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牟呂発電所運転開始時期判明 |
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|社名 = 豊橋電気株式会社 |
|社名 = 豊橋電気株式会社 |
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|略称 = 豊電 |
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|本社所在地 = {{JPN}}<br />[[愛知県]][[豊橋市]]大字関屋12番戸<ref>「[[商業登記]] 名古屋電灯株式会社変更」『[[官報]]』第2669号、1921年6月24日付。{{NDLJP|2954784/12}}</ref> |
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|解散 = [[1921年]](大正10年)[[4月20日]]<ref name="kanpo19210721">「商業登記 豊橋電気株式会社解散」『官報』第2692号附録、1921年7月21日付。{{NDLJP|2954807/35}}</ref><br />([[名古屋電灯]]と合併し解散) |
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|業種 = [[:Category:日本の電気事業者 (戦前)|電気]] |
|業種 = [[:Category:日本の電気事業者 (戦前)|電気]] |
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|事業内容 = [[電力会社|電気供給事業]] |
|事業内容 = [[電力会社|電気供給事業]] |
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|配当率 = 年率14.0% |
|配当率 = 年率14.0% |
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|株主数 = 748名 |
|株主数 = 748名 |
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|主要株主 = 名古屋信託 (5.4%)、伊東治郎 (3.9%)、高橋小十郎 (3.2%)、望月喜平治 (3.0%)、 |
|主要株主 = 名古屋信託 (5.4%)、伊東治郎 (3.9%)、高橋小十郎 (3.2%)、望月喜平治 (3.0%)、福澤桃介 (2.8%) |
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|決算期 = 6月末・12月末(年2回) |
|決算期 = 6月末・12月末(年2回) |
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|特記事項 = 代表者以下は1920年12月期決算時点<ref name="report54">「豊橋電気株式会社第54回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref> |
|特記事項 = 代表者以下は1920年12月期決算時点<ref name="report54">「豊橋電気株式会社第54回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref> |
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'''豊橋電気株式会社'''(とよはしでんきかぶしきがいしゃ)は、[[明治]]後期から[[大正]]にかけて存在した[[日本の電力会社]]である。[[中 |
'''豊橋電気株式会社'''(とよはしでんきかぶしきがいしゃ)は、[[明治]]後期から[[大正]]にかけて存在した[[日本の電力会社]]である。[[愛知県]][[豊橋市]]に設立され、同市を中心とする[[東三河]]地方への[[電気]]供給を担った。 |
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設立・開業は[[1894年]](明治27年)で、東三河で最初の電気事業を起こした。社名は[[1906年]](明治39年)の改称まで'''豊橋電灯株式会社'''(豊橋電燈、とよはしでんとう)と称する。[[豊川]]水系に[[水力発電|水力発電所]]を相次ぎ建設するなど事業を拡げ、最終的に東三河とそれに接する[[静岡県]]の一部地域を供給区域とした。 |
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[[1921年]](大正10年)、[[名古屋市]]を地盤とする[[名古屋電灯]](後の[[東邦電力]])に[[合併 (企業)|合併]]され消滅した。その翌年、旧経営陣の一部が[[渥美半島]]の電気事業を統合して立ち上げた豊橋電気信託という会社が「[[豊橋電気 (1921-1939)|豊橋電気]]」の社名を継承している。 |
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[[渥美半島]]を供給地域とした[[豊橋電気 (1921-1939)|豊橋電気(1921 - 1939年、旧・豊橋電気信託)]]とは直接の関係はないが、本稿で記述する豊橋電気の経営者の一部が改めて1921年に設立した会社が豊橋電気信託である。 |
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== 概要 == |
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豊橋電気株式会社(旧社名:豊橋電灯株式会社)は、[[1894年]](明治27年)に当時の[[愛知県]][[渥美郡]]豊橋町、後の[[豊橋市]]に発足・開業した電力会社である。電気事業勃興期に起業された事業者の一つであり、その開業は[[名古屋市]]の[[名古屋電灯]](後の[[東邦電力]])に続く[[中部地方]]2例目となった。 |
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豊橋電灯設立の主唱者は商工業者で組織される豊橋商業会議所(現・[[豊橋商工会議所]])である。豊橋での[[電灯]]点灯を目指し[[1893年]](明治26年)から設立手続きに着手し、翌1894年3月までに手続きを完了した。開業は同年4月1日。電源は近郊の[[梅田川 (愛知県)|梅田川]]に設けた[[水力発電|水力発電所]]で、県内最初の水力発電であったが、不完全な設備であり[[火力発電]]併用で運転された。そのため短期間で[[牟呂用水]]へと発電所を移すも、ここでも水量不足から火力発電併用を余儀なくされた。 |
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明治末期、[[日露戦争]]後の時期より豊橋電灯は急速にその事業を拡大することになる。その初期の[[1906年]](明治39年)、[[電動機|動力用]]電力の供給を事業目的に追加するとともに社名を豊橋電灯から豊橋電気へと変更。供給拡大のための電源を[[豊川]]水系に求め、[[1908年]](明治41年)以後計4か所の水力発電所を順次建設していく。電源増強とともに1910年代に入ると供給区域の拡大にも力が入れられ、現在の[[豊川市]]域や県境を越えた[[静岡県]][[湖西市]]域にも供給するようになった。経営面では、事業拡大の中で地元以外からも出資者を募った結果、経営陣に地元以外の人物が参画した。その代表格が東京の実業家[[福澤桃介]]である。福澤は大株主に登り、[[1910年]](明治43年)以降専務や社長として会社経営にあたった。 |
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1920年代に入り、事業の拡大をもたらした[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]が終わって[[戦後恐慌]]が発生すると、福澤が社長を兼ねる名古屋電灯との合併が進められた。[[1920年]](大正9年)12月、名古屋電灯との間に合併契約が成立。そして半年後の翌[[1921年]](大正10年)4月に合併が完了し、豊橋電気は[[解散]]した。この合併手続き中に[[豊橋市議会|豊橋市会]]で事業の市営化を目指す動きが活発化するも、市営化交渉は進展しなかった。だがこれに伴う市と会社側の関係悪化は市民からの名古屋電灯非難の声を強め、電気料金値下げ運動が発生する原因となった。 |
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豊橋電気が経営した供給区域は、いずれも[[第二次世界大戦]]後の電気事業再編成にて発足した[[中部電力]](2020年以降は[[中部電力パワーグリッド]])の供給区域に含まれる。また発電所もそれまでに廃止されたものを除き同社に継承されている。 |
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== 沿革 == |
== 沿革 == |
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=== 会社設立 === |
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[[ファイル:Miura Hekisui.jpg|thumb|upright|第2・5代社長[[三浦碧水]]]] |
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豊橋電気は、「豊橋電灯株式会社」の社名で[[1894年]](明治27年)[[2月11日]]に設立された<ref name="toyo8-620">[[#toyo8|『豊橋市史』第8巻]]620頁</ref>。開業は同年4月のことで、[[1889年]](明治22年)に[[名古屋市]]で開業した[[名古屋電灯]]以来[[東海地方]]では2番目、全国でも15番目に開業した電気事業者である<ref>[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]23頁</ref>。 |
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[[1889年]](明治22年)12月、[[愛知県]][[名古屋市]]において、[[士族授産]]活動から生じた電力会社[[名古屋電灯]]が[[電灯]]供給事業を開業した<ref name="chubu1-9">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]9-19頁</ref>。これは[[中部地方]]第一号、日本全国で見ても[[東京市|東京]]・[[神戸市|神戸]]・[[大阪市|大阪]]・[[京都市|京都]]に続く5番目の電気事業である<ref name="chubu1-9"/>。以後も全国的に起業が相次ぎ、[[北海道]]・[[九州]]でも電気事業が出現していく<ref name="chubu1-22">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]22-23頁</ref>。 |
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豊橋電灯の設立にあたったのは豊橋商業会議所(現・豊橋商工会議所)の有志である。[[1893年]](明治26年)3月に発足した商業会議所では、名古屋市など主要都市で[[電灯]]が普及しつつあるのを踏まえ、豊橋にも電灯を導入し町全体を「[[不夜城]]」として商工業の発展を目指す、として発足後最初の事業として電灯設置を企画する<ref name="toyo3-708">[[#toyo3|『豊橋市史』第3巻]]708-710頁</ref>。有志が各地を調査した結果、[[豊橋市]](当時は[[渥美郡]]豊橋町)でも電気事業の起業が可能との結論が得られたことから、資本金1万5000円で豊橋電灯を設立した<ref name="toyo3-708"/>。 |
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こうした全国的傾向の中、愛知県東部の都市[[豊橋市]](1906年の市制までは[[渥美郡]]豊橋町)においても電気事業起業の動きが出現する。名古屋の事例とは異なり、豊橋における起業の主導者は商工業者で組織される[[商業会議所]]であった。具体的には[[1893年]](明治26年)3月に設立された豊橋商業会議所(現・[[豊橋商工会議所]])であり、発足最初の事業として電灯設置を取り上げたことが発端となった<ref name="toyo3-708">[[#toyo3|『豊橋市史』第三巻]]708-710頁</ref>。まず同年6月、会議所宛に佐藤弥吉(呉服商<ref name="toyosho-338">[[#toyosho|『豊橋商工会議所五十年史』]]338-339頁。{{NDLJP|1067832/184}}</ref>)より電灯設置に向けた調査を求める建議が出された<ref name="toyosho-462">[[#toyosho|『豊橋商工会議所五十年史』]]462-467頁。{{NDLJP|1067832/246}}</ref>。建議の趣旨は、東京などの都市にならって電灯をともし町全体を「[[不夜城]]」として商工業発展を期するべし、というものであった<ref name="toyosho-462"/>。これを受けて会議所は佐藤や副会頭[[三浦碧水]](印刷業<ref name="toyosho-338"/>)ら5名を調査委員に任命した<ref name="toyosho-462"/>。 |
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電源として、渥美郡[[高師村]](現・豊橋市)にあった[[梅田川 (愛知県)|梅田川]]の農業用[[水車]]を買収、これを[[発電用水車]]へと改造し、[[三吉正一|三吉電機工場]]製の15[[ワット (単位)|キロワット]][[交流発電機]]を併設して[[水力発電|水力発電所]]とした<ref name="haga-1">[[#haga|『東三河地方電気事業沿革史』]]1-5頁</ref>。豊橋市街までは10[[キロメートル]]ほどの距離があったため、当時としては高圧の2000[[ボルト (単位)|ボルト]]という[[送電]]電圧を採用<ref name="haga-1"/>。1894年3月に発電所を完成させ、[[4月1日]]より開業した<ref name="haga-1"/><ref name="toyo3-708"/>。開業当初の供給実績は、同年6月末時点で需要家戸数47戸、供給電灯数143灯であった<ref name="haga-1"/>。ところが創業当初は梅田川の渇水と送電距離の長さから満足な供給ができておらず、安定供給にはほど遠い状態であった<ref name="haga-1"/>。そのため[[蒸気機関]]を発電所に据え付け、供給を補完せざるを得なかった<ref name="haga-1"/>。 |
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委員のうち三浦碧水は上京調査に赴き、箱根電灯([[神奈川県]]・1892年6月開業<ref name="chubu1-22"/>)で事業の具体的内容を聴取したのち、同社技師長でもあり当時[[静岡県]][[浜松市]]で水力発電事業の準備をしていた技師[[大岡正]]を訪ね、水力発電の適地があれば人口1万人の都市でも300灯ほどの需要で十分採算性があるとの助言を得たという<ref name="toyosho-462"/>。その結果、調査委員は豊橋でも電灯導入が可能と結論付け、7月その旨を会議所に対し報告した<ref name="toyosho-462"/>。調査結果を踏まえて電灯会社起業の動きが進められ<ref name="muro">[[#muro|石田正治「牟呂発電所遺構の調査研究」]]</ref>、当時の豊橋商業会議所議員20名のうち三浦碧水・佐藤弥吉・白井直次(質商・生糸商)・[[高橋小十郎]](回漕業)・宅間菊太郎(米穀商)・伊東米作(米穀商)・杉田権次郎(魚商)の7名に[[福谷元次]]を加えた計8名を発起人として<ref name="toyosho-338"/><ref name="toyo8-609">[[#toyo8|『豊橋市史』第八巻]]609-619頁(「豊橋電燈株式会社発起認可願」「電燈点火営業御允許願 謄本」「豊橋電燈株式会社設立免許申請書」)</ref>、1893年9月4日付で「豊橋電灯株式会社」の発起認可を[[農商務省 (日本)|農商務省]]へ出願する<ref name="toyo8-609"/>。次いで11月8日付で豊橋町内における電灯営業の許可を愛知県に求めた<ref name="toyo8-609"/>。 |
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梅田川での発電に失敗したことから、豊橋電灯では水力発電に適する地点を調査し[[豊川]]上流(寒狭川)の開発を計画するが、工事費が約25万円にのぼることから断念<ref name="toyo3-710">[[#toyo3|『豊橋市史』第3巻]]710-712頁</ref>。替わりに[[神野新田]]の[[牟呂用水]]を利用して[[牟呂吉田村|牟呂村]]大西(現・豊橋市牟呂大西町)に牟呂発電所を新設する方針を決定した<ref name="toyo3-710"/>。梅田川発電所の設備を三吉電機工場に返却、牟呂発電所には新しく購入した30キロワット発電機を据え付け<ref name="haga-7">[[#haga|『東三河地方電気事業沿革史』]]7-8頁</ref>、[[1895年]](明治28年)9月より運転開始に漕ぎつける<ref name="chubu2-345">[[#chubu|『中部地方電気事業史』下巻]]345頁</ref>。しかしここでも水量不足に悩まされ、2か月後に蒸気機関を設置、結果として[[火力発電]]中心の発電となった<ref name="haga-7"/>。 |
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[[1894年]](明治27年)に入り、1月15日付で電灯営業、2月1日付で会社発起の許認可が下りた<ref name="toyo8-609"/>。許認可と株主募集を経て[[2月11日]]、豊橋電灯株式会社の創業総会開催に至る<ref name="toyo8-609"/>。その後[[3月8日]]付で農商務省から会社設立免許があり、3月22日設立[[登記]]も完了して会社設立手続きが完了した<ref name="toyo8-619">[[#toyo8|『豊橋市史』第八巻]]619-624頁(「会社登記報告書」「豊橋電燈株式会社第一回営業報告書」)</ref>。こうして設立された豊橋電灯は[[資本金]]1万5000円の会社で、本店を豊橋町[[八町通 (豊橋市)|大字八町]]152番地1に構えた<ref name="toyo8-619"/>。創業総会にて選ばれた最初の役員は[[取締役]]杉田権次郎・福谷元次・伊東米作および[[監査役]]三浦碧水・白井直次の計5名で、取締役の互選により杉田が初代社長に選出された<ref name="toyo8-619"/>。この役員については翌年までに社長杉田、取締役伊東・三浦・福谷・高橋小十郎・佐藤弥吉、監査役白井・宅間菊次郎という体制になっている<ref name="toyo8-624">[[#toyo8|『豊橋市史』第八巻]]624-628頁(「豊橋電燈株式会社第三回事業報告書」)</ref>。また[[1896年]](明治29年)に杉田が死去すると三浦碧水が2代目社長に就いた<ref name="toyo3-708"/>。以後三浦は[[1915年]](大正4年)2月に死去するまで会社経営に関与することになる<ref name="toyo4-607">[[#toyo4|『豊橋市史』第四巻]]607-610頁</ref>。 |
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初期の供給先としては豊橋に駐屯していた[[歩兵第18連隊]]があり、やがて官庁や商店街でも電灯の利用が拡大、一般家庭でも普及していった<ref name="toyo3-710"/>。配電範囲を拡張すべく豊橋電灯は[[1896年]](明治29年)に増資を行って資本金を2万5000円とし、翌年にはさらに倍額増資を行い5万円とした<ref name="toyo3-710"/>。供給の拡大につれて収入も増加し、[[1897年]](明治30年)上期より利益をあげうるようになり、同年下期からは[[配当]]も始まった<ref name="toyo3-710"/>。[[1900年]](明治33年)、需要の拡大に応ずるため牟呂発電所にに出力50キロワットの新発電機を設置、[[1905年]](明治38年)4月には蒸気機関を増設し旧発電機を再稼動させて発電所出力を計80キロワットとしている<ref name="haga-7"/>。 |
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=== 創業期の苦心 === |
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[[ファイル:Umeda river in Hamamichicho, Toyohashi.jpg|thumb|浜道橋から見た[[梅田川 (愛知県)|梅田川]](2021年撮影)。梅田川発電所があった豊橋市浜道町字車(旧・高師村字車)は画像左手にあたる。]] |
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[[ファイル:Fukuzawa Momosuke 45-year-old.jpg|thumb|upright|豊橋電気社長に就任した[[福澤桃介]]]] |
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豊橋電灯は発電所を建設するにあたり、設立前の調査段階で関わりのあった技師大岡正に設計・工事を担当させた<ref name="ooka">[[#ooka|浅野伸一「水力技師大岡正の人と業績」]]42-53頁</ref>。大岡は水力発電勃興期のごく初期から発電所建設に携わった技師であり、[[京都市電気局|京都市営]][[蹴上発電所]]に続く国内2番目の事業用水力発電所である箱根電灯湯本発電所を建設した経験を持つ<ref name="ooka"/>。大岡にとって豊橋電灯における発電所建設は箱根・浜松(失敗)に続く3か所の施工事例となった<ref name="ooka"/>。その豊橋電灯の水力発電所は、豊橋の市街から10キロメートルほど離れた渥美郡[[高師村]](現・豊橋市)の[[梅田川 (愛知県)|梅田川]]に建設された<ref name="ooka"/>。[[発電用水車]]は農業用水車を買収して改造したもの<ref name="toyo3-708"/>。[[発電機]]は出力15[[ワット|キロワット]]・[[電圧]]2,000[[ボルト (単位)|ボルト]]の[[交流発電機]]を置いた<ref name="muro"/>。発電所は1894年3月には完成した<ref name="ooka"/>。 |
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[[1906年]](明治39年)[[11月19日]](登記日)<ref name="kanpo19061126">「商業登記」『官報』第7023号、1906年11月26日付。{{NDLJP|2950366/19}}</ref>、新たに動力用電力の販売を営業目的に追加し、社名を豊橋電灯から「豊橋電気株式会社」に変更した<ref name="toyo3-710"/>。当時は[[日露戦争]]後の企業勃興期にあたり、商工業者や役所、一般家庭における電灯需要や工業向けの電力需要が急増していた<ref name="toyo3-710"/>。需要増に対応するべく[[南設楽郡]][[作手村]](現・[[新城市]])における新水力発電所の建設を決定し、翌[[1907年]](明治40年)に資本金を5万円から15万円へ、さらに2度目の増資で50万円へと拡大<ref name="toyo3-710"/>。突貫工事の末、[[1908年]](明治41年)5月に[[#見代発電所|見代発電所]]を建設した<ref name="haga-10">[[#haga|『東三河地方電気事業沿革史』]]10-14頁</ref>。同発電所は豊川支流[[巴川 (豊川水系)|巴川]]の水力を利用するもので、出力は250キロワット(1910年の増設後は360キロワット)<ref name="haga-10"/>。発電所と同時に豊橋郊外の[[下地町 (愛知県)|下地町]]に変電所を建設し、発電所から変電所まで10キロボルトの電圧で送電した上で変電所にて降圧して配電する、という供給方式を整備した<ref name="haga-10"/>。 |
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そして豊橋電灯は1894年[[4月1日]]開業に至った<ref name="toyo3-708"/><ref name="toyo8-619"/>。名古屋電灯に続く中部地方2番目、全国でも前年の[[日光電力]]([[栃木県]])に続いて15番目に開業した電気事業者となった<ref name="chubu1-22"/>。こうして開業に漕ぎつけた豊橋電灯であったが、梅田川発電所の水量不足という問題が発生した<ref name="toyo3-708"/>。梅田川発電所は当時まだ希少な水力発電所(愛知県下では第一号<ref name="ooka"/>)であり、名古屋電灯がいまだ低圧送電方式を採り隣町への配電ができていない中で高圧送電方式を用いたことは技術的には画期的であったものの、現実には水量不足のため電灯点火は順調ではなく光量が[[ランプ (照明器具)|ランプ]]に及ばないことすら多々あった<ref name="toyo3-708"/>。この光量不足対策として、豊橋電灯では梅田川発電所に補助動力となる[[蒸気機関]]を据え付けて[[火力発電]]併用とする選択をした<ref name="ooka"/>。 |
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見代発電所の完成後も、豊橋への[[第15師団 (日本軍)|陸軍第15師団]]設置などによって電気の需要は増加を続けた<ref name="toyo3-710"/>。同発電所の新設にあわせて1907年10月に電灯料金の値下げを実施したこともあり、1907年12月の時点で約1800灯であった供給電灯数が半年後の1908年6月には約5200灯へと増加する、という具合に供給成績は急速に向上した<ref name="toyo3-712">[[#toyo3|『豊橋市史』第3巻]]712-718頁</ref>。また1908年上期に動力用電力の供給を初めて実施して以来、[[精米]]・製材・製粉・揚水などの用途で[[電動機]]の普及が進んだ<ref name="toyo3-712"/>。急激な需要増加に対処すべく[[1909年]](明治42年)下地町に火力発電所([[#下地発電所|下地発電所]]、出力150キロワット)を新設している<ref name="toyo3-710"/>。 |
