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1965年1月4日から1965年5月31日まで音楽番組『[[ミュージックフェア]]』(フジテレビ)の司会も担当した。ワイドショーの司会をした事があるが、番組中で[[沖縄国会]][[強行採決]]を批判した政治的発言により降板した<ref name="nikkan" />。自らが司会する番組で[[パット・ブーン]]を紹介するつもりが「こんばんは、ポップコーンさんです」と言ってしまった(「[[クイズダービー]]」第614回([[1987年]][[11月7日]])放送分の2問目より)。
1965年1月4日から1965年5月31日まで音楽番組『[[ミュージックフェア]]』(フジテレビ)の司会も担当した。ワイドショーの司会をした事があるが、番組中で[[沖縄国会]][[強行採決]]を批判した政治的発言により降板した<ref name="nikkan" />。自らが司会する番組で[[パット・ブーン]]を紹介するつもりが「こんばんは、ポップコーンさんです」と言ってしまった(「[[クイズダービー]]」第614回([[1987年]][[11月7日]])放送分の2問目より)。


1952年の映画デビュー以降数々の作品に出演したが、新東宝、[[日活]]、[[大映]]に短期間所属したことはあるものの、[[五社協定]]をものともせず、一匹狼の女優として活動。強い信念の持ち主で、映画会社にスターとして売り出してもらうより、いい脚本、いい監督の作品を自ら選択することを重要視し続けたためである。演出や役柄の解釈について自分の意見を主張し納得するまで議論する女優だった。『遠い一本の道』の監督・主演も「男女差別をなくしたい」との主張に基づくものだった。<ref name="nikkan">日刊スポーツ 2001年11月11日-『[https://web.archive.org/web/20011213040448/http://www.nikkansports.com/jinji/2001/seikyo011111.html 左幸子訃報](2001年12月13日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])』記事。同記事中の[[三国連太郎]]、[[今村昌平]]の談話。</ref>
1952年の映画デビュー以降数々の作品に出演したが、新東宝、[[日活]]、[[大映]]に短期間所属したことはあるものの、[[五社協定]]をものともせず、一匹狼の女優として活動。強い信念の持ち主で、映画会社にスターとして売り出してもらうより、いい脚本、いい監督の作品を自ら選択することを重要視し続けたためである。演出や役柄の解釈について自分の意見を主張し納得するまで議論する女優だった。『遠い一本の道』の監督・主演も「男女差別をなくしたい」との主張に基づくものだった。<ref name="nikkan">日刊スポーツ 2001年11月11日-『[https://web.archive.org/web/20011213040448/http://www.nikkansports.com/jinji/2001/seikyo011111.html 左幸子訃報](2001年12月13日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])』記事。同記事中の[[三国連太郎]]、[[今村昌平]]の談話。</ref>


{{要出典範囲|date=2015年1月|私生活では、[[1959年]]に映画監督の[[羽仁進]]と結婚。1964年に長女・未央を出産。しかし、[[1973年]]に羽仁が娘を連れて[[アフリカ]]に長期撮影旅行に出かけた際、これに同行した左の実妹(四女・額村喜美子。左時枝とされる場合があるが誤り)と不倫関係にあったことを知り、ショックを受け酒浸りの生活を送る。}}1977年、娘の教育問題などを理由に離婚し未央は父側に付いた。羽仁はその4ヶ月後、喜美子と再婚した。
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2017年9月4日 (月) 15:38時点における版

ひだり さちこ
左 幸子
左 幸子
1952年
本名 額村 幸子
ぬかむら さちこ
生年月日 (1930-06-29) 1930年6月29日
没年月日 (2001-11-07) 2001年11月7日(71歳没)
出生地 日本の旗 日本富山県下新川郡朝日町
死没地 日本の旗 日本東京都中央区
職業 女優
ジャンル 映画・テレビドラマ・舞台
活動期間 1952年 - 1999年
配偶者 羽仁進1959年 - 1977年
著名な家族 妹:左時枝
娘:羽仁未央
主な作品
テレビドラマ
北の家族
赤い絆
映画
幕末太陽伝
にっぽん昆虫記
飢餓海峡
受賞
ブルーリボン賞
主演女優賞
1963年にっぽん昆虫記』、『彼女と彼
その他の賞

