  • 上にも述べたように、私は論点の細かい詳細は知りません。そういういわば「素人」の目から見れば、本記事の叙述は「西欧の歴史をダラダラと書いている」ように映ってしまいます。前にも述べましたが、「本項目の内容説明に関連がある幹の部分が枝葉で覆われてしまったら、これもやはり読者の理解の妨げになりかね」ないでしょう。これは特に2001:268:c068:d20d:2c1b:7bf5:53ca:be5bさんに対する意見なのですが、記事のスリム化を図ることは可能でしょうか。

--Susuka会話2017年3月11日 (土) 14:18 (UTC)[返信]

  • まず1点目についてはここでおこなわれているのは政教分離に関する論争ではなくて、歴史学的観点で教会と国家の分離を近代化論を射程に入れて書かれているこの記事を政教分離原則と関連づけたい人がいると言うことです。2点目に関わることですが、それをしてしまうと記事が無際限に大きくなる可能性があることを私は心配しています。さらに政教分離原則と結びつけたい人は政教分離原則に関わらない記述を分割するという仕方を一度とっていますので、それに対して異議を申し立てているだけです。その異議を申し立てる立場から言えば、基本的に政教分離原則#歴史に政教分離原則に関わる事柄を集めればよいのに、こちらに持ってきては見通しが悪くなるのではないかという話です。
  • 2点目に関しては私もこの記事の煩雑さを大いに問題だと思っています。それゆえにブラッシュアップが必要だと思っており、出典の確認をおこなっているのもそのためです。やっかいなことに、この政教分離の議論は世俗化論とも関わっており、そちらに手を伸ばすと、マックス・ヴェーバーからカール・レーヴィット、リチャード・ローティやユルゲン・ハーバーマス、ジョン・ロールズ、ホセ・カサノヴァなどの著名思想家に触れざるを得なくなる可能性があり、歴史学的議論に限定しないとむしろ膨張する恐れがあります(ちなみにこうした本流の思想家に比べると、ロジャー・ウィリアムズなどほとんど特筆しなくてもよいくらいです。帝権と教権の議論で中世において支配的で本流だった両剣論を1行を済まして、政教分離原則の影響でも傍流のロジャー・ウィリアムズに記述を割くべきという121.107.209.16さんの発言は根本的な理解が成り立っていないのです。わかりやすく言うと、両剣論はロジャー・ウィリアムズを含め中近世の思想家に多大な影響を残していますが、ロジャー・ウィリアムズの思想は現代の思想にほぼ継承されておりません。それを明確に論じたのが中山勉論文ですから、中山勉論文を頻繁に根拠とする121.107.209.16さんの発言は明らかにおかしいのです)。だからこそ私はこの記事にさらに政教分離原則関連の記述を増やそうとされてしまう立場には懐疑的で、それをおこなうとただでさえ流れの明確でないこの記事の無際限な膨張につながります。そのため加筆によって歴史学議論であることを明確にした上で、一般的にドイツで国制史的な政教分離がなったとされる1803年までに限定し、地域もヨーロッパになんとか限る形にすべきと思っています。森安達也さんの著作は確認したところ、ロシアまで射程に入れているので、本来のこの記事は必ずしも時代・地域的な限定をしていなかったようでありますが、その点は修正すべきと思っています。--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 14:37 (UTC)[返信]
政教分離に関する論争でなく、ノートで議論されているのは政教分離の歴史に関する論争といえそうですが、そういう議論はあるのか、分かりません。事典類で立項はないでしょう。私の文献調査報告にある通り、私は「政教分離の歴史」に記載するのは、既存の文献で「政教分離」と明記されているものに限定すべきである、そして「中世からの教会と国家」(および「宗教改革」なども)分量のバランスや出典との整合性の観点から、別の記事にすべきであると主張しています。しかし、2001IP氏さんはなぜか全く理解しようとしません。中山論文については何度も回答しているのに、また同じことをいっていますし。「ドイツで国制史的な政教分離がなったとされる1803年までに限定」というにも、文献にあるのでしょうか。「流れの明確でないこの記事の無際限な膨張」と認めているのに、矛盾していますし、ドイツのことなら書いてよくて、アメリカについては書くな、というのは???です。ロジャー・ウィリアムズだけを書こうとしているわけではないのですが。ヴェーバー、レーヴィットなどは政教分離について明記してありますか?ヴェーバーの「政教分離論」では、佐野誠「ヴェーバーとナチズムの間 : 近代ドイツの法・国家・宗教」で使用例がありましたが、マックス・ヴェーバーは記事としてスカスカなのでそちらに書けばいいことではないでしょうか?
もう一点確認。#記事の内容整理の提案で2001IP氏は「別に「教会と国家の分離の歴史」でいいんです。」といっています。その後、私が「教会と国家の歴史」あるいは、「政教一致と政教分離の歴史 (ヨーロッパ)」はどうかと再提案したのに、それには回答されないのも奇怪ですね。なぜ回答されないのですか?回答次第ではそれで解決するのですが。--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 15:33 (UTC)[返信]
上のように全く議論の本筋がわかっていないのです。121.107.209.16さんの言っていることは要はグーグル検索ないしネット検索で「政教分離」と調べて出てきた文献で歴史記事を書きましょうという乱暴な議論です。私が言っているのはこの記事に書かれている内容から国家と教会についての歴史学的理解を確認できるので、その意味で記事内容をより明確にし、国家と教会の機構的分離、聖俗の思想上の分離を「政教分離」ということは一部を除いて一般的ではないので、「政教分離の歴史」という名前は上のようなググった議論をする手合いに文句をつけられる可能性があるので、さっさと改名しましょうということです。改名議論の推移も全く理解していらっしゃらないということでしたか。ググっている人は検索結果がすべてなので結局議論にならないのです。「『ドイツで国制史的な政教分離がなったとされる1803年までに限定』というにも、文献にあるのでしょうか。」については様々な文献で確認できますが、基本的な理解としては18世紀中に神聖ローマ帝国内の聖界諸侯は徐々に陪臣化と世俗化がおこなわれ、1803年帝国代表者会議主要決議において神聖ローマ帝国の国制は名目上も完全に教会の機構と分離し、世俗化することになります。という流れは別にドイツ史では常識的理解で、たとえば『ドイツ史研究入門』(p.98)などでも容易に確認できるわけですが、アメリカについて書くなについてはそもそもアメリカ合衆国ではその建国の時から国家機構と教会組織について分離が行われており、この記事でいうような分離の歴史がそもそもないという基本的事実をなぜ失念しているのか理解に苦しみます。おそらくググっても出てこないことはわからないのでしょう。--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 15:59 (UTC)[返信]
もう一点については121.107.209.16さんがずっと議論を見落としていて、しつこいくらい返答し続けているのですが、「教会と国家の歴史」では教会と国家という枠に収まれば何でもよいと言うことになるから今以上に記事が際限なくなりますよね?ってことをすでに指摘しています。次に「政教一致と政教分離の歴史 (ヨーロッパ)」ではむしろ何が何だかわからないうえ、結局「政教分離」という言葉が取り除かれていませんので、政教分離をググってどうこうする議論が後を絶たない現状が続くだけなので意味がありません。そのため、「政教分離」という言葉自体を別の言葉で置き換えるべきですが、しかしながらその際に国家と教会の機構的分離、聖と俗の思想的分離という現状の記事内容を適切に表現するために「分離」の後は外せないという議論をしているのです。これでようやくついてきてくれましたか?--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 15:59 (UTC)[返信]
ネットで確認すること、そして閲覧可能な論文を出すことに問題ありませんし、第一、私はネット調査だけで議論を進めていませんので、これも捏造です。神聖ローマ帝国うんぬんについては神聖ローマ帝国と重複になりますよね。神聖ローマ帝国を見ると、かなり出典が明記されていますが、「政教分離の歴史」とかなり内容も重複しています。「アメリカ合衆国ではその建国の時から国家機構と教会組織について分離が行われており、この記事でいうような分離の歴史がそもそもない」とは、アメリカとヨーロッパが歴史が違うのは当たり前ですが、何度もいっているように、この記事は「政教分離の歴史」という記事名なのだから、「政教分離」と明記されている文献を使用すべきです。「教会と国家の歴史」と「政教一致と政教分離の歴史 (ヨーロッパ)」についてはお考えを尊重しましょう。それで、「教会と国家の分離の歴史」ならばよいのですね?--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 16:30 (UTC)[返信]
本当に何を言ってるのかわかりません。神聖ローマ帝国と記事内容とかなり内容が重複しているのははっきり言ってしまえば神聖ローマ帝国の歴史がとくに教会と国家の機構的分離が典型的に展開されたからであることはすでに言ったはずですが、記事内容が重複したらどちらかに記事を包摂させなければいけないという論理がどこから出てくるのかわかりません。「『アメリカ合衆国ではその建国の時から国家機構と教会組織について分離が行われており、この記事でいうような分離の歴史がそもそもない』とは、アメリカとヨーロッパが歴史が違うのは当たり前ですが、何度もいっているように、この記事は「政教分離の歴史」という記事名なのだから、「政教分離」と明記されている文献を使用すべきです。」という発言が本当にわからない。これは結局アメリカ合衆国に国家と教会の機構的分離過程がそもそもないからこの記事の内容には直接的にならないという私の指摘をそうだと言ってるのか、どうなのか意味不明です。「政教分離」と明記されている文献を使用すべきについては記事名に文献が拘束されるという理解がそもそもおかしいのですが、121.107.209.16さんにそれを言ってもおそらくもうわかんないんじゃないかと思っています。ネット調査云々についてはむしろネットで確認できる論文以外をほとんど使用していない、この記事の参考文献はなぜか調査しない、そして私から見て明らかにこの分野、および政教分離に関わる議論に必要な基本文献が一つも示されていない、という根本的な問題があるのですが、おそらく何を言っても無駄でしょう。マックス・ヴェーバーとかディルタイ、カール・レーヴィットにいたる近代化論の系譜についてもネットで検索しちゃうあたり、ほとんど何も知らないんだと思います。--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 16:49 (UTC)[返信]
記事の重複についてですが、事典で「宗教改革」と「教会と国家」という二つの記事があった場合、「宗教改革」の詳細を「宗教改革」記事でなく「教会と国家」で書くべきでしょうか。「宗教改革」の詳細は「宗教改革」へ、「教会と国家」に書かれる宗教改革は簡潔に、というのが事典の記事関係における一般的な傾向であり、そのことは調査報告しています。ウィキペディアは百科事典です。したがって事典の立項状況を参考にするのは当然のことです。ヴェーバーは社会学者ですが、ディルタイ、レーヴィット、ハーバーマス、ローティ、ロールズも哲学者ですし歴史学者ではありません。やたらと思想家の名前を出しますが、それは「歴史学」というより「思想史」です。また、人名でなく、論文名で語るべきです。ヴェーバー以外が「政教分離」についての論文を書いているとは知りませんので。しかも、参考文献にさえ挙げられていないし、どうでもいい話です。自分が世界で一番の知識所有者であると思い込むこともどうでもいいことですが、「お前は何も知らない」と個人攻撃(Wikipedia:個人攻撃はしない「個人の経験を、利用者の独断で決めつけて攻撃する。」)する前に、本文にちゃんと出典を明記してください。--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 18:05 (UTC)[返信]
「記事の重複についてですが、事典で「宗教改革」と「教会と国家」という二つの記事があった場合、「宗教改革」の詳細を「宗教改革」記事でなく「教会と国家」で書くべきでしょうか。」については「宗教改革」に関することは「宗教改革」の記事へ、「教会と国家」に関することについては「教会と国家」に書けば良いのであり、宗教改革期の「教会と国家」について詳しく記す必要があるときは「教会と国家」に書けばよい(宗教改革は宗教改革全体の総論的記事になると思われます)のではないでしょうか。どちらにせよこのようなことに一方的なルールを設けるのは紙の辞書ではないウィキペディアでは意味がないことのように思われますし、個々の記事の問題ではないでしょうか(一方がほかの記事より詳しいのはおかしいから削れというのは成り立たない)。並立しうる内容の場合、どちらかの記事にどちらかの記事を合わせるというような明確な方針はとくにないように思われます。ヴェーバー云々については「国家と教会」の記事名にすると…という話で出したのであり、率直に言って今はもう解決した話で説明する必要もないので、どうでもいいです(アメリカの政教分離原則が…なんて言ってる割に、現在のアメリカの政教分離論の議論をほんとに知らないようですから不思議でならないのですが。その人物らを挙げた文脈は歴史学以外の議論が紛れ込む可能性の危惧について述べていたということもわかってないようですし、無駄でしょう。「ヴェーバーは社会学者ですが、ディルタイ、レーヴィット、ハーバーマス、ローティ、ロールズも哲学者ですし歴史学者ではありません。やたらと思想家の名前を出しますが、それは「歴史学」というより「思想史」です。」なんて発言はこちらの発言の趣旨が全くわかっていない証拠です。今まで何度も言ってるんですけど、基本的に121.107.209.16さんは他者の発言をフォローできていないんですよ。だから議論がかみ合わないんです)。--2001:268:C068:D20D:D14C:9310:7979:4D36 2017年3月11日 (土) 19:06 (UTC)[返信]

