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1958年の近鉄パールス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1958年の近鉄パールス
成績
パシフィック・リーグ6位
29勝97敗4分 勝率.230[1]
本拠地
都市 大阪府大阪市
球場 藤井寺球場(デーゲーム)
日本生命球場(ナイター)
球団組織
オーナー 佐伯勇
経営母体 近畿日本鉄道
監督 加藤久幸
« 1957
1959 »

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1958年の近鉄パールスでは、1958年の近鉄パールスの動向をまとめる。

この年の近鉄パールスは、加藤久幸監督の2年目(前年途中からの監督代行を含む)のシーズンである。翌シーズンより球団名を「近鉄バファロー」に改称したため、近鉄パールスとして最後のシーズンである。

概要

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従来の縦縞スタイルはそのままに後にメインカラーとなる赤を採用するなど、新ユニフォーム導入で1955年以来のBクラス生活に終止符を打とうとしたが、開幕から最下位を独走。それでも4月は5位の阪急と3.5ゲーム差で最下位脱出が期待されたが、チームの低迷は止まらず、大映ユニオンズから移籍してきた斎田忠利(後にパ・リーグ審判部長となる)をはじめ、主力選手が「まるでチンドン屋」「勝っているときはいいけど、負けているときはみっともない」と発言するなど悪評が続出。この時代では珍しかった赤色主体のユニフォームはチームのカンフル剤にならず、3年連続優勝の西鉄には50ゲーム近く、5位の東映にも27.5ゲーム以上も離され、加藤監督はわずか1年で辞任した。

投手陣は西鉄から移籍してきた大津守が復活し、チームトップの10勝を挙げたが、22敗を喫し、リーグ最多敗戦投手となった。武智文雄榎原好黒田勉の主力も軒並み不調でチーム防御率は4.04と、1952年以来、6年ぶりの防御率4点台に終わっている。慢性的な長打力不足を機動力で補ってきた打撃陣もパッとせず、40本塁打、113盗塁はどちらもリーグ4位と不調。四番打者の小玉明利が初の三割打者となったが、三番打者の関根潤三は3ヶ月戦列を離れるなど、チーム打率.215はリーグ最低に終わった。

あまりの不成績に業を煮やした佐伯勇オーナーは元巨人千葉茂を新監督に招聘。ニックネームも「パールス」をやめて「バファロー」(千葉新監督の愛称・猛牛にちなむ)に変更し、心機一転を図ることになる。

この年から大阪球場に代わり、日本生命保険が所有する日本生命球場がホーム・ナイター用の新本拠地となった(デーゲームに限り藤井寺球場も使用し、日生・藤井寺の併用は1983年まで続いた)。

チーム成績

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レギュラーシーズン

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開幕オーダー
1 日下隆
2 鈴木武
3 関根潤三
4 小玉明利
5 木村勉
6 島田光二
7 加藤晃郎
8 原勝彦
9 山下登
1958年パシフィック・リーグ順位変動
順位 4月終了時 5月終了時 6月終了時 7月終了時 8月終了時 最終成績
1位 南海 -- 南海 -- 南海 -- 南海 -- 南海 -- 西鉄 --
2位 西鉄 1.0 西鉄 3.5 阪急 5.5 阪急 6.5 阪急 3.0 南海 1.0
3位 東映 3.0 阪急 4.0 西鉄 6.5 西鉄 10.5 西鉄 3.0 阪急 4.5
4位 大毎 5.0 大毎 4.5 大毎 9.5 大毎 12.5 大毎 13.5 大毎 16.0
5位 阪急 7.5 東映 7.5 東映 12.5 東映 17.0 東映 14.0 東映 22.0
6位 近鉄 10.5 近鉄 19.5 近鉄 29.0 近鉄 37.5 近鉄 38.5 近鉄 49.5
1958年パシフィック・リーグ最終成績
順位 球団 勝率
1位 西鉄ライオンズ 78 47 5 .624 優勝
2位 南海ホークス 77 48 5 .616 1.0
3位 阪急ブレーブス 73 51 6 .589 4.5
4位 毎日大映オリオンズ 62 63 5 .496 16.0
5位 東映フライヤーズ 57 70 3 .449 22.0
6位 近鉄パールス 29 97 4 .230 49.5

[1]

オールスターゲーム1958

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ファン投票 選出なし
監督推薦 小玉明利

できごと

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選手・スタッフ

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[2]

表彰選手

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リーグ・リーダー
受賞者なし
ベストナイン
選出なし

脚注

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出典

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  1. ^ a b 年度別成績 1958年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. 2017年8月6日閲覧。
  2. ^ ベースボールマガジン2002夏季号, ベースボールマガジン社, p. 138