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大岡が豊橋の前に手掛けた[[浜松電灯]]では水力発電が失敗に終わった後蒸気機関による火力発電で開業するまで2年を要した(豊橋に遅れて1895年10月開業)が<ref name="ooka"/>、豊橋電灯ではあらかじめ蒸気機関設置の手配をしつつ水力発電だけで開業し、追って1894年6月に蒸気機関の設置工事を完了した<ref name="toyo8-619"/>。火力併用の発電が好成績を収めると点灯申込みは増加に向かう<ref name="toyo8-619"/>。最初の決算である6月末時点では需要家数47戸・点灯数143灯<ref name="toyo8-619"/>、1年後の[[1895年]](明治28年)6月末時点では点灯数478灯を数えた<ref name="toyo8-624"/>。 |
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[[1910年]](明治43年)11月、豊橋電気は傍系会社として資本金50万円で寒狭川電気株式会社を設立<ref name="toyo3-710"/>。同社に通じて寒狭川の開発に着手し<ref name="toyo3-710"/>、翌[[1911年]](明治44年)[[5月10日]]<ref name="kanpo19110523">「商業登記」『官報』第8373号附録、1911年5月23日付。{{NDLJP|2951730/19}}</ref>に同社を吸収した後、[[1912年]](明治45年)2月に[[南設楽郡]][[長篠村]](現・新城市)において出力500キロワットの[[#長篠発電所|長篠発電所]]を完成させた<ref name="toyo3-710"/>。また発電所完成に前後して豊橋市外への供給拡大を推進し、1911年10月から[[小坂井町|小坂井村]]・[[牛久保町]]・[[豊川町]](いずれも現・[[豊川市]])にて、1912年4月からは[[二川町 (愛知県)|二川町]](現・豊橋市)および新城町(現・新城市)にて、それぞれ供給を開始した<ref name="toyo3-712"/>。これらの結果1912年6月の時点では電灯需要家数は5000戸を上回り、供給灯数は約1万6800灯を数えた<ref name="toyo3-712"/>。 |
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梅田川での発電が失敗に終わったことから、豊橋電灯では水力発電に適する別の地点を調査し、[[豊川]]上流(寒狭川)の開発を計画する<ref name="toyo3-710">[[#toyo3|『豊橋市史』第三巻]]710-712頁</ref>。しかし工事費が約25万円にのぼることから断念し、替わりに近郊の[[牟呂用水]]を利用して[[牟呂吉田村|牟呂村]]大西(現・豊橋市牟呂大西町)に牟呂発電所を新設する方針を決定した<ref name="toyo3-710"/>。この牟呂用水は[[神野新田]]に通ずる用水路で、1894年に完成したばかりであった<ref name="muro"/>。1895年5月、梅田川発電所の設備を製作した[[三吉正一|三吉電機工場]]との間で、既設設備一式を原価で引き取らせた上で新しい水車・発電機を発注するという契約を締結<ref name="muro"/><ref name="toyo8-624"/>。そして名古屋電灯技師の丹羽正道に発電所設計を任せ<ref name="muro"/>、翌1896年4月に[[#牟呂発電所|牟呂発電所]]を完成させた<ref name="report5">「豊橋電灯株式会社第5回事業報告書」([[愛知県公文書館]]収蔵)</ref>。こうして発電所を梅田川から移したものの、牟呂用水も水量不足であり、完成2か月後には蒸気機関を設置して火力併用の発電所としている<ref name="muro"/>。 |
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豊橋電気の資本金は、1907年に50万円、1911年の寒狭川電気合併以後は100万円となったが、この時期になると出資者には地元豊橋の人物以外も名を列ねるようになっていた<ref name="toyo4-607">[[#toyo4|『豊橋市史』第4巻]]607-610頁</ref>。その代表格が東京から参加した実業家[[福澤桃介]]である。[[株式投資]]で得た資金を電気事業へと投資しつつあった福澤は、豊橋電気創業者の一人で社長を務める[[三浦碧水]]の勧めで[[1908年]](明治41年)より豊橋電気の筆頭株主となり、翌1909年には社長に就任<ref name="toyo4-607"/>。1912年まで社長、以降は専務取締役として三浦の要請で経営改革にあたった<ref name="toyo4-607"/>。なお福澤は、豊橋電気への参入後に名古屋電灯の株式買収に着手し、同社でも筆頭株主となって1910年より取締役に就任している<ref>[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]74-77頁</ref>。 |
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=== 軌道に乗る事業 === |
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[[ファイル:Main Gate of the Toyohashi Park.jpg|thumb|創業期からの供給先であった[[歩兵第18連隊]]の駐屯地跡([[豊橋公園]])]] |
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大正に入ると豊橋電気は[[静岡県]]にも進出する。[[浜名郡]][[新居町 (静岡県)|新居町]]をはじめとする[[浜名湖]]西部の地域(現・[[湖西市]])にて進行していた電気事業の計画に三浦碧水や福澤桃介ら豊橋電気関係者も参加し、1912年5月28日西遠電気株式会社を設立<ref name="arai-227">[[#arai|『新居町史』第2巻]]227-229頁</ref>。同社は自社火力発電の計画を取り止め、豊橋電気から受電に切り替えて受けて[[1913年]](大正2年)[[1月1日]]より開業、新居町などに供給を開始した<ref name="arai-227"/>。その後[[1916年]](大正5年)[[4月1日]]付で豊橋電気は西遠電気を合併(増資額6万円)<ref name="kanpo19160506">「商業登記」『官報』第1127号、1916年5月6日付。{{NDLJP|2953237/12}}</ref>、この地域の事業を直営とした<ref name="arai-227"/>。 |
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創業期の点灯規則によると、供給する[[白熱電球|白熱電灯]]の明るさ([[燭|燭光]]数)には8燭灯・10燭灯・16燭灯などがあり、燭光数と点灯時間(12時灯・3時灯・終夜灯の3種)によって料金が定められていた<ref name="koro-250">[[#koroshaden|『開校廿周年記念東三河産業功労者伝』]]250-262頁。{{NDLJP|1705146/148}}</ref>。月額料金は10燭終夜灯の場合90銭(会社貸出の電球の場合17銭加算)、16燭終夜灯の場合1円30銭(同20銭加算)で<ref name="koro-250"/>、当時は高級品として扱われた<ref name="toyo3-710"/>。初期の主要な供給先は豊橋に駐屯していた[[歩兵第18連隊]]であり、やがて官庁や商店街でも電灯の利用が拡大、一般家庭でも普及していった<ref name="toyo3-710"/>。 |
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[[1914年]](大正3年)に[[第一次世界大戦]]が勃発し、その影響で[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]が始まると、豊橋電気の管内でも電灯・電力ともに需要がさらに増加した<ref name="toyo4-607"/>。特に電力需要は旺盛であり、1916年になると年末に新規供給の受け付けを一時中止するほどであった<ref name="toyo4-607"/>。対策として[[浜松市]]などを供給区域とする[[日英水電]]との間で供給契約を締結し、[[1917年]](大正6年)1月より同社からの受電を開始した<ref name="toyo4-607"/>。同年6月時点での供給実績は、電灯供給約4万3,600灯、電力供給約830[[馬力]]に上り、好調な業績を背景に特別配当や増配を実施している<ref name="toyo4-607"/>。さらなる需要増加に応ずるため<ref name="toyo4-607"/>、1917年11月に94万円の増資を完了させて資本金を200万円へと引き上げるとともに<ref>「商業登記」『官報』第1599号附録、1917年11月30日付。{{NDLJP|2953712/16}}</ref><ref name="kabu1920">[[#kabu1920|『株式年鑑』大正9年度]]331頁。{{NDLJP|975422/210}}</ref>、[[水利権]]を確保していた[[#布里発電所|布里発電所]]の建設に着手した<ref name="toyo4-607"/>。 |
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設立3年目の1896年上期に1万円の増資を、次いで翌[[1897年]](明治30年)下期に倍額増資をそれぞれ実施し、資本金を短期間で5万円へと引き上げた<ref name="toyo3-710"/>。これらは配電設備拡張を目的とする増資であった<ref name="toyo3-710"/>。供給の拡張につれて電灯料収入も増加傾向となり、設立以来の赤字経営が1897年上期黒字化に成功、同年下期には初めての[[配当]]にも漕ぎつけた<ref name="toyo3-710"/>。開業6年目の[[1899年]](明治32年)下期には電灯数が1000灯に到達<ref name="gas-24">[[#gas|『社史・中部瓦斯株式会社』]]24-25頁(「豊橋電気株式会社(豊橋電灯株式会社)営業成績累年比較表」)</ref>。[[1900年]](明治33年)下期には1200灯を超えたが、以後しばらく需要家数200戸前後・灯数1200灯台のまま伸びが停滞した<ref name="gas-24"/>。 |
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供給力増強の一方で経営の合理化も同時に進められ、下地発電所を廃止したほか、1917年5月には見代発電所と付属設備一切を[[東三電気]]へと売却した<ref name="toyo4-607"/>。この事業譲渡により新城町など新城地区への供給が東三電気の手に移っている<ref name="haga-32">[[#haga|『東三河地方電気事業沿革史』]]32-34頁</ref>。これらの合理化は、三浦碧水の死去(1915年2月)に伴い専務取締役の福澤桃介が実権を握り(1918年より再び社長となる)、1916年より支配人に技師長出身の今西卓が就任してさらなる経営改革を図った結果とされる<ref name="toyo4-607"/>。建設中の布里発電所(出力500キロワット)は[[1919年]](大正8年)7月に運転を開始<ref name="chubu2-330">[[#chubu|『中部地方電気事業史』下巻]]330-331頁</ref>。さらに、寒狭川の布里・長篠両発電所の中間地点に[[#横川発電所|横川発電所]](出力800キロワット)の建設を計画したほか、[[1920年]](大正9年)12月に[[矢作水力]]が豊川に変電所を建設すると同社から500キロワットの受電を開始し、需要増加に対応できる体制を整備した<ref name="haga-32"/>。 |
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供給成績が急拡大するのは[[日露戦争]]後のことである<ref name="toyo3-710"/>。戦後の好況によって会社・商店・役所から一般家庭に至るまで幅広く電灯を求める動きが拡大するとともに、工業向けの電力需要も増加したことによる<ref name="toyo3-710"/>。その中の[[1906年]](明治39年)[[11月19日]](登記日)<ref name="kanpo19061126">「商業登記」『官報』第7023号、1906年11月26日付。{{NDLJP|2950366/19}}</ref>、社名を豊橋電灯から「豊橋電気株式会社」へと改め、営業目的に[[電動機|動力用]]電力の販売を加えた<ref name="toyo3-710"/>。また牟呂発電所建設以降は2度にわたって同発電所を増設し供給力を当初の30キロワットから80キロワットへと引き上げることで需要増に対処してきていたが<ref name="muro"/>、需要急増に対応すべく[[南設楽郡]][[作手村]](現・[[新城市]])における新水力発電所の建設を決定した<ref name="toyo3-710"/>。その建設費調達のため豊橋電気では[[1907年]](明治40年)に資本金を50万円へと引き上げた<ref name="toyo4-607"/>。この増資は2分割で実施されており、1月に10万円<ref name="kanpo19070306">「商業登記」『官報』第7102号、1907年3月6日付。{{NDLJP|2950447/17}}</ref>、次いで9月に35万円の増資がそれぞれ決議されている<ref name="kanpo19071213">「商業登記」『官報』第7339号、1907年12月13日付。{{NDLJP|2950686/14}}</ref>。 |
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1919年12月5日、豊橋電気は同一所在地にある[[炭化カルシウム|カーバイド]]製造会社豊橋電化工業(資本金60万円、1918年6月21日設立)を合併した<ref>「商業登記」『官報』第1848号附録、1918年9月30日付。{{NDLJP|2953962/15}}</ref><ref name="kanpo19200409">「商業登記」『官報』第2303号附録、1920年4月9日付。{{NDLJP|2954416/28}}</ref>。合併に伴う増資は40万円であり<ref name="kanpo19200409"/>、以後資本金は240万円となった<ref name="kabu1920"/>。 |
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新発電所建設は突貫工事で進められ、[[1908年]](明治41年)5月に[[#見代発電所|見代発電所]]として完成した<ref name="haga-10">[[#haga|『東三河地方電気事業沿革史』]]10-14頁</ref>。豊川支流[[巴川 (豊川水系)|巴川]]の水力を利用するもので、出力は250キロワット(1910年の増設後は360キロワット)<ref name="haga-10"/>。同時に豊橋郊外の[[下地町 (愛知県)|下地町]]に[[変電所]]を新設し、発電所と変電所を高圧送電線で結び変電所にて降圧した上で配電する、という供給方式を社内で初めて整備した<ref name="haga-10"/>。見代発電所の建設にあわせて1907年10月に電灯料金を引き下げた(16燭終夜灯月額90銭など)こともあり、完成直後の1908年6月末時点における電灯数は5221灯と半年前の1808灯から一挙に3倍近くの増加をみた<ref name="toyo3-712">[[#toyo3|『豊橋市史』第三巻]]712-718頁</ref>。さらに1908年上期から動力用電力の供給も開始し、[[精米]]・[[製材]]・[[製粉]]・揚水などの用途で[[電動機]]の利用を増加させていった<ref name="toyo3-712"/>。 |
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=== 合併と余波 === |
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[[ファイル:Kiroku ohguchi.jpg|thumb|upright|[[大口喜六]]]] |
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=== 事業の急拡大 === |
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[[1920年]](大正9年)3月、大戦景気が終焉し[[戦後恐慌]]が発生する。それまでの好況期には好業績を上げていた豊橋電気であったが、この恐慌発生により一転して苦境に陥った<ref name="toyo4-610">[[#toyo4|『豊橋市史』第4巻]]610-613頁</ref>。その打開策としてまずは電力需要の減少対策に取り組み、余剰電力を水道の送水に転用するということで同年5月[[上水道]]の敷設を豊橋市に申請した<ref name="toyo4-610"/>。しかし私設の上水道については市議会などで反対意見が多く、上水道敷設計画は立ち消えとなった<ref name="toyo4-610"/>。 |
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[[ファイル:Fukuzawa Momosuke 45-year-old.jpg|thumb|upright|第4・6代社長[[福澤桃介]]]] |
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1907年に見代発電所建設のための増資を実施した際、日露戦争後の不況期に重なったため増資に応募する地元資産家が少なく、やむを得ず豊橋以外の地域からも出資を募った<ref name="toyo4-607"/>。その結果役員も増え<ref name="toyo4-607"/>、1908年7月[[福澤桃介]](東京)・[[武田賢治]]([[宝飯郡]][[国府町 (愛知県)|国府町]])・[[徳倉六兵衛]]([[幡豆郡]][[一色町|一色村]])・荒川寅之丞([[海西郡]][[十四山村]])の計4名が取締役に追加された<ref name="kanpo19080825">「商業登記」『官報』第7550号、1908年8月25日付。{{NDLJP|2950897/14}}</ref>。増員取締役のうち福澤桃介は新規参入者の代表格であり、[[株式投資]]で得た資金を電気事業へと投資しつつあった中で創業者三浦碧水のに誘われ豊橋電気にも出資し、当時筆頭株主の地位あった<ref name="toyo4-607"/>。福澤は3代社長伊東米作(1909年就任)に代わって[[1910年]](明治43年)4代社長に就任し<ref name="toyo3-712"/>、1912年まで社長、それ以後は専務取締役として三浦の要請で経営改革にあたった<ref name="toyo4-607"/>。なお福澤は豊橋電気への参入後に名古屋電灯でも株式買収に着手し、その筆頭株主となって1910年より取締役に就任している<ref>[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]74-77頁</ref>。 |
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一方社長の福澤桃介は、自身が社長を兼ねる名古屋電灯と豊橋電気の合併を計画する<ref name="toyo4-610"/>。両社の合併仮契約は1920年[[12月5日]]付で締結<ref name="shikai4">[[#shikai4|『名古屋市会史』第4巻]]584-586頁。{{NDLJP|1451189/313}}</ref>。合併条件は、存続会社の名古屋電灯は378万円を増資し[[解散]]する豊橋電気(資本金240万円・払込173万円)の株主に対してその持株1株につき名古屋電灯の新株を1.575株の割合で交付するというものであった<ref name="shikai4"/>。12月20日に名古屋電灯側の株主総会にて<ref name="report63">「名古屋電灯株式会社第63回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>、翌21日豊橋電気側の株主総会にて、それぞれ合併が決議される<ref name="report54"/>。翌[[1921年]](大正10年)[[3月29日]]に[[逓信省]]の合併認可があり、[[4月20日]]に名古屋電灯にて合併報告総会が開かれて合併手続きが完了<ref name="report63"/>、同日をもって豊橋電気は解散した<ref name="kanpo19210721"/>。 |
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1908年11月、豊橋市の南に接する渥美郡[[高師村]]に[[第15師団 (日本軍)|陸軍第15師団]]が設置され、次いで翌年4月[[騎兵第4旅団 (日本軍)|騎兵第4旅団]]も迎えた<ref name="toyosho-575">[[#toyosho|『豊橋商工会議所五十年史』]]575-576頁。{{NDLJP|1067832/302}}</ref>。師団・旅団に所属する歩兵・野砲兵・輜重兵・工兵・騎兵諸隊その他の駐屯により豊橋市は[[軍都]]へと姿を変え、同時に消費地としての性格を強めた<ref name="toyosho-575"/>。豊橋の軍都化は電灯・電力需要の増加をさらに加速させる<ref name="toyo3-710"/>。豊橋電気では[[1909年]](明治42年)下地町に火力発電所([[#下地発電所|下地発電所]]・出力150キロワット)を新設して急場をしのぎつつ、[[南設楽郡]][[長篠村]](現・新城市)にて寒狭川を利用した[[#長篠発電所|長篠発電所]]を新設すると決定<ref name="toyo3-710"/>。1910年[[12月27日]]<ref name="kanpo19110114">「商業登記」『官報』第8267号附録、1911年1月14日付。{{NDLJP|2951621/16}}</ref>、傍系会社「寒狭川電気株式会社」を資本金50万円で設立し、同社を通じて長篠発電所を起工した<ref name="toyo3-710"/>。 |
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名古屋電灯との合併に際し、地元資本が外部の資本に吸収されるとみた地元豊橋では反対の声が上がっていた<ref name="toyo4-610"/>。反対の動きは合併仮契約締結の翌日に早くも豊橋市議会にて出現し、議員協議会において豊橋電気の事業を市営化するという決議がなされた<ref name="toyo4-610"/>。豊橋電気の株主総会でも地元株主から合併反対の意見が出たが、会社側が豊橋市へ2万円を寄付するという条件で合併は議決された<ref name="toyo4-610"/>。翌1921年2月、市議会は事業買収案を豊橋電気へ提出するものの、会社側はすでに当局の合併認可も下りているとして市の提案を拒否し、合併を実行に移す<ref name="toyo4-610"/>。合併により豊橋電気が名古屋電灯豊橋営業所となった後も合併反対運動は続き、同年7月、市議会は合併不承認を決議するに至った<ref name="toyo4-53">[[#toyo4|『豊橋市史』第4巻]]53-65頁</ref>。 |
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翌[[1911年]](明治44年)[[5月10日]]、豊橋電気は寒狭川電気を合併し<ref name="kanpo19110523">「商業登記」『官報』第8373号附録、1911年5月23日付。{{NDLJP|2951730/19}}</ref>、資本金を倍額の100万円とした<ref name="toyo3-710"/>。長篠発電所の工事は合併で豊橋電気へと引き継がれ、[[1912年]](明治45年)2月出力500キロワットの発電所として竣工に至った<ref name="toyo3-710"/>。長篠発電所完成に伴い同年5月料金改定を実施し、16燭灯月額75銭など{{Refnest|group=注釈|逓信省の資料によると、電灯料金は定額灯が5燭灯45銭・10燭灯60銭・16燭灯75銭(いずれも月額)、従量灯が1[[キロワット時]]あたり17銭。電力料金は昼夜間定額の場合1馬力につき月15円。この段階では電灯料金は名古屋電灯よりも安い<ref>[[#yoran7|『電気事業要覧』第7回]]496-497頁。{{NDLJP|975000/286}}</ref>。}}と減額<ref name="toyo3-712"/>。さらに供給力の余力が生じたことから豊橋・下地・高師の3市町村を越えた供給を試み、1911年10月から宝飯郡[[小坂井町|小坂井村]]・[[牛久保町]]・[[豊川町]](いずれも現・[[豊川市]])にて、1912年4月からは渥美郡[[二川町 (愛知県)|二川町]](現・豊橋市)および南設楽郡新城町(現・新城市)にて供給を開始<ref name="toyo3-712"/>。1912年(大正元年)12月には宝飯郡国府町・[[御油町]]・[[赤坂町 (愛知県)|赤坂町]](現・豊川市)方面でも開業した<ref>「豊橋電気株式会社第38回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。これらの結果電灯数が急増し<ref name="toyo3-712"/>、1910年下期に1万灯を越えたのち、1912年下期には2万灯台に到達した<ref name="gas-24"/>。 |
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豊橋市会と名古屋電灯が対立を続けるうちに市民の間でも名古屋電灯を非難する声が高まり、市会議員による演説会や新聞社主宰の市民大会が相次ぎ開催された<ref name="toyo4-53"/>。やがて争点は電気料金の値下げへと移行していき、「電気料金値下期成同盟会」が発足<ref name="toyo4-53"/>。さらには市議会に強固な地盤を持つ、元豊橋電気相談役[[大口喜六]]が率いる「同志派」に対する攻撃へと発展し、政治問題と化していった<ref name="toyo4-53"/>。期成同盟会は名古屋電灯と交渉するが、[[川口彦治]]愛知県知事が仲裁に入り、知事から委嘱された宝飯郡長・豊橋警察署長により調停を開始<ref name="toyo4-53"/>。1921年10月、翌年7月から電灯料金を引き下げる、合併記念として[[豊橋市公会堂|公会堂]]を建築して市に寄付する、といった内容の仲裁案が示され、同盟会・会社側ともにこれを受諾、同盟会は11月に報告演説会を開いて運動の終結と勝利を宣言してこの問題は一応の決着をみた<ref name="toyo4-53"/>。 |
