「市川一家4人殺害事件」の版間の差分
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:[[1950年]](昭和24年)8月10日生まれ<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>、{{没年齢|1950|8|10|1992|3|6}}<ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="中日新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞1992-03-07"/>。事件7年前の[[1985年]]、写真週刊誌『[[Emma]]』([[文藝春秋]])記事に掲載された<!--参考文献では写真週刊誌掲載は1984年となっており、三浦和義氏の写真が掲載された雑誌は他記事の情報だとEmmaとなっていますが、Emmaは1985年創刊なので矛盾が生じます。後日国立国会図書館などで調査いたします-->「当時[[ロス疑惑]]で注目を浴びていた[[三浦和義]]が[[スワッピング]]・パーティーに参加した際のプライベート写真」を撮影した[[フリーランス]]のカメラマンであった<ref group="書籍">{{Harvnb|永瀬|2004|page=105}}</ref><ref group="雑誌" name="週刊新潮1992-03-19"/><ref group="雑誌" name="FOCUS-1992-03-20"/>。 |
:[[1950年]](昭和24年)8月10日生まれ<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>、{{没年齢|1950|8|10|1992|3|6}}<ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="中日新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞1992-03-07"/>。事件7年前の[[1985年]]、写真週刊誌『[[Emma]]』([[文藝春秋]])記事に掲載された<!--参考文献では写真週刊誌掲載は1984年となっており、三浦和義氏の写真が掲載された雑誌は他記事の情報だとEmmaとなっていますが、Emmaは1985年創刊なので矛盾が生じます。後日国立国会図書館などで調査いたします-->「当時[[ロス疑惑]]で注目を浴びていた[[三浦和義]]が[[スワッピング]]・パーティーに参加した際のプライベート写真」を撮影した[[フリーランス]]のカメラマンであった<ref group="書籍">{{Harvnb|永瀬|2004|page=105}}</ref><ref group="雑誌" name="週刊新潮1992-03-19"/><ref group="雑誌" name="FOCUS-1992-03-20"/>。 |
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:1986年ごろから後述の女性Dと同居を開始し、その |
:1986年ごろから後述の女性Dと同居を開始し、その女性の子だった少女Bも我が子同然に可愛がっていた<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.81">{{Harvnb|永瀬|2004|page=81}}</ref>。[[1987年]](昭和62年)3月に女性Dと結婚し、継子の少女Bを養子とした<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>。同年8月には妻Dとともに行徳駅前のマンションを事務所として<ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/>雑誌の出版・編集などの業務を行う株式会社を設立して取締役を務めており<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>、社員を数人抱えるなど順調な経営ぶりだった<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.82"/>。 |
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:* 結婚後は「年ごろの娘を持つようになった」ためにそれまでの風俗関連から離れ<ref group="雑誌" name="FOCUS-1992-03-20"/>、事件直前まで妻Dと共に料理雑誌・旅行雑誌の仕事を中心にして<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.82"/>レストラン・温泉地などの写真を撮影 |
:* 結婚後は「年ごろの娘を持つようになった」ためにそれまでの風俗関連から離れ<ref group="雑誌" name="FOCUS-1992-03-20"/>、事件直前まで妻Dと共に料理雑誌・旅行雑誌の仕事を中心にして<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.82"/>レストラン・温泉地などの写真を撮影するフリーランスのカメラマンだった<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>。 |
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:* 周囲の友人たちは生前の男性A・女性D夫妻の仲睦まじさを微笑ましく見ており<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.82">{{Harvnb|永瀬|2004|page=82}}</ref>、近隣住民は『読売新聞』の取材に対し、夫妻の人物像に関して「夫婦揃ってカメラボックスを抱えて事務所に出入りする姿を見ていた」と証言した<ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/>。 |
:* 周囲の友人たちは生前の男性A・女性D夫妻の仲睦まじさを微笑ましく見ており<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.82">{{Harvnb|永瀬|2004|page=82}}</ref>、近隣住民は『読売新聞』の取材に対し、夫妻の人物像に関して「夫婦揃ってカメラボックスを抱えて事務所に出入りする姿を見ていた」と証言した<ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/>。 |
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:* Dが第一子を妊娠した際には「子供は何人いてもいい。立派な子供を産んでほしい」と喜んでいたが、後にDが流産してしまった際には「珍しく厳しい口調」で「仕事は二の次でいいから自分の体を大切にしてくれ」とDを諭していた<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.82"/>。その後長女(幼女E・後述)をもうけている。 |
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:1992年3月5日午後9時40分ごろに帰宅した直後、背後からSに左肩を刺されて致命傷を負い、翌6日午前0時30分ごろにはSに包丁で背中を再び刺され |
:1992年3月5日午後9時40分ごろに帰宅した直後、背後からSに左肩を刺されて致命傷を負い、翌6日午前0時30分ごろにはSに包丁で背中を再び刺され、出血多量で死亡した<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>。 |
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;少女B(負傷) |
;少女B(負傷) |
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:[[1976年]](昭和51年)3月19日生まれ<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>、事件当時15歳<ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="中日新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞1992-03-07"/>。 |
:[[1976年]](昭和51年)3月19日生まれ<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>、事件当時15歳<ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="中日新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞1992-03-07"/>。 |
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:女性Dの長女で事件当時は船橋市内の県立高校 |
:女性Dの長女で事件当時は船橋市内の県立高校1年生だった<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/><ref group="書籍">{{Harvnb|永瀬|2004|page=13}}</ref><ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="中日新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞1992-03-07"/>。男性Aとは血縁関係はなく、母Dが離婚した前夫との間にもうけた子で<ref group="書籍">{{Harvnb|永瀬|2004|pages=79-82}}</ref>、DがAと再婚した際にAと養子縁組した養女だった<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-10"/><ref group="新聞" name="中日新聞1992-03-15"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-10_kadai">『朝日新聞』1992年3月10日朝刊千葉版22面「重い課題(衝撃の刃・報道検証 市川の一家4人殺人)千葉 長女『参考人』に予断 実は最大の被害者 『単独犯』に記者席騒然」</ref>。 |
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:「共働きの両親に代わって10歳以上離れた妹Eを朝夕と保育園に送迎する」など<ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-08"/>優しい性格で<ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-10"/>、通学していた県立高校では演劇部・美術部などに所属してクラスの副委員長も務め<ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-10"/>、将来は美術関係の大学進学を希望していた「ごく普通の女子高生」だった<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/><ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.12-13"/>。 |
:「共働きの両親に代わって10歳以上離れた妹Eを朝夕と保育園に送迎する」など<ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-08"/>優しい性格で<ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-10"/>、通学していた県立高校では演劇部・美術部などに所属してクラスの副委員長も務め<ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-10"/>、将来は美術関係の大学進学を希望していた「ごく普通の女子高生」だった<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/><ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.12-13"/>。 |
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:一連の事件では一家殺害事件前の1992年2月12日、加害者Sのアパートに拉致されて2回強姦された<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/><ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.72-73"/>。1992年3月5日夕方、帰宅直後からSが逮捕されるまでの約14時間にわたってSに監禁され<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.12-13"/><ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.90-91"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-08"/><ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/> |
:一連の事件では一家殺害事件前の1992年2月12日、加害者Sのアパートに拉致されて2回強姦された<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/><ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.72-73"/>。1992年3月5日夕方、帰宅直後からSが逮捕されるまでの約14時間にわたってSに監禁され<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.12-13"/><ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.90-91"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-08"/><ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/>、既に殺されていた祖母Cを除く家族3人(母D・父A・妹E)を、目の前で惨殺された<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>。 |
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:* これに加え |
:* これに加え、母Dを目の前で殺害された直後に1回<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.87-89"/>・父Aを殺害されSにラブホテルに連れ込まれた際に2回<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.90-91"/>、計5回にわたってSに強姦される被害を受けた<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>。 |
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:事件後は両親の知人の下へ身を寄せた後、事件1年後の1993年に[[熊本県]]の母方の実家に引き取られた<ref group="書籍">{{Harvnb|永瀬|2004|page=97}}</ref>。高校卒業後は故郷の熊本を離れ、事件前から夢見ていた美術系大学に進学し、2000年春に卒業した<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.211-212">{{Harvnb|永瀬|2004|pages=211-212}}</ref>。永瀬の取材に対しては「もう事件のことは忘れないと前に進めないから忘れた。(当時死刑判決を受けて最高裁に上告中だった加害者Sが)どういう刑を受けようとまったく関心はないが、極刑は当然だと思っている」と気丈に語っており、知人に対しては「バリバリ働いて私を育ててくれた母のようなキャリアウーマンになりたい」と将来の希望を語っていた<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.211-212"/>。 |
:事件後は両親の知人の下へ身を寄せた後、事件1年後の1993年に[[熊本県]]の母方の実家に引き取られた<ref group="書籍">{{Harvnb|永瀬|2004|page=97}}</ref>。高校卒業後は故郷の熊本を離れ、事件前から夢見ていた美術系大学に進学し、2000年春に卒業した<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.211-212">{{Harvnb|永瀬|2004|pages=211-212}}</ref>。永瀬の取材に対しては「もう事件のことは忘れないと前に進めないから忘れた。(当時死刑判決を受けて最高裁に上告中だった加害者Sが)どういう刑を受けようとまったく関心はないが、極刑は当然だと思っている」と気丈に語っており、知人に対しては「バリバリ働いて私を育ててくれた母のようなキャリアウーマンになりたい」と将来の希望を語っていた<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.211-212"/>。 |
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:2001年12月、事件現場近所の主婦は『東京新聞』の取材に対し、一人遺された被害者遺族Bについて「心に受けた深い傷は想像を絶する。幸せを願いそっとしておいてあげたい」と気遣った<ref group="新聞" name="東京新聞2001-12-04"/>。また、事件現場に駆けつけた当時の捜査幹部は「とにかく酷かった。母親に息子夫婦、幼い子まで殺された。『被害者のために間違いのないように起訴まで持っていこう』と全力を尽くした」と振り返った<ref group="新聞" name="東京新聞2001-12-04"/>。 |
:2001年12月、事件現場近所の主婦は『東京新聞』の取材に対し、一人遺された被害者遺族Bについて「心に受けた深い傷は想像を絶する。幸せを願いそっとしておいてあげたい」と気遣った<ref group="新聞" name="東京新聞2001-12-04"/>。また、事件現場に駆けつけた当時の捜査幹部は「とにかく酷かった。母親に息子夫婦、幼い子まで殺された。『被害者のために間違いのないように起訴まで持っていこう』と全力を尽くした」と振り返った<ref group="新聞" name="東京新聞2001-12-04"/>。 |
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;女性C(死亡) |
;女性C(死亡) |
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:1908年([[明治]]41年)7月4日生まれ<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>、{{没年齢|1908|7|4|1992|3|5}}<ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="中日新聞1992-03-07"/><ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.82-84"/>。 |
:1908年([[明治]]41年)7月4日生まれ<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>、{{没年齢|1908|7|4|1992|3|5}}<ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="中日新聞1992-03-07"/><ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.82-84"/>。 |
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:男性Aの実母 |
:男性Aの実母、B・E姉妹の祖母で、息子夫婦・孫2人と同居していた<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>。高齢のため、散歩に出るとき以外は玄関北側の自室で過ごしていたことが多かった<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>。 |
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:1992年3月5日午後4時30分ごろ、自宅に侵入してきたSに首を絞められて窒息死し、一連の事件で最初の犠牲者となった<ref group="書籍" name="丸山-2010"/><ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.84-86"/>。 |
:1992年3月5日午後4時30分ごろ、自宅に侵入してきたSに首を絞められて窒息死し、一連の事件で最初の犠牲者となった<ref group="書籍" name="丸山-2010"/><ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.84-86"/>。 |
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;女性D(死亡) |
;女性D(死亡) |
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:[[1955年]](昭和30年)6月19日<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>・[[熊本県]][[八代市]]生まれ<ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/>、{{没年齢|1955|6|19|1992|3|5}}<ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="中日新聞1992-03-07"/>。 |
:[[1955年]](昭和30年)6月19日<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>・[[熊本県]][[八代市]]生まれ<ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/>、{{没年齢|1955|6|19|1992|3|5}}<ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="中日新聞1992-03-07"/>。 |
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:地元の高校を卒業後に隣町に在住していた百科事典のセールスマンと恋愛結婚したが、前夫は仕事に身が入らず遊び惚けていたため |
:地元の高校を卒業後に隣町に在住していた百科事典のセールスマンと恋愛結婚したが、前夫は仕事に身が入らず遊び惚けていたため、長女Bが誕生した直後に離婚した<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.79">{{Harvnb|永瀬|2004|page=79}}</ref>。しかし「勝気な性格のために前夫には慰謝料・養育費とも要求せずに「自分1人で立派に育てる」と乳飲み子の長女Bを連れて20歳で上京し、証券会社事務職・建設会社経理職・ダンプカー運転手・水商売などと職を転々とした後、フリーカメラマンの男性Aと知り合った<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.79"/>。 |
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:* [[永瀬隼介]]は著書『19歳』([[角川文庫]])にて生前の女性Dを「女優・[[根岸季衣]]に似た美人で、男勝りで気前のいい性格」と表現している<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.79-80"/>。 |
:* [[永瀬隼介]]は著書『19歳』([[角川文庫]])にて生前の女性Dを「女優・[[根岸季衣]]に似た美人で、男勝りで気前のいい性格」と表現している<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.79-80"/>。 |
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:当時30歳で長女Bが小学5年生だった1987年ごろに男性A(当時37歳)と知り合い、1年間の同居生活を経て<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.79-80">{{Harvnb|永瀬|2004|page=79-80}}</ref>[[1987年]](昭和62年)3月に |
:当時30歳で長女Bが小学5年生だった1987年ごろに男性A(当時37歳)と知り合い、1年間の同居生活を経て<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.79-80">{{Harvnb|永瀬|2004|page=79-80}}</ref>[[1987年]](昭和62年)3月に幼女Eを出産、男性Aと結婚(再婚)した<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>。同居を開始したころからは東京都[[千代田区]][[九段下]]で編集プロダクション会社を経営し<ref group="書籍">{{Harvnb|永瀬|2004|page=80}}</ref>、男性Aとの第一子を妊娠するが流産してしまったため、後の幼女Eを妊娠した際には「仕事は二の次でいいから体を大切にしろ」と注意を受けていた<ref group="書籍">{{Harvnb|永瀬|2004|page=81}}</ref>。 |
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:* 『読売新聞』報道によれば「前夫との間に生まれたBと一緒に出身地の八代市から市川市に転居して行徳駅前のマンションに部屋を借りて写真の勉強をしていた」<ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/>。その後、フリーカメラマンだったAと知り合って結婚 |
:* 『読売新聞』報道によれば「前夫との間に生まれたBと一緒に出身地の八代市から市川市に転居して、行徳駅前のマンションに部屋を借りて写真の勉強をしていた」<ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/>。その後、フリーカメラマンだったAと知り合って結婚、Eを出産して1988年8月には現場マンションに引っ越した<ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-07"/>。 |
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:* 1987年8月、夫Aとともに雑誌の出版・編集などの業務を行う株式会社を設立 |
:* 1987年8月、夫Aとともに雑誌の出版・編集などの業務を行う株式会社を設立、代表取締役として経営にあたり、家庭ではB・E姉妹を養育していた<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>。雑誌会社では「中村小夜子」というペンネームで<ref group="雑誌" name="週刊新潮1992-03-19"/><ref group="雑誌" name="FOCUS-1992-03-20"/>フリーランスのライターとして料理雑誌などのコラム欄などを担当しており<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>、幼いEを連れて取材に飛び回ったこともあった<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.82"/>。 |
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:長女Bとともに帰宅した直後の1992年3月5日午後7時ごろ、室内に隠れていたSに襲撃されてBの目の前で包丁で刺され、出血多量で死亡した<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>。 |
:長女Bとともに帰宅した直後の1992年3月5日午後7時ごろ、室内に隠れていたSに襲撃されてBの目の前で包丁で刺され、出血多量で死亡した<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>。 |
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;幼女E(死亡) |
;幼女E(死亡) |
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:[[1987年]](昭和62年)3月17日生まれ<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>、{{没年齢|1987|3|17|1992|3|6}}<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.87-89"/><ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="中日新聞1992-03-07"/>。A・D |
:[[1987年]](昭和62年)3月17日生まれ<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>、{{没年齢|1987|3|17|1992|3|6}}<ref group="書籍" name="永瀬-2004 p.87-89"/><ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞1992-03-07"/><ref group="新聞" name="中日新聞1992-03-07"/>。A・Dの長女だが<ref group="新聞" name="千葉日報1992-03-07"/><ref group="新聞" name="読売新聞1992-03-07"/>、既に養子Bがいたため報道では「次女」とされることが多い。 |
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:姉Bの |
:姉Bの異父妹で、事件当時は市川市内の保育園<!--東京都[[江戸川区]][[本一色]]の私立保育園…とする資料がありますが判決文を優先<ref group="新聞" name="日本経済新聞1992-03-07 夕刊"/>-->に通う「いたいけな保育園児」だった<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>。 |
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:1992年3月6日午前6時30分ごろ、姉Bの目の前でSに包丁で刺され、出血多量で死亡した<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>。 |
:1992年3月6日午前6時30分ごろ、姉Bの目の前でSに包丁で刺され、出血多量で死亡した<ref group="判決文" name="千葉地裁1994-08-08"/>。 |
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:* 保育園の職員は事件直後、同じ保育園に通っていた園児たちに対し事件のことは伏せて「Eちゃんは遠くに引っ越した」と伝えた<ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-08"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞1992-03-07 夕刊"/>。 |
:* 保育園の職員は事件直後、同じ保育園に通っていた園児たちに対し、事件のことは伏せて「Eちゃんは遠くに引っ越した」と伝えた<ref group="新聞" name="朝日新聞1992-03-08"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞1992-03-07 夕刊"/>。 |
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== 事件前の暴力的犯罪 == |
== 事件前の暴力的犯罪 == |
