田中豊 (大蔵官僚)
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名前 | ||||||
カタカナ | タナカ ユタカ | |||||
ラテン文字 | TANAKA Yutaka | |||||
基本情報 | ||||||
生年月日 |
1898年10月11日 大日本帝国、愛媛県[1] | |||||
没年月日 |
1969年2月5日(70歳没) 日本、東京都港区[2] | |||||
ユース | ||||||
年 | チーム | |||||
-1923 | 東京帝国大学 | |||||
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田中 豊(たなか ゆたか、1898年10月11日[3] - 1969年2月5日[2])は、愛媛県出身の大蔵官僚。大蔵次官、宝酒造社長、日本勧業銀行副総裁。
経歴
[編集]第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法学部に入学。東京帝大在学時はア式蹴球部に所属した[4]。
1923年に大学を卒業して大蔵省に入省[1]。銀行局に配属[5]。主税局国税課長[6]、理財局長を経て、太平洋戦争中の1944年に主税局長に就任[1]。1945年2月24日に大蔵次官に就任したが、津島壽一の大蔵大臣辞任に伴って同年4月に退任した[7]。
戦後の1945年9月より日本勧業銀行の副総裁を務めた[7]が、公職追放により副総裁を辞任し、弁護士を開業した。1951年、宝酒造社長に就任し、1965年に相談役となった[3]。
→「Category:日本の実業家」を参照
1969年2月5日、東京都港区の虎の門病院で胆道癌により死去した[2]。
娘は大倉真隆(元大蔵事務次官)と宮崎知雄(元大蔵省国際金融局長)に嫁いだ[8]。
出典
[編集]- ^ a b c 「大蔵次官更迭 田中豊氏昇格」 朝日新聞、1945年2月24日、2014年9月29日閲覧
- ^ a b c 「田中豊氏 訃報」 朝日新聞東京本社夕刊、9面、1969年2月5日、2014年9月29日閲覧
- ^ a b 『人事興信録 第24版 下』人事興信所、1968年、た70頁。
- ^ 「東大サッカー部誌創刊号 (PDF) 」p.18、p59、1963年、2014年9月28日閲覧
- ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、236頁
- ^ 所得税と戦時税制
- ^ a b 「勧銀副総裁に田中氏」 朝日新聞、1945年9月16日、2014年9月29日閲覧
- ^ 官僚機構-大蔵官僚とは何か
公職 | ||
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先代 松隈秀雄 |
大蔵次官 1945年 |
次代 山際正道 |