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川島武宣「日本社会の家族的構成」『中央公論』6月号 <br />桑原武夫「第二芸術―現代俳句について―」『世界』11月号 |url= http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/kondou.pdf/$File/kondou.pdf|format=pdf|accessdate=2019-07-04}}</ref><!--俳句の転載を含む文をとりあえず削除-->。また、京都大学人文科学研究所(京大人文研)を本拠としてさまざまの分野の研究者を組織し先駆的な[[学際]]共同研究システムを推進、『フランス[[百科全書]]の研究』『[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]研究』(1951年[[毎日出版文化賞]])、『[[宮本武蔵]]と日本人』など、日本の[[人文科学]]分野における数々の業績を通じて、[[梅棹忠夫]]、[[梅原猛]]、[[上山春平]]、[[鶴見俊輔]]、[[多田道太郎]]ら多くの文化人の育ての親となった。[[加藤秀俊]]、[[松田道雄]]、黒田憲治、[[井上清]]、[[梅棹忠夫]]、[[河野健二]]らとは「日本映画を見る会」を結成し、チャンバラ映画やメロドラマを批評の対象にした<ref>加藤秀敏『わが師・わが友―ある同時代史』(1982年)、中央公論社。{{NCID|BN05864330}}</ref>。
川島武宣「日本社会の家族的構成」『中央公論』6月号 <br />桑原武夫「第二芸術―現代俳句について―」『世界』11月号 |url= http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/kondou.pdf/$File/kondou.pdf|format=pdf|accessdate=2019-07-04}}</ref><!--俳句の転載を含む文をとりあえず削除-->。また、京都大学人文科学研究所(京大人文研)を本拠としてさまざまの分野の研究者を組織し先駆的な[[学際]]共同研究システムを推進、『フランス[[百科全書]]の研究』『[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]研究』(1951年[[毎日出版文化賞]])、『[[宮本武蔵]]と日本人』など、日本の[[人文科学]]分野における数々の業績を通じて、[[梅棹忠夫]]、[[梅原猛]]、[[上山春平]]、[[鶴見俊輔]]、[[多田道太郎]]ら多くの文化人の育ての親となった。[[加藤秀俊]]、[[松田道雄]]、黒田憲治、[[井上清]]、[[梅棹忠夫]]、[[河野健二]]らとは「日本映画を見る会」を結成し、チャンバラ映画やメロドラマを批評の対象にした<ref>加藤秀敏『わが師・わが友―ある同時代史』(1982年)、中央公論社。{{NCID|BN05864330}}</ref>。


京都大学人文科学研究所が東方文化研究所から引き継いだ資料{{efn|東方文化研究所は1938年&ndash;1944年 (昭和13年&ndash;19年) にわたり、水野清一と長廣敏雄を中心に中国の[[雲崗石窟]]群を精査する<ref>{{cite journal||author=長広敏雄|title= 回想の雲岡石窟調査 (「雲岡石窟」解禁(特集))|journal= [[芸術新潮]] |volume= 25 |number= 3 |date-=1974年3月 |publisher= 新潮社 |pages= 23-25 |ISSN=0435-1657}}</ref>。細密な写真のほか、拓本や実測図面等を大量に持ち帰って報告書の出版直前に[[東京大空襲]]で印刷原稿を失う。}}に雲崗石窟群のまとまった写真や記録がある。[[第二次世界大戦]]を挟んでそれを報告書にまとめようと[[水野清一]]と[[長広敏雄]]たちが企画するものの難航していた。同じ研究所にいた桑原はこの『雲石石窟調査報告書』刊行について、[[吉田茂]]と面談予定のフランス人の知己に状況を説明、間接的に同意を引き出し、同書は1951年の発刊に至る{{sfn|雲石石窟調査報告書をめぐって|2019|p=1-3}}。吉田は長広が6月に届けた同書を直後の[[サンフランシスコ講和条約]]会議に携えたとされる{{efn|当時、中国国外への持ち出しを禁じられた地図は中国との国交回復により[[郭沫若]]の協力で返却を受けている。この時のごく部数をしぼった増補版『雲岡石窟續補 : 第十八洞實測圖』 (1975年) はのちに複製され国書刊行会版{{sfn|国書刊行会|2013|}}に収載。}}。当該資料のまとまった公刊が達成されるのは2017年である<ref>{{cite book|和書|ncid=BB15660048|author1=水野清一|authorlink1=水野清一|author2=長広敏雄|authorlink2=長広敏雄|author3=田中重雄|others=(総監修) 岡村秀典。(監修) 京都大学人文科学研究所 ; [[中国社会科学院]]考古研究所。(続補の著者) 水野清一 ; 田中重雄 ; 日比野丈夫|title=雲岡石窟 = Yun-Kang|publisher=北京 : 科学出版社 ; 東京 : 国書刊行会 (発売)|language=ja, en|date=2013.12-2017.8|ref={{sfnref|国書刊行会|2013|}}}}</ref>。別途、1975年に限定部数で出した図面{{sfn|雲石石窟調査報告書をめぐって|2019|p=1-3}}も複製してこれに収載された。
京都大学人文科学研究所が東方文化研究所から引き継いだ資料{{efn|東方文化研究所は1938年&ndash;1944年 (昭和13年&ndash;19年) にわたり、水野清一と長廣敏雄を中心に中国の[[雲崗石窟]]群を精査する<ref>{{cite journal||author=長広敏雄|title= 回想の雲岡石窟調査 (「雲岡石窟」解禁(特集))|journal= [[芸術新潮]] |volume= 25 |number= 3 |date-=1974年3月 |publisher= 新潮社 |pages= 23-25 |issn=0435-1657}}</ref>。細密な写真のほか、拓本や実測図面等を大量に持ち帰って報告書の出版直前に[[東京大空襲]]で印刷原稿を失う。}}に雲崗石窟群のまとまった写真や記録がある。[[第二次世界大戦]]を挟んでそれを報告書にまとめようと[[水野清一]]と[[長広敏雄]]たちが企画するものの難航していた。同じ研究所にいた桑原はこの『雲石石窟調査報告書』刊行について、[[吉田茂]]と面談予定のフランス人の知己に状況を説明、間接的に同意を引き出し、同書は1951年の発刊に至る{{sfn|雲石石窟調査報告書をめぐって|2019|p=1-3}}。吉田は長広が6月に届けた同書を直後の[[サンフランシスコ講和条約]]会議に携えたとされる{{efn|当時、中国国外への持ち出しを禁じられた地図は中国との国交回復により[[郭沫若]]の協力で返却を受けている。この時のごく部数をしぼった増補版『雲岡石窟續補 : 第十八洞實測圖』 (1975年) はのちに複製され国書刊行会版{{sfn|国書刊行会|2013|}}に収載。}}。当該資料のまとまった公刊が達成されるのは2017年である<ref>{{cite book|和書|ncid=BB15660048|author1=水野清一|authorlink1=水野清一|author2=長広敏雄|authorlink2=長広敏雄|author3=田中重雄|others=(総監修) 岡村秀典。(監修) 京都大学人文科学研究所 ; [[中国社会科学院]]考古研究所。(続補の著者) 水野清一 ; 田中重雄 ; 日比野丈夫|title=雲岡石窟 = Yun-Kang|publisher=北京 : 科学出版社 ; 東京 : 国書刊行会 (発売)|language=ja, en|date=2013.12-2017.8|ref={{sfnref|国書刊行会|2013|}}}}</ref>。別途、1975年に限定部数で出した図面{{sfn|雲石石窟調査報告書をめぐって|2019|p=1-3}}も複製してこれに収載された。


