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{{by|2009年}}は開幕から二塁手のレギュラーに定着。4月23日に自身が放った打球がチームメイトの[[アレックス・カブレラ]]の足に直撃して戦線離脱させてしまい、自身も5月16日に右太もも裏[[肉離れ]]のため出場選手登録を抹消され、早期回復を目指すも再発を繰り返す。9月15日の対[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]戦に[[代打]]として復帰出場して[[適時打]]を放ち、翌日にはソロ本塁打を放つ。9月17日の対ソフトバンク戦では1点ビハインドの9回裏に[[馬原孝浩]]から同点ソロ本塁打、延長10回裏にサヨナラ[[犠飛]]を放つなどの活躍もあったが、前年の半分以下の54試合の出場にとどまり、成績も落ち込んだ。
{{by|2009年}}は開幕から二塁手のレギュラーに定着。4月23日に自身が放った打球がチームメイトの[[アレックス・カブレラ]]の足に直撃して戦線離脱させてしまい、自身も5月16日に右太もも裏[[肉離れ]]のため出場選手登録を抹消され、早期回復を目指すも再発を繰り返す。9月15日の対[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]戦に[[代打]]として復帰出場して[[適時打]]を放ち、翌日にはソロ本塁打を放つ。9月17日の対ソフトバンク戦では1点ビハインドの9回裏に[[馬原孝浩]]から同点ソロ本塁打、延長10回裏にサヨナラ[[犠飛]]を放つなどの活躍もあったが、前年の半分以下の54試合の出場にとどまり、成績も落ち込んだ。


{{by|2010年}}は[[岡田彰布]]新監督にシーズン前から3番を任命され、開幕2戦目の対[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]戦では9回1死から同点本塁打を放ったが、3・4月は月間打率.265だった。[[セ・パ交流戦|交流戦]]に入ると徐々に調子を上げて交流戦打率.369、対[[阪神タイガース|阪神]]戦は4試合で17[[打数]]10[[安打]]2本塁打7打点を記録するなどチームの交流戦初優勝に貢献した。8月には選手会長の[[日高剛]]とチーム最年長の[[田口壮]]が二軍調整の為、精神的支柱を欠く状況を打破する目的で球団初のキャプテン制導入に伴いゲーム・キャプテンに任命され<ref>[http://www.sponichi.co.jp/osaka/spe1/201008/17/spe1221908.html Bs後藤「言葉より姿勢で!」球団初のキャプテンに] </ref>、その後も3番[[打者]]として出場し続けて9月26日の対ロッテ戦では延長10回に[[薮田安彦]]からサヨナラ2ラン本塁打を放つなど、143試合に出場して打率.295、16本塁打、73打点、二塁手としては{{by|1955年}}の[[ロベルト・バルボン]]の記録を更新して球団新記録となる174安打と自己最高の成績を残したが、[[併殺打]]はリーグ2位タイ(西武・[[中島裕之]]と同数)の20、3番打者に定着しクリーンナップを1年間務めながら同じくリーグ2位(1位は[[西岡剛 (内野手)|西岡剛]])の590[[打数]]を記録、四球の少なさが目立ってしまった。また、[[野手]]の中では[[北川博敏]]と共に2人だけシーズン通して一軍に登録され続けた。同年8月11日に国内FA権を取得し、11月12日に残留を基本線として<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20100929122.html オリックス後藤「話を聞いてみたい」FA行使へ]</ref>権利を行使し<ref>[http://www.sponichi.co.jp/osaka/spe1/201011/13/spe1223942.html Bs後藤、FA申請「周りの評価を聞いてみたい…」]</ref>、11月26日に「岡田監督に恩返ししたい」として残留を正式表明すると同時に「生涯オリックス」宣言をした<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/11/27/10.html 後藤が残留宣言「生涯オリックス」の決意表明も]</ref>。オフシーズンには[[イチロー]]と合同自主トレを行った<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/12/21/07.html 後藤ラッキー!イチローと合同自主トレ]</ref>。
{{by|2010年}}は[[岡田彰布]]新監督にシーズン前から3番を任命され、開幕2戦目の対[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]戦では9回1死から同点本塁打を放ったが、3・4月は月間打率.265だった。[[セ・パ交流戦|交流戦]]に入ると徐々に調子を上げて交流戦打率.369、対[[阪神タイガース|阪神]]戦は4試合で17[[打数]]10[[安打]]2本塁打7打点を記録するなどチームの交流戦初優勝に貢献した。8月には選手会長の[[日高剛]]とチーム最年長の[[田口壮]]が二軍調整の為、精神的支柱を欠く状況を打破する目的で球団初のキャプテン制導入に伴いゲーム・キャプテンに任命され<ref>[http://www.sponichi.co.jp/osaka/spe1/201008/17/spe1221908.html Bs後藤「言葉より姿勢で!」球団初のキャプテンに] </ref>、その後も3番[[打者]]として出場し続けて9月26日の対ロッテ戦では延長10回に[[薮田安彦]]からサヨナラ2ラン本塁打を放つなど、143試合に出場して打率.295、16本塁打、73打点、二塁手としては{{by|1955年}}の[[ロベルト・バルボン]]の記録を更新して球団新記録となる174安打と自己最高の成績を残したが、[[併殺打]]はリーグ2位タイ(西武・[[中島裕之]]と同数)の20、3番打者に定着しクリーンナップを1年間務めながらリーグ3位(1位は[[川﨑宗則]]、2位は[[西岡剛 (内野手)|西岡剛]])の590[[打数]]を記録、四球の少なさが目立ってしまった。また、[[野手]]の中では[[北川博敏]]と共に2人だけシーズン通して一軍に登録され続けた。同年8月11日に国内FA権を取得し、11月12日に残留を基本線として<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20100929122.html オリックス後藤「話を聞いてみたい」FA行使へ]</ref>権利を行使し<ref>[http://www.sponichi.co.jp/osaka/spe1/201011/13/spe1223942.html Bs後藤、FA申請「周りの評価を聞いてみたい…」]</ref>、11月26日に「岡田監督に恩返ししたい」として残留を正式表明すると同時に「生涯オリックス」宣言をした<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/11/27/10.html 後藤が残留宣言「生涯オリックス」の決意表明も]</ref>。オフシーズンには[[イチロー]]と合同自主トレを行った<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/12/21/07.html 後藤ラッキー!イチローと合同自主トレ]</ref>。


