藤浦洸
藤浦 洸 | |
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基本情報 | |
出生名 | 藤浦 洸(ふじうら たけし) |
生誕 |
1898年9月1日 日本 長崎県北松浦郡平戸町 |
死没 | 1979年3月13日(80歳没) |
学歴 | 慶應義塾大学文学部 |
ジャンル | 作詞 |
活動期間 | 1930年 - 1979年 |
藤浦 洸(ふじうら こう、1898年9月1日 - 1979年3月13日)は、昭和時代の作詞家、詩人。長崎県北松浦郡平戸町(現在の平戸市)出身[1]。
来歴
[編集]長崎県北松浦郡平戸町(現在の平戸市)に生れる。長崎県立中学猶興館(現長崎県立猶興館高等学校)、私立岡山県興譲館中学卒業(現岡山県興譲館高等学校)。同志社大学神学部に入学してほどなく中退、3年の放浪を経て慶應義塾大学文学部に入る。在学中は児童小説を書いたり、尾崎士郎らと共に雑誌「令女界」や「若草」に少女小説、音楽物語などを執筆していた。その他、ピアノ演奏のアルバイトをするなどしていたという。
大学卒業後は、音楽評論家伊庭孝に師事し、浅草オペラの俳優等を経て、1930年から、コロムビアレコード文芸部のエドワードの私設秘書となり、ジャズソングの訳詞などを手掛けていた。1937年、「別れのブルース」の大ヒットにより名声を得た。
1938年にコロムビア・レコードに入社して同社専属の作詞家となり、戦前戦後を通じて多数のヒット曲を世に送り出した。特に美空ひばりには、デビュー曲の「河童ブギウギ」を始め「悲しき口笛」「東京キッド」など初期楽曲を多く提供している。
この他、「二十の扉」「私の秘密」等のNHKのラジオ・テレビ番組に多く出演したことでも知られる。第2代日本作詩家協会会長[2]、日本訳詩家協会会長、日本詩人連盟相談役等を歴任。
1979年3月13日、急性肺炎のため慶應義塾大学病院で死去[3]。80歳。墓所は郷里平戸市大久保町の雄香寺[2]。
作詞
[編集]主題歌・流行歌
[編集]- 『別れのタンゴ』(1937年3月)[作曲:平川英夫、歌:淡谷のり子]
- 『別れのブルース』(1937年7月)[作曲:服部良一、歌:淡谷のり子]
- 『バンジョーで唄えば』(1938年5月)[作曲:服部良一、歌:中野忠晴]
- 『一杯のコーヒーから』(1939年3月)[作曲:服部良一、歌:霧島昇、ミス・コロムビア]
- 『チャイナ・タンゴ』(1939年4月)[作曲:服部良一、歌:中野忠晴]
- 『広東ブルース』(1939年5月)[作曲:服部良一、歌:渡辺はま子]
- 『懐しのボレロ』(1939年9月)[作曲:服部良一、歌:藤山一郎]
- 『長崎のお蝶さん』(1939年9月)[作曲:竹岡信幸、歌:渡辺はま子]
- 『すずかけの道』(1941年7月)[作曲:加賀谷伸、歌:淡谷のり子]
- 『南から南から』(1942年9月)[作曲:加賀谷伸、歌:三原純子]
- 『南の花嫁さん』(1942年9月)[作曲:任光、歌:高峰三枝子]
- 『軍艦旗の歌』(1944年10月)[作曲:佐々木すぐる、歌:伊藤武雄、佐々木成子]
- 『月夜船』(1944年12月)[作曲:古賀政男、歌:波平暁男]
- 『愛のスウィング』(1946年3月)[作曲:平川英夫、歌:池真理子]
- 『港に灯りの点る頃』(1946年5月)[作曲:平川英夫、歌:柴田つる子]
- 『別れても』(1946年10月)[作曲:仁木他喜雄、歌:二葉あき子]
- 『アイレ可愛や』(1947年1月)[作曲:服部良一、歌:笠置シヅ子]
- 『懐しのブルース』(1948年1月)[作曲:万城目正、歌:高峰三枝子]
- 『さよならルムバ』(1948年10月)[作曲:仁木他喜雄、歌:二葉あき子]
- 『別れのタンゴ』(1949年4月)[作曲:万城目正、歌:高峰三枝子]
- 『河童ブギウギ』(1949年7月)[作曲:浅井拳曄、歌:美空ひばり]
- 『悲しき口笛』(1949年9月)[作曲:万城目正、歌:美空ひばり]
- 『想い出のボレロ』(1950年2月)[作曲:万城目正、歌:高峰三枝子]
