「日系アメリカ人市民同盟」の版間の差分
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
(7人の利用者による、間の353版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{出典の明記|date = 2020年1月}} |
|||
{{複数の問題 |
|||
{{Infobox 組織 |
|||
| 出典の明記 = 2020年1月 |
|||
|名称 = 日系アメリカ人市民同盟 |
|||
| Wikify = 2020年1月 |
|||
|正式名称 = |
|||
|英文名称 = Japanese American Citizens League |
|||
|ロゴ = |
|||
|ロゴサイズ = |
|||
|ロゴ説明 = |
|||
|画像 = Masao W. Satow building (Japanese American Citizens League headquarters), May 2021 -2.jpg |
|||
|画像サイズ = 250px |
|||
|画像説明 = JACL本部([[2021年]][[5月21日]]撮影) |
|||
|略称 = JACL |
|||
|設立 = [[1929年]] |
|||
|設立者 = 荒井クラレンス威弥<br/>谷田部トーマス保<br/>坂本ジェームズ好徳<br/>城戸三郎 他 |
|||
|種類 = [[501(c)団体|501(c)(3)団体]]たる[[慈善団体]] |
|||
|目的 = アジア系アメリカ人の権利擁護<br/>同性婚支持 |
|||
|本部 = {{USA}}・[[カリフォルニア州]]・[[サンフランシスコ]]・[[ジャパンタウン (サンフランシスコ)|ジャパンタウン]] |
|||
|言語 = [[英語]] |
|||
|提携 = {{仮リンク|アジア・太平洋諸島系アメリカ人擁護会|en|OCA-Asian Pacific American Advocates}} |
|||
|ウェブサイト = {{URL|jacl.org}} |
|||
}} |
}} |
||
'''日系アメリカ人市民同盟'''{{#tag:ref|「'''連盟'''(れんめい)」<ref>[https://nikkeijin.densho.org/%E3%81%93%E3%81%AE%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%88%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/ このサイトについて | 日系アメリカ人の歴史ポータル - Densho]</ref><ref>[https://www.sf.us.emb-japan.go.jp/itpr_ja/19_0406a.html 宇山総領事のJACL北加西ネバダ太平洋地区主催ガラへの参加 - 在サンフランシスコ日本国総領事館]</ref><ref>[https://www.cnn.co.jp/usa/35129374.html ナンバープレートに日系人蔑視用語、米カンザス州がリコール - CNN.co.jp]</ref>や「'''協会'''(きょうかい)」<ref name="red"/><ref>[https://www.janm.org/sites/default/files/2021-02/janm-japanese-lesson-plan.pdf 日系アメリカ人の歴史と体験を]</ref>{{sfn|ベフ|2002|p=115}}と訳す事例も見受けられる。|group=注釈}}(にっけいアメリカじんしみんどうめい、{{lang-en|Japanese American Citizens League}}、[[略語|略称]]: '''JACL''') は、[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]に本部を置く、[[アジア系アメリカ人]]の権利擁護と、[[同性結婚]]への支持を目的とした[[公民権]]団体<ref name="JACL: About">{{cite web|url=https://jacl.org/about/ |title=About |publisher=Japanese American Citizens League |access-date=4 July 2018}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|title=Districts & Chapters|url=https://jacl.org/districts-chapters|access-date=2022-01-09|website=Japanese American Citizens League|language=en-US}}</ref>。アメリカ国内では、最古かつ最大のアジア系アメリカ人による[[人権団体]]である<ref name="JACL: About" />。 |
|||
'''日系アメリカ人市民同盟'''('''連盟''')(にっけいアメリカじんしみんどうめい(れんめい)、{{lang-en|Japanese American Citizens League}}、略称:'''JACL''') は、[[1929年]]に[[アジア系アメリカ人]]の権利を守る為に設立された団体である。[[第二次世界大戦]]中の[[日系人の強制収容|日系人強制収容]]時などに、[[人権]]運動を行なっていた。[[アメリカ合衆国]]内最古、最大のアジア系アメリカ人人権団体である。本部は[[サンフランシスコ]]に、支部は[[ロサンゼルス]]、サンフランシスコ、[[シアトル]]、[[シカゴ]]にそれぞれ置かれていた。また、[[立法機関]]は[[ワシントンD.C.]]に置かれていた。 |
|||
== |
== 組織 == |
||
戦前は、[[ロサンゼルス]]・サンフランシスコ・[[シアトル]]・[[シカゴ]]に支部、首都[[ワシントンD.C.]]にロビー機関が、各々置かれていた。 |
|||
*[[1929年]]、[[日系アメリカ人]]の人権を[[差別]]から守る為に設立 |
|||
当時[[日系人]][[人口]]が最多だった[[カリフォルニア州]]では、100以上の日本人の活動、[[市民権]]を制限する[[法律]]があり、また、Grange Association 、 Sons of the Golden West といった団体は排斥的な法案を通し、 Japanese Exclusion League は特に日系人(合衆国生まれであっても)の排斥、差別の為の活動をしていた<br> |
|||
現在では、全国組織は100以上の支部で構成されている。国内の主要都市と大都市圏に置かれている支部は、 |
|||
この様な状況の中、JACL は日本人、[[中国人]]、その他の[[有色人種]]の人権、市民権の為の運動団体として設立、小規模ではあったが、[[1920年代]]−[[1930年代|30年代]]の[[州政府]]、[[連邦政府 (アメリカ)|連邦政府]]に[[人種差別]]廃止運動を起こす数少ない運動団体の1つであった<br> |
|||
* カリフォルニア中央地区 |
|||
* 東部地区 |
|||
* 山間地区 |
|||
* 中西部地区 |
|||
* 北カリフォルニア・西ネバダ・太平洋地区 |
|||
* 太平洋北部地区 |
|||
* 太平洋南西部地区 |
|||
といった7地区にもうけられた評議会の、何れかに属す形となっている<ref name=":0"/>。 |
|||
== 戦前(1929年~1936年) == |
|||
*[[1941年]][[12月7日]]、[[日本軍]]による[[真珠湾]]の[[アメリカ合衆国海軍|合衆国海軍]]基地攻撃の数時間後、[[連邦捜査局|FBI]] は[[アメリカ西海岸|合衆国西海岸]]の日系人の指導者と思われる年長者を拘束 |
|||
=== 設立 === |
|||
クラレンス・アライ(荒井威弥){{#tag:ref|[[1920年]]に、初となる日系人による[[ボーイスカウト]]隊を創設した。[[1924年]]には、日系人で初めて[[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]][[ロー・スクール (アメリカ合衆国)|ロー・スクール]]を卒業し、[[弁護士]]となった<ref>[https://archiveswest.orbiscascade.org/ark:/80444/xv42837 Clarence T. Arai papers, 1917-2004 - Archives West]</ref>。[[1934年]][[8月7日]]には、{{仮リンク|ワシントン州下院|en|Washington House of Representatives}}議員選挙に、[[キング郡 (ワシントン州)|キング郡]]第37区から[[共和党 (アメリカ)|共和党]]候補として出馬した。しかし、同年[[9月11日]]に実施された予選投票において、選挙区内の共和党候補者5名中、最下位で落選している<ref>[https://doshisha.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=16393&item_no=1&attribute_id=28&file_no=1 アメリカ西北部日本人移民年表(3) - 同志社大学学術リポジトリ]</ref>。因みに父・達弥は、日本では[[自由民権運動]]に携わっており、[[ジョージ山岡]]の父・[[鈴木音高|音高]]とも、親しい間柄だった<ref>[https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/51907/20160528105110331955/042_2_001_019.pdf シアトル最初期の日系市民運動 - Okayama University]</ref>。|group=注釈}}や{{仮リンク|ジェームズ・サカモト|en|James Sakamoto|label=ジェームズ・サカモト(坂本好徳)}}{{#tag:ref|アメリカでは初となる、日系人向けの完全英字新聞である''“Japanese American Courier”''の創刊者<ref>{{Cite web |author=Marzano |first=Andy |url=http://depts.washington.edu/civilr/Sakamoto.htm |date=2013 |title=James Sakamoto and the Fight for Japanese American Citizenship |publisher=Seattle Civil Rights & Labor History Project |access-date=6 February 2015}}</ref>。[[1937年]]に第5代JACL会長となった<ref name='pnp'/>。|group=注釈}}を中心とする「シアトル革新市民連盟」のほか、何れもサンフランシスコを拠点とする、[[城戸三郎]]を代表とする「新アメリカ市民協会」、トーマス・ヤタベ(谷田部保){{#tag:ref|[[フレズノ]]在住の[[歯科医師]]であり、[[1935年]]に第4代JACL会長となった<ref name='pnp'/>。|group=注釈}}を代表とする「アメリカ忠誠協会」など、既存の[[二世 (日系人)|日系二世]]組織が統合する形で、[[1929年]]に発足した<ref name='Lyon'>[http://encyclopedia.densho.org/Japanese%20American%20Citizens%20League/ Japanese American Citizens League | Densho Encyclopedia]</ref>。初代会長には、アライが就任する事となった<ref name='pnp'>[https://jacl.org/past-national-presidents Past National Presidents - JACL]</ref>。 |
|||
発足当初は、二世を各分野における専門家や[[中小企業]]の経営者に育成すべく、自由な[[起業]]・自助努力・アメリカ合衆国への忠誠を促す事に、主眼を置いた<ref name='Lyon'/>。 |
|||
*[[第二次世界大戦]]時は困難な状況の中、活動を継続 |
|||
戦後、機能を回復 |
|||
=== ロビー活動の展開 === |
|||
その後は、サカモトをはじめとするシアトルの活動家達による積極的な支援もあり、[[1930年]][[8月29日]]には、シアトルで初となる全国大会が、開催される事となった<ref>{{Cite book| last = Miyamoto | first = Shotaro Frank | title = Social Solidarity Among the Japanese in Seattle | publisher = University of Washington Press| year = 1984 | page=xix| isbn = 978-0295961514}}</ref>。それに伴い、[[1924年]]に施行された「[[排日移民法]]」において、「帰化不能外国人」と見なされた日系人とアジア系移民の市民権を、拡大する為の[[ロビー活動]]を開始した<ref name='Lyon'/><ref>JACL. [http://www.jacl.org/about/jacl-history.htm "History of the Japanese American Citizens League"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140228151428/http://www.jacl.org/about/jacl-history.htm |date=February 28, 2014 }} (accessed February 14, 2014)</ref>。 |
