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1951年の国鉄スワローズ(1951ねんのこくてつスワローズ)では、1951年の国鉄スワローズの動向をまとめる。
この年の国鉄スワローズは、西垣徳雄監督の2年目のシーズンである。
新球団1年目は7位で終えたもののまずまずのスタートを切ったチームは、2年目の金田正一が開幕からローテーションに入り、田原基稔や高橋輝らとともに先発陣の中心となった。チームは開幕から好調で、4月は巨人に次ぐ2位につけた。しかし、打線の貧打やエラーで負ける試合も多く5月以降は成績が下降。それでも前年50近くあった借金を13に減らし、西垣監督の2年目は5位で終えたが優勝の巨人に31.5ゲームを、2位の名古屋(当時は中日新聞社と名古屋鉄道の共同経営)にも13.5ゲーム差をつけられた。カード別では優勝の巨人には4勝14敗と苦戦するも、名古屋には10勝6敗と勝ち越し、阪神には9勝9敗で互角、前年優勝の松竹には9勝11敗と健闘した。金田はこの年20勝を達成し、以降巨人へ移籍する1965年まで14年連続の20勝という偉大な記録を打ち立てセ・リーグを代表するエースにのし上がった。打撃陣は土屋五郎が盗塁王を獲得したこともありチーム盗塁数は142とリーグ2位だったが、安打数リーグ6位、二塁打・三塁打・本塁打すべてリーグ最下位、そして169失策はリーグ6位と振るわなかった。
1951年セントラル・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
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最終成績
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1位
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
2位
|
国鉄 |
0.0
|
松竹 |
1.5
|
名古屋 |
3.5
|
名古屋 |
11.0
|
名古屋 |
14.0
|
名古屋 |
18.0
|
3位
|
名古屋 |
2.5
|
大阪 |
2.0
|
松竹 |
7.5
|
松竹 |
14.5
|
松竹 |
19.0
|
大阪 |
20.5
|
4位
|
大洋 |
3.0
|
名古屋 |
4.5
|
大阪 |
9.0
|
大阪 |
15.0
|
大阪 |
19.5
|
松竹 |
27.0
|
5位
|
松竹 |
3.5
|
国鉄
|
大洋 |
12.5
|
大洋 |
18.5
|
国鉄 |
25.0
|
国鉄 |
31.5
|
6位
|
広島 |
4.0
|
大洋 |
4.5
|
国鉄 |
13.5
|
国鉄 |
18.5
|
大洋 |
25.5
|
大洋 |
37.0
|
7位
|
大阪 |
4.5
|
広島 |
7.5
|
広島 |
17.0
|
広島 |
25.0
|
広島 |
33.5
|
広島 |
41.0
|
[2]
|
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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