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秀良親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
秀良親王
時代 平安時代初期 - 中期
生誕 弘仁8年(817年
薨去 寛平7年正月23日895年2月21日
官位 二品上野太守
父母 父:嵯峨天皇、母:橘嘉智子
兄弟 仁子内親王業良親王業子内親王有智子内親王仁明天皇正子内親王源信、源貞姫、源潔姫源弘、源全姫、源常源寛源明、源善姫、源定、基良親王、基子内親王、秀良親王、秀子内親王、忠良親王、俊子内親王、芳子内親王繁子内親王、宗子内親王、純子内親王、斉子内親王源生源安源融源鎮源啓源勤源清源勝
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秀良親王(ひでながしんのう/ひでよししんのう)は、平安時代初期から前期にかけての皇族嵯峨天皇皇子。母は皇后橘嘉智子で、仁明天皇の同母弟。官位二品上野太守

経歴

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天長9年(832年冷泉院元服して三品に叙せられ、同年没官書1693巻を与えられている[1]

天長10年(833年)同母兄・仁明天皇即位後まもなく中務卿次いで弾正尹に任ぜられる。その後、仁明朝前半において、承和2年(835年大宰帥、承和7年(840年二品と叙任されている。一方、叙任記録以外にも、承和元年(834年橘奈良麻呂の乱の際に没官されていた故橘奈良麻呂の蔵書480余巻について、外戚の財産であることを理由に賜与された[2]、あるいは仁明天皇の皇子(成康親王)誕生を祝って清凉殿で奉献を行った[3]、などの活動記録が『六国史』に残っている。

承和9年(842年承和の変が発生して甥の道康親王(のち文徳天皇)が皇太子に冊立されて間もなく、秀良親王は上野太守に転じる。それ以降は秀良親王に関する記録は少なく、貞観13年(871年干魃のため親王家の邸宅の池水を百姓田の灌漑に利用した[4]元慶7年(883年摂津国河辺郡墾田1町3段160歩が不当に班田使に収公されたことを訴え出て親王家に返却された[5]、などが『六国史』にわずかに記載されているのみとなっている。元慶8年(884年陽成天皇廃位に伴う皇嗣選定において、秀良親王は血筋上は有力であったはずだが候補として名はあがらず、甥の時康親王が立てられた(光孝天皇)。

長命を保ち、兄仁明天皇から数えて6代目に当たる宇多朝の寛平7年(895年)正月23日薨去享年79[6]

官歴

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六国史』による。

脚注

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  1. ^ 日本後紀』天長9年5月29日条
  2. ^ 続日本後紀』承和元年10月4日条
  3. ^ 『続日本後紀』承和3年12月25日条
  4. ^ 日本三代実録』貞観13年5月22日条
  5. ^ 『日本三代実録』元慶7年10月10日
  6. ^ 日本紀略

参考文献

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