会田有志
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 埼玉県春日部市 |
生年月日 | 1984年1月30日(40歳) |
身長 体重 |
178 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 2005年 大学・社会人ドラフト7巡目 |
初出場 | 2007年4月1日 |
年俸 | 1500万円 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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会田 有志(あいだ ゆうし、1984年1月30日 - )は埼玉県春日部市出身の元プロ野球選手(投手)。父親は元プロ野球選手の会田照夫。
経歴
プロ入り以前
佐野日本大学高等学校時代の3年生の時に松本監督から「お父さん(元ヤクルト投手の会田照夫)みたいに投げないか」と勧められ、オーバースローからサイドスローに転向する。3年夏に甲子園に出場する。1回戦の長崎県立波佐見高等学校を相手に6回1失点と好投をする。2回戦で明豊高等学校戦に先発をし7回2失点と好投するが後者が逆転され敗れる。後、東都大学リーグの中央大学に進学。
春日部市成人式では、春日部市の成人代表として成人の抱負を読んでいる。
中央大学文学部教育学科心理学コースを卒業をする。野球部では通算45試合登板し11勝13敗、防御率2.11、112奪三振。3年秋のリーグ戦で4勝を挙げチームの25年ぶり24度目の優勝に貢献、最優秀投手に輝いた。
大学時代は日米野球・世界大学野球選手権大会の日本代表に選ばれ銀メダルに貢献している。
2005年の大学・社会人ドラフト会議で巨人から7巡目指名を受け、入団した。
プロ入り後
秋季キャンプで尾花高夫投手総合コーチからアンダースロー転向を言い渡される。打たせて内野ゴロの山を築く持ち味はサイドスロー時からだが、本人も手ごたえをつかんでいるらしく、「下手投げで自分の特長が出せるようになってきたので、どんどん投げて実戦の感覚を磨いて頑張りたい」とコメント。
シーズン終わりに工藤公康とアメリカ合衆国のアリゾナ州に自主トレに行き、プロでの才能が開花した。
春季キャンプで一軍スタート組に抜擢され、キャンプにおける紅白戦やオープン戦でも12回・被安打6・与四死球1・失点1と安定した好投を続け(高めの球や配球等を試しながら投げた二軍教育リーグでは打ち込まれる場面もあったが)、原辰徳監督らからも高い評価を受け開幕一軍スタートとなった。
4月1日の対横浜ベイスターズ戦で一軍初登板を果たし、史上初の親子での一軍登板を成し遂げた。4月26日の対横浜戦では1点リードされた8回に登板、満塁のピンチを招くも凌ぎ切り、直後に打線が逆転し逃げ切ったため、史上初の一軍での親子勝利を挙げた。
前半戦においては一軍一年目にもかかわらず勝ちパターンの継投に組み込まれ、開幕から12試合で1失点と、林昌範と共に非常に安定した投球を見せていた。オールスターの時点でチーム2位の10ホールドを挙げた。尾花高夫投手総合コーチに前半戦のMVPと評価される。
しかし徐々に成績が悪化し、防御率が3点台を記録したところで登録抹消された。11月のインタビューで、「(本人曰く)腕だけ下げた誰でもできるアンダースロー」から肩痛を発症、登録抹消につながったことを発表した。秋季キャンプでは投球フォームの修正と新球の習得に取り組んだが、11月19日の野球日本代表(いわゆる星野JAPAN)との対戦では同僚阿部慎之助の2ランを含む2回4失点と打ち込まれている。
ボストン・レッドソックスとのオープン戦で1回0安打1奪三振とメジャー相手に抑える。解説者の元メジャーリーガー長谷川滋利から「こんな綺麗なアンダースローはメジャーにいない。メジャーでもおもしろい。」と評価される。二軍で24試合に登板し防御率2.52と好投したが、一軍の中継ぎは山口鉄也と越智大祐の活躍で出番がなく、わずか3試合の登板でシーズンを終えた。
ドミニカ共和国・ウィンターリーグに参加。エスコヒード・ライオンズ (LEONES DEL ESCOGIDO) に所属する。
プレースタイル
- サイドスロー時代の球速は、潮崎哲也や高津臣吾のような「アンダー気味のサイドスロー」からコンスタントに140km/h台前半をマークしていたが、アンダースローに転向した現在は120km/h台のストレートと110km/hから120km/h台のシンカーを使った投球で打者を抑えている。
