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== 人物 ==
== 人物 ==
* 西武に移籍してきた[[江夏豊]]が、球団で唯一慕っていたコーチである。その江夏が在籍した1984年はリーグ優勝を逃し、翌シーズンはその責任をとらされ二軍コーチに降格させられてしまうが、後に八木沢はインタビューで「二軍降格は自らの志願だった」と答えている<ref>ムック「埼玉西武ライオンズ 黄金投手陣の軌跡」(2013年、[[ベースボール・マガジン社]])</ref>。
* 西武に移籍してきた[[江夏豊]]が、球団で唯一慕っていたコーチである。その江夏が在籍した1984年はリーグ優勝を逃し、翌シーズンはその責任をとらされ二軍コーチに降格させられてしまうが、後に八木沢はインタビューで「二軍降格は自らの志願だった」と答えている<ref>ムック「埼玉西武ライオンズ 黄金投手陣の軌跡」(2013年、[[ベースボール・マガジン社]])</ref>。
* [[野村克也]]が阪神監督就任時、[[尾花髙夫|尾花高夫]]に一軍投手コーチとして声をかけていた。尾花本人も行動を共にすることを希望していたが、尾花は[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]のコーチに就任。阪神の一軍投手コーチを誰にするか迷った時、友人の[[森祇晶]]が八木沢を推薦したため就任に至ったという経緯がある。
* [[野村克也]]が阪神監督就任時、[[尾花高夫]]に一軍投手コーチとして声をかけていた。尾花本人も行動を共にすることを希望していたが、尾花は[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]のコーチに就任。阪神の一軍投手コーチを誰にするか迷った時、友人の[[森祇晶]]が八木沢を推薦したため就任に至ったという経緯がある。
* 野村からは親しみをこめて「ロクさん」と呼ばれていた一方で、自身と同じ年に阪神へ入団した[[藤川球児]]とは反りが合わず、藤川が八木沢の退団後に出された自著<ref>現役時代(野村・八木沢が阪神を退団後)の2009年にベースボール・マガジン社から刊行された『未熟者』および、現役引退後の2021年に[[日本実業出版社]]から刊行された『火の玉ストレート』。</ref>では実名を伏せながらもコーチ在任中の態度や扱いを批判されている。藤川が入団2年目の{{by|2000年}}、秋季二軍キャンプ中に床へ肘を付けた状態で腕立て伏せを繰り返していたところに、ランチを済ませて偶然通りかかった投手コーチ(八木沢)から『そのやり方はなんだ。肘なんか付くな』と言われた<ref name="はじめて感じた社会の不条理">『火の玉ストレート』第Ⅰ章「努力は人生を裏切らない」pp.24 - 28「はじめて感じた社会の不条理」</ref>。当時は右肘の状態が思わしくなかったので、トレーニングコーチからの了解を得たうえで、同僚の投手数名と肘を付いての腕立て伏せに取り組んでいた<ref name="はじめて感じた社会の不条理" />。投手コーチにもこのような事情を話したところ、爪楊枝をくわえながら自分だけに向けて高圧的な口調で『うるせえ、俺が「(肘を付けずに腕立て伏せを)やれ」と言ったらやれ』と迫ってきたので、『あんたのためにやってるんじゃない』と思わず言い返してしまった<ref name="はじめて感じた社会の不条理" />。そのコーチには後日詫びを入れたのだが、翌2001年にはシーズン中に一軍へ呼ばれず、シーズンの終盤には(当時二軍監督であった)[[岡田彰布]]から『藤川を一軍へずっと推薦してきたけれど、投手コーチが推薦をはねつける』と打ち明けられた」という<ref name="はじめて感じた社会の不条理" />。
* 野村からは親しみをこめて「ロクさん」と呼ばれていた一方で、自身と同じ年に阪神へ入団した[[藤川球児]]とは反りが合わず、藤川が八木沢の退団後に出された自著<ref>現役時代(野村・八木沢が阪神を退団後)の2009年にベースボール・マガジン社から刊行された『未熟者』および、現役引退後の2021年に[[日本実業出版社]]から刊行された『火の玉ストレート』。</ref>では実名を伏せながらもコーチ在任中の態度や扱いを批判されている。藤川が入団2年目の{{by|2000年}}、秋季二軍キャンプ中に床へ肘を付けた状態で腕立て伏せを繰り返していたところに、ランチを済ませて偶然通りかかった投手コーチ(八木沢)から『そのやり方はなんだ。肘なんか付くな』と言われた<ref name="はじめて感じた社会の不条理">『火の玉ストレート』第Ⅰ章「努力は人生を裏切らない」pp.24 - 28「はじめて感じた社会の不条理」</ref>。当時は右肘の状態が思わしくなかったので、トレーニングコーチからの了解を得たうえで、同僚の投手数名と肘を付いての腕立て伏せに取り組んでいた<ref name="はじめて感じた社会の不条理" />。投手コーチにもこのような事情を話したところ、爪楊枝をくわえながら自分だけに向けて高圧的な口調で『うるせえ、俺が「(肘を付けずに腕立て伏せを)やれ」と言ったらやれ』と迫ってきたので、『あんたのためにやってるんじゃない』と思わず言い返してしまった<ref name="はじめて感じた社会の不条理" />。そのコーチには後日詫びを入れたのだが、翌2001年にはシーズン中に一軍へ呼ばれず、シーズンの終盤には(当時二軍監督であった)[[岡田彰布]]から『藤川を一軍へずっと推薦してきたけれど、投手コーチが推薦をはねつける』と打ち明けられた」という<ref name="はじめて感じた社会の不条理" />。
* [[伊原春樹]]とは西武・阪神でコーチとして同僚となり、伊原が西武監督時はキャンプで臨時コーチを務めた。オリックス監督時も一軍投手コーチとして招聘され、2004年に就任。前年のオリックスはチーム防御率5.95、年間最多被安打1534、最多失点927、最多自責点819と投手陣が大崩壊状態であった。八木沢に投手陣再建の手腕が託されたが、同年もチーム防御率が5.66を記録。2年連続5点台という結果に終わり、伊原と共に同年限りで辞任。
* [[伊原春樹]]とは西武・阪神でコーチとして同僚となり、伊原が西武監督時はキャンプで臨時コーチを務めた。オリックス監督時も一軍投手コーチとして招聘され、2004年に就任。前年のオリックスはチーム防御率5.95、年間最多被安打1534、最多失点927、最多自責点819と投手陣が大崩壊状態であった。八木沢に投手陣再建の手腕が託されたが、同年もチーム防御率が5.66を記録。2年連続5点台という結果に終わり、伊原と共に同年限りで辞任。

