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[[ファイル:Iwase Hitoki, Beijing 2008.jpg|thumb|right|230px|北京五輪で投球する岩瀬]]
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{{by|2008年}}[[6月14日]]、対[[オリックス・バファローズ]]戦で[[アレックス・カブレラ]]に557試合目にしてプロ入り初のサヨナラ本塁打を打たれている。8月、[[2008年北京オリンピックの野球競技・日本代表|北京オリンピック野球日本代表]]として出場したが、韓国代表の[[李承ヨプ (野球)|李承燁]]に逆転本塁打を打たれるなど大会を通じて10失点、3試合で敗戦投手となった。帰国後は、落合によると、球団には岩瀬についての抗議等の電話がひっきりなしにかかってきて、中には岩瀬の命の危険さえ感じさせられる物騒なものもあり、その後、スタンドからのヤジにも聞き捨てならないものもあったという<ref>[[#saihai|落合『采配』]]p.p.90 - 93</ref>。しかし、日本プロ野球史上初の10年連続の50試合登板を達成。また、ポストシーズンの無失点記録を22回1/3まで伸ばしている。12月、推定年俸4億3000万円(現状維持)で4年契約の契約更改を行った。
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{{by|2009年}}[[4月21日]]、[[鈴木孝政]]の持つ球団記録を更新する通算登板587試合を記録。ところが[[4月25日]]の対[[読売ジャイアンツ]]戦(東京ドーム)では2点リードから[[亀井義行]]に代打逆転サヨナラ3点本塁打を浴びて敗戦投手となる。さらに[[4月30日]]の対[[東京ヤクルトスワローズ]]戦(ナゴヤドーム)では[[青木宣親]]に頭部死球を当てて自身初の[[危険球]]退場を受けた。それでも[[5月12日]]、NPB史上4人目・左腕投手としては同史上初の通算200セーブを達成。その後[[7月30日]]にNPB史上初の5年連続30セーブ、[[8月15日]]にNPB歴代単独3位の通算228セーブ、[[8月18日]]に20試合連続セーブを達成した。しかし、終盤は体調不良もあり、登録抹消こそされなかったが登板はできなかった。それでも54試合の登板で2年ぶりに40セーブ以上をマークした
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2020年6月16日 (火) 22:33時点における版

岩瀬 仁紀
2009年、阪神甲子園球場にて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県西尾市
生年月日 (1974-11-10) 1974年11月10日(50歳)
身長
体重
181 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1998年 ドラフト2位(逆指名)
初出場 1999年4月2日
最終出場 2018年10月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (2018)
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 2004年2008年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

岩瀬 仁紀(いわせ ひとき、1974年11月10日 - )は、愛知県西尾市出身の元プロ野球選手投手)。野球解説者野球評論家

日本プロ野球における最多登板(1002登板)および通算セーブ数記録保持者(407セーブ)

経歴

プロ入り前

1974年に愛知県で生まれる。西尾東高校3年生時の1992年7月19日、第74回全国高等学校野球選手権愛知大会2回戦で三好高校を相手にノーヒットノーランを記録。その後、4回戦で敗退し、卒業後は愛知大学へ進学。愛知大学リーグでは1年春から外野手でレギュラー出場。打者としてリーグ通算101試合出場、384打数124安打、打率.323、9本塁打、64打点。通算124安打は神野純一(神野は125安打。元中日)に次ぐリーグ歴代2位[1][2]1995年春季リーグでは愛知学院大学戦で1試合3本塁打を記録。外野手としてベストナイン4度受賞。一方、1995年秋季のリーグから外野手と兼任で投手としても登板すると、投手では3季で通算15試合に登板し8勝4敗の成績を残した。大学3年時に外野手として大学オールジャパンに選出されるなど、当時は打者として注目されていた[3]。大学卒業後は社会人野球NTT東海に入社。NTT東海では投手に戻り、2年目には都市対抗野球新日鉄名古屋の補強選手として先発登板[4]。「社会人ナンバーワン左腕」と評された[1]

