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[[622年]]([[武徳]]5年)、[[唐]]により[[儋耳郡]]は儋州と改められた。[[742年]]([[天宝 (唐)|天宝]]元年)、儋州は'''昌化郡'''と改称された。[[758年]]([[乾元 (唐)|乾元]]元年)、昌化郡は儋州の称にもどされた。儋州は[[安南都督府]]に属し、[[儋州市|義倫]]・[[昌江リー族自治県|昌化]]・[[東方市|感恩]]・[[儋州市|洛場]]・[[臨高県|富羅]]の5県を管轄した<ref>『[[旧唐書]]』地理志四</ref>。 |
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[[1073年]]([[熙寧]]6年)、[[北宋]]により儋州は'''昌化軍'''と改められた。[[南宋]]の[[端平]]年間に昌化軍は'''南寧軍'''と改称された。南寧軍は[[広南西路]]に属し、[[儋州市|宜倫]]・昌化・感恩の3県を管轄した<ref>『[[宋史]]』地理志六</ref>。 |
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[[元 (王朝)|元]]のとき、南寧軍は[[湖広等処行中書省]]に属し、宜倫・昌化・感恩の3県を管轄した<ref>『[[元史]]』地理志六</ref>。 |
[[元 (王朝)|元]]のとき、南寧軍は[[湖広等処行中書省]]に属し、宜倫・昌化・感恩の3県を管轄した<ref>『[[元史]]』地理志六</ref>。 |
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[[清]]のとき、儋州は瓊州府に属し、属県を持たない散州となった<ref>『[[清史稿]]』地理志十九</ref>。 |
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[[1912年]]、[[中華民国]]により儋州は廃止され、[[儋州市|儋県]]と改められた。 |
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== 脚注 == |
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2021年7月4日 (日) 12:58時点における版
儋州(だんしゅう)は、中国にかつて存在した州。唐代から民国初年にかけて、現在の海南省西部に設置された。
概要
622年(武徳5年)、唐により儋耳郡は儋州と改められた。742年(天宝元年)、儋州は昌化郡と改称された。758年(乾元元年)、昌化郡は儋州の称にもどされた。儋州は安南都督府に属し、義倫・昌化・感恩・洛場・富羅の5県を管轄した[1]。
1073年(熙寧6年)、北宋により儋州は昌化軍と改められた。南宋の端平年間に昌化軍は南寧軍と改称された。南寧軍は広南西路に属し、宜倫・昌化・感恩の3県を管轄した[2]。
元のとき、南寧軍は湖広等処行中書省に属し、宜倫・昌化・感恩の3県を管轄した[3]。
1368年(洪武元年)、明のとき、南寧軍は儋州と改められた。儋州は瓊州府に属し、昌化県を管轄した[4]。
清のとき、儋州は瓊州府に属し、属県を持たない散州となった[5]。
1912年、中華民国により儋州は廃止され、儋県と改められた。