|||
まずは、[[1922年]]9月に[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]を通過した、帰化不能外国人である男性と結婚した女性は、[[アメリカ合衆国の市民権|アメリカ市民権]]を剥奪される事を定めた「{{仮リンク|ケーブル法|en|Cable Act}}」を、撤廃させる事を目標とした。結果として、[[1931年]]に連邦議会は、帰化不能外国人と結婚しても、市民権を保持し続ける事が可能となる様に法改正し、[[1936年]]には撤廃される事となった{{sfn|ベフ|2002|p=115}}<ref name=hosokawa199>{{cite book |title=Nisei: the Quiet Americans|publisher=William Morrow & Company |location=New York |last=Hosokawa |first=Bill |authorlink=Bill Hosokawa|year=1969|page=199|isbn=978-0688050139}}</ref>。 |
|||
[[File:Los Angeles, California. Tokutaro Slocum in front of the Japanese American Citizens League headquar . . . - NARA - 536805.jpg|thumb|225px|トクタロウ・スローカム]] |
|||
次いで、別所南洋{{#tag:ref|[[1872年]]に日本で生まれる。渡米後の[[1898年]][[7月9日]]に[[アメリカ海軍|海軍]]に入隊。[[米西戦争]]と第一次世界大戦に従軍しただけでなく、[[ウィリアム・マッキンリー|マッキンリー]]・[[セオドア・ルーズベルト|ルーズベルト]]・[[ウィリアム・タフト|タフト]]といった、3人の歴代大統領の下で、[[バトラー|個人給仕係]]を務めた。[[1921年]]に退役した<ref>[http://www.discovernikkei.org/ja/journal/2011/6/13/issei-pioneers/ 一世の開拓者たち ーハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924ー その24 - ディスカバー・ニッケイ]</ref>。|group=注釈}}に代表される、[[第一次世界大戦]]に従軍した838名の[[一世 (日系人)|日系一世]]を含めた、アジア系移民の[[退役軍人]]に対して、市民権を付与させる為のキャンペーンを開始した。この取り組みも、別所と同じ一世の退役軍人であるトクタロウ・スローカム(西村徳太郎){{#tag:ref|[[1895年]]に日本で生まれる。10歳で渡米した後、父親が[[カナダ]]へ渡った事を期に、[[ノースダコタ州]][[マイノット (ノースダコタ州)|マイノット]]に居住するスローカム家と[[養子縁組]]する。[[ミネソタ大学ツインシティー校]]を経て[[コロンビア・ロー・スクール]]へ進学するものの、第一次世界大戦へ出征する為に中退。陸軍の[[第82空挺師団]]{{仮リンク|第328歩兵連隊 (アメリカ軍)|en|328th Infantry Regiment (United States)|label=第328歩兵連隊}}の一員として、[[ムーズ・アルゴンヌ攻勢]]や{{仮リンク|サン・ミッシェルの戦い|en|Battle of Saint-Mihiel}}に従軍。上級曹長の階級で退役した<ref>[https://encyclopedia.densho.org/Tokutaro_Slocum/ Tokutaro Slocum | Densho Encyclopedia]</ref>。|group=注釈}}によるロビー活動が功を奏し、[[1935年]][[6月24日]]に[[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は、アジア系退役軍人へ市民権を与える「ナイ・リー法」に署名する事となった<ref name=hosokawa199/>{{sfn|ベフ|2002|p=80}}<ref>[https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-15520457/155204572005jisseki/ 北米におけるマイノリティーの第一次大戦参加と市民権獲得に関する研究(KAKEN 2005年度実績報告書)]</ref>。 |
|||
== 第二次世界大戦期(1937年~1945年) == |
|||
=== 日米関係の悪化と日系コミュニティの危機 === |
|||
上述した、1924年の「排日移民法」制定をきっかけに、昭和の初め頃から悪化の一途を辿っていた[[日米関係]]は、[[1937年]]の[[日中戦争]]勃発と、それに伴う[[10月25日]]のルーズベルト大統領による[[隔離演説]]、[[12月12日]]の[[パナイ号事件]]、翌[[1938年]]11月の[[援蔣ルート]]完成などにより、修復が不可能なものとなりつつあった。加えて、1938年[[7月26日]]にアメリカが[[日米通商航海条約]]の廃棄を通告、翌[[1939年]][[1月26日]]に失効した。これにより、両国は[[1855年]][[2月21日]]の[[日米和親条約]]発効以来、初めての「無条約時代」に突入する事となった。 |
|||
それに伴う形で、アメリカ社会の日系人に対する視線も厳しいものとなり、特に反日団体は、二世による[[多重国籍|二重国籍]]問題を、攻撃の標的とする様になった。こうした動きを察知したJACLは、1939年[[6月7日]]付の『[[羅府新報]]』に、ウォルター・ツカモト(塚本武雄)会長による、 |
|||
<blockquote>「合衆国に対する偽りなき忠誠という原則について、妥協は有り得ない。そして、如何なる犠牲を伴おうとも、我々が最初から最後まで、常にアメリカ人である事を、忘れてはならない」</blockquote> |
|||
といった声明を掲載し、二世の地位を守る為の具体的な行動を要請すべく、二重国籍を廃絶する運動を呼び掛けた。 |
|||
また、[[1940年]][[9月27日]]に[[日独伊三国同盟]]が締結され、いよいよ日米開戦が不可避な情勢となると、JACLは翌[[1941年]][[1月26日]]付の『羅府新報』に、ロサンゼルス支部長のフレッド・タヤマ(田山勝)による、 |
|||
<blockquote>「私達が、両親の国に向かって武器を取らなければならない日が来ない事を、私達はいつも願っております。しかし、万が一その日が来る様な事があれば、二世は覚悟が出来ております。私達は、唯一つの旗“合衆国星条旗”に対して、忠誠を負うのであります」</blockquote> |
|||
といった声明を掲載し、二世は今や[[日本]]を敵と見做し、銃を向ける覚悟もある事を、アメリカ社会へ向けて明言した<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/americanreview1967/1986/20/1986_20_99/_pdf 第二次世界大戦前の日系二世と「アメリカニズム」 - J-stage]</ref>。 |
|||
1941年初頭には、[[マイク正岡|マサオカ・マサオカ(正岡優)]]JACL山間地区評議会議長によって作成された、『日系アメリカ人の信条』が発表された。 |
|||
{{Quotation|私は、日系アメリカ人である事を、名誉に思っている。それは、私の経歴こそが、この国の素晴らしい利点を、私へ十分に認識させてくれるからである。この国の制度・理想・伝統を信じている。母国の遺産を誇りとしている。母国の歴史を自慢に思う。母国の未来に希望を持っている。母国は、今日の世界において、他国では享受できない様な自由と機会を、私に与えてくれた。母国は、私に大立者となるにふさわしい教育を与えてくれた。母国は、参政権の責任を私に委ねてくれた。母国は、私を他の自国民と同じ、自由な一市民として、家を建て、生計を立て、礼拝し、考え、話し、思い通りに行動する事を許してくれた。<br/>一部の人々は、私を差別するかもしれない。しかし、私は決して、その事で相手を苦々しく思いもしなければ、母国に不信を抱いたりもしない。何故なら、そういった人々は、アメリカ国民の多数を代表する人間では無い事を、私は知っているからである。確かに、そうした慣行を思い止まらせるべく、私は全力を尽くすつもりである。しかし、法廷の場を通して、自身が平等な扱いと尊敬を受けるに値する人間である事を、教育に基づいて、公明正大に証明するという、アメリカ流の方法を以てして、それを行うつもりである。アメリカにおける、スポーツマンシップとフェアプレーの精神は、身体的特徴によってではなく、行動と成果に基づく公民権と愛国心によって、判断されるものであると、私は固く信じている。</br>私はアメリカを信じており、母国も私を信じてくれていると、確信している。母国から数多の恩恵を受けた事を鑑みて、その体制を支え、国内法を遵守し、星条旗に敬意を表し、国内外における全ての敵から母国を守り、市民としての責務と義務を、積極的に引き受けるべく、より偉大なるアメリカで、より良きアメリカ人になる事を願いつつ、何時如何なる場所でも、母国に謹んで敬意を払う事を、私は誓う。}} |
|||
と綴られ、今日では「二世による、愛国主義的市民ナショナリズムの集大成」と評されている同声明文は、発表と同時に、日系コミュニティおいて、大きな反響を呼ぶ事となった。それに止まらず、[[モルモン宣教師]]としての滞日経験がある[[知日派]]として知られ、マサオカの盟友でもあった、民主党の{{仮リンク|エルバート・D・トーマス|en|Elbert D. Thomas}}上院議員によって、同年[[5月9日]]付の上院議会記録にも、記載される事となった<ref name="creed">[https://encyclopedia.densho.org/Japanese_American_Creed Japanese American Creed | Densho Encyclopedia]</ref>。 |
|||
=== 太平洋戦争の勃発と強制収容の実施 === |
|||
{{See also|日系人の強制収容}} |
|||
1941年[[12月7日]]に[[真珠湾攻撃]]が起きた数時間後より、[[連邦捜査局|FBI]]は主に一世の[[日本語学校]]校長・[[日本人会]]及び[[都道府県人会]]の会長・[[比丘|僧侶]]・[[武道|武術]]師範・[[個人事業主]]といった、日系コミュニティの指導者と見なした人物の逮捕を開始した<ref>Densho. [http://encyclopedia.densho.org/history#arrest "About the Incarceration: Arrests of Community Leaders"] (accessed February 14, 2014)</ref>{{sfn|ベフ|2002|p=136}}。これに伴い、城戸三郎JACL会長は、[[アメリカ合衆国の対日宣戦布告|日本への宣戦布告]]を期に、日系人へ着せられた[[第五列]]としての汚名をそそぐ事を、急務と捉えた。その事から、ルーズベルト大統領に対して、 |
|||
<blockquote>「この非常時に、我々は大統領閣下と母国に対して、最大限の協力を惜しまない事を約束します。日本が我が国への攻撃を開始した今、我々は同胞と共に、この侵略を撃退すべく、あらゆる努力を払う準備ができています」 |
|||
</blockquote> |
|||
と綴った[[電報]]を送るとともに、日系コミュニティを含めたアメリカ社会へ向けては、 |
|||
<blockquote>「我々は、アメリカ市民としての義務を、あくまでも果たすものである。今こそ、我らの誠心を尽くすべき時が来た。日米開戦は、最も不幸な出来事であるが、戦場に送られると言えども、我らの忠誠は不変である。我等の父母は、法律の下にアメリカ市民たる事を許されないが、しかしアメリカ市民の父母として、善良なる居住民として、あくまでも我等と共に進む事を信じて疑わないものである」</blockquote> |
|||
といった声明を発表した<ref>[https://www.city.odawara.kanagawa.jp/public-i/facilities/library/hoshizaki/chapter13.html]</ref><ref name="kido">[https://encyclopedia.densho.org/Saburo_Kido/ Saburo Kido | Densho Encyclopedia]</ref>。 |
|||
