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{{by|1999年}}は新人ながら[[先発ローテーション]]に入り、[[1999年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]に監督推薦で選出された。シーズン成績は、11勝8敗、8[[完投]]、防御率2.85の好成績を挙げた{{Refnest|group="注"|なお、この年は[[金田政彦]]と[[星野伸之]]も2桁勝利を挙げた。チームでは2001年に移籍組の[[小倉恒]]と[[加藤伸一]]が二桁勝利を挙げたが、2000年から2004年まで二桁勝利を挙げた生え抜きの投手がいなかった。チームは2004年オフに[[大阪近鉄バファローズ]]と合併したことから、川越は金田と星野と共にブルーウェーブ時代最後の生え抜きの2桁勝利投手となった}}。高卒の[[松坂大輔]]が16勝を挙げたため[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]は逃したものの[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]特別表彰で優秀新人賞を受賞。常に[[ストライク (野球)|ストライク]]先行で[[四球]]が少ない投球が目立ち、[[シドニーオリンピック野球日本代表|シドニーオリンピック]]予選にも選出された<ref name="週刊ベースボール2011年10月24日号" />。
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{{by|2001年}}は1勝5敗と低迷した。
{{by|2001年}}は1勝5敗、防御率6.07と低迷した。


{{by|2002年}}は[[先発投手|先発]]・[[リリーフ]]で34試合に[[登板]]したが、5月5日の[[大阪近鉄バファローズ]]戦での勝利を最後に、プロ野球史上7人目の12連敗を喫するなど記録的な低迷に終わる。
{{by|2002年}}は[[先発投手|先発]]・[[リリーフ]]で34試合に[[登板]]したが、5月5日の[[大阪近鉄バファローズ]]戦での勝利を最後に、プロ野球史上7人目の12連敗を喫するなど記録的な低迷に終わる。
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{{by|2003年}}はほとんど登板できず、0勝3敗で連敗記録は15に伸びた。
{{by|2003年}}はほとんど登板できず、0勝3敗で連敗記録は15に伸びた。


{{by|2004年}}はシーズン当初より先発ローテーションで起用されるも不調は続き、4月16日の近鉄戦では2回2/3を7安打2四球5失点で降板した後、試合中にも関わらず監督[[伊原春樹]]にベンチ内で説教を受けた。なお、試合はその後同点に追いついたため黒星はつかなかった。4月24日の[[千葉ロッテマリーンズ]]戦([[千葉マリンスタジアム]])で7回を8安打4四球と苦しみながらも、同じく3年勝ち星がなく、この日千葉マリンで1035日ぶりの登板となる[[黒木知宏]]を相手に2対1のスコアで投げ勝ち、720日ぶりの勝利を挙げた<ref>{{ウェブアーカイブ |title=長かった…15連敗の川越英隆 720日ぶりの勝利 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1204/kiji/K20120424003111690.html |date=2012-04-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131214130601/http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1204/kiji/K20120424003111690.html |archivedate=2021-12-24}}</ref><ref>{{cite web |url=https://dot.asahi.com/dot/2021040900074.html |title=ベンチから「怒鳴り声」が聞こえそう…TV中継されてしまった“公開説教” |website=AREA dot. |date=2021-04-10|accessdate=2021-12-24}}</ref>。最終的にチームは最下位に終わり、個人成績も7勝9敗と負け越したが、6年ぶりに規定投球回をクリアした{{Refnest|group="注"|同じく規定投球回をクリアした[[本柳和也]]と共にブルーウェーブ最後の規定投球回クリア投手となった}}。シーズン後、近鉄との[[プロ野球再編問題 (2004年)#選手分配ドラフト|球団合併に伴う分配ドラフト]]によりオリックス・バファローズに所属することが決まり、初代選手会長に就任した<ref name="週刊ベースボール2011年10月24日号" />。
{{by|2004年}}はシーズン当初より先発ローテーションで起用されるも不調は続き、4月16日の近鉄戦では2回2/3を7安打2四球5失点で降板した後、試合中にも関わらずこの年監督に就任した[[伊原春樹]]にベンチ内で説教を受けた。なお、試合はその後同点に追いついたため黒星はつかなかった。4月24日の[[千葉ロッテマリーンズ]]戦([[千葉マリンスタジアム]])で7回を8安打4四球と苦しみながらも、同じく3年勝ち星がなく、この日千葉マリンで1035日ぶりの登板となる[[黒木知宏]]を相手に2対1のスコアで投げ勝ち、720日ぶりの勝利を挙げた<ref>{{ウェブアーカイブ |title=長かった…15連敗の川越英隆 720日ぶりの勝利 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1204/kiji/K20120424003111690.html |date=2012-04-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131214130601/http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1204/kiji/K20120424003111690.html |archivedate=2021-12-24}}</ref><ref>{{cite web |url=https://dot.asahi.com/dot/2021040900074.html |title=ベンチから「怒鳴り声」が聞こえそう…TV中継されてしまった“公開説教” |website=AREA dot. |date=2021-04-10|accessdate=2021-12-24}}</ref>。最終的にチームは最下位に終わり、個人成績も7勝9敗と負け越したが、6年ぶりに規定投球回をクリアした{{Refnest|group="注"|同じく規定投球回をクリアした[[本柳和也]]と共にブルーウェーブ最後の規定投球回クリア投手となった}}。シーズン後、近鉄との[[プロ野球再編問題 (2004年)#選手分配ドラフト|球団合併に伴う分配ドラフト]]によりオリックス・バファローズに所属することが決まり、初代選手会長に就任した<ref name="週刊ベースボール2011年10月24日号" />。