コメント では、いわゆる政教分離原則については『政教分離原則#歴史』に転記して、この記事は2001:268:c068:d20d:2c1b:7bf5:53ca:be5bさんがいうところの「歴史学的な政教分離」に限定する、という点では合意が取れたと見てよいわけですね?ならば、今の対立点は記事名だけということになります。--Susuka会話2017年3月11日 (土) 16:06 (UTC)[返信]

私は合意します。--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 16:24 (UTC)[返信]
記事名が「教会と国家の分離の歴史」となるのか、他に適切な名称がある場合はそれも議論するということであれば、そして出典が今後明記されていくのならば、いいでしょう。ただし、政教分離原則#歴史には今後も加筆していきますので、分量が肥大していった場合は、「政教分離の歴史」として分割提案をするでしょう。その場合、「教会と国家の分離の歴史」と「政教分離の歴史」の二つの記事が存在することになりますが、それでいいと考えます。--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 16:33 (UTC)[返信]

2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5Bさんに伺いますが、121.107.209.16さんが提案された『教会と国家の分離の歴史』という記事名への改名はいかがでしょうか。これにご同意いただけるなら、正式に改名提案を出そうかと思いますが。--Susuka会話2017年3月11日 (土) 16:57 (UTC)[返信]

こなれない名前ではありますが、とくに反対すべき理由もないと思います(個人的にはもっときれいに収まる名前がよかったのですが、しかたないでしょう)。--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 17:10 (UTC)[返信]

報告 改名提案を出しました。--Susuka会話2017年3月11日 (土) 17:22 (UTC)[返信]

歴史学的知見のみに基づくというのがそもそもの誤りだと思いますね。政教分離の宗教学的知見、社会学(宗教社会学)的知見、政治学的知見を排したら、それらの知見はどこに書けというのですかね。マックス・ヴェーバーの名前を出されてますけど、なおさら、歴史的学的知見のみに基づくのはおかしいでしょう。歴史学の研究者じゃありませんよね。教会と国家の関係について、歴史学的知見を記述されるのはよいんですが、学説の一つとしてきちんと提唱者の名前を書いてほしいんですよ。Wikipediaは歴史の教科書じゃありませんので。「〜の歴史」とつけると、歴史学的知見のみにされそうなので、あえて、「〜の歴史」はつけないほうがいいんじゃないですかね。--ぽてから会話2017年3月14日 (火) 02:50 (UTC)[返信]
件の発言をした2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5Bですけど、ぽてからさんもどうして121.107.209.16さんと同じ私の発言の誤解をなさっているのでしょう?「国家と教会」というような限定性のない記事名にするとマックス・ヴェーバー以来の近代化=世俗化論のようなもの(傍流のロジャー・ウィリアムズなどよりよっぽど本流で影響力の大きい議論で、しかも現代公共政策論にまでつながる大きな流れです)を記載するべきという主張も出てきてしまうので、記事の一貫性が失われてしまうという議論なのですが。そしてぽてからさんの文献的根拠にもウィキペディアの方針的根拠にも乏しい主張に関しましては、ウィキペディアには「~の歴史」という記事は普通に多数存在しておりますという厳然たる事実を指摘しておきたいと思います。どちらにせよこれは現在の歴史記事の内容と関わりない話です。--硯箱会話2017年3月14日 (火) 09:33 (UTC)[返信]
「国家と教会」についての記事が既に存在し、歴史節だけが膨大になったら分割して「国会と教会の歴史」だけをわけるという順番になります。そういう意味で、この記事の一部を「宗教改革の歴史」に分割するというのはわかります。しかし、まずは「国家と教会」に「国家と教会の歴史」節を設けて書いてください。限定性のない記事が存在しなければ限定性のある記事への分割記事を作成することは認められませんね。なお、マックス・ヴェーバーの現代公共政策論につながる考察を書こうという人がいるわけでもないのに、心配無用です。ただ、本来、マックス・ヴェーバーは社会学(宗教社会学)的な支配の三類型などを提唱してますけど、これを「歴史学的視座」のみに限定した記事に書こうとすると、記事名と内容が矛盾しますよね。やはり、「国会と教会の歴史」にせずに「国家と教会」という記事名でないと、社会学的アプローチは書けなくなりますよ。なお、社会学(宗教社会学)の社会学的な面を一切書かない記事にすると、残りの社会学的な面を書ける記事がなくなってしまい、どう考えても、まずは、「国家と教会」という記事が必要になりますよね。--ぽてから会話2017年3月14日 (火) 16:12 (UTC)[返信]
もともと歴史記事であることを失念している意味不明な論理を展開しないでください。「国家と教会」という記事が必要ならば別にたててくださいませ。--硯箱会話2017年3月14日 (火) 17:29 (UTC)[返信]
「歴史記事」を書きたいという目的は十分理解してますが、結局、単一出典を用いて自身の主張に合う記述だけをされる行動は、ウィキペディアの目的外利用としかいいようがありませんね。自分が賛成することだけを合意が形成されたと表現し、逆に、自分だけが反対して合意形成を拒む行動は、記事の私物化に他なりません。当初は、国家と教会の記事名で議論が続いています。硯箱さんの行動がウィキペディアのルールから逸脱しているということは上記の発言から明らかなんですが、少しでも、ルールを理解してもらおうと議論を重ねてるんですよ。にもかかわらず、一切、行動を改める兆候さえもありませんね。--ぽてから会話2017年3月14日 (火) 23:34 (UTC)[返信]
まず記事の参考文献は記事に関係のあるものが採用されるべきであること、単一の出典はそれによって自動的に信頼性が損なわれるわけではないこと、そして何よりもそれぞれの文献は同一の歴史学的理解における歴史事実の出典であるということを理解して頂きたく思います。ぽてからさんは私が方針を無視しているように印象づけたいようですが、厳密に言えばぽてからさんの「○○の歴史」という記事を作るのには「○○」の記事が必要なんていう主張が方針文書に全く根拠がないものです。「国家と教会」についてぽてからさんにもし一家言があり、それについて記事を作りたいというのならば、こちらで方針を無視した議論などせずに、さっさと執筆なされば良いのです。ぽてからさんはこうした方針や文献に基づかない、単なる引き延ばしや妨害としか思えない議論を続けているのですが、一切、行動を改める兆候さえもありません。--硯箱会話2017年3月15日 (水) 02:11 (UTC)[返信]

改名提案

混乱を避けるために、『Wikipedia:改名提案』からはこちらのセクションに誘導しました。改名に関する議論は以降こちらのセクションでお願いします。改名提案から参加された方々へ、ここに至る議論は上述で展開されています。--Susuka会話2017年3月11日 (土) 17:22 (UTC)[返信]

  • コメント  記事名は「教会と国家」に1票。その他、「キリスト教の教会と国家」でも良いでしょう。en:Separation of church and state(教会と国家の分離)についての記事を目的するということでいいんじゃないかと思いますが、記事名に「〜の歴史」と付けるのだけはやめてもらいです。歴史的視座とかに限った記事というのがおかしいわけで、宗教学や社会学(宗教社会学)、政治学など多様な観点を排除するのはいただけませんよね。--ぽてから会話2017年3月11日 (土) 21:12 (UTC)[返信]

条件付賛成(条件:独自研究問題の解決) 2001IPさん=硯箱さんが、加筆を開始されています。加筆による改善で独自研究問題がかなり解決してきたので感謝しますが、あくまで全体にわたって解決すべきでしょう。 ぽてからさんの意見について、私も事典等の調査と記事内容から「教会と国家」「キリスト教と国家」の方が適切であるとは思います。しかし、「政教分離」は英語でSeparation of church and state(ドイツ語はTrennung zwischen Religion und Staat)で、正確に対応させるなら「教会と国家の分離」となります。訳語の問題でもありますが、いわゆる近代国家における政教分離と、中世からの歴史としての「教会と国家の歴史(仮)」があるのはいいのではないでしょうか。理論的な解説は「教会と国家」、通史は「教会と国家の歴史」とした方がいいと思います。しかしこれまでの議論から、「政教分離の歴史」から「教会と国家」系統の記事名にまず変更することが先と思います。記事名変更したあとに再び分割提案も可能です。なお、英語版にはカテゴリーで

記事では、

などがあります。--121.107.209.16 2017年3月16日 (木) 14:14 (UTC)[返信]

この記事はそもそも通史的な「歴史」記事なのですから、教会と国家についての歴史学以外の理論は別に記事を立てれば問題です。現状通史的内容しか書かれていません。したがって「教会と国家の分離の歴史」が意味内容を適切に捉えており、そもそも歴史学事典で「教会と国家」とあるのは「教会と国家(の歴史学理解)」であることが含意されているために省略されていることは歴史学事典の記事内容からも明らかです。一般的な百科事典であるウィキペディアでは「歴史」という言葉は補われてしかるべきでしょう。繰り返しますが、そうしないとここで繰り返された、ググっただけの議論がまた出てきます。ここでの議論でほとんど証明されたように、基本的にググった議論は低品質になりがちです。「教会と国家」は必要であれば別で立てればいいのです。それこそ宗教社会学や政治学にお詳しいらしいぽてからさんが立項されればよいかと存じます(どんな内容を想定しているかは文献も示されないので私には全くわかりませんが)。--硯箱会話2017年3月16日 (木) 16:01 (UTC)[返信]
改名議論を継続したく思います。
  • A.「教会と国家の歴史」(私、以下敬称略)
  • B.「教会と国家」(ぽてから)
  • C.「教会と国家の分離の歴史」(硯箱)
の3つの候補がありますが、投票にしますか?私はCでも容認できますが、Aがベストだと思っています。Bについても容認できますが、Cは一般読者を考慮したものではない、あまりに特殊な記事名になっていますし、既存の百科事典でそのような記事は存在しません。また、「分離」といっていますが、一様に進化論的に分離したのではなく、複雑な要因があり、また教皇権と皇帝権の対立と相克があり、分離したりまた一体化したりを繰り返したのであり、現在21世紀の「政教分離」でさえ、国教制度のイギリスはもちろん、憲法上政教分離が規定されるアメリカ、ドイツ、イタリアなどでも厳格に分離されているかといえばそうでもないともいえます。また、「教会と国家の歴史」「教会と国家」という記事名にした場合にも、神聖ローマ帝国の消滅で終わりにするのも納得はいきません。なぜならいまも教会も教皇も国家も存続しているのですから。--121.107.209.16 2017年4月3日 (月) 15:46 (UTC)[返信]

