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山際の総裁退任以降も池田勇人の強い意向の下で、池田の総理退任時にすぐに発足した[[第1次佐藤内閣|佐藤政権]]の[[田中角栄]]蔵相の下で、日銀生え抜きで“日銀のプリンス”と称されていた総裁本命候補・佐々木直を押しのけて、市中銀行(三菱)出身の[[宇佐美洵]]が[[日本銀行#歴代日本銀行総裁|日銀総裁]]の座に座ることとなった。日銀はこれ以後、大蔵省の[[財政政策|積極財政]]路線の脇役に甘んじることとなり、文字通り「大蔵省本石町出張所」という有難くない名称までつけられることとなった。1975年3月16日没。[[享年]]75(満73歳)。
山際の総裁退任以降も池田勇人の強い意向の下で、池田の総理退任時にすぐに発足した[[第1次佐藤内閣|佐藤政権]]の[[田中角栄]]蔵相の下で、日銀生え抜きで“日銀のプリンス”と称されていた総裁本命候補・佐々木直を押しのけて、市中銀行(三菱)出身の[[宇佐美洵]]が[[日本銀行#歴代日本銀行総裁|日銀総裁]]の座に座ることとなった。日銀はこれ以後、大蔵省の[[財政政策|積極財政]]路線の脇役に甘んじることとなり、文字通り「大蔵省本石町出張所」という有難くない名称までつけられることとなった。1975年3月16日没。[[享年]]75(満73歳)。

2023年1月7日 (土) 06:17時点における版

山際 正道(やまぎわ まさみち、1901年明治34年)6月12日 - 1975年昭和50年)3月16日)は、第20代日本銀行総裁大蔵次官東京出身。

来歴・人物

東京府出身[1]1925年 東京帝国大学経済学部[1]大蔵省に入り(主計局配属[2])、銀行検査官、朝鮮銀行台湾銀行各検査官[1]、銀行、秘書、調査、文書の各課長を経て[1]銀行局長に就任する[1]1945年大蔵次官に就任するが、戦後、公職追放となる[3]。追放解除後は日本輸出入銀行総裁から日銀総裁に就任。当時蔵相であった大蔵省入省同期の池田勇人(のち首相)らと共に日銀法改正の焦点を巡って、日本銀行と水面下で熾烈なバトルを展開した。大蔵側は池田、下村治、日銀側は松本重雄佐々木直副総裁らを論客としていた。池田蔵相、同総理時代の日銀総裁在任中は、大蔵省と歩調を合わせて、日銀の意向とは別に、高度経済成長下、内需拡大政策をサポートするために、公定歩合を引き下げ低金利政策路線に舵をとっていた。

山際の総裁退任以降も池田勇人の強い意向の下で、池田の総理退任時にすぐに発足した佐藤政権田中角栄蔵相の下で、日銀生え抜きで“日銀のプリンス”と称されていた総裁本命候補・佐々木直を押しのけて、市中銀行(三菱)出身の宇佐美洵日銀総裁の座に座ることとなった。日銀はこれ以後、大蔵省の積極財政路線の脇役に甘んじることとなり、文字通り「大蔵省本石町出張所」という有難くない名称までつけられることとなった。1975年3月16日没。享年75(満73歳)。

経歴

脚注

  1. ^ a b c d e 日本官界情報社 編『日本官界名鑑』1942年、18頁。NDLJP:1271159 
  2. ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、256頁
  3. ^ 『朝日新聞』1946年2月10日一面。
  4. ^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940288/87

関連項目

外部リンク

公職
先代
田中豊
日本の旗 大蔵次官
1945 - 1946年
次代
山田義見