以降のJACLは、政府の[[公聴会]]等において「率直に日本と縁を切る」事を声明したほか、忠実で愛国的なアメリカ人としての、二世の実像を喧伝した。また、マサオカ書記長をはじめとする多くのメンバーが「日系コミュニティの政治的安全を守る為には、アメリカ市民権を持たない高齢の一世が、ある程度の犠牲を被る事は止むを得ない」と主張した事もあり、FBIと[[アメリカ海軍情報局|海軍情報局]]が「危険人物」とおぼしき一世を、特定する事への捜査協力なども行った<ref>{{cite book |last=Spickard |first=Paul |date=1996 |title=Japanese Americans, the Formation and Transformations of an Ethnic Group |publisher=Twayne Publishers |pages=[https://archive.org/details/japaneseamerican00spic/page/95 95] |isbn=0-8057-9242-2 |url-access=registration |url=https://archive.org/details/japaneseamerican00spic/page/95 }}</ref><ref>[https://encyclopedia.densho.org/Mike_Masaoka/ Mike Masaoka | Densho Encyclopedia]</ref>。 |
|||
[[File:Photograph of San Francisco, California - NARA - 536421.jpg|thumb|250px|[[アメリカ陸軍|陸軍]]による「市民排除命令第20号」に応じる形で、JACL本部の講堂にもうけられた戦時民事監督局へ出頭する日系人達(1942年[[4月25日]]、[[ドロシア・ラング]]撮影)]] |
|||
[[1942年]][[2月19日]]にルーズベルト大統領が「[[大統領令9066号]]」に署名した事に伴い、日系人を強制収容所へ送致する事が決定した。その際、JACLの指導部は、反発する姿勢を示さなかった。寧ろ、積極的に政府の方針に従った方が、日系人の母国への忠誠を証明し、延いては、日系人を敵視するアメリカの誤りを正す事にも繋がる、と考えた。その事からJACLは、約12万人の日系人に対し、冷静に立ち退きを行い、命令に反発する者からは、距離を置く様に呼び掛けた<ref name=yamato>{{Cite news |last=Yamato |first=Sharon |title=Carrying the Torch: Wayne Collins Jr. on His Father's Defense of the Renunciants | newspaper=Discover Nikkei |date=October 21, 2014 |url=http://www.discovernikkei.org/en/journal/2014/10/21/carrying-the-torch/}}</ref>。他にも、JACLのメンバーは、立ち退きの執行にあたって、[[アメリカ合衆国旧陸軍省|戦争省]]との交渉をはじめとして、英語能力の低い一世の為に、必要書類の整理や各種代筆、執行当日に自宅から集合場所への送迎を受け持つなど、多くの重要な役割を果たした{{sfn|ベフ|2002|p=138}}。 |
|||
立ち退き問題が解決した後のJACLは、日系人家庭が[[日系人収容所所在地|収容所]]から解放された後、工場や農場における極度の労働力不足が、深刻な問題となっていた[[アメリカ合衆国中西部|中西部]]への再定住を、快適なものにするべく、[[住宅ローン]]サービスを提供したほか、シカゴに新たな事務所を設置するなどした<ref name='Lyon'/>。 |
|||
[[File:Poston, Arizona. Legal staff, Poston Camp Number 1. These are all lawyers, and Mr. Kido is Nationa . . . - NARA - 536628.jpg|thumb|250px|城戸JACL会長(右端)と日系人弁護士達(1943年[[1月1日]]、[[ポストン戦争強制収容センター]]にて)]] |
|||
そうした中で、当時JACLの拠点が設置されていなかった[[ハワイ準州]]{{#tag:ref|同地においても、[[1980年]]に初めて支部が設立された<ref>[http://www.jaclhonolulu.org/about/ About Us - JACL Honolulu]</ref>。|group=注釈}}においては、[[大学勝利奉仕団]]による活躍をはじめとして、多くの日系人達があらゆる[[銃後]]の仕事をやり遂げ、[[1942年]][[6月12日]]には[[第100歩兵大隊]]が創設された<ref>[http://encyclopedia.densho.org/100th%20Infantry%20Battalion/ 100th Infantry Battalion | Densho Encyclopedia]</ref>。その事からJACLは、本土の日系人にも、アメリカ軍へ従軍する権利がある事を主張した。これに呼応する形で、[[1943年]][[1月28日]]に、日系人による[[連隊]]規模の部隊が編制される事が発表され、収容所内などにおいて、志願兵の募集が始められた。最終的には、ハワイからは大学勝利奉仕団で活躍していた者を含む2,686人、本土の収容所からは1,500人の志願兵が入隊し、[[第442連隊戦闘団]]が創設される事となった<ref>[http://encyclopedia.densho.org/442nd%20Regimental%20Combat%20Team/ 442nd Regimental Combat Team | Densho Encyclopedia]</ref>。 |
|||
それに伴いJACLは、一世達に志願兵となった我が子に関する投書を、収容所内で発行されている新聞や、収容所から解放された後に定住した地域における各[[地方紙]]へ向けて、積極的に行う事を促したりもした<ref name='Lyon'/>。しかし一方で、メンバー達が収容所内において、[[兵役逃れ|徴兵拒否者]]達を厳しく糾弾した事から、大部分の日系人達から非難を浴びる事となった。こうした確執は、JACLと日系コミュニティの間に、戦後も長らく後腐れを残す結果を招いてしまった<ref name=yamato/>{{#tag:ref|JACLと日系コミュニティの間の確執は、442連隊への志願問題だけに、起因するものではなかった。上述の通り、JACLは政府による強制収容の執行に反対しなかった事に加え、「最も危険な任務の先頭に立ち、何処へでも出撃する」事を旨とした、日系人[[特別攻撃隊|特攻部隊]]を創設するだけでなく、同部隊の忠誠心を疑う人々を安心させるべく、隊員の家族や友人を、政府の「人質」とする事を提案するなどした。そうした姿勢が仇となり、JACLは収容初期の時点で、日本で教育を受けた一世や帰米二世の多くから、反感を抱かれていた<ref>[http://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?research/iilcs/12_lcs_32_1_izumi.pdf 日系アメリカ人戦時収容所における食と支配 - 立命館大学]</ref><ref>[https://sapporo-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=7529&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1 『二つの祖国』の歴史的真実性について]</ref>。実際に、重鎮メンバーの中でも、タヤマは1942年12月5日に、城戸も1942年9月と1943年1月の2度に亘って、各々が収容所内で暴行を受ける事態に見舞われている<ref name="kido"/><ref>[https://encyclopedia.densho.org/Fred_Tayama/ Fred Tayama | Densho Encyclopedia]</ref>。余談ではあるが、[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系]]で[[2010年]]11月に放送されたドラマ『[[99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜]]』の第3夜「強制収容所」では、[[マンザナー強制収容所]]で発生したタヤマへの暴行事件を、元にしたシーンが描かれている。|group=注釈}}。 |
|||
また、公民権[[弁護士]]として知られる{{仮リンク|ウェイン・M・コリンズ|en|Wayne M. Collins}}{{#tag:ref|[[1944年]]の[[コレマツ対アメリカ合衆国事件]]では、原告側弁護人を務めた。|group=注釈}}も、戦後のインタビューにおいて、 |
|||
<blockquote>「JACLは、日系人の代弁者を自称していましたが、同胞の為に立ち上がろうとする様子は窺えませんでした…。彼等は、まるで煩わしい鳩の群れでも扱うかの如く、日系人を強制収容所へ導きました」</blockquote> |
|||
と語り、戦時中のJACLによる一連の姿勢を非難した<ref name=weglyn>{{cite book |url=https://archive.org/details/yearsofinfamyunt00wegl |title=Years of Infamy: The Untold Story of America's Concentration Camps |publisher=William Morrow & Company |location=New York |last=Weglyn |first=Michi Nishiura|authorlink=Michi Weglyn |year=1976 |page=255|isbn=978-0688079963}}</ref>。 |
|||
== 戦後(1946年~1988年) == |
|||
=== 日系コミュニティと日米関係の再建 === |
|||
戦後のJACLは、活動の主眼を、日系人の市民権の向上に戻す方針を固めた。 |
|||
戦後初の全国大会は、[[1946年]][[2月28日]]から[[3月4日]]にかけて、[[コロラド州]]{{#tag:ref|[[第二次世界大戦]]中のアメリカにおいて、一貫して日系人の強制収容に反対していた数少ない政治家だった[[ラルフ・ローレンス・カー]]が州知事を務めていた事もあり、多くの日系人が保護を求めて、同州へ流入したという背景がある<ref>[https://rafu.com/ja/2020/01/%E3%80%8C%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AE%E8%A6%AA%E5%88%87%E3%82%92%E5%BF%98%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D%EF%BC%9A%E3%82%AB%E3%83%BC%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E6%B2%A1%E5%BE%8C70%E5%91%A8%E5%B9%B4/ 「あなたの親切を忘れない」:カー知事没後70周年、日系住民擁護し立ち上がった人々 - Rafu Shimpo]</ref>。|group=注釈}}[[デンバー]]で開催された。同大会においては、上述した『日系アメリカ人の信条』を、団体の公式理念として採用する事が、発表された事に加え、 |
|||
* 日本国籍しか保持しない一世に対する、国外追放の阻止と[[帰化]]の推進 |
|||
* 戦時中における強制収容に対する、謝罪と補償の請求 |
|||
* 強制収容そのものの合憲性の再検証 |
|||
* 立ち退きに応じる事が困難な者にも、措置の執行を猶予しなかった事への非難 |
|||
* 少数民族による全国会議の召集と、問題解決の為の連邦政府内での省庁の設置 |
|||
* 居住や雇用における差別の撤廃 |
|||
* 各州における外国人土地法の撤廃{{#tag:ref|カリフォルニア州では、[[1952年]]4月に[[カリフォルニア州最高裁判所|州最高裁判所]]が、外国人土地法は[[アメリカ合衆国憲法修正第14条|合衆国憲法修正第14条]]に反する、不当な人種差別に当たると判示し、1956年に撤廃された。国内において、最後まで施行されていたワシントン州におけるものも、[[1966年]]に撤廃された<ref>[https://napost.com/ja/japanese-american-citizens-league-seattle-chapter/ 第2回 日系アメリカ人市民同盟シアトル支部 | 北米報知]</ref>。|group=注釈}} |
|||
* 強制収容に関する、第三者による調査機関の設置 |
|||
* 二世の退役軍人への支援 |
|||
* 日系アメリカ人のアメリカ化 |
|||
など、14項目から成る日系コミュニティの再建案も、採択される事となった<ref name="creed"/><ref name="kaetsu">[https://kaetsu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=83&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1 日本人花嫁法(1947年)と日系社会 (100周年記念号) - 嘉悦大学リポジトリ]</ref>。 |
|||
以降は、{{仮リンク|アメリカ合衆国における異人種間結婚禁止法|en|Anti-miscegenation laws in the United States|label=異人種間結婚}}や{{仮リンク|アメリカ合衆国における人種隔離|en|Racial segregation in the United States|label=人種隔離}}、人種に基づく移民や帰化を制限する法律を、撤廃若しくは改正するべく、訴訟運動や連邦議会におけるロビー活動を展開した。 |
