コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

モイゼス・アルー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モイセズ・アルーから転送)
モイゼス・アルー
Moisés Alou
サンフランシスコ・ジャイアンツ時代
(2005年8月20日)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国
二重国籍
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ジョージア州アトランタ
生年月日 (1966-07-03) 1966年7月3日(58歳)
身長
体重
6' 3" =約190.5 cm
230 lb =約104.3 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1986年 ドラフト1巡目でピッツバーグ・パイレーツから指名
初出場 1990年7月26日
最終出場 2008年9月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国代表
WBC 2006年2009年

モイゼス・ロハス・アルーMoisés Rojas Alou, 1966年7月3日 - )は、アメリカ合衆国ジョージア州アトランタ出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。

モイセズ・アルーと表記されることもある。

経歴

[編集]

プロ入り前

[編集]

アメリカ合衆国ジョージア州アトランタ出身。父親のフェリペ・アルーも通算2101安打の成績を残したメジャーリーグの名選手で、サンフランシスコ・ジャイアンツの監督などを務めた。そしておじのマティとヘススも通算1000安打以上を記録している元メジャーリーガーで、モイゼスは野球エリートに生まれた。

パイレーツ時代

[編集]

1986年のMLBドラフトピッツバーグ・パイレーツからドラフト1巡目で指名され、契約を結びプロ入りを果たした。

1990年7月26日にメジャーデビューを果たした。

エクスポズ時代

[編集]

1990年シーズン中にモントリオール・エクスポズへと移籍した。そこでは14試合に出場し、3安打をマークした。

1992年は父親のフェリペがエクスポズの監督に就任。115試合に出場し、打率.282、本塁打9、打点56、盗塁16とまずまずの成績を残した。

1993年は更に出場機会が増え、136試合で18本塁打、17盗塁をマーク。打率も少しだけだったが、アップした。

1994年は107試合の出場に留まったが打率.339、本塁打22、打点78はいずれも自己ベストの数字となった。

1995年も故障の影響で93試合にしか出場出来なかったが、14本塁打を記録するなど、打撃面でのパワーはしっかりと見せ付けている。

1996年は久々に143試合と、シーズン通してコンスタントに試合に出場。自己ベストの96打点を叩き出した。

マーリンズ時代

[編集]

1996年オフにフロリダ・マーリンズへ移籍した。

1997年は打点を115に乗せ、リーグ屈指の打者に成長した。

アストロズ時代

[編集]

1997年オフにヒューストン・アストロズへ移籍した。

1998年は絶好調で打率312、本塁打38、打点124を記録。3割30本100打点をクリアした。

1999年は怪我で全休した。

2000年に復帰し、126試合の出場で30本塁打、114打点を記録。また、その年に記録した打率.355は1994年の.339を上回る自己ベストの数字であった。

2001年も本塁打こそ27本に留まったものの、108打点、打率.331を記録した。

カブス時代

[編集]

2002年シカゴ・カブスに移籍。この頃から衰えが目立つようになってきて、打率.275、15本塁打、61打点と成績が急落してしまった。

2003年は、ワールドシリーズまであと一歩と迫るが、1997年に所属したマーリンズの前に敗れる。終盤、アルーがファウルフライをキャッチしようとしていたのを、あろうことか地元リグリーのカブスファンに妨害され(もちろん悪意はなくうっかり手出し)、流れが変わり、チームは念願のワールドシリーズ進出を逃した(スティーブ・バートマン事件)。

2004年は155試合に出場。打率は.293まで上がり、打点も106打点を記録。何より凄かったのは、38歳という年齢で自己ベストの39本塁打を記録した事だった。オールスターゲームにも選出され、また同年オフには日米野球のメンバーとして来日している。

ジャイアンツ時代

[編集]

2005年サンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍する事になり、再び父親の元でプレーすることになった。その年は怪我の影響で123試合の出場に留まったが、復活を遂げた打撃は再び衰えるところを知らず、打率.321を記録した。

2006年開幕前の3月に第1回WBCドミニカ共和国代表に選出された[1]

シーズンでは怪我で長期離脱し、出場したのは11年ぶりの100試合以下となる98試合と少なかったが、打率.301・22本塁打・74打点をマーク。自己ベストの26本塁打を放ったレイ・ダーラムと共に、2002年オフのジェフ・ケント放出以来、本格的な主砲バリー・ボンズの擁護役として存在感を示した。そして、この年は通算300本塁打を達成し、9月24日に通算2000本安打、9月27日に通算400二塁打を達成するなど、記録ずくめのシーズンとなった。ちなみに9月27日には、ダーラムとダブルスチールを試み、ホームスチールを成功させ、自らの記録達成に花を添えている。オフにFAとなった。

メッツ時代

[編集]

2006年11月20日にニューヨーク・メッツと契約を結んだ。

引退後

[編集]

2008年シーズン限りで引退したが、2009年第2回WBCのドミニカ共和国代表に選出され[2]、2大会連続2度目の選出を果たし、一時的に現役に復帰した。

2014年アメリカ野球殿堂の殿堂入り候補資格を得たが、記者投票の結果は6票(1.1%)にとどまり初年度での資格喪失となった[3]

選手としての特徴

[編集]

人物

[編集]

ベースボール一家

[編集]

