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犬塚太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
犬塚いぬづか 太郎たろう
生誕 1875年10月23日
日本の旗 日本佐賀県
死没 (1936-07-17) 1936年7月17日(60歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1899年 - 1927年
最終階級 海軍中将
除隊後 秩父宮別当
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犬塚 太郎(いぬづか たろう、1875年明治8年)10月23日 - 1936年昭和11年)7月17日)は、日本海軍軍人第三回旅順港閉塞作戦に「愛国丸」指揮官として参戦。大正天皇侍従武官昭和天皇皇太子時代における東宮武官日本海海戦における東伏見宮依仁親王皇族附武官秩父宮別当を務める。最終階級は海軍中将

生涯

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愛国丸乗員

佐賀藩士族出身。旧姓は野田。海軍兵学校25期を32名中18番で卒業。「笠置」分隊長として日露戦争を迎え、第三回旅順港閉塞作戦では「愛国丸」指揮官(大尉)として参戦。負傷しながらも生還し、「千代田」砲術長兼艦長・東伏見宮依仁親王附皇族武官として日本海海戦を戦った。

戦後は海軍大学校甲種7期を卒業。第一艦隊第二艦隊練習艦隊の各参謀を務めている。海兵教官としては先任監事として41期から45期の生徒を指導した。第一次世界大戦期は、当初第六戦隊所属の「須磨」艦長であったが、「新高艦長に転じて南アフリカ方面で連合国艦船の護衛任務に従事した。帰還後東宮武官に就任。6年強にわたり在任し、皇太子時代の昭和天皇を補佐。在任中に皇太子裕仁親王の欧州訪問に随行している[1]軽巡洋艦由良」、「名取」、「川内」、「長良」で構成された第五戦隊、鎮海要港部司令官を務め予備役となる。

1930年(昭和5年)3月、秩父宮別当に就任。秩父宮妃勢津子の母松平信子は、旧主鍋島家の当主鍋島直大の娘である。犬塚は死去するまでの6年間同職を務めた。息子の犬塚家孝は58期出身の海軍中佐で「峯風」、「」の各駆逐艦[2]として太平洋戦争を戦い、孫に犬塚孝明がいる[3]

旅順港閉塞作戦[4]

1904年(明治37年)5月2日、犬塚は第三回旅順港閉塞作戦に「愛国丸」指揮官として参加した。「愛国丸」は「相模丸」とともに第四小隊を構成し、12隻から成る閉塞隊の中央部の閉塞を作戦目的としていた。作戦当日は荒天で総指揮官林三子雄中佐は中止を決断し、反転命令を発した。しかしこの命令は各船に伝わらず部隊は分裂状態となる。「愛国丸」は「遠江丸」、「小樽丸」、「江戸丸」、「相模丸」と一団を形成した。「愛国丸」は敷設する目的で機械水雷(機雷)を積んでいたが、犬塚は混乱した状況で僚船に被害が及ぶことを避けるため、無効化して放棄した。沈没予定地を目指し前進したが、ロシア軍の迎撃は激しく、「愛国丸」は触雷し気罐室などが破壊された。行動の自由を失ったため、犬塚は停止位置で「愛国丸」の爆破、沈没を図る。しかし、同船は爆破作業をする暇なく急激に沈没し、犬塚ら乗員は海中に投げ出された。24名の乗員中、端舟で脱出に成功したのは犬塚ら16名であった。戦後功四級に叙されている。

第一次世界大戦[5]

犬塚は第一特務艦隊分遣隊所属の「新高艦長として、コロンボモーリシャスケープタウンを根拠地として活動した。当時は武装商船の活動や、機雷の被害が懸念されており、連合国艦船の護衛や、警備、哨戒活動に従事したのである。主な活動場所はケープタウンを中心とした南アフリカ沿岸である。 1917年9月、「新高」に帰還命令が発せられ、舞鶴へ到着したのは11月16日であった。

年譜

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栄典

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位階
勲章等

関連する人物

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  • 鳥巣玉樹:同郷かつ海兵の同期生
  • 高柳直夫:同郷かつ第三回旅順港閉塞作戦「江戸丸」指揮官
  • 湯浅竹次郎:第三回旅順港閉塞作戦で「愛国丸」とともに第四小隊を構成した「相模丸」指揮官
  • 小栗孝三郎:第一特務艦隊司令官
  • 小松直幹:同期生かつ第一特務艦隊分遣隊の僚艦「対馬」艦長、のち中将
  • 大関鷹麿:第一次世界大戦中、ケープタウンで日英海軍の連絡役を務める
  • 草刈英治:海兵教官時の教え子で、草刈が自決した際犬塚は草刈の家族を激励する書簡を寄せた[19]
  • 今村信次郎:犬塚の後任の秩父宮別当

脚注

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  1. ^ 「故別当海軍中将犬塚太郎叙勲ノ件」
  2. ^ 『艦長たちの軍艦史』219頁、285頁
  3. ^ 海軍史研究会編『日本海軍の本』自由国民社 ISBN 4-426-40030-9、200頁
  4. ^ 「第2編 旅順口及ひ仁川の敵艦隊に対する作戦/第10章 旅順口第3回閉塞」
  5. ^ 『懐旧録 戦袍余薫』「喜望峰方面に於ける新高対馬の行動」
  6. ^ 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』
  7. ^ 『官報』第705号「叙任及辞令」1899年3月11日。※野田太郎
  8. ^ 『官報』第5233号「叙任及辞令」1900年12月10日。※野田太郎
  9. ^ 『官報』第3729号「叙任及辞令」1907年12月2日。
  10. ^ 『官報』第159号「叙任及辞令」1913年2月12日。
  11. ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1916年12月29日。
  12. ^ 『官報』第2839号「叙任及辞令」1922年1月21日。
  13. ^ 『官報』第4045号「叙任及辞令」1926年2月20日。
  14. ^ 『官報』第328号「叙任及辞令」1928年2月3日。
  15. ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
  16. ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
  17. ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
  18. ^ 『官報』号外「辞令」1922年6月22日。
  19. ^ 『嗚呼、草刈少佐』370-372頁

参考文献

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  1. 「故別当海軍中将犬塚太郎叙勲ノ件」(ref:A10113175400)
  2. 『極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻4』「第2編 旅順口及ひ仁川の敵艦隊に対する作戦/第10章 旅順口第3回閉塞」(ref: C05110041500)
  3. 「第5戦隊(1)」(ref:C08051194400)
  4. 「第5戦隊(2)」(ref:C08051194500)
  5. 「運送船護送任務報告 大正6年3月20日 - 27日」(ref:C10080395200)
  • 『嗚呼、草刈少佐』政教社、1930年。 
  • 池田清『日本の海軍(下)』朝日ソノラマ、1987年。ISBN 4-257-17084-0 
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』(第9巻)第一法規出版
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4-8295-0003-4 
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9 
  • 有終会編『懐旧録 戦袍余薫』犬塚太郎「喜望峰方面に於ける新高対馬の行動」
  • 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房