時代背景もあり、『百科全書』派研究などが同時代のフランスで高い評価を受けたわけではない{{要出典|date=2017年1月}}。また国内でも和洋漢に及んで「浅く広い」桑原の仕事をディレッタント{{Efn|ディレッタントとは好事家、学者や専門家よりも気楽に素人として興味を持つ者のこと。}}視する学者もあった。有名な「第二芸術論」も、[[アイヴァー・リチャーズ]]の『実践批評』を下敷きにしたものであることが[[外山滋比古]]によって指摘されている{{sfn|外山滋比古|2003|短詩型の文学}}。このことを指したのか明示されていないが、[[小松左京]]は「ある人が『あなたのやったことはみな思いつきに過ぎない』と批判したところ桑原さんは『思いつきかも知れないが、おまえ思いつき言うてみい』と切り返した」と回想している{{要出典|date=2017年1月}}。
時代背景もあり、『百科全書』派研究などが同時代のフランスで高い評価を受けたわけではない{{要出典|date=2017年1月}}。また国内でも和洋漢に及んで「浅く広い」桑原の仕事をディレッタント{{Efn|ディレッタントとは好事家、学者や専門家よりも気楽に素人として興味を持つ者のこと。}}視する学者もあった。有名な「第二芸術論」も、[[アイヴァー・リチャーズ]]の『実践批評』を下敷きにしたものであることが[[外山滋比古]]によって指摘されている{{sfn|外山滋比古|2003|短詩型の文学}}。このことを指したのか明示されていないが、[[小松左京]]は「ある人が『あなたのやったことはみな思いつきに過ぎない』と批判したところ桑原さんは『思いつきかも知れないが、おまえ思いつき言うてみい』と切り返した」と回想している{{要出典|date=2017年1月}}。


[[岩波書店]]や[[中央公論社]]等の出版社との連携も強く、戦後の出版ブームでは『文学入門』{{sfn|山元隆春|1998|pages=47-60}}『日本の名著』<ref>{{cite journal|和書|
[[岩波書店]]や[[中央公論社]]等の出版社との連携も強く、戦後の出版ブームでは『文学入門』{{sfn|山元隆春|1998|pages=47-60}}『日本の名著』<ref>{{cite journal|和書|
naid= 40015957319 | author= 菊地暁 | title= 10+1 PASSAGE 人文研探検、あるいは新京都学派の履歴書(3) 新書という公共圏--桑原武夫編『日本の名著』という企み | journal=10+1 |ISSN= | publisher=INAX出版 | year= 2008 |number= 50 | pages=43-45|}}</ref>など今日に残る新書のベストセラーを数多く出版した。生前に[[朝日新聞社]]と岩波書店からそれぞれ[[#全集|全集]]が発刊されている。
naid= 40015957319 | author= 菊地暁 | title= 10+1 PASSAGE 人文研探検、あるいは新京都学派の履歴書(3) 新書という公共圏--桑原武夫編『日本の名著』という企み | journal=10+1 |issn= | publisher=INAX出版 | year= 2008 |number= 50 | pages=43-45|}}</ref>など今日に残る新書のベストセラーを数多く出版した。生前に[[朝日新聞社]]と岩波書店からそれぞれ[[#全集|全集]]が発刊されている。