2019年3月13日 (水) 01:39時点における版
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この項目には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。 |
市川一家4人殺人事件 | |
---|---|
場所 | |
座標 | |
標的 | 事件の1か月前に強姦した女子高生一家5人(#被害者一家を参照) |
日付 |
1992年(平成4年)3月5日 - 3月6日 午後4時30分ごろ – 午前9時ごろ (UTC+9) |
概要 |
1992年2月、暴力団組員から200万円を要求されて脅されていた当時19歳の少年が行きずりの少女を強姦して身分証明書を脅し取った[判決文 1]。 その1か月後となる1992年3月、加害者少年はその少女が住むマンションの一室に強盗目的で押し入って住民一家(少女の家族)5人のうち少女を除く4人を次々に絞殺・刺殺して金品を被害者宅・勤務先から奪いつつ少女を長時間監禁してさらに強姦した[判決文 1]。 |
攻撃手段 | 電気コードで首を絞める・柳刃包丁で刺す |
攻撃側人数 | 1人 |
武器 | 電気コード・刃渡り22.5cmの柳刃包丁1本(平成5年押収第52号の1)[判決文 1][判決文 2][判決文 3] |
死亡者 | 4人 |
負傷者 | 1人 |
損害 | 現金約34万円・預金通帳計9冊(額面合計424万円3412円)・印鑑7個[判決文 1] |
犯人 | 少年S(犯行当時19歳) |
動機 | 窃盗(空き巣)目的で侵入後に住民と遭遇し居直り強盗 |
防御者 | 被害者少女が加害者少年に抵抗[判決文 1] |
対処 | 千葉県警が被疑者Sを逮捕・千葉地検が起訴 |
刑事訴訟 | 死刑(少年死刑囚、執行済み)[新聞 2] |
少年審判 | 千葉家裁が「刑事処分相当」として千葉地検へ検察官送致(逆送致)を決定[新聞 3] |
影響 |
犯行当時少年に対する死刑確定・執行(少年死刑囚)は永山則夫以来のことだった[新聞 2]。 作家・永瀬隼介(祝康成)が加害者少年と交流して本事件関連の著書(#関連書籍参照)を出版した。 |
管轄 |
千葉県警察(県警本部捜査一課・事件当時の所轄だった葛南警察署。2019年現在の現場一帯は行徳警察署管内) 千葉地方検察庁・東京高等検察庁 |
最高裁判所判例 | |
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事件名 | 市川の一家強盗殺人事件 |
事件番号 | 平成8年(あ)第864号 |
2001年(平成13年)12月3日 | |
判例集 | 『最高裁判所裁判集刑事編』(集刑)第280号713頁 |
裁判要旨 | |
| |
第二小法廷 | |
裁判長 | 亀山継夫 |
陪席裁判官 | 河合伸一、福田博、北川弘治、梶谷玄 |
意見 | |
多数意見 | 全員一致 |
意見 | なし |
参照法条 | |
強盗殺人・殺人・強盗強姦・恐喝・窃盗・傷害・強姦・強姦致傷 |
市川一家4人殺人事件(いちかわいっかよにんさつじんじけん)は1992年(平成4年)3月5日夕方から翌3月6日朝にかけて千葉県市川市幸二丁目(行徳地区)にあるマンションで発生した強盗殺人・殺人・強盗強姦などの事件(少年犯罪)[新聞 1][新聞 4][判決文 1][判決文 2][判決文 3]。
加害者少年S(犯行当時19歳)は暴力団と女性関係を巡るトラブルを起こし、暴力団から要求された現金200万円を工面する目的で事件1か月前に強姦した少女(事件当時15歳)宅のマンションに侵入して一晩で少女の両親・祖母・妹の一家4人を殺害[新聞 1][判決文 1]・1人残された被害者遺族の少女を凄惨な殺害現場で強姦した[判決文 1]。
平成の少年犯罪では初の死刑確定・執行事件(少年死刑囚)となった本事件は[書籍 1]「10代の少年による底知れぬ残忍な犯行」として日本社会を震撼させ[書籍 2]衝撃を与えるとともに[新聞 3][新聞 5][新聞 6]、その重大性から「少年法の在り方」などに論議を呼んだ[新聞 7]。
加害者・被害者
元死刑囚S(犯行当時19歳少年)
1973年(昭和48年)1月30日生まれ[判決文 1][判決文 2][判決文 3][書籍 3]。一連の事件で逮捕された当時、千葉県船橋市本中山のアパートに在住していた[判決文 1]。
刑事裁判で死刑が確定し、2017年(平成29年)12月19日に法務大臣・上川陽子の死刑執行命令(2017年12月15日付)により収監先・東京拘置所で死刑を執行された(44歳没)[新聞 8][新聞 9][新聞 10][新聞 11][新聞 12][新聞 13][新聞 14]。
ウナギの加工・販売業を営む母方の祖父Xの長女・母親Yと、結婚してXの店で働き市川市内に在住していた元サラリーマンの父親Zの間に長男として千葉県千葉市内で生まれた[判決文 1]。出生当時は市川市内に居住していたが、後に両親が同県松戸市内に転居したことから同市内で幼少期を過ごした[判決文 1]。1979年(昭和54年)4月、転居先の松戸市内の[判決文 1]松戸市立和名ヶ谷小学校に入学し[雑誌 1]、1980年(昭和55年)9月[判決文 1]当時小学2年生の際に東京都江東区越中島に転居したことから[書籍 4]、同区内の[判決文 1]江東区立越中島小学校に転校した[雑誌 1]。
しかし父Zが莫大な借金を抱えて義父Xの営む店に多大な損失を与えた上に暴力団員などによる厳しい借金の取り立てに遭ったことに加え[判決文 1]、妻子に対しドメスティックバイオレンス(DV)・児童虐待を繰り返した[書籍 4]。そのため母Y・5歳年下の弟とともに夜逃げ同然に家を出て[判決文 1]葛飾区立石のアパートに移住し[書籍 5][判決文 1]、母Yは1983年3月に父Zと調停離婚した[雑誌 2]。当時小学5年生だったSは[雑誌 3]、翌1983年(昭和58年)1月から[判決文 1]葛飾区立清和小学校に通学したが[雑誌 1]、両親の離婚・生活環境の劣化・転校などから学校でいじめを受けるなど「不遇な生育環境」で不遇感を抱いて育った[判決文 1]。
1985年(昭和60年)4月[判決文 1]、葛飾区立立石中学校に入学した[雑誌 4][雑誌 2]。中学卒業後の1988年(昭和63年)4月[判決文 1]、堀越高等学校普通科大学進学コースに入学したが[雑誌 4]、わずか一年後の1989年(平成元年)5月31日付で[雑誌 4]中退した[判決文 1]。
高校中退後は祖父Xの経営する鰻屋を手伝っていたが、母や弟への家庭内暴力・不良仲間らとの徘徊行為・未成年者にも拘らず飲酒・喫煙を行うなど生活は荒れていった[判決文 1]。事件直前には本事件の被害者一家宅を知るきっかけとなった強姦事件を含め、多数の傷害・強姦・強姦致傷・恐喝・窃盗などの事件を起こしたほか、このころには鰻屋も無断欠勤して辞めていたためほぼ無職の身だった[判決文 1]。逮捕当時は身長178cm・体重80kgと大柄の体格で[書籍 6]、後の獄中生活により体重は120kgを超えており[新聞 15]、弁護人・安田好弘は死刑囚Sの体格を「自分の体の横幅を2つぐらい並べたほどの大きな体格」と表現した[書籍 7]。その上で安田は「あれだけ体が大きければ死刑執行の際にも刑務官はSの体を死刑台の上に持ち上げられないだろうし、それ以前に絞首刑執行用の絞縄もその体重に耐えられないだろう」と考えたため、死刑囚Sに対し「死刑執行回避のために体を大きくしろ」と提案していた[書籍 7]。しかし実際に死刑が執行されたことを受け、安田は2018年1月25日に衆議院第二議員会館で開かれた死刑執行抗議集会にて[書籍 8]この死刑執行を「体重に耐えられるほどの絞縄を用意した上で予行練習を周到に行って死刑執行に臨んだのだろう」と推測した上で「国家による周到な用意の元に実行された計画的な殺人だ」と表現した[書籍 7]。
中学生時代から女性経験があり、アパートで独居を開始してからは3人の女性と同棲生活を試みたがいずれも短期間で相手に去られたため長続きしていなかった[判決文 1]。しかし鰻屋で働いていたころ、店の先輩から市川市内のフィリピンパブに連れて行かれたことがきっかけで複数のフィリピンパブに足しげく通うようになり、1991年7月ごろにはそのうちの1件で働いていたフィリピン国籍の女性(当時21歳、1970年10月29日生まれ)と知り合い、その女性とともにフィリピンまで赴いては1991年10月31日に正式に結婚し、日本に連れ帰って自宅アパートで同居していた[判決文 1]。しかし妻は姉の病気を心配して事件直前1992年1月22日ごろにフィリピンに帰国して二度と日本に戻らなかった[判決文 1]。
#関連書籍で後述するように、本項目の出典となっている書籍・雑誌記事に死刑囚の実名が掲載されているが、本記事中では、死刑囚が初記述からイニシャル表記されている日本における収監中の死刑囚の一覧との表記矛盾の解消を兼ねて、それらの文献で記載されている実名の姓に基づくイニシャル「S」で表記する[雑誌 4][雑誌 2][書籍 9]。なお、実名・イニシャルを掲載している一部文献で、実名の漢字が誤読され、読みが「S・M」となっている文献があるが正しくは「S・T」である(#参考文献を参照)。
被害者一家
被害者一家は市川市幸二丁目の新興住宅街に建つ9階建てのマンションに住んでおり[新聞 16][新聞 17][新聞 18][新聞 19]、「慎ましくも平穏な暮らしを営んでおり、本来ならば娘2人の成長を温かく見守りつつ会社の経営を盛り立てて平穏に生活できたはず」の家庭だった[判決文 1]。現場マンションは営団地下鉄(現:東京メトロ)東西線行徳駅から南東約2kmの[新聞 19]東京湾に面した首都高速湾岸線千鳥町出入口付近に位置する[新聞 17]。
被害者男性Aは事件2年前の1990年ごろ、寄稿していた料理雑誌『月刊食堂』(柴田書店)の元編集長・玉谷純作に「ベルギーのペンションを買いたい。ベルギーならドイツにもフランスにもすぐに行ける。(事件の発生した)1992年にEC(欧州諸共同体)統合があるのであちらに拠点を持って活動したい」と話していたが、その夢はSの凶行によって無惨にも断ち切られた[雑誌 4][書籍 10]。
一家4人の葬儀を仕切った住職は『東京新聞』の取材に対し「被害者4人の遺骨はA・Dそれぞれの親族に引き取られた」と証言した[新聞 20]。
- 男性A(死亡)
- 1950年(昭和24年)8月10日生まれ[判決文 1]、41歳没[新聞 16][新聞 17][新聞 19][新聞 18]。事件7年前の1985年、写真週刊誌『Emma』(文藝春秋)記事に掲載された「当時ロス疑惑で注目を浴びていた三浦和義がスワッピング・パーティーに参加した際のプライベート写真」を撮影したフリーランスのカメラマンであった[書籍 11][雑誌 4][雑誌 2]。
- 1986年ごろから後述の女性Dと同居を開始し、その女性の子だった少女Bも我が子同然に可愛がっていた[書籍 12]。1987年(昭和62年)3月に女性Dと結婚し、継子の少女Bを養子とした[判決文 1]。同年8月には妻Dとともに行徳駅前のマンションを事務所として[新聞 16]雑誌の出版・編集などの業務を行う株式会社を設立して取締役を務めており[判決文 1]、社員を数人抱えるなど順調な経営ぶりだった[書籍 13]。
- 結婚後は「年ごろの娘を持つようになった」ためにそれまでの風俗関連から離れ[雑誌 2]、事件直前まで妻Dと共に料理雑誌・旅行雑誌の仕事を中心にして[書籍 13]レストラン・温泉地などの写真を撮影するフリーランスのカメラマンだった[判決文 1]。
- 周囲の友人たちは生前の男性A・女性D夫妻の仲睦まじさを微笑ましく見ており[書籍 13]、近隣住民は『読売新聞』の取材に対し、夫妻の人物像に関して「夫婦揃ってカメラボックスを抱えて事務所に出入りする姿を見ていた」と証言した[新聞 16]。
- Dが第一子を妊娠した際には「子供は何人いてもいい。立派な子供を産んでほしい」と喜んでいたが、後にDが流産してしまった際には「珍しく厳しい口調」で「仕事は二の次でいいから自分の体を大切にしてくれ」とDを諭していた[書籍 13]。その後長女(幼女E・後述)をもうけている。
- 1992年3月5日午後9時40分ごろに帰宅した直後、背後からSに左肩を刺されて致命傷を負い、翌6日午前0時30分ごろにはSに包丁で背中を再び刺され、出血多量で死亡した[判決文 1]。
- 少女B(負傷)
- 1976年(昭和51年)3月19日生まれ[判決文 1]、事件当時15歳[新聞 16][新聞 17][新聞 19][新聞 18]。
- 女性Dの長女で事件当時は船橋市内の県立高校1年生だった[判決文 1][書籍 14][新聞 16][新聞 17][新聞 19][新聞 18]。男性Aとは血縁関係はなく、母Dが離婚した前夫との間にもうけた子で[書籍 15]、DがAと再婚した際にAと養子縁組した養女だった[判決文 1][新聞 21][新聞 22][新聞 23]。
- 「共働きの両親に代わって10歳以上離れた妹Eを朝夕と保育園に送迎する」など[新聞 24]優しい性格で[新聞 21]、通学していた県立高校では演劇部・美術部などに所属してクラスの副委員長も務め[新聞 21]、将来は美術関係の大学進学を希望していた「ごく普通の女子高生」だった[判決文 1][書籍 6]。
- 一連の事件では一家殺害事件前の1992年2月12日、加害者Sのアパートに拉致されて2回強姦された[判決文 1][書籍 16]。1992年3月5日夕方、帰宅直後からSが逮捕されるまでの約14時間にわたってSに監禁され[書籍 6][書籍 17][新聞 24][新聞 16]、既に殺されていた祖母Cを除く家族3人(母D・父A・妹E)を、目の前で惨殺された[判決文 1]。
- 事件後は両親の知人の下へ身を寄せた後、事件1年後の1993年に熊本県の母方の実家に引き取られた[書籍 19]。高校卒業後は故郷の熊本を離れ、事件前から夢見ていた美術系大学に進学し、2000年春に卒業した[書籍 20]。永瀬の取材に対しては「もう事件のことは忘れないと前に進めないから忘れた。(当時死刑判決を受けて最高裁に上告中だった加害者Sが)どういう刑を受けようとまったく関心はないが、極刑は当然だと思っている」と気丈に語っており、知人に対しては「バリバリ働いて私を育ててくれた母のようなキャリアウーマンになりたい」と将来の希望を語っていた[書籍 20]。
- 2001年12月、事件現場近所の主婦は『東京新聞』の取材に対し、一人遺された被害者遺族Bについて「心に受けた深い傷は想像を絶する。幸せを願いそっとしておいてあげたい」と気遣った[新聞 20]。また、事件現場に駆けつけた当時の捜査幹部は「とにかく酷かった。母親に息子夫婦、幼い子まで殺された。『被害者のために間違いのないように起訴まで持っていこう』と全力を尽くした」と振り返った[新聞 20]。
- 永瀬は女性Bのその後に関して著書『19歳』(角川文庫)にて「Sの死刑確定後の2004年(平成16年)春にはかねてから交際していた男性と結婚して日本を離れ、生前の両親の夢であったヨーロッパで暮らしている」と記述している[書籍 21]。
- 女性C(死亡)
- 1908年(明治41年)7月4日生まれ[判決文 1]、83歳没[新聞 16][新聞 17][新聞 18][新聞 19][書籍 22]。
- 男性Aの実母、B・E姉妹の祖母で、息子夫婦・孫2人と同居していた[判決文 1]。高齢のため、散歩に出るとき以外は玄関北側の自室で過ごしていたことが多かった[判決文 1]。
- 1992年3月5日午後4時30分ごろ、自宅に侵入してきたSに首を絞められて窒息死し、一連の事件で最初の犠牲者となった[書籍 23][書籍 24]。
- 女性D(死亡)
- 1955年(昭和30年)6月19日[判決文 1]・熊本県八代市生まれ[新聞 16]、36歳没[新聞 16][新聞 17][新聞 18][新聞 19]。
- 地元の高校を卒業後に隣町に在住していた百科事典のセールスマンと恋愛結婚したが、前夫は仕事に身が入らず遊び惚けていたため、長女Bが誕生した直後に離婚した[書籍 25]。しかし「勝気な性格のために前夫には慰謝料・養育費とも要求せずに「自分1人で立派に育てる」と乳飲み子の長女Bを連れて20歳で上京し、証券会社事務職・建設会社経理職・ダンプカー運転手・水商売などと職を転々とした後、フリーカメラマンの男性Aと知り合った[書籍 25]。
- 当時30歳で長女Bが小学5年生だった1987年ごろに男性A(当時37歳)と知り合い、1年間の同居生活を経て[書籍 26]1987年(昭和62年)3月に幼女Eを出産、男性Aと結婚(再婚)した[判決文 1]。同居を開始したころからは東京都千代田区九段下で編集プロダクション会社を経営し[書籍 27]、男性Aとの第一子を妊娠するが流産してしまったため、後の幼女Eを妊娠した際には「仕事は二の次でいいから体を大切にしろ」と注意を受けていた[書籍 28]。
- 『読売新聞』報道によれば「前夫との間に生まれたBと一緒に出身地の八代市から市川市に転居して、行徳駅前のマンションに部屋を借りて写真の勉強をしていた」[新聞 16]。その後、フリーカメラマンだったAと知り合って結婚、Eを出産して1988年8月には現場マンションに引っ越した[新聞 17]。
- 1987年8月、夫Aとともに雑誌の出版・編集などの業務を行う株式会社を設立、代表取締役として経営にあたり、家庭ではB・E姉妹を養育していた[判決文 1]。雑誌会社では「中村小夜子」というペンネームで[雑誌 4][雑誌 2]フリーランスのライターとして料理雑誌などのコラム欄などを担当しており[判決文 1]、幼いEを連れて取材に飛び回ったこともあった[書籍 13]。
- 長女Bとともに帰宅した直後の1992年3月5日午後7時ごろ、室内に隠れていたSに襲撃されてBの目の前で包丁で刺され、出血多量で死亡した[判決文 1]。
- 幼女E(死亡)
- 1987年(昭和62年)3月17日生まれ[判決文 1]、4歳没[書籍 18][新聞 16][新聞 17][新聞 18][新聞 19]。A・Dの長女だが[新聞 1][新聞 16]、既に養子Bがいたため報道では「次女」とされることが多い。
- 姉Bの異父妹で、事件当時は市川市内の保育園に通う「いたいけな保育園児」だった[判決文 1]。
- 1992年3月6日午前6時30分ごろ、姉Bの目の前でSに包丁で刺され、出血多量で死亡した[判決文 1]。
事件前の暴力的犯罪
- 1991年10月19日、東京都江戸川区内における傷害事件
- Sは一家殺害事件前年の1991年(平成3年)10月19日午後4時50分ごろ、愛車のトヨタ・クラウンロイヤルサルーンを運転して東京都江戸川区上篠崎の道路(祖父Xの経営するウナギ料理チェーン店の支店付近)を走行していた[判決文 1]。その際、Sの前を当時34歳の男性が運転していた車両が先行して走っていたが、Sは「男性の車の速度が遅い」と立腹した[判決文 1]。
- 男性の車が赤信号に従って停車すると、Sはその車の運転席側に駆け寄って「とろとろ走りやがって、邪魔じゃないか」などと怒鳴りつけ、開いていた窓から手を差し入れエンジンキーを回してエンジンを停止させた[判決文 1]。
- 男性が車を降りると、Sはいきなりその顔面を拳で複数回殴りつけ、男性を支店の建物内に連れ込んで、店の厨房内に置かれていた長さ約112cmの鰻焼台用鉄筋で男性の背中・左肘を1回ずつ殴りつけ、男性に全治3週間の頭部・胸部・左肘への打撲、挫創の怪我を負わせた(罪状その1・傷害罪)[判決文 1]。
- 1992年2月、暴力団員とのトラブル
- 祖父Xは1992年1月ごろ、「Sから危害を加えられることを避けるため」に店舗内で寝泊まりしていたが、Sはその店舗に窓ガラスを割って侵入して就寝中のXを起こし現金110万円などを奪い取った[判決文 1]。『週刊文春』1992年3月26日号(文藝春秋社)は「被害を受けた祖父Xは弁護士を帯同して千葉県警市川警察署に『Sが犯人だ』と刑事告訴したが取り合ってもらえなかった」と報道している[雑誌 3]。
- 1992年2月6日[判決文 1][書籍 29]、Sは市川市内のスナックバーに勤めるフィリピン人のホステスを連れ出して店に無断で自宅アパートに泊め[判決文 1][書籍 30]、このホステスと性的関係を持ち、ホステスをマンション自室に閉じ込めて負傷させた[新聞 26]。
- 1992年2月8日、店に帰ったホステスがこのことを店の関係者に泣きながら訴えると、激怒した店の関係者が暴力団に「落とし前」を依頼したため、それ以降Sは暴力団に追われる身となった[書籍 30]。
- なおSは後述のように暴力団組員から200万円を要求されていた一方で、一連の犯罪に使ったのは高級セダンの自家用車[新聞 27](時価400万円のクラウンロイヤルサルーン)だった[書籍 31][書籍 22][雑誌 4][雑誌 2]。
- 1992年2月11日未明、東京都中野区内における傷害・強姦事件
- 1992年2月11日午前4時30分ごろ[判決文 1]、Sは東京都杉並区高円寺に住んでいたバンド仲間のアパートからクラウンに乗って帰宅しようとしていた時[書籍 32]、東京都中野区新井の路上でアルバイト先から帰宅途中の当時24歳女性が1人で左側歩道上を歩いているのを見つけた[判決文 1]。Sは「鬱屈した気分を晴らそう」という目的で「女性を殴ろう」と思い、道を尋ねるふりをして女性に近づいた[判決文 1]。
- その直後、Sはいきなり女性の顔を拳で思い切り数回殴りつけるなど暴行を加え、女性に全治3か月半の傷害(鼻骨骨折・顔への擦り傷)を負わせた(罪状その2・傷害罪)[判決文 1]。
- Sは座り込んだ女性の顔を見たところ「意外に若かった」ことから「この女性を強姦しよう」と考え、女性の髪の毛を鷲掴みにして引っ立てると「車に乗れ」と脅して女性を抱きかかえるようにして無理矢理クラウンの後部座席に押し込み車を発進させた[判決文 1]。
- Sは女性に対し「病院に連れて行く」などと言いつつ車を走行させた上で船橋市本中山の自宅アパートに連れ込み、午前6時30分ごろ自室アパートで女性の衣服をはぎ取り、女性を全裸にして強姦した(罪状その3・強姦罪)[判決文 1][書籍 32]。
- 作家・永瀬隼介はこの時のSの心境を以下のように表現した[書籍 32]。
- またS自身は「暴力の持つ達成感・陶酔感」について、面会人・永瀬に対し以下のように答えた。
- またSは一家殺害事件で逮捕された後、監獄生活を送るとともにこの強姦事件について取り調べを受けてもしばらくはまったく反省していなかったどころか「どうせ捕まるのなら『学生のころ昔から好きだった女の子』を強姦しておけばよかった。同じ罪(強姦罪)になるならいっそのこと『かねてから憧れだった女性』を狙っておけば本望なので納得もできただろう」などと考えていた[書籍 35]。永瀬はSのこの心境を「自己中心的な意味の筋違いな後悔しかしておらず、被害者の心情に思いを馳せるようなことなどしていなかった」と非難した[書籍 35]。
- しかし同日夜、前述のホステスの件でSの自宅アパートに暴力団組員7人が押し掛けたため、Sはクラウンに乗って逃げたが[書籍 16]、店から依頼されていた外国人ホステス斡旋業者らがSを車から引きずり降ろそうとクラウンの後部窓ガラスを叩き割った[判決文 1]。
- 刑事裁判における事実認定
- 検察官は公判において同事件に関して「被告人Sは当初から女性に対する強姦の犯意を抱いていた」ことを前提に「女性に対する一連の犯行は全体として強姦致傷罪の一罪に該当する」と主張したが、千葉地裁は判決で以下のような理由から「被告人が強姦の犯意を生ずる以前の傷害罪・その後行われた強姦罪の2罪がそれぞれ別々に成立する」と事実認定した[判決文 1]。
- 1992年2月12日未明、被害者一家宅を知るきっかけとなった被害者少女Bへの強姦致傷事件
- 通りすがりの女性を強姦してから約22時間後の1992年2月12日午前2時ごろ[判決文 1][書籍 16]、当時15歳で県立高校1年生の少女Bは[書籍 36]夜遅くまで勉強していた途中でシャープペンシルの替え芯が切れたため、替え芯を買いに自転車で自宅マンション付近のコンビニエンスストアに行き、買い物を終えて帰宅しようとしていた[判決文 1][書籍 16]。
- クラウンを運転していたSは、帰宅途中だったBを見つけるとマンション前の狭い路地でBの背後から近づき、自転車の後輪にクラウンの左前部を衝突させた[判決文 1][書籍 16]。Bは自転車ごと路上に転倒して[書籍 16]路上に投げ出され、右膝に擦り傷を負った[書籍 16]。
- 車から降りたSはBに「病院に連れて行く」と優しく声を掛けた上で[書籍 16]、「ひき逃げと訴えられないように」Bを車に乗せて浦安市内の救急病院で治療を受けさせた[判決文 1]。Bは当初こそSを警戒してはいたが、治療をさせてもらった後で「自宅まで送り届けてもらう」と約束されたことで安心した[書籍 23]。
- しかし、SはBを自宅に送るために市川市・船橋市方面に向けて車を走行させていた途中で[判決文 1]「このまま帰すのはもったいない、強姦してやろう」と[書籍 23]にわかに劣情を持ち[判決文 1]、人気のない路肩に突然車を停めた[書籍 23]。
- 車内で「本性を現した」Sは[書籍 16]刃渡り約6.7cmの折り畳み式ナイフ(平成5年押収第52号の2)をBに突き付け、ナイフの刃をBの手の指の間にこじ入れてこね回しつつ「黙って俺の言うことを聞け」と脅した[判決文 1]。
- Bが抵抗すると[書籍 16]SはBの左頬・左手を切り付けて全治約2週間の顔面挫創・左手挫創の傷害を負わせ、恐怖するBをそのまま自分のアパートまで拉致した[判決文 1][書籍 16]。同日午前3時ごろから午前6時ごろまでの間、Sは自室アパート内で2度にわたりBを強姦した(罪状その4・強姦致傷罪)[判決文 1]。
- Sはその後、Bの手足を縛って抵抗を抑圧した上で、Bの所持品を改めて現金を奪ったが、その時にBが通っていた高校の生徒手帳から住所・氏名を控えていったん外に出た[書籍 23]。その後、Sが部屋に戻るとBは既に自力で逃げ出していたが、Sはそれを特に気に留めなかった[書籍 23]。
- 永瀬隼介は『19歳』にて「このようにBには『まったくの偶然が招いたあまりにも悲惨な形』でSとの接点があった」と表現した[書籍 37]。
- Bは翌日の1992年2月13日、(バレンタインデーの前日だったため)「明日誰かにあげるのなら」とチョコレートを贈りに来た同級生の少女と立ち話をした際に「顔のちょうど耳の下から顎までカッターナイフで切りつけたような浅い傷のかさぶた」があることを確認されており、その同級生から「何があった」と聞かれると「ローソンからの帰り道で男に襲われた」と言っていたが、特に深刻そうな様子ではなく「身分証明書を見られた」などとは言っていなかった[雑誌 5]。またBは顔の傷に関して別の友人に対し「高校で先輩にやられた」と話しており、友人たちからは「そんなの負けずに仕返ししてしまえ」とけしかけられていたが、前述の同級生らが警察に被害届を出すように説得し、1992年2月末ごろに千葉県警察葛南警察署[注釈 1]へ被害届を提出させた[雑誌 5]。しかし顔見知りの犯行ではなかったことなどからSは捜査線上に上がってこず[新聞 24]、Sに切り付けられたBの頬の傷跡は第一審判決時点でも完治していなかった[判決文 1]、。
- 1992年2月12日夜、暴力団組長らからの脅迫、200万円要求
- Sは二晩続けて見ず知らずの女性を強姦したことで「自分の力に自信を持った」が、一方で暴力団に対しては「情けないほど無抵抗」だった[書籍 16]。
- 同日夜、大手暴力団住吉会系列の暴力団組長から東京都港区赤坂の東京全日空ホテル(現・ANAインターコンチネンタルホテル東京)に呼び出されたSは[判決文 1]、ホテルで組長とその手下(ホステスと関係のある暴力団組員)から「お前のやったことは誘拐だ。彼女が在留期限を待たずに帰国したら店の損害は200万円になる」などと遠回しに金員の支払いを要求され、このトラブルに関して「それなりのことをするつもりだ」と答えてその場を辞去した[判決文 1]。しかし当時のSは今更「暴力団員に支払う金員」を祖父X・母親Yから出してもらうわけにはいかず、だからと言ってほかに金策する当てもなかったため[判決文 1]、「暴力団の取り立てを恐れて自宅アパートにも戻れず車の中で寝泊まりする日々」が続いた[書籍 29]。
- この日から一家4人を惨殺するまでの約20日間、Sは「このままだといずれ半殺しにされるか、運が悪ければ殺されて遺体をコンクリート詰めにされ東京湾に沈められるかもしれない」と恐れていた中、車絡みで2度の暴力・恐喝沙汰を起こした[書籍 38]。
- 暴力団組員から脅された直後の1992年2月下旬[雑誌 3]、Sは親類の家に出かけ[新聞 26]合い鍵で侵入して従兄弟に当たる高校3年生の大学進学準備金110万円を盗んだ[雑誌 3]。この事件に関しては「Sの犯行だ」とする確たる証拠こそなかったが合い鍵で侵入されたことから、親戚たちは「あいつ(S)に間違いない」と疑いの目を向けており、所轄の警察署に被害届を出した[雑誌 3]。
- この親戚は事件後、『週刊文春』の取材に対し「この事件の時点でSを社会から隔離し拘束していればこんな凶悪犯罪は起きなかったかもしれない」と証言した[雑誌 3]。
- 1992年2月25日未明、市川市内における傷害・恐喝事件
- 1992年2月25日(火曜日)午前5時ごろ、Sはクラウンを運転して市川市河原6番18号先の千葉県道6号市川浦安線旧道を走行していた途中、後ろを走っていた当時22歳の男性が運転する乗用車から[判決文 1]車間距離を詰められて煽られた[書籍 38]ために激昂し、クラウンを急停車させ[書籍 38]進路を絶つと[判決文 1]、後続車は接触寸前で急停車した[書籍 38]。
- 後続車が停車した直後、クラウンを降車してトランクから鉄筋を取り出して右手に握り、その鉄筋を威嚇するように1,2回振り回してから後続車のドアを開け[書籍 38]、相手車の運転席に近づいて男性に対し「煽ってんじゃねえよ」などと恫喝した[判決文 1]。
- これに対し、相手の運転手がSをにらみつけ「お前、やる気か」などと怒鳴ったが、Sはこれに構わず[書籍 38]空いていた運転席側の窓から手を差し入れて男性の車のエンジンキーを抜き取り[判決文 1]、相手の退路を絶った[書籍 38]上で自車に戻った[判決文 1]。
- これに激昂した男性はエンジンキーを取り戻そうとSに追いすがったが、Sはクラウンの後部トランクから取り出した全長112cmの鰻焼台用鉄筋で男性の左側頭部を1回殴りつけた[判決文 1]。
- 男性は血まみれになり、両腕で頭を抱えてうずくまったが[判決文 1]、Sはなお男性からにらみつけたことに逆上して「お前のせいでブレーキパッドがすり減った」などと怒鳴りつけつつ[書籍 38]男性の左半身を多数回殴打した[判決文 1]。一連の暴行により男性は「安静加療約10日間を要する頭部挫創」の傷害を負った(罪状その5・傷害罪)[判決文 1]。
- さらにSは男性から金品を恐喝しようと男性の車両の運転席に乗り込み、同日午前5時過ぎごろから6時ごろまでの間、トラブルの現場から市川市塩浜二丁目31番地先の路上を経由して再びトラブル現場(市川市河原6番18号先)まで戻るまで車を運転しつつ、暴力団組員を装って「俺たちの相場ではこういう場合は7,8万円だ。金曜日(2月28日)までに用意しておけ。免許証はその時まで預かっておく」などと男性を脅迫して金品・運転免許証を出すように脅した上で、「要求に応じなければさらにその身に危害を加える」ような態度を示して金員を要求し、男性名義の自動車運転免許証1通を脅し取った(罪状その6・恐喝罪)た[判決文 1]。
- 1992年2月27日未明、埼玉県岩槻市内における傷害・窃盗事件
- その2日後となる1992年2月27日午前0時30分ごろ、Sはクラウンを運転して埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)東町一丁目7番26号路上を走行していたが、当時21歳の男子大学生が運転していた乗用車に追い越されたことに立腹し、付近で男子大学生の車が赤信号のために停車したところ、その前方にクラウンを停車させて行く手を阻んだ[判決文 1]。
- 大学生が降車してきたところ、Sは「ヤクザ者をなめるな」などと脅迫しながら、ズボンのポケットから前述の強姦事件で使った折り畳みナイフ(平成5年押収第52号の2)を取り出して「これで刺してもいいんだぜ」と言って大学生の左太腿を突き刺した[判決文 1]。
- その上でSは、大学生の車の運転席に乗り込んだ上で大学生を助手席に座らせ[判決文 1]「お前が滅茶苦茶な運転をするから俺の車のタイヤが擦り減った」などと恫喝したが、「脅迫の手ごたえがなかった」ことに激昂して「お前の親父のところに連れて行け」と脅迫しつつ[書籍 38]、自ら大学生の車を運転して岩槻市大字加倉1943番地路上まで移動した[判決文 1]。その間、Sは車内で大学生に左右の大腿部・右肩・腕・背中など20数か所をナイフで突き刺す・切りつけるなど暴行を加え、大学生に「全身刺創・全身切創、右手第三指(中指)および第四指(薬指)伸筋腱断裂など」全治約6週間を要する傷害を負わせたが(罪状その7・傷害罪)、大学生は血まみれになりながらも命からがら車から逃げ出した[判決文 1]。Sは大学生の車で大学生を追いかけようとしたが「轢き殺すとまずい」と思ったために断念した[書籍 38]。
- 大学生が逃げ出した後の同日午前1時20分ごろ、Sは岩槻市東町一丁目7番24号先路上に大学生から奪った車を移動させた上で[判決文 1]「大学生から後日、金を巻き上げよう」と[書籍 38]「住所・氏名を確認する目的」で車内にあった大学生名義の運転免許証1通・大学生の父親名義の自動車検査証を窃取し(罪状その8・窃盗罪)[判決文 1]、大学生の車を運転して前述の現場に残した自車に戻った[書籍 38]。
- 現場マンションの下見
- しかし上記のように暴力的な恐喝を繰り返しても暴力団から要求された200万円は得られず[書籍 38]、金の工面に困り「日増しに膨らむ恐怖・焦燥感」を抱えていたSは[書籍 38]「パチンコ店を襲おうか、強盗しようか」などと思案した挙句に、1992年2月の強姦致傷事件の際に住所・氏名などを知っていた少女B宅に侵入して金品を盗むことを思いついた[判決文 1]。
- Bを強姦した事件以降、Sは「B宅の在宅状況を探る」目的で時間を変えてB宅の電話番号に何度か電話をかけた結果[判決文 1]「午後は留守か老女(殺害されたBの父方の祖母C)が1人でいる」と確認していた[書籍 22]。また、Sは2月下旬・3月1日の2度にわたり現場マンションに赴き、マンションのエレベーターを使用して8階まで上がり、「B宅は806号室にあること」「マンション1階のエレベーターホールには防犯カメラが設置されていること」などを確認した[判決文 1]。