|||
その成功例として、{{仮リンク|第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦線|en|European theatre of World War II|label=ヨーロッパ戦線}}から復員した後に、反差別委員会委員長となったマイク・マサオカの尽力により、[[1952年]][[6月27日]]に「[[移民国籍法]]」が成立。これに伴い、一世に帰化市民権が与えられると同時に、日本からの移民が再度認められる事となった<ref name='Lyon'/>。 |
|||
これをきっかけにJACLは、一世達にアメリカ市民権を取得する事を奨励し、一世からも、市民権取得を要望する声が、多く挙がる様になった。その為、[[通訳]]を動員して[[日本語]]で授業を行う、米国市民権テストの講習会が、JACLの働き掛けによって、全米各地で開催される事となった{{sfn|ベフ|2002|p=145}}。その後、[[1954年]]に1,600人の一世による帰化宣誓式が、執り行われた事を皮切りに、1965年までに4万人以上の一世が、アメリカ市民権を取得した<ref>[https://encyclopedia.densho.org/Immigration_Act_of_1952/ Immigration Act of 1952 | Densho Encyclopedia]</ref>。 |
|||
一方で、「排日移民法」から引き継がれた国別割当制度によって、日本からの新規移民送出は、年間185人にまで制限される事となった<ref>[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_29-1/lcs_29_1_minamikawa.pdf 戦後期における出入国管理体制の確立と「非移民国」日本 - 立命館大学]</ref>{{#tag:ref|1965年に「{{仮リンク|移民及び国籍法 (1965年)|en|Immigration and Nationality Act of 1965|label=移民及び国籍法}}」が成立した事に伴い、国別割当制度は撤廃される事となった{{sfn|ベフ|2002|p=125}}。|group=注釈}}。その為、割当外となっていた「[[戦争花嫁]]」以外の新規移民を見込む事は困難だと、当初は思われていた。しかし、[[1953年]][[8月7日]]に「{{仮リンク|難民救済法|en|Refugee Relief Act}}」が成立した事に伴い、10歳以下の孤児の養子縁組移民を、最大4,000人まで受け入れる事が、可能となった。また、1955年に同法の規定が変更されると、[[台風]]をはじめとする[[自然災害]]の被災者を「[[難民]]」として送り出せる事に、マサオカや日本の政治家らが、着目する様になった。この様に、日本からの新規移民送出における消極的局面が、大きく変化した結果として、1956年に「難民救済法」が失効するまで、所謂「[[GIベビー]]」として生まれた混血児2,500名と、[[和歌山県]]・[[広島県]]・[[鹿児島県]]からの農業移民1,005名が、アメリカへ渡る事となった<ref>[http://www.ritsumei.ac.jp/ir/isaru/assets/file/journal/28-1_05_MINAMIKAWA.pdf ポスト占領期における日米間の移民とその管理 - 立命館大学]</ref><ref>[http://www.discovernikkei.org/ja/journal/2008/7/5/nanmin/ 難民として米国移住した日本人たち その1: 難民移民誕生の経緯 - ディスカバー・ニッケイ]</ref>。 |
|||
=== 補償請求に際しての困難 === |
|||
[[1948年]][[7月2日]]に、日系人の強制収容に対する[[アメリカ合衆国連邦政府|連邦政府]]による補償策としては、最初のものとなる「{{仮リンク|日系人退去補償請求法|en|Japanese-American Claims Act}}」が、[[ハリー・S・トルーマン]]大統領によって署名された。しかし、[[国家補償]]の対象となる日系人の損害・喪失は、文書によって証明できる[[不動産]]・私有財産に限られ、[[精神的苦痛]]や教育・職業によって見込まれた、[[逸失利益]]に対する補償は否定された。また、1件当たりの補償額の上限は2,500ドル、[[請求権]]の[[時効]]期間も1年半と定められた。 |
|||
1948年法に基づいた請求は、時効を迎えるまでに22,945件提出され、その4割は限度額である2,500ドルを越えたものだった。しかし、立証責任が請求者に課せられた事から、手続きに時間がかかり、[[1950年]]末までに処理された請求は、僅か137件に止まった。それ以降も、[[1951年]]の修正法では、補償額を請求額の75%または限度額より少ない額とする事とされた。更に[[1956年]]の再修正法では、示談により総額10万ドル以内で補償額を決定する事が基本となり、請求者が不服を申し立てた場合は、{{仮リンク|合衆国連邦請求裁判所|en|United States Court of Federal Claims|label=連邦請求裁判所}}において裁決が行われる事とされた。 |
|||
同法に基づいた補償処理は、[[1965年]]に終了したものの、補償総額は請求総額の約25%、日系人の損害総額の10%未満に過ぎなかった<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/54/2/54_2_144/_pdf/-char/ja 在米日系人強制収容に対する補償法の変遷 - J-stage]</ref>。 |
|||
=== リドレス運動の展開 === |
|||
{{See also|{{仮リンク|日系アメリカ人のリドレス運動|en|Japanese American redress and court cases}}}} |
|||
そうした中で、[[1950年代]]半ば頃から[[アフリカ系アメリカ人公民権運動|黒人による公民権運動]]が展開され、結果として[[1964年]]に「[[1964年公民権法|公民権法]]」、翌1965年には「[[投票権法 (1965年)|投票権法]]」が、相次いで制定される事となった。こうした動きに触発された日系人達によって、1948年法では考慮されなかった、無形の損害や日系人の自由及び尊厳の回復を求める「リドレス運動」が、[[1970年代]]から展開される様になった<ref>[http://www.discovernikkei.org/ja/journal/2020/9/28/america-kokujinshi-kakawari-3/ アメリカ黒人史との関わりでたどる、日系アメリカ人の歴史—その3 - ディスカバー・ニッケイ]</ref>。 |
|||
当初は、運動の方針や賠償金を得られた場合の使途を巡って、指導部の間で対立が起きた<ref name=Yang>[http://encyclopedia.densho.org/Redress%20movement/ Redress movement | Densho Encyclopedia]</ref>。しかし、[[1970年]]7月に開かれた全国大会において「[[サンフランシスコ連邦準備銀行]]が見積もった、4億ドルの推定損失額を超える補償総額を以て、個々人に対して、抑留された日数に応じた補償を行う事。全ての弁済は、免税である事を定めた適切な法を、連邦議会が制定する事」を求める、{{仮リンク|エディソン・ウノ|en|Edison Uno}}{{#tag:ref|{{仮リンク|カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校|en|California State University, Los Angeles}}在学中の[[1950年]]に、当時としてはJACLの創設以来、最年少で支部長に就任する。後に、[[サンフランシスコ州立大学]](SFSU)講師として、国内初となるエスニック研究プログラムの創設に携わる。[[1976年]][[12月24日]]に、47歳の若さで急逝するも、SFSUは生前の功績を称え、彼の名を冠した賞と研究所をもうけている<ref>[http://www.bunka.soken.ac.jp/19nendo/5jigyo/report/repo-kotani.html 小谷幸子 - 文化科学研究科]</ref><ref>[https://chancellor.sfsu.edu/chancellor-awards/public-service Description of Thomas N. Burbridge and Edison T. Uno Awards]</ref>。|group=注釈}}による案が、採択される事となった<ref name='Lyon'/><ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/americanreview1967/2004/38/2004_38_199/_pdf/-char/ja 日系アメリカ人のリドレス運動の生成過程 - J-stage]</ref>。これに伴い、[[太平洋戦争]]中における日系人の強制収容に対する、謝罪と補償を要求する為の「全米補償請求委員会」(NCR)が設立され、運動の嚆矢となった<ref name="kaetsu"/>。 |
|||
[[1976年]][[2月19日]]{{#tag:ref|現在のアメリカ合衆国において、同日は「[[追憶の日 (日系アメリカ人)|追憶の日]]」と称され、日系人の強制収容に関連するイベントが、各地で催されている<ref name="apa">[https://isporg.web.fc2.com/ispo/20161028FS00020Report.pdf アメリカ「追憶の日」から(米国日系移民と人権に関する考察)]</ref>。|group=注釈}}に[[ジェラルド・R・フォード]]大統領は、「大統領令9066号」の正式な終了を確認する布告「アメリカの誓い」に署名。 |
|||
<blockquote>「我々は、当時から理解するべきだった事を、今日知った。日系人の強制収容は、誤りだっただけではなく、彼らは当時も今も、忠実なアメリカ人である」</blockquote> |
|||
と述べた<ref>{{Cite web | date=1976-02-19 | url=http://www.fordlibrarymuseum.gov/library/speeches/760111p.htm | title=President Gerald R. Ford's Proclamation 4417, Confirming the Termination of the Executive Order Authorizing Japanese-American Internment During World War II | publisher=Gerald R. Ford Presidential Library and Museum | language=英語 | accessdate=2011-01-06}}</ref><ref name="NVL">[https://www.nvlchawaii.org/jp/timeline-events 事象の年表 | NVL - Nisei Veterans Legacy]</ref>。 |
|||
[[1979年]]春にNCRは、強制収容所の実態を調査する為の連邦委員会の設置を提案した。これを受けた、[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ダニエル・イノウエ]][[アメリカ合衆国上院|上院]]議員と{{仮リンク|ジム・ライト|en|Jim Wright}}[[アメリカ合衆国下院|下院]]議員によって、 |
|||
* 「大統領令9066号」に関する事実と、その影響に関する調査 |
|||
* 軍による指令の検証 |
|||
* 適切な救済策の提示 |
|||
を目的とした、「{{仮リンク|戦時における民間人の転住・抑留に関する委員会|en|Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians}}」(CWRIC)の設置を要求する法案が、連邦議会に提出された。同法案は[[1980年]][[7月31日]]に、[[ジミー・カーター]]大統領によって署名された<ref name="red">[http://www.discovernikkei.org/ja/journal/2010/9/17/amerika-no-redress/ アメリカの戦後補償(リドレス) - ディスカバー・ニッケイ]</ref><ref name="koma">[https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=46809&item_no=1&attribute_id=20&file_no=1 アメリカにおける日系人差別とユダヤ人 ー1906年から1988年を中心にー]</ref>。 |
|||