=== 京都大学学士山岳会 ===
=== 京都大学学士山岳会 ===
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所属する京都大学学士山岳会(AACK)から1957年に連絡を受け、国交樹立前の[[ブータン王国]]から個人旅行で第3代ブータン国王妃{{仮リンク|ケサン・チョデン・ワンチュク|en|Kesang Choden (born 1930)}}とその家族が来日すると知り、京都で出迎えたのは桑原と芦田譲治である<ref>{{Cite web |language=ja |title=開会のあいさつ (Opening Remarks of the International Symposium On July 11th, at Kyoto University) |url= https://www.kyoto-bhutan.org/unit-for-himalayan-studies/1607/openingremarks.html|accessdate=2019-06-30 |publisher=京都大学ブータン友好プログラム|author= 森重文 |work= ブータン王立大学副学長ご一行京都大学ご訪問 » 国際シンポジウム「ブータンの自然と文化のための学術の創発」|date=2016-07-11}}</ref>。実際に京都大学ブータン学術調査隊総裁として[[松尾稔]]隊長とともに隊を率いて同国に渡るのは1969年であり<ref>{{Cite book|和書|title=京都大学1969年ブータン学術調査隊帰国報告書 |year=1969|publisher=京都大学ブータン研究会 |url= https://www.kyoto-bhutan.org/images/history/1969/kyoto-university-bhutan-mission1969-report-ver2.pdf |othors=桑原武夫 ; 松尾稔 (監修)|format=PDF}}</ref>、[[中尾佐助]]による1958年の植物調査から10年後のことであった<ref>{{Cite web|title=設立の経緯 |url= https://www.kyoto-bhutan.org/ja/about.html|website=京都大学ブータン友好プログラム |accessdate= 2019-06-30}}</ref>。近代化前の同国で外国人が行った初の全国学術調査であり、調査地は中国国境[[タシガン]]を含む。映像記録はフィルムで200本超に農作業や人々の暮らし、自然の景観を収めている<ref>{{Cite web|title=1969年の京都大学ブータン学術調査隊|url=https://www.kyoto-bhutan.org/ja/history/1969.html|website=京都大学ブータン友好プログラム|accessdate=2019-06-30}}</ref>。後輩たちは1983年から1985 年にブータン・ヒマラヤ{{sfn|京都大学山岳部報告|1994|page=}}を踏査しマサコン峰登頂に成功する{{sfn|堀了平|1986}}。やがて京都学士山岳会から「京都大学ブータン友好プログラム」が2010年に立ち上がり2014年までに教職員150人超を現地に派遣<ref>{{Cite web|title=玄冬のAACK - AACK会長就任によせて|url=https://www.aack.info/ja/presidents-welcome.html|accessdate=2019-07-04|publisher=京都大学学士山岳会|author=松沢哲郎|author-link=松沢哲郎}}</ref><ref>会長就任挨拶を再掲、補足。{{Cite journal|和書|author=松沢哲郎 |author-link=松沢哲郎 |year= 2016|title= 玄冬の AACK |journal= ヒマラヤ学誌 : Himalayan Study Monographs |issue= 17|pages= 2-7| publisher= 京都大学ヒマラヤ研究会|id= {{全国書誌番号|00078690}}}}</ref>。60周年記念事業<ref>{{Cite journal|和書|author=坂本龍太|date=2018-03-28|title=ブータンと京都大学との友好60周年の記念事業についての報告|doi= 10.14989/HSM.19.10 |journal=ヒマラヤ学誌 : Himalayan Study Monographs |volume=19 |page= 10-22}}</ref>に着手した京都大学は2016年4月に「'''京都大学ヒマラヤ研究ユニット'''」{{efn|ヒマラヤ研究ユニット(Unit for Himalayan Studies)」は2016年2月に構想が承認され、京都大学各部局を貫いて環境保全活動まで視野に入れた活動はその4月に始まる。フィールド調査に秀でた霊長類研究所などの部署が加わり、学士山岳会がそうであったようにフィールド調査を介する人材交流の場という機能を与えられ、ヒマラヤ学の活動地域をブータンのほか同大学に実績のある[[カラコルム]]、[[カシミール]]に加えブータンを中心に[[チベット]]と[[雲南]]まで広くグレートヒマラヤに指定。研究と教育さらに環境への取り組みを進めていく<ref name="uhs"/>。}}を発足する。今西と桑原が開いたヒマラヤ学の道は現在も研究者を現地探査にフィールドワークにと送り出している<ref name="uhs">{{cite web|title=京都大学ヒマラヤ研究ユニット|url= https://www.kyoto-bhutan.org/index.html |accessdate= 2019-06-30 |publisher=京都大学ブータン友好プログラム |coauthors=湯本貴和 (ユニット長:霊長類研究所長) ; 幸島司郎 (副ユニット長:野生動物研究センター長)}}</ref>{{sfn|伊谷原一ほか|2008|pages=635-642}}。
所属する京都大学学士山岳会(AACK)から1957年に連絡を受け、国交樹立前の[[ブータン王国]]から個人旅行で第3代ブータン国王妃{{仮リンク|ケサン・チョデン・ワンチュク|en|Kesang Choden (born 1930)}}とその家族が来日すると知り、京都で出迎えたのは桑原と芦田譲治である<ref>{{Cite web |language=ja |title=開会のあいさつ (Opening Remarks of the International Symposium On July 11th, at Kyoto University) |url= https://www.kyoto-bhutan.org/unit-for-himalayan-studies/1607/openingremarks.html|accessdate=2019-06-30 |publisher=京都大学ブータン友好プログラム|author= 森重文 |work= ブータン王立大学副学長ご一行京都大学ご訪問 » 国際シンポジウム「ブータンの自然と文化のための学術の創発」|date=2016-07-11}}</ref>。実際に京都大学ブータン学術調査隊総裁として[[松尾稔]]隊長とともに隊を率いて同国に渡るのは1969年であり<ref>{{Cite book|和書|title=京都大学1969年ブータン学術調査隊帰国報告書 |year=1969|publisher=京都大学ブータン研究会 |url= https://www.kyoto-bhutan.org/images/history/1969/kyoto-university-bhutan-mission1969-report-ver2.pdf |othors=桑原武夫 ; 松尾稔 (監修)|format=PDF}}</ref>、[[中尾佐助]]による1958年の植物調査から10年後のことであった<ref>{{Cite web|title=設立の経緯 |url= https://www.kyoto-bhutan.org/ja/about.html|website=京都大学ブータン友好プログラム |accessdate= 2019-06-30}}</ref>。近代化前の同国で外国人が行った初の全国学術調査であり、調査地は中国国境[[タシガン]]を含む。映像記録はフィルムで200本超に農作業や人々の暮らし、自然の景観を収めている<ref>{{Cite web|title=1969年の京都大学ブータン学術調査隊|url=https://www.kyoto-bhutan.org/ja/history/1969.html|website=京都大学ブータン友好プログラム|accessdate=2019-06-30}}</ref>。後輩たちは1983年から1985 年にブータン・ヒマラヤ{{sfn|京都大学山岳部報告|1994|page=}}を踏査しマサコン峰登頂に成功する{{sfn|堀了平|1986}}。やがて京都学士山岳会から「京都大学ブータン友好プログラム」が2010年に立ち上がり2014年までに教職員150人超を現地に派遣<ref>{{Cite web|title=玄冬のAACK - AACK会長就任によせて|url=https://www.aack.info/ja/presidents-welcome.html|accessdate=2019-07-04|publisher=京都大学学士山岳会|author=松沢哲郎|author-link=松沢哲郎}}</ref><ref>会長就任挨拶を再掲、補足。{{Cite journal|和書|author=松沢哲郎 |author-link=松沢哲郎 |year= 2016|title= 玄冬の AACK |journal= ヒマラヤ学誌 : Himalayan Study Monographs |issue= 17|pages= 2-7| publisher= 京都大学ヒマラヤ研究会|id= {{全国書誌番号|00078690}}}}</ref>。60周年記念事業<ref>{{Cite journal|和書|author=坂本龍太|date=2018-03-28|title=ブータンと京都大学との友好60周年の記念事業についての報告|doi= 10.14989/HSM.19.10 |journal=ヒマラヤ学誌 : Himalayan Study Monographs |volume=19 |page= 10-22}}</ref>に着手した京都大学は2016年4月に「'''京都大学ヒマラヤ研究ユニット'''」{{efn|ヒマラヤ研究ユニット(Unit for Himalayan Studies)」は2016年2月に構想が承認され、京都大学各部局を貫いて環境保全活動まで視野に入れた活動はその4月に始まる。フィールド調査に秀でた霊長類研究所などの部署が加わり、学士山岳会がそうであったようにフィールド調査を介する人材交流の場という機能を与えられ、ヒマラヤ学の活動地域をブータンのほか同大学に実績のある[[カラコルム]]、[[カシミール]]に加えブータンを中心に[[チベット]]と[[雲南]]まで広くグレートヒマラヤに指定。研究と教育さらに環境への取り組みを進めていく<ref name="uhs"/>。}}を発足する。今西と桑原が開いたヒマラヤ学の道は現在も研究者を現地探査にフィールドワークにと送り出している<ref name="uhs">{{cite web|title=京都大学ヒマラヤ研究ユニット|url= https://www.kyoto-bhutan.org/index.html |accessdate= 2019-06-30 |publisher=京都大学ブータン友好プログラム |coauthors=湯本貴和 (ユニット長:霊長類研究所長) ; 幸島司郎 (副ユニット長:野生動物研究センター長)}}</ref>{{sfn|伊谷原一ほか|2008|pages=635-642}}。


