第20回天皇杯全日本サッカー選手権大会
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(第20回全日本総合蹴球選手権大会から転送)
開催国 | 日本 |
---|---|
開催期間 | 1940年5月24日-26日 |
参加チーム数 | 8 |
優勝 | 慶應BRB |
準優勝 | 早大WMW |
試合総数 | 12 |
← 1939 1946 → |
この項目では1940年5月24日から26日まで開催された全日本蹴球選手権大會(ぜんにほんしゅうきゅうせんしゅけんたいかい)について記載する。なお、本大会は天皇杯全日本サッカー選手権大会の第20回大会に当たる。
概要
[編集]- 本大会出場は8チーム。
- 早慶戦となった決勝戦は明治神宮外苑競技場で開催された。
- 今大会を最後に大会は太平洋戦争により中断、次の大会は1946年まで待たなければならない。
- 本大会で優勝した慶應BRBに対して当時の大日本蹴球協会より優勝杯が贈られたが、戦中戦後の混乱期の影響などで優勝杯が行方不明状態となっていた。その後、2023年になって慶應義塾体育会ソッカー部合宿所に保管されていたことが判明、慶應義塾大学側ではこの優勝杯が日本サッカーの歴史を証言する貴重な資料でもあることから日本サッカー協会への返還を決定し、2024年5月22日に三田ソッカー倶楽部会長の縣恵一から日本サッカー協会会長の宮本恒靖に優勝杯が返還された[1][2]。
出場チーム
[編集]- 東北帝国大学(東北、12年ぶり2回目)
- 慶應BRB(関東、2年連続5回目)
- 東京帝国大学(関東、2年連続3回目)
- 早大WMW(関東、12年ぶり2回目)
- 関西大学(関西、13年ぶり2回目)
- 関西学院大学(関西、3年連続6回目)
- 全延禧(朝鮮、2年ぶり2回目)
- 全普成(朝鮮、2年連続3回目)
結果
[編集]本大会トーナメント
[編集]1回戦 | 準決勝 | 決勝 | ||||||||
1940年5月24日 | ||||||||||
関西大学 | 1 | |||||||||
1940年5月25日 | ||||||||||
東京帝国大学 | 2 | |||||||||
東京帝国大学 | 1 | |||||||||
1940年5月24日 | ||||||||||
早大WMW | 2 | |||||||||
全延禧 | 1 | |||||||||
1940年5月26日 | ||||||||||
早大WMW | 2 | |||||||||
早大WMW | 0 | |||||||||
1940年5月24日 | ||||||||||
慶應BRB | 1 | |||||||||
関西学院大学 | 1 | |||||||||
1940年5月25日 | ||||||||||
全普成(抽選) | 1 (aet) | |||||||||
全普成 | 1 | |||||||||
1940年5月24日 | ||||||||||
慶應BRB | 2 | 3位決定戦 | ||||||||
東北帝国大学 | 0 | |||||||||
1940年5月26日(両チーム3位) | ||||||||||
慶應BRB | 3 | |||||||||
東京帝国大学 | 1 | |||||||||
全普成 | 1 | |||||||||
順位決定戦
[編集]- 敗者順位決定戦 関西大学 2-1 関西学院大学
- 敗者順位決定戦 全延禧 6-0 東北帝国大学
- 7・8位決定戦 関西学院大学 3-1 東北帝国大学
- 5・6位決定戦 全延禧 3-0 関西大学
その他の試合
[編集]- 地方分散第一回戦 全普成 2-0 全広島
- 地方分散第一回戦 慶應BRB 16-1 浜松高工
主な出場選手
[編集]- 津田幸男(慶應BRB)
- 二宮洋一(慶應BRB)
- 篠崎三郎(慶應BRB)
- 笠原隆(慶應BRB)
- 末岡圀孝(早大WMW)
- 川本泰三(早大WMW)
- 立原元夫(早大WMW)
- 米谷徳也(早大WMW)
- 高橋英辰(早大WMW)
- 加納孝(早大WMW)
- 直木和(東京帝国大学)
- 大谷四郎(東京帝国大学)
参考資料
[編集]- 第94回天皇杯全日本サッカー選手権大会大会パンフレット (p. 55)
脚注
[編集]- ^ “大日本蹴球協会杯の返還に関しまして”. トピックス. 慶應義塾体育会 (2024年5月24日). 2024年6月12日閲覧。
- ^ "戦前の優勝杯見つかる サッカー、慶応大から返還". 東京新聞 TOKYO Web. 中日新聞社. 2024年5月22日. 2024年6月13日閲覧。