1998年のドラフト会議において、中日ドラゴンズを逆指名し2位で入団。この年の中日は1位に指名する選手は既に福留孝介で確定していたが、地元愛を標榜していた中日監督の星野仙一がスカウト陣に対して「地元の逸材を見逃したら許さない」と発破をかけていた中で[1]、当時スカウトとして各地を駆け回っていた近藤真一が「4回くらいまでいい投球をするピッチャーはいます」と報告したところ、星野は「1イニングでもしっかり抑えられれば充分」とし、岩瀬の獲得を決めたのであった[1]。背番号は近藤がノーヒットノーラン記録時に付けていた13を付けることとなった。オールスター戦出場を夢見ていて、星野仙一監督には先発入りを期待されていた[5]

プロ入り後

1999年4月2日、開幕戦の対広島東洋カープ戦で公式戦初登板を果たしたものの[6]、失点を許し一死も取れずに降板。しかしその後は、起用し続ける当時の監督星野の期待に応え、シーズン途中から勝ちパターンの継投の一角を担ってチームのリーグ優勝に貢献し、最優秀中継ぎ投手賞を受賞[7]。65試合に登板し防御率1.57、中継ぎながら10勝と好成績を残したが、同期の新人に20勝を挙げた上原浩治がおり、新人王は逃した。

2000年10月8日の対広島戦で公式戦初の先発登板をし、これが岩瀬の唯一の公式戦先発登板となっている[8]。なお、岩瀬はこの試合、7回7安打1失点で勝利投手となり2年連続10勝を達成した。

その後は中継ぎで起用され、特に2002年2003年は防御率1点台でシーズンを終えるなど、首脳陣の信頼を勝ち取っていく。2004年には落合博満より抑えに指名されるが、開幕直前に自宅の浴室で転倒して左足小指を骨折した。それでも、2勝3敗22セーブの成績でチームの5年ぶりの優勝に貢献した。8月に行われたアテネオリンピック野球日本代表にも選出された。

2005年10月1日の対広島戦(ナゴヤドーム)において46セーブを達成し、シーズン最多セーブの日本プロ野球新記録(当時)。60試合に登板しながら被本塁打0だった。

2006年1月20日の契約更改交渉で7500万円増の推定年俸3億500万円で更改。中日に在籍した日本人選手としては、1992年の落合博満を抜く球団史上最高年俸となった[9]4月4日の対横浜ベイスターズ戦で、9回裏に多村仁に同点2点本塁打を打たれ救援に失敗した。2004年9月25日に村田修一に打たれて以来許していなかった本塁打を打たれ、被本塁打0の記録は対戦打者265人目にして途絶えた。7月30日、プロ入り通算100セーブを達成。10月8日、NPB史上初の2年連続40セーブを達成。2年ぶりのリーグ優勝を決めた10月10日の対読売ジャイアンツ戦の11回裏、3対3の場面で登板し、2回を無失点に抑えて胴上げ投手となった。

2007年4月6日郭源治の持つ球団記録を更新する117セーブ目を挙げた。7月7日、NPB史上8人目の通算500試合登板を達成。9月8日秋山登に並ぶNPBタイ記録9年連続50試合登板。翌日の9月9日には、NPB史上6人目の150セーブ。9月19日、NPB史上初の3年連続40セーブを達成。しかし、シーズン中盤に速球の球速が140km/hを下回ったり、低めへの制球に苦しむ場面が目立つなど、全体としては球威、制球に苦しんだシーズンであったが、8月以降の防御率は1.27と好調だった[10]2007年のセントラル・リーグクライマックスシリーズでは、第1ステージの対阪神タイガース第2戦から第2ステージの対読売ジャイアンツ第3戦まで、いずれも8回途中からの4連投でチームの日本シリーズ進出に貢献。北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズの第5戦において、8回まで完全試合ペースの好投をしていた山井大介に代わり9回に登板。三者凡退に抑えてNPB史上初の継投による完全試合[注 1]を達成し、胴上げ投手となった。完全試合目前の山井から岩瀬への継投を行った落合の采配については、スポーツマスコミ、野球評論家などを中心に賛否両論が巻き起った。なお、落合は監督退任後の自著で「あの時の心境を振り返ると、『山井は残念だった』というよりも、『ここで投げろと言われた岩瀬はキツいだろうな』というものだったと思う」と記している[11]