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豊橋電気の勢力は県外にも拡大した。豊橋の東、静岡県[[浜名郡]][[新居町 (静岡県)|新居町]]における「西遠電気株式会社」の設立である<ref name="arai-227">[[#arai|『新居町史』第2巻]]227-229頁</ref>。新居町や[[白須賀町]]など[[浜名湖]]西部の地域(現・[[湖西市]])では地元有志によって1910年から電気事業の準備が進められていたが、予定していた火力発電よりも受電が有利との判断から豊橋電気と交渉し、電力供給と福澤・三浦ら同社関係者の発起人加入を得た<ref name="arai-227"/>。1912年[[5月18日]]、資本金6万円で西遠電気は発足<ref name="kanpo19120530">「商業登記」『官報』第8682号附録、1912年5月30日付。{{NDLJP|2952039/19}}</ref>。豊橋電気から受電により[[1913年]](大正2年)[[1月1日]]開業し、新居町などへ供給を開始した<ref name="arai-227"/>。 |
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なお、豊橋電気の市営化に賛成する声は社内にもあり、賛成論を唱えていた専務取締役武田賢治と支配人今西卓の2名は合併を機に独立、新たに豊橋電気信託という会社を立ち上げ、1921年11月に[[渥美半島]]の電気事業者2社を統合した<ref name="toyo4-613">[[#toyo4|『豊橋市史』第4巻]]613-615頁</ref>。同社は翌[[1922年]](大正11年)に社名を変更し、「[[豊橋電気 (1921-1939)|豊橋電気]]」という社名を引き継いでいる<ref name="toyo4-613"/>。 |
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=== ガス事業の影響 === |
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[[ファイル:Fukutani Motoji.jpg|thumb|upright|[[サーラエナジー|豊橋瓦斯]]初代常務・2代目社長[[福谷元次]]。豊橋電灯でも会社設立時から1906年まで取締役兼支配人を務めた<ref>[[#koroshaden|『開校廿周年記念東三河産業功労者伝』]]405-415頁。{{NDLJP|1705146/226}}</ref>。]] |
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豊橋電気合併に先立つ1920年5月、名古屋電灯は[[一宮市]]の[[一宮電気]]を合併していた<ref name="toho-39">[[#toho|『東邦電力史』]]39-42頁</ref>。以後同社は周辺事業者の合併を積極化し、1921年には[[岐阜電気]]・豊橋電気・[[板取川電気]]ほか2社を相次いで吸収<ref name="toho-39"/>。さらに[[奈良県]]の[[関西水力電気]]と合併し、翌1922年には[[九州]]の[[九州電灯鉄道]]などを合併して、[[中京圏|中京]]・[[近畿地方|関西]]・九州にまたがる大電力会社[[東邦電力]]となった<ref>[[#toho|『東邦電力史』]]82-111頁</ref>。 |
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豊橋電気が見代・長篠両発電所を建設して供給を拡大する頃、豊橋市には[[都市ガス]]燃焼による灯火、すなわち[[ガス灯]]も出現した。豊橋瓦斯株式会社(後の中部ガス、現・[[サーラエナジー]])の開業によるものである。 |
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[[1930年]](昭和5年)になり、豊橋区域(豊橋営業所管内)の事業は東邦電力から分社化され、名古屋区域との間に挟まる岡崎電灯と統合、[[中部電力 (1930-1937)|中部電力(岡崎)]]が経営するところとなった<ref name="toho-258">[[#toho|『東邦電力史』]]258-269頁</ref>。[[1937年]](昭和12年)、東邦電力は中部電力を合併し<ref name="toho-258"/>、以降豊橋市に豊橋支店を構えた<ref>[[#tohonenpu|『東邦電力史 前史稿本及年譜』]]353頁(年譜)</ref>。 |
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豊橋瓦斯は[[名古屋瓦斯]](現・[[東邦ガス]])の関係者と創業期の豊橋電灯に関わった福谷元次らによって企画され、1909年10月に資本金50万円で設立された<ref name="gas-27">[[#gas|『社史・中部瓦斯株式会社』]]27-52頁</ref>。同社は市街地でのガス管工事を行い、半年後の1910年2月1日に開業、ガス供給を開始する<ref name="gas-27"/>。当時の都市ガスは[[焜炉|ガスこんろ]](ガス七輪)や[[暖炉]]などの熱利用以外にも灯火(ガス灯)や[[原動機]]([[ガスエンジン]])といった用途があり、豊橋瓦斯でも1910年5月末時点の供給成績は供給戸数971戸に対し灯火用孔口数1720個・熱用孔口数636個・ガスエンジン4基であった<ref name="gas-27"/>。需要の多いガス灯は商店の店頭照明や軒灯として競って利用され、[[街灯]]としても市街各所でともされた<ref name="gas-27"/>。 |
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この段階では、ガス灯は電灯に対する競争力を十分持った照明であった<ref name="chubu1-56">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]56-58頁</ref>。当時普及していた[[白熱電球|電球]]は発光部分(フィラメント)に[[炭素]]線を用いた炭素線電球であったが、消費電力が大きく、ガス灯と比較すると同じ明るさをともすのに2倍の費用を要した<ref name="chubu1-56"/>。従って経済性に安全性が加味された場合にのみ電灯が優位に立つという状況であった<ref name="chubu1-56"/>。ところがガス灯の優位は発光部分に金属線特に[[タングステン]]線を用いるタングステン電球が出現すると崩れ去った<ref name="chubu1-56"/>。タングステン電球は炭素線電球に比べ長寿命・高効率であり、消費電力が約3分の1に低下したことで明るさ当たりの費用もガス灯より若干廉価となったためである<ref name="chubu1-56"/>。 |
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タングステン電球の導入時期は電気事業者によって異なるが、豊橋電気は比較的早く<ref name="chubu1-56"/>、1911年10月にタングステン電球使用に関する電灯供給規定を制定して導入を始めた<ref name="gas-52">[[#gas|『社史・中部瓦斯株式会社』]]52-59頁</ref>。以後急速に置き換えを進め、[[1914年]](大正3年)には豊橋市内での炭素線電球使用が皆無となっている<ref name="gas-52"/>。電灯の改良に対し、ガス灯を事業の柱とした豊橋瓦斯ではガス料金の値下げや需要開拓に努めた<ref name="gas-52"/>。その後[[第一次世界大戦]]による原料[[石炭]]価格の高騰からガス灯は競争力を失いガス会社は熱用途の需要開拓に傾注するようになる、というのがガス業界の一般的傾向であるが、豊橋瓦斯の場合は需要家数が1500戸前後で頭打ちながら需要家1戸当たりのガス灯数が1910年代の間は増え続け、市内電灯数の2割程度の数を維持し続けた(1919年末時点では電灯3万灯余りに対し灯火用孔口数6796個)<ref name="gas-52"/>。 |
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=== 大正期の推移 === |
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[[ファイル:Imanishi Taku.jpg|thumb|upright|1916年より支配人兼技師長を務めた[[今西卓]]]] |
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1914年に第一次世界大戦が勃発し、その影響で[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]が始まると、豊橋電気の管内でも電灯・電力ともに需要がさらに増加した<ref name="toyo4-607"/>。1913年12月末時点で電灯2万5065灯・電力供給400[[馬力]](約298キロワット)であった供給成績は<ref name="gas-24"/>、5年後の[[1918年]](大正7年)12月末時点ではともに倍増以上の電灯数5万882灯・電力供給666.5キロワット(電動機・その他電力装置合計)に達した<ref>「豊橋電気株式会社第50回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。 |
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大戦中、豊橋電気の供給区域は2度の変化が生じた。一つ目は先に触れた西遠電気の合併である。同社の開業から3年経った[[1916年]](大正5年)1月5日付で合併仮契約を締結し<ref name="arai-227"/>、同年[[4月1日]]付で吸収した<ref name="kanpo19160506">「商業登記」『官報』第1127号、1916年5月6日付。{{NDLJP|2953237/12}}</ref>。合併に伴う豊橋電気の増資額は6万円であり<ref name="kanpo19160506"/>、合併後の資本金は106万円となっている<ref name="toyo4-607"/>。合併によって豊橋電気は新居町に西遠営業所を置き、静岡県側の事業を直営化した<ref name="arai-227"/>。その一方、同年6月4日付で新城瓦斯との間に見代発電所所属系統に属する電気事業・工作物の売却契約を締結<ref>「豊橋電気株式会社第45回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>、翌[[1917年]](大正6年)5月1日付で新城瓦斯改め[[東三電気]]へと事業を譲渡した<ref name="report47">「豊橋電気株式会社第47回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。これが二つ目の変化で、事業譲渡により新城町など新城地区への供給が東三電気の手に移っている<ref name="haga-32">[[#haga|『東三河地方電気事業沿革史』]]32-34頁</ref>。 |
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大戦期には1915年11月に長篠発電所の出力が500キロワットから750キロワットへと増強された程度で豊橋電気による発電所新設はなく、反対に翌年までに牟呂・下地両発電所が廃止されている<ref name="chubu2-330">[[#chubu|『中部地方電気事業史』下巻]]330-331・345頁</ref>。大戦景気による需要急増のため1916年末には電力の新規供給申し込みを中止せざるを得なくなったが、この時は浜松市などを供給区域とする[[日英水電]]との間で供給契約を締結し、1917年1月より同社からの受電を開始することで対応した<ref name="toyo4-607"/>。次いで見代発電所を東三電気へと譲渡したことで、豊橋電気の自社電源は一旦長篠発電所のみとなった。1918年時点での供給力は長篠発電所に東三電気からの受電270キロワット・日英水電からの受電250キロワットを加えた計1,270キロワットであった<ref>[[#yoran11|『電気事業要覧』第11回]]40-41・200-201頁。{{NDLJP|975004/46}}</ref>。 |
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日英水電からの受電は[[渥美半島]]への電力供給にも充てられており<ref name="toyo4-607"/>、1917年1月半島を南下して田原町豊島(現・[[田原市]][[豊島町 (田原市)|豊島町]])の[[三河セメント]]へと至る送電設備が完成をみた<ref name="report47">「豊橋電気株式会社第47回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。この三河セメントでは[[セメント]]工場の原動力として[[蒸気機関]]を利用していたが、大戦期の燃料石炭価格高騰の対策として75馬力電動機2台の購入を決定し、1916年4月豊橋電気との間で1[[キロワット時]]あたり1銭8厘という廉価で電力を購入するという契約を締結<ref name="cem">[[#cement|『三河セメント社史』]]307-309頁</ref>。豊橋電気側の工事終了を待って1917年2月より電動機の運転を始めた<ref name="cem"/>。 |
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経営面では、創業者三浦碧水が1915年に死去すると当時専務取締役であった福澤桃介が後継者となって実権を握り、1918年には再び社長に就任した<ref name="toyo4-607"/>。上記の西遠電気合併や新城地区分離、下地発電所廃止などは、福澤による経営掌握と技師長[[今西卓]]の支配人就任によって経営改革が図られた結果とされる<ref name="toyo4-607"/>。業績も大戦景気を背景に好調であり、積立金や[[減価償却|償却費]]を確保しつつ特別配当を出せるほどで、1917年には年率17パーセントという高配当を記録している<ref name="toyo4-607"/>。同年7月、94万円の増資を決議し<ref name="kanpo19171130">「商業登記」『官報』第1599号附録、1917年11月30日付。{{NDLJP|2953712/16}}</ref>、資本金を200万円へ増強<ref name="kabu1920">[[#kabu1920|『株式年鑑』大正9年度]]331頁。{{NDLJP|975422/210}}</ref>。さらなる需要増加に応ずるため[[#布里発電所|布里発電所]]を11月着工した<ref name="toyo4-607"/>。 |
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=== 名古屋電灯との合併へ === |
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[[ファイル:Takeda Kenji.jpg|thumb|upright|末期の専務[[武田賢治]]]] |
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大戦終了後も需要増加は続き、[[1920年]](大正9年)12月末時点の供給成績は2年前に比べて電灯数は1.3倍増の6万6319灯、電力供給は1.5倍増の1,032キロワットへと伸長した<ref name="report54"/>。 |
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この間、まず[[1919年]](大正8年)7月に建設中の布里発電所(出力500キロワット)が運転を開始<ref name="chubu2-330"/>。次いで12月、「豊橋電化工業株式会社」から計画を引き継いだ[[#横川発電所|横川発電所]]を着工した<ref name="report52">「豊橋電気株式会社第52回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。この豊橋電化工業は[[炭化カルシウム|カーバイド]]などの[[電気化学]]工業品製造と電力供給を目的とした会社で、1918年6月21日資本金60万円をもって豊橋市に設立<ref name="kanpo19180930">「商業登記」『官報』第1848号附録、1918年9月30日付。{{NDLJP|2953962/15}}</ref>、1919年12月5日付で豊橋電気に合併されていた<ref name="kanpo19200409">「商業登記」『官報』第2303号附録、1920年4月9日付。{{NDLJP|2954416/28}}</ref>。合併に伴う豊橋電気の増資は40万円で<ref name="kanpo19200409"/>、資本金は240万円となった<ref name="kabu1920"/>。電源増強の動きは他に受電の手配もあり、1919年3月に設立された福澤系の電力会社[[矢作水力]]との間で500キロワットの受電を契約した(契約は会社設立前の1918年10月実施、受電開始は1921年初頭)<ref>[[#yahagi|『矢作水力株式会社十年史』]]118-119頁。{{NDLJP|1031632/73}}</ref>。また供給面では渥美半島の[[豊橋電気 (1921-1939)|渥美電気・福江電灯]]へ送電することとなり1919年2月工事を完了した<ref>「豊橋電気株式会社第51回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。 |
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供給増の一方で、1920年3月、大戦景気が終焉し[[戦後恐慌]]が発生していた。恐慌直前まで豊橋では地場産業の[[製糸業]]が盛況で、豊橋電気には工場拡張のための電力供給申し込みが殺到していたが、恐慌発生後は状況が一変し供給を断る需要家が多数生じた<ref name="naka-3">[[#nakamura|『挙市一致経済的大運動 豊橋電気問題之真相』]]3-12頁。{{NDLJP|963639/14}}</ref>。発電所工事中のため一時は会社の先行きが不安視されたが、需要家側には好況期に電力使用権の争奪戦が生じた経験から権利喪失を恐れて電力の使用を中止するものの料金は納める者、あるいは料金未納者から権利を引き取るために代理払込みをなす者もあり、供給力不足の傾向は続いた<ref name="naka-3"/>。 |
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豊橋電気社長の福澤桃介は、1914年12月より名古屋電灯の社長でもあった<ref>[[#toho|『東邦電力史』]]35頁</ref>。社長が共通する名古屋電灯と豊橋電気を合併させる計画は恐慌以来重役間で内々に検討されていたが<ref name="naka-13">[[#nakamura|『挙市一致経済的大運動 豊橋電気問題之真相』]]13-31頁。{{NDLJP|963639/19}}</ref>、地元出資者の反対などがあったようですぐには実施されなかった<ref name="toyo4-610">[[#toyo4|『豊橋市史』第4巻]]610-613頁</ref>。その後1920年12月になると合併案がまとまり、[[12月5日]]付で合併仮契約締結に至った<ref name="naka-13"/>。契約の主たる内容は以下の通りである<ref name="naka-13"/>。 |
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* 名古屋電灯を[[合併 (企業)|合併]]における存続会社とし、豊橋電気は[[解散]]する。 |
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* 存続会社の名古屋電灯は豊橋電気の1920年10月末現在の資産負債状態を基礎として同社の権利義務一切を継承する。 |
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* 合併により名古屋電灯は資本金を4578万円に増加し、その増加分378万円に対し株式7万5600株(額面50円払込株式3万3390株・25円払込株式4万2210株)を発行する。それらを豊橋電気の1920年12月31日現在の株主(株式数は額面50円払込株式2万1200株・25円払込株式2万6800株)に対し持株1株に対し1.575株の割合で交付する。 |
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* 名古屋電灯は豊橋電気の取締役・監査役その他に対する慰労金として計20万円を交付する。 |
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* 名古屋電灯は豊橋電気の従業員に対し特別手当金計5万円を支払う。 |
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名古屋電灯は1918年9月に水力開発部門を[[木曽電気製鉄]](後の[[大同電力]])として切り離し配電事業中心の電力会社となると、周辺事業者の合併を積極化していた<ref name="toho-37">[[#toho|『東邦電力史』]]37-42頁</ref>。1920年4月にまず[[一宮市]]の[[一宮電気]]を合併<ref name="toho-37"/>。次いで県境を越えて[[岐阜市]]の電力会社[[岐阜電気]]の合併に踏み切り<ref name="toho-37"/>、豊橋電気合併手続き着手後の[[1921年]](大正10年)1月に合併を完了している<ref name="report63">「名古屋電灯株式会社第63回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。豊橋電気の合併は岐阜電気に続く3番目であり<ref name="toho-37"/>、名古屋電灯では1920年12月20日に[[株主総会]]を開いて豊橋電気合併の承認を得た<ref name="report63"/>。 |
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名古屋電灯との合併を審議する豊橋電気側の臨時株主総会は名古屋電灯に1日遅れて12月21日豊橋市内で開かれた<ref name="report54"/><ref name="naka-13"/>。その席で社長の福澤は名古屋電灯への合併理由について、目下不足している供給力を補充するには巨額の投資を要するが豊橋電気が置かれている状況では完全な事業遂行が困難なため、と説明している<ref>「豊電株主総会 合併案異議なく可決」『豊橋日日新聞』1920年12月22日付([[豊橋市図書館|豊橋市中央図書館]]蔵)</ref>。総会で合併契約は原案通り可決承認された<ref name="naka-13"/>。 |
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=== 合併の余波 === |
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[[ファイル:Kiroku ohguchi.jpg|thumb|upright|[[大口喜六]]]] |
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豊橋電気は名古屋電灯との合併を取りまとめるのに先立つ1920年5月、恐慌下における電力需要創出策として[[上水道]]敷設を計画していた<ref name="toyo4-610"/>。計画は豊橋電気の電力を利用して豊川から水をくみ上げ豊橋市内へと送水するというものである<ref name="naka-3"/>。この計画はその後立ち消えとなったが<ref name="toyo4-610"/>、同年9月[[豊橋市議会|豊橋市会]]にて計画承認の可否が検討された際、賛成意見の一方で公共的事業を営利本位の会社に任せることは市民の利益にならないという反対意見もあり、議論は沸騰した<ref name="naka-3"/>。これに続く名古屋電灯との合併発表は、地元資本が外部の資本に吸収されると捉えられて地元豊橋の反発を招く<ref name="toyo4-610"/>。以前から議論があった電気事業の市営移管に向けた動きが強まり、同年12月16日豊橋市会の議員協議会において全会一致で事業の市営移管が決定された<ref name="naka-13"/>。 |
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豊橋市と豊橋電気の間には、1909年4月8日(当時の豊橋市長は[[大口喜六]])に締結された[[報償契約]]が存在した<ref name="naka-13"/>。これは締結から20年間、会社が市内での事業で生じる利益金のうち1.7パーセントを報償金として市へ納付する一方、それと引き換えに市は自身が所有・管理する道路・橋梁その他を会社が独占的に利用することを認める、という内容であった<ref name="naka-13"/>。報償契約には会社が他社と合併する場合は市の承認を要するという条項もあり<ref name="naka-13"/>、これに従って豊橋電気は株主総会での合併決議が終わると直ちに市へ合併承認を求めた<ref name="naka-31">[[#nakamura|『挙市一致経済的大運動 豊橋電気問題之真相』]]31-59頁。{{NDLJP|963639/28}}</ref>。市が市営化の具体案を検討中で、まだ合併承認も与えていない中の1921年2月5日、名古屋電灯は市内料亭にて細谷忠男豊橋市長らを招いて合併披露宴を開催する<ref name="naka-31"/>。その翌日、市では市による事業買収権を報償契約に追加するならば合併を承認すると提起した<ref name="naka-31"/>。 |
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名古屋電灯と豊橋電気の合併については1921年[[3月29日]]付で[[逓信省]]からの合併認可が下りた<ref name="report63"/>。そして同年[[4月20日]]に名古屋電灯側で合併報告総会が開かれて合併手続きが完了<ref name="report63"/>、同日をもって豊橋電気は解散した<ref name="kanpo19210721"/>。合併により豊橋市には名古屋電灯豊橋営業所が置かれた<ref name="toyo4-53">[[#toyo4|『豊橋市史』第四巻]]53-65頁</ref>。 |
