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[[小学校]][[教員]]、郡書記、[[滋賀県警察部|滋賀県警部長]]を経て[[1880年]]に上京、[[伊藤博文]]に知られその縁で[[内務省 (日本)|内務省]]に入省。[[1889年]]に官僚を辞し、[[弘世助三郎]]に[[日本生命保険|日本生命保険会社]]の実務を任せられ、創立時に副社長に就任。日本生命初代社長[[鴻池善右衛門]]に続き、[[1903年]]より[[1919年]]までの17年に渡って2代目社長を務めた。[[1915年]]、[[都ホテルズ&リゾーツ|都ホテル]]の社長に就任。共同銀行、[[関西鉄道]]などでも活躍した。
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政界にも地歩を築き、[[1893年]]に[[衆議院|衆議院議員]]に選出。以降当選8回を数える。この間に[[桂太郎]]の新党構想に関与して所属の[[立憲国民党]]の分裂を引き起こして[[桂新党]]([[立憲同志会]])に参加、後に後身の[[憲政会]]総務を務める。[[第2次加藤高明内閣]]にて、[[商工省|商工大臣]]として初入閣。[[第1次若槻内閣]]で[[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|大蔵大臣]]を務める。
政界にも地歩を築き、[[1893年]]に[[衆議院|衆議院議員]]に選出。以降当選8回を数える。この間に[[桂太郎]]の新党構想に関与して所属の[[立憲国民党]]の分裂を引き起こして[[桂新党]]([[立憲同志会]])に参加、後に後身の[[憲政会]]総務を務める。[[第2次加藤高明内閣]]にて、[[商工省|商工大臣]]として初入閣。[[第1次若槻内閣]]で[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]を務める。


== 失言恐慌 ==
== 失言恐慌 ==
昭和2年(1927年)3月14日の衆議院[[予算委員会]]で、[[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧#大蔵大臣(旧憲法下)|大蔵大臣]]として「[[東京渡辺銀行]]がとうとう破綻を致しました」と実際には破綻していなかったにもかかわらず失言する。これを機に[[取り付け騒ぎ]]が発生、これが[[昭和金融恐慌]]の引き金となり、若槻内閣は総辞職に追い込まれる。その後、昭和5年(1930年)4月11日に[[貴族院 (日本)|貴族院勅選議員]]に勅任し<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、38頁。</ref>、[[同成会]]に所属して死去するまで在任した{{R|貴参}}<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、43頁。</ref>。
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2023年1月7日 (土) 06:15時点における版

片岡直温

片岡 直温(かたおか なおはる、1859年10月13日安政6年9月18日)- 1934年昭和9年)5月21日[1])は、明治から昭和初期の実業家政治家土佐国高岡郡半山郷永野村(現在の高知県津野町永野[2])出身。片岡直輝の弟で、片岡安娘婿

来歴・人物

小学校教員、郡書記、滋賀県警部長を経て1880年に上京、伊藤博文に知られその縁で内務省に入省。1889年に官僚を辞し、弘世助三郎日本生命保険会社の実務を任せられ、創立時に副社長に就任。日本生命初代社長鴻池善右衛門に続き、1903年より1919年までの17年に渡って2代目社長を務めた。1915年都ホテルの社長に就任。共同銀行、関西鉄道などでも活躍した。

政界にも地歩を築き、1893年衆議院議員に選出。以降当選8回を数える。この間に桂太郎の新党構想に関与して所属の立憲国民党の分裂を引き起こして桂新党立憲同志会)に参加、後に後身の憲政会総務を務める。第2次加藤高明内閣にて、商工大臣として初入閣。第1次若槻内閣大蔵大臣を務める。

失言恐慌

昭和2年(1927年)3月14日の衆議院予算委員会で、大蔵大臣として「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と実際には破綻していなかったにもかかわらず失言する。これを機に取り付け騒ぎが発生、これが昭和金融恐慌の引き金となり、若槻内閣は総辞職に追い込まれる。その後、昭和5年(1930年)4月11日に貴族院勅選議員に勅任し[3]同成会に所属して死去するまで在任した[1][4]

栄典

脚注

  1. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』112頁。
  2. ^ 片岡直輝・直温生家 よさこいネット
  3. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、38頁。
  4. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、43頁。
  5. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  6. ^ 『官報』第2215号「叙任及辞令」1934年5月23日。

参考文献

  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

関連書籍

  • 佐高信『失言恐慌 ドキュメント東京渡辺銀行の崩壊』現代教養文庫、1995年。
    • 佐高信『失言恐慌 ドキュメント銀行崩壊』角川文庫、2004年。
    • 佐高信『昭和恐慌の隠された歴史 蔵相発言で破綻した東京渡辺銀行』七つ森書館、2012年。

関連項目

外部リンク


ビジネス
先代
鴻池善右衛門
日本生命保険社長
第2代:1903年 - 1919年
次代
弘世助太郎
公職
先代
早速整爾
日本の旗 大蔵大臣
第27代:1926 - 1927
次代
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先代
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日本の旗 商工大臣
第3代:1925 - 1926
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