北京五輪で投球する岩瀬

2008年6月14日、対オリックス・バファローズ戦でアレックス・カブレラに557試合目にしてプロ入り初のサヨナラ本塁打を打たれている。8月、北京オリンピック野球日本代表として出場したが、韓国代表の李承燁に逆転本塁打を打たれるなど大会を通じて10失点、3試合で敗戦投手となった。帰国後は、落合によると、球団には岩瀬についての抗議等の電話がひっきりなしにかかってきて、中には岩瀬の命の危険さえ感じさせられる物騒なものもあり、その後、スタンドからのヤジにも聞き捨てならないものもあったという[12]。しかし、日本プロ野球史上初の10年連続の50試合登板を達成。また、ポストシーズンの無失点記録を22回1/3まで伸ばしている。12月、推定年俸4億3000万円(現状維持)で4年契約の契約更改を行った。

2009年4月21日鈴木孝政の持つ球団記録を更新する通算登板587試合を記録。ところが4月25日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)では2点リードから亀井義行に代打逆転サヨナラ3点本塁打を浴びて敗戦投手となる。さらに4月30日の対東京ヤクルトスワローズ戦(ナゴヤドーム)では青木宣親に頭部死球を当てて自身初の危険球退場を受けた。それでも5月12日、NPB史上4人目・左腕投手としては同史上初の通算200セーブを達成。その後7月30日にNPB史上初の5年連続30セーブ、8月15日にNPB歴代単独3位の通算228セーブ、8月18日に20試合連続セーブを達成した。しかし、終盤は体調不良もあり、登録抹消こそされなかったが登板はできなかった。それでも54試合の登板で2年ぶりに40セーブ以上をマークした

2010年6月16日の対日本ハム戦(ナゴヤドーム)で、通算250セーブを達成。佐々木主浩、高津臣吾に次いで3人目の救援投手として名球会入りの条件を満たす[13]。更に6月23日の対横浜ベイスターズ戦(豊橋市民球場)では、日本プロ野球歴代2位となる通算253セーブ。8月7日の対阪神戦で自己記録を更新する6年連続30セーブ。

2011年は開幕から調子がなかなか上がらず、失点する場面も目立ち、浅尾拓也が抑えとして登板する試合もあった。その一方で5月17日の対千葉ロッテマリーンズ戦(QVCマリンフィールド)で通算700試合登板、6月16日の対福岡ソフトバンクホークス戦(ナゴヤドーム)でNPB新記録となる通算287セーブ、9月3日の対広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)でNPB史上初の通算300セーブ、9月20日の対横浜戦(横浜スタジアム)で自己記録を更新する7年連続30セーブ。9月29日の対広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)でNPB新記録の通算740試合救援登板を達成するなど、後半戦から調子を持ち直し数々の記録を樹立、防御率も5年振りに1点台で終えた。

2012年はオールスター戦を前後してリリーフを失敗する場面が目立ち始め、7月14日の巨人との首位攻防戦では1対0で9回に登板。先頭の高橋由伸に死球、その後一死一、三塁となり代打の阿部慎之助に逆転タイムリーを打たれて敗戦投手となり、巨人の首位独走のきっかけとなる。この試合を境に調子を大きく落とし、2日後の対広島戦ではスクイズを決められ逆転負け、その後も自身のエラーで逆転負けするなど不振が続き、8月2日に左肘の違和感を訴えて自ら二軍調整を申し出た。故障、成績不振で一軍登録を抹消されるのは2002年6月以来約10年ぶり。後半戦は代役の山井大介が好投していたこともあり、山井との併用で中継ぎに降格することもあった。終盤は調子を取り戻し、8月24日の対ヤクルト戦で自らの記録を更新する8年連続30セーブ。最終的にトニー・バーネットと並んで最多セーブのタイトルを獲得した。最多セーブ獲得はセ・リーグ史上最多の5度目、最年長記録を更新。しかし防御率は前年を大きく下回り、33セーブはストッパーに定着した2004年以降では自己ワースト2位、救援失敗数は8度と両リーグ最多タイ記録[注 2]を樹立してしまう。10月5日の対広島戦にてNPB史上6人目の通算800試合登板、入団1年目から14年連続50試合登板となった。巨人とのクライマックスシリーズでは第3戦でセーブを上げるが、第5戦の9回裏に1死満塁のピンチを招き降板、後続が打たれて敗戦投手となった。シーズン終了後の10月31日に山崎武司川上憲伸山本昌とともに球団首脳と個別に面談。球団代表の佐藤によると「引退についてお互い思っていることを直接言い合いましょうという話」だという。契約更改では8千万円減とプロ入り後で初の減俸となった。