桑原は[[1981年]](昭和56年)に京都市社会教育センター{{Efn|1993 (平成5年)5月に京都市社会教育センターから生涯学習総合センター、通称京都アスニーに改称<ref name="asny"/>。}}初代所長に就任し没するまで務め、[[1984年]](昭和59年)には[[世界平和アピール七人委員会]]の委員に選任される<ref name=":0">{{Cite web|title=公益財団法人 京都市生涯学習振興財団の沿革|url=http://web.kyoto-inet.or.jp/org/asny1/asnydata/zaidan_enkaku.html|accessdate=2019-06-30|publisher=公益財団) 京都市生涯学習振興財団}}</ref>{{Efn|桑原にはユネスコの平和声明ほか、平和に関する以下の著述がある。<br />* {{cite journal|和書|title=ユネスコ発表の平和声明に関する各部会報告 (座談会) &mdash; 近畿地方文科部会報告 | journal=世界 | ISSN=0582-4532 | publisher=岩波書店 | date= 1949-03 |number=39 | pages= 35-38 | naid= 40002110997}}<br />* {{cite journal|和書 |title=平和の発見 | journal=世界 | ISSN= 0582-4532 | publisher=岩波書店 | date= 1949-05 | number=41 | pages=38-42 | naid= 40002110341}}<br />* {{cite journal|和書 | title=全面講和論者は単独講和締結に関してどう考えどう処するか &mdash; 変化した条件の中でも平和を | journal=世界 | ISSN= 0582-4532 | publisher= 岩波書店 | date= 1951-10 |number=70 | pages= 87-90 | naid=40002110833
桑原は[[1981年]](昭和56年)に京都市社会教育センター{{Efn|1993 (平成5年)5月に京都市社会教育センターから生涯学習総合センター、通称京都アスニーに改称<ref name="asny"/>。}}初代所長に就任し没するまで務め、[[1984年]](昭和59年)には[[世界平和アピール七人委員会]]の委員に選任される<ref name=":0">{{Cite web|title=公益財団法人 京都市生涯学習振興財団の沿革|url=http://web.kyoto-inet.or.jp/org/asny1/asnydata/zaidan_enkaku.html|accessdate=2019-06-30|publisher=公益財団) 京都市生涯学習振興財団}}</ref>{{Efn|桑原にはユネスコの平和声明ほか、平和に関する以下の著述がある。<br />* {{cite journal|和書|title=ユネスコ発表の平和声明に関する各部会報告 (座談会) &mdash; 近畿地方文科部会報告 | journal=世界 | issn=0582-4532 | publisher=岩波書店 | date= 1949-03 |number=39 | pages= 35-38 | naid= 40002110997}}<br />* {{cite journal|和書 |title=平和の発見 | journal=世界 | issn= 0582-4532 | publisher=岩波書店 | date= 1949-05 | number=41 | pages=38-42 | naid= 40002110341}}<br />* {{cite journal|和書 | title=全面講和論者は単独講和締結に関してどう考えどう処するか &mdash; 変化した条件の中でも平和を | journal=世界 | issn= 0582-4532 | publisher= 岩波書店 | date= 1951-10 |number=70 | pages= 87-90 | naid=40002110833
}}<br />* {{cite journal|和書| title= 平和運動と誓い | journal=世界 | ISSN= 0582-4532 | publisher= 岩波書店 | date= 1954-05 | number=101| pages= 107-113 | naid= 40002110320}}<br />* {{cite journal|和書 |title=訪ソみやげばなし | journal=平和 | ISSN= 0437-195X | publisher= 日本文化人会議 | date= 1955-09 | number=40 | pages=???? | naid= 40003442579}}<br />* {{cite journal|和書 |title=平和の条件としての文化 | journal=中央公論 |ISSN=0529-6838 | publisher= 中央公論新社 | date= 1972-08 |volume=87 | number= 8 | pages=273-279 | naid=40002387336}}<br />* {{cite journal|和書 |title=ユネスコ発表の平和声明に関する各部会報告・近畿地方 (戦後平和論の源流 &mdash; 平和問題談話会を中心に) &mdash; (第3部 平和問題特集 &mdash; 再録1949年3月号) |
}}<br />* {{cite journal|和書| title= 平和運動と誓い | journal=世界 | issn= 0582-4532 | publisher= 岩波書店 | date= 1954-05 | number=101| pages= 107-113 | naid= 40002110320}}<br />* {{cite journal|和書 |title=訪ソみやげばなし | journal=平和 | issn= 0437-195X | publisher= 日本文化人会議 | date= 1955-09 | number=40 | pages=???? | naid= 40003442579}}<br />* {{cite journal|和書 |title=平和の条件としての文化 | journal=中央公論 |issn=0529-6838 | publisher= 中央公論新社 | date= 1972-08 |volume=87 | number= 8 | pages=273-279 | naid=40002387336}}<br />* {{cite journal|和書 |title=ユネスコ発表の平和声明に関する各部会報告・近畿地方 (戦後平和論の源流 &mdash; 平和問題談話会を中心に) &mdash; (第3部 平和問題特集 &mdash; 再録1949年3月号) |
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== 受賞と叙勲 ==
== 受賞と叙勲 ==

2020年1月25日 (土) 06:40時点における版

桑原 武夫
誕生 1904年5月10日
福井県敦賀郡敦賀町蓬莱[1]
死没 (1988-04-10) 1988年4月10日(83歳没)
日本の旗 日本 京都府京都市左京区
職業 仏文学者評論家登山家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 京都帝国大学仏文科[2]
文学活動 近代主義
代表作第二芸術-現代俳句について』(1946年)
『文学入門』(1950年)
『ルソー研究』(1951年)
主な受賞歴 毎日出版文化賞(1951年)
フランス共和国国家勲功騎士章(1966年)
勲二等瑞宝章(1974年)
朝日文化賞(1975年)
日本芸術院会員(1977年)
文化功労者(1979年)
文化勲章(1987年)
レジオンドヌール勲章(1987年)
勲一等瑞宝章(1988年,没後)
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桑原 武夫(くわばら たけお、1904年明治37年)5月10日 - 1988年昭和63年)4月10日)は、日本フランス文学・文化研究者、評論家文化勲章受章。人文科学における共同研究の先駆的指導者でもあった。

