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矢橋亮吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
やばし りょうきち

矢橋 亮吉
生誕 1867年9月6日
日本の旗 日本
死没 1946年9月30日
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
出身校 高等商業(現・一橋大学
職業 実業家
銀行経営者
慈善活動家
活動期間 19世紀 - 20世紀
代表作 国会議事堂
日本銀行
朝香宮邸
肩書き 矢橋大理石創業者
子供 矢橋太郎
矢橋次雄
矢橋五郎
矢橋六郎
矢橋孝子
矢橋宗太郎(父)
親戚 矢橋敬吉(長兄)
矢橋友吉(次兄)
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矢橋 亮吉(やばし りょうきち、1867年9月6日 - 1946年9月30日)は、日本実業家銀行経営者慈善活動家。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家[注釈 1][1][2][3][4][5]・本家の出身。国会議事堂などの日本の近代建築史に残る建造物・高層ビル・ホテル・豪華列車の床材・海外の航空会社のラウンジから自動運転技術EV新幹線などまで関わってきた、矢橋グループの一翼を担う矢橋大理石[6]の創業者。

略歴

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1867年に美濃赤坂で生まれる。明治維新廃藩置県の時に、徳川家康織田信長岐阜城千畳敷御殿を移築し造営させた将軍家専用休泊所であるお茶屋屋敷の払下げを受けた矢橋本家・宗太郎[7]の三男。

実父である矢橋本家・宗太郎の二女で姉の勝(後改幾世)の三男である、大蔵省営繕官僚として中心となって国会議事堂の設計をまとめた甥矢橋賢吉(矢橋惣本家)と上京。矢橋賢吉東京帝国大学矢橋亮吉高等商業(現・一橋大学)を、それぞれ卒業する。一時父と疎遠になる。東京海上専務取締役・第45代文部大臣 (大日本帝国憲法時代)甲南大学甲南高等学校・中学校の創立者である平生釟三郎とは高等商業時代互いに門番をして支え合った学友。

1901年に美濃赤坂で矢橋大理石商店[6]を創業し、工芸品の製作から建築用石材の加工へと発展させる。国会議事堂日本銀行などに施工実績を有する。美濃赤坂にある西洋館には、昭和天皇と皇太子時代の明仁上皇行幸している[8][9][10]

昭和天皇大垣市行幸時(1946年)
昭和天皇のご訪問(行幸)があった矢橋亮吉の西洋館(西館)(赤坂宿

1916年に濃飛農工銀行頭取に就任(同行は1937年に通称勧農合併法に基づき日本勧業銀行 (現・みずほ銀行) に吸収される。「農工銀行#存在した農工銀行」、「特殊銀行 (日本金融史)#概要」参照)。

育英事業として矢橋謝恩会[11]を設立した。外務省経済協力局長・岐阜県知事古田肇は奨学生の一人[12]

1946年9月30日死去。80歳。 [13][14][6]

系譜

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江戸中期 (分立) 以前

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江戸中期 (分立) 以後

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惣本家

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  • 鼻祖 - 矢橋藤十郎(矢橋藤十郎(1722年11月18日没。孝 号木邑。)の実子。本家鼻祖・矢橋三郎兵衛(1761年11月22日没、元連 小字徳四郎。)の実兄。1775年8月晦没。宅教 小字惣四郎 号李明。「矢橋惣本家 今称東矢橋又辻矢橋」。室矢橋久左ェ門女)
  • 義兄 - 矢橋藤十郎(1894年3月12日没。小字増次郎 号十衛。矢橋惣本家当主。室矢橋宗太郎二女勝後改幾世)
  • 姉 - 矢橋幾世(1911年4月7日没。矢橋本家当主・矢橋宗太郎二女。勝後改幾世。矢橋惣本家当主・矢橋藤十郎 (1894年3月12日没、小字増次郎 号十衛) に嫁す。行年79。)
  • 甥 - 矢橋徳次郎 (1857年、美濃赤坂生まれ。1875年家督を相続、岐阜県屈指の大地主、最多額納税者となる。1874年以降県会議員に3期当選、美濃実業銀行、高須貯蓄銀行、赤坂銀行及び大垣銀行などの取締役)[1][2]
  • 次兄 - 矢橋為吉(生年不詳-1936年1月没。1893年4月より1901年3月まで、大垣市赤坂村 (同村は1901年5月21日より町制施行) 赤坂尋常高等小学校校長)
  • 甥 - 矢橋賢吉(1869年10月、美濃赤坂生まれ。営繕官僚、建築家国会議事堂の設計をまとめた中心人物。国会議事堂建設営繕組織の中心人物(国会議事堂#歴史#国会議事堂と建築家 及び #営繕組織参照)。近代公共建築を支えた中心人物。)