父親のフェリペ・アルーは2006年までサンフランシスコ・ジャイアンツ監督。現役時代はミートの上手い俊足の外野手として知られていた。フェリペの弟はマティ・アルー。マティは1966年に首位打者を獲得しており、のちに日本の太平洋クラブ(現埼玉西武ライオンズ)でプレーしている。また、フェリペが1992年にエクスポズの監督に就任しており、その時にモイゼスはモントリオール・エクスポズに所属していた為、親子で同一チームに所属するのは今回で2度目である。また、2020年にニューヨーク・メッツの監督に就任したルイス・ロハスとは異母兄弟にあたる。

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1990 PIT 2 5 5 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 .200 .200 .200 .400
MON 14 16 15 4 3 0 1 0 5 0 0 0 1 0 0 0 0 3 0 .200 .200 .333 .533
'90計 16 21 20 4 4 0 1 0 6 0 0 0 1 0 0 0 0 3 1 .200 .200 .300 .500
1992 115 377 341 53 96 28 2 9 155 56 16 2 5 5 25 0 1 46 5 .282 .328 .455 .783
1993 136 535 482 70 138 29 6 18 233 85 17 6 3 7 38 9 5 53 9 .286 .340 .483 .824
1994 107 471 422 81 143 31 5 22 250 78 7 6 0 5 42 10 2 63 7 .339 .397 .592 .989
1995 93 386 344 48 94 22 0 14 158 58 4 3 0 4 29 6 9 56 9 .273 .342 .459 .801
1996 143 598 540 87 152 28 2 21 247 96 9 4 0 7 49 7 2 83 15 .281 .339 .457 .797
1997 FLA 150 619 538 88 157 29 5 23 265 115 9 5 0 7 70 9 4 85 13 .292 .373 .493 .866
1998 HOU 159 679 584 104 182 34 5 38 340 124 11 3 0 6 84 11 5 87 14 .312 .399 .582 .981
2000 126 517 454 82 161 28 2 30 283 114 3 3 0 9 52 4 2 45 21 .355 .416 .623 1.039
2001 136 581 513 79 170 31 1 27 284 108 5 1 0 8 57 14 3 57 18 .331 .396 .554 .949
2002 CHC 132 534 484 50 133 23 1 15 203 61 8 0 0 3 47 4 0 61 15 .275 .337 .419 .757
2003 151 638 565 83 158 35 1 22 261 91 3 1 0 3 63 7 7 67 16 .280 .357 .462 .819
2004 155 675 601 106 176 36 3 39 335 106 3 0 0 6 68 2 0 80 12 .293 .361 .557 .919
2005 SF 123 490 427 67 137 21 3 19 221 63 5 1 0 4 56 1 3 43 11 .321 .400 .518 .918
2006 98 378 345 52 104 25 1 22 197 74 2 1 0 4 28 2 1 31 15 .301 .352 .571 .923
2007 NYM 87 360 328 51 112 19 1 13 172 49 3 0 0 3 27 5 2 30 13 .341 .392 .524 .916
2008 15 54 49 4 17 2 0 0 19 9 1 1 0 1 2 0 2 4 1 .347 .389 .388 .777
MLB:17年 1942 7913 7037 1109 2134 421 39 332 3629 1287 106 37 9 82 737 91 48 894 195 .303 .369 .516 .885
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

[編集]


中堅(CF) 左翼(LF) 右翼(RF)




































1990 PIT - 2 3 0 0 0 1.000 -
MON 2 0 0 0 0 ---- 1 0 0 0 0 ---- 2 6 1 0 0 1.000
'90計 2 0 0 0 0 ---- 3 3 0 0 0 1.000 2 6 1 0 0 1.000
1992 13 23 2 0 1 1.000 79 118 4 2 0 .984 15 28 0 2 0 .933
1993 12 23 2 0 0 1.000 102 181 6 2 1 .989 34 52 3 2 1 .965
1994 - 63 98 1 1 0 .990 45 104 3 2 0 .982
1995 4 5 0 0 0 1.000 61 96 3 2 0 .980 30 49 2 1 2 .981
1996 7 8 0 0 0 1.000 33 51 1 2 0 .963 123 202 6 1 2 .995
1997 FLA 55 106 1 0 0 1.000 90 123 2 3 0 .977 22 18 1 0 1 1.000
1998 HOU 6 5 0 1 0 .833 152 228 11 4 2 .984 -
2000 - 59 92 0 5 0 .948 64 102 5 1 0 .991
2001 - - 130 205 10 2 3 .991
2002 CHC 1 0 0 0 0 ---- 122 199 6 2 1 .990 4 5 0 0 0 1.000
2003 - 142 203 4 6 1 .972 -
2004 - 154 240 7 8 2 .969 -
2005 SF - 74 132 1 4 0 .971 53 90 4 4 3 .959
2006 - 11 19 0 0 0 1.000 81 154 1 4 0 .975
2007 NYM - 84 138 7 4 0 .973 -
2008 - 13 18 0 0 0 1.000 -
MLB 100 170 5 1 1 .994 1242 1939 53 45 7 .978 603 1015 36 19 12 .982
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

[編集]

記録

[編集]

背番号

[編集]
  • 52 (1990年途中)
  • 18 (1990年途中 - 2008年)

代表歴

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 2006 Tournament Roster[リンク切れ] The official site of World Baseball Classic (英語) 2016年3月7日閲覧 [リンク切れ]
  2. ^ 2009 Tournament Roster[リンク切れ] The official site of World Baseball Classic (英語) 2016年3月7日閲覧 [リンク切れ]
  3. ^ 2014 BBWAA Voting Results” (英語). Baseball Hall of Fame. 2019年6月2日閲覧。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]