来歴・人物

福井県敦賀郡敦賀町蓬莱(のち敦賀市)の出身[1]。父は京都帝国大学教授東洋史専攻の桑原隲蔵(じつぞう)。敦賀は母親の里帰り出産の地であり、このような場合は京都生まれと称するのが通例だが、本人が敦賀に愛着を持ち出身地として記載を続けた。

京都一中三高を経て、1928年(昭和3年)、京都帝国大学文学部卒業[2]旧制大阪高校教授兼京都大学文学部講師を経て1943年(昭和18年)、東北帝国大学法文学部助教授[3]1948年(昭和23年)、京都大学人文科学研究所教授、1959年(昭和34年)同所長、1968年(昭和43年)定年退官、名誉教授

スタンダールアランの研究により、フランスの文学や評論を広く日本に紹介した。父・隲蔵と交流のあった西田幾多郎内藤湖南ら戦前の京都学派の碩学の謦咳に早くからじかに接し、戦後は同年代の吉川幸次郎貝塚茂樹など京都学派の中心的存在として、さまざまな文化的ムーブメントに主導的な役割を担った。

フランス文学にとどまらず、深い学識と行動力は多方面に及び、俳句を論じた「第二芸術」(『世界』1946年)は論議を呼んだ[4][5]。また、京都大学人文科学研究所(京大人文研)を本拠としてさまざまの分野の研究者を組織し先駆的な学際共同研究システムを推進、『フランス百科全書の研究』『ルソー研究』(1951年毎日出版文化賞)、『宮本武蔵と日本人』など、日本の人文科学分野における数々の業績を通じて、梅棹忠夫梅原猛上山春平鶴見俊輔多田道太郎ら多くの文化人の育ての親となった。加藤秀俊松田道雄、黒田憲治、井上清梅棹忠夫河野健二らとは「日本映画を見る会」を結成し、チャンバラ映画やメロドラマを批評の対象にした[6]

京都大学人文科学研究所が東方文化研究所から引き継いだ資料[注釈 1]に雲崗石窟群のまとまった写真や記録がある。第二次世界大戦を挟んでそれを報告書にまとめようと水野清一長広敏雄たちが企画するものの難航していた。同じ研究所にいた桑原はこの『雲石石窟調査報告書』刊行について、吉田茂と面談予定のフランス人の知己に状況を説明、間接的に同意を引き出し、同書は1951年の発刊に至る[8]。吉田は長広が6月に届けた同書を直後のサンフランシスコ講和条約会議に携えたとされる[注釈 2]。当該資料のまとまった公刊が達成されるのは2017年である[10]。別途、1975年に限定部数で出した図面[8]も複製してこれに収載された。

時代背景もあり、『百科全書』派研究などが同時代のフランスで高い評価を受けたわけではない[要出典]。また国内でも和洋漢に及んで「浅く広い」桑原の仕事をディレッタント[注釈 3]視する学者もあった。有名な「第二芸術論」も、アイヴァー・リチャーズの『実践批評』を下敷きにしたものであることが外山滋比古によって指摘されている[11]。このことを指したのか明示されていないが、小松左京は「ある人が『あなたのやったことはみな思いつきに過ぎない』と批判したところ桑原さんは『思いつきかも知れないが、おまえ思いつき言うてみい』と切り返した」と回想している[要出典]

岩波書店中央公論社等の出版社との連携も強く、戦後の出版ブームでは『文学入門』[12]『日本の名著』[13]など今日に残る新書のベストセラーを数多く出版した。生前に朝日新聞社と岩波書店からそれぞれ全集が発刊されている。

京都大学学士山岳会

同期である今西錦司らとともに登山家としても知られ、1958年には京都大学学士山岳会の隊長として、パキスタン領のチョゴリザ山への登頂を成功に導いた[14]。登山に関する著作も多い。

所属する京都大学学士山岳会(AACK)から1957年に連絡を受け、国交樹立前のブータン王国から個人旅行で第3代ブータン国王妃ケサン・チョデン・ワンチュク英語版とその家族が来日すると知り、京都で出迎えたのは桑原と芦田譲治である[15]。実際に京都大学ブータン学術調査隊総裁として松尾稔隊長とともに隊を率いて同国に渡るのは1969年であり[16]中尾佐助による1958年の植物調査から10年後のことであった[17]。近代化前の同国で外国人が行った初の全国学術調査であり、調査地は中国国境タシガンを含む。映像記録はフィルムで200本超に農作業や人々の暮らし、自然の景観を収めている[18]。後輩たちは1983年から1985 年にブータン・ヒマラヤ[19]を踏査しマサコン峰登頂に成功する[20]。やがて京都学士山岳会から「京都大学ブータン友好プログラム」が2010年に立ち上がり2014年までに教職員150人超を現地に派遣[21][22]。60周年記念事業[23]に着手した京都大学は2016年4月に「京都大学ヒマラヤ研究ユニット[注釈 4]を発足する。今西と桑原が開いたヒマラヤ学の道は現在も研究者を現地探査にフィールドワークにと送り出している[24][25]

桑原は1981年(昭和56年)に京都市社会教育センター[注釈 5]初代所長に就任し没するまで務め、1984年(昭和59年)には世界平和アピール七人委員会の委員に選任される[27][注釈 6]

受賞と叙勲

記念事業

1998年(平成10年)から2012年(平成24年)まで、人文科学系の優秀な書籍を対象に桑原武夫学芸賞が授与された[28]

郷里の敦賀市立図書館内には胸像が建立。京都市右京中央図書館[27]の「桑原武夫コーナー」で生前に使用した机や椅子、直筆のノートを展示している[29]

旧蔵書

蔵書のうち、特に学術的価値の高いものは生前に京都大学が受贈[30][29]、人文科学研究所図書室に「桑原武夫文庫」(1047冊)を設けた[31]

没後、京都市国際交流会館開設(1989年)に合わせ、1988年に古典名著の全集[30][32]やフランス語の哲学書籍など[32]を含む桑原の蔵書約1万冊が京都市に寄贈された[32][29]。同館は生前の書斎を再現した記念室を設け、旧蔵書を一般公開した[30][29]。2008年、右京中央図書館の開設[27]に伴い、桑原の記念室は同館に移される[32][30]。ところが旧蔵書は2015年に廃棄処分され、遺族にも断りはなかったことが2017年に判明する[32][30][29]京都市図書館の蔵書との重複が多いとして正規に登録しなかったこと[30]、保管スペース不足を理由に別の図書館の倉庫に移してあったことが[32][30][29]、廃棄を承認した担当部長の処分とともに公表された[32][30][29]