{{by|2011年}}は8月11日の対楽天戦で4番として出場し本塁打を放ち、プロ野球史上9人目となる全打順本塁打を達成した。8月14日から9月15日までヒットを放ち、球団史上初、[[パ・リーグ]]では歴代5位タイとなる26試合連続安打を記録した<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/15/kiji/K20110915001630640.html 後藤が26試合連続安打!パ・リーグ歴代5位タイ] スポーツニッポン 2011年9月15日付記事</ref>。
{{by|2011年}}は8月11日の対楽天戦で4番として出場し本塁打を放ち、プロ野球史上9人目となる全打順本塁打を達成した。8月14日から9月15日までヒットを放ち、球団史上初、[[パ・リーグ]]では歴代5位タイとなる26試合連続安打を記録した<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/15/kiji/K20110915001630640.html 後藤が26試合連続安打!パ・リーグ歴代5位タイ] スポーツニッポン 2011年9月15日付記事</ref>。

2011年9月24日 (土) 06:33時点における版

後藤 光尊
オリックス・バファローズ #1
2011年8月6日、QVCマリンフィールドにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 秋田県南秋田郡八郎潟町
生年月日 (1978-07-27) 1978年7月27日(46歳)
身長
体重
175 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 二塁手遊撃手三塁手
プロ入り 2001年 ドラフト10巡目
初出場 2002年3月30日
年俸 1億円(2011年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

後藤 光尊(ごとう みつたか、1978年7月27日 - )は、オリックス・バファローズに所属するプロ野球選手内野手)。

愛称は「ゴッツ」。

経歴

プロ入り前

秋田県南秋田郡八郎潟町出身。八郎潟町立八郎潟中学校時代は野球ラグビーを掛け持ちし、ラグビーでは県大会優勝経験がある。高校はラグビーの名門である秋田工業高校に1年からレギュラー確約、卒業後は早稲田大学明治大学へ進学させることを条件にスカウトされたが[1]、県内有数の進学校である秋田高校に進学、3年時にエース投手として第68回選抜高等学校野球大会に出場する。その後スポーツ推薦法政大学に進学したが、履修登録日に一部の上級生らにより寮へ監禁されるいじめを受けて留年が確定し、そのまま大学を中退する[1]。その後、1997年に同じ秋田高校OBで川崎製鉄千葉野球部監督の斉藤正直に誘われて同野球部に練習生として参加し、1998年に入社。同年の第69回都市対抗野球大会に出場し、決勝戦ではプロでチームメイトとなる川越英隆を擁する日産自動車と対戦し準優勝、最も優秀な活躍を収めた新人選手に贈られる若獅子賞と三塁手部門での優秀選手賞を受賞。バンコクアジア大会日本代表、シドニーオリンピック野球日本代表候補に選出された[1]。社会人時代のチームメイトには同じ秋田県出身の藤田太陽がいる。