2013年4月21日、横浜スタジアムにて

2013年4月18日 の対ヤクルト戦(明治神宮野球場)で通算350セーブを達成[14]5月14日の対日本ハム戦で日本プロ野球史上初の10年連続10セーブを達成[15]8月27日の対ヤクルト戦で自らの記録を更新する9年連続30セーブを達成[16]9月18日の対巨人戦(ナゴヤドーム)で通算382セーブとし、佐々木主浩(元横浜、シアトル・マリナーズ)の日米通算セーブ数を上回り、前人未到の日本人最多セーブを更新した[17]

2014年7月26日の対巨人戦(ナゴヤドーム)でNPB史上初の通算400セーブを達成[18]。しかし8月に左肘の張りを訴え、一軍登録を抹消され、NPB記録の連続50試合登板が15年[19]、連続30セーブが9年でそれぞれ途切れた[20]。また、防御率も2001年以来の3点台に終わった。11月4日、7000万円減となる3億円で2015年の契約を結んだ。

2015年は左肘の故障の影響で開幕二軍スタートとなり、抑えの座も福谷浩司に譲り、プロ入り初の実戦登板なしに終わった[21]。12月7日には2億5000万円減の5000万円(日本プロフェッショナル野球協約〈野球協約〉で規定された減額制限を大幅に超える83%ダウン)で一発サインし、来季の現役続行が決まった。減給額としては2013年オフの小笠原道大(当時巨人)の3億6000万円(当時)に次ぐ歴代2位(後に巨人の杉内俊哉が4億5000万減の5000万出来高払いで更改したため、歴代3位となる)となった[22]

2016年4月9日に2年ぶりに1軍登板すると、8月6日の対横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)で、米田哲也金田正一に次いで史上3人目となる通算900試合登板を達成した。ただし、この試合は1つもアウトを取れず、高城俊人桑原将志にそれぞれ適時安打を打たれ降板、敗戦投手となっている。この年、前年に引き続きセーブをあげられず防御率は自身ワーストの6点台となるなど不調が続き、引退をも考えたという[23]

2017年、前年に三浦大輔が現役を退いたためセ・リーグ及び日本球界最年長選手となった。この年は3年ぶりに開幕一軍を果たし、田島慎二に繋げる左のセットアッパーとして起用される。6月は23日の巨人戦で亀井善行1人を抑えて3年ぶりにセーブを記録し、それまで山本昌が保持していたセ・リーグの最年長セーブ記録(41歳2ヶ月)を42歳7ヶ月に更新したほか[24][25]、全14試合を無失点に抑え10ホールドを記録し、史上最長ブランクとなる12年ぶりの月間MVPに輝いた[26]。7月21日の広島戦で8回二死から登板し金田正一の持つ944登板を抜き、セ・リーグ歴代1位となる945登板を記録し[27]、8月4日の巨人戦で米田哲也のプロ野球記録に並ぶ949試合登板を達成し[28]、勝利投手となった[29][30]。950試合登板となる8月6日の巨人戦では、1点リードの9回に登板するも、一死一・二塁と一打サヨナラのピンチを招く。さらに坂本勇人に右中間へ大飛球を運ばれるが、中堅手大島洋平がこれを好捕(この時点で2アウト)。二塁を過ぎてオーバーランしていた一塁走者の重信慎之介は帰塁の際に二塁ベースを空過しており、次打者阿部慎之助への投球前に岩瀬が二塁に送球しアピールプレイにより重信のアウトが成立しゲームセット。岩瀬はプロ野球単独記録達成のマウンドで通算セーブを404に伸ばした[6][31]。この年は、4年ぶりに50試合に登板し、3勝6敗2セーブ、防御率4.79という成績を残し、カムバック賞を受賞した[32]

