コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

中村庸一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中村 庸一郎
なかむら よういちろう
『房総紳士録』(1961年)掲載肖像
生年月日 1896年5月20日
出生地 日本の旗 千葉県安房郡滝田村
没年月日 (1983-11-13) 1983年11月13日(87歳没)
死没地 東京都
出身校 専修大学経済学部卒業
前職 日東交通株式会社社長
所属政党無所属→)
改進党→)
日本民主党→)
自由民主党
称号 勲二等旭日重光章
配偶者 中村ふみ
子女 三男・中村正三郎(元法務大臣
親族 義孫・山口壯(元環境大臣

選挙区 (旧千葉県第3区→)
旧千葉3区
当選回数 8回
在任期間 1942年4月30日 - 1945年12月18日
1952年10月1日 - 1958年4月25日
1960年11月20日 - 1972年11月13日
テンプレートを表示

中村 庸一郎(なかむら よういちろう、1896年明治29年〉5月20日[1] - 1983年昭和58年)11月13日)は、日本政治家衆議院議員(8期)。

生涯

[編集]

漢学者・中村時中の長男に生まれ、専修大学経済学部を卒業。1942年第21回衆議院議員総選挙千葉3区から翼賛政治体制協議会推薦で立候補し、初当選。翼賛選挙の推薦候補だったため戦後に公職追放された。追放解除後は改進党公認で1952年第25回衆議院議員総選挙に立候補し当選、政界に返り咲いた。日東交通合併設立に尽力し社長に就任。また大日本セロファンや桜ゴムなど20数社の役員、千葉銀行監査役などを務めていた[2][3]

改進党・日本民主党自由民主党内では大麻唯男ら旧立憲民政党系右派の政治家が結集した大麻派に属し、大麻の死後、宮沢胤勇野田武夫小泉純也浜野清吾真鍋儀十山本粂吉ら他の大麻派のメンバーとともに岸派に合流。1954年には衆議院経済安定委員長を務めた[2]1958年第28回衆議院議員総選挙では、自民党公認で立候補するが落選。1960年第29回衆議院議員総選挙で返り咲いた。佐藤派に属し、1965年には衆議院公職選挙法改正調査特別委員会の委員長に就任している[2]1967年には勲二等旭日重光章を受章。1972年、政界を引退。

風流を好み、伏見宮別邸であった銚子市の瑞鶴荘を戦後に所有した。敷地が海岸まで続く広大な邸宅であるが事業には使用せず、別荘番の一家に住み込みで管理をさせて、たまに訪れる別荘としてのみ使用した。古美術の収集に熱心で、コレクションは天狗草子や佐竹本三十六歌仙源順など名品のほか、中国や日本の墨跡も数多く収集した。第2代書道芸術院会長、茶道裏千家淡交会千葉県支部長などを歴任した[4]

1983年11月13日、急性腎不全のため87歳で死亡。千葉県南房総市の道場山勧修院に葬られている。

役員

[編集]
  • 第2代書道芸術院会長

家族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 新訂 政治家人名事典 明治~昭和』451頁。
  2. ^ a b c 読売新聞、1965年1月26日付朝刊、P.2
  3. ^ 読売新聞、1954年11月15日付夕刊、P.2
  4. ^ 房総風雅史. 思文閣出版. (2003年12月1日). p. 587 

参考文献

[編集]
議会
先代
佐伯宗義
日本の旗 衆議院経済安定委員長
1954年 - 1955年
次代
廃止
先代
小泉純也
日本の旗 衆議院公職選挙法改正に関する調査特別委員長 次代
志賀健次郎