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矢橋六郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
やばし ろくろう

矢橋 六郎
生誕 (1905-11-16) 1905年11月16日
日本の旗 日本 美濃赤坂
死没 (1988-07-04) 1988年7月4日(82歳没)
日本の旗 日本 岐阜県大垣市
死因 脳出血
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
出身校 東京美術学校(現・東京芸術大学
職業 洋画家
活動期間 20世紀
代表作 JR名古屋駅新幹線口の「日月と東海の四季」
影響を受けたもの 梅原龍三郎
影響を与えたもの モダンアート協会
活動拠点 日本の旗 日本
フランスの旗 フランス
肩書き モダンアート協会創立会員
岐阜県教育委員長
矢橋宗太郎(祖父)
矢橋亮吉(父)
親戚 矢橋敬吉[1](伯父)
矢橋友吉(伯父)
矢橋太郎(兄)
矢橋次雄(兄)
矢橋五郎(兄)
桑原孝子(妹、旧姓・矢橋)
矢橋龍太郎(従甥)
矢橋宗一(従甥)
矢橋恒男(従甥)
原乙彦(従甥)
矢橋徳太郎(従甥)
矢橋修太郎(従甥)
受賞 中日文化賞
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矢橋 六郎(やばし ろくろう、1905年11月16日 - 1988年7月4日)は、日本洋画家実業家。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家[注釈 1][2][3][4][5]・本家の出身。矢橋大理石商店代表取締役副社長[6]モザイク による壁画、作品を制作。代表作にJR名古屋駅新幹線口の「日月と東海の四季」。岐阜県教育委員長をつとめ郷里の振興に寄与。

略歴

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1905年11月16日、岐阜県不破郡美濃赤坂に生まれる。県立岐阜中学校を経て、1924年川端画学校に通いはじめる。1926年東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に入学し、1930年に同校を卒業。同年渡欧。ヨーロッパ滞在中フォービズムキュビズムなどの影響を受ける。

梅原龍三郎に師事し、梅原らの創立になる国画会に参加。滞欧中も同展に出品を続け1932年に同会会友となる。1933年、帰国。同年国画会を退会する。

1936年山口薫村井正誠らと自由美術家協会[7]を創立。

1939年生家の家業である矢橋大理石商店[8]に勤務することとなるが画業もつづける。1941年には旧満州、新京に渡り、矢橋大理石廠株式会社勤務。 1945年には兵役に服すが、1946年に帰国。帰国後は矢橋大理石商店取締役に就任する。1950年村井らと共にモダンアート協会[9]を創立する。

モザイク作家としても知られ、「海」(1962年大名古屋ビルヂング)、「彩雲流れ」(1965年新東京ビルヂング)、「日月と東海の四季」(名古屋駅新幹線口)、「松と海」(新大阪駅貴賓室)「春・夏・秋・冬」(岐阜県庁)「熊野」(丹鶴ホール熊野ロビー・熊野ギャラリー、デザインは村井正誠。)等を制作している。

1966年中日文化賞を受賞、1969年岐阜県教育委員長に就任、1973年大垣市文化功労賞を受賞、1975年岐阜県知事賞を受賞、矢橋大理石商店代表取締役副社長に就任、1978年東海テレビ賞を受賞、1980年ギャラリー芦屋にて個展、ジャパンエースより初めての手彩色版画を出版、岐阜日日特別功労賞を受賞、1984年ギャラリー芦屋にて個展、文部大臣表彰[6]

晩年にはステンドグラスも制作。美術教育にも尽くし、武蔵野美術大学東京芸術大学で教鞭を取ったほか、1969年には岐阜県教育委員長をつとめ郷里の振興に寄与した。

1966年中日文化賞を受賞。

1978年、東京セントラル美術館[10]で「矢橋六郎画業50年展」が開催された [11][12][13]

モダンアート展出品作品(抜粋)

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  • 第5回展(1955年)
    • 「無花果」
    • 「田植の頃」
    • 「桃果」
    • 「麦刈」
    • 「メヌエット」
  • 第10回展(1960年)
    • 「田園の冬」
    • 「ベニスの橋」
  • 第15回展(1965年)
    • 「田園冬日」
  • 第20回展(1970年)
    • 「春」
  • 第25回展(1972年)
    • 「サンジオルジオベニス」
  • 第30回展(1980年)
    • 「ポルトガルの夏」
  • 第35回展(1985年)
    • 「砂丘」
  • 第38回展(1988年)
    • 「ローマのテラス」

[13]