その後、[[1981年]]7月から12月にかけて、ワシントンD.C.を皮切りに、ロサンゼルス・サンフランシスコ・シアトル・[[アンカレッジ]]・[[ウナラスカ]]・シカゴ・ワシントンD.C.(第2回)・[[ニューヨーク]]・[[ボストン]]の順で公聴会が開かれ、計20日間に亘って、750名の関係者が証言する事となった<ref name="CWRIC">[http://encyclopedia.densho.org/Commission_on_Wartime_Relocation_and_Internment_of_Civilians/ Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians | Densho Encyclopedia]</ref><ref>[https://aue.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=3263&file_id=15&file_no=1&nc_session=se3uvur3mqld8mhdn3bb7aatr6%20target= 1940年代の日系アメリカ人 ー強制収容所の記憶ー]</ref>。 |
|||
[[1982年]]12月にCWRICは、『拒否された個人の正義(Personal Justice Denied)』と題した、467ページにも及ぶ報告書を、連邦議会に提出した。同報告書の内容は、翌[[1983年]][[2月24日]]に公表され、「日系人の強制収容は、軍事的な必要性ではなく、人種差別・戦時中の[[ヒステリー|集団ヒステリー]]・政権の失策に基づいた、不当なものだった」と結論付けられた{{sfn|ベフ|2002|p=128}}。また、1983年[[6月22日]]にCWRICは、存命している元収容者約6万人に対し、1人当たり2万ドルの賠償金を支払う事を、連邦議会に対して勧告した<ref name="red"/><ref name="apa"/><ref name="NVL"/><ref>[https://archive.org/details/Personal-Justice-Denied/PersonalJusticeDenied-Recommendations/ Personal Justice Denied: Report of the Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians - Internment archive]</ref>。 |
|||
[[File:Ronald Reagan signing Japanese reparations bill.jpg|250px|thumb|「市民の自由法」に署名するレーガン大統領と、その様子を見守る(左から)[[スパーク・マツナガ]]上院議員、ノーマン・ミネタ下院議員、[[パット・サイキ]]下院議員、[[ピート・ウィルソン]]上院議員、[[ドン・ヤング]]下院議員、[[ボブ・マツイ]]下院議員、{{仮リンク|ビル・ローリー|en|Bill Lowery (politician)}}下院議員、ハリー・カジハラJACL会長。]] |
|||
[[1988年]][[8月10日]]に、[[ロナルド・レーガン]]大統領は「{{仮リンク|市民の自由法|en|Civil Liberties Act of 1988}}」(別称: 日系アメリカ人補償法)に署名。「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と、[[アメリカ合衆国憲法|憲法]]で保障された権利を侵害した事に対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」として、強制収容を経験した日系人に対して、公式に謝罪を表明した。また、1人当たり2万ドルの賠償金が、存命者にのみ支払われる事と、全米の学校において日系人の強制収容に関する教育を行う為の、総額12億5千万ドルの教育基金が設立される事も、同時に発表された<ref name="red"/><ref name="koma"/><ref name="CWRIC"/>{{sfn|ベフ|2002|p=129}}。 |
|||
また、[[三世 (日系人)|三世]]以降にあたる戦後生まれのJACL指導部は、戦時中に強制収容へ抗った者達への名誉回復に努める様になり、[[2002年]]には徴兵を拒否した二世を批判した事を、公式に謝罪した<ref name='Lyon'/>。 |
|||
== 現在(1994年以降) == |
|||
[[File:Japanese American Citizens League and the Japanese American Veterans Association’s 67th annual Memorial Day Service in Arlington National Cemetery (17423553533).jpg|thumb|250px|[[戦没将兵追悼記念日]]に[[アーリントン国立墓地]]で催された日系人兵士の慰霊式典において、スピーチを行うジョン・トベJACLワシントンD.C.支部長([[2015年]][[5月24日]])]] |
|||
=== LGBT問題への取り組み === |
|||
[[1994年]]には、全国大会において[[同性間のリレーションシップ|同性カップル]]による結婚の権利を含めた、結婚の自由を全ての人に認めるべきだとするスタンスを、確認する決議を採択した。この事からJACLは、アメリカ国内における公民権団体としては初めて、非[[LGBT]]組織としては、[[アメリカ自由人権協会]]に次いで、[[同性結婚]]への支持を明確化した組織となった<ref>{{Cite web|title=JACL Supports Marriage Equality|url=https://jacl.org/statements/jacl-supports-marriage-equality|access-date=2022-01-09|website=Japanese American Citizens League|language=en-US}}</ref><ref>{{cite news |url=http://www.rafu.com/2012/05/jacl-praises-obama-for-stance-on-gay-marriage/|title=JACL Praises Obama for Stance on Same-Sex Marriage}}</ref>。 |
|||
=== 他の民族集団との関係 === |
|||
[[2000年]]以降、人口動態と政治の変化は、日系人コミュニティの様相にも変革をもたらし、JACLは他の[[アジア・太平洋諸島系アメリカ人]]をはじめとする、あらゆる民族集団による権利の保護、特に若い混血の会員による「{{仮リンク|ハパ|en|Hapa}}・アイデンティティ」の重要性に関する問題へ焦点を当てる事にも、その使命を拡大する事となった<ref>{{cite web|url=https://www.aclu.org/other/statement-japanese-american-citizens-league |title=Statement – The Japanese American Citizens League |publisher=The American Civil Liberties Union |access-date=4 July 2018}}</ref>。 |
|||
[[2001年]][[9月11日]]の[[アメリカ同時多発テロ]]をきっかけに、同国内において{{仮リンク|アラブ系アメリカ人|en|Arab Americans|label=アラブ系住民}}に対する[[ヘイトクライム]]が急増した。この事態を受けてJACLは、自身達が嘗て見舞われた経験を鑑みて、テロ発生の数日後に開いた[[記者会見]]において、一連のヘイトクライムを非難する声明を発表した<ref>[http://www.discovernikkei.org/ja/journal/2016/2/17/building-bridges/ イスラム教系コミュニティとの橋渡し - ディスカバー・ニッケイ]</ref>。 |
|||
また、[[ノーマン・ミネタ]][[アメリカ合衆国運輸長官|運輸長官]]は、アラブ系や[[ムスリム]]であるという理由で、[[アメリカ合衆国の空港の一覧|空港]]において乗機を拒否される事例が確認された事を受け、{{仮リンク|アメリカ合衆国の航空会社一覧|en|List of airlines of the United States|label=国内の各航空会社}}へ、 |
|||
* [[航空会社]]が、[[人種]]・[[ヒトの肌の色|肌の色]]・[[国籍]]・[[民族]]・[[宗教]]・[[人名|氏名]]・[[民族服|衣服の特徴]]をもとに、特定の乗客を[[差別]]の対象としない様、警告する。 |
|||
* 様々な[[アメリカ法|我が国の法令]]が、人種・肌の色・国籍・宗教・性別・祖先をもとに、航空会社が航空輸送の際に、特定の乗客を差別する事を、禁じている。 |
|||
といった旨の[[通達]]を発出した。 |
|||
上述した措置を取った事により、各方面から非難を浴びる中、[[CBS]]の『[[60ミニッツ|60 Minutes]]』に出演した際は、 |
|||
<blockquote>「アラブ系住民ないしムスリムは、全ての国民と同じだけの尊厳と敬意をもって接せられます。外見や肌の色で判断される事について、私は実体験として知っています」</blockquote> |
|||
と述べた。同時に、[[レイシャル・プロファイリング]]は安全の基礎とならない事も、自身の経験から明らかであると主張した。これ以降、人種や信仰に基づいた当局による捜査は、回避される事となった<ref>[https://giin.i-ra.jp/a597861.html <一般質問>町制施行50周年でノーマン・ミネタ氏の記念講演を]</ref><ref>[[NHK BSプレミアム]]2011年7月19日放送『[[渡辺謙]] アメリカを行く』より</ref>。 |
|||
これを期に、日系をはじめとするアジア系コミュニティと{{仮リンク|アメリカ合衆国のイスラム教|en|Islam in the United States|label=ムスリム}}を含めたアラブ系コミュニティによる、双方の相互理解を促進するべく、高校生を中心とする若者を対象とした''“Bridging Communities Program”''が、立ち上げられる事となった。参加者は、[[民族性]]・[[共同体]]・組織化・文化・[[エンパワーメント]]に関する[[ワークショップ]]を受講する事となる。また、[[トゥーリーレイク戦争移住センター]]や[[マンザナー強制収容所]]、[[ミニドカ国立歴史地区]]への訪問も実施している。同プログラムの運営にあたっては、[[アメリカ合衆国国立公園局|国立公園局]]から助成金を受けており、「{{仮リンク|アメリカ・イスラム関係評議会|en|Council on American–Islamic Relations}}」「トゥーリーレイク巡礼委員会」「全米日系人歴史協会」「公民権と戦時補償のための日系人組織」などとも提携している<ref>{{cite news |url=http://www.jaclpsw.org/index.php/programs/bridging-communities|title=About the Bridging Communities Program}}</ref>。 |
|||
== 著名なメンバー == |
== 著名なメンバー == |
||
{| |
|||
* [[ゴードン・ヒラバヤシ]] 人権・平和運動家 |
|||
|valign="top"| |
|||
* [[マイク・ホンダ]] 政治家 |
|||
* [[ゴードン・ヒラバヤシ]] |
|||
* [[マイク正岡]] ロビイスト |
|||
* [[ |
* [[マイク・ホンダ]] |
||
* {{仮リンク|クリス・イイジマ|en|Chris Iijima}} |
|||
* [[ボブ・マツイ]] 政治家 |
|||
* [[マイク正岡|マイク・マサオカ(正岡優)]] |
|||
* [[スパーク・マツナガ]] 政治家、民主党 |
|||
* [[ |
* [[ボブ・マツイ]] |
||
* [[ドリス・マツイ]] |
|||
* [[ノーマン・ミネタ]] 政治家、元運輸長官 |
|||
* [[ |
* [[スパーク・マツナガ]] |
||
|valign="top"| |
|||
* {{仮リンク|スタン・マツナカ|en|Stan Matsunaka}} |
|||
* [[ノーマン・ミネタ]] |
|||
* {{仮リンク|チャールズ・Z・スミス|en|Charles Z. Smith}} |
|||
* [[ジョージ・タケイ]] |
|||
* {{仮リンク|トウゴ・タナカ|en|Togo Tanaka|label=トウゴ・タナカ(田中董梧)}} |
|||
* {{仮リンク|グレース・ウエハラ|en|Grayce Uyehara}} |
|||
* [[ミノル・ヤスイ]] |
|||
|} |
|||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
=== 注釈 === |
|||
{{Notelist}} |
|||
=== 出典 === |
|||
{{reflist|2}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
* {{Cite book|和書|author=ハルミ・ベフ 編|title=日系アメリカ人の歩みと現在|year=2002|publisher=[[人文書院]]|isbn=4-409-23036-0|ref={{sfnref|ベフ|2002}}}} |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