加筆箇所

一人の出典だけで一つの節を書かれてますけど、誰の学説か必ず書いてください。でなければ、独自研究としてケースEの削除するしかなくなりますよ。--ぽてから会話2017年3月14日 (火) 16:32 (UTC)[返信]

これも独自研究の方針文書の無理解です。記事が信頼できる文献に依拠しているかどうかが大事なのであり、文献の数ではありません。--硯箱会話2017年3月14日 (火) 17:33 (UTC)[返信]
硯箱さんは、Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないに反した行動をとり続けておられます。その上、投票を拒むなどの妨害的行動や記事の私物化を続けられるようであれば、議論に参加されることは無理だと判断せざるを得なくなりますが。--ぽてから会話2017年3月14日 (火) 23:28 (UTC)[返信]
カルト#歴史をご覧ください。きちんと、提唱者の名前が書かれてるのがわかりますよね。このように書かなければ、独自研究でこの記事は削除するしかありません。何度も同じことを繰り返して言っていますが、そろそろ修正してもらえませんかね。--ぽてから会話2017年3月15日 (水) 00:58 (UTC)[返信]
ぽてからさんのやっておられることは独自研究でいう情報の合成です。信頼できる文献が歴史的事実として記していることを文献を確認せずに勝手に限定しています。投票を拒むのはぽてからさんが適切な投票の提案をしていなかったからであり、記事の私物化については完全な言いがかりであることはすでに申したはずです。文献に基づかない議論で攪乱し、妨害行動を行っているのは明らかにぽてからさんのほうであるように思われます。--硯箱会話2017年3月15日 (水) 01:46 (UTC)[返信]
ちなみにご存知ないかも知れませんが、単一の出典テンプレートを貼る意図としてたとえば「記事の記述対象の事物に対して、中立性を欠き偏った主張が書かれている出典が一つだけしか示されていない」とか、「その出典の著者の個人的主張が書かれた出典が一つだけしかなく、記事に特筆性があるかどうか怪しい」といったことを対象としていますよね。記事全体が一つの出典で構成されているあまりに極端な記事に対して使うもので、節ごとに小分けに使うようなものではありません。--硯箱会話2017年3月15日 (水) 02:33 (UTC)[返信]
問題を解決させずにテンプレートを剥がす行為はおやめください。情報の合成ではなく、提唱者の名前を書いただけです。提唱者の名前を書かなければ中立性を欠きます。何度も何度も同じ事ばかり繰り返していますが、方針を都合が良いように解釈して、テンプレート剥がしなどの問題行動を続けられる予定でしょうか。--ぽてから会話2017年3月15日 (水) 07:48 (UTC)[返信]
文献の執筆者が提唱者であるという主張が完全に独自研究であり、事実を記載している内容に対してそれをその著者独自の見解であるとする、文献に直接基づかない情報の合成が行われております(ぽてからさん流に言えば、これは明白にケースEにあたります)。単一出典テンプレートは使い方自体がそもそも間違っていますが、それを指摘してもタグを繰り返し貼ろうとする端的な荒らし行為を行っています。こうした行為を文献や方針も確認せずにおこなっているぽてからさんは何度も何度も同じ事ばかり繰り返していますが、方針を都合が良いように解釈して、独自研究を記載するなどの問題行動を今後も続けられる予定でしょうか。--硯箱会話2017年3月15日 (水) 09:17 (UTC)[返信]

コメント 学説の提唱者を明示することはWikipedia:言葉を濁さないに明記してあるので、これに従ってください。また、タグ剥しは議論相手との合意後、また問題箇所が修正された後に行ってください。硯箱さんは2001IPさんでしょうが、加筆によって記事の水準がかなり上がっていますし、私も勉強になり、感謝します。しかし、ウィキペディアはウィキペディア独自のルールがあり、他の編集者の指摘を善意に解釈することも基本的な行動原理とされています(Wikipedia:善意にとる)。--121.107.209.16 2017年3月16日 (木) 13:03 (UTC)[返信]

たとえば教科書の執筆者を学説の提唱者とは言いません。歴史学的成果による事実を述べている著作の著者を何らかの学説の提唱者とすることは明らかに独自研究で、明確に削除されるべきです。Wikipedia:言葉を濁さないによれば曖昧な表現でも出典が明記されれば記載可能である点についてもぽてからさんが理解していらっしゃるとは思えません。ぽてからさんの単一の出典テンプレートにつきましては、基本的に記事全体の出典が一つの時に使うもので、節単位で使うのは明らかな誤用のですので、剥がしたのですからそもそも指摘される問題はなく、問題点は解決されております。私は無作為にタグ剥がしをしているのではなく、問題点が解決されたものから剥がしていることはこれまでの編集からも明らかであると思いますが。--硯箱会話2017年3月16日 (木) 13:11 (UTC)[返信]
「歴史学的成果による事実を述べている著作の著者を何らかの学説の提唱者とすることは明らかに独自研究」には同意できません。それならば、ベッケンフェルデと山田欣吾の節も「学説でなく事実」となりませんか。「学説」の意味が違うのでしょうが、ここは出典を明示的に明記するということで理解していただければ、議論する必要もないことでしょう。出典をみると、
  • 「近代国家成立史として(国制史的側面)」「古代中世の国家概念」「中世国家の特質」は、下野義朗「ヨーロッパ中世国家の構造」
  • 「キリスト教世界(res publica christiana)の歴史的展開」は、オットー・ブルンナー
  • 「ドイツ中世国制における聖俗分離の展開」は、池谷文夫「教皇権と皇帝権」とブライアン・ティアニー「自由と中世の教会」
  • 「中世都市の進展とその限界」は、ジョン・ハイン・マンディー「中世都市における自由」
などですが、今後の加筆を考えるとそれぞれ「下野義朗によれば(以下同様)」と書いておくと、どの出典でどの説明をしているかが本文でも明示されることになるので、後から他の人が加筆する場合でもやりやすいでしょう。
現在までの部分をみると、やはりひとつの記事に詰め込みすぎかと思いますが、いまこの点について議論したいのではありません。加筆がんばってください。--121.107.209.16 2017年3月16日 (木) 14:01 (UTC)[返信]
たとえば教科書は学説の成果を記しますが、その学説の提唱者が記述しているわけではありません。著作の著者に特定の観点が認められるにしても、一般的に著作の著者=提唱者とは普通言いません。まれに明らかに通説とは異なる見解を提示している場合がありますが、こうした事例も提唱といえるかは個々に検討すべき性格のもので、そもそも文献を確認せずに議論することは不可能に思われます。そして事実というものが何を指すかは哲学的な話になりますが、率直に言って事実とは真理ではないので、ある事柄をウィキペディアの方針に則って事実として提示する場合は出典を明記すればよいのです。そして出典の明記されている文脈に「~によれば、」という表現を付け加える編集はそもそも出典の明記が「~によれば○○である」の意味をなしているので、基本的に冗長表現ですから、可読性の点から特筆すべき場合を除いて使用されるべきでないのであり、加筆者は文献を確認すれば一目瞭然なわけです。以上のことからわかりますように、記載されているのは学説ではなく、(ある学問的見地からの)事実でありますから、これは学説を記載しているのではなく、事実を記載しているのです。--硯箱会話2017年3月16日 (木) 14:33 (UTC)[返信]
文例を示しますと、
  1. ベッケンフェルデによれば、国家の概念は学問的共有財産であるとともに、あらゆる社会に普遍的なものではない[1]
  2. オットー・ブルンナーによれば、現実の様態としては中世初期において、教会と国家はたがいに緊密に絡み合いながら現れた[2]
という記述は基本的には冗長表現です。
  1. ダントレーヴの国家論の定義に従えば、国家は3つの意味で日常的に用いられている[3]
  2. アウグスティヌスに拠れば、人間の不安な状態は理性と感性の対立とそれによる内心の分裂であるが、これは同時代の多くのキリスト教徒が抱いていた神への愛と現世への愛の衝突の経験であった[4]
という記述は冗長表現ではありません。--硯箱会話2017年3月16日 (木) 14:50 (UTC)[返信]
コメント あと、Template:単一の出典には節で使う場合もあるので、誤用とは言い切れません。--121.107.209.16 2017年3月16日 (木) 14:18 (UTC)[返信]
単一の出典は記事に使うもので節に使うものではありません。それは当該テンプレートのノートでの議論とテンプレートの説明を踏まえれば明確です。節に使っている場合は明確な誤用です。--硯箱会話2017年3月16日 (木) 14:33 (UTC)[返信]
テンプレート剥がしの荒らしを続けています。ブロックするしかないと思います。--121.114.42.96 2017年3月25日 (土) 05:38 (UTC)[返信]

横からすみませんが、硯箱さんのコメントでSfnテンプレが使われているため脚注が最下部に配置されてしまいます。もしよろしければ、refタグのgroupやnowikiタグを使うなり、脚注がほかの節に紛れ込まないよう変更していただけないでしょうか。--ネイ会話2017年3月26日 (日) 03:27 (UTC)[返信]

テンプレートの不正確な使用について

短時間に複数のIPによって単一の出典テンプレートを繰り返し貼る編集が行われています。きわめて短時間に集中的に行われていることから、ソックパペットの疑いもあります。荒らし行為と思われますので、保護依頼いたしました。--硯箱会話2017年3月25日 (土) 05:42 (UTC)[返信]