2021年8月23日 (月) 05:53時点における版

八木沢 荘六
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 栃木県日光市
生年月日 (1944-12-01) 1944年12月1日(80歳)
身長
体重
172 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1966年 第2次ドラフト1位
初出場 1967年8月11日
最終出場 1979年10月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

八木沢 荘六(やぎさわ そうろく、1944年12月1日 - )は、栃木県今市市(現・日光市)出身の元プロ野球選手投手)・コーチ監督解説者。現・全国野球振興会理事長。

史上13人目の完全試合達成者。

来歴

プロ入りまで

実家は製材所を経営し[1]、父親の善吉は今市市の市長も務めた。祖父が明治期の陸軍参謀総長・川上操六を尊敬していたため[2]、「荘六」の名になった。作新学院では2年次の1961年春の選抜で初出場を果たすと、1回戦に先発して柏原高を完封するが、2回戦はリリーフに回って高松商に敗退。3年次の1962年には春の選抜にエースとして出場し、準々決勝では八幡商を延長18回引き分け再試合の末に降す。準決勝に進んで松山商山下律夫との投手戦となるが、控え投手であった加藤斌のリリーフもあって延長16回で辛勝。決勝では倍賞明らのいた日大三高を完封で降し初優勝を飾ると、作新は同年夏の甲子園も制して史上初の甲子園春夏連覇を果たすが、八木沢は大会前に体内から赤痢菌が検出されて出場できなかった。準々決勝から復帰してベンチ入りしていたが、加藤が主戦投手となった。高校同期に高山忠克中野孝征、1期上に島野育夫がいた。