* {{仮リンク|パシフィック・シチズン|en|Pacific Citizen}} - 同団体の機関紙 |
|||
* [[日米関係]] |
|||
* [[日系アメリカ人]] |
|||
* [[全米日系人博物館]] |
* [[全米日系人博物館]] |
||
* {{仮リンク|日米民主委員会|en|Japanese American Committee for Democracy}} |
* {{仮リンク|日米民主委員会|en|Japanese American Committee for Democracy}} |
||
* |
* [[伝承 (日系アメリカ人)]] |
||
* {{仮リンク|全米日系アメリカ人図書館|en|Japanese American National Library}} |
* {{仮リンク|全米日系アメリカ人図書館|en|Japanese American National Library}} |
||
* {{仮リンク|アメリカ合衆国における反日感情|en|Anti-Japanese sentiment in the United States}} |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
{{Commons category|Japanese American Citizens League|日系アメリカ人市民同盟}} |
|||
* [http://www.jacl.org/ Japanese American Citizens League 公式サイト] |
* [http://www.jacl.org/ Japanese American Citizens League 公式サイト] |
||
* [http://www.lib.washington.edu/SpecialColl/findaids/docs/papersrecords/JapaneseAmericanCitizensLeague_SeattleChapter0217.xml JACL, Seattle Chapter Records 1921 - 2001, ワシントン大学図書館] |
|||
* [http://www.berkeleyjacl.org/ JACL Berkley Chapter] |
|||
* [http://www.janet.org/jacl/ JAPANESE AMERICAN CITIZENS LEAGUE] in [https://web.archive.org/web/19971007205743/http://www.janet.org/ Japanese American Network] |
|||
{{US-stub}} |
{{US-stub}} |
||
46行目: | 219行目: | ||
[[Category:日系アメリカ人の歴史|しみんとうめい]] |
[[Category:日系アメリカ人の歴史|しみんとうめい]] |
||
[[Category:人権機関]] |
[[Category:人権機関]] |
||
[[Category: |
[[Category:日系アメリカ人抑留]] |
||
[[Category:アメリカ合衆国のレイシズム]] |
[[Category:アメリカ合衆国のレイシズム]] |
||
[[Category:公民権運動]] |
[[Category:公民権運動]] |
||
[[Category:日米関係]] |
[[Category:日米関係]] |
||
[[Category:1929年設立の組織]] |
|||
[[Category:アメリカ合衆国の非営利組織]] |
|||
[[Category:サンフランシスコの組織]] |
|||
[[Category:アメリカ合衆国におけるLGBT]] |
2022年8月31日 (水) 11:39時点における版
Japanese American Citizens League | |
略称 | JACL |
---|---|
設立 | 1929年 |
設立者 |
荒井クラレンス威弥 谷田部トーマス保 坂本ジェームズ好徳 城戸三郎 他 |
種類 | 501(c)(3)団体たる慈善団体 |
目的 |
アジア系アメリカ人の権利擁護 同性婚支持 |
本部 | アメリカ合衆国・カリフォルニア州・サンフランシスコ・ジャパンタウン |
公用語 | 英語 |
提携 | アジア・太平洋諸島系アメリカ人擁護会 |
ウェブサイト |
jacl |
日系アメリカ人市民同盟[注釈 1](にっけいアメリカじんしみんどうめい、英語: Japanese American Citizens League、略称: JACL) は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコに本部を置く、アジア系アメリカ人の権利擁護と、同性結婚への支持を目的とした公民権団体[7][8]。アメリカ国内では、最古かつ最大のアジア系アメリカ人による人権団体である[7]。
組織
戦前は、ロサンゼルス・サンフランシスコ・シアトル・シカゴに支部、首都ワシントンD.C.にロビー機関が、各々置かれていた。
現在では、全国組織は100以上の支部で構成されている。国内の主要都市と大都市圏に置かれている支部は、
- カリフォルニア中央地区
- 東部地区
- 山間地区
- 中西部地区
- 北カリフォルニア・西ネバダ・太平洋地区
- 太平洋北部地区
- 太平洋南西部地区
といった7地区にもうけられた評議会の、何れかに属す形となっている[8]。
戦前(1929年~1936年)
設立
クラレンス・アライ(荒井威弥)[注釈 2]やジェームズ・サカモト(坂本好徳)[注釈 3]を中心とする「シアトル革新市民連盟」のほか、何れもサンフランシスコを拠点とする、城戸三郎を代表とする「新アメリカ市民協会」、トーマス・ヤタベ(谷田部保)[注釈 4]を代表とする「アメリカ忠誠協会」など、既存の日系二世組織が統合する形で、1929年に発足した[14]。初代会長には、アライが就任する事となった[13]。
発足当初は、二世を各分野における専門家や中小企業の経営者に育成すべく、自由な起業・自助努力・アメリカ合衆国への忠誠を促す事に、主眼を置いた[14]。
ロビー活動の展開
その後は、サカモトをはじめとするシアトルの活動家達による積極的な支援もあり、1930年8月29日には、シアトルで初となる全国大会が、開催される事となった[15]。それに伴い、1924年に施行された「排日移民法」において、「帰化不能外国人」と見なされた日系人とアジア系移民の市民権を、拡大する為のロビー活動を開始した[14][16]。
まずは、1922年9月に連邦議会を通過した、帰化不能外国人である男性と結婚した女性は、アメリカ市民権を剥奪される事を定めた「ケーブル法」を、撤廃させる事を目標とした。結果として、1931年に連邦議会は、帰化不能外国人と結婚しても、市民権を保持し続ける事が可能となる様に法改正し、1936年には撤廃される事となった[6][17]。
次いで、別所南洋[注釈 5]に代表される、第一次世界大戦に従軍した838名の日系一世を含めた、アジア系移民の退役軍人に対して、市民権を付与させる為のキャンペーンを開始した。この取り組みも、別所と同じ一世の退役軍人であるトクタロウ・スローカム(西村徳太郎)[注釈 6]によるロビー活動が功を奏し、1935年6月24日にフランクリン・ルーズベルト大統領は、アジア系退役軍人へ市民権を与える「ナイ・リー法」に署名する事となった[17][20][21]。
第二次世界大戦期(1937年~1945年)
日米関係の悪化と日系コミュニティの危機
上述した、1924年の「排日移民法」制定をきっかけに、昭和の初め頃から悪化の一途を辿っていた日米関係は、1937年の日中戦争勃発と、それに伴う10月25日のルーズベルト大統領による隔離演説、12月12日のパナイ号事件、翌1938年11月の援蔣ルート完成などにより、修復が不可能なものとなりつつあった。加えて、1938年7月26日にアメリカが日米通商航海条約の廃棄を通告、翌1939年1月26日に失効した。これにより、両国は1855年2月21日の日米和親条約発効以来、初めての「無条約時代」に突入する事となった。
それに伴う形で、アメリカ社会の日系人に対する視線も厳しいものとなり、特に反日団体は、二世による二重国籍問題を、攻撃の標的とする様になった。こうした動きを察知したJACLは、1939年6月7日付の『羅府新報』に、ウォルター・ツカモト(塚本武雄)会長による、
「合衆国に対する偽りなき忠誠という原則について、妥協は有り得ない。そして、如何なる犠牲を伴おうとも、我々が最初から最後まで、常にアメリカ人である事を、忘れてはならない」
といった声明を掲載し、二世の地位を守る為の具体的な行動を要請すべく、二重国籍を廃絶する運動を呼び掛けた。
また、1940年9月27日に日独伊三国同盟が締結され、いよいよ日米開戦が不可避な情勢となると、JACLは翌1941年1月26日付の『羅府新報』に、ロサンゼルス支部長のフレッド・タヤマ(田山勝)による、
「私達が、両親の国に向かって武器を取らなければならない日が来ない事を、私達はいつも願っております。しかし、万が一その日が来る様な事があれば、二世は覚悟が出来ております。私達は、唯一つの旗“合衆国星条旗”に対して、忠誠を負うのであります」
といった声明を掲載し、二世は今や日本を敵と見做し、銃を向ける覚悟もある事を、アメリカ社会へ向けて明言した[22]。
1941年初頭には、マサオカ・マサオカ(正岡優)JACL山間地区評議会議長によって作成された、『日系アメリカ人の信条』が発表された。
私は、日系アメリカ人である事を、名誉に思っている。それは、私の経歴こそが、この国の素晴らしい利点を、私へ十分に認識させてくれるからである。この国の制度・理想・伝統を信じている。母国の遺産を誇りとしている。母国の歴史を自慢に思う。母国の未来に希望を持っている。母国は、今日の世界において、他国では享受できない様な自由と機会を、私に与えてくれた。母国は、私に大立者となるにふさわしい教育を与えてくれた。母国は、参政権の責任を私に委ねてくれた。母国は、私を他の自国民と同じ、自由な一市民として、家を建て、生計を立て、礼拝し、考え、話し、思い通りに行動する事を許してくれた。
一部の人々は、私を差別するかもしれない。しかし、私は決して、その事で相手を苦々しく思いもしなければ、母国に不信を抱いたりもしない。何故なら、そういった人々は、アメリカ国民の多数を代表する人間では無い事を、私は知っているからである。確かに、そうした慣行を思い止まらせるべく、私は全力を尽くすつもりである。しかし、法廷の場を通して、自身が平等な扱いと尊敬を受けるに値する人間である事を、教育に基づいて、公明正大に証明するという、アメリカ流の方法を以てして、それを行うつもりである。アメリカにおける、スポーツマンシップとフェアプレーの精神は、身体的特徴によってではなく、行動と成果に基づく公民権と愛国心によって、判断されるものであると、私は固く信じている。
私はアメリカを信じており、母国も私を信じてくれていると、確信している。母国から数多の恩恵を受けた事を鑑みて、その体制を支え、国内法を遵守し、星条旗に敬意を表し、国内外における全ての敵から母国を守り、市民としての責務と義務を、積極的に引き受けるべく、より偉大なるアメリカで、より良きアメリカ人になる事を願いつつ、何時如何なる場所でも、母国に謹んで敬意を払う事を、私は誓う。
と綴られ、今日では「二世による、愛国主義的市民ナショナリズムの集大成」と評されている同声明文は、発表と同時に、日系コミュニティおいて、大きな反響を呼ぶ事となった。それに止まらず、モルモン宣教師としての滞日経験がある知日派として知られ、マサオカの盟友でもあった、民主党のエルバート・D・トーマス上院議員によって、同年5月9日付の上院議会記録にも、記載される事となった[23]。
太平洋戦争の勃発と強制収容の実施
1941年12月7日に真珠湾攻撃が起きた数時間後より、FBIは主に一世の日本語学校校長・日本人会及び都道府県人会の会長・僧侶・武術師範・個人事業主といった、日系コミュニティの指導者と見なした人物の逮捕を開始した[24][25]。これに伴い、城戸三郎JACL会長は、日本への宣戦布告を期に、日系人へ着せられた第五列としての汚名をそそぐ事を、急務と捉えた。その事から、ルーズベルト大統領に対して、
「この非常時に、我々は大統領閣下と母国に対して、最大限の協力を惜しまない事を約束します。日本が我が国への攻撃を開始した今、我々は同胞と共に、この侵略を撃退すべく、あらゆる努力を払う準備ができています」
と綴った電報を送るとともに、日系コミュニティを含めたアメリカ社会へ向けては、
「我々は、アメリカ市民としての義務を、あくまでも果たすものである。今こそ、我らの誠心を尽くすべき時が来た。日米開戦は、最も不幸な出来事であるが、戦場に送られると言えども、我らの忠誠は不変である。我等の父母は、法律の下にアメリカ市民たる事を許されないが、しかしアメリカ市民の父母として、善良なる居住民として、あくまでも我等と共に進む事を信じて疑わないものである」
以降のJACLは、政府の公聴会等において「率直に日本と縁を切る」事を声明したほか、忠実で愛国的なアメリカ人としての、二世の実像を喧伝した。また、マサオカ書記長をはじめとする多くのメンバーが「日系コミュニティの政治的安全を守る為には、アメリカ市民権を持たない高齢の一世が、ある程度の犠牲を被る事は止むを得ない」と主張した事もあり、FBIと海軍情報局が「危険人物」とおぼしき一世を、特定する事への捜査協力なども行った[28][29]。