- 左打者に対してのシンカーが唯一だが、他の投手にない武器。2007年の特性は右投手ながら「左キラー」で、右打者も無難に抑える使い勝手の良い投手だった。先発時には緩いカーブやチェンジアップなどを織り混ぜることで打者のタイミングを外しにかかることもある。
- 山田久志は「やや変則的なアンダースローから、シュートが来るため打ちにくかった」と分析しているが、生命線となったシンカーを憶えた時期と、アンダースローに転向した時期が全く重なっており、フォームを変えたことによってシンカー以外、1回対戦で三振を取れるような球種を投げられなくなってしまい、リリーフ投手としては現在(2008年)攻め方に苦しんでいる。
エピソード
- 父親は元ヤクルトスワローズ投手の会田照夫。叔父は元ヤクルト捕手の尾崎亀重。従兄弟はタレント・元大相撲力士の尾崎勇気(隆乃若)。兄はUBS証券シニアエコノミストの会田卓司。
- 実家は春日部市にある、木材屋(株式会社)を経営。父親が野球選手引退後、家業を継ぐ。
- 中央大学からは2004年の亀井義行、2005の会田と、巨人に2年連続で指名されている。
- 中央大学の先輩で正捕手の阿部からは、「シュートを覚え、投球術が身につけば、1軍でも活躍できる」と評価されていたが、2006年オフ工藤公康の自主トレに同行し、ニューヨーク・ヤンキースの王建民(アリゾナのトレーニング施設に偶然居合わせた)に「速いシンカー」の投げ方を教えてもらうという幸運に恵まれた。
- ファンからの期待も高い若手投手の一人であり、年配のファンからは、参考にと小林繁や山田久志ら球史に名を残した往年のアンダースローの名投手のDVDが添えられたファンレターが届く事もあるという。本人もキャンプ中から今も千葉ロッテマリーンズの渡辺俊介の著書『アンダースロー論』を「バイブル」として肌身離さず所持している。
- 2007年、上原浩治がクローザーとして固定されたことで、林昌範とともに豊田清がセットアッパーとして安定、勝ちパターンの継投に組み込まれた会田との4人組をTAHU (Toyoda-Aida-Hayashi-Uehara) とスポーツ報知が命名した(この略称は前半戦で林と会田が離脱し定着しなかったが、原監督の言う「強い選手」の意味をこめたと思われる)[1]。
- 小学校3年生の時、日本テレビ系で放映されていた『ルックルックこんにちは』内の人気コーナー「突撃、隣の晩ご飯」に出演した事がある。その時、会田は「プロ野球選手になって、勝ちたい」と宣言していた。
- 記者への対応やインタビューで報道陣が困らないように心がける一面がみられる。
- 春日部市の成人式で成人代表で「昔から夢だったプロ野球選手になりたい」と将来の夢を宣言している。
- 登板時のBGMはS.E.N.S.の『海神』。
- 2008年・登板時のBGMはleccaの『朝のまえ』に変更。
- 中央大学時代のチームメイトに亀井義行(巨人)、福元淳史(巨人、育成選手)、新田玄気(ヤクルト)、井坂亮平(楽天)、村田和哉(日本ハム)がいる。
- チーム内でも外国人選手と交流が多く、特にイ・スンヨプ、ウィルフィン・オビスポ、エイドリアン・バーンサイドと親しく、イ・スンヨプのことを韓国語でヒョン(日本語で言う兄貴)と呼ぶなど、内野手の円谷英俊と共にイ・スンヨプのことを尊敬している。
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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2007 | 巨人 | 34 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | 7 | .600 | 145 | 35.2 | 33 | 3 | 9 | 2 | 3 | 16 | 1 | 0 | 12 | 12 | 3.03 | 1.18 |
2008 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 21 | 5.0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | 1.80 | 1.20 | |
通算:2年 | 37 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | 7 | .600 | 166 | 40.2 | 39 | 3 | 9 | 2 | 4 | 17 | 1 | 0 | 14 | 13 | 2.88 | 1.18 |
- 2008年度シーズン終了時
個人記録
背番号
- 63 (2006年 -2009年 )