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合併成立後も報償契約改定・事業市営化についての交渉が市と名古屋電灯との間で続けられたが、交渉は進展せず、1921年7月29日、豊橋市会は交渉の経過を公表した上で名古屋電灯・豊橋電気合併の不承認を全会一致で決議した<ref name="naka-31"/>。不承認決議を機に豊橋市民の間でも市営化に応じない名古屋電灯を非難する声が高まり、市会議員による演説会や新聞社主宰の市民大会が相次ぎ開催されるようになる<ref name="toyo4-53"/>。やがて争点は電気料金の値下げ{{Refnest|group=注釈|物価・賃金高騰を理由に1920年1月より電気料金を引き上げていた<ref>[[#nakamura|『挙市一致経済的大運動 豊橋電気問題之真相』]]68-69頁。{{NDLJP|963639/48}}</ref>。改定後の料金は、定額灯が5燭灯65銭・10燭灯75銭・16燭灯90銭(いずれも月額・器具損料込み)、従量灯が1キロワット時あたり20-19銭、昼夜間の定額電力料金が1馬力月額15円<ref>[[#yoran13|『電気事業要覧』第13回]]401頁。{{NDLJP|975006/230}}</ref>。}}へと移行していき、「電気料金値下期成同盟会」が発足<ref name="toyo4-53"/>。さらには市会に強固な地盤を持つ元豊橋電気相談役[[大口喜六]]が率いる「同志派」に対する攻撃へと発展し、政治問題と化していった<ref name="toyo4-53"/>。期成同盟会は名古屋電灯と交渉するが、[[川口彦治]]愛知県知事が仲裁に入り、知事から委嘱された宝飯郡長・豊橋警察署長により調停を開始<ref name="toyo4-53"/>。1921年10月、翌年7月から電灯料金を引き下げる{{Refnest|group=注釈|実際には1923年12月から改定。16燭灯以上の高燭光灯の値下げで、16燭灯の場合月額5銭の減<ref>[[#toho|『東邦電力史』]]417-418頁</ref>。}}、合併記念として[[豊橋市公会堂|公会堂]]を建築して市に寄付する、といった内容の仲裁案が示され、同盟会・会社側ともにこれを受諾、同盟会は11月に報告演説会を開いて運動の終結と勝利を宣言して一連の「電価争議」は一応の決着をみた<ref name="toyo4-53"/>。 |
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市営化問題に関し、豊橋電気社内で市営化賛成論を唱えていた専務取締役[[武田賢治]]と支配人今西卓の2名は合併を機に独立、新たに「豊橋電気信託」という会社を立ち上げて1921年11月に渥美半島の渥美電気・福江電灯両社を統合した<ref name="toyo4-613">[[#toyo4|『豊橋市史』第四巻]]613-615頁</ref>。同社は翌[[1922年]](大正11年)に社名を変更し、「[[豊橋電気 (1921-1939)|豊橋電気]]」という社名を引き継いでいる<ref name="toyo4-613"/>。一方(旧)豊橋電気を吸収した名古屋電灯はその後も合併路線を突き進み、[[奈良県]]の[[関西水力電気]]と合併して関西電気となったのち、翌1922年に[[九州]]の[[九州電灯鉄道]]などを合併して、[[中京圏|中京]]・九州地方を地盤とする大手電力会社[[東邦電力]]へと発展する<ref name="toho">[[#toho|『東邦電力史』]]82-111頁</ref>。以後豊橋区域の電気事業は東邦電力によって経営されるが、[[1930年]](昭和5年)から[[1937年]](昭和12年)までの間は[[西三河]]の岡崎電灯との統合による[[中部電力 (1930-1937)|中部電力(岡崎)]]という会社の管轄下に置かれた<ref>[[#toho|『東邦電力史』]]258-269頁</ref>。 |
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=== 年表 === |
=== 年表 === |
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* [[1893年]](明治26年) |
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** [[9月4日]] - 豊橋電灯発起人、[[農商務省 (日本)|農商務省]]に対し発起認可出願<ref name="toyo8-609"/>。 |
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* [[1894年]](明治27年) |
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* [[1895年]](明治28年)9月 - 梅田川発電所に代えて牟呂発電所運転開始<ref name="chubu2-345"/>。 |
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** [[1月15日]] - 豊橋電灯発起人に対し[[愛知県]]より電灯営業許可<ref name="toyo8-609"/>。 |
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** [[2月1日]] - 豊橋電灯発起人に対し農商務省より会社発起認可<ref name="toyo8-609"/>。 |
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* [[ |
** [[2月11日]] - '''豊橋電灯株式会社'''創業総会開催<ref name="toyo8-609"/>。 |
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** [[3月8日]] - 豊橋電灯に対し農商務省より会社設立免許<ref name="toyo8-619"/>。資本金1万5000円、本店所在地愛知県[[渥美郡]][[豊橋市|豊橋町]]大字八町152番地1<ref name="toyo8-619"/>。 |
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* [[1910年]](明治43年)11月 - 傍系会社として寒狭川電気株式会社を設立<ref name="toyo3-710"/>。 |
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** [[4月1日]] - 梅田川発電所を電源として開業<ref name="toyo3-708"/>。 |
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* [[1896年]](明治29年) |
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** 上期 - 1万円の増資を実施<ref name="toyo3-710"/>。 |
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** 4月下旬 - [[#牟呂発電所|牟呂発電所]]運転開始<ref name="report5"/>。 |
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* [[1897年]](明治30年) |
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* [[1916年]](大正5年)4月1日 - 西遠電気を合併<ref name="kanpo19160506"/>。 |
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** 下期 - 2万5000円の増資を実施、資本金5万円となる<ref name="toyo3-710"/>。 |
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* 1916年(大正5年)10月 - 下地発電所廃止<ref name="chubu2-330"/>。 |
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* [[1906年]](明治39年) |
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* [[1917年]](大正6年)5月 - 見代発電所と新城町周辺における供給権を[[東三電気]]へ譲渡<ref name="haga-32"/>。 |
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** [[11月19日]] - '''豊橋電気株式会社'''への社名変更登記<ref name="kanpo19061126"/>。 |
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* [[1907年]](明治40年) |
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* 1919年(大正8年)[[12月5日]] - 豊橋電化工業を合併<ref name="kanpo19200409"/>。 |
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** [[1月16日]] - 10万円の増資を決議、資本金15万円となる<ref name="kanpo19070306"/>。 |
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* [[1920年]](大正9年)12月5日 - [[名古屋電灯]]との間で合併仮契約を締結<ref name="shikai4"/> |
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** [[4月12日]] - 本店を豊橋市大字西八乙23番戸から同市大字関屋12番戸へ移転<ref>「商業登記」『官報』第7137号、1907年4月18日付。{{NDLJP|2950483/20}}</ref>。 |
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* [[1921年]](大正10年)[[4月20日]] - 名古屋電灯との合併成立、豊橋電気'''[[解散]]'''<ref name="kanpo19210721"/><ref name="report63"/>。 |
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** [[9月8日]] - 35万円の増資を決議<ref name="kanpo19071213"/>、資本金50万円となる<ref name="toyo3-710"/>。 |
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* [[1908年]](明治41年) |
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** 5月 - [[#見代発電所|見代発電所]]運転開始<ref name="chubu2-330"/>。 |
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** [[7月30日]] - [[福澤桃介]]が取締役就任<ref name="kanpo19080825"/>。 |
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* [[1909年]](明治42年) |
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** 年内 - [[#下地発電所|下地発電所]]運転開始<ref name="chubu2-330"/>。 |
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** [[4月8日]] - 豊橋市との間で[[報償契約]]締結<ref name="naka-13"/>。 |
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* [[1911年]](明治44年) |
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** [[5月10日]] - 寒狭川電気を合併<ref name="kanpo19110523"/>、資本金100万円となる<ref name="toyo3-710"/>。 |
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*** 寒狭川電気株式会社は[[1910年]](明治43年)[[12月27日]]設立、資本金50万円、本店所在地豊橋市大字関屋12番戸<ref name="kanpo19110114"/>。 |
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* [[1912年]](明治45年) |
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** 3月 - [[#長篠発電所|長篠発電所]]運転開始<ref name="chubu2-330"/>(25日付で使用認可<ref name="report37"/>)。 |
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* [[1915年]](大正4年) |
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** [[9月1日]] - 牟呂発電所廃止許可<ref name="report44"/>。 |
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* [[1916年]](大正5年) |
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** 4月1日 - 西遠電気を合併<ref name="kanpo19160506"/>、資本金106万円となる<ref name="toyo4-607"/>。 |
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*** 西遠電気株式会社は1912年[[5月18日]]設立、資本金6万円、本店所在地[[静岡県]][[浜名郡]][[新居町 (静岡県)|新居町]]新居107番地<ref name="kanpo19120530"/>。 |
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** [[9月5日]] - 下地発電所廃止許可<ref name="report46"/>。 |
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* [[1917年]](大正6年) |
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** [[5月1日]] - 見代発電所の電力系統とこれに属する営業権を[[東三電気]]へ譲渡<ref name="report47"/>。 |
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** [[7月20日]] - 94万円の増資を決議<ref name="kanpo19171130"/>、資本金200万円となる<ref name="kabu1920"/>。 |
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* [[1919年]](大正8年) |
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** 7月 - [[#布里発電所|布里発電所]]運転開始<ref name="chubu2-330"/>(7月3日付で仮使用認可<ref name="report52"/>)。 |
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** [[12月5日]] - 豊橋電化工業を合併<ref name="kanpo19200409"/>、資本金240万円となる<ref name="kabu1920"/>。 |
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*** 豊橋電化工業株式会社は[[1918年]](大正7年)[[6月21日]]設立、資本金60万円、本店所在地豊橋市大字関屋12番戸<ref name="kanpo19180930"/>。 |
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* [[1920年]](大正9年) |
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** 12月5日 - [[名古屋電灯]]との間で合併仮契約を締結<ref name="naka-13"/>。 |
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** [[12月16日]] - [[豊橋市議会|豊橋市会]]が議員協議会にて豊橋電気の事業市営化を決議<ref name="naka-13"/>。 |
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** [[12月21日]] - 名古屋電灯との合併を株主総会で決議<ref name="report54"/>。 |
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* [[1921年]](大正10年) |
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** [[3月29日]] - [[逓信省]]より名古屋電灯との合併認可<ref name="report63"/>。 |
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** [[4月20日]] - 名古屋電灯との合併成立、豊橋電気'''[[解散]]'''<ref name="kanpo19210721"/><ref name="report63"/>。 |
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** [[7月29日]] - 豊橋市会、報償契約に基づく豊橋電気の合併承認申請を却下し合併不承認を決議<ref name="naka-13"/>。電気料金値下げを求める電価争議の発端となる<ref name="toyo4-53"/>。 |
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** [[10月18日]] - [[関西水力電気]]が名古屋電灯を合併し関西電気へ改称<ref name="toho"/>。 |
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** [[12月31日]] - [[#横川発電所|横川発電所]]運転開始<ref name="reportK34"/>。 |
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* [[1922年]](大正11年) |
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** [[6月26日]] - 関西電気は[[東邦電力]]へ社名変更<ref name="toho"/>。 |
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== 供給区域 == |
== 供給区域 == |
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=== 区域一覧 === |
=== 1914年時点区域一覧 === |
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豊橋電気の[[1914年]](大正3年)5月末時点における電灯・電力供給区域は以下の[[愛知県]]下29市町村であった<ref name="y7">[[#yoran7|『電気事業要覧』第7回]]42-43頁。{{NDLJP|975000/51}}</ref>。 |
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{| class="wikitable" style="font-size:small;" |
{| class="wikitable" style="font-size:small;" |
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|- |
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!rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[愛知県]] |
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!style="white-space:nowrap;"|市部 |
!style="white-space:nowrap;"|市部 |
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|[[豊橋市]] |
|[[豊橋市]] |
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|- |
|- |
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!style="white-space:nowrap;"|[[ |
!style="white-space:nowrap;"|[[渥美郡]]<br />(1町2村) |
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|[[二川町 (愛知県)|二川町]]・[[高師村]]・[[牟呂吉田村]](現・豊橋市) |
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|[[下地町 (愛知県)|下地町]]・[[前芝村]](現・豊橋市)、<br />[[豊川町]]・[[牛久保町]]・[[八幡村 (愛知県宝飯郡)|八幡村]]・[[国府町 (愛知県)|国府町]]・[[御油町]]・[[赤坂町 (愛知県)|赤坂町]]・[[長沢村 (愛知県)|長沢村]]・[[萩村]]・[[小坂井町|小坂井村]]・[[御津町 (愛知県)|御津村]](現・[[豊川市]])、[[大塚村 (愛知県宝飯郡)|大塚村]](現・豊川市・[[蒲郡市]]) |
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|- |
|- |
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!style="white-space:nowrap;"|[[ |
!style="white-space:nowrap;"|[[宝飯郡]]<br />(6町8村) |
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|[[ |
|[[下地町 (愛知県)|下地町]]・[[前芝村]](現・豊橋市)、<br />[[小坂井町|小坂井村]]・[[牛久保町]]・[[豊川町]]・[[一宮町 (愛知県)|一宮村]]・[[八幡村 (愛知県宝飯郡)|八幡村]]・[[国府町 (愛知県)|国府町]]・[[御油町]]・[[赤坂町 (愛知県)|赤坂町]]・[[長沢村 (愛知県)|長沢村]]・[[萩村]]・[[御津町 (愛知県)|御津村]](現・[[豊川市]])、[[大塚村 (愛知県宝飯郡)|大塚村]](現・豊川市・[[蒲郡市]]) |
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|- |
|- |
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!style="white-space:nowrap;"|[[八名郡]]<br /> |
!style="white-space:nowrap;"|[[八名郡]]<br />(7村) |
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|[[三上村 (愛知県)|三上村]](現・豊川市) |
|[[三上村 (愛知県)|三上村]]・[[橋尾村]]・[[豊津村 (愛知県)|豊津村]]・[[双和村|金沢村]](現・豊川市)、<br />[[下川村 (愛知県八名郡)|下川村]]・[[双和村|賀茂村]]・[[石巻村]](現・豊橋市) |
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|- |
|- |
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!style="white-space:nowrap;"|[[ |
!style="white-space:nowrap;"|[[南設楽郡]]<br />(1町3村) |
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|[[新城市|新城町]]・[[千郷村]]・[[東郷村 (愛知県南設楽郡)|東郷村]]・[[作手村]](一部)(現・[[新城市]]) |
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!style="white-space:nowrap;"|[[浜名郡]]<br />(2町4村) |
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|[[新居町 (静岡県)|新居町]](一部)・[[白須賀町]]・[[鷲津町|吉津村]]<!--原文「町」-->・[[新所村]]・[[入出村]]・[[知波田村]](現・[[湖西市]]) |
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|} |
|} |
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'''備考''' |
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* 供給区域には未開業区域を含む。この時点での未開業区域は宝飯郡一宮村・八幡村・長沢村・萩村、南設楽郡千郷村、八名郡全村の計12村である<ref name="y7"/>。 |
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* 供給区域外では[[静岡県]][[浜名郡]][[白須賀町]]にて西遠電気へ電力を供給した<ref name="y7"/>。西遠電気の供給区域は浜名郡[[新居町 (静岡県)|新居町]](一部)・白須賀町・[[鷲津町|吉津村]]<!--原文「町」-->・[[新所村]]・[[入出村]](現・[[湖西市]])<ref>[[#yoran7|『電気事業要覧』第7回]]38-39頁。{{NDLJP|975000/49}}</ref>。 |