2001年のドラフト会議オリックス・ブルーウェーブから10位指名を受け入団。

プロ入り後

2002年は6番・指名打者で開幕スタメン出場。4月には1番を打ち3本の三塁打を記録して長打力と俊足をアピールした。

2003年は開幕直後に故障で出遅れたものの、6月から2番、7月以降は9番・遊撃手のレギュラーに定着。9月にはサヨナラ打を2本放ち、9本塁打を記録。オフに背番号を1に変更。

2004年シーズン序盤は遊撃手のレギュラーとして出場していたが、打撃不振で7月以降は打撃好調の塩崎真に取って代わられ、平野恵一ら内野手のライバルに差をつけられた。同年シーズン終了後、大阪近鉄バファローズとの球団合併・分配ドラフトによりオリックス・バファローズと契約。この際、近鉄の背番号1は鈴木啓示が着けていた永久欠番だったため、合併球団における背番号1の扱いが検討された。後藤は合併後も引き続き背番号1の着用を希望し、鈴木も「自分の永久欠番はあくまで近鉄での記録によるもの」と承諾したため、合併後も背番号1を着用することになった。

2005年は初めて100試合以上に出場し、規定打席には届かなかったが自己最高の打率.295を記録するなど打撃好調。同年は球団合併により遊撃手である阿部真宏が加入してきたため、主に三塁手や指名打者での出場だった。ある程度の長打力と走力を持つことから、打線が中々固定できないチーム事情や対戦相手によって大きく打順を変える仰木彬監督の采配もあって全打順でのスタメン出場を達成。

2006年中村紀洋が三塁に入ったため、塩崎や水口栄二らと二塁手のレギュラーを争う起用が考えられていた。しかし、阿部の長期離脱、中村の故障などで出番が増え、前半戦は打率3割を記録するなど貧打のチームにあって貴重な存在となった。後半失速して前年より数字を落としたが、同年も2番と4番以外の全ての打順でスタメン出場した。守備では安定感の面で成長が見られ、一塁手2試合、二塁手72試合、三塁手11試合、遊撃手27試合と内野4ポジション全てを守った。オフに就任したテリー・コリンズ新監督が背番号1を着ける事が決まり、背番号を24に変更してパ・リーグオールスター東西対抗から24番のユニフォームでプレーした。コリンズ監督からは「MVPを獲得すれば背番号1を返還する」と言われたが、インタビューで「果てしなく無理です」と答えた。なお、同年から応援歌が新しい物に変更された。

2007年の開幕当初は同年から加入したグレッグ・ラロッカが三塁手に、新人の大引啓次が遊撃手で起用された。しかし、阿部が故障で離脱した4・5月には二塁手、ラロッカが離脱した6月には三塁手、シーズン終盤に大引が打撃不振に陥ると遊撃手として出場し、穴を埋めた。9月17日の対ロッテ戦では延長戦に入って外野手を全員使い切ったため、プロ入り後初めて公式戦で左翼手を務めた。その時の心境について「練習はしていたけれど、ビックリした。けど、1球ぐらい捕りたかった。(守備機会は無かったため)」とコメントしている[2]。序盤は打率2割台前半に停滞していた打撃は終盤に復調し、9月にはほぼ全試合に出場した。同じ守備位置、打順で6試合以上連続してスタメン起用されない中で自己最多の107試合に出場、初の2桁本塁打、チーム4位の34打点を挙げた。同年も1、3、4番以外の打順でスタメン出場した。

2008年7月30日

2008年は屋外球場で新旧の応援歌が交互で演奏されるように変更された[3]。開幕直後は不振だったが5月から徐々に復調。7月5日の対日本ハム戦で稲葉篤紀の打球を好捕した際に右肩を地面に強打し、右肩鎖関節脱臼と診断され戦線離脱し、8月10日の対ロッテ戦で復帰。復帰後は故障前以上に打ち、9月には5番に座る機会も増え月間21打点を記録した。同年は初めて規定打席に到達し、115試合に出場して14本塁打、57打点を記録し、前年まで苦手としていたサウスポーに対して打率.303を記録するなど打率、本塁打、打点はチームの日本人選手中最高の成績を収めた。また、リーグ4位の二塁打盗塁坂口智隆と同数)はチームトップの記録だった。同年オフ、5月にコリンズ監督が辞任して空き番号となっていた背番号1を再び着用する事を発表。