高校卒業後は1963年早稲田大学へ進学し、東京六大学野球リーグでは在学中に3度の優勝に貢献するなどエースとして活躍。3年次の1965年にはマニラで開催された第6回アジア野球選手権大会に出場し、日本代表となった東京六大学選抜チームの優勝に貢献。リーグ通算52試合登板、24勝12敗、防御率1.54、176奪三振、ベストナイン2回。第56代主将も務めた。大学同期に西田暢がいる。

現役時代

1966年の第2次ドラフト東京オリオンズから6位に指名され、大学卒業後の1967年に入団。

1969年には一軍に定着し、先発・中継ぎで活躍。

1970年にはチーム最多の43試合に登板し、10年ぶりのリーグ優勝に貢献すると、巨人との日本シリーズでも2試合にリリーフで登板。

1973年10月10日太平洋戦ダブルヘッダー第1試合(宮城)で史上13人目の完全試合を達成する。この試合は、中継ぎ登板が多く規定投球回に足りなかった八木沢に、最高勝率のタイトルを取らせるべく投球回数を稼ぐために先発した試合であった。この後、八木沢は目論見どおり規定投球回に到達し、7勝1敗で最高勝率のタイトルを獲得。7勝は最高勝率を獲得した投手の中では最少であり、1986年以降は「規定投球回到達有無に関係なく13勝以上」という規定ができたため、この規定が存在する限り更新されることはない。同年の完投は完全試合の1試合のみであり、完封に至ってはプロ入り7年目で初だった。八木沢は元々ダブルヘッダーの第2試合に先発の予定であったが、第1試合に先発する予定であった村田兆治が寝違えて首を痛めたため、急遽第1試合に先発することになった。完全試合の日はカウントボール3までいったケースは一度もなかったが、これは15回ある完全試合の中で唯一の記録である。

1974年は12試合に先発として起用され、自身2度目のリーグ優勝を経験。中日との日本シリーズでも2試合に中継ぎとして登板し、24年ぶりの日本一に寄与した。

1976年からは主に先発として起用され、同年は自己最多で初の2桁となる15勝をマーク。

1977年には2年連続2桁の11勝をマーク。

1978年には「お前はもう限界」と金田正一監督に強制引退させられるが、投手陣のリーダー格であったことから選手たちが猛反発。

1979年に復帰した。同年6月9日近鉄戦(日生)でチャーリー・マニエルの顔面に死球を当て、マニエルは顎の骨を複雑骨折する重傷を負った[3]。この悲劇は、薄暮ゲームであったためボールが見辛く、マニエルが避け損ねたことも一つの要因だと言われている[4]。マニエルが復帰した後に「和解」の場が持たれたが、故意にボールを当てたという疑念(ロッテ側は否定)を持っていたマニエルは八木沢と握手をしなかった。同年引退。

引退後

引退後はロッテ(1980年二軍投手コーチ, 1992年 - 1994年8月2日監督)、西武1981年 - 1984年・1986年 - 1991年一軍投手コーチ, 1985年二軍投手コーチ)、横浜1995年一軍投手コーチ)、巨人1997年 - 1998年二軍投手コーチ)、阪神1999年 - 2001年一軍投手コーチ)、オリックス2004年一軍投手コーチ)、四国IL2005年巡回コーチ)、東京ガス[5]2006年 - 2007年投手コーチ)、ヤクルト2008年 - 2010年二軍投手コーチ)、BCリーグ群馬2011年 - 2012年投手コーチ[6], 2013年特別アドバイザー)で監督・コーチを歴任。指導者生活の合間を縫って、フジテレビNight Game/Daylight Game&プロ野球ニュース」・ニッポン放送ショウアップナイター」(1996年)、ラジオ日本ジャイアンツナイター」(2002年 - 2003年)で解説者を務めた。