{{by|2005年}}は[[野球の背番号|背番号]]を'''11'''に変更して[[開幕投手]]を務め、6勝ながら5年ぶりの防御率3点台(規定回数にはわずかに及ばず)と結果を残した<ref name="週刊ベースボール2011年10月24日号" />。
{{by|2005年}}は[[野球の背番号|背番号]]を'''11'''に変更して[[開幕投手]]を務め、6勝ながら5年ぶりの防御率3点台(規定回数にはわずかに及ばず)と結果を残した<ref name="週刊ベースボール2011年10月24日号" />。
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{{by|2007年}}は球団史上[[星野伸之]]以来となる3年連続開幕投手を務めたがシーズン成績は4勝に留まり、防御率5.22、リーグワーストの20[[本塁打#被本塁打|被本塁打]]と低迷した。
{{by|2007年}}は球団史上[[星野伸之]]以来となる3年連続開幕投手を務めたがシーズン成績は4勝に留まり、防御率5.22、リーグワーストの20[[本塁打#被本塁打|被本塁打]]と低迷した。


{{by|2008年}}は、開幕当初は先発として投げていたが前年同様不調に陥り、4月25日の[[埼玉西武ライオンズ]]戦を最後に[[リリーフ#中継ぎ|中継ぎ]]に転向。中継ぎとして好投を続け、チーム2位の13[[ホールド]]を記録した。
{{by|2008年}}は、開幕当初は先発として投げていたが前年同様不調に陥り、4月25日の[[埼玉西武ライオンズ]]戦を最後に[[リリーフ#中継ぎ|中継ぎ]]に転向。中継ぎとして好投を続け、自己最多の51試合に登板し、チーム2位の13[[ホールド]]を記録した。


{{by|2009年}}はオープン戦から不調で、シーズン初登板の[[福岡ソフトバンクホークス]]戦では[[本多雄一]]に[[サヨナラゲーム|サヨナラ]]打を打たれた。その後も一軍と二軍の往復が続いて結果を出せず、10月3日に[[戦力外通告]]を受けた<ref>{{cite news|url=http://sports.nikkei.co.jp/flash.aspx?n=125302|title=川越ら7選手が戦力外 オリックス|work=NIKKEI NET|publisher=[[日経新聞社]]|date=2009-10-03|accessdate=2009-10-03}}</ref>。
{{by|2009年}}はオープン戦から不調で、シーズン初登板の[[福岡ソフトバンクホークス]]戦では[[本多雄一]]に[[サヨナラゲーム|サヨナラ]]打を打たれた。その後も中継ぎで起用されるが一軍と二軍の往復が続いて結果を出せず、15試合の登板に終わった。また、プロ入りしてから初めて先発登板が一度もなかった。10月3日に[[戦力外通告]]を受けた<ref>{{cite news|url=http://sports.nikkei.co.jp/flash.aspx?n=125302|title=川越ら7選手が戦力外 オリックス|work=NIKKEI NET|publisher=[[日経新聞社]]|date=2009-10-03|accessdate=2009-10-03}}</ref>。