事件当日
- 1992年3月5日、現場マンションに向かうまでの行動
- Sは暴力団から多額の金銭を要求されたことで追い詰められ「自宅アパートにも近づけず所持金も底を尽きたために車中泊を続ける惨めな生活」を送りながら事件当日の1992年3月5日を迎えたが、同日は朝からパチンコ・ゲームセンターで時間を潰したり、午後遅くに中華そば屋でラーメン1杯を食べたりした[書籍 22]。
- Sはその後「B宅に侵入して現金・預金通帳などを窃取する」意思を最終的に固めた上で市川市幸のB宅に向かった[判決文 1]。そればかりか、この時には「ついでにBを再び強姦すれば暴力団の追い込みで鬱屈した気持ちも晴れるだろう」とも考えていた[書籍 22]。
- 事件現場の行徳一帯はSの母方の祖父母の家(母親Yの実家)の付近で、Sは「幼少期によく祖父母宅に泊まりに来ては、マンションが建つ以前のまだ空き地だった現場一帯で凧揚げをしたり自転車を乗り回して遊んだ」記憶があったため[書籍 22]、その後の開発により「典型的な東京のベッドタウン」に姿を変えてはいたが、Sは現場一帯に土地勘があった[書籍 22][書籍 39]。現場付近には「さらに新しい高級マンション」もあったが、Sはこのマンションで金を得ようと考えた[書籍 39]。
- 午後4時30分ごろ、現場一室に侵入
- 午後4時ごろ、クラウンを運転してマンション付近に赴いたSは[判決文 1]、マンション近くのタバコ屋の前にクラウンを駐車した上で、付近にあった公衆電話を使用してBの自宅に電話を入れた[書籍 22]。実際には後述のようにBの祖母Cが在宅してはいたが、Sは「電話に誰も出なかったから留守だ」と思い、クラウンを児童公園の横に移動させて[書籍 22]Bの自宅マンションに入った[判決文 1]。
- Sは防犯カメラが設置されていた1階エントランスを避けて外階段を使い2階まで上ったが、2階からB一家が在住していた806号室があった8階まではエレベーターを使用した[判決文 1]。当時の時間帯は「平日の夕方近く」だったが、同日の市川市内は雨が降っていたためか[書籍 22]、Sはそれまで誰ともすれ違わなかった[書籍 35]。
- 806号室の玄関前に来たSはインターホンを鳴らしたが、前述の電話に誰も出なかった上にインターホンにも応答がなかったため「留守だ」と思い[書籍 22]、806号室の玄関口ドアを「試しに開けてみよう」と[判決文 1]ドアノブを回したところ[書籍 22]、意外にも施錠されておらず[判決文 1]ドアが開いた[書籍 22]。Sは「誰かがいる」と焦ってすぐにその場を離れたが[書籍 22]、エレベーター横の階段に座って20分ほど様子を見たところ、ドアは施錠されていなかったが家人の気配はなく室内の照明も消灯していたため[書籍 35]、改めて「留守だ」と確信し[書籍 22]「仮に誰かがいたとしてもB以外なら、彼女の知人のふりでもしておけばいい」と考えながら[書籍 35]午後4時30分ごろに玄関口から再びドアを開けて806号室に忍び入った[判決文 1]。
- 午後4時30分ごろ、祖母Cを絞殺(強盗殺人罪)
- Sが当初、空き巣目的で806号室に忍び入った直後、玄関脇の北側洋間からテレビの音が聞こえたため[判決文 1]部屋の扉を開けて[書籍 22]洋間の室内を覗くと[判決文 1]、1人で留守番をしていた[書籍 22]高齢女性C(男性Aの実母、少女Bの父方の祖母)が室内で[判決文 1]テレビをつけたまま寝ていた[書籍 22]。
- Sは自分の靴をベランダに隠し[書籍 23]、玄関の突き当りにある居間に入って現金・預金通帳・貴金属類などを物色したが、目的とする金目の物はなかなか見つからなかったため、「Cを脅迫して現金などを強奪することにしくはない」と決意し、この時点で強盗の意図を持った[判決文 1]。
- 洋間に踏み込んだSは[書籍 23]、「『年寄り1人ぐらいならどんなことがあっても力で負けることなどない』という『過信・短絡的思考』」から[書籍 35]就寝中だったCを脚を蹴り上げて起こした[判決文 1]。目を覚ましたCは「見ず知らずの男が目の前にいる」ことに驚いた[書籍 23]。
- 居直り強盗に転じたSは「寝込んでいたところを突然起こされた上に高齢のため抵抗もままならなかった」Cに危害を加える気勢を示しながら[判決文 1]、預金通帳・現金を出すようすごんだ[書籍 22][書籍 35]。しかしCは同室出入り口付近にある棚に置かれた財布内から現金8万円を取り出すと[判決文 1]「ここにあるだけならくれてやる」と8万円をSに渡し[書籍 35]、Sに「特におびえず毅然とした態度で」帰るように諭した上で[書籍 24]部屋から逃れようとした[判決文 1]。
- これに対し、「バカにされた」と逆上したSは、Cの後襟首につかみかかってCを引き戻し、再び通帳を出すよう要求して危害を加える気勢を示したが[判決文 1]、Cは頑なに応じなかった[書籍 24]。
- しかしSは緊張して尿意を覚えたため、Cに「通帳を探しておけ」と言い置いた上でトイレに行って用を足したが、トイレから戻ったところ[書籍 24]、Sがトイレに行っている間にCは隙を見て居間に出て電話の受話器を取り上げ、警察に110番通報しようとしていた[判決文 1]。
- Sは「少し痛い目に遭わせて力関係を分からせてやろう」と考えて[書籍 24]とっさにCに体当たりしてCを仰向けに突き倒し、右尺骨および右脛骨を離開骨折させる重傷を負わせた[判決文 1]。SはそのままCに「何をするつもりだったんだ」と問い詰めて[判決文 1]殴り掛かろうとしたが[書籍 24]、Cから顔面に唾を吐きかけられたために激昂し[判決文 1]、Cを頭ごと激しく床に叩きつけたが、CはなおSに果敢に抵抗して爪を立ててひっかいた[書籍 24][書籍 35]。
- 逆上したSは殺意を持ってCに馬乗りになると[判決文 1]、近くにあった電気コードを抜き取り[書籍 24]電気コードをCの頸部に一周させて前頸部で交差させた上で、電気コードの両端を両手で持って引っ張ることでCの首を絞めつけた[判決文 1]。一度力を緩めるとCが起き上がる気配を示したため、Sは再度力を込めてCの首を数分間絞めたことで被害者Cを窒息死させて殺害した(罪状その9・強盗殺人罪)[判決文 1]。
- 脈拍を調べてCが死亡したことを確認すると、SはCの遺体の首に巻かれていた電気コードを抜き取った上でCの遺体を引きずって北側洋間に敷かれていた布団に寝かせ、家人が帰宅した際に就寝中だと思わせるように偽装工作した[判決文 1]。またSは「他人と一緒に箸を使う鍋料理を口にできないほど」の重度の潔癖症だったため「老女の唾液を汚らしく思い」[書籍 24]洗面所で頭・顔・首・手を何度も洗った[書籍 35]。当時のSには「生まれて初めて人を殺めてしまった」という実感は乏しく、むしろ唾液を吐きつけたCに対する怒りや「こんな汚いところにいられるか」という嫌悪感の方が強かった[書籍 35]。
- SはCを殺害した直後、いったん外に出て付近の自動販売機でタバコ・ジュースを購入してから現場806号室に戻り、さらに家人から金員を強取する目的で帰宅を待ち受けた[判決文 1]。予備のジュースを購入したのは「長期戦を覚悟して」のもので[書籍 35]、この時Sは室外で30分ほど過ごしていた[判決文 1][書籍 24]。
- 室内に戻ったSはさらに室内を物色し、Cの遺体を放置していた北側洋間内の出入り口付近にある棚に置かれていたバッグ内にあったCの財布から現金約10万円を強取し、その後も引き続き居間の中で金品を物色していた[判決文 1]。少女Bはこの時、学校帰りに父親Aの会社に寄り、母親Dと買い物をして家路に向かっていた[雑誌 2]。
- 被害者Cの遺体司法解剖初見
- 被害者Cの遺体の頸部には「首の周りを一周する索溝」が形成され、舌骨が左大角の中央部・右大角の中央部において骨折していたほか、右大角付着部においては広く出血を伴い、さらに甲状軟骨の左上角も骨折し、広く周辺に出血を伴っていた[判決文 1]。
- また被害者Cの首を絞めた際の状況に関して、被告人Sは捜査段階・公判を通じて一貫して「Cが動かなくなるまで強く首を絞めつけた後、脈を調べて死亡を確認し、布団に遺体を運んで寝かせた」という趣旨の供述をした[判決文 1]。
- なお弁護人らは「被告人Sには被害者Cに対する確定的殺意は認められず、唾を吐きつけられたことに激怒して冷静さを失いとっさに首を絞めた。この時『Cが死亡するかどうか』について考える余裕は全くなく、せいぜい『死ぬかもしれない』という未必的殺意があったにすぎない」と主張して確定的殺意の存在を否認した[判決文 1]。
- しかし千葉地裁は「被害者Cへの殺害行為は『Cが被告人Sの顔面に唾液を吐きつけたことによって誘発された偶発的犯行』であることは認められるが、Cはこの時Sに突き飛ばされたことで重傷を負っていたため、せめてもの抵抗として顔面に唾を吐きかけたことも理解できなくはなく、これだけの理由で『Cが危難を自ら招いた』とのみ評価することはできない。以上のような動機・程度・態様並びに首を絞めている時の被告人の認識内容を総合すれば『確定的殺意があった』と優に認められる」と事実認定した[判決文 1]。
- 午後7時過ぎ、母親Dを刺殺(強盗殺人罪)
- Sが引き続き室内を物色していた午後7時過ぎごろ、少女B・母親Dが買い物から帰宅した[判決文 1]。Sはこの時までに家人の帰宅に備え、予め台所流し台の下から数本の包丁を冷蔵庫の上に移して隠していた[判決文 1]。
- 2人が帰宅したため、Sは冷蔵庫の上に隠していた包丁のうちの1本であった刃渡り22.5cmの柳刃包丁1本(平成5年押収第52号の1)を手に取り、台所のカウンター付き食器棚の陰に隠れた[判決文 1]。包丁はその長さに加えて先端が鋭く尖っていたことから「十分な殺傷能力を有する物」だった[判決文 1]。
- そして、Sは何も気付かずにそのまま居間に向かおうとしたB・D両名を待ち伏せて台所から飛び出し[書籍 23]、2人に退路を断つようにして立ち塞がって包丁を突き付け「静かにしろ。あまり騒ぐと殺すぞ。ポケットのものを全部出せ」などと申し向けて脅した[判決文 1][書籍 24][書籍 35]。
- しかしDは怯えることもなく、逆にSを「どうしてここにいるの」と厳しく問い詰めてきたため、SはDの「頭の切れそうな態度」に半ば恐れを感じて「騒ぐと殺す」と怒鳴りつけた[書籍 41]。この時、Dの態度は「包丁を手にしていたSに対してでさえかなり勝ち気で攻撃的」なもので、Sはこの時のDを「何も持っていなかったら噛み付かれそうなぐらいの勢いだった」と振り返った[書籍 35]。
- Sは「女とはいえ2人を一度に相手にするのは無理だ。別々の方向に走って逃げられたらどちらか1人は確実に逃げる。2人が走って逃げ出し大声でも上げられたら終わりだ」と考えたため[書籍 35]、2人を「伏せになれ」と脅して居間の床に並んでうつ伏せにさせ[判決文 1]、既に殺害した祖母Cについて「睡眠薬で眠っているだけだ」と嘘を述べた上て[判決文 1]、両名に対しポケットの中に入っていた所持品をすべて出させた[判決文 1]。
- 母子2人を無抵抗にしたSは[書籍 35]、Dを「頭が切れそうな感じなので、策を練って自分を警察に突き出そうとしている」と危惧したためDの動きを封じようとし、「数回背中を突き刺せばDが死亡する危険性が高い」ことを認識・予見しながら敢えて包丁を逆手に持ち、うつぶせになっているDを左腰部から背中を立て続けに計5回包丁で突き刺し、被害者Dを背部刺創により失血死させて殺害した(罪状その10・強盗殺人罪)[判決文 1]。
- 精神鑑定の際、Sは「Dのみを刺した理由」に関して「Dは『頭が働くずる賢そうな人』のようなタイプだったので『伊達に年を取っていないから知恵が働くだろう』と思ったから」と述べた[書籍 35]。また、Sは永瀬への手紙で以下のように(後述の公判における主張と同じく)「殺意はなく、Dの動きを封じることが目的だった」旨を主張した[書籍 35]。
- 「すぐにDの腰の辺りを3回ほど刺したが、『しっかり握り込んだ包丁を刺す』というよりは『持っていた包丁を上から垂直に落とす』ように刺した。これは自分なりの手加減のつもりで『首筋や心臓でもなければ頭でもないのだから、背中を刺されても平気なはずだ』と思っていた」[書籍 35]
- 「計算通り、Dの傷口から大量の血が出たり、Dが口から吐瀉物・血液などを吐くこともなく、服に血がにじむのが見て取れただけで『まあこんなもんだろう』という感じだった。『これでDは走り回ったりしないだろう』と考えたから『そこでおとなしく見てろよ』ということを口にした覚えがある」[書籍 35]
- 「Dに対しては全く怒りも憎しみもなく、そこまで力を入れて刺したわけでもないから『放っておいてもしばらくは平気だろう』と思った」[書籍 35]
- 精神鑑定の際、Sは「Dのみを刺した理由」に関して「Dは『頭が働くずる賢そうな人』のようなタイプだったので『伊達に年を取っていないから知恵が働くだろう』と思ったから」と述べた[書籍 35]。また、Sは永瀬への手紙で以下のように(後述の公判における主張と同じく)「殺意はなく、Dの動きを封じることが目的だった」旨を主張した[書籍 35]。
- 仰向けに倒れたDは致命傷を負い、激痛・苦痛でうめき声を上げて身をよじって仰向けになったが、脚で床を蹴りながら約1メートルずり動いて床に置いてあったSのジャンパーに近づいた[判決文 1]。しかしSは自分が脱ぎ捨てたジャンパーにしがみつく瀕死のDを「血が付いちまうだろう」と言いつつ[書籍 24]、瀕死のDに容赦することもなくその脇腹を足で蹴ってダウンジャケットから遠ざけた[判決文 1]。
- そしてSは「(刺されたDを)帰ってくる家人に見られてはまずい」と考えたことから[書籍 41]「母親が目の前で刺され恐怖におののく」少女Bに瀕死の母親Dの足を持たせ、絶命寸前のDの体を居間から南側洋間に運び入れた上で[判決文 1]Bにタオルで[書籍 41]「床に残ったDの大量の血・失禁の跡」を拭わせ,、自らもそれらを拭き取って証拠隠滅を図った[判決文 1]。
- 被害者Dの遺体司法解剖初見
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- 被害者DはSに5回包丁で刺されたことでうめき声をあげるともに以下のように致命傷を負い脚で床を蹴りながら約1メートルずり動きやがて失禁するに至ったが、Sはこのような状況を目の当たりにしながら何ら救命措置を講じなかった[判決文 1]。
- 「左肩甲部外側の刺創」は肩甲骨及び第五肋骨を損傷して左肺上葉実質内に達し、創洞の長さは約8.9センチメートルに達していた[判決文 1]。
- 「左肩甲部内側の刺創」は肩甲骨及び第四・第五肋骨を刺切して左肺上葉を貫通し左肺上葉前面に刺出しており、創洞の長さは約10.5センチメートルに達していた[判決文 1]。
- 「左肩甲下部の刺創」は第九肋骨および第九肋間筋を損傷して左肺下葉を貫通し、横隔膜を損傷して後腹膜下の軟部組織に終わる創洞の長さ約11.3センチメートルに及ぶものだった[判決文 1]。
- 「その他2個の刺創」はいずれも肩甲間部に存在し、ともに身体の中心部に向かい、創洞の長さがそれぞれ約4.6センチメートルないし約4.8センチメートルに達していた[判決文 1]。
- 司法解剖時の初見によれば、Dの遺体の左胸腔内には凝血を含む血液約1200ccが入っていた[判決文 1]。
- また公判で被告人Sは「被害者Dが警察に通報するなどすることを防ぐために刺した。当時は殺意までは持っておらず、突き刺すことによってDが死亡することも予見していなかった」と主張したほか、弁護人は「Dを柳刃包丁で刺したのはDの動きを封じることが目的であって殺意は有していなかったため、強盗殺人罪ではなく強盗致死罪が成立するに過ぎない」と主張したが、千葉地裁判決は以下のような証拠から「被害者Dの死を意欲していた(=確定的殺意があった)とまでは認められないが、死に至る危険性は十分に認識・予見していたために未必の殺意が認められる」と事実認定した[判決文 1]。
- Dを鋭利な包丁で数回背中から突き刺して致命傷を負わせながら何ら救命措置を講じなかった上、絶命寸前のDを移動させた後はB・E姉妹とともに食事をしたりBを強姦したりするなど「Dの存在を意識せず『Dは既にいないもの』という前提で行動していた」ことが認められる[判決文 1]。
- 被告人Sは捜査段階にて「『Dが死亡するに至るかもしれない』と認識しながら『激情の赴くままに』敢えて意に介さず突き刺した」と「殺意を認める供述」をした[判決文 1]。
- 被告人Sは公判にて「Dを突き刺した後で南側洋間に運び入れた後、『もうDは部屋から自力では出てこないだろう』という気持ちだった」と述べたことから「Dの死を予見・認識していた」と受け取れる内容の供述をした[判決文 1]。
- 被害者Dは女性であり、被告人Sに命じられるまま所持品をすべて差し出した状態で床にうつぶせになって抵抗の気配すら示していなかった。そのDの胸部を立て続けに5回も包丁で深々と突き刺したのは明らかに「動きを封じる」目的にしては過剰すぎる[判決文 1]。
- また弁護人は「被害者Dへの刺突行為は金品強奪のための手段ではない」とも主張したが、千葉地裁は以下のような事実から「一連の犯行の経緯・推移を考えれば『単に犯行の通報などを阻止するだけにとどまらず、進んで金品を強取する目的で被害者Dを刺突した』と認められる」と事実認定した[判決文 1]。
- 午後9時20分ごろ、Bを強姦(強盗強姦罪)
- SはDを殺害した直後から警察が突入してくる翌朝まで現場室内にBを監禁した[判決文 1]。Dを殺害してから15分後、保育園児の妹Eが保母に連れられて帰宅したが、Bがドアを開けてEを部屋に入れた[雑誌 2]。
- SはBに命じて夕食の準備をさせB・Eとともに3人で食事を摂り[書籍 18]、食後にEを絞殺された祖母Cの部屋に追いやってテレビを観せた[書籍 18]。その後寝付いたEは[書籍 23]結果的に「絞殺された祖母の遺体の横で1人最後の夜を過ごす」こととなってしまった[書籍 18]。
- 一方で少女Bから「父親は午後11時過ぎに帰って来る」と聞かされたために「金品を強取するためにその帰宅を待とう」と決意するとともに「気分転換のためにBを強姦して気を紛らわそう」と考えた[判決文 1]。
- Sは午後9時20分ごろ、「母親Dが目の前で刺されたのを見て極度に畏怖し、抵抗不能な状態に陥っていた」少女Bを、先ほどDを刺した包丁で脅して[判決文 1]寝室に連れ込み[書籍 18]、その上でBに対し「服を脱げ」などと迫ったが[判決文 1]、Bは目の前で母親を惨殺されて恐怖に震えていたためにうまく手が動かず[書籍 18]逡巡していた[判決文 1]。
- これに腹を立てたSはBをベッドに突き倒して[書籍 18]Bの着ていたワイシャツの襟を引っ張ってボタンを引きちぎるなどの暴行を加えてその犯行を抑圧し、Bを全裸にさせると自らも衣服を抜いて全裸となってBにのしかかり、2月の事件から数えて3回目となる強姦を行った(罪状その11・強盗強姦罪)[判決文 1]。
- 3月6日午前0時30分ごろ、父親Aを刺殺(強盗殺人罪)
- しかしSの予想より早く、強姦行為の最中だった午後9時40分ごろに父親Aが帰宅したため、Sは慌ててBの身体から離れて服を着るとともにカウンター付き食器棚の上にいったん隠した「Dを刺殺した柳刃包丁」を手に取った状態で食器棚の陰に隠れた[判決文 1]
- その状況に気付かずに居間に入ってきた男性Aが、ベッドで横になっている娘Bを見て「寝てたのか」と声を掛けたところ、Sは金品を強奪する意図でAの背後から左肩を包丁で一突きして犯行を抑圧した[判決文 1]。
- Sは所持していた暴力団組員の名刺を「俺はこういう者だ」と負傷して動けなくなったAに突き付けて脅すとともに、組員を装い「お前が取材して書いた記事で(自分の)組が迷惑している」と架空の事実を突きつけて因縁を付け、「通帳でも現金でもなんでもいいから200万円くらい出せ」と脅迫した[判決文 1]。Aはまだ「妻D・母Cが目の前の男に殺された」事実を知らず「家族を守ろう」と必死だったため、Sに母親の通帳のありかを教えてしまい[書籍 18]、致命傷を負った身で動けなくなり[判決文 1]うめくように「横にならせてくれ」と言いながら床に横たわった[書籍 18]。
- Aの指示で娘Bが宅内から探し集めてきた現金16万円・預金通帳2冊[祖母C名義の郵便貯金総合通帳1冊(額面257万6055円)および銀行総合口座通帳1冊(額面103万1737円)]を強取したSは、さらに男性Aから「勤務先の会社に行けば別の預金通帳・印鑑がある」と聞き出すと、それをも強取しようと考えた[判決文 1]。なおこの時点でSが暴力団組員から要求されていた200万円は手に入ったが、Sはまだ満足しなかった[書籍 18][新聞 28]。
- SはBに命じて事務所に電話を入れさせ[書籍 18]、職場に残っていた社員に「これから通帳を取りに行く」と伝えさせた上で[新聞 29][判決文 1]「従わないと父親まで殺される」と恐怖したBを連れて[書籍 23]、日付が変わった1992年3月6日午前0時30分ごろに806号室を出た[判決文 1]。捜査段階におけるBの供述によれば、この時点でAは「床上に横たわり、起き上がろうとしても起き上がれない状態で苦しそうな様子」だった[新聞 29]。
- SはエレベーターでBとともにいったん1階まで下りたが[書籍 18]、「Aをこのまま生かしておけば警察に通報される恐れがある」と考えてAを殺害することを決意し、Bを1階に残して806号室まで引き返した[判決文 1]。
- 1992年3月6日午前0時30分ごろ、AはSに刺されてから約3時間悶え苦しんだ末に瀕死状態となっていたが、妻D・母親Cの身を案じつつ台所のテーブルにつかまって立ち上がっていた[書籍 18]。Sは包丁を手に取り、「既に預金通帳などの所在場所を聞き出して無用の存在となっていた」Aを「後顧の憂いを断つため、即ちとどめを刺して口封じをする目的」で殺害するために背中を1回強く突き刺し、被害者Aを背部刺創により失血死させて殺害した(罪状その12・強盗殺人罪)[判決文 1]。
- SはAにとどめを刺した後、反抗を抑圧されたBをクラウンに乗せて道案内させて行徳駅前の事務所に向かった[判決文 1]。
- 被害者Aの遺体司法解剖初見
- 被害者Aは帰宅直後、いきなり背後からSに包丁で左肩甲下部を1回刺されたことにより「左第七肋骨及び第七肋間筋を損傷して胸腔内に入り、左肺下葉を貫通し左肺上葉を損傷した上、さらに左第五肋骨および大吾肋間を刺切して左脇窩部に刺出する創洞の長さ約15.8センチメートルの刺創」、即ち「これだけでも十分致命傷になる刺創」を形成された[判決文 1]。これによりAは「床上に横たわり、起き上がろうとしても起き上がれない状態で苦しそうな様子」で現場に倒れ伏せており、司法解剖を担当した鑑定人・木内政寛は「Aは2回目にSから刺突された時点でほとんど運動能力はなく瀕死状態で、立ち上がることはおろか会話することもできない状態だった」と推定した[判決文 1]。
- その後、再びSに包丁で肩甲間部右側を刺されたことで「創洞の長さ約12.7センチメートルで第六肋骨並びに第六肋間筋を損傷して胸腔内に入り、右肺下葉を貫通した上右肺上葉を損傷し、さらに心嚢および大動脈後面をも刺切する」刺創を負った[判決文 1]。これは「1回目の刺創よりさらに重篤な損傷を身体の最枢要部分に生じさせる」もので、Aは再び致命傷を負ったことでやがて死に至った[判決文 1]。
- 被告人Sの弁護人は被害者男性Aの殺害行為に関して「殺意はないため強盗殺人罪ではなく強盗致死罪が成立するにすぎない」と主張した上、被告人S自身も「柳刃包丁で突き刺した時は「Aが死ぬかもしれない」とまでは考えなかった」と主張したが、千葉地裁は以下の証拠から「被害者Aへの確定的な殺意が認められる」と事実認定した[判決文 1]。
- 3月6日午前1時ごろ、事務所から通帳を奪う(強盗罪)
- 会社事務所があった千葉県市川市行徳駅前所在のビル前に赴いたSは1992年3月6日午前0時40分ごろ、Bに「人がいるとヤバい。俺はここで待っているから、お前が行って来い」と命じて事務所に向かわせた[判決文 1]。
- この時点でまだ「父親まで殺された」事実を知らないBは[新聞 29][新聞 28]Sに命じられるがままに[判決文 1]、ビル2階[雑誌 2]204号室にあった事務所に向かい、事務所内で寝泊まりしていた同社従業員の男性に「ヤクザが来ていて『お父さんの記事が悪い』とお金を取りに来ている」と告げ、事務所内から会社名義及びA・D夫妻名義になっていた預金通帳計7冊(額面合計63万5620円)・印鑑計7個を持ってSが待っていた自動車内まで戻った[判決文 1]。Bはこの時、従業員に助けを求めることは特になかった[新聞 28]。
- これら通帳・印鑑をBから受け取ることで強取した(罪状その13・強盗罪)Sは[判決文 1]、Bが事務所に行っていた間に空腹を覚えたため[書籍 17]、近くのコンビニエンスストア(ファミリーマート)[雑誌 5]で菓子パンを買って食べていた[新聞 29][書籍 17]。SはBが事務所に現れてから約20分後になって事務所に現れたが「他人の目を欺こう」としたためか[新聞 29]、Bに「おい、行くぞ」と親しげに声を掛け[雑誌 2]、2人で印鑑・通帳を持って行った[新聞 30]。
- この時、留守番をしていた知人従業員は「SがBの名前を呼ぶ声から『2人は友人だ』と思い込み、その時点では疑いを持たなかった」と証言した[新聞 22]。
- この行動を不審に思った従業員は派出所に連絡し、午前1時30分ごろに葛南署員とともに806号室に出向いた上で[新聞 31]部屋のドアを叩いたり[新聞 29][雑誌 2]、室内に電話をかけたりしたが[雑誌 2]、この時は部屋の照明が消えており応答もなかったため[新聞 29][新聞 28]、署員は「不在だ」と思い引き揚げた[新聞 29][新聞 28]。なおこの時点ではいずれも前述したようにBの両親(A・D夫妻)および祖母Cの3人は既に殺害されていたが、寝かしつけられていた妹Eはまだ生存していた。
- 平井富雄・東京家政大学精神医学教授は『千葉日報』1992年3月13日朝刊の記事で「Bが事件当時『外部の人間と1人で接触する機会』が2度あったにも拘らず助けを求められなかった理由」に関して「極端な異常事態に置かれて自律神経が『喪失』し、相手の言いなりになってしまうことがあり得る」と解説した[新聞 32]。
- Bをラブホテルに連れ込み、再び強姦
- 通帳・印鑑7組を奪ったSはそのままBをクラウンに乗車させて市川市塩浜三丁目にあった[判決文 1]東京湾沿い[書籍 17]のラブホテルにBを連れ込み、このホテルの5階501号室で一夜を過ごした[判決文 1]。
- Sはこの間、ラブホテル室内で30分ほどかけて通帳の額面を調べたり、印鑑・通帳の印影を確認したりしていた上、ここでもBを強姦した(4度目)[書籍 17]。Sは4時間近く熟睡した後、目覚めるとBに5度目の強姦を行った[書籍 17]。
- 3月6日午前6時30分ごろ、妹Eを刺殺(殺人罪)
- SはBとともに3月6日午前6時30分ごろになってマンション806号室に戻り、しばらくは「既に一家3人が死亡していた部屋」で時を過ごしておりごろ、Eを刺殺する前後には一家4人が惨殺された凄惨な現場から友人に電話を入れ「取り留めもない話」に興じていたが[書籍 35]、寝室で寝かせていたBの妹Eが目を覚まして[判決文 1]泣き始めていた[書籍 17]。
- Sは後に捜査段階でEを刺殺した動機を「前夜テレビの前に座らせたらおとなしくじっと見ていたため、そのままにしておいたら眠った。しかし自分がBとともに明け方に戻ってきたら泣きわめいていたので殺した」と供述した[雑誌 5]。
- Sは「Eが両親・祖母の死を知って泣き叫べば、近隣住民にその声が聞こえて犯行が発覚する」と恐れたため、その発覚を免れる目的でEを殺害することを決意し、午前6時45分ごろになって食器棚のカウンター上においてあった前述の柳刃包丁(A・D夫妻を殺害した際の凶器)を右手に持って寝室に入った[判決文 1]。
- SはEがいた寝室に入ると、自分に背を向けて布団の上に上半身を起こして座っていたEに近づき、その背後から左手でEの顎のあたりを押さえつけながら、殺意を持ってその背部を包丁で1回突き刺した[判決文 1]。この刺突行為は包丁がEの幼い体を貫通し、刃先が胸まで突き抜けるほどのもので[判決文 1]、Eは「痛い、痛い」と弱々しく声を出してもがき苦しんだ[書籍 17]。
- そのEを前にして、SはBに「妹を楽にさせてやれよ。首を絞めるとか方法があるだろう」と平然と言い放ったが[判決文 1][書籍 17]、Bが動けなかったためにSは激痛で泣き叫ぶEの首を絞め上げ[書籍 17]、背部刺創による失血死で絶命させた(罪状その14・殺人罪)[判決文 1]。
- Bはこの時までに「目の前で家族を皆殺しにされた挙句に5度にわたって凌辱される」という「想像を絶する恐怖・絶望」で心身ともに打ちのめされていた中[書籍 17]、高校で同じクラブに入っていた近所に住む同級生の少女宅に「今日は休む。部室の鍵を持っていけなくてごめんね」と電話していた[新聞 33]。妹Eが殺された直後の午前6時50分ごろ、Bはその惨劇を目の当たりにして「どうして妹まで刺したの!」とSに食って掛かったが、Sは「突然のBの反抗」に逆上して包丁を振りかざし、Bの左上腕・背中を切り付け全治2週間の怪我(左上腕切創、背部切創)を負わせた[判決文 1]。
- 一晩で一家4人の尊い命が奪われたこの事件でSに強奪された被害総額は現金合計約34万円・預金通帳計9冊(額面合計424万円3412円)、印鑑7個に上った[判決文 1]。後に被告人Sと文通した『東京新聞』(中日新聞社)社会部記者・瀬口晴義は「検察官による冒頭陳述書を読んだ感想」として一連の犯行を「『凶悪・凄惨という形容詞が陳腐に思えるほど残酷な場面』の連続で吐き気を催したほどだ」と表現した[新聞 34]。
- 被害者Eに対する強盗殺人罪成立の可否
- この殺害行為については、C・D・Aの各3人に対する殺害行為と同様に強盗殺人罪で起訴されたが、刑事裁判では「確定的な殺意は認められるが、既に強盗行為はこの時までに終わっていた」として「単純殺人罪」と事実認定された(後述)[判決文 1]。
- 検察官は強盗殺人罪を主張する理由を以下のように挙げた[判決文 1]。
- 806号室でC・D・Aの3人を順次殺害して金品を強取し、その後でAの会社に預金通帳などを取りに行くためにいったん現場を離れたが、それは現場に再び戻ることを想定した行動である[判決文 1]。実際、それ以前に発見・収集してビニール袋に入れておいた小銭類は現場に残したままである[判決文 1]。故に「一時的に現場を離れたことで強盗の現場を離脱した」と解釈することはできず、むしろ強盗の犯行を完遂するために現場に戻ったものに他ならないというべきである上、被告人Sが被害者Eを殺害した動機は「Eが騒いで自己の一連の強盗殺人などの犯行が周囲に発覚することを防止するため」であったことなどを考えれば、Eの殺害は「強盗の機会になされたもの」であることが明らかであるため、強盗殺人罪が成立する[判決文 1]。
- 一方で弁護人は以下のように強盗殺人罪の成立を否認し、単純殺人罪の成立を主張した[判決文 1]。
- これに対し、千葉地裁は以下の事実から「被害者Eの泣き声で一連の強盗殺人などの犯行が露呈することを防ぐための犯行」として殺意に関しては検察側の「確定的殺意の成立」を認めた[判決文 1]。
- 被告人Sは被害者Eの顎のあたりを抑えた上で背後から「刃先が胸部に突き抜けるほどの強さ」で「十分な殺傷能力を有する包丁」を突き刺した[判決文 1]。
- 遺体の傷は「右肩甲下部に刺乳創を形成し、右第六肋間・第七肋骨上縁を損傷して右肺の下葉・中葉・上葉を貫通し、更に胸郭前面で右第三肋骨・第三肋間を損傷して右胸部の刺出口に至る貫通刺創を形成し、創洞の長さは約12.3センチメートルで、胸腔内には凝血を含む血液約200ccを貯留していた」ほどの重篤な傷害だったことから、被告人Sが力いっぱい被害者Eの背部を突き刺したことが認められる[判決文 1]。
- 被害者Eを突き刺した直後、被告人Sは被害者Bに「妹を楽にしてやれば。首を絞めるとか方法があるだろう」などと申し向けていた[判決文 1]。
- 被告人Sは公判で「被害者Eを刺突した動機」に関して「静かにさせないと近所に声が漏れて人が来ると思った」と供述したほか、捜査段階でも「小さい子供は声が高いので『両親が死んだ』とわかれば騒ぐだろう。そうすれば隣近所に子供の泣き声が聞こえてしまうと思った」と供述した[判決文 1]。
- 被害者Eを刺突した際の気持ちに関して、被告人Sは公判にて「刺した時には『もう死んでしまっても仕方がない』とは思った」と述べている[判決文 1]。
- 被告人Sは被害者Eの顎のあたりを抑えた上で背後から「刃先が胸部に突き抜けるほどの強さ」で「十分な殺傷能力を有する包丁」を突き刺した[判決文 1]。
- その一方で罪状に関しては検察側の主張した「強盗殺人罪」ではなく、弁護人の「単純殺人罪」主張を採用した[判決文 1]。
- 被害者Bが両親の会社から通帳・印鑑を持ってくると被告人Sはそれを奪っているが、被告人はそれ以上(現場806号室に戻って以降を含め)金品を物色する行為に出ることなく被害者Bをラブホテルに連れ込み、806号室に戻ったのは会社に向かってから5時間近くが経過した午前6時30分ごろだった[判決文 1]。
- 検察官は「前夜に収集してビニール袋に入れておいた小銭類を取りに戻った」と主張するが、被告人Sは現場に戻った後その袋を持ち出そうとしていなかった上、そもそもその小銭塁に対する所持は「被告人が室内を部色して小銭類を収集し、いつでも持ち去ることができるように袋に入れた時点」、即ち「被告人Sが会社に赴く以前」に既に被告人に移転していると考えるべきである[判決文 1]。
- そのため、被告人の強盗殺人行為は遅くとも(小銭類の強取を含め)「会社の通帳・印鑑を奪った時点」ですべて終了したものとみるべきである[判決文 1]。したがって被告人Sは被害者C/B・A革命に対する各強盗殺人の行為が終了した後、それとは別の機会に「一連の犯行の発覚を阻止する」という動機から、新たな犯意に基づいて被害者Eを殺害したことが認められる[判決文 1]。