主な著作

単著

  • 『事実と創作』創元社、1943年。講談社学術文庫(新編)、1977年
  • 『囘想の山山』七丈書院、1944年
  • 『ざくろの花』生活社、1946年
  • 『フランス印象記』弘文堂書房、1947年。講談社学術文庫(新編)、1978年
  • 『現代日本文化の反省』白日書院、1947年
  • 『現代フランス文学の諸相』筑摩書房、1949年
  • 『人間素描』中央公論社、1950年。筑摩叢書(新編)、1976年
  • 『文学入門』岩波新書、1950年[33]
  • 『宛名のない手紙』弘文堂、1951年
  • 『歴史と文学』新潮社、1951年
  • 『近代文学入門』三笠書房・三笠新書、1952年
  • 『第二芸術論』河出書房、1952年。講談社学術文庫(新編)、1976年 解説:多田道太郎
  • 『文化への発言』創文社、1953年
  • 『登山の文化史』創元社、1953年、のち新潮文庫平凡社ライブラリー(新編)、1997年
  • 『世界文学入門』新評論社、1954年
  • 『雲の中を歩んではならない』文藝春秋新社、1955年
  • 『ソ連・中国の印象』人文書院、1955年
  • 『フランス的ということ — 桑原武夫文芸評論集』岩波書店、1957年
  • 『この人々』文藝春秋新社、1958年
  • 『チョゴリザ登頂』文藝春秋新社、1959年
  • 『研究者と実践者』中央公論社、1960年
  • 『時のながれ』河出書房新社、1961年
  • 『日本文化の考え方 — 評論とおしゃべり』白水社、1963年
  • 『発展しつつある国々 — インド・ネパール・アフリカ紀行』河出書房新社、1963年
  • 『「宮本武蔵」と日本人』講談社現代新書、1964年
  • 『詩人の手紙 — 三好達治の友情』筑摩書房、1965年。増訂版1982年
  • 『フランス文学論』筑摩書房、1967年
  • 『思い出すこと 忘れえぬ人』文藝春秋、1971年。講談社文芸文庫(新編)、1990年 解説:佐々木康之(フランス文学者)
  • 『伝統と近代』 文藝春秋〈人と思想〉、1972年。代表作選集
  • 論語 中国詩文選』筑摩書房、1974年。新版1982年。ちくま文庫、1985年 解説:河合隼雄
  • 『ヨーロッパ文明と日本』朝日選書、1974年、のち新版
  • 『文明感想集』筑摩書房、1975年
  • 『フランス学序説』講談社学術文庫、1976年
  • 『文学序説』岩波書店〈岩波全書〉、1977年。改版2005年(同セレクション)
  • 『わたしの読書遍歴』潮出版社、1978年、改版1991年。潮文庫、1986年
  • 『文章作法』潮出版社、1980年、潮文庫、1984年。潮ライブラリー(新編)、1999年
  • 『桑原武夫集 現代の随想』富士正晴編、彌生書房、1982年
  • 『昔の人 今の状況』エセー集、岩波書店、1983年
  • 『日本文化の活性化 エセー・一九八三年–八八年』岩波書店、1988年、遺著

全集

  • 『桑原武夫紀行文集』全3巻 河出書房新社、1968年
    第1巻 フランス・アメリカ・日本、第2巻 ソ連・アジア・アフリカ、第3巻 山岳文集
  • 『桑原武夫全集』全7巻 朝日新聞社、1968–1969年
  • 桑原武夫集』全10巻 岩波書店、1980–1981年

共著・伝記

  • 『文学と女の生き方』生島遼一共著、中央公論社、1952年
  • 『新唐詩選 続篇』吉川幸次郎共著、岩波新書、1954年
  • 『ルソー』岩波新書、1962年
  • 『日本の眼 外国の眼』桑原武夫対話集、中央公論社、1972年
  • 『人間史観 桑原武夫対談集』潮出版社、1983年
  • 『日本語考 桑原武夫対談集』潮出版社、1984年
  • 『桑原武夫伝習録』梅棹忠夫司馬遼太郎編、潮出版社、1981年
  • 『桑原武夫 その文学と未来構想』杉本秀太郎編、淡交社、1996年

編著・共編著

  • 『科学読本』野田又夫共編、白水社、1943年
  • 『ルソー研究』岩波書店、1951年
  • 『18世紀フランス』河出書房、1952年
  • 『フランス百科全書の研究』岩波書店、1954年
  • 『フランス革命の指導者』創元社、1956年
  • 『一日一言 — 人類の知恵』岩波新書、1956年
  • 『岩波小辞典 西洋文学』岩波書店、1956年
  • 『フランス革命の研究』岩波書店、1959年
  • 『フランス革命とナポレオン』中央公論社〈世界の歴史10〉、1961年、新版1983年/中公文庫、1975年
  • 日本の名著 — 近代の思想』中公新書、1962年、改版2012年
  • 『ブルジョワ革命の比較研究』筑摩書房、1964年
  • 『現代の対話 — 末川博湯川秀樹梅原猛』雄渾社、1966年
  • 中江兆民の研究』岩波書店、1966年
  • 『文学理論の研究』岩波書店、1967年
  • 『戦後の世界』河出書房新社〈世界の歴史24〉、1974年/河出文庫、1990年。編者代表
  • 『フランス革命の指導者』朝日選書、1978年
  • 『素顔のヨーロッパ』朝日選書、1978年
  • 『中国とつきあう法』加藤周一ほか、潮出版社、1978年
  • 『吉川幸次郎 — 追悼文集』筑摩書房、1982年
  • 『日本文化と世界を考える』大阪書籍〈朝日カルチャーブックス〉、1983年
  • 『明治維新と近代化 — 現代日本を産みだしたもの』小学館〈創造選書〉、1984年
  • 湯川秀樹』日本放送出版協会、1984年
  • スタンダール研究』鈴木昭一郎共編、白水社、1986年