コーチ時代は指導力を発揮し、中西太山内一弘水谷実雄高畠康真(いずれも打撃コーチ)などと並び「12球団巡回コーチ」と呼ばれた。千葉に移転した新生ロッテの監督に抜擢されるとチーム成績は振るわず、監督3年目の1994年に成績不振のため8月2日をもって休養、中西太ヘッドコーチが代理監督となった。テリー伊藤は自身の著書の中で「戦いなき古典芸能野球を演出した『能面』監督」と評している[7]。阪神時代は投球フォームの研究に余念がなく、選手へのアドバイスは的確であった[8]。東京ガスコーチ時代は木村雄太にカーブを伝授し、自身の古巣であるロッテに送り出した[9]2014年、同年2月6日に死去した森徹の後を受けて2月11日日本プロ野球OBクラブ理事長に就任[10]。前述の死球事件を教訓に、アマチュア野球でもフェイスガードを解禁して欲しいと訴えている[11]

人物

  • 西武に移籍してきた江夏豊が、球団で唯一慕っていたコーチである。その江夏が在籍した1984年はリーグ優勝を逃し、翌シーズンはその責任をとらされ二軍コーチに降格させられてしまうが、後に八木沢はインタビューで「二軍降格は自らの志願だった」と答えている[12]
  • 野村克也が阪神監督就任時、尾花高夫に一軍投手コーチとして声をかけていた。尾花本人も行動を共にすることを希望していたが、尾花はダイエーのコーチに就任。阪神の一軍投手コーチを誰にするか迷った時、友人の森祇晶が八木沢を推薦したため就任に至ったという経緯がある。
  • 野村からは親しみをこめて「ロクさん」と呼ばれていた一方で、自身と同じ年に阪神へ入団した藤川球児とは反りが合わず、藤川が八木沢の退団後に出された自著[13]では実名を伏せながらもコーチ在任中の態度や扱いを批判されている。藤川が入団2年目の2000年、秋季二軍キャンプ中に床へ肘を付けた状態で腕立て伏せを繰り返していたところに、ランチを済ませて偶然通りかかった投手コーチ(八木沢)から『そのやり方はなんだ。肘なんか付くな』と言われた[14]。当時は右肘の状態が思わしくなかったので、トレーニングコーチからの了解を得たうえで、同僚の投手数名と肘を付いての腕立て伏せに取り組んでいた[14]。投手コーチにもこのような事情を話したところ、爪楊枝をくわえながら自分だけに向けて高圧的な口調で『うるせえ、俺が「(肘を付けずに腕立て伏せを)やれ」と言ったらやれ』と迫ってきたので、『あんたのためにやってるんじゃない』と思わず言い返してしまった[14]。そのコーチには後日詫びを入れたのだが、翌2001年にはシーズン中に一軍へ呼ばれず、シーズンの終盤には(当時二軍監督であった)岡田彰布から『藤川を一軍へずっと推薦してきたけれど、投手コーチが推薦をはねつける』と打ち明けられた」という[14]
  • 伊原春樹とは西武・阪神でコーチとして同僚となり、伊原が西武監督時はキャンプで臨時コーチを務めた。オリックス監督時も一軍投手コーチとして招聘され、2004年に就任。前年のオリックスはチーム防御率5.95、年間最多被安打1534、最多失点927、最多自責点819と投手陣が大崩壊状態であった。八木沢に投手陣再建の手腕が託されたが、同年もチーム防御率が5.66を記録。2年連続5点台という結果に終わり、伊原と共に同年限りで辞任。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1967 東京
ロッテ
1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 7 1.0 2 0 0 0 1 0 0 0 2 0 0.00 2.00
1968 6 3 0 0 0 0 1 -- -- .000 81 19.1 16 2 6 1 3 4 0 0 10 9 4.19 1.14
1969 44 2 0 0 0 3 2 -- -- .600 359 90.0 71 11 24 4 3 56 1 0 40 36 3.60 1.06
1970 43 4 2 0 1 5 4 -- -- .556 419 98.1 99 11 30 8 1 72 0 0 36 31 2.85 1.31
1971 23 0 0 0 0 4 1 -- -- .800 161 36.2 40 3 11 3 0 19 1 0 25 19 4.66 1.39
1972 35 7 1 0 1 7 8 -- -- .467 395 90.1 106 14 20 2 6 33 0 0 50 45 4.48 1.39
1973 55 9 1 1 1 7 1 -- -- .875 513 130.1 112 14 25 2 3 68 1 0 47 40 2.76 1.05
1974 37 12 2 2 0 8 7 2 -- .533 453 115.0 86 12 27 1 3 54 1 0 56 49 3.83 0.98
1975 20 9 1 0 1 2 5 0 -- .286 324 77.2 76 13 21 1 2 26 1 0 35 33 3.82 1.25
1976 34 22 5 0 1 15 9 1 -- .625 676 171.2 153 14 29 1 5 66 2 0 53 47 2.46 1.06
1977 40 28 5 2 1 11 14 1 -- .440 719 175.0 167 10 32 0 6 89 2 0 75 51 2.62 1.14
1978 28 17 6 1 1 5 6 3 -- .455 496 120.1 119 7 23 0 5 48 0 0 49 43 3.22 1.18
1979 28 6 0 0 0 4 8 1 -- .333 326 74.1 95 6 19 1 4 32 0 0 43 40 4.84 1.53
通算:13年 394 119 23 6 7 71 66 8 -- .518 4929 1200.0 1142 117 267 24 42 567 9 0 521 443 3.32 1.17
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 東京(東京オリオンズ)は、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更