テンプレートはがしはお控えください。適切な使用です。--ぽてから会話2017年3月25日 (土) 05:42 (UTC)[返信]
ぽてからさん、まさかとは思いますが、ソックパペットを使ったりはしていませんよね?それにテンプレートの不正使用については以前指摘したはずですが、返答頂いておりません。--硯箱会話2017年3月25日 (土) 05:44 (UTC)[返信]
憶測で悪者扱いしないでください。硯箱さんが、適切なテンプレートであるというコメントを無視されているだけであり、テンプレートに問題はないと確信しますね。--ぽてから会話2017年3月25日 (土) 05:47 (UTC)[返信]
ノートでの議論を踏まえてください。単一の出典テンプレートは単一の出典だから自動的に貼って良いというものではありません。記事全体において単一の出典であり、中立な観点に問題がある場合にのみ使用されるもので、基本的に節単位で使うものではありません(そのような使用が許されれば、節分けを勝手にして単一出典テンプレを貼ることが可能になってしまいます)。--硯箱会話2017年3月25日 (土) 05:49 (UTC)[返信]
横からすみません、ブロック依頼から来ました(上節とまとめてコメントします)。仰るように「単一の出典だから自動的に貼って良いというものではありません」が、節単位に貼っても問題はありません。本件は(貼ることが)適切だと判断します。なお、単一出典テンプレ貼るために節分けをするような利用者は、荒らしまがいと見なされブロックされるので御心配なく。歴史・宗教などでは学会で支持されている定説だとしても、自然科学と違い(場合によっては自然科学もそうですが)、それはWikipediaでは説・意見として扱うべきものです。つまり、誰の見解なのかを明記する必要があり、定説でないものは「〇〇は~と主張している」と書きますが(御存知ないかもしれませんが、論争の多い政治記事ではこの表記方法が定番です)、定説であれば「〇〇は~以下のように述べている」程度で良いでしょう。「定説なのに単一出典テンプレを貼られた」のであれば、その定説を別の出典により補えば良いだけです。なお、ぽてから様はソックパペットを使うような方ではないと思っていますし、少なくとも私は、ぽてから様とは別人です(まー私たちが同一人物と疑う人は誰もいないと思いますが)。--JapaneseA会話2017年3月29日 (水) 03:41 (UTC)[返信]
Template‐ノート:単一の出典の議論を踏まえればこのテンプレートは単一の出典の箇所に機械的に貼るものではありませんし、そのような利用は基本的にコミュニティに益があるとおもわれません。通例単一の出典が問題になるということであれば、おそらく信頼できる文献や中立的な観点が問題になると思われますから、別のテンプレートで置き換え可能ですし、そうしなければ何が問題かの論点が明確となりません。少なくともテンプレートは記事の改善を意図して利用されるべきもので、編集方針に関するテンプレートが一律機械的な運用をされるならば、記事の可読性も損なわれるものと思われます。また単一の出典テンプレートは節分け後に貼られております。逆に言えば、節を分けなければ単一の出典テンプレートを貼る根拠があるとは思えません。--硯箱会話2017年3月29日 (水) 04:25 (UTC)[返信]
つまりぽてからさんは中立的な観点や独自研究などほかの正当なテンプレートを貼る根拠を見いだせなかったので、結果として外形的・機械的に貼ることが容易な単一の出典テンプレートを選んだように思われます。そうでなければ適切な別のテンプレートを選択し、それに基づいてノートで論点を明確にした議論提起すれば良いのです。たとえば個々の節について複数の文献が存在すると立証できるならば、単一の出典テンプレートを貼ることに正当性を見いだせますが、現状そうした文献調査が行われてもおりません。--硯箱会話2017年3月29日 (水) 04:32 (UTC)[返信]
次に、事実と学説の混同が問題です。そもそもあらゆる認識に主観性が伴う以上、突き詰めれば何が事実で何が主観かという問題が存在するのは当然ですし、ことに同時代的な政治問題ではそうでしょう。しかし学問的蓄積においては一定の事実の積み重ねがあり、少なくとも学問的事実として大筋において異論の存在しないものを一部の学者の学説と矮小化して記述するのは中立的な観点に反します。また私は検証可能性と中立的な観点のスタイルを満たして記述しております。まず政治記事界隈で流行している、「○○は~と主張している」という記述がじつのところ基準が非常にあやふやですし、不毛な政治論争の果てに帰属化の方針文書を著しく極端に適用した特殊な慣例のように思われます。そうした一部記事で対立を回避するためにやむなく採用されている慣例を、他分野の記事にまで推し進めようという観点はあまり好ましいものではありませんし、ことに歴史学にそれを持ち込むと、不毛な論争になりやすいです。少なくとも私が執筆に利用している文献はまともに調べればわかりますが、いわゆる講座シリーズ(編集者だけなくその分野の権威的専門家が責任編集を行う専門家による基本論文集)や責任編集のついた翻訳、学会でもかなり主流で研究蓄積も豊富であり、かつその分野の第一人者もしくはそれに類する立場(たとえば専門文献案内や論文集の責任編集を担当するレベル)と認められており、専門家による書評も多いものを選んでおり、はっきりいってしまえば、個々の観点について文献を示せと言われれば外国語文献も含めていくらでも示せますが、利用の便を考えても概説部分は明確に信頼性のおける文献、それもなるべく邦文で利用の便が容易であるものを示すだけにしないと混乱を招きます。基本的に信頼性に劣る新聞記事や同時代著述家の批評類を利用せざるをえない、同時代的な政治記事とは異なり、歴史学では明らかに参照すべきと思われる一定の権威のある基本文献というものが存在し、多くの場合基準も明確とはいかないまでもかなり客観的に提起可能です。私はそもそも記事全体についてこれから手を入れていくつもりですから、個々の論点についての細かい文献はそこで両論併記を踏まえて書いていくつもりです。--硯箱会話2017年3月29日 (水) 04:42 (UTC)[返信]
一次資料のTemplateの使用はルールに則ったものであり、Templateを剥がす理由は合理性に欠けます。ぽてから様の一次資料のTemplate貼りに文句を延々と言われる時間を有効に使用し、他の出典を用いて加筆すればよいのではありますまいか。なお、この上の#加筆箇所から延々とここまで、硯箱様が「一次資料のTemplateは不正だ」と言い続けられていることについて、コミュニティを疲弊させていると判断いたします。--RXX-7979Ⅲ会話2017年3月29日 (水) 09:14 (UTC)[返信]
大筋において異論の存在しないもの」との事ですが、確かにWikipedia:中立的な観点には「論争の余地のない主張を単なる意見として記さない。信頼できる出典によって反論や論争なきものとされた事実の主張であれば、一般的にウィキペディアの意見として記述されるべきです。その言説が異議なき説であることに特に反論が無いのであれば、その主張が誰のものかを記述する必要はありません」と方針にもあります。「論争の余地のない」話なのかどうか私にはわかりかねますが、「定説なのに単一出典テンプレを貼られた」のであれば、その定説を別の出典により補えば良いだけでしょう。貴方が本当に定説について述べているのかどうか、その分野に詳しくない利用者を黙らせる(言い方は悪いですが)には、更なる出典を提示すれば良いだけです。なお、歴史こそ政治以上に揉める分野ですが、本件の範囲がその揉める範囲なのかどうかはわかりかねます。--JapaneseA会話2017年3月29日 (水) 09:31 (UTC)[返信]

なんだかわからぬことになっていますが、まずぽてからさんは記事の記述に対して文献を示して適切な反論を示すことは一切しておりません。やっているのは「○○が提唱した」という根拠不明の記述の追加であり、この追加に方針的根拠はないように思われます。存在しない異論に配慮して不必要な帰属化を行うことは中立的な観点や言葉を濁さないの方針文書に基づけば適切でなく、むしろ独自研究と見なすべきです。なぜなら「○○が提唱した」「○○が主張した」という文章はその著者が新規にある事柄を提案したとか客観的な事実としては記していないという一定の事実を含意しますが、文献を確認すれば、著者は文献や既存研究に基づいて客観的事実として記述しているのですから、これは事実の歪曲です。もちろん有力な異論が信頼できる情報源から確認できれば、著者の記述は主観的であった点が確認できるのですから、適切に帰属化される必要があります。次に、単一の出典テンプレートについては節を分けた後に添付されたから外形的に単一な出典に基づいていると見えるだけで、節を戻せば根拠を失います。しかし可読性の面においてそれは問題ではないでしょうか。別にテンプレートを剥がすのに、出典を追加するだけでよいので簡単なことですが、まず不適切な使用であるという点については明確にすべきと思われます。--硯箱会話2017年3月29日 (水) 11:15 (UTC)[返信]

ちなみに年がら年中揉めているのは特定アジア圏諸国と日本のナショナリズムに関わる東アジアの近現代史や古代史、中世史の一部、一部の日本古代史的テーマであって、基本的に歴史学全般は政治の話題以上に揉めることはないと思われますが、そもそもありもしない揉め事に配慮しろというのも変な話です。--硯箱会話2017年3月29日 (水) 11:41 (UTC)[返信]
節の中で使用されている出典が単一であるので、Template使用は適当であります。適当なTemplate使用について、これ以上、無意味な抗議を続けられるおつもり、ということでございましたら、ますます硯箱様がコミュニティへ与えた疲弊の量が膨れあがるだけ、と申しておきます。--RXX-7979Ⅲ会話2017年3月29日 (水) 11:27 (UTC)[返信]
上記硯箱様による「ありもしない揉め事」という主張については、虚偽であると判断いたします。--RXX-7979Ⅲ会話2017年3月29日 (水) 11:45 (UTC)[返信]
では実際に検証可能な信頼すべき情報源に基づいて揉め事ないし異論の存在を立証して頂きたく思います。--硯箱会話2017年3月29日 (水) 12:16 (UTC)[返信]

記事の私物化について

硯箱さんによる記事の私物化がなされているため、この記事の改善が出来ない状態に陥っています。改名や分割などを含め、この記事の将来について議論を続けて参りましたが、硯箱さんだけが自分が記述したいようにする、以外の意見を断固として反対され、かつ、出典を自分の都合の良いように勝手に解釈されるため、議論が継続不可能となってしまいました。この記事の今後を考えた場合、硯箱さんの考えを変えてもらう以外に独自研究の状態を脱することはできませんが、いかがお考えですかね。コミュニティ内で共同作業をされるおつもりはあるのでしょうか。議論は出尽くしましたので、次のステップとしては、各々の主張をまとめて投票するしか方法はないでしょう。--ぽてから会話2017年3月26日 (日) 12:29 (UTC)[返信]

そもそも記事の私物化という事実が客観的に存在しないということはすでにさんざん申し上げたとおりです。独自研究でないということもすでに十分立証されたはずなのですが、いまさらながらに自らの独自研究を展開するぽてからさんにコミュニティ内で共同作業をされるおつもりはあるのか逆に問い質したいですね。そもそもぽてからさんはこれまで一冊も文献を挙げることすらしておりませんし、テンプレートについては明らかな誤用を指摘されても編集を強行しております。ソックパペットあるいはそれに類する複数IPでのご自身の観点の編集の強行という疑いも見られますし、ぽてからさんには全般的に編集能力の欠如と協調性の無さを感じざるを得ないところではあります。共同作業というのであれば、しかるべき文献を挙げ、中立的な観点を守りつつ方針文書に順った当たり前の議論を期待したいところです。合意と方針文書に基づく文献に基づいた議論の在り方を無視して多数決にこだわるあたりもウィキペディアの方針に明らかに反していると思われますし、多数決にもちこもうという態度がどうもソックパペット的な考え方のように思われます。実際方針文書はソックパペットの可能性を指摘して多数決は基本的におこなわれるべきではないという立場を明確にするよう指示しています。議論は出尽くしたという自分勝手な結論の出し方も、そもそもぽてからさんの議論能力の欠如によって議論遂行が不可能になっただけのように思われます。繰り返しますが、ぽてからさんは一切ご自身の主張を文献によって裏付けられておりません。検証可能性を著しく喪失した主張を受け容れろというのはどだい無理な話です。いろいろウィキペディア内でのぽてからさんの議論を見ますに、ほかでも同様な方針文書の曲解や強引な議論姿勢が多々見られるところであることも付け加えておきます。--硯箱会話2017年3月26日 (日) 17:15 (UTC)[返信]