=== ロッテ時代 ===
=== ロッテ時代 ===
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{{by|2010年}}は15試合に登板、4試合に先発し、3勝2敗、防御率7.36の成績に終わる。
{{by|2010年}}は15試合に登板、4試合に先発し、3勝2敗、防御率7.36の成績に終わる。


{{by|2011年}}は昨季を上回る18試合に登板し、[[防御率]]、[[WHIP]]を始め、[[自責点]]、[[奪三振]]、与[[四球]]、与[[死球]]、被[[安打]]、被[[本塁打]]などほとんどの項目で前年より改善された。9月26日には今季限りで現役引退が報じられたが<ref>{{cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/27/kiji/K20110927001707760.html |title=38歳の決断も…川越「やれる自信も、続けたい気持ちもある」 |newspaper=スポーツニッポン |date=2011-09-27 |accessdate=2021-12-24}}</ref>、翌27日に自身のブログでまだ引退の決断はしていないと否定した<ref>{{cite web |url=https://ameblo.jp/kawagoe-hidetaka/entry-11031526912.html |title=ファンの皆様へ |website=川越英隆オフィシャルブログ |date=2011-09-27 |accessdate=2021-12-24}}</ref>。しかし、11月27日に現役を引退し<ref>{{cite web |url=https://sp.marines.co.jp/news/detail/8362.html |title=川越英隆投手 引退のお知らせ |website=千葉ロッテマリーンズ |date=2011-11-27|accessdate=2021-12-24}}</ref>、{{by|2012年}}からロッテの二軍投手コーチに就任することが発表された<ref>{{cite web |url=https://sp.marines.co.jp/news/detail/8363.html |title=2012年度のコーチングスタッフのお知らせ] |website=千葉ロッテマリーンズ |date=2011-11-27|accessdate=2021-12-24}}</ref>。背番号は'''89'''。
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=== 引退後 ===
=== 引退後 ===

2022年9月19日 (月) 05:20時点における版

川越 英隆
千葉ロッテマリーンズ 二軍チーフ投手コーチ #89
右が川越、左は鶴岡一成
(2018年3月10日、ロッテ浦和球場にて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県相模原市
生年月日 (1973-06-08) 1973年6月8日(51歳)
身長
体重
174 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1998年 ドラフト2位(逆指名)
初出場 1999年4月6日
最終出場 2011年8月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 千葉ロッテマリーンズ (2012 - )

川越 英隆(かわごえ ひでたか、1973年6月8日 - )は、神奈川県相模原市出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。現在は千葉ロッテマリーンズの二軍チーフ投手コーチ

経歴

プロ入り前

小さい頃から野球に興味を持ち、幼稚園の時に駄々をこね父兄同伴で小学生の野球チームに参加を認められたことがある。その頃から投手を務め[1]、相模原市立桜台小学校、相模原市立相模台中学校を卒業後、甲子園出場を目指して福島県学校法人石川高等学校野球留学した。娯楽の無い環境で野球に打ち込み、3年時には第63回選抜高等学校野球大会第73回全国高等学校野球選手権大会に春夏連続出場[1]するも両大会共に2回戦敗退。

高校卒業後は、監督の河原井正雄から熱心な勧誘を受け東都大学野球連盟所属の青山学院大学に進学した[1]。3年先輩に木村龍治、1年上には小久保裕紀、同期では坪井智哉、1年後輩にはプロでもチームメイトとなる井口資仁らがいた。しかし、大学ではリーグ通算20試合の登板で3勝2敗、防御率3.11に終わり、一時は野球を辞めようと考えた[1]、が村上忠則監督(当時)が誘い、卒業後に社会人野球日産自動車に入社[1]第69回都市対抗野球大会では決勝で後にプロでチームメイトとなる後藤光尊を擁する川崎製鉄千葉を下して優勝し、最優秀選手に贈られる橋戸賞を獲得[1]。当時の社会人野球は金属バット使用が認められていたため打者優位にあり、ここで川越は投球術に磨きをかけた[1]