系譜

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江戸中期 (分立) 以前

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江戸中期 (分立) 以後

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惣本家

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  • 鼻祖 - 矢橋藤十郎(矢橋藤十郎(1722年11月18日没。孝 号木巴。)の実子。本家鼻祖・矢橋三郎兵衛(1761年11月22日没、元連 小字徳四郎。)の実兄。1775年8月晦没。宅教 小字惣四郎 号李明。「矢橋惣本家 今称東矢橋又辻矢橋」。室矢橋久左ェ門女)
  • 伯父 - 矢橋藤十郎(1894年3月12日没。小字増次郎 号十衛。矢橋惣本家当主。室矢橋宗太郎二女勝後改幾世)
  • 伯母 - 矢橋幾世(1911年4月7日没。矢橋宗太郎二女勝後改幾世。矢橋惣本家当主・矢橋藤十郎 (1894年3月12日没、小字増次郎 号十衛) に嫁す。行年79。)
  • 従兄 - 矢橋徳次郎 (1857年、美濃赤坂生まれ。1875年家督を相続、岐阜県屈指の大地主、最多額納税者となる。1874年以降県会議員に3期当選、美濃実業銀行、高須貯蓄銀行、赤坂銀行及び大垣銀行などの取締役)
  • 従兄 - 矢橋為吉(生年不詳-1936年1月没。1893年4月より1901年3月まで、大垣市赤坂村 (同村は1901年5月21日より町制施行) 赤坂尋常高等小学校校長)
  • 従兄 - 矢橋賢吉(1869年10月、美濃赤坂生まれ。営繕官僚、建築家国会議事堂の設計をまとめた中心人物。国会議事堂建設営繕組織の中心人物(国会議事堂#歴史#国会議事堂と建築家 及び #営繕組織参照)。近代公共建築を支えた中心人物。)

本家

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  • 鼻祖 - 矢橋三郎兵衛(矢橋藤十郎(1722年11月18日没。孝 号木巴。)の実子。惣本家鼻祖・矢橋藤十郎 (1775年8月晦没。宅教 小字惣四郎)の実弟。1761年11月22日没。元連 小字徳四郎 号李仙。寿50。室京都人図司多美。)
【祖父母の世代】
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【親の世代】
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【同世代】
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【子の世代】
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  • 従甥 - 矢橋龍太郎 (1926年9月、美濃赤坂生まれ。矢橋龍吉の実子。実業家大垣市功労者。美術蒐集家)[29][30]
  • 従甥 - 矢橋宗一 (1918年4月、美濃赤坂生まれ。矢橋次郎の長男。矢橋工業 (金生山の鉱山) 社長)
  • 従甥 - 矢橋恒男 (1921年5月、美濃赤坂生まれ。矢橋次郎の二男。遠山産業副社長)
  • 従甥 - 原乙彦(1925年1月、美濃赤坂生まれ。旧姓・矢橋。矢橋次郎の三男。ユニチカ通商社長)
  • 従甥 - 矢橋徳太郎(1916年、美濃赤坂生まれ。矢橋友吉・孫。岐阜天文台副理事長。愛知淑徳短期大学教授。世界一の精度を誇る「矢橋式日時計」を考案[31][32]。)
  • 従甥 - 矢橋修太郎(亮吉の長男・矢橋太郎の孫。矢橋太郎が早世し、亮吉の二男・矢橋次雄が亮吉を襲名し、その養子となる。矢橋大理石社長)
  • 従甥 - 矢橋謙一郎(亮吉の四男・矢橋五郎の長男。関ヶ原製作所社長)
  • 従甥 - 矢橋昭三郎(亮吉の四男・矢橋五郎の三男。関ヶ原石材 社長)

家系図 

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矢橋家家系図」によれば、矢橋家(惣本家・本家・南矢橋・北矢橋)は、嵯峨天皇源融紫式部源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの有力候補)まで遡る[注釈 1][33][33][3][4][5][34]

遠縁[37]所郁太郎(実父・矢橋亦一、養父・所伊織)大垣藩の生まれ、適塾塾頭、暗殺者に襲われた元勲井上馨を治療した医師幕末の志士高杉晋作の参謀、長州藩遊撃隊軍監、従四位追叙

注釈

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  1. ^ a b 「……矢橋家は俳人松尾芭蕉も泊まった県内屈指の旧家。「日本外史」の著者・頼山陽も来遊したり、吉田茂の側近だった白州次郎の妻で随筆家の白州正子も幾度となく同家の牡丹園を訪れている。 先祖は嵯峨天皇から分かれた氏族・嵯峨源氏までさかのぼる。大垣赤坂に住み、矢橋の姓を名乗ったのは彦十郎から。矢橋総本家初代当主だ。 5代目から藤十郎を襲名し、初代藤十郎は木因に師事し木巴と号し俳句をたしなんだ。2代目は、号を李明、4代目は丹陽、5代目(彦十郎を名乗る)は鳥江。6代目で再び藤十郎を名乗り号は十衛といった。 初代藤十郎の五男・三郎兵衛は分家。号は李仙。二代目、三代目も赤山、赤水と号して漢詩を作り、いずれも遺稿がある。矢橋家は、歴代、俳句や漢詩をたしなんできたのだ。 矢橋家が起業の道を歩むのは、三郎兵衛の6代目・宗太郎から。長男は敬吉で、当主は龍吉龍太郎へと継がれ、林業、石灰業を興した。龍太郎はミツカングループの創業家、中埜家の7代目又ェ衛門の次女・茅子と結婚。その長男が現在、矢橋ホールディングスを率いる龍宜(52)だ。 敬吉の次男は次郎。その孫が慎哉(66)でグループ会社・矢橋工業の社長を務める。父の宗一も同社の会長を務めた。 (中略) 一方、宗太郎の五男・亮吉は分家し、後に1人3業(金融、大理石、育英事業)を成し遂げる。長男・太郎が早世し、次男の次雄が亮吉を襲名。太郎の孫・修太郎(66)が次雄の養子となり矢橋大理石の社長を務める。 亮吉の四男・五郎は、関ケ原製作所や関ケ原石材を興した。関ケ原製作所は現在、五郎の三男・昭三郎(74)が社長を経て会長を務めている。関ケ原石材は、長男・謙一郎が社長を務めた後、その長男・達郎(52)が社長を経て会長を務める。 まだまだ矢橋家は逸材を輩出している。亮吉の長男・太郎の娘婿の浩吉は、イビデンの社長(1973年9月就任)、会長(81年6月就任)を務めた。五男・六郎は、洋画家で大理石モザイク壁画も手掛け日本近代洋画の革新に重要な役割を果たした。次女・孝子は、十六銀行の第4代頭取を務めた桑原善吉に嫁いだ。 (中略) 宗太郎の三男・友吉の孫・徳太郎は、岐阜天文台の副理事長や愛知淑徳短大の教授を務め世界一の精度を誇る「矢橋式日時計」を考案した。……」(岐阜新聞社2013年8月20日[2]