コメント Wikipedia:投稿ブロック依頼/硯箱を提出しました。--ぽてから会話2017年3月26日 (日) 22:12 (UTC)[返信]

最初から全部を読んではおりませんが、たまたま目に入ったところでは、硯箱様が121.107.209.16様を「ググった程度」とバカにして「結局議論にならない」などと、自分の主張だけを絶対視しておられます。これは、意見の対立というよりは、自分だけが正しく、他は全てググった程度だから相手にする気はないとおっしゃっているようにしか聞こえません。素人ですが、この記事を読んでも、「政教分離」やその歴史がどこに書いてあるのかさっぱり理解できません。書いてあることは意味は分かりますが、まず、「政教分離」がなにか、を簡潔に記されてもいないわけであり、なんのためにヨーロッパの歴史のうちの一部が、延々と書かれているのか理解に苦しみます。これは、百科事典向きの記事ではないということは言えますし、独自研究の塊、という多くのコメントに賛同するものであります。--RXX-7979Ⅲ会話2017年3月29日 (水) 09:08 (UTC)[返信]

上のように全く議論の本筋がわかっていないのです。121.107.209.16さんの言っていることは要はグーグル検索ないしネット検索で「政教分離」と調べて出てきた文献で歴史記事を書きましょうという乱暴な議論です。私が言っているのはこの記事に書かれている内容から国家と教会についての歴史学的理解を確認できるので、その意味で記事内容をより明確にし、国家と教会の機構的分離、聖俗の思想上の分離を「政教分離」ということは一部を除いて一般的ではないので、「政教分離の歴史」という名前は上のようなググった議論をする手合いに文句をつけられる可能性があるので、さっさと改名しましょうということです。改名議論の推移も全く理解していらっしゃらないということでしたか。ググっている人は検索結果がすべてなので結局議論にならないのです。「『ドイツで国制史的な政教分離がなったとされる1803年までに限定』というにも、文献にあるのでしょうか。」については様々な文献で確認できますが、基本的な理解としては18世紀中に神聖ローマ帝国内の聖界諸侯は徐々に陪臣化と世俗化がおこなわれ、1803年帝国代表者会議主要決議において神聖ローマ帝国の国制は名目上も完全に教会の機構と分離し、世俗化することになります。という流れは別にドイツ史では常識的理解で、たとえば『ドイツ史研究入門』(p.98)などでも容易に確認できるわけですが、アメリカについて書くなについてはそもそもアメリカ合衆国ではその建国の時から国家機構と教会組織について分離が行われており、この記事でいうような分離の歴史がそもそもないという基本的事実をなぜ失念しているのか理解に苦しみます。おそらくググっても出てこないことはわからないのでしょう。--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 15:59 (UTC)

記事に挙げられている文献を確認せずにググって見つけた記事内容と直接関係ない文献を用いて議論をすることが基本的に問題であるという表明であり、記事の品質を論じるならば、まずその根拠となる文献を検討するということは「信頼すべき情報源」と「検証可能性」に基づけば適切な判断であるように思われます。--硯箱会話2017年3月29日 (水) 12:04 (UTC)[返信]

そもそもの発端は独自研究だという疑いだったので、私にはこの記事の論点は比較的見慣れた内容だったので、私はとりあえず自分の知っている文献(これは元の記事では利用されていない文献です)を提示して記事内容はそれと矛盾しないということを論じ、そのうえで一部についてはよくわからなかったので参考文献に基づいて記事内容を精査する必要はあると思いました。実際そのように提案しております。私は記事の文献を確認して記述が妥当か議論するという議論過程が方針文書に基づいて行われると思っていましたら、一部の議論参加者はそもそも記事の参考文献を調査することをせずに、記事の執筆に利用されているとも思われない、そして趣旨の上でも記事内容とほとんど関係のない論文を示して記事内容は独自研究だという議論を展開いたしました。こうした議論の仕方は明確に誤りですし、検証可能性という基本方針の軽視です。そもそも検証可能性に基づけば、記事内容は文献で確認できるからまず正当性を持つのであり、別の関係ない文献が言及していないから独自研究だという議論はそもそも不毛です。まず記事の出所と思われる文献を検討し、新規の文献が提示されるならば、その文献と記事内容の整合性がまず検討されるべきだというかなりまっとうな主張をしているだけです。--硯箱会話2017年3月29日 (水) 12:32 (UTC)[返信]
もう一つこの発言で注意していただきたいと私が思っているのが、「ドイツで国制史的な政教分離がなったとされる1803年までに限定というにも、文献にあるのでしょうか。」という121.107.209.16さんの発言です。議論があまりにも噛み合わないので、121.107.209.16さんは基本的に自分が議論に提起した論文を読んでないか理解していないんじゃないかという疑いを私はずっと持っていて、実際指摘してるんですけれども、ここでもそもそも121.107.209.16さんがネットで探してきた新保論文を読めば、「リュッベがその説を提唱するとき,それはあくまでも,1803年帝国等族代表者会議によって制定され,公然たる歴史上の事実となったあの教会財産没収という事件を念頭に置いていたのであって」という指摘があって、1803年が何を指しているか普通はわかるはずなんです。少なくともこの論文のテーマがわかっていれば、1803年が何の年かというのは普通にピンときます。でも、121.107.209.16さんはそこもわかってないので、結局論点が全く追えていないんです。自分が提示した論文にも書いてあるのに、相手にそれを記載した文献はあるのかと聞いているのは、自分の提示した論文を読んでいないか理解していない証拠です。通例相手が提示した情報源は相手が内容を理解して提示していると思うので、こっちもそれを前提に話をするんですけど、言ってることがわからない。なんで提示された論文の内容について話しているのにわからないのか、議論を進めていくと、どうも121.107.209.16さんは自分の提示した論文を読み込んで話をしているわけではなく、都合のよい記述だけ拾ってきてるんです。また私の発言についても理解しているとは思えないところが多々あり、さらには議論の途中で私が記事を執筆したから私物化しているとか、元の記事は山田欣吾ファンが書いた(元々山田欣吾『教会から国家へ』は私が議論の中で提示した文献で、元記事には利用されていないので明らかな虚偽)とか、単純に事実誤認ないし妄想としか思えないことを口走って、そこらへんが何を根拠に何を目的として話しているのか私にはよくわからない。思い込みが激しいとしか言い様がありません。121.107.209.16さんが繰り返し主張しておられる「アメリカが政教分離の歴史では重要なんです」という発言も、元記事にはそもそもアメリカについてほとんど記載されていないうえ、記載されていないのはこの記事の述べている歴史学的な文脈での政教分離(つまり、国家と教会の機構的分離)という意味では、そもそもアメリカは当初から国家機構の上で政教分離はほとんど完成されていたので、問題とならないという点について何度か指摘しても全く理解して頂けなかった事実を明記しておきます。--硯箱会話2017年3月29日 (水) 21:38 (UTC)[返信]

つまるところ、このノートが肥大化しているのも通例期待される検証可能性と信頼できる情報源、中立的な観点という三大原則に基づいた適切な議論がされていないばかりでなく、一部の議論参加者が自ら提示した論文を読み込みもせずに都合のよいところだけ切り取って議論をするため、正常な議論活動が阻害されているのみならず、ところどころに根拠不明な妄想も織り交ぜて語るので、参考文献の検討すらまともにおこなわれていない異常な状態に問題があるのです。そのうえさらにただでさえ以上のような議論が錯綜している中で、ノートでまともな問題提起もせずにテンプレートを貼って議論を攪乱させることを意図した編集行動を取ったり、文献的な根拠もなく独自研究を記事に反映させようとする者も出てきており、記事の改善を真面目に検討される気があるのか、議論をうやむやにして記事の破壊を目的とした行動を取られている人がいるのではないかという点について強い危惧を表明いたします。--硯箱会話2017年3月29日 (水) 21:56 (UTC)[返信]

話を蒸し返す理由が理解しかねますが、2017年3月11日 (土) 15:59 の硯箱(当時IP)さんの発言は、私が3月5日に公表した書籍とインターネットを用いた文献調査報告以降の発言で、私がネット検索だけで議論を進めたわけではないことがこの調査によって証明されていますし、第一、私は一度も「グーグル検索ないしネット検索で政教分離と調べて出てきた文献で歴史記事を書きましょう」などと主張していません。この硯箱発言の時点では、2017年3月11日 (土) 13:56の記事の状態は、ベッケンフェルデと山田論文が提示されているにとどまっていますし、第一、私が出典の明記を求めていたのは、脚注の付けられていない文章です。この発言は私に対する捏造と歪曲による個人攻撃です。以前にも言いましたが、インターネットで閲覧可能な論文も書籍も両方出典としては使用できるのであり、書籍だけが「信頼できる情報源」なのではありません。書籍であっても、信頼できる情報源としては認められない本は多数ございます。
また、「アメリカ合衆国ではその建国の時から国家機構と教会組織について分離が行われており、この記事でいうような分離の歴史がそもそもないという基本的事実」というのは修正第1条のことをいっているのでしょうが、アメリカ合衆国が突然建国されたはずもなく、それまでのイギリス本国の状況および国教会との関連した歴史があります。「この記事でいうような分離の歴史」という発言も、自分で一方的に記事を規定しておいて、それに合わないものを排除する、という態度が、皆さんから指摘されているような記事の私物化なのです。
改名作業に入るかと思えば、またテンプレートを剥して保護され、ブロック依頼になってしまいましたが、無駄なことをやめて出典を明記する加筆を続けてください。知識があるのは認めますが、硯箱さんはウィキペディアが共同編集体制であることを理解されていないとしかいいようがありません。また、ウィキペディアの査読システムは通常の学会とは異なり、非専門家であっても発言の自由がありますし、議論と対話によって妥協点をみつけ合意形成をしていくべきです。話が噛み合わない原因を私に押し付けていますが、まったく不当な言いがかりですし、硯箱さんの編集姿勢が問題とされているのですよ。記事の破壊などといっていますが、議論の結果、出典をつけられた部分については改善したわけです。まだまだ後半は出典もないですし、すでに申し上げたように、他にもまだ改善すべき問題があります。例えば宗教改革の記事があるのに、ここで詳細を書くのは、立項関係からいって不適切です。--121.107.209.16 2017年3月31日 (金) 13:40 (UTC)[返信]
なお、ブロック依頼で私と他の編集者を同一視されていますが、違いますので。--121.107.209.16 2017年3月31日 (金) 13:45 (UTC)[返信]
とりあえずWikipedia:投稿ブロック依頼/硯箱で私が述べた121.107.209.16さんと利用者:大和屋敷さんが同一人物ないし関係者ではないかという点について、何かしら弁明なりをして頂けることを期待します。議論と対話による合意形成も公正な行動によって成り立つものであり、一方の議論当事者である私がブロック依頼され、もう一方の121.107.209.16さんがソックパペットないしミートパペットではないかと疑われる今の状況ではあまり正常な議論は期待できないのではないでしょうか。そして121.107.209.16さんが頻繁な論文誤読をしていらっしゃることは意図的ではないとはいえ、証拠の悪用に当たりますから、その点については適切な反省をして頂ければと思います。適切な情報源に基づき、検証可能性と中立的な観点に基づいて正常な議論ができればよいのです。--硯箱会話2017年3月31日 (金) 13:53 (UTC)[返信]
弁明はもう済んでいると考えるものです。私も明らかに別人であろうと考えております。むしろ、同一人物であると考える理由を硯箱様がご提示されるべきではありますまいか。自分と異なる意見を主張する人物を、同一視しているだけの個人攻撃であるとしか考えられません。一連の硯箱様の行為については、無期限ブロック票を強く主張する根拠を与えてくれているだけである、と捉えております。--RXX-7979Ⅲ会話2017年3月31日 (金) 14:00 (UTC)[返信]
私自身は121.107.209.16さんと利用者:大和屋敷さんが同一人物ないし関係者ではないかという点について十分熟慮した上で当該ブロック依頼ページで十分立証責任を果たしたと思われますので、あとはコミュニティの良識に任せるのみであります。私自身は当初からこの記事の編集権を主張するつもりもなく、どちらかといえば巻き込まれて仕方なく執筆と議論に参加した立場でもあり、私がコミュニティに混乱をもたらすだけということであれば、ブロックされても全く問題ありませんが、今回わずかな期間とはいえ、ウィキペディアに参加して些か異常と思われる内情についてはよく看取でき、この点についてこのコミュニティの自浄作用が正常に働かないのであれば、とくにここにとどまる必要もないとは考えています。私自身はウィキペディアの充実と改善を望みますが、今回の私の行動がそもそも無期限ブロックに相当するのかについても当初から疑問でしたし、ウィキペディア上の私の発言と行動の周辺に利害関心を共有する一群の人びとないし複数のアカウントが存在することも看取されました。したがって私のブロック依頼やここ数日の私の周辺での不可解な出来事についてコミュニティが注視し、問題を感じないならばそれはそれで柔軟性と即応性、多様性を失った百科事典プロジェクトへの興味・関心など私にはありません。--硯箱会話2017年3月31日 (金) 14:12 (UTC)[返信]