- よって「いったん強盗殺人の行為を終了した後、新たな決意に基づいて別の機会に他人を殺害した」場合は、その殺人行為は「仮に時間的に先の強盗殺人に接近しその犯跡を隠蔽する意図の下に行われた場合」であっても「別個独立の殺人罪を構成」し、これを「先の強盗殺人の行為とともに包括的に観察して1個の強盗殺人罪とみる」ことは許されないものと解するのが相当である[判決文 1]。
初動捜査
- 午前8時過ぎ、夫妻の職場に勤める従業員が警察に通報
- A・D夫妻の会社事務所に勤めていた男性社員は「Bが深夜に訪問してきた」ことを不審に思っており[書籍 17]、3月6日早朝には自宅の電話に再びBから「金の工面を求める電話」を受けたため[新聞 30]「社長宅の様子がおかしい」と不審に思い同日午前8時過ぎになって[新聞 29]マンションに電話を入れた[新聞 30][書籍 17]。
- Bは電話に出たものの「おはよう」と言ったきりそのまま電話口で押し黙ってしまったが、[雑誌 2]、従業員が「脅している奴が部屋にいるのか」と尋ねるとうなずいた[新聞 29]。
- 従業員は「Bの不自然な対応」[新聞 29][新聞 31]「部屋を訪ねてもドアの鍵がかかっており呼んでも返事がないこと」を不審に思い[新聞 16]、近隣の葛南署行徳駅前交番に「知り合いの社長の娘から不自然な電話があった。家族が刺されたらしい」と、Sが事務所に来た直後以来となる2度目の110番通報をした[新聞 29]。
- Sを銃刀法違反容疑で現行犯逮捕
- 従業員と派出所の警察官が部屋の玄関前に駆け付けたところ、玄関は鍵がかかっており呼んでも返事がなかったため、署員が隣の部屋からベランダを伝って窓から806号室に侵入した[新聞 1]。
- 署員が部屋に踏み込んだところ[新聞 1]、室内の壁などに血が飛び散り[新聞 1][新聞 18]、Aは居間、Dは6畳の和室、EはDが死んでいた和室の隣の6畳の洋室、CはEとは別の7畳の洋室と、一家4人がそれぞれ別々の部屋で死亡していた[新聞 1][新聞 16]。室内では警察官が現場に駆けつけるまでの十数時間にわたってBを監禁していたSが[新聞 24][新聞 16]Bとともに呆然と立ち尽くしていた[新聞 1][新聞 17][新聞 19][新聞 16]。Sはこの時、Bに対し「俺に殺されたいか、それとも一緒についてくるか」と脅し迫ったが[書籍 17]、「ドアの外から複数の人間の気配」を感じ取ったため「Bが自分を脅しているように見せかけて罪を逃れよう」と、放心状態のBに家族3人を刺殺した包丁を握らせて「これを持って、俺を脅しているふりをしろ」と迫った[書籍 6]。しかしそれでもBは「放心状態で床に座り込んだまま」動かなかったため、これにSが腹を立てて怒鳴りつけたところドアが開き怒号とともに警官たちが突入してSを押さえつけた[書籍 6]。
- Bは警察により、Sに監禁されて以来約14時間ぶりに保護された一方[書籍 6][書籍 17]、Sは署員らが部屋に入った際に玄関から逃走しようとしたが、警察官に追跡されて格闘の末に取り押さえられた[新聞 29][新聞 31]。Sはその際、「おれはやっていない」と叫んだが[新聞 16]、ナイフを所持していたために銃刀法違反容疑で葛南署に現行犯逮捕された[新聞 29][新聞 31]。
- 1992年3月7日未明、強盗殺人容疑でSを逮捕
- 千葉県警捜査一課・葛南警察署は[新聞 1]「殺人事件の疑いがある」として[新聞 35]1992年3月6日夕方に捜査本部を設置した[新聞 1]。
- その上で捜査本部は、長女B・現行犯逮捕された少年Sを[新聞 35]それぞれ参考人として任意同行し[新聞 1]2人から「前夜からの行動」などについて[新聞 1]詳しく事情を聴取した[新聞 36][新聞 37][新聞 38][新聞 39][新聞 35]。
- 千葉県警の取り調べに対し、被疑者Sは銃刀法違反容疑で現行犯逮捕された後も事件への関与を否定して「先月にBと知り合い、A宅の住所と電話番号を聞き出した」「Bとは一緒にコンサートに行った」などと虚偽の供述をした一方で、被害者のBはショックのためか取り調べに対しても何も話すことができなかった[新聞 21]。千葉県警捜査本部は当初、Sの虚偽の供述を真に受けて「S・B両名を殺人容疑で取り調べている」と発表してしまうこととなったが[新聞 21][新聞 19]、その後も真偽を丹念に調べた末にそれらを「Sの虚言」と突き止めた[新聞 40][新聞 24][新聞 27]。
- 同日深夜になって、被疑者Sは容疑を否認していたそれまでと一転して「金が欲しくてやった」と犯行を認める供述をしたため[新聞 1]、千葉県警捜査本部は前述の現行犯逮捕容疑であった銃刀法違反容疑についていったん釈放の手続きを取った上で[新聞 29][新聞 31]、翌3月7日午前0時30分ごろに強盗殺人容疑で逮捕状を請求した上で被疑者Sを通常逮捕した[新聞 1][新聞 16][新聞 41][新聞 17][新聞 40][新聞 18][新聞 25][新聞 19]。
- 現場806号室の真下の住民は捜査本部の聞き込みに対し「昨夜11時30分ごろに上の部屋で『ドスン』と大きな音がした」と話した[新聞 4][新聞 18]。
- 千葉県警広報課は事件当時、『朝日新聞』の取材に対し「県内で一般の家族4人が殺されたケースはいずれも戦前から1950年代などに限られており、近年では例がない。このような大量殺人が発生したことには驚きを隠せない」と証言した[新聞 40]。
- 逮捕後、被疑者Sを千葉地検に送検 / 現場検証 / 被疑者S宅の家宅捜索
- 強盗殺人容疑で逮捕された後、被疑者Sは千葉県警の取り調べに対し一連の犯行を認める供述をした[新聞 1][新聞 42]。また犯行の具体的な動機に関して「交際していた女性のことで暴力団組員から脅されており、200万円ぐらいの金が欲しくてやった。806号室に盗みに入ったところCに見つかったので絞殺し、帰宅した家人を次々と刺殺してBを監禁していた」と供述した上で[新聞 42]、現場マンションで犯行を決行した理由に関しては「マンションの近くまで行ったことがあり『この家ならやりやすい』と思った」と供述した[新聞 43]。
- このことから捜査本部は本事件を「被疑者Sが金に困った挙句、標的を絞り下見をした上で実行した計画的な犯行」と推測して被疑者Sを追及した[新聞 43]。
- 1992年3月7日午前9時30分ごろから現場検証が行われた結果、現場から血の付いた凶器の包丁が発見された[新聞 42][新聞 44]。捜査本部は包丁の柄などから採取した指紋を鑑定するなどして裏付け捜査を行った上で[新聞 42][新聞 44]、翌1992年3月8日午前には[新聞 45]被疑者Sを千葉地方検察庁に送検した[新聞 46][新聞 45][新聞 24][新聞 47]。
- また捜査本部は1992年3月7日までに被疑者Sが住んでいたマンションを家宅捜索して書類など数点を押収した[新聞 46][新聞 45]。当時Sの自宅マンションの部屋には家具はほとんどなかったが「男1人暮らしの割にはきれいに片付いていた」状態で[新聞 46]部屋にはギター4本・オーディオ機器がありCDがラックに詰められていた[新聞 46][新聞 27]。
- また被疑者Sは英字新聞を購読しており[新聞 46]、取り調べに対しては「英語・タガログ語は日常会話程度はできる。フィリピンなどに数回海外旅行に行ったことがあった」と話した[新聞 46][新聞 27]。
- 殺害された被害者4人の司法解剖・葬儀
- 捜査本部は1992年3月9日・10日両日に千葉大学医学部で殺害された被害者4人の遺体を司法解剖した[新聞 1]。その結果絞殺された祖母Cを除く被害者3人(刺殺されたA・D・E)の遺体にはいずれも「背後から肺まで達する深い刺し傷」が確認され、各被害者の死因は以下の通りだった[新聞 48][新聞 21]。
- 1992年3月12日、徳願寺(市川市本行徳)で殺害された被害者4人の葬儀が営まれ、被害者Bが喪主を務めた[新聞 33][新聞 32]。葬儀の最後に喪主のBに代わって親類代表としてAのいとこが[新聞 32][新聞 22]本事件に関して「平和な家庭を一夜にして奈落の底に突き落とした信じがたい出来事。悪魔の所業だ。このような犯罪が二度と起こらないよう、犯罪防止に努めてほしい」[新聞 32]「学識者、マスコミが中心になってこんな惨劇が二度と起こらないように努めてほしい」と挨拶した[新聞 22]。『中日新聞』1992年3月15日朝刊は「その言葉は後述の#報道被害をBに与えた千葉県警・マスコミに厳しい課題を課した」と報道した[新聞 22]。
- 一般市民からの反応
- 『読売新聞』朝刊の発言投書欄「気流」には以下のように本事件に言及した投書が複数投稿された。
千葉県警の発表・報道
- 千葉県警側の「誤解を与えかねない」発表・「予断に基づいた」報道
- 千葉県警本部(千葉市中央区)の記者クラブに「市川市内のマンション一室で午前9時ごろ、家族4人が死亡しているのが発見された」と第一報が伝えられたのは事件発生翌日の1992年3月6日午前10時30分だった[新聞 23]。これを受けて朝日新聞社は「無理心中・殺人事件の両方を想定」した上で京葉支局・千葉支局から記者計3人を現場に向かわせ、支局に残った記者も電話取材を開始した[新聞 23]。それらの取材により「葛南署に通報したのは死亡したAの知人である」「家族のうち長女は生存している」という2つの事実が確認された[新聞 23]。
- その後、千葉県警が1回目の記者会見で被害者一家の名前を発表した後、朝日新聞社では千葉県南部・北東部に配達される夕刊早版用の記事を制作した[新聞 23]。正午過ぎになって千葉県警記者クラブ所属の記者が同紙千葉支局に「現場には生き残った長女(B)のほか、長女の『友人』の若い男(S)がいた。千葉県警は2人を参考人として事情聴取しているようだ」と連絡するとともに「長女(B)はAの養女である」と伝えた[新聞 23]。結果的にはSが犯人ではあったが、長女(B)が事件の加害者であった場合は「未成年者の人権に配慮して一家の名前も匿名にせざるを得ない」ため[新聞 23][注釈 2]、千葉支局デスクは朝日新聞本社社会部と連絡を取った結果「その可能性がある以上は千葉市・東葛地域・東京都内に配達される夕刊からは一家の名前を匿名にする」ことを決めた[新聞 23]。
- 前述のように千葉県警捜査本部による取り調べが行われた当初、犯人だったSは「Bとは昔からの友人」と虚偽の供述をした一方で完全な被害者だったBは「ショックのためか何も話せなかった」状態だったため、捜査本部はSの供述を鵜呑みにしてしまいその供述通り「2人は友人」と判断した上でその「予断に基づいた内容」を記者会見でそのままマスメディアに発表した[新聞 23]。結果的に千葉県警は3月6日夕方(午後5時)の記者会見まで[新聞 23]「SはBの男友達で両者を参考人として事情聴取している」「警官が現場に駆けつけた時、S・B両名は室内で呆然と立っていた」と説明した[新聞 23]。
- また前述のようにSが金を奪うためにA・D夫妻経営の会社へBを連れ出した際、留守番をしていた知人従業員は「SがBの名前を呼ぶ声から『2人は友人だ』と思い込み、その時点では疑いを持たなかった」と証言した[新聞 22]。
- 『朝日新聞』および他紙記者らは午後からそれぞれ現場取材を始めたが、県警からの発表を受けて「長女(B)も事件に関与か」という予断を持ったまま、現場マンションの上下階の7階・9階(事件現場の8階は当時、立ち入り禁止となっていた)の各住民に対する聞き取り取材を開始した[新聞 23]。取材に対し7階住民は「前の晩にどしんどしんと音がした」と話し、『朝日新聞』記者が「前にもありませんでしたか」と聞くと「何か月も前から音がしていた」と答えた[新聞 23]。
- その後、8階住民の主婦に『朝日新聞』記者が取材したところ「夫婦仲は良かった」「長女(B)は普通の女の子」という「予断とは異なる内容の回答」が返ってきたが、『朝日新聞』以外の他社記者らも加わって「長女(B)の男女関係はどうか、素行はどうだったのか」という「予断に基づいた質問」に終始してしまい[新聞 23]。各紙記者らは当時、「『少年Sは長女(B)の友人』という千葉県警発表に基づく情報にこだわっており予断を捨てきれなかった」状態だった[新聞 23]。
- 午後5時には千葉県警が2回目の記者会見を行ったが、県警はこの時にも「現場にいた長女(B)と自称19歳の男友達(S)から参考人として事情聴取している」「警官が現場に駆けつけた時、SとBは室内で呆然と立っていた」「これは極めて特異な事件」という「現場の記者たちの予断に追い打ちをかける」説明をした[新聞 23]。これに加え、本事件と同じ3月5日には「高知県高知市内で当時高校1年生の少女が中学1年生の妹を刺殺した殺人事件」が発生・発覚していたことから[新聞 52]現場の記者のみならず『朝日新聞』千葉支局デスクも同事件などを連想して記事の編集を行った結果、新聞各紙の3月6日夕刊では「予断に基づいた読者に誤解を与えかねない記事」が作成された[新聞 23]。
- これらの要素が重なった結果、『読売新聞』・『朝日新聞』など各報道機関では6日夕方まで「長女・友人から聴取」「長女・男友達から事情聴く」など、千葉県警が抱いた予断と同様に「Bが犯行に関与している」という先入観を読者に抱かれかねないような報道がなされた[新聞 22][新聞 21][新聞 23]。
- なお新聞各紙夕刊の見出しは以下の通りで、記事内容の概要はいずれも「市川市内のマンションで家族4人が血まみれの状態で倒れて死亡していた。県警葛南署は4人の遺体に刺し傷があったために殺人事件として捜査を開始した上で、現場にいた高校1年生の長女(B)と『長女の友人の若い男性』(=加害者少年S)の2人から事情聴取している」というものだった[新聞 23]。
- 『朝日新聞』1992年3月6日夕刊千葉県内版の見出し - 「一家4人殺される 市川」[新聞 23]
- 『朝日新聞』1992年3月6日夕刊東京都内版の見出し - 「一家4人刺殺される 長女・友人から聴取」[新聞 37][新聞 23]。
- 『読売新聞』1992年3月6日東京夕刊 - 「一家4人殺される 市川のマンション 部屋に高一の養女 男友達も、事情聴く」[新聞 36]
- 『日本経済新聞』1992年3月6日夕刊 - 「一家4人殺される? 千葉・市川のマンション」
- 『産経新聞』1992年3月6日夕刊 - 「家族4人殺される 千葉のマンション 長女と男性から事情聴く」[新聞 35]
- 『中日新聞』1992年3月6日夕刊 - 「一家4人刺殺される 長女と男友達から聴取 千葉のマンション」
- なお地元紙『千葉日報』は1992年当時から夕刊を発行していないため、第一報はSが強盗殺人容疑で逮捕された後の1992年3月7日付朝刊だった[新聞 1]。
- なお新聞各紙夕刊の見出しは以下の通りで、記事内容の概要はいずれも「市川市内のマンションで家族4人が血まみれの状態で倒れて死亡していた。県警葛南署は4人の遺体に刺し傷があったために殺人事件として捜査を開始した上で、現場にいた高校1年生の長女(B)と『長女の友人の若い男性』(=加害者少年S)の2人から事情聴取している」というものだった[新聞 23]。
- なお本事件の真犯人・少年Sは前述したようにこの時点で既に銃刀法違反容疑で現行犯逮捕されていたが、第一報となった夕刊記事では千葉県警の発表通り「Bの男友達」「知人」などと報道されただけで、この時点で逮捕されていた事実は全国紙の3月6日付夕刊・翌3月7日付朝刊では報道されなかった。事件解決後、『読売新聞』・『千葉日報』はそれぞれ3月11日付朝刊で「Sは警察官が踏み込んだ直後に逃走を図ったがナイフを所持していたため銃刀法違反容疑で現行犯逮捕され、署に連行された」と報道された[新聞 31][新聞 29]。
- その後、千葉県警が報道陣に「本事件はSの単独犯行であり、Bは全くの被害者である」という事実を発表したのは3月6日午後9時30分で[新聞 23][新聞 21]、県警は同日3回目となるこの記者会見で「逮捕状請求前の段階における異例の記者発表」として「強盗殺人容疑で少年Sの逮捕状を請求する予定だ」と説明した[新聞 40]。当時、『朝日新聞』社内では「(記者・編集者らが)予断に囚われたまま、翌3月7日に千葉県南部・北東部へ配達される朝刊早版の締め切りが迫っていた」中でこの事実が発表されたため、社会面ではその事実が反映され「19歳の少年逮捕へ」という見出しに修正がなされたが[新聞 23]、修正が追い付かなかった千葉県版では(いずれも『朝日新聞』1992年3月7日付朝刊)「数カ月間深夜に物音」「詳しい事情聴取 長女と男友達から」という見出しになり[新聞 40]、社会面と千葉県版地域面でそれぞれ整合性を欠く記事となった[新聞 23]。結局、『朝日新聞』が1992年3月7日朝刊にて「社会面・千葉県版の双方で『事件はSの単独犯』という事実を報道できたのは「千葉市以西に配達された朝刊」からで[新聞 23]、千葉県内でも千葉支局・京葉支局では「それぞれ締め切りの時間差があるとはいえ読者に誤解を与えかねない内容の記事」となってしまった[新聞 23]。
- なお県警の「被疑者Sが被害者B宅を狙った理由」に関する発表内容は当初「今月2月中旬、SがBを車に連れ込んで乱暴した際に住所・電話番号を聞き出した」というものだったが、その後「脅して身分証明書を奪った」というものに変わった[雑誌 5]。
- 被疑者Sが逮捕された翌日の1992年3月7日朝刊にて新聞各紙は被害者の実名に関して以下のように報道した。
1992年3月7日付新聞各紙朝刊における被害者一家5人の実名報道状況 新聞名 死亡被害者4人 被害者B 備考 『読売新聞』[新聞 16] 実名[新聞 52] 匿名[新聞 52] 『朝日新聞』[新聞 17] 『毎日新聞』 『東京新聞』 『産経新聞』 被害者5人全員を匿名で報道[新聞 53][新聞 54][新聞 52] 社会部長・稲田幸男は「両親の名前を書けば生き残った長女Bが特定されてしまう虞があったため家族全員を匿名とした。社内では『実名報道の大原則に反する』と反対意見も出たが、今回の判断はそれを侵すものではないと考えている」と説明した[新聞 52]。 『千葉日報』[新聞 1] 夕刊を発行していない同紙はこれが第一報となった。 『日本経済新聞』[新聞 18] 被害者5人全員を実名報道[新聞 52] 編集局次長・橋本直はBの実名報道に関して「第一報の段階では千葉県警から嫌疑をかけられていた状況だったため匿名にしたが、7日の朝刊作成段階では『完全な被害者』であることが判明したため、それを明確に示すためには実名報道の方が適切と判断した。しかし被害者にとっては陰惨で気の毒な事件であり一刻も忘れたいことだろう。今後の報道の方法は考えたい」と説明した[新聞 52]。 『中日新聞』[新聞 19]
- 事件解決後、『朝日新聞』1992年3月10日朝刊千葉県版に掲載された「本事件の報道内容を検証する記事」などでは前述した千葉県警・新聞各紙の報道内容の検証に加え、以下のような記事も問題として挙がった[新聞 23]。
- 事件3日後の1992年3月9日朝、TBSテレビで放送されたワイドショー番組「モーニングEYE」では「Bの同級生へのインタビュー」の中でリポーターがBの実名を口にした上、質問に答える同級生もBの実名を何度か言い、その問答がそのまま放送された[新聞 55]。
- 同番組プロデューサー・島崎忠雄は『朝日新聞』の取材に対し「今回は当然ながらBを匿名で報道すべきケースだったがVTRの編集で消し忘れた。突発事件の場合にはVTRの仕上がりが放送直前になるため、このような単純なミスが起きることもある」と回答したが、同番組においてはその後も本事件が繰り返し取り上げられたがこの「ミス」については言及されなかった[新聞 55]。
- 島崎はさらに同紙取材に対し「この件を受けて社内で『反省する話し合いの場』を作った。7ケースによっては番組内でケアすることもあるが(この時点では)まだ具体的な予定はない」と語った[新聞 55]。
- TBSの上記の対応に関して「他局のあるプロデューサー」は「Bの実名が口にされる場面をハラハラしながら見た。編集の時間が足りないことはあっても、インタビューを撮る前に『こちらはB(仮名)ちゃんと呼びますので、実名を言わないようにしてください』と念を押すなどの工夫が必要だ」と指摘した[新聞 55]。
- 一部のスポーツ新聞は「事件の主旨とは特に関係ないにも関わらず、長女(B)が養女である点に注目したり、裏付けを取らないまま被害者一家の生活ぶりを報道した」ものがあった[新聞 23]。
- 事件解決後、千葉県警・マスメディアおよび被害者Bの関係者らは以下のように反応した。
- 事件の真相が判明した1992年3月6日夜、捜査を担当した当時の千葉県警刑事部長は「Bが最大の被害者だった」とコメントした[新聞 22]。
- 捜査幹部の1人は事件解決後の1992年3月8日、『朝日新聞』の取材に対し「2人が無関係と分かってからは逮捕前にその事実を発表するなど『報道陣に誤解を与えないように発表する』ことを心がけたが、県警にも予断があったことは認めざるを得ない」と述べた[新聞 23]。
- Bが当時通っていた県立高校の担任教諭は事件直後、『日本経済新聞』・『千葉日報』の取材に対し「Bには学校に出てきても慰めの言葉もない」と話した[新聞 25][新聞 42]。担任教諭はその後、「昼間に千葉県警が『長女B・少年Sの両者から事情聴取している』という発表があったにせよ、マスコミの取材はBを犯人扱いしていた」と憤った[新聞 22]。
- 『朝日新聞』1992年3月10日朝刊千葉県版に掲載された報道内容検証記事は「殺された家族の痛ましさは筆舌に尽くしがたいが、事件を通じて最大の被害者は1人残された長女(B)だったかもしれない」と締めくくっている[新聞 23]。
- 『読売新聞』1992年3月14日東京朝刊発言投書欄「気流」には東京都町田市在住・20歳代女子大生から「第一報夕刊では『養女と男友達から事情聴取』と書いてあったため、読者は『少女が家族とうまくいかなかったために男友達とともに一家を殺害した』と想像してしまったのではないだろうか?翌日朝刊で『“男友達”とされていた人物は一家と面識がなく、その男(S)による単独犯だ』と報道されたことから、自分は『養女』という言葉から被害者だった少女Bを犯人だと想像したことを恥ずかしく思った。差別を受けやすい養子・養女には配慮が必要だと思う。マスメディアには『報道によって人権を侵害すること』がないよう最大限の配慮をしてほしい」という発言が寄稿された[新聞 56]。
精神鑑定・起訴
- 被疑者Sの捜査中の心境
- 被疑者Sは「一晩のうちに強盗目的で一家4人を惨殺し血の海の中で遺された少女を強姦する」という凶行に及んだ末に逮捕されたがその直後は「少年犯罪なら少年法により処罰は軽くなる」と考えていたことから「自分が死刑になる可能性」はまったく考えていなかった[書籍 42]。それどころか自分の今後について「これで俺も少年院行きか。未成年ならどんな凶悪犯罪を犯しても少年鑑別所に送られてから少年院に入れられるだけだろう」といった程度にしか考えていなかった[書籍 37][書籍 42]。
- また死刑に関しては「自分とは縁遠いものだ。過去に殺人を犯しておきながら、刑期を終えてからか無期懲役の仮釈放中に再犯するような者ぐらいしか死刑にはならない[注釈 3]」と認識していた[書籍 42]。
- Sが「自分は死刑にはならない」と楽観視していた理由の一つには1989年(昭和64年・平成元年)1月に東京都足立区綾瀬(当時Sの住んでいた葛飾区青戸の近隣)で発生した凶悪少年犯罪「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が背景にあった[書籍 42]。コンクリート事件の加害者少年らが死刑どころか無期懲役にすら処されなかった(最大で懲役20年)ことから、Sは[注釈 4]。「俺はあいつらに比べて長期間の犯行ではないし、犯行にあたって凶器一つ用意していないからまだ頭の中身もまともだ」という「不遜な考え」を持っていたため[書籍 42]、逮捕後には「出所後の生活設計」のため母親Yに教科書・参考書・辞書類を差し入れさせて獄中で勉学に励んでいた[書籍 37][書籍 42]。
- 久田将義は著書『生身の暴力論』(講談社現代新書)にて「本事件の前後(1980年代後半から1990年代前半)にかけてはコンクリート事件(1988年11月 - 1989年1月発生)・名古屋アベック殺人事件(1988年2月発生)、大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件(1994年9月 - 10月発生)など『想像を絶するようなあまりにも残虐な凶悪少年犯罪』が集中して発生した」と述べた[その他 1]。
- 1992年3月25日 - 9月上旬、起訴前の精神鑑定
- 千葉地検は送検後の1992年3月25日、2日後(1992年3月27日)の勾留期限満期を前に精神鑑定のため被疑者Sを「1992年3月26日から90日間」にわたって鑑定留置することを千葉地方裁判所に申請して許可を得た[新聞 57][新聞 58][新聞 59]。千葉地検次席検事・甲斐中辰夫は『千葉日報』の取材に対し「『被疑者Sの精神状態に異常がある』とは考えていないが本事件の凶悪性・残虐性など事件内容を考慮して慎重を期した。今後、被疑者Sの犯行当時の精神・心理状態や刑事責任能力の有無を分析する」と説明した[新聞 57]。
- 当初の鑑定留置期限は「1992年6月25日まで」の予定だったが[新聞 60]千葉地検は1992年6月16日までに「鑑定期限を1992年9月上旬まで延長する」と申請して千葉地裁から認められた[新聞 60]。この間、筑波大学教授(当時)・小田晋が半年間にわたって精神鑑定を行った[新聞 61][新聞 62][新聞 63]。
- 1992年10月1日、千葉地検が被疑者Sを千葉家裁送致
- 1992年10月1日、千葉地検はその精神鑑定の結果を踏まえて強盗殺人・傷害など5つの容疑で被疑者Sを「刑事処分相当」の意見書付きで千葉家庭裁判所に送致した[新聞 3][新聞 64][新聞 65]。
- 1992年10月27日、千葉家裁が被疑者Sを千葉地検に逆送致
- 4回にわたる少年審判を経て、千葉家裁(宮平隆介裁判官)は1992年10月27日に被疑者Sを千葉地検に逆送致した[新聞 3]。その理由は「事件は社会を震撼させて世間に多大な影響を与えた。被疑者Sは成人に近い年長者であるため、刑事罰を加えることにより規範意識を覚醒させることが必要だ」というものだった[新聞 66]。
- 1992年11月5日、千葉地検が被疑者Sを強盗殺人罪などで千葉地裁に起訴
- 逮捕直後から半年間にわたる精神鑑定の結果、千葉地検は「カッとなると歯止めが効かなくなるが、完全な責任能力があった」と結論を出した[新聞 3][新聞 67]。
- そのため千葉地検は1992年11月5日に被疑者Sを強盗殺人・傷害など5つの各罪状で千葉地裁に起訴した[新聞 3][書籍 23][新聞 67][新聞 68][新聞 69][新聞 6][新聞 70]。
- 1993年2月17日まで、犯行前の数々の余罪で被告人Sを追起訴
- 千葉地検は公判開始後の翌1993年(平成5年)2月17日までに「一家殺害事件前の余罪3件(いずれも前述)」に関して傷害・恐喝・窃盗・強姦致傷の計4つの罪状で被告人Sを千葉地裁に追起訴した[新聞 71][新聞 72]。起訴内容は以下の通り。
- 1992年2月11日午前4時30分ごろ、被告人Sが東京都内の路上での女性に折り畳みナイフを突き付け、殴るなどの暴行を加えた上、手を切り付けて脅迫し、自宅に連れ込み強姦した容疑(強姦致傷罪)[新聞 71]。
- 1992年2月25日、被告人Sが市川市内で通りすがりの会社員男性に因縁をつけて鉄の棒で頭を殴り、自動車運転免許証を奪い金を要求した容疑(恐喝罪)[新聞 71][新聞 72]。
- 1992年2月27日、被告人Sが埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)内で通りすがりの大学生の顔を殴り、ナイフで全身数十箇所を刺すなどして全治6週間の怪我を負わせ、運転免許証や車検証などを奪った容疑(傷害・窃盗罪)[新聞 71][新聞 72]。
刑事裁判
刑事裁判で被告人Sは強盗殺人・強盗強姦・恐喝・窃盗・傷害・強姦・強姦致傷と7つの罪に問われ「1991年10月から一家殺害事件直後に逮捕されるまでの約5ヶ月間に計14の犯罪を繰り返した」と認定された[判決文 1][新聞 73]。
第一審・千葉地裁
- 1992年12月25日、第1回公判、被告人側罪状認否
- 1992年12月25日、千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)で一連の事件の初公判が開かれた[新聞 5][新聞 74][新聞 75][新聞 76][新聞 77]。
- 罪状認否に先立ち弁護人は、検察側に対し「起訴状に記載されている殺意は、確定的殺意か未必的殺意か」と説明を求めたが、検察官は「立証段階で明らかにする」と回答した[新聞 74]。
- 罪状認否で被告人Sは、被害者B宅を知るきっかけとなった強姦事件などについては全面的に起訴事実を認めた一方で[新聞 5][新聞 74][新聞 75]、強盗殺人罪の成立を認めたのは被害者4人のうち被害者Bの祖母Cに対してのみで、それ以外の被害者については以下のように否定した[新聞 74]。
- 母親Dに対する殺害行為については「逃げ出されると思い刺した」と傷害致死罪を主張した[新聞 5][新聞 74][新聞 75]。またDについては殺意だけでなく「金品強取の目的」も否定した[新聞 5]。
- 父親Aに対する殺害行為については「金は奪ったが殺すつもりはなかった」と強盗致死罪を主張した[新聞 5][新聞 74][新聞 75]。
- 妹Eに対する殺害行為については「朝起きて騒ぎ始めたので、事件の発覚を恐れて驚いて刺した。強盗目的もない」と単純殺人罪を主張した[新聞 5][新聞 74][新聞 75]。
- また被害者C・Eについてはそれぞれ「死ぬかもしれないと思ったが確定的な殺意はなかった」として「未必の殺意」を主張した[新聞 5][新聞 75]。
- 弁護人は被告人Sと同様に「外形的な事実関係」は認めたが、犯意・目的などの点に関する起訴事実を一部否認した[新聞 74]。
- 弁護人は公判後の記者会見で「被告人Sが千葉地検に逆送致される際、千葉家裁は我々の主張にほぼ沿う判断をした。検察側が殺意を確定的と主張すれば全面的に争う」と話した上で、被告人Sについては「『被害者に何とかお詫びをしたい』といつも言っている」と話した[新聞 75]。
- 前述のようにこの時点では余罪の追起訴が未完了だったため、検察側はこの日の冒頭陳述は見送り、次回公判の翌1993年3月3日までに余罪について追起訴した上で改めて冒頭陳述・追起訴状の罪状認否を行うことになった[新聞 5][新聞 74]。
- 1993年3月3日、第2回公判、追起訴余罪の罪状認否・検察側冒頭陳述
- 事件から1年を前にした1993年3月3日、千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)で第2回公判が開かれた[新聞 78][新聞 79][新聞 80]。
- 同日はまず1993年1月に追起訴された傷害・恐喝・窃盗・強姦致傷など計4つの余罪に関する罪状認否が行われ、被告人Sはそれらの起訴事実をほぼ認めた[新聞 78]。
- その後行われた冒頭陳述で検察側は「被告人Sは暴力団員から要求されていた金以外にも遊興費など欲しさから一家4人を次々に殺害して現金約34万円・残高約420万円の預金通帳を奪った」などと主張し[新聞 78][新聞 79][新聞 80]、事件の引き金となった暴力団員とのトラブルなど[新聞 78][新聞 79]、「残忍な事件の様相」も含めたさまざまな新事実を明らかにした[新聞 79]。
- 被告人Sは常にナイフを持ち歩き、「暴力団を装っては金を脅し取る」など次々と犯罪を重ねていた[新聞 78]。
- 被害者B宅を知るきっかけになった強姦事件の際、Bの自転車と衝突した時に最初から割れていた窓ガラスを「お前が割った」と言いがかりをつけ、車でBを自宅アパートまで拉致した[新聞 78]。
- 被告人Sは事件前、現場マンションを2回下見していたことに加えて侵入時には「マンション1階に設置された防犯カメラを避け、外階段で2階に登ってからエレベーターに乗る」など計画性が認められる[新聞 79]。
- 被告人Sは祖母Cを襲撃した際、唾を吐きかけられたことに逆上してCを絞殺した[新聞 79]。
- 近所に犯行が発覚することを恐れて未明に泣き出した妹Eを殺害したが、その際には姉Bに「妹を楽にさせてやれよ。首を絞めるとか方法があるだろう」と平然と言い放った[新聞 79]。
- 家族3人を刺殺した「3人の血液が付着した凶器の包丁」をBに握らせた[新聞 79]。
- この時点では弁護人側は「検察側による精神鑑定の結果には疑問がある」としつつも「再度の精神鑑定は求めず被告人Sの責任能力は争わない」考えを示した上で[新聞 78][新聞 80]「今後は被害者に対する反省の態度など『情状面での立証』に全力を挙げたい」と表明していた[新聞 78][新聞 79]。
- そのため千葉地裁は当初、以下のような流れで公判を進めた上で1993年6月中に結審することを予定していた[新聞 78]。
- 1993年5月19日、第3回公判、弁護人側請求の精神鑑定採用
- 1993年5月19日に第3回公判が開かれたが[新聞 81][新聞 82][新聞 62]、弁護人側は前回公判から同日までに[新聞 81][新聞 82][新聞 62]それまでの方針から一転して「1993年2月に追起訴された傷害・恐喝など別事件に関してはいずれも常人の理解を超えている」と主張した[新聞 82]。
- その上で弁護人は「検察側が起訴前に小田晋に依頼して半年間実施した精神鑑定」の結果に対し「捜査段階における精神鑑定は『精神的な面』が主な観点だったが『犯罪心理面』からの鑑定が必要である」として異議を唱えた上で[新聞 62]「上智大学心理学教授(当時)・福島章に委嘱して約半年間にわたり再度の精神鑑定を実施する」よう千葉地裁に請求した[新聞 82][新聞 62]。
- これに対し検察側は「起訴前に半年間にわたって詳細な精神鑑定を実施しており再鑑定の必要性はない」と反対意見を述べたが[新聞 81][新聞 82][新聞 62]、弁護人側の請求を受けた千葉地裁はいったん休廷して3人の裁判官が合議を行った[新聞 81]。その結果、神作裁判長は「これまでに精神鑑定は精神医学的観点から十分に時間をかけて行ってきたが、犯罪心理学から見た被告人Sの精神状態を見る意味でも改めて精神鑑定を実施する」として[新聞 81]弁護人側の請求を認める決定をした[新聞 81][新聞 82][新聞 62]。
