第207飛行隊 (航空自衛隊)
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第207飛行隊 | |
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創設 | 1966年3月31日 |
廃止 | 1986年3月19日 |
所属政体 | 日本 |
所属組織 | 航空自衛隊 |
所在地 | 沖縄県那覇基地 |
編成地 | 茨城県百里基地 |
通称号/略称 | 207SQ |
上級単位 | 第83航空隊 |
最終上級単位 | 南西航空混成団 |
第207飛行隊(だい207ひこうたい、JASDF 207th Tactical Fighter Squadron)は、かつて航空自衛隊南西航空混成団第83航空隊隷下にあった戦闘機部隊。航空自衛隊7番目のF-104J/DJ戦闘機を運用する飛行隊として1966年(昭和41年)に百里基地で新編され、1972年(昭和47年)の沖縄返還後に那覇基地へ移駐し、1986年(昭和61年)に閉隊されるまで南西諸島の防空任務を実施した。
概要
[編集]第207飛行隊はF-104J/DJ戦闘機を運用する飛行隊として、1966年(昭和41年)3月31日に、茨城県百里基地第7航空団隷下の戦闘機部隊として新編された。1972年(昭和47年)11月7日に那覇基地へ移駐し、第83航空隊隷下に編入された[1]。
1973年(昭和48年)1月1日から那覇基地におけるアラート任務を実施し、1986年(昭和61年)3月19日に第302飛行隊へ任務を譲り第207飛行隊は閉隊[1]、航空自衛隊のF-104運用に幕を閉じた[2]。
部隊マークは、百里基地時代は赤いシェブロンに偕楽園にちなんだ梅紋を描いたものだったが、那覇基地移駐後は南十字星をモチーフとしたものになっており[1]、機体塗装も塩害対策でエアクラフトグレイに塗装された[2]。
沿革
[編集]- 1966年(昭和41年)3月31日 - F-104J/DJ飛行隊として百里基地の第7航空団隷下にて部隊編成[1]。
- 1967年(昭和42年)8月22日 - 百里基地でのアラート待機任務開始[3]。
- 1969年(昭和44年)6月23日 - 無事故飛行10,000時間達成[6]。
- 1971年(昭和46年)4月7日 - 無事故飛行20,000時間達成[6]。
- 1972年(昭和47年)11月7日 - 那覇基地へ移駐、第83航空隊隷下に編入[1]。
- 1973年(昭和48年)1月1日 - 那覇基地での24時間アラート待機任務開始[1]。
- 1974年(昭和49年)9月10日 - F-104J(46-8651号機)が夜間訓練から帰投中に消息不明[6]。
- 1976年(昭和51年)7月27日~7月29日 - F-104J要撃戦技競技会優勝[5]。
- 1980年(昭和55年)6月10日 - F-104J(76-8703号機)が胴体着陸して大破[6]。
- 1984年(昭和59年)11月5日~11月8日 - 総合戦技競技会援護戦闘部門F-104の部優勝[4][5]。
- 1985年(昭和60年)6月10日~6月16日 - 航空総隊射爆撃戦技競技会F-104の部優勝[4]。
- 1986年(昭和61年)3月19日 - 第207飛行隊閉隊[1]。
歴代運用機
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g イカロス出版 JWing No.121 2008年9月号 52頁 「集まれ!日本の戦闘機部隊 航空自衛隊、過去の戦闘機部隊」
- ^ a b イカロス出版 自衛隊の名機シリーズ復刻版!! 航空自衛隊F-86 /F-104 38頁 「F-104J/DJ飛行隊 第207飛行隊」
- ^ イカロス出版 Jwing No.31 2001年3月号 44頁 「僕らの航空自衛隊の50年。これがすべての戦闘機部隊、すべての戦闘機だ!」松崎豊一
- ^ a b c イカロス出版 Jwing No.184 2013年12月号 21頁 「戦競2013 戦競、偉大なるその軌跡」松崎豊一
- ^ a b c 大日本絵画 月刊モデルグラフィックス2月号別冊 戦競1988 航空自衛隊昭和63年度航空総隊戦技競技会 68頁-70頁 「戦競史 航空総隊戦技競技会28年の歩み」
- ^ a b c d e f イカロス出版 自衛隊の名機シリーズ復刻版!! 航空自衛隊F-86 /F-104 112頁-114頁 「F-86/F-104年表」