1942年2月19日にルーズベルト大統領が「大統領令9066号」に署名した事に伴い、日系人を強制収容所へ送致する事が決定した。その際、JACLの指導部は、反発する姿勢を示さなかった。寧ろ、積極的に政府の方針に従った方が、日系人の母国への忠誠を証明し、延いては、日系人を敵視するアメリカの誤りを正す事にも繋がる、と考えた。その事からJACLは、約12万人の日系人に対し、冷静に立ち退きを行い、命令に反発する者からは、距離を置く様に呼び掛けた[30]。他にも、JACLのメンバーは、立ち退きの執行にあたって、戦争省との交渉をはじめとして、英語能力の低い一世の為に、必要書類の整理や各種代筆、執行当日に自宅から集合場所への送迎を受け持つなど、多くの重要な役割を果たした[31]。
立ち退き問題が解決した後のJACLは、日系人家庭が収容所から解放された後、工場や農場における極度の労働力不足が、深刻な問題となっていた中西部への再定住を、快適なものにするべく、住宅ローンサービスを提供したほか、シカゴに新たな事務所を設置するなどした[14]。
そうした中で、当時JACLの拠点が設置されていなかったハワイ準州[注釈 7]においては、大学勝利奉仕団による活躍をはじめとして、多くの日系人達があらゆる銃後の仕事をやり遂げ、1942年6月12日には第100歩兵大隊が創設された[33]。その事からJACLは、本土の日系人にも、アメリカ軍へ従軍する権利がある事を主張した。これに呼応する形で、1943年1月28日に、日系人による連隊規模の部隊が編制される事が発表され、収容所内などにおいて、志願兵の募集が始められた。最終的には、ハワイからは大学勝利奉仕団で活躍していた者を含む2,686人、本土の収容所からは1,500人の志願兵が入隊し、第442連隊戦闘団が創設される事となった[34]。
それに伴いJACLは、一世達に志願兵となった我が子に関する投書を、収容所内で発行されている新聞や、収容所から解放された後に定住した地域における各地方紙へ向けて、積極的に行う事を促したりもした[14]。しかし一方で、メンバー達が収容所内において、徴兵拒否者達を厳しく糾弾した事から、大部分の日系人達から非難を浴びる事となった。こうした確執は、JACLと日系コミュニティの間に、戦後も長らく後腐れを残す結果を招いてしまった[30][注釈 8]。
また、公民権弁護士として知られるウェイン・M・コリンズ[注釈 9]も、戦後のインタビューにおいて、
「JACLは、日系人の代弁者を自称していましたが、同胞の為に立ち上がろうとする様子は窺えませんでした…。彼等は、まるで煩わしい鳩の群れでも扱うかの如く、日系人を強制収容所へ導きました」
と語り、戦時中のJACLによる一連の姿勢を非難した[38]。
戦後(1946年~1988年)
日系コミュニティと日米関係の再建
戦後のJACLは、活動の主眼を、日系人の市民権の向上に戻す方針を固めた。
戦後初の全国大会は、1946年2月28日から3月4日にかけて、コロラド州[注釈 10]デンバーで開催された。同大会においては、上述した『日系アメリカ人の信条』を、団体の公式理念として採用する事が、発表された事に加え、
- 日本国籍しか保持しない一世に対する、国外追放の阻止と帰化の推進
- 戦時中における強制収容に対する、謝罪と補償の請求
- 強制収容そのものの合憲性の再検証
- 立ち退きに応じる事が困難な者にも、措置の執行を猶予しなかった事への非難
- 少数民族による全国会議の召集と、問題解決の為の連邦政府内での省庁の設置
- 居住や雇用における差別の撤廃
- 各州における外国人土地法の撤廃[注釈 11]
- 強制収容に関する、第三者による調査機関の設置
- 二世の退役軍人への支援
- 日系アメリカ人のアメリカ化
など、14項目から成る日系コミュニティの再建案も、採択される事となった[23][41]。
以降は、異人種間結婚や人種隔離、人種に基づく移民や帰化を制限する法律を、撤廃若しくは改正するべく、訴訟運動や連邦議会におけるロビー活動を展開した。
その成功例として、ヨーロッパ戦線から復員した後に、反差別委員会委員長となったマイク・マサオカの尽力により、1952年6月27日に「移民国籍法」が成立。これに伴い、一世に帰化市民権が与えられると同時に、日本からの移民が再度認められる事となった[14]。
これをきっかけにJACLは、一世達にアメリカ市民権を取得する事を奨励し、一世からも、市民権取得を要望する声が、多く挙がる様になった。その為、通訳を動員して日本語で授業を行う、米国市民権テストの講習会が、JACLの働き掛けによって、全米各地で開催される事となった[42]。その後、1954年に1,600人の一世による帰化宣誓式が、執り行われた事を皮切りに、1965年までに4万人以上の一世が、アメリカ市民権を取得した[43]。
一方で、「排日移民法」から引き継がれた国別割当制度によって、日本からの新規移民送出は、年間185人にまで制限される事となった[44][注釈 12]。その為、割当外となっていた「戦争花嫁」以外の新規移民を見込む事は困難だと、当初は思われていた。しかし、1953年8月7日に「難民救済法」が成立した事に伴い、10歳以下の孤児の養子縁組移民を、最大4,000人まで受け入れる事が、可能となった。また、1955年に同法の規定が変更されると、台風をはじめとする自然災害の被災者を「難民」として送り出せる事に、マサオカや日本の政治家らが、着目する様になった。この様に、日本からの新規移民送出における消極的局面が、大きく変化した結果として、1956年に「難民救済法」が失効するまで、所謂「GIベビー」として生まれた混血児2,500名と、和歌山県・広島県・鹿児島県からの農業移民1,005名が、アメリカへ渡る事となった[46][47]。
補償請求に際しての困難
1948年7月2日に、日系人の強制収容に対する連邦政府による補償策としては、最初のものとなる「日系人退去補償請求法」が、ハリー・S・トルーマン大統領によって署名された。しかし、国家補償の対象となる日系人の損害・喪失は、文書によって証明できる不動産・私有財産に限られ、精神的苦痛や教育・職業によって見込まれた、逸失利益に対する補償は否定された。また、1件当たりの補償額の上限は2,500ドル、請求権の時効期間も1年半と定められた。
1948年法に基づいた請求は、時効を迎えるまでに22,945件提出され、その4割は限度額である2,500ドルを越えたものだった。しかし、立証責任が請求者に課せられた事から、手続きに時間がかかり、1950年末までに処理された請求は、僅か137件に止まった。それ以降も、1951年の修正法では、補償額を請求額の75%または限度額より少ない額とする事とされた。更に1956年の再修正法では、示談により総額10万ドル以内で補償額を決定する事が基本となり、請求者が不服を申し立てた場合は、連邦請求裁判所において裁決が行われる事とされた。
同法に基づいた補償処理は、1965年に終了したものの、補償総額は請求総額の約25%、日系人の損害総額の10%未満に過ぎなかった[48]。
リドレス運動の展開
そうした中で、1950年代半ば頃から黒人による公民権運動が展開され、結果として1964年に「公民権法」、翌1965年には「投票権法」が、相次いで制定される事となった。こうした動きに触発された日系人達によって、1948年法では考慮されなかった、無形の損害や日系人の自由及び尊厳の回復を求める「リドレス運動」が、1970年代から展開される様になった[49]。
当初は、運動の方針や賠償金を得られた場合の使途を巡って、指導部の間で対立が起きた[50]。しかし、1970年7月に開かれた全国大会において「サンフランシスコ連邦準備銀行が見積もった、4億ドルの推定損失額を超える補償総額を以て、個々人に対して、抑留された日数に応じた補償を行う事。全ての弁済は、免税である事を定めた適切な法を、連邦議会が制定する事」を求める、エディソン・ウノ[注釈 13]による案が、採択される事となった[14][53]。これに伴い、太平洋戦争中における日系人の強制収容に対する、謝罪と補償を要求する為の「全米補償請求委員会」(NCR)が設立され、運動の嚆矢となった[41]。
1976年2月19日[注釈 14]にジェラルド・R・フォード大統領は、「大統領令9066号」の正式な終了を確認する布告「アメリカの誓い」に署名。
「我々は、当時から理解するべきだった事を、今日知った。日系人の強制収容は、誤りだっただけではなく、彼らは当時も今も、忠実なアメリカ人である」
1979年春にNCRは、強制収容所の実態を調査する為の連邦委員会の設置を提案した。これを受けた、民主党のダニエル・イノウエ上院議員とジム・ライト下院議員によって、
- 「大統領令9066号」に関する事実と、その影響に関する調査
- 軍による指令の検証
- 適切な救済策の提示
を目的とした、「戦時における民間人の転住・抑留に関する委員会」(CWRIC)の設置を要求する法案が、連邦議会に提出された。同法案は1980年7月31日に、ジミー・カーター大統領によって署名された[4][57]。
その後、1981年7月から12月にかけて、ワシントンD.C.を皮切りに、ロサンゼルス・サンフランシスコ・シアトル・アンカレッジ・ウナラスカ・シカゴ・ワシントンD.C.(第2回)・ニューヨーク・ボストンの順で公聴会が開かれ、計20日間に亘って、750名の関係者が証言する事となった[58][59]。
1982年12月にCWRICは、『拒否された個人の正義(Personal Justice Denied)』と題した、467ページにも及ぶ報告書を、連邦議会に提出した。同報告書の内容は、翌1983年2月24日に公表され、「日系人の強制収容は、軍事的な必要性ではなく、人種差別・戦時中の集団ヒステリー・政権の失策に基づいた、不当なものだった」と結論付けられた[60]。また、1983年6月22日にCWRICは、存命している元収容者約6万人に対し、1人当たり2万ドルの賠償金を支払う事を、連邦議会に対して勧告した[4][54][56][61]。
1988年8月10日に、ロナルド・レーガン大統領は「市民の自由法」(別称: 日系アメリカ人補償法)に署名。「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と、憲法で保障された権利を侵害した事に対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」として、強制収容を経験した日系人に対して、公式に謝罪を表明した。また、1人当たり2万ドルの賠償金が、存命者にのみ支払われる事と、全米の学校において日系人の強制収容に関する教育を行う為の、総額12億5千万ドルの教育基金が設立される事も、同時に発表された[4][57][58][62]。
また、三世以降にあたる戦後生まれのJACL指導部は、戦時中に強制収容へ抗った者達への名誉回復に努める様になり、2002年には徴兵を拒否した二世を批判した事を、公式に謝罪した[14]。
現在(1994年以降)
LGBT問題への取り組み
1994年には、全国大会において同性カップルによる結婚の権利を含めた、結婚の自由を全ての人に認めるべきだとするスタンスを、確認する決議を採択した。この事からJACLは、アメリカ国内における公民権団体としては初めて、非LGBT組織としては、アメリカ自由人権協会に次いで、同性結婚への支持を明確化した組織となった[63][64]。
他の民族集団との関係
2000年以降、人口動態と政治の変化は、日系人コミュニティの様相にも変革をもたらし、JACLは他のアジア・太平洋諸島系アメリカ人をはじめとする、あらゆる民族集団による権利の保護、特に若い混血の会員による「ハパ・アイデンティティ」の重要性に関する問題へ焦点を当てる事にも、その使命を拡大する事となった[65]。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロをきっかけに、同国内においてアラブ系住民に対するヘイトクライムが急増した。この事態を受けてJACLは、自身達が嘗て見舞われた経験を鑑みて、テロ発生の数日後に開いた記者会見において、一連のヘイトクライムを非難する声明を発表した[66]。
また、ノーマン・ミネタ運輸長官は、アラブ系やムスリムであるという理由で、空港において乗機を拒否される事例が確認された事を受け、国内の各航空会社へ、
- 航空会社が、人種・肌の色・国籍・民族・宗教・氏名・衣服の特徴をもとに、特定の乗客を差別の対象としない様、警告する。
- 様々な我が国の法令が、人種・肌の色・国籍・宗教・性別・祖先をもとに、航空会社が航空輸送の際に、特定の乗客を差別する事を、禁じている。
といった旨の通達を発出した。
上述した措置を取った事により、各方面から非難を浴びる中、CBSの『60 Minutes』に出演した際は、
「アラブ系住民ないしムスリムは、全ての国民と同じだけの尊厳と敬意をもって接せられます。外見や肌の色で判断される事について、私は実体験として知っています」
と述べた。同時に、レイシャル・プロファイリングは安全の基礎とならない事も、自身の経験から明らかであると主張した。これ以降、人種や信仰に基づいた当局による捜査は、回避される事となった[67][68]。
これを期に、日系をはじめとするアジア系コミュニティとムスリムを含めたアラブ系コミュニティによる、双方の相互理解を促進するべく、高校生を中心とする若者を対象とした“Bridging Communities Program”が、立ち上げられる事となった。参加者は、民族性・共同体・組織化・文化・エンパワーメントに関するワークショップを受講する事となる。また、トゥーリーレイク戦争移住センターやマンザナー強制収容所、ミニドカ国立歴史地区への訪問も実施している。同プログラムの運営にあたっては、国立公園局から助成金を受けており、「アメリカ・イスラム関係評議会」「トゥーリーレイク巡礼委員会」「全米日系人歴史協会」「公民権と戦時補償のための日系人組織」などとも提携している[69]。
著名なメンバー
脚注
注釈
- ^ 「連盟(れんめい)」[1][2][3]や「協会(きょうかい)」[4][5][6]と訳す事例も見受けられる。
