「中御門天皇」の版間の差分
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2020年6月4日 (木) 00:29時点における版
中御門天皇 | |
---|---|
即位礼 | 1710年12月30日(宝永7年11月11日) |
元号 |
宝永 正徳 享保 |
征夷大将軍 |
徳川家宣 徳川家継 徳川吉宗 |
摂政 | 近衛家熙→九条輔実 |
関白 | 九条輔実→二条綱平→近衛家久 |
先代 | 東山天皇 |
次代 | 桜町天皇 |
誕生 |
1702年1月14日(元禄14年12月17日)戌刻 林丘寺里坊 |
崩御 |
1737年5月10日(元文2年4月11日)巳刻 仙洞下御所 |
大喪儀 | 1737年6月6日(元文2年5月8日) |
陵所 | 月輪陵 |
追号 |
中御門院 (中御門天皇) 1737年6月3日(元文2年5月5日) 追号勅定 |
諱 |
慶仁 1707年5月30日(宝永4年4月29日)命名 |
別称 | 長宮 |
元服 | 1711年2月17日(宝永8年1月1日) |
父親 | 東山天皇 |
母親 | 櫛笥賀子(新崇賢門院) |
女御 | 近衛尚子(新中和門院) |
子女 |
昭仁親王(桜町天皇) 公遵法親王 理秀女王 尊乗女王 忠誉法親王 成子内親王 永皎女王 遵仁法親王 聖珊女王 慈仁法親王 他 |
皇居 |
平安宮(土御門東洞院殿) 近衛第 |
中御門天皇(なかみかどてんのう、 1702年1月14日〈元禄14年12月17日〉 - 1737年5月10日〈元文2年4月11日〉)は、日本の第114代天皇(在位: 1709年7月27日〈宝永6年6月21日〉- 1735年4月13日〈享保20年3月21日〉)。諱は慶仁(やすひと)。幼名は長宮(ますのみや)。
追号の「中御門」は、平安京大内裏の門の一つである待賢門の別称に因む。
系譜
東山天皇の第五皇子。母は内大臣櫛笥隆賀の娘、典侍賀子(新崇賢門院)。
- 女御:藤原(近衛)尚子(新中和門院、1702-1720) - 近衛家熙女
- 典侍:藤原(清水谷)石子(権典侍局・民部卿典侍、1703-1735) - 清水谷実業女
- 典侍:藤原(園)常子(新典侍局、?-1763) - 園基勝女
- 掌侍:源(久世)夏子(源内侍、?-1734) - 久世通夏女
- 掌侍:菅原(五条)寛子(1718-?) - 五条為範女
- 妃:丹波氏(伊予局・見性院、1703-1770) - 小森頼季女、錦小路頼庸養女、のち石井行康養女
- 養子
系図
107 後陽成天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
108 後水尾天皇 | 近衛信尋 | 高松宮(有栖川宮)好仁親王 | 一条昭良 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
109 明正天皇 | 110 後光明天皇 | 111 後西天皇 | 112 霊元天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
有栖川宮幸仁親王 | 113 東山天皇 | 福子内親王 | 有栖川宮職仁親王 | 吉子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正仁親王 | 114 中御門天皇 | 閑院宮直仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
114 中御門天皇 | 閑院宮直仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
115 桜町天皇 | 典仁親王 (慶光天皇) | 倫子女王 | 鷹司輔平 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
117 後桜町天皇 | 116 桃園天皇 | 美仁親王 | 119 光格天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
118 後桃園天皇 | 120 仁孝天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
桂宮淑子内親王 | 121 孝明天皇 | 和宮親子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
略歴
宝永5年(1708年)立太子、同6年(1709年)東山天皇から譲位されて即位。9歳で即位したため、はじめ父東山上皇が、ついで祖父霊元上皇が院政を行った。
在位期間は、第6代将軍家宣から第8代の吉宗にかけての時代に相当する。この時代の幕府との関係は比較的良好で、閑院宮家創設が実現し、さらに霊元院の皇女・八十宮吉子内親王を7代将軍家継の元へ降嫁させる話も出ていたが、家継の急死で沙汰止みになっている。
享保14年(1729年)には将軍吉宗自ら注文した交趾(ベトナム)広南産の象の「拝謁」を霊元上皇とともに受けている。この際、象が無位無官であるため参内の資格がないとの問題が起こり、急遽「広南従四位白象」との称号を与えて参内させた(これは他にも朝廷に献上された珍奇な動物や、愛玩動物において普通に行われていた事である。江戸名所図会には記載があるが、象見物について詳しい烏丸光栄の『光栄卿日記』や三条西公福の『日記』など当時の他資料ではいっさい言及されていず、特筆される事柄でなかったことが伺える)。
拝謁した象は前足を折って頭を下げる仕草をし、初めて象を見た天皇は、
時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ
と感銘を和歌に表している。
朝廷の古儀に関心を深めて研究を進め、『公事部類』の撰著を残した。また、笛や和歌、書道に秀で、特に笛はキツネが聴きに来るほどの腕前であったとの逸話が残っている。
享保20年(1735年)桜町天皇に譲位し(在位27年)、元文2年(1737年)に36歳で崩御した。
ちなみに天皇の側近であった広橋兼胤の日記によれば、天皇は十二支の巳に縁があり、生年が巳年というだけでなく、崩御したのが巳年巳月巳日巳刻であったという。
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
参考文献
- 宮内省図書寮 編『中御門天皇実録』1~2巻(ゆまに書房、2006年) ISBN 978-4-8433-2033-4