ベルリン国際映画祭
最優秀主演女優賞
1963年『にっぽん昆虫記
キネマ旬報賞
女優賞
1963年『にっぽん昆虫記』、『彼女と彼』

毎日映画コンクール
女優主演賞
1963年『にっぽん昆虫記』、『彼女と彼』
女優助演賞
1965年『おふくろ』、『人生とんぼ返り
1967年『女の一生』、『春日和』
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左 幸子(ひだり さちこ、1930年6月29日 - 2001年11月7日)は、日本の女優。富山県下新川郡朝日町出身。本名、額村幸子。

妹は同じく女優左時枝。元夫は映画監督羽仁進1959年結婚、1977年離婚)。娘はエッセイスト羽仁未央

人物・来歴

骨董店を営む両親の三男五女の長女として生まれ、東京女子体育専門学校(現・東京女子体育大学)卒業後、都立第五商業高校ならびに國學院大學久我山中学校の体育・音楽教師をしながら俳優座の委託生となり演技を学ぶ。女優の左時枝は末妹にあたる。

1951年に『家庭よみうり』のカバーガールを務めたことから新東宝野村浩将の目にとまり、1952年に野村の勧めで『若き日のあやまち』に主演。

1957年の『幕末太陽傳』では、南田洋子伝説的な喧嘩シーン[独自研究?]を演じた。

そして、1963年、『にっぽん昆虫記』で貧しい農村で職業を転々としながら売春組織の元締になっていく女性を演じ、『彼女と彼』と合わせて日本人で初めてベルリン国際映画祭女優賞を獲得した

1965年、『飢餓海峡』では純朴な娼妓・杉戸八重を演じて毎日映画コンクール女優主演賞を受賞。

一方、1977年には『遠い一本の道』監督・主演。当時の国鉄労働組合が1億円の資金を提供し、田中絹代に次ぐ女優監督となった。

テレビドラマでは『北の家族』(1973年)『赤い絆』(1977年~1978年)『大市民』『野のきよら山のきよらに光さす』[1]などに出演した。 1965年1月4日から1965年5月31日まで音楽番組『ミュージックフェア』(フジテレビ)の司会も担当した。ワイドショーの司会をした事があるが、番組中で沖縄国会強行採決を批判した政治的発言により降板した[2]。自らが司会する番組でパット・ブーンを紹介するつもりが「こんばんは、ポップコーンさんです」と言ってしまった(「クイズダービー」第614回(1987年11月7日)放送分の2問目より)。

1952年の映画デビュー以降数々の作品に出演したが、新東宝、日活大映に短期間所属したことはあるものの、五社協定をものともせず、一匹狼の女優として活動。強い信念の持ち主で、映画会社にスターとして売り出してもらうより、いい脚本、いい監督の作品を自ら選択することを重要視し続けたためである。演出や役柄の解釈について自分の意見を主張し納得するまで議論する女優だった。『遠い一本の道』の監督・主演も「男女差別をなくしたい」との主張に基づくものだった。[2]

私生活では、1959年に映画監督の羽仁進と結婚。1964年に長女・未央を出産。しかし、1973年に羽仁が娘を連れてアフリカに長期撮影旅行に出かけた際、これに同行した左の実妹(四女・額村喜美子。左時枝とされる場合があるが誤り)と不倫関係にあったことを知り、ショックを受け酒浸りの生活を送る。[要出典]1977年、娘の教育問題などを理由に離婚し未央は父側に付いた。羽仁はその4ヶ月後、喜美子と再婚した。

1985年胃癌のための一部を切除するも体調が回復せず長く療養生活を送る。1991年に舞台『糸女』でカムバックを果たしたが、その後はバラエティ番組へのゲスト出演が活動の中心になっていった。晩年は『快傑熟女!心配ご無用』(TBS)のレギュラーパネリストとして出演している。

2001年11月7日国立がんセンター肺癌のため死去。71歳没。

娘の未央はエッセイストになり、アジアチャンネルのC.E.Oを務めていた。ただし、母親の葬儀には参列しなかった。[要出典]

出演

映画

テレビドラマ

バラエティ

注釈

  1. ^ ドラマスペシャル 野のきよら山のきよらに光さす - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
  2. ^ a b 日刊スポーツ 2001年11月11日-『左幸子訃報(2001年12月13日時点のアーカイブ)』記事。同記事中の三国連太郎今村昌平の談話。

外部リンク