- 千葉地検は「残虐な少年犯罪」として捜査段階で約8か月に及ぶ精神鑑定を実施して「慎重を期した」上で起訴したが、「結審間近の公判中に別の角度から再度の精神鑑定が行われる異例の展開」となった[新聞 81]。またこの決定で再度の精神鑑定に半年を要することとなった上、1993年6月21日に予定されていた論告求刑公判期日も取り消されたため公判の長期化は必至となった[新聞 62]。
- 同日の公判では続いて被告人質問が行われ[新聞 62]、被告人Sは被害者C・E両名に対する殺意をそれぞれ認める供述をした[新聞 82]。一方で被害者A・D両名への殺意に関して被告人Sは「その時は殺すつもりはなかった。背中を刺して死ぬとは思わなかった」と否認した[新聞 62]。
- また被告人Sは「なぜこんな事件を起こしたのか」という質問に対し「短絡的でした」と反省の言葉も述べた[新聞 62]。
- 検察側・弁護人側双方による被告人質問の中では以下のように「事件の異常さを明らかにする」新事実も明らかになった[新聞 62]。
- また弁護人側はこの日、情状証拠として以下の証拠を証拠申請した[新聞 62]。
- 1993年5月 - 11月、2度目の精神鑑定
- 弁護人側の申請を受けて1993年5月から11月までの約半年間にわたり福島による2度目の精神鑑定が行われた結果、1993年11月20日までに新たな鑑定結果が千葉地裁に提出された[新聞 63]。
- その鑑定結果内容は「被告人Sの母親Yが妊娠中に流産予防のため黄体ホルモンを約2カ月間服用したが、出生したSはその『胎児に対する男性化作用』により攻撃的な性格になり、突然感情を爆発させる『間欠性爆発性精神病質』で『周期性気分変調』と診断される。軽度の脳器質障害も見られ『興奮状態になる精神的な不安定さ』を有しているが、こうした心理・精神状態は中高年(30歳代)で矯正可能である」などというものだった[新聞 63]。
- 起訴前に検察側の依頼で行われた小田の鑑定と異なり、福島の鑑定は被告人Sの矯正可能性に重点を置いた点が特徴だった[新聞 63]。
- 一方で検察側は、事件から1年5カ月が経過した精神鑑定中の1993年8月に「被害者Bに対する期日外尋問」を行った[判決文 1]。「目の前で家族を皆殺しにされ、自らもその凄惨な現場で被告人Sの「通り魔ともいうべき獣欲の犠牲に供されて凌辱され、Sの一挙一動に肝を潰して神経を擦り減らし、泣訴哀願して幸いにも一命をとりとめた、身も凍るような筆舌に尽くしがたい恐怖と戦慄」を味わったBはこの尋問に対し「他の人が手に包丁を持ったまま振り向いたりすると『刺されるんじゃないか』と思って恐怖を感じる。夜はほとんど1人では出掛けなくなった」と、「その察するに余りある精神的衝撃の一端を窺わせる」供述をした[判決文 1]。その上でBは量刑などに関して「被告人Sに極めて厳しい意見」を述べた[判決文 1][新聞 83]。
- 1993年11月22日、第4回公判、精神鑑定結果取調べ
- 1993年11月22日、前回公判から約半年ぶりに第4回公判が開かれ、証拠調べが行われた[新聞 61]。
- 同日は福島による再度の精神鑑定の結果に加え、検察側が提出した被害者遺族の尋問調書などが証拠として取り調べられた[新聞 61][新聞 83][新聞 84]。
- 一方で検察側が同年8月に被害者Bに対して行い、被害者Bの「量刑などに関する被告人Sに極めて厳しい意見」が記録された尋問調書も証拠採用された[新聞 83]。
- この日の公判後、弁護人は記者会見で「被告人Sは通常時・犯行当時ともに精神的には正常であり性格に偏りがあるにすぎないが、尿酸値が高いという体質的要素から『自分の感情をコントロールする能力』・『刺激に寄って我を忘れやすくなる性格』が結びついている」と述べた上で「これまでの司法判断で言えば刑事責任能力は取れるが、今回は体質的な要素や、その要素は年齢を重ねるにつれて改善されるものであることを考慮して、犯行当時未成年であった被告人Sの情状酌量をすべきである」と主張した[新聞 84]。
- 同日、次回以降の公判予定に関しては以下のように指定された。
- 1994年1月31日、第5回公判、情状証人尋問
- 翌1994年(平成6年)1月31日に開かれた第5回公判で証人尋問が行われ、被告人Sの母親Yが弁護人側の情状証人として出廷した[新聞 85]。
- Yは『前回公判で弁護人側が提出した精神鑑定の結果」に関して「『妊娠中に常用していた黄体ホルモンの影響で息子Sの性格が攻撃的なものになった』と聞いて驚いた。家庭の事情による度重なる転校で学校でのいじめもあったようだ」と証言した[新聞 85]。
- この後、被告人Sは被告人質問で「犯行当時は自分の行動が理解できなかった。今は(当時被告人Sが収監されていた)千葉刑務所拘置区内で聖書を読むなどして心を落ち着かせている」と語った[新聞 85]。
- 次回公判(1994年2月23日、第6回公判)では論告求刑を予定していたがその予定を変更し、同日にそれぞれ最後の被告人質問・証拠調べを行った上で、1994年3月14日に改めて検察側の論告求刑を行うこととなった[新聞 85]。
- 1994年3月14日、第7回公判、被告人質問
- 1994年3月14日に第7回公判が開かれ、当初の論告求刑の予定を再び変更して被告人質問が行われた[新聞 86]
- 被告人Sは「犯行に至った経緯・心境」「取り調べ状況」などについて質問を受けて「事件当初は空き巣目的で計画的な強盗ではなかった」などと強調した[新聞 86]。
- この日の公判で証拠調べが終了し、次回公判(第8回公判、1994年4月4日)で検察側の論告求刑を行うこととなった[新聞 86]。前述した通り論告求刑公判は当初の予定では1993年6月21日だったが[新聞 62]、1994年2月23日[新聞 61]、同年3月14日[新聞 85]、そして同年4月4日と結果的に3度にわたり予定が変更された[新聞 86]。
- 論告求刑までの検察側・弁護人側動向
- 千葉地検は論告求刑を前に上級庁である東京高等検察庁とも慎重に協議を済ませた上で後述の死刑求刑に臨んだ[新聞 87]。
- 千葉地検は「自己中心的かつ短絡的な動機」「現場マンションを事前に下見するなどの計画性」「事情が分からないままベッドの上で泣き出したEをBの目の前で刺殺するなど、残虐極まりない犯行の態様」などを踏まえた[新聞 87]。
- その上で「犯行に斟酌すべき点はなく残虐な犯行により4人の生命を奪った刑事責任は重大だ」と考え「計7回の公判で立証は十分になされた」とした上で「被害者遺族であるBの心情」も踏まえ論告求刑に臨んだ[新聞 87]。
- 一方で弁護人側は起訴事実に対して「被害者が外に逃げ出したり、声を出したりするのを恐れて刺した」として確定的殺意を否定した上で「強盗殺人罪の成立はCのみで、Aは強盗致死罪・Dは傷害致死罪・Eは単純殺人罪の適用が相当だ」と訴えた[新聞 87]。また前述の精神鑑定の結果や「不遇な生育環境により、被告人Sの暴力的性格が形成された」ことなどを主張した[新聞 87]。
- 千葉地検は「自己中心的かつ短絡的な動機」「現場マンションを事前に下見するなどの計画性」「事情が分からないままベッドの上で泣き出したEをBの目の前で刺殺するなど、残虐極まりない犯行の態様」などを踏まえた[新聞 87]。
- その上で以下のようなさまざまな情状を訴えた[新聞 87]。
- 被告人Sは犯行当時19歳・判決時点でも21歳の若年であり、その改善更生の余地が皆無とは言えない[判決文 1]。
- 被告人Sは最終弁論までに一応は反省の態度を示し、殺害した被害者の冥福を祈っている[判決文 1]。
- 被告人Sの母親Yは、接触を拒否された被害者Bを除く各余罪の被害者に対してはいずれも誠意ある謝罪をした上で、所有するマンションを売却するなど可能な限りの方法で資金を作り以下のように示談をした[判決文 1]。
- 1991年10月19日の江戸川区内における傷害事件の被害者男性に対し、示談金45万円を支払って示談が成立した[判決文 1]。
- 1992年2月11日未明の中野区内における傷害・強姦事件の被害者女性に対し、示談金155万8475円を支払い示談を成立させた[判決文 1]。
- 1992年2月25日未明の市川市内における傷害・恐喝事件の被害者男性に対しては示談成立に至らなかったが、治療費・休業損・慰謝料の内金として50万円を現金書留郵便で送付した[判決文 1]。
- 1992年2月27日未明の埼玉県岩槻市内における傷害・窃盗事件の被害者男性に対しては、上に同じく合計50万円を送付するなどして被害弁償に努めた[判決文 1]。
- 被害者A一家に対する関係においても、その菩提寺に被害者の墓参りに訪れた上、供養のための喜捨をするなどして被害者の冥福を祈った[判決文 1]。
- 1994年4月4日、第8回公判、検察側論告求刑・被告人Sに死刑求刑
- 1994年4月4日、千葉地裁(神作良二裁判長)で第8回公判となる論告求刑公判が開かれ、検察側は被告人Sに死刑を求刑した[新聞 88][新聞 89][新聞 90][新聞 91][新聞 92][新聞 93][新聞 94][新聞 95][新聞 96]。
- 少年犯罪に対する死刑求刑は異例で[新聞 96]1989年1月・名古屋アベック殺人事件の第一審(名古屋地裁)以来だった[新聞 88]。
- 検察側は論告で、まず他事件の事実関係について述べた上で一家殺害事件の詳細に入り、以下のような事実から被害者4人全員への確定的な殺意・強盗殺人罪の成立を主張した[新聞 95]。
- また、被告人Sの責任能力についても「2度の精神鑑定から、弁護人側が主張するような精神疾患の兆候は全く認められない」と完全責任能力を認める主張をした[新聞 95]。
- その上で犯行動機・態様について以下のように主張し、以下のように「被害者の断末魔の苦痛」を代弁して犯行を厳しく非難した[新聞 91]。
- 被告人Sは金欲しさから短絡的な犯行に及び、手段を選ばない自己中心的な動機から、下見をするなどした上で計画的に被害者宅に押し入った[新聞 89][新聞 95]。
- 何ら落ち度のない被害者4人を「虫けらを殺すかのように」次々と惨殺し、わずか半日でマンションの一室を死屍累々の地獄にした[新聞 89][新聞 95]。
- 被害者一家4人が非業の死を余儀なくされ、特に妻Dは娘2人の生命を気遣い、まさに死に切れぬ思いでこの世を去った。男性Aも可愛い娘たちを守ることができず、その恐怖・驚愕・断腸無念の思いは筆舌に尽くしがたい[新聞 95]。
- 尋問調書でBが述べた、被告人Sに対する極刑を望む言葉も読み上げた[新聞 94][新聞 91]。
「今でも両親らとの楽しかった思い出を夢に見る。私から大切なものをすべて奪ったSが憎くてたまらない。Sをこの手で殺してやりたいし、Sはこの世に生きていてほしくない。Sは許されていいはずがない。優しかった父母や祖母、自分に『お姉ちゃん』と甘えてかわいかったEをなぜ殺した。家族を返せ」[書籍 2]
- そして検察官は約1時間に及んだ論告の最後に以下のように主張して「死刑が妥当である」と結論付けた。
- 一連の犯行は全て被告人Sの単独犯行であり、少年犯罪にありがちな「集団を形成し、相互に同調し合って重大事件を引き起こした場合」とは性格が異なる[新聞 96]。
- 本件は計画強盗事件の凄惨な結果であり、犯行は残忍・冷酷・卑劣の極みであって誠に悪質だ[新聞 90]。
- 少年に対する極刑の適用はとりわけ慎重になされるべきであることを考慮しても[新聞 94][新聞 90]、被害感情・動機・犯行態様・被害者数など、永山基準で示された死刑適用基準をすべて満たしていることから明らかなように被告人Sの刑事責任は誠に重大で[新聞 94]、情状酌量などにより罪一等を減ずる余地は一片も見出すことはできない[新聞 94][新聞 90]。
- 「罪刑の均衡と犯罪予防の見地から命をもって罪を償わせ、今後このような凶悪犯罪が起きないようにすること」が司法に課せられた責務だ[新聞 94][新聞 92][新聞 96]。
- 公判後に記者会見した被告人Sの主任弁護人・奥田保弁護士は以下のように述べた[新聞 88][新聞 89][新聞 92][新聞 95]。
- 前述の「少年犯罪なら死刑にはならない」という考えも虚しくこの論告求刑公判で死刑が求刑されたことにより、この時まで被告人Sが「密かに抱いていた少年犯罪へのお目こぼしと将来への希望」は「木っ端微塵に砕け散ることとなった」[書籍 43]。
- 1994年4月27日、第9回公判、追加の証拠調べ
- 1994年4月27日の第9回公判では当初、弁護人側の最終弁論が行われる予定だったが、予定を変更して追加の証拠調べが開かれた[新聞 97][新聞 98][新聞 99]。
- 同日の公判では弁護人の請求に基づく被告人質問・証拠調べが行われ[新聞 99][新聞 98]、「被告人Sの死刑求刑後の心情など」に関する追加で被告人質問が実施されたほか、以下の証拠が新たに証拠採用された[新聞 98]。
- 被告人質問で被告人Sは死刑求刑に関して「自分の犯してしまった罪の重さを痛切に感じている」と心境を述べた上で「死刑求刑以降は拘置所で監房を変えられ、シーツの使用、タオル・鉛筆の所持など生活に関して以前より制限がある」ことを明らかにしたが、検察側の「変わったことはあなたのことを思っているのですよね」との質問に「理解できます」と答えた[新聞 99]。
- 弁護人側は証拠提出で「検察側が起訴前に精神鑑定を依頼した小田晋教授は精神鑑定前から週刊誌の記事上で『死刑を適用すべき』と言及するなど偏見があり信憑性がない」と反論した[新聞 99][新聞 98]。
- 「死刑廃止を求める動きを報じる新聞記事」・Sの母Yからの「情状酌量を求める上申書2通」などが新たに証拠採用された[新聞 99][新聞 98]。
- さらに弁護人は「死刑廃止に向けた超党派の国会議員の連盟『死刑廃止推進議員連盟』の結成」など「死刑制度の在り方を問う社会的な潮流があること」を主張した。
- 1994年6月1日、第10回公判、弁護人側最終弁論
- 1994年6月1日に開かれた第10回公判で改めて弁護人側の最終弁論が行われ、この日をもって第一審公判が結審した[新聞 100]。
- 弁護人側は「被害者4人への確定的殺意・C以外3人への強盗殺人罪の成立」をいずれも否認して以下のように主張した[新聞 100][新聞 101]。
- また「被告人Sの責任能力」に関しては福島の精神鑑定に基づき「被告人Sは爆発型精神病質・類転換病質で、犯行当時は心神耗弱状態だった」と主張した[新聞 100][新聞 101]。
- その上で、情状面についても以下のように主張し、死刑回避・情状酌量による無期懲役の適用を求めた[新聞 100][新聞 102][新聞 101]。
- 被告人Sの母親Yが各被害者への示談成立・供養をしている[判決文 1]。
- 死刑廃止は先進国際社会の常識で、死刑制度がある先進国は日本以外ではアメリカ合衆国の一部州のみである[新聞 100][新聞 101]。
- 少年法で18歳未満の少年への死刑適用は禁じられているが、被告人Sは犯行当時19歳で18歳とわずか1年1か月しか違わない[新聞 100][新聞 101]。
- 事件は計画的なものでなく、被告人Sは当時精神未発達の少年だった[新聞 102]。
- 被害者はSの犯行の合間に警察に通報する機会があった[新聞 102]。(※なお実際には、本文中で述べたように被害者BはSによって脅迫されて監禁状態に置かれていた)
- 被告人Sは少年時代不幸な生育環境にあった[新聞 102]。
- 被告人Sは深く反省しており、矯正する可能性が高い[新聞 102]。
- 最後に被告人Sは、神作裁判長から「何か言いたいことはあるか」と問われて「大変な事件を起こして申し訳ない。私が命を奪った方々は戻ってこないけれど、私はこれから生きていく中で少しでも償うように過ごしていきたいと思っている」と涙声で述べた[新聞 100][新聞 102][新聞 101]。
- しかし被告人Sは判決前には「被害者に申し訳ない」と弁護人に話し宗教書などを読んでいた一方で、これまでの公判では心情を吐露することなく「被告人質問における供述も相手任せだったり、自分の言葉で深い心情を語らなかったり」と「自らの生死を決する裁判の進行もまるで他人事と受け止めているかのような姿勢」に終始していた[新聞 103]。
- 1994年8月8日、第11回公判、被告人Sに死刑判決
- 1994年8月8日に判決公判が開かれ[新聞 104]、千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)は検察側の求刑通り被告人Sに死刑判決を言い渡した[判決文 1][書籍 2][書籍 23][新聞 105][新聞 103][新聞 106][新聞 107][新聞 108][新聞 109][新聞 110][新聞 111][新聞 112][新聞 113][新聞 114][新聞 115][新聞 116]。
- 各罪状における量刑選択の内訳は以下の通りであったが、実際に適用された刑は「両親・妹Eに対する強盗殺人・殺人罪に対する死刑」及び「押収された折り畳みナイフ1丁(平成5年押収第52号の2)の没収」のみで、刑法第51条(併合罪)の「死刑を執行すべきときは没収を除き他の刑を執行しない」という規定により、それ以外の刑は科されなかった[判決文 1]。
- 判決理由における事実認定では被害者Eに対する殺害行為のみ「既に強盗行為はこの時点までに終わっており、それ以前の強盗殺人の発覚を防ぐためだとしても強盗殺人罪ではなく別の殺人罪に該当する」として、被告人Sの弁護人の主張を認め「強盗殺人罪ではなく単純殺人罪」と事実認定した[判決文 1][新聞 105][新聞 108][新聞 107][新聞 110]。しかしそれ以外の事実認定は検察側の主張にほぼ沿った内容で、Bの両親(A・D夫妻)については「公判での証言・各種証拠などからAへの殺意は明白である。Dの死も予見が可能だったのに、何ら救命措置を行わず金品強奪を企てた」などとして、被害者Cと同様に強盗殺人罪を認定した[判決文 1][新聞 105][新聞 108][新聞 107][新聞 110]。
- 各被害者に対する殺害行為の罪状・殺意の認定は以下の通り。
各被害者に対する殺意・罪状の認定[判決文 1] 被害者 判決の事実認定 検察側主張 弁護人側主張 祖母C 確定的殺意・強盗殺人罪 確定的殺意・強盗殺人罪 未必的殺意・強盗殺人罪 母親D 未必的殺意・強盗殺人罪 無殺意・強盗致死罪 父親A 確定的殺意・強盗殺人罪 妹E 確定的殺意・殺人罪 未必的殺意・殺人罪
- なお弁護人側は「Sの胎児期に母親Yが流産予防薬として服用した黄体ホルモンの影響で、Sは『爆発的精神病質者』であり犯行当時は心神耗弱状態だった」と主張していたが[書籍 2]、これに対して千葉地裁は「2度の精神鑑定から『心神耗弱だった』と断言するのは困難で、『爆発的精神病質者』との鑑定があるが責任能力に支障をきたすほどではなかった」として退け『責任能力は問題なくあった」と結論付けた[判決文 1][新聞 105][新聞 107]。
- 次に量刑理由で「国際的にみると、それぞれの国の歴史的・政治的・文化的その他の事情から、現在死刑制度を採用していない国が多く、我が国においても一部に根強い死刑反対論がある」として「死刑事件では初めて死刑制度を巡る国内外の議論について言及」し国内外の死刑廃止論の高まりを認めた一方で以下のように述べた[新聞 111]。
- その上で千葉地裁は死刑適用に当たり永山則夫連続射殺事件における1983年の最高裁判所判例「永山基準」を引用した上で[新聞 112][新聞 109]、以下のように犯行を非難し「深く反省していることや、事件当時精神的に未熟な少年だったこと、不遇な家庭環境など被告人Sに有利な情状を考慮しても罪刑均衡・一般予防の見地から極刑をもって臨まざるを得ない」と結論付けた[判決文 1][新聞 107][新聞 109][新聞 112]。
- 何の落ち度もない被害者一家4人の命を奪った犯行は「意に沿わないものは人の命でも奪う」という自己中心的・反社会的なもので[新聞 112]、残虐・冷酷で身勝手だ[判決文 1][新聞 107]。殺害ぶりも終始冷静・冷酷非道で社会に与えた衝撃は計り知れない[判決文 1][新聞 108][新聞 112]。
- 犯行当時少年とはいえ、被告人Sは犯行当時は民法上成年とみなされる19歳の年長少年であった[判決文 1][新聞 112][新聞 109][新聞 107][新聞 108]。被告人Sは肉体的にも十分成熟して社会経験も積んでおり、知能も中位で酒やたばこを常用するなど生活習慣も成年と変わらない[判決文 1][新聞 112][新聞 109][新聞 107][新聞 108]。
- 被告人Sは深く反省して被害者の冥福を祈るなど「更生の余地がない」とは言えないが、目の前で家族を次々に殺され一人遺された被害者Bの被害感情は峻烈で、被害者一家に対する被害は回復不可能だ[判決文 1][新聞 105][新聞 108]。
- 死刑廃止を求める議論が活発になっていた当時、世論の注目の中で犯行当時少年の被告人に死刑判決が言い渡された本事件判決はその後の刑事裁判にも影響を与えるものだった[書籍 44]。
- 永瀬隼介は本判決に関して「被告人Sは死刑判決を受けたことで初めて一家4人殺害の罪の重さを受け止め『犠牲者の苦痛と身も凍る恐怖』を知ることとなった。同時にそれまでの被告人Sが逮捕されてから口にしていた反省の言葉も全ては『偽善』であったことを突き付けた」と表現した[書籍 43]。
- 被告人S・弁護人が即日控訴
- 閉廷後の記者会見で被告人Sの弁護団(主任弁護人・奥田保)は「犯行時に被告人が未成熟だったことなどを否定し、世界的な死刑廃止の潮流に逆行して被害の重大性のみに目を奪われた量刑であり極めて遺憾だ」と感想を述べた[新聞 103]。
- その上で被告人S・弁護人は判決を不服として、閉廷後の同日午後に東京高等裁判所に即日控訴した[新聞 105][新聞 117][新聞 118][新聞 119]。
- 死刑判決に対する反応
-
- 肯定的な反応
- 千葉地検次席検事・三谷紘は、「こちら側の主張をほぼ認めた判決だ。量刑も求刑通りで妥当だが、一部の点(次女Eに対する単純殺人罪認定など)で主張と異なる事実認定がされており、そちらについては対応を検討したい」と述べた[新聞 105]。
- この死刑判決について、中央大学教授(当時)・渥美東洋は被害者の立場から本判決を「自己目的の完遂に他人の犠牲をいとわぬ犯行で19歳への死刑適用は合法であり当然だ。家族すべてを失いただ一人生き残った長女Bが『あんな男は生きていてほしくない』と語ったように、被告人Sを死刑にしなければ被害者遺族はさらに苦しむことになる」と評価した[新聞 103]。
- 事件発生時に被疑者Sを実名報道した『週刊新潮』の副編集長(当時)・宮沢章友は「無辜の人を冷酷に殺していく犯罪に『少年だから』という理由で保護すべき要素は微塵もない」と振り返った[新聞 103]。
- 日本大学教授(当時・刑法)・板倉宏は本事件・本判決に関して「1人で次々と4人を殺害した残虐性を考慮すれば犯行当時19歳の少年だったとしても死刑はやむを得ない。もしこれが死刑でなければ最高裁の基準(永山基準)を無視することになるし、死刑制度を否定してしまうのだから妥当な結論だろう」と見解を示した[新聞 103]。
- 同日は真夏の暑さの中、一般傍聴席25席分の傍聴券を求めて判決に関心を持つ市民・学生ら174人が千葉地裁前に並び、本事件への市民らの関心の高さを窺わせた[新聞 106]。
- 否定的な反応
- 一方でアムネスティ・インターナショナル日本支部・岩井信は「死刑廃止論が高まっている現状においてあえて少年に死刑を科するならば裁判所はその理由を積極的に示すべきだ」と述べ死刑判決に否定的な見解を示した[新聞 103]。判決を傍聴した同支部のメンバーも『千葉日報』の取材に対し「今年に入り一審で死刑判決が言い渡される事例が増えているが、今回はあくまで少年事件でありもっと事実関係を検証すべきだ。『結婚歴があるから一人前』とは言い切れない」と語った[新聞 106]。
- 当時名古屋アベック殺人事件の被告人の主任弁護人を務めており、後に本事件上告審・再審請求で被告人・死刑囚Sの弁護人を務めた弁護士・安田好弘も「被害者感情から死刑判決を出すのは簡単だがそこから社会が学ぶものは何もない。10回の公判で大人社会が少年を絞首刑にする結果となったが、法廷で少年が心を開いたとは思えない。犯行へ至る心のひだを解明すべきだ」と述べ、「死刑の是非」以前に「裁判そのもの」に疑問を呈した[新聞 103]。
- 明治大学教授(当時・刑事法)・菊田幸一は「世界的には死刑廃止が潮流となっているにも拘わらず裁判官は『量刑基準』から機械的に死刑判決を言い渡しており誠に遺憾だ。裁判官には苦しいだろうが『死刑を選択しないぎりぎりの決断』を期待していた。死刑に凶悪犯罪への抑止力はなく、加害者Sを抹殺しても被害者感情を満足させる結果にはならない」と本判決を批判した[新聞 103]。
- 精神科医・作家のなだいなだも「一家4人が殺害された衝撃的な犯罪だが、被害者感情から死刑を肯定する考え方がある日本では裁判で見せしめのような判決が下ることが多い。死刑は結局報復であり新たな対立を招くだけだ。被告人の生い立ちなどの問題に目を向けず、精神的に未成熟な少年当時の犯行に死刑判決を安易に下すべきではない」と本判決を批判した[新聞 103]。
- 少年法に詳しく、少年事件研究会を主宰していた國學院大学教授・沢登俊雄(刑事法)は「本件のような事件が発生すると、『少年事件全体が凶悪化しており、厳罰化が必要だ』という論調が生まれやすいが、これは本質を見失うものだ」と述べた上で「被害者の立場に思いを言わすなら、死刑回避の決断は容易ではない。裁判官の勇断を期待するには、死刑適用基準の1つである『被害者の処罰感情』を緩和するため、国を挙げて思い切った被害者救済制度の確立に取り組むことが必要不可欠だ」と指摘した[新聞 112]。
- 「死刑制度廃止推進議員連盟」(会長・田村元)は同日、二見伸明事務局長名義で「少年法の精神に則り『被告人の今後の生きるべき指針となる判決』を期待したが、死刑判決には失望を禁じ得ない。この判決を気に被害者遺族への補填・救済の在り方を見直すとともに死刑存廃問題について真正面からの議論を期待したい。そのために死刑に関する情報を公開し死刑執行を一定期間停止する時限立法を制定すべきだ」と声明を発表した[新聞 106]。
控訴審・東京高裁
- 控訴審における弁護人側主張
- 東京高等裁判所にて開かれた控訴審で弁護人側は以下のように「被告人Sの殺意は『未必の故意』もしくは存在しなかったにも拘らず、原判決は『確定的な故意がある』と事実誤認をしている」と主張した[新聞 120][新聞 121]。
- また第一審における「爆発的精神病質者」という主張に関しては[新聞 121]アメリカ合衆国の心理学者[新聞 121]・ライニッシュの論文を添えて補強した上で[判決文 2]改めて完全責任能力を否定する主張を展開した[書籍 2][新聞 121]。
- その上で「世界的な死刑廃止運動」「18歳未満への死刑適用を禁じた少年法の趣旨」を強調した上で、以下のような観点から「死刑判決を破棄して無期懲役刑を適用するのが相当である」とする旨を主張していた[新聞 122][新聞 120]。
- 1996年7月2日、控訴審判決公判、二審も死刑判決(被告人・弁護人側控訴棄却)
- 1996年(平成8年)7月2日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁(神田忠治裁判長)は第一審の死刑判決を支持して被告人S・弁護人の控訴を棄却する判決を言い渡した[判決文 2][新聞 124][新聞 123][新聞 122][新聞 120][新聞 125][新聞 121]。
- 東京高裁は「犯行当時は少年であり、年齢を重ねれば教育によって改善の可能性はある」と被告人Sに対して有利な情状も認定したが[新聞 122][新聞 125][新聞 121]、以下のような様々な情状の認定により、死刑を回避するには至らなかった[判決文 2]。
- 被害者の傷の深さ・犯行後に救命措置を考えていないことなどから原審の殺意認定は正当である[判決文 2][新聞 120]。
- 弁護人側の主張する『黄体ホルモンの影響による心神耗弱』の根拠である学者の研究はあくまで「性格的な傾向を見る」にとどまり、攻撃性の異常な増加を示してはいない[判決文 2][新聞 121]。
- 弁護人は被告人Sが犯行当時「爆発的精神病質者」であったことを主張しているが、被告人Sは犯行当時異常な心理状態にあったとは考えられない[判決文 2][新聞 120][新聞 121]。被告人Sは本事件前から粗暴な犯行を重ねており「自己の衝動・攻撃性を抑制しようとしない危険な傾向」が顕著である[判決文 2][新聞 125]。
- 犯行動機・殺害方法・殺害された被害者数に照らして責任は誠に重大で、特に幼くして命を奪われた幼女(E)には深い哀れみを禁じ得ない[判決文 2]。
- その上で東京高裁は量刑理由で「『犯行当時19歳の少年だったこと』「深い反省をしていること」など『被告人の有利な事情を十分に考慮』し死刑が究極の刑罰であることを考えても、犯した罪の重大性を見ると犯行は卑劣・残虐であり生命に対する畏敬の念を見い出せない。その罪の重大性から死刑に処すのはやむを得ない」と結論づけた[判決文 2][新聞 123][新聞 120][新聞 122][新聞 125][新聞 121]。
上告審・最高裁第二小法廷
- 2001年3月5日まで、上告審口頭弁論公判期日指定
- 最高裁判所第二小法廷(亀山継夫裁判長)は事件発生から丸9年となる2001年(平成13年)3月5日までに、上告審口頭弁論公判開廷期日を「2001年4月13日」に指定して関係者に通知した[新聞 126][新聞 127][新聞 128][新聞 129]。
- 2001年4月13日、上告審口頭弁論公判
- 2001年4月13日、最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれた[新聞 130][新聞 131][新聞 132][新聞 133][新聞 134][新聞 135]。
- 控訴審で死刑判決を言い渡された犯行当時少年の被告人に関する審理が最高裁で行われたのは永山則夫の第二次上告審以来だった[新聞 130][新聞 133]。
- 弁護人側は以下のように死刑判決を破棄するよう求めた上で「無期懲役への減軽・もしくは審理の差し戻しが妥当だ」と主張した[新聞 130]。
- しかしこの公判を傍聴した永瀬隼介は当時の状況を「弁護人側の主張はさして耳目をひくような事柄ではなくまったく説得力のない弁護の連続だった。法廷内には白けた空気が充満していた」と記した[書籍 45]。
- 一方で検察側は以下のように死刑判決の正当性を主張して被告人S・弁護人の上告棄却を求めた[新聞 130]。
- 2001年11月13日まで、上告審判決公判期日指定
- 当初は「2001年夏までに判決が言い渡される見通しだ」と報道されたが[新聞 130][新聞 133][新聞 134]、「最高裁で弁論が開かれた段階」で新たに弁護人に就任した弁護士・安田好弘が他の弁護人2人とともに「事実認定を全面的に洗い直す必要がある」として最高裁第二小法廷に弁論再開の申し立てをした[書籍 46]。しかし申し立ては認められず、安田は上告審判決を前に被告人Sと面会した際に「とにかく生き延びよう。生きるために戦い続けよう」と約束した[書籍 46]。
- 2001年11月13日までに最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)は上告審判決公判開廷期日を「2001年12月3日」に指定して関係者に通知した[新聞 136][新聞 137][新聞 138]。
- 2001年12月3日、上告審判決公判、被告人Sの上告棄却判決、死刑判決が事実上確定
- 2001年12月3日に最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)で上告審判決公判が開かれ、同小法廷は一・二審の死刑判決を支持して被告人S・弁護人側の上告を棄却する判決を言い渡したため、被告人S(当時28歳)の死刑が確定することとなった[判決文 3][新聞 139][新聞 140][新聞 141][新聞 20][新聞 142][新聞 143][新聞 73][新聞 144][新聞 145][新聞 146][新聞 147][新聞 148][新聞 149][新聞 150][新聞 151][書籍 23][書籍 47]。
- 同小法廷は判決理由で「弁護人側の主張は適切な上告理由に当たらない。被告人Sは暴力団関係者から要求された金銭を工面するために強盗殺人を犯しており、その動機に酌量の余地はない。犯行は冷酷かつ残虐で、自らも被害者となった遺族Bの被害感情も非常に厳しい。4人の生命を奪った刑事責任は極めて重大で被告人Sの犯行当時の年齢などを考慮しても死刑はやむを得ない」と述べた[判決文 3]。
- 犯行当時少年の被告人に言い渡された死刑判決が確定するのは1990年に最高裁で死刑が確定した永山則夫(永山則夫連続射殺事件)以来、最高裁が統計を取り始めた1966年以降では9人目で[新聞 139][新聞 141][新聞 20][新聞 143][新聞 73][新聞 145][新聞 148][新聞 149]、平成に入って発生した少年犯罪では初めてであった[書籍 1]。
- 2001年12月、判決訂正申し立て棄却により被告人Sの死刑判決正式確定
- 被告人S・弁護人は上告審判決を不服として最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)に判決訂正申し立てを行ったが、この申し立ては同小法廷が2001年12月21日までに出した決定で棄却されたため、犯行当時少年としては永山以来となる死刑判決が正式に確定した[新聞 152][新聞 153][新聞 154][新聞 155][新聞 156][新聞 157]。
- 本事件は「死刑適用について判断が分かれる傾向が強い」少年犯罪でありながら第一審・控訴審・上告審と一度も死刑が回避されることなく、一貫して死刑判決が支持された上で確定する結果となった[新聞 158][新聞 12][新聞 13][注釈 5]。これにより死刑囚Sは戦後日本で37人目(永山則夫連続射殺事件の最高裁判決以降、および平成の少年事件では初)の少年死刑囚となった。
死刑確定前後から死刑執行まで
- 被告人Sが上告中に中日新聞社へ送った手記
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- 2000年7月の手記