コメント ともかく、硯箱さんはTemplateを貼る、貼らないで口論になるよりも、複数の出典を提示して堂々とTemplate貼付の根拠を消し去ったほうが得策であると考えます。本記事は4月25日まで保護されていますので、例えばご自身のsandboxページで個人的に編集されてはいかがでしょうか。Templateを貼る、貼らないのレベルの議論で誰かがブロックされるのは、Wikipediaにとって損失です。--Susuka会話2017年3月31日 (金) 15:47 (UTC)[返信]

文献を示すことについてはほとんど問題ありませんが、ページ数なども含めていくと物理的な作業量過多になる現実的な問題があります。私自身の休暇も終わるので、できればスピード感を持って一度全体を書き直した後、細かく文献を充填していくほうが早い。問題は現状のどこが問題なのか論点整理のためにまず独自研究テンプレートなどを整理したいが(そうでないと分割作業にさえいかない)、そうして既存の論点を整理しつくすまえに新しいテンプレートをその上から貼っていくのは作業としても不毛であるのみならず、結局改善が後回しになるという点です。テンプレートは進展している議論にまず基づいて限定されないと、議論の新規参加者にも議論参加者にもどこが争点であるか明確になりません。要はテンプレートを一つ一つ解決せずに、貼っていく行動は作業を妨害する効果があり、さらには必要に応じて節を分けた後で単一の出典テンプレートを貼るというのは正当性がないのでやめてほしいということです。相手が正当性が無いことを認めないならば、作業の間だけ節を戻せば良いということになりますが、作業効率が落ちます。ここのノートでおかしいのは普通記事改善を行う場合、議論参加者が個別に参考文献を検討して出典を確認するという作業などが分担されるはずですが、なぜか私しかやってないことです。私が最初に節単位で検討しましょうと言ったのはそういう意味です。本来節単位で文献確認や問題点を整理すれば作業は早いし大した後腐れ無く進んでいくはずです。しかしここでの議論はそうではなく、議論参加者の一部が好き勝手にあまり本筋と関係ない情報源を示して独自の主張を展開しているだけになっています。記事の参考文献を検討するという一番大切なことがここまでほとんど行われていません。記事内容がそもそも多いから、基本的に文献を確認せずに無際限にテンプレートを貼られすぎている点が問題です。--硯箱会話2017年3月31日 (金) 16:02 (UTC)[返信]
上の121.107.209.16さんのコメントを見ても、「まだまだ後半は出典もないですし、すでに申し上げたように、他にもまだ改善すべき問題があります。例えば宗教改革の記事があるのに、ここで詳細を書くのは、立項関係からいって不適切です。」などというのは既存の方針文書に全く根拠が見出せない主張ですしはっきり言って何を言ってるか私にはわからないのですが、そもそも実際の記事改善作業が行われている途中でこんなことを言ってもしょうがないでしょう、他にすることないのかということです。「硯箱さんはウィキペディアが共同編集体制であることを理解されていない」と言いますが、共同編集体制っていうのは記事内容を好き勝手に論評し、いちゃもんをつけることでは無いはずだと私は思いますが。「後半は出典もない」と思うのなら、参考文献が挙げられているのですから、私がほかの作業をしている間に参考文献の中から確認すれば良いと私は思うのですが、これって共同編集の考えとして間違ってますか?って話です。--硯箱会話2017年3月31日 (金) 16:25 (UTC)[返信]
少なくとも記事と関わりの無い文献を集めてきて文献調査なんてやっているなら、その労力を参考文献の出典箇所判別に使ってもらいたいというのが私の意見です。--硯箱会話2017年3月31日 (金) 16:33 (UTC)[返信]
テンプレートは大した問題ではないです。神経質に考えすぎです。出典が明記された後ならば、テンプレートを外しても「いちゃもん」をつけることはできませんし、もし誤ってつけられたテンプレートであれば他の編集者にも判断が可能です。「単一の出典」テンプレートについては、これまでに私も含めた三人(もしくはそれ以上)の編集者が妥当としています。加筆については、宗教改革で詳細を書き、こちらの記事では「教会と国家の分離の歴史(仮名)」の全体の分量とバランスを考慮したうえで最低限の記載にとどめるべきです。また、他の編集者の発言に対して「その発言の出典はあるのか」などといっていますが、これは冗談ですよね?冗談でなければ、もう議論は不可能でしょう。加筆については、準備はしています。しかし、この記事で加筆するかは分量の問題から不適切であろうと考えているので、他の記事に加筆する予定ですし、関連記事に加筆を続けています。それに、ウィキペディアでは、出典を示す責任は掲載を希望する側にあります。私はこの記事の分量を増やすつもりはないし、硯箱さんの記事の規定については批判もありますので、こちらで加筆するのは最終的に合意形成がなされるか、あるいは硯箱さんがブロックされるか否かに関わらず、編集をやめられた後でしょう。なお、私は投票権がありませんが、ブロックには条件つきで反対です。その条件とは、硯箱さんが他の編集者との議論を深め、罵倒するのでなく、誠実に出典を明記されていき、その作業が終了した時点で、再び分割提案などがなされた時にも、誠実に対応されるならば、という条件です。私は、出典が明記された箇所については、感謝しておりますし、硯箱さんが冷静に加筆なさってくださることは、多大な貢献と考えています。私がずっといっているのは、その加筆する場所です。例えば、私は「政教分離の歴史」を今書いていますが、その中で三十年戦争を解説していると、長くなりました。ですので私は三十年戦争に加筆する予定です。私が宗教改革についていったのも、ただこれだけの話です。なぜこのような常識的な話を理解されないのか、不思議です。--121.107.209.16 2017年4月1日 (土) 15:38 (UTC)[返信]

「私がずっといっているのは、その加筆する場所です。例えば、私は「政教分離の歴史」を今書いていますが、その中で三十年戦争を解説していると、長くなりました。ですので私は三十年戦争に加筆する予定です。」という発言が端的に言って何を言ってるのか意味不明です。少なくともある記述が「政教分離の歴史」の主題により則った記述であれば、「政教分離の歴史」の記事に書かれるべきですし、三十年戦争のほうに書かれるのが適切だというのであれば、それは元々関連性が薄かっただけで長さの問題ではありません。「なぜこのような常識的な話を理解されないのか、不思議です。」と言われましても、これが常識だと思っていることが私にはわかりませんし、どちらかといえばとても常識とも思えない、かなり特異な主張のように思われます。一方の記事が内容が足りないと思われる場合は足りない方を加筆すればよい、それだけではないでしょうか。記事の尺の大小は、記事内容そのものの過不足とは全く関係ない話です。そのようなことを推奨している方針文書もないように思われます。それにこれまでの議論を踏まえれば誠実に出典を示す行動など121.107.209.16さんは一度も取っていないように思われます。私が知っている121.107.209.16さんの行動と言えば、記事の参考文献から出典を見つけることなどせずに、ただ単に自分がよくわかってないところに独自研究テンプレートを貼り付けているだけのように思われます。これまでの議論で121.107.209.16さんがこの記事に挙げられている参考文献を調査し、一つでも記事の出典を誠実に調査したことなどありましたでしょうか。--硯箱会話2017年4月1日 (土) 15:52 (UTC)[返信]