本家

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家系図 

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矢橋家家系図」によれば、矢橋家(惣本家・本家・南矢橋・北矢橋)は、嵯峨天皇源融紫式部源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの有力候補)まで遡る[注釈 1][32][3][4][5][33]

遠縁[36]所郁太郎(実父・矢橋亦一、養父・所伊織)大垣藩の生まれ、適塾塾頭、暗殺者に襲われた元勲井上馨を治療した医師幕末の志士高杉晋作の参謀、長州藩遊撃隊軍監、従四位追叙

注釈

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  1. ^ a b 「……矢橋家は俳人松尾芭蕉も泊まった県内屈指の旧家。「日本外史」の著者・頼山陽も来遊したり、吉田茂の側近だった白州次郎の妻で随筆家の白州正子も幾度となく同家の牡丹園を訪れている。 先祖は嵯峨天皇から分かれた氏族・嵯峨源氏までさかのぼる。大垣赤坂に住み、矢橋の姓を名乗ったのは彦十郎から。矢橋総本家初代当主だ。 5代目から藤十郎を襲名し、初代藤十郎は木因に師事し木巴と号し俳句をたしなんだ。2代目は、号を李明、4代目は丹陽、5代目(彦十郎を名乗る)は鳥江。6代目で再び藤十郎を名乗り号は十衛といった。 初代藤十郎の五男・三郎兵衛は分家。号は李仙。二代目、三代目も赤山、赤水と号して漢詩を作り、いずれも遺稿がある。矢橋家は、歴代、俳句や漢詩をたしなんできたのだ。 矢橋家が起業の道を歩むのは、三郎兵衛の6代目・宗太郎から。長男は敬吉で、当主は龍吉龍太郎へと継がれ、林業、石灰業を興した。龍太郎はミツカングループの創業家、中埜家の7代目又ェ衛門の次女・茅子と結婚。その長男が現在、矢橋ホールディングスを率いる龍宜(52)だ。 敬吉の次男は次郎。その孫が慎哉(66)でグループ会社・矢橋工業の社長を務める。父の宗一も同社の会長を務めた。 (中略) 一方、宗太郎の五男・亮吉は分家し、後に1人3業(金融、大理石、育英事業)を成し遂げる。長男・太郎が早世し、次男の次雄が亮吉を襲名。太郎の孫・修太郎(66)が次雄の養子となり矢橋大理石の社長を務める。 亮吉の四男・五郎は、関ケ原製作所や関ケ原石材を興した。関ケ原製作所は現在、五郎の三男・昭三郎(74)が社長を経て会長を務めている。関ケ原石材は、長男・謙一郎が社長を務めた後、その長男・達郎(52)が社長を経て会長を務める。 まだまだ矢橋家は逸材を輩出している。亮吉の長男・太郎の娘婿の浩吉は、イビデンの社長(1973年9月就任)、会長(81年6月就任)を務めた。五男・六郎は、洋画家で大理石モザイク壁画も手掛け日本近代洋画の革新に重要な役割を果たした。次女・孝子は、十六銀行の第4代頭取を務めた桑原善吉に嫁いだ。 (中略) 宗太郎の三男・友吉の孫・徳太郎は、岐阜天文台の副理事長や愛知淑徳短大の教授を務め世界一の精度を誇る「矢橋式日時計」を考案した。……」(岐阜新聞社2013年8月20日[1]