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* 1917年5月新城地区の電気事業譲渡に伴い宝飯郡のうち一宮村、八名郡のうち橋尾・金沢・賀茂・石巻の4村(他に[[八名村]]も追加)、および南設楽郡の4町村は[[東三電気]]の供給区域となっている<ref name="haga-148">[[#haga|『東三河地方電気事業沿革史』]]148頁</ref>。 |
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=== 1919年時点区域一覧 === |
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豊橋電気の[[1919年]](大正8年)12月末時点における電灯・電力供給区域は以下の愛知・静岡両県下27町村であった<ref name="report52"/><ref name="y12-52">[[#yoran12|『電気事業要覧』第12回]]52-53頁。{{NDLJP|975005/51}}</ref>。<!--『要覧』は1918年下期には供給している八名郡下川村が欠落--> |
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{| class="wikitable" style="font-size:small;" |
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|- |
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!rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|愛知県 |
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!style="white-space:nowrap;"|市部 |
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|豊橋市 |
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|- |
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!style="white-space:nowrap;"|渥美郡<br />(1町4村) |
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|二川町・高師村・牟呂吉田村・[[老津村]](現・豊橋市)、[[杉山村]](現・豊橋市・[[田原市]]) |
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|- |
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!style="white-space:nowrap;"|宝飯郡<br />(6町7村) |
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|下地町・前芝村(現・豊橋市)、<br />小坂井村・牛久保町・豊川町・八幡村・国府町・御油町・赤坂町・長沢村・萩村・御津村(現・豊川市)、大塚村(現・豊川市・蒲郡市) |
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|- |
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!style="white-space:nowrap;"|八名郡<br />(2村) |
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|[[三上村 (愛知県)|三上村]](現・豊川市)<br />下川村(現・豊橋市) |
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|- |
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!style="white-space:nowrap;"|静岡県 |
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!style="white-space:nowrap;"|浜名郡<br />(2町4村) |
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|新居町(一部)・白須賀町・吉津村・新所村・入出村・[[知波田村]](現・湖西市) |
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|} |
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'''備考''' |
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* 浜名郡新居町は[[弁天島 (浜松市)|弁天島]]の部分が供給区域外([[日英水電]]区域)である<ref name="arai-227"/>。 |
* 浜名郡新居町は[[弁天島 (浜松市)|弁天島]]の部分が供給区域外([[日英水電]]区域)である<ref name="arai-227"/>。 |
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* 供給区域には未開業区域を含む。この時点での未開業区域は宝飯郡萩村のみ<ref name="report52"/>。供給開始は遅く、東邦電力時代の[[1923年]](大正12年)のことである<ref>[[#otowa|『音羽町史』通史編]]679頁</ref>。 |
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* 上表の供給区域外では、渥美郡田原町(現・[[田原市]])で[[三河セメント]]、[[神戸村 (愛知県渥美郡)|神戸村]](同)で[[豊橋電気 (1921-1939)|渥美電気・福江電灯]]へ電力を供給する<ref name="yoran12-52"/>。 |
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* 供給区域外では、渥美郡田原町(現・田原市)で[[三河セメント]]、[[神戸村 (愛知県渥美郡)|神戸村]](同)で[[豊橋電気 (1921-1939)|渥美電気・福江電灯]]へ電力を供給する<ref name="y12-52"/>。 |
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* 1916年8月末時点では、上記市町村のほか[[南設楽郡]]新城町・[[東郷村 (愛知県南設楽郡)|東郷村]]・[[作手村]](いずれも現・[[新城市]])においても供給していたが<ref>[[#yoran9|『電気事業要覧』第9回]]44-45頁。{{NDLJP|975002/42}}</ref>、[[1917年]](大正6年)5月にこの地域の供給権は見代発電所とあわせて[[東三電気]]に譲渡されている<ref name="haga-32"/>。 |
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名古屋電灯との合併直前、1920年12月末時点における開業済み区域は上記26町村から増減はない<ref name="report54"/>。同時点での供給成績は電灯が需要家数2万9183戸・電灯数6万6319灯(925.5キロワット)、電力が電動機472台・計1,236[[馬力]](922キロワット)、その他電力装置20台・計10キロワット、電気事業者供給100キロワットの合計1,032キロワットであった<ref name="report54"/>。市町村別に見ると需要は豊橋市が最も多く、電灯では全体の52パーセントにあたる3万4193灯、電動機用電力では全体の40パーセントにあたる490.5馬力が市内に集中する<ref name="report54"/>。電灯数の次点は渥美郡高師村だがそれでも5152灯に過ぎない<ref name="report54"/>。 |
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=== 供給成績 === |
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1920年12月末時点における供給成績は、電灯は需要家数2万9183戸・電灯数6万6319灯(925.5キロワット)、電力は電動機が472台・計1,236[[馬力]](922キロワット)、その他電力装置が20台・計10キロワット、電気事業者供給が100キロワットの合計1,032キロワットであった<ref name="report54"/>。市町村別に見ると需要は豊橋市が最も多く、電灯では全体の52パーセントにあたる3万4193灯、電動機用電力では全体の40パーセントにあたる490.5馬力が豊橋市内に集中する<ref name="report54"/>。電灯数の次点は渥美郡高師村だがそれでも5152灯に過ぎない<ref name="report54"/>。 |
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=== 備考:豊橋市域での供給 === |
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また同時点における開業済みの供給区域には、上表の26町村以外にも八名郡[[下川村 (愛知県八名郡)|下川村]](現・豊橋市)が追加されている<ref name="report54"/>。一方で宝飯郡萩村では電灯・電力ともに供給未開始であった<ref name="report54"/>。萩村での供給開始は、東邦電力時代の[[1923年]](大正12年)のことである<ref>[[#otowa|『音羽町史』通史編]]679頁</ref>。 |
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上表にある通り、1955年以降の現行豊橋市域のうち豊橋電気が供給した範囲は旧豊橋市のほか二川・高師・牟呂吉田・老津・杉山・下地・前芝・下川の8町村である。 |
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区域外のうち北部の旧八名郡石巻村・賀茂村は[[東三電気]]の供給区域に入った<ref name="haga-148"/>。ただし石巻村のうち1932年に豊橋市へ編入される大字多米については[[1925年]](大正14年)10月より豊橋電気後身の東邦電力が供給を始めている<ref>「大正14年下半期営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。また[[遠州灘]]沿いの旧渥美郡[[高豊村]]は採算面の問題から村全体が長く配電されない状態にあったが、東邦電力時代の1923年1月より給電が始まった<ref>[[#takatoyo|『高豊史』]]726頁</ref>。 |
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== 発電所 == |
== 発電所 == |
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=== 牟呂発電所 === |
=== 牟呂発電所 === |
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[[ファイル:Remains of Muro Power Plant.jpg|thumb|牟呂用水に残る牟呂発電所の水門跡(2021年)]] |
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豊橋電灯創業期の発電所は'''牟呂発電所'''といい、[[1895年]](明治28年)9月から[[1915年]](大正4年)9月まで運転された<ref name="chubu2-345"/>。 |
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豊橋電灯が[[1894年]](明治27年)4月の開業に際して設置した発電所は梅田川発電所という。豊橋近郊を流れる[[梅田川 (愛知県)|梅田川]]に設けられた[[水力発電|水力発電所]]であり、所在地は渥美郡[[高師村]]字車(現・豊橋市浜道町字車)<ref name="muro"/>。県への出願内容および当時の専門誌『電気之友』によると、設備は東京[[三吉正一|三吉電機工場]]製で、[[発電用水車|水車]]はレッフェル型水車、[[発電機]]は出力15[[ワット|キロワット]](16[[燭]]灯300灯相当)・[[電圧]]2,000[[ボルト (単位)|ボルト]]の[[単相交流]]発電機であった<ref name="muro"/>。ところがこの発電所は水量不足のため満足な発電ができず<ref name="muro"/>、結局三吉製の[[ボイラー]]・[[蒸気機関]](出力25[[馬力]])を設置し[[火力発電]]を併用せざるを得なかった<ref name="ooka"/>。 |
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失敗に終わった梅田川発電所の代替として建設された発電所が'''牟呂発電所'''である。所在地は渥美郡[[牟呂吉田村|牟呂村]]大西(現・豊橋市牟呂大西町)<ref name="toyo3-710"/>。[[牟呂用水]]を利用する水力発電所で、用水路に水門を置き、その若干下流の左岸側に建屋を構えた<ref name="muro"/>。運転開始は[[1896年]](明治29年)4月下旬<ref name="report5"/>。水力発電所であるが梅田川発電所と同様に水量不足という欠陥が生じ、完成2か月後には蒸気機関が追加されて火力発電中心の発電所とされている<ref name="muro"/>。 |
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『電気之友』によると、発電所設備はボイラー・蒸気機関各2台、ハーキュルス型50馬力水車1台、ホプキンソン型30/50キロワット単相交流発電機各1台を備えた<ref name="muro"/>。2台の発電機のうち運転開始時からのものは30キロワット発電機で、需要増加のため[[1900年]](明治33年)に50キロワット機で置き換えたのち、[[1905年]](明治38年)4月蒸気機関増設により旧発電機を再稼働させて発電所出力を80キロワットへと増強する、という過程を経ている<ref name="muro"/>。製造は初期設備が三吉電機工場、増設分が芝浦製作所(現・[[東芝]])である<ref name="muro"/>。 |
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[[1894年]](明治27年)4月の豊橋電灯開業に際して建設された発電所は牟呂発電所ではなく梅田川発電所といい、豊橋近郊の渥美郡[[高師村]](現・豊橋市)にあった<ref name="haga-1"/>。[[梅田川 (愛知県)|梅田川]]から取水するもので農業用[[水車]]を改造した[[発電用水車]]と[[三吉正一|三吉電機工場]]製の15キロワット[[発電機]]([[単相交流]]・[[商用電源周波数|周波数]]100[[ヘルツ]])を設置して発電したが、水量不足と送電距離の長さから供給力不足であり、[[火力発電]]設備([[ボイラー]]・[[蒸気機関]])の併設を余儀なくされた<ref name="haga-1"/>。このように設計に欠陥があった梅田川発電所に代わる発電所として建設されたのが牟呂発電所で<ref name="haga-7"/>、[[牟呂吉田村|牟呂村]]大西(現・豊橋市牟呂大西町)に設置<ref name="toyo3-710"/>。[[牟呂用水]]からの取水により三吉工場製の水車と30キロワット発電機にて発電したが、ここでも水量不足のため運転開始2か月後にボイラー・蒸気機関を追加している<ref name="haga-7"/>。 |
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下記長篠発電所の完成後、[[1915年]](大正4年)9月1日付で廃止許可が下り廃止された<ref name="report44">「豊橋電気株式会社第44回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。遺構として牟呂用水に水門が残る<ref name="muro"/>({{ウィキ座標|34|45|15.0|N|137|21|21.5|E|region:JP|name=牟呂発電所水門跡|地図}})。 |
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[[1900年]](明治33年)になって需要増加のため50キロワット発電機1台を増設<ref name="haga-7"/>。[[1905年]](明治38年)4月には蒸気機関も増設して休止中の30キロワット発電機を再稼働させて出力計80キロワットの発電所とされた<ref name="haga-7"/>。 |
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=== 見代発電所 === |
=== 見代発電所 === |
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[[ファイル:Toyohashi elctric light the power station.jpg|thumb|見代発電所(1910年)]] |
[[ファイル:Toyohashi elctric light the power station.jpg|thumb|見代発電所(1910年)]] |
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[[日露戦争]]後の需要増加にあたり、豊橋電気では新発電所として'''見代発電所'''(けんだいはつでんしょ)を建設した<ref name="toyo3-710"/>。豊橋から北へ約20キロメートル離れた愛知県[[南設楽郡]][[作手村]]大字保永(現・[[新城市]]作手保永)字四郎田にあり、[[豊川]](寒狭川)支流[[巴川 (豊川水系)|巴川]]から取水する水力発電所であった<ref name="haga-10"/>。 |
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逓信省の資料によると[[1906年]](明治39年)10月に[[水利権]]を取得<ref name="hydro">[[#hydro|『発電水力地点要覧』大正8年]]111-112頁。{{NDLJP|975736/68}}</ref>。2年後の[[1908年]](明治41年)5月に運転を開始した<ref name="chubu2-330"/>。発電設備はペルトン社製[[ペルトン水車]]に[[ウェスティングハウス・エレクトリック]]製[[三相交流]]発電機([[商用電源周波数|周波数]]60[[ヘルツ]])という組み合わせで<ref name="dengyo5">[[#dengyo5|『日本電業者一覧』第5版]]86-87頁。{{NDLJP|803763/79}}</ref>、当初は1組の設置であったが[[1910年]](明治43年)に1組増設され2台体制となっている<ref name="haga-10"/>。発電所出力は当初250キロワット、増設後は360キロワットであり、その発生電力は10[[ボルト (単位)|キロボルト]]の電圧で豊橋近郊の[[宝飯郡]][[下地町 (愛知県)|下地町]](現・豊橋市下地町)に置かれた新設[[変電所]]へと送電された<ref name="haga-10"/>。 |
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こうして完成した見代発電所も従来の発電所と同様に不具合があり、設計時に水量測定を誤ったため[[渇水]]時には出力が200キロワット程度へと減少する、水路に木樋を多用したため水路維持管理に費用・労力を要する、といった欠点を持った<ref name="haga-10"/>。また発電所完成により、1909年1月より見代集落21戸に電灯がついた<ref name="tsukude">[[#tsukude|『作手村誌』本文編]]534頁</ref>。新城町内の点灯よりも早く、[[奥三河]]で最初の電灯である<ref name="tsukude"/>。 |
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[[1917年]](大正6年)5月に豊橋電気から[[東三電気]]へ売却された<ref name="haga-32"/>。その後発電所は[[中央電力 (1938-1942)|三河水力電気、中央電力]]、[[中部配電]]と渡り、[[中部電力]]によって[[1959年]](昭和34年)6月に廃止された<ref name="chubu2-330"/>。 |
[[1917年]](大正6年)5月に豊橋電気から[[東三電気]]へ売却された<ref name="haga-32"/>。その後発電所は[[中央電力 (1938-1942)|三河水力電気、中央電力]]、[[中部配電]]と渡り、[[中部電力]]によって[[1959年]](昭和34年)6月に廃止された<ref name="chubu2-330"/>。 |
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=== 下地発電所 === |
=== 下地発電所 === |
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先に触れた見代発電所からの送電線が繋がる下地町の変電所には、渇水時に発生する見代発電所の発電力低下を補給するための火力発電所として'''下地発電所'''が併設された<ref name="haga-14">[[#haga|『東三河地方電気事業沿革史』]]14-15頁</ref>。運転開始は見代発電所運転開始に続く[[1909年]](明治42年)<ref name="chubu2-330"/>。ボイラー2台に250馬力蒸気機関1台、出力150キロワットの単相交流発電機1台を備えた<ref name="dengyo5"/>。これら主要設備はすべて芝浦製作所製である<ref name="dengyo5"/>。 |
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[[1909年]](明治42年)から[[1916年]](大正5年)10月にかけて、'''下地発電所'''という火力発電所が運転された<ref name="chubu2-330"/>。 |
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使用期間は短く、牟呂発電所に続いて[[1916年]](大正5年)9月5日付で廃止許可が下り廃止された<ref name="report46">「豊橋電気株式会社第46回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。 |
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下地発電所は見代発電所の渇水時の発電力低下を補給するためのもので、同発電所からの送電を受ける下地町の変電所に隣接して設置された<ref name="haga-14">[[#haga|『東三河地方電気事業沿革史』]]14-15頁</ref>。発電所出力は150キロワットで、[[東芝|芝浦製作所]]製の蒸気機関・発電機1台を備えた<ref name="haga-14"/>。 |
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=== 長篠発電所 === |
=== 長篠発電所 === |
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[[ファイル:Nagashino Weir 1.jpg|thumb|長篠発電所取水用の長篠堰堤]] |
[[ファイル:Nagashino Weir 1.jpg|thumb|長篠発電所取水用の長篠堰堤]] |
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豊川上流部の寒狭川に |
豊橋電気では、1910年代以降は豊川上流部の寒狭川に3つの水力発電所を新設することで発電力を増強していった。この3か所のうち最初に建設されたのが'''長篠発電所'''である。所在地は寒狭川左岸の<ref name="haga-18">[[#haga|『東三河地方電気事業沿革史』]]18-23頁</ref>、南設楽郡[[長篠村]]大字横川字神田<ref name="kannai3">[[#kannai3|『管内電気事業要覧』第3回]]、「附録 主要ナル電気工作物調表」7-10頁。{{NDLJP|975997/86}}</ref>(現・新城市横川 {{ウィキ座標|34|56|23.2|N|137|32|59.0|E|region:JP|name=長篠発電所|地図}})。傍系会社寒狭川電気を通じて開発に着手した地点であり<ref name="toyo3-710"/>、[[1903年]](明治36年)12月に水利権を取得<ref name="hydro"/>、1910年12月起工ののち[[1912年]](明治45年)2月26日をもって竣工した<ref name="report37">「豊橋電気株式会社第37回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。逓信省からの使用認可は同年3月25日付である<ref name="report37"/>。 |
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長篠発電所は河川勾配(落差)が少なく洪水位は高いという立地面での不利を補うため、発電機を洪水位より高い位置に置きつつ水車はできる限り低い位置に置くという縦軸式水車発電機が採用された<ref name="ima">[[#imanishi|「ナイアガラ式発電所を築いた今西卓」]]25-32頁</ref>。[[ナイアガラの滝]]にある同種の発電所にちなんで「ナイアガラ式発電所」と呼ばれる構造である<ref name="ima"/>。水車は[[フォイト]]製[[フランシス水車]]、発電機は[[シーメンス]]製500kW三相交流機を採用<ref name="ima"/><ref name="kannai3"/>。当初は1組の設置であったが、1914年4月に増設工事が竣工し2組となった<ref>「豊橋電気株式会社第40回営業報告書」「豊橋電気株式会社第41回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。発電所出力は当初500キロワット、1915年11月の変更以後は750キロワットである<ref name="chubu2-330"/>。送電線は11キロボルト線を見代発電所から豊橋方面へ伸びる送電線の途中に接続した<ref name="haga-18"/>。 |
