亀ヶ岡石器時代遺跡
亀ヶ岡石器時代遺跡(かめがおかせっきじだいいせき)は、青森県つがる市にある縄文時代晩期の集落遺跡である。単に亀ヶ岡遺跡とも称される。明治20年(1887年)、遮光器土偶が出土した遺跡として知られ、1944年(昭和19年)6月26日に国の史跡に指定された[1]。2021年(令和3年)、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録された。
概要
[編集]亀ヶ岡石器時代遺跡は、津軽平野西南部の丘陵先端部に位置している。
現在、現地には遮光器土偶をかたどったモニュメントが建てられているが、その背後にある谷間の湿地帯から数多くの遺物が出土している。
座標: 北緯40度53分5.62秒 東経140度20分22.45秒 / 北緯40.8848944度 東経140.3395694度
遺跡は、1622年に津軽藩2代目藩主の津軽信枚がこの地に亀ヶ岡城を築こうとした際、土偶や土器が出土したことから発見された。なお、亀ヶ岡城の築城は一国一城令が出たために中断されている。地名の亀ヶ岡[2]は、「甕が出土する丘」に由来するとも言われる[3][4]。また、この地区には湿地帯が多く、築城の際に地面に木を敷いて道路としたことから、「木造村」(きづくりむら)と呼ばれるようになった。
江戸時代にはここから発掘されたものは「亀ヶ岡物」と言われ、好事家に喜ばれ[5][4] 、遠くオランダまで売られたものもある。1万個を越える完形の土器が勝手に発掘されて持ち去られたという。1889年(明治22年)学術調査が行われ、1895年(明治28年)と昭和にも発掘調査が行われ、戦後も支谷の低湿地遺物包含層のみの調査が行われ、1980年(昭和55年)丘陵上や谷の部分の調査が行われた結果、遮光器土偶をはじめ土器、石器、木製品、漆器などとともに土壙跡26基が発掘された。しかし生活跡や遺構の調査は未発掘である。現在無断で発掘することは禁止されている[6]。
津軽信枚は亀ヶ岡城の廃城後、そこに「大溜池」を造ったが、その近くに縄文館という施設があり、現在当遺跡から出土した遺物の多くが展示されている。大溜池は、亀ヶ岡城の堀として予定されたものであり、縄文館は亀ヶ岡城予定地であった。出土遺物中、最も著名で、この遺跡のモニュメントのモデルとなっている遮光器土偶は、個人の所蔵を経て、1957年に重要文化財に指定され[7]、現在は東京国立博物館の所蔵となっている。
縄文時代晩期には、この亀ヶ岡出土品に代表される様式の土器が北海道から中部・近畿の広い地区にわたって流行する。これを亀ヶ岡文化[8]とも言う。
展示
[編集]遺跡からの出土品の一部や出土した遮光器土偶のレプリカは、つがる市縄文住居展示資料館カルコ(つがる市木造若緑59-1)に展示されている[9]。
ギャラリー
[編集]-
注口土器(重要文化財)
辰馬考古資料館展示。 -
土偶
辰馬考古資料館展示。 -
猪形土製品
東京国立博物館展示。
脚注
[編集]- ^ 亀ヶ岡石器時代遺跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 甕の出る岡、瓶岡とも書く。
- ^ この間の事情は、弘前藩の諸事情を記した『永禄日記』(館野越本)に書かれている。また菅江真澄も1796年(寛政8年)7月2日に、亀ヶ岡で掘り出された土器類を見分し、『外浜奇勝』に意見を述べている。
- ^ a b 村越潔「青森県の黎明」19ページ(長谷川成一・村越潔・小口雅史・斎藤利男・小岩信竹『青森県の歴史』山川出版社 2002年3月)
- ^ 1824年(文政7)から曲亭馬琴ら12人の文人による耽奇会で、各自が収集した亀ヶ岡土器や土偶を持ち寄って品評会が開かれていた。
- ^ 1879年(明治12年)頃、発掘が始められた。1886年(明治19年)遮光器土偶出土する
- ^ 土偶 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ ただし、標式遺跡は、岩手県大船渡市の大洞貝塚である。
- ^ “縄文住居展示資料館カルコ”. つがる市. 2023年4月14日閲覧。
参考文献
[編集]- 木村浩一「亀ヶ岡石器時代遺跡」/文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第1巻 原始1』同朋舎出版 1991年 ISBN 978-4-8104-0924-6