2018年シーズンからは投手コーチ兼任となったものの[33]、セ・リーグのアグリーメント上ベンチ入りできるコーチ人数に限りがあることから、ペナント開始前である3月17日にコーチ職を解かれた[34]。登録上の役職は解かれたものの、チーム内での役割は変わらず、コーチ料を含んだ年俸も見直されない。9月16日の対巨人戦で、通算登板数998試合目にしてプロ入り後初めて満塁ホームランを打たれた。9月28日の対阪神戦で1点リードの9回に登板し、NPB初の1000試合登板を達成。1イニング無失点に抑えてセーブも記録した[35]。1000試合登板に対し、本人は「ここまでできるとは思ってもいなかった」とコメントした。翌29日には、かつて岩瀬につなぐセットアッパーとして活躍し、この試合が引退登板となった浅尾から要望に応え[36]、浅尾の投げた直後の9回1死から登板。通算1001試合に伸ばした(成績は0/3回被安打1)。10月2日に記者会見が開かれ現役引退を発表した[37]。10月13日のシーズン最終戦となる阪神戦で、同じく今季限りで引退する荒木雅博とともに引退試合が行われた。同点に追いつかれた直後の9回裏二死三塁の場面で登板し、代打として起用された1998年ドラフト同期入団の福留孝介を3球全てスライダーで三振に仕留めて現役生活を終えた。岩瀬の引退により、20世紀中にNPB公式戦でのプレーを経験した社会人出身投手は全員が引退した。12月2日付で自由契約選手として公示。

現役引退後

2019年からは、CBCテレビCBCラジオ野球解説者東海テレビゲスト・サンテレビゲスト・NHKゲストの解説者、中日スポーツ野球評論家として活動。同年3月1日、翌日に行われる引退試合に出場するために中日ドラゴンズと育成契約を結んだ。登録上の背番号は204[38]。2日のロッテとのオープン戦に先発登板し、1番打者の井上晴哉から空振り三振を奪って打者1人で交代した。ユニフォームは現役時代同様背番号13を背負ったが、中日はこの年からユニフォームのデザインを新調しているため、岩瀬の着用はこの1回のみとなった。引退試合を終えたため3月4日付で自由契約公示された。

選手としての特徴

岩瀬の投球フォーム(2013年)

先述の通り、日本プロ野球における最多登板および通算セーブ数記録を保持するリリーバー。ルーキーイヤーの1999年から2013年まで15年連続で50試合以上登板を記録した。

日本シリーズを6度経験しているが、一度も失点したことはない[39]

かつては「死神の鎌」[40][41]と形容された球界屈指のスライダーが、打者のひざ元まで回り込んでいくほどの変化とキレを持っていた[2]

一方で、本人が重視しているのは、スリークォーターから投じる最速149km/hのストレートである[42][43]。意識して動かしてはいないが自然にムーヴィング・ファストボールとなっており[42][44]、入団して初めての春季キャンプで当時正捕手だった中村武志がキャッチボールを捕り損ねて突き指してしまったほどであった[45]。晩年は年齢的な衰えからかスピードが落ちたものの[46]、球速を補うキレは最後まで顕在であった[44]

ほかにはシュートや2012年シーズンより右打者に限り速度のあるシンカー[47]、2013年シーズンからは学生時代にも投げていたナックルボールの握りでブレーキのかかったカーブを、2017年には従来の高速スライダーとは異なる、スライダーとカットボールの中間のような変化で、その変化量が違う2種類の球種を会得した[41][23][48]。また、実戦では使用する機会はほとんどないが、シーズン前のキャンプでは毎年のように新球種を試している[49]

打撃面でも大学時代にリーグ歴代2位を誇る成績を残している[50]。プロの打撃成績は2009年終了時点で48打数11安打で打率.208、3打点の成績を残している[3]。抑えとして起用されるようになってからは打席に立つ機会もほとんど無くなったが、8回途中から登板した2006年7月16日の対阪神戦(京セラドーム大阪)では、9回表に立った打席でリードを2点に広げる犠飛を放った。

人物

2015年2月10日、沖縄・北谷にて

左投手であるが、ペンは右手で持つ。

あだ名は野口茂樹が命名した「満太朗」[51]。由来は諸説あり、本宮ひろ志の漫画『さわやか万太郎』の主人公から取られた説、かつて放映されていたテレビドラマ「男一番!タメゴロー」で金子信雄演じる「西尾満太郎」から取られた説などがある。同じく中継ぎで活躍した落合英二は「まんちゃん」と呼んでいる。公私ともに仲の良い川上憲伸は、岩瀬の「岩」の字から「ガンさん」と呼んでいる。川上がメジャーに行った後は、チームでは川上の大学時代からの後輩である小笠原孝と仲が良いという[52]

