崇徳天皇
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崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位1123年 - 1142年)。退位後は新院、讃岐院とも呼ばれた。名を顕仁(あきひと)という。
系譜
父は鳥羽天皇。母は藤原公実女の中宮璋子(待賢門院)。鳥羽天皇の第一皇子だが父には疎んぜられた。古書『古事談』には、これは崇徳天皇が鳥羽天皇の実子でなく、鳥羽天皇の祖父白河法皇と、白河が後に鳥羽に与えた待賢門院との間にできた子であったためとある。『古事談』の中で、父・鳥羽はそれを知ったため、崇徳を「父の兄弟」と言う意味で「叔父子(おじご)」と呼んでいたとある。
略歴
1123年に白河法皇の影響の下、鳥羽天皇に譲位され、5歳で皇位につく。白河が死ぬと上皇となった父、鳥羽に退位を強要され4月28日、異母弟である近衛天皇に譲位する。当初、新帝は崇徳の養子として即位する予定であったが、鳥羽によって発布された宣命には「皇太弟」と明記されて、崇徳から将来の治天の君の資格を剥奪する文面にされていたという。
こうして上皇となったあとも、実権は治天の君である鳥羽が握っており、不満は募っていった。近衛の母である美福門院はこれを憂慮して崇徳の長男である重仁親王を自分の養子として迎え入れて、万が一近衛が子をなくして死去した場合の重仁の皇位継承の可能性を残させた事で、一旦はこの問題が収まるかに見えた。そして、その近衛が17歳の若さで亡くなり、崇徳は再度自分が皇位に就くか、わが子重仁を皇位に就く事に期待を抱いた。
ところが、近衛崩御の直後から崇徳が左大臣藤原頼長(悪左府)と図って愛宕権現で近衛に対する呪いをかけて呪詛したとする風説が流れ始める。これを知った美福門院は激怒して、「近衛が若死にしたのは崇徳の呪詛のせいだ」と鳥羽に訴えた。怒った鳥羽は、自分と待賢門院(祖父白河に下賜された女、崇徳の母)の間にできた後白河天皇(崇徳の弟、近衛の兄)を皇位に就けた。このような鳥羽の行為に怒った崇徳は、鳥羽崩御の直後である1156年、後白河を降ろして重仁親王の皇位継承させ、自ら治天の君となる事をもくろみ、左大臣藤原頼長や平忠正、源為義(鎮西八郎)ら武士を率いてクーデターで権力を得ようとした(保元の乱)。しかし、鳥羽は生前に有力な武士らに後白河を守るよう命じていた為、平清盛・源義朝らが崇徳らを奇襲攻撃、頼長は戦死、忠正・為義は後白河によって処刑され、崇徳は髪を下ろして仁和寺に入ったものの、讃岐国に流刑に処された。このため、その後の崇徳は「讃岐院」と呼ばれた。
讃岐での軟禁生活の中で、仏教に深く傾倒して極楽往生を願うようになっていった。五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念して、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、治天の君となっていた後白河法皇は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、影響下にある朝廷は写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳は、自分の舌を噛み切って、その血でせっかくの五つの写本全てに「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と書き込んだ。爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿になり、1164年に讃岐で死んだという。
怨霊伝説
崇徳天皇の死後すぐに武士である平氏政権が権力を振るい、やがて鎌倉幕府が成立、承久の乱で後鳥羽上皇を流刑に処するに至ると、朝廷ではいよいよ崇徳の祟りが起こったと恐れたと言う(御霊信仰)。
治承元年7月29日、「崇徳」の諡号が定められて、同日に藤原頼長に従一位太政大臣を追贈した。寿永2年には保元の乱の古戦場である春日河原に廟を置いて「粟田社」と呼ばれる社を設置した。だが、応仁の乱後に衰微して天文年間に平野社に統合された。また、崩御の直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても官の保護が与えられたとされている。
その一方で後世には、四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。承久の乱で土佐に流された土御門上皇(後白河の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙に皇位に就いたとされている。また、室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている。
後の明治天皇は即位に際して使者を讃岐に送り、崇徳の霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。
歌
- 詞花和歌集(八代集の第六)の勅撰を命じる。仁平元年(1151)に完成奏覧。選者藤原顕輔。
- 千載和歌集(八代集の第七)に23首入集。
- 小倉百人一首から。
- 「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」(崇徳院)
- (意味)滝の水は岩にぶつかると二つに割れるが、すぐにまた一つになるので、現世では障害があって結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれましょう。
后妃
息子女
- 1140~1162 重仁親王
- ?~? 覚恵
号
「崇」は「祟(たたり)」と字が似ていることから贈られたと言う説がある。また「徳」には怨霊封じの意味があるとも言う。
在位中の元号
- 天治 (1124年4月3日) - 1126年1月22日
- 大治 1126年1月22日 - 1131年1月29日
- 天承 1131年1月29日 - 1132年8月11日
- 長承 1132年8月11日 - 1135年4月27日
- 保延 1135年4月27日 - 1141年7月10日
- 永治 1141年7月10日 - (1142年4月28日)
陵墓
香川県坂出市青海町の白峯陵(しらみねのみささぎ)に葬られる。
関連項目
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