- 『水色のワルツ』(1950年2月)[作曲:高木東六、歌:二葉あき子]
- 『東急フライヤーズの唄 / 東映フライヤーズの歌』(1950年5月)[作曲:古関裕而]
- 『東京キッド』(1950年7月)[作曲:万城目正、歌:美空ひばり]
- 『情熱のルムバ』(1950年12月[4])[作曲:万城目正、歌:高峰三枝子]
- 『牧場の花嫁さん』(1950年12月[5])[作曲:万城目正、歌:高峰三枝子]
- 『私は街の子』(1951年1月)[作曲:上原げんと、歌:美空ひばり]
- 『ひばりの花売娘』(1951年1月)[作曲:上原げんと、歌:美空ひばり]
- 『巴里の夜』(1951年6月)[作曲:原六朗、歌:二葉あき子]
- 『りんご園の少女』(1952年8月)[作曲:米山正夫、歌:美空ひばり]
- 『ラジオ体操のうた(3代目)』(1956年9月)[作曲・歌:藤山一郎]
- 『銀座九丁目は水の上』(1958年5月)[作曲:上原げんと、歌:神戸一郎]
- 『ひばりづくし』(1976年3月)[作曲:船村徹、歌:美空ひばり]
社歌・学校歌
[編集]- 小金井市立小金井第二小学校校歌(1950年2月)
- 大田区立矢口小学校校歌(1955年6月)
- 慶應義塾女子高等学校校歌(1958年6月)
- 志摩市立和具中学校校歌(1962年5月24日)
- 広島県立呉三津田高等学校校歌(1965年11月8日)[作曲:古関裕而]
- 聖マリアンナ医科大学校歌(1973年)[作曲:古関裕而]
- 川越市立山田小学校校歌
- 早慶讃歌~花の早慶戦~
- 鐘紡われら
- 日本火災海上保険社歌
- 日本板硝子社歌
- 旺んなるかな
その他作詞
[編集]著書
[編集]- 『放浪者ザリノ』昭和出版協会 1940
- 『ベートーベエン 伝記と作品鑑賞』シンフォニー楽譜出版社 1941
- 『瀬戸口藤吉』新興音楽出版社 1942
- 『荒城の月』雄鶏社 1948 のち東京文芸社
- 『愛の花篭』ポプラ社 1949
- 『蝸牛の角』大和書房、1965
- 『平戸 人と歴史』井上博道写真 淡交新社 1967
- 『ギョロ目と涙』永田書房 1971
- 『なつめろの人々』読売新聞社 1971
- 『らんぷの絵』東京美術 1972
- 『藤浦洸詩集』東京美術 1975
- 『海風―藤浦洸随筆選』(1982年、日本放送出版協会)
郷土との関わり
[編集]- 母校である長崎県立猶興館高等学校の校歌選考
- 「日本最西端の駅」碑の揮毫(松浦鉄道たびら平戸口駅前)
- 「空いっぱいに」作詩 - 詩碑が佐世保市の弓張岳展望台に建てられ、それを團伊玖磨が「西海讃歌」の合唱に使用した(なお、詩は当初から藤浦に依頼する予定があったという)。
- 長崎県を代表する銀行の一つ、十八銀行の行歌「旺んなるかな」の作詞も手がけた。
その他
[編集]名前の本来の読みは「たかし」[6]。テレビ等ではもっぱら「こう」と音読みでルビを振られていたため、こちらが有名になってしまい、妻も本来の読み方を忘れてしまっていたというエピソードがある。
脚注
[編集]- ^ 藤浦 洸(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」2004年刊) - コトバンク(2020年9月6日閲覧)
- ^ a b "藤浦洸さんの足跡たどる 故郷平戸の先達、生誕120年 作詞家の門谷憲二さん 「功績に光、継承を」". 西日本新聞me. 西日本新聞社. 10 November 2018. 2023年10月20日閲覧。
- ^ 「別れのブルース」などの作詞家藤浦洸さん死ぬ『朝日新聞』1979年3月13日夕刊 3版 9面
- ^ 北中正和著『[増補]にほんのうた』平凡社、2003年、p.21
- ^ 北中正和著『[増補]にほんのうた』平凡社、2003年、p.28
- ^ 藤浦洸(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」) - コトバンク(2020年9月6日閲覧)