年度別監督成績

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1992年 ロッテ 6位 130 54 74 2 .422 26.5 89 .241 3.82 47歳
1993年 5位 130 51 77 2 .398 23.5 95 .251 4.08 48歳
1994年 5位 85 34 51 0 .400 -- -- ---- ---- 49歳
通算:3年 345 139 202 4 .408 Bクラス:3回
  • 1992年から1996年までは130試合制
  • 1994年、成績不振により8月2日に監督を解任。監督代行は中西太

タイトル

記録

その他の記録

背番号

  • 27 (1967年 - 1979年)
  • 72 (1980年、1999年 - 2001年、2011年 - 2012年)
  • 73 (1981年)
  • 84 (1982年 - 1991年)
  • 80 (1992年 - 1994年)
  • 77 (1995年)
  • 85 (1997年 - 1998年)
  • 75 (2004年)
  • 74 (2008年 - 2010年)

脚注

  1. ^ 週刊ベースボール」2011年1月31日号(懐かしのプロ野球自主トレ企画)より、八木沢が実家で丸太を背負ってスクワットをしている写真から。
  2. ^ 神宮球場ガイドブック2009年春号「神宮球場から翔び立ったプロ野球のスターたち」越智正典
  3. ^ 近鉄・マニエル(右)はロッテ・八木沢から顔面死球を受け、下あごの複雑骨折などの重傷を負った(1979年6月9日撮影)
  4. ^ あの時フェースガードがあったら― 40年前、赤鬼マニエルにぶつけた八木沢荘六さんの悔恨と願い
  5. ^ 八木沢氏 東京ガスのコーチに就任
  6. ^ 八木沢荘六投手コーチ就任・青木野手コーチ背番号決定のお知らせ - 2010年12月20日
  7. ^ 知恵の森文庫「お笑いプロ野球殿堂 ダメ監督列伝」テリー伊藤、光文社、2004年11月ISBN 9784334783259
  8. ^ 大阪日刊スポーツ・なにわWEB・阪神タイガース2000陣容
  9. ^ 入団拒否、栄養費、改名…ロッテ木村「長かった」7年目の初勝利
  10. ^ プロ野球OBクラブ新理事長は八木沢氏 スポーツニッポン 2014年2月11日閲覧
  11. ^ あの時フェースガードがあったら― 40年前、赤鬼マニエルにぶつけた八木沢荘六さんの悔恨と願い
  12. ^ ムック「埼玉西武ライオンズ 黄金投手陣の軌跡」(2013年、ベースボール・マガジン社
  13. ^ 現役時代(野村・八木沢が阪神を退団後)の2009年にベースボール・マガジン社から刊行された『未熟者』および、現役引退後の2021年に日本実業出版社から刊行された『火の玉ストレート』。
  14. ^ a b c d 『火の玉ストレート』第Ⅰ章「努力は人生を裏切らない」pp.24 - 28「はじめて感じた社会の不条理」

関連項目

外部リンク