またファンからは畏敬を込めて「死神」とも通称される[40][41]。岩瀬の入団以来の背番号である13はタロット大アルカナ死神のカードを表すことや、「試合の終わりに現れ、相手チームに最後の死(アウト)をもたらす」という岩瀬の長年の役割をなぞらえたものである。また、岩瀬の決め球の切れ味鋭く打者を仕留めるスライダーは「死神の鎌」とも称されている[48]

キャリアのほぼ全てをリリーフ投手として過ごしてきたため、「たまにはまっさらなマウンドを噛み締めて投げたい」「いつも試合終了まで待っているので、たまには先発して早く帰ってみたい」という本人の希望により[53]オープン戦ナゴヤドーム開幕戦において岩瀬が1イニング限定の先発を務めることが、落合監督時代の2006年から高木監督時代にかけての例年行事となっていた時期があった[54]

普段はオーラがないと言われている。2007年1月31日の中日スポーツの記事で、沖縄で川上と一緒にタクシーに乗った時には、「(川上の)マネージャーさんですか?」と言われたほど[55]である。

酒が全く飲めない(体質的にアルコールを一切受け付けない)。リリーフ起用の理由も、1999年当時の中日で左腕のリリーフ投手が不足していたことに加え、投手チーフコーチだった山田久志が、岩瀬が酒が飲めないことを聞きつけ「(二日酔いの心配がないので)打たれても連投できる」と考えたことが一因である[56]。プロ入り2年目のオフにレーシックを受け。2005年頃から魚、野菜中心の食生活にして、2010年元日から禁煙に取り組んだ[57]

「どんな形でも、チームが勝てばいい」という気持ちでマウンドにあがっており、自身の記録にはあまりこだわりがないようである[45]。また、「記録は引退後に振り返ればいい」とも語っている[57]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1999 中日 65 0 0 0 0 10 2 1 -- .833 307 74.1 67 3 22 2 2 73 4 0 16 13 1.57 1.20
2000 58 1 0 0 0 10 5 1 -- .667 323 80.1 66 3 28 4 1 65 1 0 20 17 1.90 1.17
2001 61 0 0 0 0 8 3 0 -- .727 252 62.2 51 3 16 0 3 62 0 0 23 23 3.30 1.07
2002 52 0 0 0 0 4 2 0 -- .667 231 59.2 38 2 15 4 3 66 1 0 8 7 1.06 0.89
2003 58 0 0 0 0 5 2 4 -- .714 244 63.2 47 3 12 6 1 69 1 1 10 10 1.41 0.93
2004 60 0 0 0 0 2 3 22 -- .400 259 64.1 53 4 14 2 3 53 1 0 20 20 2.80 1.04
2005 60 0 0 0 0 1 2 46 2 .333 229 57.1 51 0 8 2 2 52 1 0 12 12 1.88 1.03
2006 56 0 0 0 0 2 2 40 5 .500 214 55.1 40 3 8 3 0 44 0 0 8 8 1.30 0.87
2007 61 0 0 0 0 2 4 43 3 .333 233 59.0 53 3 9 4 0 50 0 0 18 16 2.44 1.05
2008 51 0 0 0 0 3 3 36 5 .500 212 49.0 55 2 10 2 0 41 0 0 16 16 2.94 1.33
2009 54 0 0 0 0 2 3 41 1 .400 196 46.2 41 2 13 2 2 34 2 0 11 11 2.12 1.16
2010 54 0 0 0 0 1 3 42 3 .250 202 48.0 47 1 13 1 2 41 1 0 12 12 2.25 1.25
2011 56 0 0 0 0 0 1 37 7 .000 206 48.2 50 1 10 3 2 45 0 0 12 8 1.48 1.23
2012 54 0 0 0 0 1 3 33 6 .250 207 51.0 44 3 13 3 2 30 0 0 15 13 2.29 1.12
2013 55 0 0 0 0 2 3 36 8 .400 227 53.1 48 2 19 5 1 37 1 0 16 11 1.86 1.26
2014 34 0 0 0 0 1 2 20 4 .333 134 30.2 37 1 10 2 0 18 1 0 12 12 3.52 1.53
2016 15 0 0 0 0 0 2 0 2 .000 48 10.1 14 1 3 0 0 5 0 0 8 7 6.10 1.65
2017 50 0 0 0 0 3 6 2 26 .333 154 35.2 37 2 14 1 1 28 0 0 19 19 4.79 1.43
2018 48 0 0 0 0 2 0 3 10 1.000 143 35.0 28 3 7 0 5 28 1 0 18 18 4.63 1.01
NPB:19年 1002 1 0 0 0 59 51 407 82 .536 4021 985.0 867 42 244 46 30 841 15 1 274 253 2.31 1.13
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高