私にとって一番不可解なのは、現状の出典を確認する作業をなぜか私の側に一方的に押しつけられているように思われる点です。むしろ記事に参考文献が挙げられている場合、ある箇所が独自研究であると思うならば、とりあえずその箇所に使用されたと思われる文献を調査し、出典を明らかにして論じられるべきでないでしょうか。検証可能性に基づけば、このような行動が普通予想されます。しかるに121.107.209.16さんは口では「共同編集」などと言いながら、実際において記事内容の真偽の判定、出典の明記などの作業において議論相手と協調する態度は一切示しておらず、やっていることは自分の主張に都合のよい文献を、それもよく読みもしないで一部だけを切り取った形で利用して、記事の論評をしているだけです。これが記事の改善に資する行動とはとても思えないのですが、いかがでしょうか。--硯箱会話2017年4月1日 (土) 16:01 (UTC)[返信]
補足として「また、他の編集者の発言に対して「その発言の出典はあるのか」などといっていますが、これは冗談ですよね?冗談でなければ、もう議論は不可能でしょう。」という発言は私のどんな発言を指して、何を目的として語られたのか理解不能だったうえ、議論とは関係ないそれこそ罵倒のたぐいのように思われますので無視しました。--硯箱会話2017年4月1日 (土) 16:27 (UTC)[返信]
さらに補足として、ようやくわかってきたのですが、121.107.209.16さんは個別脚注方式のみを出典の明記だと勘違いしている可能性があります。方針文書に基づけば、出典の明記の仕方には「
  1. 本文中に注釈を挿入する
  2. 個別参照法
  3. 記事末尾に参考文献を記載する
」の3種類があるのですが、これまでの議論から出典の明記の方針誤読をしているのではないかと思われる疑いが濃厚です。この記事は少なくとも参考文献形式は満たしているわけですが、そのうえで議論に必要な措置としてあるいは記事のブラッシュアップとして、実際の出典箇所を厳密に特定するというのは別の話です。--硯箱会話2017年4月1日 (土) 16:52 (UTC)[返信]
参考文献は実際に出典として使用した文献であり、「関連文献」とは異なります。現状の文献の多くは「関連文献」であり、また参考文献にしてもどの記述に対応しているのか分かない箇所が多いです。一般に独自研究として除外されるものは、脚注なしで書かれているのがほとんどです。なぜなら、出典を書こうにも書けないからです。出典に書かれていないことを出典として使われている場合もありますが、これは確認後削除するのが妥当でしょう。記事の品質のレベルを3つに分類すると、
  1. レベルA:本文中に注釈を挿入して、どの出典を用いているかを明示している。
  2. レベルB:参考文献と関連文献があるが、記述と対応されていない。
  3. レベルC:出典も参考文献も関連文献もないもの
となりますが、現状はレベルB+であり、レベルAにしてほしいと要求しているわけですが、これはこの記事にかぎらず、ウィキペディア総ての記事にも要求されることです。なぜそれが必要かといえば、記事の品質をあげるためです。この記事における「独自研究」の話と、分量と分割の問題は、たしかに別の話ですが、これまでの分割のための議論で強固に硯箱さん(当時IP)が反対されたため、議論が停止したので、まずは「独自研究」問題をクリアしてくださいという経緯となりました。話はその後も蒸し返しもあり、行ったり来たりとなりましたが、硯箱さんによる基本的視野での加筆で、「独自研究」問題がかなり解決はしたのですが、それに感謝をしめしたところ、再び、硯箱さんが猛烈に話を蒸し返して本を読んだのかどうか答えろなどという恫喝めいた尋問を開始されたので、驚いています。その後、本は読みましたし、そもそも山田欣吾の論文だってちゃんと文献調査に示しています。ブロック依頼で感情的になり、私と他の編集者を同一視して、ブロック依頼されたのも私のせいだといわんばかりの憤りを感じられたのかもしれません。しかし、私も罵倒が繰り返されるなか、我慢し、かなり配慮して議論を続けてきたのです。以前にもアルトクールさんの会話ページで私が「文献がネット上のものでないので、確認できないからこちらの言い分が信用できない」などと主張したと捏造を行っていますが、その後も何度もネットでの論文も書籍も研究者による情報源であれば使用できるといっているし、誰も書籍は出典として不可などとはいっていないのに、また言い出しています(2017年3月29日 (水) 12:04発言)。人をもて遊んでいるとしか思えません。何の悪意があって捏造を繰り返すのでしょうか。これまでの議論がここまで長大になり、いまだに合意もできないことを硯箱さんは私のせいにしていますが、私側からいえば、硯箱さんは自説を繰り返して他の編集者の意見を否定するばかりだからです。その後、アルトクールさんにも相談なさっていたようですが、改名提案の話はどうなったのですか。「教会と国家」に改名されれば、私はそれで終結です。--121.107.209.16 2017年4月3日 (月) 15:25 (UTC)[返信]
まず突然よくわからない記事のレベル付けをしているのもわかりませんし、この記事は明らかに参考文献と関連文献を分けており、実際私がまだ前半部のみですが確認すると明らかに出典は特定できるので、この記事の参考文献があやふやだと121.107.209.16さんが断言している理由が不明です。「参考文献は実際に出典として使用した文献であり、「関連文献」とは異なります。現状の文献の多くは「関連文献」であり、また参考文献にしてもどの記述に対応しているのか分かない箇所が多いです。一般に独自研究として除外されるものは、脚注なしで書かれているのがほとんどです。なぜなら、出典を書こうにも書けないからです。出典に書かれていないことを出典として使われている場合もありますが、これは確認後削除するのが妥当でしょう。」というのは実際に参考文献を確認して例証しながら話をされているのであれば納得できますが、これまでの議論で記事の参考文献を踏まえた独自研究の可能性の問題の検討は全く行われていません。こういうことであれば、これは文献の確認をしていない単なる怠慢でしかないでしょう。また山田欣吾『教会から国家へ』を確認されているのならば、独自研究であるという議論が成り立たないことはよくご存知だと思うのですが、それを何かと理由をつけて納得しないのは121.107.209.16さんのほうであるというのが私の認識です。文献調査についても、121.107.209.16さんが主張されている趣旨に沿った、記事に使われている参考文献・使われていないと思われる参考文献を明確化するような文献調査であれば誰も文句は言いませんが、事典類などを好き勝手に解釈して選んで自分に都合の良い形で都合の良い文献を選んでいるだけでとても調査とは言えないでしょう。そもそもその結論については論文誤読をして文献裏付けのない、全くおかしな主張を押しつけてくる(これこそ正しい使用法の意味での独自研究です)となれば、話を聞く気が多少なくなるのがわかりませんでしょうか。--硯箱会話2017年4月3日 (月) 15:38 (UTC)[返信]
私が文献調査で「好き勝手に解釈して選んで自分に都合の良い形で都合の良い文献を選んで」いると?おやおや、困ったものですね。ベッケンフェルデはフランス革命を画期としていますが、フランス革命について書かれていないのはなぜですか?--121.107.209.16 2017年4月3日 (月) 15:51 (UTC)[返信]
そんなことは私は知りません。私は記事にフランス革命が含まれるべきでないという主張はしませんし、必要と思うのであれば、ベッケンフェルデの趣旨に沿う形で私が加筆したっていいですし、些末なことにすぎません。それに上記の発言は私の指摘への答えに全くなっていません。--硯箱会話2017年4月3日 (月) 15:58 (UTC)[返信]
ならば、フランス革命については加筆してください。なお、イギリス、アメリカにおける教会(国教会)と国家の分離について私はいま加筆を予定していますが、イングランドとニューイングランドにおける政教分離の歴史として新記事を作るか、また改名後の「政教分離の歴史」にするか、それとも、政教分離原則#歴史に書くかは検討中です。--121.107.209.16 2017年4月3日 (月) 16:07 (UTC)[返信]
とりあえず私のこれまでの121.107.209.16さんに関する上の指摘について何かしら返答をください。既存の参考文献が出典でないという主張をこれ以上続けるのであれば、記事の改善のためにも「121.107.209.16さんが主張されている趣旨に沿った、記事に使われている参考文献・使われていないと思われる参考文献を明確化するような文献調査」をして頂けますね?--硯箱会話2017年4月3日 (月) 16:15 (UTC)[返信]

分割に関する提案の募集

こんにちは。簡単に自己紹介をいたしますと、たまたまブロック依頼からこの記事の存在を知った者です。たまたま、以前、別の記事で関わったぽてから氏やJapaneseA氏などが議論に参加されていたので、目を通し、この記事は改善すべきであることと、硯箱氏が記事の私物化ともいえる行動をとられてその改善を阻止する存在となってしまっていることについて、認識いたしました。この「西洋中世史の教科書」ともいえるような記事を適切な記事名に変更し、分割することについて、これまで硯箱氏が妨害とも言える行動をとられていますが、今後の議論において妨害的編集をなさらなければ、ブロックする理由はない、ということになると思われます。ですから、硯箱氏が記事の私物化を目的とされているのか、それとも、Wikipediaの方針を理解されて行動を改められるのかを見極めるためにも、ノートはノートで議論を継続するべきではないか、という考えに至った次第でございます。

現在のこの記事に最も適切な記事名は「西洋中世史」ではございませんでしょうか。しかし、「西洋中世史」という学問についての記事であればまだしも、西洋中世史の概略的な記事(教科書のような記事)は必要ございません。まず、分割してスリムにした後で、「国家と教会」がいいのか「世俗化」がいいのかなどを話合ったほうがよろしいのではございませんでしょうか、という考えに基づき、第三者として、議論の調整に参加させていただければと思います。

まず、分割の案を募集いたします。一週間程度で案が出そろいましたら、それについて、議論を交わして頂ければと思います。これまで議論が活発に交わされておりますが、硯箱氏お一人が強硬に反対されてボツとなってしまっていると認識しております。そのような行動を継続されるということであれば、記事の私物化ということになりますので、方向性を変えてご自身でも案をご提出いただければと存じます。わたくしの考えといたしましては、政教分離の歴史#歴史的展開以降は、分割が適切であろうと考えておりますが、万一、案が集まらなかった場合に、提案を検討いたします。できましたら、これまで、議論に参加されていた方に案の提出をお任せし、第三者としての議事の進行役に徹するつもりで考えております。なお、この議論中における執筆活動は継続なさっていただいてかまいません。--雅ハルカ会話2017年4月3日 (月) 07:31 (UTC)[返信]