2009年は開幕から二塁手のレギュラーに定着。4月23日に自身が放った打球がチームメイトのアレックス・カブレラの足に直撃して戦線離脱させてしまい、自身も5月16日に右太もも裏肉離れのため出場選手登録を抹消され、早期回復を目指すも再発を繰り返す。9月15日の対ソフトバンク戦に代打として復帰出場して適時打を放ち、翌日にはソロ本塁打を放つ。9月17日の対ソフトバンク戦では1点ビハインドの9回裏に馬原孝浩から同点ソロ本塁打、延長10回裏にサヨナラ犠飛を放つなどの活躍もあったが、前年の半分以下の54試合の出場にとどまり、成績も落ち込んだ。

2010年岡田彰布新監督にシーズン前から3番を任命され、開幕2戦目の対楽天戦では9回1死から同点本塁打を放ったが、3・4月は月間打率.265だった。交流戦に入ると徐々に調子を上げて交流戦打率.369、対阪神戦は4試合で17打数10安打2本塁打7打点を記録するなどチームの交流戦初優勝に貢献した。8月には選手会長の日高剛とチーム最年長の田口壮が二軍調整の為、精神的支柱を欠く状況を打破する目的で球団初のキャプテン制導入に伴いゲーム・キャプテンに任命され[4]、その後も3番打者として出場し続けて9月26日の対ロッテ戦では延長10回に薮田安彦からサヨナラ2ラン本塁打を放つなど、143試合に出場して打率.295、16本塁打、73打点、二塁手としては1955年ロベルト・バルボンの記録を更新して球団新記録となる174安打と自己最高の成績を残したが、併殺打はリーグ2位タイ(西武・中島裕之と同数)の20、3番打者に定着しクリーンナップを1年間務めながらリーグ3位(1位は川﨑宗則、2位は西岡剛)の590打数を記録、四球の少なさが目立ってしまった。また、野手の中では北川博敏と共に2人だけシーズン通して一軍に登録され続けた。同年8月11日に国内FA権を取得し、11月12日に残留を基本線として[5]権利を行使し[6]、11月26日に「岡田監督に恩返ししたい」として残留を正式表明すると同時に「生涯オリックス」宣言をした[7]。オフシーズンにはイチローと合同自主トレを行った[8]

2011年は8月11日の対楽天戦で4番として出場し本塁打を放ち、プロ野球史上9人目となる全打順本塁打を達成した。8月14日から9月15日までヒットを放ち、球団史上初、パ・リーグでは歴代5位タイとなる26試合連続安打を記録した[9]

プレースタイル

パンチ力のある中距離打者で[10]、軸のブレない鋭いスイングからライナー性の打球を放ち[11]、本拠地京セラドーム大阪の試合では甘い球を5階席まで運んだこともある。左投手を苦手とし、2008年にはミートすることを重視し対左打率.303を誇ったが[12]、2006年から2010年まで対左打率.252と苦戦している。追い込まれると脆い傾向があり、追い込まれないうちに積極的に打ちに行くようになってから打撃成績が向上した[要出典]

2008年には13盗塁を記録したが、左打者でありながら一塁到達は4秒後半が多い[13]

内野の全ポジションを守れるユーティリティープレイヤーで、二塁手としての起用が比較的多い。二塁守備では高い身体能力を生かしたダイナミックなプレーを持ち味とするが[14]、2010年は守備イニング500以上の選手ではワースト2位となるRF5.18を残し[15]、得点換算でも低い数値を残した[16]。外野手の練習もしており、2007年には1試合だけ左翼手も経験している。

人物・エピソード

  • 投手として出場した甲子園では、初戦で完投するも滝川二に15安打を浴びて敗れている。この試合、滝川二の三塁打(6本)、両チームの三塁打(滝川二6本、秋田1本)、滝川二が7回の攻撃で記録した三塁打(3本)はいずれも大会記録である(チーム1イニング三塁打のみ最多タイ記録)[18]
  • 試合後、オフにウエイトトレーニングを欠かさず、体脂肪率は9%である[1]下戸でもあり、あまりチームメイトと食事にいったりするような性格ではなかった。2010年に就任した岡田監督からはチームリーダーの役割を期待され、当初は自分が一匹狼のような性格なため悩んだが、シーズン途中には無理のないリーダー像が見えてきたという[1]
  • イエローキャブのタレントである斉藤ますみとの間に娘がいることを公表しており、テレビ番組で紹介されたこともある。
  • 2011年9月、オリジナル写真集PHOちょ+より自身初の公式写真集がリリースされた。


詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
2002 オリックス 39 102 94 11 23 4 3 2 39 8 1 1 4 0 3 0 1 16 1 .245 .276 .415 .690
2003 99 341 318 42 85 15 5 9 137 29 7 11 6 0 10 0 7 68 5 .267 .304 .431 .735
2004 53 179 170 24 44 10 0 1 57 18 4 2 2 0 5 0 2 24 4 .259 .288 .335 .623
2005 105 347 325 49 96 27 2 9 154 42 6 4 2 0 11 2 9 32 12 .295 .336 .474 .810
2006 95 307 290 26 78 14 2 3 105 21 4 0 4 0 11 1 2 51 2 .269 .300 .362 .662
2007 107 337 314 28 80 16 2 10 130 34 5 7 4 3 14 3 2 26 7 .255 .288 .414 .702
2008 115 447 410 52 117 32 0 14 191 57 13 6 7 3 16 2 11 88 5 .285 .327 .466 .793
2009 54 219 208 23 57 12 0 4 81 17 8 3 1 2 8 1 0 36 4 .274 .298 .389 .688
2010 143 632 590 82 174 32 3 16 260 73 2 1 0 2 32 2 8 96 20 .295 .339 .441 .780
通算:9年 810 2911 2719 337 754 162 17 68 1154 299 50 35 30 10 110 11 42 437 60 .277 .314 .424 .738
  • 2010年度シーズン終了時

年度別守備成績


二塁 三塁 遊撃 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
2002 - 18 8 29 2 3 .949 11 17 17 2 5 .994 -
2003 9 8 17 1 1 .962 22 8 43 0 5 1.000 75 96 176 17 43 .941 -
2004 - - 53 77 126 8 30 .962 -
2005 - 45 26 73 4 6 .961 40 55 91 6 30 .961 -
2006 17 24 32 1 9 .982 10 7 18 3 3 .893 69 86 207 9 42 .970 -
2007 72 165 182 5 44 .986 11 2 16 1 0 .947 27 31 64 3 13 .969 1 0 0 0 0 ----
2008 93 217 267 6 61 .988 1 0 1 0 0 1.000 27 37 68 1 10 .991 -
2009 54 117 210 6 54 .982 - - -
2010 143 318 404 8 74 .989 - - -
通算 388 849 1116 27 243 .986 107 51 180 10 17 .959 302 399 749 46 173 .961 1 0 0 0 0 ----

記録

背番号

  • 49 (2002年 - 2003年)
  • 1 (2004年 - 2006年、2009年 - )
  • 24 (2007年 - 2008年)

脚注

  1. ^ a b c d e 「野球浪漫2010~熱き男の白球ストーリー Vol.15 後藤光尊」 『週刊ベースボール』2010年7月12日号、ベースボール・マガジン社、2010年、雑誌20442-712/10、43-47頁。
  2. ^ エンタテイメント | オリックス・バファローズ
  3. ^ 応援時のコールは旧応援歌演奏時に限り「後藤」、それ以外は「光尊」とコールされる。
  4. ^ Bs後藤「言葉より姿勢で!」球団初のキャプテンに
  5. ^ オリックス後藤「話を聞いてみたい」FA行使へ
  6. ^ Bs後藤、FA申請「周りの評価を聞いてみたい…」
  7. ^ 後藤が残留宣言「生涯オリックス」の決意表明も
  8. ^ 後藤ラッキー!イチローと合同自主トレ
  9. ^ 後藤が26試合連続安打!パ・リーグ歴代5位タイ スポーツニッポン 2011年9月15日付記事
  10. ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹『プロ野球スカウティングレポート2007』アスペクトムック、2007年、184頁頁。ISBN 978-4-7572-1338-8 
  11. ^ 小関順二、西尾典文、石川哲也、場野守泰『プロ野球スカウティングレポート2011』廣済堂出版、2011年、150-151頁頁。ISBN 978-4-331-51519-8 
  12. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2009』白夜書房、2009年、32頁頁。ISBN 978-4-86191-508-6 
  13. ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹『プロ野球スカウティングレポート2009』アスペクトムック、2009年、78頁頁。ISBN 978-4-7572-1628-0 
  14. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2011』白夜書房、2011年、66頁頁。ISBN 978-4-86191-710-3 
  15. ^ 守備「選手別」二塁手データSMR Baseball Lab
  16. ^ Baseball Lab守備評価~Second BasemanSMR Baseball Lab
  17. ^ オリックス・バファローズ (Orix_Buffaloes) on Twitter
  18. ^ 記録室 - 毎日jp(毎日新聞)

関連項目

写真集

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