1998年ドラフト会議では、オリックス・ブルーウェーブから2位指名を受け入団した。

オリックス時代

1999年は新人ながら先発ローテーションに入り、オールスターに監督推薦で選出された。シーズン成績は、11勝8敗、8完投、防御率2.85の好成績を挙げた[注 1]。高卒の松坂大輔が16勝を挙げたため新人王は逃したもののパ・リーグ特別表彰で優秀新人賞を受賞。常にストライク先行で四球が少ない投球が目立ち、シドニーオリンピック予選にも選出された[1]

2000年は右肘の故障により途中離脱し、8勝に留まった。そしてシーズン後に手術を受けた[1]

2001年は1勝5敗、防御率6.07と低迷した。

2002年先発リリーフで34試合に登板したが、5月5日の大阪近鉄バファローズ戦での勝利を最後に、プロ野球史上7人目の12連敗を喫するなど記録的な低迷に終わる。

2003年はほとんど登板できず、0勝3敗で連敗記録は15に伸びた。

2004年はシーズン当初より先発ローテーションで起用されるも不調は続き、4月16日の近鉄戦では2回2/3を7安打2四球5失点で降板した後、試合中にも関わらずこの年監督に就任した伊原春樹にベンチ内で説教を受けた。なお、試合はその後同点に追いついたため黒星はつかなかった。4月24日の千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)で7回を8安打4四球と苦しみながらも、同じく3年勝ち星がなく、この日千葉マリンで1035日ぶりの登板となる黒木知宏を相手に2対1のスコアで投げ勝ち、720日ぶりの勝利を挙げた[2][3]。最終的にチームは最下位に終わり、個人成績も7勝9敗と負け越したが、6年ぶりに規定投球回をクリアした[注 2]。シーズン後、近鉄との球団合併に伴う分配ドラフトによりオリックス・バファローズに所属することが決まり、初代選手会長に就任した[1]

2005年背番号11に変更して開幕投手を務め、6勝ながら5年ぶりの防御率3点台(規定回数にはわずかに及ばず)と結果を残した[1]

2006年も開幕投手を務めたが、右肘の炎症で一時離脱した。復帰後は安定した投球で9勝を挙げたものの、打線の援護に恵まれなかった面もあり6月と8月に1勝もできず、7年ぶりの2桁勝利はならなかった。

2007年は球団史上星野伸之以来となる3年連続開幕投手を務めたがシーズン成績は4勝に留まり、防御率5.22、リーグワーストの20被本塁打と低迷した。

2008年は、開幕当初は先発として投げていたが前年同様不調に陥り、4月25日の埼玉西武ライオンズ戦を最後に中継ぎに転向。中継ぎとして好投を続け、自己最多の51試合に登板し、チーム2位の13ホールドを記録した。

2009年はオープン戦から不調で、シーズン初登板の福岡ソフトバンクホークス戦では本多雄一サヨナラ打を打たれた。その後も中継ぎで起用されるが一軍と二軍の往復が続いて結果を出せず、15試合の登板に終わった。また、プロ入りしてから初めて先発登板が一度もなかった。10月3日に戦力外通告を受けた[4]

ロッテ時代

シーズン終了後にロッテの秋季キャンプへ参加して入団テストを受け、11月24日にロッテへの入団が発表された[5]。背番号は46

2010年は15試合に登板、4試合に先発し、3勝2敗、防御率7.36の成績に終わる。

2011年は昨季を上回る18試合に登板し、防御率WHIPを始め、自責点奪三振、与四球、与死球、被安打、被本塁打などほとんどの項目で前年より改善された。9月26日には今季限りで現役引退が報じられたが[6]、翌27日に自身のブログでまだ引退の決断はしていないと否定した[7]。しかし、11月27日に現役を引退し[8]2012年からロッテの二軍投手コーチに就任することが発表された[9]。背番号は89

引退後

2013年まで二軍投手コーチを務め、2014年は一軍投手コーチとしてブルペンを担当していたが、同年の5月3日の西武戦から川崎憲次郎と入れ替わりでベンチ担当になった[10]。このシーズン途中の配置転換について、監督の伊東勤は「(救援投手の)起用法でズレが生じてきていた。遠慮していたところもあったと思う。チームが悪くなってから、そういうこと(配置転換)はしたくない」と説明した。しかし、同年はチーム防御率リーグ最下位に終わっている。