タイトル

表彰

  • 月間MVP:2回 (投手部門:2005年4月、2017年6月)
  • カムバック賞:1回 (2017年)
  • コミッショナー特別表彰:2回 (特別賞 : 2017年、2018年)
  • JA全農Go・Go賞:4回 (救援賞:1999年7月、2005年6月、2009年6月、2010年6月)
  • 「ジョージア魂」賞:1回 (2011年度第5回)
  • セ・リーグ連盟特別表彰(功労賞:2018年)

記録

初記録
投手記録
  • 初登板:1999年4月2日、対広島東洋カープ1回戦(ナゴヤドーム)、6回表2死に2番手で救援登板、0/3回1失点(自責点0)
  • 初奪三振:1999年4月8日、対横浜ベイスターズ3回戦(ナゴヤドーム)、6回表に駒田徳広から
  • 初勝利:1999年4月18日、対読売ジャイアンツ3回戦(東京ドーム)、5回裏に3番手で救援登板、3回2/3無失点
  • 初セーブ:1999年6月23日、対読売ジャイアンツ13回戦(ナゴヤドーム)、9回表1死に3番手で救援登板・完了、2/3回無失点
  • 初先発登板・初先発勝利:2000年10月8日、対広島東洋カープ26回戦(広島市民球場)、7回1失点
  • 初ホールド:2005年6月22日、対阪神タイガース8回戦(大阪ドーム)、9回裏に2番手で救援登板、1回無失点
打撃記録
  • 初安打:1999年4月8日、対横浜ベイスターズ3回戦(ナゴヤドーム)、7回裏に阿波野秀幸から中前安打
  • 初打点:1999年9月16日、対読売ジャイアンツ27回戦(ナゴヤドーム)、7回裏に岡島秀樹から右翼線適時二塁打
節目の記録
  • 100セーブ:2006年7月30日、対読売ジャイアンツ15回戦(ナゴヤドーム)、9回表に3番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上17人目
  • 500試合登板:2007年7月7日、対阪神タイガース8回戦(ナゴヤドーム)、8回表2死に3番手で救援登板・完了、1回1/3無失点でセーブ投手 ※史上81人目
  • 150セーブ:2007年9月9日、対東京ヤクルトスワローズ20回戦(ナゴヤドーム)、9回表に2番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上6人目
  • 200セーブ:2009年5月12日、対東京ヤクルトスワローズ7回戦(長良川球場)、9回表に3番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上4人目
  • 600試合登板:2009年5月28日、対東北楽天ゴールデンイーグルス2回戦(ナゴヤドーム)、9回表に4番手で救援登板、1回1失点 ※史上33人目
  • 250セーブ:2010年6月16日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(ナゴヤドーム)、9回表に4番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上3人目
  • 700試合登板:2011年5月17日、対千葉ロッテマリーンズ1回戦(QVCマリンフィールド)、9回裏に6番手で救援登板・完了、1回2失点でセーブ投手 ※史上14人目
  • 300セーブ:2011年9月3日、対広島東洋カープ16回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、9回裏に5番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上初
  • 800試合登板:2012年10月5日、対広島東洋カープ24回戦(ナゴヤドーム)、9回表に8番手で救援登板・完了、1回1失点 ※史上6人目
  • 350セーブ:2013年4月18日、対東京ヤクルトスワローズ6回戦(明治神宮野球場)、9回裏に5番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上初
  • 400セーブ:2014年7月26日、対読売ジャイアンツ14回戦(ナゴヤドーム)、9回表に5番手で救援登板・完了、1回1失点 ※史上初
  • 900試合登板:2016年8月6日、対横浜DeNAベイスターズ19回戦(横浜スタジアム)、8回裏に5番手で救援登板、0/3回3失点で敗戦投手 ※史上3人目[58]
  • 950試合登板:2017年8月6日、対読売ジャイアンツ18回戦(東京ドーム)、9回裏に5番手で救援登板・完了、1回無失点でセーブ投手 ※史上初
  • 1000試合登板:2018年9月28日、対阪神タイガース22回戦(ナゴヤドーム)、9回表に7番手で救援登板・完了、1回無失点でセーブ投手 ※史上初
  • 1000試合出場:同上 ※史上496人目
その他の記録
  • シーズンセーブ :46(2005年、セ・リーグ記録〈達成当時はNPB記録〉)[59]
  • 通算セーブ :407(2018シーズン終了時、NPB記録)[60]
  • 通算救援登板:1001(2018年シーズン終了時、NPB記録)
  • 通算登板:1002(2018シーズン終了時、NPB記録)[61]
  • 連続シーズン50試合登板 :15年(1999年 - 2013年、NPB記録)
  • 連続シーズン10セーブ:11年(2004年 - 2014年、NPB記録)[62]
  • 連続シーズン20セーブ:11年(2004年 - 2014年、NPB記録)[63]
  • 連続シーズン30セーブ:9年(2005年 - 2013年、NPB記録)
  • オールスターゲーム出場:10回 (2000年 - 2001年、2003年、2005年 - 2007年、2010年 - 2013年)
  • フランチャイズ・プレイヤー:デビュー以来移籍経験なし(地元出身、最狭義のフランチャイズプレイヤーでもある)

