「小野義一」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
Lifeonthetable (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
|||
7行目: | 7行目: | ||
[[高知県]]出身。小野義為の長男として生まれる。[[高知県立高知追手前高等学校|高知一中]]、[[東京都立戸山高等学校|東京府立四中]]を経て、[[1898年]]7月、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]政治科を首席で卒業。[[1903年]]7月、[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法科大学]]政治学科を首席の優等で卒業し、[[銀時計]]を授与された。東大の同期には[[小川郷太郎]]や[[上杉慎吉]]、[[馬場鍈一]]ら。同年同月、[[大蔵省|大蔵]]属に任官し[[主計局]]兼[[参事官]]付となる。同年11月、[[高等文官試験|文官高等試験行政科試験]]に次席合格。この時の首席合格者は馬場鍈一だった<ref>『馬場鍈一伝』(青木信光編、故馬場鍈一氏記念会、1945年) P31</ref>。 |
[[高知県]]出身。小野義為の長男として生まれる。[[高知県立高知追手前高等学校|高知一中]]、[[東京都立戸山高等学校|東京府立四中]]を経て、[[1898年]]7月、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]政治科を首席で卒業。[[1903年]]7月、[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法科大学]]政治学科を首席の優等で卒業し、[[銀時計]]を授与された。東大の同期には[[小川郷太郎]]や[[上杉慎吉]]、[[馬場鍈一]]ら。同年同月、[[大蔵省|大蔵]]属に任官し[[主計局]]兼[[参事官]]付となる。同年11月、[[高等文官試験|文官高等試験行政科試験]]に次席合格。この時の首席合格者は馬場鍈一だった<ref>『馬場鍈一伝』(青木信光編、故馬場鍈一氏記念会、1945年) P31</ref>。 |
||
[[1906年]]11月、[[大蔵省専売局|煙草専売局]][[事務官]]に就任。以後、[[樺太民政署]]事務官兼大蔵[[書記官]]、大蔵省[[参事官]]、[[大蔵省専売局|専売局]]製造部調査課長、同官房調査課長、大蔵省[[大臣官房]]会計課長、兼[[ |
[[1906年]]11月、[[大蔵省専売局|煙草専売局]][[事務官]]に就任。以後、[[樺太民政署]]事務官兼大蔵[[書記官]]、大蔵省[[参事官]]、[[大蔵省専売局|専売局]]製造部調査課長、同官房調査課長、大蔵省[[大臣官房]]会計課長、兼[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]][[秘書官]]、兼[[日本興業銀行]]監理官、[[大阪税関]]長、[[神戸税関]]長、大蔵省[[銀行局]]長、同[[理財局]]長などを歴任し、[[1924年]]1月に退官。 |
||
1924年5月、[[第15回衆議院議員総選挙]]に高知県第五区から出馬し当選。同年6月、[[大蔵次官]]に政治任用され、同年8月まで在任した。[[1928年]]1月、東京市助役に就任し、[[1929年]]2月まで在任。[[1942年]]4月の[[第21回衆議院議員総選挙]]で高知県第二区に[[大政翼賛会|翼賛政治体制協議会]]推薦(旧[[立憲民政党]])で出馬し当選。のち、[[日本進歩党]]に所属し、衆議院議員を通算二期務めた。[[戦後]]、[[1947年]]に[[公職追放]]となった。 |
1924年5月、[[第15回衆議院議員総選挙]]に高知県第五区から出馬し当選。同年6月、[[大蔵次官]]に政治任用され、同年8月まで在任した。[[1928年]]1月、東京市助役に就任し、[[1929年]]2月まで在任。[[1942年]]4月の[[第21回衆議院議員総選挙]]で高知県第二区に[[大政翼賛会|翼賛政治体制協議会]]推薦(旧[[立憲民政党]])で出馬し当選。のち、[[日本進歩党]]に所属し、衆議院議員を通算二期務めた。[[戦後]]、[[1947年]]に[[公職追放]]となった。 |
2023年1月7日 (土) 06:31時点における版
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
小野 義一(おの ぎいち、1876年(明治9年)10月7日 – 1950年(昭和25年)5月25日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、衆議院議員、東京市助役。
経歴
高知県出身。小野義為の長男として生まれる。高知一中、東京府立四中を経て、1898年7月、第一高等学校政治科を首席で卒業。1903年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を首席の優等で卒業し、銀時計を授与された。東大の同期には小川郷太郎や上杉慎吉、馬場鍈一ら。同年同月、大蔵属に任官し主計局兼参事官付となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に次席合格。この時の首席合格者は馬場鍈一だった[1]。
1906年11月、煙草専売局事務官に就任。以後、樺太民政署事務官兼大蔵書記官、大蔵省参事官、専売局製造部調査課長、同官房調査課長、大蔵省大臣官房会計課長、兼大蔵大臣秘書官、兼日本興業銀行監理官、大阪税関長、神戸税関長、大蔵省銀行局長、同理財局長などを歴任し、1924年1月に退官。
1924年5月、第15回衆議院議員総選挙に高知県第五区から出馬し当選。同年6月、大蔵次官に政治任用され、同年8月まで在任した。1928年1月、東京市助役に就任し、1929年2月まで在任。1942年4月の第21回衆議院議員総選挙で高知県第二区に翼賛政治体制協議会推薦(旧立憲民政党)で出馬し当選。のち、日本進歩党に所属し、衆議院議員を通算二期務めた。戦後、1947年に公職追放となった。
栄典
親族
- 義父 尾崎三良
脚注
参考文献
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年、p50-51。