そもそもこのノートの議論の中で独自研究箇所をあらかじめ明らかにしてから分割されるべきであるということを踏まえて全体の方向性が進んできていた中で、分割提案を先行させる必要性について改めて主張される根拠は何でしょうか。その理由が上で述べる「目を通し、この記事は改善すべきであることと、硯箱氏が記事の私物化ともいえる行動をとられてその改善を阻止する存在となってしまっていることについて、認識いたしました。」ということであれば、私自身から見ればとても客観的な立場からの参加とは思えず、同時にこれまでの経緯を十分に確認されていないことからも、議論進行役としてせっかく立候補して頂いているとはいえ、不適格ではないかと思います。基本的にはここまで曲がりなりにも一定の方向性で進んできた議論を一方の主張に有利なように巻き戻す行為であり、それが十分根拠があれば納得できますが、理由の上でも一方に肩入れする主観性が見出されることから、議論の混乱を招くだけのように思われます。--硯箱会話2017年4月3日 (月) 08:53 (UTC)[返信]
また軽々に記事の私物化を持ち込んでおられますが、記事の私物化は記事の編集に対して排除行動をとることを意味しており、それは現状の記事内容を保護すべきか別の観点で書き換えるかという議論があるときに、現状の内容を保護すべきだという立場を一方的にレッテル貼りするためのマジックワードではありません。客観的に見れば、編集行動からの排除の動きは私の側に対して一方的に行われているようであり、客観的証拠の上からも私の編集行動のみを標的として妨害することを目的としたと思われる編集行為および発言の存在があることをWikipedia:投稿ブロック依頼/硯箱で私は丁寧に説明し、十分客観的に論証しているつもりであり、同時にそうした排除行動の一端として雅ハルカさん自身についても排除的な側に肩入れしているように見られる点を指摘しております。もちろんそれが事実であるかどうかはコミュニティの良識に任せる問題ですけれども、少なくとも「目を通し、この記事は改善すべきであることと、硯箱氏が記事の私物化ともいえる行動をとられてその改善を阻止する存在となってしまっていることについて、認識いたしました。」という記述は事実の歪曲であるように私には思われますし、「しかし、「西洋中世史」という学問についての記事であればまだしも、西洋中世史の概略的な記事(教科書のような記事)は必要ございません。」についてもこの発言はこの記事のノートで特定の利用者が繰り返し論じておられる主張に酷似しているのですが、そもそも教科書的というのは個人のイメージに過ぎず、厳密な方針の検討に基づく議論においてはノート中で決着は付いているとは言いがたいということも指摘しておきます。内容の取捨選択が必要という点において、私は当初から反対しておらず今も反対しませんが、その理由はむしろ記事の観点・論点を分野なども含めて極力明確化しそれに沿った史実と議論以外削ぎ落とすべきという理由であり、その手段として分割は必ずしも唯一の手段ではないですし、実際上私はこの記事の抱える問題点を分割という形で方々に拡散させるよりはまずはここで分割以外の問題点の改善を完了してから分割すべきということを論じており、それがそもそもの分割の差し戻し理由の一つでもありました(念のため補足しますが、理由はほかにもあったので、これが主理由ではありません)。雅ハルカさんの理由が「西洋中世史の概略的な記事」だからということであれば、その主張には明らかな偏向性が見られると思われますから、調停役として適切とは到底思われません。--硯箱会話2017年4月3日 (月) 09:10 (UTC)[返信]
はじめにお断りしておきますが、議論のための議論をするつもりはございません。議論のための議論としか思えず回答が不要であると判断した内容については、回答はいたしません。「中世西洋史」はWikipediaの何ではないか、に反するということ、また、中世西洋史の一部のみをピックアップする、そのピックアップの仕方が独自研究の一つである、ということから、分割の提案について議論を進めることが記事の改善にとってよろしいのではないかと考えた次第でございます。なお、硯箱氏の議論態度は、ブロック依頼における審議参加者による審議の対象となっていることをご認識ください。私としては、硯箱氏の議論態度が改善しさえすればブロックする理由はない、と明言した上での議論参加でございますから、頑張って協力的に作業できるということを証明されますように、願っております。なお、分割が必要であること、について異論がないものとし、分割提案の募集を停止はいたしません。--雅ハルカ会話2017年4月3日 (月) 09:33 (UTC)[返信]
雅ハルカさんの行動がノートでのこれまでの議論や他所での行動も含めて客観的に記事の改善に対して協力的な観点の申し出であるか、上の言動を見ても第三者的とは言えないように思いますし、調停者としてはとても受け容れられません。結果として有益な観点が提供されることもあることから、私は雅ハルカさんの行動自体をあえて積極的に止めようとは思いませんが、ウィキペディア上で同様の議論の進行が許されているのであれば、それは明らかにコミュニティを疲弊させる行動であるように思われるという点を指摘しておきます。--硯箱会話2017年4月3日 (月) 09:41 (UTC)[返信]
私は、硯箱氏が独自研究を理解されていないことが問題であり、4か月間の議論のほとんどが硯箱氏が独自研究を理解されてさえいれば多くが無用であったと考えております。それについて、この分野に関心のある人であれば、(硯箱氏をのぞけば)ほぼ同意見であろうと考えましたために、あえて、硯箱氏の主張に問題点があることを表明した上でノートで議論に参加いたしました。硯箱氏のこれまでの議論姿勢を正当化することは不可能でございますが、今このタイミングで改められませんか。全てはこれからの硯箱氏の行動如何でございます。--雅ハルカ会話2017年4月3日 (月) 12:40 (UTC)[返信]
  • コメント 硯箱さんは、編集行為やその内容の正当性など、いわゆる「大義名分」にこだわりすぎているように思われます。Wikipediaのコミュニティの存在意義は、編集行為の規則や手順を寸分の狂いもなく順守することにあるのではありません。あくまで、閲覧者に有意義な情報を提供することが主目的です。硯箱さんの現在の方針に対する風当たりも結構あるわけですから、これ以上手続き論を続けるのは全員にとって宜しくない事態です。--Susuka会話2017年4月3日 (月) 14:53 (UTC)[返信]
手続き論という観点で言われますと、むしろ手続き論的な話は私はこだわっていませんでしたが、議論参加者が方針文書を持ち出し、手続き論を展開するので、それならば手続き論をより明確に論じる必要があると思っています。「硯箱さんの現在の方針に対する風当たりも結構ある」という点に即して具体的に論じれば、私個人としては本来歴史学的な議論にとくに限る必要性は感じてませんでしたが、議論を踏まえる過程でむしろ帰属化・他の記事との差別化・閲覧者の便宜の面でも歴史学的議論に内容を限定し、そのうえで適切な改名をすることが最も適切であると考えてのことであります。利用者の閲覧の利便性を考えても関連する出典や議論が一つの記事にまとめられていることが便益に適うと思われますし、分割の是非については手続き論の問題だけを論じているのはないということはこれまでの議論でも丁寧に説明したと思いますし、直前に言ったとおりであります。--硯箱会話2017年4月3日 (月) 15:06 (UTC)[返信]
そのうえで改名後の跡地なりに「政教分離の歴史」として議論相手が満足する記事を書くことはそれはそれで結構ですし、私は否定してません。その場所として政教分離原則#歴史もあるのですから、今書く場所がないというわけではありません。問題は私から見ると、この記事に書かれているような議論、私が文献を補い明確化した議論を知らないと思われる人たちが好き勝手に記事の一部を切ったり貼ったり論評していることだと私は思っていて、そういう話をしていると結局どこが独自研究でどこが過不足しているのかという記事改善において最も中心的な点がいつまでたってもわからないでしょう、という話です。私が改名を先にした方がよいと思っているのも私自身が最初から主張しているのでは無く(私自身は当初は現状の記事内容と過去ログをざっと見て「中世の政教分離」とか「中世の国家と教会」とかなんかそんな感じでの改名を漠然と考えていましたが、議論の過程でそれでは不十分だということを認識しました)、そういう議論の流れから全体的に考えてのことです。そうした意味で丁寧に改名→分割という流れで話を進めてきたのに、今この時点での分割に固執するのはどうしてなのか私にはわからないということです。--硯箱会話2017年4月3日 (月) 15:14 (UTC)[返信]

分割提案

雅ハルカさんの募集に応じます。分割よりも改名がなされるべきですが、しかし改名後に再度分割のための議論をするよりもいま平行して議論を進めた方がいいと思い、提案します。

もっと細かく分割するよりもこれくらいのヴォリュームで一括して分割すれば、一定の可読性もアクセシビリティも保持できます。--121.107.209.16 2017年4月3日 (月) 16:00 (UTC)[返信]

まず明確な問題として、参考文献のどこが出典であるかわからない現状で、文献確認を経ずに分割することが適切であるとは思えませんし、過去の121.107.209.16さんの分割では編集の過程で明らかに誤ったと思われる出典箇所が修正されずに分割継承されてしまっています。また121.107.209.16さんが本記事を独自研究であるという主張を今でも頑なに取り下げていない現状で、そもそも独自研究の疑いのある記述を分割してしまえば、結果として発生するのは独自研究議論の分散であり、労力の分散です。この記事のように錯綜した議論をされている記事を議論を解決せずに分割することは、改善作業の面からも明らかに現実的ではないということをどうして理解していただけないのでしょうか。--硯箱会話2017年4月3日 (月) 16:12 (UTC)[返信]
121.107.209.16さん、突然の議論参加であったにも関わらず応じていただきまして大変ありがとうございます。硯箱氏と121.107.209.16氏より、分割よりも改名がなされるべき、というご意見をいただきました。せっかく分割のご提案をいただきましたが、ここで、一度、分割提案をクローズさせていただき、新記事名の提案を先にさせていただくということに、方向を転換させていただきますこと、お許しください。私の目的の一つとしては、どうにか、この停滞している状況をすすめることができるかどうか、原因がどこにあるのかについて、最終的に確認をできればということでございます。硯箱氏が分割には100%反対、改名そのもには賛成だが候補の名称に不満、ということを認識いたしましたので、改名について、先に議論をすすめさせていただくことが得策でございますね。ということで、ご迷惑をおかけしますが、いったんここでこの件に関する議論はストップでお願い致します。--雅ハルカ会話2017年4月3日 (月) 16:34 (UTC)[返信]

新記事名の募集

改名提案を先にという要望がございましたので、本日より一週間の間、改名後の記事の名前について募集いたします(分割については、いったん停止)。すでに改名提案がなされており相当な議論がされておりますが、申し訳ございませんが議論の流れが追いづらく、これまでの議論に継続してというのは難しいのではと感じております。参加者の皆様には大変お手数ではございますが、改名後の記事名(簡単な理由可)を、再度、以下にご提案いただけませんでしょうか。議論は、一週間後に開始するとして、今後一週間、記事名の候補のみ(簡単な理由を付けるのは可)を以下に挙げて頂きますようお願いします。重要なポイントといたしましては、議論は一週間後に開始をお願いしたいということでございます。他利用者が提案した名前の案について、次々にご意見を述べられるのは、お控えいただきますようお願いします。私自身は全く案がない場合には検討いたしますが、今のところは提案行為を行う予定はございません。--雅ハルカ会話2017年4月3日 (月) 16:34 (UTC)[返信]

どうも、お久しぶりです。話したら理解できるだろうと思って、議論に参加した次第だったんですけど、最近思うように時間がとれなくなってしまいまして、恐縮です。硯箱さんが方針を理解されれば万事解決する話なんですけど、全体の量も膨大ですが一次資料のテンプレのことだけで延々なのをご覧になりましたよね。まあ、一週間後に本格的に議論を再開するとして、まず、硯箱さんはWikipedia:ウィキペディアは何ではないかを読まれてください。たとえば、枕草子をご覧下さい。「書名の由来」「評価」「伝本」などの第三者による評価が主体となってますよね? 枕草子の全文やその現代語訳や助動詞の使い方とか書いてませんよね? 硯箱さんがされようとしてることは、いわば、枕草子の全文やその現代語訳や助動詞の使い方や自分なりの解説・解釈・豆知識とかを網羅して教科書や参考書やレポートの類をウィキペディアに作ろうとされてるってことだと思ってます。最近加筆された箇所については出典が単一でも「あった」ということは良かったですし、「提唱者によれば」とされて最初から書かれていればよかっただけなんですが、どうしても、自分が信じる真実を書くことを追求されてますんで。ウィキブックスで活動されれば、歓迎されるかもしれません。百科事典が何か、というのは、硯箱さんにご理解いただきたいですよね。--ぽてから会話2017年4月3日 (月) 23:13 (UTC)[返信]

新記事名の提案

  1. 「レース・プーブリカ・クリスティアナ」を提案いたします。これは歴史学的な原史料にもしばしば登場し、歴史学的に利用される専門用語「res publica christiana」をそのままカタカナで記したものですが、これには文献によって必ずしも定訳がなく、「キリスト教世界」や「キリスト教国家」と訳すと、ここで展開された「政教分離」の言葉に引きづられた議論のように、「キリスト教世界」「キリスト教国家」といった言葉の表面的なニュアンスに引きづられた誤った認識や議論が持ち込まれてしまう可能性があります。そのため歴史学的な専門議論であることを明確にするためにもやや異例と思われるのですが、「レース・プーブリカ・クリスティアナ」ないし「レース・プーブリカ・クリスティアナの歴史」への改名を候補とします。ほぼ同内容の専門用語として「corpus christianum」も存在しますが、管見の限り、文献的には「レース・プーブリカ・クリスティアナ」の使用が圧倒的に多いと思われます。ちなみに言語間リンクとしてもen:Res publica christianaが存在します。記事冒頭部は改名に合わせて適切に処理される必要はあります。--硯箱会話2017年4月3日 (月) 16:47 (UTC)[返信]
  • 「教会と国家」を提案します。「キリスト教の教会と国家」等類似の名前も可。ただし、記事名を「〜の歴史」とはせず、記事内の節名を「〜の歴史」とする。今年に入ってから硯箱さんが加筆された内容が、当初から目指していた通り、en:Church and state in medieval Europeに対応してるので。なお、教会と国家が一体であった時代については、記述されたいのであれば政教一致という記事があります。世俗化の概念の誕生から始めるのは「教会と国家」の関係性を記述されたかった、「教会と国家」を意図して一つ目の節をお書きになられた、と理解してました。あれ、違ったんですか? とちょっとビックリですがその話は一週間後ということで。--ぽてから会話2017年4月3日 (月) 23:13 (UTC)[返信]