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中部電力(岡崎) |
発電所は[[中部電力 (1930-1937)|中部電力(岡崎)]]・[[東邦電力]]・中部配電を経て中部電力に継承されているが<ref name="chubu2-330"/>、豊橋電気時代からの発電所建屋・設備は[[1947年]](昭和22年)に[[落雷]]で全焼した<ref>[[#sympo|杉浦雄司「豊川水系の水力発電史」]]76-79頁</ref>。 |
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=== 布里発電所 === |
=== 布里発電所 === |
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寒狭川の水力発電所 |
寒狭川で2番目の水力発電所は'''布里発電所'''(ふりはつでんしょ)である。所在地は南設楽郡[[鳳来寺村]]大字布里字厚ノ久保(現・新城市布里 {{ウィキ座標|34|58|50.8|N|137|32|8.9|E|region:JP|name=布里発電所|地図}})で、先に建設された長篠発電所の上流側にあたる<ref name="haga-32"/>。[[1916年]](大正5年)5月に水利権を取得し<ref name="hydro"/>、翌1917年11月着工<ref name="toyo4-607"/>。1年半後の[[1919年]](大正8年)7月3日付で完成後の検査を終え仮使用認可を得た<ref name="report52"/>。 |
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設備は縦軸フランシス水車に700kW三相交流発電機という組み合わせで、設置数は1組<ref name="kannai3"/>。長篠発電所と同種の縦軸式水車発電機だが、[[第一次世界大戦]]の影響で国外からの機器輸入が途絶えたためメーカーは水車が[[電業社機械製作所|電業社]]、発電機が芝浦製作所にそれぞれ変更された<ref name="ima"/>。ただし完全な同型ではなく、水車のケーシングが単純な構造のコンクリート室(露出型水車)へと簡素化されている<ref name="ima"/>。発電所出力は500キロワットで<ref name="chubu2-330"/>、発生電力は布里発電所完成に伴い33キロボルトへ昇圧された送電線(33キロボルト区間は長篠 - 豊橋間<ref name="kannai3"/>)で豊橋方面へ送られた<ref name="haga-32"/>。 |
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長篠発電所と同様の変遷をたどって戦後中部電力に継承された<ref name="chubu2-330"/>。豊橋電気時代からの設備は[[1983年]](昭和58年)の改修まで使用されている<ref name="sympo-79">[[#sympo|杉浦雄司「豊川水系の水力発電史」]]79-84頁</ref>。現・中部電力布里発電所({{ウィキ座標|34|58|50.8|N|137|32|8.9|E|region:JP|name=布里発電所|地図}})。 |
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長篠発電所と同様の変遷をたどって戦後中部電力に継承された<ref name="chubu2-330"/>。豊橋電気時代からの設備は[[1983年]](昭和58年)の改修まで使用されている<ref name="sympo-79">[[#sympo|杉浦雄司「豊川水系の水力発電史」]]79-84頁</ref>。 |
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=== 横川発電所 === |
=== 横川発電所 === |
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寒狭川の |
寒狭川で3番目の水力発電所は'''横川発電所'''である。布里発電所と長篠発電所の中間、長篠村大字横川字大久保({{ウィキ座標|34|57|19.5|N|137|32|53.8|E|region:JP|name=横川発電所|地図}})に位置する<ref name="haga-32"/>。元は豊橋電化工業という別会社が計画した発電所で<ref name="report52"/>、[[1918年]](大正7年)7月に水利権を得たのち<ref name="hydro"/>、同社を吸収した豊橋電気によって1919年12月25日着工された<ref name="report52"/>。豊橋電気時代には完成に至らず、関西電気時代の[[1921年]](大正10年)12月31日付で使用認可を得て運転を開始した<ref name="reportK34">「関西電気株式会社大正11年上半期営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。以後、横川発電所を最後に水量の少ない豊川水系では発電所建設が行われなくなった<ref name="sympo-79"/>。 |
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発電 |
設備は縦軸フランシス水車と900kW三相交流発電機の組み合わせで、設置数は1組<ref name="kannai3"/>。布里発電所と同じく電業社製水車・芝浦製作所製発電機であり、水車が露出型という点も同様である<ref name="ima"/>。発電所出力は800キロワット<ref name="chubu2-330"/>。長篠発電所と同様の変遷をたどって中部電力に継承され<ref name="chubu2-330"/>、豊橋電気時代からの設備は[[1987年]](昭和62年)の改修まで使用された<ref name="sympo-79"/>。 |
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== 人物 == |
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=== 社長 === |
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# 杉田権次郎 - [[1894年]](明治27年)2月就任<ref name="toyo3-708"/>。 |
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豊橋電気の歴代[[社長]]は以下の4人である。 |
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# [[三浦碧水]] - [[1896年]](明治29年)就任<ref name="toyo3-710"/>。初代・4代目豊橋町長(1889 - 1892年、1895 - 1898年)、[[愛知県議会|愛知県会]]議員(1892 - 1898年)、[[衆議院]]議員(1894年、[[第3回衆議院議員総選挙]]当選)などを歴任した人物<ref>[[#toyo3|『豊橋市史』第3巻]]索引29-30・35頁</ref>。 |
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; 初代 - 杉田権次郎 |
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# 伊東米作 - [[1909年]](明治42年)就任<ref name="toyo3-712"/>。 |
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: [[1894年]](明治27年)2月会社設立とともに就任<ref name="toyo3-708"/>。8人いた発起人の1人<ref name="toyo3-708"/>。三浦町で魚商を営み<ref name="toyosho-338"/>、豊橋銀行頭取を兼ねた<ref name="hyakka">[[#hyakka|『豊橋百科事典』]]当該項目</ref>。1895年10月没<ref name="hyakka"/>。 |
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# [[福澤桃介]] - 1909年就任。当時の筆頭[[株主]]<ref name="toyo4-607"/>。 |
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; 2・5代 - [[三浦碧水]] |
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3代目までの3人(杉田・三浦・伊東)は8人いた会社発起人の一員である<ref name="toyo3-708"/>。福澤は1912年以降専務取締役で、再度社長となった三浦碧水の死去(1915年2月)後[[1918年]](大正7年)に社長へと戻った<ref name="toyo4-607"/>。以来名古屋電灯との合併まで社長を務めた<ref name="toyo4-610"/>。 |
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: [[1896年]](明治29年)就任<ref name="toyo3-710"/>。発起人の1人<ref name="toyo3-708"/>。会社設立時は八町で[[活版印刷]]業を営む<ref name="toyosho-338"/>。元[[三河吉田藩|吉田藩士]]で、維新後は豊橋町長(初代・4代)や[[愛知県議会|愛知県会]]議員、[[衆議院]]議員(1894年[[第3回衆議院議員総選挙|第3回総選挙]]当選)など公職を歴任、1895年からは豊橋商業会議所会頭も務めた<ref name="koro-250"/>。[[1915年]](大正4年)の死去時も豊橋電気社長の座にあった<ref name="toyo4-607"/>。 |
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; 3代 - 伊東米作 |
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: [[1909年]](明治42年)就任<ref name="toyo3-712"/>。発起人の1人<ref name="toyo3-708"/>。萱町で米穀商を営むほか<ref name="toyosho-338"/>、[[豊橋市議会|市会議員]]や豊橋貯蓄銀行頭取を務めた<ref name="hyakka"/>。1910年没<ref name="hyakka"/>。 |
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; 4・6代 - [[福澤桃介]] |
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: [[1910年]](明治43年)就任<ref name="toyo3-712"/>。当時の筆頭株主<ref name="toyo4-607"/>。1912年以降は専務取締役で、[[1918年]](大正7年)社長へと戻った<ref name="toyo4-607"/>。以来名古屋電灯との合併まで社長を務める<ref name="toyo4-610"/>。 |
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=== 専務 === |
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社長の下に[[専務取締役]]も置かれた。1907年時点では豊橋市紺屋の外山芳太郎が在任<ref>[[#kaisha15|『日本全国諸会社役員録』第15回]]下編214頁。{{NDLJP|780119/555}}</ref>。1909年末時点では社長伊東米作の下で宝飯郡[[国府町 (愛知県)|国府町]]の[[武田賢治]]が専務を務める<ref>[[#dengyo4|『日本電業者一覧』第4版]]115-116頁。{{NDLJP|803762/122}}</ref>。翌1910年初頭の段階では社長福澤桃介の下に専務は不在だが<ref>[[#kaisha18|『日本全国諸会社役員録』第18回]]下編210頁。{{NDLJP|780122/564}}</ref>、1912年初頭時点では[[幡豆郡]][[一色町|一色村]]の[[徳倉六兵衛]]が在任する<ref>[[#kaisha20|『日本全国諸会社役員録』第20回]]下編227頁。{{NDLJP|1088134/630}}</ref>。 |
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1912年から専務を務めた福澤桃介が社長へ復帰した後、1919年初頭時点では武田賢治が再び専務を務めている<ref>[[#kaisha27|『日本全国諸会社役員録』第27回]]下編116頁。{{NDLJP|936467/529}}</ref>。 |
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=== 末期の役員一覧 === |
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名古屋電灯との合併直前、1921年初頭時点の[[取締役]]・[[監査役]]と[[支配人]]は以下の陣容であった<ref>[[#kaisha29|『日本全国諸会社役員録』第29回]]下編134頁。{{NDLJP|936470/534}}</ref>。 |
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* 取締役社長 : [[福澤桃介]] - 東京。1908年7月取締役就任<ref name="kanpo19080825"/>。[[名古屋電灯]]社長兼務。 |
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* 専務取締役 : [[武田賢治]] - 宝飯郡国府町。1908年7月取締役就任<ref name="kanpo19080825"/>。家業は医者<ref name="haga-129">[[#haga|『東三河地方電気事業沿革史』]]129-133頁</ref>。 |
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* 取締役 : |
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** [[徳倉六兵衛]] - 幡豆郡一色村。1908年7月取締役就任<ref name="kanpo19080825"/>。幡豆郡随一の資産家<ref>[[#seisan|『西参ノ事業ト人』]]191-192頁。{{NDLJP|922911/107}}</ref>。 |
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** 荒川寅之丞 - [[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[十四山村]]。1908年7月取締役就任<ref name="kanpo19080825"/>。 |
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** [[大口喜六]] - 豊橋市。1917年1月取締役就任<ref name="kanpo19170302">「商業登記 豊橋電気株式会社登記変更」『官報』第1373号附録、1917年3月2日付。{{NDLJP|2953486/18}}</ref>。衆議院議員、前豊橋市長<ref>[[#koshin5|『人事興信録』第5版]]を110頁。{{NDLJP|1704046/375}}</ref>。 |
|||
** 八木平兵衛 - 名古屋市。1917年1月取締役就任<ref name="kanpo19170302"/>。家業は[[太物]]商<ref>[[#nagoyajinbutsu|『続名古屋百人物評論』]]73-75頁。{{NDLJP|954764/48}}</ref>。 |
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* 監査役 : |
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** 望月喜平治 - [[南設楽郡]][[長篠村]]。同地の豪商望月家当主<ref>[[#koroshaden|『開校廿周年記念東三河産業功労者伝』]]86-89頁。{{NDLJP|1705146/63}}</ref>。 |
|||
** 伊東治郎 - 豊橋市。伊東米作長男<ref>[[#koshin5|『人事興信録』第5版]]い33頁。{{NDLJP|1704046/87}}</ref>。 |
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* 支配人 : [[今西卓]] - 豊橋市。1908年[[京都大学大学院工学研究科・工学部|京都帝国大学理工科大学]]電気工学科卒、技師長として入社<ref name="haga-129"/>。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group="注釈"}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|2}} |
{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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=== 企業史 === |
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* {{Cite book|和書|author=中部瓦斯株式会社社史編纂委員会(編)|title=社史・中部瓦斯株式会社 |publisher=[[サーラエナジー|中部瓦斯]] |year=1976 |ref=gas }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=中部電力電気事業史編纂委員会(編)|title=中部地方電気事業史 |volume=上巻・下巻 |publisher=[[中部電力]] |year=1995 |ref=chubu }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=東邦電力史編纂委員会(編)|title=東邦電力史 |publisher=東邦電力史刊行会 |year=1962 |ref=toho }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=三河セメント(編)|title=三河セメント社史 |publisher=三河セメント |year=1937 |ref=cement }} |
|||
* その他文献 |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[矢作水力]](編)|title=矢作水力株式会社十年史 |publisher=矢作水力 |year=1929 |id={{NDLJP|1031632}} |ref=yahagi }} |
|||
** {{Cite book|和書|author=音羽町史編さん委員会(編)|title=音羽町史 |volume=通史編 |publisher=[[音羽町]] |year=2005 |ref=otowa }} |
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=== 官庁資料 === |
|||
** {{Cite book|和書|author=商業興信所(編)|title=日本全国諸会社役員録 |volume=明治27年版 |publisher=商業興信所 |year=1894 |ref=kaisha1894 }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[逓信省]]電気局(編)|title=電気事業要覧 |volume=第7回 |publisher=逓信協会 |year=1915 |id={{NDLJP|975000}} |ref=yoran7 }} |
|||
** [[逓信省]]電気局(編) |
|||
* {{Cite book|和書|author=逓信省電気局(編)|title=電気事業要覧 |volume=第11回 |publisher=逓信協会 |year=1919 |id={{NDLJP|975004}} |ref=yoran11 }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=逓信省電気局(編)|title=電気事業要覧 |volume=第12回 |publisher=逓信協会 |year=1920 |id={{NDLJP|975005}} |ref=yoran12 }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=逓信省電気局(編)|title=電気事業要覧 |volume=第13回 |publisher=逓信協会 |year=1922 |id={{NDLJP|975006}} |ref=yoran13 }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=逓信省電気局(編)|title=電気事業要覧 |volume=第14回 |publisher=電気協会 |year=1922 |id={{NDLJP|975007}} |ref=yoran14 }} |
|||
* {{Cite book|和書|author= |title=発電水力地点要覧 |volume=大正8年 |publisher=逓信省電気局 |year=1920 |id={{NDLJP|975736}} |ref=hydro }} |
|||
** 豊橋市史編集委員会(編) |
|||
* {{Cite book|和書|author= |title=管内電気事業要覧 |volume=第3回 |publisher=名古屋逓信局電気課 |year=1922 |id={{NDLJP|975997}} |ref=kannai3 }} |
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*** {{Cite book|和書|title=豊橋市史|volume=第4巻現代編|publisher=豊橋市|year=1987|ref=toyo4}} |
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=== 自治体資料 === |
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*** {{Cite book|和書|title=豊橋市史|volume=第8巻近代資料編 |publisher=豊橋市 |year=1979 |ref=toyo8 }} |
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* {{Cite book|和書|author=新居町史編さん委員会(編)|title=新居町史 |volume=第2巻通史編下 |publisher=[[新居町 (静岡県)|新居町]] |year=1990 |ref=arai }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=音羽町史編さん委員会(編)|title=音羽町史 |volume=通史編 |publisher=[[音羽町]] |year=2005 |ref=otowa }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=作手村誌編集委員会(編)|title=作手村誌 |volume=本文編 |publisher=[[新城市]] |year=2010 |ref=tsukude }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=高豊史編纂委員会(編)|title=高豊史 |publisher=高豊史編纂委員会 |year=1982 |ref=takatoyo }} |
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* 記事 |
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* 豊橋市史編集委員会(編) |
|||
** {{Cite journal|和書|author=杉浦雄司 |title=豊川水系の水力発電史 |journal=シンポジウム「中部の電力のあゆみ」第1回講演報告資料集 |publisher=中部産業遺産研究会 |date=1993-06 |pages=70-86 |ref=sympo }} |
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** {{Cite book|和書|title=豊橋市史 |volume=第三巻近代編 |publisher=[[豊橋市]] |year=1983 |ref=toyo3 }} |
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** {{Cite book|和書|title=豊橋市史 |volume=第四巻現代編 |publisher=豊橋市 |year=1987 |ref=toyo4 }} |
|||
** {{Cite book|和書|title=豊橋市史 |volume=第八巻近代資料編 |publisher=豊橋市 |year=1979 |ref=toyo8 }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=豊橋百科事典編集委員会(編)|title=豊橋百科事典 |publisher=豊橋市文化市民部文化課 |year=2006 |ref=hyakka }} |
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=== その他書籍 === |
|||
* 商業興信所 『日本全国諸会社役員録』 |
|||
** {{Cite book|和書|author= |title=日本全国諸会社役員録 |volume=第15回 |publisher=商業興信所 |year=1907 |id={{NDLJP|780119}} |ref=kaisha15 }} |
|||
** {{Cite book|和書|author= |title=日本全国諸会社役員録 |volume=第18回 |publisher=商業興信所 |year=1910 |id={{NDLJP|780122}} |ref=kaisha18 }} |
|||