- ^ 1920年に、初となる日系人によるボーイスカウト隊を創設した。1924年には、日系人で初めてワシントン大学ロー・スクールを卒業し、弁護士となった[9]。1934年8月7日には、ワシントン州下院議員選挙に、キング郡第37区から共和党候補として出馬した。しかし、同年9月11日に実施された予選投票において、選挙区内の共和党候補者5名中、最下位で落選している[10]。因みに父・達弥は、日本では自由民権運動に携わっており、ジョージ山岡の父・音高とも、親しい間柄だった[11]。
- ^ アメリカでは初となる、日系人向けの完全英字新聞である“Japanese American Courier”の創刊者[12]。1937年に第5代JACL会長となった[13]。
- ^ フレズノ在住の歯科医師であり、1935年に第4代JACL会長となった[13]。
- ^ 1872年に日本で生まれる。渡米後の1898年7月9日に海軍に入隊。米西戦争と第一次世界大戦に従軍しただけでなく、マッキンリー・ルーズベルト・タフトといった、3人の歴代大統領の下で、個人給仕係を務めた。1921年に退役した[18]。
- ^ 1895年に日本で生まれる。10歳で渡米した後、父親がカナダへ渡った事を期に、ノースダコタ州マイノットに居住するスローカム家と養子縁組する。ミネソタ大学ツインシティー校を経てコロンビア・ロー・スクールへ進学するものの、第一次世界大戦へ出征する為に中退。陸軍の第82空挺師団第328歩兵連隊の一員として、ムーズ・アルゴンヌ攻勢やサン・ミッシェルの戦いに従軍。上級曹長の階級で退役した[19]。
- ^ 同地においても、1980年に初めて支部が設立された[32]。
- ^ JACLと日系コミュニティの間の確執は、442連隊への志願問題だけに、起因するものではなかった。上述の通り、JACLは政府による強制収容の執行に反対しなかった事に加え、「最も危険な任務の先頭に立ち、何処へでも出撃する」事を旨とした、日系人特攻部隊を創設するだけでなく、同部隊の忠誠心を疑う人々を安心させるべく、隊員の家族や友人を、政府の「人質」とする事を提案するなどした。そうした姿勢が仇となり、JACLは収容初期の時点で、日本で教育を受けた一世や帰米二世の多くから、反感を抱かれていた[35][36]。実際に、重鎮メンバーの中でも、タヤマは1942年12月5日に、城戸も1942年9月と1943年1月の2度に亘って、各々が収容所内で暴行を受ける事態に見舞われている[27][37]。余談ではあるが、TBS系で2010年11月に放送されたドラマ『99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜』の第3夜「強制収容所」では、マンザナー強制収容所で発生したタヤマへの暴行事件を、元にしたシーンが描かれている。
- ^ 1944年のコレマツ対アメリカ合衆国事件では、原告側弁護人を務めた。
- ^ 第二次世界大戦中のアメリカにおいて、一貫して日系人の強制収容に反対していた数少ない政治家だったラルフ・ローレンス・カーが州知事を務めていた事もあり、多くの日系人が保護を求めて、同州へ流入したという背景がある[39]。
- ^ カリフォルニア州では、1952年4月に州最高裁判所が、外国人土地法は合衆国憲法修正第14条に反する、不当な人種差別に当たると判示し、1956年に撤廃された。国内において、最後まで施行されていたワシントン州におけるものも、1966年に撤廃された[40]。
- ^ 1965年に「移民及び国籍法」が成立した事に伴い、国別割当制度は撤廃される事となった[45]。
- ^ カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校在学中の1950年に、当時としてはJACLの創設以来、最年少で支部長に就任する。後に、サンフランシスコ州立大学(SFSU)講師として、国内初となるエスニック研究プログラムの創設に携わる。1976年12月24日に、47歳の若さで急逝するも、SFSUは生前の功績を称え、彼の名を冠した賞と研究所をもうけている[51][52]。
- ^ 現在のアメリカ合衆国において、同日は「追憶の日」と称され、日系人の強制収容に関連するイベントが、各地で催されている[54]。
出典
- ^ このサイトについて | 日系アメリカ人の歴史ポータル - Densho
- ^ 宇山総領事のJACL北加西ネバダ太平洋地区主催ガラへの参加 - 在サンフランシスコ日本国総領事館
- ^ ナンバープレートに日系人蔑視用語、米カンザス州がリコール - CNN.co.jp
- ^ a b c d アメリカの戦後補償(リドレス) - ディスカバー・ニッケイ
- ^ 日系アメリカ人の歴史と体験を
- ^ a b ベフ 2002, p. 115.
- ^ a b “About”. Japanese American Citizens League. 4 July 2018閲覧。
- ^ a b “Districts & Chapters” (英語). Japanese American Citizens League. 2022年1月9日閲覧。
- ^ Clarence T. Arai papers, 1917-2004 - Archives West
- ^ アメリカ西北部日本人移民年表(3) - 同志社大学学術リポジトリ
- ^ シアトル最初期の日系市民運動 - Okayama University
- ^ Marzano (2013年). “James Sakamoto and the Fight for Japanese American Citizenship”. Seattle Civil Rights & Labor History Project. 6 February 2015閲覧。
- ^ a b c Past National Presidents - JACL
- ^ a b c d e f g h Japanese American Citizens League | Densho Encyclopedia
- ^ Miyamoto, Shotaro Frank (1984). Social Solidarity Among the Japanese in Seattle. University of Washington Press. p. xix. ISBN 978-0295961514
- ^ JACL. "History of the Japanese American Citizens League" Archived February 28, 2014, at the Wayback Machine. (accessed February 14, 2014)
- ^ a b Hosokawa, Bill (1969). Nisei: the Quiet Americans. New York: William Morrow & Company. p. 199. ISBN 978-0688050139
- ^ 一世の開拓者たち ーハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924ー その24 - ディスカバー・ニッケイ
- ^ Tokutaro Slocum | Densho Encyclopedia
- ^ ベフ 2002, p. 80.
- ^ 北米におけるマイノリティーの第一次大戦参加と市民権獲得に関する研究(KAKEN 2005年度実績報告書)
- ^ 第二次世界大戦前の日系二世と「アメリカニズム」 - J-stage
- ^ a b Japanese American Creed | Densho Encyclopedia
- ^ Densho. "About the Incarceration: Arrests of Community Leaders" (accessed February 14, 2014)
- ^ ベフ 2002, p. 136.
- ^ [1]
- ^ a b Saburo Kido | Densho Encyclopedia
- ^ Spickard, Paul (1996). Japanese Americans, the Formation and Transformations of an Ethnic Group. Twayne Publishers. pp. 95. ISBN 0-8057-9242-2
- ^ Mike Masaoka | Densho Encyclopedia
- ^ a b Yamato, Sharon (October 21, 2014). “Carrying the Torch: Wayne Collins Jr. on His Father's Defense of the Renunciants”. Discover Nikkei
- ^ ベフ 2002, p. 138.
- ^ About Us - JACL Honolulu
- ^ 100th Infantry Battalion | Densho Encyclopedia
- ^ 442nd Regimental Combat Team | Densho Encyclopedia
- ^ 日系アメリカ人戦時収容所における食と支配 - 立命館大学
- ^ 『二つの祖国』の歴史的真実性について
- ^ Fred Tayama | Densho Encyclopedia
- ^ Weglyn, Michi Nishiura (1976). Years of Infamy: The Untold Story of America's Concentration Camps. New York: William Morrow & Company. p. 255. ISBN 978-0688079963
- ^ 「あなたの親切を忘れない」:カー知事没後70周年、日系住民擁護し立ち上がった人々 - Rafu Shimpo
- ^ 第2回 日系アメリカ人市民同盟シアトル支部 | 北米報知
- ^ a b 日本人花嫁法(1947年)と日系社会 (100周年記念号) - 嘉悦大学リポジトリ
- ^ ベフ 2002, p. 145.
- ^ Immigration Act of 1952 | Densho Encyclopedia
- ^ 戦後期における出入国管理体制の確立と「非移民国」日本 - 立命館大学
- ^ ベフ 2002, p. 125.
- ^ ポスト占領期における日米間の移民とその管理 - 立命館大学
- ^ 難民として米国移住した日本人たち その1: 難民移民誕生の経緯 - ディスカバー・ニッケイ
- ^ 在米日系人強制収容に対する補償法の変遷 - J-stage
- ^ アメリカ黒人史との関わりでたどる、日系アメリカ人の歴史—その3 - ディスカバー・ニッケイ
- ^ Redress movement | Densho Encyclopedia
- ^ 小谷幸子 - 文化科学研究科
- ^ Description of Thomas N. Burbridge and Edison T. Uno Awards
- ^ 日系アメリカ人のリドレス運動の生成過程 - J-stage
- ^ a b アメリカ「追憶の日」から(米国日系移民と人権に関する考察)
- ^ “President Gerald R. Ford's Proclamation 4417, Confirming the Termination of the Executive Order Authorizing Japanese-American Internment During World War II” (英語). Gerald R. Ford Presidential Library and Museum (1976年2月19日). 2011年1月6日閲覧。
- ^ a b 事象の年表 | NVL - Nisei Veterans Legacy
- ^ a b アメリカにおける日系人差別とユダヤ人 ー1906年から1988年を中心にー
- ^ a b Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians | Densho Encyclopedia
- ^ 1940年代の日系アメリカ人 ー強制収容所の記憶ー
- ^ ベフ 2002, p. 128.
- ^ Personal Justice Denied: Report of the Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians - Internment archive
- ^ ベフ 2002, p. 129.
- ^ “JACL Supports Marriage Equality” (英語). Japanese American Citizens League. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “JACL Praises Obama for Stance on Same-Sex Marriage”
- ^ “Statement – The Japanese American Citizens League”. The American Civil Liberties Union. 4 July 2018閲覧。
- ^ イスラム教系コミュニティとの橋渡し - ディスカバー・ニッケイ
- ^ <一般質問>町制施行50周年でノーマン・ミネタ氏の記念講演を
- ^ NHK BSプレミアム2011年7月19日放送『渡辺謙 アメリカを行く』より
- ^ “About the Bridging Communities Program”
参考文献
- ハルミ・ベフ 編『日系アメリカ人の歩みと現在』人文書院、2002年。ISBN 4-409-23036-0。