出典

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  1. ^ a b ぎふ財界をけん引してきた古今のリーダーたち 千紫万紅 ぎふ財界人列伝 矢橋家の人々 漢詩人から起業家まで 矢橋編(1)|岐阜新聞社、2013年8月20日
  2. ^ 矢橋家(矢橋大理石社長・矢橋修太郎の家系図)
  3. ^ a b c 関ケ原の機器メーカー、敷地にアートな「人間村」岐阜|…〈矢橋家〉 平安時代の嵯峨源氏を祖とし、江戸初期に滋賀県から大垣・赤坂に移り住み、幕末ごろから…|朝日新聞 DIGITAL 2022年5月閲覧
  4. ^ a b 光源氏のモデル~源融公ゆかりの寺~淀殿も眠る【大阪・梅田】太融寺 2022年5月閲覧
  5. ^ a b …棲霞寺は嵯峨天皇の第12皇子、左大臣源融(とおる)(822―895)…|清涼寺 コトバンク 2022年5月閲覧
  6. ^ a b c 矢橋大理石 コトバンク
  7. ^ a b お茶屋屋敷跡 (岐阜県公式ホームページ)
  8. ^ a b 西美濃地域 産業観光ガイド 〜 産業観光施設・企業、産業遺産・文化財の紹介 〜 / 天皇の行幸と矢橋家
  9. ^ 昭和天皇の全国巡行 県別巡行先一覧2021年6月閲覧
  10. ^ 矢橋大理石株式会社2021年6月閲覧
  11. ^ 非営利法人データーベースシステム NOPODAS 公益財団法人矢橋謝恩会
  12. ^ NTT西日本 岐阜支店 (報道発表資料) : 矢橋亮吉が設立した公益財団法人矢橋謝恩会、奨学生・古田肇 (通産省入省・外務省経済協力局長・岐阜県知事)
  13. ^ 矢橋亮吉(やばし りょうきち)とは - コトバンク
  14. ^ 矢橋 亮吉(ヤバシ リョウキチ)とは - コトバンク
  15. ^ 矢橋敬吉
  16. ^ 岐阜県大垣市赤坂 3・御茶屋屋敷.(矢橋家)
  17. ^ 美濃赤坂宿 所郁太郎 及び 矢橋家
  18. ^ 中山道美濃路-2 赤坂
  19. ^ 神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家 (岐阜県の三(人員十名通計十八名))
  20. ^ 系譜 (「註釈一覧 3) 矢橋家」)
  21. ^ a b 十六銀行 赤坂支店
  22. ^ 矢橋 六郎(ヤバシ ロクロウ)とは - コトバンク
  23. ^ 矢橋龍吉
  24. ^ Saikō to kōran. - WorldCat
  25. ^ 『赤山遺稿』『赤水遺稿』
  26. ^ お茶屋屋敷跡 (大垣市ホームページ)
  27. ^ 昭和18年 (1943) 7月20日 矢橋次郎監査役に就任 (年表37頁)
  28. ^ 白州正子の西美濃 (1)
  29. ^ 大垣市功労者 - 功労章 -
  30. ^ 日時計の楽しみ(2)
  31. ^ 矢橋, 徳太郎, 1916-1996 - Web NDL Authorities - 国立国会図書館
  32. ^ a b c d e f g h i j k l m n 矢橋家(矢橋大理石社長・矢橋修太郎の家系図)
  33. ^ 嵯峨源氏 コトバンク 2022年5月閲覧
  34. ^ 日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース 2024年4月閲覧
  35. ^ 桑原邸 岐阜県公式ホームページ
  36. ^ ■矢橋家|美濃赤坂宿 2007.04.25.

関連項目

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