** {{Cite book|和書|author= |title=日本全国諸会社役員録 |volume=第20回 |publisher=商業興信所 |year=1912 |id={{NDLJP|1088134}} |ref=kaisha20 }} |
|||
** {{Cite book|和書|author= |title=日本全国諸会社役員録 |volume=第27回 |publisher=商業興信所 |year=1919 |id={{NDLJP|936467}} |ref=kaisha27 }} |
|||
** {{Cite book|和書|author= |title=日本全国諸会社役員録 |volume=第29回 |publisher=商業興信所 |year=1921 |id={{NDLJP|936470}} |ref=kaisha29 }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=人事興信所(編)|title=人事興信録 |volume=第5版 |publisher=人事興信所 |year=1918 |id={{NDLJP|1704046}} |ref=koshin5 }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=手島益雄 |title=続名古屋百人物評論 |publisher=[[電通|日本電報通信社]]名古屋支局 |year=1915 |id={{NDLJP|954764}} |ref=nagoyajinbutsu }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=豊橋商工会議所(編)|title=豊橋商工会議所五十年史 |publisher=豊橋商工会議所 |year=1943 |id={{NDLJP|1067832}} |ref=toyosho }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[愛知県立豊橋商業高等学校|豊橋市立商業学校]](編)|title=開校廿周年記念東三河産業功労者伝 |publisher=豊橋市立商業学校 |year=1943 |id={{NDLJP|1705146}} |ref=koroshaden }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=中村十郎(編)|title=挙市一致経済的大運動 豊橋電気問題之真相 |publisher=豊橋電気問題研究所 |year=1921 |id={{NDLJP|963639}} |ref=nakamura }} |
|||
* [[日本電気協会]] 『日本電業者一覧』 |
|||
** {{Cite book|和書|author= |title=日本電業者一覧 |volume=第4版 |publisher=日本電気協会 |year=1910 |id={{NDLJP|803762}} |ref=dengyo4 }} |
|||
** {{Cite book|和書|author= |title=日本電業者一覧 |volume=第5版 |publisher=日本電気協会 |year=1912 |id={{NDLJP|803763}} |ref=dengyo5 }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[岩井コスモ証券|野村商店]]調査部(編)|title=株式年鑑 |volume=大正9年度 |publisher=野村商店調査部 |year=1920 |id={{NDLJP|975422}} |ref=kabu1920 }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=芳賀信男 |title=東三河地方電気事業沿革史 |publisher=芳賀信男 |year=2001 |ref=haga }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=原卯三郎 |title=西参ノ事業ト人 |publisher=西三新聞社 |year=1926 |id={{NDLJP|922911}} |ref=seisan }} |
|||
=== 記事 === |
|||
* {{Cite journal|和書|author=石田正治 |title=牟呂発電所遺構の調査研究 |journal=産業遺産研究 |publisher=産業遺産研究編集委員会 |date=1996-06 |pages=59-69 |ref=muro }} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=杉浦雄司 |title=豊川水系の水力発電史 |journal=シンポジウム「中部の電力のあゆみ」第1回講演報告資料集 |publisher=中部産業遺産研究会 |date=1993-06 |pages=70-86 |ref=sympo }} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=杉浦雄司・石田正治 |title=ナイアガラ式発電所を築いた今西卓 |journal=シンポジウム中部の電力のあゆみ |volume=第4回講演報告資料集(電気技術の開拓者たち)|publisher=中部産業遺産研究会 |year=1996 |pages=21-39 |ref=imanishi }} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=浅野伸一 |title=水力技師大岡正の人と業績 |journal=シンポジウム中部の電力のあゆみ |volume=第4回講演報告資料集(電気技術の開拓者たち)|publisher=中部産業遺産研究会 |year=1996 |pages=40-85 |ref=ooka }} |
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2021年6月30日 (水) 11:11時点における版
種類 | 株式会社 |
---|---|
略称 | 豊電 |
本社所在地 |
日本 愛知県豊橋市大字関屋12番戸[1] |
設立 | 1894年(明治27年)3月8日[2] |
解散 |
1921年(大正10年)4月20日[3] (名古屋電灯と合併し解散) |
業種 | 電気 |
事業内容 | 電気供給事業 |
代表者 | 福澤桃介(社長) |
公称資本金 | 240万円 |
払込資本金 | 173万円 |
株式数 |
旧株:2万1200株(額面50円払込済) 新株:2万6800株(25円払込) |
総資産 | 288万3359円(未払込資本金除く) |
収入 | 42万2991円 |
支出 | 17万1237円 |
純利益 | 25万1754円 |
配当率 | 年率14.0% |
株主数 | 748名 |
主要株主 | 名古屋信託 (5.4%)、伊東治郎 (3.9%)、高橋小十郎 (3.2%)、望月喜平治 (3.0%)、福澤桃介 (2.8%) |
決算期 | 6月末・12月末(年2回) |
特記事項:代表者以下は1920年12月期決算時点[4] |
豊橋電気株式会社(とよはしでんきかぶしきがいしゃ)は、明治後期から大正にかけて存在した日本の電力会社である。愛知県豊橋市に設立され、同市を中心とする東三河地方への電気供給を担った。
設立・開業は1894年(明治27年)で、東三河で最初の電気事業を起こした。社名は1906年(明治39年)の改称まで豊橋電灯株式会社(豊橋電燈、とよはしでんとう)と称する。豊川水系に水力発電所を相次ぎ建設するなど事業を拡げ、最終的に東三河とそれに接する静岡県の一部地域を供給区域とした。
1921年(大正10年)、名古屋市を地盤とする名古屋電灯(後の東邦電力)に合併され消滅した。その翌年、旧経営陣の一部が渥美半島の電気事業を統合して立ち上げた豊橋電気信託という会社が「豊橋電気」の社名を継承している。
概要
豊橋電気株式会社(旧社名:豊橋電灯株式会社)は、1894年(明治27年)に当時の愛知県渥美郡豊橋町、後の豊橋市に発足・開業した電力会社である。電気事業勃興期に起業された事業者の一つであり、その開業は名古屋市の名古屋電灯(後の東邦電力)に続く中部地方2例目となった。
豊橋電灯設立の主唱者は商工業者で組織される豊橋商業会議所(現・豊橋商工会議所)である。豊橋での電灯点灯を目指し1893年(明治26年)から設立手続きに着手し、翌1894年3月までに手続きを完了した。開業は同年4月1日。電源は近郊の梅田川に設けた水力発電所で、県内最初の水力発電であったが、不完全な設備であり火力発電併用で運転された。そのため短期間で牟呂用水へと発電所を移すも、ここでも水量不足から火力発電併用を余儀なくされた。
明治末期、日露戦争後の時期より豊橋電灯は急速にその事業を拡大することになる。その初期の1906年(明治39年)、動力用電力の供給を事業目的に追加するとともに社名を豊橋電灯から豊橋電気へと変更。供給拡大のための電源を豊川水系に求め、1908年(明治41年)以後計4か所の水力発電所を順次建設していく。電源増強とともに1910年代に入ると供給区域の拡大にも力が入れられ、現在の豊川市域や県境を越えた静岡県湖西市域にも供給するようになった。経営面では、事業拡大の中で地元以外からも出資者を募った結果、経営陣に地元以外の人物が参画した。その代表格が東京の実業家福澤桃介である。福澤は大株主に登り、1910年(明治43年)以降専務や社長として会社経営にあたった。
1920年代に入り、事業の拡大をもたらした大戦景気が終わって戦後恐慌が発生すると、福澤が社長を兼ねる名古屋電灯との合併が進められた。1920年(大正9年)12月、名古屋電灯との間に合併契約が成立。そして半年後の翌1921年(大正10年)4月に合併が完了し、豊橋電気は解散した。この合併手続き中に豊橋市会で事業の市営化を目指す動きが活発化するも、市営化交渉は進展しなかった。だがこれに伴う市と会社側の関係悪化は市民からの名古屋電灯非難の声を強め、電気料金値下げ運動が発生する原因となった。
豊橋電気が経営した供給区域は、いずれも第二次世界大戦後の電気事業再編成にて発足した中部電力(2020年以降は中部電力パワーグリッド)の供給区域に含まれる。また発電所もそれまでに廃止されたものを除き同社に継承されている。
沿革
会社設立
1889年(明治22年)12月、愛知県名古屋市において、士族授産活動から生じた電力会社名古屋電灯が電灯供給事業を開業した[5]。これは中部地方第一号、日本全国で見ても東京・神戸・大阪・京都に続く5番目の電気事業である[5]。以後も全国的に起業が相次ぎ、北海道・九州でも電気事業が出現していく[6]。
こうした全国的傾向の中、愛知県東部の都市豊橋市(1906年の市制までは渥美郡豊橋町)においても電気事業起業の動きが出現する。名古屋の事例とは異なり、豊橋における起業の主導者は商工業者で組織される商業会議所であった。具体的には1893年(明治26年)3月に設立された豊橋商業会議所(現・豊橋商工会議所)であり、発足最初の事業として電灯設置を取り上げたことが発端となった[7]。まず同年6月、会議所宛に佐藤弥吉(呉服商[8])より電灯設置に向けた調査を求める建議が出された[9]。建議の趣旨は、東京などの都市にならって電灯をともし町全体を「不夜城」として商工業発展を期するべし、というものであった[9]。これを受けて会議所は佐藤や副会頭三浦碧水(印刷業[8])ら5名を調査委員に任命した[9]。
委員のうち三浦碧水は上京調査に赴き、箱根電灯(神奈川県・1892年6月開業[6])で事業の具体的内容を聴取したのち、同社技師長でもあり当時静岡県浜松市で水力発電事業の準備をしていた技師大岡正を訪ね、水力発電の適地があれば人口1万人の都市でも300灯ほどの需要で十分採算性があるとの助言を得たという[9]。その結果、調査委員は豊橋でも電灯導入が可能と結論付け、7月その旨を会議所に対し報告した[9]。調査結果を踏まえて電灯会社起業の動きが進められ[10]、当時の豊橋商業会議所議員20名のうち三浦碧水・佐藤弥吉・白井直次(質商・生糸商)・高橋小十郎(回漕業)・宅間菊太郎(米穀商)・伊東米作(米穀商)・杉田権次郎(魚商)の7名に福谷元次を加えた計8名を発起人として[8][11]、1893年9月4日付で「豊橋電灯株式会社」の発起認可を農商務省へ出願する[11]。次いで11月8日付で豊橋町内における電灯営業の許可を愛知県に求めた[11]。
1894年(明治27年)に入り、1月15日付で電灯営業、2月1日付で会社発起の許認可が下りた[11]。許認可と株主募集を経て2月11日、豊橋電灯株式会社の創業総会開催に至る[11]。その後3月8日付で農商務省から会社設立免許があり、3月22日設立登記も完了して会社設立手続きが完了した[2]。こうして設立された豊橋電灯は資本金1万5000円の会社で、本店を豊橋町大字八町152番地1に構えた[2]。創業総会にて選ばれた最初の役員は取締役杉田権次郎・福谷元次・伊東米作および監査役三浦碧水・白井直次の計5名で、取締役の互選により杉田が初代社長に選出された[2]。この役員については翌年までに社長杉田、取締役伊東・三浦・福谷・高橋小十郎・佐藤弥吉、監査役白井・宅間菊次郎という体制になっている[12]。また1896年(明治29年)に杉田が死去すると三浦碧水が2代目社長に就いた[7]。以後三浦は1915年(大正4年)2月に死去するまで会社経営に関与することになる[13]。
創業期の苦心
豊橋電灯は発電所を建設するにあたり、設立前の調査段階で関わりのあった技師大岡正に設計・工事を担当させた[14]。大岡は水力発電勃興期のごく初期から発電所建設に携わった技師であり、京都市営蹴上発電所に続く国内2番目の事業用水力発電所である箱根電灯湯本発電所を建設した経験を持つ[14]。大岡にとって豊橋電灯における発電所建設は箱根・浜松(失敗)に続く3か所の施工事例となった[14]。その豊橋電灯の水力発電所は、豊橋の市街から10キロメートルほど離れた渥美郡高師村(現・豊橋市)の梅田川に建設された[14]。発電用水車は農業用水車を買収して改造したもの[7]。発電機は出力15キロワット・電圧2,000ボルトの交流発電機を置いた[10]。発電所は1894年3月には完成した[14]。
そして豊橋電灯は1894年4月1日開業に至った[7][2]。名古屋電灯に続く中部地方2番目、全国でも前年の日光電力(栃木県)に続いて15番目に開業した電気事業者となった[6]。こうして開業に漕ぎつけた豊橋電灯であったが、梅田川発電所の水量不足という問題が発生した[7]。梅田川発電所は当時まだ希少な水力発電所(愛知県下では第一号[14])であり、名古屋電灯がいまだ低圧送電方式を採り隣町への配電ができていない中で高圧送電方式を用いたことは技術的には画期的であったものの、現実には水量不足のため電灯点火は順調ではなく光量がランプに及ばないことすら多々あった[7]。この光量不足対策として、豊橋電灯では梅田川発電所に補助動力となる蒸気機関を据え付けて火力発電併用とする選択をした[14]。
大岡が豊橋の前に手掛けた浜松電灯では水力発電が失敗に終わった後蒸気機関による火力発電で開業するまで2年を要した(豊橋に遅れて1895年10月開業)が[14]、豊橋電灯ではあらかじめ蒸気機関設置の手配をしつつ水力発電だけで開業し、追って1894年6月に蒸気機関の設置工事を完了した[2]。火力併用の発電が好成績を収めると点灯申込みは増加に向かう[2]。最初の決算である6月末時点では需要家数47戸・点灯数143灯[2]、1年後の1895年(明治28年)6月末時点では点灯数478灯を数えた[12]。
梅田川での発電が失敗に終わったことから、豊橋電灯では水力発電に適する別の地点を調査し、豊川上流(寒狭川)の開発を計画する[15]。しかし工事費が約25万円にのぼることから断念し、替わりに近郊の牟呂用水を利用して牟呂村大西(現・豊橋市牟呂大西町)に牟呂発電所を新設する方針を決定した[15]。この牟呂用水は神野新田に通ずる用水路で、1894年に完成したばかりであった[10]。1895年5月、梅田川発電所の設備を製作した三吉電機工場との間で、既設設備一式を原価で引き取らせた上で新しい水車・発電機を発注するという契約を締結[10][12]。そして名古屋電灯技師の丹羽正道に発電所設計を任せ[10]、翌1896年4月に牟呂発電所を完成させた[16]。こうして発電所を梅田川から移したものの、牟呂用水も水量不足であり、完成2か月後には蒸気機関を設置して火力併用の発電所としている[10]。
軌道に乗る事業
創業期の点灯規則によると、供給する白熱電灯の明るさ(燭光数)には8燭灯・10燭灯・16燭灯などがあり、燭光数と点灯時間(12時灯・3時灯・終夜灯の3種)によって料金が定められていた[17]。月額料金は10燭終夜灯の場合90銭(会社貸出の電球の場合17銭加算)、16燭終夜灯の場合1円30銭(同20銭加算)で[17]、当時は高級品として扱われた[15]。初期の主要な供給先は豊橋に駐屯していた歩兵第18連隊であり、やがて官庁や商店街でも電灯の利用が拡大、一般家庭でも普及していった[15]。
設立3年目の1896年上期に1万円の増資を、次いで翌1897年(明治30年)下期に倍額増資をそれぞれ実施し、資本金を短期間で5万円へと引き上げた[15]。これらは配電設備拡張を目的とする増資であった[15]。供給の拡張につれて電灯料収入も増加傾向となり、設立以来の赤字経営が1897年上期黒字化に成功、同年下期には初めての配当にも漕ぎつけた[15]。開業6年目の1899年(明治32年)下期には電灯数が1000灯に到達[18]。1900年(明治33年)下期には1200灯を超えたが、以後しばらく需要家数200戸前後・灯数1200灯台のまま伸びが停滞した[18]。
供給成績が急拡大するのは日露戦争後のことである[15]。戦後の好況によって会社・商店・役所から一般家庭に至るまで幅広く電灯を求める動きが拡大するとともに、工業向けの電力需要も増加したことによる[15]。その中の1906年(明治39年)11月19日(登記日)[19]、社名を豊橋電灯から「豊橋電気株式会社」へと改め、営業目的に動力用電力の販売を加えた[15]。また牟呂発電所建設以降は2度にわたって同発電所を増設し供給力を当初の30キロワットから80キロワットへと引き上げることで需要増に対処してきていたが[10]、需要急増に対応すべく南設楽郡作手村(現・新城市)における新水力発電所の建設を決定した[15]。その建設費調達のため豊橋電気では1907年(明治40年)に資本金を50万円へと引き上げた[13]。この増資は2分割で実施されており、1月に10万円[20]、次いで9月に35万円の増資がそれぞれ決議されている[21]。
新発電所建設は突貫工事で進められ、1908年(明治41年)5月に見代発電所として完成した[22]。豊川支流巴川の水力を利用するもので、出力は250キロワット(1910年の増設後は360キロワット)[22]。同時に豊橋郊外の下地町に変電所を新設し、発電所と変電所を高圧送電線で結び変電所にて降圧した上で配電する、という供給方式を社内で初めて整備した[22]。見代発電所の建設にあわせて1907年10月に電灯料金を引き下げた(16燭終夜灯月額90銭など)こともあり、完成直後の1908年6月末時点における電灯数は5221灯と半年前の1808灯から一挙に3倍近くの増加をみた[23]。さらに1908年上期から動力用電力の供給も開始し、精米・製材・製粉・揚水などの用途で電動機の利用を増加させていった[23]。
事業の急拡大
1907年に見代発電所建設のための増資を実施した際、日露戦争後の不況期に重なったため増資に応募する地元資産家が少なく、やむを得ず豊橋以外の地域からも出資を募った[13]。その結果役員も増え[13]、1908年7月福澤桃介(東京)・武田賢治(宝飯郡国府町)・徳倉六兵衛(幡豆郡一色村)・荒川寅之丞(海西郡十四山村)の計4名が取締役に追加された[24]。増員取締役のうち福澤桃介は新規参入者の代表格であり、株式投資で得た資金を電気事業へと投資しつつあった中で創業者三浦碧水のに誘われ豊橋電気にも出資し、当時筆頭株主の地位あった[13]。福澤は3代社長伊東米作(1909年就任)に代わって1910年(明治43年)4代社長に就任し[23]、1912年まで社長、それ以後は専務取締役として三浦の要請で経営改革にあたった[13]。なお福澤は豊橋電気への参入後に名古屋電灯でも株式買収に着手し、その筆頭株主となって1910年より取締役に就任している[25]。
1908年11月、豊橋市の南に接する渥美郡高師村に陸軍第15師団が設置され、次いで翌年4月騎兵第4旅団も迎えた[26]。師団・旅団に所属する歩兵・野砲兵・輜重兵・工兵・騎兵諸隊その他の駐屯により豊橋市は軍都へと姿を変え、同時に消費地としての性格を強めた[26]。豊橋の軍都化は電灯・電力需要の増加をさらに加速させる[15]。豊橋電気では1909年(明治42年)下地町に火力発電所(下地発電所・出力150キロワット)を新設して急場をしのぎつつ、南設楽郡長篠村(現・新城市)にて寒狭川を利用した長篠発電所を新設すると決定[15]。1910年12月27日[27]、傍系会社「寒狭川電気株式会社」を資本金50万円で設立し、同社を通じて長篠発電所を起工した[15]。
翌1911年(明治44年)5月10日、豊橋電気は寒狭川電気を合併し[28]、資本金を倍額の100万円とした[15]。長篠発電所の工事は合併で豊橋電気へと引き継がれ、1912年(明治45年)2月出力500キロワットの発電所として竣工に至った[15]。長篠発電所完成に伴い同年5月料金改定を実施し、16燭灯月額75銭など[注釈 1]と減額[23]。さらに供給力の余力が生じたことから豊橋・下地・高師の3市町村を越えた供給を試み、1911年10月から宝飯郡小坂井村・牛久保町・豊川町(いずれも現・豊川市)にて、1912年4月からは渥美郡二川町(現・豊橋市)および南設楽郡新城町(現・新城市)にて供給を開始[23]。1912年(大正元年)12月には宝飯郡国府町・御油町・赤坂町(現・豊川市)方面でも開業した[30]。これらの結果電灯数が急増し[23]、1910年下期に1万灯を越えたのち、1912年下期には2万灯台に到達した[18]。
豊橋電気の勢力は県外にも拡大した。豊橋の東、静岡県浜名郡新居町における「西遠電気株式会社」の設立である[31]。新居町や白須賀町など浜名湖西部の地域(現・湖西市)では地元有志によって1910年から電気事業の準備が進められていたが、予定していた火力発電よりも受電が有利との判断から豊橋電気と交渉し、電力供給と福澤・三浦ら同社関係者の発起人加入を得た[31]。1912年5月18日、資本金6万円で西遠電気は発足[32]。豊橋電気から受電により1913年(大正2年)1月1日開業し、新居町などへ供給を開始した[31]。
ガス事業の影響
豊橋電気が見代・長篠両発電所を建設して供給を拡大する頃、豊橋市には都市ガス燃焼による灯火、すなわちガス灯も出現した。豊橋瓦斯株式会社(後の中部ガス、現・サーラエナジー)の開業によるものである。
豊橋瓦斯は名古屋瓦斯(現・東邦ガス)の関係者と創業期の豊橋電灯に関わった福谷元次らによって企画され、1909年10月に資本金50万円で設立された[34]。同社は市街地でのガス管工事を行い、半年後の1910年2月1日に開業、ガス供給を開始する[34]。当時の都市ガスはガスこんろ(ガス七輪)や暖炉などの熱利用以外にも灯火(ガス灯)や原動機(ガスエンジン)といった用途があり、豊橋瓦斯でも1910年5月末時点の供給成績は供給戸数971戸に対し灯火用孔口数1720個・熱用孔口数636個・ガスエンジン4基であった[34]。需要の多いガス灯は商店の店頭照明や軒灯として競って利用され、街灯としても市街各所でともされた[34]。
この段階では、ガス灯は電灯に対する競争力を十分持った照明であった[35]。当時普及していた電球は発光部分(フィラメント)に炭素線を用いた炭素線電球であったが、消費電力が大きく、ガス灯と比較すると同じ明るさをともすのに2倍の費用を要した[35]。従って経済性に安全性が加味された場合にのみ電灯が優位に立つという状況であった[35]。ところがガス灯の優位は発光部分に金属線特にタングステン線を用いるタングステン電球が出現すると崩れ去った[35]。タングステン電球は炭素線電球に比べ長寿命・高効率であり、消費電力が約3分の1に低下したことで明るさ当たりの費用もガス灯より若干廉価となったためである[35]。
タングステン電球の導入時期は電気事業者によって異なるが、豊橋電気は比較的早く[35]、1911年10月にタングステン電球使用に関する電灯供給規定を制定して導入を始めた[36]。以後急速に置き換えを進め、1914年(大正3年)には豊橋市内での炭素線電球使用が皆無となっている[36]。電灯の改良に対し、ガス灯を事業の柱とした豊橋瓦斯ではガス料金の値下げや需要開拓に努めた[36]。その後第一次世界大戦による原料石炭価格の高騰からガス灯は競争力を失いガス会社は熱用途の需要開拓に傾注するようになる、というのがガス業界の一般的傾向であるが、豊橋瓦斯の場合は需要家数が1500戸前後で頭打ちながら需要家1戸当たりのガス灯数が1910年代の間は増え続け、市内電灯数の2割程度の数を維持し続けた(1919年末時点では電灯3万灯余りに対し灯火用孔口数6796個)[36]。
大正期の推移
1914年に第一次世界大戦が勃発し、その影響で大戦景気が始まると、豊橋電気の管内でも電灯・電力ともに需要がさらに増加した[13]。1913年12月末時点で電灯2万5065灯・電力供給400馬力(約298キロワット)であった供給成績は[18]、5年後の1918年(大正7年)12月末時点ではともに倍増以上の電灯数5万882灯・電力供給666.5キロワット(電動機・その他電力装置合計)に達した[37]。
大戦中、豊橋電気の供給区域は2度の変化が生じた。一つ目は先に触れた西遠電気の合併である。同社の開業から3年経った1916年(大正5年)1月5日付で合併仮契約を締結し[31]、同年4月1日付で吸収した[38]。合併に伴う豊橋電気の増資額は6万円であり[38]、合併後の資本金は106万円となっている[13]。合併によって豊橋電気は新居町に西遠営業所を置き、静岡県側の事業を直営化した[31]。その一方、同年6月4日付で新城瓦斯との間に見代発電所所属系統に属する電気事業・工作物の売却契約を締結[39]、翌1917年(大正6年)5月1日付で新城瓦斯改め東三電気へと事業を譲渡した[40]。これが二つ目の変化で、事業譲渡により新城町など新城地区への供給が東三電気の手に移っている[41]。
大戦期には1915年11月に長篠発電所の出力が500キロワットから750キロワットへと増強された程度で豊橋電気による発電所新設はなく、反対に翌年までに牟呂・下地両発電所が廃止されている[42]。大戦景気による需要急増のため1916年末には電力の新規供給申し込みを中止せざるを得なくなったが、この時は浜松市などを供給区域とする日英水電との間で供給契約を締結し、1917年1月より同社からの受電を開始することで対応した[13]。次いで見代発電所を東三電気へと譲渡したことで、豊橋電気の自社電源は一旦長篠発電所のみとなった。1918年時点での供給力は長篠発電所に東三電気からの受電270キロワット・日英水電からの受電250キロワットを加えた計1,270キロワットであった[43]。
日英水電からの受電は渥美半島への電力供給にも充てられており[13]、1917年1月半島を南下して田原町豊島(現・田原市豊島町)の三河セメントへと至る送電設備が完成をみた[40]。この三河セメントではセメント工場の原動力として蒸気機関を利用していたが、大戦期の燃料石炭価格高騰の対策として75馬力電動機2台の購入を決定し、1916年4月豊橋電気との間で1キロワット時あたり1銭8厘という廉価で電力を購入するという契約を締結[44]。豊橋電気側の工事終了を待って1917年2月より電動機の運転を始めた[44]。