翻訳

  • スタンダール『赤と黒』、生島遼一共訳、岩波文庫(上下)、1933年。改訳版1956年、新版2007年
  • アラン『散文論』、作品社、1933年
  • スタンダール『カストロの尼』、岩波文庫、1936年。改訳版1956年
  • スタンダール『匣と亡霊』、生島遼一共訳、竹村書房、1937年、のち岩波文庫
  • アラン『芸術論集』、岩波書店、1941年。改訳版「諸芸術の体系」1978年。新編・中公クラシックス、2002年
  • アラン『デカルト』、野田又夫共訳、筑摩書房、1944年。改訳版・みすず書房、1971年、新版1998年
  • スタンダール『ヴァニナ・ヴァニニ』、生島遼一共訳、世界文学社、1947年。のち岩波文庫
  • スタンダール『媚薬』、生島遼一共訳、世界文学社、1949年。のち岩波文庫
  • ルソー『社会契約論』、前川貞次郎共訳、岩波文庫、1954年[34]
  • ロジェ・カイヨワ『文学の思い上り』、塚崎幹夫共訳、中央公論社、1959年、新版1971年
  • 『ふくろう党 バルザック全集 第1巻』共訳、東京創元社、1961年、新版1973年
  • 『ヴァレリー全集』第8巻、第10巻、第11巻、共訳、筑摩書房、1967年。のち新版
  • 『スタンダール全集』人文書院(全12巻)、生島遼一と編者代表、1968–69年。のち新版
  • ルソー『告白』、多田道太郎樋口謹一共訳、岩波文庫(全3巻)、1965–66年。筑摩書房〈世界古典文学全集49 ルソー〉、1965年
  • 中江兆民『三酔人経綸問答』、島田虔次共訳・校注、岩波文庫、1965年。ワイド版2007年
  • 日本の名著15 新井白石折たく柴の記」』責任編集、中央公論社、1969年。のち中公バックス・中公文庫・中公クラシックス
  • ディドロダランベール編『百科全書 序論および代表項目』、編者代表、岩波文庫、1971年
  • 世界の名著37 ミシュレ』責任編集、多田道太郎・樋口謹一共訳、中央公論社、1968年。のち中公バックス
  • 石川啄木『啄木・ローマ字日記』、編訳、岩波文庫、1978年

関連文献

  • 加藤秀俊『わが師・わが友―ある同時代史』中央公論社〈C books〉、1982年。
  • 衆議院憲法調査会『第150回国会 憲法調査会 第2号』(平成12年10月12日(木曜日))(2000年)、衆議院事務局

脚注

注釈

  1. ^ 東方文化研究所は1938年–1944年 (昭和13年–19年) にわたり、水野清一と長廣敏雄を中心に中国の雲崗石窟群を精査する[7]。細密な写真のほか、拓本や実測図面等を大量に持ち帰って報告書の出版直前に東京大空襲で印刷原稿を失う。
  2. ^ 当時、中国国外への持ち出しを禁じられた地図は中国との国交回復により郭沫若の協力で返却を受けている。この時のごく部数をしぼった増補版『雲岡石窟續補 : 第十八洞實測圖』 (1975年) はのちに複製され国書刊行会版[9]に収載。
  3. ^ ディレッタントとは好事家、学者や専門家よりも気楽に素人として興味を持つ者のこと。
  4. ^ ヒマラヤ研究ユニット(Unit for Himalayan Studies)」は2016年2月に構想が承認され、京都大学各部局を貫いて環境保全活動まで視野に入れた活動はその4月に始まる。フィールド調査に秀でた霊長類研究所などの部署が加わり、学士山岳会がそうであったようにフィールド調査を介する人材交流の場という機能を与えられ、ヒマラヤ学の活動地域をブータンのほか同大学に実績のあるカラコルムカシミールに加えブータンを中心にチベット雲南まで広くグレートヒマラヤに指定。研究と教育さらに環境への取り組みを進めていく[24]
  5. ^ 1993 (平成5年)5月に京都市社会教育センターから生涯学習総合センター、通称京都アスニーに改称[26]
  6. ^ 桑原にはユネスコの平和声明ほか、平和に関する以下の著述がある。
    * 「ユネスコ発表の平和声明に関する各部会報告 (座談会) — 近畿地方文科部会報告」『世界』第39号、岩波書店、1949年3月、35-38頁、ISSN 0582-4532NAID 40002110997 
    * 「平和の発見」『世界』第41号、岩波書店、1949年5月、38-42頁、ISSN 0582-4532NAID 40002110341 
    * 「全面講和論者は単独講和締結に関してどう考えどう処するか — 変化した条件の中でも平和を」『世界』第70号、岩波書店、1951年10月、87-90頁、ISSN 0582-4532NAID 40002110833 
    * 「平和運動と誓い」『世界』第101号、岩波書店、1954年5月、107-113頁、ISSN 0582-4532NAID 40002110320 
    * 「訪ソみやげばなし」『平和』第40号、日本文化人会議、1955年9月、????、ISSN 0437-195XNAID 40003442579 
    * 「平和の条件としての文化」『中央公論』第87巻第8号、中央公論新社、1972年8月、273-279頁、ISSN 0529-6838NAID 40002387336 
    * 「ユネスコ発表の平和声明に関する各部会報告・近畿地方 (戦後平和論の源流 — 平和問題談話会を中心に) — (第3部 平和問題特集 — 再録1949年3月号)」『世界』第477号、岩波書店、1985年7月、240-255頁、ISSN 0582-4532NAID 40002103941 

出典

  1. ^ a b 我等の郷土と人物 1952, pp. 253–261.
  2. ^ a b 京都帝国大学一覧 1929, p. 689.
  3. ^ 桑原武夫(京都大学名誉教授) (1977年1月). “天下の大勢”. 学士会アーカイブス No.734. 一般社団法人学士会. 2019年6月30日閲覧。
  4. ^ 大浦康介 2018, pp. 16–36.
  5. ^ 衆議院事務局「レジュメ:戦後論調に日本・日本人の自画像を探る」(pdf)、2019年7月4日閲覧“I. 近代化の失敗・後進性の認識(否定的異質論・欧米基準・自信喪失) 1946(昭和21)年
    丸山真男「超国家主義の論理と心理」『世界』5月号
    川島武宣「日本社会の家族的構成」『中央公論』6月号
    桑原武夫「第二芸術―現代俳句について―」『世界』11月号”
     