- 被告人Sは最高裁上告中の1997年から『東京新聞』(中日新聞社)社会部記者・瀬口晴義と文通をしていた[新聞 34][新聞 159]。被告人Sは瀬口との手紙・面会で「獄中生活で体重が120kgを超えた」ことを嘆く一方、大腸がんを患った瀬口を本気で気遣うなど「礼儀正しい性格」だった[新聞 15]。
- 同年に発生した神戸連続児童殺傷事件を受けて「少年法改正論議」が沸騰したころ、被告人Sは瀬口宛の手記で「大人と同じように刑罰を下したところでいじめ・恐喝・リンチ殺人などなくならないどころか『これまで以上に陰湿なやり方』が増えるだけだ」として「少年法を改正しても凶悪少年犯罪が減少することはない」という考えを示した[新聞 34][新聞 159]。
- 中日新聞社が発行する『中日新聞』・『東京新聞』両紙はそれぞれ2000年7月29日夕刊に「被告人Sから送られた手記の内容」を掲載した[新聞 34][新聞 159]。その趣旨は以下の通り。
- 当時、収監先の東京拘置所で「570番」と呼ばれていた被告人Sは「狭い独房で壁に向き合う孤独な日々を過ごしていた」[新聞 34][新聞 159]。恵まれない家庭環境・小学生時代のいじめの経験を吐露した上で以下のように主張した[新聞 34][新聞 159]。
- 「犯行当時は少年法など熟知しておらず『法律など眼中にない衝動的な犯行』だった。いちいち『少年法』とか『死刑にならない』とか考えながら事件を起こすならもっと頭を使って『指紋が残らないように軍手をはめる』などしている。高校も満足に行っていないような人間に少年法の中身を丁寧に教えてくれる人がいると思いますか?」[新聞 34][新聞 159]。
- 「精神鑑定を担当した精神科医・教誨師として面会に訪れてくれた修道会関係者との関わりなどを機に罪を正面から受け止められるようになった。『己の罪深さを恥じ真に償いを求める』ならば私は自分の将来を求めてはいけないと思います」[新聞 34][新聞 159]。
- 「義務教育の9年間は一度も無邪気にはしゃいだ記憶がないし、尊敬できる先生には一人も出会えなかった。小学校高学年時代はいじめを受け、痣だらけにされて過ごした辛い時期だった。人生をやり直すならそれより前まで戻らないと同じことをしてしまうと思う」[新聞 34][新聞 159]。
- 「凶悪な少年犯罪を生む素地は『大多数の負け組の上に、一握りの勝ち組が君臨する社会構造』にある。現代は『金か能力のある者』だけが『正義』と持て囃されて勝ち誇る社会だ。子供でも『一部の裕福で恵まれた人間』以外は夢も希望も見ることもできない」[新聞 34][新聞 159]。
- 2001年12月、最高裁判決を前にした手記
- 被告人Sは最高裁判決期日の2001年12月3日までに中日新聞社に手記を寄せた、判決を伝える『中日新聞』・『東京新聞』両紙それぞれの2001年12月4日朝刊記事で以下のような内容が掲載された[新聞 141][新聞 20][新聞 160][新聞 161]。
- 「千葉地裁・東京高裁と二度の死刑判決を受けたことで『生き恥を晒し続けて自分の家族にさえ迷惑をかけるくらいなら早く死んで消えてなくなりたい。それで早く生まれ変わって新しくやり直す方が楽だろう』と、安易な自暴自棄に陥っていたころもあった」[新聞 20]
- 「しかし僕を見た多くの人から『死んでおしまいなどというのはずるい』『生きて償うべきだ』と言われたことで『「生きていなければ感じられない苦しみ」を最後の瞬間まで味わい続けよう』と改めて決意した。最後まで生き抜いて罪を贖える方法を模索したい」[新聞 20]
- 「僕の経験を反面教師として役立ててもらえば『この世に生まれてきたことに少しでも意味があった』と言えるかもしれません」[新聞 20][新聞 160][新聞 161]
- 中日新聞社から取材を受けた関係者によれば当時の被告人Sは「死刑確定を覚悟しつつも判決までの数日間は落ち着かない様子」だった[新聞 20]。なおこの手記は最高裁判決から9年後の2010年11月28日に石巻3人殺傷事件の刑事裁判にて「裁判員裁判で初めて犯行当時少年の被告人に死刑判決が言い渡された」ことに関して言及した『中日新聞』朝刊コラム「中日春秋」・『東京新聞』朝刊コラム「筆洗」でそれぞれ引用された[新聞 162][新聞 163]。
- 瀬口は死刑執行後の『中日新聞』2018年3月4日朝刊特集記事で生前の死刑囚Sの印象に関して「『獄中で相対した際の印象』と『残虐非道な犯行の差』が最後まで埋まらなかった。Sが口にした懺悔の言葉が『本心からの言葉』なのかは今でもわからないが『自分の命をもってしても償いきれない罪』の大きさを自覚していたとは思う」と振り返った[新聞 15]。
- 被害者の遺骨が納骨された寺の住職と死刑囚Sの交流
- 死刑囚Sは2006年、被害者4人の遺骨が納骨された熊本県内の寺の住職に対し、2500字の写経を書いて手紙として送った[新聞 15]。この住職は死刑囚Sの母親らに依頼され、1993年(事件翌年)に当時公判中で千葉刑務所にいた被告人Sと初めて面会した[新聞 15]。
- 住職は中日新聞社の取材に対し「面会した当初は犠牲者の無念を思ってアクリル板越しに被告人Sへ怒りをぶつけたくなったこともあったが、第一審で死刑判決が言い渡されて以降の被告人Sは『生と死の境に立ち、命の重みを考え始めたのかもしれない』と思うようになった」と述懐した[新聞 15]。住職はその後、被告人・死刑囚Sと面会するたびに被害者の供養を頼まれて「許すかどうかはさておき『罪の大きさに苦しんでいる』ことはわかった」と願いを聞き入れた[新聞 15]。
- 死刑執行翌日の2017年12月20日、住職は死刑囚Sの供養を行ったが戒名は与えなかった[新聞 15]。住職は死刑執行後、中日新聞社の取材に対し「宗教家として死刑執行を肯定こそしないが、被害者遺族の悲嘆を目の当たりにすれば死刑執行は『因果応報』とも思う」と答えた[新聞 15]。
- 死刑囚Sの再審請求
- なお「死刑廃止の会」(2006年当時)による[書籍 3][注釈 6]「1993年3月26日以降の死刑囚についての調査(2006年9月15日付)」によれば、東京拘置所に収監されていた死刑囚Sは[書籍 49]2005年8月1日から2006年9月15日までの間に千葉地裁に再審請求を起こしたことが判明した[注釈 7][書籍 3]。
- 死刑確定後、上告審で弁護人を務めていた弁護士が「犯行当時、死刑囚Sは心神喪失状態だった」と主張して千葉地裁に第一次再審請求を申し立てた[書籍 46]。この時の新証拠は「(確定判決で問題となった)上智大学教授・福島章の精神鑑定結果に加え、死刑囚Sの成育歴・脳のMRI検査結果も考慮した上で再度の精神鑑定を実施した結果、死刑囚Sには犯行当時の責任能力が認められない」というもので、さらに「MRI検査のやり直し」なども請求された[書籍 46]。
- 死刑囚Sは逮捕されてから死刑執行までの25年間(四半世紀)を獄中で過ごしていたが、弁護人・安田好弘によれば月命日には被害者4人への謝罪の祈りをして冥福を祈っていた[書籍 54]。これに言及した安田は死刑執行後、「彼自身の人生における獄中生活の長さを考えると、もう生き直したのと同じくらいの時間を獄中で生きてきたのだから、死刑執行の是非について再度検討する機会があっても良かったはずだ」と主張した[書籍 54]。
- 安田は最高裁で弁論再開を申し立てた他の弁護人2人とともに[書籍 46]「事実関係の面に関しても未解明の部分がある」として、事実面における係争を含めて想定した上で次期再審請求のための準備を進め再審請求書を作成していた[書籍 55]。その主張要旨は以下の通り。
- また死刑囚Sは死刑執行まで「上告審から弁護団に加わり、その後も再審請求の担当の弁護人を務めていた」[新聞 15]弁護士・一場順子弁護士と2カ月に1回ほど面会していた[新聞 164][新聞 165]。
- 生前の死刑囚Sが一場と最後に面会したのは2017年10月末で、一場は死刑執行直後に産経新聞などの取材に対し以下のように証言した。
- 無期懲役囚・石元太一の証言
- 一方で関東連合系の暴走族・「千歳台ブラックエンペラー」の元総長・石元太一(2018年現在懲役15年で服役中)は2018年3月9日付のブログで「被告人として東京拘置所に収監されていた際に死刑囚Sと同じフロアで生活していた」ことを明かした上で「死刑囚Sは生前に獄中で大暴れしたことがあったらしい」と証言した[その他 2]。
- 「死刑囚が施設内を移動する際には通常、刑務官1人が同伴するが、死刑囚Sの場合は必ず刑務官2人が同伴していた」ことを疑問に思った石元が近くの独居房にいた他の死刑囚に理由を尋ねたところ、石元はその死刑囚から「(Sが)過去に大暴れしたから」と教えられた[その他 2]。
- これに加えて石元は「死刑囚Sの独居房は常にフロアの一番奥で、屋外での運動時一番最初に部屋を出されて一番最後に部屋に戻されていた」など「死刑囚Sが他の収容者と顔を合わせる機会がないように厳重な警戒態勢が取られていた」と証言した[その他 2]。
死刑執行
- 2017年12月19日、東京拘置所で死刑囚Sほか1人の死刑執行
- 2017年(平成29年)12月19日、法務省(法務大臣:上川陽子、同年12月15日付署名)の死刑執行命令により[声明 1]収監先・東京拘置所で死刑囚S(44歳没)の死刑が執行された[声明 1][新聞 2][新聞 7][新聞 167][新聞 168][新聞 169][新聞 14][新聞 170][新聞 171][新聞 161][新聞 172][新聞 8][新聞 9][新聞 10][新聞 11][新聞 12][新聞 13][新聞 14][新聞 165][新聞 173][TV 1]。同日には同じく東京拘置所にて「1994年に群馬県安中市で3人を殺害して1999年に最高裁で死刑が確定した殺人事件の死刑囚」に対しても死刑が執行された[新聞 8]。
- 事件発生から四半世紀(25年)[TV 1]、死刑確定から16年が経過していた[新聞 174]。死刑囚Sは死刑執行直前、弁護人・一場順子宛の遺言として「裁判記録は(一場)先生の元へ」とだけ言い残していた[新聞 15]。
- 犯行当時少年だった死刑囚(少年死刑囚)に対し死刑が執行されたのは1997年に永山則夫の死刑が執行されて以来20年ぶりで[新聞 175][新聞 176][新聞 177][新聞 166]、法務省が死刑執行について「事案の概要などを公表するようになった2007年12月以降」ではこれが初の事例だった[声明 1]。また法務省は「犯行当時少年だった死刑囚Sの死刑執行」について実名で執行事実を公表した[声明 1]。
- 死刑執行当時、死刑囚Sは千葉地裁への第三次再審請求が棄却されたため東京高裁に即時抗告中だった[書籍 46]。当時は「再審請求中の死刑囚に対する死刑執行」は避けられる傾向が強く、近年では1999年12月17日(臼井日出男法務大臣の死刑執行命令により、福岡拘置所に収監されていた長崎雨宿り殺人事件の死刑囚を死刑執行)以来途絶えていたが、同年7月にスナックママ連続殺人事件の死刑囚(当時・大阪拘置所在監)に対し金田勝年法務大臣の命令で死刑が執行されて以来、2回連続で再審請求中の死刑囚が執行されたケースとなった[新聞 166]。翌2018年7月、オウム真理教事件の麻原彰晃ら死刑囚13人に対し「7月6日に麻原ら7人・26日に残る6人」と2度に分けて死刑が執行されたが、うち麻原を含む10人は再審請求中だったため、4回連続で「再審請求中の死刑囚に対する死刑執行」がなされた。
- 弁護人・一場順子は死刑執行を受けて『中日新聞』の取材に対し「解離性障害の可能性から『犯行当時の刑事責任能力の有無』を争って再審を請求していた」と証言したが[新聞 166]、法務省関係者は『読売新聞』の取材に対し「死刑囚Sは『過去に棄却された再審請求と実質的に同じ理由』で再審請求を繰り返していた」と証言した[新聞 170]。
- 死刑執行直後、死刑囚Sの母親は出先の病院で東京拘置所から死刑執行の連絡を受けて東京拘置所に向かったがいったんは東京拘置所職員から「『遺体を引き取る』と意思表示する必要がある」として遺体との対面を拒否されたため、最寄り駅の東武伊勢崎線・小菅駅のホーム上で待機していた[書籍 55]。その後、死刑囚Sの母親は偶然用事のために東京拘置所に向かっていた中で死刑執行を知った弁護人・安田好弘らと合流し、母親だけが「遺体を引き取るか否かは関係なく」死刑囚Sの遺体との対面を許可されたが、納棺されたSの遺体に触れることはできず、遺体の顔を覗くことしかできなかった[書籍 55]。
- 安田は死刑囚Sの死刑執行前は「弁護人とともに再審請求中の死刑囚に対する死刑執行はまずあり得ない」と考えていたが、この「予想外」の死刑執行を「これは法務大臣から我々死刑囚の弁護人に対する『弁護人がいようが自力だろうが今後は再審請求中でも死刑執行する』という意思表示なのだろう」と解釈した[書籍 56]。なおこの時点で安田は「おそらく『第1次再審請求の結論が出るまでは死刑執行を見送るが、それ以降は見送る理由にはしない』ということだろう」と推測したが[書籍 56]、その一方で「再審請求中の死刑囚に対する今回の死刑執行は国家が自らの権力を見せつけるような『これまでの死刑執行とはまったく様相の異なるもの』だ。いかなる躊躇・抵抗をも排除して有無を言わさずに死刑を執行する、すなわち国家からの『死刑執行に対する強固かつ積極的な意思表示』だ。今後行われるだろうオウム真理教事件の麻原彰晃ら死刑囚13人への死刑執行を見据えた『地ならし』でもあるだろう」とも推測しており[書籍 57]、実際に後に行われたオウム事件死刑囚13人に対する死刑執行においては井上嘉浩・中川智正・遠藤誠一(以上2018年7月6日に死刑執行)[書籍 58]・横山真人・林泰男・豊田亨・広瀬健一(以上2018年7月26日に死刑執行)の計7人が死刑執行時点で東京地裁への第一次再審請求中およびその請求への棄却決定に対する東京高裁への即時抗告・最高裁への特別抗告中だった[書籍 59]。
- 2018年1月25日に衆議院第二議員会館で開かれた死刑執行抗議集会にて[書籍 8]安田は「死刑執行から数日後に別の死刑囚・及び別の収容者1人と東京拘置所で接見した際、死刑囚Sに関して以下の事実を伝えられた」ことを明かした[書籍 55]。
- 死刑囚Sは死刑執行よりかなり前から「刑場に連行される際も目立たない一番端の独房」に収容されていた[書籍 55]。
- 死刑執行当日の朝、刑務官2人が独房から死刑囚Sを連れ出したが、死刑囚Sはその際に理由を「面会か何か」と伝えられたためか特に暴れるなどはせず、ごく普通の形で独房を出ていた[書籍 55]。
- 「死刑囚Sのことをよく知っていた」という収容者は安田に対し「死刑執行当日は死刑囚Sの独房とは離れた独房にいたが、当日は朝起床したころから異様な雰囲気で、運動の時間になっても運動が始まらなかった上、職員たちの緊張した雰囲気から『死刑執行がある』と感じた。死刑囚Sの収容されていた独房は自分の独房から遠くにはあったが扉が開きっ放しになっていたのが見えたため『Sが死刑執行された』と悟った」と証言した[書籍 55]。
- 同日に上川は記者会見で死刑執行を発表した際「再審請求中だからといって(死刑を)執行しないという考え方はとっていない」と述べた上で、犯行時少年に対する死刑執行に関しては「個々の死刑執行の判断に関わるため、個人的な考え方については発言を控える」と述べた[声明 1][新聞 170]。
- 死刑執行に対する反応
- 事件当時少年でかつ再審請求中だった死刑囚Sの死刑執行を受けてさまざまな反応が示された。
- 否定的な反応
- 「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)は同日付で「まだ成長過程にあり更生の可能性のある少年への死刑執行は許されてはならない。また再審請求中の死刑執行は決して許されてはならない」などと抗議声明を発表した[声明 2]。
- 日本弁護士連合会(日弁連)も同日、中本和洋会長名義で「死刑執行に強く抗議し、改めて死刑執行を停止し、2020年までに死刑制度の廃止を目指すべきであることを求める会長声明」を発表した[声明 3]。
- 日弁連死刑廃止検討委員会事務局長・小川原優之は『中日新聞』の取材に対し「犯行当時少年の場合は判断能力が成人より劣っている上、家庭環境・社会の影響も強く受けている。事件の責任を個人に負わせるのは相当ではなく、死刑を執行すべきではない」「死刑確定者も『犯人性への疑い』だけでなく『責任能力の問題』『量刑不当』など様々な論点で再審を請求しているため、そのような人々から裁判で争う機会を奪うのは問題だ」と述べ、「少年死刑囚・再審請求中の死刑囚への死刑執行に反対する意見」を示した[新聞 178]。
- 千葉県弁護士会(会長:及川智志)も翌12月20日付で同じく「死刑執行に抗議する声明」を発表した[声明 4]。同会の副会長・藤岡拓郎は『千葉日報』の取材に対し「死刑制度自体の問題・犯行当時少年に対する死刑執行への反対姿勢」を明確にした上で「死刑を執行すべきではなく極めて遺憾だ」と非難した[新聞 7]。
- 駐日欧州連合(EU)代表部も同日、東京に大使館を置く26加盟国・アイスランド・ノルウェー大使館と共同で「死刑は残酷かつ非人間的で犯罪抑止効果は全く証明されていない。(裁判の)誤審も免れない」として「日本国政府に対し死刑執行停止を促す声明」を発表した[新聞 166]。
- 肯定的な反応
- 犯罪被害者支援弁護士フォーラム(VSフォーラム)は同日、共同代表の杉本吉史・山田廣両弁護士名義で「被害者遺族からすれば歓迎すべき死刑執行であり当フォーラムも強く支持する。死刑制度は最高裁判例で合憲とされている制度で、法律に従って死刑を執行するのは当然のことだ。現行法下において死刑執行に反対することは『法律を遵守しなくてもよい』と述べていることと同じことで、再審請求中および犯行当時少年であっても死刑執行を回避すべきではない」とする声明を発表した[声明 5]。
- 常磐大学元学長・諸沢英道(被害者学)は『千葉日報』・『中日新聞』の取材に対し「『少年の更生可能性』という非科学的・曖昧な基準で死刑執行を回避するのは相当ではなく、事件の重大性・遺族らの被害者感情・社会影響を考えると今回の死刑執行は当然だ。死刑執行の先送りを目的とした再審請求も多いため、再審請求中でも死刑執行対象から除外すべきではない」として死刑執行を支持した上で「法務省は死刑執行において『冤罪の可能性がないこと』を具体的に説明する必要はあるだろう」という見解を示した[新聞 167][新聞 179]。
- 16歳の少年による暴行で長男を失った「少年犯罪被害当事者の会」代表・武るり子は時事通信社の取材に対し「少年であっても罪に合った罰を受けることが犯罪抑止力につながる」と話した[新聞 180]。
- 『産経新聞』(産業経済新聞社)は2017年12月20日付コラムで「死刑囚Sの判決確定は16年前でむしろ遅すぎた。『更生の機会』云々に関しては刑事裁判の場で争われるものであり、法相にはその確定判決の是非を判断する職責はない。法相の個人的信条で死刑執行の有無が決まるなら『法の下の平等』に著しく抵触するため、『死刑以外の選択はできない』と死刑が確定した以上は法相は粛々と死刑執行を命じるべきである」と「死刑執行を支持する姿勢」を示した上で「今回の死刑執行を契機に『国民が少年法改正の問題を考える』論議を提起することが望ましい」と主張した[新聞 174][新聞 181]。
実名報道
- 『週刊新潮』などによる実名報道・顔写真掲載
- 事件直後、いずれも新潮社から発売された週刊誌『週刊新潮』・写真週刊誌『FOCUS』はそれぞれ被疑者Sを実名報道した[雑誌 4][雑誌 2][新聞 182][新聞 183]。
- 『週刊新潮』1992年3月19日号(3月12日発売)は「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」というタイトルの特集記事を組み、記事中でSの実名を掲載した上で「被疑者Sの中学時代の顔写真」「Sが事件当時在住していた船橋市内のマンションの写真」を掲載した[雑誌 4][新聞 182][新聞 52][新聞 183]。同記事は以下のように「少年法に対する問題提起」を目的に執筆・編集されており、実際に少年法の改正を訴える論調の記事となっている[雑誌 4]。
- 記事中では板倉宏・日本大学法学部教授(当時)が「この事件は死刑に値する犯行」と述べたことに加え、小田晋・当時筑波大学教授は「もし死刑にできないようならば保安処分にすべき」とする識者意見を述べた[雑誌 4]。
- その一方で少年法に詳しい秋山昭八弁護士は「(当時)死刑が廃止に向かっている時代の趨勢の中[注釈 8]、少年の場合は『殺人が行われやすい環境だったかどうか』が争点になるため、この事件でも死刑は求刑段階ですら難しい」という意見も掲載された[雑誌 4]。
- その上で元法務大臣・奥野誠亮の「現代は20歳未満だからといって甘やかしていられる時代ではないだろう。運転免許でも18歳で取得できるのだから『凶悪犯罪を犯した少年』が『5歳や10歳の子ども』と同じ扱いにされるというのはおかしな話だ」という意見を掲載した[雑誌 4]。
- 『FOCUS』1992年3月20日号はSの実名に加え、Sが千葉地検に送検される際の写真(当時『FOCUS』記者だった清水潔が撮影)を掲載した[雑誌 2]。
- これに加え、上告中の2000年(平成12年)9月に出版された永瀬隼介の著書『19歳の結末 一家4人惨殺事件』(新潮社、当時・本名の「祝康成」名義)および死刑確定後の2004年(平成16年)8月に『19歳の結末』を加筆・改題の上で再出版した『19歳 一家四人惨殺犯の告白』(角川文庫)でもそれぞれ被告人・死刑囚Sの実名が記載されている(#関連書籍参照)[書籍 9]。
- 事件当時の実名報道に関して当時『週刊新潮』編集部次長であった宮沢章友は『産経新聞』・『朝日新聞』などの取材に対し以下のように回答した。
- 「少年法が制定された当時と1992年現在では『肉体的・精神的ともに社会からの刺激が多い』という点で『少年』の概念が変わっているにも拘らず、『旧態依然とした少年法に従って20歳以下なら一様に実名を伏せる』ことは好ましくない。犯行そのものも『帰宅した家族を次々と殺害する』など凶悪で少年法で保護すべき範囲を逸脱している」[新聞 182]
- 「今回の犯行は未熟な少年が弾みで起こしたようなものではなく、少年法で保護しなければならない『少年』の枠を超えている。加害者の人権に比べて被害者の人権が軽視されている。少年による凶悪事件が増加している現在において『20歳未満ならばどんな犯罪を犯しても守られる』現行の少年法は時代遅れであり、それを問題提起する意味で実名報道した」[新聞 52][新聞 183]
- 「(ライバル誌の『週刊文春』(文藝春秋)が加害少年らを実名報道した)女子高生コンクリート詰め殺人事件の際は『犯人グループのうち誰がどう手を下したのかはっきりしない部分』があったために実名報道は見送ったが、今回は『犯人が(Sの単独犯と)はっきりしている』からこそ(実名報道という形で)問題提起をしやすかった」[新聞 182]。
- 「実名報道するかどうかの判断はケース・バイ・ケースであり、少年犯罪をすべて実名報道するわけではない」[新聞 182][新聞 52]
- これらの実名報道に対しては東京弁護士会(小堀樹会長)が1992年3月25日付で「少年法の趣旨に反し人権を損なう行為だ」として「『良識と節度を持った少年報道』を求める要望書」を新潮社に郵送したことに加え[新聞 184]「マスコミが少年を裁くようなことをしていいのか」と問題を提起した[新聞 183]。
- 『週刊新潮』1992年3月19日号(3月12日発売)は「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」というタイトルの特集記事を組み、記事中でSの実名を掲載した上で「被疑者Sの中学時代の顔写真」「Sが事件当時在住していた船橋市内のマンションの写真」を掲載した[雑誌 4][新聞 182][新聞 52][新聞 183]。同記事は以下のように「少年法に対する問題提起」を目的に執筆・編集されており、実際に少年法の改正を訴える論調の記事となっている[雑誌 4]。
- 一方で過去に女子高生コンクリート詰め殺人事件の加害者少年4人を実名報道して物議を醸した『週刊文春』は今回は実名報道は見送り匿名報道とした[新聞 182][新聞 183]。
- 死刑執行を受けた新聞・テレビ各局の実名報道
- その一方で2001年12月の最高裁判決による死刑確定当時、新聞各紙は被告人・死刑囚Sを実名報道せず匿名で報じた[新聞 185][新聞 186]。なお、その後は「少年犯罪でも死刑が確定する場合については死刑執行前の判決確定段階で『更生可能性が消えた』として実名報道に切り替える例」が主流になりつつある[新聞 186]。
- 新聞・テレビの報道では2017年12月19日の死刑執行まで死刑囚Sの実名報道はなされていなかったが、マスメディアは2017年12月の死刑執行を受けて「更生や社会復帰の可能性がなくなった」「国家によって人命が奪われる死刑の対象は明らかにされるべき」「事件の重大性を考慮」などの理由から、少年事件で死刑確定時も匿名報道を維持した『毎日新聞』を含めてそれぞれ実名報道に切り替えた[新聞 8][新聞 9][新聞 10][新聞 11][新聞 12][新聞 13][新聞 14][新聞 186]。
- 日本放送協会(NHK)は2017年12月19日正午のNHKニュースにて死刑囚Sの実名を含めて死刑執行のニュースを報道した[TV 2]。これに関してNHKのウェブサイト「NHK NEWS WEB」では「NHKは少年事件について『立ち直りを重視する少年法の趣旨』に沿って原則匿名で報道しているが、この事件が『一家4人の命を奪った凶悪・重大な犯罪で社会の関心が高いこと』『死刑が執行され社会復帰して更生する可能性がなくなったこと』から実名で報道した」と説明した[TV 2]。
- 『読売新聞』(読売新聞社)は「『国家が人の命を奪う死刑が執行された対象が誰なのか』は重大な社会的関心事であるため実名報道に切り替えた」と説明した[新聞 170][新聞 172]。
- 『朝日新聞』(朝日新聞社)は「『国家によって生命を奪われる刑の対象者は明らかにされているべきだ』との判断から実名報道に切り替えた」と説明した[新聞 8]。
- 『毎日新聞』(毎日新聞社)はそれまで少年死刑囚について死刑確定時点でも匿名で報道してきたが今回の死刑執行を受けて「『再審・恩赦による社会復帰の可能性』などが残されていたことから『健全育成を目的とする少年法の理念』を尊重し匿名で報道してきたが、死刑執行によりその機会が失われたことに加え『国家による処罰で命を奪われた対象が誰であるかは明らかにすべき』と判断した」と説明した上で実名報道に切り替えた[新聞 189][新聞 190][新聞 191]。
- 『産経新聞』(産業経済新聞社)は「死刑が執行されたことで更生の機会が失われたことを考慮して実名報道に切り替えた」と説明した[新聞 11]。
- 『日本経済新聞』(日本経済新聞社)は、「事件の重大性・死刑が執行されたことを踏まえて実名報道に切り替えた」と説明した[新聞 192]。
- 『中日新聞』・『東京新聞』(中日新聞社)は『毎日新聞』と同様に少年死刑囚を死刑確定時点でも匿名で報道してきたが、今回の死刑執行を受けて「『更生の可能性がなくなったこと』に加え『国家が人の命を奪う究極の刑罰である死刑の対象者の氏名』は明らかにするべきであるため実名報道に切り替える」と説明した上で実名報道に切り替えた[新聞 171][新聞 193][新聞 186][新聞 194][新聞 195][新聞 160]。
永瀬隼介と死刑囚Sの交流
1998年(平成10年)10月から作家・永瀬隼介(当時、本名の「祝康成」名義で活動)は「本事件についての書籍出版」を目的に、当時最高裁上告中で東京拘置所に収監されていたSと面会・文通を重ねた[書籍 9]。永瀬は2001年12月に死刑が確定するまでの約3年間にわたり事件の様々な関係者(Sの家族・被害者遺族・Sと結婚したフィリピン人女性の家族ら)への取材活動も含めてSの人物像・事件の詳細を調べた。
永瀬は当初「10日に1度の割合」で東京拘置所を訪れて面会手続きを行ってきたが[書籍 60]、弁護士以外の面会人は1人1組に限られていたため[書籍 61]、先に面会人がいた場合は面会できなかった[書籍 60]。外の控え室で1時間以上待機し荷物チェックを受けた上で拘置所内部の控え室に通されても、誓約書を書き上げてからさらに1時間以上待ったにも拘らず拘置所職員から「Sは今日、予定が入っていて会えない」と伝えられ、結果的に無駄足となって帰らざるを得なくなったこともあった[書籍 60]。永瀬の職場は当時東京都東村山市内にあったが、葛飾区小菅にある東京拘置所までは「電車を乗り継いで往復4時間近く(片道約2時間)」かかったため、永瀬は「拘置所に赴く日は(Sと)会えても会えなくてもほぼ1日を費やす覚悟が必要」だった[書籍 60]。
Sは永瀬宛の手紙で「完全に枯れ切ってしまう前に、潔く終わりにしたいと思います」と綴っていたが、永瀬によれば「当初は終始、誠実な姿勢は変わらなかったが、拘置期間が長引くにつれて感情の起伏が激しくなっていき、1999年12月17日に東京拘置所・福岡拘置所で計2人の死刑囚の死刑が執行された(福岡拘置所の死刑囚は当時再審請求中)ことから、その直後の1999年12月下旬からは様子が一変」した[書籍 60]。その死刑執行の直後から被告人Sは「精神的に不安定になり、直後の面会で『眠れない。この先も正気を保てるか自信がない』」と訴えており、その日を境に手紙もしばらく来なくなった[書籍 62]。
その一方で被告人Sは永瀬宛の手紙の中で「幼少期に苛烈な虐待を加えた挙句に一家離散の引き金を引いた父親Z」はもとより「身を粉にして働き自分や弟の生活を支えていた母親Y」「一代でウナギ料理チェーン店を興して孫の自分を可愛がってくれた祖父X」に対しても逆恨みからの罵詈雑言を書き連ねていた[書籍 63][書籍 64][書籍 65]。
- 永瀬とSの文通・2000年春の面会
- 被告人Sは、永瀬宛に初めて手紙を東京拘置所から送った際にはその手紙に香水を付けていたが、永瀬は「『独房で書き上がった手紙に香水を振りかけている大量殺人犯』とはどこか歪んでいる」と表現した[書籍 66]。
- またSは永瀬宛の手紙で「残された少女Bのために毎日祈り・お詫びの言葉をつぶやいてみても何にもならないどころか、考えてみれば『これ以上自分勝手で独善的な行為』はない。加害者側の自分がいくら熱心に経文を唱えようとも結局は『自分自身が自己満足するための儀式』でしかないように思える」などと綴った[書籍 43]。
- また死刑の恐怖に関しては「最高裁で死刑判決(上告棄却)を受けて死刑囚となっても当分は生かされていることになるが、死刑とは『文字通り死ぬことで刑になる』から死刑執行の時までは刑務所で受ける懲役刑とは違い労役などで罪を償うこともできず、ただ鉄格子の中で過ごすだけの毎日が待ち受けている。死刑確定から何年か過ぎて平静を取り戻したころ複数の刑務官が靴音とともに近づいてきて自分の房の前で立ち止まり、独房の錠を解除して『本日刑の執行だ』と宣告されて刑場まで連行される。いつか必ず来る死刑執行の日には首を吊るされることが決まっているのに毎日『(死刑執行は)今日か明日か』と『死の足音に怯えながら暮らさなくてはならない』―想像するのも嫌な生活だ」と記した[書籍 67]。
- その上で「これから先、何年も外界から一切遮断された獄中で誰とも会えず、希望を抱けずずに何年も平静を保って生きていく自信がないし、『死んでいくためだけにどうやって生きていけばいいのか』もわからない。『死ぬことが怖くない』と言えば嘘になるがそれ以上に『先のない毎日を怯えながら生きていかねばならない』ことの方が怖い」と記した[書籍 68]。
- 2000年(平成12年)春、永瀬は面会中に被告人Sに対し、手紙の内容に言及した上で「ならば、あなたにとって『本当の意味での反省』とは何か」と尋ねると、被告人Sは「本当に謝るべき人々を殺しておいて、今でも『反省して何にもならない』と思っている。今でもどうやって反省していいのか分からない」と答えた[書籍 69]。
- また手紙の中には「次こそは絶対に真っ当な人間に生まれ変わりたいと願っている」という文言もあったが[書籍 65]、それについて永瀬は「あなたは本当に生まれ変われると信じているのですか?」と質問した[書籍 69]。これに対し被告人Sは「生まれ変われると信じている。そう信じていないと目標がなくなるし、自分の場合は判決は目標にならない。しかし自分がもっと変わらないとダメだろう」と答えた[書籍 69]。
- さらに「手紙の中で殺害場面が記された箇所に入った途端、それまで整然としていた筆跡が『まるで別人が書いたかのように』突然大きく乱れていた」ことに着目した永瀬は、その「心の揺れ」について「殺害現場を書くこと・当時の自分を直視するのが怖いのか?」などと質問した[書籍 69]。しかしこの問いかけに対し被告人Sは「誰に対してという訳ではないが、みっともない」と答えた[書籍 69]。
- これに対し永瀬がさらに「『あのような事件を引き起こした自分が人間としてみっともない』ということか?」と質問したが、被告人Sは「そうではないが、ただみっともない」などと「ちぐはぐな返答」をした[書籍 69]。この答えに対し永瀬は「そうなると「みっともないことをした自分を直視するのが嫌だ』ということになる。『みっともない自分』を正面から捉えないで反省しても仕方ないだろう」と率直な感想をぶつけた[書籍 69]。
- さらに永瀬が「自分の人生を振り返って何か言いたいことはあるか?」と質問すると、被告人Sは「それまでのことをすべてがなかったことにしてほしい。自分という人間は『存在そのものが最初からこの世にいなかった』とできれば一番いい」と答えた[書籍 69]。永瀬はSのこの「全てがなかったことになればいい」という言葉に関して作中で「この言葉を耳にして『面会室の床にへたり込んでしまいたいような脱力感』に襲われた。Sはこの期に及んで『自分の人生の全てをなかったことにしたい』と口にするが、その真意は理解不能だ。Sが抱える心の闇は私の想像よりはるかに大きい」と綴った[書籍 69]。
- 永瀬の事故・入院
- 永瀬は被告人Sと面会など交流を重ねるにつれて次第に「心のどこかで『このままでは済まないな』と感じる」ようになった上「『手痛い代償を払わされるに違いない』と『確信めいた思い』」を抱くようになり、著書出版準備を進めていた2000年初夏には慢性的な精神的ストレスから自律神経失調症を発症し、満員電車での帰宅途中に気分を悪くして途中駅で下車した直後に意識を喪失し、プラットホームの上にうつ伏せに転倒したことで顎を強打し骨折・歯が砕けるほどの重傷を負った[書籍 70]。