出典

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  1. ^ a b 矢橋敬吉
  2. ^ a b ぎふ財界をけん引してきた古今のリーダーたち 千紫万紅 ぎふ財界人列伝 矢橋家の人々 漢詩人から起業家まで 矢橋編(1)|岐阜新聞社、2013年8月20日
  3. ^ a b c 関ケ原の機器メーカー、敷地にアートな「人間村」岐阜|…〈矢橋家〉 平安時代の嵯峨源氏を祖とし、江戸初期に滋賀県から大垣・赤坂に移り住み、幕末ごろから…|朝日新聞 DIGITAL 2022年5月閲覧
  4. ^ a b 光源氏のモデル~源融公ゆかりの寺~淀殿も眠る【大阪・梅田】太融寺 2022年5月閲覧
  5. ^ a b …棲霞寺は嵯峨天皇の第12皇子、左大臣源融(とおる)(822―895)…|清涼寺 コトバンク 2022年5月閲覧
  6. ^ a b 矢橋六郎 物故作家で、モダンアートの創立会員で、モチーフは… 絵のサロンギャラリー芦屋 2024年4月閲覧
  7. ^ 自由美術協会 | コトバンク
  8. ^ 矢橋大理石 | コトバンク
  9. ^ モダンアート協会 | コトバンク
  10. ^ 紙パルプ会館5階、現在のセントラルミュージアム銀座
  11. ^ 矢橋六郎(やばし ろくろう)とは - コトバンク
  12. ^ 矢橋 六郎(ヤバシ ロクロウ)とは - コトバンク
  13. ^ a b 矢橋六郎 :: 東文研アーカイブデータベース - 東京文化財研究所
  14. ^ お茶屋屋敷跡 (岐阜県公式ホームページ)
  15. ^ 非営利法人データーベースシステム NOPODAS 公益財団法人矢橋謝恩会
  16. ^ NTT西日本 岐阜支店 (報道発表資料) : 矢橋亮吉が設立した公益財団法人矢橋謝恩会、奨学生古田肇 (通産省入省・外務省経済協力局長・岐阜県知事)
  17. ^ 西美濃地域 産業観光ガイド 〜 産業観光施設・企業、産業遺産・文化財の紹介 〜 / 天皇の行幸と矢橋家
  18. ^ 岐阜県大垣市赤坂 3・御茶屋屋敷.(矢橋家)
  19. ^ 美濃赤坂宿 所郁太郎 及び 矢橋家
  20. ^ 中山道美濃路-2 赤坂
  21. ^ 神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家 (岐阜県の三(人員十名通計十八名))
  22. ^ 系譜 (「註釈一覧 3) 矢橋家」)
  23. ^ a b 十六銀行 赤坂支店
  24. ^ 矢橋龍吉
  25. ^ Saikō to kōran. - WorldCat
  26. ^ 『赤山遺稿』『赤水遺稿』
  27. ^ お茶屋屋敷跡 (大垣市ホームページ)
  28. ^ 昭和18年 (1943) 7月20日 矢橋次郎監査役に就任 (年表37頁)
  29. ^ 白州正子の西美濃 (1)
  30. ^ 大垣市功労者 - 功労章 -
  31. ^ 日時計の楽しみ(2)
  32. ^ 矢橋, 徳太郎, 1916-1996 - Web NDL Authorities - 国立国会図書館
  33. ^ a b c d e f g h i j k l m n 矢橋家(矢橋大理石社長・矢橋修太郎の家系図)
  34. ^ 嵯峨源氏 コトバンク 2022年5月閲覧
  35. ^ 日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース 2024年4月閲覧
  36. ^ 桑原邸 岐阜県公式ホームページ
  37. ^ ■矢橋家|美濃赤坂宿 2007.04.25.