2015年からは再び二軍投手コーチを[11]2019年からは一軍投手コーチを務め[12]2022年からは二軍チーフ投手コーチを務める[13]

プレースタイル・人物

カットボールの制球力が高く[14]、2005年には曲り幅が改善[15]。先発時代は制球、緩急を重視したスタイルだったが、リリーフ転向後は力でねじ伏せるスタイルへと変化した[16]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1999 オリックス 26 25 8 2 1 11 8 0 -- .579 730 177.0 159 14 47 2 1 134 2 0 75 56 2.85 1.16
2000 15 15 2 1 0 8 6 0 -- .571 400 92.2 100 5 31 0 0 71 3 0 43 39 3.79 1.41
2001 14 14 1 0 0 1 5 0 -- .167 320 69.2 92 10 27 1 0 46 3 0 53 47 6.07 1.71
2002 34 15 0 0 0 3 15 0 -- .167 528 117.0 148 13 36 8 4 71 2 0 71 64 4.92 1.57
2003 7 6 0 0 0 0 3 0 -- .000 156 34.0 41 6 12 0 0 18 0 0 21 18 4.76 1.56
2004 22 20 3 0 1 7 9 0 -- .438 603 144.2 161 17 30 1 3 91 2 0 69 67 4.17 1.32
2005 24 22 3 1 1 6 8 0 0 .429 557 132.2 142 17 25 0 4 89 3 0 64 54 3.66 1.26
2006 24 24 3 0 1 9 9 0 0 .500 671 163.1 169 14 29 1 6 74 1 0 64 57 3.14 1.21
2007 24 24 1 1 0 4 7 0 0 .364 562 129.1 161 20 26 0 5 75 1 1 79 75 5.22 1.45
2008 51 5 0 0 0 2 3 0 13 .400 322 74.1 80 7 17 1 3 52 0 0 42 33 4.00 1.30
2009 24 0 0 0 0 0 1 0 1 .000 141 31.2 45 4 5 0 1 17 0 0 20 17 4.83 1.58
2010 ロッテ 15 4 0 0 0 3 2 0 0 .600 144 29.1 49 4 3 0 2 14 0 0 25 24 7.36 1.77
2011 18 0 0 0 0 0 0 0 2 ---- 77 19.2 17 0 2 0 0 15 2 0 4 3 1.37 0.97
通算:13年 298 174 21 5 4 54 76 0 16 .415 5211 1215.1 1364 131 290 14 29 767 19 1 630 554 4.10 1.36
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

  • パ・リーグ連盟特別表彰:1回(新人特別賞:1999年)
  • 月間MVP:1回(投手部門:1999年5月)

記録

初記録
節目の記録
その他の記録
  • 5イニング未満の投球で先発勝利:2000年5月9日、対大阪近鉄バファローズ6回戦(米子市民球場)、4回0/3を8失点(5回裏無死濃霧コールド) ※史上2人目
  • オールスターゲーム出場:1回(1999年) ※2000年も選出されるも出場辞退[17]

背番号

  • 20(1999年 - 2004年)
  • 11(2005年 - 2009年)
  • 46(2010年 - 2011年)
  • 89(2012年 - )

脚注

注釈

  1. ^ なお、この年は金田政彦星野伸之も2桁勝利を挙げた。チームでは2001年に移籍組の小倉恒加藤伸一が二桁勝利を挙げたが、2000年から2004年まで二桁勝利を挙げた生え抜きの投手がいなかった。チームは2004年オフに大阪近鉄バファローズと合併したことから、川越は金田と星野と共にブルーウェーブ時代最後の生え抜きの2桁勝利投手となった
  2. ^ 同じく規定投球回をクリアした本柳和也と共にブルーウェーブ最後の規定投球回クリア投手となった

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 野球浪漫 川越英隆『週刊ベースボール』2011年10月24日号、ベースボール・マガジン社、2011年、雑誌20442-10/24, 56-59頁。
  2. ^ 長かった…15連敗の川越英隆 720日ぶりの勝利 - ウェブアーカイブ(2021年12月24日)
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関連項目

外部リンク