- その背景として、被告人Sは永瀬と面会した際には「『切腹でもして死にたい。潔く終わりたい』などと殊勝に語っていた一方で『一夜にして4人を殺しながら生への欲望が全く枯れない“底知れぬ生命力の塊”であることを実感させられ、その人物像に翻弄されては心身ともに削られていく」ほどの思いを抱えていた[書籍 70]。また永瀬は過去に広島タクシー運転手連続殺人事件(1996年発生)の死刑囚など「殺人犯の取材」経験はあったが、Sは永瀬から見て「過去に取材したどの殺人犯よりもはるかに深い“桁外れの闇”を抱えていたため、その人物像を理解しようと接近を試みてはさらにその闇の中に巻き込まれていく」ものだった[書籍 70]。
- この事故の直後に病院で検査をした際「転倒の衝撃で顎の骨が割れている」と判明したため、永瀬はその治療のために3週間入院し、その間は東京拘置所にも通えなかった[書籍 70]。
- 永瀬は退院後に再び東京拘置所へ被告人Sへの面会目的で通うようになり、最初の面会で被告人Sに「怪我と入院で面会に来られなかった」という旨を説明すると被告人Sは永瀬を心配しつつ「人間は健康第一ですから身体には気を付けてください」と労った[書籍 70]。
- 被告人Sの態度に対する永瀬の失望
- 2000年9月、永瀬はそれまでの取材結果をまとめて新潮社から単行本『19歳の結末』を出版し[新聞 196][新聞 197]同書を獄中の被告人Sに差し入れたが、Sはその内容について同月中の永瀬との面会で「虚偽の描写が含まれている」と文句をつけた[書籍 66]。
- その内容は「1991年10月、当時フィリピン滞在中だったSは結婚相手の女性の兄とともにマニラのカラオケスナックに来ていたが、その場で現地の警察官を殴って拳銃を突き付けられた」という記述で[書籍 72]、被告人Sは「これはまったくの出鱈目だ。もしフィリピンで警官に暴行など加えていたら自分は今ごろ現地の刑務所に入っている。マニラではその警官を含めて街中で金をせびってくるやつがいたから『うるさい』と腕で振り払ったら拳銃を突き付けられた」と主張した[書籍 66]。
- この主張に対して永瀬は「この描写はフィリピンまで渡航して女性の兄に取材した事実を基に帰国後、面会の席であなたに直接確認した上で記述したものだ」と指摘したが、Sは永瀬に対し「あなたのことを自分の身内とでも思っていたのだろう」などと「的外れな子供っぽい言い分」を返したのみだったため、これに憤慨した永瀬は同書を加筆・改題の上で角川文庫から発売した文庫本『19歳 一家四人惨殺犯の告白』で「自分が求めていたものは『被告人Sが同書に記されていた被害者・遺族の悲しみ・怒りの感情に触れ、それに対しどんな感想を述べるか』であってこのような些末なことではない。許されるならばあの時、私は『お前が言うべきはそんなことじゃないだろう』とSの胸倉を掴んで揺さぶり諭してやりたかった」と記した[書籍 66]。
- 被告人Sがこの記述に憤慨した理由は、同書を読んだ弁護士から「『お前、(事件前に)こんなこともやっていたのになぜ隠していたんだ。けしからんだろう』と責められた」ためではあったが、被告人Sは永瀬の求めていた「被害者・遺族の怒り・悲しみに触れた感想」を述べることなく、永瀬に対しても「幼稚な拗ねた態度」を取るだけだったため、この態度に失望した永瀬は被告人Sを「愛する娘Dと4歳の孫Eを刺し殺された祖母(熊本県在住のBの母方の祖母、即ちDの実母)の地獄の日々に思いを馳せることさえできない『救いようのないクズ』」と唾棄した[書籍 66]。
- その後も永瀬は、面会・文通で被告人Sとの交流を続けたが、翌10月の面会中に、Sに5度も強姦された末に目の前で家族を皆殺しにされた少女Bを、Sが愚弄するような表情とともに「彼女は自分のことをすべて知っているのに本当のことを言わないし、あなた(永瀬)の取材にもまともに答えない。とんでもない人間だ」などと「聞くに堪えない罵詈」を吐いたため、改めてその態度に失望した永瀬は「辛うじて耐えたが『とんでもないのはお前だろう』と怒鳴りつけたくなる」ほどの激情に駆られた[書籍 66]。永瀬からその暴言を咎められると被告人Sは態度を急変させて「もっと早くあなた(永瀬)に出会っていればよかった。塀の外で会っていれば自分も変わっていたと思うが、自分にはあなたのように叱ってくれる人間がいなかった」と言った[書籍 66]。永瀬はこのSの言葉を「同情を買おうとしたのか本音なのかまではわからなかったが、『この男(S)は反省していない』ということだけはわかった」と切り捨てた[書籍 66]。
- 永瀬は2001年(平成13年)1月下旬に被告人Sと前年12月以来、約2か月ぶりに面会した際にSから「面会できることは世間との接点があってうれしい。これからもどんどん本を読みたいし、あなた(永瀬)とも会いたい。面会できなかった場合を含めて本を差し入れてもらっておりありがたく思っている」と感謝された[書籍 45]。
- 「最後の手紙」まで
- 2001年3月に最高裁第二小法廷から上告審口頭弁論公判開廷期日が指定されて以降も、永瀬は東京拘置所を数回にわたって訪れて被告人Sとの面会を試みたが、結局は最後まで面会できなかった[書籍 45]。2001年3月下旬、拘置所内の待合室まで通された永瀬は「今日こそは」と期待したが、約30分後に「予定が入っていて面会できない」と拘置所職員から伝言された[書籍 45]。
- 「上告審口頭弁論から最高裁判決まで約半年から1年」と予想されたことに加え「最高裁判決で上告が棄却されて被告人Sの死刑が確定すれば、死刑確定者処遇となるSは原則的に親族・弁護士以外と面会・文通などを交わす『外部交通権』が認められなくなる」事情から、永瀬は「可能な限り話を聞いておきたい」と考え、被告人S宛に手紙を出したり月3回の割合で拘置所に通うなどして「被告人Sと接触」をしようとしたが、手紙には返信がなく面会もできない日々が続いた[書籍 45]。
- この際の心境に関して永瀬は『19歳』で「当時『被告人Sはまた精神的に衰弱していて手紙を返す気力もないのだろうか?』と疑った。今思えば自分は『拘置所に通うことで被告人Sとのつながりを保っていたかった。つながりを絶ってしまうのが怖かった』のだろう」と振り返った[書籍 45]。
- 上告審口頭弁論公判から約8か月後の2001年10月31日、被告人Sから永瀬宛に久々の手紙が届いたが、その手紙には永瀬が懸念していた「精神的な動揺」は感じられず「永瀬への挨拶・面会ができないことへの謝罪の文言・永瀬が定期的に差し入れていた『新潮45』(新潮社)に関する言及」が記されていた[書籍 73]。被告人Sは「永瀬と面会できない理由」に関して「死刑確定までの時間が限られているので平日はほぼ毎日、修道会の方・関係者の方々と交代で面会するスケジュールを組んでいるため」と説明した[書籍 73]。
- 永瀬は当時の心境を「文面から察する限り『精神的に動揺している』という心配は杞憂に過ぎなかったどころか、この期に及んで軽口まで叩けるほどの余裕が感じられる手紙を書けるのかやはり理解不能だった」と振り返った[書籍 73]。
- それから約20日後の2001年11月下旬、被告人Sから永瀬宛に再び手紙が届き、それ以降は手紙が来なかったため結果的にこれが「被告人Sが生前最後に永瀬宛に出した手紙」になった[書籍 73]。その内容は「上告審判決公判の日程が12月3日午後2時に指定された。これで上告が棄却され死刑が確定すれば自分は死刑囚となるため、親族でない永瀬からの書籍の差し入れ・文通は一切できなくなる。出せるうちにまた手紙を出したいが今回は取り急ぎお礼・報告のために出した」と記した上で、永瀬への気遣いの言葉で締めくくっていた[書籍 47]。永瀬はこの「最後の手紙」に関して「ついに来るべきもの(最高裁判決)が来たが、手紙の文面は他人事のように淡々としたものだった」と綴った[書籍 73]。
- 死刑確定の報告
- そして永瀬は2001年12月3日に最高裁第二小法廷で「被告人Sの上告棄却」判決を言い渡した上告審判決公判を傍聴し、閉廷後に最高裁の中庭から熊本県在住の「少女Bの母方の祖母」宅に電話した[書籍 47]。
死刑囚の生い立ち
- S誕生から一家離散まで
- Sの母方の祖父Xは第二次世界大戦終戦直後の青年時代に東京都江戸川区松島の荒川土手沿いでウナギの卸売業を興し、「自分は生まれつき視力が弱かったために兵役を免除されて命拾いした身だ。徴兵されて戦死した幼馴染たちに比べればはるかに恵まれている」と、周囲から「仕事の鬼」と呼ばれるほど猛烈に働き続けて事業を順調に拡大し、千葉県市川市・東京23区東部を中心に10軒近くの鰻屋を構える鰻屋チェーン店のオーナーとなった成功者だった[書籍 4]。
- Sの母親YはそのXの長女として生まれて短期大学を卒業後、当時24歳だった1967年に江戸川区役所のダンス教室で東芝関連会社勤務のサラリーマンだったSの父親Z(当時25歳)と知り合い交際を開始した[書籍 4]。
- Zはデートで手腕を発揮するためにYの心を射止めたが、Xは「自分はコネ・カネ・学歴の何一つない身から努力・才覚だけで事業を拡大した。半端なサラリーマンで『仕事に対する熱意が窺えない』Zなどチンピラと一緒だ」と快く思っておらず結婚に猛反対した[書籍 4]。Yが「Zを家に泊める」と言った際、Xは「結婚前の自分の娘が自分の家でろくでなしの男と一緒にいる」と思って憤慨し、Zを怒鳴りつけて叩き出したほどだった[書籍 4]。
- しかし2人は駆け落ち同然で結婚し、千葉県松戸市内にあったZの実家に新婚所帯を構えた[書籍 4]。Xはそれでもなお結婚に反対していたが[書籍 4]、1973年1月30日に夫婦の長男としてSが生まれた[判決文 1]。Yが父Xに『初孫』として産まれたSの顔を見せに行くと、祖父となったXは渋々ながらも結婚を認めた[書籍 4]。
- ほどなくしてZ・Y・Sの一家は千葉県松戸市内の公団住宅に移住し、Yは息子Sが歩けるようになった直後からスイミングスクールに通わせたり、小学校入学後からはピアノ・英会話を習わせるなど教育熱心な一面を見せた[書籍 4][判決文 1]。Sは当時4歳だった1976年(昭和52年)[判決文 1]には幼稚園に入園し[判決文 1]翌年の1978年には次男(Sの5歳年下の弟)も産まれたが、生活が落ち着いてくるとXが懸念していた「Zの『ろくでもない遊び人』な本性」が現れ始めた[書籍 4]。Zは、仕事よりギャンブルや酒、女遊びを優先するようになり、Yとの夫婦喧嘩も、日常茶飯事になった[書籍 4]。
- 1978年(昭和54年)4月、Sは転居先の千葉県松戸市内の小学校[判決文 1](松戸市立和名ヶ谷小学校)に入学[雑誌 1]、1980年(昭和55年)9月には[判決文 1]、小学2年生だったSは父Z・母Y・弟とともに「祖父Xの援助で買った東京都江東区越中島の高級マンション」に移住したため[書籍 4]同区内の小学校[判決文 1](江東区立越中島小学校)に転校した[雑誌 1]。
- 新居となったマンションには「有名企業の社員・医者・実業家など高額所得者が多数在住」しており、「Z一家の部屋のすぐ上の階」には「当時日本中を席巻していた漫才ブームで屈指の人気を誇った漫才コンビの一人が家族とともに」住んでおり、Sは「弟と同い年だった漫才師の息子」と親しくなり、お互いの家を行き来するようになった[書籍 4]。Sは時々その漫才師と出会うと「テレビに出ている時と同じく笑顔で『どや、元気か』と声を掛けてくれた」上、漫才師の息子も「父親と同じように屈託のない大阪弁で話しかけてくれた」ことから「この陽気な漫才師一家」を気に入っていた[書籍 4]。
- その一方でSは「自分の家族は高級マンションに住んでいるとはいえ、祖父の援助・借金によるもの」だったことからコンプレックスを抱いていたほか、父Zが会社勤めを辞めてから祖父Xの経営していた鰻屋を1軒任されるようになったが「日銭が入るようになったために愛人の家で外泊を繰り返すなど遊びにますます拍車がかかった」上、帰宅すると浮気を責めてくる母Yを殴る蹴るなどのドメスティック・バイオレンス(DV)を加えるようになったほか、S自身や5歳年下の弟に対しても「何時間も正座をさせる」「食事を与えない」「徹底した無視」「真冬の夜中に外に放り出す」など苛烈な児童虐待を繰り返すようになった[書籍 4]。
- このことから自宅を「居場所と感じられなくなっていた」Sは毎週末、自分一人で着替え・勉強道具をリュックサックに詰めて電車で市川市内の祖父X宅に通っては寝泊まりするようになり、特に夏休み・冬休みの長期休暇中にはほとんど祖父宅に泊まり込んでいた[書籍 4]。祖父Xは鰻屋の従業員たちから見れば「一切の妥協を許さない厳しい人」で、Sが「祖父X・鰻屋の従業員たちと過ごす毎日」は彼らの目には「単調な生活」に映っていたが、Sはこの日常を「至福の時」と感じるとともに祖父Xを「いつも怖いだけの父親とは違う、お金持ちで頼りになる働き者。自分も祖父のように強くて立派な大人になりたい」と心から尊敬していた[書籍 4]。祖父Xも常に孫Sを笑顔で出迎えては一緒に風呂に入り、祖母が作ってくれる手作りの夕食を食べたり「普段いかつい表情をした顔」をほころばせてはSの話を嬉しそうに聞いたりしていた[書籍 4]。
- その一方で夫XからのDVでストレスを溜め込んだ母親YもやがてSを虐待するようになり、後述のようにSが「聖書の勉強」に熱中するようになっても借金は膨らみ続けた[書籍 4]。
- Sは両親からの虐待に苦しんでいた中、敬虔なエホバの証人の信者であった親友に勧められたことがきっかけで「聖書の勉強」をするようになった[書籍 74]。エホバの証人は「過激なほどの徹底的な純粋性からキリスト教内部でも異端視されていた」が、Sは「愛と平和を高らかに説く教え」に魅了された上、常に自分を温かく出迎えてくれては丁寧に教義を教えてくれた信者一家のことも気に入っており「聖書の教えを真剣に学べばいつか自分の両親もわかってくれる。彼(この友人)の家のように『笑顔の絶えない平和な家になる』」と信じていた[書籍 74]。しかしSは9歳の時、熱心に読んでいた聖書を父Zから「こんなくだらないものばかり読みやがって」と破り捨てられたことから初めて「恐れていた父親」に歯向かい、殴る蹴るなど一方的な暴力を振るわれつつも「全身の血が沸騰するほどの怒りを覚え、それまでわずかに残っていた父親への情愛も完全に砕け散った」上に「いつか仕返ししてやる」と心に誓った[書籍 74]。聖書・経典を破られたことは「神に背く裏切り行為」であり、Sは永瀬宛の手紙でこれを「信者なら誰でも気が狂うほどの大罪だ」と表現した[書籍 75]。
- Sは永瀬宛の手紙で「両親・祖父を忌み嫌い罵詈雑言を投げかけていた」一方、この友人やその家族に対しては「別人のように思えるほど優しく柔らかい描写」をしており[書籍 76]、エホバの教義を学んでいた日々を「(獄中生活を送るようになって現在も)無駄だったとは思っていないが、中途半端なまま引き離されてしまったことが惜しい。純粋に神を信仰・崇拝していた当時の気持ちを踏みにじられなければ後の『神をも恐れぬ所業の数々』も少しは抑えることができたのではないか?と思った」と記した[書籍 77]。永瀬は「非暴力を謳うエホバの教義に魅了されたSが後に陰惨ないくつもの暴力事件を起こし、挙句に4人殺害にまで及んでしまった事実は『皮肉』では片付けられない『あまりにも重い人生の暗転だ』」と表現した[書籍 75]。
- Sは両親からの虐待に苦しんでいた中、敬虔なエホバの証人の信者であった親友に勧められたことがきっかけで「聖書の勉強」をするようになった[書籍 74]。エホバの証人は「過激なほどの徹底的な純粋性からキリスト教内部でも異端視されていた」が、Sは「愛と平和を高らかに説く教え」に魅了された上、常に自分を温かく出迎えてくれては丁寧に教義を教えてくれた信者一家のことも気に入っており「聖書の教えを真剣に学べばいつか自分の両親もわかってくれる。彼(この友人)の家のように『笑顔の絶えない平和な家になる』」と信じていた[書籍 74]。しかしSは9歳の時、熱心に読んでいた聖書を父Zから「こんなくだらないものばかり読みやがって」と破り捨てられたことから初めて「恐れていた父親」に歯向かい、殴る蹴るなど一方的な暴力を振るわれつつも「全身の血が沸騰するほどの怒りを覚え、それまでわずかに残っていた父親への情愛も完全に砕け散った」上に「いつか仕返ししてやる」と心に誓った[書籍 74]。聖書・経典を破られたことは「神に背く裏切り行為」であり、Sは永瀬宛の手紙でこれを「信者なら誰でも気が狂うほどの大罪だ」と表現した[書籍 75]。
- 父Zは荒れた生活を繰り返した結果、消費者金融(サラ金)ばかりか闇金融にまで手を出すようになり[書籍 78]その約3億円の借金が原因で[新聞 27]一家は暴力団組員による厳しい取り立てに遭ったため[判決文 1]、Sは1982年(昭和57年)12月には母親Yに連れられて弟とともに3人で夜逃げ同然に家を出た[書籍 78]。Yは2人の息子とともにしばらく祖父X宅に身を寄せたが[判決文 1]、Sを溺愛しておりSからも慕われていた祖父Xも「全財産を吐き出してZの莫大な借金を清算せざるを得なかった」ために業を煮やし[書籍 5]、娘Yに絶縁を言い渡したため、SもX宅を訪ねることはできなくなった[書籍 78]。そのため当時小学5年生だったSは[雑誌 3]Y・弟とともに東京都葛飾区立石(京成電鉄青砥駅付近)のアパートに移住し[書籍 5][判決文 1]翌1983年(昭和58年)1月から葛飾区内の小学校[判決文 1](葛飾区立清和小学校)に転校した[雑誌 1]。
- このように家庭崩壊の元凶となった父親Zに対し、Sは永瀬宛の手紙で「あの男を一緒に死刑台まで道連れにしないと気が済まないし納得がいかない」とまで非難した上[書籍 79]、「現在でもできることなら体じゅうの血液から父親Zの遺伝子・細胞を残らず人工透析で取り除きたいほどだ」とまで表現した[書籍 80]。
- また、祖父Xに対しても「何もかも被害者ヅラして『みんなZが悪い』と言っているが、あの男に金を与え、自分の会社に入れたり保証人になったり、母Yとの結婚を容認したのもXの自己意志だ。Zのことなど信用できないなら会社に入れず結婚も認めなければよかっただけのことなのに、Xは自分で決断しておきながら『人を見る目』がなかったことを棚に上げて責任逃れし恨み言ばかりを述べている」と非難した[書籍 79]。
- 凄惨な生育環境・性格の歪み
- 母Yは1983年3月に父Zと調停離婚しイニシャル「S」姓に復氏し[雑誌 2]、2人の息子(Sとその弟)の親権者になって女手一つで息子たちを育てるようになった[雑誌 2]。Sは父Zの借金・虐待などにより「新築のマンション住まいから風呂もない古いアパートに移住せざるを得なくなった上、唯一の庇護者だった祖父Xからも見放されたことで食べるのがやっとの極貧生活」に転落した[書籍 81]。
- Sは両親の離婚後に改姓していたたことから周囲から好奇の目で見られいじめの対象にされ、ランドセル代わりに風呂敷を背負い、一着しかない服を毎日着て登校していたために周囲からは「汚い」「臭い」とからかわれた[書籍 81]。担任が電話連絡網を作るためにクラス全員の前でSから電話番号を聞いた際、Sが「電話はうちにはありません」と答えると、Sはクラスメートばかりか担任にまで大笑いされた[書籍 81]。そのような極貧生活に苦しんでいたSは月1,2回、母Yの財布から小銭を盗んでかつて住んでいた越中島まで電車で行きその度に劣等感に苛まれた[書籍 81]。
- Sはこのころジミ・ヘンドリックスの音楽を知ってロックに熱中し、近所のディスカウントストアからジミのカセットテープを万引きしたほか[書籍 82]、放課後に気分転換のためにひとりで電車に乗って観光客でにぎわう浅草に通うようになった[書籍 83]。当初は日常からの現実逃避こそできたものの遊ぶような金はなかったため、空腹のまま歩きまわっていただけだったが、ある日公衆電話の横で現金約6万円の入った財布を置き引きして飲食店・ゲームセンターをはしごして以降、Sは「世の中は金が全てだ。貧乏を笑うようなやつらからはいくら金を盗んでもいい」と「手前勝手な論理」を持つようになり、浅草で観光客を狙った置き引き・スリ・かっぱらい・賽銭泥棒などを繰り返したが[書籍 83]「不良のレッテルを貼られると損をする」と考えていたことから地元では「おとなしい真面目な少年」を装い続けた[書籍 84]。
- 葛飾区立立石中学校時代
- Sは1985年(昭和60年)4月に葛飾区内の中学校[判決文 1](葛飾区立立石中学校)に入学したが[雑誌 4][雑誌 2]、それまでいじめられっ子だったSは体が大きくなったために「やられればやり返す」ようになるとともに「たいていの場合には自分の腕力が通用する」と知った[判決文 1]。
- このころSの母親Yは証券関係の会社でフルタイムで働き、女手一つで息子2人の面倒を見ていた[書籍 85]。Y一家は1985年秋になって青砥駅から徒歩約10分にある葛飾区内の京成本線高架線沿いで自宅を改装してアパートを経営していた大家夫妻の紹介を受けてそのアパートに入居した[書籍 85]。
- 当時、大家夫妻は一家の印象を以下のように抱いており、夫妻ともに母子3人の家庭を優しく見守っていた[書籍 85]。
- 母親Y - 「しっかりした印象の女性で子供へのしつけも行き届いている」[書籍 85]
- 当時中学1年生の長男S - 「無駄口をたたくことがない礼儀正しい子供。弟思いで本当にできた長男」[書籍 85]
- 後述のように中学3年生だったSが交通事故で入院した際、夫はSの見舞いに行ったが、Sの礼儀正しい振る舞いに「自分にもあんな感じの息子がいたらいいな」と思ったこともあった[書籍 85]。またSは日曜日になると弟とともに2人でアパートの階段・玄関を掃除しており、時折部屋の窓をきれいに磨き上げていた[書籍 85]。
- またSはこのころ少年野球チームに所属して投手ではエース・打者としても4番打者として活躍し将来を有望されていた野球少年で[書籍 85]、元から運動神経抜群だったが中学生になってからは体が急成長し体格・腕力ともに同世代の少年を圧倒するようになった[書籍 86]。母親Yは当時、大家夫妻に対し「息子は甲子園を目指している」と嬉しそうに話しており[書籍 85]、Sは弟とともに時折、アパートから道路の向かいにあった京成線高架下の空き地でキャッチボールをしていた[書籍 85]。
- 当時のSは同級生の女子生徒からも人気が高く、大家の妻は「あの子なら女の子にモテて当然ね」と「まるで自分の家族のように誇らしい」思いを抱いていた[書籍 85]。
- 当時小学2年生だったSの弟(Yの次男) - 「陽気・おしゃべりでいつも笑顔を絶やさず抱きしめたくなるほどかわいい」[書籍 85]
- 1985年冬、YはSら子供2人とともにさらに新築のアパートに転居し[書籍 86][書籍 85]その後は会計事務所に勤めるようになった[判決文 1]。またこのころになって祖父Xも母親Yと関係を修復したため[書籍 86]Y一家は「Xから経済的な援助を受けつつ不自由なく暮らせるようになった」が[新聞 26]Sは「Xは一番辛くて寂しい時に俺を裏切って助けてくれなかった」という思いから、以前のように祖父を尊敬することはできなくなっていた[書籍 86]。
- しかしSはそれまで地元では「真面目な少年」を装っていたが、このころからは地元の不良少年たちから喧嘩の強さを褒められて仲間に誘われたことをきっかけに、放課後には喧嘩用の特殊警棒を持って街をうろつき喧嘩・恐喝を繰り返すようになり[書籍 86]、バイク盗[雑誌 2][書籍 86]・飲酒・喫煙など非行の度合いが一気にエスカレートした[書籍 86]。Sが不良仲間たちの誘いに乗った理由は「他人に必要とされていることが何より心地よかった」ためだった[書籍 86]。
- このころからSは不良仲間とつるむことを諫める母Yに対して反抗的な態度を取るようになり[書籍 86]、母Y・弟へ本格的な家庭内暴力を加えるようになった[雑誌 4][雑誌 2][書籍 86]。このころには前述の家庭崩壊の元凶となった父親Zを、母親Yが「教育のため」と称して息子たちに逢わせては4人で食事に行くなどするようになったが、Sは「自分を貧困に追い込んだ張本人が再び自分の前に姿を現した」ことに反発してさらに反抗的な態度を取るようになった[書籍 86]。
- 『河北新報』1992年3月27日付紙面はこのように「Y・Z両名が離婚後も関係途絶していなかったことにSが反発していた」点に関して言及し「別れたはずの両親がその後も付き合っていたことがさらに少年の心に屈折感を生んだようだ。『祖父の愛情と父親への反発』という点では東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の被告人・宮崎勤を思い起こす。(本事件と宮崎の事件)2つの事件を同列には論じられないが『複雑な家族関係が事件に与えた影響』は大きい」と述べた[新聞 198]。これに加えノンフィクション作家・佐木隆三は同記事にて「1988年に東京都目黒区で当時中学生の少年が起こした両親・祖母の計3人殺害事件もそうだが、父母の愛情が何らかの要因で欠落すると『バランスを失った祖父母の愛情』で『抑制の効きにくい子』を育てることもあるのではないか」と述べた[新聞 198]。
- Sは中学2年生だった1986年(昭和61年)、シンナー中毒でほかにも複数の少年と関係を持っていた同年齢の少女と「愛情などなく性的快楽を得るためだけ」の初体験を経験したが[書籍 86]、「暴力とセックスだけで生きる生活」を続けていたうちに「自分は何のために生きているのだろう」[書籍 86]と考えた末に「幼少期に魅了されたキリスト教の教義に答えが見つかるかもしれない」と思い再びキリスト教の教会に通うようになった[書籍 87]。しかしその一方で「不良仲間たちに教会に通っていることがわかれば馬鹿にされる」と内心で恐れたため「不良仲間に見つからないよう」地元を避けて細心の注意を払いつつ1人で教会を訪ねた[書籍 87]。どの教会も「来る者は拒まず」の姿勢で快くSを迎え入れたが、Sが影響を受けたものが「エホバの証人の教義」と知ると、カトリック教会の神父・プロテスタントの牧師らはいずれもその教えに露骨に嫌な顔をし、中には「エホバの証人は異端の邪教だ」とまで明言した[書籍 87]。Sはこれに必死に反論したが、その度に口論になって椅子を蹴って教会を後にするような毎日が続いた[書籍 87]。そのような中でも江戸川区小岩・葛飾区亀有にあった教会は「まずは日曜日のミサに参加してみなさい」と誘ってくれたため、Sはそれらの教会に意を決して通い、日曜日はミサだけでなく典礼講座・黙想会・バザーにも参加した。しかし「かつてエホバの証人で体験した鮮烈な感動」は味わえなかった上、当時のSは「かつてのような信仰心に篤い少年」ではなくなっていたため聖書の教えを説かれても「神に祈るだけで幸せになれるものか。幸せは金だろう。お前らは大人のくせにそんな簡単なこともわからないのか」とむしろ反発するばかりで、次第に教会に行かなくなった[書籍 87]。
- Sは中学3年生だった1987年(昭和62年)夏、自転車で転んで腕を骨折した際、豊島区内の大塚駅前にある病院に入院して手術を受けた[書籍 85]。中学3年生だった同年には学校は「高校受験一色」となっており、Sは学習塾に通いつつ「野球の強豪校で大学進学率も悪くない中レベルの普通高校」を志願していたが、内心では勉強熱心な同級生たちを「ダサいヤツら」、教師を「地方公務員のくせに偉そうにしている口うるさいヤツら」と見下していた[書籍 88]。その一方で同級生の女子生徒には「勉強嫌いで飲酒・喫煙に手を染め授業も真面目に受けていない不良ぶっていた少女」がいたが、Sはその少女に対しては「周囲の声に惑わされず、自分の意思を通している」と「尊敬に似た気持ち」を抱いており、放課後にその少女から呼び出されて告白されたことをきっかけに交際を開始した[書籍 88]。
- Sは当初こそ「真剣な男女交際には興味がなくシンナー中毒の少女との性行為だけで満足していた」ためにこの少女を見下していたが、少女から「映画に連れて行って」「買い物に付き合って」という申し受けを受けてもそれを無視して不良仲間・先輩の誘いを優先していたため、少女はしばらくすると声を掛けて来なくなった[書籍 88]。しかし週末のある日に再び少女から「今晩はうちの家族がみんな田舎に帰っているから家には誰もいない。ひとりになるのが怖いから一緒にいてほしい」と電話を受けたため、Sはその少女の願いを受け入れて少女と一夜を共にした[書籍 88]。Sはそれ以降「単なるセックスフレンド」には興味がなくなり、少女を「自分だけの彼女」として愛おしく思うようになった[書籍 88]。
- 堀越高校入学・1年で中退
- Sは高校受験で「高校野球の強豪校」である日本大学第一高校・岩倉高校を志望したが結果的にはいずれも不合格と大失敗に終わったため、祖父Xの援助を得て[書籍 89][判決文 1]1988年(昭和63年)4月に[判決文 1]堀越高等学校普通科大学進学コース(東京都中野区)に入学した[雑誌 4]。
- Sは甲子園出場を目指して[新聞 26]硬式野球部を志願したが、同校野球部の練習用グラウンドは[判決文 1]遠方の八王子市内にあったため[書籍 90]「通いきれない」という理由で断念し軟式野球部に入らざるを得なかった[判決文 1]。
- Sは高校1年時こそクラス委員を務め、無欠席で成績上位をキープしていたが[雑誌 4][書籍 90]、一方で地元では相変わらず喧嘩に明け暮れ、常に折り畳み式ナイフを携帯して[書籍 90]未成年者でありながら飲酒・喫煙を日常的に行い[判決文 1]、母親Y・弟への家庭内暴力も悪化するようになった[書籍 90]。Sは前述したように「当初の目標だった硬式野球部入部を断念せざるを得なかったこと」「学級のレベルが低く感じられたこと」などから次第に「高校生活に対する意欲」を失い[判決文 1]、2年生に進級すると「こんな程度の低い高校では大学に進めない」と学校を欠席がちになり[書籍 91]通学途中の新宿の繁華街・地元の青戸界隈で不良仲間とたむろして喧嘩・恐喝に明け暮れては[書籍 92]繁華街を徘徊するなど不登校状態になっていった[判決文 1]。その一方でSは「子供のころから一番似たくなかった」ほど忌み嫌っていた父親Zに「年齢を重ねるほど正確・行動・容姿とすべてが似てきてしまった」ことを自覚し、それに嫌悪感を抱くようになっていた[書籍 80]。
- Sが高校1年だった1988年冬、Y一家は大家夫妻の紹介で3年間住んでいた2DKのアパートよりさらに広い3DKのマンションに移住した[書籍 90]。長男Sによる家庭内暴力に悩まされていた母親Yは「Sに個室を与えれば収まるはず」と考えており、Sに一人部屋を与えるために「より広い間取りの部屋」へ入居したが、結果的にその目論見は完全に裏目に出てしまい「自分の城」を持ったことで増長したSによる家庭内暴力はさらに深刻なものになったため[書籍 90]、母Yは耐え切れずにSを連れて警視庁の少年相談室へ相談に赴くなどした[判決文 1]。また母親Yは息子がトラブルを起こす度に、怪我をした相手の家に謝りに行き治療費・見舞金を払うなどして尻拭いを行った[書籍 91]。
- 祖父Xはこのころ、娘Yが離婚した夫Zと会っていることを知ったことで「金を出せばまたZに渡るだけだ」と激怒したため、Y一家への援助を再び断っていた[書籍 91]。Sは2年生進級直後[雑誌 4]、他校生徒への恐喝事件への関与が発覚したために停学処分になったが[判決文 1][雑誌 4]、暴力沙汰を繰り返しながらも反省の色を見せず「これ幸い」とばかりに中学時代の同級生で、高校に進学せずスーパーマーケットのレジ打ち・コンビニエンスストア店員などアルバイト生活を送っていた少女と遊び回るようになり[書籍 91]、「自宅に待機していなければならない時間帯に不在だったり無断外泊を繰り返したりしていた」ために母親Yから堀越高校側に「退学させてほしい」と申し入れがなされたため、進級からわずか2か月後の[雑誌 4]1989年(平成元年)5月31日付で[雑誌 4][書籍 91]堀越高校を自主退学した[雑誌 4]。
- 堀越高校中退後
- Sは堀越高校中退後にレンタルビデオ店店員[判決文 1]・警備員・トラック運転手など[新聞 42][雑誌 4]さまざまなアルバイトをするが[判決文 1]どれも1週間と続かなかった[新聞 42][新聞 26]。
- Sはロックへの熱が高じたことからギターの練習を始めたり、楽器ショップを見たビラがきっかけでロック少年たちと知り合い、自らリードギターを務めるロックバンドを結成したりした[書籍 91]。また高校を退学後、交際相手の少女と共に夜遊びをしたり、夏になると神奈川県の湘南海岸・三浦海岸(後者は自宅付近の京成青砥駅から電車一本で行ける)などに海水浴に行ったりしてデートを続けていたが、互いに深夜まで出歩いたり親の財布から金を抜き取るなどしていたため、高校中退後の秋になって少女の両親がSの母親Yに「うちの娘はSにたぶらかされたせいで悪くなった。警察に訴えてやる」と苦情を入れてきた[書籍 93]。これに対しYも「こちらこそ被害者だ。あなた方の娘こそ自分の息子に近づけないでほしい」と反論し、互いに罵倒して怒鳴り合うなど収拾がつかなくなった[書籍 93]。
- その後、互いの親同士が協力して「Sと少女を別れさせる」こととなったが、Sは親たちの反対を全く意に介さず、少女も当初は自分の父親に対し、Sについて「真剣に付き合っている」「彼はそんな悪い人じゃない」と必死に弁明した[書籍 93]。しかし少女はやがて「父親の度重なる説得」に根負けしたためかSを遠ざけるようになり、Sから呼び出されても無視するようになったため[書籍 93]、これに激怒したSは少女の家に押し掛けて少女の家族を脅したが、これに怯えた家族は少女を東北地方の親戚の家に預けた[書籍 93]。Sはナイフで少女の父親を脅迫して少女を連れてくるよう迫ったことから、軽犯罪法違反に問われ家庭裁判所に書類送致された[書籍 93]。
- Sは永瀬宛の手紙で「交際相手の少女はとても寛容で、当時喧嘩に明け暮れていた自分をありのまま受け入れてくれたおかげで『本音をぶつけ合える相手とともに平和に暮らしていた』のに彼女の両親が『Sが娘に財布から金を盗ませるなどして誑し込んでもてあそんでいる』と因縁をつけて中を引き裂いたせいで自分は『殺伐とした世界』に逆戻りさせられた。どうせならあの時に感情に任せて彼女の両親を殺しておいた方がよかっただろう。そうすれば(後の一家殺害事件のような)無関係な人間ではなく『正当な理由・動機付けのある殺人』で済んでいたはずだ。しかし当時は『一応は彼女の親だから』という理由だけで躊躇してしまい、現在では『絶対に感情を貫き通すべきだった』と後悔すらしている」と綴っている[書籍 94]。