経営面では、創業者三浦碧水が1915年に死去すると当時専務取締役であった福澤桃介が後継者となって実権を握り、1918年には再び社長に就任した[13]。上記の西遠電気合併や新城地区分離、下地発電所廃止などは、福澤による経営掌握と技師長今西卓の支配人就任によって経営改革が図られた結果とされる[13]。業績も大戦景気を背景に好調であり、積立金や償却費を確保しつつ特別配当を出せるほどで、1917年には年率17パーセントという高配当を記録している[13]。同年7月、94万円の増資を決議し[45]、資本金を200万円へ増強[46]。さらなる需要増加に応ずるため布里発電所を11月着工した[13]。
名古屋電灯との合併へ
大戦終了後も需要増加は続き、1920年(大正9年)12月末時点の供給成績は2年前に比べて電灯数は1.3倍増の6万6319灯、電力供給は1.5倍増の1,032キロワットへと伸長した[4]。
この間、まず1919年(大正8年)7月に建設中の布里発電所(出力500キロワット)が運転を開始[42]。次いで12月、「豊橋電化工業株式会社」から計画を引き継いだ横川発電所を着工した[47]。この豊橋電化工業はカーバイドなどの電気化学工業品製造と電力供給を目的とした会社で、1918年6月21日資本金60万円をもって豊橋市に設立[48]、1919年12月5日付で豊橋電気に合併されていた[49]。合併に伴う豊橋電気の増資は40万円で[49]、資本金は240万円となった[46]。電源増強の動きは他に受電の手配もあり、1919年3月に設立された福澤系の電力会社矢作水力との間で500キロワットの受電を契約した(契約は会社設立前の1918年10月実施、受電開始は1921年初頭)[50]。また供給面では渥美半島の渥美電気・福江電灯へ送電することとなり1919年2月工事を完了した[51]。
供給増の一方で、1920年3月、大戦景気が終焉し戦後恐慌が発生していた。恐慌直前まで豊橋では地場産業の製糸業が盛況で、豊橋電気には工場拡張のための電力供給申し込みが殺到していたが、恐慌発生後は状況が一変し供給を断る需要家が多数生じた[52]。発電所工事中のため一時は会社の先行きが不安視されたが、需要家側には好況期に電力使用権の争奪戦が生じた経験から権利喪失を恐れて電力の使用を中止するものの料金は納める者、あるいは料金未納者から権利を引き取るために代理払込みをなす者もあり、供給力不足の傾向は続いた[52]。
豊橋電気社長の福澤桃介は、1914年12月より名古屋電灯の社長でもあった[53]。社長が共通する名古屋電灯と豊橋電気を合併させる計画は恐慌以来重役間で内々に検討されていたが[54]、地元出資者の反対などがあったようですぐには実施されなかった[55]。その後1920年12月になると合併案がまとまり、12月5日付で合併仮契約締結に至った[54]。契約の主たる内容は以下の通りである[54]。
- 名古屋電灯を合併における存続会社とし、豊橋電気は解散する。
- 存続会社の名古屋電灯は豊橋電気の1920年10月末現在の資産負債状態を基礎として同社の権利義務一切を継承する。
- 合併により名古屋電灯は資本金を4578万円に増加し、その増加分378万円に対し株式7万5600株(額面50円払込株式3万3390株・25円払込株式4万2210株)を発行する。それらを豊橋電気の1920年12月31日現在の株主(株式数は額面50円払込株式2万1200株・25円払込株式2万6800株)に対し持株1株に対し1.575株の割合で交付する。
- 名古屋電灯は豊橋電気の取締役・監査役その他に対する慰労金として計20万円を交付する。
- 名古屋電灯は豊橋電気の従業員に対し特別手当金計5万円を支払う。
名古屋電灯は1918年9月に水力開発部門を木曽電気製鉄(後の大同電力)として切り離し配電事業中心の電力会社となると、周辺事業者の合併を積極化していた[56]。1920年4月にまず一宮市の一宮電気を合併[56]。次いで県境を越えて岐阜市の電力会社岐阜電気の合併に踏み切り[56]、豊橋電気合併手続き着手後の1921年(大正10年)1月に合併を完了している[57]。豊橋電気の合併は岐阜電気に続く3番目であり[56]、名古屋電灯では1920年12月20日に株主総会を開いて豊橋電気合併の承認を得た[57]。
名古屋電灯との合併を審議する豊橋電気側の臨時株主総会は名古屋電灯に1日遅れて12月21日豊橋市内で開かれた[4][54]。その席で社長の福澤は名古屋電灯への合併理由について、目下不足している供給力を補充するには巨額の投資を要するが豊橋電気が置かれている状況では完全な事業遂行が困難なため、と説明している[58]。総会で合併契約は原案通り可決承認された[54]。
合併の余波
豊橋電気は名古屋電灯との合併を取りまとめるのに先立つ1920年5月、恐慌下における電力需要創出策として上水道敷設を計画していた[55]。計画は豊橋電気の電力を利用して豊川から水をくみ上げ豊橋市内へと送水するというものである[52]。この計画はその後立ち消えとなったが[55]、同年9月豊橋市会にて計画承認の可否が検討された際、賛成意見の一方で公共的事業を営利本位の会社に任せることは市民の利益にならないという反対意見もあり、議論は沸騰した[52]。これに続く名古屋電灯との合併発表は、地元資本が外部の資本に吸収されると捉えられて地元豊橋の反発を招く[55]。以前から議論があった電気事業の市営移管に向けた動きが強まり、同年12月16日豊橋市会の議員協議会において全会一致で事業の市営移管が決定された[54]。
豊橋市と豊橋電気の間には、1909年4月8日(当時の豊橋市長は大口喜六)に締結された報償契約が存在した[54]。これは締結から20年間、会社が市内での事業で生じる利益金のうち1.7パーセントを報償金として市へ納付する一方、それと引き換えに市は自身が所有・管理する道路・橋梁その他を会社が独占的に利用することを認める、という内容であった[54]。報償契約には会社が他社と合併する場合は市の承認を要するという条項もあり[54]、これに従って豊橋電気は株主総会での合併決議が終わると直ちに市へ合併承認を求めた[59]。市が市営化の具体案を検討中で、まだ合併承認も与えていない中の1921年2月5日、名古屋電灯は市内料亭にて細谷忠男豊橋市長らを招いて合併披露宴を開催する[59]。その翌日、市では市による事業買収権を報償契約に追加するならば合併を承認すると提起した[59]。
名古屋電灯と豊橋電気の合併については1921年3月29日付で逓信省からの合併認可が下りた[57]。そして同年4月20日に名古屋電灯側で合併報告総会が開かれて合併手続きが完了[57]、同日をもって豊橋電気は解散した[3]。合併により豊橋市には名古屋電灯豊橋営業所が置かれた[60]。
合併成立後も報償契約改定・事業市営化についての交渉が市と名古屋電灯との間で続けられたが、交渉は進展せず、1921年7月29日、豊橋市会は交渉の経過を公表した上で名古屋電灯・豊橋電気合併の不承認を全会一致で決議した[59]。不承認決議を機に豊橋市民の間でも市営化に応じない名古屋電灯を非難する声が高まり、市会議員による演説会や新聞社主宰の市民大会が相次ぎ開催されるようになる[60]。やがて争点は電気料金の値下げ[注釈 2]へと移行していき、「電気料金値下期成同盟会」が発足[60]。さらには市会に強固な地盤を持つ元豊橋電気相談役大口喜六が率いる「同志派」に対する攻撃へと発展し、政治問題と化していった[60]。期成同盟会は名古屋電灯と交渉するが、川口彦治愛知県知事が仲裁に入り、知事から委嘱された宝飯郡長・豊橋警察署長により調停を開始[60]。1921年10月、翌年7月から電灯料金を引き下げる[注釈 3]、合併記念として公会堂を建築して市に寄付する、といった内容の仲裁案が示され、同盟会・会社側ともにこれを受諾、同盟会は11月に報告演説会を開いて運動の終結と勝利を宣言して一連の「電価争議」は一応の決着をみた[60]。
市営化問題に関し、豊橋電気社内で市営化賛成論を唱えていた専務取締役武田賢治と支配人今西卓の2名は合併を機に独立、新たに「豊橋電気信託」という会社を立ち上げて1921年11月に渥美半島の渥美電気・福江電灯両社を統合した[64]。同社は翌1922年(大正11年)に社名を変更し、「豊橋電気」という社名を引き継いでいる[64]。一方(旧)豊橋電気を吸収した名古屋電灯はその後も合併路線を突き進み、奈良県の関西水力電気と合併して関西電気となったのち、翌1922年に九州の九州電灯鉄道などを合併して、中京・九州地方を地盤とする大手電力会社東邦電力へと発展する[65]。以後豊橋区域の電気事業は東邦電力によって経営されるが、1930年(昭和5年)から1937年(昭和12年)までの間は西三河の岡崎電灯との統合による中部電力(岡崎)という会社の管轄下に置かれた[66]。
年表
- 1893年(明治26年)
- 1894年(明治27年)
- 1896年(明治29年)
- 1897年(明治30年)
- 下期 - 2万5000円の増資を実施、資本金5万円となる[15]。
- 1906年(明治39年)
- 1907年(明治40年)
- 1908年(明治41年)
- 1909年(明治42年)
- 1911年(明治44年)
- 1912年(明治45年)
- 1915年(大正4年)
- 1916年(大正5年)
- 1917年(大正6年)
- 1919年(大正8年)
- 1920年(大正9年)
- 1921年(大正10年)
- 1922年(大正11年)
供給区域
1914年時点区域一覧
豊橋電気の1914年(大正3年)5月末時点における電灯・電力供給区域は以下の愛知県下29市町村であった[72]。
市部 | 豊橋市 |
---|---|
渥美郡 (1町2村) |
二川町・高師村・牟呂吉田村(現・豊橋市) |
宝飯郡 (6町8村) |
下地町・前芝村(現・豊橋市)、 小坂井村・牛久保町・豊川町・一宮村・八幡村・国府町・御油町・赤坂町・長沢村・萩村・御津村(現・豊川市)、大塚村(現・豊川市・蒲郡市) |
八名郡 (7村) |
三上村・橋尾村・豊津村・金沢村(現・豊川市)、 下川村・賀茂村・石巻村(現・豊橋市) |
南設楽郡 (1町3村) |
新城町・千郷村・東郷村・作手村(一部)(現・新城市) |
備考
- 供給区域には未開業区域を含む。この時点での未開業区域は宝飯郡一宮村・八幡村・長沢村・萩村、南設楽郡千郷村、八名郡全村の計12村である[72]。
- 供給区域外では静岡県浜名郡白須賀町にて西遠電気へ電力を供給した[72]。西遠電気の供給区域は浜名郡新居町(一部)・白須賀町・吉津村・新所村・入出村(現・湖西市)[73]。
- 1917年5月新城地区の電気事業譲渡に伴い宝飯郡のうち一宮村、八名郡のうち橋尾・金沢・賀茂・石巻の4村(他に八名村も追加)、および南設楽郡の4町村は東三電気の供給区域となっている[74]。
1919年時点区域一覧
豊橋電気の1919年(大正8年)12月末時点における電灯・電力供給区域は以下の愛知・静岡両県下27町村であった[47][75]。
愛知県 | 市部 | 豊橋市 |
---|---|---|
渥美郡 (1町4村) |
二川町・高師村・牟呂吉田村・老津村(現・豊橋市)、杉山村(現・豊橋市・田原市) | |
宝飯郡 (6町7村) |
下地町・前芝村(現・豊橋市)、 小坂井村・牛久保町・豊川町・八幡村・国府町・御油町・赤坂町・長沢村・萩村・御津村(現・豊川市)、大塚村(現・豊川市・蒲郡市) | |
八名郡 (2村) |
三上村(現・豊川市) 下川村(現・豊橋市) | |
静岡県 | 浜名郡 (2町4村) |
新居町(一部)・白須賀町・吉津村・新所村・入出村・知波田村(現・湖西市) |
備考
- 浜名郡新居町は弁天島の部分が供給区域外(日英水電区域)である[31]。
- 供給区域には未開業区域を含む。この時点での未開業区域は宝飯郡萩村のみ[47]。供給開始は遅く、東邦電力時代の1923年(大正12年)のことである[76]。
- 供給区域外では、渥美郡田原町(現・田原市)で三河セメント、神戸村(同)で渥美電気・福江電灯へ電力を供給する[75]。
名古屋電灯との合併直前、1920年12月末時点における開業済み区域は上記26町村から増減はない[4]。同時点での供給成績は電灯が需要家数2万9183戸・電灯数6万6319灯(925.5キロワット)、電力が電動機472台・計1,236馬力(922キロワット)、その他電力装置20台・計10キロワット、電気事業者供給100キロワットの合計1,032キロワットであった[4]。市町村別に見ると需要は豊橋市が最も多く、電灯では全体の52パーセントにあたる3万4193灯、電動機用電力では全体の40パーセントにあたる490.5馬力が市内に集中する[4]。電灯数の次点は渥美郡高師村だがそれでも5152灯に過ぎない[4]。
備考:豊橋市域での供給
上表にある通り、1955年以降の現行豊橋市域のうち豊橋電気が供給した範囲は旧豊橋市のほか二川・高師・牟呂吉田・老津・杉山・下地・前芝・下川の8町村である。
区域外のうち北部の旧八名郡石巻村・賀茂村は東三電気の供給区域に入った[74]。ただし石巻村のうち1932年に豊橋市へ編入される大字多米については1925年(大正14年)10月より豊橋電気後身の東邦電力が供給を始めている[77]。また遠州灘沿いの旧渥美郡高豊村は採算面の問題から村全体が長く配電されない状態にあったが、東邦電力時代の1923年1月より給電が始まった[78]。
発電所
牟呂発電所
豊橋電灯が1894年(明治27年)4月の開業に際して設置した発電所は梅田川発電所という。豊橋近郊を流れる梅田川に設けられた水力発電所であり、所在地は渥美郡高師村字車(現・豊橋市浜道町字車)[10]。県への出願内容および当時の専門誌『電気之友』によると、設備は東京三吉電機工場製で、水車はレッフェル型水車、発電機は出力15キロワット(16燭灯300灯相当)・電圧2,000ボルトの単相交流発電機であった[10]。ところがこの発電所は水量不足のため満足な発電ができず[10]、結局三吉製のボイラー・蒸気機関(出力25馬力)を設置し火力発電を併用せざるを得なかった[14]。
失敗に終わった梅田川発電所の代替として建設された発電所が牟呂発電所である。所在地は渥美郡牟呂村大西(現・豊橋市牟呂大西町)[15]。牟呂用水を利用する水力発電所で、用水路に水門を置き、その若干下流の左岸側に建屋を構えた[10]。運転開始は1896年(明治29年)4月下旬[16]。水力発電所であるが梅田川発電所と同様に水量不足という欠陥が生じ、完成2か月後には蒸気機関が追加されて火力発電中心の発電所とされている[10]。
『電気之友』によると、発電所設備はボイラー・蒸気機関各2台、ハーキュルス型50馬力水車1台、ホプキンソン型30/50キロワット単相交流発電機各1台を備えた[10]。2台の発電機のうち運転開始時からのものは30キロワット発電機で、需要増加のため1900年(明治33年)に50キロワット機で置き換えたのち、1905年(明治38年)4月蒸気機関増設により旧発電機を再稼働させて発電所出力を80キロワットへと増強する、という過程を経ている[10]。製造は初期設備が三吉電機工場、増設分が芝浦製作所(現・東芝)である[10]。
下記長篠発電所の完成後、1915年(大正4年)9月1日付で廃止許可が下り廃止された[69]。遺構として牟呂用水に水門が残る[10](北緯34度45分15.0秒 東経137度21分21.5秒)。
見代発電所
日露戦争後の需要増加にあたり、豊橋電気では新発電所として見代発電所(けんだいはつでんしょ)を建設した[15]。豊橋から北へ約20キロメートル離れた愛知県南設楽郡作手村大字保永(現・新城市作手保永)字四郎田にあり、豊川(寒狭川)支流巴川から取水する水力発電所であった[22]。
逓信省の資料によると1906年(明治39年)10月に水利権を取得[79]。2年後の1908年(明治41年)5月に運転を開始した[42]。発電設備はペルトン社製ペルトン水車にウェスティングハウス・エレクトリック製三相交流発電機(周波数60ヘルツ)という組み合わせで[80]、当初は1組の設置であったが1910年(明治43年)に1組増設され2台体制となっている[22]。発電所出力は当初250キロワット、増設後は360キロワットであり、その発生電力は10キロボルトの電圧で豊橋近郊の宝飯郡下地町(現・豊橋市下地町)に置かれた新設変電所へと送電された[22]。
こうして完成した見代発電所も従来の発電所と同様に不具合があり、設計時に水量測定を誤ったため渇水時には出力が200キロワット程度へと減少する、水路に木樋を多用したため水路維持管理に費用・労力を要する、といった欠点を持った[22]。また発電所完成により、1909年1月より見代集落21戸に電灯がついた[81]。新城町内の点灯よりも早く、奥三河で最初の電灯である[81]。
1917年(大正6年)5月に豊橋電気から東三電気へ売却された[41]。その後発電所は三河水力電気、中央電力、中部配電と渡り、中部電力によって1959年(昭和34年)6月に廃止された[42]。
下地発電所
先に触れた見代発電所からの送電線が繋がる下地町の変電所には、渇水時に発生する見代発電所の発電力低下を補給するための火力発電所として下地発電所が併設された[82]。運転開始は見代発電所運転開始に続く1909年(明治42年)[42]。ボイラー2台に250馬力蒸気機関1台、出力150キロワットの単相交流発電機1台を備えた[80]。これら主要設備はすべて芝浦製作所製である[80]。
使用期間は短く、牟呂発電所に続いて1916年(大正5年)9月5日付で廃止許可が下り廃止された[70]。
長篠発電所
豊橋電気では、1910年代以降は豊川上流部の寒狭川に3つの水力発電所を新設することで発電力を増強していった。この3か所のうち最初に建設されたのが長篠発電所である。所在地は寒狭川左岸の[83]、南設楽郡長篠村大字横川字神田[84](現・新城市横川 北緯34度56分23.2秒 東経137度32分59.0秒)。傍系会社寒狭川電気を通じて開発に着手した地点であり[15]、1903年(明治36年)12月に水利権を取得[79]、1910年12月起工ののち1912年(明治45年)2月26日をもって竣工した[68]。逓信省からの使用認可は同年3月25日付である[68]。
長篠発電所は河川勾配(落差)が少なく洪水位は高いという立地面での不利を補うため、発電機を洪水位より高い位置に置きつつ水車はできる限り低い位置に置くという縦軸式水車発電機が採用された[85]。ナイアガラの滝にある同種の発電所にちなんで「ナイアガラ式発電所」と呼ばれる構造である[85]。水車はフォイト製フランシス水車、発電機はシーメンス製500kW三相交流機を採用[85][84]。当初は1組の設置であったが、1914年4月に増設工事が竣工し2組となった[86]。発電所出力は当初500キロワット、1915年11月の変更以後は750キロワットである[42]。送電線は11キロボルト線を見代発電所から豊橋方面へ伸びる送電線の途中に接続した[83]。
発電所は中部電力(岡崎)・東邦電力・中部配電を経て中部電力に継承されているが[42]、豊橋電気時代からの発電所建屋・設備は1947年(昭和22年)に落雷で全焼した[87]。
布里発電所
寒狭川で2番目の水力発電所は布里発電所(ふりはつでんしょ)である。所在地は南設楽郡鳳来寺村大字布里字厚ノ久保(現・新城市布里 北緯34度58分50.8秒 東経137度32分8.9秒)で、先に建設された長篠発電所の上流側にあたる[41]。1916年(大正5年)5月に水利権を取得し[79]、翌1917年11月着工[13]。1年半後の1919年(大正8年)7月3日付で完成後の検査を終え仮使用認可を得た[47]。
設備は縦軸フランシス水車に700kW三相交流発電機という組み合わせで、設置数は1組[84]。長篠発電所と同種の縦軸式水車発電機だが、第一次世界大戦の影響で国外からの機器輸入が途絶えたためメーカーは水車が電業社、発電機が芝浦製作所にそれぞれ変更された[85]。ただし完全な同型ではなく、水車のケーシングが単純な構造のコンクリート室(露出型水車)へと簡素化されている[85]。発電所出力は500キロワットで[42]、発生電力は布里発電所完成に伴い33キロボルトへ昇圧された送電線(33キロボルト区間は長篠 - 豊橋間[84])で豊橋方面へ送られた[41]。
長篠発電所と同様の変遷をたどって戦後中部電力に継承された[42]。豊橋電気時代からの設備は1983年(昭和58年)の改修まで使用されている[88]。
横川発電所
寒狭川で3番目の水力発電所は横川発電所である。布里発電所と長篠発電所の中間、長篠村大字横川字大久保(北緯34度57分19.5秒 東経137度32分53.8秒)に位置する[41]。元は豊橋電化工業という別会社が計画した発電所で[47]、1918年(大正7年)7月に水利権を得たのち[79]、同社を吸収した豊橋電気によって1919年12月25日着工された[47]。豊橋電気時代には完成に至らず、関西電気時代の1921年(大正10年)12月31日付で使用認可を得て運転を開始した[71]。以後、横川発電所を最後に水量の少ない豊川水系では発電所建設が行われなくなった[88]。
設備は縦軸フランシス水車と900kW三相交流発電機の組み合わせで、設置数は1組[84]。布里発電所と同じく電業社製水車・芝浦製作所製発電機であり、水車が露出型という点も同様である[85]。発電所出力は800キロワット[42]。長篠発電所と同様の変遷をたどって中部電力に継承され[42]、豊橋電気時代からの設備は1987年(昭和62年)の改修まで使用された[88]。
人物
社長
豊橋電気の歴代社長は以下の4人である。
- 初代 - 杉田権次郎
- 1894年(明治27年)2月会社設立とともに就任[7]。8人いた発起人の1人[7]。三浦町で魚商を営み[8]、豊橋銀行頭取を兼ねた[89]。1895年10月没[89]。
- 2・5代 - 三浦碧水
- 1896年(明治29年)就任[15]。発起人の1人[7]。会社設立時は八町で活版印刷業を営む[8]。元吉田藩士で、維新後は豊橋町長(初代・4代)や愛知県会議員、衆議院議員(1894年第3回総選挙当選)など公職を歴任、1895年からは豊橋商業会議所会頭も務めた[17]。1915年(大正4年)の死去時も豊橋電気社長の座にあった[13]。
- 3代 - 伊東米作
- 1909年(明治42年)就任[23]。発起人の1人[7]。萱町で米穀商を営むほか[8]、市会議員や豊橋貯蓄銀行頭取を務めた[89]。1910年没[89]。
- 4・6代 - 福澤桃介
- 1910年(明治43年)就任[23]。当時の筆頭株主[13]。1912年以降は専務取締役で、1918年(大正7年)社長へと戻った[13]。以来名古屋電灯との合併まで社長を務める[55]。
専務
社長の下に専務取締役も置かれた。1907年時点では豊橋市紺屋の外山芳太郎が在任[90]。1909年末時点では社長伊東米作の下で宝飯郡国府町の武田賢治が専務を務める[91]。翌1910年初頭の段階では社長福澤桃介の下に専務は不在だが[92]、1912年初頭時点では幡豆郡一色村の徳倉六兵衛が在任する[93]。
1912年から専務を務めた福澤桃介が社長へ復帰した後、1919年初頭時点では武田賢治が再び専務を務めている[94]。
末期の役員一覧
名古屋電灯との合併直前、1921年初頭時点の取締役・監査役と支配人は以下の陣容であった[95]。
- 取締役社長 : 福澤桃介 - 東京。1908年7月取締役就任[24]。名古屋電灯社長兼務。
- 専務取締役 : 武田賢治 - 宝飯郡国府町。1908年7月取締役就任[24]。家業は医者[96]。
- 取締役 :
- 監査役 :
- 支配人 : 今西卓 - 豊橋市。1908年京都帝国大学理工科大学電気工学科卒、技師長として入社[96]。
脚注
注釈
- ^ 逓信省の資料によると、電灯料金は定額灯が5燭灯45銭・10燭灯60銭・16燭灯75銭(いずれも月額)、従量灯が1キロワット時あたり17銭。電力料金は昼夜間定額の場合1馬力につき月15円。この段階では電灯料金は名古屋電灯よりも安い[29]。
- ^ 物価・賃金高騰を理由に1920年1月より電気料金を引き上げていた[61]。改定後の料金は、定額灯が5燭灯65銭・10燭灯75銭・16燭灯90銭(いずれも月額・器具損料込み)、従量灯が1キロワット時あたり20-19銭、昼夜間の定額電力料金が1馬力月額15円[62]。
- ^ 実際には1923年12月から改定。16燭灯以上の高燭光灯の値下げで、16燭灯の場合月額5銭の減[63]。
出典
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- ^ a b c 「商業登記 豊橋電気株式会社解散」『官報』第2692号附録、1921年7月21日付。NDLJP:2954807/35
- ^ a b c d e f g h 「豊橋電気株式会社第54回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
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- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 石田正治「牟呂発電所遺構の調査研究」
- ^ a b c d e f g h i 『豊橋市史』第八巻609-619頁(「豊橋電燈株式会社発起認可願」「電燈点火営業御允許願 謄本」「豊橋電燈株式会社設立免許申請書」)
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参考文献
企業史
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自治体資料
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- 作手村誌編集委員会(編)『作手村誌』 本文編、新城市、2010年。
- 高豊史編纂委員会(編)『高豊史』高豊史編纂委員会、1982年。
- 豊橋市史編集委員会(編)
- 『豊橋市史』 第三巻近代編、豊橋市、1983年。
- 『豊橋市史』 第四巻現代編、豊橋市、1987年。
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- 豊橋百科事典編集委員会(編)『豊橋百科事典』豊橋市文化市民部文化課、2006年。
その他書籍
- 商業興信所 『日本全国諸会社役員録』
- 人事興信所(編)『人事興信録』 第5版、人事興信所、1918年。NDLJP:1704046。
- 手島益雄『続名古屋百人物評論』日本電報通信社名古屋支局、1915年。NDLJP:954764。
- 豊橋商工会議所(編)『豊橋商工会議所五十年史』豊橋商工会議所、1943年。NDLJP:1067832。
- 豊橋市立商業学校(編)『開校廿周年記念東三河産業功労者伝』豊橋市立商業学校、1943年。NDLJP:1705146。
- 中村十郎(編)『挙市一致経済的大運動 豊橋電気問題之真相』豊橋電気問題研究所、1921年。NDLJP:963639。
- 日本電気協会 『日本電業者一覧』
- 野村商店調査部(編)『株式年鑑』 大正9年度、野村商店調査部、1920年。NDLJP:975422。
- 芳賀信男『東三河地方電気事業沿革史』芳賀信男、2001年。
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記事
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- 杉浦雄司・石田正治「ナイアガラ式発電所を築いた今西卓」『シンポジウム中部の電力のあゆみ』第4回講演報告資料集(電気技術の開拓者たち)、中部産業遺産研究会、1996年、21-39頁。
- 浅野伸一「水力技師大岡正の人と業績」『シンポジウム中部の電力のあゆみ』第4回講演報告資料集(電気技術の開拓者たち)、中部産業遺産研究会、1996年、40-85頁。