背番号

  • 13(1999年 - 2018年)
  • 204 (2019年3月1日 - 同年3月3日)※引退試合出場のための登録上のもの。引退試合は13で出場した。

登場曲

関連情報

CM出演

コラム

  • 岩瀬仁紀の人生勝負(不定期更新。井端弘和(井端弘和の「一の野球」)とともに携帯サイトのドラゴンズ情報内で、「現状報告」とファンからの質問に答える「お答えします!」で構成されている)

脚注

注釈

  1. ^ NPBでは継投による完全試合を認めていないため、参考記録。
  2. ^ パ・リーグでは薮田安彦が記録。

出典

  1. ^ a b c d 別冊宝島1652号、宝島社、P.43-44
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  5. ^ 1999年日刊スポーツ発行プロ野球選手写真名鑑
  6. ^ a b 中日・岩瀬が最多記録更新の950試合登板 記念マウンドをセーブで飾る”. スポーツニッポン (2017年8月6日). 2017年8月6日閲覧。
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  11. ^ 落合『采配』p.p.74 - 78
  12. ^ 落合『采配』p.p.90 - 93
  13. ^ 中日:岩瀬が通算250セーブ達成…プロ野球3人目、毎日jp、2010年6月16日。
  14. ^ “中日の岩瀬が通算350セーブ=プロ野球”. 時事通信. (2013年4月18日). http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2013041800962 
  15. ^ “中日・岩瀬がプロ野球新10年連続2桁S”. スポーツニッポン. (2013年5月15日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/15/kiji/K20130515005807040.html 
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  17. ^ “岩瀬 大魔神超え!日本人選手最多通算382セーブ”. スポーツニッポン. (2013年9月18日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/18/kiji/K20130918006640420.html  21時50分配信
  18. ^ 岩瀬 前人未到の400セーブ、ストッパー専任11年目で到達スポーツニッポン2014年7月26日配信
  19. ^ 中日 岩瀬 50試合登板ならず 15年連続でストップスポーツニッポン2014年9月11日配信
  20. ^ 中日・岩瀬 連続30セーブ9年でストップスポーツニッポン2014年9月18日配信
  21. ^ 中日新聞』2016年1月19日朝刊「『順調すぎるぐらい順調』岩瀬復活へ自主トレ公開」
  22. ^ 今季登板なし岩瀬 2・5億円減の5000万円 歴代2位のダウン額 - スポーツニッポン(2015年12月7日13時53分配信)
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  61. ^ 登板 【通算記録】NPB公式サイト
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  63. ^ “岩瀬 史上初の10年連続20セーブ 秘けつは「体調に尽きますね」”. スポーツニッポン. (2013年7月16日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/07/16/kiji/K20130716006231660.html 

参考資料

  • 落合博満『采配』ダイヤモンド社、2017年11月17日。ISBN 9784478016268 

関連項目

外部リンク