- Sは1989年11月ごろから祖父Xが経営していた市川市内の「ウナギ加工・販売などの仕事」の手伝いをするようになったが[判決文 1]、働き始めた動機は「将来を真剣に考えた末の決断」ではなく「祖父Xの猛烈な働きようを見て『仕事はそんなに面白いものなのか』と興味を覚えたから」に過ぎなかった[書籍 95]。Sは店の仕事を時々手伝う程度で[新聞 27]、親類からすれば「手伝いの真似事」程度でしかなかった上[雑誌 2]、「タレを扱う仕事は汚い」と嫌がったり[雑誌 1]夕方過ぎからの出勤・無断欠勤も多く[新聞 26]、おとなしそうな反面[新聞 26]店の備品を足蹴にしたり[雑誌 1]猫を放り投げたりすることもあり[雑誌 1]ギャンブルなどの遊び・飲酒に明け暮れる生活だった[雑誌 4][新聞 26][新聞 43]。
- 親類は『週刊文春』の取材に対し、事件直後「Sは真面目に働かないばかりか店の売上金を勝手に持ち出すこともしばしばあった。その時は各支店から集まってくる売上金の袋の中でも二十数万円と入った一番大きな袋を持って行った」と証言した[雑誌 4]。実際にSは事件の約2年前(1989年12月ごろ)の夜中店のドアを破って侵入して売上金の現金120万円を盗んだ[書籍 96][雑誌 2]。
- その1か月後となる1990年(平成2年)1月17日[判決文 1]、祖父Xは店の金庫から現金6万円がなくなったことに気付いて娘Yにその旨を伝えたが、Yは「自分の息子(S)が父親Xから疑われた」と思い腹を立てたためか、このことをSに話した[書籍 96]。盗みの疑いをかけられて立腹したSは同日午後10時ごろに祖父Xの下を訪れ[判決文 1]。早朝からの重労働で疲れ切って[書籍 96]就寝中だった祖父Xの顔面を蹴り上げた[書籍 96]。祖父XはSの足の親指が左目に突き刺さったことで[書籍 96]左眼球破裂を起こし[雑誌 3]失明した[書籍 96]。また水晶体脱臼・硝子体出血などの負傷により[判決文 1]千葉大学附属病院に約2カ月間入院することとなり[雑誌 3]、さらに糖尿病により残った右目も視力が低下してほとんど見えなくなった[書籍 96]。
- Sは1990年9月、母Yから80万円で購入してもらったオートバイに乗っていた途中で交通事故を起こし肋骨8本を骨折したが、その治療が長引くうちに怠け癖がつき仕事を休みがちになった[判決文 1]。
- 祖父Xは地元では「頑固で仕事一筋な人柄」で知られていた一方で人情家でもあり、親交のある信用金庫職員・商工会関係者から「面倒を見てほしい」と頼まれると「少年鑑別所・少年院収容歴のある者」「暴走族現役メンバー」「暴力団事務所に出入りしていたチンピラ」などのような不良でも引き受けていた[書籍 95]。そのような事情から鰻屋の仕事仲間には「不良崩れ」が多かったために「高校中退」の学歴を持っていたSは周囲から「『真っ当ないい家の坊や』にすぎない」とみられていたが、休憩時間中に職場の先輩たちから「長距離トラックの荷抜き方法」「自動販売機荒らしの方法」「盗んだバイクの転売先」「高価な輸入アルミホイール・タイヤの外し方・買取先」「変造ナンバープレートを請け負う板金工の紹介」「シンナーの売人の連絡先」など非行の方法を習ってはそれらの知識を利用しさまざまな非行に手を染めて金を稼いだ[書籍 95]。また「本物の喧嘩のやり方は『ナイフ・ビール瓶など使えるものはなんでも使って“相手が自分の顔を二度と見たくなくなるほど”徹底的に叩きのめすことだ。そうしないと必ず復讐される」とも習ったことから、Sは「『腕力に任せて素手だけで喧嘩する』など『子供の自己満足』にすぎない」と悟った[書籍 95]。
- Sは「店のワゴン車でウナギの配達に向かう途中、商店街の狭い道中で前方を走行していた不良たち相手に煽り運転をしてトラブルを起こし、鰻焼台で使うような長さ約110cmの鉄筋で相手を殴りつけて負傷させて警察に連行された」事件を起こしたもあったが、その際は「『4人の男を相手に一歩も引かず圧倒した』と酔いしれ罪悪感などまったく感じなかった」上[書籍 95]、また「自分と最も年齢が近かった店の同僚」から挑発を受けたことに腹を立て、同僚を店の裏庭に呼び出し頭をスパナで殴打して負傷させ[書籍 95]、それ以降同僚が事件に来なくなるといった事件も起こした[書籍 97]。
- Sの家庭内暴力・喧嘩などの非行を裏付けるように『週刊文春』(文藝春秋社)には「Sの部屋・仕事場の鰻屋には何度も警察官が訪れていた」という証言があった[雑誌 3]。祖父Xはこのように暴力沙汰を繰り返す孫の将来を心配し、Sを「お前は顔も声も父親(Z)に近くなってきた。このままだとあいつのようになってしまうぞ」と諫めたが、Sはその忠告も全く意に介さなかった[書籍 97]。
- Sは無断欠勤により[書籍 97][判決文 1]事件発生年の1992年1月には鰻屋を辞め[新聞 79]、事件直前は無職同然の身だった[判決文 1]。
- 1991年以降
- Sはウナギ店を辞めてからギタースクールに通うようになったほか、バンドの練習・ファッションヘルスの店員・ラブホテルのルームボーイなどアルバイトに明け暮れていた一方で[書籍 97]職を転々としており定職には就いていなかった[新聞 43]。
- やがてSはバンド仲間・貸しスタジオで知り合った仲間たちとともにハルシオン・ブロン・LSDなどさまざまな薬物を乱用するようになった[書籍 98]。薬物に手を染めた動機は「幼少期に憧れたジミ・ヘンドリックスをはじめとしたロックのスーパースタたちが薬物を常用していた」ことから「音楽で成功するにはドラッグが必須アイテムだ。ギターの腕が彼らに及ばないならせめてライフスタイルだけでも真似してみたい」と考えたためだった[書籍 97]。
- 薬物仲間の多くは「中学から不登校状態で街で様々な非行を働いていた札付きの不良」ばかりで「木刀で暴れ回った末に父親を失職させて家族を路頭に迷わせるほど『S以上に激しい家庭内暴力』を振るっていた者」「敵対するグループのメンバーの家に放火を繰り返していた者」「自分の交際していた女性をピンクサロンに売り飛ばしては昼間からパチンコ・競馬に没頭している者」「覚醒剤を常習してその中毒症状で廃人寸前となり、精神科病院に入院させられてもそこから逃げ出して街を徘徊していた者」までいたが、Sはそのような非行に手を染めている者たちとつるむようになっても「こんな荒んだ連中に比べれば自分はまだずっとまともだ」と思っていた[書籍 98]。
- 事件1年前の1991年2月に自動車学校の合宿講習で運転免許証を取得したSは翌3月、母親の援助で自動車ローンを組み433万円余りのトヨタ・クラウンロイヤルサルーンを購入した[判決文 1]。ローンは4年間48回払いで頭金50万円はそれまで乗っていた400ccのバイクを売却した上でアルバイトで貯めた金を足して払ったが、ローンの支払いが遅れると母親Yが代わりに払っていた[書籍 31]。クラウンのトランクには常に「前述の暴力事件で凶器として使用した鉄筋」を柄に滑り止めのテープを巻いた上で3,4本隠し持っていた[書籍 99]。
- Sは1991年6月に母親Yから契約金58万円余りを出してもらって船橋市本中山にある[判決文 1]2階建ての新築アパートで一人暮らしを始めた[書籍 31]。そのアパートは[書籍 31]中山競馬場付近の[新聞 26]JR総武本線下総中山駅から徒歩5分・京成本線京成中山駅から徒歩7分の立地で家賃は7万円[書籍 31](共益費込みで約10万1,000円)で[新聞 27]、1991年秋に家賃を滞納して以降は母親が代わりに振り込んでいた[新聞 43]。
- 『中日新聞』報道によれば母親Yは「自分や弟に対する家庭内暴力が激しくなったために耐えかね、Sを別居させるため」に前述の部屋を与えた[新聞 26]。
- 『週刊新潮』1992年3月19日号は「Sが住んでいたマンションの近隣住民の話」として「アパートに住んでいた時のSは『髪にパーマをかけた身長180cmの大柄ながっちりした男』で、毎晩のようにクラウンで出掛けては深夜2,3時ごろに帰宅するが、その際にドアを大きな音を立てながら閉めるなど『近所迷惑を顧みない人間』だった。『肩で風を切って与太った雰囲気で歩く』姿はとても19歳とは思えず『25,26歳ぐらい』と思われていた」と報道した[雑誌 4]。またSは1991年秋、違法駐車により近隣住民とトラブルを起こしたことで警察が出動する騒ぎを起こしていた[雑誌 4]。
- Sはこのころまでに身長・体重ともに「同じ18歳男性の平均をはるかに凌駕するまで」に成長していたほか、高校生の時に始まった飲酒・喫煙が生活習慣となっていた[判決文 1]。
- その一方で幼少期に家庭崩壊の元凶となった父親Zが母・弟の暮らすマンション付近に現れることが度々あった上、過去に自分がSに苛烈な虐待を加えたことを棚に上げてSの家庭内暴力を注意したことに対し、反発したSがZと口論どころか殴り合いにまで発展し、時にはSが包丁を持ち出したために救急車が出動する騒動にまで発展した[書籍 99]。
- Sは1991年7月ごろ[判決文 1]、ウナギ屋の同僚たちに連れて行かれた市川市内のフィリピンパブで[書籍 100][判決文 1]マニラ出身のホステスの女性(当時21歳)と出会い[書籍 100]、やがて恋愛関係に発展して時折店外でデートをするようになった[書籍 101]。それ以前にもSは美容師・フリーターの女性と同棲を経験したが、暴力が原因でいずれも1,2か月で別れていた[書籍 102]。やがてその女性から結婚を持ちかけられたため、Sは当初こそ「長期滞在が目的だろう」と考えて断っていたが、女性の必死の懇願に折れたことに加え「彼女は家事が上手くできる上に自分に尽くしてくれる。一緒に生活したら楽しいかもしれない」と考えて結婚を決意した[書籍 100]。その上で母親Yにその女性のことを話したが、母親Yから「日本人かせめて白人にしろ、フィリピン人は絶対にダメだ」と反対され、その上に父親Zまで加わったためにSは激怒し、両親の反対を押し切って1人で女性との結婚手続きを取った[書籍 100]。
- 1991年10月9日、女性は半年間の就労ビザ満了を受けてフィリピンに帰国した[書籍 103]。Sもその10日後(1991年10月19日)に女性の家族への挨拶・結婚手続きのため後を追ってフィリピンに渡航した[書籍 103]。女性の実家は「東南アジア最大のスラム街」とされるマニラ近郊地区トンドにあったが[書籍 104]「極端な潔癖症」であったSもこの時ばかりは不潔さを特に意に介さずリラックスした[書籍 104]。
- Sは渡航翌朝から現地の日本領事館・マニラ市役所に通って1991年10月25日にマニラ市役所で結婚の宣誓を行い、1991年10月30日には夫婦で日本領事館に結婚の書類を届け出て[書籍 104]翌1991年10月31日付で正式に婚姻した[判決文 1]。そして女性が洗礼を受けたカトリック教会で講習を受けた後、同年11月にはマニラで結婚式を挙げた[書籍 104]。
加害者親族のその後
Sの祖父Xの反応
永瀬隼介の取材に対しSの祖父Xは「生きていても苦しい事ばかりで何もいいことはないしもう死にたい。なぜ(4人を殺害した凶悪事件を起こした)あいつ(S)が今でも生きていられるか不思議でならない。自分がそのような事件を起こしたら耐え切れずに自殺する」と述べた[書籍 96]。
その上で事件当時の心境について「Sが逮捕された日に突然、自分の家に新聞記者が来て『あいつ(S)が人を殺した』と聞かされた。『Sはろくでなしだ』とは承知していたが『4人も人を殺す』とは思っていなかったから、聞いたことが理解できず血の気が引き、腰が抜けそうだった」と述べた上で[書籍 96]、Sに対しては「あの事件のせいですべて滅茶苦茶になった。あれだけのことをやったんだからSはもう生きてはいられないだろうし、自分ももう関わりたくない。Sは法に従えばいいんだ」と吐き捨てた[書籍 96]。
これに加えてSの父親である娘婿ZについてXは「自分はZを初対面の時から『人相が良くない上に真面目に働くような顔ではない』から『娘Yと結婚させたくない』と思っていたのにYは自分の言いつけをちゃんと聞いてくれなかった。Yが言いつけを聞いてくれていたら『ろくでなしの孫』(S)などこの世に生まれていない。いっそSは離婚するときにZにくれてやればよかった」などと述べた[書籍 96]。
なお伴侶としてXと苦楽を共にし[書籍 96]「Sを最もかわいがっていた』という祖母(Xの妻)は被告人Sが控訴中の1995年に他界している[新聞 123]。
- 事件当時のXについての報道
- しかしその一方で『中日新聞』1992年3月10日朝刊[新聞 26]・『河北新報』1992年3月27日付紙面は[新聞 198]それぞれ本事件について特集記事を組んだ際、Sについて「『ギター・オーディオ購入費などの遊興費』『一人暮らしをしていた船橋市内のマンションの家賃』『犯行に用いた高級車(トヨタ・クラウン)』など、祖父Xからさまざまな代金の援助を受け続けていた。中山競馬場の競馬開催日にはSの姿がよく見られた」と報道している[新聞 26][新聞 198]。
- 『朝日新聞』は「Sは中学校に入学したころから祖父・母親に多額の現金をせびっていた」と報道した上[新聞 27]、『朝日新聞』・『週刊新潮』の報道は「祖父Xは鰻屋の従業員の前で『また夜遊びか』と笑いながら、Sに1万円札数枚を手渡すこともよくあった」と報道している[新聞 27][雑誌 4]。
- 「Sを中学時代から知る水産加工品店(鰻屋)の同僚」は事件直後に『中日新聞』の取材に対し「Sはやりたいことはなんでもやった。中学時代から飲酒・喫煙をしていたしギャンブルも好きだった。野球も結構やっていたが適当にサボってバンドなどもやっていた。事件直前は女ばかり追いかけ回しており『金で思うようにならないと暴力で(服従させる)』というパターンだった」と証言した[新聞 26]。その一方で「Sは店でも年上の従業員などには常に遜っていて従順だったし、中学時代も不良たちとは適度に距離を置いて目を付けられないようにしていた。結局、Sは『優しい人や弱い者に徹底的につけ込む性格』」と「気弱な一面」も明かした[新聞 26]。また「祖父に甘やかされ気ままに育ってきた」というSについて[新聞 26]親類の1人は事件直後に『朝日新聞』の取材に対し「あいつはやりたいようにやってきた」と冷たい言葉で語った[新聞 27]。
- こうした証言から『中日新聞』1992年3月10日朝刊記事はSの素顔について「『他人への思いやりを知らない本能むき出しの人間像』であり、その人格形成には複雑な家庭環境が影を落としていることが窺えた」と報道した[新聞 26]。
- 鰻屋のその後
- また事件当時に千葉県内に在住しており、船橋市・市川市境に実家がある山口敏太郎は自著にて「祖父Xが営んでいた鰻屋は山口の地元の駅前などを香ばしい匂いで充満させていた評判の名店だったが、事件後には『あの店に金を出したら殺人鬼の弁護士費用になる』という噂が立ったため、やがて客が来なくなり閉店に追い込まれた」と述べた[書籍 105][書籍 106]。
- 山口はさらに「被害者3人が背中から刺されて殺されたことから近所の人々は『Sはウナギを背開きにするかのように人間を切り裂いた』と恐れ、『この事件はウナギの祟りではないか』という噂まで飛んだ」と述べている[書籍 105][書籍 106]。
母親・弟のその後
Sの母Yは1999年時点で次男(Sの5歳年下の弟、当時大学生)とともに「息を潜めて」暮らしており、外回りの営業の仕事に従事しつつ週1回の割合で長男Sのいた東京拘置所を訪れて面会を続けていた[書籍 107]。Yは面会の度に「季節ごとの衣類・嗜好品・書籍など」を差し入れて息子の健康を気遣っていた[書籍 107]。
永瀬隼介は「(1998年から2000年にかけての)冬のある夜」にSの母Y・Sの弟が暮らしていた家を取材した[書籍 108]。Sの弟は「顔・体格ともに兄Sとそっくりだった」が、S自身が「自分とは正反対の人間」と述べていたように「穏やかで礼儀正しい性格」で、永瀬に対し終始丁寧に応対していた[書籍 108]。母Yは永瀬の取材に対し「もうそっとしておいてください。あの子も今は反省しているんですから」と嗚咽交じりの声で取材を断った[書籍 108]。
脚注
注釈
- ^ 事件当時の現場一帯(市川市行徳地区)の所轄警察署だった。その後、1995年に浦安警察署(葛南警察署から改称)から現場一帯を管轄する行徳警察署が分離発足し、2019年現在は行徳署が現場一帯を管轄している。
- ^ 少年法第61条「第4章雑則:記事等の掲載の禁止」
- ^ 実際にはSに限らず麻原彰晃らオウム真理教事件の死刑囚13人・永山則夫(永山則夫連続射殺事件)・宮崎勤(東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件)・宅間守(附属池田小事件)・加藤智大(秋葉原通り魔事件)など過去に殺人前科のない初犯で死刑が確定した死刑囚は多数存在する。「永山基準」が示されて以降「殺害された被害者が1人でかつ無期懲役刑に処された前科がない場合」でも三島女子短大生焼殺事件(殺人前科なし)・JT女性社員逆恨み殺人事件(殺人前科はあるが有期懲役)など最高裁で死刑が確定したケースが存在する。
- ^ 「コンクリート事件」の約1年前となる1988年2月に発生した名古屋アベック殺人事件では1989年6月、第一審で事件当時19歳少年に死刑・17歳少年にも(死刑相当の)無期懲役といった極刑が宣告されていたが、Sは永瀬との会話では同事件について言及していない[書籍 42]。
- ^ 永山則夫連続射殺事件、大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件(被告人3人中2人)、光市母子殺害事件といった死刑が確定した少年事件でも下級審(第一審・控訴審)は無期懲役判決が出ていた[新聞 158]。永山事件以降(および平成)に発生した少年犯罪では「第一審から上告審まで一貫して死刑判決が支持されて確定した事件」は2016年(平成28年)に石巻3人殺傷事件の最高裁判決(一・二審の死刑判決を支持)が出るまで本事件のみだった[新聞 158]。
- ^ 2016年時点では「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)が実施している[書籍 48]。
- ^ Sの死刑確定以降、2002年5月10日[書籍 50]、2003年5月末[書籍 51]、2004年7月末[書籍 52]、2005年7月31日と[書籍 53]、「死刑廃止の会」が計4回、確定死刑囚について調査を行ったが、いずれもSが再審請求をした旨の記述はない。
- ^ 1990年代初期当時は死刑執行モラトリアム(死刑執行一時停止)期にあり、長谷川信・梶山静六・左藤恵・田原隆と4代にわたり法務大臣による死刑執行命令が出されなかった。1993年3月26日、後藤田正晴(警察官僚出身)が「法秩序、国家の基本が揺らぐ」(国会答弁)として死刑執行命令を発したことにより、3人の死刑が執行されたことでこのモラトリアムは終わった。
出典
判決文
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- ^ 『読売新聞』1994年8月8日千葉県版朝刊京葉面24面「市川の一家4人殺しあす注目の判決 少年事件と死刑の是非 検察側『極刑を』弁護側『無期』主張」
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- ^ a b c d e f 『千葉日報』1994年8月9日朝刊社会面19面「『冷酷、非道』と断罪 市川市の一家4人殺害判決 被告、判決にも表情変えず 一瞬、静まり返る廷内」「千葉地裁前 傍聴券を求め長い列 異常な犯罪に強い関心」「判決に失望 死刑廃止議員連盟が声明」「解説 死刑存廃論議に波紋 少年犯罪に厳しい姿勢」
- ^ a b c d e f g h i j 『中日新聞』1994年8月8日夕刊1面「一家4人殺害事件 19歳少年(当時)に死刑判決 千葉地裁『犯行は残虐で冷酷』」
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テレビニュース報道出典
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雑誌報道出典
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各種声明出典
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その他出典
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- ^ a b c “死刑執行があったことによって”. 石元太一のブログ (2018年3月9日). 2018年4月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年4月25日閲覧。
参考文献
参考判決文
- 千葉地方裁判所刑事第4部判決 1994年(平成6年)8月8日 『判例時報』第1520号56頁・『判例タイムズ』第858号107号、平成4年(わ)第1355号/平成5年(わ)第150号、『傷害、強姦致傷、強盗殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗被告事件』。
- D1-Law.com(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28019082
- 3名に対する強盗殺人罪、1名に対する殺人罪のほか、強盗強姦、強姦、傷害、恐喝、窃盗等の犯罪を連続して敢行した犯行当時19歳の少年の被告人に対し死刑が言い渡された事例。
- 犯行当時、被告人に是非を弁別する能力及び是非の弁別に従って行動を抑制する能力が著しく減退し、心神耗弱の状態にあったことを疑わせる事情はないとして、被告人に完全な責任能力を認めた事例。
- 被告人が殴打暴行を加えて傷害を負わせた後、俄に欲情を催して被害者と強いて姦淫したものであるときは、強姦の犯意を生ずる以前の傷害罪とその後の強姦罪の2罪が成立する。
- 強盗殺人行為終了後、新たな決意で別の機会に他人を殺害したときは、たとえ時間的に先の強盗殺人に接近しその犯跡を隠蔽する意図の下に行われた場合であっても、別個独立の殺人罪が成立する。
- 運転免許証及び自動車検査証も、刑法235条の財物である。
- 被告人の隙を見て逃げ出した被害者の車両内から各別名義の物件を一括窃取する行為は1個の窃盗罪に当たる。
- 暴力団員を装い金員及び免許証の交付を要求し、応じなければ、更に身体に危害を加えるべき勢威を示して畏怖させ、自動車運転免許証の交付を受けた場合は、恐喝罪が成立する。
- 『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:28019082
- 犯行当時少年であった被告人が、およそ5カ月間に、3名に対する強盗殺人、1名に対する殺人のほか、強盗強姦、強姦致傷、強姦、傷害、恐喝、窃盗を連続して行った事案において、犯行当時の被告人に完全責任能力を認めて、いずれの犯罪についても有罪とし、死刑を言い渡した事例。
- 『判例タイムズ』第858号107号
- 3名に対する強盗殺人罪、1名に対する殺人罪のほか、強盗強姦、強姦、傷害、恐喝、窃盗等の犯罪を連続して敢行した、犯行当時少年の被告人に対し死刑が言い渡された事例。
- 被告人の尿酸血中濃度や胎児期における大量の黄体ホルモンの投与あるいは被告人の脳波の微細な異常等と被告人の過度の攻撃性との関連性を否定し被告人に完全責任能力を認めた事例。
- いったん強盗殺人の行為を終了したあと、新たな決意に基づいて別の機会に他人を殺害したときは、右殺人の行為は、たとえ時間的に先の強盗殺人の行為に接近し、その犯跡を隠蔽する意図の下に行われた場合であっても別個独立の殺人罪を構成するとされた事例。
- 東京高等裁判所刑事第2部判決 1996年(平成8年)7月2日 『判例時報』第1595号53頁、『判例タイムズ』第924号283頁、『東京高等裁判所(刑事)判決時報』第47巻1 - 12号76頁、『高等裁判所刑事裁判速報集』(平8)78頁、平成6年(う)第1630号、『傷害、強姦致傷、強盗殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗被告事件(著名事件名:市川の一家四人殺害事件控訴審判決)』。
- D1-Law.com(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28025020
- 3名に対する強盗殺人罪、1名に対する殺人罪等を連続して犯した少年に対して死刑を言い渡した第一審判決に対する控訴が棄却された事例。
- TKCローライブラリー(LEX/DBインターネット) 文献番号:28025020
- 傷害・強姦致傷・強盗殺人・強盗強姦・恐喝・窃盗被告事件について、犯行当時少年の被告人につき死刑を言い渡した原判決に対し、被告人は、爆発型精神病質者、類てんかん病質者であって、胎児期に施用を受けた多量の黄体ホルモンの影響等により生来的に脳を過剰に男性化され攻撃的になっていたことを総合して考慮すると、各犯行当時に心神耗弱状態にあったとして、控訴をした事案において、被告人のために酌むべき事情を総合して十分に考慮し、死刑がやむを得ない場合における究極の刑罰であることに思いをいたしても、その犯した罪の重大性に鑑みると、被告人を死刑に処するのは誠にやむを得ないと判断するから、被告人を死刑に処した原判決の量刑が重すぎて不当であるとは言えないとして、控訴を棄却した事例。
- 『東京高等裁判所(刑事)判決時報』第47巻1 - 12号76頁
- 胎児期に流産防止のため黄体ホルモンの投与を受けた結果、脳の男性化を生じたことなどを理由とする心神耗弱の主張を排斥した原判決が維持された事例。
- 『判例タイムズ』第924号283頁
- 3名に対する強盗殺人罪、1名に対する殺人罪等を連続して犯した犯行時少年の被告人につき死刑を言渡した第1審判決に対する控訴が棄却された事例。
- 最高裁判所第二小法廷判決 2001年(平成13年)12月3日 『最高裁判所裁判集刑事編』(集刑)第280号713頁、平成8年(あ)第864号、『傷害、強姦、強姦致傷、強盗殺人、殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗被告事件』。
- 裁判所ウェブサイト
- 死刑の量刑が維持された事例(市川の一家強盗殺人事件)
- TKCローライブラリー(LEX/DBインターネット) 文献番号:28075105
- 被告人が、B方に赴き、在宅していたBの祖母を殺害し、その後帰宅したBの母と父を順次柳刃包丁で殺害した上、現金、預金通帳等を強取するなどした事案で、被告人は、上記強盗の最中、Bを強姦するなどしたほか、傷害、強姦、強姦致傷、恐喝、窃盗を繰り返しているところ、その犯行態様、結果ともに悪質であることなどの情状に照らすと、被告人の罪責はまことに重大であり、本件各犯行当時、被告人が18歳から19歳であったことなどの事情を考慮しても、原判決が維持した第1審判決の死刑の科刑は、やむを得ないとし、上告を棄却した事例。
関連書籍
雑誌記事
- 週刊誌『週刊新潮』(新潮社)1992年3月19日号(1992年3月12日発売)ISSN 0488-7484、NDLJP:3378720、全国書誌番号:00010852 p.145-149掲載 特集記事「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」
- Sの実名・中学卒業時の顔写真や「Sが事件当時住んでいた船橋市内のマンション」の写真が掲載された。
- 写真週刊誌『FOCUS』(新潮社)1992年3月20日号(1992年3月13日発売)全国書誌番号:00036138 p.68-73「『待伏せ刺殺』『溶解炉』『伯母撲殺』『妹殺し』 続発『残酷殺人』若者の動機」○○一家4人を待伏せして殺した「19歳のワル」
- Sの実名・フードを被されて送検される際のSの写真に加えて被害者一家のうち男性A・妻Dの顔写真を掲載した。送検時のSの写真は当時『FOCUS』記者の清水潔が撮影した。
- 『新潮45』(新潮社)1999年6月号(1999年5月発売)NDLJP:3374836、全国書誌番号:00043183 p.195-231「特別ノンフィクション 一家四人惨殺『十九歳』犯人の現在(いま)」祝康成
- Sの実名を掲載した。内容は後述の永瀬の著書『19歳の結末』『19歳』の大元となっている。
- 週刊誌『週刊新潮』(新潮社)2001年12月13日号(2001年12月6日発売)ISSN 0488-7484、全国書誌番号:00010852 p.34掲載 「インシデントTEMPO『死刑が確定した一家惨殺「19歳の結末」』」
- Sの実名・中学卒業時の顔写真に加えてSと接見を重ねた永瀬(当時・「祝康成」名義)のコメントが掲載された。
永瀬隼介による書籍
- 祝康成(永瀬隼介)『19歳の結末 一家4人惨殺事件』新潮社、2000年9月15日。ISBN 978-4104398010。
- 永瀬隼介『19歳 一家四人惨殺犯の告白』角川文庫、2004年8月25日。ISBN 978-4043759019。
- Sの死刑が確定した3年後の2004年、『19歳の結末』を新たに第9章「死刑」(2000年の『19歳の結末』刊行から2001年の最高裁判決まで)を描き下ろしとして加えた上で文庫化した書籍。前者と同様にSは実名で登場するがその他の事件関連人物は全て仮名である。
その他書籍
- 丸山佑介「13【少年犯罪】市川一家殺人事件」『判決から見る猟奇殺人ファイル』彩図社、2010年1月20日、122-131頁。ISBN 978-4883927180。
- Sの実名を掲載した。
- 犯罪事件研究倶楽部「市川一家4人殺人事件」『日本凶悪犯罪大全SPECIAL』イーストプレス、2011年12月16日。ISBN 978-4781606637。
- Sの実名を掲載した。なお、ルビはイニシャルで「S・M」となっているが、正しくは「S・T」である。
- 蜂巣敦、山本真人「市川市一家四人殺害事件―人間が暴発する直前に見た『意味』と『無意味』のパノラマ」『殺人現場を歩く』ちくま文庫、2008年2月6日、59-73頁。ISBN 978-4480424006。
- Sの実名を掲載した。
- 福田洋「「千葉・十九歳少年、一家四人殺し」」『20世紀にっぽん殺人事典』社会思想社、2001年8月15日、687-688頁。ISBN 978-4390502122。
- この文献では「事件当日午後にSが路上でBと出会い、脅してB宅に案内するよう命じた」とあるが、これは誤りである。
- 村野薫(編集)、事件・犯罪研究会 (編集)、鎌田正文「市川の一家4人殺害事件」『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』東京法経学院、2002年7月5日、45-46頁。ISBN 978-4808940034。
- 山口敏太郎「十五…うなぎ」『恐怖・呪い面~実話都市伝説』TO文庫、2013年6月1日。ISBN 978-4864721271。
- 山口敏太郎「うなぎ(1992)」『秘・テレビでは言えなかった! 山口敏太郎の怖すぎる都市伝説』TOブックス、2016年12月25日。ISBN 978-4864725392。
- 鈴木ユーリ「昭和・平成「少年犯罪」狂気の系譜 変わりゆく"少年A"と"少女A"の実像 「ヤンキー型犯罪」と「理由なき殺人」の果てに」『昭和・平成 日本の凶悪犯罪100』宝島社、2017年7月26日、182-183頁。ISBN 978-4800273413。
- 年報・死刑廃止編集委員会『世界のなかの日本の死刑 年報・死刑廃止2002』インパクト出版会、2002年7月15日、234,238頁。ISBN 978-4755401237。
- 年報・死刑廃止編集委員会『死刑廃止法案 年報・死刑廃止2003』インパクト出版会、2003年7月15日、360,365頁。ISBN 978-4755401312。
- 年報・死刑廃止編集委員会『無実の死刑囚たち 年報・死刑廃止2004』インパクト出版会、2004年9月20日、292,299頁。ISBN 978-4755401442。
- 年報・死刑廃止編集委員会『オウム事件10年 年報・死刑廃止2005』インパクト出版会、2005年10月8日、196,204頁。ISBN 978-4755401572。
- 年報・死刑廃止編集委員会『光市裁判 年報・死刑廃止2006』インパクト出版会、2006年10月7日、278,287頁。ISBN 978-4755401695。
- 年報・死刑廃止編集委員会『死刑と憲法 年報・死刑廃止2016』インパクト出版会、2016年10月10日、220頁。ISBN 978-4755402692。
- 年報・死刑廃止編集委員会『ポピュリズムと死刑 年報・死刑廃止2017』インパクト出版会、2017年10月15日、188,205頁。ISBN 978-4755402807。
- 年報・死刑廃止編集委員会『オウム死刑囚からあなたへ 年報・死刑廃止2018』インパクト出版会、2018年10月25日、140-148頁。ISBN 978-4755402883。
- 2006年版ではSの実名を掲載したが、2016年版および2017年版では「犯行当時少年で実名掲載の了承が得られていない」としてイニシャル表記されたものの、名前の読みを誤り「S・M」と表記されていた。死刑執行後初めて刊行された2018年版では正しいイニシャル「S・T」と表記されている。
関連論文
- 覚正豊和「少年の死刑事件 : 千葉地裁平成6年8月8日判決に関する一考察(The Death Penalty for Minors : A Case Study of the Chiba District Court Trial of Aug. 8,1994)」『『千葉敬愛短期大学紀要』(BULLETIN OF CHIBA KEIAI JUNIOR COLLEGE)』第17巻、敬愛大学・千葉敬愛短期大学、1995年2月15日、22a-7a、NAID 110004724876、NCID AN00364106。
関連項目
- 少年犯罪
- 少年死刑囚
- YUMENO - 本事件を基に制作された映画。
- リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件 - 本事件から15年後の2007年、本事件と同じ市川市行徳地区のマンションで発生した殺人事件。