  6. ^ 加藤秀敏『わが師・わが友―ある同時代史』(1982年)、中央公論社。NCID BN05864330
  7. ^ 長広敏雄. “回想の雲岡石窟調査 (「雲岡石窟」解禁(特集))”. 芸術新潮 (新潮社) 25 (3): 23-25. ISSN 0435-1657. 
  8. ^ a b 雲石石窟調査報告書をめぐって 2019, p. 1-3.
  9. ^ 国書刊行会 2013.
  10. ^ 水野清一長広敏雄、田中重雄(ja, en)『雲岡石窟 = Yun-Kang』(総監修) 岡村秀典。(監修) 京都大学人文科学研究所 ; 中国社会科学院考古研究所。(続補の著者) 水野清一 ; 田中重雄 ; 日比野丈夫、北京 : 科学出版社 ; 東京 : 国書刊行会 (発売)、2013.12-2017.8。 NCID BB15660048 
  11. ^ 外山滋比古, 2003 & 短詩型の文学.
  12. ^ a b 山元隆春 1998, pp. 47–60.
  13. ^ 菊地暁「10+1 PASSAGE 人文研探検、あるいは新京都学派の履歴書(3) 新書という公共圏--桑原武夫編『日本の名著』という企み」『10+1』第50号、INAX出版、2008年、43-45頁、NAID 40015957319 
  14. ^ 新聞集成昭和編年史 2010, p. 388.
  15. ^ 森重文 (2016年7月11日). “開会のあいさつ (Opening Remarks of the International Symposium On July 11th, at Kyoto University)”. ブータン王立大学副学長ご一行京都大学ご訪問  » 国際シンポジウム「ブータンの自然と文化のための学術の創発」. 京都大学ブータン友好プログラム. 2019年6月30日閲覧。
  16. ^ 京都大学1969年ブータン学術調査隊帰国報告書』(PDF)京都大学ブータン研究会、1969年https://www.kyoto-bhutan.org/images/history/1969/kyoto-university-bhutan-mission1969-report-ver2.pdf 
  17. ^ 設立の経緯”. 京都大学ブータン友好プログラム. 2019年6月30日閲覧。
  18. ^ 1969年の京都大学ブータン学術調査隊”. 京都大学ブータン友好プログラム. 2019年6月30日閲覧。
  19. ^ 京都大学山岳部報告 1994.
  20. ^ 堀了平 1986.
  21. ^ 松沢哲郎. “玄冬のAACK - AACK会長就任によせて”. 京都大学学士山岳会. 2019年7月4日閲覧。
  22. ^ 会長就任挨拶を再掲、補足。松沢哲郎「玄冬の AACK」『ヒマラヤ学誌 : Himalayan Study Monographs』第17号、京都大学ヒマラヤ研究会、2016年、2-7頁、全国書誌番号:00078690 
  23. ^ 坂本龍太「ブータンと京都大学との友好60周年の記念事業についての報告」『ヒマラヤ学誌 : Himalayan Study Monographs』第19巻、2018年3月28日、10-22頁、doi:10.14989/HSM.19.10 
  24. ^ a b 京都大学ヒマラヤ研究ユニット”. 京都大学ブータン友好プログラム. 2019年6月30日閲覧。
  25. ^ 伊谷原一ほか 2008, pp. 635–642.
  26. ^ 公益財団法人 京都市生涯学習振興財団の沿革”. 京都市生涯学習振興財団. 2017年4月29日閲覧。
  27. ^ a b c 公益財団法人 京都市生涯学習振興財団の沿革”. 公益財団) 京都市生涯学習振興財団. 2019年6月30日閲覧。
  28. ^ 梅原猛ほか 2012, pp. 128–134.
  29. ^ a b c d e f g “桑原武夫さん蔵書1万冊を廃棄 寄贈された京都市教委”. 朝日新聞. (2017年4月28日). http://www.asahi.com/articles/ASK4W4VPHK4WPLZB00R.html 2017年4月29日閲覧。 
  30. ^ a b c d e f g h “桑原武夫蔵書 遺族に無断で1万冊廃棄 京都市が謝罪”. 毎日新聞. (2017年4月27日). https://mainichi.jp/articles/20170427/k00/00e/040/246000c 2017年4月29日閲覧。 
  31. ^ 主要コレクション”. 京都大学図書館機構 (2017年4月28日). 2017年4月29日閲覧。
  32. ^ a b c d e f g “桑原武夫氏の蔵書1万冊廃棄 京都の図書館、市職員処分”. 京都新聞. (2017年4月27日). http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20170427000086 2017年4月29日閲覧。 
  33. ^ [12]doi:10.11501/3164462
  34. ^ 被引用文献。高安健将(著)、国立国会図書館調査立法考査局(編)「動揺するウェストミンスター・モデル? : 戦後英国における政党政治と議院内閣制」『レファレンス』平成23年12月号、国立国会図書館調査立法考査局、2011年。 

参考文献

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  • 「第4章 學者:桑原隲藏 桑原武夫」『我等の郷土と人物』 1巻、福井県文化誌刊行会、1952年、253-261頁。doi:10.11501/2974044全国書誌番号:58003801 
  • 京都大学1969年ブータン学術調査隊帰国報告書』桑原武夫 ; 松尾稔 (監修)、(1969年)、京都大学ブータン研究会。
  • 堀了平 (編著)『偉大なる獅子マサコン峰登頂』講談社、1986年12月。 
  • 「登山特集 : 1983–1985年ブータン・ヒマラヤ」『京都大学山岳部報告』第17号、1994年10月。 
  • 山元隆春「文学の教授=学習に関する基礎理論の研究 : 読むという行為の解明を通して」、広島大学、1998年。 
  • 外山滋比古『短詩型の文学』みすず書房〈外山滋比古著作集 6〉、2003年。ISBN 4-622-04856-6 
  • 伊谷原一、松沢哲郎、松林公蔵、山極壽一「フィールドワーク60年の伝統:「子捨て」に 始まり「山」を見つける」『科学』第78巻第6号、2008年、635-642頁。 
  • 明治大正昭和新聞研究会(編)「桑原武夫氏ら出発・チョゴリザ遠征へ・京都大学学士山岳会」『新聞集成昭和編年史』"昭和33年版" 3、新聞資料出版、2010年7月、388頁。 
  • 梅原猛; 杉本秀太郎; 山田慶兒 (2012年9月). “てい談 桑原武夫学芸賞に寄せて 「桑原武夫」を語る。”. (潮出版) (643 (通巻)): 128-134. 
  • 『ヒマラヤ学誌 : Himalayan Study Monographs』京都大学ヒマラヤ研究会
    • 松沢哲郎「玄冬の AACK」(2016年)、(17) 2-7頁。
    • 坂本龍太「ブータンと京都大学との友好60周年の記念事業についての報告」(2018年3月28日)、(19) 10-22頁。
  • 大浦康介(著)、ロマン・ロラン研究所(編)「戦争と文学 : 桑原武夫「第二芸術論」と戦後日本の言論状況」『ユニテ [第3期]』第45号、2018年4月、16-36頁。 
  • 戸田浩史 (文教科学委員会 専門員)「雲石石窟調査報告書をめぐって」『立法と調査』第411号、参議院常任委員会調査室・特別調査室、2019年4月。 

関連項目

外部リンク